2019/07/22

モニターを聴く、わさみんやマイルズや

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わさみん(岩佐美咲ちゃん)の歌唱イヴェントに行くと、握手しておしゃべりできる特典会で、その日のモニター・スピーカーの話をよくします。歌手でも楽器奏者でも、ライヴのときの音楽家はモニターがないと伴奏が聴こえない、ってことはないけれど聴こえにくいので、やりにくいはずですよね。大晦日の NHK『紅白歌合戦』なんかをじっくり観ていても、最近は無線型イヤフォン・モニターも増えてきているんだなとわかりますが、やっぱりまだまだケーブル付きスピーカーがほとんどでしょうし。CD 収録などスタジオではヘッドフォン着用が一般的だと思います。

 

音楽にとても興味があるとか、歌手、演奏家、その関係者であるとか、そういったことじゃないと、ライヴ・ステージ上にあるモニターの存在になかなか目を向けることがないかもですが、いままでお気づきでなかったみなさんも、次回の現場で注目してみてください。上の写真は2018年2月の恵比寿での岩佐美咲ソロ・コンサートで撮った一枚です。わさみんの前に大きな黒いスピーカー様のものが見えるでしょう、それが跳ね返りモニターです。ステージにいる歌手や演奏家は、それで伴奏を聴いて歌ったり演奏するんです。

 

わさみん現場ではモニターが必ずしも跳ね返り型でないこともあり、こないだ6/30広島祇園の現場では、左右にある観客向けスピーカーの隣にもうワン・セット、ステージ内側を向いたスピーカーがあって、それがわさみん用のモニターでした。その日も特典会でモニターの話をしましたが、その日もそれ以前もわさみん本人いわく、まったくモニターがないこともあるそうで、そんなときはメチャメチャ歌いにくいはずと素人なりに思います。

 

二月の浅草ヨーロー堂さんだったか小岩音曲堂さんでは、いちおうステージ前方に跳ね返り型モニターがあったものの、通常の左右二個セットではなく一個だけ、しかもなんだかはしっこのほうに置かれていたんですね。わさみんはちょっとだけオケを聴きにくかったかもしれないですけど、あの二日間とも歌は完璧でしたので、もはや問題にしない域にまで達しているのかもしれません。

 

まったくどこにも、どんなものでも、モニターがないばあい、6/30のわさみんいわく、お客さん向けに音を出しているそのスピーカーから流れる同じ音を自分も聴きながら、あわせて歌うんだとのこと。わさみんはステージ上にいて、観客用のスピーカーはもちろん客席のほうを向いていますから、歌手本人はオケを聴きとりづらいんじゃないかと想像しますが、わさみんも聴きにくいと言っていましたねえ。モニターがなにもないときは、やはりちょっと困ると。

 

しかし考えてみたら、わさみんのコンサートでは客席をまわりながら(握手したり写メにおさまったりしながら)歌うコーナーがあることも多いですよね。客席にはもちろんモニターなんかありません。無線型イヤフォン・モニターも装着していません。ってことは、ああいったラウンド・コーナーでのわさみんは、ぼくたち観客が聴いているのと同じ音を聴きながら歌っているということです。客席をまわっている時間ですから、モニターがないばあいのステージ上とは違って、歌手もそんなに音が聴こえづらいってことはないのかもしれないですね。今度チャンスがあったら本人に話を聞いてみましょう。すくなくともラウンド・コーナーでのわさみんの歌も見事です。

 

ともあれ、ステージ上で歌ったり演奏するばあいはモニターがないとやりにくいものなんです。伴奏がちゃんとしたバランスで聴けなかったら演唱できないですから。

 

この件でぼくがよく思い出すのは1981年復帰後のマイルズ・デイヴィスのことです。くわしいことは省略しますが諸事情あって、復帰に際しマイルズは、トランペットのベルの前にマイクを取り付け音を拾い、それをトランペット本体に付けた小さな装置から電波で飛ばすということになりました。とにかくステージ上を自由に歩きまわりながら吹けるようにしたかったのです。

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あの当時、ぼくは意識していなかったんですけど、ステージ上手から下手までくまなく歩きながら吹いていたマイルズは、いったいどうやってバンドの音を聴いていたのでしょう?バンド連中が音を聴くためのモニターはそれぞれの前にありました。でもボスは自由に歩きまわりながらトランペットを吹くわけですので(だいたい袖から吹きながら登場しますから、ある時期以後は)、マイルズ用の据え置き型モニターなぞ無意味です。本人の弾く鍵盤の前か横にはあったかと思いますがね。

 

たぶんですけど、ステージの左右脇に設置されていた観客用の PA スピーカーから出る音を、マイルズはステージ上でキャッチしていたはずだと思うんです。ステージで演奏される生音を聴いて、なわけありません。ギターやベースはエレクトリックですから。それらの音は、しかしステージ上にあるギター・アンプやベース・アンプが出す音をボスも聴いて、それであわせていたという可能性もありますよね。う〜ん、どうだったんでしょうか。

 

このあたり、マイルズのインタヴューはかなり読んだと自負しているぼくですけど、だれも触れたことがないんです。すくなくとも読んだことがありません。ぼくの興味の持ちかたが異常なんでしょうか?いや、ぼくもマイルズの存命中はほとんど意識したことのないテーマでした。ホント、どうだったんでしょう?1981年復帰後のマイルズはライヴでステージ上を歩きまわりながらどうやってバンドの出す音を聴いていたのでしょう?

 

関連で思い出すのは、1983年のマイルズ・バンド大阪公演。この年はギル・エヴァンズ・オーケストラとのジョイント・コンサートでしたが、二部のギルのバンドにはギターのハイラム・ブロックがいました。大阪はハイラム生誕の地。中之島フェスティバル・ホールの客もそれをよく承知していました。気分が上がったのか、ハイラムはぐるぐると観客席を歩きまわりながら(客をいじりつつ)長尺のソロを弾きまくったんですね。あのときのハイラムもやはり観客用の PA スピーカーの音を聴いていたのでしょうか。それしか考えられないですねえ。

 

音楽ライヴは人類史と同じ歴史があるわけですけど、電気技術などたかだか近年の発明なわけで、ですから長らく人類はモニターだとかスピーカーだとか、イヤフォンやヘッドフォンなども、そんなものがないまま何千年もライヴ・コンサートをやってきたわけですよ。その姿は、いまでも伝統的クラシック音楽(妙な言いかたですが)のコンサートで垣間見ることができます。モーツァルトとかベートーヴェンとかの演奏会では、演奏者も聴衆も、いまでも生音だけを扱っているんですよ、大きなコンサートでも。

 

クラシックじゃない音楽でも電気発明前の長いあいだ、人類は仲間の演奏するアクースティック・サウンドだけをじかに耳にしながら歌ったり演奏したりしてきたわけです。19世紀の大規模一般市民階級の台頭までは音楽ライヴの規模も小さかったので、小規模な生音演唱だけでじゅうぶんでした。ステージ(というかなんというか)の歌手や演奏家たちも、互いの音を互いに聴きながら、つまりモニタリングしながら、自分の歌や演奏をあわせて(あわせなかったり)乗せていくのは、そんなにむずかしいことではなかったのかもしれないですね。

 

話をわさみんというか演歌歌手に戻しますと、ベテランの超実力派ともなりますと、ライヴ・ステージ上にいてオーケストラを背後に置き、それが演奏しつつ、跳ね返りのモニター・スピーカーもなしで、完璧な歌を聴かせるひともいるみたいです。八代亜紀さんがそうらしいですよ。そんなにまでなれば、もはやなにがなんやら、凡人には理解できないですよねえ。

2019/07/21

パット・マシーニーの挑戦作『イマジナリー・デイ』

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https://open.spotify.com/album/0h3GpqEpPx8d0kd0ZfRRCf?si=_2LH6W_bQ-6yfTuqEyn4_Q

 

パット・マシーニー・グループ1997年の意欲作『イマジナリー・デイ』(ワーナー)。といっても CD ジャケットもブックレットをふくむパッケージングのどこも、ぜんぶこの象形文字しか記されておりませんので、だから現物では確認がむずかしいですのでネットで、あるいは Spotify で、それもネットか、ともかくそんなことでアルバム題や曲題など確認しております。いちおうブックレットの内側に一曲ごとにメンバーがなんの楽器を担当しているかはアルファベットで記載があって、なんとか助かりました。

 

で、『イマジナリー・デイ』。意欲作というか大作というか、まずオープニングの1曲目「イマジナリー・デイ」が流れてきただけでオオォ〜ってなりますよね。それまでパットの音楽とはかすりもしなかったイラン(ペルシャ)音楽なんですもんね。パットはどうして突然イラン音楽に接近したのでしょうか。そのへんわかりませんが、アメリカのジャズ・ミュージック方面からイラン音楽との合体を試みた作品もなかなかないなと思います。

 

曲「イマジナリー・デイ」こそがこのアルバムの目玉だとしていいはずです。この約10分間の壮大な音絵巻は何部かに分かれています。パットの使用楽器もそのたびに替わり、最初フレットレスなクラシカル・ギターですが、その後ギター・シンセサイザーに持ち替えたりなどしています。また、この曲にはおなじみのヒューマン・ヴォイスが入りません。これもグループ名義の主要曲としては珍しいことです。

 

ヒューマン・ヴォイスといえば、続く2曲目「フォロー・ミー」では活用されていますね。アルバム『イマジナリー・デイ』ではこの曲とあとちょっとだけなんです。「フォロー・ミー」はパット・マシーニー・グループの従来路線っぽいワン・ナンバーで、おなじみの曲想とサウンドですが、アルバムで少ないっていうことは、なにかの終焉を感じないでもないですね。パットの弾くテーマがハーモニクス音で構成されているのが、なんとも切なさ満点です。

 

その次の3曲目「イントゥ・ザ・ドリーム」もワールド・ミュージック路線。やはりイラン音楽にインスパイアされたものみたいですね。これはパットのギター独奏で、42弦のピカソ・ギターを活用しています。これはたぶんオーヴァー・ダブなしの一発演奏じゃないでしょうか。めくるめくような響きがして、しかも静謐で美しいですよねえ。いやあ、すばらしい。

 

一曲飛ばして5曲目の「ザ・ヒート・オヴ・ザ・デイ」。これはまずちょっとフラメンコっぽい感じがします。イラン(ペルシャ)音楽とはちょっと違うと思うんですけど、どうしてここでフラメンコが出てくるのでしょう。ハンド・クラップの使いかたももろフラメンコ調で、リズムのぐるぐるまわる感じとか、完璧にアンダルシアの音楽です。これも複数部構成になっていて、途中でやや静かなパートもあります。ギター・シンセサイザーのパート以後は、グッと来る高まりと感動がありますね。胸に迫るというか、そこではヒューマン・ヴォイスが効果的に使われています。

 

6曲目以後には、ここまでのようなおもしろさが薄いように思います。でもいわゆるジャズ・フュージョンとか、はたまたギター・ロックだとか、そういった方面から聴けばなかなか完成度の高い良質な音楽ですね。アルバム『イマジナリー・デイ』全体では意欲的な挑戦作といった趣ですからイマイチですけど。でもラストの「ジ・アウェイクニング」とか、相当いい内容に違いありません。アルバム全体がこうですから、ファンが離れたかもしれない一枚かもですね。

2019/07/20

ぼくにとってのサリフ『ソロ』

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https://open.spotify.com/album/62DPGNE8CtgV8OKT8BUzZG?si=kWrBgX1VS620pMdgHDrpgg

 

サリフ・ケイタについても代表作『ソロ』(1987)についてもたくさんのことばが重ねられていますので、ぼくはぼくで自分の好きな部分についてだけ個人的なメモを記しておいたのでいいでしょう。まずは2曲目「ソロ(アフリキ)」。これ、も〜う本当に大好きな曲なんですね。たぶんアルバム『ソロ』のなかでのぼく的 No.1がこれですよ。

 

曲「ソロ(アフリキ)」は三部構成。出だしのパート1も好きです。このミディアム・スローなグルーヴがなんともいえず心地いいです。女声コーラスはいかにも西アフリカ的といえるもので、だいたいがマス・クワイア好き人間であるぼくには、最初からなじめた部分です。サリフのヴォーカルについてはぼくが書くことなどないはずです。バックでキーボードが細かく刻んでいるのが印象に残りますね。

 

もっと好きなのが、3:15 〜 3:18 のブレイク以後のパート2です。ホーンズがいきなり咆哮し、リズムが強くビートを打ちはじめます。そこからがマジで大好きなんですね。この強いビート感、グルーヴにぞっこん参っているわけなんです。終盤でもう一回曲想がチェンジして落ち着いた感じになりますので、その前までのこのパート2が、ぼくの大好物です。女声コーラスもサリフもいいですが、ぼくが好きなのは(キーボードをふくむ)リズム・セクションです。

 

リズム隊といえば、いまブックレットを見返していてはじめて気がついたんですけど、このアルバム『ソロ』でもエレベはミシェル・アリボーなんですね。ぜんぜん知りませんでした。当時見ていたはずですけど、だれだかピンと来るはずもなくそのままになっていたんでしょう。サリフの作品では後年の『ムベンバ』でもミシェルでしたし、関係が深いのかもしれないですね。

 

一曲飛ばして4曲目の「シナ(スンブヤ)」。この曲のリズムは、2曲目「ソロ(アフリキ)」のパート2のそれによく似ています。ほぼ同じといってさしつかえないでしょう。こういったビート・タイプは当時のサリフやマリ音楽、あるいは西アフリカのなかによくあったものなのでしょうか。もうホント快感で、聴いていて気持ちが昂まるのに落ち着いてリラックスするっていう、なんだかそんな不思議なフィーリングです。

 

そんなこのリズムは西アフリカ、マリといった部分だけでなく、かなりヨーロッパ的、西欧大衆音楽的であるとも言える気がするんですね。すくなくとも楽器編成やアンサンブル手法や、できあがりのサウンドを聴いての印象など、米欧ポップ・ミュージックのそれだと言えます。アレンジャーがヨーロッパ人なんですけど、しかし欧州的とも断定できないし100%アフリカ的でもないっていう、その中間的というか半々のせめぎあいのなかでできあがったものかもしれません。

 

また一曲飛ばしてアルバム・ラストの6「サンニ・ケニバ」。これはスローでゆったりしたグルーヴ・タイプを持つ曲ですけど、このリズムやサウンドも大の好みなんですね。サリフのヴォーカルも落ち着いた感じで、鋭く突き刺し威嚇するといった部分は小さいですけど、それでも彼ならではの威厳をまとった近づきがたさを聴かせていますよね。

 

こういった威厳、高貴な近づきがたさ、サリフだけでなく、たとえばアメリカのアリーサ・フランクリンなどにも感じるものなんですけど、だからこそかえっていっそう親近感が増すと言いますか、妙なことかもしれませんが、ぼくのなかでは尊敬が親愛に重なっていく部分が間違いなくあるんです。

2019/07/19

『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』は名盤だ(何回目)

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https://open.spotify.com/album/6QV1iyREyud3AGQZxf8Yt7?si=VQ2wZ4cfR1S14j4VCuXYDg

 

いままでもくりかえし言っているんですけど、いっさい無視されたままですし、日本でもアメリカでも世界でもそうなんで、だからこれからもくりかえし言わなくちゃいけません、認知されるその日まで。マイルズ・デイヴィスのプレスティジ盤『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン(クインテット/セクステット)』は、隠れた名盤ですよ。隠れも隠れ、いままでどなたも一度も言ったことがありませんし、ジャズ・ファンの話題にのぼったことすらないですからね。でも内容は極上なんです。

 

極上なのに名盤と言われたことがないのは、たぶんジャズ史的な意味合いが1ミリもないからでしょうねえ。たしかに歴史を変えたとかなんとか、そんな音楽ではぜんぜんありません。そんな世界とはかすりもしません。ですけどねえ、あなた、そんなことばかりに価値を置いて音楽(いや、ジャズのばあいだけ?)の良し悪しを判断するなんて、なんたる貧乏な考えかたでしょうか。くつろげるリラクシングな上質ジャズだって、その上質さに折り紙がつけば、名盤と呼んでいいはずですよ。

 

『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』のメンバーは、いわゆるオール・スター編成で、弱小インディペンデントのプレスティジとしてはかなり張り切った企画だったんじゃないかと思います。録音日の1955年8月5日というと、マイルズはすでにファースト・レギュラー・クインテットを結成していて(この日付だとサックスがソニー・ロリンズ)ライヴ活動もやっていたんですが、そのワーキング・バンドを起用せずにオール・スター編成にしたというわけですね。

 

最大のスターはなんといってもやはりミルト・ジャクスン(ヴァイブラフォン)でしょう。アルト・サックスのジャッキー・マクリーンも1955年なら若手実力派として人気が出ていたころです。マイルズはミルト、ジャッキーともに、もっと前から自分のレコーディング・セッションで起用していますよね。その成果もグッドなので引き続きということだったのでしょう。

 

リズム・セクションも特筆すべき編成です。レイ・ブライアント(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)。アートはこのころプレスティジ・レーベルのハウス・ドラマーのような位置にいました。パーシーはミルト同様 MJQ から(プレスティジのセッションでは多いケース)。しかしピアノのレイこそ、このセッションのキー・マンなんですね。

 

ブルーズに土台を置くしっかりとした素養を持ちながら、ドライヴするビ・バッパーであり、かつ(やや女性的に)繊細に、デリケートに、リリカルに演奏できるレイ・ブライアントは、ちょうどこの当時マイルズが進もうとしていた音楽の方向性とピッタリ一致する資質のピアニストです。実際、このアルバム『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』でも、決してソロ時間は長くありませんし目立ちませんが、各人の背後での堅実なサポートぶりには目を(耳を?)見張り(聴張り?)ます。ソロもいいです。

 

そんなような資質のモダン・ジャズ・ピアニストといいますと、トミー・フラナガンもいますよね。トミーもマイルズといっしょにやればちょうどいい旨味に仕上がるというのは、やはりプレスティジ盤である『コレクターズ・アイテムズ』B 面で証明されていること。それなのにトミー・フラナガンといいレイ・ブライアントといい、どっちもマイルズのレコーディングには一日しか呼ばれなかったのが不思議なような気もしますが、すでにレッド・ガーランドがレギュラーの座におさまっていたからでありましょう。

 

さて、『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』。「クインテット/セクステット」のことばがアルバム題の一部になることもあるのは、計四曲のうち、アルトのジャッキー・マクリーンが二曲にしか参加していないため、六人編成と五人編成の曲がふたつづつでアルバムが構成されているからです。1955年8月5日にはその四曲しか録音されていませんが、A-1、B-1の二曲がセッションの前半部で、ジャッキーが参加したもの。ここでなんらかの理由があって帰ってしまったみたいですよ。だからほかの二曲を残された五人で仕上げたわけです。

 

アルバム最大の聴きものは二曲あるブルーズ・ナンバーです。A-1「ドクター・ジャックル」(ジャッキー・マクリーン作)、B-2「チェインジズ」(レイ・ブライアント作)。特に「ドクター・ジャックル」が絶品ですよね。かなり見事なジャズ・ブルーズ演奏だと言えます。聴き手をトリコにするマジックがここには働いていますよね。

 

「ドクター・ジャックル」のテーマ・メロディの動きを聴きますと、書き手のジャッキー・マクリーンが完全なるチャーリー・パーカー派、ビ・バッパーであると、いまさらながらによくわかります。録音された1955年8月というとバード本人はもはや死んでいましたが、バード直系の弟子格ジャッキーがこうしてその息を継いでいたと言えましょう。しかもブルーズですからね、これは。バードに結合しつつブルーズをやるっていう、つまりセッション・リーダーのマイルズの指向性とも一致する一曲です。

 

しかも「ドクター・ジャックル」で一番手のソロを取るのは、テーマを二管で演奏する二人のどちらでもなく、ヴァイブのミルト・ジャクスンです。ミルトはブルーズが大得意なジャズ・マンでありますし、1955年8月当時、このメンツのなかでは最も成熟していた旨味を持つ演奏家でした。ですから、まずミルトに一番手で弾かせ、その後各人のソロまわしが終わってテーマ合奏に戻る前にももう一回、4コーラスのソロを割り当てているわけですね。

 

しかも「ドクター・ジャックル」におけるそのミルト・ジャクスンのソロがすばらしいのなんのって、こりゃあ超絶品じゃあないでしょうか。こんなに旨味なジャズ・ブルーズ・ソロって、なっかなかありませんよ〜。しかもミルトは、この曲でソロを取るほかのだれよりも強烈にアフター・ビートを効かせています。4/4拍子で四つカウントするなかの2と4に強い強勢を置いていますよね。

 

そのおかげでジャンピーな、というかミルトのソロ部では跳ねる感覚が出ていると思うんです。レイ・ブライアントのピアノ・ソロ部でもそうですが、こういったブルーズ・ダンサーが(ジャズにあっても)いちばん好きなぼくなんか、ホッント〜ッにたまらない快感なんです。おかげでジャズ・ブルーズでもよくある8ビート・シャッフルの感覚に近づいていますしね。その点では、アート・テイラーのドラミングにも着目してほしいです。

 

アルバム・ラストの「チェインジズ」にもすこし触れておかなくちゃ。作者のレイ・ブライアント自身は「ブルーズ・チェインジズ」というどストレートな曲題で再演することも多かった一曲ですが、ちょっと奇妙に1コーラス AAB 形式12小節ブルーズの途中5小節目からはじまりますので、やや面食らいますよね。そのせいか、ストレートなブルーズくささのないナンバーです。

 

ブルージーさ、ファンキーさがないということでいえば、ミルト・ジャクスンが弾きはじめる本編開幕前に、作者自身による非常にリリカルなピアノ・プレリュードが付いていることもそれに拍車をかけています。その部分だけを聴けば、あっ、バラード演奏がはじまるんだなと、そう思いますよね。これに関連してもう一個、アルバム中この曲でだけ、ボスはトランペットにハーマン・ミュートを付けて吹いています。リリカル・マイルズの代名詞的道具ですからねえ。

 

作者本人のピアノ・ソロが三番手で出ますけど、レイ・ブライアントって、ブルーズをやるときはかなりくっさ〜いファンキーさを発揮するというのが一般的なイメージでしょう。でもそれはもっと時代が下っての、たとえばかの1972年『アローン・アット・モントルー』とかで確立されたものです。1950年代の録音を聴くと、リーダー作品なんかでも(たとえばプレスティジ盤1957年『レイ・ブライアント・トリオ』)当時のマイルズに近い、女性的でやわらかいリリカルさが前面に出ています。

2019/07/18

原田知世 / マイ・ベスト(二回目だけど)

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https://open.spotify.com/playlist/2iv3ZMahUZH4VSwKtbjDyj?si=bsWVAW2VQ3aC6up61_e1Xw

 

2019年1月28日、渋谷はNHKホールで体験した原田知世ちゃんのコンサート。昨年末にリリースされた最新作『L'Heure Bleue (ルール・ブルー)』発売記念のものでしたので、そこからのレパートリーが中心でした。ステージ上にいたした伊藤ゴローさんがお話しされていましたが、 久々のオリジナル・アルバムですが、どうもみなさんカヴァー・ソングのほうがお好きなようでと苦笑なさっていたのです。でも、ゴメンニャサイぼくもやっぱりそんなひとりで、知世ちゃん+ゴローさんのコンビで往年の歌謡曲や知世ちゃん自身の過去曲など、(セルフ・)カヴァーしたものが大好きなんですね。

 

これは理由のひとつとして知世ちゃんに出会ったタイミングというのもあるんです。ぼくが縁あって知世ちゃんをしっかり聴くようになったのは2017年のこと。ちょうど二枚のカヴァー・ソング集『恋愛小説』の1と2が直前にあって、セルフ・カヴァー集の『音楽と私』とベスト盤の『私の音楽』がその年にリリースされました。そんなときにぼくは知世ちゃんに出会ったんですね。

 

だから、そういった世界から知世ちゃんになじんでいったのは間違いないわけでして。ですから、以前自分でつくっていまでもずっとふだん楽しんでいる知世ちゃんのマイ・ベストも、ほぼそんな選曲になっていますよね。でも鈴木慶一さんプロデュース作品からも特にカッコイイと思うものを数曲入れました。ロックっぽいというか元気のいいエスノ・ポップみたいな良曲がいくつもありますから。沖縄音階を使いつつダブふうのサウンド・メイクを施してある「さよならを言いに」なんか、絶品ですよ。ムーンライダーズっぽいロック・ナンバー「月が横切る十三夜」もいいノリよくカッコイイです。

 

伊藤ゴローさんプロデュースのもののなかにも、たとえば「September」みたいなグルーヴ・チューンがあるのですが、全体的にはしっとり落ち着いた大人の静かな世界を表現しているかなと思います。好きかどうかはひとによって意見が分かれそうな気もしますよね。ジャズやある種のブラジル音楽などに親しみを持つかたがたならば、わりとすっと入っていけそうに思うのですが。

 

その際、たぶんハードルとなるのは知世ちゃんのヴォーカル資質ですよね。声量も小さいし張らないし(これはNHKホールで痛感しました)ふわっとしていて、悪く言えば「ガッツがない」。演歌歌手などにあるような強い声を張って伸ばしたりなどはまったくやりませんできません。芯の細い声質ですからね。そういった、いわば in a silent way なサウンド志向もぼくなんかはあんがい好きなんですね。どういった音楽構築を目指すかの方向性が一致すればこの上なくハマるのが知世ちゃんの声です。

 

伊藤ゴローさんと知世ちゃんとのコンビでこれだけ成功しているのは、やはりそういったことが吉と出たということじゃないでしょうか。結果としてとても魅力的なサウンドとヴォーカルに聴こえますからね。まず最初はゴローさんが知世ちゃんをチョイスしたらしいんですが、自己の音楽にどんな声がいちばんピッタリ来るかを見抜いたゴローさんはさすがです。

 

そんなゴローさん&知世ちゃんコンビでやった音楽のうち、マイ・ベストの選曲の歌謡曲カヴァーのなかでは、たとえば松田聖子さんの「SWEET MEMORIES」なんか、最高じゃないでしょうか。ハープとコントラバスとソプラノ・サックスだけというゴローさんのアレンジがなんといっても切なくて見事ですが、その上に乗る知世ちゃんの声と歌いかたがぼくは大好きなんですよ。曲よしアレンジよし歌よしで、この切哀感満点な失恋ソングの最高のヴァージョンになったと思います。

