2019/09/21

ニューポートのマイルズ 1967

150430_bootleg4_cover

https://open.spotify.com/playlist/6LLl0Tg2bir2hGZYeLDRAp?si=QbpqKidJS1K1IgKyDuChZg

 

昨日1966年ニューポート・ジャズ・フェスでのマイルズ・デイヴィス・クインテットのことを書きました。CD だとレガシーの四枚組ボックス『マイルズ・デイヴィス・アット・ニューポート 1955-1975』の二枚目前半ですが、後半が同じクインテットによる67年7月2日出演分なんですね。だから続けて聴いたんです。そうしたら、そっちもなかなかすごいじゃないですか。やはりちょっとメモしておきましょう。

 

1967年の7月というと、前年の10月に録音したスタジオ作『マイルズ・スマイルズ』が2月に発売済み。さらに次作『ソーサラー』も5月にぜんぶ収録しておりまして、それは暮れ12月に発売されることになりました。7月のニューポートというと、ちょうどその中間的な時期ですね。7月2日のニューポートで演奏されたなかに、しかし『ソーサラー』のレパートリーはありません。

 

イントロダクションとクロージング・テーマをふくめても計32分間と短いですが、フェスティヴァルの一幕なので、こんなものだったんでしょうね。演奏は実質四曲。「ジンジャーブレッド・ボーイ」「フットプリンツ」「ラウンド・ミッドナイト」「ソー・ワット」。なかでもやはり最初の二曲が変形ラテン8ビートをともなっていて、耳を惹きますね。

 

特に「ジンジャーブレッド・ボーイ」。このトニーのドラミングがこりゃまた鬼すごいじゃないですか。バンドのリズムは基本4/4拍子で、ベースのロン・カーターが4ビートのラニング・ベースを弾いていますが、トニーはおかまいまくガチャガチャと複雑な8ビート系のポリリズムを入れ込んでいますよねえ。やっぱりすごいドラマーだったなあ、60年代のトニーは。

 

だいたいテーマ演奏がはじまる前からトニーによるイントロはブチ切れていますもんねえ。スネアのリム・ショットも入れながらかなり手数の多い細かい変形ラテン・ビートを生み出しているんですね。テーマ吹奏、マイルズのソロ、ウェイン・ショーターのソロとメーターは振り切ったまま。特にウェインのソロ部でのトニーが鬼の形相で激しく派手に叩きまくっているでしょう。三番手ハービー・ハンコックのソロになるといったんおとなしくなりますが、ハービーがハードに弾きはじめたらそれにあわせてやはりトニーもふたたび表情が変化します。

 

こんな「ジンジャーブレッド・ボーイ」が1曲目なので、もうこれだけで勘弁してくれ〜っていう気分なんですけど、2曲目のウェイン・ナンバー「フットプリンツ」も、バラードなのに3曲目の「ラウンド・ミッドナイト」も、4曲目の「ソー・ワット」も、相当ハードにスウィングしていますよねえ。「ジンジャーブレッド・ボーイ」がこんなにカッ飛んでいなかったら、それらだって相当すごいと聴こえたに違いありません。特に「フットプリンツ」最終テーマあたりでのハービーには要注目ですよ。

 

この1967年には、書きましたようにアルバム『ソーサラー』を完成させているマイルズですが、そのなかには「プリンス・オヴ・ダークネス」「マスクァレロ」といった、リズム表現に重きを置いた二曲があるんですね。それらでは特に、変形ラテン8ビートを表現するトニーのドラミングが聴きものです。アルバム最大の聴きどころにして白眉でもあるし、つまりこのころマイルズはリズム表現の多彩さに踏み込んでいたなと思うんです。

 

そんな音楽的変化が、7月のニューポートでも出ているよねえとぼくは思うんですよね。「ジンジャーブレッド・ボーイ」にしろ「フットプリンツ」にしろ『マイルズ・スマイルズ』からのレパートリーですが、67年7月のニューポート・ヴァージョンでは演奏内容が刷新されていて、『ソーサラー』の内容にあわせた新しいものになっているなと、特にトニーのドラミングにそれが最も顕著に表れているなと、そう感じます。

 

また、この1967年7月のニューポートのステージでは、一曲演奏して次の曲に入る際、間をおかず、音が完全に消えないうちにボスがトランペットでキューを吹きはじめているのがおわかりでしょう。だからワン・ステージがまるで<一曲>みたいにつながっていますよね。これはこの後ずっとマイルズ・ライヴの特徴となった手法で、本格的には同67年冬の欧州ツアーからそうなったんですが、夏のニューポートですでにこのスタイルが完成しつつあったんですね。ジェイムズ・ブラウンらのソウル・レヴューにならったものでしょう。

 

(written 2019.8.25)

2019/09/20

マイルズの1966年ニューポート・ライヴがすごい

3125

https://open.spotify.com/playlist/52dFiN3YERxekbc06xO0oC?si=wB5CNOcPTAOPOmaGU_KPpA

 

1966年7月4日、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演したマイルズ・デイヴィス・クインテットの演奏を聴きなおしたのはうっかりミスでだったんです。どういうことかと言いますと、こないだ1969年ニューポート・マイルズのことを書いたでしょ、そのとき CD をひっばり出してそっちでも聴きかえそうと思って、レガシーの四枚組ボックス『マイルズ・デイヴィス・アット・ニューポート 1955-1975』をテーブルの上に持ってきたわけです。

 

それで1969年分はディスク3冒頭なんですけど、それを聴こうと思ってボンヤリしていて間違えてディスク2を CDプレイヤーのトレイに乗せて再生ボタンを押しちゃったというわけですよ。二枚目前半は1966年分なんです。マイルズ、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズのバンド。ちょうどスタジオ作『マイルズ・スマイルズ』録音の三ヶ月ほど前にあたります。

 

しっかしこの、聴くつもりなくウッカリ聴いちゃった(だから音が出てアレレッ?と思った)1966年マイルズ・クインテットのライヴが、かな〜りすごいじゃないかと、そう感じたんですよね。それ以来くりかえし再生しては感銘を受けるというハメになっているんで、だからここらへんでちょっとこのマイルズ1966年ニューポートの内容がいかにすごいか、メモしておこうと思います。

 

ところでこの時期マイルズ・バンドはほとんどスタジオ録音もライヴもやってなくて、ウェインを迎えたニュー・クインテットになって以後、1965年の1月にアルバム『E.S.P.』を録音したあとは、かの有名な12月のプラグド・ニッケル・ライヴ(シカゴ)までいっさい活動なし。これは以前も書きましたがマイルズの健康状態が悪かったからです。実は66年に入ってからもスタジオ録音なし、ライヴも五月にポートランドで一回やったのみで、その後が今日話題の七月のニューポートで、なんとこれでぜんぶなんですよ。ようやく十月にスタジオで『マイルズ・スマイルズ』を吹き込んだだけ。

 

1967年になったらスタジオ・セッションもライヴ活動もさかんになってきますので、65年初頭の健康状態悪化が66年もまだ続いていたのかもしれないですね。たんなる個人的憶測で、確証はありません。どこかにそのへんの事情を記してあるドキュメントがあったりするかもですが、見つけていないんです。

 

ともあれまだ壮年期の音楽家が、しかも新進気鋭のサイド・メンをかかえてこんな状態では、フラストレイションがたまるいっぽうだったろうと思うんですね。だから1965年12月のプラグド・ニッケル・ライヴもそうだったように、たまのライヴ・セッションでは一気に引火・爆発してしまうのも当然でしょう。66年7月のニューポート・ライヴだってそうなんです。

 

つまりひとことにして激情的。パッショネイトにスウィング、というかハード・ドライヴをくりひろげているんです。それは冒頭の「ジンジャーブレッド・ボーイ」を聴いても実感できることじゃないですか。このジミー・ヒース・ナンバーは10月のスタジオ・セッションで録音し『マイルズ・スマイルズ』に収録されたものですから、7月のニューポート・ライヴ・ヴァージョンはまだ初期型なんですね。それでもうこんな具合ですから。

 

1966年ニューポートの「ジンジャーブレッド・ボーイ」、ちょっぴり頭が切れちゃってますけど、出だしのトニー・ウィリアムズのドラミングからしてぶっ飛んでいるじゃないですか。トニーはこの66年7月ライヴ全体でキレまくっています。トニーはまだ血気盛んな10代の若者だったんで、ボスが(健康状態のせいとはいえ)なかなか活動しないから不満がつのっていたはずです。だからたまのレギュラー・クインテット・ライヴではエネルギーが暴発しちゃうんでしょうねえ。

 

もちろん自身のリーダー作ふくめ、いわゆる新主流派のレコーディング・セッションでみんな活躍していましたけど、ああいったスタジオ作品の特色は<抑制が効いている>というところにありましたから。ナマナマしい一気の発散放出なんてありえません。だからバンドのライヴでは、トニーにしろ、ここで聴けるような猛演奏ぶりになっているんでしょう。ぼくはそう推測します。

 

「ジンジャーブレッド・ボーイ」では、しかもなんだかよくわからないポリリズムをトニーが叩き出していますよねえ。ちょっぴりラテンな変形8ビートみたいなものです。そしてパートによっては4/4ビートになるんですけど、基本、ハービーの弾くブロック・コード連打といっしょになって8ビートを演奏しています。トニーの演奏する8ビートはこのころからロック・ミュージック的ですね。しかもロックにはないしなやかさも兼ね備えています。

 

マイルズもウェインもハービーもソロでかっ飛ばしていますが(特にマイルズ)、いずれも背後でのトニーの猛プッシュあればこそなんです。これは2曲目の「オール・ブルーズ」でも同じ。『カインド・オヴ・ブルー』に収録されていたこの曲はもともと3/4拍子でしたが、この66年ニューポート・ライヴではときおり4/4拍子に展開したり、ふたたび3拍子に戻ったりします。

 

しかもその3/4拍子パートはかなり速くて細かくて、まるでハチロクのビートに接近しているかのように一瞬聴こえないでもないですよねえ。こういうふうにビートを細分化するのがリズム展開ではおもしろいところなんですけど、そのせいでここでもちょっぴりロック・ビートに似て聴こえたりするんですね。そうでなくともトニーがおかずをガチャガチャとたくさん入れて、かなりにぎやかなドラミングを聴かせていますし、そのせいでハード・スウィンガー、いや、ドライヴァーになっています。4ビート部分ではそうでもないんですけど、3ビート・パートでそうなっていると思うんですね。

 

続く3曲目のバラード「ステラ・バイ・スターライト」も驚くべき演奏内容ですよ。バラードと書きましたが、途中からなんと急速調に展開し、ハードにグルーヴしはじめるんですね。これ、本来はあくまできれいにやるリリカル・バラードなんですよ。ところが一番手マイルズのソロ途中の二分すぎごろからトニーが突然アップ・ビートでシンバル・レガートをやりはじめ、バンド全体で激しくノリはじめてしまっているでしょう。まるで夜空のもと猛ダッシュで駆けているかのような演奏じゃないですか。

 

ハードにドライヴしたままウェインのソロに入り、その途中でいったん落ち着きますが、やはりミドル・テンポで軽快にスウィングしているので、美しいバラードといった雰囲気はないですよね。三番手ハービーのソロ途中で、またもやトニーがアップ・ビートにチェンジし、激しい演奏になったままマイルズに戻り、苛烈な演奏で「ステラ・バイ・スターライト」は終了してしまいます。

 

残り二曲の「R.J」「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」もグルーヴ・チューンですし、いったいなんでしょう、この1966年7月のニューポートにおけるマイルズ・クインテットはハードに突き進むばかりの展開で、その中心に(マイルズと)トニーがいて、猛プッシュでみんなをぐいぐいひっぱっているという、そんなステージだったのではないでしょうか。いやあ、すごいなあ。若さゆえってことでしょうかねえ。若くてエネルギーに満ちていたのに、ボスがなかなかライヴをやらないもんだから、たまのこういった機会で自己制御できず爆発しちゃったんでしょうか。

 

(written 2019.8.24)

2019/09/19

さわやかな、マリア・テレーザ

Snl9umjashugviw7jw7jdw

https://open.spotify.com/playlist/5wO6v4Dd1nxK6OnvjtBNmR?si=pPSPzEv5RlKNmX0ooDEolw

 

http://elsurrecords.com/2019/03/01/maria-teresa-de-noronha-integral/

 

https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-27

 

今2019年の、初春ごろ、いやまだ冬だったか、日本でもふつうに買えるようになったマリア・テレーザ・デ・ノローニャ(ポルトガル)の全集ボックス。そのうち最後の DVD を除いた CD 収録分はもちろん残さず Spotify で聴けますので、一個にまとめたプレイリスト(上掲、全六時間半)をふだんから BGM にしてずっと楽しんできています。だから、そろそろこのへんでちょっとした感想メモを手短に記しておきたいと思うんですね。

 

それは簡単に言って、マリア・テレーザの歌はさわやかで口あたりがよく、スムースでナチュラルだなっていうことです。重くない。同じファド歌手で同世代だとやっぱりアマリア・ロドリゲスが圧倒的な存在だと思いますが、アマリアにある濃厚さ、激しさ、情緒表現の過剰さ、重さは、もちろんそれがアマリアの魅力なんですけど、マリア・テレーザには薄いですよね。

 

薄いっていうのは悪いことじゃなくて、マリア・テレーザの全集を聴いていて感じるのは、清廉さですよ。しかもなんだかちょっとキラキラしていて明るいっていうか、さわやかで心地いいような、そんな声と歌じゃないでしょうか。特にメイジャー・キーの曲だと。伴奏サウンドはアマリアと同じような典型的なファドのそれですから、違いは主役歌手のヴォーカル資質です。

 

マリア・テレーザのファドでは、ときおり地中海の、あ、いや大西洋か、の青さを連想させるような、その上に青い空がひろがっているような明るさもあるっていうか、そんなさわやかなサッパリしたフィーリングが聴けますよね。(悪い意味でなく)軽い。そして濃すぎずやわらかい。こういったことがマリア・テレーザのファド全集を聴いていて感じる最大の要素です。

 

だから、何時間続けて聴いても、マリア・テレーザのファドは疲れないです。どんどん聴いて、いいなあ〜っていう心地よさを感じて、部屋のなかでおだやかな気分でゆっくりすわっていられます。心にさざ波が立たないっていうか、ときには立ったほうが刺激的でいい音楽作品ってことになるかもですけど、ふだんの愛聴盤としては薄味でサッパリさわやかなほうがいいですよね。

 

マリア・テレーザのファドは普段着姿の大人の女性っていう感じで、決して飾りすぎず、派手でけばけばしくなく、ヴォーカルにおける感情の表出もストレートで素直で、ナイーヴに感じることすらあります。豪放さはなく繊細ですし、いま2019年にオススメできるファド黄金期の歌手を選ぶならば、ナチュラルでなめらかなマリア・テレーザじゃないですかね。現代のフィーリングにフィットするような気がします。

 

それでもファドですから、哀切に満ちてはいるんですけどね。マリア・テレーザのばあいは、その哀切がひとびとの日常の生活感覚に根ざしたものだっていう気がするんです。

 

ただまあ全集となると DVD ふくめ全七枚とサイズも大きく、エル・スールで12800円と高価でもあるので、これからむかしの(黄金期の)ファド歌手をちょっと聴いてみたいんだけど…、という向きにそのままではオススメしにくいような気がしないでもないです。ですから Spotify とか活用なさっているかたならばそちらで聴けますので、ちょっと覗いてみてください。フィジカル派には、CD で二枚組程度のベスト盤みたいなのがあったら喜ばれるのになあ〜って思います。

 

(written 2019.8.26)

2019/09/18

衝撃のチャールズ・ロイド『ヴァニッシュト・ガーデンズ』

9

https://open.spotify.com/album/2q6z7yobPwN2YTkR8U4i1z?si=IeCXe3NISU-kqs1eofePXg

 

チャールズ・ロイドがマーヴェルズを率いルシンダ・ウィリアムズと組んだコラボレイション・アルバム『ヴァニッシュト・ガーデンズ』(2018)が傑作でしたよねえ。ぼくが知ったのは今年に入ってからのことです。なにかのきっかかで Spotify で気づき、どんなもんかちょっとだけ…、と軽い気持ちで聴きはじめ、ぶっ飛んじゃいました。なんてスケールの大きい、懐の深く広い、そして情け深くあったかい音楽なのでしょうか。ロイドもいい歳なんで最近あなどっていました。ごめんなさい。

 

シンガー・ソングライター、ルシンダ・ウィリアムズと組んだのが今回の大きな目玉でしょうけど、マーヴェルズを率いる近年のチャールズ・ロイドははじめて聴きましたので、このサウンドにはかなりビックリしました。バンドの中核はエレキ・ギターのビル・フリゼールとペダル・スティール・ギターのグレッグ・リーズの二名です。この二名の出す浮遊感とひろがりのあるサウンドは、アメリカーナへと大きく舵を切ったいまのロイドにとってまさにピッタリ。

 

アルバム『ヴァニッシュト・ガーデンズ』の全10曲は、偶数曲がルシンダのヴォーカルが入る彼女自身のオリジナル・ソング(過去曲の再演あり)で、ロイドのテナー(と一曲だけフルート)をフィーチャーしたインストルメンタル・ナンバーと交互に並んでいます。ルシンダのヴォーカルがあってもなくても、サウンドの統一感に差異や乱れはなく、全体がスーッと違和感なく流れていきますね。古参人のジャズ・アルバムとしては驚異的とも言えるかも。

 

ロイドがルシンダと組んだのは、たぶん彼自身の近年の音楽性ゆえですよね。悠然とした広大なアメリカの大地をおもわせるようなフォーク、カントリー、ブルーズ、ゴスペル、ジャズ、ロックなど、さまざまなルーツ・ミュージックが渾然一体とした近年のいわゆるアメリカーナを表現する方向にロイドは向いているので(その点、ビル・フリゼールの貢献も大と思えます)、そんな世界でいぶし銀の歌を聴かせるルシンダとのコンビを考えたのでしょう。

 

アルバム出だしの「ディファイアント」の出来がとにかくすんばらしくて、もうぼくにとっては衝撃ですらあったほどの見事さで、なんなんですか、ロイドのこのテナー・サックス・ブロウは。二名のギターリストがからみあいながら創る空間で、印象的なハチロク(6/8拍子)のビートに乗って、ロイドは実に雄大な演奏を聴かせます。しかもこのフィーリングというか情緒感がこれまた物哀しくて切なくて、もう聴いていて感極まってしまうんですね。

 

ロイドのテナー・プレイは、ひょっとしたらいま絶頂期にあるのかもしれないとすら思えるほど、このアルバムでは絶好調じゃないでしょうか。切なくしかし力強い音色、怒涛の迫力ブロウ、大きくしかも細かくフレイジングしていく奔放自在なさま、リスナーの心にすっと自然に入ってきて揺り動かすような、そんな感動的な表情 〜〜 どこをどう切り取っても現在最高のジャズ・テナー演奏家かもしれないです。

 

アメリカのなにもない広大な大地を思わせるような、そんな悠然としたサウンドをつくるのに貢献しているのは、やはり二名のギターリストですね。ビル・フリゼールとグレッグ・リーズの二人をバンド・サウンド形成の中核に据えたことも、ロイドの目の確かさを物語るものですし、いま自分がどんな方向性の音楽を目指しているのか、そのためにはどんな演奏家を呼べばいいのか、しっかりわかっている証拠です。

 

アルバム・タイトル曲の3「ヴァニッシュト・ガーデンズ」では、バンド・メンバーの四人がまったく対等な比率でからみあいながら演奏が進むのも印象的で、ほとんどの曲でロイドを大きくフィーチャーしているだけに、ここではテナー、2ギターズ、ベース、ドラムスとみんなが同じように音を出しながらコレクティヴ・インプロヴィゼイションをくりひろげているのがおもしろいところです。

 

後半で熱く(特にドラマー)盛り上がる8曲目「アンサファー・ミー」を経て、アルバム・ラストの二曲は有名曲のカヴァーです。セロニアス・モンクの「モンクス・ムード」とジミ・ヘンドリクスの「エンジェル」。しかもこれら二曲では伴奏がビル・フリゼールひとりだけなんですね。「モンクス・ムード」ではロイドとのデュオで、「エンジェル」ではそれにルシンダの歌が入るトリオでという具合です。

 

それら二曲での落ち着いたフィーリングもなかなかの聴きもので、ぼくは大好きですね。こういった静かなムードで、動的なアルバムをしめくくったのには、ロイドのトータリティ志向があるんじゃないかと思います。「モンクス・ムード」のほうは標準的な演奏内容かもしれませんが(どっちかというとビルの生み出す空間を聴くものかも)、ジミヘン「エンジェル」はおそろしいと思いますよ。心の奥底から滲み出てくるような悲哀に満ちていますよね。三人ともすごい。

 

(written 2019.8.22)

2019/09/17

音楽で味わう幸福 〜 エラとルイのデュエット集

Fullsizeoutput_20ef

https://open.spotify.com/album/07tbMxw9qeVsNIq0l7xBBX?si=OcPAN9F-TQSpQZ5FdKBoGg

 

昨2018年のリリースだったエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングの『チーク・トゥ・チーク:ザ・コンプリート・デュエット・レコーディングズ』。もう何回聴いたかわからないほど聴いています。こんなにも幸せな気分になれる音楽もなかなかありませんからね。ぼくにとっては最高の音の幸福なんですね。音楽命の人間ですから、音の幸福の最高ということは、人生で No.1のハピネスってことです。

 

『チーク・トゥ・チーク』は、おなじみ『エラ・アンド・ルイ』『同アゲン』『ポーギー・アンド・ベス』を基本として、エラとルイのデュオ歌唱集を、デッカでのシングル盤音源までふくめてあらいざらいぜんぶ集大成した、CD なら四枚組。サウンドの幸福感という点に絞って言えば、『アゲン』が終わる三枚目冒頭まででじゅうぶんじゃないでしょうか。やっぱり『ポーギー・アンド・ベス』パートに入ると雰囲気かわっちゃいますからね。

 

そんでもって『チーク・トゥ・チーク』四枚目は、ほんのちょっとのライヴ音源のほかは別テイク集ですから、これもあまり考えなくていいように思います。幸せな気分にひたれるのは、四枚八曲のデッカ・シングルズ、『エラ・アンド・ルイ』『同アゲン』分で、完全集 CD だと三枚目の2曲目までということです。『ポーギー・アンド・ベス』もいいんですけれども。

 

エラとサッチモのデュエット集となれば、ふつうみんな『エラ・アンド・ルイ』から思い浮かべるだろうなと思うんですけど、完全集『チーク・トゥ・チーク』ではその前にまずデッカ・シングル音源八曲からはじめています。たんに録音・発売順ということですけど、そうでなくともこの順序が大正解だと思えるんですね。だってこの八曲のフィーリング、極上じゃないですか。

 

デッカ・シングルズではジャズ・オーケストラが伴奏をつけています。そのビッグ・サウンドに乗ってエラとサッチモがシルクのようななめらかさで歌いつづっていくラヴ・ソングの数々。かけあいながら、ソロで、会話しながら、このリラクシングなムードを最高度にまできわめていますよね。ここまでのシルキーな音楽はなかなかないと思いますよ。ぼくからしたら、この『チーク・トゥ・チーク』こそ No.1のシルキー&メルティ・ミュージックです。

 

そのデッカ・シングルズからそうなんですけど、扱っているラヴ・ソングの歌詞のなかには、哀しく切なくさびしいロスト・ラヴがわりとありますよね。9曲目以後の『エラ・アンド・ルイ』『同アゲン』パートまでぜんぶふくめて見てみたら、どっちかというと失恋を歌い込んだもののほうが多いはず。想いが実っているようなハッピーなウキウキ恋愛歌は少ないんですね。

 

ところが、エラとサッチモが歌っているのを聴くと、そんなつらい感触などぜんぜんありません。あたたかく(夏なら涼しく)空調の効いた居心地のいい部屋のなかで、ロッキン・チェアにすわりながらくつろいで、ゆっくりと楽しんでいるような、そんなフィーリングで全体が統一されていますよね。これはたぶんかなり驚くべきことだと思うんです。どんな歌をやってもハッピー&メロウに聴かせる二名の歌手の実力の高さということですよ。

 

伴奏もそんな雰囲気に沿って実にいい感じのなめらかさじゃないですか。デッカ・シングル音源ではオーケストラですけど、『エラ・アンド・ルイ』『同アゲン』パートで伴奏をつとめるのはオスカー・ピータースン・カルテット。オスカーのピアノのほか、ハーブ・エリス(ギター)、レイ・ブラウン(ベース)、バディ・リッチ or ルイ・ベルスン(ドラムス)。

 

彼ら四名の伴奏ぶりも、熟達の腕前とはまさにこのことだというようななめらかさじゃないですか。四人とも決して目立たず、弾きすぎず、地味に地味に歌伴に徹していますが、ここぞというツボだけを着実におさえていくような、そんな名人芸をここに聴きとれます。どこでどんな音をどんなタイミングで置けば、エラやサッチモの歌(やトランペット)が最高度に輝いて聴こえるか知り尽くしている演奏家たちの、まさにプロの仕事です。

 

そんな円熟の極みのような伴奏に支えられ、フロントで歌う二名もつとめてムードを出すように、このシルキーな音楽をなめらかに表現するように、きれいにきれいに歌っています。これはしかし、決して甘い世界というわけじゃありません。伴奏者たちもエラもサッチモも、このなめらかできれいで白鳥のようなスムース音楽表現の水面下では、必死で水かきしている努力がうかがえますよね。

 

しかし表面的にはそれを絶対に見せないっていう、それがプロというものでしょう。演奏も歌も、最高のプロフェッショナルたちが揃って、失恋歌をかなり多くふくむラヴ・ソングの数々を、あくまでどこまでもやさしくやわらかく、メルティ&メロウに徹して創りあげた結果が、『チーク・トゥ・チーク』で聴けるシルキー・ハピネスなんですね。

 

まったく感服するしかない世界ですが、しかしふだんは聴いていてそんな考えにもおよびません。ただただ、この聴こえてくる楽しく幸せな音楽の世界に身も心もひたして、部屋のなかでゆっくりくつろいで 、日常の、人生の、細々したいやなこと、つらいことを忘れていくだけです。プロがプロの技に徹して届けてくれる音楽の最高娯楽、それが『チーク・トゥ・チーク』なんですね。

2019/09/16

ナンシーのモルナ集がいいよ 〜『マーニャ・フロリーダ』

71xciigq0l_sl1200_

https://open.spotify.com/album/4aVnUc5xZKouziXNAVHr8S?si=calhLZv0R1qzeJATOsGerg

 

カーボ・ヴェルデの歌手、ナンシー・ヴィエイラの最新作『マーニャ・フロリーダ』(2018)。淡々としていて、実にいいですねえ。やっているのはだいたいモルナばかり。カーボ・ヴェルデ音楽のなかでもポピュラーな種類のものですね。ゆっくりと座って聴くような歌謡音楽です。カーボ・ヴェルデにはコラデイラやフナナーみたいなダンス・ミュージック系もあるんですけど、ナンシーのこの『マーニャ・フロリーダ』のなかでは少数です。

 

少数とはいえ、それらもなかなかいいっていうのが事実。アルバム『マーニャ・フロリーダ』のなかでは、たとえば5曲目の「Bocas di Paiol」がコラデイラですね。聴けばわかるように快活なダンス・ミュージックになっていますが、演奏も歌も出来がいいのではないでしょうか。オブリガートで入るソプラノ・サックスも効果的です。伴奏は、このアルバムもやはり基本ギター(系弦楽器)多重奏で、このコラデイラ・ナンバーでも変わりません。4曲目「Sô Um Melodia」と9曲目「Fé d'Um Fidju」も若干コラデイラ寄り(のモルナ?)かな。

 

でもこれらだけ。ほかはどこまでも歌謡音楽モルナなんですね。このアルバムでのナンシーはじっくりと歌を聴かせようっていう、そういう目論見があったんだなというのは間違いないと思います。しっとりと歌い込んで、現在カーボ・ヴェルデ No.1と言えるかもしれない歌のうまさを味わってもらおうっていうプロデュース意図だったのかもしれないですね。

 

アルバム全体を通して聴くと、ゆったりモルナ系ばかり続くので緩急に乏しく、だからちょっと一本調子に響かないでもないですね。だからそんなたいしたアルバムじゃないのかもしれないけど、でも当代随一のこの歌手の実力を味わうのにはもってこいの作品になっていると思いますよ。繊細微妙なヴォーカル・ニュアンスの変化、表情のつけかたなど、すばらしい歌のできばえだと言えます。

