2019/05/26

フィルモアのマディ1966

R198265414699953196008jpeghttps://open.spotify.com/album/5iqm2sbb7sbEA1R0F2XlEj?si=PJTakx05Tbi3K5tzPED8gg

 

マディ・ウォーターズの『オーソライズド・ブートレグ』(2009)。1966年11月にサン・フランシスコのフィルモア・オーディトリアムに出演した三日間の記録から抜粋編集されたライヴ盤だ。ところで、このジャケットで「オーソライズド・ブートレグ」と題するライヴ・アルバムがたくさんいろんな音楽家ので出ているのは、すべてウォルフガングズ・ヴォールトの音源ってことだよね。このブログでもいままでにネヴィル・ブラザーズのとか、いくつか書いた。

 

1966年フィルモア・ライヴでのマディはギターはまったく弾かずヴォーカルに専念。ギターが二名にリズムと、あとはやっぱりシカゴ・ブルーズらしくハーモニカが大々的にフィーチャーされている。この『オーソライズド・ブートレグ』でマディの次に目立っているのが電化アンプリファイド・ハープのジョージ・スミスだ。ソロは彼がほぼひとりで吹きまくる。

 

ギターの二名では、マディのメンバー紹介によればジョージア・ボーイ(ルーサー・ジョンスン)がセカンド・リードでサミュエル・ロングホーンがリードということだけど、音だけ聴いてどっちがどっちと判別できる耳はぼくにはなし。ギター二本がからみあっていたりする部分はまったく区別できない。スライドでソロをとったりするのはどっち?もわからず。

 

このアルバムは、11月4〜6日の記録だけど、4日から四曲、5日から六曲、6日から5曲を収録し、日付順には並べていないよね。テープは三日間のすべてを記録してあるんだろうと思うんだけど、でもぜんぶ出してほしいとは思わない。このアルバムを聴けば三日間とも大同小異だったとよくわかるからだ。レパートリーも、抜粋編集したこのアルバムですらかなり重なっているし内容もほぼ変わらず。だから三日間トータルの内容をフル・リリースしたところで冗長になってしまうだけだろう。

 

だから『オーソライズド・ブートレグ』は、これでよく編集された好アルバムと言えるんだね。さて、このアルバムを聴いて感じるのは、大きく言って二点。歌手マディの存在感のデカさ、ブルーズがロックとどう違うのかという決定的なポイント、のふたつだ。前者についてはあまり言を重ねなくていいだろうと思う。マディのヴォーカル・パフォーマンスの見事さを聴いてほしい。声もよく通るハリのあるトーンが伸びやかによく出ていて、しかもナチュラルでスムース、さらに大きな余裕も感じるゆったりさ。

 

たとえば5日分のラスト「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」。最終盤でストップ・タイムが入りバンドがパッと止まった時間に、マディはひと呼吸おいてから「フ〜ン!」と言う。それに続いて「ジャスト・ドント・ワーク・オン・ユー」を歌う。それでバンドがエンディングを演奏するわけだけど、その「フ〜ン!」の余裕綽々の憎たらしさったらないね。こんなパフォーマンスは1950年代のマディでは聴けなかった。ギターを弾かずともヴォーカルだけで自己の存在の大きさを見せつけられるようになっているじゃないか。

 

二点目。ブルーズが(ブルーズ・)ロックとどう違うのか?という決定的な音源に、このマディの『オーソライズド・ブートレグ』はなっていると思うんだよね。マディ・バンドのこの粘りつくような、後ずさりしながら前進するような(おかしい?)、決して軽快ではないブルーズ・ビートを聴いてほしい。こういったトリモチを敷きつめた部屋を歩いているかのようなノリはブルーズ特有、というかアメリカ黒人音楽特有のものなんだよね。

 

こういったブルーズ・ビートの感覚は呼吸みたいなもんだから、学習して身につけることはむずかしい面もあると思う。ロック界にいる白人フォロワーたちがどんなにがんばっても到達できない独特の粘り気と重さ、ノリがこの1966年フィルモアのマディ・バンドにはある。こういった音楽は、一聴、とっつきにくいものだ。ロック化されたブルーズのほうがわかりやすく聴きやすい。しかし、一度ヤミツキになれば逃れられない魅力が米黒人ブルーズにあるんだというのもまた事実。いったん聴くツボをつかんでしまえば、あとはひたすら気持ちいい。1966年フィルモア・ライヴでのマディ・バンドもまたそうなんだ。

2019/05/25

ここ三年の頻聴 9

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というものを今後定期的に書いていきたい。年間ベストテンは書くものの、三年スパンくらいで愛聴、頻聴しているものこそ、自分にとって大切な音楽のはずだ。その後、五年、十年と伸ばして考え書いていけば、音楽人生記録ができあがる。でもいまはそこまで考えていない。当面(今2019年を除く)ここ三年ほどよく聴く九つを記しておこう。

 

以下、その九つのリスト。よく聴く順に一位から並べただけの単純さ。しかし、ちょっと例外がある。それは岩佐美咲。いちばん頻繁に聴くのが美咲なんだけど、今日は外した。実力を反映したこれっていうアルバムがないからだ。CD にかんしては演歌歌手の御多分に洩れずシングル盤こそが活動のメインだから、泣く泣くあきらめるしかない。ふだん聴いている美咲は、シングル盤音源を集め自分でつくったプレイリストなのだ。

 

1) Nina Wirtti / Joana de Tal
2) Iona Fyfe / Away From My Window
3) Irineu de Almeida e o Officleide 100 Anos Depois
4) Paulo Flores / O País Que Nasceu Meu Pai
5) 原田知世 / 恋愛小説 2 ~ 若葉のころ
6) Van Morrison / Roll With The Punches
7) Ella Fitzgerald, Louis Armstrong / Cheek To Cheek: The Complete Duet Recordings
8) Hiba Tawaji 30
9) Prince 30

 

ニーナ・ヴィルチの『ジョアナ・ジ・タル』は2012年作だけど、出会ったのは2018年だったから。30分ないというアルバムの短さも頻聴するのにもってこい。二位のアイオナ・ファイフとともに、ヒマさえあれば、ちょっとしたスキマ時間でも見つけては、自宅でも出先でもどこででも、本当によく聴いている。

 

イリニウ・ジ・アルメイダ曲集は、このベストナインで唯一のインストルメンタル音楽。ここ三年といわず20年、30年単位で考えてもなかなか出現しない大傑作じゃないかと思う。それなのにとっつきにくさがなくファミリアーでフレンドリー。ずっと流しっぱなしにしたい音楽の筆頭だね。

 

パウロ・フローレスにはセンバ(アンゴラ)を教えてもらった。いつ聴いてもどんなに聴いても、楽しいしうれしく、同時に哀しく切ない。ところでセンバはポルトガル系クレオール・ダンス・ミュージックだけど、世界のいろんなダンス・ミュージックって相通ずるものがあると思いませんか。コンガ、サンバ、タンボレーラ、ファンク、ダブケ、バトゥーケなどなど。

 

知世ちゃんのことが好きなのはいまさら説明不要だと思うけど、このアルバムではさらに往年の懐かしい歌謡曲ばかりカヴァーしているのが頻聴盤になる大きな理由だ。伊藤ゴローさんのアレンジ、プロデュースも実にいい。サウンド・メイクに知世ちゃんの声がよくはまっているというか、活かすべくゴローさんが練っている。

 

ヴァンのこのアルバムには人生肯定感というか、苦しいことやつらいことを踏まえた上でしっかり前を向いて歩いていこうという、そんなゴスペル的なフィーリングがあるのがいいね。なんども聴いて、はげまされている。そのほかの個人的な意味でも、絶対に忘れられない一枚となっている。

 

エラ&ルイのボックスを聴くと幸せだからというのは説明不要だけど、ヒバ・タワジ(リリース当時30歳)の30曲とかも大好きだ。濃厚なアラブ歌謡節が多いなか、軽めのジャズ〜ポップス〜ボサ・ノーヴァみたいなものだってあるし、二枚組トータルで完成度が高い、良質なポップ・アルバムとして、軽い気分でよく聴く。

 

9位の『プリンス 30』だけが今日の例外で、音楽家やレーベルが発売した作品じゃない。ぼくがつくった私的プレイリストだ。公開してあるのでどなたでも聴けるこのプレイリストこそ、実はぼくの頻聴真の一位なのだ。間違いない。自画自賛だけど、よくできていると思う。昨2018年にこれをつくって以来、これを聴かない日はないとすら言いたい。

2019/05/24

ファッツをやる1955年のサッチモとその時代

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(オリジナル・アルバムは9曲目まで)

 

ルイ・アームストロングのコロンビア盤『サッチ・プレイズ・ファッツ』(1955)。以前書いた『プレイズ W. C. ハンディ』と同時期のアルバムでメンバーも同じ。ところで、サッチモとファッツ・ウォーラーは同時代人だけど、ファッツは1943年に亡くなってしまっている。それでトリビュート盤みたいなものをコロンビアが企画したってことなんだろうね。

 

内容的にも『プレイズ W. C. ハンディ』と『サッチ・プレイズ・ファッツ』は重なるところが多い、というか本質的に同一で、だれか特定のひとりの作家のソングブックをとりあげて、それを1950年代なかばのサッチモのレギュラー・バンドなりのやりかたでこなしてみせたという、そういったものだよね。ハンディをやるかファッツをやるかだけ。ファッツはシンガー、プレイヤーでもあったという大きな違いはあるけどね。

 

『サッチ・プレイズ・ファッツ』収録の九曲は、過去にサッチモ自身がやっていたものが多い。「スクイーズ・ミー」(1928)「エイント・ミスビヘイヴン」(29)、「ブラック・アンド・ブルー」(29)、「ブルー、ターニング・グレイ・オーヴァー・ユー」(30)、「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」(32)と、すべてオーケー(コロンビア系)録音があって、当時レコード発売もされている。

 

ってことは、1955年に『サッチ・プレイズ・ファッツ』を企画したコロンビアとしても、レパートリーの約半分が同社系原盤ですでにレコードもあるんだということは織り込み済みだったはず。いま2019年に聴くぼくらだってどうしても比較してしまうってもんだよね。それで実際そうしてみたけれど、いくつか発見があった。

 

まずサッチモのトランペット(というかこのひとはコルネットなんだけど)のサウンドは、やはりオーケー時代のほうがブリリアントだ。時代が古いせいの録音状態なんかまったく問題にしない輝きは、1955年にはやはりちょっとだけ鈍っていると言わざるをえない。しかし戦前のオーケー録音ほどは日常的に聴いていない『サッチ・プレイズ・ファッツ』を今回久々に聴きかえし、おりょ?あんがいかなり見事じゃないかと惚れなおしてしまったのも事実。

 

だからサッチモは1920年代後半こそがピークで、第二次世界大戦後なんてお話にならないよなどという世間の一部で流布している言説は真っ赤なウソだなと、今回確信するに至った。歳をとってトランペット吹奏を医者に禁止されるまで、サッチモの音の衰え、鈍りはあまりなかったというのが事実だったろうと思う。それに『サッチ・プレイズ・ファッツ』は1955年だからね、まだまだ立派だ。

 

ヴォーカルの味はといえば、こっちは断然戦後録音のほうが魅力を増している。これもあまり歳をとると声の質じたいが衰えてしまうもんだけど、それほどでもない年齢ならばキャリアを重ねた結果味わいに深みとコクを増すというものだろう。サッチモがファッツを歌っているのだって、戦前のオーケー録音ヴァージョンと同じ曲を『サッチ・プレイズ・ファッツ』とで比較すれば、歌の魅力は後者のほうがずっと上だ。間違いない。

 

年輪を重ねムダな肩の力の抜けた余裕も感じられる1955年のサッチモ版ファッツ。ゆったりくつろいでいるようなフィーリングで、昨日も書いたがもとからのんびりのどかなフィーリングを持っているファッツの曲のそんな魅力を中年サッチモがさらにいっそう増幅しているとでも言ったらいいか、そんなリラクシングな感じがあって、『サッチ・プレイズ・ファッツ』は極上の良質さ、心地よさだ。

 

しかし年輪とかキャリアを重ねたからとか、そんなことだけではないものがこのアルバムにはある。それはところどころロックっぽい8ビートになっている箇所が聴きとれるということだ。特にドラマーのバレット・ディームズが、ことにスネアをバンバン!と大きく強く叩くことで表現しているもの。基本、2か4ビートを基調としながら8ビートっぽさを加味しているんだよね。

 

このことにかんしては二点考慮しないといけない。一つは、8ビート・シャッフルはむかしからジャズの世界でもわりとふつうにあって、そんなものめずらしいものじゃなかったということ。特にブルーズをやるときはジャズ・メンもシャッフルになりやすいし、そうでなくとも1930年代からデューク・エリントン楽団も8ビート・シャッフルは使っている。『サッチ・プレイズ・ファッツ』の、特にトラミー・ヤング(トロンボーン)の背後でバレット・ディームズが叩いているのも同じパターンだ。

 

もう一点。やはり、1955年という時代だったんだなとぼくは思う。ちょうどロックンロールが台頭しはじめていた時期じゃないか。もちろんファッツ曲集をやるサッチモとそのバンドがロック・ミュージックを「意図的に」意識したとは思わない。だけど、音楽でもなんでも、文化って同時代的共振ってものがあるんだよね。それは本人たちだってコントロールできないものだ。同じ時代の空気を吸っているというのはそういうことじゃないかな。

2019/05/23

元祖シンガー・ソングライター 〜 楽しくのどかなファッツ・ウォーラーの世界

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『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』という CD 二枚組がある。この『ジ・エッセンシャル・コレクション』シリーズは英国のウェストエンドというところが展開している、戦前の古典ジャズ・メンのアンソロジー。どれも二枚組で、ベスト盤みたいなもんだね。ファッツ・ウォーラーも全体数が膨大になるため、聴きかえすのはたいへん。ふだん聴きには二枚組程度でじゅうぶん。

 

『ジ・エッセンシャル・ファッツ・ウォーラー』には1927年から42年までの(ファッツは43年没)計52曲を収録。だいたいこんなもんで概観だけならオッケーなんじゃないかな。代表曲はほぼぜんぶ入っている。そう、代表曲と言ったが、ファッツのばあいはこのことばがよく似合う。自作ナンバーの多いひとだから。

 

有名他作曲もやるけれど、自分で書いた曲が多く、それを自分で演奏しながら歌うっていう、そんなファッツは、いわば(アメリカ大衆音楽界における)シンガー・ソングライター第一号と言える。元祖 SSW、そんな存在だよね。むろん、アメリカ南部でギター弾き語りをやるフォークロア的世界のことはいま外して考えている。ちょっと音楽の種類も違うんだし、それらは「自作」とも言いにくい。

 

ポピュラー・ミュージックの世界で SSW というか、自分で歌うものは自分で書くのだという発想が一般化するのは、たぶん1960年代のビートルズ以後じゃないかと思う。ロックでも、それ以前の、たとえばエルヴィス・プレスリーなんかは他作曲ばかり歌っていた。しかしだいたいみんなギターだよね。ロック界でピアノを弾く SSW っていうと、ビリー・ジョエル、エルトン・ジョンあたり?あ、いや、もっと前にリトル・リチャードがいるか。

 

まあでもすくないよね。それにピアノで弾き語る SSW というと、女性のほうが多いように思う。ジャズとその周辺に限定すればクリオ・ブラウン、ネリー・ラッチャー、ローズ・マーフィーとか、そのへんかな。そしてここまで書いた全員の総先輩格にあたるのがファッツ・ウォーラーなんだよね。

 

だから、ピアノやオルガンの腕とかなんとかいうよりも、音楽史全体におけるファッツの重要性、意義とは、<自作自演>をはじめてやって世界を確立した第一人者っていうところにあるんじゃないかとぼくは見ている。それにファッツの自作曲はチャーミングなのが多い。「ハニーサックル・ローズ」「エイント・ミスビヘイヴン」「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」「手紙でも書こう」「嘘は罪」などは有名どころ。これも有名な「ブラック・アンド・ブルー」は、ファッツ自身の録音がない。

 

「ブラック・アンド・ブルー」を未演であることと関係あるかどうかわからないが、ファッツの録音集を聴いていると、ずいぶん楽しいフィーリングでやっているよねえ。例外なくぜんぶそうだ。しかものんびりのどかで、ほがらかな感じだ。心がけてそうやっていたんじゃないかと思える。愉快でふざけるような感じ、すなわちジャイヴ感覚もたっぷりある。

 

この点、つまりファッツをジャイヴ・ミュージックと結びつけて言っているひとがあまりいないんじゃないかと思うんで、ぼくは強調しておきたい。ファッツの音楽にはジャイヴ感覚が横溢しているってこと。だからクールだ。うん、間違いない。愉快で楽しくふざける、まさに音「楽」、それがファッツの世界だね。だから、肌が黒いのが悪いんだろうと泣くような(ホットな)曲は、書きはしてもやらなかったのかもしれない。

 

ぼくは長年そういった世界が苦手だった。シビアなハードさ、切り口鋭いエッジの尖った感じの熱い音楽が好きだったんだよね。のどかで厳しさなんかなさそうなファッツの音楽は、だから主にピアニストとしての腕前に耳を傾けるというような接しかたをしていたわけ。愚かだったなあ、ぼくは。ファッツの世界を理解できていなかった。

 

自分も歳とって、それでようやくファッツのこんななごやかで落ち着いた世界が本当にすばらしいと心から実感できるようになったのかもしれない。それで今日こんな文章を書いている。

 

※ 参考アルバム(ぼくの持つ『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』はこれじゃないけど)。
https://open.spotify.com/album/5fsLHfEdum0RWT4NhCcLjz?si=5RvcduYFTBujm_w6J7pwRA

2019/05/22

ボッサってな〜に?

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世界で最も知られているブラジル音楽がボサ・ノーヴァだけど、ボサ・ノーヴァってなに?このことばはどういう意味?と聞かれたら右往左往してしまうぼく。ノーヴァのほうは、英語なんかでもスーパー・ノーヴァ、すなわち超新星と言ったりするので「新しい」という意味なんだな、つまりは音楽の新潮流みたいなことを言おうとしているのか、と推測がつくけれど(ウェイン・ショーターに同題のアルバムあり)、ボサ、またはボッサがわからないよねえ。

 

そんなとき、1999年のオフィス・サンビーニャ盤アンソロジー『サンビスタス・ジ・ボッサ』がかなり参考になる。アルバム題どおり、ボッサ感覚を持つサンバ歌手たちの録音をどんどん並べて、ボッサがなんなのか、解説文の田中勝則さんも特にこういうことと明言されていないけれども音源で実感してもらおうという一枚じゃないかな。

 

だから収録されているのは24曲すべてサンバだけど、ボッサ感覚を持つものってなんだろうと、ぼくは最初わかっていなかったが、だんだんこういうことかな?とぼんやり感じるようになった。それを今日ぼくは明記しておきたい。ボッサ感覚とは、サンバのなかでも特に都会的で粋なセンスのオシャレでファンキーなもの、そんなフィーリングを指していると思う。

 

サンバといっても実にいろいろあって、もとがカーニヴァル用の音楽だからダンサブルで泥臭いものもあったりするのだが、『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されているサンバにそういったものはない。ちょっとあえていえばヤワな、華奢な、おしゃれなやさおとこ的なというか(女性カルメン・ミランダが収録されているが)、そんなサンバばかりどんどん並んでいるとしていいんじゃないかな。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されている歌手は、だいたいがルイス・バルボーザ、シロ・モンテイロのふたりだと言ってもいいくらいで、ソングライターでいえばウィルソン・バチスタとジェラルド・ペレイラにしぼられるとしたいほど。年代で言えば、たとえばサンバ・ジ・ボッサの最盛期は1940年代前半と言っていい。

 

そのころ、サンバとショーロが再合体し、サンバに小粋なスウィング感が聴かれるようになり、同時にファンキーなユーモア感覚もあわせ持ち、軽妙にノリよい曲をスッと軽く歌うことが時代の潮流だった。そんなことを<ボッサ感覚>と呼んでもいいんじゃないかなと思う。最初はサンバのなかに出てきた(新しい)感じといった程度の使われかただったのかもしれないんだけど、ノエール・ローザやカルメン・ミランダの歌詞のなかにも歌い込まれるようになって徐々にサンバ音楽になかに定着し、1940年代になってサンバ・ジ・ボッサなどと呼ぶようになったのだろう。それがボサ・ノーヴァという命名の起源となった。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』のなかにある、たとえばシロ・モンテイロの歌のなかには、ほぼボサ・ノーヴァに近づいている、あるいはボサ・ノーヴァそのものであると言いたいくらいのものだってあるんだ。だから、サンバからサンバ・ジ・ボッサを経てボサ・ノーヴァへいたる道のりはひとつながりだったんだなと実感できる。

2019/05/21

ショーロ・ルネサンス?〜 トリオ・ジュリオ『ミーニャ・フェリシダージ』

1007812325https://open.spotify.com/album/6E882EOacKWLz5OH0MyHgo?si=kTZvvkVxSZqxtJ6QuBQAyA

 

これも bunboni さんに教わったものです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-21

 

オーソドックスな古典ショーロをやるトリオ・ジュリオの2017年デビュー作『ミーニャ・フェリシダージ』がとてもいい。曲もアルバム全体も(いい意味で)古くさい音楽。このことは、たとえば曲間の空白時間でもわかる。ある時期以後の音楽アルバムではあまり間合いをおかずどんどん次の曲が流れてくるけれど、『ミーニャ・フェリシダージ』では曲と曲のあいだにたっぷりポーズがおかれている。むかしの音楽レコードみたいで、最近の傾向にすっかり慣れちゃっているから、最初は一瞬オリョ?止まった?と感じたほど。

 

トリオ・ジュリオの『ミーニャ・フェリシダージ』は、兄弟三人によるバンドリン、ギター、パンデイロのトリオ編成を基本に置きつつ、三人での演奏曲もあるけれど、多くのばあいゲストを曲によって変えながらどんどん迎えて、自作曲をやっているという感じかな。そんな自作曲も、どこも現代ふうでない古典的意匠で、ぼくなんかは好感を抱く。いかにも伝統と現代がひとつながりで接合しているブラジル音楽界ならではだね。

 

アルバムの最大の目玉は、やはり管楽器奏者を複数迎えてやっている8、10曲目かな。そのメインはアキレス、エヴェルソンのモラエス兄弟なんだ。ね、憶えているでしょ、例のイリニウ・ジ・アルメイダ曲集の中心だったふたりだ。そのときフィーチャーされていたオフィクレイドをエヴェルソンは10曲目で吹いている。8曲目ではトロンボーン。