 

知世ちゃん自身の過去曲のセルフ・カヴァーでは、なんといっても「時をかける少女」(2017年版)と「天国にいちばん近い島」がすばらしすぎます。前者は完璧なボサ・ノーヴァ・スタイル。失いそうで壊れそうな愛をガラスのように大切に扱うデリケートがよく表現されています。後者は坪口昌恭さんの弾くピアノ伴奏がおそろしいまでに美しくて、それで泣きそうになっちゃいます。ややハスキーに、愛する対象を美として称える知世ちゃんの声にかかるちょうどいいエコー成分が、ぼくたちのため息なんですね。

2019/07/17

1930年代のニュー・ヨーク・ルンバ(2)〜 アフロ・キューバン

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http://elsurrecords.com/2017/11/25/v-a-invitacion-la-rumba-en-nueva-york/

 

『ルンバの神話(改訂版、ニューヨーク篇)』CD2は、アントバルズとザビア・クガート楽団の音源を収録してあります。この二者でだいたいぜんぶですから、簡単にメモしておきましょう。Orquesta Antobal’s Cubans は、アントバル〜サンシャイン夫妻が、活躍した弟アスピアスの突然の引退で、新たなバンドを創立したものです。ザビア・クガート楽団は説明不要ですね。

 

このアルバム収録のアントバルズのばあい、わりとスムースなサウンドをしているなという印象があります。それでもディスク1の音源の大半よりは快活で激しいルンバなのでしょうか。カーニヴァル用の、いわゆるコンガ(音楽ジャンル名としての)も数曲あります。なぜだかぼくはコンガ好きなもんで、そういったものは本当に楽しいですね。

 

コンガじゃなくてルンバかもしれませんがディスク2の3曲目「マリアンナ」とか、いいですねえ。そのものずばりな曲題の7曲目「ラ・コンガ」も大好物です。そのほか、10「パンチョにはみんな同じ」、11「キューバの思い出」、12「ノ・セ・プエデ」あたりが個人的好物ですね。やっぱりルンバかなとは思うんですが、やや激しめのダンス・ビートが効いています。同じダンス・ミュージックでもゆったりゆるいものより断然好きです。

 

ところでアントバルズのリズムはしばしばティンバレスが表現していますよね。1930年代にここまでティンバレスを大胆活用したラテン・バンドは、アントバルズだけだったのでしょうか。もっと時代が下ってのマンボや、もっといえばサルサ・ミュージック感覚の先取りと言えるかもしれません。アントバルズでもパッとブレイクが入ってその空間にティンバレスが飛び込んだりもしますしね。

 

CD2の15曲目以後はほぼすべてザビア・クガート楽団の音源ですが、このバンドは(アスピアス楽団〜)アントバルズに象徴されるニュー・ヨーク・ラテンの粋をそのまま受け継いで、アントバルズ崩壊後のラテン音楽界を背負って立ったのだと言えましょう。ザビア・クガート楽団は知名度も高いので、多言は無用です。このアルバム収録曲は、すべてマチートかミゲリート・バルデスがヴォーカルを担当したものですね。

 

特にマチートの参加は、1930年代終盤になってザビア・クガート楽団の音楽が急充実してくる最大要因だったかもしれません。16曲目「黒人の祈り」などを聴いてもそれがわかります。17曲目は「自動車コンガ」。コンガですから大のぼく好みです。いやあ、楽しいったら楽しいな。しかもクガート楽団のコンガはポップでカラフルです。とにかく楽しい。

 

18曲目「カリエンティート」は、ザビア・クガート楽団でマチートが最も実力を発揮したナンバーかもしれません。この曲はソンなんですが、さすがはキューバでソンのバンドを渡り歩いたマチートだけあるという安定した歌いっぷりで、バンドの伴奏も躍動的でイキイキしていて、いいですねえ。また、上でも言いましたが、クガート楽団の音楽は親しみやすいポップな魅力がありますよね。そんなところも好感度大です。

 

歌手ミゲリートがザビア・クガート楽団と共演したものは、このアルバムで全五曲。もっともっと聴きたかったと思わせる充実度で、こちらも文句なしです。ミゲリートのヴォーカルはマチートよりも技巧的、でありながらよりなめらかですね。楽団の演奏もそれにあわせるがごとくの流麗さで、いやあ、聴きごたえありますね。

 

ところで、ここに収録されているザビア・クガート楽団&ミゲリートの曲は、多くをアルセニオ・ロドリゲスが書いているんですね。ここはかなり興味深いところなので強調しておきたいです。アルセニオがまだ自身のコンフントを率いるようになる前ですけど、いわゆる<アフロ>・キューバン・ソングの創出に本物の黒人キューバ人のアルセニオがかかわったという事実は、アフロの意味を逆転させるものかもしれないですからね。

 

まああんまりそんな深いことを考えなくたって、アルセニオ+クガート楽団+ミゲリートの三者合体によるアフロ・キューバン・ソングの数々は、文句なしに楽しいですけどね。このアルバムだと22曲目「ルンバに惚れた」、24「泣けよ、ティンバレス」、25「アディオス、アフリカ」がそうですよ。

2019/07/16

1930年代のニュー・ヨーク・ルンバ(1)

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http://elsurrecords.com/2017/11/25/v-a-invitacion-la-rumba-en-nueva-york/

 

以前1930年代ルンバのパリ編のことを書きました。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/1-2518.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2-d92a.html

 

これらのなかで「ルンバ」という音楽用語の定義などは書きましたので、ご興味がおありならご一読ください。このときはディスコロヒア盤 CD 二枚組『ルンバの神話(パリ篇)』の話題だったんですが、もちろんニュー・ヨーク篇があります。のばしのばしにしていたそれのことを、また二回にわけて書いてみようと思うんですね。パリ篇の音源がすべてパリ録音だったのに対し、ニュー・ヨーク篇ではもちろん全編ニュー・ヨーク録音。なんたってキューバ革命前のラテン音楽のメッカはニュー・ヨークでしたからね。

 

ディスコロヒア盤『ルンバの神話(改訂版、ニューヨーク篇』(Invitacion A La Rumba En Nueva York)の CD1は、大きく言ってドン・アスピアス楽団とクァルテート・マチーンの録音が多数を占めています。簡単にメモしておきましょう。

 

ドン・アスピアス楽団によるこのアルバム1曲目が「南京豆売り」なのはわかりやすいですよね。この楽団によるこの曲の大ヒットこそ、1930年代ルンバ最大の象徴ですからね。ニュー・ヨーク録音のこれが売れたことで、アメリカ合衆国の音楽家であるルイ・アームストロングやデューク・エリントンといった大物も即座にカヴァーしたのはご存知のとおり。そのほかこの「南京豆売り」をやったひとは数知れず。とにかく多いです。

 

アルバムを聴いていきますと、ぜんぶで九つ収録されているドン・アスピアス楽団の曲に激しく快活なものは少なくて、やや落ち着いた中庸なものが多いというのが最大の印象です。そのあたりはいかにもカリブ、キューバの音楽だなと思うんですけど、ソンのギア部に相通ずるものだって感じるんですね、おだやかなメロディ重視の方向性には。

 

それでも4曲目の「ヴードゥー」はかなり躍動的。コンガ(音楽の種類としての)っぽい感じもします。聴いているとウキウキ気分が沸き立って、こりゃ楽しい。こういった音楽のことが本当に大好きなんです。ぼくのなかではこの曲が、このアルバムにおけるアスピアス楽団の収録曲 No.1。

 

ところで、ニュー・ヨーク・ルンバは1930年にレコード録音がはじまりますが、ご存知のとおり29年以来の大不況のさなか。だから、実はバンド編成も少人数のばあいが多かったみたいで、それでもなお歌とダンスという二大要素を不足なく満たせるようにいうことで、カルテット(四人編成)程度のバンドがかなりあった模様。その代表格がアルバム12〜16曲目にあるクァルテート・マチーンです。

 

クァルテート・マチーンは、というかそのほかのルンバ・カルテットもたぶん、ギター二台、パーカッション(多くはクラベス)、トランペットという編成でした。たった四人でもやっぱりトランペットが欠かせないのがいかにもキューバ音楽的です。クァルテート・マチーンも哀愁のあるラテン・メロディ、つまりソンのギア部みたいなものを歌っていることが多いみたいです。

 

アルバム一枚目終盤には、キューバではなくプエルト・リコやコロンビアのバンドも収録されています。このへんはいかにもニュー・ヨークっぽいところ。パリ篇にはちっともありませんでした。ニュー・ヨークのイースト・ハーレムにはプエルト・リコ人たちなどが多く住み、通称スパニッシュ・ハーレムと呼ばれたのです。

 

ラテン的デリカシーから遠いかもしれないですけど、ぼくの好みからしたら、二曲収録のコロンビアのバンド、ナノ・ロドリーゴ楽団の音楽が楽しいです。荒っぽいというか雑なんですけど、ロック・ミュージックっぽいし、かなりのエネルギーを感じる躍動感で、こういった熱はその後のマンボやサルサなどのニュー・ヨーク・ラテンへつながっていったものだったかもしれないとも思います。そのほか、プエルト・リコの大作曲家ラファエル・エルナンデスの楽団自身による「カチータ」も一枚目ラストにあります。

2019/07/15

チュー・ベリーの魅力

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https://www.amazon.co.jp//dp/B00GXEXYZU/

 

ご覧のように猫ジャケであるエピック・イン・ジャズのシリーズの、一枚『チュー』。テナー・サックス奏者チュー・ベリーに焦点を当てた編集盤です。いままでも書いていますがくりかえしますと、エピック・イン・ジャズのシリーズはどれも録音は第二次世界大戦前の SP 時代のもの。それを戦後、LP 盤にまとめて再録しているものなのです。LP はエピック盤ですから、もちろん音源はすべてコロンビア系のレーベル原盤。

 

さて、スウィング・ジャズ黄金期の No.1 テナー・サックス奏者とされ多忙だったチュー・ベリー。しかしどうしてコールマン・ホーキンスじゃないのかといいますと、肝心な時期にホークはアメリカを離れヨーロッパで活動していたからなんですね。1934年末から39年までの話です。ちょうどスウィング・ジャズ勃興〜黄金期じゃないですか。しかもですよ、ジャズ・ミュージックにおいてテナー・サックスが大きな注目を浴びるようになったのとも時期的に一致するんですよ。あぁ、なんということでしょう。

 

いや、ホークはすでに影響力絶大でありましたし、帰国後に名声を再確立しました。ともあれ彼の不在期にアメリカでテナー・サックスがジャズの主要楽器として注目されるようになって以後、この楽器で大活躍したのが、ベン・ウェブスター、レスター・ヤング、そしてレオン・チュー・ベリーの三人だったんですね。

 

チュー・ベリーの生涯最高名演は、たぶんライオネル・ハンプトンのヴィクター・セッションで吹いた「スウィートハーツ・オン・パレード」(1939)でありましょう。ヴィクターへの吹き込みですから、コロンビア系であるエピック盤『チュー』には収録できません。ですけれど、せっかくチューの話題なんですから、会社のしがらみなどないこの個人ブログ、その演奏をご紹介しておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=tG4udzyZpeY

 

どうです、このテナー・サックス・ブロウの豪快さといったら。これを聴けば、チューがスウィング期のテナー No.1と言われたのも当然だとわかりますよね。ヴォーカルはボスのハンプです。チューのテナーはソロ部だけじゃなく演奏開始から終了までずっと吹き続けていて、いわば一曲全体をテナー・ソロでラッピングしていますよね。ハンプの指示だったと思いますが、ここまでできる流暢さは驚異です。いやあ、なんてすばらしいテナーでしょうか。

 

この演奏をお聴きになってもおわかりのように、チューのテナー・サウンドは丸いです。影響源のホークのような硬さはないですよね。ホークのあの音はきれいに抜けているからなんですけど、チューはチューでこの独特の丸みを帯びたやわらかい音色でみんなを魅了したんです。またフレイジングはなめらかで、ここもときどき飛躍するホーク(やレスター)とは大きく違います。さらさらと流れるようなスムースさがありますよね。だから聴きやすいんですよね。歌心も満点ですし。

 

そんなチュー・ベリーのエピック盤『チュー』は、1〜7曲目までがチュー名義のコンボ・セッションから。8曲目「ウォーミング・アップ」はテディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションからのもの。9曲目以後は(チューが所属していた)キャブ・キャロウェイ楽団の録音です。同楽団でのラスト五曲は、若き日のディジー・ガレスピーがロイ・エルドリッジの影響を聴かせたりするのも興味深いところ。

 

アルバム終盤のそれら五曲のうちでも、最後の三曲(1940、41年録音)は、とりわけキャブ楽団がチューのテナーにフォーカスした演奏内容で、彼の持ち味もよくわかる名演です。「ゴースト・オヴ・ア・チャンス」「ロンサム・ナイツ」「テイク・ジ・"A"・トレイン」。ご紹介しておきましょう。

 

「ゴースト・オヴ・ア・チャンス」https://www.youtube.com/watch?v=GzHCpklaEdM
「ロンサム・ナイツ」https://www.youtube.com/watch?v=a6-7JBwMKdw
「テイク・ジ・"A"・トレイン」https://www.youtube.com/watch?v=geeChTEC3hE

 

特に最初のバラードふたつが絶品ですよね。チューのテナー吹奏の魅力がよくわかるものだと思います。まずはテーマ・メロディをうまくフェイクしながらなめらかに演奏し、その後徐々にそのヴァリエイションを歌うがごとく朗々と吹き続ける暖かみのあるサウンドに感心します。バラードと言いましがが、正確には二曲ともやや違って、孤独やさびしさを扱った内容です。それをここまで真に迫って演奏できるチューの才能のすばらしさ。決して絶望や諦観ではなく、ハート・ウォーミングな心情を感じさせるのがこのテナー・マンの魅力ですね。

 

これら三曲では、上でも書きましたがブレイク前のディジー・ガレスピーがトランペットを吹いています。「ロンサム・ナイツ」「テイク・ジ・"A"・トレイン」で聴けるミューティッド・ソロがディジーなので、短いですが耳を傾けてみてください。まだビ・バッパーといえるだけのスタイルを確立していませんが、ちょっとおもしろいんじゃないでしょうか。

 

チュー・ベリーは、これら三曲より前に収録されているもの(1937、38年録音)でも、ソロ時間は短いながら立派に自己の表現をはたしているなとわかる立派な演奏です。もっとも、チューは自己名義のバンドを率いたことがなく、自身名義のレコードだってそのときだけの臨時編成で名義だけチューになっているというもの。しかも総数がかなり少ないのです。音楽生涯のほぼすべてをほかの偉大なリーダーのバンドの一員として過ごしました。といってもキャブ・キャロウェイ楽団在籍中の1941年にわずか31歳で亡くなってしまったんですけどね。

2019/07/14

これまたグラント・グリーンのファンク・ライヴ

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https://open.spotify.com/album/4NL6PN6GkMqI7Ztz4iGPU6?si=skjpcCOXS966RYu-lJANfw

 

どうしてこんなにカッコイイんだぁ〜、グラント・グリーン1970年のライヴ盤『アライヴ!』。完璧なるジャズ・ファンクですよね。もともとが真っ黒けな資質のギターリストであるとはいっても、70年代のグラントはなにかに取り憑かれたかのようにリズム&ブルーズ/ファンク/ソウル・ジャズ路線を突っ走っていました。ライヴでもそうでした。『アライヴ!』もまたそんな一枚。

 

『アライヴ!』は1970年8月15日、ニュー・ジャージーでのパフォーマンスで、編成はボスのギター、クロード・バーティーのテナー・サックス、ウィリアム・ビヴンズのヴァイブラフォン、ニール・クリークかロニー・フォスターのオルガン、イドリス・ムハンマドのドラムス、ジョゼフ・アームストロングのコンガ。

 

やっている演目も、数曲のグルーヴ一直線などファンク一路線からハービー・ハンコックの新主流派「処女航海」までと幅広いんですけど、でもやっぱりアルバム・オープナーがクール&ザ・ギャングの「レット・ザ・ミュージック・テイク・ユア・マインド」であることに、このアルバムの音楽性が典型的に象徴されていますね。いやあ、ションベンちびりそうなほどグルーヴィでコテコテです。

 

その「レット・ザ・ミュージック・テイク・ユア・マインド」もカッコイイし、続く2曲目「タイム・トゥ・リメンバー」(ニール・クリークのオリジナル)もメロウ R&B みたいなバラード調。ヴァイヴラフォンがいい感じで効いているのも甘美なムードをもりあげたり、それとグラントのギターがユニゾンで進むところにテナー・サックスがからんだり、もうタマランですよ。メロウでソフトでデリケートで、夜の音楽ですね。

 

3トラック目のバンド・イントロダクションに続き、4曲目の「スーキー、スーキー」(ドン・コヴェイ)が、たぶんこのアルバム『アライヴ!』最大の目玉にして白眉、聴きものでしょう。このグルーヴのキメかたったらないですね。イドリス・ムハンマドのファンク・ドラミングは全曲で見事ですが、特にこの「スーキー、スーキー」では抜きに出ています。グラントのギター・ソロもファンキーでかっちょええ〜。ワン・リフ反復で演奏の土台ができていることに最注目しないとですね。

 

この『アライヴ!』でも、演目やリズムやグルーヴはソウル/ファンク・ミュージックのそれで、ビシバシきめているけれど、なんだかんだ言って楽器ソロの時間が長く、それがギター、テナー・サックス、ヴァイブ、オルガンと続きまわすというのが中心ですから、そこはジャズ・マナーだといえばそうです。でもこんなねえ、クール・アンド・ザ・ギャングだとかドン・コヴェイだとかギャンブル&ハフだとかロナルド・アイズリーだとかの曲を、しかもこんなにファンキーにコテコテにやってみせたジャズ・マンが、1970年時点でほかにいましたか?!グラント・グリーンだって、どうして1970年代はここまでのことになっていたのか、60年代も黒っぽかったとはいえああだったのに?と思うと、まあ快哉を叫ぶしかないわけですよ。

2019/07/13

ミジコペイのスムースなシンコペイション

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https://open.spotify.com/album/0cBvFiydjZLqHO5dZL454n?si=aj75pNPmQxipUgXHvkLiBg

 

トニー・シャスールのライヴ盤二枚組はしっかり聴いていたものの、ミジコペイのアルバムは今回はじめて耳にしてみたぼくです(DVDは不便ですから)。2019年の『クレオール・ビッグ・バンド』。アルバム題どおり、ビッグ・バンド・ジャズのサウンドですね。それも旧来的な伝統のビッグ・バンドのそれで、目新しいところはありません。でもそういったことがこのアルバムにちょうどいいくつろぎをもたらしているので、ポイントは高いと言えましょう。

 

伝統的ビッグ・バンド・ジャズだと言いましても、それでもやはりミジコペイならでは、という部分はしっかりあります。ぼくにとっては二点。ひとつがトニー・シャスールをはじめみんながどんどん歌うこと。もう一点はこのリズムです。ストレートなメインストリーム・ジャズのビートの格好をしているものも多いんですけど、それだけじゃなく、いかにもカリブのバンドというだけあるシンコペイションを効かせているものがありますね。それでニンマリするんです。

 

たとえば、この新作のなかでの最有名曲は3曲目の「スターダスト」ですけれど、ストレートな4/4拍子系じゃないでしょ。ガチャガチャと跳ねていますよ。そこが実にいいと思うんです。ヴァースをふたりが歌い終えてリフレイン部に入ったら、ドラマーが強いシンコペイションを叩いていますでしょ。旧来的なビッグ・バンド・ジャズで「スターダスト」みたいな曲を、というと古くさ〜くなってしまいそうですけど、このリズムのおかげでそうはなっていないわけですね。

 

こんなカリビアン・リズムの活用法はこのアルバムの至るところで聴けて、ぼく的にはミジコペイ最大のポイント、長所となっているように思うんです。「スターダスト」では歌が終わってピアノ・ソロになっても、やはりリズムは強く跳ね、背後のホーン・リフもスタッカート気味に入っていますしね。なめらかさも際立っていますけど、突っかかって跳ねるような要素がありますよね。そこがいい。

 

こういったことが、しかしアルバム『クレオール・ビッグ・バンド』ではひとつながりのスムースさで表現されていますので、スーッと聴きやすく、聴き手は意識しないで流してしまうだろうと思います。そのおかげで、これはただのふつうのジャズ・ミュージックじゃないか、という感想を抱くばあいも多いんじゃないでしょうか。それでいいと思うんですけど、このアルバムの音楽の心地よさの源泉は、特にクレオール系音楽に親しんでいる身からしたら、そんなリズム・シンコペイションにもあるなと考えていますよ。

 

リズムのちゃかちゃかっていう跳ねかたは、このアルバムの多くの曲でどんどん聴けますので、みなさんもさがしてみてください。上で書いた、ヴォーカル・ナンバーが多いのでぼくなんかは好きという点は、しかし旧来的なジャズ・ファンのみなさんには共感していただきにくいのかもしれませんけどね。また、『クレオール・ビッグ・バンド』はスタジオ録音作ですが、全編とおしてライヴ一発録りみたいな雰囲気があるというか、そんな音響なのも特長といえます。

2019/07/12

ウッドストック幻想の崩壊と、太田裕美『心が風邪をひいた日』

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https://open.spotify.com/album/3Mb2LRrANO8jZhSOoctdkx?si=050okitiQhqmwywF_W8w1w

 

大好きな太田裕美の『心が風邪をひいた日』(1975)。このアルバムのテーマは、ウッドストック幻想崩壊後の失意、失望ということでしょう。それが顕著に表現されているのが、11曲目「青春のしおり」。歌詞は松本隆が書いていて(このアルバムは一曲だけ太田自身の作詞ですけど、ほかはすべて松本)、それにちょっと耳を傾けるだけでもぼくの言いたいことがおわかりのはず。

 

たとえば一番には「キスがまったく甘くないこと気づいてからの味気ない日々」。二番には露骨に松本の世代が出ていて、まずいきなり「CSNY 聴きだしてからあなたはひとがかわったようね」「みんな自分のウッドストック、緑の楽園を探していたの、夢ひとつづつ消えていくたび、大人になった味気ない日々」とあるんですね。CSNY はシーエスエヌワイと歌われています。

 

”味気ない日々”は、この曲「青春のしおり」の毎コーラス末尾で出てくるリフレイン・フレーズになっているわけですが、どう聴いても1969年8月のウッドストック・フェスティヴァルに象徴される楽園と夢、楽しさ、にぎわい 〜 こういったバブルがはじけて以後の、そう、バブルでしかなかったと気づいて以後の、あの世代のひとびとの気分の沈みを表現していると思えます。

 

曲「青春のしおり」は歌詞内容がというだけでなく、曲調もしっとり暗く哀しげなもので(作曲は佐藤健、このアルバムでは筒美京平の曲が多く、その次が荒井由実)、考えてみればアルバム『心が風邪をひいた日』というこのアルバム題だって、曲「青春のしおり」三番の歌詞の一節からとられたものなんですね。心の風邪って、鬱・落ち込みっていうことですからね。「季節の変わり目」だから、と歌われています。季節とは時代ということです。

 

アルバム全体でも、しっとり系の哀しげな曲と歌詞が多いんですよね。最大のシグネチャー・ソングが多幸感に満ち満ちたメロディ・ライン、サウンド、リズムを持つ「木綿のハンカチーフ」なもんですから意外な気もしますが、だいたいこの大ヒット曲だってつらい失恋を扱った内容です。歌詞以外はまったく裏腹で楽しげですけれどもね。

 

1曲目の「木綿のハンカチーフ」が終わったら、もう太田の歌うのは哀しみ、(心象の)夕暮れ風景ばかり。明るく楽しい歌といえば、7曲目「ひぐらし」と9「銀河急行に乗って」だけです。いや、後者はやや陰かもです。だからアルバム全体のなかではこれらが流れくるとホッと救われたような気分になります。暗闇に一筋の光が差し込んだかのような気分になるんですね。

 

歌詞は失恋を扱った哀しいものなのに曲はすごく楽しげという「木綿のハンカチーフ」と正反対なのが、6曲目「七つの願いごと」。歌詞内容を聴くと愛のはじまりと成長を扱ったもので、しかし曲はどこからどう聴いてもかなり寂しげ。悲哀に満ちたといってもいいほどの暗さ、影が落ちています。8曲目「水曜日の約束」も同様です。

 

太田の歌うこういった情緒は、あの時代のいわゆるフォーク&ニュー・ミュージック世代がよく歌っていたあのような特有のものだったかもしれません。リアルタイムではぼくはそういう世代じゃないんですけど、中学生のころテレビジョンでよく耳にしていたようなかすかな記憶がこびりついています。青春とか、青春が終わって大人になって以後は、現実は…云々とか、そんな歌、多かったですよねえ。テレビ・ドラマだって、たとえば中村雅俊あたりが主演してそういったテーマとフィーリングを表現していたような、そんな記憶があります。

 

いまふりかえってよく考えてみますと、それらはだいたい1970年代前半あたりのものでした。そのことと、音楽アルバム『心が風邪をひいた日』全体を貫くこのしっとり系の色調と、太田裕美や作詞作曲製作陣の世代を考えるとき、やはりどうしても<ウッドストック=楽園>への礼賛が消え崩壊して以後の、アメリカでもそうでしたがたぶん日本の音楽家たちのあいだにもあった失望感、暗く落ちんだ気分、ふわふわ浮ついた気分はもう終わりだ、これからは大人になってつらい日常を歩んでいかなくちゃいけないんだという、諦観というか現実感 〜〜 こういったことがはっきり下敷きになっていたと思うんです。ぼくはその一個下の世代ですので、的外れな意見かもしれませんが。

 

太田裕美自身の性格にはそんな部分はあまりないそうで、あっさりさっぱりした人物だそうです。太田の Twitter アカウントをフォローしてふだんから読んでいるんですけど、たしかに太田のツイートする日常は実にあっけらかんとした気持ちのいいものです。女々しくひきずったり、暗く落ち込んだりするのは、すくなくともツイートにはまったく出たことがなく、その正反対の印象です。