 

個人的にいちばん好きなのは、なぜか3曲目の「Les Lendemains de Carnaval」です。これ、でも曲題もそうだけど歌詞がフランス語ですよね。アルバムに収録されているのを聴くと、べつにフランス色はしないふつうのモルナ・ナンバーですけど、これ、どうしてフランス語なんでしょう?歌詞と曲を書いたのがセザーリア・エヴォーラとのコラボで知られるテオフィロ・シャントルですけど、セザーリアの歌ったなかにこの曲あったっけなあ。

 

ともかくナンシーのこの「レ・ランドマン・デ・カルナヴァル」は本当にいいと思います。最初ナイロン弦ギター一台だけでの伴奏でテンポ・ルパートで歌いはじめるパートから引き込まれますし、その後カヴァキーニョや打楽器なども入って軽くテンポ・インしてからも、ナンシーの歌はゆっくり落ち着いていて、じっくり聴かせるフィーリング。実にいいですねえ。その後、ゲスト歌手のラファエル・ラナデールが歌い、曲後半はナンシーとラファエルとの合唱で進むのもグッド。

 

(written 2019.8.19)

2019/09/15

カラオケの出現

Img_0228

https://twitter.com/pitchfork/status/1148849358059843584

 

いまやすっかり世界で通じる国際語のカラオケ(Karaoke、カラオキ)。ピッチフォークのこの記事では、日本でこれが初登場したのが1971年だったとなっていますが、これは意外でした。もっと遅かったと思っていましたから。実際、ぼくがカラオケ装置というものに出会ったのは1982年に大学院に進学してからで、当時、カラオケ・バーみたいな場所に誘われてついていって歌ったというのが初体験でした。

 

いまでも鮮明に憶えていますが、当時、修士課程一年生のとき、東京都立大学大学院英文学課程の同級生中野くん(専門はシェイクスピア)に誘われて、院生数人で自由が丘のカラオケ・バーに行ったのです。東横線で都立大学駅の隣ですからね。これが人生初のカラオケ体験。中野くんは飲むのが好きなやつで、ぼくは下戸だけどみんなで楽しく騒ぐのは好きだから、八雲での大学院の授業が終わったあと、いっしょによく遊んでいました。

 

そのときぼくがなにを歌ったか、うまい歌だったのか、なんてことはどうでもいいです。上掲ピッチフォークの記事でカラオケを1971年の項に位置付けているのは、記事中にもありますように、井上大佑の主張をくんでのものですね。しかしカラオケを井上の発明としてしまうのはちょっとどうかとぼくは思います。生演奏による伴奏をぜんぶの機会で実行するのはかなり大変だからあらかじめ録音しておいてそのテープを…、という発想はもっと前からあったでしょうし、実行もされてきていたでしょう。

 

歌手や音楽家ではないぼくたち一般庶民がストレス発散の娯楽としてカラオケ(バーやボックス)で歌うという装置の登場が1971年と言われたら、最初に書きましたように意外なほど早かったんだなと感じますが、プロ音楽現場では、たとえばバック・バンドの演奏だけ先に完成させておいて、リード・ヴォーカルをあとから吹き込むという手法は、1960年代後半には一般的でしたからねえ。そんなのはいわゆるカラオケじゃないよ、と言われそうですけど、同じことです。そんな種類の発想からいわゆるカラオケが誕生したのは間違いありませんから。

 

マイナスワンということばをご存知のかたもいらっしゃるでしょう。たぶん歌というより楽器演奏練習法のひとつとしてあるものですが、曲の完成品から1パートだけ削除したもののことです。お目当の楽器の音だけ抜いたそれを聴きながら、その伴奏にあわせて自分の楽器を演奏して練習するんです。いつごろからあるのかなあ〜、もう死語だと思うんですけど、いわゆるカラオケの登場と相前後するのではないかと思うんです。ジャズの世界で使われることばなんですかね〜、マイナスワンって。よくわかっていません。

 

歌ということに話を限定すると、レコード収録などのスタジオ、あるいはラジオ放送、テレビ放送などで、完成品の録音済み伴奏を流して、歌手はそれを聴きながら現場で歌うという手法は1960年代からあったんじゃないかと推測します。娯楽目的の一般のファン向けにも、マイク入力つきの8トラ・ミュージック・ボックスや伴奏用ミュージック・テープなどが、いわゆるカラオケ普及前から存在したみたいですよね。

 

ですけれども、いわゆるとくりかえしておりますように、みんなが知っているあのカラオケ装置の爆発的普及以前と以後とで、ぼくたち一般のファンがふだん歌を歌って享楽のひとときを過ごすという体験が根本的に変化したのは間違いありませんよね。それがぼくの実感だと1980年代初頭ごろからだったんですけど、実際にはもっと早かったんでしょうね。

 

一般にカラオケは演歌やそれに近い歌謡曲分野を中心に、まずは普及していったと思うんですが、それらの分野、特に演歌かな、ある時期以後はシングル CD を発売する際にも、メインの歌とカップリング曲のあとに、カラオケ・トラックを収録してあるのが一般化していますよね。大好きな岩佐美咲ちゃん(わさみん)も例外ではありません。

 

わさみんのシングル CD に入っているカラオケ・トラックのばあい、しかしぼくたちファンの娯楽用というだけではない目的があるかもしれないです。歌唱イベントやコンサートでのわさみんは、基本、カラオケ伴奏で歌っているからです。CD 収録のものを(短縮編集したりもして)使っているのではないでしょうか。そんな気がします。

 

ほぼ毎週末ごとに全国各地で行われているわさみん歌唱イベントでは、その現場その現場の音響スタッフさんがオケをコントロールして流すわけですから、どこで歌唱イベントやるかによってその担当者はかわります。だからその際、どなたが担当なさろうとも同じオケが流れるようにしておくのは、わりと大切なことなんじゃないかと思えるんですね。

 

わさみんだけでなく演歌系の歌手のみなさんはどんどん各地でイベントをやり、ショッピングモールのなかの広場や、レコード・CD ショップなどのイベント・スペースなどで歌っているのが通例だと思いますが(いわゆる地方営業)、そんな歌手のみなさんも、たぶんですけど、わさみんみたいにシングル CD 収録の作成済みのカラオケ伴奏を流して、それにあわせて歌っているんじゃないかという気がするんですね。

 

いわゆるカラオケ装置って、最初は一般のリスナー、音楽ファンの日常の娯楽に供するために開発・提供されたものに違いありません。もちろん上で書きましたようにその起源は、プロ歌手が、ある時期以後は完成済みの伴奏をスタジオで聴きながらレコード収録などやるようになっていたことにあるとは思いますが、現在のいわゆるカラオケは、ファンのためのものです。

 

それが、わさみんや演歌系のみなさんなど、最近はプロ歌手でも現場で使うようになっているというのはなかなかおもしろい現象ですよね。もちろん、プロ歌手の歌唱現場での伴奏がカラオケでいいのか?!という疑問というか不満を表するかたは一定数いらっしゃるようですね。理解はできる気持ちなんですけど、たとえばわさみんも機会を捉えて生バンド演奏で歌ってはいるんですよね。

 

それにですね、どんなに立派なプロ歌手だって、レコードや CD 収録などの際に生バンドとの一発同時演唱でやる、やれる、というかたが、はたしてどれほどいらっしゃるのでしょうか?ずいぶん前に、生前の美空ひばりさんが原信夫さんのシャープス&フラッツを従えて、一発同時演唱でレコード収録をしていらしたと、読みました。

 

そんなのは伴奏者の側にもたいへんに高い緊張が要求されるんですね。前で歌う歌手が完璧な歌を聴かせている真っ最中に、もしミス・トーンでも出したらすべてがオジャンですからね。またぜんぶいちからやり直しとなります。歌うほうも伴奏するほうも、かなり神経すり減らすのではないでしょうか。完成品の精度・練度を簡便に上げるという意味では、伴奏トラックだけを先に完成させておいて、スターである歌手はあとから、そのカラオケを聴きながら歌入れする、これがある時期以後は一般化したはずですし、いまはほぼ全員がこのやりかたで行っていると思いますよ。

 

(written 2019.7.27)

2019/09/14

野太い真性アフロビート・ジャズ 〜 マイケル・ヴィール

D0010432_21153764

https://music.apple.com/jp/album/vol-two/1445521828?l=en

 

Astral さんに教えていただきました。
https://astral-clave.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12

 

イエール大学で教鞭をとる音楽学者、マイケル・ヴィール。フェラ・クティやアフロビート研究の世界的権威らしいんですが、もうひとつの顔がミュージシャンということで、担当楽器はエレキ・ベースです。やっている音楽もド直球なアフロビート。しかもジャズ・フュージョンふうにアダプトしたとかいうんじゃなく、もろそのまんまなフェラ・クティ仕様のアフロビートをやって、それをジャズに展開しているっていう、そういう音楽家です。

 

そんなマイケル・ヴィール&アクア・イフェの最新作が『Vol. Two』(2018)。これがすごいんですよね。重たくずっしりくる正統派、王道のアフロビートで、なおかつそのままジャズをやっています。こういうのはアフロビート・ジャズっていうんでしょうか、ジャズ・ミュージシャン、DJ、プロデューサーたちのあいだでもアフロビートは人気で、どんどん取り入れ横断されていますが、このマイケル・ヴィールのやりかたはひとあじもふたあじも違います。

 

さすがはフェラ・クティ研究家だけあるっていう、野太い剛球ストレートなアフロビートを展開していて、それはリズム・パターンだけ拝借した(とかいうものは多いし、ぼくは決して嫌いじゃないというか大好き)んじゃありません、バンド・アンサンブルまるごとがフェラ・クティ・マナーなんですね。これはアフロビートが先かジャズが先かわからないっていうような、完璧な一本化じゃないでしょうか。

 

そのへんとてもよくわかるのが4曲目の「スーパー・ノーヴァ」です。そう、ウェイン・ショーターのあの曲ですね。ここでのマイケル・ヴィール・ヴァージョンだと、まずソプラノ・サックス・ソロがあって、そのあとにホーン・アンサンブルでかの有名テーマが演奏されます。そこを聴いてほしいんですけど、フリーなアヴァンギャルド風味だったウェインのあれが、完璧なアフロビート・アンサンブルに変貌しているじゃないですか。

 

しかも「スーパー・ノーヴァ」でも、この野太いグルーヴに貫かれています。リズム・セクションが、といった次元ではなく、バンド全体の出すサウンドにゴッツイ感じがありますよねえ。これ、もともとはジャズ・ナンバーだったんですからねえ。いやあ、ここまでのアフロビート仕様なジャズが仕上がるなんて、マイケル・ヴィール、すごいなあ。「スーパー・ノーヴァ」だけでなく、収録曲はどれも熱くごりごりハードなグルーヴをしていますよね。決してシャープじゃない(いい意味で)。

 

ヴォーカルはいっさいなしのマイケル・ヴィール『Vol. Two』。上に乗るサックスなどの管楽器ソロもたいして意味を持っていないようにぼくには思え、なんたって聴きどころはこのバンド・トータルでのグルーヴの野太さにあると思います。やっぱりアフロビートって聴くのにちょっと気合がいるなというのはこのアルバムでも変わらない印象なんですけど、準備万端で聴けば最高のジャズ作品のひとつが登場しました。ぶっといグルーヴに身をひたしたい気分のときはこれ以上ないアルバムです。

 

(written 2019.8.17)

2019/09/13

ザクザク気持ちいいジュニオール・フェレイラのアコーディオン

1007850176

https://open.spotify.com/album/4dmztbYKuEFHMC4Q5eCDJM?si=TZWW9lpoT9qpb1q6z8BQew

 

bunboni さんに教わりました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-07-20

 

ブラジルはバイーア州出身らしい新人アコーディオン奏者、ジュニオール・フェレイラ。そのデビュー・アルバム『カーザ・ジ・フェレイラ』(2018)は、個人的にショーロ作品だと感じます。バイーア人らしいリズムの快活さ、多彩さも目立つ愉快な『カーザ・ジ・フェレイラ』で、本人は歌ってもいますが、そっちのほうはぼくはイマイチ。やっぱりアコーディオンの腕前の確かさにうなりますね。

 

だからアルバム『カーザ・ジ・フェレイラ』でも2曲目の出だしからオオッ〜ってなるんですね。リズムはいかにもバイーアふう。ドラマーのリム・ショットも効いていますが、その上にばば〜っとアコーディオンのサウンドが小気味よく乗ってきたらも〜う快感ですね。途中のエレキ・ギターふくめ、アド・リブ・ソロも歌心満点で、それはやっぱりショーロのそれ由来だなと思わせるのも好感度大。

 

4曲目、5曲目、7曲目、8曲目、11曲目、12曲目と、ほ〜んとリズムのおもしろい曲が多く、カヴァー・ソングもありますけど、ジュニオールの自作だといかにもやっぱりバイーア出身だけあるなというリズム感覚です。しかもその上に自身の軽快な小気味いいアコーディオンが乗ると、心地良いのひとことです。さわやかで、サッパリしていて、ほ〜んと軽やかで気持ちいい!

 

しんみりしたバラード系みたいなのも聴きもので、特に6曲目「Jorge do Fusa」、そしてなんといっても10曲目「Mais Que Bem Querer」は特筆すべきいい出来です。後者なんか、伴奏はいっさいなしのアコーディオン一台だけでの弾き語りなんですもんね。いちおうゲスト・ヴォーカリストがいますけど、ここまでできるジュニオールのアコと歌(もここではグッド)に感心します。ガロートの書いた前者でも、冒頭の無伴奏ソロ部なんか思わずグッと引き込まれるすばらしさ。

 

アルバム最大の聴きもの、白眉は、ぼく的にはラスト12曲目の「Assovio de Cobra」ですね。高速ナンバーなんですけど(フレーヴォ)、アルバム中これでだけホーン・アンサンブルが起用されています。ビッグ・バンドふうにも響くその管楽器のサウンドがこれまた歯切れよく、ジュニオールの弾くアコーディオンとからむと、なんともいえないさわやかみがありますね。サックスやトロンボーンのソロなんかもありますが、やっぱりその後のジュニオールのアコ・ソロのテクニシャンぶり、それなのにそうと感じさせないさわやかな軽快さにゾッコン参っちゃいました。

 

(written 2019.8.16)

2019/09/12

わりかしふつう、ラテン・ジャズ最前線??〜 カーティス・ブラザーズ

A2447243802_10

https://open.spotify.com/album/4pmkKBYuZRCoS78iBFsOAb?si=KQ-gCQvkRLu8H43ofWTKDQ

 

<ラテン・ジャズ最前線>などという謳い文句をみかけたので、それについついうっかり釣られて聴いたカーティス・ブラザーズの最新アルバム『アルゴリズム』(2019.8.23)。これ、しかしふつうのハード・バップ作品じゃありませんか。ことさらラテン・ジャズというほどの内容じゃないよう〜。いま2019年にこういった1950年代的ハード・バップがどこまで意味を持っているのかわかりませんが、でも最近ふだんは聴かなくなっているスタイルですから、かえってちょっぴり新鮮で、最後まで聴いちゃいました。そんでもって、ほんのりかすかにはラテン色がありますね、たしかに。

 

ラテン・ジャズ云々と言われるのは、カーティス・ブラザーズの実体であるベーシストの弟ルケス・カーティスと兄であるピアニストのサッケイ・カーティスがプエルト・リコ系のジャズ・メンだからじゃないでしょうか、たぶん。でもってラテン、サルサ系の音楽家との共演キャリアもしっかりあって、といったような両名の素性・経歴でもって、そんなレッテルを貼られているということだろうと思います。

 

しかし中身はふつうのハード・バップである『アルゴリズム』収録の九曲はすべてサッケイが書いているらしく、またバンドのメンツはピアノとベースのカーティス兄弟に、ブライアン・リンチ(トランペット)、ドナルド・ハリスン(アルト・サックス)、ラルフ・ピータースン(ドラムス)。そしてどうやらこのアルバムはライヴ収録のようですね。

 

ごくごくあたりまえにふつうのハード・バップである1曲目「スリー・ポインツ・アンド・ア・スフィア」で幕開け。この後も基本この路線で進むんですが、なかにところどころラテン・ジャズっぽい演奏も出てきますので、そういった部分だけメモしておきます。2曲目「ファイ」でドラマーのラルフ・ピータースンがちょっとおもしろいキューバン・ビートを叩き出していますね。サッカイのピアノとあいまって、ちょっぴりボレーロ/チャチャチャっぽいといえるかも。ホーン・アンサンブルもそんな感じですね。

 

ドラマーのことを書きましたが、実際このラルフ・ピータースンは、今作においてはカーティス兄弟以上の主役ですね。あたりまえの4/4拍子のメインストリームなジャズ・ビートを演奏しているときにでも、手数多めでにぎやかで、ややポリリズムっぽい入り組んだリズムを表現していますよね。このアルバムを最後まで飽きずにぼくがなんども聴けたのは、ひとえにラルフのドラミングのおかげと、あとはベテラン、ドナルド・ハリスンのパッショネイトなアルト・サックス・ソロのおかげです。

 

4曲目「パラメトリック」。これは完璧なラテン・ジャズだといえましょう。いやあ、こういった曲や演奏はいいですねえ。サッカイのコンポジションもピアノ演奏も見事です。各人のソロ内容もいいですが、やはりぼくはそれらのバックでサッカイが弾くややサルサっぽいノリのブロック・コード伴奏と、ラルフのポリリズミックなドラミングに耳が行きます。

 

ラテン・ジャズとはいえないものの、かなり美しいバラードである5曲目「トーラス」を通過し、7曲目の「アンディファインド」。これがかなりの聴きものです。ストレート・ジャズとラテン・ジャズの中間あたりにあるような曲ですけど、熱量がハンパじゃないです。各人のソロ内容も、特にドナルドのアルトなんか、聴いているこっちが溶けそうになるほどパッショネイトですし、みんなの背後でラルフがこれまた壮絶なドラミングを展開しているのが白眉ですね。いやあ、この7曲目の演奏はマジすばらしい。

 

この激アツな7曲目をアルバムのハイライトとし、あとは一種のクール・ダウンみたいなもんですね。しかしラストの9曲目「センセイ」は特筆すべき出来ですよ。このラスト・ナンバーだけホーンはおやすみのピアノ・トリオ演奏なんですけど、三者が三者とも複雑なラテン・リズムを、それもかみあわないズレたそれを各々がレイヤーしているんです。ことにピアノのサッカイとドラムスのラルフのスリリングなインタープレイには耳を奪われますね。この三人でこういったラテン・ポリリズミックなピアノ・トリオ作品を創ればいいのに。そう思わせるほどチャーミングに聴こえます。

 

(written 2019.9.10)

2019/09/11

アイリッシュ・フィドル・ミーツ・インディ・クラシック 〜 マーティン・ヘイズ

A4246902958_10

https://open.spotify.com/album/2iGUlszOxQeRFb7x31UiP0?si=JO_ndURjQbymyvLPymoPvQ

 

これってクラシック音楽のアルバムかと思っちゃいますけど、実際そういった側面はあるかと思います。アイリッシュ・フィドルの演奏家マーティン・ヘイズの新作『ザ・バタフライ』(2019.8.9)。共演しているのがブルックリン・ライダーという、ロック・バンドみたいな名前ですけど、インディ・クラシック界の弦楽四重奏団なんですね。ジャケットで正面向いているのがマーティン、横向きの四人がブルックリン・ライダーで、『ザ・バタフライ』はオール・インストルメンタル作品です。

 

バンド名のとおりニュー・ヨークはブルックリンを拠点に活動しているらしいブルックリン・ライダー。ヨーヨー・マと関係があるみたいですけど、ふだんは現代音楽のフィールドに身を置きながら、同時にフィールド外の、世界のさまざまな音楽にチャレンジし共演したりしてきているようなので、だから今回のマーティン・ヘイズとの共演もブルックリン・ライダー側から持ちかけたアイデアだった可能性があるのかも。

 

アルバム『ザ・バタフライ』でとりあげられているものは全12曲中ふたつだけを除きアイリッシュ・トラッドばかりです。だからこの点ではブルックリン・ライダー側がマーティン・ヘイズ側に寄った内容かもしれませんが、しかしそれらのアレンジはいずれもブルックリン・ライダーのメンバーがやっているので、まあそれは内容を聴けばわかることですけど、ということはアダプト、解釈では現代音楽側にあるような作品なのかもしれないんですね。

 

実際、このアルバムはやや不思議な肌ざわりを持っていますよね。以前からくりかえしていますようにアイリッシュ・フィドル(の特にスウィング感)が大好きなぼくで、『ザ・バタフライ』もアイルランド人フィドル奏者の作品ということじゃなかったら聴かなかったろうと思うんですけど、インディ・クラシック界の弦楽四重奏とはこんな感じなのか、というのは実は今回はじめて知ったんですね。しかし上に乗っているというか、マーティンのフィドルはどこまでもアイリッシュ・スタイルを貫いています。

 

そんなマーティンのアイリッシュ・フィドルとブルックリン・ライダーの調性感のうすいストリング・カルテットがうまく混ざり合っているのかどうか、よくわかりませんが、わりと相性はいいんですね。聴いていてとくに違和感がないです。アイリッシュ・トラッドの持つ独特の土着性、泥くささみたいなものはとことん薄められ、イメージが180度くつがえっていますが、ハナからこういう音楽が存在するんだと思わせる説得力はあります。

 

またアイリッシュ・トラッドをそのままアイルランドのバンドが演奏するときのようなスウィング感もほぼありません。でもここはブルックリン・ライダー側も腐心して、曲によってはけっこうスウィンギーに聴こえるばあいもあります。というかそんなものをインディ・クラシックに求めるのはおかしいのかもしれませんが、なにしろマーティン・ヘイズがアイリッシュ・スタイルを崩さず弾いていますから。

 

泥くさいアイリッシュ・トラッドの世界と透明感の強いインディ・クラシックの世界とのちょうど中間あたりに着地したように聴こえるアルバム『ザ・バタフライ』。融通のきくマーティンが、それでもこのスタイルを貫いていなかったら個人的にはイマイチだったかもしれませんが、伝統的なアイリッシュ・フィドルが聴こえるおかげでうまくインディ・クラシック入門できたかもしれないです。

 

(written 2019.9.8)

2019/09/10

メンフィスへ 〜 フォイ・ヴァンスのアメリカーナ

300x

https://open.spotify.com/album/5DtQQgT9d9Ut0I5SoZYfPJ?si=K4D2GikfQnCK1rMauxbLCQ

 

北アイルランドのシンガー・ソングライター、フォイ・ヴァンス。今2019年6月の『フロム・マスル・ショールズ』は、こりゃあやりすぎと思うほどの一本気なサザン・ソウルまっしぐらでしたね。ところでこれしかしレコードも CD も見つけられなかったんですけど、どこで入手できるんでしょうか?どなたかマジで教えてください。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-13ba2d.html

 

このアルバムがリリースされたとき同時に来たる九月には『トゥ・メンフィス』という、アメリカーナをテーマにした今年二作目をリリース予定であることが、すでにアナウンスされていました。はたしてそのとおり9月6日に出たというわけです。ジャケット・デザインも同一基軸だし、アルバム題だって「フロム・マスル・ショールズ・トゥ・メンフィス」と展開できますね。

 

キリスト教の宗教色も強く漂う九月の新作『トゥ・メンフィス』でのフォイ・ヴァンスは、ぼくの聴くところ、1960年代末のザ・バンドによく似ているなと思います。ザ・バンドはひとりのアメリカ南部人の持つアメリカーナ的要素を、ほかのカナダ人が解釈・展開してみせたバンドだったわけですが、フォイ・ヴァンスも米南部からすれば異邦人、北アイルランドの人間です。

 

フォイのばあいは、ザ・バンドにおけるリヴォン・ヘルムみたいな役割のパートナーがいないと思いますから、みずからアメリカ南部音楽のアメリカーナの深奥にわけいって、今度はそれをある意味客体化し、整然と聴かせる成果にまで持ってくるという、これらぜんぶをたったひとりでこなしているわけでしょう。

 

実際、『トゥ・メンフィス』で聴ける音楽は(同郷のヴァン・モリスンなんかにもやや相通ずる)カントリー・ソウルみたいなものを中心とし、もっとグッと深いゴスペル風味、アメリカーナ的カントリー・フォーク、あるいはブルージーなもの、ストレート・ソウル、さらにはカリブ音楽テイストまでとりいれて、それらを渾然一体化してロック・ミュージックというスープに仕立て上げるという、要はザ・バンドの2019年版 by 北アイルランド人とでもいったところでしょうか。

 

かつてのザ・バンドにあまりなかったもので、個人的に興味深いなと感じるのは2曲目「オンリー・ジ・アーティスト」と4「ハヴ・ミー・マリア」で聴ける鮮明なカリブ音楽風味です。アルバム全体はややテンポのないようなふわっと漂うようなビート感をしていますから、これら二曲ではっきりとラテン・シンコペイションが聴けて、また4曲目はまごうかたなきアバネーラ(跳ねる二拍子)で、ぼくなんかにはうれしいところです。

 

考えてみれば、19世紀末〜20世紀初頭のアメリカの大衆音楽が姿かたちを整えたころには、カリブ/ラテンな音楽要素は、特にアバネーラとクラーベが、しっかりあったんでした。そういったものをルーツとして根底に置きつつ、アメリカン・ポップ・ミュージックは成立したんですよね。それもメンフィスのような南部の都会を舞台にして。

 

メンフィスは、米南部にあって、この大陸にある各種音楽のまじわる要衝でした。アメリカ大衆音楽史上、最重要地点だったと言ってもさしつかえありません。そんなメンフィスへたどりついたフォイ・ヴァンスのアメリカーナの旅は、同じ南部のサザン・ソウルをとことん煮詰めて究めた六月の『フロム・マスル・ショールズ』からそのまま一直線を描いているんでしょう。

 

(written 2019.9.9)

2019/09/09

ショーロ新作二題(2)〜 典雅なエポカ・ジ・オウロ

71qe1rcdaxl_ss500_

https://open.spotify.com/album/73EofgQvUUid1jNXa2v4Up?si=-D7YQ0_zS2KhnYSDocSpzw

 

ブラジルの名門ショーロ・バンド、コンジュント・エポカ・ジ・オウロ。今年の新作『ジ・パイ・プラ・フィーリョ』(2019.7.3)のジャケット・デザインはどうしてこんなにも瀟洒なんでしょうか。楽団名なんか金で押箔されているんですもんねえ(インナー・ブックレットでも同じ)。そのほかパッケージはいかにもクラシカルな雰囲気横溢で、この名門バンドのことや、そもそもショーロという音楽のありよう、伝統をそのまま表現したようで、これを眺めながら中身を聴くだけで贅沢な気分が味わえて、実にいいです。

 

偉大なジャコー・ド・バンドリンを創始者とするこのコンジュント、現在のエポカ・ジ・オウロはバンドリンのロナウド・ド・バンドリンを核とする六人編成。バンドリン、ギター、7弦ギター、カヴァキーニョ、フルート、パンデイロです。今年の新作でもどの曲も基本的にはこのメンツで演奏されています。いろんな曲をとりあげていますが、アレンジはロナウドが担当しているものが多いみたいですね。メンバーのなかでは、たとえば7弦のジョアン・カマレーロなんかも目を惹くところ。パンデイロのセルシーニョは、ジョルジーニョ・ド・パンデイロの息子です。

 

『ジ・パイ・プラ・フィーリョ』で聴ける新進の特色は、三曲で多重録音が駆使されていることでしょうか。主にフルートのサウンドを重ねて、まるで複数のフルート奏者が合奏しているような、やわらかい木管のふくらみを持たせ、バンド・サウンドに丸みを帯びさせているのが成功していると思います。別の一曲ではセルシーニョがパンデイロだけじゃない打楽器をオーヴァー・ダブして、がちゃがちゃとしたリズムの華やかさを出す工夫も聴けますよ。

 

アントニオ・ローシャの吹くフルートは、このアルバム『ジ・パイ・プラ・フィーリョ』の主役だと思うんですね。ロナウドの参加していない曲はすこしありますが、アントニオが吹かない曲は一つもないですからね。どの曲でも主旋律を(ばあいによっては多重録音で)担当し、弦楽器がその伴奏をしたりカウンター・パートを演奏するというパターンが多いです。このアルバムを聴いて最も耳に残るのがフルートのサウンドでしょう。

 