 

オフィクレイドなんて、そのイリニウ曲集まで完全に忘れ去られた楽器になっていたものだし、イリニウの得意楽器だったからエヴェルソンは復活させたんだけど、それをトリオ・ジュリオに客演しても演奏しているのは、あるいはひょっとしたらエヴェルソンのほうからもちかけたアイデアだったかも。トリオ・ジュリオの三人がオフィクレイドを提案できるかどうかわからないし。

 

実際その10曲目ではアレンジ担当がエヴェルソンとクレジットされている。作曲はほかの曲同様マルロン・ジュリオだけど、アレンジだけエヴェルソンがやって、しかもグルーポ・オス・マトゥトスがまるごと参加していて、エヴェルソンがオフィクレイドを吹くんだから、トリオ・ジュリオとオス・マトゥトスの共同作業によるワン・トラックと言っていいかも。実際、おもしろい仕上がりになっている。

 

(オス・マトゥトスじゃないものの)同じくアキレスとエヴェルソンが参加した8曲目も楽しいし、管楽器のいないシンプルなトリオ編成のトリオ・ジュリオにして、なんだか実はこのアルバム『ミーニャ・フェリシダージ』はなかなかヴァラエティに富んでいる一枚と言えるかも。いろいろ流れてきて楽しいし。それに10曲ぜんぶがメンバーの自作だけど、それもきわめて古典的でオーソドックスなショーロ曲の創り。それをストレートにやって、過去の楽器オフィクレイドも使ったりする。

 

つまりは、ある種のルネサンス的な意味合いすら感じるこの『ミーニャ・フェリシダージ』だけど、当のトリオ・ジュリオの三人はそんなことをあまり考えすぎず、ただやりたい音楽を自由にのびのびとやっているなと感じられる素直さも好感度大。古典ショーロ好きじゃないと楽しめない作品だけどもね〜。

2019/05/20

定型のない軽妙なロバート・ウィルキンス

Fullsizeoutput_1eeahttps://open.spotify.com/album/6WVlNEjuEWQtzx5uiT0KxT?si=cQ5UJRyWTyWtPCxJqyKRkg

 

ローリング・ストーンズが下敷きにした戦後録音もありはするものの、やはり第二次世界大戦前のメンフィス・ブルーズ・シーンでこそ重要人物だったロバート・ウィルキンスが、その大都会に移住してきたのは1915年のこと。すでにギターで弾き語っていたらしい。ウィルキンスの戦前録音のすべてを、ぼくは1990年の P ヴァイン盤 CD『プロディガル・サン〜放蕩息子』で愛聴している。曲順は違えど上の Spotify リンクは同じ中身のアルバム。全17トラック。これ以外には1964年のゴスペル・アルバム一枚があるのみのひとだ。

 

ヴィンテージ録音(1928〜35年)に話を限定すると、ロバート・ウィルキンスのブルーズにはほぼ定型がない。ほとんどがひとりでの弾き語りであるカントリー・ブルーズの世界ではそれがあたりまえだけど、それにしてもウィルキンスの融通無碍さはなかなかすごい。推測するにたぶんまず歌があって、それに合わせてギター演奏もついていっているだけだから、そしてその歌とは(だらっと続く)バラッド的なお話だから、ということなんだろうなあ。

 

とはいえ、計17トラックのうち三つ「ダーティ・ディール・ブルーズ」「ブラック・ラット・ブルーズ」「ニュー・ストック・ヤード・ブルーズ」は定型の AAB 12小節3コード形式。これには理由がある。このときのセッションでだけ二名の伴奏者がいるからだ。実にカチッと定型化しているよねえ。それにしてもスプーンが付くなんて(カチャカチャという音がしている)、いかにもメンフィスらしい土地柄だ。

 

とにかくバンドというか複数名でやると定型化するというのはわかりやすい話だ。戦後もひとりで弾き語ったカントリー・ブルーズ・マン、たとえばライトニン・ホプキンスなんかはやっぱり小節数が伸び縮みしているんだもんね。しかしだいたいが一小節単位でのことで、ロバート・ウィルキンスのばあいは、半拍伸びたりしてワン・コーラス(という概念もたぶんないのだが)13小節半だとか、あるいは15小節だとか、そんなのだってある。

 

上でも書いたけど、伝承的な物語歌、すなわちバラッドの世界では、まあ詩として世に出るばあいはある程度フォーマットがあるだろうけれど、それでも現場で歌って聴かせるのにかたちはいらない。その場その場で観客の反応も見ながら自在に端折ったり延長したりくりかえしたりするわけで、それもちょっとだけとか大幅にとか、よくあることじゃないか。

 

ロバート・ウィルキンスも最初のレコードである SP 両面の「ローリン・ストーン」2パートがそこそこのローカル・ヒットになって、ラジオ出演した際この曲にリクエストの電話がじゃんじゃんかかってくるためやめられず、ついに番組の一時間ずっと「ローリン・ストーン」だけ歌っていたという(ウソかホントかの)エピソードまで残っている。お話とはそういうもんだね。

 

アメリカの黒人ブルーズが(発祥時に?プリ・ブルーズ的な部分で?)けっこうバラッドと関係があったとは、ぼくも以前から書いていることで、それは戦後のマディ・ウォーターズの弾き語りなんかにも姿を現している要素。ましてやミシシッピのど田舎ハーナンドー生まれで戦前のメンフィスで活動した弾き語りのロバート・ウィルキンスなら理解しやすいことなんだよね。

 

ローリング・ストーンズがとりあげた「ザッツ・ノー・ウェイ・トゥ・ゲット・アロング」(プローディガル・サン)も見事に変型で、というか変型とか定型とかいう概念でくくれないのがロバート・ウィルキンスで、歌がまずあって、歌いながらそれにあわせて拍数がかなり半端になっている。それでここまで結果的に構成がちゃんとなっているように聴こえる組み立て能力はすごいね。歌もギターも軽妙洒脱だ。

 

また、「ゲット・アウェイ・ブルーズ」も傑作で、出身地であるミシシッピのブルーズっぽい感覚の一曲。ヴォーカルも力強いが、ギターのパターンに注目。フリーなワン・コードに近い展開で、その上、ジョン・リー・フッカー的な二拍三連に近い弾きかたもあるかと思えば、低音弦でブギ・ウギ・ピアノの左手みたいに動いたりもする。

2019/05/19

ジョエル・ロス登場

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ブルー・ノートからデビューしたばかりのジャズ・ヴァイブラフォンの新人ジョエル・ロス。そのプレイぶりは、ハーモニー面でもリズム面でもチャレンジングだ。ジャズ的なスリルに満ちたデビュー・アルバム『キングメイカー』(2019)は、ヴァイブラフォン+アルト・サックス+ピアノ・トリオのクインテット編成だけど、めくるめくようなエモーショナルな演奏で聴き手をグイグイと世界に引きずり込むパワーを持っている。

 

ジョエル・ロスのことをブルー・ノートは前々からプロモートしていて、まだデビューもしておらず一曲も聴けない状態の新人としては異例の大きな扱いだった。デビュー作『キングメイカー』のリリース予定日が決まると会社の推しっぷりにも一層熱が入り、ぼくも毎晩(のように、ではなく文字どおり毎晩)ツイートを読んでいたから、もうすっかり聴く気、買う気満々で、実際リリース日に Spotify で聴いて、たしかにこりゃすごいとうなって、速攻で CD も買った。

 

『キングメイカー』をお聴きいただければわかるように、ジョエルのマレットさばきは超高速。しかも寸分の狂いもなく極めて正確だ。さらにかなり熱情的な演奏ぶりで、気持ちが入るとグングン高揚し、同じくエモーショナルなアルト・サックス(イマニュエル・ウィルキンス)と一体化してクインテットの演奏全体がかなりの熱量を帯びる。かと思うと、同時にどこか醒めたクールなアティテュードも感じるよね。

 

ヴァイブラフォンのジョエルと一体化した演奏ぶりという意味では、ドラマーのジェレミー・ダットンもかなりすごい。複雑なポリリズムをひとりで難なく叩き出していて、多彩なドラミングで演奏に躍動感を与えているのだが、リズムの変化においてジョエルと一体化しつつどんどんチェンジしているのがわかる。

 

アルバム『キングメイカー』のぼくにとっての快感の肝は、この三位一体、ヴァイブラフォン、サックス、ドラムスの重なり合いにある。必ずしも一体化せず、異なったまま重ねたりもして、特にジョエルがひとりでバンドの演奏にぶつけるように異リズムで演奏していると思うんだ。それでいてジョエルもバンドも違和感なくスムースにこなしているよねえ。すごいことじゃないかな。バンドの演奏に対しジョエルひとりが異をレイヤーしていくというのはハーモニー面でもそう。

 

デビューしたての新人でありながらヴァイブ・ヴァーチューゾでもあるっていうのは、たとえば5曲目「イズ・イット・ラヴ・ザット・インスパイアズ・ユー?」でもよくわかる。ここではサックスとピアノを抜いたヴァイブラフォン・トリオでの演奏だから、もっぱらジョエルの超絶技巧に焦点が当たっている。聴きながら、なんてすごいんだ、しかも爽快だ、とうなっちゃうなあ。ジェレミーのドラミングにも要注目。ふたりで突っ走っている。

 

クインテットの演奏も、ジョエルひとりの演奏をとりだしても、多彩でチャレンジングな『キングメイカー』。ぼくがことに注目するのはリズム面での斬新さ、おもしろさだけど、和声面でもユニークで、収録曲もほとんどがジョエルの自作でありかつ、なんとプロデュースまでやっている。ヴァイビストとしてスケールが大きいというだけじゃない、トータルな音楽家としてのデカさを感じるね。

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2019/05/18

グナーワ大学 2019

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ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)での活動で名を知ってすっかりファンになったアジズ・サハマウイ。彼のユニヴァーシティ・オヴ・グナーワ三作目が、今2019年にリリースされたばかりの『ポエティック・トランス』だ。これはかなりいい内容のアルバムだよね。グナーワ大学、一作目も充実していたが(このブログでもくわしくとりあげた)、この三作目はそれを上回っているかもしれない。

 

『ポエティック・トランス』で個人的にことさら気に入っているのは、ルーツ・グナーワ色を土台に置きつつ大衆音楽化しているもので、具体的には5曲目「Gang Sound of Mbirika」、7曲目「Soudani ya yémma」、9曲目「Sotanbi」だ。なかでも9曲目はポップ化もしていない生のグナーワといった趣で、これがいちばん好き。ディープでいいんだよね。

 

このあたりはモロッコの儀式グナーワが好きだという趣味嗜好からくるものだから、みなさんには共感していただきにくいかもしれない。それでも「ソタンビ」でカルカベ(金属製カスタネット)よりもドラム・セットの音を前に出し、エレベやエレキ・ギターも入れたりして、腐心してわかりやすくしようとしている。リード・ヴォーカルとバック・コーラスのコール&レスポンスは伝統マナーそのままだ。

 

もし『ポエティック・トランス』ではじめてグナーワっていうようなものに触れるという向きがおありならば、この9曲目でゲンブリとヴォーカルだけにして、ドラムス、エレベ、ギターを抜き、そこにカルカベをもっと大きく入れたら、それがだいたいディープなルーツ・グナーワの音楽像なのだと考えていただきたい。ぼくはそういった音楽が大好きなんだ。アジズだって、演奏終了後に思わず叫び声をあげているんだから、やはりこういったものこそが本領なんだと思う。

 

そんなアルバム・ラストの「ソタンビ」にはグナーウィとしてのアジズの心意気みたいなものが表現されていて、このアルバム『ポエティック・トランス』ラストに置かれた白眉のワン・トラックとなっているんじゃないかな。そのほか、5曲目、7曲目もグナーワ・ベースのポップ・ミュージックで、これらは比較的聴きやすいかも。

 

5曲目「ギャング・サウンド・オヴ・ムビリカ」でゲンブリ演奏がはじまってしばらくして、お腹に来る地を這うようなエレベが聴こえてきた瞬間に背筋がゾクゾクするし、アジズのヴォーカルもコール&レスポンスのコーラス隊も充実している。ここでもドラム・セット入り。途中からンゴニとトランシーなエレキ・ギターがからんで間奏をつくるあたり、このバンド、グナーワ大学のありようを発揮したものと言えるだろう。おもしろい。

 

ンゴニは、グナーワ大学において以前から頻用されていて、バンド名に反し音楽に西アフリカ色をもたらすことになっているのだが、アジズのユニヴァーサルな音楽企図が見えて、ぼくは好感を抱いている。それとエレキ・ギターをからめるなど、全体的に(プロデューサーのマルタン・メソニエのおかげもあるけど)種々音楽要素のフュージョン色が強いのも、結果的には大成功だ。

 

7曲目「スダニ・ヤ・イェマ」では、まずゲンブリ独奏が出て、それにヴォーカルのコール&レスポンスだけがからんでいくから、最初思わず「オオ〜〜ッ!」と喜んでいたら、ポップなドラムス演奏が入り、エレベ、エレキ・ギターと入ってきて大衆音楽化する。特にこの曲ではドラムスの音が大きく、演奏も派手だ。

 

すると、途中から派手でやや長尺なエレキ・ギター・ソロも出て、そこはまるでハード・ロックさながらだから、この7曲目を最初から聴いているとグナーワ・ロックみたいな感じにも聴こえるね。聴きやすくていいと思う。最初ディープなルーツ・グナーワふうにはじまって、瞬時にポップ・ミュージック化して、どんどん高揚していくさまを聴かせる構成は、アジズもさることながらマルタンの貢献を感じる具合だ。

2019/05/17

ロベルタ・サーの新作が心地いい

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リリースされたばかりのロベルタ・サーの最新作『Giro』(2019)。とてもいいよね。目玉はやっぱりジルベルト・ジルとジョルジ・ベン・ジョールが参加した4曲目かな。もちろんすばらしい出来だ。この曲だけ、アルバム中ほかの曲とはグルーヴ・タイプが異なっているのも注目点。なんというかビートがタイトでシャープ。鋭角的な切り込みも聴かせているよね。とても好きだ。バイーアふうサンバだしね。

 

でもこれはアルバム全体の色調からしたらやや異色と言えるはず。全体的には、やわらかく丸いソフト・タッチな音楽をロベルタはこころがけているのがわかる。それは4曲目「Ela diz que me ama」に続き流れてくる5曲目「Nem」でもわかる。こののどかさ。これですよ、心地いいのは。決して肩肘張らないリラクシングなムード、それがいいと思うんだよね。ほんわりあたたかくて。

 

そう考えると、そんなあったかやわらかいロベルタふう新サンバは、アルバム中ほかでもいっぱい聴ける。1曲目「Giro」はサンバかどうかわからないが、シンガー・ソングライターとしてのロベルタの世界を端的に表現したもの。続く2曲目「O Lenço e o Lençol」はややシャープかなと思わないでもないがソフト・サンバで、こういうのがいいと思うんだよね。ロベルタの声も女性ならではのやわらかさがあって、聴いていて癒される気分。

 

心地よく癒されながら、アルバムのトータル41分間を聴き終えるというのが正直なところ。全体的にとがっていたりハードだったりタイトだったりすることがほぼなくて、サンバ・ミュージックの持つ人間味、あたたかみだけを取りだしたような音楽なのがいいよ。6曲目「Fogo de Palha」の、エコーがやや深めにかかったロベルタの声とこのバックのサウンドのあったかやわらかさとか、これもサンバな8曲目「A Vida de um Casal」の弾き語りの親密なムードとか(後半のフリューゲル・ホーンも実にいい)。

 

9曲目「Xote Da Modernidade」ではハーモニカが活きているし、ヒューマンなぬくもりを感じるサウンドだよねえ。サンバとはいえないが、現代ブラジル音楽の持つ人間らしさをよく表現できていて、音楽的姿勢としてはサンバのそれに相通ずるものがあると言えるかも。ハーモニカを入れようというのはロベルタのアイデアだったのかなあ。

 

アルバム・ラストの「Afogamento」がこれまたよくて、この新作『Giro』でロベルタがとっている姿勢というか音楽性、つまりヒューマンなあったかみ、ソフトで丸いぬくもりといったものを典型的に表現したような、まるでそばに座って彼女がギターで語りかけてくれているかのような親密さも感じる、そんな音楽で、フリューゲル・ホーンとテナー・サックス二管の入りかたもうまいし、ホッとするねえ。

 

41分間という長さも適切で、なんどもなんどもくりかえし聴くロベルタ・サーの新作『Giro』。聴いても聴いても飽かず、あったかさにほだされて、こっちのメンタルまで適温になっていくような、そんないい音楽だなあ。実はかなりの深みと凄みをも同時に帯びた作品だしね。いやあ、実にいいですよ。

2019/05/16

最新型キューバ・ジャズ 〜 エル・コミテ

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一作目『Y qué !? (So What)』(2019)を出したエル・コミテ(El Comité)はデビューしたばかりのキューバのジャズ・グループ。といっても新人で構成されているわけじゃないみたい。ピアノ(鍵盤)二名、トランペット、テナー・サックス、ベース、ドラムス、パーカッションの七人編成だけど、リーダー格の鍵盤奏者アロルド・ロペス・ヌサ、もうひとりの鍵盤ロランドー・ルナ、ドラムスのロドネイ・バレットあたりは知名度のあるところ。ほかもキャリアのある演奏家が混じっている模様。

 

そんなエル・コミテの一作目『イ・ケ!?』はソー・ワットとタイトルにあるように、ひょっとしてマイルズ・デイヴィスのあれをやっているんじゃないか?そうじゃないかもしれないが、もしそうだったならマイルズ・マニアとしては絶対に見逃せないなということで買ってみたというのが正直なところ。しかしアルバムを聴いたらそれよりも全体的におもしろかった。

 

アルバム・ラストにあるのはたしかにマイルズの「ソー・ワット」だ。マイルズ・ヴァージョンでベーシストが弾くテーマ音列を、エル・コミテではピアノ(たぶんアロルド)が演奏している。ホーンズのアーメン合奏は同じ。その後やはりラテン/キューバ/サルサな展開を聴かせているのがこのバンドの特徴だね。こんなラテンな「ソー・ワット」はたぶん世界にふたつとないはず。しかも勢いとかノリっていうよりメロウさを前面に出したようなアレンジと演奏で、いやあ、楽しめました。

 

メロウさは、このエル・コミテの『イ・ケ!?』全体を貫いているトーンで、あわせてなめらかさとかスムースさも目立っている。このあたり、これはキューバのジャズ・バンドだけど、アメリカ合衆国の現在形ジャズもブラジルのでもそんなのが多いし、これって<アメリカの>先端ジャズに共通する特色なんだろうかなあ?わりとそういうのが目立つなと思うんだけど。

 

でもエル・コミテの『イ・ケ!』は、いかにもラテン・ジャズのバンドというだけのノリのよさや強いグルーヴがやっぱりそこかしこにあって、土地柄とか音楽の地域性は抜きがたいものがあるんだなと思う。静かな水のようにスムースに流れているばあいが多いブラジルなどのジャズとは違う部分だ。エル・コミテのこのアルバム1曲目を聴いただけでもわかると思う。

 

ときどきサルサ・ジャズみたいな激しいノリを聴かせるばあいだってあるエル・コミテ。バンドの肝というか最重要人物にしてぼくのいちばんのお気に入りになったのはドラムスのロドネイ・バレット。複雑なリズムを手数の多い細分化されたドラミングで表現していて、なかでもスネア・ワークがにぎやかで好みだ。シンバルはあまり叩いていないが、もっとシンバル使っていいぞ’。ともあれ、このビート感はぼく大好き。

 

それが典型的に出ているのが4曲目の「トランジシオーネス」。アロルドのピアノにロランドーのエレピがからみ、ホーンズによるテーマ合奏が出たらそのアブストラクトさにのけぞりそうになるけれど、その背後でのロドネイのドラミングの見事さには感心するね。その後のソロ・パートで各人がしのぎを削るが、リズムやビートが好きだ。アロルドのピアノはやっぱりちょっとサルサっぽい。特にブロック・コードで弾くばあいはね。ドラムスとパーカッションの打楽器掛け合いパートも楽しい。この曲はノリが強くていいね。

 

どこまでもメロウ路線をひた走る5曲目「カルリートズ・スウィング」もいいし、ふたたび強力にグルーヴする6曲目「アラマー 23」に聴きほれていると、7曲目「ナダ・マス」でやっぱり甘美の極み。二名同時演奏のピアノとエレピのからみが、5曲目でもそうだけど、本当にきれいだ。8曲目「ソン・ア・エミリアーノ」は、エミリアーノ・サルバドールに捧げてキューバン・ジャズのレジェンド、ガブリエル・エルナンデスが書いた曲。アロルドのピアノがやはり典型的にキューバン〜サルサっぽい。これと続くラスト「ソー・ワット」だけがこのアルバムでの他作曲。

2019/05/15

ベイビー、ハウ・ロング

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どうしてこんなに好きなのか、ダン・ピケットのやる「ベイビー・ハウ・ロング」。いやあもうなんどもなんどもくりかえし聴いてしまう。リロイ・カーがオリジナルのこのブルーズ・クラシックの数多あるヴァージョンのなかで、たぶんいちばんの好物がこのダン・ピケットのだな。いや、たぶんじゃなくて間違いない。

 

そもそも1991年の P ヴァイン盤であるダン・ピケットの『ロンサム・スライド・ギター・ブルーズ』を新宿丸井地下のヴァージンメガストアで買うまで、ぼくはこのスタンダード曲を聴いたことがなかったはずだ。この CD だって、ダン・ピケットという名前だって、なにひとつとしてちっとも知らずにこれを買ったのは間違いなくジャケットの雰囲気のおかげ。

 

それで買って帰って自宅で聴いて、1曲目の「ベイビー・ハウ・ロング」で、な〜んて魅力的なブルーズ・マンなんだ、な〜んて魅惑的なブルーズ・ソングなんだろうと感激しちゃったのだ。実際、ダン・ピケットのやる「ハウ・ロング」は群を抜いてすばらしいと、いまでも聴くたびに感じる。むかしと違っていまはたくさんのヴァージョンを知っているけれど、それでもね。

 

ダン・ピケットの「ハウ・ロング」は、リロイ・カーのオリジナルとはずいぶん違う。メロディ・ラインも微妙にユニークだし、歌詞なんて「ハウ・ロング」というリフレイン部以外はまったくのオリジナルと言ってさしつかえないほど独自のものだ。ま、歌詞にかんしてはほかのいろんなブルーズ歌手もリロイのオリジナルにとらわれず独自展開を聴かせているけれど。ほかのブルーズ・ソングでもね。