 

そんな太田は、歌手としても同様の持ち味だと言えましょう。書いてきたような暗く哀しい内容のアルバム『心が風邪をひいた日』ですが、落ち込みすぎない救い・光となっているのは、太田のさわやかでさっぱりした歌い口なんですよね。「青春のしおり」「袋小路」「夕焼け」「かなしみ葉書」「水車」など、そういったしっとり系ナンバーの数々でも、太田は歯切れよく発音しさっぱりと歌いこなしています。だから結局アルバム『心が風邪をひいた日』はいい後味を残してくれます。そして、失恋を歌った哀しげボサ・ノーヴァ風味な「わかれ道」で幕を閉じるんですね。

 

曲「木綿のハンカチーフ」については、以前くわしく書きました。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-68fa.html

2019/07/11

どこか不気味なクレア・ヘイスティングズが好き

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https://open.spotify.com/album/53uaFPysAodYgJwu0OHWdn?si=FLdrAVeWR1eRuAwpUBBh3w

 

これまたスコットランドの若手歌手クレア・ヘイスティングズの新作『ゾーズ・フー・ローム』(2019)。これもかなりいい内容ですよねえ。アイオナ・ファイフやハンナ・ラリティほどのことはないなあと思っていましたら、いつの間にか数知れずくりかえし聴いているから不思議です。クレアのどこにそんなチャームがあるのか、ちょっと考えてもよくわからないのですけど、惹きつけられる声の持ち主と言えましょう。

 

クレアの『ゾーズ・フー・ローム』は、アルバム題からも察せられるとおり「旅」がテーマになっている作品。それにもとづいて選曲された伝承曲や、あるいは自作や他作曲もすこし織り交ぜながら、ギター、フィドル、ピアノ、アコーディオンのシンプルな編成の伴奏で、地味だけど落ち着いた透明感のある発声と歌いかたをしているんですね。

 

CD パッケージのどこにもクレジットはないものの、シンセサイザーに違いないサウンドもところどころで聴かれ、とてもいいエフェクトになっているのも印象に残ります。特に幕開けの「ザ・ロージアン・ヘアスト」と幕締めの「テン・サウザンド・マイルズ」でそれがよくわかります。後者はボブ・ディランらも歌ったので知名度があるはずです。

 

しかも「テン・サウザンド・マイルズ」では楽器伴奏がかすかに漂うシンセサイザーだけで、あとはクレアのヴォーカルの(オーヴァー・ダビングによる)多重唱だけというもの。だからまあほぼ声だけなんですよね。トラッド歌手の世界では無伴奏で歌うのが日常的であるとはいえ、ここでのクレアのヴォーカルはかなり聴かせる説得力を持っています。

 

また、出だし1曲目や、また4曲目「セイリンズ・ア・ウィーリー・ライフ」などでは、クレアの背後の楽器伴奏で緊張が走ります。やや不気味なサウンドを出しているのがわかりますよね。音をあえて外し不協和な響きにして、音色もゆがめて、わざとギギッ〜っていう不気味な伴奏を楽器がやっているんです。UK トラッドの世界でぼくはあまり聴いたことのないサウンドです。

 

こういった微妙な緊張感は、実はクレアのこのアルバム全体を貫いておりまして、この音楽にリラックス・ムードよりもテンションをもたらし、その結果音楽のキリリとした美しさを際立たせる役目を果たしていると思うんですね。おもしろい演出です。

 

旅、というか sail、sailing ということばがよく聴こえるアルバムですので船旅がテーマなのでしょうか、旅立ちにつきものの(人との)別れも歌われたりして、そんなテーマ設定もお気に入りですし、声も伴奏もよくて、くりかえし聴くのにちょうどいい40分というアルバムの長さですし、最初はピンとこなかったんですが、聴き込むうちに離れられなくなる魅力をもった不思議な音楽です。

2019/07/10

マイク・スターンの「スター・ピープル」妙技

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https://www.youtube.com/watch?v=PsXqBdkaZbU&lc=z23zwr0wuruicdp34acdp434o4uhy2qud5a3yqjzz3dw03c010c

 

マイルズ・デイヴィスの曲「スター・ピープル」(1982年録音83年発売)について書くのは何回目になるでしょうか。ぼくとしてはさほど重視していなかったんですけど、とにかく YouTube に上げたのにみんなが賞賛のコメントをどんどん寄せてくれるんです。こんなにすごい音楽はないと。今日も一個ついて、いま2019年5月9日時点でもう39個のコメント。これはぼくが YouTube に上げた音楽ファイルのうち最大のコメント数なんですね。その大多数がこの音楽を賞賛しています。

 

しかし、どこがそんなにいいんだろう?というのがぼくの偽らざる気持ちでした。前にも言いましたが、この YouTube ファイルは、ブログでの論考の際この音源を例証として使いたいと思いましたがその時点でネットにありませんでしたので自分で作成してアップしただけですから、この音楽がいいぞ、みんな聴いて!ということじゃなかったのです。なのに、これだけ熱烈な賞賛のコメントがつくとなると、こりゃきっとこの音楽にはなにかがあるんだと、考えてみないといけないなと、そう思うようになりました。

 

曲「スター・ピープル」はもちろん定型12小節のブルーズですけど、完成品となったものには前奏と間奏でまったく無関係のシンセサイザー・サウンドが挿入されています。弾いているのはもちろんマイルズ。それにギターのマイク・スターンがからんでいますよね。その挿入パートはブルーズ本編とは別個に録音されていたものなんですね。発売に際してのテオ・マセロの編集ということです。

 

しかしそのシンセ挿入パートはなかなかいいですよね。これに限らずこの曲「スター・ピープル」の編集結果をマイルズ本人は気に入らなかったんですけど、だけどいま聴きかえすとなかなか効果的じゃないですか。スター・ピープルという(だれがつけたのかわからない)曲題にも似合った夜のムードをよく演出できていますし、ブルーズ演奏本編とのコントラストも効いています。

 

そう、夜のムード、星のひとたちっていうこの曲はそんなムードこそが最重要です。そしてブルーズ演奏パートでそれを最もよく表現できているのが、マイク・スターンのギター・ソロじゃないかと思うんですね。というか、この約18分間でいちばん際立った聴きものがマイクのソロじゃないでしょうか。実に見事のひとこと。そこにこそ、曲「スター・ピープル」の真価があると言いたいです。

 

マイクのギター・ソロは二回出ます。一回目はインタールード前の前半部で、マイルズのソロに続く二番手。自分のソロに続けて(サックスではなく)ギターリストをもってくるというあたりにも、マイルズのマイク重用が見て取れますよね。しかもそのギター・ソロの内容だって、とてもいい。はっきり言ってボスのトランペット・ソロよりもずっといいぞと思うくらいです。

 

実際問題、この「スター・ピープル」では、ボスのソロはまだまだ不安定で頼りないかもしれません。音色だってか弱いですしね。ビル・エヴァンズのテナー・サックス・ソロは大幅にカットされて、たったの1コーラスだけですからどうにも言いようがないといった程度。つまり、曲「スター・ピープル」はマイクをフィーチャーしたギター・ショウケースなんだと言えますね。いい内容で弾きまくっていますしね。

 

そんな側面をもっと拡大したのがシンセ・インタールード後の後半部。その後半部では、おしまいにボスが出てきてトランペットで演奏を幕締めにするものの、それまでずっとマイクひとりだけをフィーチャーしていて、ほかにだれも、ボスをふくめだれも、ソロをとらないんですもんねえ。マイクの独壇場になっているんです。しかも内容がかなりいいです。

 

まず、シンセ・インタールードがやんでも、その雰囲気をそのまま受け継いだような星屑ギターみたいに弾きはじめるマイク。最初はバックのドラムスとパーカッションも止まっていて、ベース伴奏だけです。そのマーカス・ミラーの弾くやわらかいエレベ・サウンドに乗って、デュオで、マイクはこれ以上ない、こたえられない深夜のブルーズ・ムードを弾きます。アル・フォスターのドラムスが入ってくるまでのあいだ数分間は至福ですね。

 

その後も、ヴァイオリン奏法などさまざまなテクニックを駆使してブルージーかつムード満点に弾きこなすマイク・スターン。マイルズが最後の約二分間だけ出ますけど、それまでずっとマイクがステージ最前方にいてフィーチャーされていますよね。ここまでマイク・スターンをフィーチャーしたのはボスなのか、あるいはテオの編集作業なのか(ビルのサックス・ソロを大幅に縮小したのはテオです)わからないですけど、この星のブルーズを見事に雰囲気満点に弾きこなすマイクに降参するしかないんですよね。

2019/07/09

ライヴ 9

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https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/0DBjcBfM3DhrmBDP7B9KKW?si=Er1c8s33SB-sHwBk1_qd-A

 

個人的に大好きで愛聴しているライヴ・アルバム九選を並べてみました。選出基準はたんに好きだからというだけのことで、そのライヴ盤の、あるいは中身のライヴ・パフォーマンスの、意味とか意義とか重要性みたいなものは考慮していません。結果的にそういったものが入り込んだばあいもあるかもですけど。

 

以下、その九選。並び順にポリシーはなく、なんとなく思いついたまま。ライヴ音楽は、いつどこで行われたものかというのが大切になってきますから、書ける範囲で括弧内に記しておきました。

 

1) Benny Goodman / Live At Carnegie Hall 1938 (1938.1.16, NYC)
2) Caetano Veloso / Fina Estampa Ao Vivo (1995.9, Rio de Janeiro)
3) James Brown / Live At the Apollo, Volume II (1967.6.24-25, NYC)
4) Fania All Stars / Live At The Cheetah (1971.8.26, NYC)
5) The Rolling Stones / Love You Live (1975-77)
6) B. B. King / Live at The Regal (1964.11.21, Chicago)
7) Sly and the Family Stone / The Woodstock Experience (1969.8.17)
8) Zaire 74: The African Artists (1974.9.22-24, Kinshasa)
9) Duke Ellington / At Fargo 1940 (1940.11.7, North Dakota)

 

結果的に第二次世界大戦前のスウィング・ジャズ・オーケストラがふたつになったのはあれですけど、でもどっちも本当に好きなんですよ。エリントン楽団のファーゴでのライヴは評価も人気も高いものですね。ベニー・グッドマン楽団のカーネギー・ホール・コンサートのことは忘れられつつあるように思いますので、語り継いでいかねばなりません。クラシック音楽の殿堂だったカーネギー・ホールではじめてライヴ公演をやった大衆音楽の記録なんですから、超重要です。

 

カエターノの『粋な男ライヴ』は汎中南米音楽的な意匠もあっておもしろいところ。でもそんなこと考えなくたって純粋に楽しいです。ところでこのライヴ盤は CD と DVD で曲目が微妙に異なっていますね。このコンサートはフル収録されたはずですから、いつかフル・ヴァージョンが日の目を見ることを願っている次第であります。

 

JB と BB とストーンズのライヴに多言は無用でしょう。いやあ、好きですねえ。ファニア・オール・スターズのチーター・ライヴも名盤中の名盤だからなにも言わなくていいはずです。1970年代ニュー・ヨーク・ラテンの沸点の高さがよくわかる熱狂ぶりですね。

 

熱狂といえばスライのウッドストックとかキンシャサの奇跡前夜とかの狂熱ぶりもすごいものがあります。ある種類の音楽の熱がどんどん高まっていって、まさに爆発せんとする瞬間の、そのピークのマグマの噴出を記録したものだと言っていいはずです。『ザイール 74』のほうでは、特にエレキ・ギターのコクのあるまろやかな味わいも特筆すべきものですね。も〜う、大好き!

2019/07/08

ジョアンのギターと声こそがボサ・ノーヴァだった

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ジョアン・ジルベルトが亡くなったというニュースが今朝起きたら Twitter のタイムラインをかけめぐっておりました。88歳という年齢と、近年は活動していないような感じでしたので、そろそろ危ないのかなとは思っていましたが、いざ訃報に接するとやはりガックリきてしまいます。それで何枚かジョアンのアルバムを聴きかえしていましたが、個人的にいちばんのお気に入りで、かつ嗜好を超えて最高傑作なんじゃないかと思うものについて、簡単にメモしておきます。

 

それは1973年の『ジョアン・ジルベルト』(『三月の水』という邦題で日本盤もあるようです)。これ、いいアルバムなんですよねえ。どこがいいって、簡単に言えば、思わず息が止まりそうになる静けさと緊張(© 松山晋也さん)ですね。と同時に、けっこう激しいスウィング感を内包しているところもぼく好み。後者のスウィング感が内在しているというのは、主にジョアンのギター演奏に感じることです。それとヴォーカルとのクロス・リズムかな。

 

アルバム『ジョアン・ジルベルト』は、ほぼジョアンの声とギターですけど、ハイ・ハットを演奏する音も入っています。だれかドラマー(じゃないかもですが)が参加しているんでしょうね。最後の曲で聴こえる女声といい、いったいだれなんでしょう?ぼくの持つのはブラジル PolyGram 盤できわめて愛想がなく、そのへんのことはいっさいどこにも記載がありません。

 

まあでもだいたい九割程度はジョアンひとりでの弾き語りとしていい内容でしょうね。一曲目の「Águas De Março」(アントニオ・カルロス・ジョビン)からして軽快ですが、このギター演奏が特筆すべきものだと思うんです。この曲では声というか歌のほうはあまり重視していません。ギターで細かい譜割をコード・ワークで刻んでいくジョアンの凄腕にうなります。
https://www.youtube.com/watch?v=keZulqPcPag

 

特にいいな、すばらしいなと感じているのが、インストルメンタルな3曲目「Na Baixa Do Sapateiro」(アリ・バローゾ)を経ての、5〜7曲目の三連発。いやあ、実にすんごいスウィング感、いや、ドライヴ感です。ここらではヴォーカルも見事な絶品です。5「Falsa Baiana」(ジェラルド・ペレイラ)、6「Eu Quero Um Samba」(アロルド・バルボーザ)、7「Eu Vim Da Bahia」(ジルベルト・ジル)。
https://www.youtube.com/watch?v=MIwV1aMtmbs
https://www.youtube.com/watch?v=VN_72vMS1ys
https://www.youtube.com/watch?v=VmFINS_u2rs

 

どうです?もう痛快とすら言えますね。これら三曲はすべてサンバ楽曲なんですけど、ジョアンの手にかかるとものの見事にボサ・ノーヴァ・ナンバーに変身しているから驚きます。その際のキー・ポイントとなっているのがやはり彼のギター演奏だと思うんですね。ジョアンのギターが奏でるコード・ワークでつくるこのリズム。これこそがボサ・ノーヴァだったと思うんです。

 

ジョアン以後はみんなが真似するようになったギターの弾きかたなので、ぼくらはなんとも思わないっていうか、まぁあたりまえのものじゃないかくらいに聴いているかもって思うんですけど、新旧サンバ楽曲をとりあげてこんなふうに、こんなリズムで、弾いてみせるというのは、ジョアンが史上はじめてやったことです。ボサ・ノーヴァのアイデンティティを創出しました。

 

声の存在感や歌のうまさ(特に発声とリズム感覚)もあわせ、ジョアンのギターとヴォーカルこそがボサ・ノーヴァでした。なにをとりあげ演奏し歌ってもジャズになるというのがサッチモことルイ・アームストロングの偉大さでしたが、つい今朝方まで生きていたジョアン・ジルベルトは、ぼくの世代でもそんな大きな音楽家の存在をリアルタイムで実感できていた、稀有な天才でした。

2019/07/07

<故郷>へ連れ帰ってくれ 〜 ウィリー・ネルスンの新作に聴くカリブ海

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https://open.spotify.com/album/4eIsAOEVirxfsiQpwbhBpP?si=CdInUocPQpiOr7Ih23DwfA

 

こないだ息子ルーカス・ネルスンのバンドの新作をとりあげたでしょ。快作でした。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-eded22.html

 

これがまだまだヘヴィ・ローテイション盤の座から降りないうちに、父ウィリー・ネルスンの新作も届いちゃいました。題して『ライド・ミー・バック・ホーム』(2019)。これがなかなかおもしろいんです。ビリー・ジョエルの「素顔のままで」なんかもやっていますが、それよりなによりウィリー86歳という年齢を考えたら、これ、異常な充実度ですよ。ふだん年齢で音楽の若/熟を判断しないぼくですけど、この新作でのウィリーは声が若い!でも今日はそれを言いたいわけじゃありません。

 

単刀直入に。このウィリーの新作『ライド・ミー・バック・ホーム』には、鮮明なアバネーラ楽曲が三つあるんです。3曲目「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」、8「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」、9「ノーバディーズ・リスニング」。アルバム全体はやはりカントリー・ミュージック作品に違いありませんから、そのなかにキューバ音楽要素がこれだけ混じり込んでいるというのは、驚くべきことなのか、あるいは当然のことなのか、どちらなのでしょうね。

 

8「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」、9「ノーバディーズ・リスニング」は今回の新作のための書き下ろしで、ウィリーとプロデューサーのバディ・キャノンの共作名義。「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」は、2016年に亡くなったガイ・クラークのカヴァーですよね。そのオリジナルからしてカリビアン・テイストを持った曲でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZV-i1dwWq1I

 

没地がナッシュヴィルだったガイ・クラークもやはりカントリー界の音楽家でしょうけど、よく知っている種類の音楽じゃないので、カリビアン、キューバン・ミュージックとか、あるいはアバネーラ(がスペイン経由だったりもするかも?)とどんな関係があるのか、あまりよくわかりません。ですけれど、南部ニュー・オーリンズを経由してアメリカ合衆国とカリブ海とは隣り合わせなんですから。

 

これまたガイ・クラークがオリジナルの5曲目「イミグラント・アイズ」も、曲そのものはふつうの三拍子でアバネーラ舞曲じゃないですけど、間奏のギター・ソロ部にカリビアン/ハワイアン・テイストがわりと鮮明にありますよね。もっと正確にはテックス・メックス風味といったほうが近いのかもしれません。そういえば今回のこのウィリーの新作アルバム、全体的にどこか隣国メキシコの空気が香っているような気がして(特に和声面)、ウィリー自身の過去曲の再演である6「ステイ・アウェイ・フロム・ロンリー・プレイシズ」はジャズ・ナンバーになっているし、ホント、ごくふつうのカントリー・アルバムだとかたづけられないおもしろさです。

 

ジャズだって南部のクリオール首都ニュー・オーリンズで誕生した、ラテン(/カリブ)音楽の一種ですし、そういえばアバネーラ・ナンバーである9曲目「ノーバディーズ・リスニング」には "メキシコ湾" とか "ニュー・オーリンズ" といったことばがちりばめられています。ちゃんと歌詞を聴いていないので、どん内容を歌ったものか気にしていませんが、興味深いところじゃないでしょうか。キューバ音楽であるアバネーラ・ソング、ふうにつくったウィリー自作ナンバーでカリブに面する地名が複数出てくるというのはですね。

 

アバネーラはもちろんキューバ音楽なんですけど、アメリカ合衆国へそのまま直接流入したというより、19世紀にアバネーラが大流行したスペイン(キューバの宗主国)から入ってきたという面もあるでしょう。そもそもアメリカ大陸で大活躍のギターだってスペイン人やポルトガル人が持ち込んだものですから。楽器と音楽との両方が流れ込んだと思います。とにかく19世紀のスペインでは、それはもうアバネーラは大人気だったんですよ。メキシコ湾に面した南部の街を経由して直接流入したものと、二方向あったんじゃないでしょうか。

 

アバネーラを特徴付けているのは、かの独特な跳ねる二拍子のダンス・リズム・シンコペイションです。アフリカとヨーロッパと現地と、この三者が出会ったカリブ海は、中村とうようさんも強調したように世界の大衆音楽の揺籃の地であった可能性が高いです。三拍子はヨーロッパ由来かもしれませんが、それと二拍子がクロスして、独特の跳ねるリズムが生まれました。キューバをはじめとするカリブ海地域の音楽は、アフリカにもわたり近代アフロ・ポップのいしずえともなり、ラテン・ミュージックを生み、北に行って北米大陸でも文化混交による音楽の多様をもたらし、また植民地にしていた白人たちの手によってヨーロッパにもわたりました。アジア各国でもラテン音楽の影響は濃いですよね。

 

ウィリー・ネルスンらが活躍するアメリカのいわゆるカントリー・ミュージック界に、そもそもの最初からアバネーラのようなシンコペイティッド・リズムがあったと言えるかどうか、ぼくにはわかりません。しかし、縁なしと言いがたいのはたしかでしょうね。(ジャズだけでなく)アメリカ音楽とはラテン・アメリカ音楽であるがぼくの持論ですし、事実、ジャズでもブルーズでもロックでもファンクでも、とにかくアメリカ産大衆音楽のなかからラテン要素を抜くことなどできません。そもそもそれらのジャンル誕生の瞬間からラテン音楽は母胎となっていたでしょう。

 

そうであれば、やはりカントリー・ミュージックのなかには、いみじくも今回の新作でウィリー・ネルスンが鮮明に示してくれたように、最初からカリブ〜ラテン音楽が混じり込んでいると考えるのが妥当でしょうね。だって、三曲「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」「ノーバディーズ・リスニング」を聴けば、だれの耳にも明らかじゃないでしょうか。アイルランド〜ヨーロッパ系のずんずん進むフラットなビート感じゃなくて、ひっかかりながらヒョコヒョコ跳ねる二拍子系のクロス・ビートがここにはあります。

 

カントリー・ミュージックを主な題材に、北アメリカ大陸でどんな音楽文化混交が育まれたのか、想像をたくましくするに十分なウィリー・ネルスンの新作『ライド・ミー・バック・ホーム』なんですね。

2019/07/06

パット・マシーニー入門にこのベスト盤をぜひ

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https://open.spotify.com/album/2NopuRF2Xnm4Jgfcu4YGYP?si=yAxr0LWoSlOrH9zO0epU-g

 

パット・マシーニー・グループのベスト盤があります。2015年のノンサッチ盤『エッセンシャル・コレクション:ラスト・トレイン・ホーム』。これを CD ではなく Spotify で発見し(ジャケットが CD のと違うけど)たのは、こないだ『ザ・ロード・トゥ・ユー』のことを書いたでしょ、そんときに Spotify をぶらぶらしていて見つけたわけですよ。チラ見したらぜんぶ知っている曲が入っているから CD は買わなくていいやと思いましたが、ちょっと聴いてみたらなかなかすぐれた内容のベスト・セレクションでした。なんたって楽しいし。

 

『エッセンシャル・コレクション:ラスト・トレイン・ホーム』収録曲は以下のとおり。括弧内にオリジナル・アルバムとそのリリース年を書いておきましょう。

 

1. Last Train Home (Still Life, 1987)
2. Have You Heard (Letter From Home, 1989)
3. Minuano (Six Eight) (Still Life)
4. Third Wind (Still Life)
5. Here To Stay (We Live Here, 1995)
6. As It Is (Speaking of Now, 2002)
7. Better Days Ahead (Letter From Home)
8. Follow Me (Imaginary Day, 1997)
9. Stranger In Town (We Live Here)
10. Letter From Home (Letter From Home)
11. First Circle (The Road To You, 1993)
12. The Road To You (The Road To You)

 

このベスト盤編纂の意図は明白です。ビートの効いたイキのいいグルーヴ・ナンバーを立て続けに並べ、聴き手にパット・マシーニー・グループの世界の快感を味わってもらおうというものでしょう。実際、1「ラスト・トレイン・ホーム」から4「サード・ウィンド」くらいまではアップ・テンポで激しく疾走する爽快感と、パット独特の空間性のあるサウンド・メイクが活きていて、続けて聴いて圧倒されます。ものすご〜く気持ちいいじゃないですか。

 

特色はこれらの曲ではパットのギターとヴォーカル・コーラスの二本ラインがユニゾンで進むところ。そうじゃないパートもふくめ、実に綿密に構成されていることがわかりますよね。パットの音楽構築力を思い知ります。ヴィジュアル感覚あふれるパットの音楽は、やっぱりヒューマン・ヴォイスの活用で具現化されていると思いますし、そこにはブラジル音楽、ことにミナス派の影響も濃いわけです。

 

5曲目以後もテンポのゆるい静謐ナンバーはほぼなくて、ビートの効いたものばかり出てきますよね。ヴィジュアル感覚と書きましたけど、色彩感のあるサウンド・メイクと同じくらいパットの音楽で重要なのがリズム面での躍動感。それもやっぱりアフロ・ブラジル的な要素からもらっているのかなと思います。8曲目の「フォロー・ミー」は異色の意欲作『イマジナリー・デイ』からですが、この曲は従来路線っぽいですね。

 

そんな様子が9曲目の「ストレインジャー・イン・タウン」まで続いて、その後三曲はアルバムの終幕に置かれたコーダ的役目のバラード系かなと思います。もっとも11「ファースト・サークル」はハンド・クラップを効果的に用いた快活グルーヴァーですけどね。これと12「ザ・ロード・トゥ・ユー」はライヴ・ヴァージョン。静かな10「レター・フロム・ホーム」で聴けるライル・メイズのピアノもきれいですし、それにからむパットのアクースティック・ギターもいい。

 

いやあ、それにしてもこの『エッセンシャル・コレクション』、冒頭の四曲連続攻撃で、ぼくなんかもう完全にノック・アウトされちゃいました。この出だしにこのベスト盤編纂者の気持ちがいちばん強く入っているのは間違いありません。だいたい似たようなタイプと創りの曲が並ぶ四つですけど、こうまで快感なことって、ほかになっかなかないですよ。このはじめの四曲でグッと来なかったらパット・マシーニー・グループの音楽には縁がないと思っていいです。ピンと感じたのであれば、オリジナル・アルバムをたどって聴いてみていただければ、もっと世界がひろがります。

 

とにかく、なんども言いますが、1曲目「ラスト・トレイン・ホーム」、2「ハヴ・ユー・ハード」、3「ミヌアノ(68)」、4「サード・ウィンド」と連続しているのが、最高に快感です。音楽としてのスケールも大きいし、もうたまりません。聴きながら鳥肌立ちましたもんね。