実際、フルートは(ギター、パンデイロなどとならび)ショーロにおけるいちばん伝統的かつ一般的な楽器のひとつです。常にどの時代でもコンジュント編成だと旋律を演奏する主役を担ってきました。ブラジル音楽の父とまで言われるかの黄金のピシンギーニャもフルート奏者(のちにテナー・サックス)でしたし、1930年代サンバ・ショーロ全盛期の代表的名手ベネジート・ラセルダにしてもそうでしたね。

 

エポカ・ジ・オウロのアントニオも、2019年にそんな伝統を背負って立つにふさわしいフルート演奏の風格と、それでもなおかつリキまないショーロならではの軽み、やわらかさをよく表現できています。ユーモア感覚もじゅうぶんで、これでこそ名門ショーロ・コンジュントのフルート奏者にふさわしい柔軟性を存分に発揮していると言えましょう。

 

アルバム『ジ・パイ・プラ・フィーリョ』では、ほぼどの曲も典雅でクラシカル。エレガントに舞いただよっているような、そんなムードに満ち満ちているんですね。ショーロはもともとストリート・ミュージックでしたが、誕生した19世紀後半の早い時期に、室内楽的なみやびを身につけました。実際、クラシックのチェインバー・ミュージックと区別できないそんな感じも、現代ショーロ最大の特色のひとつです。

 

エポカ・ジ・オウロの新作『ジ・パイ・プラ・フィーリョ』は、いちばん上でジャケットの雰囲気のことを言いましたが、中身もまさにその同じクラシカル路線をとっていると思うんですね。このアルバムはクラシック音楽作品ではありません。がしかしどこからどうっていう線引きをキッチリやるのは、ブラジル音楽ではあまり意味のないことなんですね。特にショーロだとそうです。

 

今回の新作では、しかしそんななかに、3曲目「ジ・パイ・プラ・フィーリョ」、6「ボラ・ナ・レデ」のように軽快にスウィングするものがあったり、7「タヤン・ノ・マリーニョ」(ルイス・バルセロス作)のようにリズムの激しい華やかなエキゾティズムも聴かれ、もちろんしっとり泣くようなサウダージ系ショーロも複数織り交ぜつつ、ラスト12「メストレ・ピシンガ」は爽快なポルカでズンズン進む感じです。このラスト・ナンバーではアントニオがフルートだけでなくピッコロも多重録音していて、まるで小鳥のさえずりのような軽快なかわいらしさが耳を惹きますね。

 

(written 2019.8.21)

2019/09/08

エンリッキの世界カヴァキーニョ歩き 〜 ショーロ新作二題(1)

I_1i_11564132674

http://elsurrecords.com/2019/07/31/henrique-cazes-musica-nova-para-cavaquinho/

 

ところでエンリッキ・カゼス(ブラジル)のアルバムって、どうしてどれもこれも Spotify にないんでしょう?これじゃあまるで山下達郎みたいじゃないですか。聴けるのは『ポケット・ピシンギーニャ』と『エレトロ・ピシンギーニャ』だけというに近くて、ピシンギーニャ関連だと解禁になるんですかね?わかりませんが、もったいないことです、この現在最高のショーロ・カヴァキーニョ奏者の音楽をシェアできないじゃないですか。

 

まあしょうがないです。そんなエンリッキの今2019年最新作が『ムジカ・ノーヴァ・パラ・カヴァキーニョ』で、ショーロのカヴァキーニョを徹底的に追求したような内容になっているんですね。プロデュース意図としてはやや学究的というか、そういった側面も強く持っている音楽家だけに、と思うんですけど、CD をとおして聴くと立派なエンターテイメントになっていて楽しめるのがさすがというかショーロだけにというか。

 

それでも3トラックだけエチュードが収録されているのがこのアルバムらしいところですね。エンリッキのカヴァキーニョ独奏で、指ならしみたいな練習曲です。曲はエンリッキ自作で、ショーロ・カヴァキーニョの歴史を研究してきた何十年というこのひとのキャリアがにじみ出ている、そんな成果発表みたいなものでしょうか。でも演奏技巧を楽しめるものではあります。

 

また、アルバム中いちばん長い七分以上ある9曲目が「カヴァキーニョと7弦ギターのためのディヴェルティメント」になっているのも特徴的。ディヴェルティメントとはクラシック音楽用語で、遊奏曲とでもいったところ。これもエンリッキの自作ですが、曲題どおりの二台のデュオで、エンリッキの相手役はジョアン・カマレーロ。3パートで構成されているこれは典雅な雰囲気で、ゆっくりくつろげますね。

 

その9曲目のディヴェルティメントのクラシカルなデュオ演奏が終わった次の10曲目ではパッと世界がひらけて、特にヴァイブラフォンのサウンドも入っているのが耳を惹く軽快なエンターテイメント。ショーロでヴァイブってなかなか珍しいじゃないですか。エンリッキのカヴァキーニョと同じくらいけっこうフィーチャーされていて、明るく暖かで、アルバム中きわだったサウンドを聴かせてくれています。

 

続く11曲目のカヴァキーニョとチェロ二重奏のエチュードが終わったら、アルバム・ラスト12曲目の「エスキジティーニョ」です。これはアコーディオンも入るコンジュント編成。リズムがちょっとエキゾティックで、ややタンゴっぽいザクザク刻みながらハネる、そんなおもしろ風味なんですね。パーカッションのベトも控えめながら活躍しています。だれかがソロをとるというよりみんながからみあいながら演奏が進みますが、そのあいだを縫うようにエンリッキのカヴァキーニョが走ります。

 

さて、アルバム『ムジカ・ノーヴァ・パラ・カヴァキーニョ』は、まずヴァルジール・アゼヴェード作のかっ飛ばす痛快速カヴァキーニョ・ショーロ「ヴィラヴォルタンド」で幕開けするんですね。こういったものはエンリッキのカヴァキーニョ追求の最大の成果でありつつ、聴き手の耳を楽しませる最高のエンタメですよね。実際、聴いていて実に気分よくスカッとしますもん。

 

その後はいかにもショーロっていうようなしっとり系のサウダージを聴かせる感傷的な泣き(ショラール)のショーロ(2)やヴァルサ(3)なども織り交ぜつつ、軽くて明るいなかにやや湿ったサウダージのこもった曲が来たかと思うと(4、ベトにも注目すべきリズムのハネ)、5曲目はアゼヴェードに捧げた中庸テンポのエンリッキの自作で、全面的にカヴァキーニョがフィーチャーされています。

 

うんまあカヴァキーニョ・フィーチャーはアルバム全体をとおしてそうなんで、そんなアルバムをエンリッキは創ったわけですから、だいたいぜんぶそうですね。ショーロ史やカヴァキーニョ奏法についての長年の研究成果が、決して小難しい学問的作品ではなく、愉快に楽しめる娯楽ショーロ作品になって結実した、見事な一作と言えますね。

 

ライスから日本盤も出るんでしょ、これ。

 

(written 2019.8.19)

2019/09/07

マイルズ『ラバーバンド』発売さる

81nmaypyayl_sl1200_

https://open.spotify.com/album/0m3hXmvbvwjpIXai7HOWys?si=wvb1eBRMSWWUzLB84LznDw

 

本日9月6日、マイルズ・デイヴィスの未発表新作アルバム『ラバーバンド』が発売されました。フルに聴けるようになりましたので、ちょっとした感想メモを残しておきます。どのお店で買っても CD の到着はすこし先になるみたいですから、それが届いてまた新規に書くべきことあらば、そのときにあらためて。

 

マイルズの失われた幻のアルバム『ラバーバンド』については、このブログでもいままでに四回書きました。これらは主にラバーバンド・セッションの事情と、2018年に先行発売されていた表題曲「ラバーバンド(・オヴ・ライフ)」(の各種ヴァージョン)についてと、そして今日のアルバム・リリース決定にかんして記したものですね。

http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-b4d9.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/down-blue-7ca8.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c5c347.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-79962a.html

 

アルバム全体が不足なく聴けるようになりましたので、その第一印象はといいますと、2010年代末的な今様の R&B っぽく仕上がっているコンテンポラリー・ミュージックと、いかにも1980年代的なフュージョンっぽいサウンドとが混在しているなということです。どこまでがオリジナル・レコーディングでどこからが今回のポスト・プロダクションなのか、音を聴いただけではあまりわかりませんのでそのことはおきますが、古くさく響くどのインストルメンタル曲も全体的にブラッシュ・アップされているような気はします。

 

強いビートの効いたアッパー・ファンクは、だいたいどれも1980年代的フュージョン・サウンドですよね。あの時代、ブラック・コンテンポラリーと呼んでいたものにも近い感じがあります。「ディス・イズ・イット」「ギヴ・イット・アップ」「メイズ」「ザ・リンクル」、そしてアルバム・ラストの「ラバーバンド」などがそうです。ちょっとビートもサウンドも古くさく感じてしまいます。1985/86年のレコーディングですからもちろんそうなりますけれども。

 

やや興味深いのは「メイズ」でしょうか。ラバーバンド・セッションの実施時期は1985年の10月以後の数ヶ月なんですが、先立つ85年7月の来日公演(よみうりランド)で演奏されていた曲です。FM 放送されたソースからブートレグ CD になったその音源と比較しますと、7月の東京ライヴではボス、ボブ・バーグ(テナー・サックス)、ジョン・スコフィールド(ギター)の順で若干長めのソロまわしが続き、それをつなぐフックとして(テーマ・)リフが演奏されていました。

 

『ラバーバンド』ヴァージョンの「メイズ」ではマイルズ以外のソロはあまりなく、ソプラノ・サックスを軸とするリフ演奏が主体で、あとはリズム。つまりグルーヴで聴かせるワン・ナンバーになっていますよね。合奏されるリフはライヴとスタジオで同じなんですが、音楽の組み立てがかなり違っています。またテンポやグルーヴ・タイプも、スタジオ版のほうが遅く落ち着いてやや暗い、ダウナーなフィーリングに変化しています。

 

また、「ギヴ・イット・アップ」は、ちょっとレア・グルーヴっぽいノリを持った曲で、1990年代的なフィーリングもあるかと思います。リフ合奏のパートとトランペット・ソロの一部は、1992年リリースの『ドゥー・バップ』のためにイージー・モー・ビーがサンプリングして転用していますよね。そっちをずいぶん前から耳タコになるほど聴き込んでいるせいでレア・グルーヴっぽいと感じるのかもしれません(「ハイ・スピード・チェイス」)。

 

それから、『ドゥー・バップ』にかんするイージー・モー・ビーの説明によれば、そのアルバムの曲「ファンタシー」では、ラバーバンド・セッションでの「レッツ・フライ・アウェイ」という曲からトランペット・ソロをサンプリングしたとなっていますが、そんなタイトルの曲は今回ありません。でもこれはたぶん「パラダイス」となっているものがそれじゃないかと思います。同じオープン・ホーンの、ソロ・パートが(部分的に)同じですから。

 

その「パラダイス」は、今回発売されたアルバムで女声ヴォーカルをフィーチャーしているにもかかわらず今様のコンテンポラリー・サウンドではないものです。ナイロン弦ギターやフルートなんかも使われている、ややフラメンコっぽい曲調のスパニッシュ・ナンバーですね。スパニッシュ好きのマイルズ、やはり一曲はレコーディングしていたということでしょうか。今回ヴォーカルをオーヴァー・ダブして曲題も変更したんでしょうね。

 

前段で書きましたように、アルバム『ラバーバンド』で聴ける女声ヴォーカル入りのものは、「パラダイス」以外、まさにいま、2019年という時代にフィットするフィーリングの R&B っぽい、ブルーでダウナーでダークな今様 R&B に仕上がっていますよね。これは発売に際してのランディ・ホール、ゼイン・ジャイルズ、ヴィンス・ウィルバーン三名のプロデュース・ワークのたまものでしょう。レディシが歌う「ラバーバンド・オヴ・ライフ」のことはいままでなんども書きましたが、レイラ・ハサウェイがヴォーカルをとる「ソー・エモーショナル」だって立派なものです。

 

そしてその「ソー・エモーショナル」でも実感するんですが、マイルズのトランペットのサウンドが、実にコンテンポラリーに聴こえるっていう、いま2019年に聴いても時代にフィットしているように響くというのが、ちょっと不思議というか驚くべきことだというか、すごいことですよねえ。トランペット演奏パートは1985/86年のものなんですよ。それでここまでモダンなサウンドをしているなんて。

 

この点では、今回発売されたインストルメンタル曲のなかでも、「カーニヴァル・タイム」(の出だし)、「シー・アイ・シー」、「エコーズ・イン・タイム」(1:42からの「ザ・リンクル」を外して)の三つは、コンテンポラリー・ヴォーカリストの助けを借りなくても2019年に同時代的に響く現代サウンドを持っているなと思うんです。アルバム『ラバーバンド』でぼくが最も気に入っているのがこれら三つ、特に「シー・アイ・シー」ですね。この、真っ暗な都会の夜を彷徨うような、不気味に重く退廃的で沈むようなフィーリング、大好きですねえ。

 

もっとも、「シー・アイ・シー」は、曲「ラバーバンド」とともに、ワーナー公式でも2010年発売のアンソロジー『パーフェクト・ウェイ:マイルズ・デイヴィス・アンソロジー、ザ・ワーナー・ブロ・イヤーズ』ですでに聴けたものですけれどもね。それでも今回しかるべき単独アルバムにちゃんと収録されこのムードのなかに置かれることで、いっそう異様な妖気を放つようになっているなと感じました。

 

(written 2019.9,6)

2019/09/06

シンプルでたおやかな歌謡サンバ 〜 ジュレーマ・ペサーニャ

1007949292

https://open.spotify.com/album/2XliiOB2WdRqDUITsrsh5h?si=zu4qgdL5TIOd7qZGAgItyQ

 

ブラジルのサンバ歌手ジュレーマ・ペサーニャ。それなりにキャリアのあるひとらしく、いまや中堅どころといった存在なのでしょうか。ぼくは最近までぜんぜん知りませんでした。今年の新作『リーニャ・ジ・フレンチ』(2019.7.5)は、こじんまりした地味な作品ですけど、なかなか充実している良作じゃないかと思います。最大の特色は、伴奏がかなり小編成であるというところ。うっす〜いとすら感じるほどのミニマム編成の伴奏なんですね。

 

アルバム全体を聴くと、ジュレーマがやっているのはエスコーラ系の伝統サンバで、なおかつそれにつきものの大きめのバンドや大きなコーラスなどを排し極力シンプルにして、自身の単独ヴォーカルだけにフォーカスしようとしたっていう、そんな内容のアルバムじゃないでしょうか。歌にはなかなか味のあるひとで、実力もじゅうぶん安定的、いい仕上がりのアルバムとなりました。

 

まず1曲目「Rabo de Saia」はフルートの音とともに伝統的なサンバ・スタイルではじまりますが、この曲ではゲスト男声ヴォーカリストがいます。それがどうやらモナルコらしいんですね。でもここでのモナルコの参加は特別どうってことはないような気がします。たしかに存在感のある声で見事ですが、アルバム全体の色調に影響は与えていないですね。

 

こういったものよりもこのアルバムで印象に残るのは、たとえば2曲目「Força Estranha」でも、かなりの時間、ギターとパーカッションそれぞれ一台づつだけの伴奏でジュレーマが単独で歌っているでしょう、そういうところです。きわめて質素でシンプルなサウンドなんですけど、あたかもサンバが映し出す日常風景の、そのとりたてて変化のない淡々とした様子をそのまま反映したような、そんなしっとり淡白感がありますよね。だからこそ、サンバ=人生だと感じてしまうようなリアリティがこのジュレーマの歌にはあるんだと思います。

 

そういった、淡々とした日常をそのまま切りとったような淡々としたサンバ・サウンドは、このアルバムではだいたいどの曲でもずっと一貫しているんですね。特筆すべきできばえだと感じるのは、アルバム・タイトル曲の4「Linha de Frente」(サウダージ横溢)、やや北東部っぽい感じの5「Mulé DIreita」、泥くさく跳ねるリズムの8「Rara Beleza」(打楽器だけ伴奏のパートあり)などですが、なんど聴いてもグッと胸に迫るのが7曲目の「A Beleza, o Samba e o Caos」ですね。

 

特にこの7曲目ではハーモニカが使われていますよね。その切ないサウンドでのオブリガートが実にたまらないいい味を出しているなと思うんです。この曲の伴奏はハーモニカ、ギター、パーカッションだけ。やっぱりこういったシンプルで素朴であっさりした薄味サウンドに乗って、ジュレーマがこれまた淡々と綴るのがいいんですよね。特に激しさもなく、感情をたかぶらせることも切ない味を強調することもなく、ジュレーマは素朴に素直にストレートに歌っているだけです。同様の伴奏とあわせ、これぞ人生を映した真実の歌だと、そう思わせる説得力のある音楽じゃないでしょうか。

 

(written 2019.9.5)

2019/09/05

カイピーラ・ギターのネイマール・ジアスによるグッド・イージー・ミュージック

1007955429

https://open.spotify.com/album/39TPjPHhvOxgcIh6E7U0dM?si=EenqwlvVS1WKVyc4uW3DTA

 

ネイマール・ジアス(Neymar Dias、ブラジル)というひとはアンドレ・メマーリ・トリオのベーシストらしいんですけど、アンドレ・メマーリに興味のうすいぼくは、ネイマール自身の今回の新作アルバム『Minhas Cançōes Instrumentais』(2019.7.25)ではじめて知りました。しかも弾いているのはベースではなくカイピーラ・ギター。カイピーラ・ギター(ヴィオーラ・カイピーラ)とはブラジルの楽器で、複弦5コースの鉄弦を張ったアクースティック・ギターです。

Maxresdefault_20190904133501

 

このネイマールの『ミーニャス・カンソイス・インストルメンタイス』、文句なしに心地いいなあと感じました。収録の全11曲はすべてネイマールの自作ナンバーみたいです。演奏の編成はカイピーラ・ギター(ネイマール)、ベース(イゴール・ピメンタ)、鍵盤(アジェノール・ジ・ロレンジ)、打楽器(ガブリエル・アルテリオ)のカルテット。クラシックなのかポップなのかムジカ・カイピーラなのかよくわからないとディスクユニオンの紹介サイトに書かれていますが、ぼくの耳には極上のポップ・ミュージック、それもイージー・リスニングに聴こえます。

 

ぼくが使うと褒めことばであるイージー・リスニングっていうこの言いかたがもし悪ければ、トラヴェル・ミュージックでもいいんですけど、ちょうどこう、テレビの旅番組かなにかのバックでよく流れている心地いい流麗な音楽があるでしょう、そういったものにこのネイマールの『ミーニャス・カンソイス・インストルメンタイス』はかなり近い肌触りがあるなと思いますよ、ぼくが聴くところではですね。

 

アルバム1曲目の「ラ・ヴァルス」はちょっとクラシックの室内楽ふうなんですけど、また6曲目の「バロッカ」も曲題どおりバロック音楽にやや近いかな(ネイマールの前作はバッハ集らしい)、9曲目「ソベラーナ」もバロック音楽ふう、それからラストの「プレリュード第一番」もちょっとクラシカル、しかしそれら四曲でもネイマールの書いた旋律はキュートで愛らしく、やさしくほほえみかけているかのよう。そう、楽曲のメロディじたいがチャーミングで可愛いというのは、『ミーニャ・カンソイス・インストルメンタイス』全体で一貫していることなんです。

 

だから軽いビートが効いてポップ・ミュージックに寄っていっているようなものだと本当に快適で、たとえばちょっぴり北東部っぽいエキゾティックなアフロ・リズムを持つ3曲目「ジポイス・ダ・セーラ」なんかもおもしろいし、リズムの快活さという点では10曲目「シーガ」がかなりファンキーで楽しいです(二曲ともリズム・セクションがいい演奏)。ぼく的には10曲目がこのアルバムでいちばんグッと来るものですね。ドラマーの演奏も見事、それに乗るギターとピアノのソロもノリよく極上です。ちょっぴりアメリカ合衆国のフュージョン・ミュージックっぽいかもと聴こえ、それもぼくにはグッド。

 

4曲目「アゴラ・エ・アシン」や5曲目「ケン・ジーシ?」、また7曲目「ノーヴァ 7」といったチャーミングな小品でも、曲づくりの細部まで練りこまれているし、ちょっぴりクラシカル?と匂わせながらも、かわいらしくポップに漂うこのキュートなビートが気持ちいいですねえ。それにくわえ上でも書きましたが、ネイマールの曲はメロディがきれいでかわいくて、しかも聴いていて心地よく快適にリラックスできるフィーリングがあります。これらポップ寄りの曲ではしばしばオルガンが使われていますね。サウンド・エフェクト的にちょっぴりだけシンセサイザーも。

 

実際、列車の旅なんかでシートにすわりながら車窓から外の風景を眺めつつ、こんな音楽を耳に入れていれば、格別の極楽気分になれるだろうっていう、そんなネイマール・ジアスの『ミーニャス・カンソイス・インストルメンタイス』、まあやっぱり半分くらいの成分がクラシック音楽かなとも思いますけど、ポップ・サイドからじゅうぶん聴ける、静かで落ち着いた美しい極上のリラクシング・インストルメンタル・ミュージックです。

 

(written 2019.9.4)

2019/09/04

パワー・ステイションのあの妙なドラムス・サウンドとリズムがアガる

Fullsizeoutput_2018

https://open.spotify.com/album/4IpUyI6R1fyDtJF3cmJS4E?si=94xIZt74QvC_bMmZY05tjw

 

そう、かつてわりと人気だった英国のバンド(というかユニットみたいなもん?)、パワー・ステイション。1980年代なかごろでしたか。ヴォーカルがかのロバート・パーマーなんですよね。ロバート以外はアンディ・テイラーとジョン・テイラー(デュラン・デュラン)、トニー・トンプスン(シック)で、この四人がメンバーです。1985年にアルバム『ザ・パワー・ステイション』が出ていますが、ぼくはそれを自分で買ったことはなし。ロック好きの弟が買ったレコードが自宅にありましたが、当時はレコードよりなんといっても MTV ですね。「サム・ライク・イット・ホット」と「ゲット・イット・オン」のヴィデオがバンバン流れていましたよねえ。

 

実際、フル・アルバムがあったとはいえ、パワー・ステイションといえばその二曲で決まりとしてもいいのではないでしょうか。「サム・ライク・イット・ホット」と「ゲット・イット・オン」は7インチ・シングルも発売されていたようですがやはり知らず。本当にもっぱら MTV で流れてくるこれら二曲を耳にしていただけです。だからそれがアルバム・ヴァージョンだったかシングル・ヴァージョンだったか、いまだわからず。でも妙に耳に残る忘れられないサウンドでしたよね。

 

いま Spotify でアルバム『ザ・パワー・ステイション』を見ると、オリジナル・アルバム分のあとにいくつか入っていて、7インチ・シングル・ヴァージョンも同様に流れてきます。聴いていると、ミョ〜〜に気分がアガるなあ〜という1985年当時からの印象は変わりません。そしてかの T. レックスの有名曲「ゲット・イット・オン」(マーク・ボラン作)を、ぼくはこのパワー・ステイションのヴァージョンではじめて知ったんですね。

 

「サム・ライク・イット・ホット」も、基本「ゲット・イット・オン」のパターンで組み立てているように聴こえないでもないですから、パワー・ステイションとは要するに1985年に「ゲット・イット・オン」をデュラン・デュランでカヴァーしたかったバンド、と言えるんでしょうか。アルバムのなかにはいろんな曲があるみたいですけど、いま聴いても魅力を感じるのはこの二曲ですからね。シングル・カットされたのは正しかったんでしょう。

 

それら二曲で最も強く耳に残るのは、ロバート・パーマーのヴォーカルだとかアンディ・テイラーのギターだとかいうんじゃなく、この圧の強く激しいドラムス・サウンドじゃないかと思います。これは当時そう感じたしいまでもそうです。なんなんですかこのおかしな音は。音響調整の具合というか、録音とミックスの際にイジるとこうなるんでしょう、まるでドラム缶を叩いているようなこのドラミング・サウンド。

 

しかも音色が妙なだけでなく、音圧も音量もすごく高いですよね、このドラムスの音。だからこれもミックスでそうしたんだと思いますが、ロバート・パーマーのヴォーカルなんか正直あまり聴こえないと言いたいほど。主役はトニー・トンプスンの、あ、いや、エンジニアがつくった、このドラムス・サウンドですね。カンカンカン!って、ちょっとやかましいですけど、ど迫力ですよね。

 

「サム・ライク・イット・ホット」でも「ゲット・イット・オン」でも、そのドラミング・パターンもそうですし、ホーン・セクションもギターも一体となって表現するこのグルグル回転するようなリズム・フィギュアがこれまたおもしろいように、いま聴いても感じます。一定の決まった短いパターン・フレーズをどんどん反復する(コピー&ペーストの)ループ感覚みたいなものがありますよね。1985年ですから、ちょっとヒップ・ホップ・ミュージックを先取りした手法であるかのように思わないでもないです。だれもパワー・ステイションでそんなこと言わないでしょうけど。

 

(written 2019.8.15)

2019/09/03

短いからいいというものがある 〜「イン・ア・サイレント・ウェイ」

Fullsizeoutput_1fe2

https://open.spotify.com/playlist/5HpXQD6ixME4ft0KVtArrr?si=A7RkyxkRT_WZ4lYjzhgd3g

 

「イン・ア・サイレント・ウェイ」にかぎった話じゃないんですけど、こういった静謐なバラード調のものって、演奏時間が短いからいいんだっていう面がありますよね。ジョー・ザヴィヌルが書いてマイルズ・デイヴィスが初演した「イン・ア・サイレント・ウェイ」は特にシンプルで、簡単な同じメロディを反復するだけ。マイルズ・ヴァージョンではコードも変わらず E のまま。ただ同じ雰囲気がずっとたれこめているだけですよね。

 

そう、雰囲気というかムード、アトモスフィアが、曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」のすべてです。作者ジョーがこの曲で描き出そうとしたのは故郷ウィーンへの郷愁ですけど、演奏を聴いていると、まるで窓辺にじっとたたずんで、ボーッとなにかを(故郷を)想っているような、そんな静寂感がありますよね。そんなムードだけでできているといってさしつかえない曲です。

 

今日のプレイリストのいちばん上に持ってきたのは、ジョーのアトランティック盤『ザヴィヌル』(1971)収録ヴァージョンで、録音はマイルズの(1969.2)よりあとですが、曲の原型はこれがいちばんよくとどめているんじゃないかと思います。けっこう複雑といいますかむずかしい曲ですよねえ。入り組んだコードをたくさん使ってあって、どんどんコード・チェンジします。

 

それをマイルズはばっさり削ぎ落とし、超シンプルな E のペダル・ノートの上にすべてが乗っかっているというものにしました。ただ、もともとこんな曲、悪く言えばダラダラしたようなというか、一箇所にジッとしているような、ノン・ビートなものですから、そこはマイルズも変えようがなかったというか、でもこういったスタティック志向はマイルズにもむかしからあったわけですからね。

 

そういったことを踏まえると、今日のプレイリスト2番目のリハーサル・ヴァージョンはかなり興味深いです。ビートがしっかりあるじゃないですか。しかもそれはほんのりボサ・ノーヴァ風味で、こんなマイルズってなかなかないんです。それもジョーのこんな曲をとりあげてこんな軽快なリズム・アレンジにしてあるという、いったいこれ、マイルズ本人の着案だったんでしょうか?だれかアドヴァイザーがいたんじゃないかと思ったりもします。ひょっとしてそれ(ボサ・ノーヴァ)もジョーの提言?たぶんそうですよね。

 

しかしマスター・ヴァージョンではやはりそれを消して、ノン・ビートのテンポ・ルパートにしたのは、これはさすがにマイルズ本人でしょう。どっちにしてもどのヴァージョンでも、やはり一個のメロディを反復するだけでヴァリエイションがなく、演奏時間は必然的に短くなりますね。

 

「イン・ア・サイレント・ウェイ」という曲のこのメロディには、なにかこう、ひとを惹きつけてトリコにしてやまない、なんといいますか、マジックがあると思うんですね。そこがこれを書いたジョーの天才なんですけど、だからセッション・スタジオで最初に譜面をもらってバンドで一回やってみたマイルズも、このメロディがいいからイジらないで、しかも極力シンプルにしたほうがいいはず、って思ったんじゃないかと思います。結果、こんなふうになりました。

 