 

それにダン・ピケットの声、これがまた実にいい。独自の塩辛いトーンが、この、パートナーが去っていったあとの人間のさびしさ、わびしさ、孤独感をいっそう強調しているかのようで、本当に味があるよなあ。またヴォーカル・ラインは長調なんだか短調なんだかわからない具合にさまよっているのもイイネ。出だし二回目の「ハウ・ロ〜ング」を聴いてみて。

 

それにギターがまたいいね。高音弦をスライド・バーですべりラインを奏でながら、中低音弦でザクザクと刻んでいるバランスは絶妙。ダン・ピケットもいかにもカントリー・ブルーズ・マンだというだけの典型的なパターンではあるけれど、この「ハウ・ロング」では実に絶妙だ。リズムの刻みかたは力強くもあって、哀しく切なく泣いているように震える高音弦スライドと好対照。

 

曲の途中のワン・コード部で、スライド・バーを使いビョ〜ン、ビョ〜ンと一音をくりかえしながらモーダルに展開するあたりも見事だ。そのあいだ、上物のヴォーカル・ラインはしっかりメロディアスに動くのだが、モーダルなギター・フレーズ土台は、ブルーズとはスケール・ミュージックなのだということを(たぶん意識せずに)示してくれてもいる。

 

ダン・ピケットは、「ベイビー・ハウ・ロング」を含む1949年8月23日の全18トラックがすべてのブルーズ・マンだけど、リロイ・カーを焼き直したその一曲の、異様に鈍く輝く宝石のおかげで、ぼくのなかでは永遠に忘れられない大きな存在となっていて、ぼく自身の心境をこの「ハウ・ロング」に重ね、あぁ、こんなふうにギターで弾き語れたらなあと思うヒーローのひとりなんだよね。

2019/05/14

チック・コリアの仮想マイルズ・クインテット?〜『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』

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チック・コリアの音楽キャリア最高期はマイルズ・デイヴィス・バンド在籍時の1969年ロスト・クインテットでのライヴ録音にあり、というのが長年の自説なんだけど、チック自身のリーダー名義のスタジオ録音で、それに匹敵する絶頂レヴェルな作品があると知り、とてもうれしい気分。それが、こないだちらっと触れた2002年リイシューの『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』二枚組。二枚組といっても CD は中古が異様な高値で手が出ないので Spotify で聴いている。

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』は1969年5月11〜13日のセッションで録音されたもの。そのマテリアルは、もともと二枚のレコードで分散発売されていたらしい。一枚は「イズ」「ディス」「ジャマラ」「イット」を収録した69年発売のソリッド・ステイト盤『イズ』。そのほかを収録した72年のグルーヴ・マーチャント盤『サンダンス』。

 

分散発売のことや、2002年にブルー・ノートが集大成したいきさつなど、なにかと事情がありそうで、CD 附属解説文をマイクル・カスクーナが書いているそうだから読みたいんだけど、いまのところはしょうがない。正常価格で再リイシューされるまで待つしかないね。音楽だけなら問題なく聴けるので、個人的印象をちょちょっとメモしておこう。

 

まず、自分自身のためにパーソネルを確認しておく。

 

チック・コリア(ピアノ、フェンダー・ローズ)
デイヴ・ホランド(ベース)
ジャック・ディジョネット(ドラムス)
ベニー・モウピン(テナー・サックス)
ヒューバート・ロウズ(フルート、ピッコロ・フルート)
ウディ・ショウ(トランペット)
ホレス・アーノルド(パーカッション、ドラムス)

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』二枚組は、ディスク1と2とで明確な音楽性の差がある。一枚目はストレート・ジャズ、というかこれは新主流派ジャズだね。1965年ごろに、マイルズ・クインテットのサイド・メンを中心に、ブルー・ノート・レーベルで展開された、新感覚ハード・バップ(ポスト・バップ)のこと。二枚目はフリーで無調なコレクティヴ・インプロヴィゼイションの記録だ。

 

さて、録音セッションが行われた1969年5月という時点だと、この『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』のリズム三人は全員マイルズ・クインテットのレギュラー・メンバーだった。そして、ディスク1の新主流派ジャズもディスク2のフリー・インプロヴィゼイションも、当時のマイルズ・バンドを聴き慣れているみなさんなら違和感なく受け止められるはず。

 

チックとしては、ディスク1の、たとえば「ザ・ブレイン」とか「ディス」のような演奏は、ちょうどマイルズ・バンドの前任者ハービー・ハンコックらが展開していたことですっかりおなじみの音楽だったはず。それを次代のマイルズ・バンド・メン三人でもう一回やりたかったということだろうか。実際、とてもよく似ているしねえ。

 

サックスがベニー・モウピンでウェイン・ショーターとは比較できないが、それでもベニーだって大健闘だと思う。トランペットのウディ・ショウやフルートのヒューバート・ロウズはほとんど出てこないので、実質的にカルテット演奏だね。それで、当時かちょっと前のマイルズ・バンドや新主流派を再構築しているもののように聴こえる。演奏のクオリティも高い。

 

ところでここで演奏している「ディス」。これはマイルズ・バンドの演奏で聴いて知っていた曲だ。1969年のロスト・クインテットから70年のバンドまでマイルズのライヴではしばしば演奏されていた。チックの曲だとも知っていたのだが、スタジオ録音を聴いたのは今回が初。かなりいいよなあ。マイルズ・バンドのライヴ・ヴァージョンよりいいぞ。

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』ディスク2のフリー・インプロヴィゼイション篇。アルバム題にもなっている「イズ」が29分近くもあって、実質これ一曲を聴くべきサイドと言っていいだろう。しかしここでもおそれることはない。マイルズ・バンドの、たとえば1969年8月録音の曲「ビッチズ・ブルー」では、ノー・テンポのパートなどで同様の展開を聴かせているじゃないか。そこでも主導権はチックが握っていた。

 

マイルズ・バンドにああいったフリーなコレクティヴ・インプロヴィゼイションを持ち込んだのは、こういったチック自身のセッションからの成果だったのかもなあと思わないでもない内容だよね、曲「イズ」は。ここではウディ・ショウもヒューバート・ロウズも活躍している。演奏最終盤で4/4拍子に移行してスウィングしながら終わるんだけど、そこも快感だ。長く強い緊張がとけるかのような心地よさがある。

2019/05/13

エディ・トゥッサの『カセンベレ』はやっぱりいいなあ

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アンゴラのエディ・トゥッサ、2015年盤『カセンベレ』。このへんがモダン・センバの嚆矢、いや、完成形のひとつだったのか、なんともわからないぼくだけど、とにかくカッコイイ。それでいてとっつきやすく親しみやすいファミリアーな音楽だよねえ。すごくいいなあ。エディは決して声がいいとか歌がうまいとか、そういったひとじゃないんだけど、音楽に取り組む姿勢みたいなものがとてもいいね。

 

『カセンベレ』だと、たとえば2、3、4曲目はわりとトラディショナルというかむかしながらの、つまり1970年代っぽいセンバを下敷きにしているよね。エディ・トゥッサは、ドラム・セットを含むモダンな楽器もどんどん使うけれど、音楽の組み立てがこれらの曲ではわりとオールド・ファッションド。エレキ・ギターの使いかたとそれにからむ打楽器群とか、まさにセンバ・オールド・スクール。

 

それで、ここではっきり言っておくけれど、ぼくはそういった古っぽいセンバが大の好物なのだ。現代的な同時代センバよりも好き。この嗜好がどこらへんから来ているのかはわからないが、とにかく古いほうが聴いていて気持ちいい。都会的な夜の雰囲気を漂わせる洗練された現代センバより、土臭い旧世代センバのほうに共感しちゃう。

 

あれかもなあ、いまならさしづめモダンな R&B よりもジェイムズ・ブラウンみたいな古いファンクのほうが好きなんだといったのと似ていることなのかなあ?ちょっと違う?2010年代的現代ジャズもいいけれど、オールド・ファッションドな古典ジャズはもっといいじゃんみたいな?違うか?そういえば、ロックの世界ってむかしもいまもあんまり変わらないよねえ?これも違うのか?

 

エディ・トゥッサの『カセンベレ』は、センバ新世代にしては古い伝統的センバ曲やその音楽家たちに積極的にリスペクトを表明したような作品で、それもテーマのひとつになっているような創りで、なんにつけても伝統尊重派のぼくとしてはかなり高い好感度を持つところなのだ。

 

カリブ海音楽方面にも目配せできているし、もろズークみたいなのもあるかと思えば、ちょっぴり現代 R&B っぽいような、あるいはジャジーなような、サウンド・メイクも聴かれ、それでもアルバム全体ではあくまで陽光のもと土の上で楽しくダンスしているみたいな音楽で、エディ・トゥッサの『カセンベレ』、やっぱり大好きですね。

2019/05/12

トニー・アレンのブレイキー・トリビュート、実はかなり好きなのだ

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いままで遠慮したりして言ってこなかったんだけど、2017年に『ザ・ソース』の前振りみたいにしてリリースされたトニー・アレンのミニ・アルバム『ア・トリビュート・トゥ・アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』のことがかなり好きなのだ。なにが好きといって、このリズム。トニー・アレンのドラミングを聴いているだけで気持ちいいもんなあ。

 

たった四曲で24分程度の EP なんだけど、なかなかどうして密度は濃い。そりゃあ傑作『ザ・ソース』とは比較できないけれど、『ア・トリビュート・トゥ・アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』のほうは、おなじみのジャズ・ナンバーばかりカヴァーしているおかげで、この2017年型トニー・アレンの音楽の特異性がかえってわかりやすいかも。

 

一見ふつうのハード・バップをやっていると思うでしょ、違うんだ。トニー・アレンのこのドラミングを聴いてほしい。手数多めで細分化されたビートを叩き出しているし、それを一曲をとおしずっとキープすることで、おなじみの曲が違った容貌を見せているじゃないか。リズム面でね。2曲目「チュニジアの夜」出だしのドラミングなんか、クールでカッコよくて、ゾックゾクするよなあ。

 

リズム面での斬新さは、テーマ・メロディのパラフレイズにも顕著に表れている。「モーニン」でも「チュニジアの夜」でもみんなそのテーマ・メロディはよく知っているものだから、トニー・アレン・ヴァージョンを聴いたらエッ!?と思うんじゃないかな。そのリズム重視でスタッカートを多用するテーマ・メロディの崩しかたに。

 

リズム隊三人(ドラムス、ベース、ピアノ)の奏でる斬新な2010年代後半型最新ジャズ・リズムに乗って、おなじみのスタンダード曲のメロディもリズム重視で姿を変えているし、ホーン五、六管の重ねかたもずっしりくるし、しかもその響きは新しく現代的。このへん、リズム・アレンジもメロディのパラフレイジングもホーン・アレンジも、ぜんぶトニー・アレンがやっているのかなあ。

 

ともあれ、従来的な、つまり保守的で1950年代後半のハード・バップが好きなようなジャズ・ファンが最新ジャズに入っていこうと思ったときの格好のイントロダクションになりうるアルバムじゃないかと思うんだね。そんなこと言わなくたって、たんに聴いていて快感だけどね、このビート(ホーンズのそれを含む)が。

2019/05/11

未知との遭遇

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(画像は本文と関係ありません)

 

は、まだまだ CD でのほうが多い。ついきのう、チック・コリアの『コンプリート・"イズ”・セッションズ』を Spotify で発見したが、しかしこれはまだ CD で買っていない。Spotify で見つけて聴いているだけ。だって速攻で CD 探したら、アマゾンで6000円以上もするんだよ。2002年に CD リイシューされていたものらしいが、まったく知らなかった。 じゃあどうしてストリーミングで見つかったかというと、ブルー・ノート・レコーズ公式 Twitter アカウントが、ストリーミングで聴けるようになったぞと、きのう4月2日に教えてくれたからだ。

 

つまり、そういったことでもないと、Spotify でも Apple Music でもなかなか未知のものには遭遇できにくいと思うんだよね。(ネットのでも)お店があれば(仮想的にでも)そこをぶらついて、あっ、こりゃなんだ?!みたいな発見があって、手にとったり視聴したりできるよなあと思うんだけど、配信サーヴィスで同じことをやるのはなかなかむずかしい面がある。そんなことない?

 

そんなことないよ、Spotify でどんどん未知の音楽に出逢っているよというかたは、どうなさっているのか、ぜひ一度お話をおうかがいしたいと思っている。CD 時代がもはや終焉しているというのは言うまでもないが、だからといってぼくがサブスクリプションに全面移行できない理由は大きく分けて四つある。(1)パーソネルなど録音データがわからない(2)くわしいいきさつや解説などを簡単に読みたい(3)CD しかない作品もある、そして(4)未知に出逢うのは CD でのほうが容易。

 

これらのうち(1)にかんして、Spotify がそのうちデータ埋め込みサーヴィスをはじめるとのアナウンスが昨年だったか、あったから、これは今後に期待したい。また旧作品などについてはネットで検索すれば比較的ラクチンにこの手の情報は見つかるので困らない。新作についてだけの話だね。

 

(2)についても、ネットで調べればけっこう文章があるよ。だから実はもう困らない段階に来ているとも言える。新作でも旧作でもだいたいはレヴューや感想文や、事情通や音楽サイトなどがくわしいいきさつを記したものがわりと見つかるので、必ずしも CD パッケージ附属の(ばあいによってはチンケな)オフィシャル記事でなくていい。

 

(3)はどうしようもない。CD を買うしかない。問題は(4)点目だ。これがぼくの最大の悩みごとだ。路面店であれネット通販サイトであれ、なんらかのお店で(リアルにでもヴァーチャルにでも)ブラブラして、これはどうだろう?なとど徘徊する以外に、まったく未知の音楽や作品に出逢える可能性は低いと言わざるをえない。Spotify でも Apple Music でも、それと同じことなんて、できにくいんじゃないの?

 

サーヴィス内を検索するにせよ、キー・ワードとなる人名なりアルバム名なり曲名なり、とにかくなにかがないとさがすことすらできないんだもんなあ。たとえばエル・スールのホーム・ページでは、タグで検索できるようになっているでしょ。あれはいい。国名・地名やジャンル名などでさがしてぶらついていて、未知のものに出逢った経験がなんどもある。

 

エル・スールだと、また売り上げランキング10(やその下の欄)が出ているのもいい。そこにはぼくが縁もゆかりもない音楽のアルバムだって並ぶ。ジャケットと紹介文と視聴リンクがあるので、やはりそれでいままでも未開拓の音楽にたくさん出逢った。感謝している。ディスクユニオンや、そのほか音楽 CD 通販サイトはどこも同様だね。

 

それらはすべて「売らんがため」の戦略なんだけど、ぼくらはそれを利用して新規開拓、未知との遭遇のチャンスとしているんだよね。たとえば Spotify サーヴィスというかアプリで、似たようなことができるかというと、まあぜんぜんできないってことはない。オススメの曲とかアルバムとか、新傾向などを見る場所があって、クリック(タップ)すればそのまま聴ける。でもまだまだなんだよなあ。音楽アカウントのツイートなどもいまは頼りにしている。たぶん今後も。

 

ともかくそんなことで、未知の音楽作品や新傾向や、過去のものでもいままで知らなかった音楽などにどんどん掘り進んでいかないと、自分自身、未来がない。そのために、現状では(仮想的にであれ)CD をさがし買うという手段を活用・応用しているけれど、これもそのうち、サブスクリプションでやれるようにならないと、今後の音楽好き人間にとってためにならないんだよねえ。

2019/05/10

なごみのジェフ&マリア・マルダー

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去年だったか一昨年だったか、ジェフ&マリア・マルダーの二枚が CD リイシューされたとき Spotify でも聴けるようになって、二枚を一個にしたプレイリストをただなんとなく流しているといい感じ。気分いいね。なごみ、くつろぎ、そんな音楽だよなあ。決してむずかしくもとんがってもいない。やわらかくやさしい音楽。それがいい。

 

だから斬れ味の鋭さやガツンと来るものを音楽に求める向きには決して推薦できない『ポタリー・パイ』と『スウィート・ポテイトズ』だけど、音楽とはそんな楽しみばかりじゃない。二枚とも音域も狭く、高い音、低い音はあまりなくて中音域に全体がおさまっているのも気持ちいい。ちょうど SP 時代のポップ・ミュージックでも聴いているかのような気分にもなれる。

 

マリアが歌うボブ・ディランの「アイル・ビー・ユア・ベイビー・トゥナイト」も親密な雰囲気で、しかもエロさはなく、ただリビングでふたりでゆっくりコーヒーでも飲みながら仲良くおしゃべりしましょ、とでもいった雰囲気。それがいいよ。ゆったりおだやかで、セクシーな過激さはなし。アグレッシヴさなんか微塵もない音楽だよねえ、二枚の全体が。

 

アリ・バローゾを歌ってもサン・ハウスを歌っても、アレンジもおだやかで中庸ななごやかムード。チャック・ベリーの「ハバーナ・ムーン」では、キューバというより中国音楽に寄っていっているみたいな、そんなサウンド展開だよねえ。それも室内楽的なこじんまりとした中国ふうポップ・ロックンロール。出だしのジェフの声で「お〜らっ」というのどかなのが聴こえただけで気分がなごむもんねえ。

 

特に夜遅くなってから、部屋の照明を落とし音量も下げてこれら二枚を流しているとくつろげて、あるいはお風呂の湯船にゆっくり30分くらいつかりながら聴いていてもちょうどいい。そんな音楽だよねえ、ジェフ&マリア・マルダーの二枚。こんなにのんびりのどかで、こころ安まる音楽もなかなかないよ。アルバムを通してショートショートの短編小説集を読んでいるかのような感触もあるしね。

2019/05/09

ジョアナ・ジ・タル

Fullsizeoutput_1e3c https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/5S1RqSvj1jz4GNMbfHX88s?si=SNx_82ZuTbqCv41HHvWa5w

 

ニーナ・ヴィルチのヴァージョンで知ったサンバ・ソング「ノティシア・ジ・ジョルナル」が、もう好きで好きで、大好きで、たまらない。どうしてここまで好きなのかよくわからないのだが、フィジカルではあまり持っていないので、と思って Spotify で曲検索をかけてみた結果が上のプレイリスト。やっぱりちょっとしか出ないなあ。五つ。ニーナのと二番目のエレーナ・ジ・リマのは CD で持っている。

 

ところでエレーナ・ジ・リマをどうして(二枚)持っているかというと、エルザ・ラランジェイラを買おうと思ってディスクユニオン通販で探して出てきた同じページに関連商品として掲載されていたから。ふたりとも似たようなサンバ・カンソーンの歌手だとしていいのかな。聴いてみたらエレーナもなかなかすばらしかった。

 

それはいいとして、曲「ノティシア・ジ・ジョルナル」。たったの五つじゃなくて、もっとどんどんたくさん集めて聴きまくりたいわけ。でも曲で探して買っていくのは根気のいる話だよ。そのうちちょっとづつちょっとづつ集めていこう。いまはネットで曲検索をかけて Spotify とか YouTube で五つほど聴ければ、それで満足するしかない。

 

五つとは、ニーナ・ヴィルチ、エレーナ・ジ・リマ、シコ・ブアルキ、レニータ・ヴィラレス(ってだれだろう?)、エリゼッチ・カルドーゾ。やっぱりサンバ〜サンバ・カンソーンあたりの歌手だよね。これらのうち、エレーナのとエリゼッチのは似たようなムードで、しかもほかの三つとは異なっている音楽性を聴きとれる。

 

ひとことにして小洒落てこじんまりとした小粋なサンバと、サンバ・カンソーンとの違いということじゃないかと思う。エレーナのとエリゼッチのは夜のとばりが降りているのも共通点で、ほかの三つとの違いだ。また歌いまわしがややもっさりとしていて、切れ味がやや鈍みがかっている。しかし伴奏のリズムがキューバ/ラテンふうに跳ねているのはおもしろいところ。

 

この点では、ニーナ、シコ、レニータの三つのヴァージョンではリズムがスムースに流れ、ひっかかったり跳ねたりしていない。ここはなかなか興味深いところだ。特にエリゼッチのヴァージョンで伴奏リズムが跳ねていると思うんだけど、どうしてこうなっているんだろう?そのせいで歌手の歌いくちもややひっかかるもっさり系なのかなあ?わからないが。

 

しかしどのヴァージョンもチャーミングだ。これは曲そのものがいいっていうことなんだろうね。いいっていうか、ぼく向き、好きってこと。こんなに好きなサンバ・ソングはぼくにはない。いちばん好きだ。歌詞はポルトガル語で歌われるのを聴いてそのまま理解するのができないのでなんともいえないけれど、新聞とかニュースとか、そんな卑近な日常を綴ったものなのだろうか。

 

そしてそれよりぼくがチャームを感じているのはメロディ・ラインとその構成だ。基本この曲は AA"形式で、A”にオヒレが付くかたち。それも好き。さらに繰り返されるメロディ・ラインが可愛らしいったらありゃしない。歌詞の音も可愛い。ここまでキュートでコケティッシュで、しかもユーモラスな旋律と歌詞の音の動きって、ほかに知らないなあ。いやあ、可愛いですねえ。大好き、「ノティシア・ジ・ジョルナル」。

2019/05/08

サックスはジャズのイコン・サウンドだ

Bestjazzsaxophonistsfeaturedimageweboptihttps://www.udiscovermusic.com/stories/50-best-jazz-saxophonists/

 

この『The 50 Best Jazz Saxophonists Of All Time』と題する記事、2018年12月付で、だからちょっと前のだけど、つい最近見つけて読んでみた。50人のランキングには異を唱えたくなるところもあるけれど、全体的にはなかなかよくできた内容じゃないかと思うんで、おヒマなかたはちょっとチラ見だけでもどうぞ。

 

それになんたってジャズのヴォイスはサックスであるという、その見方には100%同意したい。まさしくそうだよね。楽器の発明者アドルフ・サックスはお墓のなかでさぞやビックリして、そして喜んでいるに違いない。楽器発明時にまだその姿がなかった新興音楽ジャズでこれだけ重宝される楽器になるとはねと。

 

まさしくサックスはジャズ・ミュージックを象徴する最大の「声」だ。もっとも、ジャズ誕生時のバンド編成にサックスはない。古典的ニュー・オーリンズ・ジャズでは、トランペット(コルネット)、トロンボーン、クラリネットの三管が一般的で、サックスが使われることは少ない。

 

ジャズでサックスが起用されはじめるのは、上掲記事にあるようにビッグ・バンド時代からじゃないかとぼくも思う(記事では「ビッグ・バンド・スウィング」となっているが、スウィングと書くと誤解を産むと思うので要注意だ)。つまり、ジャズにおけるサックスは1920年代前半ごろから存在を確たるものとした。