2019/07/05

わさみん、カヴァーズ

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01 越冬つばめ
02 北の螢
03 なみだの桟橋
04 石狩挽歌
05 風の盆恋歌
06 旅愁
07 つぐない
08 空港
09 別れの予感
10 ブルーライト・ヨコハマ
11 手紙
12 恋の奴隷
13 お久しぶりね
14 20歳のめぐり逢い
15 涙そうそう(アコースティック・バージョン)
16 なごり雪(アコースティック・バージョン)
17 糸 [Live]

 

わさみん(岩佐美咲ちゃん)が歌って CD 収録されているカヴァー曲を、ぼくの大のお気に入りのものだけ選んで並べてみました。いちおう、ある一定傾向に沿った曲順なんですけど、それはド演歌路線から徐々に移行してライトな歌謡曲、ポップスへ流れていくように、ということです。わさみんの資質を考えたら、その中間あたりで最も魅力的に聴こえるんじゃないでしょうか。

 

上のトラック・リストどおりにぼくは iTunes でプレイリストを作成し、それを CD-R にも焼いて楽しんでいます。そのまま iPhone にもインポート済みですので、出先や交通機関のなかでも、カフェやレストランのなかでも、どこででもいつでも聴き放題なんですね。いやあ、楽しい。

 

全17曲ですけど、激烈濃厚演歌は6曲目の「旅愁」までですよね。だから全体数からしたらあんがい少ないです。ってことは、わさみんの資質がここにも明確に表れていると考えられるんじゃないでしょうか。とはいえ、わさみんの歌う濃厚演歌だってなかなか魅力的ですよ。特に傑出していると感じるのが「風の盆恋歌」と「旅愁」の二曲です。「石狩挽歌」もそれに匹敵するすばらしさ。

 

それでも「越冬つばめ」で今日のセレクションをはじめているのは、このイントロ部のスティール弦アクースティック・ギターのアルペジオが大好きだからなんです。まさしくなにかの幕が開くのにふさわしいフィーリングがあるんじゃないでしょうか。それにくわえハイ・ハットしゃかでエレベぶんと来るあたりで、こりゃもうまさしく幕が上がる瞬間を目の当たりにするかのようですよ。いやあ、好きですね。

 

テレサ・テンさんの持ち歌だったものは、もとから抒情演歌と軽歌謡との中間的なフィーリングを持っていますし、実際テレサさんもそういった領域の歌手だったと思いますし、だから今日のこのわさみんカヴァーズ・セレクションでも真ん中あたりに持ってきて、演歌パートから歌謡曲パートへの移行をなめからにする役目を果たしてくれています。わさみんヴァージョンだって見事ですよね。「別れの予感」なんか、絶品じゃないでしょうか。J-POP フィールのある楽曲ですから、わさみんにピッタリです。

 

いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ったわさみんがかなりいいっていうのは、ぼくは最初のころからくりかえしているところ。このへんの軽いしっとりめなポップな歌謡曲はわさみん向きですよね。また、由紀さおりさんとは、歌手としての資質(歌声や歌いかたそのもので主張せず、歌の内容を素直に歌ってストレートに伝えてくれる)が共通していますし、またリズムもにぎやかで跳ねる感じだし、だからわさみんの「手紙」も実に見事です。

 

リズムが陽気で跳ねる楽しい(ラテン・)フィーリングというのは、実は今日のこのセレクション後半部の隠れテーマでもあります。「手紙」「恋の奴隷」「お久しぶりね」の三曲ですね。いやあ、本当に楽しい。歌唱イベントなどでもこれらを聴けば、本当に気分が浮き立ちます。CD ヴァージョンなら完成されていますしね。歌唱イベント現場での「お久しぶりね」では、歌詞の「もういちど、もういちど」部分でぼくらわさ民はパパンと手拍子を入れますよね。あれが(ラテン・)シンコペイションということなんです。

 

日本の歌謡曲や演歌のなかにもラテン・リズムやシンコペイションが鮮明に入り込んでいるのはもちろん間違いありません。もとをたどるとキューバ音楽がルーツなんですけど、日本の大衆歌謡のばあいは、ジョルジュ・ビゼーの「カルメン」が直接の先生だったかもしれません。このあたりは以前詳述しました。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-ffcb.html

 

セレクションの幕締めには、わさみんのアクースティック・ギター弾き語り三つを持ってきました。どれも見事ですが、特にラストの「糸」のこの表現は本当に舌を巻くすばらしさじゃないでしょうか。2017年5月のライヴ収録なんですけど、こういったわさみんをぼくはまだ生では未体験なんで、ぜひまた一度やっていただきたいと思います。秋LOVEライブ。 そのときは駆けつけますよ。

2019/07/04

ギターのごとく

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https://itunes.apple.com/jp/album/dis-is-da-drum/14450271?l=en

 

歌手やギターリストや管楽器奏者などは、ステージ前方まで出て、観客にアピールしながら演唱できますよね。簡単に言えば目立つことができるっていうことです。特にハンド・マイクを持つときの歌手とエレキ・ギターリスト(は最近、無線で音を飛ばすこともできる)かな。これがドラマーや鍵盤楽器奏者ともなれば据え置きのものを演奏するわけですから、そんなことは不可能。

 

ドラムスやアクースティック・ピアノを演奏するばあいはいまでも同様ですが、鍵盤楽器奏者が電子キーボード、シンセサイザーをやるときは、写真のハービー・ハンコックのようにショルダー・ストラップを使って、まるでエレキ・ギターのように抱えて、ステージ最前列にまで出て演奏することもできるようになっています。これは当人たちにとって、ライヴ・シーンでは大きなことなんじゃないかと思うんですね。

 

どんな楽器奏者でも、バンド(できればオーケストラ)をバックに従えて、最前列で堂々とカッコつけて歌いたいみたいな根源的な潜在欲求があるんじゃないかとぼくはにらんでいるんですけど、電子鍵盤楽器奏者のばあいは、それがいまや可能となったわけですね。ハービーのばあいでもほかの奏者のばあいでも、ぼくは生でも動画でもなんどか観ています。

 

すると当人たちは実に楽しそう。たとえばロック・コンサートなんかで、歌手、複数のギターリスト、ベーシストなどがステージ前列でズラッと並び、競い合ってジャムっている光景がよくありますね。そうはしないハービーだって、やろうと思えば可能なわけです。そして歌手やギターリストのように、ハービーも演奏に気持ちが入ってポーズをとったり顔で表情をつくりながら弾いたりします。ステージ前列に出てきて歩いたりしながら弾くこともあります。

 

もちろんやりながら表情が豊かになるのは、後方で据え置き型楽器を演奏していたってみんなそう。でもそれは感情の自然な発露であって、ステージ前列で観客にアピールするようにショウアップするということではなさそうです。ステージ最前列での歓悶の表情だって、ショウアップじゃなくてそれも自然に気持ちが入っているだけでしょうけど、やっぱり意味合いが違っていると思うんですね。

 

なんといってもエレキ・ギターがライヴ・シーンで活躍するようになって以後ですよね、そういったステージングがあたりまえのものになったのは。というとこれも1960年代のロック・コンサートからそうなったのでしょうか。そりゃあステージ最前列で棒みたいな楽器を紐で抱えた人間や歌手が複数、一列に並んで顔を歪めながら必死でやっているさまは見ごたえがありますよ。

 

ピアニストやその他鍵盤楽器奏者のばあいは長年それができませんでした。ハービーがライヴで使っているああいったギター型のシンセサイザーがいつごろから発売されるようになったのか、調べてみないとわからないですが、ステージングが一変したと思うんですね。まるでエレキ・ギターリストのごとくシンセサイザーを抱えて、前に出てフロントで弾きまくるハービー。カッコイイし、ぼくは好きです。なんたって本人が楽しいんですから。

2019/07/03

真実は音にあり 〜 略歴紹介なしのニュー・クリティシズム主義

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文学批評の方法論のひとつにニュー・クリティシズムというのがありまして、ぼくは根っからそれに染まっている人間。英文学者だった時代が長いですけど、もっぱらこれで通してきました。ニュー・クリティシズムとはなにか?を簡単に言いますと、批評対象の作品を社会的・文化的、そしてなにより作者の伝記的文脈と切り離し、作品じたい自律したものとしてそれだけ扱うっていう態度のこと。主に英米で20世紀前半あたりに主に大学で流行ったやりかたです。すぐれた批評本もたくさんあります。

 

文学作品は、それじたい自律したものであって、創り手の人生や背景などに意味の源泉があるのではないという考えから来る批評方法だと言っていいんじゃないでしょうか。こういったニュー・クリティシズムが主にアメリカの大学で盛んだった理由のひとつには現実的な要請もありました。それは作家の人生や諸々の背景・文脈を解説するばあい、しっかりやるとそれだけで学期が終わってしまうっていうことです。

 

いくら従来的な文学批評法でも、最も肝心なのはやはり作品の中身を扱うことでしょう。そこへ一歩も足を踏み入れることのできないままワン・タームが終了すると、なにをやったのかわからなくなってしまう、という一種の危機感みたいなものがアメリカの大学で英文学の授業をする教授たちにあったと思います。これがニュー・クリティシズムが勃興する現場での現実的理由でした。

 

そんな事情もあったとはいえ、やっぱり作品そのものが大切だから、まとわりつく諸情報はとりあえずいったんは切り離して考え、作品単独でそれじたいのなかで意味は完結しているとして扱って考え分析するというニュー・クリティシズムの批評方法論は、いまでもけっこう有効なんじゃないかと思うんですね。それは第一になによりも作品そのものを大切にするという態度だからです。創り手の人物、人生、来歴などを作品関連情報として語るのは二の次でいいんです。

 

これ、真実はすべてテキストにありという考えですよね。伝記的事実なども作品のなかに流れ込んでいるんだから、作品をじっくり十全に考え論評することが、ひいては創り手の人間的側面について語ることにもなるっていう、そんな発想だと言えましょう。なによりいちばんたくさんの時間を作品そのものの分析に割きたいわけだから、という現実的な理由はもちろんありますけれどもね。

 

そんな考えでずっとやってきましたから、ぼくは音楽についてしゃべるときも「真実は音にあり」という態度を貫いているんですね。はっきり言って創り手の人生や来歴なんかはメンドくさいといった面もありますけどね。ライナー・ノーツでも音楽記事でもブログなんかでも、略歴紹介はたいてい読み飛ばしているわけなんです。一足飛びに中身の音楽分析を読みたい。これはもう根っから染みついた発想で、まず死ぬまで抜けないと思います。

 

自分で書くときも、音楽家の人生や伝記的側面や、つまりいわゆる略歴やキャリア紹介などという部分には極力触れないようにしています。触れちゃダメなんてことじゃない、語っていいんですけど、作品に関係した部分だけ、っていうことですね。たとえばアメリカ音楽のばあいだと、どこの州のどこの都市出身でどこの街で活動したかという事実は、そのひとの音楽性に直結しています。そういったことは言わないといけないですけど、密接な関連がなさそうな周辺情報は音楽を聴く上ではジャマじゃないでしょうか。たとえば、何人兄弟だとか、そんなのは。

 

必要な(伝記的)情報も、実は音楽のなかにはっきり聴きとれるものとして顕在しているわけですからね、だから結局音源のことだけ語ればオッケーではあるんですよね。それがぼくの考えかた。たとえばマイルズ・デイヴィスが「マドモワゼル・メイブリー」という曲をやって、それがリズム&ブルーズ調であるとき、その音楽性はとても大切ですけど、メイブリーってだれなのか?マイルズの恋人?いつどこで出会ってその後どうなった?結婚した?みたいなことは、まあどうでもいいわけです。ベティ・メイブリーさんからマイルズはソウルやファンク・ミュージックを教わったかもしれませんが、結局はマイルズの音楽です。いつもそこに、音のなかに、すべての真実があると思うんです。それについてだけ語りたいわけですよ。

 

2019/07/02

サオダージの魅力

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http://elsurrecords.com/2019/04/24/saodaj-pokor-ler/

 

ミニ・アルバム『pokor lèr』(2018)をリリースしたサオダージ(Saodaj)。このまったく知らないレユニオンのバンド(ユニット?)の CD を買ったのは、エル・スールのホーム・ページに載ったアルバム・ジャケットの魅力と原田さんの紹介文のおかげです。これは絶対おもしろいに違いない!と感じて買ってみたら、正解。いまのところ日本語で話題にしているかたが(原田さんふくめ)三人くらいしかいないですけど、ちょっと聴いてみてほしいのです。

 

サオダージは打楽器担当の男性三名とヴォーカル担当の女性二名の五人で構成されていて、それでライヴ活動なども行なっているみたいですが、アルバム『pokor lèr』のレコーディングにはもう一名男性が参加しているのがブックレットに記載されています。しかし聴いた感じ、五人だか六人だかは判別できません。また女性も打楽器をやって、男性も歌っています。

 

レユニオンの音楽ということで泥臭いマロヤなどを連想しているとサオダージはかなり違います。もっとグッと洗練された様子なんですね。その洗練とはレユニオンでアフリカとアジアがブレンドされたことのうち、とりわけアジア、なかでもインド音楽成分がもたらしているものなんじゃないかと思えます。『pokor lèr』でもマロヤ系かなと思える曲がないでもないですけど(たとえば2曲目)、基本的には別物でしょう。

 

1曲目のアルバム・タイトル曲はインドの両面太鼓ドールのサウンドが印象的で、それにハンド・クラップや金属系パーカッション類がからんでいきます。それらでグルグルと回転するような打楽器リズムを形成しているんですね。そんな前傾的なビート・メイクに交わる女性ヴォーカルの鮮烈さ、はつらつとした感じも特筆すべきものです。男性も声を出しています。ほぼ全曲でリズムは前衛的な変拍子を使ってあって、そんな点もインド音楽的と言えるかも。

 

ヴォーカル・アレンジメントという面で聴くと、サオダージの『pokor lèr』の中心はあくまで女性二名で、男性はある種の下支え、通奏低音的なボトムスを形成する役目であるばあいが多いみたいで、決してリードでは歌いません。しかし男性ヴォーカルの歌いかたには、台湾先住民のそれや、あるいはときどき仏教の声明を思わせる部分もあるんですね。楽器演奏でも実はそうなんです。

 

考えてみれば、レユニオンにたどりついたアジア系文化のうち、最大はインドだとしても、また何割かは中国由来だったり台湾由来だったりするでしょう。オーストロネシア音楽を意識しているとはサオダージの本人たちが発言していることなので、アルバム『pokor lèr』について書くひともみんなそれを言っていますが、音楽を聴くとむべなるかなと思うんです。

 

まだまだ完成品というよりは、スケールの大きな意欲作という域かもしれませんが、この意匠で充実のフル・アルバムが完成したらいったいどんなものができあがるのか、想像しただけでもワクワクする末恐ろしいサオダージ。太古の軌跡に残されたオーストロネシア人の共通感覚を音楽に探るといったこのバンド(ユニット?)、要注目です。

2019/07/01

ヴァカンス・ミュージックとしての「ワッツ・ゴーイング・オン」by ウェザー・リポート

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ジョー・ザヴィヌルやウェイン・ショーターほかメンバーの自作曲しかやらなかったウェザー・リポートですけど、例外が二曲だけありますよね。『ナイト・パッセージ』(1980)にある「ロッキン・イン・リズム」(デューク・エリントン作)と『スポーティン・ライフ』(85)にある「ワッツ・ゴーイング・オン」(マーヴィン・ゲイ作)。

 

ところでウェザー・リポートがマーヴィンの「ワッツ・ゴーング・オン」をカヴァーしているという事実は、いったいどれほど認知されているのでしょう?ひょっとして、マーヴィン、ウェザー双方のファンからも無視されてきているんじゃないかという気がするんですけどね。有名曲でカヴァーも数多く、そのなかにはたとえばダニー・ハサウェイのみたいに人気ヴァージョンになったものがありますけれど、ウェザーがインストルメンタルでやっていることは、あまり知られていないのでは。

 

ウェザーの「ワッツ・ゴーイング・オン」は、マーヴィンのオリジナルとはずいぶん違います。もちろんマーヴィンのだって歌詞で訴えはするものの曲調はそんなにシリアスではありません。どっちかというと楽しそうな感じに仕上がっていますよね。それをインストルメンタルでカヴァーするもんだからウェザーのヴァージョンにはどこにも深刻さがないような、言ってみればノーテンキな「ワッツ・ゴーイング・オン」になっています。

 

マーヴィンのオリジナル同様に、ウェザーも曲導入部でみんなのしゃべり声をはさみこんでいるところからはじまります。日本語だって聞こえます。そのムードは、いわば南フランスのヴァカンス・ホテルかどこか、そんな場所での娯楽を享受するかのような、そんな感じだと思うんですよ。演奏がはじまったらこのヴァカンス・ムードは拡大します。

 

マーヴィンが歌うパートをウェザーはジョーのシンセサイザーで表現。それにウェインのテナー・サックスが小さくからみます。特筆すべきは背後のオマー・ハキム(ドラムス)とヴィクター・ベイリー(ベース)の二名のリズム演奏。それらがなかったらまあまあ聴けるという出来にはならなかったかもしれません。

 

サビに入るとシンセが引っ込んでテナー・サックス中心になりますが、マーヴィンの原曲にあった不安感は、その部分でそこそこ表現されているように思います。ただし、戦争や差別といった人類の危機を歌い込んだマーヴィンの不安感、深刻さとは違います。ヴァカンスのカジノでお金が足りなくなってどうしよう〜?とでもいった感じののんびりしたものじゃないでしょうか。

 

おもしろいなと前々から感じているのは、中間部でテンポが消えてウェインのフリー・ブロウイングになって、それが終わった次の瞬間に出るオマーのブラシ・プレイです。そのやわらかさは格別の心地よさじゃないかと思うんですね。そのブラシによる演奏に連なるヴィクターのベースもいいですよね。結局、そのまま演奏終了までオマーはブラシでプレイ。おだやかであったかいムードで、ぼくはちょっと好きなんです。

 

おだやかとかやわらかいとか(シリアスさのかけらもない)ノーテンキさとか、およそこの「ワッツ・ゴーイング・オン」という曲の解釈してはそぐわないおかしなものかもしれません。しかしどういうふうにとりあげてどういうふうに演奏するかはそれこそ音楽家の自由ですから。できあがりがおもしろかったらそれですべてオーケーじゃないかと思います。

 

ま、それでもこのウェザーの「ワッツ・ゴーイング・オン」はやっぱりイマイチかもしれないです。これを収録したアルバム『スポーティン・ライフ』はなかなかの充実作、傑作だと思っていますので、そのあたりは以前もくわしく書いたんですけど、またもう一回あらためて強調したいと思ってはいます。だって、『スポーティン・ライフ』って、ずっと無視されつづけているアルバムなんですもん。

2019/06/30

岩佐美咲坂本冬美

B4141637243044a4b1cefd98ebe8d7a8坂本冬美の ENKA シリーズ三枚のことを書きました。すべて有名演歌スタンダード曲のカヴァーなわけですから、若手演歌歌手わさみんこと岩佐美咲も歌っているものが多いのは当然のことでありますね。わさみんだけでなく、演歌歌手なら冬美の ENKA シリーズとレパートリーがダブるひとがほとんどでしょう。「舟唄」「津軽海峡・冬景色」「北の宿から」「おもいで酒」「石狩挽歌」「女のブルース」など、やっていない演歌歌手を見つけるほうがむずかしいかも。

 

そんなわけで、今日は冬美の ENKA シリーズで歌われている曲のうち、わさみんも歌っているものをピック・アップしてちょっと比較してみよう、それでふたりの持ち味の違いといったところを考えてみよう、それで冬美ちゃんにはなにも言うことなどないけれど、今後のわさみん向けのなにかにでもなる内容になればな、と思いキーボードを叩いています。

 

まず、冬美の ENKA シリーズにあるもののなかでわさみんも CD や DVD で歌っている曲を一覧にしておきます。冬美のアルバム発売収録順。

 

・石狩挽歌
・津軽海峡・冬景色
・越冬つばめ
・北の宿から
・女のブルース
・大阪ラプソディー
・空港
・火の国の女

 

やはり最新作『ENKA III 〜偲歌』収録のものが目立っていますが、でも総数ではあんがいすくないですね。いや、多いのか。わかりませんが、冬美の歌はどれも見事なものです。最近ずっと書いていますけど、近年の冬美の円熟といったら舌を巻くものですよ。おそろしいほどと言ってもいい。しかしおそろしいということばを使うなら、いま24歳のわさみんだってそうなんです。なんたってわさみんは歌の天才ですからね。デビュー期から完成されていました。

 

たとえば「越冬つばめ」。この曲なんか、わさみんヴァージョン(『リクエスト・カバーズ』収録)のほうが冬美のよりいいと思うんですね。冬美の ENKA シリーズとわさみんとの最大の違いは、冬美のほうはアレンジにかなりの工夫が凝らされているというところ。わさみんのカヴァーのばあいはいつもストレートに、だいたいのばあいオリジナルのアレンジを踏襲しているので、そこも大きな差異になってきますね。

 

「越冬つばめ」でもそうで、ぼくが聴くところ、わさみんヴァージョンの素直な伴奏のほうがこの曲の味をより活かすことにつながっているなと聴きます。歌手のヴォーカル表現法も、冬美はわざとグッと抑えた、大人のナイーヴさを出すことに腐心していますが、わさみんのほうはもともと持っている本能的ストレートさでそのまま歌っているのが好感度大です。

 

しかもわさみんの「越冬つばめ」が収録されている『リクエスト・カバーズ』はデビュー・アルバムなんですね。2013年のリリースでした。わさみんがいまの完成形に到達したのは、ぼくの見るところ2018年ごろからですから、その五年も前のリリースだったんです。歌手デビューが2012年ですからね。それなのにここまで歌えているなんて、ああ、天才…。こういったところは凡百の歌手がわさみんに太刀打ちできない部分です。冬美は平凡な歌手ではありませんが、それでもああ…。

 

わさみん側が素直でオリジナルに忠実なアレンジを採用することが多いのが結果的に功を奏しているのは、「越冬つばめ」だけでなく、ほかはたとえば「石狩挽歌」でもそうです。冬美ヴァージョンの「石狩挽歌」はちょっとアレンジこねくりすぎじゃないかと思うんですね。歌手の歌いかたも無表情にもっと淡々とやったほうがいい。それでこそ「石狩挽歌」という曲のフィーリングが伝わります。その点、わさみんヴァージョンは完璧で文句のつけようがないです。発売も2017年なので、完成に近づいていると言えます。

 

最初からかなり完成度が高かったわさみんであるとはいえ、しかしたとえば「津軽海峡・冬景色」なんかは物足りません。2013年の「もしも私が空に住んでいたら」のカップリングだったんですけど、う〜ん…、これは、まあアレンジもイマイチですがわさみんのヴォーカルがまだまだ幼いと言わざるをえません。逆に言えば、近年はグッと成長し声そのものにも色と艶が増すようになっているということです。そこから振り返れば、この「津軽海峡・冬景色」はまだまだですね。断然、冬美ヴァージョンに軍配が上がります。

 

同じ2013年のわさみんでも、「津軽海峡・冬景色」と「越冬つばめ」でこのような差がどうして生まれているのか、ちょっとじっくり考えてみないとわからないですね。それにぼくは当時のわさみんのことをなにも知りません。曲そのものがわさみん向きだったかどうかという相性の問題もあったと思います。同じ年の『リクエスト・カバーズ』にある「ブルー・ライト・ヨコハマ」なんかは見事な歌唱ですしね。

 

上でも書きましたが、冬美の ENKA シリーズ最大の特色は(ヴォーカルふくめ)アレンジの工夫なんですけど、結果的にそうとう見事なことになっているものがありますね。わさみんも歌っている「大阪ラプソディー」なんかもそうです。冬美のはどうしてこんなにチャーミングなのか。アレンジャー坂本昌之がすごいのか。わさみんがファースト・コンサートで歌った「女のブルース」もそうですね。冬美ヴァージョンはどっちも新作『ENKA III 〜偲歌』に収録されています。

 

「大阪ラプソディー」は、わさみんも歌唱イベントなど現場でくりかえしなんども歌っています。大阪が舞台になっている歌であるということで、ぼくもよく出かけていく大阪でのイベントでは本当によく歌われます。近年のわさみんヴァージョンは、やはり声そのものに成熟を感じる内容で、現場で聴いて、ため息が出るほど見事なものになっているんですね。

 

がしかし、アレンジが同じですよね。これはしょうがないことなんですけど、CD 収録などの際に作成されたカラオケをそのまま使いまわしているわけです。だからこそ、伴奏がずっと同じものであるからこそ、その上に乗るわさみんの歌唱技巧の上達がわかりやすい、伝わりやすいという面はあります。けれども、歌手がここまで大きく成長しているんだから、伴奏のオケもそろそろ歌手の成熟にあわせて新しくしてほしいという気分だってぼくにはあるんです。

 

わさみん現場でいくら聴いてもそんなふうには思いませんが、冬美の「大阪ラプソディー」その他を CD で聴いちゃったら、そのおもしろさ、魅力に降参し、振り返って、ああこれはわさみんも歌っているじゃないか、わさみんのもいいけれど、アレンジというか伴奏がそのままだからちょっぴり残念だなと思い至ったんですね。冬美ほどの実力の持ち主だからあんな斬新なアレンジでも歌いこなせるんであって…、と思われるかもしれませんが、歌手としての資質を考えたらわさみんのほうが新世代ですからね。

 

わさみんが歌い込んでいる曲の数々は、そろそろオケを録り直していただきたいと、斬新なおもしろいチャーミングなアレンジでやらせてみてもいいのではないかと、それが冬美の ENKA シリーズを聴いていてのぼくの率直な感想なんです。はっきり言えば、こんな斬新なアレンジを施してもらえる冬美がうらやましくてたまりません。わさみんのオケはずっと同じですから。いろんな問題というか制限があるんだろうなとは想像できますけれどもね。

 

また、冬美の ENKA シリーズにあってわさみんがいまだ歌っていないなかには、ちょっとわさみんに歌わせてみてほしいと思える曲がいくつもあります。『ENKA I 〜 情歌』にある「大阪しぐれ」(都はるみ)、『II 〜哀歌』にある「雨の慕情」(八代亜紀)、「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子)、『III 〜 偲歌』にある「ふりむけばヨコハマ」(マルシア)などがそうですね。