曲のメロディに聴くひとを魅了する魔法がある「イン・ア・サイレント・ウェイ」は、だからのちのウェザー・リポートによるライヴ・ヴァージョンでも、すべて初演のマイルズ・ヴァージョンに即した演奏ぶりになっているのがおもしろいところです。ぼくは特に『8:30』収録のものが大好きで、ジョーの弾くシンセサイザー・サウンドが浮遊するなかにすっとウェイン・ショーターのソプラノ・サックスが立ちのぼった瞬間、鳥肌立ちそうになっちゃうんですね。終盤のハイ・トーンで転調するのも、ここでは効果的です。それでも計三分もありませんので、やっぱり<短いからいい>んですよ、この曲は。

2019/09/02

謎のプレイリスト・フォロワーズ on Spotify

Fullsizeoutput_201b

https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a?si=gWheqlyMQ7CaauIx_Sko-w

 

最近はあまり CD を聴かず、というか CD で聴くのは多くが Mac をシャット・ダウンしているときで、それ以外はかなりの時間 Spotify で音楽を聴いているんですけれども(その CD を持っている持っていないに関係なく)、ぼくは自分でもよくプレイリストをつくるんですね。どこかにその総数が出ていないかなと思っても見つかりません。たぶん200個ほどはあるんじゃないですか。

 

自作プレイリストはもちろん自分のライブラリにありますが、他作のものもフォローすればマイ・ライブラリに入ってアクセスが容易になりますので、ぼくもよくいろんな公式/私家製のプレイリストをフォローします。つまり、ぼくの自作プレイリストもみなさんにフォローされたりされなかったりしているわけです。

 

フォローといっても Spotify のばあい自分でつくったプレイリストに何人のフォロワーがいるかはわかりますが、どなたがフォロワーさんなのかはどこにも表示されていないと思うんですね。でもフォロワー数の多寡はわかります。それでそのプレイリストの人気の有無を判断できますね。やっぱりブログとかで文章を書いてリンクを貼ったプレイリストに多くのフォロワーがつくんですね…、と思うと、基本そうですが、あんがいそうでもない面があります。

 

たとえば現在最も多くのフォロワーがいる自作プレイリストは "The Best of Little Walter” で、27人。これは以前ブログ記事にして、このプレイリストのリンクを書きました。これはもとがシングル盤音源集であるとはいえ LP や CD はオリジナル・アルバムなのにそのままでは Spotify に存在しないから不便だな〜と思って、プレイリストを自作したんですね。曲単位で一個一個さがして拾っていって。
https://open.spotify.com/playlist/4q1TG6AOSI37rIdyiuAtF6?si=eRs9FTRsRGWDQJp9ocqEZA

 

同じチェスのマディ・ウォーターズの『ベスト』なんかも同様の事情を持つ(シングル集)アルバムでそれはそのまま Spotify にあるのに、このへんはやや不思議ですね。ブログ記事では、しかし自作したとかなんとかいっさい PR しませんでした。ただ無言でリンクを貼っただけです。あるいはブログで書いたのも無関係でこれのばあいはフォロワーが増えるのかもしれません。チェス盤の『ザ・ベスト・オヴ・リトル・ウォルター』は書いたようにオリジナル・アルバムみたいなもんですから、聴きたいひとは多いはず。

 

いくら力を入れてつくってブログで書いてプレイリストをおおいに紹介・PR しても、フォロワー0というものもかなりあります。どれがそうなどと具体的に言えません、多いですから。ぼくの自作プレイリストで最も多いパターンがフォロワー数1か2か3、あるいは数人程度といったものなんですけど、その次が0ですね。個人の趣味で自作してみずから楽しんでいるだけなので、それでオッケーなんですね。

 

なかには不思議なフォロワーがついているものだっていくつかありますよ。最たるものが "Angham 2018 & 2019" で7人。どうしてこれ7人もフォロワーがついているんでしょう?ブログ記事にしていないばかりかいっさいどこにもひとことも書いていません。自分で楽しみたいからつくっただけで、公開せず私的な秘物としてもよかったんですけど、いっさいのネット活動はおおやけにしないと気が済まないタチなもんで、Spotify の設定でぜんぶのプレイリストを公開するようにしているだけです。

 

それで、『アンガーム 2018&2019』に7人もフォロワーがいるのは、たぶんどう考えても渋谷某ショップ関連のみなさんですよねえ。あのお店に通うみなさんは CD でしか音楽聴かないんじゃなかったのかー。だいたいアンガームなんて、日本じゃあのお店とその関連界隈くらいでしか知名度ないんだから、そのへんのひとたちがフォローしているとしか考えられないですよ。みんな〜、Spotify やってんのか〜?
https://open.spotify.com/playlist/6dBQkW2NkfGUFESQuFSO9U?si=i01ZcYLkSU60jwneZ2wb4A

 

ファドのマリア・テレーザ・デ・ノローニャのばあいも、今年コンプリート集ボックスが出た際に(映像分を除く)完全集プレイリストをつくって聴いていたら、これもいま3人のフォロワーがいるんですよ。これについてもいままでまったく無言で来たんですけれども。アンガームのやつ同様、つくったことすらいまはじめて言いましたよ。どうしてすでに7人とか3人とかフォロワーがいるの〜。
https://open.spotify.com/playlist/5wO6v4Dd1nxK6OnvjtBNmR?si=wHRk67zLQUiZjw6wO_x8gw

 

アンガームの7人は例外的と思いますが、そのほか個人の楽しみのためだけにつくったプレイリストで、いっさいどこでも紹介をしていないにもかかわらずフォロワーがポツポツとつくものはわりとありますね。スティーヴィー・ワンダーのグレイト4とか、ダヴィーナ&ザ・ヴァガボンズの全集とかスティーリー・ダンの全集とか、このへんはただだらだら流し聴きにするプライヴェイトな目的のためにつくっただけなんですけど、どれにもフォロワーがごく少数います。しかし同じ目的でつくった鄧麗君はフォロワー0。

 

なんにせよ、たとえばブルー・ノート・レーベル公式のプレイリストに数千人のフォロワーがいたりするのはまったくの別世界ですけど、ただのいち個人であるとはいえ、すべての Spotify 活動を公開していれば、ぼくみたいなやつの自作プレイリストでも見てくださっているかたがどこかにちょっとはいるということなんですね。ありがたいかぎりです。これからもいままでとかわりなくやっていきます。

 

(written 2019.8.13)

2019/09/01

サロマン・ソアレスのピアノが鮮烈で、すごくいい

1007940169

https://open.spotify.com/album/0ebYjPAZ0LC8MvD2gtQbj6?si=dv9ZIVsyR62ThiSmT8xPeg

 

ブラジルの新進若手ジャズ・ピアニスト、サロマン・ソアレス(Salomão Soares)。今年リリースされた新作『コロリード・ウルバーノ』(2019.6.14)はピアノ・トリオ編成。ピアノ・トリオというフォーマットじたいには(ディスクユニオンさんが「うれしいピアノトリオ編成」などと言うにもかかわらず)あまり好感をいだかないぼくですけど、このサロマンの新作には賛美のことばしか浮かびませんね。実に鮮やかで見事なアルバムです。

 

聴き手をグイグイ引き込むチャームを持つこのアルバム『コロリード・ウルバーノ』。これがぼくの初サロマンでこれ以前の活動をまだ知りませんが、このピアニストは、ブラジル性みたいなことを打ち出すルーツ・コンシャスなひとというよりは、汎新世代ジャズのミュージシャンなんでしょうね。ブラジルやラテン音楽の多彩なリズム・ニュアンスを漂わせながら、同時にそれよりもニュー・ヨークの香りが強くしています(サロマンはサン・パウロ在住)。

 

ピアノ、コントラバス、ドラムスの三者一体となったこのサロマンのトリオ演奏のキモはリズムにあるとぼくは思います。それはあたかもパルス感覚のリズム表現とでもいうようなもので、こんなリズム・フィールをいままでのジャズ・ミュージシャンに感じたことはあまりありません。シャープで鋭くキレてて、サロマンの左手もすごいけど、特にドラマー、パウロ・アルメイダの叩きかたに先鋭さがありますね。いやあ、さわやかで、しかもとんでもなく鋭敏なドラミングです。

 

どの曲でもリズムは伸びたり縮んだりして自在に変化しますが、曲によっても多彩に変化するリズムは、このアルバムでは多くのばあい、同じ一曲のなかででもくるくるとチェインジします。めくるめくようなフィーリングがあるし、躍動感、スピード感、カラフルさがものすごいし、ブラジリアン・ルーツ・コンシャスなひとではないと言いましたが、こんなリズム表現はブラジル人にしかできえないものでしょう。いやあ、すごいなあ。特にサロマンとパウロ。

 

特にすごいなと感じるのが、1曲目「ポント・セーゴ」、3「アルマソン」、4「コロリード・ウルバーノ」、10「ナ・ビカ・ダ・マトリース」。快調に飛ばしているし、リズム表現があまりにもクッキリ鮮烈だと思うんですね。サロマンがひっぱりながらも、ベースとドラムスも一体化して突っ走る、でありながらタイトなリズム・チェインジをピタッとキメるその凄腕にうなります。こんなにリズムが自在に伸び縮みしているのに、よくここまで三人が息を合わせられるもんだと思いますよ。

 

個人的にはドラマーのパウロが、特にそのシンバル・ワークとリム・ショットが、お気入りなんですけど(ときどきアフロ・キューバンになっているし)、それよりもアルバム全編を通してきわだっているサロマンの弾くピアノ音の粒立ちのよさに耳を傾けるべきでしょうね。ピアノの音が立っているというか、クッキリとした鮮やかで清廉な歯切れいいサウンドで、これは指折りのトップ・クラス・ジャズ・ピアニストにしか出せない音ですねえ。きれいなピアノの音ですごいリズムを演奏していて、降参しちゃいました。

 

(written 2019.8.31)

2019/08/31

ヨット・ジャズ名盤二枚

71jwygqwtel_sl1168_ 51vtswl07el

https://open.spotify.com/playlist/6sjYM3peKRbOVtwMrdnb0M?si=bEPkkHJIQmmF7-LLZwnMsw

 

ヨット・ロックというのがあるのなら、ヨット・ジャズというものがあってもいいはず。ヨット・ロックとは要するに AOR みたいなものの別称らしいんですけど、ジャズのなかにもアダルト・オリエンティッドなソフトで落ち着いたくつろげるものがありますよね。言い換えれば BGM 的っていうかイージー・リスニング向きということで、たくさんあるそんななかから今日はマイルズ・デイヴィスの『マイルズ・アヘッド』(1957)とハービー・ハンコックの『処女航海』(1965)をピップアップしてみました。

 

どうしてこの二枚かというと理由ははっきりしていて、ジャケットにヨットが写っているからです。『マイルズ・アヘッド』のほうは発売当時すぐにジャケット変更されたのが現在まで使われていますけど、オリジナルはあくまで上掲のヨット風景ですからね。ハービーのほうは有名なこれで、みなさんご存知のとおり。な〜んだ、ジャケットがヨットなだけかよ、と言うなかれ、中身の音楽がまさしくこの二枚、ヨット・ジャズですよ。

 

収録曲に船や海をテーマにしたものが含まれていることも、この二枚を選んだ大きな理由です。ハービーのほうでは言うまでもなく「処女航海」や「ドルフィン・ダンス」が有名ですけど、マイルズのほうにだって「マイ・シップ」がありますもんね。マイルズがとりあげた「マイ・シップ」は、かのクルト・ワイルの曲なんですね。だからたぶんチョイスしたのはギル・エヴァンズだったかもしれません。

 

その「マイ・シップ」の演奏が、こりゃまた海面をスーッと進むようななめらかさ。よどみなさ、スムースさは特筆すべきものですが、晴れた日にヨットで航海しながら水面を見れば太陽の光があたってキラキラしているといった光景まで鮮明に浮かぶかのようじゃないですか。こういったソフト・ジャズみたいな仕上がりはデビュー期からマイルズのお得意で、それをギルがいっそう手助けしていますよね。

 

スムースなソフト・ジャズっていうのは「マイ・シップ」だけでなく、アルバム『マイルズ・アヘッド』全体について言えること。引っかかったり大きく跳ねたり飛躍したりせず、ハードな激烈さもなく、本当におだやかな海面をスーッとヨットで進んでいるかのようなサウンドですよね。だからイージー・リスニング的なんですけど、イージー・リスニングっていうのは褒めことばですからね、ぼくのばあい。

 

そこいくとハービーの『処女航海』のほうにはまだちょっとだけハード(・バップ)なジャズ傾向があります。「ジ・アイ・オヴ・ザ・ハリケーン」と「サヴァイヴァル・オヴ・ザ・フィテスト」。この二曲でだけ波がやや荒いといった雰囲気でしょうか。『マイルズ・アヘッド』のほうと違ってハービーは別にイージー・リスニングを企図したわけじゃありませんので、こういった曲があってアルバム全体としては緩急がつき、ちょうどいい具合になっているでしょう。航海もときにはハードです。

 

しかしそれら以外の曲、特に「処女航海」と「ドルフィン・ダンス」は特筆すべきおだやかムードですよね。まさにヨット・ジャズ。やわらかくソフトで聴きやすく、聴いていて気分がなごみくつろげる極上のアダルト・オリエンティッドなアトモスフィアですよね。航海やイルカをテーマにしたコンポジションだからなのか、書いたハービーが意識したかもっていう、そんな雰囲気がありますよね。

 

マイルズのことばに、作曲とはムードをこしらえるということだろう、違うか、というのがありますが、本当にこのムード重視ということは(フリー・ジャズなど一部のものを除き)ジャズの作曲・演奏にあてはまる最重要事項だと思いますね。ジャズだけでなく音楽全般そうだなと思うんです。落ち着いた大人の雰囲気をかもしだす、ゆったりくつろげるヨット・ジャズも、ときにはいいじゃないですか。

 

(written 2019.8.14)

2019/08/30

岩佐美咲、3rd アルバム発売決定!

Wasamin

http://www.tkma.co.jp/enka_news_detail/iwasa.html?nid=12626

 

わさみんこと岩佐美咲の三枚目のアルバムが発売されると決定し、本日8月28日、徳間ジャパンより発表されました。

 

・11月6日(水)
・『美咲めぐり~第2章~』
・初回限定盤(CD+DVD)と通常盤(CD)の二種

 

収録曲は以下のとおり。

 

1)無人駅
2)鞆の浦慕情
3)鯖街道
4)佐渡の鬼太鼓
5)恋の終わり三軒茶屋
6)魂のルフラン
7)まちぶせ
8)雨
9)秋桜
10)千本桜
11)わたしの彼は左きき

(初回限定盤だけのボーナス・トラック)
12)もしも私が空に住んでいたら
13)初酒
14)ごめんね東京

 

というわけで、一般のみなさんは初回限定盤を買えばオッケーということのようです。わさ民ではないそんなみなさん向けに書いておきますと、1〜5曲目までは既発のシングル曲の再録です。さらに12〜14のボートラ分もシングル・ナンバーですが、これら三曲は未発表コンサート音源ということなので、聴いたことないはずのものです。期待大ですね。できうれば1〜5もそうしてほしかったのですけど、これはなにかと制限があるのだろうと想像できます。結局、計八曲のわさみんオリジナル・ナンバーはすべて収録されることとなりました。

 

ビックリは6〜11曲目のカヴァー・ソング・セクションですよね。なんと演歌楽曲がひとつもありません。すべて歌謡曲や J-POP 系のものですよね。しかも、なかにはみなさんあまり耳なじみのないものがふくまれているのではないでしょうか。つまり、6曲目の「魂のルフラン」と10「千本桜」がたぶんそうでしょう。

 

「魂のルフラン」は、アニメ映画『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997)の主題歌だったもので、歌は高橋洋子さんが担当なさっていました。「千本桜」のほうにいたっては担当歌手が人ではありませんでしたよ。ヴォーカロイド、初音ミクに歌わせた楽曲ですもんね(2011)。これら二曲、特に「千本桜」のほうがどうなっているのか、人工音声合成ソフトがやった曲を人間界最高の歌手のひとりであるわさみんがやるとどう仕上がるのか、とても強い興味があります。

 

これら二曲以外は、7「まちぶせ」(三木聖子さん、だけど石川ひとみさんの歌と言うべきですね)、8「雨」(森高千里さん)、9「秋桜」(山口百恵さん)、11「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみさん)と、みなさんよくご存知の曲です。知名度の高い曲だけにかえってスタジオでプレッシャーがかかったかもしれませんが、いまのわさみんの実力なら難なくこなせたはずです。

 

いずれにせよ、通算三枚目のフル・アルバムになります。初回限定盤のほうには、ぼくたちわさ民がずっと待ち望んでいた初期楽曲の近年ライヴ・ヴァージョンが三つ収録されることもあり、いままでくりかえしておりますわさみんの最近の大きな成長を実感できる内容になるはずです。「もし空」とか「初酒」とか、ぼくもここ一年ほどライヴでどんどん聴いていますが、すばらしい内容なんです。それが CD に収録され発売されるんですから。

 

計六曲の新規カヴァー・ソングだってかなり見事な出来になっているだろうことは、ここ一年ほど現場でわさみんの歌うカヴァー曲をたくさん聴いてきたこの身この耳が保証します。どうかみなさん、わさみんこと岩佐美咲のニュー・アルバム、よろしくお願いします。さあ、どんなジャケットになるんでしょう?胸が高鳴りますねえ。

 

乞うご期待!

 

(written 2018.8.28)

2019/08/29

レジオナール・ナシオナールのことが気になってしょうがない

Img_1181

https://www.instagram.com/regionalnacional/

 

といってもまだ一曲も聴けません。そもそも録音がまだありませんからね。レジオナール・ナシオナール(Regional Nacional)とは、ブラジルの(たぶん)ショーロ、サンバ・ショーロのバンドです。日本ではこのバンドがあるということすらまだほとんど知られていないと思うんですけど、現地ではどんどんライヴ活動をやっているんです。編成は、ヴォーカル(Nina Wirtti)、ギター二台(7弦 Rafael Mallmith、6弦 Iuri Bittar)、カヴァキーニョ(Leo Pereira)、バンドリン(Tiago Machado)、トランペット(Aquiles Moraes)、パンデイロ(Anderson Balbueno)。アレンジャーは二名のギタリストが兼任。

 

ぼくはこれらメンバーのなかで、ニーナ・ヴィルチとアキレス・モラエスとチアーゴ・ソウザしかわかりません。このレジオナール・ナシオナールのことを知ったのが、ほかならぬニーナの Instagram アカウントで、だったんですよね。ニーナはよく投稿するし、ほかのアカウントの投稿のリポスト(Twitterでいうリツイート)もときどきやるんで、それでこのレジオナール・ナシオナールの存在に気づいたというわけですよ。そしてレジオナール・ナシオナールのこともフォローするようになりました。

 

なんだか上がっている集合写真の雰囲気がとってもいいでしょ〜。ぼくは本当に気に入っていますし、CD もなにもまだぜんぜんないから、かえって気になって気になって、なんだかたぶんショーロやサンバ・ショーロみたいな音楽をやっているんだなとわかるだけに気が気でなくて、もうこのままブラジルまで飛んで行って聴きたいとすら思いますよ。お金がないからムリですけどね。

 

勝手にダウンロードした写真から今日一枚上に出しましたけど、このちょっとクラシカルな雰囲気がとってもいいですよねえ。レジオナール・ナシオナールの Instagram アカウント(しかないはず、ライヴのプロモートなんかもそれでやっています)は今2019年2月18日が初投稿なんで、アカウントができたのもそのころ。だからこのバンド結成もその直前、今年はじめごろだったと推測できますね。

 

一曲も聴けない、録音がまだない、と書きましたが、実はこのバンドの Instagram のハイライト(通常投稿の上に丸いのが三つあるでしょ、それがハイライト)にすでにちょっとだけアップロードされているんですね。通常投稿にもすこしあり。ですからもちろん映像付きです。断片の連続ですけど、それでかろうじて喉の渇きを癒すことができますね。聴くと、やはりショーロやショーロふうサンバをやっているんですね。しかも超ぼく好み。そうそう、ニーナ・ヴィルチの2012年デビュー作『ジョアナ・ジ・タル』があったでしょ、ちょうどあんな感じの音楽ですよね。

 

もう気になって気になってしかたがないこのバンド、レジオナール・ナシオナール。ずっと継続的に活動するのか、あるいは期間限定だったりするのか、 はたして録音してアルバムなどつくって届けてくれるのかどうか、このメンバーで今後も行くのか、ぼくにはなにもわかりませんけれども、とにかく写真や動画の雰囲気がよくて、垣間聴ける音源の断片も圧倒的にぼく好みですから、もし CD とか出してくれないのならブラジルまで行くしかないのかなぁ〜〜っ。

 

(written 2019.8.28)

2019/08/28

わさみんで考える演歌とジェンダー

Screen-shot-20171219-at-120226

 

演歌歌手だから当然というかしょうがないのだとも言えますが、わさみんこと岩佐美咲の歌う世界の男女観はかな〜り古くさいですよねえ。いまはもう2019年なんです。選択的夫婦別姓や同性婚や身体改変なしでの性別移行などがリアルな喫緊の課題となっているような時代に、わさみんワールドはまったくそぐわないかのようにも聴こえます。演歌とは、要はそういった世界なのだ、仕方がないのだ、ということでしょうか。そのへんつきつめて考えてみたことがないんですけどね。

 

わさみん本人がどんな考えを持つどんな人間なのか、ぼくはなにも知りません。ですが、気付けている範囲の情報をもとに判断すると、いかにも現代の、21世紀の24歳というだけの新しい志向を持ったリベラルな新世代という気がするんですね。旧態依然とするような体質というかジェンダー観は、たぶんひきずっていないように感じます。

 

もちろん、歌手の人間性と表現する世界とは関係ありません。わさみんのばあいも仕事は仕事と割り切って、ああいった古色蒼然たる男女間の恋愛ワールドを演歌のなかで歌い込んでいるんでしょうね。演歌という歌謡ジャンルそのものが、そもそもそういった世界なのだとも言えるかもしれないですしね。夫婦別姓や同性婚やトランスを歌った演歌なんか、ぼくは一曲たりとも聴いたことがありませんし、そもそも自立する女がいない世界ですしねえ。ひょっとしてもしそういうのがあれば、斬新なリベラル演歌ということになるんでしょう。

 

演歌というか歌謡曲というか、ひとくくりで大衆歌謡でいいんですが(だってわさみんはいろいろたくさん歌って発売しています)、歌謡界におけるジェンダー観というと、たぶん多くのみなさんが歌詞のなかに読みとれるものを想像なさるだろうと思います。ぼくのばあいはそれだけではなく、あわせてサウンド・イメージがどうなっているかによって、旧いかリベラルかを判断しているんですね。

 

たとえば、わさみん楽曲(オリジナルもカヴァーもふくめ)で言いますと、「無人駅」「佐渡の鬼太鼓」「風の盆恋歌」などは旧いような気がします。「もしも私が空に住んでいたら」「別れの予感」「お久しぶりね」「涙そうそう」などはリベラルに感じるような気も。「恋の終わり三軒茶屋」「糸」あたりは、関係なくたぶん普遍的ですよね。これらの分類は、もっぱら曲想やサウンド、リズムの印象にもとづくもので、歌詞内容はあまり考慮していません。

 

すると、全わさみん楽曲(といっても今回「ぜんぶ」は聴きかえしていませんが)で、旧体質な自己抑圧的ジェンダー観のものと、斬新なリベラルなものとで、たぶん半々くらいじゃないかと思うんですね。これは、演歌歌手という看板を出してやっている歌手としてはかなりリベラル寄りと言えるんじゃないでしょうか。

 

あ、いや、でも歌詞もちゃんと聴いて総合的に判断すれば、たとえば「初酒」「ごめんね東京」「北の螢」「なみだの桟橋」なんかも旧くて、リベラルさからは遠い曲ですね。それになんといっても「恋の奴隷」ですよ。聴きようによっては DV 推奨とも受け止められかねない(「悪いときはそっとぶってね」)歌詞がありますし、はっきり言って男性に支配されたい、あなた色に染まりたいというドMソングですよね。これはかなり自己抑圧的な世界と言えましょう。

 

ってことは、やっぱり全わさみん楽曲をトータルで考えると、ふるくさ〜いジェンダー観を反映した旧い歌のほうが多いんだという気がしてきました。これは、まあ最初にも書きましたが演歌ワールドだから、歌謡曲も往年の1970年代もののカヴァーが多いからだ、ということに尽きるでしょう。オリジナル曲も、そんな世界観に沿ったつくりになっているように思います。

 

こういったことは、肝心の歌手がだれであるか、女性か男性かのどっちであるか、若いか熟年か、などもいっさい関係なく、大衆歌謡とはそんな世界なのだ、新しくつくられる楽曲も往年の旧い恋愛観、旧い男女観を反映しているから、ということになるんでしょうね。創り手や製作陣や歌手のみなさんの(実生活での)考えはもはや刷新されてリベラルになっていても、歌謡世界がそのままだから、ということかもしれません。

 

わさみんのばあい、しかしそんなような世界をかなりうまく表現できているなと思うんです。どのあたりの客層がターゲットとして想定されているか、かなりよくわかるようなイマイチわからないような、ちょっと複雑で不思議ですが、一般の演歌ファンはもはや高齢化しているので、そこから考えればわさみんファンはまだまだ若い層が多いという実感はあります。

 

ぶっちゃけた話、わさみんは旧い世界を表現する演歌歌手という側面と、新傾向のリベラル・ポップを歌う若い J-POP 歌手という二面を使い分けていて、毎年一月末〜二月頭に前者にしぼったソロ・コンサートを開くものの、一方、秋には恒例の<LOVEライヴ>をやって、ポップ・ソングはそっちで歌うという棲み分けができています。

 

はたして<真の>岩佐美咲が、歌手として本当にやりたいことや資質が、奈辺にあるのか、それはぼくにはよくわかりません。いっぽうであっけらかんとした新しい若者でありつつ、ふだんは着物姿で旧い(自己抑圧的な?)歌をさらりとこなすという、あのさらりあっさり感、素直なナイーヴさといったそのヴォーカル表現スタイルに、ある種のヒントみたいなものが隠されている…、のかもしれませんね。

2019/08/27

こころのなかの A 面 B 面

251858437138

アナログ・レコードを聴くことはもうなくなりました。たぶん今後もずっと聴かないでしょう。でもかつてレコードで聴いていた作品については、やっぱりその記憶が残っているんですね。記憶というか一種の皮膚感覚みたいなもんでして、片面分の再生が終わると、CD でもファイルでもストリーミングでも、自分の心のなかで盤面をひっくり返す作業があるんですよね。ひとつづきでありながら、あ、これで A 面は終わりだな、さあ次は B 面だとか、無意識裡に意識します。

 

アルバムがそういうふうにつくられていたからっていうのがやっぱり最大の原因ですよね。製作者や音楽家も、A 面 B 面の構成を練りこんで、片面ごとにどんな曲をどんな順序で並べていくか、盤面をひっくり返して B 面になったときどんなのが流れてきたら効果的か、考え抜かれていたと思うんです。だから面ごとの音楽性の違いみたいなものがはっきりありました。

 

そんな聴取生活で音楽に夢中になった人間なので、レコードで聴いていたアルバムは CD やファイルや配信で聴いても、どうしても心のなかで「あっ、A(B) 面が終わった」とか意識するっていうか、気づいちゃいますよねえ。おそろしいのは、レコードがオリジナルだったアルバムは、CD やネットでしか知らなくたって、面がわかるということです。ピンと来ますよね。

 

これはそういうつくりになっていたんだから当然と言えます。ひとつづきで流れてくるものを聴くようになって、もう30年にもなるわけですからさすがに慣れて…、っていうことにはならないのが不思議なような、そういう制作上の意図がはっきり聴こえてくるんだから当然というか。もうレコードはぜんぜん聴かないぼくなのに、盤面の境目がわからないなんてことはありません。

 

ですから、世代の若い音楽ファンのみなさんが CD やネット配信でしかアルバムを聴いていないから A 面 B 面というようなことは自分たちにはないんだとおっしゃるのはわかりますが、しかし肝心の聴く音楽の中身が面ごとに考えて組み立てられていたんだから、どこかで調べて頭の片隅においてあってもいいんじゃないかと思うこともあるんですよね。こういうのはたんなる老婆心でしょうか。

 

CD 時代になって、またその後ストリーミング時代になって、音楽アルバムのプロデュースはあきらかに変わりました。CD だと最長で80分が一気に流れてきますし、配信だとその制限すらもありません。むかしなら20分程度で一区切りでいったん休憩だったでしょ。それがなくなりましたから、ひとつづきの流れのなかで緩急とか起承転結をつくらないといけません。

 