 

そしてその後のジャズの歴史は、しばしばサックス奏者が変えてきたし、支えてもきたのだ。ジャズにおける最初の偉大なサックス奏者、インヴェンターといえるのは、実はコールマン・ホーキンスじゃなくてシドニー・ベシェじゃないかと思うんだけど、ソプラノ奏者だったので影響のおよびかたがストレートじゃなかった。のちのジョニー・ホッジズなんか、あきらかにベシェの系譜下にあるとはいえ、抽象化された影響だ。

 

だからそういった点も考えあわせると、やはりホークこそが第一人者だったと見てもいい。ちょうどジャズ・トランペット界におけるルイ・アームストロングみたいなもんで、影響をこうむっていない人物を見つけるほうがむずかしく、またサックスをジャズのメイン・ヴォイスにしたという点でも史上最大の貢献をはたしたと言える。

 

ルイ・アームストロング/ビックス・バイダーベックの対比がサックス界にもあって、ホークに対比されるのがもちろんレスター・ヤング。レスターのばあい、たんにいちスウィング・テナー奏者というにとどまらず、モダンなハーモニー感覚と、コード分解も用いる斬新なフレイジングで、チャーリー・パーカーをはじめ多くのモダン・ジャズ・サックス奏者の範となった功績も絶大。

 

モダン・ジャズ界のコンボ編成では、サックス入りのワン・ホーン・カルテットか、トランペッターをくわえた二管クインテットの演奏が最も一般的だし、(あまりジャズをご存知ない一般のみなさん、すなわち世間一般的に)ジャズってどんな感じの音楽?っていうおおざっぱなイメージもそんな編成でのモダン・ジャズでできあがっているように思う。

 

だからサックスの占める比率や持つ意義はかなり大きいと言えるし、さらに大切なことは、ジャズ(やそこから流れたリズム&ブルーズ系でも)ではサックスの発音が特異だ。これはほぼジャズとその流れを汲む音楽にしかないといってさしつかえないサウンドというか音色で、シドニー・ベシェ、コールマン・ホーキンス、ジョニー・ホッジズなどがつくりあげた、あの太く丸いゴッツイ音、あれこそジャズの声なのだ。ほかの音楽におけるサックスはあんな音じゃないですよね〜。

 

だから、同じ系統の音色を持つモダン・ジャズ・サックスのチャーリー・パーカーもソニー・ロリンズもジョン・コルトレインも、ハーモニー感覚とフレーズの組み立てはレスターから来るものを学びながらでありつつ、サウンド・イメージとしては丸く太い方向性を維持した。

 

そんなサックス(だいたい世間的にはアルトとテナーだろう)の音で、ジャズという音楽のイメージができあがっていると言っていいんじゃないかと思う。たとえばマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」でも、ソニー・クラークの「クール・ストラティン」でも、ジョン・コルトレインの「セイ・イット」でも、これぞジャズだ!と言える象徴的サウンドの中心にああいったサックスがあるんだということになるね。

2019/05/07

サム・クックを聴くとたいていのいやなことは忘れますね

Sam_cooke_soul_stirrershttps://open.spotify.com/album/036rZJAktkqAletSx5moF4?si=J0HAFM88ShSWPAZyRZ0AOA
(アルバムはなんでもいいから、じゃあ適当にこれを)

 

ソウル・スターラーズ時代のサム・クックの歌が好き。間違いない。もう、愛している。聴いているだけでたいていのつらいことも薄らいでいくもんなあ。これはサム・クックが好きなのか、ソウル・スターラーズが好きなのか、ゴスペル・ミュージック(ことにカルテット)が好きなのか、自分ではよくわからない。でも、もう、たまらなく好きなんだ。強い癒しを得ることができている。

 

サムのゴスペル時代については、以前書いたことがあるのだが、この時期のこんなつたない文章ではなあ。でもこれはこれでこのまま置いておこう。今日は今日で書きたいことを書く。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d73a.html

 

サムのソウル・スターラーズ時代の歌は、スペシャリティが CD 三枚組のコンプリート集にまとめてリリースしている。もちろん愛聴盤なんだけど、今日の話にはとりあえずどんなアルバムでもいいんだ、サムがゴスペルを歌うものであれば、多少の代表曲が入っていれば、それでおっけー。それくらいどれもこれもサム with ソウル・スターラーズはレヴェルが高い。

 

サムの声のトーンというか声質がたまらなく心地よく強い癒しになるものなんだけど、ホントこの歌手はどうしてこんな声が出せるのだろう?なめらかでやわらかく、しかし張りがあって力強く、若干の濁りみ成分も混じり、グイグイ迫ってくるかのようでいて、やさしく聴き手の心情を愛撫する。こんな声と歌を持つ歌手は、まさしく不世出、サム以外だれもいない、世界中を見渡しても、と思う。

 

ソウル・スターラーズ時代のサムがことさら好きというのは、このカルテット・スタイルのゴスペル・リズムがたまらなく心地いいということでもある。上のアルバムで聴いていただいてもわかることだけど、たとえば「ジーザス・ゲイヴ・ミー・ウォーター」でもア・カペラでしょ。伴奏楽器はまったくなしの、声だけ。

 

その声というかヴォーカル・コーラスとサムのリードだけでリズムを形成しているわけだけど、そのリズムが最高に心地いいじゃないか。このへんはたんにぼくがヴォーカル・コーラス(・グループ)が好きというだけの嗜好かもしれない。ドゥー・ワップなんかも大好きだから。でも、ゴスペル・カルテットのばあいは、それにしかない独自のリズムがあると思うんだよね。

 

グイグイ進む、まるで生命力そのものといったゴスペル・カルテットのリズム。生きるという意味そのものだと言いたいサムのリード・ヴォイスと歌いまわし。伴奏楽器が入るばあいも最小限で、本当に五人のヒューマン・ヴォイスだけで「世界」を、「生」を、表現できている。コーラスのリズムとサムのリード、このふたつがあって、サム・クックのいるソウル・スターラーズが、この世にこれ以上のものはないというヴォーカル・ミュージックになっているなあ。

 

もう一度言う。ソウル・スターラーズでサム・クックが歌うのを聴くと、世のいやなことやつらいことも、たいていは忘れてしまう。ひとりぼっちの孤独も癒されて、人生を楽しくうれしく、満たされて、前向きに進んでいこうという気持ちになれる。それがサムの声、サムの音楽だ。

2019/05/06

泣きたいほどの淋しさだ

Fullsizeoutput_1e48 https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/07NylV08v16m8vsrAl3uLH?si=Rn0fY2rOTWOJjmrIwnXhLQ

 

Hear that lonesome whippoorwill
He sounds too blue to fly
The midnight train is whining low
I'm so lonesome I could cry

Did you ever see a robin weep
When leaves begin to die?
Like me, he's lost the will to live
I'm so lonesome I could cry

The silence of a falling star
Lights up a purple sky
And as I wonder where you are
I'm so lonesome I could cry

 

ひとりぼっちである、とても淋しい、ということに自分で気づいたのはいつごろだっただろう、ともかくいまはそうだとわかっている。ハンク・ウィリアムズやエルヴィス・プレスリーが歌うロンサムとは、そのまま死のイメージに隣接しているけれど、ぼくのばあいはそうじゃない。ただただ、孤独である、人生に自分ひとりしかいないという、とても強い実感があるだけだ。それは淋しいことなのか。うん、そうでもないような気がちょっとするけれど、ときどき、たまらない気分になってしまうこともあるんだ。

 

ともあれ、ぼくはひとりだ。だれもいない、なにもない。ただ音楽だけを友としパートナーとしてずっと生きてきたし、今後もずっとそうしていくだろう。ふだんはそれで楽しくやっているから心配いらないんだけど、ま、やっぱりたまには泣きたい気分のときだってあるんだ。自分の人生、結局ぼくひとりだけだったなあって思うとさ。今後もずっとひとりなんだと思うときはさ。

 

ハンク・ウィリアムズやエルヴィスのヴァージョンが死のイメージに直結しているといっても、表面的にはそれを感じさせないおやだやかさだよね。のんびりのどかなカントリー・ソングで、でもだからこそ一層この男性主人公の孤独感が極まってしまうという、そんな歌だ。ハンクはどうしてこんな歌を書いたんだろう?ハンクが書いて歌わなかったら、エルヴィスも「私の知っているなかで最もかなしい歌だ」と言ってやらなかったと思うしねえ。

 

ハンクのやエルヴィスのヴァージョンは、人生の、人間の、現実というか本質をえぐりだして、しかしナマナマしくないおだやかさで、それはリアリティの持つ柔和さということだと思うけどそんな衣にくるんで、生と死の本質をぼくたちに聴かせてくれているよね。そんな歌を聴いて、そうだよなあと思いながら、ぼくも自分の孤独を味方につけるべくロンリネスとつきあっていこう。そう、泣きたいほどに淋しいけれどね。

2019/05/05

リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』はコルトレインへのオマージュ?

71npxwafpkl_sl1067_https://open.spotify.com/album/4ozinSGbhmJecdqOhomRjD?si=cv6rXujuTFKeB_oW4qWMew

 

リー・モーガンのブルー・ノート盤『ザ・ジゴロ』(1965年録音66年発売)。4曲目のタイトル・ナンバーは、ずばり、ジョン・コルトレインへのオマージュだよね。それがなんでジゴロなのかはわからないが、この音楽のスタイル、まごうかたなきコルトレイン・ジャズだ。ピアノのハロルド・メイバーンもまるでマッコイ・タイナーみたい。1965年だし、リーにとってもトレインは大きな存在だったのだろう。トランペッターはトレインのレギュラー・バンドにいないけれども。

 

また2曲目「トラップト」、3「スピードボール」はなんてことないふつうのハード・バップ・ナンバーのように聴こえるから、今日の話題の外においてかまわないかなと思う。いや、決して内容が悪いってことじゃない。じゅうぶん楽しめる立派な出来だけど、最近、モダン・ジャズでは、ストレートなメインストリームじゃないものに興味が傾いているから。

 

すると、リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』では1曲目「イエス・アイ・キャン、ノー・ユー・キャント」、5「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」がおもしろいということになる。要するに、昨年来のブルー・ノート・ブーガルー #BlueNoteBoogaloo 的視点からはさ。だってあのレーベル公式プレイリストのシグネチャー・ソングは、リーの「ザ・サイドワインダー」だったんだから。

 

リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』でもドラマーがまたまたビリー・ヒギンズなんだけど、ホ〜ント多いよなあ、このひとがブーガルー・ジャズのビートを叩き出しているのが。ひょっとしてぜんぶヒギンズなんじゃないかと思うほどだ。そんなヒギンズの出す音で、1曲目「イエス・アイ・キャン、ノー・ユー・キャント」がはじまる。8ビート・ナンバーで、リズムにラテン・シンコペイションが効いていて、しかもブルーズ。

 

ってことはこのリー・モーガンの自作は、数年前の「ザ・サイドワインダー」の系譜に乗ったものということになるよ。いやあ、カッコイイ。二番手で出るリー自身のソロもブリリアントで聴きごたえがあるし、ハロルド・メイバーンもファンキーに鍵盤を叩いている。マッコイ・タイナーっぽくない。ソロだけでなく、ホーンズのソロ背後でのハロルドのバッキングもいいぞ。それはハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」以来の同じやりかたなんだけどね。

 

アルバム・ラスト5曲目の「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」も、ラテンな8ビート・ブーガルー・ジャズだけど、これはご存知のとおりスタンダード・ナンバーだ。かなりたくさんのジャズ・ヴァージョンが(歌入り、インストルメンタルともに)あるけれど、どれもぜんぶふつうのジャズであって、8ビートのラテン・リズムを使ってあるものなんて、一個もないはず。このリー・モーガンのだけだと思う。

 

そのラテン・アレンジがこりゃまたいいよねと思う。曲じたいは「あなたのことが忘れられない」という未練タラタラの重い曲想なんだけど、リズムに軽いブーガルー風香を効かせ、またモーダルな演奏解釈を施したことで、結果的にさわやか感が漂い、原曲の持つ未練味なんかどっかに消し飛んでいる。クールな清涼感があって、まるで炭酸飲料みたいな「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」。

 

あれれ〜っ?ってことは、やっぱりジョン・コルトレインのジャズっぽい感じなのかなあ、曲「ザ・ジゴロ」だけじゃなくて、このアルバム全体がさ。なんかそんなふうに思えてきちゃった。トレインはモーダルな作曲・演奏はやっても、ここで聴けるリー・モーガンのみたいに鮮明なラテン・ビートを(直截的には)使わなかったと思う。だけど、この漂う雰囲気がコルトレイン・ジャズっぽく思えないでもない。そんな気もしてきた。どうなんだろう?

2019/05/04

いろんな状況で聴けるようにしておくと、いいことがある

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大のアンジェリーク・キジョー嫌いのぼく。嫌いというより、正確には苦手ってことなんだけど。ともあれ、あのみなぎりほとばしる満々のエネルギーがダメなんだ。女声でも男声でも、バリバリ硬質なハガネの声のほうがどっちかというと好きで来たんだからアンジェリークだって好きになりそうなもんなのに、不思議だ。なにか癇に障るところがあるんだろうなあ、あの声に。勇ましすぎて中折れしちゃうのかも。

 

そんなわけだから、前作『リメイン・イン・ライト』もダメだった。いまだに一度も聴きとおせていない。生理的に無理なんだ。トーキング・ヘッズのオリジナルは大の愛聴盤で、こんなに楽しく美しい音楽もなかなかないと思うのにねえ。2019年新作『セリア』はセリア・クルース・トリビュートだから…と気を取りなおして聴きはじめ、45秒で止めた。セリアも声の強い歌手だけど、根本的になにかが違うよねえ。

 

そんなダメなぼくだけど、でもいろんな状況で音楽を聴けるようにしておくと、というか実際なにも考えず一日中どこへ行っても聴いているんだけど、必然的に部屋のなかでオーディオ装置とスピーカーの前に座って、というばかりじゃなくなって、そうすると、意外といいことがあるんだな。シチュエイションを変えて聴くと、同じ音楽が違ってくる。

 

文字どおり一日中音楽を聴いていて、どこにでも携帯しているから、部屋のなかでお料理しながら、またトイレに入ったりお風呂のなかでとか、さまざまな状況で聴いているし、またお買い物や病院へでかけたりしても聴き、夜のウォーキングのおともにしたりもする。

 

アンジェリークの『セリア』のばあいは、自室のスピーカーでしっかり鳴らしたら45秒でイヤになって再生を止めたけれど、でも悪くないはずだからと思いなおして同じ日の夜のウォーキングでイヤフォンで聴いたんだ。アルバムの長さも36分間とちょうど手頃だしね。

 

するとこれが、おりょ、これいいじゃん、って思ったんだ。不思議なもんだ。同じ音楽だよ。同じアンジェリークのあの野太く厚かましい声だよ。それが夜のウォーキングの BGM としたらいい感じに聴こえてきたんだ。イヤフォンで聴いたから音圧・音量が低くて、そのおかげで声の厚かましさが減じてちょうどよくなったというだけかもしんないけどね。

 

まあ厚かましいというか声も、そしてブラスバンドを中心とする伴奏サウンドも、分厚い響きの音楽であるのは間違いない。ドラムスも、これたぶん、トニー・アレンでしょ、未確認だけど。だれが聴いてももはや疑いえないこのドラミング・スタイル。それらぜんぶがトータルでガ〜ン!と来るもんで、だから音圧上げて聴くと、ぼくのばあい、第一印象がよくなかっただけかも。

 

夜のウォーキング BGM でアンジェリークの『セリア』がいいんだっていうことに気が付いたら、今度は翌日以後部屋のオーディオ装置で音量と音圧・音量をガンと上げてしっかり聴いてもファースト・インプレッションみたいなことはなくなって、これ傑作じゃん!と思えているから、われながら不思議というか、いい加減な耳というか。

 

こういったこと、つまり同じ音楽でも再生装置や聴く環境・状況を変えれば違って聴こえるので新発見があったりする、ということを前々から実感・熟知しているから、だから今回、最初は45秒しか聴けなかったアンジェリークの『セリア』もそうかも?と思って試してみてビンゴだったということ。

 

さあ、今日は4月22日だけど、アンジェリークの『セリア』、CD はいつ届くんだろうなあ。

2019/05/03

ケンドリック・スコットとの初邂逅はいい感じ

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ケンドリック・スコット(Kendrick Scott) はアメリカ合衆国のジャズ・ドラマー。しかしぼくはちっとも知らなかった。今年の三月だっけな(いや、四月頭?)、ブルー・ノート・レーベルの公式 Twitter アカウントが、彼のグループ、オラクル(Oracle)の 新作『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』(2019)の発売をアナウンスしていたのを見て、そこに写っているジャケットがいいなあ〜と思って、それではじめてちょっと聴いてみようと思っただけだった。

 

ケンドリック・スコットのオラクルは、プロデューサーがデリック・ホッジ。バンドはみずからのドラムス以下、マイク・モレーノ(ギター)、ジョン・エリス(リード)、テイラー・アイグスティ(鍵盤)、ジョー・サンダーズ(ベース)、DJ ジャヒ・サンダンス(ターンテーブル)。

 

新作『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』もこのメンツでこなしているが、ぼくの持った最大の印象は、なんてなめらかでスムースなんだということ。耳あたりがとてもいい。やわらかく聴き心地がいいんだよね。このへん、以前ブラジルのマルモータを聴いても同じことを感じたが、ケンドリック・スコットのオラクルもそうだし、このへんの聴きやすさは現在進行形のジャズに共通するものだろうか??
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-5c4e.html

 

それから従来のジャズ(/フュージョン)に相通ずるものも感じるのだが、最大の要素がジョー・ザヴィヌルのウェザー・リポートとパット・マシーニー(・グループ)だ。このふたつは間違いなくオラクルのなかにある基調。パットがあるということはブラジル音楽テイストもあるということで、これも疑いえないほど強く感じられる。ヒューマン・ヴォイスの活かしかたなどはそっくりだ。

 

ケンドリック・スコットのドラミングに特に強くなめらかさを感じるんだけど、でも彼はアルバム中ときどきかなり激しくパッショネイトに叩きまくっている。しかしそれがトータルな音楽性のなかに有機体として溶け込んでいるので浮きあがらず背景にあって、だからさほどには目立たないんだよね。フロントで吹いたり弾いたりしているひとたちのリズムと折り重なったりズレたりもしてポリリズミックになっているが、しかし曲全体がよく構成されている。だから異質感がない。

 

よく構成されているといえば、アルバム『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』全体もそうで、曲間の空白がなくどんどん流れてくるせいもあるけれど、この曲の次にこれが来るという流れが実にいい。だから53分間で<一曲>を聴いているような印象があるね。サックスを吹くときのジョン・エリスもときおりエモーショナルに高揚するが、しかしどこかクールだ。

 

ともかくこのオラクルのアルバム、ジャケットがいいでしょ。ぼくも Twitter でそれが流れてきて一瞥しただけで「あ、いいね、カッコイイ、これ、だれ?」って思って気になったし、それで結局 CD まで買うことになった。イラストとレーベル・ロゴだけっていうシンプルさだけど、眺めていて心地いい。中身の音楽も聴いていて気持ちいいんだよ。爽やかで清涼感があってベタつかないし。

2019/05/02

ノラに夢中

Norahjonesbeginagainhttps://open.spotify.com/album/0iDASlJ6faB4ZDVkKlqbHj?si=YMPY3HfLSMiMMMI7VKBpqA

 

もうノラ・ジョーンズの新作のことしか頭にない。『ビギン・アゲン』(2019)。ぼくはそもそもノラのリスナーじゃなかった。『カム・アウェイ・ウィズ・ミー』をいまだ一度も聴いたことがなく、それ以後もほとんど聴いてこなかったというのが事実。それがどうだ、『ビギン・アゲン』のばあいは、リリース当日 Spotify で聴けるようになったら速攻で聴き、そのファースト・インプレッションも極上だったのでリピートし、CD を買い、きれいなジャケットに見惚れながら、なんどもなんども聴いている。トータル 29分という短さもとてもいい。

 

それだから今日の文章はいままでのノラのすべてをまったく知らない人間が書くということになるんで、的外れだったりすることも多いと思うけど、どうかご容赦を。とにかく新作『ビギン・アゲン』の肌触りがとても心地いい、心地よすぎるくらいだ、と感じているから書かずにおられないだけなんで、ぼくは特別ノラのファンだとかいうわけじゃありません。でも『ビギン・アゲン』はマジすんごくいいね。

 

『ビギン・アゲン』で一貫しているなとぼくが感じる最大のものは、ノラのこの声質だ。ザラついている。ザラリとした砂のような質感の、なんともいえない(悪い意味じゃなく)雑なトーンだ。それがとっても心地いいんだよね。しかもことばをわざと丁寧に発音せず、わりと適当に乱暴に、聴きとりにくいような崩した感じで発音しているのがいいね。

 

この二点、ノラのザラリとした声質と歌詞を投げやりに乱暴に発音するというこのふたつは、アルバム『ビギン・アゲン』を貫く基調だ。そしてそれがいまのぼくにはたいへん心地いいんだなあ。どうしてだろう?やっぱりジャズ・シンガー的なということになる発音かもしれないが、ちょっと違うような気もする。ちょっと街角のブルーズ・シンガー的な、そんな肌触りをノラのヴォーカル・トーンに感じる。

 

もともと『ビギン・アゲン』の多くは仲間との即興セッションからはじまったとのことで、だからこんなラフなタッチなのかなあ。っていうかいままでのノラを知らないので、このひとがいつもこんな発音と歌いかたなのかどうか、わからない。ただ『ビギン・アゲン』で聴けるような、いつもそんなヴォーカル・タッチのひとなら、ぼく、好きだなあ。

 

たとえば2曲目のアルバム・タイトル曲。「can we begin again?」とリフレインするのでそこが目立つんだけど、聴けば実に乱暴な、こういうことばだとわかりにくいくらい雑にザラッと発音しているよね。ヨタっているというか、まるで酔っ払いがロレツまわらないみたいな、そんな「キャン・ウィ・ビギン・アゲン?」じゃないか。そんなところにいまのぼくは好感を抱いている。親近感というか、ノラの日常性?