 

それらの曲は、ぼくの見るところ、いまの2019年のわさみんの資質にピッタリ似合います。間違いないと思います。冬美の ENKA シリーズ三枚トータルのプレイリストを以下に貼っておきますので、Spotify は一ヶ月15時間までなら無料で聴けますので、ぜひちょっと耳を傾けてみてください。わさみんが歌うに際しては、それら冬美ヴァージョンでアレンジャーをやっている坂本昌之さんにアドバイスいただけることでもあれば、望外の喜びです。坂本さんは本当にすごいアレンジャーです。
https://open.spotify.com/playlist/2ZtZnLHa9HU9XI0rGSTBwC?si=gYDKYfbRS8-6CVI1j7IQbw

 

冬美の ENKA シリーズについては、いままでにどんどん Black Beauty に書いてきていますので、ご興味を持たれたわさみんファンのみなさんはちょっと覗いてみてくださいね。

2019/06/29

アンナ・セットンとの出逢い

1007780197https://open.spotify.com/album/6WgABJKyrASDU4k0hDjin9?si=1gmYJigXSj6Y91TeWcmf-Q

 

bunboni さんにご紹介いただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15

 

ブラジルにアンナ・セットンという歌手がいるみたいです。どんなもんかな?とちょっと試聴だけするつもりで Spotify で聴きはじめたらチャーミングで、一気に最後まで聴いてしまいました。デビュー作なんでしょうか、趣味のいい2018年の『アンナ・セットン』がすっかりお気に入りになっているんですけど、これはたぶんジャズ・アルバムと呼んでいいはずです。バックの演奏がジャズなだけでなく、その上に乗るアンナのヴォーカルにもぼくはちょっとしたジャズっぽさを感じるんですね。

 

アルバム『アンナ・セットン』はまず出だし1曲目がすごく気持ちいい!もうこれ一発で全体の印象がいい方向に決まってしまうくらい快感ですよ。アルバムはたった33分間ですから、この好印象で最後まで駆け抜けることができるんですね。それにしてもいい曲ですねえ、トップの「Baião da Dora」って。演奏もアンナも気持ちいいです。ドラムスの音が出てアンナのスキャットが入ってきた瞬間に、こりゃあいい!って思いましたよ。

 

バックは基本ギター、ピアノ、ベース、ドラムスで、随時管楽器が入るといった程度。アンナのヴォーカルにもっぱら焦点があたっていて、ソフトで口あたりのよい声とサッパリした歌い口を際立たせる演奏と録音になっているのも好感度大です。アンナのフレイジングにはけっこうな技巧も感じられる繊細さで、このちょっぴりジャジーな良質のヴォーカル・アルバムをいい感じに仕上げていますよね。

 

おもしろいのは5曲目「ミーニャ・ヴォス、ミーニャ・ヴィーダ」(カエターノ・ヴェローゾ)と、ナット・キング・コールで有名な6曲目の「ネイチャー・ボーイ」。前者では最初から最後までやわらかいエレキ・ギターだけでの伴奏でふんわりと漂うようにアンナが歌い、後者ではにぎやかで派手にかざっています。

 

特に「ネイチャー・ボーイ」には着目したいですよね。この曲はそもそもナット・キング・コールのヴァージョンを聴いてもわかるようにやや不思議な動きのメロディを持っていて、ナットはそれを活かすべく手をくわえずにストレートに歌っていました。もとからちょっとエキゾティックなテイストを持った旋律の曲ですからね。

 

アンナらはそれをさらに拡大すべく、楽器伴奏で大幅なエキゾティック・ニュアンスを付与、ラテンなムード満点にアレンジしてあります。楽器演奏も、中間部のトランペット・ソロの背後でドラムスとパーカッションがにぎやかに刻んでいますし、アンナのヴォーカル・パートでもそれは強調されているんです。もとからやや不思議な曲である「ネイチャー・ボーイ」が、さらにいっそうミステリアスなヴェールをまとったかのようですねえ。

 

そのほか、アルバムのどの曲もていねいにアレンジされ演奏され、歌われていて、創り手サイドのヴォーカル・アルバムにとりくむデリケートな姿勢がうかがえて、実際、結果、こじんまりとしているけれど、いい手ごたえの良質なヴォーカル・アルバムができあがっていると言えますね。サウンド面では折々にエクスペリメンタルな要素もスパイス的に利いていて、なかなかおもしろいです。

 

ジャズと言ったけれどジャズじゃないかもしれないし、ブラジル女性ヴォーカル・ミュージック・ファンや、もっとひろく女性歌手ファンのみなさんには大きく推薦できる、趣味のいい好アルバムです。

2019/06/28

おいらのやることみなファンキー 〜 ルー・ドナルドスン

516lzid2dlhttps://open.spotify.com/album/4bonZNozN5B3PO7nXJ317E?si=O9swzWr9RjiC7fcN_ovJqQ

 

ぼくにとってルー・ドナルドスンとはバッパーというよりファンキーなソウル・ジャズのひと。『アリゲイター・ブーガルー』みたいなやつですね。そしてここにも一個くっさぁ〜いアルバムがあります。1970年リリースの『エヴリシング・アイ・プレイ・イズ・ファンキー』(ブルー・ノート)。スタンダード「虹の彼方に」もやっていますけど、アルバムの約38分間ほぼ全編がファンキー路線で、も〜う!気持ちいいったらありゃしません。

 

このアルバムは1969年8月(4、5曲目)と70年1月(1、2、3、6曲目)の二回のセッションでの収録曲で構成されているんですけど、バンド編成はどっちもホーン二管にギターやオルガンをくわえるという『アリゲイター・ブーガルー』路線。でも大きな違いもありまして、こっちにはフェンダー・ベースを弾くジミー・ルイスが参加しています。オルガン奏者がいながらにベーシストも入れるというのは、リズム重視の時代の要請ってことでしょう。実際、ジミー・ルイスのベース・プレイは、オルガニストがフット・ペダルを操作するのでは実現不可能な細かく精緻なファンキー・ラインを奏でていて、大成功していると言えます。

 

アルバム『エヴリシング・アイ・プレイ・イズ・ファンキー』の全六曲では、3曲目のスタンダード・バラード「虹の彼方に」を除く五つすべてがブルーズ(かその亜種)で、そのうちラスト6曲目「マイナー・バッシュ」が4/4拍子のストレートなジャズ・ビートなのを除けば、残りは8ビートのファンキー・グルーヴを持っているという、はっきり言って万々歳な作品なんですね。

 

オープナーの「エヴリシング・アイ・ゴナ・ドゥー・ビー・ファンキー(フロム・ナウ・オン)」は、まずルーをはじめとする面々の会話からはじまって、曲題そのままのことばをルーが歌いだしたら本編開幕。ブルー・ミッチェルとの二管でそのテーマを再演奏し、まずメルヴィン・スパークスのギターからソロ・パートに突入します。どのソロもファンキーで、いやあ愉快爽快万々歳。オルガンでビャビャッとやっているのは大好きなロニー・スミス。その後ふたたびヴォーカル・コーラス・パートも出ます。

 

こんな軽妙でユーモラスでもある「エヴリシング・アイ・ゴナ・ドゥー・ビー・ファンキー(フロム・ナウ・オン)」の曲と演奏で、このアルバム全体の色調が決定していますよね。このファンキー・オープナーを聴けば、そしてノレれば、アルバムの残りの部分も保障されたも同然です。実際、すばらしく見事なんです。

 

2曲目「ハンプズ・ハンプ」はゆったりテンポでシンコペイトしながら揺れるビートを持つグルーヴァー。やはりメルヴィン・スパークスのギター・ソロがカッコイイです。また全曲で肝を握っているドラマーはイドリス・ムハンマド。ルーのセッションでは、かの『アリゲイター・ブーガルー』でレオ・モリスとして叩いていたひとですね。ムスリムに改宗して名前が変わりました。

 

4曲目「ドンキー・ウォーク」は完璧なる「アリゲイター・ブーガルー」系で、たぶんその改作みたいなもんですよね。リズム・パターンはまったくの同一。しかし大きな違いもあって、「ドンキー・ウォーク」では各人のソロのあいだストップ・タイムが多用されていること。リズムが止まっているあいだになにを演奏するかが最大の聴きどころです。ルーがガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を、トランペットのエド・ウィリアムズが古いブルーズ・ソング「ワイ・ドント・ユー・ドゥー・ライト」を、それぞれ引用。イドリスのはたはたドラミングも快感です。

 

5曲目「ウェスト・インディアン・ダディ」。曲題どおり西インド諸島の音楽に言及したもので、カリプソ風味が強く感じられます。ジャズ楽曲のなかだとソニー・ロリンズの「セント・トーマス」にそっくりなリズム・パターンと言えましょう。しかもルーのこれはブルーズで、ファンキーでアーシーにくっさいっていう、なんともいえずたまらない心地よさなんですね。

 

いやあ、ホント、こんなソウル・ジャズこそ大好きです!

2019/06/27

坂本冬美の ENKA シリーズを考える

8f6abf0057d64a00a6dd892b0f838919https://open.spotify.com/playlist/2ZtZnLHa9HU9XI0rGSTBwC?si=_cZuM2w4TsqcmloJSlGq4A

 

2016年の『ENKA 〜情歌〜』にはじまった坂本冬美のこの ENKA シリーズ。2017年の『II 〜哀歌』、2018年の『III 〜偲歌』と一年一作のペースで発売され、まだ完結していないのかもしれないですが、トリロジーとなったところでいったん立ち止まり、このシリーズがいったいなんなのか、どんな世界を展開しているのか、ちょっと考えてみましょう。

 

冬美は1987年の「あばれ太鼓」でデビューしていますので、この ENKAシリーズは芸歴30周年をそろそろ迎えるからということでその記念として企画されたものかもしれません。レコード会社(ユニバーサル)からなのか事務所側から持ちかけたのか、はたまた冬美本人の発案だったのか、そのへんはわかりませんが、結果的にこのトリロジーは大成功だったといっていい充実度じゃないでしょうか。

 

歌手坂本冬美のキャリア全体から見ても代表作となるであろうこの ENKA シリーズ。三作トータルでの全33曲に、書き下ろしの新曲はありません。すべてが(セルフをふくめ)カヴァーなのです。なかには「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「越冬つばめ」(森昌子)、「愛燦燦」(美空ひばり)、「舟唄」「雨の慕情」(八代亜紀)、「大阪しぐれ」「北の宿から」(都はるみ)、「港町ブルース」(森進一)、「女のブルース」(藤圭子)、「空港」(テレサ・テン)といったような、日本歌謡史を代表する超名曲もあります。

 

こんな曲の数々をカヴァーするわけですから、制作側も歌手本人も気合が入ってリキんでしまうのではないかと思いきや、結果は正反対です。ふわっと軽く漂うかのようなサウンドとヴォーカルで、肩の力がちょうどいい具合に抜け、ディープな表現もできる力を持ちながらそれを抑え、あっさりめの味付けでさらりと冬美は歌いこなしています。伴奏陣というかアレンジャーたちもそんなふうに仕事をしていて、だからこれは企画段階からそのようなライトでポップな演歌世界を構築したい、それが大人の表現法だから、という意図があったんだなと受けとることができますね。

 

感情表現に抑制を効かせたライト・タッチな歌唱表現こそ、ENKA シリーズ三枚で冬美が展開しているものです。大人の女性が静かにたたずんで微笑みながらやさしくそっと語りかけているような、そんな世界ですよね。なかには、たとえば一枚目にある南郷達也アレンジのものや、二枚目にあるハード・ブラス・ロックな「帰ってこいよ」など、この路線からはみだしたド演歌に近いものもありますが、トータルでいえば例外として度外視してかまいません。トリロジー全体からすればプロデュース、アレンジと冬美の構築した音楽が奈辺にあるかは明白ですから。

 

ひとことにすれば、冬美の ENKA とは、演歌から激烈さを消し表現に抑制を効かせた世界。風のようにふんわり漂い香るアッサリ情緒。ほんのり軽いフィーリン、ファド、フラメンコなどラテン/ワールド・ミュージック・テイストで伴奏サウンドをくるむこと。リズムに軽快なシンコペイションを効かせノリよく歌わせること。そんな方向性に沿って伴奏やヴォーカルをアレンジし、歌手もさらっと歌うこと。

 

ENKA シリーズを一枚目から順にたどっていくと、そんなニュー冬美には、まず「大阪しぐれ」で出会えるなと思うんです。この「大阪しぐれ」はかなりいいですよねえ。ところでここでは冬美の声がまるで都はるみに聴こえるんですけど、どうなっているんでしょう?いちばんいいころのはるみが乗り移ったかのようですよ。似せているとかいう次元じゃなくて、なにかの共振現象じゃないでしょうか。すごいなあ、冬美。

 

この「大阪しぐれ」では坂本昌之のアレンジもなんともいえず見事です。エレキ・ギターの弦をミュートしてシングル・ノートでリフを演奏させていますが、それが実に効果的。リズムに軽いラテン・シンコペイションを効かせて、全体のサウンドも落ち着いて、派手さのないなかに繊細微妙なフィーリングをかもしだしています。上に乗る冬美のヴォーカルも、軽いはるみ調で軽快でノリがいいです。いやあ、見事。

 

三枚全体で見渡しても、この「大阪しぐれ」は出色の出来なんですが、一枚目の『情歌』全体ではまだすこし物足りないっていうか、ふんわり軽いフィーリン演歌みたいな境地にフルには到達していないかも。まだ激烈濃厚演歌テイストが強めに残っていますよね。ハードで濃ゆい演歌がよくないっていう意味じゃなくて、このシリーズ三枚全体を俯瞰すると、やや場違いかなと感じてしまうんです。

 

その点、シリーズ二作目の『哀歌』だと、軽快ライト・テイストな冬美 ENKA 世界が(ほぼ)フルに実現しているといっていい充実度ですよね。もうオープニングの「雨の慕情」でアクースティック・ギターとフルートのふわっとしたサウンドと、それに乗る抑制の効いたヴォーカルが聴こえてきただけで、それだけでもう降参です。ぼくは一回目にこの「雨の慕情」をちらっと聴いただけで、ああこのアルバムは傑作に違いない、冬美はこんな円熟の境地に達してしまったと、感嘆のためいきが出ましたね。

 

「骨まで愛して」なんかも、骨までだからがっつりディープに歌い込みたい歌だし、冬美にその実力もありますけど、そこを抑えて、つまり感情を激しく表出するのをこらえて、ぐっと自然体で構え、ふわっとソフトに歌っていますよね。こういった表現をこそ、大人になった、成熟した、言いかたがあれですが「枯れた」(いい意味で)と呼びたいです。

 

「アカシアの雨がやむとき」が ENKA シリーズ二枚目『哀歌』の白眉だと思うんですけど、どうでしょうこの世界!?も〜う、く〜〜ったまらん!じゃないですか。そのほか、この二枚目では「帰ってこいよ」を除くだいたいどの曲も抑制が効いていて感情表現がハードではなく、聴き手に心地よい印象を与えます。

 

一枚目『情歌』の「大阪しぐれ」、二枚目『哀歌』の「雨の慕情」「アカシアの雨がやむとき」に相当するのが、三枚目『偲歌』では「港町ブルース」や「大阪ラプソディー」「ふりむけばヨコハマ」などです。「望郷」もこのアルバムでは傑出してすばらしいですが、やや傾向が違っていますよね。シリーズ三枚トータルではっきり感じる音楽コンセプトからすれば、やはり「大阪ラプソディー」こそ最高の一曲ではないでしょうか。

 

ところで、ここまでぼくが激賞してきている曲のアレンジは、すべて坂本昌之がやっているんですけど、「大阪しぐれ」「雨の慕情」「アカシアの雨がやむとき」「大阪ラプソディー」などをまとめて聴けば、坂本アレンジの特定傾向を聴きとることができます。それはエレベとエレキ・ギターの単音弾きとドラムスの三者をユニゾン・シンクロさせて、それに軽いラテン・シンコペイションを効かせてフックとし、その上にメリハリの効いた管弦楽をふわっと乗せ、冬美にもリズミカルかつ軽快にやわらかく歌わせるというものです。

 

そんなふうにつくられた冬美の ENKA ワールド。今後さらに四作目、五作目と続いていくのかどうかわかりませんが、ある種の頂点に冬美がいま立っているというのは間違いありません。歌手として、(歌世界のなかでの)女として、人間として、最高度に円熟した坂本冬美のふわっと軽いフィーリン演歌みたいな世界は、聴いて快感で、聴き終えての後口もサラリ爽やか。いやあ、すごい高みに到達したもんです。

 

以下は、三枚から特にすぐれていると判断したものだけを順番に並べたベスト・セレクションです。
https://open.spotify.com/playlist/4QQsmZVXDK2HtrgVJpfKuy?si=cPXovjffR3Se7BXkAFytSw

2019/06/26

冬美の円熟 〜『ENKA III 〜 偲歌』

61ip8r6ebilhttps://open.spotify.com/album/4N1LO6cSf23N1eiYRWcBOY?si=C36YXE-PTB2M9c3KXB0W2w

 

昨2018年12月にリリースされた坂本冬美の最新アルバム『ENKA III 〜 偲歌』は、猪俣公章生誕80周年記念と銘打たれていて、収録の10曲はすべて猪俣が作曲したものです。冬美にとっては師でもあるわけですから、やはり猪俣トリビュートという側面も強い作品でしょう。同じく猪俣の弟子であるマルシアがゲスト参加していることからもそれは読みとれます。

 

そんな冬美と妹弟子マルシアとのデュオで歌われる「大阪ラプソディー」、かなりおもしろいんじゃないでしょうか。個人的にはこのアルバム『ENKA III』での最大のお気に入りがこれです。なにがいいって、リズムですよね。アレンジャーはこのシリーズ通例でやはり坂本昌之ですが、ベースとエレキ・ギターとドラムス、そしてここではストリングスも一体となって、この軽いラテン風味の香るリズム・テイストを奏でているのが楽しいです。ふたりのヴォーカルもノリがいいですしね。

 

特に一番の歌詞で「御堂筋は恋の道」の「御堂筋」パート、二番なら「どこも好きよ二人なら」の「どこも」パートでストップ・タイムが活用されていますが、もうそこがたまらなく好きなんです。ストップ・タイム部では特にストリングスがシャッ!シャッ!と切るように演奏して効果を出しているのが印象的。坂本のペンの冴えを感じますね。

 

こんなほんのり軽いラテン香のただようライトなポップ演歌が、前作『ENKA II 〜哀歌〜』とも共通するフィーリンですから、『ENKA III』でも主流だと言えましょう。「港町ブルース」「女のブルース」「ふりむけばヨコハマ」など。また、しっとり系ですが「空港」「君こそわが命」も同じ路線に乗っているとしていいかもしれません。

 

なかでもマルシアのデビュー・ヒットだった「ふりむけばヨコハマ」なんかも出来がいいです。猪俣の弟子のマルシアの代表曲なわけで、それを姉弟子冬美がとりあげてこんなふうにしっとりと歌いこなしてみせれば、この猪俣ワールドにぼくらは降参するしかありません。「ふ、り、む、け、ば、ヨコハマ〜」とリフレインされるところで感極まってしまいます。

 

それにしても、冬美のヴォーカル表現の成熟・円熟といったらどうでしょう。ここまで軽くフワリと、ディープな情緒表出を抑え、軽く自然体で、しかしそれだからこそかえって大人の女としての切なさ・哀しみをこれでもかと感じさせるようなさりげなさ 〜 こういった視点で聴けば、いまの冬美ほどに歌える歌手は日本にいないのでは?と思えるほどのすばらしさ。聴けば聴くほどその世界のトリコとなってしまう味を持っていますよね。

 

そこまでの円熟した冬美が『ENKA III』で聴かせる寂寥は、坂本ではなく若草 恵がアレンジした二曲「ふたりの旅路」「望郷」でこそいっそうの極みにあると聴こえます。しかもアルバム中この二曲でだけポルトガル・ギターが、それも複数台使用されていて、若草のアレンジともあいまって、まるでファド演歌とでもいうべき独自の境地に達しているんです。

 

(複数台の)ポルトガル・ギターをうまく活用したファド演歌ふうな世界は、それら二曲のそれぞれ全体で表現されているわけではありません。主に前奏・間奏・終奏部ではっきりわかるといった程度です。しかし本場ポルトガルのファド歌手がそうであるように、ここでの冬美は二曲の全体で強い哀愁と寂寥をこれでもかと、しかし表面的にはサラリとあっさりオブラートに包んで、ぼくら聴き手の心に忍ばせてくれるんですね。

 

孤独、寂寥、哀愁を漂わすファドの世界を、アレンジャーの若草と歌手の冬美は、猪俣の楽曲を使いこなして表現し、いままで演歌の世界ではだれも到達したことのない世界を聴かせてくれているという気がします。「望郷」なんかあまりにも切なすぎて、歌詞が身に沁みすぎて、声のかすれかた一つ一つにまで命がこもっていて、もう聴くたびに落涙をくりかえすばかり。もうなんなんですかこの冬美ワールドは。

2019/06/25

エディ・パルミエリのフォルティシモ 〜『フル・サークル』

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フル・サークルとは、この2018年作にふさわしいアルバム題ですね。まさにフルもフル、こんな満々のサルサ・グルーヴはいまどきなかなかないかもしれません。80歳のエディ・パルミエリにしかなしえなかった作品だったんですね。まさしくフォルティシモな音楽が全編にわたって繰り広げられています。このみなぎるエネルギー感、それがフォルテ、いや、フォルティシモだなと思うわけです。

 

アルバム『フル・サークル』はエディ・パルミエリがストレート・サルサに回帰した作品ですけど、サルサってこんな音楽でしたっけねえ。悪くいうと一本調子で緩急がない。ぐいぐいと大音量で押しまくるばかりで、一時間にわたってこの調子だから、聴いているほうはちょっと…、と引いてしまうばあいだってあるかも。音量が小さく控えめになる時間がないんですもんねえ。

 

でも、いま2019年にもはや時代遅れかもしれないそんなフォルティシモ一辺倒音楽を世に問うたエディ・パルミエリの、なんというかやりたかったこととは、時代遅れになったサルサ・ミュージックの押し一辺倒な大音量パワーを取り戻し、生命力を高らかにうたいあげるところにあったのかもしれません。御大も80歳ということで、いま、まだまだ自分は健在なんだぜと胸を張っているような、そんな宣言なのかもしれませんね。

 

エディの『フル・サークル』では、打楽器隊も管楽器隊も、エディの弾くピアノも、トレスも、ヴォーカル陣も、みんな目一杯にまで音を出して、限界まで音量を上げて、ずーっと最大音量を維持しつつパワーを見せつけて、押し切ろうとしている、しかも隙間なくびっしり音が敷きつめられている、そんな音楽です。ベテラン連中の、老いてますます盛ん的なマチスモを感じますね。良くも悪しくも。

 

それにしても、一時間、やっかましい音楽です(笑)。

2019/06/24

ジミー・ブラントンは23歳で、クリフォード・ブラウンは25歳で亡くなった

Jimmy_blanton Clifford_brown「まだハタチの女性だというのだから、驚かされます」…、って、なんでカタカナなのかもわかりませんけど、もっとわからないのは年齢と音楽的成熟とを結合させるこのかたの発想です。いままでもずっとそうなんですけど、若いけど音楽的に成熟していることに驚き、歳とっているのに音楽が若ければこれまた驚き、ってそんないつもいつも驚いてばかりいるもんだから、事実、実年齢と音楽は無関係であることを裏返しに証明しているようなもんですよ。

 

音楽の世界で、若くして、そうですねたとえば十代前半ごろで立派な歌を、演奏を、特に歌かな、聴かせるというケースは枚挙にいとまがないじゃないですか。美空ひばりもリトル・エスター(エスター・フィリップス)も鄧麗君もそんな年齢でレコード・デビューしていて、しかも当初から完成されていました。立派な大人の歌を(大人顔負けとかではない)聴かせていたと思うんですね。

 

楽器奏者でも十代でのデビュー時から円熟していたひとは多いです。ジャズ・トランペット奏者リー・モーガンは18歳でプロ・デビューしています。表題にしましたがデューク・エリントン楽団のベース奏者ジミー・ブラントンも、モダン・ジャズ・トランペッターのクリフォード・ブラウンも若年で成熟。亡くなったときに20代前半だったんですからね。その時点で彼らの演奏は完璧でした。

 

音楽的感性はしばしば十代で養われ、しかも完成することが多いですし、それは才能や本能といった部分だけでなく、鍛錬がその時期に集中的になされるからでもありましょう。それでメキメキ腕をあげ、歌手として楽器奏者として、二十歳を迎えたといったあたりの年齢でも完成するケースがいままでの音楽史で実に多いことをみなさんご存知のはずです。意地悪なことを言えば、その後は落ちていく一方なんていうひともいますけど。

 

もちろん生物学的な年齢を重ねるに連れ、音楽も充実度を増していくひとも多いですよね。実人生での経験の積み重ねが音楽にも反映されて、熟成度を増すんですよね。でもそれを音楽の世界における一般法則だなどととらえてはなりません。そういうケースもあればそうじゃないケース、すなわち若くして熟した深みのある音楽を実現できる存在もいるという、それだけのことなんで。

 

だから若くして熟した才能に出会っても、それでいちいち驚いていてはキリないですよ。歴史が証明しているようにそういう存在は音楽の世界ではわりと一般的ですから、決して例外だとか稀な天才だとかいうわけじゃないです。ごくふつうのことなんで、そういうひともいるんだな、またしても出会ったな、とふつうに受け止めれていればいいだけじゃないでしょうか。

 

ともあれ、音楽、スポーツ競技、数学。この三分野は十代で大きく花開くことのできるものなんです。そんなケースがあまりにも多いわけなんでごく一般的なことで、だから二十歳なんていったら(アイドル界じゃないけど)もう年寄り、そろそろ引退だと言われちゃいますよ。実際そうなったひとも多いですしね。

2019/06/23

男歌・女歌(二回目 with わさみん)

Img_8481一回目はこれ → http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-c90d.html

 