だからアルバムというもののつくりかた、捉えかたがかなり違ってきているなとも思うんですよ。この点でちょっとおもしろいと感じるのは、ここ数年音楽アルバムの長さが短めになってきていることです。CD なら最長80分だからそれに近いくらいの中身を詰め込んでいたのがなくなって、最近は30分とか40分とかっていう尺のフル・アルバムが主流になってきています。EP だとかっていうわけじゃありません。アルバムです。

 

この、アルバムが短くなったという事実は、ぼくの見るところ、たぶんストリーミングで聴くのが主流になったから生じた現象ですね。レコードや CD だとディスクを機器に入れて再生するわけですから、途中で<針を上げる>のに若干の抵抗があったはずです。その手間がわずらわしいというか躊躇するというか。ネットで聴くならそんな気持ちも生じません。それで、このへんまででいいやというのでリスナーも気軽に再生をストップしているんじゃないですか。

 

Spotify なんかだとそんなデータも記録されていて、音楽家や会社側にその情報が行くらしいんですよね。だから集中して最後まで一気に聴いてもらえる長さはどれくらい?というのでさぐって、アルバムが短くなったんだとぼくは踏んでいるんです。聴かれなかったら意味ないし、再生されないデータを配信サーヴィス側としてもサーヴァーに置いておくのはいやかもしれません。

 

まあそんなことも、アナログ・レコード時代だと片面15〜25分程度ということで、そこで物理的に再生中断ですから、ちょうどいい息抜きというか気分転換だったかもしれないですね。ジャズ喫茶やぼくがそうだったように、片面が終わったらもう片面は聴かずに別のレコードを乗せるなんてことも自由でした。それでパッと雰囲気が一新されますしね。

 

ネット聴きとアナログ聴きはちょっと似ている面があるのかもしれません。いやいや、ぼくは CD 民ですけれども。

 

(written 2019.8.3)

2019/08/26

ぼくにとっての『フォレスト・フラワー』とキース・ジャレット

51mzwtbpil

https://open.spotify.com/album/6lIWfnUerZuu9UcUDnF2JD?si=wn5lR3c6QiaXM4Y5KCii5w

 

ルシンダ・ウィリアムズと組んだ昨2018年の新作『ヴァニッシュト・ガーデンズ』がかなりおもしろかったので、ふたたびぼくのなかで評価が上昇したチャールズ・ロイド。ジミ・ヘンドリクス・ナンバーなんかもやっているその新作のことはまた追って書きましょう。今日はおなじみ1966年のモンタレイ・ライヴ『フォレスト・フラワー』(67年発売)のことをちょっとだけメモしておきます。

 

ぼくにとっての『フォレスト・フラワー』は二曲を収録した A 面がすべてで、B 面はあまり聴いたことがなかったんですね。CD 時代、ストリーミング時代になって、放っておけば連続再生されますのでそのまま聴いていますけど、A 面こそ大好き!というこの気持ちに変化は生じません。やっぱり最初の二曲、というか2トラックですよねえ、このアルバムは、ぼくにとってはですね。

 

チャールズ・ロイドと1966年と西海岸といえば、ヒッピー・ムーヴメントやサイケデリック・カルチャーをどうしても想起しますよね。実際、60年代のロイドはそういった文脈で語られることも多いようです。がしかし『フォレスト・フラワー』最初の二曲(はどっちも「フォレスト・フラワー」)のこのタイトルがそう明示しているにしては、演奏の中身にそれは感じません。

 

もちろんロックだとかボサ・ノーヴァだとかいったテイストは、いかにも(アメリカの)1960年代的な文化かもしれないですけど、いま2019年に聴いても気持ちいいなと思うふたつの「フォレスト・フラワー」(1「サンライズ」、2「サンセット」)の魅力は、シンプルに音楽的なものです。それはチャールズ・ロイド本人というよりも、ピアノを弾いているキース・ジャレットのアーシーさ、ゴスペル・タッチで高揚するフィーリングにあるんですね、ぼくにとっては。

 

こういった弾きかたをするキース・ジャレットを、ぼくはこれより前に自身のリーダー作品である『生と死の幻想』(1974年録音75年発売)で知りました。あとになって『フォレスト・フラワー』をふくむチャールズ・ロイド・カルテットを何枚か聴いて、な〜んだ!と思ったわけですけど、第一印象がなかなかぬぐえず、だからいまでもぼくにとってのロイド・カルテットは、むしろキースのコンボみたいな聴きかたをしているわけなんですね。

 

ふたつの「フォレスト・フラワー」はひとつづきっていうか組曲みたいなもんですけど、むやみに高揚しますよね。もりあがりかたがすごいです。その様子は、ぼくから言わせたらアメリカ黒人教会におけるゴスペル・ミュージックのそれによく似ているなと思うわけなんです。そのもりあげ役をひとえに担っているのがキース・ジャレットの弾くこのアーシーなゴスペル・タッチのピアノじゃないでしょうか。

 

しかしふたつのどちらも、リズムはゴスペルとかファンク・ミュージックのそれではなく、もっとふわっと軽いボサ・ノーヴァ・タッチですよね。それプラス、ロックのリズムが加味されているなといった程度でしょうか。リズムを主に表現しているジャック・ディジョネットのドラミングに乗って(ロイドの伴奏でも)キースが弾くシングル・ノートやブロック・コードには気高い荘厳さすらあって、それこそがぼくは『フォレスト・フラワー』最大のチャームだと思っているわけなんですね。

 

チャールズ・ロイド自身はやっぱり1960年代後半のアメリカン・カルチャーが産んだ人物なのかもしれないですけど、そのロイドの69年ごろまでの音楽の魅力は、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットが大半を占めていたとぼくは考えています。もちろんふたつの「フォレスト・フラワー」みたいなこういった曲づくりができたロイドの才能は大きいのですけれども。

 

いやあ、ほんと、カッコイイというか最高です、このころのチャールズ・ロイド・カルテットで弾くキース・ジャレットは。

 

マイルズ・デイヴィスも、1968年11月にジャック・ディジョネットを、70年5月にキース・ジャレットを、それぞれ自身のバンドに迎えたわけですからねえ。ファンキーに弾くキースのことはもっと早くにほしかったのかもと思いますし。

 

(written 2019.8.1)

2019/08/25

CD (-R)がなければ自分でつくればいい

Juodtxdpsa29fvmi4sblg

ぼくはそうしているんですけどね。他人製じゃなくてもいいじゃないですか。音源をダウンロードすれば CD-R に焼くのはカンタンだし、ジャケットだってその画像を落とせば印刷できるでしょ。ぼくは現在プリンターを自宅に持っていないので職場でやるか、仕事用のプリンターではためらわれるなという気分のときは写真館にデータを持っていきます。後者だと実にきれいに仕上がって、CD ショップで売っている商品ジャケットとなんら違いはありません。音源だって FLAC 形式で落としてそのまま焼けば、CD 音質との違いはなし。

 

いまや(ネットのでも)お店で音楽の CD を買うというのは、絶滅しつつある習慣ですよ。生物の絶滅危惧種も危機が叫ばれながらなかなか絶えないように、CD の販売・購入という習慣も簡単には消えてしまったりしないとは思います。がしかし物体 CD が「入れもの」としての意味を失ったいま、レコードで聴くかデータ配信かという二者択一になりつつあるのは、間違いないですね。

 

CD がないっていう音楽作品は、レコードやネット配信があります。あるからこそ CD つくらないわけですからね。レコードもないというばあいでもネットでのストリーミングやダウンロードは間違いなくありますよね。それで落としたデータを自分で CD-R に焼けば、それでいいのではないでしょうか。CD がないないと言って聴かなかったりとりあげたりもしないよりかは、音楽好きとしてずっと健康な態度だとぼくは思います。

 

上の写真はアバセのアルバム『インヴォケイション』ですが、これも CD がないので、自分でつくりました。そうやって音源もジャケットも自分で焼いて、CD(-R だけど)として持って楽しんでいる作品は結構あるんですよね。エジプト人歌手アンガームの2018年作も2019年作も、結局はエル・スール原田さんの御尽力で商品が入手できましたが、当初ぼくはあきらめていたので、ダウンロード・リンクが見つかった2018年作については自分で CD-R を作成していました。

 

2019年作のほうはストリーミングだけでダウンロードができなかったのでそれも不可能でしたが、いざ入手できた商品を見てみたら、なんとそれは CD-R でしたからね。レコード会社が作成する公式商品が CD-R であるっていうことは、実はロターナのアンガームだけでなく世界的に増えていると思うんですけど、このあたりもみなさんどうお考えなんでしょうか。CD-R なんて、自分のパソコンでポンと焼けば同じものができあがりますからね。

 

ぼくのばあいは、同じ作品でもパソコンやスマートフォンで聴くだけでなく、どうしても CD プレイヤーを使って聴きたいという時間が一日のあいだにちょっとは必ずあるんで、だからいつでもどんどん聴きたい音楽データは CD-R に焼くんですけど。あとはきれいなジャケットを(ディスプレイ上だけでなく)眺めたいという目的もあってですね、それでジャケットの印刷もするんです。

 

そんなわけで CD が存在しないとか、存在しても入手がかなり困難であるとか、買う気がないとか、そういった公式音楽アルバムは、そうですね、いまのところ計10枚程度かな、自分で CD-R できれいにつくって持っています。他者、他社に頼りすぎず、自分の享楽のことは自分でちゃんとするようにしたらいいんじゃないかなあって、いつも思っているんですよね。自分のことでしょう、なぜ自らすすんでやらないのでしょうか。

 

(written 2019.7.30)

2019/08/24

大好き、イリーン・ジュウェル! 〜『ジプシー』

71mlh4q4ll_sl1500_

https://open.spotify.com/album/3XjRVqf066pbYdBUgHEMdH?si=V_mYeUjSRFqPmKKHKu9Phg

 

萩原健太さんに教わりました。
https://kenta45rpm.com/2019/08/21/gypsy-eilen-jewell-signature-sounds/

 

出だしイントロのドラムスに続きエレキ・ギターが弾きだすのはいかにもロックンロールというブギ・ウギのパターン。それを聴いただけで、あっ好きっ!って思っちゃうイリーン・ジュウェルの最新作『ジプシー』(2019.8.16)。イリーンは声がこれなんで(つまりキュートでアンニュイ)、みんなあんまり真剣に相手しないかもですけど、なかなかいいシンガー・ソングライターじゃないですか。

 

書きましたように1曲目「クロール」はシンプルなロックンロールなんですけど、色っぽいフィドルがするりとからんでいるのがイリーンの音楽らしいところですね。フィドルとかスティール・ギターとかマンドリンとか、全体的にアメリカーナっぽいフォークロア系の楽器がたくさん使われているのもこの新作の大きな特色です。カントリー・ポップみたいな趣が強いんですけど、それはロックンロールな「クロール」でもはっきり表れていますよね。黒いリズム&ブルーズ色がまったくないわけですから。

 

本当にアルバム1曲目の「クロール」だけで聴き手をトリコにするチャームをふりまいていると思うイリーン・ジュウェルの『ジプシー』。カントリー・ポップ側からロックに寄せてきているものや、ホンキー・トンクなスウィンガーなどがマジ魅力的ですよねえ。やっぱり1曲目「クロール」がその代表で、ほかには3曲目「ユー・ケアード・イナフ・トゥ・ライ」(はあまりロックじゃないけど)、5「ビート・ザ・ドラム」(ラテン調のニュアンスあり)、7「ジーズ・ブルーズ」、8「ワーキング・ハード・フォー・ヨー・ラヴ」あたりがそうですかね。

 

これら以外も魅力満載なイリーンで、ちょっぴりシビアで社会派ふうな歌詞もあったり(女性やマイノリティの差別を告発した4「79 センツ」、5「ビート・ザ・ドラム」)しますけど、音楽の衣はあくまで聴きやすいアメリカーナふうのポップ/ロックですね。ちょうどボブ・ディランに似ているなとぼくは感じます。ディランをそのまま21世紀の若い女性にしたらイリーンみたいなシンガー・ソングライターになるんじゃないですかね。

 

アルバム・タイトルになっている7曲目「ジプシー」は(曲題どおりややエキゾティックで)ドリーミーなバラードで、またちょっとルイジアナっぽい三連のスワンピーなロッカバラード10「ウィットネス」もチャーミング。イリーンのアルバム『ジプシー』は、歌詞でけっこうグサリと刺しながらもサウンドやリズムはキャッチーだし明快。しかもカントリー・ポップであるっていう、そっち側からブルーズやロックに接近しているっていう、いかにも2010年代後半的なコンテンポラリー・アメリカン・ミュージックです。

 

(written 2019.8.23)

2019/08/23

古いソウル・レコードのように 〜 フォイ・ヴァンス

Image

https://open.spotify.com/album/7Llh51MCW3JF6e7A56E5qq?si=3djDn8xkTkmoPl2a4uyvCw

 

萩原健太さんの紹介で知りました。
https://kenta45rpm.com/2019/07/31/from-muscle-shoals-foy-vance/

 

北アイルランド出身の歌手フォイ・ヴァンス(1974年生まれ)。ぼくは今回はじめて知ったひとなんですけど、これはいったいどうしたことでしょう、アルバム『フロム・マスル・ショールズ』(2019.6.28)は、このアルバム題が気恥ずかしくすらなるほど、全編が一直線の60sサザン・ソウルですよ。まるで年配音楽ファンが古いレコード棚からホコリにまみれた一枚のソウル・レコードを取り出してそのままかけたような、そんなサウンドが響きわたっています。モロそのまんますぎて、笑いそうになるほど。

 

しかし、ぼくがこの、アラバマはマスル・ショールズのフェイム・スタジオで録音されたアルバムを聴いて感じる最大の印象は、なんだかつらい苦しみと哀しみに満たされているなということです。収録の10曲はぜんぶフォイの自作なんですけど(シンガー・ソングライターらしい)、こんな作風だっていかにもなサザン・ソウル・スタイル。アレンジやバック・バンドは現地のフェイムのひとたちを本格起用しているようです。

 

あ、いや、しっかり聴くと楽しそうなものも混じってはいますね。アルバム中、たとえば6曲目「ビー・ウィズ・ミー」、7「グッド・タイム・サザン・ソウル」などは愉快なソウル・ジャンパーです。そのほかにもちょっとはあって、そういった軽快な曲のつくりも完璧な1960年代後半サザン・ソウルの趣。どこからどう聴いてもタイム・スリップしたとしか思えません。

 

書いた「つらい苦しみと哀しみに満たされているな」というのがやっぱり大きな印象なんですけど、たとえば1曲目「ユー・ゲット・トゥ・ミー」、3「ムーヴィング・オン」、5「ペイン・ネヴァー・ハート・ミー・ライク・ラヴ」、10「メイク・イット・レイン」などは、本当に心に沁みるペインフルなバラードですよねえ。いやあ、いいなあ、こういう歌を聴きたかった…、って時代をさかのぼればたくさんありますけれども、2019年に北アイルランド人が聴かせてくれるとは思いませんでした。

 

これらのつらく苦く哀しそうな曲では、フォイのソングライティングもいいし、それにこの声質とか歌いかたがよく似合っているなと思うんです。こういったオールド・ソウル・ナンバーを歌うために生まれてきたひとなんじゃないかとすら思いますが、どうやらそれは違うみたい。でもこのアルバム『フロム・マスル・ショールズ』ではあたかもそう信じ込ませてしまうほどの説得力に満ちた声の響きをしているのが、成功作である証です。

 

アレンジやサウンド・メイクはアラバマはマスル・ショールズのフェイム・スタジオでかなりやったみたいですけど、この曲づくり、そしてなによりもごまかしようのない自身のこの声が、フォイ・ヴァンスという音楽家を第一級の白人ソウル・シンガー・ソングライターに仕立て上げていますね。鈍く光る、かなりの聴きものです。

 

(written 2019.8.4)

2019/08/22

岩佐美咲ベスト・セレクション、2019夏

Screen-shot-20190818-at-232114

1 無人駅
2 もしも私が空に住んでいたら
3 鞆の浦慕情
4 初酒
5 ごめんね東京
6 鯖街道
7 佐渡の鬼太鼓
8 恋の終わり三軒茶屋
9 越冬つばめ
10 北の螢
11 なみだの桟橋
12 石狩挽歌
13 風の盆恋歌
14 旅愁
15 遣らずの雨
16 空港
17 別れの予感
18 手紙
19 恋の奴隷
20 お久しぶりね
21 飛んでイスタンブール
22 20歳のめぐり逢い
23 涙そうそう(アコースティック・バージョン)
24 なごり雪(アコースティック・バージョン)
25 糸 [Live]

 

毎年これを書いていますが、今年も。これがぼく的わさみん(岩佐美咲ちゃん)2019年夏ベストです。今年の新曲「恋の終わり三軒茶屋」と、それのカップリングで七曲のカヴァー・ソングが発売されましたので、使える曲が増えました。わさみんベスト・セレクションも毎年アップデートしないといけませんよね。

 

オリジナル曲八つはもちろんぜんぶ冒頭に並べました。初期の曲は、たとえば「無人駅」でも「もし空」でも「初酒」でも、歌唱イベント現場でどんどん聴いているのと比較すれば、最近のわさみんの成長ぶりがとてもよくわかりますが、裏返して正直に言えば、CD で聴けるこのへんの曲の最初期ヴァージョンはまだ歌が幼くて、いま聴くと物足りない感じがします。現場でなくとも DVD などで、グンと成長した近年のヴァージョンは確認できます。

 

6「鯖街道」あたりからはそんなことも消えて、いま聴いても不足ない充実ぶりをわさみんも聴かせてくれていると思うんですね。オリジナル・ソングのパートでぼくがいちばん実感しているのは、「佐渡の鬼太鼓」だけがやっぱりやや異質だなということです。これほどまでの激烈ハード演歌は、わさみんの歌うなかにほかにはありません。そのせいか、この2018年楽曲は、ソロ・コンサートを除き2019年になってからのイベント現場ではたぶん一度も歌っていませんよね。

 

9曲目以後のカヴァー・ソング・パートでは、やはりここ二、三年に発売されたものが中心になっていますが、当然のことでしょう。わさみんがグンと大きく成長して、カヴァー・ソングでも大人の艶や色を出せるようになっていますからね。「風の盆恋歌」「旅愁」「遣らずの雨」あたりはなんど聴いてもグッと胸に迫ってくるし、こういった曲をここまで歌える歌手は、いまの日本に数えるほどしかいないだろうと思います、本当に。

 

テレサ・テンさんの二曲をフックにして、ちょっとしたライト・タッチ歌謡曲に移行したような曲の並びになっていますが、それはもちろん意識してそうしました。わさみんが最もチャーミングに聴こえる本来の資質は、演歌と歌謡曲の中間あたりにあるだろうなと思うからなんですね。実際、そういった曲をわさみんはたくさんカヴァーしていますし、なにより今年の新曲「恋の終わり三軒茶屋」がそんな路線じゃないですか。

 

そこらへんではリズムの軽快なハネというのもひとつのテーマになっていて、「手紙」「恋の奴隷」「お久しぶりね」「飛んでイスタンブール」はそんなビート感も大きな特色です。わさみんのヴォーカルのノリも見事ですよね。聴いていて気分ウキウキ、心がはずみます。どれもこれも古い歌謡曲ですが、日本のポップ・ソングがいちばん魅力的だった時期がそのへんなんですから。

 

名歌唱「20歳のめぐり逢い」をきっかけに、わさみん自身のアクースティック・ギター弾き語りコーナー三曲でこのセレクションを終えているのは、毎回通例です。いやあ、どう聴いてもこのへんはマジすんばらしいですね。特にラストの「糸」は超絶品すぎるんじゃないでしょうか。なんど聴いても泣けるんですというわさ民(岩佐美咲ファン)さんがいらっしゃるのも当然かと思いますね。

 

(written 2019.8.14)

2019/08/21

聴き込んで納得してからレヴュー読み(川柳)

Pitchfork Npr-music

 

レコード、CD ショップのツイートやウェブ・サイト、または bunboni さんや萩原健太さんのブログなどなどほかにもたくさんあるいわば紹介者のかたがたの文章は出会いのきっかけになるものだから、最初からどんどん読むんですけど、くわしくレヴューしてある論評サイトなどは、最近なるべく読みに行かないようにしています、聴き込む前にはですね。しっかり聴いて自分なりの意見ができてからは積極的に読みますが、それ以前に分析や批評などを読んじゃうと、あまりよくない効果がもたらされてしまうように思うんですね。

 

上に Twitter アイコンの画像を掲げたピッチフォークと NPR ミュージックは、ぼくがふだんお世話になっている二大音楽評論サイトで、主にアメリカでの新リリース作品についてけっこうくわしくしっかりレヴューしてくれますよね。だから助かりますが、肝心の音楽作品をしっかり聴き込む前にそれを読むと、なんだかその色で染まってしまって、音楽の聴こえかたに影響を受けてしまいそうなんですよね。

 

やっぱりですね、自分の耳で聴きたいわけですよ。パーソネルや録音データなど、各種基本情報以外はなるべく入れないで音楽を聴きたいんです。それにですね、聴く前にレヴューを読むと、その文章もなんだかあんまりおもしろく読めないですからね。そのレヴューそのものの読みかたがわからない感じがします。自分でしっかり聴き込んでから読めば、ばあいによってはレヴュワーの気持ちの隅々まで文章の機微に読みとることもできて、かなり楽しめます。

 

自分に自信がないとき、この音楽をどう理解したらいいかよくわからないとき、レヴューは大いに助けになるものですけど、足元がぐらつくような気分におそわれるときもあって、そうか、この音楽はこう聴けばいいのかと自分の気持ちを自分で裏切ってしまうような、そんな体験もあるので、もう最近は、聴く前には読まないです。よくないですから。

 

自分自身で音楽をしっかり聴き込んで、これは(ぼくにとって)こういう音楽だなというのがしっかり固まってからであれば、くわしいレヴューを読んでも、読みながら一を足したり二を引いたりできるし、レヴューに左右されず自分の耳で聴いた感想で文章が書けるんですね。そういったことが、最近のぼくにはとっても大切なことになってきています。

 

こういったことは、くわしいライナー・ノーツなんかにも言えることなんですね。ぼくはライナーを事前に、あるいは(第一回目に)聴きながら、読まなくなりました。まずはなんどもしっかり音を聴く、そして自分なりの意見を持つ、それがいちばん大事なことのように思うんです。他人の言うことに左右されたくないんですよね。

 

端的に言って、自分の耳で聴くということ。自分にとってどういう音楽であるかを判断する、自分なりにしっかりした感想や意見を持つ、と、ここまでの段階でくわしいレヴューやライナーはいらないです。あったらむしろジャマですから。目に触れないようにしておいて、地歩が固まってから読むんですね。聴いてから、読む。そうすれば、いろんなくわしいレヴューの有用性もいっそう高まるんです。うまく活かせるんです、だから。

 

(written 2019.7.29)

2019/08/20

ブラス・バンドなツェッペリン 〜 ボネラーマ

Bsr_1602_1000px

https://open.spotify.com/album/0Lw4VdAQBPVcZKNDRFXmLI?si=B2N_y3Q9Tk-MU2omAqI2tA

 

ボネラーマはニュー・オーリンズのブラス・バンド(1998年結成)。ドラマー、ギターリストもいますけど、管楽器ではトランペッターがおらず、スーザフォンのほかは三本のトロンボーンだけでアンサンブルを創っていくという、ちょっぴりユニークな集団です。そのボネラーマが今2019年4月26日にリリースした最新作が『ボネラーマ・プレイズ・ツェッペリン』(鍵盤でアイヴァン・ネヴィルが少しゲスト参加)。そうです、英国のロック・バンド、レッド・ツェッペリンの曲をカヴァーしているんですね。大のツェッペリン好き&ブラス・アンサンブル好きのぼくがこれを見逃すことなどありましょうか。

 

ツェッペリンのどんな曲をやっているかは、上のトラックリストをごらんになればわかりますので省略。有名曲に混じって6曲目で「ヘイ・ヘイ・ワット・キャン・アイ・ドゥ」(「移民の歌」シングル B 面)をやっているので、マニアとしてはちょっぴりニンマリ。アレンジはわりかしジミー・ペイジのやったオリジナルに忠実で、ブラス・バンドだから…って、どんなふうになるのか?と思っていた身としては、ちょっぴり意外というか拍子抜けというか。

 

ロバート・プラントがやった歌も複数メンバーがそつなくこなしていて、違和感はないですね。アルバム中三曲、「イン・マイ・タイム・オヴ・ダイイング」「フォー・スティックス」「ザ・クランジ」はヴォーカルなしのインストルメンタル・ナンバーになっています。これらの曲は、ゼップのオリジナルからしてやや特異なものでしたから、楽器演奏だけとしたのは理解しやすいですね。

 

だいたいどの曲でもボネラーマはジミー・ペイジ・アレンジをほぼそのまま踏襲して、ギター・パートなどをそのままホーン・アンサンブルに置き換えたものだということが、聴けばわかります。インストルメンタル曲ではヴォーカル・パートも管楽器が演奏していますよね。どのばあいも、トロンボーンやスーザフォンが演奏しはするものの、そのラインはオリジナルどおりですから、かんがみるに、このアルバム『ボネラーマ・プレイズ・ツェッペリン』は、大のゼップ好きだけどブラス・バンドにはいままであまり縁がなかったというみなさん向けのホーン・アンサンブル入門みたいなものとして好適だと思うんですね。

 

出だし1曲目の「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」。ツェッペリンのデビュー・アルバム幕開けでもありました。つまりこの曲はこのブルーズ・ロック・バンド登場のファンファーレみたいなものでしたし、まさしくそういうふうに聴こえるギター・コードかきならしが冒頭から入っているのが印象的でしたよね。ボネラーマはそのギター・パートを重厚なブラス・アンサンブルにチェンジしているんですね。で、バッ!バッ!と。

 

エレベ・パートもギター・パートも、もちろん管楽器が演奏していますが、そのラインはツェッペリンのオリジナルにわりと忠実です。だから、ロック・ギターリストやベーシストがそのままトロンボーンやスーザフォンをやったらどうなるか、の実例みたいなものとして『ボネラーマ・プレイズ・ツェッペリン』は聴けるなと思うんですね。

 

ツェッペリンというバンド最大の特色は(まあロバート・プラントとジョン・ボーナムかもしれないけど、ぼく的には)ジミー・ペイジの演奏する多重ギター・アンサンブルの妙にありましたから、「ブラック・ドッグ」なんかでもほかの曲でも、それをそのままホーン・アレンジに転用してあるボネラーマの手法は、ロック・ファンのみなさんでもなじみやすいものじゃないでしょうか。

 

ちょっと興味深いのは「ハートブレイカー」ですね。この曲だけはリズムのファンクな感じがボネラーマならではのもので、ツェッペリンのオリジナルには聴けないビート感を出しているのが印象に残ります。中庸テンポでひょこひょことややユーモラスに跳ねるこのリズムの感じは、まさにニュー・オーリンズ・ファンクならではと言えましょう。さすがは当地のブラス・バンドです。

 

ツェッペリン・オリジナルで中間部のリズムが止まった部分でジミー・ペイジが弾いていたカデンツァふうのソロを、ボネラーマではスーザフォンがやっていますが、その後半部でリズムが入ってきてからも、そのビート・フィーリングといいホーンズのフリーなからみあい具合といい、かなりの聴きものです。この「ハートブレイカー」はボネラーマにしかできないユニークな内容で、アルバムの白眉と言えましょう。ゼップでこんなアレンジは聴けませんでした。

 

ニュー・オーリンズ現地にはいっぱいあるブラス・バンド。そんなホーン・アンサンブル・ミュージックのファンというより、レッド・ツッェペリン好き、ブルーズ・ロック聴きのみなさんにオススメしたい一枚です。また、ツェッペリンってあんまり聴いたことないなあっていう吹奏楽ファンのみなさんにもグッドかも。

 

(written 2019.7.26)

2019/08/19

マイルズの『ビッチズ・ブルー』、真夏生まれ

61bnkdfks6l

https://open.spotify.com/album/3Q0zkOZEOC855ErOOJ1AdO?si=ySHFp1haQXijmLgQwA_diw

 

人間でも「わたし夏生まれだから…(こういう人間だ)」みたいなことを言うじゃないですか。音楽作品でもそういったことがあるんですかね。夏に録音されたものはどうだこうだみたいなことが。あるかないかわかりませんけれども、1969年8月ど真ん中(8/19〜21)に録音されたマイルズ・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』は、夏向けの音楽ですよ。真夏に聴くとこれ以上ないピッタリ感です。

 