 

アルバムに収録の七曲は、大半が2018年にシングル・ナンバーとして配信されていたものらしく、だから結果的にはコレクションのような意味合いも持っているらしい。七曲のうち、エレクトロニカが二曲(1、5)あって、それもかなりの好印象。ピアノ弾き語りのジャズ(?)・シンガーだとはジャーナリズム情報でデビュー期から読んでいたが、こういったデジタルな質感のノラもいいなあ。

 

デジタルな感触といえば、残りの五曲は人力演唱によるものだけど、それらにもデジタル質感があるかのように聴こえるのがおもしろい。正確に言えば、1、5曲目のエレクトロニカとほかの五曲には思ったほどの差はなくて、聴感上一貫したトーンやクオリティがあるように思うんだ。だから、デジタルがヒューマンで、ヒューマンがデジタル。

 

トーマス・バートレットと組んでふたりでやった打ち込みナンバー二曲はどっちも好きだけど、それ以外なら、まず2「ビギン・アゲン」、そしてウィルコのジェフ・トゥイーディーとのデュオでやったギター・ピース(ノラもギターを弾く)4「ア・ソング・ウィズ・ノー・ネーム」がことさらお気に入り。サウンド・トータルで大好きだし、ノラのヴォーカルも(アルバムぜんぶそうだけど)全体のなかに溶け込んでいて、主張が強くなく、あくまで1ピースなのがいい。

 

そして4「ア・ソング・ウィズ・ノー・ネーム」でもちょっと感じるんだけど、7曲目「ジャスト・ア・リトル・ビット」のエキゾティカ、これがいいんだなあ。(アメリカから見た)異国趣味といっても、いったいどこらへんの感じ?というのがなかなかわからない。だけど、間違いなくエキゾティックなフィーリングがあるでしょ。特にトランペットとサックスの二管のリフなんか。しかもこの7曲目には(そうじゃないのに)打ち込み系みたいなデジタルな感触もある。

 

ノラのアルバム『ビギン・アゲン』は、トータル・サウンドと主役の声でまざりあってザラッとしていて、心地よく、まるでオーガニック・コットン100%のシャツを身につけているみたいな快感で、ちょっぴりのエキゾティカがスパイスとして全体を貫き、デジタルもヒューマンも差がなくてあったかい。人間の肌のぬくもりみたいな、そんな体温が気持ちいいみたいな、そんな作品だなあ。

2019/05/01

ブラジルのギター・ミュージック三題(3)〜 夜のギンガ

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ギターリスト大国ブラジル。そのうちのひとりギンガは、今2019年春に(モニカ・サウマーゾとともに)来日公演をやった。その記念盤ということだったのか、今日話題にしたい2014年盤『ロエンドピーニョ』のアナログ盤が今年発売されたよねえ。ぼくの Twitter タイムラインでもにぎやかに話題になっていた。恥ずかしながらギンガってだれのことだかそれまで知らなかったぼくは、それでレコードじゃなく CD でそのアルバムを買ってみたのだ。2014年4月初旬にね。

 

だからぼく、ギンガのことはいまだまったくなにも知らないので、『ロエンドピーニョ』についてだけ雑駁な聴感上の印象を記しておくことにする。ギンガ・ファンのみなさん、どうか見逃してください。それで『ロエンドピーニョ』しかまだ聴いていないんだけど、これだけ聴くぶんにはかなりいい BGM だよねえ。そう、なんというか一種のムード・ミュージックだな、ぼくには。

 

お風呂も終わった夜中、ベッドに向かう前に部屋の照明も暗くして入眠準備をしているような、そんな静かな時間に、ギンガの『ロエンドピーニョ』は実によく似合う。雰囲気があって、暗い部屋とか、真夜中に、これ以上ないピッタリ感だねえ。ほぼ全編ギター・ソロで、たまに弾きながらのハミングや口笛が入るだけだというのも、入眠 BGM としては最適だ。

 

作曲とか、それを弾きこなすギター・テクだのといったことはよくわからないのでおいておきたい。たしかになかなかすごいなと思うけれど、いちばん肝心なのはできあがりの音楽がどう聴こえるか、だ。ギンガのばあい最高級のテクを駆使して最高に耳あたりのいい、まったくなにも障らない、極上のやわらか質感のムード・ミュージック、BGM をやってくれているとぼくは思う。

 

実際、ぼくの『ロエンドピーニョ』の聴きかたはそうだ。深夜も23時をまわってからじゃないと聴かないし、聴くときは必ず部屋を暗くする。ひとりぼっちの真夜中で、あ、いや、カップルや家族なんかで聴いてもいい雰囲気なのかもしれないがそれは縁がないのでひとりで聴くけど、真夜中にこれ以上のリラックス感を演出してくれる音楽って、なかなかないねえ。

 

ビリー・ホリデイ(12曲目)、デューク・エリントン(15曲目)と、曲題にジャズ音楽家の人名があるけれど、聴いた感じ、特にどうってことはなさそうだ。

2019/04/30

ブラジルのギター・ミュージック三題(2)〜 マオガーニ

1007865129https://open.spotify.com/album/0kgiqc3eiE8WVdLFg7q3gh?si=7DkrvUEWR4-NCbkbP2384Q

 

(クアルテート・)マオガーニの新作『アルバム・ダ・カリフォルニア』(2019)。表ジャケットにはセルジオ・メンデスがプロデューサーだと明記してあるね。縁が深いことはわりと知られているんじゃないかな。それにしてもブラジル盤ってデジパックばっかりだ。あ、いや、ときたま薄い紙ジャケットもあるな。でも大半がデジパック。歓迎したい。紙ジャケだらけならもっといいぞ。

 

マオガーニはブラジルのギター四人組(七弦、六弦、レキント&八弦、八弦)だけど、新作にカリフォルニアとあるのは、どうやらこれはアメリカ合衆国はロス・アンジェルスのスタジオで録音されはじめたものらしいね。そういうことでアルバム題になっているんだろうか、たぶん。それもセルジオ・メンデスゆかりの事情なんだそうだ。

 

ロス録音だからなのか関係ないのか、『アルバム・ダ・カリフォルニア』には(ジャズ・メンなどもよくやる)アメリカ合衆国のスタンダードが三つ含まれている。なんたって1曲目がガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」だもんね。そのほか、このアルバムは名曲選みたいな趣があって、アメリカ合衆国のもの(ヘンリー・マンシーニとコール・ポーターもあり)だけでなく、ミルトン・ナシメント、シコ・ブアルキ、ジルベルト・ジル、ラダメス・ニャターリ、トム・ジョビン、アリ・バローゾ、ジョアン・ドナート、バーデン・パウエル、ルイス・ボンファ、と錚々たるメンツの曲をやっているんだよね。アルバム題の「カリフォルニア」とはそういった(宝の山みたいな)意味合いもあるのかな。

 

ギターの四人だけで演奏する曲もあるものの、ゲスト参加ナンバーも多い。いちばんたくさん参加しているのがパーカッションのマルコス・スザーノ。マルコスと4曲目のフレーヴォで共演しているのがバンドリンのアミルトン・ジ・オランダ。ヴォーカルのモニカ・サウマーゾ&レナート・ブラスが7曲目で。9曲目には木管奏者。11曲目にはアイアート(アイルト)・モレイラ。

 

まあはっきり言って雰囲気一発みたいな音楽かなとは思うんだけど、ギターの四人がやっていることは相当テクニックが高度だ。でも聴いた感じそんな印象がなく、あくまでやわらかくやさしく耳あたりのいい音楽に聴こえる BGM 風情がいいんだとぼくなら思うなあ。いちばんむずかしいことだし、一聴して難解そうに思える音楽なんて、いまではあんまり…、っていう気分。

 

それでも4曲目の高速フレーヴォなんかはなかなかものすごいとわかるもので、疾走するアミルトンもすごいがマオガーニの四人も爆進している。さらにマルコス・スザーノのパーカッションがまるでドラム・セットの音みたいに聴こえるけれど、これはあくまでドラムスじゃないんだよね?スネアの音みたいに聴こえるのはたぶん小太鼓みたいなものを叩いているんだろう。しかしこの曲での六人の疾走感はすごいぞ。

 

アイアートが参加の11曲目もスピーディでテクニカル。マルコスと違ってアイアートは大きくフィーチャーされていて、ストップ・タイムを使ってバンドが止まったブレイクにアイアートのソロがなんどもはさまっている。演奏もかなりいい。ベテランならではの円熟味など感じさせない若くてハツラツとした打楽器演奏ぶりに頬もゆるむってもの。

 

ヴォーカリスト参加の7曲目はミナス系みたいでそれもいいけれど、しっとりとした泣きのショーロ系みたいな3、8あたりもいい感じ。アメリカ合衆国産の曲三つはぼくにはイマイチかな。でもトム・ジョビンの「サーフボード」とメドレーになっている「アイ・ガット・リズム」は好きだ。移行の瞬間も楽しい。アルバム・ラスト「カーニヴァルの朝」は短くアッサリとしていて、ちょっとしたコーダみたいなもんかな。もともとだいたいがそんな曲だしね。

2019/04/29

ブラジルのギター・ミュージック三題(1)〜 グアンデュオ

1007876217https://diskunion.net/portal/ct/detail/1007876217

 

こないだ三枚買ったブラジル盤のなかでいちばんよかったのがグアンデュオ(Guanduo)のセカンド『Música Disfarçada de Gente』(2019)。これしかし Spotify にも Apple Music にもないのかよ。いまどきの新作で珍しいな。ないものはしょうがない。かなりいい一枚なんだよね。グアンデュオはブラジルのギター・デュオ・ユニットで、ジュリアーノ・カマーラとエドゥアルド・ピニェイラ。どっちも七弦。

 

ギター・デュオ・ユニットのアルバムながら、『Música Disfarçada de Gente』の中核を占めるのは、全13曲中6〜9曲目と中盤に置かれた四つのムーヴメントから成るビリンバウ組曲かもしれない。グアンデュオの二名にくわえ、ビリンバウ演奏隊三名が参加している。ビリンバウのあの音色が大好きなぼくだから、これはたいへんに楽しめるものだ。実際、このアルバムで最も力が入っているセクションかもしれない。

 

ビリンバウの音色が単純に好きなだけだからそれでいいんだけど、この組曲はこのアルバムでの音楽的な聴きどころとは言えないのかもしれない。ビリンバウ組曲以外だと、おおざっぱに3タイプに分別できるかなと思う。元エルメート・パスコアールのバンドのドラマーをむかえて(ややハードめに)スウィングしているもの、ショーロっぽい泣きのしっとり系、ストリング・アンサンブルといっしょにやる、クラシック音楽と区別できない室内楽。

 

なかでも、元エルメート・グルーポのマルシオ・バイーアが叩く三曲(1、3、13)がかなり充実していると思う。3「Samba noturno」はマルシオ以外にはグアンデュオの二名だけで、激しくスウィングし、曲想は3パートに分かれチェンジし、中盤はしっとりおとなしめ。
https://www.youtube.com/watch?v=W8pFIo6A3ak

 

これ以外の二曲はいずれもマルシオのほかにもペドロ・フランコが参加している。1「Francamente」ではエレキ・ギター&エレキ・ベースをこなし、ちょっとジャズっぽくてこれもいいし、また13「Tarde de carnaval」(「カーニヴァルの朝」のもじり?)ではバンドリンを弾き、そのせいじゃないけれどショーロみたいに聴こえたりもするのがグッド。
https://www.youtube.com/watch?v=IlU12AFNmLo

 

ペドロがバンドリンで参加してショーロっぽいといえば、アルバム10曲目。最初この CD を聴いていて、ありゃ、これは知っている曲だぞと思ったら、ジャコー・ド・バンドリンの「Vibraçōes」なんだよねえ。しかもフルート・トリオも参加している。フルート・トリオ(アレシャンドリ・アンドレス)はソロをとらずアンサンブルだけ。そのアレンジはエドゥアルドが(フラヴィオ・フォンテネッリに捧げて)書いている。かなりいいんだけど、ネットに音源がないなあ。

 

グアンデュオの『Música Disfarçada de Gente』、アルバム全体の音楽性が多彩で、華やかだし、古典的ショーロとかクラシック音楽みたいだなと思うと現代ジャズみたいに聴こえたりもして、ブラジルのインストルメンタル・ミュージック好きだったらかなり楽しめる一枚だと思う。

2019/04/28

ぼくの推しはマイルズだった

Maxresdefault_1 https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7LsmRPFHeet4jJufqUIsgv?si=jgA5bel-Rj-G5ssGejEMiw

 

この歌手、音楽家が好きだ、最愛のひとだ、と気づいたとき、その相手がもうこの世にいないとわかったら、どんな気分だろう?ぼくはいま、熱狂的サム・クック愛好家おふたりのことを頭においている。自分の最愛のひとが、最愛となった最初からもはやこの世のひとではないと知ったときのやるせなさは、さぞや深刻なものじゃないだろうか。

 

サム・クック。いまの日本にも熱狂的愛好家が多い歌手だが、とうのむかしに死んでいる。そこいくと、絶頂期を過ぎていたとはいえ、それでも亡くなる前の10年間を、遠く離れた日本においてであっても、ともに同じ時代を感じながら過ごすことのできた、マイルズ・デイヴィスとぼくとの関係は、しあわせだったと言えるのだろう。

 

この点、1991年9月のマイルズの死後にこのひとのことを愛するようになったファンのみなさんは、やはり届かないとか、もどかしいとか、悔しいとか、そういった思いを味わっていらっしゃるのだろうか。うん、やっぱりそうかもなあという気がする。どんな音楽家でもアイドルでも芸能人でも、愛するひとと同じ時代を生きられなかったというのはつらいもんだよねえ。

 

その悔しさ、つらさゆえに、いっそう愛好活動に熱が入るという面だってあるのかも。いや、関係ないのか。ぼくはマイルズの最後の10年間、同じ時代の空気を呼吸しながらともに過ごしてファンをやったけれど、それでもこれで充分と満足して、死後、愛好活動の熱がおさまったりはしていないもんなあ。

 

それでもやはり、自分の愛する対象とともに同じ時代を生き、ともに歩みながらファンをやっていくということができるかできなかったかは、大きなことだ。この点でぼくのマイルズ愛好は恵まれていたと言っていい。1975年の一時引退までのマイルズを(同時代的には)知らないとはいえ、それでも「間に合った」、ギリギリで。そう言えると思う。

 

そうやって接していた最後の10年間のマイルズは、一時引退までとはかなり人間も変わったような部分があって、まず音楽関係のことでも日常生活のことでも、接しやすくフランクにさらけだすようになっていた。だからぼくたち一般のファンのところにもさまざまな情報が入ってきていたのだ。ぼくにとってマイルズはアイドルで推しだったから(つまりぼくはマイルズ・オタク)、そんな人物に親近感が増すというのはありがたかった面がある。

 

それでふりかえって、冷静に音楽のことだけ考えればやはりこっちの時代のほうがすごかったなとわかる1975年までのマイルズ・ミュージックのことをとらえるにもヒントになる部分が増えた。これもありがたいことだった。さらに、オタクにとってはメディアに写真がどんどん掲載されるようになったということと、来日公演が頻繁になってライヴ・コンサートに行きやすくなったという、この二点もかなりデカい。

 

写真がどんどん増えたというのがありがたいのは言うまでもない。愛しているんだからさ、マイルズのことを。レコードや CD を聴きながら眺める材料が多くなって、うれしかったなあ。ライヴ・コンサートも1981年の復帰後はほぼ毎年のように来日するようになって、ひとによってはありがたみが減ったなどとツマラヌことを言うこともあったが、だれかを好きになったことがないのだろうと思う。ぼくらにとってはうれしいのひとことだったよ。

 

だから、1981年と83年の来日はぼくがまだ松山で大学生をやっていた時期だったので都会へ出かけていって聴いたんだけど、85年の来日以後はぜんぶ東京でフル体験した。フル体験、つまり東京開催分は一日も一回も欠かさず「ぜんぶ」足を運んだという意味だ。最後のジョン・レノン・トリビュートへの出演(東京ドーム)を除き、文字どおり、ぜんぶ、行った。

 

全通するというのは、いわば愛の証みたいなもんなんだよね。ぼくからのマイルズに対する愛の表現。もちろん相思相愛なんかじゃない。マイルズはぼくのことなんか知るわけもない。それでオッケー。ぼくはぼくなりの気持ちを表現できればそれで充分満たされた思いだった。

 

1991年にマイルズが亡くなってもこの熱が冷めることはなく、むしろもっとどんどんヒートアップしていくような実感があったけれど、このブログをはじめて約三年半、マイルズについて書きまくり、もうこれでもかというほどさんざん書いて書いて書きまくって、なんだかすこしだけ落ち着いたような気分にひたっていることはたしかだ。

 

それでも、ぼくの音楽愛好の芯の部分にマイルズがいて、ぼくなりにとことんマイルズを愛しぬくことが、その体験が、音楽リスナー生活の根底にあって土台をかたちづくっているのは間違いないことだ。マイルズの音楽について、具体的にも今後またときどき書いていくつもり。

2019/04/27

懐かしのスウィート・エマ

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あぁ、スウィート・エマ・バレット。なんて書いたって、いまやだれが憶えているだろう?一部の超好事家以外は、みんな忘れてしまったんじゃないかな。っていうかむかしもハナからそもそも関心を寄せられていない?わからないが、1940年代のニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルでその地の古老たちがどんどん復活してレコードを出したなかのひとりなのだ。

 

そのむかし、そういったニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルを契機に録音されるようになったニュー・オーリンズのおばあちゃん、おじいちゃんのジャズ・ミュージシャンのレコードがたくさんあったよねえ。ぼくはけっこう好きでどんどん買っては聴いて、わりと気に入っていたんだ。でも、CD リイシューなんてされるのはごく一部。

 

かのニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルの意味みたいなことはまた筆を改めるとして、ぼくは1940〜60年代あたりにたくさん録音されレコード商品化されたそれらのことが、かなり好きだったのだ。ぼくがそれらのレコードを買ったのは1980年代前半だけど、まだまだたくさんあった。でもたぶんもはやブームは過ぎていた。いつも遅れているぼく…。その後はジャズ・ファン、ジャズ評論からも相手にされなくなり、みんなの記憶の彼方へと消し飛んだ。

 

かのように思えていたのだが、つい三日ほど前、2019年の四月頭に Spotify をブラブラしていてスウィート・エマのアルバムを三枚ほど発見したのだ。ぼくが一番好きだったレコードがいちばん上で写真を掲げた『スウィート・エマ・アンド・ハー・ディキシーランド・ボーイズ』で、印象的な馬車のジャケット。Spotify のだとジャケットもアルバム題も違っているけれど、上でリンクしたのが同じもの。

 

このジャケットの印象そのまんまの楽しく、にぎやかで、しかも清廉なジャズ・サウンドが漂っているし、ぼくはホ〜ント大好きだったなあ、このレコード。Spotify にあったから、と思って CD を探したら、見つかったんだよね。2 in 1の二枚組、だから 4 in 2 か、オリジナル・アルバムの計四枚が二枚組でくっついているという好かない仕様だけど、ないよりは百倍マシだ。それがこれ。

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スウィート・エマは、もちろんニュー・オーリンズの、ピアニスト&ヴォーカリストで、このレコードが1961年のものということは、1897年生まれだから64歳…、って、あれっ、あんがいまだ若かったんじゃないか。古老ということばが似合わない歳だなあ。

 

そして実際、スウィート・エマのピアノも声も若いんだ。やっぱりおばあちゃん声だねと言われたらたしかにそうなんだけど、味があっていいよ〜。けっこう卑猥な歌もやっているしね。大学生のころ、そんなエッチな部分についてはまったくわかっていなかった。だいたい「わたしのジェリー・ロールはだれにもちっともあげないわ」なんて、なんのことやら「?」マークだったもんなあ〜。

 

音楽のスタイルは完璧なニュー・オーリンズ・フォームで、19世紀から20世紀への転換点ごろに当地で盛んだったであろうジャズ・ミュージックの姿を、ニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルで録音したひとたちはわりとよく再現している。というか、彼らのレコードでしか当時のジャズの姿を音ではわからない。ジェリー・ロール・モートンでもキング・オリヴァーでもルイ・アームストロングでもわからないんだよね。

 

スウィート・エマは、大学生のころにどれかのライナーノーツで読んだ文章の記憶が正しければ、身体にジャラジャラいっぱい鳴り物をくっつけて、ピアノを弾いて歌うとき身体をゆすってそれらを鳴らしながらやるんだそうだ。レコード(や CD、配信)で聴いてもそのへんは判然としない。

 

ともあれ、大好きだった馬車ジャケのスウィート・エマのレコードに、CD や配信でだけど再会できて、ぼくはとってもうれしく、いい気分。流れてくる音楽のこの雰囲気にしばらくひたって、1980年代前半当時の大学生としても相当珍奇で物好きなジャズ・レコード買い青年だったろう自身の回顧に身をゆだねておこう。

 

いやあ、うれしかった。スウィート・エマ、なつかしかった。

2019/04/26

サウロ・ドゥアルチとの出会い

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これは2019年版ジルベルト・ジルみたいなもんかな(って、ジルも現役だけど)、ブラジルのサウロ・ドゥアルチの新作『アヴァンチ・デリーリオ』。ファンキーなサンバ・ソウルとか、そんなようなもんだと思うんだけどね。CD の裏ジャケットには2019の文字があるけれど、2018年発表作なのかもしれない。それはでもたいしたことじゃない。

 

サウロ・ドゥアルチってぼくはぜんぜん知らなかったんだけど、MPB のシンガー・ソングライターみたいな存在とされているらしい。そんでもって出身がブラジル北部のパラ州とのことで、そう言われたらたしかに『アヴァンチ・デリーリオ』でもリズム・アプローチが多彩で、しかも深い。そんでもってそれをこれみよがしに前面に出さないのも好感度大だ。

 

リズムというと『アヴァンチ・デリーリオ』には(主に)ドラムスでクルミンがゲスト参加している。ドラムスを叩くだけでなく曲のプロデュースをしたりサウロと共同で曲を書いたりもしていて、貢献度は高いみたいだね。ドラムス担当じゃない、たとえば9曲目「Tropa de Meninxs」なんかでも大活躍。これは実験的先端前衛ナンバーみたいなもんかな。

 

でもそういったものは『アヴァンチ・デリーリオ』では唯一の例外で、ほかはわかりやすくノリやすいダンサブルなサンバ・ソウル、サンバ・ファンクが並んでいる。やわらかい質感でおだやかであたたかい音楽なんだなあ。こりゃあいいよ。アルバム中随所でクラリネットがフィーチャーされているのも、伝統的なようでいてモダンにも響く(たとえば、アルバムの白眉である7曲目「Estrela D'Água」)。ジャズ・フュージョンっぽいのもある(ラスト11曲目の「Avante Delílio」)。

 

ソングライティング(全曲サウロ自作)やメロディ・ラインもメロウだし、耳あたりがよく心地いい。聴いていて障るものがなにもないんだよねえ。トータルで37分間という長さもちょうどいいし、オーセンティックなサンバ・フィールを持ちつつ最先端 MPB でもあるっていう、オススメですね、サウロ・ドゥアルチの『アヴァンチ・デリーリオ』。これも今年のベスト作候補になりそうで、2019年もやっぱりブラジルは充実しているね。

2019/04/25

暖かくなってきたのでズーク快作を 〜 タニヤ・サン・ヴァル

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本題と関係ない話から入りますが、アルファベットの人名でハイフンが入るのをカタカナ表記する際、それをダブル・ハイフンで置き換える表記には大反対です。みなさんやっていらっしゃいますけれども、ダブル・ハイフンは数学等号と区別できません。等号ですよ等号、みなさんがお使いになっているのは。左と右が同じ、っていう意味ですよ。ガブリエル・ガルシア・マルケスみたいに原語でハイフンないのにカナでは等号入ったりして、ワケわかりません。三語の名前だと自動的に入るのでしょうか?