このリンク先の2016年9月付の記事以上の知見は持ち合わせていないのでくりかえしになりますが、二回目を書いておかなくちゃなと思うことが最近なんどかありました。

 

日本の演歌や歌謡曲や J-POP や、要するに大衆歌謡の世界に(男性が/女性が歌うべき)男性曲/女性曲といったものはありません。こういうことばをお使いになるかたがたの文章を拝見していると、男性歌手の曲を女性が歌ったりその逆だったりするのはイマイチなのだ、ちょっと遠慮したいのである、というご気分がおありだとお見受けします。でも、そんなことはないんですよね。

 

たとえば女性歌手が男性の持ち歌をやるのは、なんら不思議なことではありません。その逆も然り。歌詞内容が、男性が歌うような内容で男心を扱ったものでことばづかいも男ことばで、といった曲でも、女性歌手はどんどん歌っていますよね。それが<男歌>というもので、日本の歌の世界ではあたりまえのことなんですね。逆に男性歌手が女ことばで女心を歌ったものは<女歌>と呼び、それらどっちもごくごくふつうのことで、違和感はありません。

 

ちょっとそれぞれ具体例をあげておきましょう。上の過去記事とダブるばあいはご容赦ください。八代亜紀の「舟唄」。これは男歌ですね。歌詞内容も男ことばで男の心情をつづったものですが、女性である八代はなんの問題もなく歌いこなし、説得力のあるすばらしい歌唱を聴かせています。
https://www.youtube.com/watch?v=2kOQfc1FswE

 

わさみんこと岩佐美咲も歌った、川中美幸の「ふたり酒」も男歌ですよね。完璧な男口調じゃないですか。これをおかしいなどという演歌ファンはいないわけです。もっとも、このままアメリカなどへ持っていったら奇妙であると言われること必定ですけどね。日本ではまったくふつうです。
https://www.youtube.com/watch?v=8wUHmhgubks

 

わさみんの名前を出しましたので、彼女がカヴァーした女歌の例をあげておきましょう。森進一の「北の螢」がそうです。森は男性でありながら、女性の立場に立って女ことばで女性の(男性に対する)心情を切々とつづっています。これを聴いて、キモチワルイ〜などと感じる日本人演歌ファンはほとんどいないはずです。
https://www.youtube.com/watch?v=IoNdfSU4DyU

 

わさみんもギター弾き語りライヴで歌った「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)なんかは、一曲の歌詞のなかで男の立場と女の立場がどんどん入れ替わりますよね。A メロ部は男性心情を男ことばで歌っていますが、サビになると突然女性になります。男女の対話形式で毎コーラスが進むんです。こういうのは例外かもしれませんが、太田裕美もわさみんも、男になったり女になったりして、一曲のなかで自在に歌い分けているんですね。
https://www.youtube.com/watch?v=_qzIG2SK3eI

 

男性曲/女性曲などとおっしゃるかたは、ぼくがここまで述べたようなことではなく、たんにオリジナル歌手が男性だから/女性だから、異性の歌手がカヴァーするのはどうかと思うといったニュアンスなのかもしれないですね。だから内容は男歌だけど八代亜紀の「舟歌」を同じ女性のわさみんが歌うのはべつに問題なく、いっぽう歌詞内容は男性/女性どっちでも OK なものだけど西田敏行の歌った曲をわさみんがやるのにはやや違和感があるとか、そういうことでしょうか。

 

しかし、わさみんは上でもあげましたように森進一の女歌や川中美幸の男歌を歌って見事な結果を示していますよね。いや、それは男性歌手がやったものでも女歌(女性心情)だから違和感が小さいということなのでしょうか。男歌(男性心情)でも川中美幸は女性歌手だからわさみんが歌っても違和感なしとかですか。う〜ん、それはちょっとどうなのでしょう。歌詞が男性内容/女性内容であるかどうかには関係なくどっちの性別の歌手でも歌えるのが日本歌謡の特徴なのですから、オリジナル歌手の性別いかんにこだわりすぎないほうがいいのではないでしょうか。

 

音楽だけじゃなく、一般に芸能・芸術表現の世界では、性別はしばしばクロスします。超えていくんです。このことは日本人であれば皮膚感覚で理解できていることじゃないでしょうか。歌舞伎の伝統がありますし、近代以後なら宝塚もあります。男性役者が女形を演じたり、女性が男役をやったりして、違和感がないわけですからね。それはたんに役割分担であるとぼくらもわかっているからでしょう。同性愛者だから、なんてわけではないと知っています。

 

演歌や歌謡曲の世界でも同じなんですよね。性別というか、歌詞内容の、または初演歌手の、性差にとらわれて、こっちの(同一)性別じゃないと歌えないとは、ぼくら日本人はふつう考えませんし、実際、歌手のみなさんも性別を超えてどんどんカヴァーなさっているというのが事実です。よくご存知でしょう。日本の歌の世界とはそういうものなんですね。

 

わさみんこと岩佐美咲には、だから女歌でも男歌でも、オリジナル歌手が男性でも女性でも、どんどんとりあげてカヴァーしてほしいなとぼくは思っています。なんでも歌いこなせる実力が身についてきているから、というのもあるんですけど、それ以上にもとからそういう世界なんです。わさみんもその世界に身を置いている、つまり伝統の一端を担っているんですから。

 

ぼくらファンもそれをちゃんと理解した上で、わさみんになにを歌ってほしいかは(性別関係なしで)柔軟に考えていったほうがいいんじゃないでしょうかヾ(๑╹◡╹)ノ。

2019/06/22

ルーカス・ネルスンの新作が心地いい

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https://open.spotify.com/album/4pq1gNWh38JQfazZqxjH5m?si=UWXQNhTRQMGfVj_4gRyTlg

 

このアルバムが出たのは萩原健太さんに教えていただきました。
https://kenta45rpm.com/2019/06/19/turn-off-the-news-lukas-nelson/

 

大御所ウィリー・ネルスンの息子ルーカスは、現在ちょうど30歳。バンド、プロミス・オヴ・ザ・リアルを率いていますが、もう知名度があるんじゃないでしょうか。最近ならなんといってもあの大ヒット映画『アリー/スター誕生』の音楽にかかわっただけでなく、画面にも登場しました。2015年来ニール・ヤングのサポート・バンドを続けていますし、そのアルバムだって数枚あります。

 

父ウィリーがカントリー・ミュージック界の存在なのに対し、屈折していない奔放な二世ルーカスの音楽性はもっと幅広く、カントリー・ベースのルーツ・ロッカーというべきでしょうね。プロミス・オヴ・ザ・リアルはインディ・レーベルでいくつもアルバムをリリースしていましたが、メイジャーのコンコードに移籍してからは、今2019年の『ターン・オフ・ザ・ニューズ(ビルド・ア・ガーデン)』が二作目になります。

 

その最新作『ターン・オフ・ザ・ニューズ』がとってもいいんですよ。大収穫じゃないでしょうか。まず出だし1曲目「バッド・ケース」でトラヴェリング・ウィルベリーズ風味全開なんだから、もうそれでぼくなんかは心奪われてしまいます。いやあ、見事というしかない。なんなんですかこれは。ルーカス・ネルスンってこんなにも気持ちのいいロッカーなんでしたっけ。すばらしいのひとこと。この一曲を、しかも冒頭部を、聴いただけで、アルバムが良品とわかるツカミですね。

 

ジェフ・リン、ボブ・ディラン、ジョージ・ハリスンらのトラヴェリング・ウィルベリーズが、そもそも1980年代末にあってのロックンロール・ルーツ復興だったわけですけど、ルーカス・ネルスンは2019年になってそこにベースを置くことで、それをジャンプの土台にして、いわばダブル・プロセスを経てのルーツ・ロック視線を獲得しているのだと言えます。こういうと込み入ってそうですが、できあがりの音は素直でストレートですね。

 

アルバム『ターン・オフ・ザ・ニューズ』2曲目のタイトル曲もトラヴェリング・ウィルベリーズ路線ですが、3曲目はロイ・オービスンへのストレート・オマージュみたいなメロディ・ラインを持っていて、それもトラヴェリング・ウィルベリーズの一作目にありましたから、ここまでが明確なルーツ・ロック志向、先輩への敬意表明と言えます。あ、そういえば父ウィリーはそんな世代ですよねえ。じゃあルーカスのこんな音楽は父親礼賛でもあるんでしょうか。

 

端的に言って、こういうのをアメリカン・ロックの王道まっしぐらな良心的作品、若き教科書と呼びたいルーカス・ネルスンの『ターン・オフ・ザ・ニューズ』は、ライヴ一発録り感も強いんです。実際、聴いた感じ、オーヴァー・ダビングは極力おさえられているに違いありません。五人編成のバンド・レギュラーと若干名のゲスト参加ミュージシャンによるスタジオでの同時演奏を生収録し、あまり加工せず、そのままパッケージングしただろうと推察できる音響ですよね。ルーツ・ロック志向とあいまっての同一基軸上にある録音技法で、好感が持てます。

 

アルバム4曲目以後は、これもロックの根底にあるラテン・テイスト、すなわちリズム・シンコペイションを活用した曲も増えています。それを、往時のイーグルズ的なカントリー・ロック・サウンドのなかにうまく溶け込ませているといった印象なんですね。西海岸的ルーツ・ロックのなかにラテン要素が不可分のものとして一体化しているのは、土地柄を考えたら納得ですよね。

 

それでも父ウィリーが参加している7曲目「ミステリー」はストレートなカントリー・ナンバーかなと思うんですけど、4「セイヴ・ア・リトル・ハートエイク」はソウルフル、8「シンプル・ライフ」はラテンでファンキーですし、またその「シンプル・ライフ」後半のギター・ソロ・インスト部はややジャム・バンドっぽくもあります。9曲目「アウト・イン・LA」の冒頭はチープなビート・ボックスのサウンドではじまったりして、歌が出たらやっぱりラテンなリズム・フックが効いているし、ギター・ソロも光っていて、かなりおもしろいですねえ。

 

その後、(ブルーズ・ベースの)ハード・ロックでちょっぴりサイケデリック風味もある(つまりはあのころのあれ)10曲目「サムシング・リアル」を経て、アルバム一枚目ラストの11「スターズ・メイド・オヴ・ユー」は明快な1960年代ふうポップ・チューン。ギター・ソロはドリーミーです。カントリーでもロックでもなさそうなこれで(実質的に)アルバムは幕締めとなるんですね。

 

ルーカス・ネルスンの新作『ターン・オフ・ザ・ニューズ』、多くの曲でリズムに跳ねるひねりが効いていて、それがラテン・シンコペイションに聴こえるというのはぼくの嗜好ゆえかもしれません。でも王道アメリカン・カントリー・ロックのなかにも、それが<アメリカ>音楽である以上はラテン・テイストから逃れることなどできない、むしろ効果的な有機体として活用しているなあと、このアルバムを聴いても思うんですね。

 

この快作、アマゾンで見てみますと、どうやら日本盤もリリースされるみたいです。現在予約受付中となっていますから。いつごろのリリースになるんでしょう。これで、日本の音楽好きのみなさんのあいだでも、このアメリカン・ロックの良心のかたまりみたいな若者の気持ちいい音楽が人気になるといいなあと思います。

 

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2019/06/21

ミスター・サンバ 〜 シロ・モンテイロ

Unknown_20190620133201http://elsurrecords.com/2018/04/13/ciro-monteiro-a-bossa-de-sempre-2/

 

サンバというかブラジル音楽シーンは1940年ごろを境に変化しました。40年はカルメン・ミランダがアメリカ合衆国に渡った年で、その前、36年にマリオ・レイスが引退、37年にノエール・ローザが亡くなって、38年には若きルイス・バルボーザまでもこの世のひとではなくなってしまったんですから。大きな転換点というかピンチだったと言えるのではないでしょうか。

 

オフィス・サンビーニャ盤『永遠のボッサ』(2002)が編まれているシロ・モンテイロが活躍したのは、ちょうどそんなピンチの時期。デビューは1930年代末ですが、全盛期はやはり40年代前半だったと見ていいはずです。たぶん1942〜44年ごろじゃないですか、シロがいちばんよかったのは。

 

そんなことが、『永遠のボッサ』を聴いているとわかります。ちょうど14曲目「ラランジェイラのボタン」(Botoes De Laranjeira、1942年)のへんから歌がグッとよくなって、19曲目「黒人のサンビスタ」(Crioulo Sambista、1944年)まで続きます。その後は大編成オーケストラの伴奏をしたがえてのものになりますが、シロ特有の軽妙さ、サンバ・ジ・ボッサの感覚がやや薄れているかなという気がしないでもないです。

 

14〜19曲目の六曲のなかには、たとえば「偽りのバイーア女」(Falsa Baiana)のような大傑作があったり、「キスしてちょうだい!」(Beija-Me)も楽しいし、ユーモラスでファンキーなサンバの男性歌手ナンバー・ワンと言われただけのことはあるなとよくわかりますよね。女性のそれがカルメン・ミランダなら男性はシロ・モンテイロで決まりでしょう。

 

「偽りのバイーア女」https://www.youtube.com/watch?v=aKhPbVlw1UY
「キスしてちょうだい!」https://www.youtube.com/watch?v=QFTeg9GL0E4

 

カルメンやシロらのサンバは、軽妙洒脱で、カーニヴァル・サンバの現場とは必ずしもかかわりあわず、歌謡としてのサンバに重点を置いたようなものでした。1930年代後半からのサンバ・ショーロ、すなわち歌謡サンバのなかにショーロ感覚を活かしたようなものの流れをくむもので、実際バック・バンドはショーロのコンジュントがよくやりました。

 

男性サンバ歌手としては、マリオ・レイス、ルイス・バルボーザ、そしてシロ・モンテイロといった流れはそんな路線の代表的系譜だったと言えるはずです。もちろんフランシスコ・アルヴィス、オルランド・シルヴァ、ネルソン・ゴンザルヴィスといった流れもあって対照的ですけれど、個人的にはシロをこそミスター・サンバと呼びたいですね。

2019/06/20

ラテンなイージー・リスニングで暑い日の息抜きや〜『トロピカル・スウィンギン』

51g2tnn2zal_sy355_http://elsurrecords.com/2018/08/25/v-a-tropical-swingin-60s-guitar-sounds-from-cuba%e3%80%80/

 

昨2018年、雑誌『ギター・マガジン』との連動で発売されたコンピレイション CD アルバム『トロピカル・スウィンギン:60s ギター・サウンズ・フロム・キューバ』。雑誌の特集もチョ〜おもしろかったですよねえ。ギター雑誌の企画ということで、もちろんギター、それもエレキ・ギターのことにフォーカスが当たっているわけですけど、CD のほうの聴きかたは自由ですからね〜。ぼく自身この CD で 必ずしもギターばかり聴いているわけじゃないのです。

 

『ギター・マガジン』2018年9月号の特集があまりにも充実していて、はっきり言ってなにもかもぜんぶ書いてあるもんですから、そのまま読んで聴いていればいいので、っていうのもありますが(未読のかたには強くオススメします!)、それ以上にいつもながらぼくは演奏全体を聴いています。ソロ演奏でもないかぎり、だいたい、なにか特定の楽器にだけ集中して聴くというのがあまりない人間なんですね。

 

そのばあい、『トロピカル・スウィンギン』をただだらっと部屋で流していると、エレキ・ギターのサウンドもさることながら、1960年代のキューバン・ミュージックが BGM としていい感じに聴こえてきます。そのなかにはマンボっぽいものもあればデスカルガもあり、たまにけっこうジャジーだったり、ジャイヴィだったりもしますし、またサルサの先駆けみたいな要素だって聴きとれますね。

 

このアルバムのなかでいちばん好きなのは、ラストの「イパネマの娘」なんですが、特にヴァイブラフォンの使いかたが好きなんです。ピアノとの合奏でおもしろくフェイクされたテーマを演奏する部分がなかでもお気に入り。ボサ・ノーヴァっぽくリム・ショットを多用する(といってもこの演奏はボサ・ノーヴァにはぜんぜん聴こえない)ドラマーの叩きかたもグッドじゃないですか。ギター・ソロもありますけど、それだけじゃなく一曲全体を聴いて好きだなあって感じているわけです。

 

ほかの曲もそうで、アルバム全体でどの演奏もだいたいとんがらずスムースでなめらかな音楽になっていて、しかもラテン(キューバ)・ミュージックらしい強い官能性はなし。アピールしすぎず、あくまでどこまでも耳ざわりよく、雰囲気重視で、格好のムードをつくりあげてくれていると思いますよ。そう、ぼくにとって『トロピカル・スウィンギン』はちょうどいい夏の部屋のムード・ミュージック、BGM、あるいはイージー・リスニングなんですね。映画のサウンドトラック的と言ってもいいかも。そんな一枚として、昨夏来ときどきかけてはくつろいでいるわけなんです。

2019/06/19

自作自演のビートルズ『ア・ハード・デイズ・ナイト』

0000520_beatles_calendar_2014_a_hard_dayhttps://open.spotify.com/album/6wCttLq0ADzkPgtRnUihLV?si=y-iX63UjQqS18Sc71FStOg

 

初期はカヴァー・ソングも多かったビートルズですけど、アルバムの三作目『ア・ハード・デイズ・ナイト』(1964)で初の全編自作曲となりました。ビートルズの一般的なイメージは、やはり有名オリジナル楽曲でできあがっていると思うんですが、このアルバムがはじめてだったんですね。といってもこの次の『ビートルズ・フォー・セール』にもその次の『ヘルプ!』にもロックンロール・カヴァーが数曲あります。でも『ア・ハード・デイズ・ナイト』で新たなソングライティング領域に踏み出したと言えるはずですね。

 

アルバムの13曲すべてがレノン・マッカートニー・コンビの自作曲である『ア・ハード・デイズ・ナイト』における曲づくり上の特色は、このソングライター・コンビがまだ名目だけのものじゃなく実体機能しているというところ。そしてそれだけじゃなく、このアルバム以前と比較して、曲づくりの著しい成長を聴きとることができるというところ。さらに、ラテン音楽要素が強く感じられるというところ。この三つをもってこのアルバムの色が決まっています。

 

『ア・ハード・デイズ・ナイト』にはジョンとポールのツイン・リード・ヴォーカルの曲が三つもあります。1「ア・ハード・デイズ・ナイト」、3「イフ・アイ・フェル」、13「アイル・ビー・バック」。このうち1と3は特筆すべきソングライティングとできぐあいです。

 

1「ア・ハード・デイズ・ナイト」は A メロ部をジョンが歌い、サビはポールという構成。その入れ替わり具合も絶妙ですし、ツイン・リードといい二名の声の違いの活かしかたといい、レノン・マッカートニーのコンビ二名で練った曲づくりだとよくわかります。名義だけそのままに単独で曲を書くことばかりになっていくレノン・マッカートニーですが、この時点ではまだ実質的なコンビでした。なお、この曲でもリンゴがボンゴを叩いていますよね。地味で目立たないですけれども。

 

3「イフ・アイ・フェル」はとても美しいメロディを持っています。しかもこのきれいな旋律にはリードがありません。終始ジョンとポールのハーモニーで進み、どっちが歌っているのも主旋律ではありません。主旋律がないんですよねこの曲には。ジョンとポールはどっちもリードじゃありませんしどっちもサイドじゃありません。二名が同じ比率でこのハーモニー・ヴォーカル・ナンバーを歌っているわけなんです。こんな曲はほかにたぶんないかも。ふつうメイン・パートがあるでしょ。これもタッグで考えた曲づくりに違いないとわかります。

 

そんな「イフ・アイ・フェル」みたいなのは例外的な美ですけど、ふつうのヴォーカル・ハーモニーならこのアルバムでどんどんたくさん聴けます。実はそんな部分も後年どんどん減っていくことになり、デビュー期は三声ハーモニーの美しさが売りだったバンドなのに、それがなくなっていきます。そういう点でふりかえっても、『ア・ハード・デイズ・ナイト』は一つのピークだったかも。

 

ハーモニーはどんどん聴けるので、このアルバムにあるラテン傾向曲でももちろん聴けます。といってもなかにはひとりで歌ってテープ操作でダブル・トラックング処理を施しただけの重層ヴォーカルもありますけど。たとえば4曲目の「アイム・ハッピー・ジャスト・トゥ・ダンス・ウィズ・ユー」はジョージが歌っていますが、この曲のことがぼくはなぜだかすごく好き。たぶん、ギター・カッティングのしゃくりあげるようなリズムにラテン・テイストを感じとっているからですね。いやあ、チャーミングな曲です。

 

ラテンといえば、続く5曲目「アンド・アイ・ラヴ・ハー」の官能はまさしくラテンのそれですよ。曲想もリズムもサウンドもラテン音楽。リンゴはドラムスを叩かずボンゴとクラベスだけ。ジョージがナイロン弦のクラシック・ギターを弾き、ポールをリードとする四人が夜の妖しい世界をうまく表現しています。これはすばらしい曲ですねえ。ロックっぽさは皆無じゃないですか。

 

そのほか、10「シングズ・ウィ・セッド・トゥデイ」、11「ウェン・アイ・ガット・ホーム」、12「ユー・キャント・ドゥー・ザット」、13「アイル・ビー・バック」にも、そこはかとなきラテン・ミュージック・テイストを感じているぼく。「アンド・アイ・ラヴ・ハー」みたいのは意識してラテン・ソングを書いたわけですが、それ以外はビートルズみたいなポップス/ロックのグループの音楽のなかにも、生命力の強いラテン性が知らないうちにしのびこんでいるということだろうと思います。

 

その上、アルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』では、レノン・マッカートニーのソングライター・コンビが名目だけでなく実体としてフル機能して充実していた時期の傑作ですから、意識するにせよしないにせよ、ラテンな音楽要素がうまく溶け込んで、みずからの音楽の一要素としていい感じに活かせたということでしょうかね。

2019/06/18

アメリゴ・ギャザウェイがリミックスしたマイルズ「ラバーバンド・オヴ・ライフ」がカッコイイ

180315_miles_rsd_rubberbandhttps://open.spotify.com/album/4iHtBFo4si4ke896dw2yHJ?si=f0JtSy_uQb6vxpspcthV2Q

 

今日の文章はいままでに書いたこれらの記事を下敷きにしています。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-b4d9.html
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c5c347.html

 

マイルズ・デイヴィスの『ラバーバンド』フル・アルバムのリリースが公式発表されましたので、2018年11月末のデジタル配信『ラバーバンド EP』にはあったのに漏れるものについて、この際ちょっとメモしておきます。上のアルバム5トラック目の「ラバーランド・オヴ・ライフ(アメリゴ・ギャザウェイ・リミックス)」のこと。これは2019年9月6日リリース予定のフル・アルバムには含まれず、また2018年4月に出たアナログ12インチ EP レコードにもありませんでしたから、いまのところ、あるいは今後も?フィジカルなし、配信かダウンロード限定でしか聴けないものです。

 

しかしながら、そのアメリゴ・ギャザウェイがリミックスした「ラバーバンド・オヴ・ライフ」が超クールじゃないですか〜。なんともいえずカッコイイ。ぼくは大好きなんです。配信アルバム『ラバーバンド EP』の計5トラックのなかでこれがいちばんイイと思っているんですけどね。アメリゴ・ギャザウェイの名はマイルズ・ファンにはなじみが薄いでしょうけど無名人じゃないので、ご存知なかったらちょっとネット検索してみてください。

 

配信『ラバーバンド EP』とリリース予定のフル・アルバム『ラバーバンド』(の予告内容)を比較してみますと、前者にあって後者にも収録されるのは、前者2トラック目の「ラバーバンド・オヴ・ライフ(Feat. レディシ)」と4「ラバーバンド」(は1985年のオリジナル・ミックスです)のふたつ。このふたつ以外はフル・アルバムに入りませんが、ラジオ・エディットや2018年ヴァージョンのインストルメンタルは不要との判断は理解できます。

 

しかし配信 EP ラストのアメリゴ・ギャザウェイ・リミックスはそ〜と〜カッコイイので、しかもこれはアナログ12インチ EP にもなかったし、ということはもはやずっとフィジカル化しないままになるんでしょうか?あまりにももったいないんじゃないでしょうか?こんなにもクールですのにねえ。ストリーミングかダウンロードの『ラバーバンド EP』をお聴きになったならば、多くのかたが同様の感想をお持ちになるのではないでしょうか、最高にカッコイイと。

 

アメリゴ・ギャザウェイ・リミックスは、昨年発売された「ラバーバンド・オヴ・ライフ」のほかの3ヴァージョンとかなり様子が異なっています。それら3ヴァージョンで最も印象的であるボトムス(ベース・ドラム&アップライト・ベース!)の低音部を抜き、サウンドの分厚い感じも消してスカスカにし、ほかのヴァージョンではあまり目立たなかったギター・カッティングをサウンドの中心に据えています。

 

しかもそのギター・カッティングは、アメリゴ・ギャザウェイ・ヴァージョンにしかありません。だから彼が弾いたかだれかに弾かせたかで、新たに付与したものでしょう。全体的に風通しのいい骸骨サウンドとあいまって、その空間を E♭m7 / A♭7 / D♭m7 / G♭7 と四つのコードで刻むエレキ・ギター・リフがチリングですよねえ。も〜う、本当に大好き!