なずなんたってこのジャケット・デザインが完璧な夏仕様じゃありませんか。黒人男女がほぼ全裸で夏の海に向かっているという。しかもその左には熱帯植物。その上に汗をかいた黒人の顔。正面に海と波と青空。これが夏でなくていつだというのでしょう。ジャケットのデザインを担当したのはマティ・クラワインですが、録音済みだった音楽を聴かせてもらっての判断だったに違いないですね。ダブル・ジャケットを開くと、こんなマイルズの写真もありますし↓

Fullsizeoutput_2003

 

そんな『ビッチズ・ブルー』の音楽のこの、なんというかアトモスフィアが、これまた真夏の空気感満載ですよね。うまく言えないんですけど、こう、夏っぽい解放感のある突き抜けた、はじけるような音楽ですよねえ。特に曲「ビッチズ・ブルー」「スパニッシュ・キー」「マイルズ・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」で、そんなフィーリングをぼくは強く感じます。

 

真夏ど真ん中にレコーディング・セッションが企画されたために夏向けの曲というかモチーフをマイルズやジョー・ザヴィヌルやウェイン・ショーターが用意した、ということはないでしょう。スタジオでのレコーディングの前からレギュラー・クインテットのライヴではくりかえし演奏されていたものも多いし、そもそも一年以上前に録音済みだったものの再演だったりしますのでね。

 

だから仕上がりがこんなにも真夏向けのオーラをまとうことになったのは、やっぱりひとえに演奏そのものが八月の暑いさなかに行われたからだということに原因のすべてがあるに違いありません。マイルズが自叙伝でふりかえって言うには、『ビッチズ・ブルー』になった三日間の音楽は、要はすべてが即興である、その場で組み立てたものであるとのこと。

 

真夏のスタジオ・セッション現場でのインスタント・コンポジションにかなりの部分を負っている音楽だから、ここまでのサマー・ミュージックになったのだということなんでしょうね。スタジオがあったニュー・ヨークの真夏は東京のそれよりは過ごしやすいと思うんですけど、それでも1969年8月19〜21日は猛暑だったそうです。スタジオに空調が効いていたとしても、真夏の季節感をミュージシャンたちも持って入って参加したはずです。

 

夏の文化的特徴は、上でも書きましたが解放感、すなわち感情の自然な発露を抑制しないこと。突き抜けた青い躍動感。激しさ。フィーリングの爆発、すなわちフェスティヴァル(お祭り)感覚の荒々しさ。といったところでしょうか。こんなこと、すべてアルバム『ビッチズ・ブルー』の音楽をかたちづくり彩っている要素じゃないですか。

 

『ビッチズ・ブルー』で聴けるこんな音楽は、やっぱり真夏の演奏だからこそ生まれたと言えると思うんですね。そしてぼくたちが聴く際も、真夏の陽天のもとで汗をかきながら聴くようにすれば、いっそうこのアルバムの音楽の躍動的なフィーリングを身近に実感できるというのが、約40年間聴き続けてきてのぼくの感想です。

 

真夏生まれの『ビッチズ・ブルー』、まさに夏に聴いたらピッタリ来る音楽じゃないでしょうか。ちょっと暑苦しいけど、汗をかいて結果さわやかになるというようなフィーリングを、音楽で味わうことができますよ。

 

(written 2019.8.13)

2019/08/18

ダヴィーナ&ザ・ヴァガボンズはアメリカ音楽の健全さ

Image_e6e669961b7041a58b311b8561f0812c_1

https://open.spotify.com/album/1mkCrsYupAhf4Ko1nkoyFq?si=nqDkivmsSpWSYlJO-A9GZA

 

お気に入りダヴィーナ&ザ・ヴァガボンズの新作が出ました。『シュガー・ドロップス』(2019.8.2)。前作がライヴ・アルバムでしたけど、スタジオ・オリジナル作品としては三作目となりますね。五年ぶりとちょっと久々。でもダヴィーナの音楽性はなんら変化していませんので、安心して身をひたすことができますね。2/4拍子を基調とするレトロなオールド・ジャズ/ポップスをベースにした、グッド・オールド・タイム・アメリカン・ミュージック(+ちょっぴりの三連サザン・ソウル・バラード)。

 

37分間という短さも好印象ですけど、でも今回の新作『シュガー・ドロップス』ではちょっとの新味もあります。2曲目「アイ・キャント・ビリーヴ・アイ・レット・ユー・ゴー」はファンキー風味ですね。コントラバスがガガッと突っかかるようにハネるパターンをはじき続けているのがこの曲のキモで、ちょっぴりカリビアンなロック・ミュージックっぽいのがダヴィーナにしては珍しいところ。

 

カリビアンといえば続く3曲目「デヴル・ホーンズ」は完璧なカリビアン・ミュージック・テイスト。ちょっぴりカリプソっぽいニュアンスもいままでのダヴィーナにはなかったものじゃないでしょうか。最初打楽器群だけに乗ってダヴィーナが歌いはじめるのでオオッと思っていると、途中から入るホーン・アンサンブルも完璧カリビアンなんですね。6曲目「アナザー・ロンリー・デイ」のリズムのハネもちょっぴりロック・ソングっぽいかな。

 

こういったシンコペイションと陽光の効いた音楽はダヴィーナとしては新味じゃないですか。また、自身の弾くピアノ・サウンドを中心に据えたオールド・タイミーなジャジー・ポップスという従来路線な曲のなかででも、エレキ・ギターがソロを弾いたりペダル・スティール・ギターが使われていたりして(7曲目「ノー・マター・ウェア・ウィ・アー」)、なかなか聴かせる工夫がなされています。8曲目「ミスター・ビッグ・トーカー」でも室内楽的なストリングスが入って、そういったのはいままでのダヴィーナの音楽にはなかったものですよね。

 

でもそのストリングスにしても優雅でエレガントで、まるで19世紀末ごろのアメリカのシティ・サロンでかくありきと思わせるクラシカルなムードをかもしだしているのが、いかにもダヴィーナっぽい古き良き時代へのレトロスペクティヴ。決して雰囲気をこわさず、いままでの四作品で聴かせてくれていた世界を踏襲しているなとわかるのが好印象です。カリビアン風味もハワイアン・スティール・ギターも、ルーツとしてアメリカン・ミュージックの発祥時から根底にありますからね。

 

10曲目の「マジック・キシズ」もほんのりカリブ香を漂わせながらオールド・タイミーなジャズ・ソングを展開していますが、いままで書いた曲以外はどれもやっぱりダヴィーナの従来路線。2/4拍子のディキシーランド・ジャズふうなポップ・ソングで、19世紀末〜20世紀初頭ごろの古いジャズやブルーズをそのまま再現したようなレトロ・ミュージックなんですね。趣味がよくて、聴いていてなごめて、実にいい気分です。

 

アルバム・ラスト11曲目「ディープ・エンド」は、アルバム・タイトルになっている5曲目「シュガー・ドロップス」同様、ダヴィーナのピアノ弾き語り(が中心)でシンミリと。二曲とも孤独な哀感がにじみ出ていて、かといってさびしくわびしいフィーリングというよりアット・ホームなあったかさがあるんですよね。ダヴィーナの音楽って、そんな親近感がいつもありますよね。今回の新作でもそこらへんはそのまま変わりません。

 

こういったレトロなグッド・タイム・ミュージックがいまでも絶えずときおり登場し、決して恥ずかしいような顔もせず堂々として、とりあえず一定の支持を得つづけているあたりには、アメリカン・ミュージック・シーンの健全さ、大きさ、懐の深さを感じますね。

 

ダヴィーナ&ザ・ヴァガボンズの『シュガー・ドロップス』、日本盤も出るそうです。

 

(written 2019.8.14)

2019/08/17

デモでもマジなプリンス 〜『オリジナルズ』

91y5xl19hcl_sy355_

https://open.spotify.com/album/1X1So5oX4TCFGdK6BN9UXs?si=ijR9v4rKS1GFeZx_X-I8iQ

 

1「セックス・シューター」(アポロニア 6)
2「ジャングル・ラヴ」(ザ・タイム)
3「マニック・マンデイ」(バングルズ)
4「ヌーン・ランデヴー」(シーラ E)
5「メイク・アップ」(ヴァニティ 6)
6「100 MPH」(マザラティ)
7「ユア・マイ・ラヴ」(ケニー・ロジャーズ)
8「ホーリー・ロック」(シーラ E)
9「ベイビー、ユア・マイ・トリップ」(ジル・ジョーンズ)
10「ザ・グラマラス・ライフ」(シーラ E)
11「ジゴロズ・ゲット・ロンリー・トゥー」(ザ・タイム)
12「ラヴ…ザイ・ウィル・ビー・ダン」(マルティカ)
13「ディア・ミケランジェロ」(シーラ E)
14「ウドゥント・ユー・ラヴ・トゥ・ラヴ・ミー?」(タージャ・セヴィル)
15「ナシング・コンペアズ・2 U」(ザ・ファミリー、シネイド・オコナー)

 

今2019年の6月下旬ごろリリースされたプリンスの未発表集『オリジナルズ』。収録曲はどれもほかの歌手たちが歌うためのものとしてプリンスが書き提供したもの。それらのプリンス本人ヴァージョン集ですね。これらはガイド・テープというか、デモというか、こんな感じですよ〜と教えるためのものとして録音したものだっていうことなんでしょうね。それともたんなる録音癖?デューク・エリントンとかフランク・ザッパみたいな。そういえば、これら三者の音楽家たちは、似てますねぇ。

 

そんな大きなテーマは今日はおいといて、プリンスの『オリジナルズ』。12曲目の「ラヴ…ザイ・ウィル・ビー・ダン」だけが1991年の録音となっていますけど、それだけを例外とし、ほかはすべて1981〜85年に録音したものです。たしかにそれらの曲の提供先歌手たちによる初演ヴァージョンもそのころでした。プリンス自身の作品でいうと、ちょうど『1999』『パープル・レイン』『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』のあたりですよね。昇竜のごとき勢いで音楽界を猛烈に駆け上がっていた時期であります。

 

そのころのプリンスは、初期の密室独りスタジオ作業癖から一歩抜け出て、リアルなバンド編成サウンドをも試みていましたよね。でもアルバム『オリジナルズ』収録のものは、どれもほかの歌手に提供するためのデモなためなのか、ぜんぶプリンスひとりで音をつくっています。すべての楽器演奏と歌がプリンスだけによるスタジオ作業で完成しているんですね。

 

CD 付属リーフレット掲載のクレジットにありますように、サックスとかチェロとかはプリンスじゃない演奏者が参加しているんですけれども、全15曲、これはほぼすべてプリンスひとりのパフォーマンスで完成させたとして過言ではありません。そのほかギターやバック・ヴォーカルで若干名の参加があるばあいも見られますけれども、本質的にこの『オリジナルズ』はオール殿下です。

 

そう、完成させたと言いましたが、このガイド・デモみたいなテイク集は、実質、完成品と呼んでさしつかえないレヴェルだと思うんですね。このことは、なにより当時発売されていたほかの歌手によるオリジナル・ヴァージョンと『オリジナルズ』収録のプリンス・デモを聴き比べればハッキリします。だいたいどの歌手のオリジナル・ヴァージョンもプリンス・デモと大差ないといいますか、それに沿って歌を入れ直しただけというに近いものだったと判明したからです。

 

ここが今年六月の『オリジナルズ』発売最大の意義でしょう。ソングライターによるガイド・デモがすでに完成品としてもいいできばえであった、それがプリンスという音楽家のすごさ、すばらしさだったとわかったということです。というかですね、このアルバムを聴いていての実感なんですけど、プリンスはガイド・デモをちょこっととかいうんじゃなく、これは本気ですね、マジで演奏し歌っています。このひとが本気でやるとどうなるかを彼自身のアルバムで知っていると、これは間違いないと思えます。

 

最初は他人に歌ってもらうために書いて、そのデモを…という気持ちもあったかもしれませんが、スタジオで作業していくうちどんどん気持ちが入っていってマジになってしまう、っていうのはよくあることだと思うんですね、音楽家のばあいだけでなく、みなさんも仕事や趣味でそういった憶えがあるでしょう。ましてやプリンスの、この天才の、1980年代前半といえば最も勢いがあった時期だったんですから、当然です。

 

こんなガイド・デモのテープを渡されたどの歌手も、本当はちょっと戸惑ったかもしれないです。わたしたちはいったいなにをしろというのかと。曲もすばらしいけれど、演奏と歌の完成度がここまで高いデモをもらってしまったら、これをどうすればいいのかと、ただこのまま忠実に演奏と歌を(自分たちが)再現するしかないじゃないかと、そう感じたんじゃないかと推測します。

 

で、上で書きましたように、みんなのヴァージョンもだいたいプリンス・デモをそのままなぞったような内容になったというわけです。プリンス本人ヴァージョンは今回はじめて聴けたものですから、この事実が証明されたわけですね。ああ、プリンスって、なんという天才だったのでしょうか。しかも『パープル・レイン』前後あたりの時期ですからね。多産豊穣だった本人のアルバムに収録されていても不思議じゃないものが多いです。

 

なかでも、バングルズに提供した「マニック・マンデイ」とケニー・ロジャーズのための「ユア・マイ・ラヴ」が、特別ぼくの耳を惹きました。なんてポップでなんて軽みがあって、なんていい曲なのでしょうか。正直に言いますが、バングルズのやケニー・ロジャーズのやったオリジナルをしっかり聴いたことがなかったのですが、ここで聴けるプリンス・ヴァージョンがあれば充分だという気がします。いやあ、好きですね、こういったライトでポップなプリンス。ぼくがプリンスで最も好きな部分のひとつです。

 

アルバム『オリジナルズ』ではほぼ唯一と言っていいんですけど、末尾に収録されている「ナシング・コンペアーズ・2 U」のシネイド・オコナー(のは初演じゃないって今回はじめて知りました)・ヴァージョンだけが、プリンス・デモとは大きく異なっています。シネイドのヴァージョン(1990)がヒットしてこの曲もシネイドも認知されましたが、それをいちおうご紹介しておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=0-EF60neguk

 

この「ナシング・コンペアズ・2 U」という曲のことがぼくは本当に大好きで、なんて切なく哀しい歌なのかと、聴くたびに泣いちゃいそうになるんです。この曲のプリンス・デモだけは、昨2018年春に配信リリースされていたもので、今回のはその再録です。これで公式発売されているこの曲の本人ヴァージョンは、計三つとなりました。

 

この大好きな切哀歌のことは、また別の機会にじっくり書いてみることとして、今日のところはこれにて筆をおくこととします。

(written 2019.7.25)

2019/08/16

アメリカン・ポップ・ヴォーカルなトリオ・レスタリ

Trio_lestari_wangi

https://open.spotify.com/album/3ttimZXZQMkxufn0YWUeet?si=7VBphVlZQ62gjqK5x0szCA
(ジャケットが違いますが、Spotify にあるこれがたぶんオリジナル・アルバム分で、ぼくの持つ CD はこれに三曲のシングル盤音源を加えています)

 

インドネシアの男声ヴォーカル三人組、トリオ・レスタリの『ワンギ』(2014)。エル・スールから届いたこれ、しかし、届いたってことは自分でお願いしてあったということですよねえ。記憶にないんですけど、最近は自分でもオーダー・メモを残すことにしてあるので、間違いありません。エル・スールのホーム・ページで見たときに、なにかひっかかってピンと来ていたということなんでしょう。しかしどうして憶えていないんでしょうか。

 

それはいいとして。聴いてみたらまさしくビンゴ、これは完璧にぼく好みのヴォーカル・ミュージックです。しかも都会派で、洗練されていて、さらにアメリカン・ジャズ/ポップ/ソウル・ミュージックのエッセンスが詰まっているんですね。どんな三人組だかちっとも知らなかったのに、う〜ん、われながら勘が冴えています、いやマジで(ドヤ顔)。

 

その意味では、以前書いた同じインドネシアのサンディ・ソンドロに相通ずるところがありますが、トリオ・レスタリのうち一人はサンディなんですね。へえ〜、そういうことですか。ほか二名はトンピ、グレン・フレドリ。サンディふくめ、ぼくはなにも知らないので(サンディだって一枚聴いただけ)、アルバムで次々ソロをとりマイク・リレーを聴かせるのがだれなのか、ちっともわかりません。

 

トリオ・レスタリのこの『ワンギ』の音楽は、基本、1980年代ふうの米ブラック・コンテンポラリーですね。だから(ジャズ・)フュージョンとも関係が深いと思います。エル・スール HP 掲載の原田さん解説ではラテン風味ということがくりかえされていますが、ぼくはほとんど感じません。5曲目の「Nurlela」(イラーマ・ジャズのあれのカヴァー)だけじゃないでしょうか、インドネシア・ラテンは。全体的にはもっとド直球のストレートなアメリカン・ミュージックじゃないかと思います。

 

クインシー・ジョーンズとかがやった、あのへんの音楽を強烈に、というかもろストレートに意識させる、というかそのまんまなトリオ・レスタリの『ワンギ』。エル・スールで買った CD は全12曲ですが、いちばん上で書きましたように、原田さんの解説文によっても、オリジナル・アルバムは九曲で、それにシングル盤音源三つを加えたものが2014年にリリースされたということみたいですね。

 

それらシングル・ナンバーは、アルバム『ワンギ』のリリースよりも前の発売だったのか後なのかわかりませんが、アルバムに加えてなんの違和感もなく、スムースに違和感なくすっとつながります。言われなかったらこういうアルバムなんだと思う一体感がありますから、トリオ・レスタリとはこんなアメリカン・ヴォーカル・ミュージックの三人組なんだと思うんですね。

 

シングル盤音源三つは Spotify では聴けませんのですこし書いておくと、「Sabda Rindu」「How Could We Not Love」「Menghujam Jantungku」の三曲。「Sabda Rindu」はかなりジャズ・フュージョンっぽいですね。アメリカのフュージョン・バンドもよくヴォーカリストを迎えてやっていたでしょう、それと同系の音楽です。さわやかなシティ・サウンドですよね。アクースティック・ピアノを中心とするサウンド・メイクも、まるでスタッフみたい。ギター・ソロがエリック・ゲイルっぽいし、ソロのあとのヴォーカル・パートでパッと転調するのだって、いかにもですね。
https://www.youtube.com/watch?v=H76SpHWx8Tg

 

「How Could We Not Love」(Superstar)はもっと黒っぽくて、1980年代的ブラック・コンテンポラリーのサウンドとヴォーカル・スタイルです。これ、だれが歌っているんだろうなあ。知りたいです。サンディかなあ。歌詞も英語だし、まるでアメリカの黒人ソウル〜R&B シンガーそのまんまですよねえ。また、アレンジを、というかサウンド・メイクを、だれがやっているのかもすごく知りたいですよねえ。オルガン(ふうの音を出すシンセサイザーだと思う)を基本に据えたファンキーかつブルージーな音が気持ちいいです。YouTube でさがしましたがありません。が、こんな曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=Ood7tJ0Jn1A

 

アルバム『ワンギ』本編の収録曲もまったく同傾向で、アメリカの黒人ソウル系ジャズ歌手、そうですね、ナンシー・ウィルスンあたりを男性にして三人揃えてコーラスでやって、その伴奏をスタッフあたりがやれば、まさしくトリオ・レスタリのこの音楽とぴったり同じになるという、そういったものですね。ぼくもそういった音楽が大好きなんで、トリオ・レスタリも完璧に好物になりました。聴いていて、楽しいですもんね。

2019/08/15

いつでも音楽がある

Screen-shot-20190814-at-134857

https://open.spotify.com/album/07tbMxw9qeVsNIq0l7xBBX?si=6eTi7CgoQVCA0IxrwMEmaQ

 

この話は何度目になるでしょうか。また書いておきたい気分になりました。とにかくぼくはなにをしているときでも必ず音楽を聴いています。聴いていないのは就寝中だけ。それ以外は本当に文字どおりずっと音楽かけっぱなしなんですね。トイレやお風呂で聴くのはもちろん、セックスするときも電話がかかってきても訪問者があっても、音楽はとめません。だって、ぼくには音楽が必要なんですから、まるで空気や水みたいに。だから音楽が聴こえていなかったら死んでしまうと思います。

 

つらいことがあっても、それを知る瞬間にだって音楽が流れていますので、ショックがちょっとやわらぎます。うれしく楽しいことでもあれば、そのとき聴いている音楽が幸せを二倍、三倍にしてくれます。そうやってぼくは音楽とともに生き、音楽になぐさめられ、ともに喜びながら、いっしょに人生を歩んでいるんです。音楽こそぼくの人生パートナーです。

 

このブログをはじめて以後は、書くために聴くということも増えました。しばらくのあいだはテキスト・ファイルの貯金がたっぷりありましたので、特別これを書くためにあれを聴こうなんてことがありませんでした。ごく自然に聴きたいものを聴き、自然に頭に浮かんだことを書き記していただけです。それが、そうですね、一年半ほどは続きましたでしょうか。

 

そのあいだに、音楽と文章とぼくとの関係がすっかり深くなりました。音楽を聴いてなにか書くということが、イコール、生きるという意味になったのです。そのまま2019年夏現在まで来ていますので、音楽を聴かないとか、聴かないで今後の人生を歩むなんてことは到底考えられません。なにがあっても音楽だけは手放しません。人間関係はもうなにもかも一切合切うまくいかず、ダメになることばかりの人生でしたから、せめて音楽とだけはずっといっしょにいたいです。

 

最近は旅に出ることも増えているんですが(主に岩佐美咲ちゃん関係で)、自宅にいるときはほぼずっとスピーカーで鳴らしていますね。ヘッドフォンやイヤフォンは、ウォーキングと、たまに電車に乗るときだけでしょうか。どこにいても五分と途切れず、ず〜っと聴いて、というかかけっぱなしにしているんですね。部屋のなかでなにをしているときでも、五分以上、いや、三分程度かな、音楽がとまったままだと、にわかに不安がつのり、心の安定がそこなわれます。なんかイライラして、いやドキドキかな、緊張しはじめ焦りのようなものが生まれ、そのときやっていることがうまくできなくなります。これは間違いなく実感していることなんですね。

 

だからなにをやるにも常に音楽に囲まれていることがぼくには必要です。ふだんのものごとを正常に進めるためにも音楽は聴いていなくちゃなりません。なにもしておらず、ただ楽しみのためにだけ音楽に耳を傾けている時間は、それこそ至福ですしね。よく知っているお気に入りの音楽ならリラックスできるし、未知の新開拓分野であればワクワクするスリルがあって、やはり楽しいですもん。

 

岩佐美咲ちゃんの生歌を聴くために旅に出ているときも、道中で、(開演前後の)現場で、ホテルで、カフェで、レストランで、つまりず〜っと音楽を聴いています。そのために持ち歩くポータブル・デジタル機器(MacBook、iPad、iPhone)のストレージに音楽をたくさん入れているのはもちろんですけど、入れてないものでも Spotify で無数に聴けるというのはありがたいですね。Spotify がなかったら、音楽を道連れとするぼくの旅、人生は成り立たないですもん。ところで、旅に出て交通機関のなかで聴く音楽って、また格別にいいですよねえ。窓の外をぼ〜っと眺めながら聴く音楽って、どうしてふだんと違って聴こえるのでしょう。特に電車と船。

 

そんなわけで、一年365日24時間ずっと絶え間なく音楽を耳に入れているぼく。部屋にテレビ受像機はありませんし、ホテルの部屋でもその電源は入れないので、音の出るものといえばソースは音楽だけです。音楽だけがわが友、音楽だけがわが仲間、わが伴侶です。いままでも、いまも、これからも、ずっとそうやってぼくは生きてきたし、生きているし、生きていくでしょう。ぼくにはいつも、どんなときでも、音楽があるんです。

2019/08/14

「遣らずの雨」は全岩佐美咲史上 No.1!

81rnz9pfhl_sl1500_

いやあ、なんなんですかこのわさみん(岩佐美咲ちゃん)の「遣らずの雨」は。超絶品じゃないですか。すばらしいすばらしいと前から言っているわさみんですけど、ここまで美しい歌はいままで聴いたことがないですよ。たぶん、岩佐美咲史上最高の一曲になったと思います。いやあすごいすごい。もうすごいとしかことばが出てこないっていう語彙の貧弱さですけど、そうなってしまうくらいわさみんの「遣らずの雨」は見事です。

 

わさみんの「遣らずの雨」は、このあいだ8月6日に発売になったばかり。「恋の終わり三軒茶屋」特別盤のカップリング・ナンバーで、初演は川中美幸さん。そのほか「飛んでイスタンブール」(庄野真代さん)、「冬のリヴィエラ」(森進一さん)といったカヴァー曲も収録されています。それらもいいんですけど、今回は「遣らずの雨」がすばらしすぎて、これ一曲ばかり延々と反復再生してしまうんですね。

 

「遣らずの雨」わさみんヴァージョンのアレンジは、基本、川中美幸さんの初演のそれに沿っています。わさみんヴァージョンのアレンジャーがだれなのか明記されていませんが、おそらくは野中”まさ”雄一さんじゃないでしょうか。わさみんヴァージョンでの最大の特徴は、川中ヴァージョンでのギターをカーヌーン(の音を出すシンセサイザーだと思う)に置き換えたこと、それからこのリズムです。

 

川中美幸さんの「遣らずの雨」はみなさんご存知だと思います。あのナイロン弦ギターでのイントロやオブリガートを、頭のなかでカーヌーンのサウンドにしてみてください。頭のなかでというかぼくたちわさ民はみんなそれを実際に耳で聴いていますけれど、なんともいえずしっとり切なくて、最高の音色じゃないですか。アラブ〜トルコ〜ギリシア歌謡ではごくふつうに使われる楽器なんですけど、あのへんの歌謡の特色である悲哀感を最もよく表現している楽器ですよね。

 

だから川中ヴァージョンでのギターを(代用シンセサイザーであるとはいえ)カーヌーンに置き換えてみようと考えた野中さんは、やっぱり天才。わさみん楽曲をアレンジするときの野中さんの冴えはマジ天才になるときがあるとぼくは前から言ってますけど、今回も本領発揮とあいなりました。このカーヌーン(ふうシンセだけど)の音での伴奏を聴いたり、それがわさみんのヴォーカルにからんだりしているのを聴いているだけで、この「遣らずの雨」という歌の切なさ、哀しみがグッと胸に迫ってきます。

 

この点でさらに大きなポイントがリズム・アレンジですね。川中ヴァージョンでは特にこれといった特徴がリズムにはなかったんですけど、わさみんヴァージョンではこのスーッと流れ進むような、でありながら同時にハネをともなってややシンコペイトするようなこのリズム・スタイルが、切々とした情緒表現にこれ以上なくピッタリ来ているなと思うんですね。ドラミングにおいてイントロ部ではリム・ショットで、歌が出たらスネアの打面に移行して、それがうまく表現できています。

 

(リズムのハネは今回の特別盤二枚の隠れテーマで、「恋の終わり三軒茶屋」「飛んでイスタンブール」「冬のリヴィエラ」「遣らずの雨」の四曲に共通するものです)

 

そんなリズムとそれに乗って歌うわさみんの声が、この曲「遣らずの雨」の哀切感をこれ以上なく強調していますよね。ヴォイス・トーンも安定しているし、丸みと艶があって、しかもことさらどこかを強調するというのではなく、あえて淡々と(一見)平板にというかフラット&スムースに、表情の濃淡をつけないで素直に歌うのが、いつもながらわさみんの特長なんですけど、今回の「遣らずの雨」では、最大限に有効さを発揮できています。

 

もともと「遣らずの雨」というのはこんな曲なので、つまり聴いていて泣きそうになる歌詞とメロディを持つ歌なんで、歌手がそんな(泣くような)濃い表情をつけてしまうと、聴き手のほうはかえって逆に冷めてしまうんですよね。萎えちゃって泣けません。表現者は歌の世界をすっと伝え、聴き手はそのまますんなりと感情移入できて、この物悲しい内容がそのまま胸に沁みてくるようになるというようなことを、わさみんは今回最高度の次元で実現できているのではないでしょうか。

 

いやあ、こんな「遣らずの雨」みたいな世界を、ここまですばらしく表現できるなんて、わさみんこと岩佐美咲ちゃんの成長と充実ぶりはものすごいじゃないですか。「遣らずの雨」は、もともと今年一月末のソロ・コンサートで歌われてたいへんに評判がよかったものですが(だからスタジオで再録して収録したんだと思います)、こんなに淡々とこんな大人の情緒を、ナイーヴさすら漂わせながら、表出できるなんて。もう降参です。岩佐美咲、すごい歌手です。もともとすごかったけど、最近とんでもない歌手になってしまいました!