 

まあいい。そんなわけでタニヤ・サン・ヴァル。グアドループのズーク歌手で、2016年の『ヴォワイヤージュ』二枚組が快作だったよねえ。これは一枚それぞれ約30分程度なんで、長さだけなら CD 一枚に収録することもできた。それをせず、CD1を「ソレイユ」、CD2を「ルーヌ」と題し、ジャケットも表と裏で変えて、あえて分けているという音楽性の違いはたしかにあるなあ。

 

Spotify アプリで見るジャケットは、その表と裏を合体させたもので、これじゃあちょっと…、と思うんだけど、まあしょうがないんだろうね。CD1の太陽篇はわりとストレートなズークで、ダンス・ミュージックとしてのこの音楽にそのまま焦点を当てたような一直線。これはもちろん楽しい。わりとアッパーなズークが続く印象で、CD1ラストの「Sans Rides」だけがやや落ち着いたしっとり路線かなと思う。

 

どうしてマーティン・ルーサー・キングの有名な演説を挿入してあるのかぼくにはわからない3曲目を含め、タニヤのこの CD1の太陽篇でもわかるけれど、ぼくにとってズークのダンス・ミュージックとしての魅力はタイコにある。タニヤのこれのばあい、打ち込みと生演奏ドラミングを混ぜてあるかなと思うんだけど、特にベース・ドラムのずんずんお腹に来るビート感、これが大好き。

 

いっぽう月篇の CD2はもっとぐっと落ち着いたフィーリングで、ダンスというより歌と演奏を聴かせるような、そんなジャジーな歌謡性をも帯びている。それでも1曲目はやっぱりダンス・ズークかなと思うけど、2曲目「Assis Dans Le Noir」で雰囲気がチェンジするよねえ。曲題どおりというべきか、夜の暗さを感じさせるジャジーさで、しっとりと落ち着いている。タニヤもそんな歌いかたをしている。背後でパーカッション群はかなり細かく刻んでいるけどね。

 

ちょっと驚くのは4曲目「Vini Fou」と5曲目「Mwen Sé Taw」だ。コンテンポラリー R&B みたいなジャズ・ナンバーで、前者ではいきなりハーマン・ミュート・トランペットの音でイントロが創られているし、その後サックスとの合奏になって、次いで本編の歌が出るという具合。そうなってからのリズムも、まるで『アマンドラ』のころのマイルズ・デイヴィスの音楽みたいだ。

 

それはブラック・ジャズ・フュージョンみたいな5曲目でもそうで、これは完璧なバラード。夜の雰囲気で、どこもダンサブルでないズーク。深夜の都会のクラブかどっかでしっぽり決めてくつろいでいるみたいな、そんな雰囲気横溢だよなあ。でもドラマー&パーカッショニストはやっぱりポリリズミックに刻んでいる。シンセサイザーもギターもベースもジャジーだ。これはいいなあ。

 

6曲目「Papillion Ka」なんか、まるでジャコ・パストリアスがやっているみたいな曲だし(出だしのエレベ)、このタニヤ・サン・ヴァルの2016年作『ヴォワイヤージュ』CD2の「ルーヌ」、けっこうなお気に入りなのだ。陽気な CD1とあわせ、暖かくなってきたいまの時期の春とこれからの夏にかけて、またどんどん聴こうっと。

2019/04/24

CD を持っていたって、あなたは音楽を持っているんじゃない

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ぼくも書籍や洋服などと同じようにレコードや CD を買って持っていると、あたかも音楽を「所有して」いるかのような気持ちになっている人間で、ああ、この(CD で聴ける)音楽はいいな、ぼくはそれを自分のものとして持っているんだなと感じていい気分にひたっているから、それをどんどん増やしたいという、そんな傾向があるのは間違いない。

 

でもレコードや CD を持っていて聴けているというのは、はたして音楽を所有しているということになるのだろうか?っていうのは、そもそも音楽って「持つ」ことのできるものなのだろうか?という根源的疑問がぼくにはある。音楽を持つ、所有するって、いったいなんのことだろう?ディスクという物体を持つ持たないならわかる。でも、音楽=ディスクじゃないんだからねえ。

 

つまり、音楽とは得体の知れないものだ。そこにあるとかどこにあるかもわからない。ディスクをプレイヤーに入れて再生ボタンを押しても、必ず流れくるとは限らないのが音楽。物体などなにもなくともしっかり聴こえて強い忘れえぬ印象を心に刻み込んだりもするのが音楽。

 

じゃあぼくたちが音楽と呼んでいるものは、物体形式で可視化できて所有できるものなのか否か、わからなくなってくるよねえ。根本的に、音楽は空気の振動だから、目には見えない。所有することなどもできない。ただ、なにかのきっかけで耳に入り鼓膜を震わせるだけだ。だけといっても、それが鮮烈なものなんだけど。

 

声は喉の振動で、楽器音もなんらかの振動かな、それが空気中に出ても(エレキ・ギターやシンセサイザーなどのように)出なくても電気信号化されたものを拾って記録する。レコードだと物理的な溝の形態で、CD なら光学信号として。それをふたたび電気装置を用いて再生し、最終的にはやはりスピーカーなりヘッドフォンなりで振動化して、耳に聴こえるものとなる。

 

こんなプロセスだからさ、音楽って。それら一切合切ひっくるめて音楽だから、「所有する、している」って、やっぱりなんのことだかわかんないよね。レコードや CD はあくまで販売される商品に音楽を収納しているだけで、それを買って自宅に持っていても、「音楽を持っている」とは言えないんじゃないかな。

 

ディスク形態で持っていても音楽を持っているわけじゃない、と言うと、じゃあネットで聴く、ダウンローディッド・ファイルで聴くのも同じことじゃんね、CD にこだわることはないじゃんね、という意味のことを言いたいんだなと思われそうだけど、ぼくの本意は違う。ぼくは CD がほしい。買って持っていたいんだ。

 

でも、CD を買って持っていてちゃんと聴けていても、だからそれで音楽の所有権を買ったのだ、持っているのだ、自分のものだ、とは決して思わないことにしている。音楽に限らずどんな芸能・芸術だって、創り手をも超えていく。いったん世に出たら、それは製作者、創造者のものですらない。というか、音楽の創造とは個人や集団の手になるものだと言えるのか。

 

そんなようなものを、ましてや音楽のパフォーマー自身でもないぼくが「持っている」「所有している」などとは、おそろしくて到底言えないわけなんだよね。ぼくは音楽の所有権じゃなく、この世にいるあいだだけのいっときの利用権にお金を払っているだけだ。音楽は永遠に生き続ける。ぼくはそのうち死ぬ。

2019/04/23

屈折した究極のナット・キング・コール

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2019年3月17日の誕生日に故ナット・キング・コールの生誕100周年を記念して発売されたアルバムが、もう一枚ある。キャピトルの『アルティミット・ナット・キング・コール』。必要がないから CD は買わなかったが、これはオール・タイム・ベストみたいなもんかな。きっちり一時間でナットのキャリア全体を概観しようという入門向けの内容だろうと思う。

 

1940年代のトリオ時代から、グレゴリー・ポーターがヴァーチャル共演した「イパネマの娘」まで全21曲、まんべんなくヒット曲、代表曲が収録されていると思える内容で、昨日書いたラテン・アルバムからも二曲、「キサス、キサス、キサス」と「ペルフィディア」が入っている。ナット・キング・コールがどういう歌手だったのか、2019年にはじめてちょっと覗いてみたいというみなさんには格好のアルバムかも。

 

しかしナット・キング・コールがどういう歌手だったのかということは、実はあんがい複雑なのだ。それはこのアルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』でもはっきり表れている、というかそういった側面をあぶりださんとして編纂された一枚かもしれないとすら思うほど。もっと言えば、ナットとはだいたいがそんな歌手だったので、ベスト盤を編めば必然的にそうなるということか。

 

それはなにかというと、ナット・キング・コールの歌には、失った愛、手に入らない愛を想い、しかし決して悲嘆にくれるばかりではなく、前向きに(?)がんばって妄想してみよう、そのつもりになってみよう、そうすれば楽しく幸せな気分になれるじゃないか、つらいときこそ笑って!というものが実に多いということだ。もうホントそればかりと言いたいくらい。

 

歌詞のわかるかたは『アルティミット・ナット・キング・コール』をお聴きになって、あるいはトラックリストを一瞥して、このことを理解なさるはず。たとえば「スターダスト」や「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」といった超有名スタンダードも、メロディがあまりにも美しいがために忘れられがちだけど、失恋や未恋を歌った内容なんだよね。それをきれいにきれいに、昇華しているような歌だ。

 

ナット・キング・コールはそういった内容の、ちょっとストレートなラヴ・ソングではないような心模様をあつかって、スムースでナチュラルな、ノン・ヴィヴラートのナチュラル発声で、あくまでどこまでもきれいにきれいに歌いこんでいるじゃないか。肌(耳)ざわりがまるでサテンをまとうかのごとき心地いいサラリ感だから、なかに秘めた悲哀はなかなか伝わりにくい。あたかもおだやかに微笑んでいるかのようだ。

 

でも、最近、57歳のぼくは思う。人生ってそんなもんだなあってさ。つらいこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、それで落ち込んでばかりいるわけじゃない。好きな彼女がぼくに恋しているようなつもりになって、つまりブルーなときもプリテンド、夢想・妄想して、それで楽しくハッピーになれるじゃないか、つらいときも笑って生きていけるっていうもんだ 〜〜 こんなようなことをナット・キング・コールは語りかけてくれているようだ。

 

まずピアノ・トリオ編成で音楽活動をはじめたナット・コール。1930年代末だったからちょうどビッグ・バンド全盛期だ。そんなシーンに一矢放たんとしてのちょっと違った感じのレギュラー・トリオ編成意図だったとまでは言えないかもしれないが、当時新鮮なサウンドだったことは間違いない。当初、ナットは歌う気はなく、リクエストされてもノーだった。あくまでピアニストとしてやっていくつもりだった。

 

それがひょんなきっかけで歌ってみたら大評判。歌手として大成功し、次第にトリオの名義はそのままに大規模管弦楽を伴奏にスタンド・マイクで歌うようになり、しかし時代は徐々にビッグ・バンドから離れていった時代だったけれど、このへんの交差するいきさつを考えると、これまたなかなか興味深いものがあるよねえ。

 

しかし、アルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』で聴いてもわかることだけど、初期のトリオ録音でのちょっぴりジャイヴ感覚を残したヴォーカルと、その後のオーケストラ伴奏でのポップ・ヴォーカルとで、さほどの違いはないじゃないか。キャピトル盤だから収録できないその前のデッカ時代から実はそうなんだけど、ナットのヴォーカルはなにも変わっていない。スムースでナチュラルで、上品でエレガント。ちょっとストレートじゃない屈折した恋愛歌の内容だって同じなんだよね。

 

ここにも収録されているが、「スターダスト」はメタ・ソング、「モナ・リーサ」もメタ・アートだという内容を書く余裕がなくなっちゃったな。

2019/04/22

ナット・キング・コールのラテン集はフィーリン・アルバム?

4589605035069http://elsurrecords.com/2019/03/17/nat-king-cole-latin-american-tour-with-king-cole/

 

https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7GlR8e592Xomud4vjHrN9h?si=fvh4P46ORDGYulbEq80yOw

 

今2019年はナット・キング・コール生誕100周年にあたる。それで誕生日の3月17日にテイクオフ/オフィス・サンビーニャから一枚リリースされた。『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』。大のナット・コール好きでラテン・ソングズも好きというぼくみたいな人間にとってはもってこいの企画盤だ。ナットのラテン曲集アルバム三枚については、以前詳述した。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-be41.html

 

それで、ずっと前、デッカ時代とかキャピトル初期とか、ナット・キング・コールといえばそのへんのピアノ・トリオ作品で決まりだという趣旨の記事をアップロードしたらコメントがついて、「えっ?そうなのですか?ぼくたちにとっては雑音混じりのラジオから聴こえてくる 'カチート' であり…」とおっしゃるかたがいらした。ある世代以上の洋楽ファンのみなさんにとって、ナット・キング・コールのイメージとはそういったものなんだそう。

 

そう言われれば、たしかに「ネイチャー・ボーイ」や「モナ・リーサ」「トゥー・ヤング」「枯葉」などが歌手としてのナット・キング・コールを象徴する大ヒットだし、そんなスーパー・スターであるナットが歌ったラテン・ナンバーを耳にして、特に「カチート」あたりかな、そういうのでラテン音楽ファンになったという年配の洋楽好きのかたがたがいらっしゃるのは当然と思う。

 

だから、そんな「カチート」がテイクオフ/オフィス・サンビーニャ盤『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』で幕開けに置かれているのは当然かな。それ以後も三枚のラテン集からまんべんなく選ばれていて、選曲と並び順は解説をお書きのラテン専門家、竹村淳さんかな?と思うんだけど、全35曲あるうちからオミットした五曲はそれなりの理由のあるものだし、一枚通してとてもよくできているし、『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』はナットのラテンを聴くのにこれ以上ない格好盤だなあ。

 

このアルバムには一曲だけ歌のないインストルメンタル演奏が含まれていて(ナットはもちろんピアノ)、11曲目の「わが情熱のあなた」(Tú, Mi Delirio)。これはセサール・ポルティージョ・デ・ラ・ルスの書いたフィーリン楽曲なんだよね。ナットのは1958年のレコードだけど、キューバ本国ではもちろんとっくにフィーリン・ブームだったとはいえ、アメリカ合衆国でその時点でフィーリンをやったというのはかなり興味深い。

 

むろん、選曲はナット自身というよりもマネイジャー含めキャピトルのスタッフがやったに違いないわけで(そもそもラテン・アルバムを創ろうというのだって、マネイジャーの持ち込んだアイデアだった)、ナットはそれにしたがって演唱しただけとはいえ、それでも結果として、1958年にナットがフィーリンをやっているというのは考えさせられるところがある。

 

っていうのはさ、ナット・キング・コールってあんなやわらかくソフトで軽くそっとささやくように置くようにていねいに歌うクルーナー・タイプでしょ。キューバでフィーリンの第一人者とされるホセ・アントニオ・メンデスはそもそもナットの大ファンで、ナットみたいに歌いたいと思って、結果、フィーリン・ヴォーカルを編み出した。

 

そんなナットがメキシコやキューバ(その他中南米各国の)のラテン楽曲をとりあげて、ホセ・アントニオもあこがれたようなフィーリン先駆けヴォイスでやわらかくやさしく歌ったわけだから、ナット・キング・コールのラテン・アルバムというのは、ある意味フィーリン集とも言える側面があるなあとぼくだったら思うわけ。

 

そういえば、今日話題にしている『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』には、エル・スール原田さんがフィーリン・アンソロジー『フィーリンを感じて』のなかに選び入れた「ペルフィディア」が22曲目にある。それだけじゃない。20曲目に「アレリのつぼみ」(Capullito De Alhelí、プエルト・リコ)、28曲目に「ラ・ゴロンドリーナ」(La Golondrina、メキシコ)がある。二曲ともカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』で歌ったものだ。

 

ナット・キング・コールからホセ・アントニオを経てカエターノへ、そんなフィーリン人脈というか系譜まで想像できてしまうのは、ぼくの妄想が過ぎるという面もあるだろうけれども、ナット・キング・コールのこんな声質と歌いかたでこういったラテン・ソング集を聴くならば、あながち外しすぎとも言いにくいのかもよ。

2019/04/21

どうしてこんなにカッコイイんだぁ!ソナ・ジョバーテ!(二回目)

600x600bfhttps://open.spotify.com/album/7h7MgG54nO4RvaPj01CEX6?si=PESdrNZNQzi4ub8-6dejfg

 

一回目はこれ http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-bed0.html

 

大切なことだから、二回言う。ソナ・ジョバーテがカッコイイ。カッコよすぎるだろう。このグリオの末裔らしいガンビア系ロンドナー、コラを弾きながら歌うのだが、そしてソロ・アルバム『ファジーヤ』ではギターやベースなど各種弦楽器も多重録音でこなしているが、すべてがカッコイイ。さわやかで、しかもあったかい。こんな音楽、なかなかないんだよ。

 

しかし一回目に書いた際の反応が皆無だった。日本でソナ・ジョバーテに最も注目されているのは D さん(@Desert_Jazz さん)で、たとえばこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23506233/

 

あるいはこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23767854/

 

だけど、ぼくの目にとまった範囲でソナのことを書いているのは、CD を売っているエル・スールの原田さんと D さんとぼくだけ(あと一人か二人いるらしい)。こ〜んなにすばらしい音楽はないっていうのに!だから、一度強調したけれど、大切なことだからもう一回、中身は同じだけど書いとこうって思うわけ。みんな〜、ソナ・ジョバーテに耳を傾けてくれないか。カ〜ッコイイんだぜ〜!

 

2011年の『ファジーヤ』がいまのところ唯一のソロ・アルバムだけど、ぼくが気づいて買って聴いたのは昨2018年のことだった。そして、考えられないことにその年のベストテン新作篇に選ばなかった。これはいま考えたらありえないことだった。しかしソナの『ファジーヤ』は一回聴いていいぞと思えるものの、時間とともにどんどん熟成度を増し、作品のすばらしさ、特にコラ演奏のものすごさが徐々に身に沁みてわかってくる、そしてとうとうソナのことを忘れられなくなるっていう、そんなアルバムじゃないかと思うんだ。だから許してください。現時点で2018年のベストテンを選ぶならば、ソナの『ファジーヤ』は上位です。

 

コラ演奏の技術がものすごいと書いたけれど、『ファジーヤ』でもアップ・ビートの効いたグルーヴァーである、たとえば1、4、5、7曲目でもそれは本当によくわかると思う。コラでここまでのスピーディで爽快な疾走感を持つグルーヴを表現できる人物って、ソナのほかにいるんだろうか?コラ・ソロも随所で入るが、カッコよすぎて呆然としてしまう。あっけにとられて、しばし我を見失うほど、颯爽でカッコイイ。しかもめくるめくように幻惑的。でありかつ猛烈にグルーヴィ。そんなコラ演奏だ。

 

ソナのコラ演奏は、ゆったりめの曲でもすばらしくて、たとえば2、8、9曲目など。ホント、こんなふうにコラを弾ける人物がほかにいるのかよ?いないだろう、ソナが世界ナンバー・ワンじゃないか。しかもコラと聞いて多くのアフリカ音楽ファンのみなさんが想像するかもしれない世界じゃない。ソナのコラ演奏は高度に洗練されていて、アフロ・ブリティッシュな都会派ポップ・ミュージックのなかで最大の有機体として機能している。

 

ガンビア系ロンドナー、ソナ・ジョバーテの『ファジーヤ』。2011年作だけど、近年稀に見るアフロ・ポップの傑作だと思うんだ。だから、二回目だけど、やはり強調しておいた。お時間とお気持ちがおありのかたは、ぜひどうぞ!