 

あ、コードのことを書きましたので、その点だけちょっとほかのトラック含め書いておきますね。1985年オリジナルの「ラバーバンド」のキーは Dm です。Dm 一発と書いてある文章も見ますけどそれは違います。マイルズがオープン・ホーンで吹くパートがサビというかフックみたいになっていて、そこだけ G♯m に転調します。そこ以外はハーマン・ミュート・プレイですよね。

 

配信『ラバーバンド EP』にあるほかの4トラック、すなわちリメイクされた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」は、この転調を消してサビもなくし(オープン・ホーン・サウンドはあり)、全体をワン・グルーヴで貫いて、しかもキーを E♭m に上げ、それ一発でトラック全体を統一しています。アメリゴ・ギャザウェイもこの E♭m ワン・コード一発感は維持しつつ、上で書いたような四つのギター・コードを展開しているわけなんですね。

 

低音部のこともちょっと書きましたので、ついでに触れましょう。1985年のオリジナル「ラバーバンド」に弦ベースは入っていません。そのかわりシンセサイザー・ベースがぶんぶん弾かれていますよね。それ以外の四つ、2018年ヴァージョンでは弦ベーシストがいますが、それがアクースティックなアップライト・ベースを弾いているんですよねえ。ちょっとわかりにくいですが、耳を傾けてみてください。

 

アメリゴ・ヴァージョンではいきなりそのアップライト・ベースの音ではじまりますので、ここはわかりやすいんですけど、マイルズの声に続いて本演奏がはじまったらベースはやっぱりあまり聴こえなくなります。ドラムスの音も極端に減らして、これたぶんハイ・ハットを叩くサウンドだけになっていますよね。音量だって小さいので、アメリゴが手がけた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」にベースとドラムスはほぼなし、としてもいいくらいです。

 

そんな風通しのいい空間的なサウンドのアメリゴ・ヴァージョンでは、四つのコードをカッティングするエレキ・ギターとマイルズのトランペットとの事実上のデュオ演奏でトラックが進行するというに近い部分がありますね。事実そうなっている、つまりギター・カッティングとマイルズのトランペットだけという時間はけっこうあります。それにエレピとレディシの声がからんでいるといった感じでしょうか。

 

スカスカ・サウンドでボトムスもないからなのかどうか、アメリゴ・ヴァージョンには奇妙な浮遊感があります。ほかの「ラバーバンド・オヴ・ライフ」がずっしりと沈み込むようなヘヴィさ、ダウナーさを最大の特徴としているのとはかなり様子が異なっていますよねえ。どっちがいいとかいう問題じゃなく、どれもぼくは好きなんですが、アメリゴ・ヴァージョンにはぼくを惹きつけてやまない something else を感じるんです。なんでしょうね、それは?やはりエレキ・ギター・カッティングが好きだというだけの嗜好でしょうか?とにかく聴いていて気持ちいいです。えもいわれぬ快感なんですね。

 

アメリゴ・ギャザウェイ・リミックスでは、マイルズのしゃべり声をいくつもサンプリングして挿入しているのも特徴です。マイルズが晩年に主演したオーストラリア映画『ディンゴ』からのセリフを持ってきています。イントロ部で聴こえる「よろしかったらちょっとお聴かせしましょうか」(If you don’t mind, we’d like to play something for you.)は間違いありません。なかなか見事なアメリゴのアイデアじゃないですかね。アウトロ部での「どうでしたか?」(Did you like the music?)、女性の声で「こんなすごいもの聴いたことありません」(It was the best thing I've ever heard.)も、映画『ディンゴ』からでしょう。

2019/06/17

すべては美咲のおかげです

Img_8471最近、朝昼に飲む精神安定剤も寝る前の眠剤もどんどん減っているとしまです。精神安定剤なんか、もうほぼゼロに近くなっているんですもんね。変化が最初に現れたのは今年二月中旬のこと。それまでの人生でなかったことなんですが(あったかもしれないが遠い過去のことだから忘れた)、朝昼晩と眠くなるようになったんですよ。一日中しょっちゅう眠い、というか実際居眠りしちゃうわけなんです。

 

生活に支障が出るようになったので、いろいろと原因を疑って考えてみましたが、毎月通っている心療内科医に相談して、これということがわかりました。薬の効きすぎなんですね。27歳で心療内科に通うようになったくわしいいきさつを語ると長くなりすぎますので省略しますが、その後1999年夏に衝撃的なことがあって以来、すっかり強い薬が欠かせなくなりました。

 

そのままずっと来ていたんですが、今年二月になって変化の兆しが現れて、そして数ヶ月で徐々に、でもしっかりと状態が改善されるようになり、薬をどんどん減らしていってもメンタル面に支障が出ないばかりかシャッキリするようになって健康状態良好で、だからお医者さんも「戸嶋さんの具合はよくなってきていると判断します」と言ってくださっています。

 

劇的ななにかがあって急に改善したわけじゃないですから、ちょっとづつちょっとづつメンタルが上向きになっていって、今年に入ってしばらくしてから身体に顕著に症状が出てくるようになったということでしょうね。自覚できる改善要因はふたつです。ひとつは猫。もうひとつがわさみんこと岩佐美咲ちゃんと会う機会が増えたことなんですよ。どっちも昨年11月からですから、そのあたりからぼくの状態は改善しはじめたんですね、しばらくのあいだは潜行的に、そして今年二月中旬になって顕在的に。

 

猫のことはこのブログでくわしくは書きません。ペット不可物件に住んでいますので室内で飼っているわけじゃありませんが、いわゆるノラというか外猫さんがぼくんちのベランダにどんどん来るようになって現在に至ります。大きなヒーリングというかアニマル・セラピーなんですけど、さらに自覚的にはわさみんこと岩佐美咲ちゃんにどんどん会っては歌を聴き、2ショット写真を撮っては握手し、おしゃべりできるようになったのが大きなことなんですよ。

 

はじめてわさみんに会ったのは昨2018年2月の恵比寿でのコンサートですが、音楽こそ命な人間としては小規模な歌唱イヴェントなんて、はっきり言いますがゴメンニャサイばかにしていたんです。わさみんにかなり近づきやすいかもしれないけどたったの四曲じゃないかと、そうたかをくくっていたかもしれません。それがどんだけ楽しくてどんだけ癒しになるか、ちっとも知りもせずに。

 

きっかけはやはり11月に四国でわさみんの歌唱イヴェントがあったことですね。11/10今治と11/11高知。地元四国まで来てくれるんだから、と思って参加してみたんですね。これがぼくにとってはとっても大きな転換点でした。その楽しさたるやハンパなものじゃなかったです。わさみんといっしょに撮った写真をネットに上げたりするとみなさんおやさしくて好意的な反応をしてくださってそれもうれしくて、出かけた先でちょっといいホテルでくつろいだり、現地のグルメを味わったり…、などなどで、もうすっかりヤミツキになってしまいました。

 

わさみんが四国まで来てくれなかったら、そんなこと諸々ナシで進んだ人生だったかもしれないですよね。そうだったなら、ぼくの心身状態はいまみたいに改善していなかったかも。わさみんと歌唱イヴェントとそれに関係する旅行の楽しさで、もうすっかり癒し効果を得ています。化学的な薬じゃなくて、ちょっとお金はかかるかもしれないけど人生で病んで苦しんで悩んでなにかを抱えている人間にとってのわさみん薬効果は絶大なんですね。

 

これが世間のみなさんがおっしゃっている、体験してきている、(元)アイドルの癒しパワーか!と思い知りました。その後、2018年12月の倉敷、2019年1月と2月の東京、3月、6月の大阪と、頻繁にわさみん現場に通っていますが、そのあいだにすっかり身体の、心の、具合が良くなりましたので、もはやわさみんから離れるなんてことはありえません。

 

わさみんに会うと元気になれる、心も体も健康状態が向上する、これはレッキとした事実です。6/8京橋(大阪)では本人に「わさみんはぼくらの栄養だからビタミンみたいなもんでワサミン C とかあると思う」って言ってみたら、わさみんはちっとも驚きも爆笑もせず、そりゃそうでしょうよという顔でおだやかに微笑んでいましたね。いまのぼくのことは、なにもかもこれすべて美咲ちゃんのおかげです。

 

猫と岩佐美咲。この二大ヒーリング・パワーですっかり生活と人生に落ち着きと幸福感が出てきたぼく。わさみん、本当にありがとう。こんなお腹の突き出た高年オヤジにもいやな顔ひとつせず、にこやかに握手して写真におさまってくれて、本当に感謝しています。猫にお礼は言えないけれど、ちょっといいごはんをあげています。わさみんのことはこれからもブログで褒めまくります。

2019/06/16

DVD『岩佐美咲コンサート2019』

81fjoavuv2l_sl1500_2019年1月26日に鶯谷の東京キネマ倶楽部で行われた岩佐美咲(わさみん)コンサートの模様が、つい先日 DVD や Blu-ray の映像作品になって発売されました。こないだ6月8日の大阪京橋や9日の箕面の現場では、ステージ上からわさみん本人が「二月にやったコンサートが」「二月、二月」となんどもくりかえすのでシバいたろかと…、もとい、訂正のツッコミを入れて差し上げようかとよっぽど思いましたが(わさみん現場ではどんどん声が飛びます)、思いとどまりました。

 

それはいいとして、五月末に発売された DVD『岩佐美咲コンサート2019〜世代を超えて受け継がれる音楽の力』をようやく観聴きすることができましたので、感想を記しておきます。まず、この作品、こんなに客席を写しているとは知りませんでした。みなさんもぼくも、あのかたもこのかたもぼくも、しっかり判別できるように出演しているではあ〜りませんか。ちょっとビックリしました。DVD がはじまったらまずイの一番に客席が映りますしね。こういう演出なんでしょう。

 

ともかく『岩佐美咲コンサート2019』。やはり今年の新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に合わせるような選曲、構成になっているなと感じます。同様のことを昨年の DVD 作品についても言いましたが、やはりそういったことなんでしょうね。昨年の「佐渡の鬼太鼓」が激烈なド演歌だったのに対し、「恋の終わり三軒茶屋」はライトな歌謡曲テイストなので、コンサート全体もそっちに傾いているのは間違いありません。

 

コンサートの幕開け1曲目がいきなり「佐渡の鬼太鼓」だったのには現場でもすこし驚きましたが、昨年の代表曲をいきなりもってきたのには、「恋の終わり三軒茶屋」(とその路線)への大きな変化と移行をスムースにするために、あえてトップに持ってきて、まあいわば距離を遠くしたという面があったんじゃないかと思います。次いでこれも濃いめ抒情演歌の「旅愁」(西崎みどり)ですから、コンサート幕開けはこういった路線で昨年来の情緒をふりかえってもらおうといった意図が見えますね。

 

MC をはさんでの3曲目が「能登半島」(石川さゆり)で、ここまでが濃厚演歌系。5曲目の「冬のリヴィエラ」(森進一)からガラリと雰囲気を変えてライト・ポップス路線に移り、新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に沿ったセット・リストが続きますので、そのあいだの4曲目「遣らずの雨」(川中美幸)はいわば緩衝材みたいなもんです。スムースにチェンジするための。

 

しかし緩衝材などと言いましたが、その「遣らずの雨」がとってもすばらしいんじゃないでしょうか。個人的実感ではこの『岩佐美咲コンサート2019』でのクライマックスというか白眉、出色の一曲がこの4曲目「遣らずの雨」です。川中美幸さんの歌ですが、曲想が濃厚演歌と軽歌謡との中間的なものだから、美咲にはこれ以上なくピッタリはまっています。ここでの美咲の歌唱表現も実に見事なもので、はっきり言って感動ものですね。声の色やツヤといいフレイジングといい、完璧ですよ。いやあ、美咲の「遣らずの雨」、すばらしすぎる。

 

続く「冬のリヴィエラ」からが本格的なライト・ポップス路線ですね。まさしく新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に合わせたセット・リストが続きます。カップリング曲になった四曲「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「お久しぶりね」(小柳ルミ子)、「あなた」(小坂明子)、「別れの予感」(テレサ・テン)と、ここらはもう文句なしです。ぼくも歌唱イヴェントにどんどん出かけていますので、これら四曲における美咲の歌唱が進歩しているのを実感してはいます。それはコンサート終盤のアンコールで披露される「恋の終わり三軒茶屋」にしてもそうです。生現場で歌い込んで練り込まれ、いっそうよくなっていますよね。

 

ラウンド・コーナー(撮影可で美咲が客席をまわりながら歌う)でも、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)は美咲の最新傾向や資質にぴったり似合っているなと思いますし、またラウンド・コーナー最後の「狙いうち」(山本リンダ)はうれしかったですね。なんたってリンダさんはぼくのはじめての女ですから。このことはいままでなんども書いているのでくわしくは省略します。

 

ところで、この話をいままでに美咲ファンのどなたからもうかがったことはないのですが、山本リンダさんやピンク・レディーさん(昨年のラウンド・コーナーで「UFO」を美咲はやった)のレパートリーは、歌手岩佐美咲の資質に実にピッタリ似合っているんじゃないでしょうか。ぼくはそうにらんでいるんですけどね。だから、実を言うと「どうにもとまらない」「狙いうち」「ペッパー警部」「UFO」あたりは、歌唱イヴェントでどんどん歌ってほしいし、CD にも収録したらいいのになと思うんです。間違いないはず。

 

その後、「ルージュの伝言」(荒井由実)、「元気を出して」(竹内まりや)などを経て、今年はここまで一曲しか歌っていなかったオリジナル楽曲セクションに入り、コンサートは終盤へと向かっていきます。アンコールのラストまでぜんぶが美咲のためのオリジナル・ナンバーで占められていますが、これは、一曲だけやや傾向の異なるド演歌の「佐渡の鬼太鼓」を切り離し、ほかの曲をまとめて終盤にもってくることで、歌い込んでいるおなじみ曲の数々で新しい岩佐美咲をアピールしたかったという、そんな意図があったとぼくには思えました。

2019/06/15

マイルズの『ラバーバンド』、ついに9月6日のフル・リリースが決定!

Miles_davis_rubberband_cover_art_2https://open.spotify.com/album/4iHtBFo4si4ke896dw2yHJ?si=x7fl3UNDQ36esupSqq5OMA

 

https://twitter.com/milesdavis/status/1139171874460581890

https://store.rhino.com/rubberband-2lp-1.html

 

マイルズ・デイヴィスの失われたアルバム『ラバーバンド』が、とうとう11曲のフル・アルバムとしてリリースされるとアナウンスされました。2LP、CD、デジタル配信の三種類。曲目は以下のとおり。

 

01 Rubberband Of Life (Feat. Ledisi)
02 This Is It
03 Paradise
04 So Emotional (Feat. Lalah Hathaway)
05 Give It Up
06 Maze
07 Carnival Time
08 I Love What We Made Together
09 See I See
10 Echoes In Time / The Wrinkle
11 Rubberband

 

これらのうち、同じソースである1曲目と11曲目はすでに公式リリースされていますね。上のリンク最上段がその音源です。それは昨2018年4月のレコード・ストア・デイ限定で12インチ・アナログ EP が発売されていたもので、その後 Spotify などデジタル配信でも聴けるようになっています。だから、フル・アルバムとしてのリリースへ向けての準備はその前からはじまっていたんでしょう。ライノのサイトでは、2017年に開始されたとありますね。

 

マイルズの『ラバーバンド』とはなにか?それは以下の過去記事でかなりくわしく解説しましたのでご一読ください。簡単にいえば、マイルズが1985年にコロンビアを離れワーナーに移籍した直後にロス・アンジェルスのスタジオで取り組んでいたレコーディング・セッションで誕生した曲の数々です。当初それをワーナーでのデビュー・アルバムとする予定だったはずですが、なぜかお蔵入りし、次いで完成した『ツツ』が、マイルズの初ワーナー作品となりました。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-b4d9.html

 

この記事は「そして、フル・アルバムとしてはいまだ失われたままの『ラバーバンド』だけど、いつの日か、見い出される日が来ることを期待したい。」と結んでありますね。とうとうそれが実現することとなってうれしいかぎり。こんな気分になったのもひさしぶりです。そうそう、12月にはこんな文章も書きましたよ。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/down-blue-7ca8.html

 

この記事は、オリジナル・セッションの「ラバーバンド」からリワークされた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」が、実に2018年的今様のコンテンポラリー・サウンドに仕上がっていて感心するという趣旨です。しかし、来たる九月リリース予定のフル・アルバム『ラバーバンド』にそこまで求めてはいけないのかもしれません。

 

今回も発売プロデューサーはランディ・ホール、ゼイン・ジャイルズ、ヴィンス・ウィルバーンの三人です。来たるアルバム『ラバーバンド』フィジカルのライナー・ノーツをお書きになったジョージ・コールさんと昨晩二往復ほど直接お話をさせていただきました。フル・アルバムをお聴きになったジョージさんによれば、三人はすごくよくやっている、1985年のマイルズ・サウンド、オリジナル・レコーディングになるべく近づけるように、それを忠実に再現しようと腐心していて、しかしいくつかコンテンポラリーに響いたりもするものもある、とのことです。

 

具体的には、「カーニヴァル・タイム」「ザ・リンクル」「ギヴ・イット・アップ」「エコーズ・イン・タイム」「シー・アイ・シー」「ディス・イズ・イット」は、オリジナル・レコーディングのサウンドに本当にとても近いもので、いっぽう、ヴォーカリストがゲスト参加している「ラバーバンド・オヴ・ライフ」「ソー・エモーショナル」はもちろん、「パラダイス」もリワークめざましく、現代的なサウンドに仕上がっているとの、ジョージさんのお話です。

 

また、「メイズ」「カーニヴァル・タイム」「ザ・リンクル」の三曲は1986年ごろからマイルズ・バンドのライヴ・ツアーで定番レパートリーとなりましたので、公式盤でもブート盤でも当時のライヴを収録したものがいくつかありますよね。スタジオ・ヴァージョンもそう大きくは変わらないんでしょう。三曲ともぼくだって東京の生現場で聴きました。

 

だから、マイルズの『ラバーバンド』、2019年9月に発売するという事実に同時代的な意味合いや意義を大きく求めることはむずかしいかもしれません。といっても一般人のぼくはまだフルには聴いていませんけれど。そういったことよりも、とうとう日の目を見る偉大な発掘ものとして意味を見出すべきものなんだと、いまはそう思うんですね。なんたってぼくもマイルズの1980年代ものが大好きですし、もしそうだったならきっと『ラバーバンド』はお気に入りになるはずだ、とジョージさんも太鼓判でしたよ。

 

なんにせよ、期待は大きいと言えます。9月6日を待ちましょうね。ジャケット絵はマイルズ本人の筆によるものです。

2019/06/14

美咲の歌唱技巧

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こないだ6月9日に箕面でわさみん(岩佐美咲ちゃん)と話したのは、歌詞の意味によって発声を自在に変えているよねということでした。その日は箕面温泉スパーガーデンでコンサートが行われて、わさみんは一部、二部あわせて計30曲歌いました。それをじっくり聴き、また以前より抱いている感想をそのときにいっそう確信しましたので、わさみんに話を向けてみたわけなんです。

 

あたりまえみたいなことだし、歌手ならみなさんやっているのがふつうだし、わさみんファンのみなさんもとうにお気づきのことだとは思います。歌詞の意味が明るい前向きのものであるときと、暗いというか陰なしっとり系の意味のことばであるときとで、わさみんの声はかなり違いますよね。

 

それは曲によっての歌い分けというだけではありません。同じ一曲のなかでも歌詞の意味内容が変化するにつれ、声のトーンをわさみんは各種使い分けているんですよね。歌手ならあたりまえといっても、わさみんはかなり微妙繊細な声質変化を実現していて、明るいトーン、しっとりトーンと、しかもどっちも艶があって輝いていますよね。完璧に使い分けるのはなかなかむずかしいことじゃないかと思うんです。

 

歌詞をどう歌ったらいいか、伝わるかを考えて、それをどんな声でどう発声してメロディの変化にもあわせていくかという方法論を実行するということを、最近、わさみんはわさみんなりに確立しつつあるでしょう。ぼくの聴くところ、どうも2018年のソロ・コンサートあたりからじゃないかと。それが2019年に入ってコンサートや歌唱イヴェントなどで深化しているという、そんな印象です。

 

たとえばですよ、大好きな「初酒」のことをとりあげましょう。オリジナル・シングル・ヴァージョンと、2018年、19年コンサート・ヴァージョンとでは、もうぜんぜん別物ですよ。ふだんはぼくも CD で聴いていますから、ときどき DVD(や生歌)で聴くとわさみんの成長にビックリしちゃうんです。もうね、声じたいも一曲全体でまるで違っていますけど、もっとすごいのは一曲のなかのパートパートで声を使い分けているところ。

 

「初酒」は曲そのものが前向きに笑って進んでいこうという人生応援歌みたいな内容なので、孤独や喪失を歌ったものが多いほかのわさみん楽曲とはもとから大きく違っています。だからわさみんも歌いかたをそれにあわせた明るい声のトーンにスイッチしているんですが、この曲でも箇所箇所でこまかく声の色や質を自在にチェンジさせながら歌っているんですよね、最近のわさみんは。発声そのものを変えているんです。

 

「生きてりゃいろいろとぉ〜、つらいこともあるさぁ〜」とふつうに歌いはじめていますが、ここでもうすでに2018年ヴァージョン以後は声が色っぽくなって艶が増しています。大人の女が、落ち込んでいるぼくらにやさしく語りかけてくれているような、そっと寄り添ってくれているような、そばに座って一酌やりながらなぐさめてくれているような、そんな色気が近年は出ていますよね。わさみんはスッとストレートに歌っているだけなのに…、と思わせるところが技巧が真に上達した部分で、実は相当練りこんで歌い込んだ結果なのですよね。意識してわさみんはこんなふうに歌っていますが、なにも意識していないナチュラルさだと感じさせる結果にまで到達しているということです。

 

すごいことですよ、これは。しかも続く「ここらでひとやすみ」の「ひと」を「ひっと」気味に歌い、声もいっそう明るみのあるものに変えてヴォーカル・トーンに軽みを出し、実際、軽い気分でちょっと休もうよ、という歌詞の意味に最大限の説得力を持たせることに成功しているんですね。

 

次の「我慢しなくていいんだ、よ」パートで、ぼくなんかは涙腺が弱いですから、ホロっときちゃうんですね。特に一拍休符を入れた「よ」の声質変化です。「我慢しなくていいんだ」までは強めのリキみ声を張り、おいお前そんなに気を張るな我慢すんなと説得されているような気分にさせておいて、一瞬間をおいた「よ」ではふっと力を抜くんですよね、わさみんは。もう、この「よ」でぼくはダメになっちゃうんです。親や教師がこどもを叱っておいて最後の最後にすっと優しくする一瞬でこどもを落とすでしょ、あれと同じですよ、わさみんのこの声質変幻技巧は。最近のことなんです。CD での「初酒」ではまだふつうですから。

 

わさみんはこういったことを、実にスムースかつナチュラルに実現していますが、なにも考えず自然に歌っているだけだと、聴いた感じそういう印象に仕上がっているのは、実は最高の技巧が凝らされている結果だからということなんですね。ほかの曲でも最近ぼくはそれを感じていましたが、6/9箕面で30曲聴いて確信に至り、終演後にわさみんと話してみて、その反応で、あぁ間違いないとわかりました。本人は工夫を重ね、その工夫とは結果的になにも工夫していない自然体なのだと聴こえるように練りこまれたものだということです。

 

ぼくが言っているのは「初酒」のことだけではありません。ほかの曲でもこういったケースが多々見受けられますので、2018、19年のソロ・コンサート DVD でみなさんも探してみてくださいね。じっくり聴き込めば、わさみんがリスナーに歌を伝えるためにどれほどの技巧を凝らしているか、気づくことができるはずです。

 

また箕面のコンサートや全国各地でやっている歌唱イヴェントなど、生歌でもこういったことは聴きとれるし、生現場ならではのわさみんとの近い距離感で、歌の内容がもっと胸に迫ってきて、小規模で気さくなさりげない親近感のある現場でも、わさみんが歌に本気の工夫を込めていることと、その結果の自然体を獲得していることを理解できると思うんですね。

 

CD を聴き、DVD を観聴きし、生歌現場で聴いて接近し、と三種総合でわさみんを味わってこそ、この歌手の真価と深化もわかろうというものだっていうことです。

2019/06/13

ポップでファンクなドナルド・バードの『125番街』

71zjwadra5l_sl1011_https://open.spotify.com/album/2YLGbldm2kzxMpTzI3kkXn?si=-ok_TPRGQwWHW4SCzhUUvw

 

ドナルド・バードの『アンド・125th・ストリート、N.Y.C.』(エレクトラ、1979)は、基本的に前作『サンキュー…フォー F.U.M.L.(ファンキング・アップ・マイ・ライフ)』の創りを踏襲している。タイトなファンク・ドラミングにきめきめスラップ・ベース、ソリッドなエレキ・ギター・カッティングに電気キーボード類(ここではクレア・フィッシャー)。その上にヴォーカルとトランペットが乗っかっているという、そのまま。

 

しかし大きな違いもあって、前作では全曲が弟子バンド、ブラックバーズの面々が書いたコンポジションだったのに対し、『125番街』ではほほすべてをドナルド・バード自身が作曲している。それでここまでできあがりが似てくるというのは、アレンジャーが同じウェイド・マーカスであることも肝だけど、ドナルド自身こういったファンクな曲創りを急速に身につけたということだろう。

 

『125番街』のほうには、ドナルドのトランペット・ソロをフィーチャーしたインストルメンタル・ナンバーも数曲ある。これも大きな違いだね。それらでは、かつてジャズ・トランペッターだった腕前を活かし、魅力的な演奏を聴かせていると言える。全曲ヴォーカル・ナンバーでソロのなかった前作との大きな差だ。全体的にはやはり歌ものが『125番街』でも多いけど、バランス重視型にシフトしているよね。

 

クレア・フィッシャーの鍵盤演奏だけを伴奏にしてドナルドが吹くラヴ・バラード「マリリン」のこの上ない美しさったらないね。ふんわりとやわらかいヴェールが降りているかのようでありかつキラキラした透明感にも満ちていて、屹立する孤高感もあり、こういったインストルメンタルはジャズでもないし、なんだろうファンカバラードとでも言ったらいいのか、いやあ、マジきれいですね。

 

同じくインストルメンタルな6曲目「ヴェロニカ」。こっちはちょっぴりビートが効いているが、やはり女性名を曲題にしているところといい、同じくラヴ・バラードとしていい曲想じゃないかな。ややジャジーさも加味し、都会の夜の雰囲気も漂っている。ドナルド独自のハーフ・ヴァルヴを多用したノート・ベンディングも聴けるし、ジャズ・バラードに近い演奏で、これも充実している。

 

これら二曲以外はファンク・ヴォーカル・ナンバーだけど、とっつきやすくノリやすいし、ジャズ・ファンクというよりロックやソウルに近いフィーリングもあって、しかも全体的にやはりかなりポップで親しみやすい。どこかで聴いたようなファミリアーなリフやフックも随所で多用されているし、それでいてリズムやサウンドはタイトでシャープでソリッド。とんがっている感じがせず丸いのが、ドナルド・バードの持ち味だね。