 

いままでわさみんは「20歳のめぐり逢い」「糸」「風の盆恋歌」といったような超絶品を世に送り出してきましたが、今回の「遣らずの雨」はそれらをも凌駕しています。疑いなく違いなく、わさみん史上 No.1歌唱になっていると思います。いやあ、すごい、すごすぎるぞ、わさみん!

 

(written 2019.8.12)

2019/08/13

来夏のわさみんイベントはどうなる?

Dhqxj07u0aak2jq

夏っぽい写真を選んでみました。

 

2019年8月6日から9日まで、わさみん(岩佐美咲ちゃん)の「恋の終わり三軒茶屋」特別盤発売記念キャンペーンに参加してきました。いずれも首都圏というか関東エリアで開催されたものです。いやあ、それにしてもとんでもない暑さでしたね。特に笠間とか深谷での猛烈な暑さはハンパじゃなかったです。ぼくは浴衣一枚で行ったんですけど、同じく浴衣姿のわさみんいわく「女のほうがたいへんよ」と。そりゃそうですよねえ。

 

そんな暑いさなかにどうして関東まで行くのかというと、毎夏はわさみんのその年の新曲の特別盤 CD が発売されるのが通例なんですよね。今年はそれが8月6日だったんです。新しい CD が発売されればその記念というか販促キャンペーンをどんどんやるのはふつうのことです。ちょうど夏休みの時期になりますので、全国のわさ民(わさみんファン)のみなさんも参加しやすいと思うんですけど、毎夏恒例なのに、来2020年はちょっと心配です。

 

ちょっとどころか大いに心配、わさみんイベントが開催されるかどうかすら危ういと思うんですけど、それは来夏には東京オリンピック&パラリンピックが開催されるからですね。五輪のために東京というか首都圏は、いや、日本全体もかな、それ一色に染まってしまうのは間違いありません。こういったスポーツの祭典が開催されることは、諸議論ありますが、まあいいんじゃないでしょうか(しょうがないんじゃないかと思います)。

 

問題は、2020夏の東京五輪のために、それ以外のいっさいの娯楽が首都圏エリアで開催できにくくなってしまうだろうということです。それでもそちらにお住いのみなさんにとってはそうでもないのかもしれないですけど、ぼくのように遠隔地在住で、東京のホテルに滞在してエンタメを楽しみたいという人間にとって、来夏のホテル宿泊価格は、もはやすでに可能な値段ではなくなっているんですね。

 

ぼくのばあい定宿にしているホテルが新宿にあって、そこは閑散期のウィークデイのシングル・ルームで一泊だいたい一万円程度です。都内のビジネス・ホテルだとそれくらいのところが多いんじゃないでしょうか。ところが、いまから予約できる2020年夏の同じホテルの同じ部屋は、なんと一泊五、六万円にもなっているんですね。カプセル・ホテルみたいなところですら、来夏は一泊一万五千円程度にまで、すでにはねあがっていますよ。ラヴ・ホテルだって似たようなものかと思います。

 

どないするんですかこれ?予約できないじゃないですか。たぶんオリンピック&パラリンピック期間中の来夏は、首都圏でのホテル宿泊は絶対に不可能と思います。地方人が東京や周辺エリアに滞在できないだけではありません。五輪期間中はキャンプ地になるので、地方都市でも同様の事態が発生しているかもしれませんから。これはあれですよ、五輪期間中の来夏は一切の移動が禁止されるというに近いものがありますね。公共交通機関だって激混みで事実上機能停止するかも。

 

移動・宿泊が不可能なばかりではありません。五輪期間中はいろんな人的・物的パワーもリソースもサポートも、もろもろいっさい、それに向けて割かれるようですから、だからスポーツ競技やそれにかかわるひとたち以外は、ふだんの仕事すら満足にできないかもしれないです。特にわさみんみたいにどんどん現場でイベントをやったりする歌手みたいな職業だと、あまり活動できないかもしれないですね。

 

う〜ん、こりゃあちょっと…、困りました。事態を見越して、山下達郎はじめ来年のジャパン・ツアーとりやめを発表している音楽家もいます。実際、満足に活動できないでしょうからそれも当然です。達郎ほどの大物でもそうなんですから、わさみんなんてじゅうぶんな活動ができないのは目に見えていると思います。来年夏のわさみんイベントを首都圏で開催するのはむずかしいかも。開催したとて、行ける人間がいませんから。すくなくとも、書いたように地方民はひとりも行けません。

 

そこで提案なんですけど、新しい CD が発売されるとその記念キャンペーン・イベントを主に東京エリアでどんどんやるというのがいままでのわさみんサイドの通例なんですが、例年どおりだとやはり新作が発売されるであろう来年夏は、思い切って一ヶ月ほどのあいだ、わさみんもスタッフさんはじめ周囲のみなさんも、地方都市に疎開して活動してみたらどうでしょうか〜。

 

五輪期間中は地方都市もベース・キャンプ地になって…と書きましたが、コミコミ具合は首都圏ほどじゃないはず。不足なく活動しようと思ったらそれしか手はないと思うんですけどね。五輪のためになにもかも犠牲になってしまう東京や首都圏を脱出して、まだちょっとは余裕のある地方都市で一時的に暮らせば、そして新作発売記念キャンペーン・イベントも地方都市ばかりどんどんまわるようにすれば、人と物の不足もさほどではないと思うんですけどね。地方わさ民のみなさんやぼくからすれば喜びしかありませんし。なんだったら四国は愛媛県に疎開してきてもええのですよ〜。面倒見まっせ〜〜。

 

(written 2019.8.11)

2019/08/12

フレディ・ハバード『ストレート・ライフ』

R40520013563316202583jpeg

(ずっと使ってきたデザイン・テーマが終了するので、これにしました)

 

https://open.spotify.com/album/1r66S2fnO8T8QWaVGWp2jo?si=jZtP_LKkQHacWnsY3zX8KA

 

ねえ、この Spotify にあるフレディ・ハバードのアルバム『ストレート・ライフ』(1970年録音71年発表)は1曲目のタイトル・ナンバーがグレイ・アウトしていて聴けないですが、どうしてぇ〜?こんなの意味ないじゃ〜ん。そのほかいくつかあたってみると、どう〜も CTI レーベルの作品はネット聴きに問題があるみたいで、なんとも時代錯誤はなはだしく、残念なかぎり。というわけで、フレディ・ハバードの曲「ストレート・ライフ」は、これでお聴きください↓
https://www.youtube.com/watch?v=a4xwNHUyz1Q

 

あっ、というかそもそもアルバム丸ごとぜんぶ YouTube にあるやないですか。これでええやないですか。
https://www.youtube.com/watch?v=gUiL-xG_Aos

 

それはともかく。フレディ・ハバードの『ストレート・ライフ』は、このジャズ・トランペッターがフュージョン路線をとって CTI に残したアルバムのなかでぼくのいちばんのお気に入りなんですよね。この音楽の、特に1曲目のタイトル・ナンバーの、鍵を握っているのは、フレディ本人というよりエレクトリック・ピアノ(フェンダー・ローズじゃないかも)を弾くハービー・ハンコックですね。ハービーがこの曲の影の主役なんです。

 

いきなり無伴奏でフレディがプレリュードを吹きはじめますけど、リズムが入ってテーマ吹奏となったら、すでに主役はホーン二管じゃなく、ハービーとドラムスのジャック・ディジョネットだってわかりますよね。この二名がガチャガチャと演奏するファンキー・ビートこそ、曲「ストレート・ライフ」のキーなんですね。

 

だから、まずテナー・サックスのジョー・ヘンダスン、次いでフレディとソロをとりますけれど、輝かしい音色でソロ内容も抜群であるとはいえ、ぼくはいつも背後のリズムを聴いているんですね。三番手でそのハービーのソロ、次にギターのジョージ・ベンスンのソロと続きますが、なかでもギター・ソロ部背後でのハービーの動きは特筆すべきものです。ハービーのエレピこそがリズムをつくっていると思うからなんですね。

 

そしてギター・ソロ部後半からハービーは一定の同じリフ・パターンを弾きはじめ、そのままずっと、ラスト・テーマ吹奏に入るまでずっと、その同じフレーズを弾き続けています。ギター・ソロが終わってから二管テーマまで、しばらくだれのソロでもない時間が流れていますが、そこはハービーのそのエレピ・パターンを、というかリズムを、聴く時間だと思うんです。実際、ファンキーで気持ちいいですし。

 

2曲目(から旧 B 面)もファンク・ジャズ路線ですが、ここからの主役はハービーじゃなくジョージ・ベンスンですね。「ミスター・クリーン」では「ストレート・ライフ」よりもタイトで、グッと重心を落とした、ややヘヴィなソウル/ファンク寄りのリズムとサウンドになっているのが注目点でしょう。ここでもぼくはソロ内容もさることながら(ギター・ソロは相当いいけど)、やはりリズムを聴いているんです。

 

意外な良品がラストの「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」。ベースのロン・カーターの音も聴こえるものの、伴奏者はジョージ・ベンスンひとりといっていいデュオ内容で淡々とフレディが綴っているジャズ・ナンバーです。なんといっても感心するのはジョージのギター・サウンドですね。箱物エレキじゃないと絶対に出しえない、この丸く暖かみのあるふんわりした和音の響き。なんてやわらかいんでしょう。たまりませんねえ。それにこんなふうに歌伴できるなんて、いや、フレディは実質歌っているようなもんだと思いますから、ジョージって本当にうまいギターリストなんだなあって、舌を巻きますね。

 

蛇足ですけれど、「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」というのは天候のことを言っているんじゃありませんよ。失恋の歌なんです。rainy day とはそういう意味ですから。歌入りヴァージョンでこのポップ・ソングの歌詞内容を確認してくださいね。
https://www.youtube.com/watch?v=vCB9A6Eji8o

2019/08/11

サッチモの古い録音を聴いてほしい

I23xmfb

https://open.spotify.com/playlist/38Dtc4gJ9auQJwUA7driUi?si=K7D1y3hXQ0-f_Q8sOABGMA

 

本当にサッチモことルイ・アームストロングの全盛期1920年代後半〜30年代前半のオーケー時代のことは、その偉大さと楽しさと重要性をどれだけ強調してもしたりないほどなんですけど、それに反比例するようにどんどん忘れられつつありますよね。いまやだれもふりかえらないようになっています。ジャズ史上最も輝いていて、最も重要だった録音集なのに、そんなことでいいんでしょうか。

 

1925〜33年のオーケー(コロンビア系)・レーベル時代こそサッチモの全盛期で、このへんの音源はだいぶ前にレガシーが全集 CD ボックスを発売しました。10枚組。これこそ、至高の録音集なんですね。ジャズ・ファンや大衆音楽に興味のあるかたがたには必携のボックスと言えましょう。いまや中古しかないようですが、入手は可能みたいです。
https://www.amazon.co.jp//dp/B008S80PPG/

81uelwckfsl_sl1500_

 

しかし、10枚組という規模ですし、サッチモのことをあまり知らないひとにいきなりこれを買ってほしいとはなかなか言えない面があります。本来であれば、音源の発売権利を持つレガシーが、もうちょっと年代別に小分けにして、ベスト盤のようなものを発売すべきだとぼくは考えていますし、人類史でも類い稀なこの偉大な音楽遺産を管理しているレガシーには(啓蒙、教育という意味もふくめ)その責務があるんじゃないでしょうか。

 

ぼくとしてはいちファンにすぎないわけですから、その立場からできるかぎりのことを今後もくりかえしやっていきたいと思います。まずやるべきことは、書いたように年代別ベスト盤みたいにした音源集がだれでも簡単に聴けるような状態にしておくことです。それを Spotify のプレイリストとして作成しておきました。1925〜27年、28年、29〜33年という三種類です。28年分はセレクションではなく全集です。

 

・(1925〜27)https://open.spotify.com/playlist/1tjvR2nS8x09B5AfiYNPlg?si=eNuJdkg1TcGMVV9L8UbF0Q


・(1928)https://open.spotify.com/playlist/70iGg4fNSeTCrnpStbqm7X?si=yxj26FgDSHG9pBDdBcydow


・(1929〜33)https://open.spotify.com/playlist/0UUw0rmMZaLs6W2bNXio0k?si=Einf26tFQfaUojH6Bf-o8g

 

これらのセレクションの曲選出基準は、以前自分で書いた以下の三記事に書いてあるとおりです。これらの過去記事はそれぞれ解説文でもありますので、1920年代のサッチモと言われても五里霧中だなぁ〜というかたは、参考にしてみてください。

 

・「サッチモ 1925〜27」http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/192527-bfc3.html


・「サッチモ 1928」http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/1928-f5ad.html


・「サッチモ 1929 - 33」http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/1929---33-d736.html

 

これらの文章にぼくの言いたいことはだいたい書いてありますので、今日は同じことをくりかえしません。このころのサッチモの音楽はエンターテイメントとして最高度に洗練され、ステージ芸人のようでありながら同時に究極のアーティストでもあるという、おそろしい高みにありました。

 

音楽とはリスナーを楽しませることこそ最大の目的であって、音楽家はそれに全力で邁進すべきであるという理想を、サッチモはデビュー期から貫いていました。1925年といえば、サッチモがフレッチャー・ヘンダスン楽団での修行時代を終え、自己のバンドを率いるようになった時期です。そこから数年間のサッチモの飛翔は、まさに敵なしの最上空を行っていたのであります。2019年現在のジャズ史全体でも、いまだにだれも敵わない頂点にあったのです。

 

トランペット(コルネット)演奏もヴォーカルも、まったく同じ次元でくりひろげていたサッチモのエンタメ=アート。聴いていれば、気分がウキウキし、楽しくて、なにかいやなこと、つらいことがあっても、それを忘れさせてくれる最高のリラックス剤となり、またうれしい気分ならそれを二倍、三倍にしてくれるよき友でもあるんですね。

 

「芸能ってのはお客さんに喜んでもらえなきゃしょうがない。でも、たどり着く頂点はアートと同じですよ」というのは相倉久人さんのことば(『相倉久人にきく昭和歌謡史』アルテスパブリッシング、2016)。これこそサッチモの真の偉大さを的確に言い表したものじゃないでしょうか。相倉さんはサッチモのことを語ったのではありませんが、サッチモにこそ、あるいは全大衆音楽の理想について、的を射た表現だと思います。

 

エンターテイメントを追求し、どこまでも徹底的に追求した結果、サッチモは本物のアートだけが持つピュアさ、高みにたどりついていました。そんな、真に偉大な音楽家がいちばん輝いていたピーク時期の録音集こそ、1925〜33年のオーケー・レーベルのものなんです。録音が古いからといって遠ざけていては、人生の大損ですよ。

 

ぜひ、ちょっとでも耳を傾けていただけたらうれしいなと思っています。

2019/08/10

ライ・クーダーの、これはテックス・メックス・ライヴかな

81xraiprqdl_sl1425_

https://open.spotify.com/album/7fygV5lqrItwH3YU0T50nK?si=nR1DgrfbSXKGzMGSdKsSgg

 

2013年にノンサッチから CD がリリースされたときに買ったライ・クーダー&コーリドス・ファモーソスの2011年ライヴ。Spotify にあるのだと『ライヴ・イン・サン・フランシスコ』となっていますけど、現物には Live としか書いてないですね。でもたしかにサン・フランシスコのザ・グレイト・アメリカン・ミュージック・ホールでの2011年8月31日と9月1日の実況録音。

 

ライのこの2011年サン・フランシスコ・ライヴは、テックス・メックス作品と呼んでいいんじゃないかと思います。最初、幕開け数曲はルーツ・ロック色が濃いですけど、5曲目、ウディ・ガスリーの「ド・レ・ミ」あたりから完璧なるラテン、というかメキシカン・ミュージック・ワールドが展開され、その中心にフラーコ・ヒメネスのアコーディオン・サウンドがあるんですね。

 

だいたいこのアルバム・ジャケットが完全にメキシカンじゃないですか。バンド名が Corridos Famosos で、バックのブラス・バンド名も La Banda Juvenil なんだから、プロデュースもやっているライ自身、テックス・メックス/ラテン音楽のライヴ・アルバムを企画したというのは間違いないと思いますよ。

 

テックス・メックス路線をとる5曲目「ド・レ・ミ」以前にも伏線は引かれています。最大のものは、たぶん3曲目「ブーマーズ・ストーリー」ですね。そう、ライ最大の代表曲のひとつである過去曲ですよね。流れ者、ホーボーの物語をテーマにしたこの曲を前半部に置いているのは、テックス・メックス・バンド、コーリドス・ファモーソス(有名な無法者たち?)の登場を告げるものになっているんですね。

 

それにしても、フラーコがこんなふうにアコーディオンを弾く「ド・レ・ミ」を聴いていると、ウディ・ガスリーのオリジナルがどんなのだったか思い出せないほど。この曲以後フラーコはアルバムの最後までほぼすべての曲で大きくフィーチャーされていて、このコーリドス・ファモーソスの中心となって活躍し、アルバムの音楽を大きく特徴付けています。CD パッケージ内側に集合写真が載っていますけど、真ん中がフラーコで、向かってその右となりにライが座っているのも、このバンドと音楽をよく物語るっているでしょうね。

Fullsizeoutput_4f1

6曲目の「スクール・イズ・アウト」が終わると、ライの紹介で次の曲ではテリー・エヴァンズとアーノルド・マッカラーの二名の歌をフィーチャーするとなっていて、次いでテリーがその曲紹介をやって、かのチップ・モーマン&ダン・ペンの「ダーク・エンド・オヴ・ザ・ストリート」がはじまります。ここでもフラーコのアコーディオンが目立っていて、まるでメキシカン・サザン・ソウル。あ、アメリカ合衆国南部はメキシコと隣り合わせなんでした。『ブーマーズ・ストーリー』にあるライによるこの曲の初カヴァー(1972)は歌なしのギター・インストルメンタルでしたが、ここでは艶のあるヴォーカル入りで、大きく様変わりしています。

 

続く8曲目がこのライヴ・アルバムの目玉でしょうね。ライいわく新曲だそうで、その名も「エル・コーリド・デ・ジェシー・ジェイムズ」(ならず者ジェシー・ジェイムズ)。銀行強盗などをはたらいた実在のアウトロー、ジェシー・ジェイムズに題材をとった曲ですね。このライヴのときのバンド名をコーリドス・ファモーソスとしているのと関連しますし、3曲目の「ブーマーズ・ストーリー」からの流れはここへ来ています。

 

曲「エル・コーリド・デ・ジェシー・ジェイムズ」ではふたたびライがリード・ヴォーカルをとっていますが、バンドのビートはいかにもな典型的メキシカン・ビートの三拍子。曲想、曲調、和声、サウンドなどとともに、どこをどうとってもメキシカン・ナンバーです。フラーコのアコーディオンは当然のように大活躍。後半、ラ・バンダ・フーベニールが派手に乱入し、ブラス・バンドのビッグ・サウンドで曲を飾るさまは壮観ですね。

 

一曲はさんで10曲目の「ボルベール、ボルベール」は全編スペイン語で歌われますが(そういうのはアルバム中これだけ)、そのヴォーカルを女性歌手ジュリエット・コマジェールがとっています(このライのアルバムでベースを弾いているのがジュリエットの弟ロバート・フランシス)。ロス・アンジェルスに拠点を置くシンガー・ソングライターですね。曲はビンセンテ・フェルナンデスや、それからなんといってもわれらがロス・ロボスも歌った、メキシカン・ランチェーラです。6/8拍子のリズムで、当然のようにフラーコのアコーディオンもラ・バンダ・フーベニールも大活躍。いやあ、楽しい。

 

その後のラスト二曲はアンコール的な位置付けかなと思いますが、最後の「グッドナイト・アイリーン」は、ライの超絶大名盤『チキン・スキン・ミュージック』の末尾を飾っていた有名曲ですよね。やはりフラーコがアコーディオンを弾いていました。ライとフラーコの音楽親交はあれ以来ずっと続いているわけです。あのアルバムもテックス・メックス音楽を大きくとりいれた作品でした。

2019/08/09

真夏にはこれ、音の冷房 〜 クロンチョン・トゥグー

Screen-shot-20190727-at-234623

https://open.spotify.com/album/4xJbpEWKe7RoJrOz9AUKdk?si=zgSj_w2WQLe1ngGOVZWMjg

 

bunboni さんに教えていただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-07-26

 

クロンチョン・トゥグー(Krontjong Toegoe)とはなにか?どういった楽団なのか?そのアルバム『De Mardijkers』、については、上にリンクした bonboni さんの文章をお読みください。ぼくはぼくで、ちょっと聴いてみたら、こりゃ〜いい!って感じたので、ちょっとしたメモを残しておくことにします。いまこちら愛媛県でもたいへんな暑さが続く真夏ですけど、こんなクロンチョン(インドネシア音楽)こそ涼感があって、まさにピッタリだと思うんですね。音の冷房ですよ。

 

聴いていると体感気温が三度は下がるこのアルバム『De Mardijkers』とクロンチョン・トゥグーの魅力は、素直で自然体だっていうことですね。さわやかさ、ユーモア感覚がありながら、それはつくりものなんかじゃなく、この楽団の演唱するなかにあるのがそのまま出ているなあって思うんです。だからわざとらしさ、フェイクなんてものとは無縁の世界です。楽団の面々のからだのなかにこういった音楽がもとから育まれているんでしょうね。

 

どの曲も歌入りですけど、そのヴォーカル(一曲ごとに歌手は交代します)にもリキみがぜんぜんなく、なさすぎてふわっとサラリ涼感ですけど、決して声を張らずスッと自然にふだんの姿のまま歌っているのがいいですよね。アマチュアらしさというか、決してうまい歌手たちじゃないんですけど、っていうかたぶん演奏者もふくめ、なかばアマチュアで、趣味としてクロンチョンをやっているんじゃないでしょうか。

 

そんなアマチュア精神というか趣味人のふだんの姿、飾らない人間性の良さ、自然な素直さ、ケレン味などは微塵もないナチュラルなストレートさ 〜〜 そんな彼らの人柄が反映された音楽傾向がこのアルバムを支配しているなと思うんですね。ぼくは音楽のスタイルとそれをやっている音楽家の人間性は関係ないという思想の持ち主ですけど、クロンチョン・トゥグーとこのアルバム『De Mardijkers』を聴くと、このあまりの心地よさに、たぶんみんないいひとなんだよねえ〜って思っちゃいました。

 

ホ〜ント、聴いたら体感気温がスーッと下がってヒンヤリ気分になれますから、まあインドネシアのクロンチョンってだいたいどれもそんな冷感音楽ですけど、今日話題にしているこのクロンチョン・トゥグーはまたいっそう格別の爽やかさがあるんですよ。間違いないです、保証しますから、ぜひちょっと耳を傾けてみてください。きっとお気に入りになると思いますよ。クロンチョンってな〜に?インドネシアの音楽って知らないなぁ〜っていうかたがたにも、格好の入門盤です。強く推薦します。ぜひにぜひに。

 

(written 2019.8.1)

2019/08/08

このブログの人気記事ランキング

Fullsizeoutput_4f3

ぼくのこのブログにスマートフォンでアクセスしたときにだけ、記事一覧の下に「このブログの人気記事ランキング」というのが表示されます。ベスト5まで出ます。いまちょうど2019年7月17日の19;45すぎですけど、どうなっているか、スクリーン・ショットを撮ってみたのが上の写真です。これはいわゆるアクセス解析じゃないので、オーナーのぼくだけでなく、どなたでもご覧になれるものですよ。

 

アクセス解析を見る習慣をやめたいまのぼくには、どんな記事にみなさんのアクセスがあるのか、ある程度ちょっとだけでもわかるきっかけが、この「このブログの人気記事ランキング」なんですね。このランキングは、毎日数度見ているとわかるんですけど、もちろんリアルタイムでのアクセス増減に応じて動く可変式表示です。どういう仕組みでこのランキングが作成・表示されているか、なにも知りませんが、だいたい24時間で一回程度、変動があるみたいなんですね。

 

こないだジョアン・ジルベルトが亡くなったばかりなので、それ関連の記事がトップに来ていますよね。だいたいそんな感じで、そのときどきの時事性のある記事や、あるいは新規更新の記事がトップ5に入ってくることが多いようです。それでもときどき、これはどうして?と疑問に思うようなランク・インもあるんですね。

 

その最たるものが、いま4位にある「失われた世界〜ジャズ・クラリネット」です。この文章は2017年2月にアップロードしたものですが、この人気記事ランキングのベスト5の外に落ちたことが、いまに至るまでありません。一度たりとも落ちていないんですよ。ずっとベスト5のなかにいつづけているんです。ランキングのほかの四つは変動するのに、このオールド・ジャズ・クラリネットの記事だけずっと五位内にとどまっているんです。

 

これはどういうわけでしょう?いったいこの「失われた世界〜ジャズ・クラリネット」にそんなにアクセスがあり続けている理由はなんでしょうか?特別なことはなにも書いていません。目新しい知見もないし、ぼくしか知りえない情報もなければ独自分析もまったくなし。だからこの記事にそんなに価値があるとは思えないです。ただたんにぼくの好きな戦前古典ジャズのクラリネット奏者を数名あげ、代表的名演の音源を貼ってあるだけです。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-cf99.html

 

それがただの一度もランク外に落ちたことすらないというのは、う〜ん、ぼくのこのブログは戦前古典ジャズのリスナーや、それに興味があるけれどそんな世界のたとえばクラリネットってどんなもんなのかちょっと覗いてみたいなと思うかたがたなど、そういった向きに人気のブログだっていうことなんでしょうかねえ。最近はオールド・ジャズ、アーリー・ジャズのことを書く頻度が下がりましたが、そっち関係のブロガーだと思われているのかも?