2019/04/20

bunboni さんのおかげで、すっかり Spotify 漬けになっています

Fullsizeoutput_1e86https://open.spotify.com/album/7F0sWIdJ5ePAGrHskpLcte?si=Bd5bUx2kSm-r-fu31n0zBw

 

今日は2019年4月19日ですけど、今日付で更新された bunboni さんのブログでとりあげられているデデ・サン・プリ(マルチニーク)の新作も CD は見つかりません。速攻で Spotify で探したらありましたのでそのまま save。そしていま聴いています。楽しいですねえ。たしかに傑作だとぼくも確信できる内容です。が、しかし CD は買えないんです、すぐにはね。Spotify でならすぐに見つかってそのままぜんぶ聴けます。

 

実にこんなことばかりなもんで(最近ならミジコペイもピポ・ジェルトルードもエムドゥ・モクタールも)、だからぼくは bunboni さんのブログのおかげですっかり Spotify 人間になりました。bunboni さんがブログで書く→ぼく、CD さがすけど、ない→Spotify で瞬時に見つかる→そのまま Spotify でくりかえし聴く、このパターンのなんと多いことでしょう。というかこればっかり。after you を読んでいれば必然的に Spotify 人間になるでしょうよ、そりゃあ。

 

bunboni さんがブログでとりあげられる音楽アルバムは、ものによっては探せば瞬時に CD が見つかるばあいもわりとあるんです。bunboni さんご自身、日本の街の CD ショップ(など)でお買いになったものだから、ということなのかもしれないですね。そう推測できます。がしかし、大半はすぐには買えないんです。日本で通販商売をしている CD ショップのどこにもないというもののほうが多いんですね。

 

Spotify とか Apple Music とかこの手のサーヴィスがはじまる前なら、みなさんもぼくも after you の読者は悔しい思いをしてそのままチキショ〜!と心で叫びその場はあきらめて、どこかのお店(セレクト・ショップ?)が入れてくれるのをひたすら待つ、ということしかできなかったと思います。10年も続けていらっしゃるブログだそうですから、読者にとってはそんな時代が長かったのかもしれませんね。

 

ですが!もう時代は変わりました。ぼくの嫌いなことばを使えば「進化」したんです。ストリーミング・サーヴィスが開始され、ネットで定額制で聴き放題できるということになり、しかも、ぼくは Spotify メインだからその話になりますが、この世で流通している音楽商品のほぼだいたいぜんぶが Spotify で聴けるというような、うれしい時代になりました。

 

この時代の変化を得て、bunboni ブログ after you の読みかた、利用方法も「進化」したと思います。上で書いたように、CD は見つからずとも Spotify でそのまま聴ける、after you で読んだ次の瞬間にそのまま速攻でアルバムのすべてが Spotify で聴ける、ということになっているんです。

 

以前から書いていますように、ぼくはなんだかんだ言ってまだまだ CD 買いたい派なんで、すぐには見つからなくとも根気強く待ち、探し続けて、結局は買っています。今日知って聴いたデデ・サン・プリの『Mi Bagay La』もマジでいいので、いまは見つけられないけれど、日本に入ってくれば間違いなく買うと思います。

 

多くのみなさんのばあい、そうやって待って、after you で紹介されていてすぐには買えなくても待つ、ということなのかもしれないですね。ぼくはそのへんがダメ人間でこらえ性がないというか、読んでオモシロソ〜〜っ!と思ったらその場で即聴きたいんですね。すくなくともその日のうちに CD 購入のボタンをクリックしたい。そうじゃないとイヤ。

 

でも CD はない。そういう場合が多いです、after you で紹介されているアルバムはですね。待てない人間であるぼくは、だから Spotify で検索して、すると九割がたは見つかりますからね。で、そのまま聴くんですよ。さいわいというかさすがというか、bunboni さんの紹介なさっている音楽は、ほぼどれもおもしろく楽しいです。

 

おもしろく楽しいと感じる、そんな体験を、after you を読んで即そのまま Spotify でぼくはしているわけなんですね。すぐに CD は買えないけれどすぐに Spotify で聴けるという状況ですから、九割がた以上はですね。皮肉なことです、bunboni さんはあそこまでフィジカルのあるなしにこだわっていらっしゃる音楽愛好家なのに、おかげで、すっかりぼくは Spotify 愛用者になりました。

 

それはそうと、デデ・サン・プリの『Mi Bagay La』、マジですんごくいいですよ。楽しいです。日本は、というかこちら愛媛県地方は完全に春になり、もはや夏も予見できるほどの日差しがふりそそぐ暑さになってきましたから、ちょうどいまピッタリの音楽で、文句なしです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19

2019/04/19

現役ジャズ・メンはやはりすごい 〜 Dr. ロニー・スミス篇

Mi0004362149_1https://open.spotify.com/album/0anjMU3ensntiJOq3SCjij?si=5pKElF1jRoyouGnnq5ADWw

 

完全に見逃していたドクター・ロニー・スミスの2018年新作『オール・イン・マイ・マインド』。今年三月、気が付いたのは、ブルー・ノート・レーベル公式配信プレイリスト「Dr. ロニー・スミス:ザ・ファイネスト」を聴いたから。ロニー・スミスのベスト盤みたいなもの。ふつうにカッコイイよねと思いながらお風呂で流していたら、ラストに来て耳慣れないのが聴こえてきた。ポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」だったのだ。

 

そ〜れがすんばらしくて!、この曲をロニー・スミスやってんだ、どのアルバム?と思ってクリックしたら2018年リリースの最新作『オール・イン・マイ・マインド』が出てきたというわけ。あわてて CD 買いましたよ〜。これはライヴ・アルバムで、ニュー・ヨーク・シティでの収録。パフォーマンスの年月日は記載なし。いやあ、こりゃあなかなかの快作だ。現役ミュージシャンのことは常にチェックしておかないといけないなあと反省。

 

Dr. ロニー・スミスの『オール・イン・マイ・マインド』アルバム全体では、書いたようにポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」が異様にすごいし、ブルー・ノート公式だってこれをベスト盤的プレイリストに選んでいるんだからやはり同様の考えなんだろう。そのほか、なんでもないメインストリームなオルガン・ジャズも混じっているが、そうじゃない1曲目「ジュジュ」、5「アルハンブラ」、6「オール・イン・マイ・マインド」あたりが聴きものだ。

 

パーソネルは、ロニー・スミス(キーボードのほうが先に書いてある)、ジョナサン・クライスバーグのギター、ジョナサン・ブレイクのドラムスという典型的オルガン・トリオ。ロニーはヴォーカルもこなし、また3曲目でだけドラマーがジョー・ダイスンに交代。6曲目でゲスト参加の女性歌手、アリシア・オラトゥージャ。

 

1「ジュジュ」は、かのウェイン・ショーター・ナンバー。ロニー・スミスはポリリズミックなアレンジを施してあって、ドラマーの叩きかたがおもしろいのでかなり聴ける。実際、この曲での主役はジョナサン・ブレイクだね。オルガンのあとドラムス・ソロも出るのが聴きものだけど、ギターやオルガンの背後でも大活躍している。ソロのあとで、スネアのリム・ショットにダブふうなエコー処理が施してあるのもいい。おもしろいけど、ひょっとしたらスタジオでの音加工とかじゃなかった可能性があるかも?

 

3「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」をどうしてロニー・スミスが選曲したのかわからないが、アレンジは全曲ロニー本人との記載はあれど、この曲にかんしてはポール・サイモンの1974年オリジナルにほぼ忠実。それはスティーヴ・ガッドのドラミングをフィーチャーしていたが、そのパターンをジョー・ダイスンもそのまま踏襲している。

 

がしかし大きく異なるのがギター・ソロだ。このロニー・スミス・ヴァージョンでの最大の聴きどころがジョナサン・クライスバーグの饒舌なギター・ソロなんだよね。うまいのひとこと。しかもソロ後半でパッとエフェクターのフット・スウィッチを踏んで音色を飾り、まるでスティール・パンみたいな音色で弾きまくるパートなんか、サブイボ出そうなほどすばらしい。

 

5「アルハンブラ」(ロニー自作)は、曲題に反しアンダルシアふうなところはまったくないジャズ・ファンク。でもカッコイイぞ。疑問なのは冒頭でハーマン・ミュートをつけたトランペットの音(に間違いない)がしばらくプレリュードふうに聴こえるんだけど、トランペッターが参加している様子はないので、サンプリングしたものをロニーが弾いているのかなあ、たぶん。

 

女性ヴォーカリストをフィーチャーした6「オール・イン・マイ・マインド」(ロニー自作)は、ちょうどコンテンポラリー R&B みたいで、ダウナーでブルー。エラ・メイとか、あのへんのサウンドと歌にとても近い。歌っているアリシア・オラトゥージャってぼくは知らないんだけど、アレンジとサウンド・メイクをやったのは Dr. ロニー・スミスなんだろうからね〜。

2019/04/18

バラディアーとしてのアンガーム2019は完璧なる宝石

Fullsizeoutput_1e77https://open.spotify.com/album/05enmrBRGHjSeAzjSvh64M?si=TBvK3Y5VReG1m_ua06_RAQ

 

はぁ〜、なんだこれは。エジプトの歌手アンガームの2019年(2月20日リリース)作『Hala Khasa Gedan』がとんでもない大傑作じゃないか。あまりにもすばらしすぎる。これはポップ・バラード・アルバムなんだけど、9、10曲目なんか、どこからどう聴いてもなにからなにまで100%完璧だとしか思えない美しさ。ため息しか出ず、ことばがない。アラブ伝統色も濃いという点では2018年作と同傾向だけど、でありながら同時に2019年作は全世界で通用する普遍のポップネスをも獲得。そして、生の人力楽器演奏の比率はさらに上がっているはず。ひょっとしたらぜんぶ人力かも。

 

いやあ〜、しかしこんなにも美しいアラブ・ポップスがいままでにあっただろうか。いや、アラブと限定することはない、あらゆる音楽のなかでも、こうまですばらしい作品にはなかなか出逢えるもんじゃないと思うよ。完璧なる玉じゃないか。アンガームの最高の円熟、絶頂をここに聴く思いで、ホ〜ントため息しか出ないんだ。ホント、ホント〜に、この2019年作はきれいだ。特に9〜14曲目の六曲の流れは、いや、全体が、はぁ〜、なにこれ!こんな綺麗な音楽、聴いたことないよ。

 

9曲目が個人的にはこの2019年作の白眉なんだけど、このちょっと軽いラテン・リズムの効いたバラードは、プロデュース、曲創り、伴奏アレンジとその演奏、主役歌手のヴォーカル・パフォーマンスのどれをとっても100%完璧だ。適切な湿度のこもった情緒とリリカルさを持っていて、しかも重たくなりすぎず軽快なふんわりさをもまとっている。特にこのリズムだなあ、それとそれに乗せてアンガームがたたみかける歌いまわしの切なさにゾッコン参ってしまう。もう、とろけそうだ。コーラスで進む部分はアンガームのひとり多重録音の可能性があると思う。

 

しかもこの9曲目は、アラブ・ローカル色がちょうどいい感じでユニヴァーサルなポップネスに昇華されていて、楽器はウードなども使うものの、楽想は普遍的なものだ。アンガーム自身もアラブ古典歌謡のコブシまわしを駆使しつつ世界に通用するチャーミングさをふりまいているじゃないか。さらに、キュートさよりも大人の女性の落ち着き、しっとりさ、切なさを聴かせているよなあ。

 

9曲目以前も以後も、たまらない美しさ。どうしてここまで美しいのか。曲もオーケストラも歌手も、みんながあまりにもきれいすぎて、ウットリ聴き惚れて、聴いているあいだ、ほかのことができない。ただただ Spotify アプリで表示されるジャケ写とトラックリストをジッと見つめたまま身じろぎもせず指一本動かせず、ただボ〜ッとしながら耳はアンガームの音楽だけに集中しているんだ。

 

こんな体験は滅多にないことなんだよなあ。アンガームの2019年作『Hala Khasa Gedan』が見事に完璧な宝石すぎて、ここまでの美しさを放っている音楽なんてこの世にほかにはないだろうと思うと、うれしいけれど気持ちが平常や冷静を保てず、このまま、アンガームのこのアルバムを聴きながらそのまま、いっそ死んでしまいたいとすら思う。

 

いま円熟の極致にあるエジプト人歌手アンガームの至高の完成美、それが2019年作『Hala Khasa Gedan』だ。ぼくの人生57年、ここまで美しい音楽には出逢ったことがない。このまま溶けてしまいたい。

 


حالة خاصة جدا

2019/04/17

円熟のアンガーム2018がいいね 〜 特にリズム

Fullsizeoutput_1e78https://open.spotify.com/album/2TjMUXHMejsedEFVoKXuX2?si=fkSk9VjFQMGpIIRkEk-MZw

 

エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 は、ずばり、ハリージ・アルバムだね。ハリージとは近年の(クウェートなど)ペルシャ湾岸地域で盛んなダンス・ミュージックのこと。パーカッション類をがちゃがちゃと多用し、リズムがヨレて突っかかり引っかかるような独特のノリを持っているところが特徴。アンガームはそんな音楽に挑戦した。

 

だから2018年作はローカルもローカル、全面的にアラブの一色に染まっているわけ。国籍不問のユニヴァーサル・ポップスを歌っていたアンガームの姿はここにないが、しかしこの歌手が本来的に持っているアラブ古典歌謡の素養がフルに発揮され(ここまでアラブ色の濃い作品は、いままでのアンガームになかったのでは?)、結果、見事な結果につながっているとぼくは聴く。すばらしいアルバムじゃないかな。

 

出だしの1曲目からパーカッション類の独特の使いかたやそのリズムで、これはハリージだなとわかる。サウンドやリズムをプロデュース、アレンジしたのがだれなのか、とても知りたい気持ちだが、2018年のアンガーム(といっても録音はたぶん2017年内に行われたはず)なら、みずからの意思もかなり反映されていただろうとも推測できる。

 

ハリージを歌うんだというアンガーム自身の強い意思は、なによりその声の美しさ、張り、艶、伸び伸びとしたフレイジングなど、歌唱全体に聴きとることができる。歌手として完璧に円熟期に入ったことを確信できる見事な歌いっぷりで、乗りにくいんじゃないかと素人なら思うハリージのバック・トラックの上で自在に飛翔して破綻なく、立派な歌を聴かせてくれているよね。

 

ラテンだってある。「ワン、トゥー!」の掛け声ではじまる4曲目がそう。これはサルサなんだよね。この曲はアルバム中異質な感じもちょっぴりあるので、プロデューサーなどが異なっている可能性があるように思う。わからないけれども。しかしラテン/サルサなこの一曲のなかでも、後半部からはガチャガチャしたハリージっぽいパーカッション・リズムになって、やっぱりアルバムの全体像は損なわれていない。

 

このラテン・ナンバーが終わったら、アルバムは完璧にハリージまっしぐら。エジプト人なりの、というかアンガームなりのハリージ解釈だろうから、ダンスというよりも歌謡、またリズムのヨレかたもそこそこスムースなほうに流れているようには思うけれども、それでもまごうかたなきハリージ・ミュージックの展開だ。バラードっぽい曲でも、やはり背後で複雑なリズムをパーカッション類が刻み込んで、つんのめる。

 

それなもんで、激しいダンス・ナンバーである、たとえば6曲目(はちょっぴりだけフラメンコっぽくもある)とか、8曲目(はロック的でもある)とかなどでのリズムの強いネジレとヨレ、つんのめりと突っかかりかたは本格ハリージと呼んでもいいほど。また、ハンド・クラップも多くの曲で頻用されているし、生の人力演奏の割合もかなり増しているはずだ。

 

どっちかというとダンスというよりは聴かせるバラードのほうが多いのかなと思うアンガームの2018年作だけど、そんなバラディアー傾向は、次の今2019年作につながっていく部分でもある。2018年リリース作で、どうして突如こんなハリージ傾倒を見せているのかはわからないが、結果としては歌手としての円熟を見せつける結果となっていて大成功。実際、アンガームのヴォーカルは大人らしい落ち着きを増すと同時に飛翔力をも高めている。すばらしい熟しかただ。

2019/04/16

愛しのアンガーム(2)〜 2015年作はアラブ色が濃いめ?

Fullsizeoutput_1e75https://open.spotify.com/album/0FewYz1YT2i2npZiS8QOw2?si=4dHJYKkqRRyO0J-gOKdbBA

 

エジプトの歌手アンガーム。昨日書いた2003年作『あなたと生きる』と比べ、(ここまではぼくも CD で持っている)2015年作『Ahlam Barya』ではバックのリズム・トラックも生演奏の比率が上がっているのかなと思うんだけど、この聴感上の印象は間違っていないだろうか?それからアラブのローカル色がやや濃いめに出ているようにも思う。それとユニヴァーサル・ポップスのカラーがちょうどいい感じにブレンドしていて、こりゃあいいねえ。

 

アルバム幕開けの1曲目は、カフェ?レストラン?クラブ?みたいな場所でのサウンド・エフェクトから入って雰囲気をつくったかと思うと、カーヌーンが奏でるアラブ伝統音楽の伴奏みたいなものが出て、ここだけでもオッ!こりゃいままでとは違うぞ、と思わせる。その後アンガームのヴォーカルが入ってからはユニヴァーサルなポップスにもやや近いかなと思う内容で、しかしその背後の伴奏はアラブふうだ。

 

こんなブレンド具合が、この2015年作では全編をとおし聴けると思うんだよね。ローカルすぎずユニヴァーサルすぎもしない適切な折衷の中庸具合がとてもいい。アンガームの歌いかたは、根底にアラブ古典歌謡の節まわしを持ちつつ、やはり表面的には濃ゆすぎない軽みを聴かせていて、それがこのひとのいいところだね。

 

それでも2003年作などと比較すれば、アンガームの歌もややアラブ伝統寄りかな?と思わせる部分もある。たとえば完璧な米欧ポップスみたいでフォーキーですらある2曲目でも、バック・トラックはそうでも、上に乗る歌手のフレイジングにはやや粘り気もあるように思うんだ。でもやりすぎていない適切さ、それがアンガームの美点だ。

 

アラブ・ローカル色をちょっとだけ濃いめに持つ曲と国籍不問のポップスみたいなのが、その後も交互に出てくるように思うこのアルバム、最初に書いたように、伴奏陣に生人力演奏人員の比率が上がっていると思うんだけど(楽器のチョイスもアラブ伝統にやや傾いているね)、そのせいか関係ないのか、アンガームの歌まで有機的に生き生きとしているように聴こえるのがイイネ。

 

途中ジャジーなバラードなどもはさみながら、アルバム・タイトルにもなっている7曲目は、なんと完璧なるボサ・ノーヴァ・ナンバー。伴奏はかなりな部分人力演奏だな。アンガームもさらりと軽く乗せて置くように歌っていて、ちょっぴりコブシをまわすものの大人のアッサリ感を漂わせ、こりゃあいいねえ。これ、だれが曲を書きアレンジしたんだろうなあ?プロデューサーも知りたい。いい一曲だ。アルバム・タイトルに持ってくるのはわかる。サルサっぽいラテン・テイストすらもある。

 

8曲目もリズムがラテンだし(といっても、以前からアラブ歌謡のなかにあるおなじみのパターンだけど)、そうかと思うと10曲目はこれまたアラブ伝統色がモダンな感じで活かされている。2003年作『あなたと生きる』でたっぷり聴けた打ち込みのずんずんビートを使った11曲目を経て、アルバム・ラストはしっとりバラードで、しかもちょっぴりだけジャズ・フュージョンっぽい。そこにアラブ色はないが、細やかに歌い上げるアンガームのしなやかさは絶品だ。

2019/04/15

愛しのアンガーム(1)〜 けっこうモダン R&B っぽい2003年作

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エジプトの歌手アンガーム。フィジカルが入手できないけれど、2018、19年と順調に新作が発売されていて問題なく聴けるから、それらもそのうち書くつもり。CD なくても書かずにいられないっていう充実度。アンガームはいまキャリアの絶頂期にあるんだもんね。今日は2003年の『あなたと生きる』(Omry Maak)の話。ぼくもかねてより愛聴している。ホ〜ントいい歌手だよねえ。しかも美人だ。それもぼく好み。

 

『あなたと生きる』は日本でいちばん聴かれているアンガームなんじゃないかと思う。なぜなら日本盤が出ていて、その解説文をわれらが bunboni こと荻原和也さんがお書きになっているからだ。実際、ぼくもおおいにお世話になっている。このアルバムは、モダンなエジプト/アラブ・ポップのアンガームによるひとつのブレイクスルーだったとみなしていいんだろうか。

 

『あなたと生きる』のバックトラックはかなりの部分がコンピューターで創られている。すくなくともリズム・トラックは間違いなくほぼ100%近く打ち込みで、ベースとドラムスの音が強調され、その上に乗るストリングスは生演奏なのかシンセサイザーなのか、ぼくの耳では判断できないが、やっぱちょっぴりシンセ音くさいような…。

 

アクースティック・ピアノやギターなどの音は人力の演奏者がいるんだろうね。ともかくバック・トラックが完成してからアンガームがヴォーカルを重ねるという手法で製作されたことは間違いない。リズムとサウンドには、ややラテン・ポップスやラテンふう(の影響を受けた)R&B の色が濃く、そこだけ取り出すと、エジプト/アラブのローカル色はほぼなし(7曲目を除く)。

 

アンガームの歌にしても、わりとサラリとこなしている様子に一聴すると受けとれて、そこに濃厚なあのアラブ古典歌謡のコブシまわしは聴かれない。わりと普遍的な国籍不問のポップ・シンガー然としたヴォーカル・パフォーマンスだよね。軽く声を出してアッサリ乗せているような感じがする。

 

アンガームの経歴を知ると、若い時分にアラブ古典歌謡の歌唱を学んだそうで、素養はあるんだそうだ。そう言われたら、この『あなたと生きる』でも聴けるこの軽めの歌い口のなかにも、そんな古典素養が下敷きになっているとうかがえる部分はあるね。ただ軽いだけの(アラブ・)ポップ・シンガーじゃない技術力を漂わせているとわかる。

 

ただし、できあがりだけで判断すると、打ち込みメインのモダン(でラテンな)R&B っぽい音楽に仕上げようというプロデュース意図にアンガームも沿って、あまり粘りつかずしつくこなく、濃厚さを薄めてアッサリ味の繊細さにして歌っていると言えるんじゃないかな。それがこんなバック・トラックにうまくフィットして人気を獲得できていると思う。

 

なんだかんだいってアラブ古典歌謡がやっぱり(日本で)イマイチな人気なのは、あの正攻法な濃ゆすぎる重厚なコブシまわしが敬遠されているせいじゃないかと思うから、新世代のアンガームがこんな方向性を取っていたのは大正解だったんじゃないかと思うんだ。

 

アルバム『あなたと生きる』では、また、たとえば6曲目はしっとりバラード(コントラバスの音から出る)で、軽くジャジーなボサ・ノーヴァの香りすら漂っていたりもするし、8曲目もちょっぴりだけジャズ R&B・バラードふうで、11曲目はワルツ。どれにしても完璧にアンガームはこなしている。

2019/04/14

お気に入り CD の山

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というのがぼくの部屋の CD プレイヤーの上にある。基本、CD 収納はいっさいの事情を考慮せず音楽家の名前の ABC 順に並べてあるんだけど、そうじゃない例外がいくつかあって、たとえばサイズの大きなボックス・セットなどはもちろん分けてそれなりの場所に置くしかない。それとは別に、聴いて、書いて、そしてそのなかでもことさら大好き!というアルバムだけ特別視して分けて置いてあるのだ。それが CD プレイヤーの上。写真だと左の山がそう。右は未聴 CD という意味の山だ。

 

左のお気に入り CD 山は、現在、いちばん上がドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』で、その下がマルモータの『a margem』。それ以下ここ数年で特別好き!というものだけ積んでいるんだよね。ヴァン・モリスン、ソナ・ジョバーテ、パウロ・フローレス、メディ・ジェルヴィル、HK の脱走兵、『牛深ハイヤ節』、ライ・クーダー、スリム・ゲイラード、などなど。

 

もっとずっと前に買って聴いたものでも、ここ数年で聴きかえしブログ記事にして、愛好度が一層増したというものは、やはり積んである。サローマ、ファニア・オール・スターズ、ナンシー・ヴィエイラ、サラ・タヴァレス、クーティ・ウィリアムズ、『カフェ・ブラジル』、などなど。

 

そうそう、『カフェ・ブラジル』と書いて思い出した。ここ二、三年のブラジル音楽は本当に充実しているので、そのなかでも特別気に入っているものはこれまた分けて、それだけ数枚、スピーカーの上に平積みしてある。イリニウ・ジ・アルメイダ曲集がなかでも格別なものだけど、ほかにもモナルコとかマルチーニョ・ダ・ヴィラだとか、傑作が多いよねえ。あ、でもブラジリアン・ジャズはここに置いてないなあ。どうしてだろう?

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ともあれ、すぐ手に取って、いつでもパッと聴きたいっていう、そんなお気に入りの音楽 CD はそうなっているわけ。座ったまま手を伸ばせばすぐ届くという範囲内に置いておきたい。それにそれを平積みしてある風景をただ眺めているだけで気分いいもんね。心が落ち着く。この山のなかから一枚かけながらこの山を眺めていれば、平和でおだやかな心地がする。

 

と言ってもですね、ぼくが特にこの四人は!と神聖視している四人の女性歌手の CD だけは、こういった山々とはまた別に、もっと取りやすい場所に置いてあるんだ。岩佐美咲、原田知世、ニーナ・ヴィルチ、アイオナ・ファイフの四歌姫。彼女たちの CD は、まあぜんぶあわせても数がまだたいしたことないのもあって、CD プレイヤーの下になっているプリメイン・アンプの真ん前にあるんだよね。いつでも速攻でかけられる。

2019/04/13

興奮のフィルモア 2 days 1968 〜 スライ

B3c06718https://open.spotify.com/album/53hdS0o6mAxAzAPeclha5i?si=NtHmvOe3S1yac9BIMwr1pg

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『ライヴ・アト・ザ・フィルモア・イースト、オクトーバー 4th & 5th、1968』(2015)。CD 四枚組だけど、一枚目(10/4、アーリー・ショウ)ではまだたいしたことはない。まだまだ盛り上がりかたがイマイチな感じがする。スライやバンド連中にとっても、また客席にとってもそうだったのではないか。

 

興奮がマックスに達するのは CD2(10/4、レイト・ショウ)の、それも後半に入ってからだ。8トラック目の「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」からかな。そこからは雪崩のような一気の勢いで思い切り振り切れる。「ミュージック・ラヴァー」だってとてもいい。最高度の興奮だ。また二枚目は幕開けが「マ・レイディ」なのもグッド。これもアッパーなあげあげダンス・ファンクだ。これだけでこのステージの楽しさは保証されたみたいなもの。

 

CD3、CD4とほぼ同様の展開が続く。曲で言えば「マ・レイディ」「ミュージック・ラヴァー」「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」、この三つに集約される1968年秋のアッパー・スライ。それを中心に10/5の二回のショウとも興奮できる演奏になっているよね。

 

特に CD3(10/5、アーリー・ショウ)の終盤なんか、その三曲がメドレーのノン・ストップ状態で流れてくるんだからこたえられない。最高度の興奮と快楽がここにある。1968年秋のライヴということでアルバム『スタンド!』はまだ。シングル「サンキュー」もまだで、でもすでにあんな路線はここに明確に聴きとることができるんだ。

 

『暴動』や、それに続く『フレッシュ』も人気で、評価だって高いけれども、個人的にはやっぱりこの1968/69年ごろの、西海岸サン・フランシスコで "Don't hate the black, don't hate the white" とくりかえし叫びながらユートピアを楽しそうに疾走していた、気分上々のスライたちがなんたって大好きだ。ぼくという人間のことを考えても、やっぱりこういった気分にこそ共感できるんだしね。

2019/04/12

信ずるは耳のみ

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どなたか信用させていただいているかたがこの音楽はいいぞと言っていても、自分で聴いたらそうでもなかったとか、世間の評判がダメでも、とってもすばらしいと感じて愛聴するとか、そんなことはいくらでもある。自分の耳で聴くしかない。それでもって判断するしかないんだ。文書を書くためにとりあげるにせよ、なにをどう扱うかで頼りになるのは自分の耳だけ。他人の耳で音楽聴くことほどバカらしいことはないぞ。

 

一般に信用されていて人気も高い紹介者・評論家のみなさん(など)の推薦盤はやはりこぞって聴かれるけれど、どうもぼくだけなのか、実際聴いてみたらおもしろくなかったということも多い。逆にこんなにすばらしい音楽作品はないぞと自分で感じても、いっこうに話題にならなかったり低評価、ダメ評価だったりする。

 

そんなとき、やっぱり自信がなくなっちゃうんだよね。自分の鑑識眼が実にいい加減なものだとわかっているから、やっぱりこっちの見立てが狂っているのか、外れているのか、と気になってしまう。でも結局のところ、音楽を聴くとは個人的享楽体験だから、自分にとってどうなのか、ということにだけ比重を置くしかない。世間でのとらえられかたと一致してもしなくても関係ない。と思うしかない。

 

このブログの文章にしても、こんな音楽をとりあげていいのかな?恥ずかしくないかな?この文章内容は外しているんじゃないかな?とか、気にしはじめたらキリなくて、まあ要するに自分に自信がないわけなのだ。ふだんこんなにふんぞりかえっているのにもかかわらず、というかそうだからこそそれは虚勢であると、まあもはや見抜かれているだろうなあ。

 

だから、いつもいつも、この音楽は、ぼくはいいと思うけどみんなはどうかな?とか、この感想でいいのかな?妙な妄想を書き連ねていないかな?などと気にしているのが事実だけど、ちょっとづつそんなことに、本当にちょっとづつ、自信じゃないけれど、結局自分を信じるしかないんだから思ったものをとりあげて思ったことを書けばいいと、それでオッケーと、 すこしは余裕が持てるようになってきたかもしれない。ちょっとだけ。

 

ひとの言ったことを、高評価も低評価も、そのまま鵜呑みにせず、自分の耳だけを信じて、自分の耳にこれはイイ!と聴こえるものはマジでいいんだと、そう信じて、感じたことを書いておけばいい。自分の耳におもしろくないものは、どんなに信頼しているかたが褒めていようとも、それはつまらないんだから、そういったものは書かないでおこう。

 

自分の耳で聴こう。それしか頼るものはないんだから。他人のものさしで自分の体験を測らないようにしなくっちゃね。ことに音楽とかの趣味のことや(コーヒーでも料理でもそうだけど)なんかにかんしては、自分の耳と感性を信じて、それでもってだけ聴いていけばいい。

 

自分のことなんだから、頼れるのは自分の耳だけ。それだけ。

2019/04/11

さすがのブルー・ノート、大好き

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といってもスケールじゃなくて音楽レーベルのほうだけど。Spotify や Apple Music など音楽ストリーミング・サーヴィスが一般的になって以後、最も活気付いているアメリカのレコード会社がブルー・ノートにほかならない。ぼくのばあい主に Spotify を使っているのでそっちでしか見ていないけれど、ブルー・ノートの作品は「ぜんぶ」ストリーミングで聴けるんじゃないかと思う。

 

カタログがぜんぶ聴けるだけじゃない、以前もソニー・クラーク関連で言ったけれども、レーベル公式のプレイリストをどんどん作成・公開しているのがブルー・ノートで、これにかんしてはたぶん全世界ナンバー・ワンだ。そのおかげで、いままで気づいていなかったことを発見してモダン・ジャズを聴く楽しみが増しているよ、事実。

 

昨年は公式プレイリスト『ブルー・ノート・ブーガルー』にとても大きくお世話になって、結局これを2018年のリイシュー部門第一位に選んだほどだけど、実際それくらい意義深いことだった。これだけじゃない、ブルー・ノートは実におもしろい公式プレイリストをたくさん公開しているんだよね。そのおかげでずいぶんと楽しませていただいている。

 

しかもブルー・ノートのばあいは、プレイリストを作成・公開したら、必ず公式 Twitter アカウントでお知らせしてくれる。これがいいんだよね。毎夜のようにぼくの楽しみになっている。そんなレーベル公式ツイートは、だいたい(日本時間の)毎晩深夜23時台前後なので、プレイリストをフォローしておいて翌日の楽しみとして、幸せな気分で眠りにつく。

 

ブルー・ノートはいったいどれだけの公式プレイリストを公開しているのか。かなりな数があるよなあ。ひとりのジャズ・マンに焦点を絞ったり、テーマを設定してレーベル全体を横断して多数のジャズ・メン作品から拾ったり、などなど、数も種類も多い。なかにはかなり興味深く意義も大きなプレイリストだってあるんだよ。

 

ブルー・ノートはフィジカル商売だってまだまだやっているだろうけれど、いまのストリーミング時代に、1939年創業の老舗ジャズ・レーベルとは思えないほど完璧に対応している。新しい時代に合わせて商売方法を更新していくのは、健全なビジネスの姿じゃないだろうか。音楽会社のある種の理想を、ぼくはいまのブルー・ノート・レーベルに見る思いがする。

2019/04/10

ボレーロみたいな(ボサ・ノーヴァ?)〜 ローザ・パソス

1007839555https://open.spotify.com/album/1ldRzJsCQNTS5JIb6IFclW?si=IR8cUZx_QLWA6ijmVA0RwQ

 

ブラジルの歌手ローザ・パソスの最新作『Amanhã Vai Ser Verão』(2019)。でもこれ、どうして買ったんだろう?なんとなくの直感みたいなもんかな。ジャケ買いであるようなそうでもないような、こういった南洋リゾートの風景をイラストにしたみたいなお洒落ジャケットは一般的には人気あるだろうけれど、中身がイマイチだったりすることもあるので、ちょっぴりの警戒心も働いたかも。

 

でも聴いてみたら中身の音楽はおもしろかったよ。結論から端的に言っとくと、このローザの『Amanhã Vai Ser Verão』は、ブラジルのボサ・ノーヴァ歌手のやるボレーロ/フィーリン系の音楽なんだよね。ん〜、どっちかというとボレーロを意識したのかなという内容だね。しかしキューバ/メキシコの歌手がやるようなしっかりしたボレーロではなく、フワ〜ッ、ボワ〜ッとしたつかみどころのない超ソフトでおだやかすぎるボレーロ(っぽいボサ・ノーヴァ?)なんだ。

 

なかにはジャジーな、というかたぶんジャズ・ナンバーと呼んでさしつかえない8曲目「Inocente Blues」もあるし、またやっぱり全体的にいかにもブラジルの音楽家がやりそうな雰囲気横溢の BGM っぽい軽い音楽なんだけど、それでもここまでラテン性というかボレーロ系を強く意識した音楽をローザ・パソスはいままでやってこなかったはずだ。

 

収録の全13曲はどれもローザの自作(というか共作)だけど、1曲目のタイトルが「Alma de Bolero」だしね。それで多くの曲でドラマーが軽くボレーロっぽいあのちゃかちゃかっていう8ビートを表現しているのが特徴的。アコーディオンもアルバム全編で頻用されていて、サウンドの色調を支配している。ギターも印象的だが、そのギターリスト、ルーラ・ガルヴァンがほとんどの曲でアレンジも担当。

 

サウンド・カラーはどっちかというとフィーリンっぽいふんわりソフト加減で、それらの上にローザのあのやさしくやわらかい声が乗っかっているっていう、そんなアルバムなんだよね。全体的に、やっぱりムード重視の南洋リゾート砂浜 BGM みたいな、う〜ん、やっぱそうだよなあ、そんな音楽になっているよなあ。悪い意味じゃなく、ときどきはこういった軽〜い音楽もいいんじゃないだろうか。ガツンと来ないけどれど、悪くないというか、かなりいい、印象というかあたりが。

 

アルバム中おしりの二曲だけがローザのナイロン弦ギター弾き語りで、それらふたつだけはジャンル不問のブラジリアン弾き語りミュージックだ。昨年来、ブラジルのギター弾き語り音楽にいいアルバムが頻出していると書いているけれど、もともとそんな音楽も得意なこのローザ・パソスの『Amanhã Vai Ser Verão』でもラスト二曲はそんな音楽で、これらは文句なし。自作自演のギター弾き語りでボレーロ/フィーリンというと、ホセ・アントニオ・メンデスを想起させるしね。

2019/04/09

カッコよさとなめらかさ 〜 マルモータ

R1275144515412627827636jpeghttps://open.spotify.com/album/0EBrBrrIfTH7VZQ8HfKygD?si=NiQaBGxNTOy2qXfHCmplkQ

 

bunboni さんに教えていただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-02-28

 

ブラジルの四人組ジャズ・ユニット、マルモータ(Marmota)。メンバー構成はギター、ピアノ、ベース、ドラムス。その最新作『a margem』(2017)がかなりいいぞ。傑作と呼びたいくらいなできばえで、なんたってこのジャケット・デザインがいいでしょ、これで中身を直感して買っても決して損はしない上質なジャズ・アルバムに仕上がっていること請け合い。

 

ぼくにとってアルバム『a margem』の最大の魅力は全体的にとてもなめらかでスムースだってこと。そして爽快にカッコイイ。これに尽きるんだけど、しかしこのことは決してイージーに響くとか、イージーな音楽だとかいうことではない。その逆で相当むずかしいことをやっているんだけど、できあがりが聴きやすくなっているのは、真の腕利きである証拠。

 

アルバムの多くの曲、たとえばいちばん長尺なオープニング・ナンバー「Ar」なんかでも、メロディとリズムはころころチェンジする。しかも変わるときリズムとメロディの変化が同一のものとして合体しているんだよね。約10分間これだけめまぐるしく変わるのに、一糸の乱れも聴かれないのは、コンポジション/アレンジとリハーサルのたまものか。結果、なめらかなスムースさに到達しているんだよね。

 

いちばんのお気に入りは3曲目の「Hades」。エレキ・ギターのエフェクト・サウンドからはじまってしばらくのあいだは音響系みたいなサウンドが漂っているが、ドラマーがかなり強くスネアをバンバン!とやってからが本番だ。使っている音階がちょっとしたアンダルシア〜中近東系のそれに近いように聴こえ、スペインふう&アラブふうというかそんなところが大好き。ブラジルからしたらかなりエキゾティックなサウンドなんじゃないのかな。最後までドラマーがドラマティックに叩くのもいい。ぼくにとってはど真ん中ストレートな大好物の一曲。

 

ここのところのジャズ・ミュージックではアレンジの比率が上がっていて、用意周到な複雑アレンジのなかを縫うように短めなソロが効果的に入るというような、そんな構成になっているものが増えているんじゃないかと感じているんだけど、マルモータの『a margem』でもそれは同じ。整然とした練り上げられた音楽のほうが(一発勝負みたいなものより)断然好きなぼく。だからマイルズ・デイヴィス好きなわけだけど、近年のジャズはぼくにとっては好ましい方向へ流れてきている部分もあるようで、うれしいかぎり。

 

bunboni さんもおっしゃっていることだけど、ここのところブラジルの最新ジャズ・シーンがかなり充実してきている、ブラジルのジャズが、いま、きている、というのが事実のよう。シーンを把握できない質のぼくでも気づくくらいだから間違いない。昨年もイチベレ・ズバルギの超傑作などがあったけれど、マルモータの『a margem』は、個人的な好みだけなら近年ナンバー・ワンの心地よさ。流してよし聴き込んでよしの傑作。もうすでに何回聴いたかわからないほど聴いている。いやあ、好きですね。

 

(注)6曲目「Indução」の最終盤で挿入されている英語のしゃべりは、どうやらビル・エヴァンズのものらしい。しかしそれがここにどうして使われているのか、ぼくにはわからない。

2019/04/08

ぼくはどう書き、どう推敲しているか

Fullsizeoutput_1dc9 Fullsizeoutput_1dcb https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/16CwqmoXgaQY1OQDgW1M72?si=FwARWQmvR0mQRXerbSdx1w
(BGM はこのへんで)

 

今日は特に音楽の話をせず、ふだんこのブログ用にどうやって文章を書いたり推敲したりしているか、ちょちょっと個人的にメモしておきたい。Apple 社製の各種機器をお使いのみなさんにはすこしの参考になるかもしれないし。

 

まず最初に書くときはスマホやタブレットではまだムリで、やっぱり Mac でテキスト・エディタに向かって物理的キーボードを叩いているんだけど、いったん完成したらそれを推敲するのは iPhone や iPad でのほうが細かなことに気付きやすいという面があって、そのほうが便利だと思うことも。どうやらぼくだけじゃないようで、ほかの複数のかたから同種のお話をうかがったことがある。

 

Mac でブログ記事執筆用にと使っているテキスト・エディタは Jedit Ω。各種の文字装飾が必要となる仕事用に使っているのが LightWayText。この二種のエディタは初登場がどっちも1995年。その後ヴァージョン・アップを重ね現在でも存続している現役選手で、ぼくはこの二本使いでずっと2019年まで来ている。ワープロ・ソフトなんていうものはいまだかつて使ったこともない。今日の話には Jedit Ωだね。

 

Jedit Ω は Mac 専用エディタで、それは Windows 版がないとかっていう意味じゃなくて、 iPad や iPhone で動く iOS 用のヴァージョンがないという話。これはちょっとした悩みなんだよね。それでも Mac でこれ以上使いやすいエディタはないので Jedit 系でずっと来ている。ところで、ブログに上げるぼくの音楽文章は、だいたいどれも一回性一方向性のインプロヴィゼイションなんだよね。最初に書くときはね。

 

それをアップロードする前に読みなおして加筆訂正したりなど推敲するわけだけど、音楽で言えば録音後の編集作業みたいなもんかな。ちょっとしたミスを修正したり音を足したり減らしたり微調整したりなど、みなさんなさるでしょ。SP 時代のあと、テープに録音するようになって以後はさ。ぼくも Jedit Ω で当該ファイルをもう一度、二度と開きなおし読みかえし、推敲していた(と過去形)。

 

ところが、モバイル・ディヴァイスを使うようになってやや様子が違ってきているんだよね。偶然の発見みたいなもんなんだけど、自分で書いてブログにアップロードした文章を iPhone で読んでいて、Mac だと気づかない細かな書きミスに iPhone(や iPad)だと鮮明に気づきやすいということがわかってきた。これはあれかなあ、画面サイズが小さいため、かえって発見しやすいということなのか?わからないが、間違いない事実だ。

 

これはブログにアップロード後にそれを読んで、ということだったのだが、それをアップロード前の推敲でやるようになったのが2018年10月に最初の iPad を買ってから。しかし問題がある。上でも書いたが常用必須の Jedit Ωに iOS ヴァージョンが存在しないってことだ。最近のメイジャー・アプリは macOS 用、iOS 用の両方ともリリースするのがふつうになってきているんだけど、Jedit 系は Mac アプリしかない。

 

だから iPhone や iPad でアクセスし書き終えてある文章を読み込んで(そう、テキスト・ファイルもローカル・ディスクにはいっさい置いていない、ぜんぶクラウド上にある)、それで読みかえして推敲などしようとすれば、違うアプリを使わざるをえないのだ。そのためのほぼ唯一の選択肢が LightWayText 開発者である山下道明さん作成の iText Pad。これは iOS 専用のテキスト・アプリだけど、同じ山下さんの Mac 用のエディタ iText のモバイル版みたいな位置付けなのだろう。

 

iPhone や iPadの、っていうかだいたいのばあい iPad でだけど iText Pad でクラウドにあるぼくのテキスト・ファイルにアクセスし読み込んで表示、それをじっくり読みかえしながら細かな書きミスを訂正したり表現をあたらめたりする。これがケアレス・ミスにいちばん気付きやすい最好適なやりかたなのだ、ぼくのばあいは。そうやって推敲したものを iText Pad で保存するとそのままクラウドにあるので、次に Mac の Jedit Ω でアクセスしたら同じ推敲済みの同ファイルが立ち上がる。

 

な〜んて便利なんだ!

 

最近は iPhone や iPad での文字入力も劇的に速度が向上しタップ・ミスもかなり減ってきた。いまだに QWERTY 配列のソフトウェア・キーボードでローマ字入力なんだけど、Mac の物理キーボードを叩く速度に近づきつつあるんだ。だからそのうち、iPad などでブログ用の文章を書きはじめるかもしれないよ。といっても iOS 上で動く高機能なテキスト・エディタがほとんどないのが難点だけどね。

2019/04/07

ジョアナの爽やかな想いあふれて

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なぜかジョアナ・アメンドエイラのファドが聴きたくなった。どうしてだろう?マリア・テレーザ・デ・ノローニャの完全集なんかも最近あって、それでちょっとファドづいているせいかなあ?わからないが、選び出したのはジャケットの雰囲気が好きな2006年の『ア・フロール・ダ・ペーレ』。これ、いいんだよぉ。いまでもぼくは大好き。

 

聴いていて感じるのは、ファド新世代ということかどうかよくわからないのだが、ジョアナの声は、また伴奏も、軽い。そして明るい。いい意味でね。さっぱりしていて聴きやすいのだ。これは大きなメリットじゃないだろうか。ふつう一般的にファドというと暗く重苦しいイメージがつきまとう。ジョアナのばあいはスウィンギーですらあって、また歌いくちがベタつかず爽やかで心地いい。そんな気がしたんだけどね。

 

『ア・フロール・ダ・ペーレ』のばあい、5曲目まではわりと従来路線っぽいファド・ナンバーが並んでいる。アマリア・ロドリゲスなどと比較したらそれでも相当軽いんだけど、それでもジョアナもファド歌手だけあるという湿った重い質感を表現しているよね。しかしそのなかに、ジョアナにしかない独特の爽やかサウダーデがこもっているのを聴きとることが可能だ。やはり新世代。

 

1〜5曲目までのあいだでも、たとえば4曲目「Plantaei um cravo à janela I」なんかは明るくて聴きやすい。そう、ジョアナのファド歌唱(や伴奏)は聴いていて、気持ちがドンヨリしないのだ。あくまで前向きに進んでいこうっていうそんな明るさが音楽から聴きとれるとぼくは思うけどね。引きずっていない。そんなところもポイント高し。

 

それが6曲目「Amor, o teu nome」でいきなり真っ青な陽光のもとに飛び出たみたいなキラキラさと輝きと軽さ、明るさが全開。伴奏のふたりのギタリストがそんな弾きかたをしているのが大きいんだけど、こんな伴奏をファドで聴いたことないよなあ。そう、ジョアナのばあい、曲もそうだし伴奏のアレンジや演奏も考え抜かれている。ジョアナのどんな味を際だたせるか、徹底して創り込まれているんだね。

 

その後も、伝統的なファドとジョアナらしい軽く明るい新世代ファドとが織り交ぜられて出てくるのだが、全体から受ける総合的なイメージはライトでソフト。そんなファドってあります?ジョアナ独自の持ち味なんじゃないだろうか?もちろんコントラバスもくわえての三人の伴奏陣とそのアレンジ、さらに選曲や曲創りの工夫も大きい。ひとことにすれば、爽やかファド。やはり新世代。

 

9曲目「Barco de sonhos」、13「Lisboa amor e saudade」なんかも聴いてみて。これが果たしてファドなのか?と、イメージをくつがえされるかもしれないよ。伴奏のトリオ演奏も完璧だし、ジョアナは軽く明るいだけでなく、しっかりとした情緒を表現する技巧はすでに最高だし、声にキラキラと同時にしっとりした落ち着きもあって。だから、総合点はかなり高いんだ。

«跳ねる左手 〜 ジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ

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