 

また、ついこないだまで、2017年11月更新の「太田裕美「木綿のハンカチーフ」〜 アルバム・ヴァージョンとシングル・ヴァージョン」が上位にランク・インしていましたが、これなんか、いままでランク内に姿も影もなかったものなのに、ある日突然入ってきて、ずっと滞在していましたからねえ。これも理由がわからないです。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-68fa.html

 

これのばあいは、その後つい先日「ウッドストック幻想の崩壊と、太田裕美『心が風邪をひいた日』」というのをアップしましたから、それに取って代わられたという様子ですね。現在、それがランク二位に入っています。つまり、この2019年7月12日更新の記事が上がるまで、上掲「木綿のハンカチーフ」記事がランク内にいたんですね。

 

また、どんなに力を込めて書いたものでも、まったくランク・インしない、ぜんぜん影も形もない、というものだって多いです。たとえばエジプト人歌手アンガームの記事を、以前、四日連続でアップロードしましたよね。どれもランク・インしなかったです。だから、このへんはやっぱりとりあげている音楽そのものが人気かどうかということも関係あるんでしょうね。アンガームなどは、エル・スールや関連界隈ではもてはやされても、世間一般ではちっとも知られていないということかもしれないです。だから、どんなに熱を込めて書いて上げても、だれか知らない名前のひとの記事だな〜、くらいにしか思われていないんでしょうねえ。う〜ん、アンガーム、すばらしい歌手なんだけどなあ。しかもいま絶頂期。歌手人生のピークにあるんですよね。その音楽もリンク先で聴けますよ。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-edfda1.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-d491ab.html

 

あと一点。マイルズ・デイヴィス関係の記事は、ほぼどれも毎回必ずランク・インします。このへんも、たぶんこの戸嶋 久というブロガーはマイルズ狂なんだろう、熱心だし、なんだかえらいくわしいぞ、って思われているでしょうねえ。なんだか、みなさんの抱くそんな実感がひしひしと伝わってきますよ。でもそんなことと関係なく、ぼくはぼくで無責任にというか気軽に、マイルズのことを今後も書いていこうと思っています。

 

そんなわけで、ある程度わかる部分とよくわからない部分とが混在している、この Black Beauty の「このブログの人気記事ランキング」。やっぱり気持ちを入れて書いて上げた記事がランク上位に来るととうれしいですし、逆にこんなチンケでいい加減な文章でいいのか…と申し訳なさ半分でおそるおそる上げたものが一位にずっととどまっていたりすると恐縮至極であります。

 

書いて上げるときは、そんなこと諸々いっさい関係なくやっていますけど、結果ランキングに反映されたりされなかったりして、まあそんなこともあまり意識しないで今後もやっていきたいと思っています。意識すると失敗しますからね、ぼくのばあいは。なにも考えず、黙々と毎日続けていくのがいいんです。音楽を聴き、書く、それはぼくにとって、呼吸したり水を飲んだりするのと同じですから。

2019/08/07

多幸感あふれるジョニの『シャドウズ・アンド・ライト』

41tkn717mcl

https://open.spotify.com/album/0sk9dYm1TZbsxJ5hIEBuby?si=Usw-h4H0R9if83SFe7kKMA

 

そういうわけでまたじっくり聴いたジョニ・ミッチェルのライヴ盤『シャドウズ・アンド・ライト』(1980)。本当に好きだぁ〜。なにが好きといって、まず1曲目の「フランスではみんな表通りでキスをする」の、この多幸感あふれるサウンドですよねえ。いやあ、楽しいったらありゃしません。だいたいジャコ・パストーリアスのベース・サウンドって幸せに満ちているし、ここではジョニのギターもソロを弾くパット・マシーニーも、そのほかみ〜んなニコニコしていますよねえ。そんなサウンドです。

 

そう、楽しく幸せ、これがジョニのアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』を貫く基調なんです。だから好きなんでしょうねえ。約40年前の出会いからいままでなんど聴いても、聴いたあとは気分いいですもん。でもってさわやかな聴後感が残りますよね。なっかなかここまでの音楽って、ありそうでないと思うんです。

 

だから、昨日も言いましたが、ジョニのアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』はシックスティーズ的だなと思うことがあります。にぎやかに騒いでいる、楽しく跳ねまわっている、自由と平和と愛の祭典のような、つまりはウッドストック・フェスティヴァル1969がそうであったような、そんな世界をライヴ・ミュージックでジョニは1979年に実現したのかもしれません。

 

その意味では、一枚目では1曲目「イン・フランス・ゼイ・キス・オン・メイン・ストリート」、4「コヨーテ」、6「ザ・ドライ・クリーナー・フロム・デ・モイン」あたりがクライマックスということになるでしょうか。特に幕開けの(イントロダクションは飛ばし)1曲目が、も〜う、ここまで幸せに満ち満ちた音楽もないんじゃないかと思うほど楽しくて、ジョニもバンド・メンバーも全員が楽しそうで、実際楽しいし、いやあ、これ一発でアルバム全体の色調が決まっていますよね。

 

基本この路線でアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』は続くんですが、あいだに入る、たとえば「イーディス・アンド・ザ・キングピン」も見事だし(このたたずむようなサウンドとリズム)、また「アミーリア」みたいな、ほぼジョニのひとり弾き語りみたいなしっとり系ナンバーも極上です。そのままセンティメンタリズムという自身の持ち味をフルに発揮したパット・マシーニーのソロをはさみ、やはりすばらしい「ヘジャイラ」(マイケル・ブレッカーのソプラノ・サックス・ソロもいい)で一枚目は終わります。

 

CD2になれば、この多幸感はさらに拡大し、いきなりのハード・グルーヴァー「ブラック・クロウ」でかっ飛ばし、ドン・アライアスのコンガ・ソロをはさんで、全員が打楽器を手にしてジョニが歌うアフロ・ブラジリアンな「ドリームランド」になだれ込みます。もうこのへんの展開でぼくなんかは降参ですね。な〜んて楽しいのでしょうか。こんなにも幸せな気分になれる音楽アルバムが、この世にほかにあるでしょうか。

 

しかもそのまま「フリー・マン・イン・パリス」が続き来て、こっちの絶頂感は持続したまま、さらにもっとあがります。いやあ、すごいなあジョニの音楽って。マイケル・ブレッカーもいい。その後、ドゥー・ワップ・グループのパースエイジョンズが出てきて、ロックンロールというかドゥー・ワップな「ワイ・ドゥー・フールズ・フォール・イン・ラヴ」をやりますが、もう楽しさ、幸せ爆発であります。このヴォーカル・コーラスのサウンドと、バンドのリズム、マイケル・ブレッカーのロックンロール・サックスのカッコよさ、いやあ、たまりませんね。

 

このドゥー・ワップ楽曲以後は、後戯みたいなもんです。

2019/08/06

ジョニの「ウッドストック」は、楽園へのレクイエム

2552

https://open.spotify.com/playlist/1CtlPVkdbvkL7UkvwKeurw?si=ND5-pY8YSI-jeP6p17Zj1A

 

ジョニ・ミッチェルの二枚組ライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』(1980)の最後の最後で、まるでコーダのようにして、ギター弾き語りでひっそりと静かに歌われる曲「ウッドストック」が好き。それはまるでにぎやかだった乱痴気騒ぎのあとひとりでしんみりとたたずみながらポツポツとふりかえり語っているかのようです。

 

しかし、「ウッドストック」というこのジョニの曲は、決してウッドストック・フェスティヴァル1969を斜めに見たり、その楽園幻想が崩壊したあとの幻滅や失望を扱ったりしたものではないんですね。わりとストレートな楽園賛美、ユートピアニズムを歌った内容です。ヴェトナム戦争だって蝶のイメジャリーに変換されていますから。ジョニ自身は別の仕事のため、1969年8月のあのヤズガーズ・ファームには行かなかったそうで、ちょっと不思議な感じがしますね。

 

ジョニの曲「ウッドストック」は、英語を解さないかたが、あるいは歌詞をいっさい無視して、聴けば、その哀愁感とわびしさが強烈に漂うスケールとメロディ・ライン、サウンドのせいで、ウッドストックという楽園が崩壊したあとの虚無感をつづった曲なのだとしか思えないですよね。でも、歌詞をよく聴けば逆です。いったい、ジョニのこの「ウッドストック」とはなんでしょうか。

 

ジョニ自身のヴァージョンは1970年のアルバム『レイディーズ・オヴ・ザ・キャニオン』収録のものが初演であるこの曲「ウッドストック」が生まれた背景、いきさつ、ジョニはウッドストックで歌いそうな歌手だったのにどうして行かなかったのか、じゃあどうやって、だれからどこから情報を得てこの曲を書いたのか 〜〜 など諸々についてはいままでイヤというほど語られていますから、今日は省略します。

 

歌詞はユートピアニズムに満たされているのに、曲はペシミスティックで憂鬱そうというジョニの曲「ウッドストック」。ジョニは当時からこういった曲想のものをよく書くソングライターなんで、ことさらとりたてて言うこともないのかもしれないです。いまの、いや、むかしから、大好きなライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』のラストで、まるでクール・ダウンのように歌われる「ウッドストック」を聴いて、感じてきた、感じていることを素直に記しています。

 

端的に言って、ジョニの「ウッドストック」とは、あの1969年のフェスティヴァルのアンセムでありながら、同時にレクイエムにもなっているなと思うんですね。この印象は、まず第一にはやはり、全体がにぎやかなお祭り騒ぎみたいな二枚組ライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』のクロージングに置かれている、それが実にしんみりとした感じであるというところに最大の原因があります。ジャコ・パストーリアスというハレの権化みたいなベーシストが大活躍していますし、このライヴ盤二枚組全体が、あたかもウッドストック・フェスティヴァル1969みたいじゃないかと思うんですよ。

 

『レイディーズ・オヴ・ザ・キャニオン』収録の初演をふくめジョニ自身によるヴァージョンをいくつか聴いていますと、曲「ウッドストック」は、やはりもとからやや暗いというか陰鬱気なサウンド・イメージを持った曲なのは間違いありません。リフレイン部では毎回エデンの園に言及するほどのユートピア主義に満たされた歌詞なのに、曲がそれを裏切って、まるで果実を食べてしまったあとのアダムとイヴや末裔の姿を、それもメロディ・ラインやサウンドで表現しているかのようです。

 

ジョニはあくまでウッドストック・フェスティヴァル1969をすばらしかったものだとして扱っているようですよね。1969年12月にライヴでこの曲を披露する前に語ったことばなども残っていますけど、その後ずっとのちのちまでも、ジョニはこのウッドストックについては楽観的な見方を捨てていないみたいです。そんなジョニのことばがいくつもあります。

 

しかしそんなジョニの考えやそれが反映された歌詞を、曲が裏切っているんですね。曲「ウッドストック」のメロディに漂う強烈な終末感、わびしさは、まるでウッドストック幻想が崩壊してのちのひとびとの持った失望、失意、幻滅、喪失感を、曲づくりしながら、歌いながら、そうとは意図せずに気付きすらせず、ジョニが込めてしまったかのようです。すくなくともぼくはそう感じています。

 

ここが音楽のおそろしいところだと思うんですね。曲を書き歌う本人も、曲じたいがどこまでのひろがりを持つものなのか、コントロールしきれないんです。音楽だけでなく、とてもすぐれた芸能・芸術作品はいつもそうなんですが、作者や演者の意図をはるかに超えてしまう部分があります。ばあいによっては正反対を向きますよね。そうやって、受け手からすれば実に多様な解釈を可能とするところに、傑作の傑作たるゆえんがあるんです。

 

ジョニ自身は楽園思想を持ち続けていて、曲「ウッドストック」にかんしても決して幻滅の気持ちを込めたなどと自覚していないということはわかっています。1979年のライヴ収録である『シャドウズ・アンド・ライト』のヴァージョンはじめ、後年までくりかえし歌い、録音作品化までしているわけですから、とうぜんそうですよね。でもしかし、曲とは生きものです。どこまでその曲のイメージが拡大するかは作者にもわからないことなんです。

 

こわいことに、ジョニは曲「ウッドストック」でユートピアを歌いながら、しかも同時にその楽園崩壊と幻滅をも歌い込んでしまっているんですね。いまの、2019年の、というよりもアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』をはじめて聴いた40年ほど前の大学生のころから、ぼくが曲「ウッドストック」に共感するのは、むしろ失意、失望のメランコリー・ソングとしてのフィーリングにあります。

 

ジョニ自身がこの曲「ウッドストック」に幻滅と憂鬱のフィールがあるということに気づいてもいないというところは、本当に音楽のすごさ、おそろしさを表しているものだと、ぼくは震えさえします。気づいていたらライヴなどでくりかえし歌えませんからね。ただただ、聴き手であるぼくがそれを、特に『シャドウズ・アンド・ライト』のヴァージョンに、感じとってしんみりし、部屋のなかでたたずんでしまうというだけのことです。

 

<あの夏>からピッタリ半世紀。ウッドストック・フェスティヴァル1969とはいったいなんだったのでしょうか。アンセムとまで言われる(のは CSNY のヴァージョンかもしれませんが)曲「ウッドストック」を書いたジョニは、あそこへ行きませんでした。ジョニ自身は行けなかったという強い喪失感を抱いたそうです。それがあったからこそ理想化され、曲「ウッドストック」はこんな歌詞を持ったのでしょう。

 

ただ、もうひとつ、行けなかったというジョニの強い喪失感は、ある種のメランコリーとなって曲「ウッドストック」のこの哀切感の濃いメロディ・ラインとサウンド・フィールに反映されたかもしれないなと思うんです。もしそうだったなら、そのメランコリーは、結果的に、楽園へと足を運ぶことのないまま幻滅と失意に満たされてしまうぼくのフィーリングにちょうどよくフィットして、それがウッドストック1969の幻想が崩壊してのちのひとびとの持った失望感や憂鬱さ、暗さに、ぼくのなかで転化したように思うんです。

2019/08/05

マイルズと、サマー・オヴ・1969

Dirwa49vsaaun47

https://open.spotify.com/playlist/5FcaLYAH5uZ7bhD30HdnjR?si=YJsu4-riSryah1A2fKbpDg

 

なんか、中山康樹さんの著書に似たようなタイトルがあったようななかったような、まあ気にしないでいきましょう。ともあれ、<あの夏>から今年でちょうど半世紀ですから。

 

1969年7月5日、アメリカはロード・アイランドでのニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにマイルズ・デイヴィス・クインテットが出演しています。といってもウェイン・ショーターがおらず(たしか乗ったクルマが渋滞に巻き込まれたかでステージに間に合わず)四人ですけどね。しかも CD などで聴けるのは、たったの三曲+クロージング・テーマで、計24分間だけ。マイルズ・バンドはもっと演奏したはずです。それでも大勢が次々と出演するフェスティヴァルですから、しょせんあまり長くは演奏できません。

 

1969.7.5 という日付が、このばあいとても重要になってくると思うんです。2月録音のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』が7月30日に発売されるという予定で、しかも、次作になる二枚組『ビッチズ・ブルー』の録音を六週後に控えていたという、そんなタイミングでした。その『ビッチズ・ブルー』は、かのウッドストック・フェスティヴァルが終わった翌日からの三日間(1969.8.19〜21)で録ったんですもんね。

 

ウッドストックほどの規模じゃありませんが、1969年7月のニューポート・ジャズ・フェスに主催者ジョージ・ウェインは、(ジャズ・フェスを謳いながらも)いわゆるロック・バンドほかをたくさん出演させています。レッド・ツェッペリン、マザー・オヴ・インヴェンション(フランク・ザッパ)、ジェフ・ベック、ジェスロ・タル、テン・イヤーズ・アフター、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、などなど。

 

ジョージ・ウェインはどっちかというと保守的なジャズ関係者だったかもしれませんが、1969年という時代の潮目の変わりを確実に感じとっていたということでしょうね。マイルズ・クインテットには、そんな<ニュー・ミュージック>の旗頭のひとつしてガツンとやってもらいたい、チック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットの新リズム・セクションを擁するニュー・クインテットがニュー・サウンドを奏でていたのはわかっていたから、とジョージ・ウェインは後年ふりかえっています。

 

1969年7月5日、ニューポートでのマイルズ・バンド。現在聴ける24分間は、当日の演奏のたぶん後半三曲(+テーマ)ということだと思います。それを聴き考えるのは、これが約一ヶ月半後に録音される『ビッチズ・ブルー』の予兆になっているということなんですね。端的に言えば、荒々しく、怒り狂ったように猛々しい音楽の世界、それが『ビッチズ・ブルー』ですけれど、六週前のニューポートで、すでにそんな音楽を、しかもライヴで、展開していたんですね。

 

そんな1969年7月のニューポート・ジャズ・フェスですけれど、ジョージ・ウェインの回想によればマイルズは初日から最終日まですべてのバンドを観聴きしたみたいです。もちろん袖からでしょうけど、音楽を聴き、しかもマイルズらしいことに聴衆の反応も見ていたそうですよ。どのバンドがどんな音を出したときにオーディエンスが最も沸くかといったことも観察したとのことで、翌月録音の『ビッチズ・ブルー』やそれ以後のマイルズの道程を考えれば、そうやって吸収したものから大きなインスピレイションをもらっていたかもしれません。

 

あの時代、あの夏、1969年。7月のニューポートや8月のウッドストックだけでなく、近い時期に同様の音楽フェスティヴァルがいくつかありました。それらは新しい時代の音楽の新傾向をはっきりと刻んでいたなと思うんです。折しもマイルズは1967、68年ごろからバンド・サウンドとリズムの刷新を試みていた時期で、ロックやファンクの手法を大胆にとりいれはじめていた時期でしたよね。

 

新しい時代の到来を、そうでなくたって敏感なマイルズですから感じていたでしょうけど、一つには自分も出演した音楽フェスティヴァルなどでよりいっそう身に沁みるように実感したということがあったと思います。時代が、いまの、1969年の若者オーディエンスが、どんな音楽を求めているのか、それをさぐり、さらに理解・把握もしたんじゃないでしょうか。それが二枚組作品『ビッチズ・ブルー』というランドマークに結実したと言えるのではないかと、ぼくは考えています。

 

2月に録音され7月末に発売された『イン・ア・サイレント・ウェイ』が、落ち着いた静かな大人の音楽だったとすれば、8月録音(翌70年春発売)の『ビッチズ・ブルー』は、若者の音楽です。ヤング・エイジらしい感情の爆発や怒り、猛々しさ、踊り狂う狂熱など、一言にして英単語の ferocious なフィーリングに満ちていますよね。そうであれば、『イン・ア・サイレント・ウェイ』がまだまだ保守的な聴衆向けのジャズ志向作品だったのに対し、『ビッチズ・ブルー』はシックスティーズ終焉という時代の若者向けのニュー・ミュージックを志向したものだったと言えるのかもしれません。

 

こういった1969年のマイルズの変化を、7月5日のニューポート・フェスでいま聴ける三曲のなかにさがすと、最も興味深いのは「イッツ・アバウト・ザット・タイム」になるでしょう。ご存知のとおり、スタジオ・オリジナルはアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』に収録されています。それはグルーヴ・チューンではあるものの、クールで落ち着いたひんやりスタティックな質感もあるファンク・ナンバーでした。

 

その同月末の発売を考慮に入れてか入れずか、7月5日ニューポートでのマイルズは、もはや同じ曲とは思えないほどに猛々しく激しいロック・ナンバーに変貌させています。特にチック・コリアの弾くフェンダー・ローズとジャック・ディジョネットの叩く荒々しいドラミングに注目してください。このサウンド、この手法は、完璧にロック・ミュージック of 1969じゃないでしょうか。しかもその先頭を、サウンドでマイルズが牽引しています。同じ素材をやってもここまで変わる、それが生きた音楽の証であり、マイルズという音楽家が時代を呼吸していたという証でもあります。おもしろいですね。

 

1969年のマイルズ。夏。2月録音の『イン・ア・サイレント・ウェイ』と8月録音の『ビッチズ・ブルー』がこうまで違った音楽になっているのはなぜなのか?その変貌のきっかけというか、さなかにいったいなにがあったのか?マイルズはなにを考えなにがきっかけで、1970年以後のニュー・ミュージックに向かっていくことになったのか?その際、世間でいう<サマー・オヴ・1969>はどう作用したのか? 〜〜 こんなようなことを、ピッタリ50年が経過した今2019年の夏に、考えてみました。

2019/08/04

わさみんイベントでどんどん買う CD を

Sznychvscyzqmzmydovkq

2019年2月13日以来、わさみん(岩佐美咲ちゃん)の「恋の終わり三軒茶屋」CD を何枚買ったかわからないとしまです。今後もどんどん買うので、最終的にはいったいどうなるのか、計100枚くらいは買ってしまう計算になるんでしょうか。つまり、いまでもすでに写真のとおりお店みたいに売るほど持っているわけなんですよね。どんどん買うのはもちろん特典券目当てということです。おたくはみんなそうなんです。わさみんの歌唱イベントでは四曲披露のあと特典会があります。

 

ほかの AKB 系タレントさんもそうなのかどうかぼくは知りませんがともかくわさみんの特典会のばあい、特典券一枚で握手(とおしゃべり)、特典券二枚で自分の機器で2ショット写真撮影(と握手とおしゃべり)ということになっています。そんな特典券は、歌唱イベント現場で CD でも DVD でも Blu-ray でも一枚買うごとに一枚もらえるという仕組みになっています。

 

ってことはですよ、ぼくもすでにそうなっているんですが、CD のばあいアルバムでもシングルでも特典券は同じ一枚ですから、値段の安いシングル盤のほうをどんどん買うということになるのが当然の心理というものでしょう。DVD と Blu-ray は(特典券付きで)一度づつ買えば OK という気持ちになってしまいます。こんなぼくはダメわさ民ですか?

 

こういったことは、わさみんとどんどんおしゃべりしたい、なんども握手したい、写真もくりかえし撮りたいと思うけど、おたく現場用語でいう「はがし」があって、つまりわさみんとおしゃべりしてすこし時間が経つと、係のひとが背中をポンと叩いて横に押すわけなんですね。はい、お客さん、そろそろこのへんで終わりにしてくださいということです。それを「はがし」といいます。はがしは担当さんがどなたであるかによって強かったり緩かったりします。

 

だから一回のわさみんタイムは限られていますので、ぼくらは特典券を何枚も買って= CD を現場でたくさん買って、ループするわけですよ。二度、三度と列に並び、もう一回、二回とわさみんタイムを味わうわけです。ぼくは気が弱いのか、わさみんも仕事でやっていることだからと思うものの、なんどもループしすぎて特典会の終了が遅くなると疲れてきてしまうんじゃないかと心配になって、だからループは多くても二回までと決めています。

 

一日の歌唱イベントは通常二回(13:00の回と15:30の回みたいな感じで)やりますから、一回につき二度ループで、そのうちそれぞれ一つは写真撮影ということにしているので、結局のところ、一日でわさみん CD を計六枚買っている計算なんですね。多いのか少ないのかわかりませんが、少ないとしてもわさみん CD は同じものが自宅にどんどんたまっていくということになるわけですね。

 

それで、わさ民さんだけでなく AKB 系のおたくのみなさんがどうなさっているのか知りたいんですけど、たまりにたまった同じ CD をどうなさっているでしょうか?わさみんのばあい本業が歌手ですから、CD は歌を聴くためのものとして必須ですが、でもそのためだけだったらワン・セットでじゅうぶんです。30枚、50枚と自宅に置いておく意味はありません。特典券目当てで現場で買っているだけですから、ホンマどないしたらええんや?

 

興味を持ちそうなかたがたにさしあげるという手もあります。以前、大阪岸和田の現場でわいるどさんがなさっていたのでぼくも見習ってやってみたんですけど、わさみんの歌唱イベントにぶらりといらしている一般のお客さんに無料で配るという手もありますね。タダでさしあげて、それでひょっとして自宅でそのかたがお聴きになって、あ、これはいい歌手だ、いい歌だなあ、じゃあ今後は自分でもちょっと買ってみよう、またイベントがあったら出かけてみよう、となれば、本望ですからね。

 

そんなことも各地のイベントでぼくはやるようになりましたが、それでも限度があります。やはり自宅にわさみん CD がたまっていく一方なわけですね。これはもうたぶん中古市場にまわすしか手がないんじゃないかと考えています。といってもこちら愛媛県大洲市というド田舎にはブックオフくらいしかありませんが、ともかくそんなお店に持っていって売って、いくらになるかはどうでもいいので、ともかく中古でもお店の棚にわさみん CD を並べてもらえば、またなんらかのわずかな可能性が生じるかもしれんと思うんですね。

 

ブックオフをぶらりと訪れなんの気なしに CD 棚をながめているお客さんが、おっ、この岩佐美咲っていうのはだれだろう、どんな歌手かな、ちょっと聴いてみようかな、とでも思って、もしひょっとして些少な金額でもお財布から出して自宅に連れ帰っていただければ、これほどの幸せはありません。そこからちょっとでもわさみんファンが拡大する可能性があるかもしれませんからね。

 

このブログでわさみんのことをどんどん褒めちぎっているのは本心ですが、それをお読みになったかたのなかで、でも岩佐美咲ってネットで聴けないなあ、CD しかないのかあ〜、でもお金出すのはちょっとなあ、う〜ん、聴いてみたいけど、とお考えのかたでもいらっしゃるとすれば、ぼくがさしあげます。もちろん無料で。送料もぼくが負担します。「わさみん CD 希望」と記事にコメントください。あるいはブログ Black Beauty にパソコンでアクセスすれば右サイド・バーにメール送信のリンクが出ますので、そこからどうぞ。

 

それで、どうか、みなさん、わさみんこと岩佐美咲の歌にちょっとでも耳を傾けていただきたいと思います。演歌歌手という看板で活動しているわさみんですが、歌謡曲、J-POP のカヴァーもかなり聴けますうまいです。本気で聴きごたえのある実力派歌手だと思うんで、どうかよろしくお願いします。

2019/08/03

こんなすごい歌手がいた 〜 1985年のヌスラット

1007918533

https://open.spotify.com/album/3LoBvidLM9LzvT4GpJfMV7?si=kBuqU8tqTz-lPc7bIvSfkQ

 

https://realworldrecords.com/releases/live-at-womad-1985/

 

英国はエセックスのマーシー島で行われた WOMAD 1985。その出演者のなかにヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのパーティーがありました。このときのヌスラットのパフォーマンスはアジア圏外では初のもので、その後のヌスラットの快進撃と世界的名声を考えますと、このウォマド85こそヌスラットのものすごさを全世界に知らしめた最初だったわけですね。いまだワールド・ミュージックということばも定着していなかった時期だと思います。

 

そのウォマド1985のときのヌスラットのパフォーマンスを録音したものが、今2019年7月26日にリアルワールドからアルバムとして発売されました。このリリースは衝撃の事件だと言えましょう。一聴、いやあ、ものすごいヴォーカル・パフォーマンスです。ワールド・ミュージック・ブームなどとっくに霧散無消し、1997年に亡くなったヌスラットのことも忘れられつつあるかもしれませんが、いま一度こんなものすごい歌手がいたんだと思い知る名発掘の一枚です。

 

ヌスラットの『ライヴ・アット・ウォマド 1985』、おなじみの有名ヒット曲が並んでいますが、特にすごいなと思うのが最初の二曲「アッラー・フー・アッラー・フー」「ハク・アリ・アリ」です。この二曲で聴き手は興奮のあまり絶頂に達し失神してしまいますから、残りの二曲をまともに聴くことなどできません。それくらいそれら最初の二曲は壮絶です。こんなすごいヴォーカリスト、いま、世界のどこにいるというのでしょうか。

 

この1985年7月20日深夜のヌスラットのライヴ・パフォーマンスがどんな様子だったのか、上でリンクを貼ったリアルワールドのサイトにくわしく掲載されていますので、ご一読ください。とにかくこの1985年ウォマドでのヌスラット・ライヴの意義と重要性は、どんなに強調してもしすぎることはないんです。いわゆるワールド・ミュージック界、といわず大衆音楽の世界における頂点に、85年時点で到達してしまったパフォーマンスです。

 

「アッラー・フー・アッラー・フー」「ハク・アリ・アリ」をお聴きなればおわかりのように、パーティの演奏は最初ゆっくりとはじまります。そこから徐々に熱が入り、ヌスラットが咆哮し、バック・ヴォーカリストたちがレスポンスして、楽器(ハーモニウムとタブラと手拍子だけ)演奏も盛り上がり、ヴォーカル陣、特にリードであるヌスラットの声は突き刺すような鋭さを増していきます。

 

約20分以上にわたる、カワーリーのアイコニックな一曲「アッラー・フー・アッラー・フー」でも、有名ヒット・ソングの「ハク・アリ・アリ」にしても、中盤あたりからの熱の高さは尋常ではありません。ここまでの沸点の高さを記録した音楽ライヴ・パフォーマンスは、分野を問わず、そうそうあるものじゃないですね。ヌスラット自身、世界デビューとなったこの1985年時点ですでに絶頂にあったとしても過言ではありません。

 

ほんと、「アッラー・フー・アッラー・フー」も「ハク・アリ・アリ」も中盤から後半の異様な盛り上がりかた、どこまで昇りつめるのかという熱の高さは驚異ですが、同時に驚くことはこれら全体がそれぞれ緻密に構成されていることです。20分以上もあるワン・ナンバーが細部にわたるまでよく計算されていますよね。しかもその構成は、かなりの部分、即興なんですよ。現場でのインスタント・コンポジションに多くを負っています。

 

そして主役のヌスラットのこの声!鋼のような力強く鋭く、そして美しい声で、聴き手に直接突き刺さってきます。しかも、そうでありながら同時に丸くてコクがあってまろやかですよね。高い声で一閃するときの張りと鋭さや、アァ〜〜と伸ばすときでも細かいフレーズを高速で即興的に繰り出すときでも、ヌスラットのヴォーカルは常に威厳と気高さ、誇りに満ち満ちています。強さがそのまま優しさになっているような、そんな歌でぼくらを溶かしてしまいます。聴きながら、興奮の絶頂でそのままとろけてしまうんですね。恍惚とはまさにヌスラットのカワーリーを聴く体験です。

 

こんな絶頂期のヌスラットは、録音されているなかではひょっとして人類史上最高最強の歌手だったのかもしれないとぼくはかねてより考えています。ヌスラットを超えるほどの豊穣でソウルフルなヴォーカリストが、果たして地球上に存在するのでしょうか。今回発売された1985年ウォマドでのパフォーマンスにしろ、あまりのなまなましさと迫力に、まったく KO されるしかないでしょう。

 

カワーリーという音楽は、パキスタンのイスラム教神秘主義スーフィズムの宗教歌なんですが、ことばや国・地域、音楽や文化の種類といった枠を超えて、ヌスラットの声とパーティの音楽は普遍的な美を放っているに違いなく、世界のだれでも日本人でも、聴けば心動かされてしてしまうだけの強い魅力を放っています。

 

ウォマド 1985でのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンとそのパーティの音楽ライヴはまさにマジカルなイヴェントで、音楽の世界を永遠に変えたモーメントだったと思います。天才歌手とは、天才のなす音楽とは、こういったものなんです。ちょっと聴いてみようではありませんか。ヌスラットの声とパーティの演奏のひとつひとつでアドレナリンが大量に放出され、心臓の鼓動がより強く速く大きくなるのを確実に感じられます。

 

(written 2019.8.2)

«ブルーズ新作二題(2)〜 涼感メロウなザック・ハーモン

フォト
2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