 

ドナルド・バード・シリーズはこれで終わりです。

2019/06/12

ドナルド・バードの「サンキュー」

R40416013806458461397jpeghttps://open.spotify.com/album/6NwRfwq2bQZ3HgvcH3OhiZ?si=uOGD8vp0QUytwZkcDs7epw

 

ドナルド・バード、1978年のエレクトラ盤『サンキュー…フォー F.U.M.L.(ファンキング・アップ・マイ・ライフ)』は、それまでのあらゆるドナルドの音楽とも明確に異なっている。ジャズから大きく離れ、リズム&ブルーズ/ファンク・ミュージックへと大きくグンと踏み出しているよね。かすかにフュージョン色とディスコ色もあるかなとは思うけど、もはやジャジーさはほんのかすかにしかない。というか、これはもはやジャズ作品じゃないね。

 

アルバム題は1曲目のタイトルだけど、あるいはスライ&ザ・ファミリー・ストーンを意識したものだったかもしれない。そういえばドナルドのこのアルバムでは、ほぼ全曲にわたってエレキ・ベースのスラップが強調されているが、これもスライ時代のラリー・グレアムを、こっちは間違いなく下敷きにしている。弾いているのはエド・ワトキンス。ドナルドの音楽でエレベのスラップを活用したものはそれまでまったくない。このサウンド・メイクも間違いなくファンク・ミュージック志向だ。

 

全曲でヴォーカルが大きくフィーチャーされているし、っていうかそもそもこのアルバムではどの曲も歌ものであって、ドナルドのトランペットやバンドの演奏を聴かせるためのものなんかじゃない。ポップス/ファンク界にあるものと同様に、あるのは歌。すべてはそれをどう聴かせるかというところにかかっている。

 

そんな音楽がドナルドのリーダー作として、しかもだれかポップ界の人材を起用してでなく本人自身のプロデュースで、実現しているという事実ひとつ取っても、いかにこの(ジャズ界出身の)トランペッターが自己の音楽を変容させたか、わかろうというもの。といっても曲はすべて弟子たちバンドのブラックバーズの面々が書いたものだけど。レーベルを移籍したので、ラリー・マイゼルはもういない。

 

トランペット吹奏も、ほぼ全曲でハーマン・ミュートを付けてのもの。あくまで曲全体のなかに溶け込んでムードをつくるエフェクトとして機能するように、と心がけてのものだったんじゃないかな。それに実際、ドナルドはあまり吹いていない。ソロみたいなものはまったくないし、歌のオブリガートでパラパラやっているだけ。それも思いつくままやっているだけで、構成らしい構成もなし。

 

構成は、どこまでも曲のリズムやサウンド全体をどう組み立てるかに腐心されていて、リード・ヴォーカルをフィーチャーしても楽器はあくまで伴奏でしかないのだと、このアルバムを聴けばわかるよね。これが(かつては)ハード・バッパーだった楽器奏者のリーダー作なんだから、それも1978年時点でのそれなんだから、ちょっとビックリだよねえ。

 

アルバムのなかでは、ビートの効いた明るいファンク・チューンと都会の夜の雰囲気を持つメロウ・バラード系が代わる代わる出てくるように思うし、その二種類が並べられているとして間違いないと思う。タイトなドラミング、迫力のあるスラップ・ベース、くちゅくちゅ言うソウルフルなギター・サウンドなど、どこにもジャズがないドナルド・バードの『サンキュー…フォー F.U.M.L.』は、一つの時代の道標ではあったと思うのだ。

2019/06/11

ドナルド・バードのレア・グルーヴ全盛期 〜『ストリート・レイディ』

71mrljnjakl_sl1400_https://open.spotify.com/album/7Iw2Tx6Jh0Y8iKEVfx7Sua?si=lJSdFdJBRQycPUuUfuQt2g

 

ひとりで1990年代にタイム・スリップしつづけているような気分のここ数日。ドナルド・バードの『ストリート・レイディ』(1973)も、ぼくの持つ CD には「ブルー・ノート・レア・グルーヴ・シリーズ」とバ〜ンと銘打ってあって、たしかにそうだよなあ、あのころこういったのがもてはやされていたもんねえ。CD リイシューそのものがレア・グルーヴ・ムーヴメントに乗ってのものだったんじゃないかなあ。

 

さて、『ブラック・バード』のことを書いたから、その次に大きなことは1979年のエレクトラ盤『ドナルド・バード・アンド・125th・ストリート、N.Y.C』になるんじゃないかと思うけど、そのあいだに個人的にグッとくるものが二枚あるので、それぞれ単独でとりあげてちょっとだけメモしておきたい。まずは『ブラック・バード』の次作『ストリート・レイディ』のこと。

 

『ストリート・レイディ』は前作に比べるとやや食い足りない感じがするのも事実。そしてジャズ・ファンクよりもふつうのフュージョンに寄っているようなサウンドだよね。ワン・リフ中心に組み立てていたワン・グルーヴのタイトさ、ファンキーさが薄れて、もっとやわらかめの方向に向いているように聴こえる。したがって、ちょっとジャジーさは復活したと言えるかも。

 

ぼくにとっての『ストリート・レイディ』は、なんたってマイルズ・デイヴィスの愛聴盤だったという事実でもって認識されている。わりと有名なんじゃないかな。それなもんで、マイルズの遺作『ドゥー・バップ』の4曲目「ハイ・スピード・チェイス」では、曲「ストリート・レイディ」からのサンプルが使われている。トラックをつくったイージー・モー・ビーも明言している。
https://open.spotify.com/track/00JSeHZVBL0bwKZ7GL0jYu?si=jnICO51lQSCp9g0UBQsyog

 

聴き比べれば、あぁ〜な〜んだ、とわかっちゃうけど、ぼくが最初に『ドゥー・バップ』を聴いた1992年当時、まだドナルド・バードの「ストリート・レイディ」を知らなかったから、なんてカッコいいトラックなんだ、イージー・モー・ビーってすごいんだな、って感心しきりだったよ〜。

 

いま、アルバム『ストリート・レイディ』全体を聴きかえしても、やっぱり曲「ストリート・レイディ」が突出してすばらしいと思える。アルバムの白眉だね。この曲はピアノを中心とするバック・トラックだけ先にできあがっていて、その上に楽器ソロやヴォーカルを乗せたものだと思うけど、ラリー・マイゼルのサウンドやリズム・メイクの冴えを感じるよね。前作『ブラック・バード』の手法だったボトムス中心のワン・リフはここにはない。「ストリート・レイディ」ではジャジーな演奏に近いフィーリングだ。

 

それはアルバム全体に言えること。『ブラック・バード』が異質で異様に鈍黒く輝いていただけかもしれないが、ああいったヘヴィなリフ一発の反復で組み立てる手法は、次作『ストリート・レイディ』ではほぼ聴けない。代わって、ジャジーなスポンティニアスさに軸足を戻しているかのようだ。だからファンクというよりソフト・フュージョンに聴こえるんだね。『ストリート・レイディ』だってしっかり組み立てられているけれど、できあがりがどう聴こえるかにラリー・マイゼルは気を配ったんだろう。

2019/06/10

ドナルド・バードの飛翔宣言 〜『ブラック・バード』

61zgdthclhttps://open.spotify.com/album/0j5Nx6IeRw3H5gohShC0qZ?si=kxPedjLGRqW8fV8FVhn-6w

 

さてさて、ドナルド・バードの『ブラック・バード』(1972年録音73年リリース)。ラリーとフォンスのマイゼル兄弟を迎え、いよいよポップ・ファンク路線へと本格転換した記念碑的アルバムだ。アルバム題は、ドナルドが大学で教えていた弟子バンドの名 The Blackbyrds から取っている。ハワード大学で教鞭をとっていたドナルドで、この後もそのかかわりあいで作品ができたりもしている。『ブラック・バード』は売れたので、その意味でもエポック・メイキングだった。

 

プロデュースが全面的に代わったということで、もう音づくりが前作までと比較して根本から変化しているよね。リズムやサウンドがいくらファンキーになっても、なんだかんだでジャズ的な即興のスリルをベースにしていた『エチオピアン・ナイツ』までに対し、『ブラック・バード』以後ではワン・リフの反復とシンプルなフレーズ・パターンを中心にポップに組み立てている。長めのアド・リブ的な展開はなしで、カッチリしたアレンジと構成でできている。

 

こんなふうにヴォーカルが入ることもそれまでなかった。歌っているのはドナルドとラリー・マイゼルを中心とする数名みたいで、しかもそれはいわゆる歌ではなく、ちょっとしたエフェクトというか雰囲気づくりみたいなフレーズだよね。ドナルドに歌わせたのはたぶんラリーだと思うけど、『ブラック・バード』の評判がよかったので、これ以後、あるいはラリーと別れても、ドナルドは歌い続けている。ハミングに近いようなものだとはいえ。

 

エフェクト的な使いかたといえば、ドナルドのトランペットやフリューゲル・ホーンだってそうなのだ。アルバムで本格ソロはなし。折々にはさみこまれているだけだよね。吹奏にどこまで自由が与えられていたかわからない面もあるけど、『ブラック・バード』全体やラリーがプロデュースしたほかの作品も聴くと、けっこう指定されていたのでは?と思えるふしもある。あ、そうそう、収録曲はぜんぶラリーが書いているんだ。アレンジもラリー。

 

それでラリーがかっちりした枠組みを考えて構成し、それに沿って音を足していったというのがとてもよくわかるできばえのアルバムだよね。どの収録曲も、ファンクの手法であるワン・リフのワン・グルーヴを根底に置き、ドラムス+エレベ+エレキ・ギター+鍵盤でそれを演奏させ、その上に効果的にドナルドほかのホーン陣とヴォーカルをからめてある。音楽にさわやかな空気を付与することに成功しているフルートも効果的だ。

 

ジャズ・ミュージック的にどんどん個人がソロをとってそれが複数人で連続するというような、そんな音楽の快感はアルバム『ブラック・バード』にはない。取って代わってここにある気持ちよさは、タイトでファンキーなワン・グルーヴに乗るダンスのそれだ。グルーヴ一発ですべてが決まる、そんな音楽だよね。聴いていて、ただそのノリに身を委ねればスリリング、そんなブラック・ミュージック本来のありように<もどった>だけ、と考えることだってできるね。

2019/06/09

ドナルド・バードの『エレクトリック・バード』から『エチオピアン・ナイツ』まで三枚まとめて

4abfc9aba0794f09805ae78b7626c422https://open.spotify.com/album/3I3wHHxGI7jFOzMja07ZcS?si=CE6jK8G9Q5WdppyRroXvNQ

 

https://open.spotify.com/album/41rZeHM1GX1aocheecDsBr?si=ZmEyppjQTXS_UC300RjC9Q

 

https://open.spotify.com/album/5Y91dijjpECGa62GvTUQro?si=6wrcj5XzQbOtpnbOrFj60A

 

ドナルド・バード。1969年の『ファンシー・フリー』の次に大きなことは、なんたって73年リリースの『ブラック・バード』だから、そのあいだにある三つのアルバム(といっても当時はリリースされなかったものも)『エレクトリック・バード』(70)、『コフィ』(69〜70/95)『エチオピアン・ナイツ』(71/72)について、まとめてざっと扱っておきたい。『エチオピアン・ナイツ』はかなりカッコイイから単独記事にしてもよかったんだけど。

 

じゃあそのカッコいい『エチオピアン・ナイツ』のことを最初に書こうっと。このアルバム題や「皇帝」などの曲題は、もちろんラスタファリズムから来ているものだろう。音楽的にこのアルバムがジャマイカやレゲエと関係あるかどうかわからないが、1972年だし、ドナルド・バードやブルー・ノート陣営としても意識したムーヴメントだったのだろう。

 

三曲のアルバム『エチオンピアン・ナイツ』では、1曲目「ジ・エンペラー」と3曲目「ザ・リトル・ラスティ」がめっちゃいい。これの次作『ブラック・バード』からしばらくのあいだ、ラリーとフォンスのマイゼル兄弟がドナルドのアルバムをプロデュースするようになり演奏にも参加して、明確なファンク路線に傾いているが、マイゼル兄弟なしですでにこれだけのものが仕上がっているとわかる。

 

いや、予兆というか、もうじゅうぶんカッコイイよね。「ジ・エンペラー」でもエレベの太い音がリフを弾きはじめるが、こんなのはそれまでのドナルドの音楽にはなかったものだ。続いて出るドラムスもかっこよくグルーヴィ。エレキ・ギター二台がからんでリフを演奏するあたりで、もう脳天シビレちゃう感じだなあ。もうね、なんたってこのリズムというかグルーヴですよ、聴きものは。カァ〜ッコイイじゃないですか!

 

それはアルバム・ラストの「ザ・リトル・ラスティ」でも同じ。しかもこれは曲というより、たぶんただの即興演奏だよね。リズムが順番に出て重ね、ソロをみんながまわしているだけだと思う。あらかじめの決めごとはなにもなかったかも。それでこれだけのグルーヴが生まれるのは個人の力量もあるし、時代もあるし、ドナルド・バードにはこういったソウル/ファンク系の資質が本来あったと見たほうがいい。いやあ、カッコエエなあ〜。この曲のギター・ソロはデイヴィッド・T・ウォーカー。

 

レア・グルーヴ/アシッド・ジャズ観点からもめちゃめちゃグッドな『エチオピアン・ナイツ』だけど、それに先行する二作『エレクトリック・バード』『コフィ』は、一部を除きイマイチ物足りない。というのはグルーヴを感じるかどうかという点でだけどね。でもいい部分だってあるし、また同時にかなり興味深い。

 

個人的な最大の関心ごとは、1970年5月録音の『エレクトリック・バード』が、完全にマイルズ・デイヴィス『ビッチズ・ブルー』を意識したものになっているというところ。マイルズのは録音が1969年8月だけどレコード発売が70年4月だった。さらにその二枚組にも関与したギル・エヴァンズのアレンジ手法も大きくとりいれている。

 

なんたって1曲目「エスタヴァニーコ」のホーン・アレンジを聴いてみて。どう聴いたってギルでしょ。実際に手がけているのはフェンダー・ローズで参加のデューク・ピアスンみたいだけど、このフルートなどの使いかたといい、あからさまにギル・メソッドじゃないか。こういったちょっと大がかりなホーン・アンサンブルは『ビッチズ・ブルー』にはないけれど、ギルなら当時書きそうな譜面で、サウンドの響き、それのなかに立ち上がってくるオープン・ホーンのトランペットといい、ギル&マイルズの仕事をそのまま下敷きにしているのは間違いない。

 

そのほか『エレクトリック・バード』は全体的に1968/69年ごろのマイルズ、特に『ビッチズ・ブルー』からアイデアを借用している音楽で、ここまで露骨だと感心するしかない。あるいは、この当時のジャズ界でマイルズ&ギルの影響力がそれだけ大きかったという証左でもあるね。アルバム・ラストの「ザ・デュード」はかっこいいグルーヴァーだ。これだけはマイルズよりいい。

 

録音当時は未発表だった『コフィ』。1曲目のアルバム・タイトル曲で出るフルートが印象的だけど(ルー・タバキン)、アルバムで最も魅力的なのは2曲目の「フフ」だね。このリズムがいいと思うよ。リム・ショットかんかんやりすぎ(つまり大歓迎)のアイアート・モレイラも楽しい。そのせいか、数年後のリターン・トゥ・フォーエヴァーを想起させるところのあるドラミングとリズム・スタイルだ。だから好きなのかなあ。5曲目「ザ・ラウド・マイノリティ」も、うねるホーン・リフがいいね。トランペット・ソロもキレているし、リズム・セクションも魅力的だ。

2019/06/08

サッチ・ア・ナイト!〜 ドクター・ジョンに会った日

Drjohnobithttps://www.youtube.com/watch?v=50yEQQB2OVE

 

ドナルド・バード・シリーズのまっただなかではありますが、今日だけ急遽予定を変更します。愛するドクター・ジョンの訃報に接し、思い出を記しておきます。

 

ドクター・ジョンに会ったのは、正確に何年と憶えていませんが、1990年代なかばの八月、それもニュー・オーリンズで、でした。なんどめかのアメリカ旅行でその年の夏休みは南部の数都市をまわったのです。ルイジアナ州ニュー・オーリンズはその最後に五日ほど滞在しました。当時は結婚していたので二人旅。

 

ニュー・オーリンズに到着すると、ぼくはすぐに街角で現地音楽情報のフリー・ペーパー(雑誌みたいな感じ)を手にとりました。そういったたぐいのものは、ニュー・オーリンズだとまさしくいたるところに置いてあります。いかにも音楽の街って感じで、ストリート・ミュージシャンもフレンチ・クォーターのいろんなところで演奏していました。ブラス・バンドというか、金管楽器を演奏していることが多かったですかね。

 

フレンチ・クォーターのすみっこのほうにあったホテルの部屋で音楽情報誌をパラパラめくっていましたら、なんと現地のクラブというかライヴ・ハウスみたいなところに、それも明日、ドクター・ジョンが出演するとなっているではありませんか。これを見送る選択肢なんて、あるわけないです。そのまま速攻でそのクラブまで歩いて行って(近くだったから)、明日のことを問い合わせ、前売りみたいな感じでお金を支払って、チケットはないけど覚え書きみたいなものをもらいました。

 

さあどうしよう?ただでさえドクター・ジョンのライヴに接することができればうれしい。日本ででも体験できればハッピーでしょう。それがなんと現地ニュー・オーリンズで観られるんですよ。その日の夜はあらかじめの興奮でよく寝られなかったかもしれません。しかし翌晩はそのライヴ本番なんですからもっと寝られないはず。妻はドクター・ジョンと言われてもピンとこなかったようですが、いっしょに来るとなりました。

 

当日の夜はそのクラブに行くのが早すぎました。開演予定時間を大幅に過ぎてもなにもはじまらず、ようやく出てきたのが前座の無名ブラス・バンドでした。このへんはいかにもニュー・オーリンズっぽいですよね。たぶん、日本にいるぼくらがまったく知らないブラス・バンドがいっぱい活動しているんだろうと思います。その前座バンドの内容については今日は書きません。

 

ドクター・ジョンのバンドが出てきたのはもう真夜中になってからです。その時間にはクラブ内がすし詰め状態。でも小さな場所でしたから、たぶん2、300人程度だったんじゃないでしょうか、オール・スタンディングで椅子席はどこにもなく、立ったままギュウギュウで身動きとれないほどの状態になっていましたね。

 

1990年代半ばのドクター・ジョン・バンドのレギュラー・メンバーが揃っていました。ギターのボビー・ブルームやドラムスのハーマン・アーネスト III など。テナー・サックスでアルヴィン・レッド・タイラーもゲストとしてステージ上手(向かって右)に立っていましたよ。客席のキャパも小さかったけどステージもこじんまりとしたもので、しかもまったく飾り気のないものでした。

 

ドクター・ジョン本人の登場は、最初にリンクを貼った YouTube 動画と同じです。その動画は1995年モントルー・ジャズ・フェスティヴァルでの模様ですが、ぼくがニュー・オーリンズで観たのも同時期。バンド・メンバーもほぼ同じ、オープニングの1曲目も「アイコ・アイコ」で同じです。そのころのドクター・ジョンのライヴは、いつもこんなふうに幕開けしていたのかもしれないですね。

 

バンドが演奏をはじめ、ニュー・オーリンズのクラブで聴いていたぼくたちも、あ、「アイコ・アイコ」だなとわかるのですが、御大はなかなか登場しません。ビートが続き、しばらくしてからダンス・ステップを踏みながらすこしづつピアノのあるところまで歩みよっていくのです。上の動画では下手から出てきていますが、ぼくが観たときは上手から現れました。たぶんそっちに控え室があるんでしょうね。

 

また、上の動画とぼくの現地体験との最大の違いは、ニュー・オーリンズのクラブではマルディ・グラ・インディアンの扮装で登場したことです。ぼくはさすがに初体験でしたので、こんなにも派手派手なんだとちょっと驚きました。写真などでならみなさんご覧になっているでしょう、あの格好でドクター・ジョンが袖からゆっくり歩み出てきて、ピアノの前の椅子にすわり、バンドの演奏する「アイコ・アイコ」のファンク・ビートに乗ってピアノを叩いて歌いだすんです。

 

音楽そのものは、「アイコ・アイコ」だけ同時期のモントルー・ライヴをご紹介しましたが、それと同じようだったと記憶しています。この曲のばあいドクター・ジョンのものは1972年の『ガンボ』ヴァージョンが有名ですが、1990年代なかばにはもっとグッと重心を落とし腰をかがめて、ヘヴィなファンク・チューンに変貌させていましたよ。ヘヴィ・ファンクだったという印象は、2曲目以後も続きました。音楽のファンク化には、ハーマン・アーネストの貢献も大きかったのでは。

 

どの曲をやったと正確にぜんぶを記憶していませんが、自身のヒット・チューンを中心に代表曲を立て続けにやったはずです。1990年代なかばならドクター・ジョンは50歳代なかごろですから、いろんな意味で最充実していたんだなと、いま振り返ると思います。バンドもたぶん生涯でいちばんすぐれたものだったかもしれないし、意欲も気力も体力も演唱技術も円熟の極みにあったから、そんなドクター・ジョンのライヴを、しかもニュー・オーリンズで体験できたなんて、ぼくの一生の宝です。その夜は興奮していてそんなふうには感じませんでしたが、なんという幸運にめぐまれたのでしょう。

 

ほんとうに、なんという夜だったかと、そう思います。終演は深夜25時をまわっていました。いったんメイン・アクトが終わってアンコールで再登場してオーラスにやった曲も、「サッチ・ア・ナイト」だったんですよ。すでに超大物だったドクター・ジョンですから、自身の地元ニュー・オーリンズの、それもファミリアーな小さなクラブで演奏できるのは、レアな機会だったのかもしれないですね。だから、彼にとっても「サッチ・ア・ナイト」だったのかも。

2019/06/07

ドナルド・バードの1969年 〜『ファンシー・フリー』

Bluenoterecords_2019may18https://open.spotify.com/album/1lpT5gGbaQJLy4YzFEqZXC?si=KCBoTZJFSkW6bGI6lqjj7g

 

ドナルド・バードの1969年作『ファンシー・フリー』では、やっぱりレコードの両面トップだった1、3曲目が聴きものかなと思う。いや、いま聴くとB 面の二曲(3、4曲目)はどっちもいいな。リズムがタイトでファンキーで、全体のサウンドもリズム&ブルーズ寄りになっている。だから『ファンシー・フリー』を大きく分けると A 面がジャズ・サイド、B 面がファンク・サイドということができるかも。

 

それでもアルバム・タイトルにしているんだから1曲目の「ファンシー・フリー」が目玉なのは間違いないんだろう。かすかに1970年代中期っぽいさわやかフュージョンも香るジャズ・ロックで、デューク・ピアスンの弾くフェンダー・ローズとジェリー・ドジオンのフルートが印象的。ドナルドのトランペット+フルート+サックス+トロンボーンという四管編成で、この時期のこのひとの作品はだいたいそんな感じの多管編成。

 

でも、アルバム『ファンシー・フリー』だとそんなやや大編成気味なアンサンブルの出番はあまりない。曲「ファンシー・フリー」でも管楽器は一人づつ出てきてテーマとソロを担当。テーマはフルートが吹いて、そのままソロへ。そのテーマ・メロディはドナルドの作曲となっているよね。これが実にいい感じだ。ジャズなんだけど、1969年当時のロックとかソウル、ファンクなど、要はブラック・ミュージックを強く意識したような旋律の動きで、心地よい。

 

曲「ファンシー・フリー」のリズムは、いかにも1969年のジャズ・ロックといった典型的なもの。しかし二名のパーカッショニストと、(ルー・ドナルドスンの『アリゲイター・ブーガルー』をやった)レオ・モリス aka イドリス・ムハンマドのドラムスという打楽器アンサンブルが、これまたさわやかだ。粘り気、湿度が足りないが、2019年に聴くと、ちょうどいい同時代感がするので不思議。

 

その点、1969年当時のジャズ・ミュージュックとしてはかなりコテコテのブラック・ミュージックに寄ったような3、4曲目は、当時なら<新しい>とされたところだけど、いま聴くとやや時代を感じてしまうところ。それでもぼくの好みでいえばこれら二曲のほうが圧倒的に好きなんだけどね。うん、間違いない。

 

だいたい3曲目の「ジ・アップタウナー」は、曲「アリゲイター・ブーガルー」の焼き直しでしょ。だから二番煎じでダメっていう意味じゃなくて、こういった種類の音楽、すなわちブルー・ノート・ブーガルーに分類できるジャズなら、いくら聴いても快感が増すばかりなんだ。どんどん聴きたい。それにこの曲では、このアルバム中唯一エレキ・ギター・ソロがある。それも「アリゲイター・ブーガルー」の流儀。

 

「ジ・アップタウナー」では、フランク・フォスターだってこんなにもファンキーなソロを吹くひとだっけ?とビックリするくらいカッコイイ。それに続くギター・ソロはジミー・ポンダー。グラント・グリーンとジョージ・ベンスンを足して二で割ったみたいだ。これはいい。主役のドナルドのトランペットの音色も輝いているしね。

 

「ジ・アップタウナー」は、おおもとをたどっていけばハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」やリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」とかに行き着くもので、どれもぜんぶラテンなファンキー・ブルーズ。ジャズがファンクになっていく経過ではラテン・ビートがやはり最も重要な役割を果たしていたね。

 

4曲目の「ザ・ウィージル」もブルーズで、この曲のテーマ演奏部でだけ四本のホーン・アンサンブルが聴ける。しかし聴きどころはやはりこのタイトなリズムだ。カッチョエエなあ〜。それに乗る一番手のドナルドのトランペット・ソロも見事だ。ところでこのひとのファンク路線傾倒が進むにつれトランペット・ソロの出番が減っていくのだが、『ファンシー・フリー』ではまだまだジャズだからなのか、バリバリ吹いていていいよねえ。

 

アルバム唯一のピュア・ジャズ・ピースともいうべき2曲目の「アイ・ラヴ・ザ・ガール」。ほぼドナルドひとりをフィーチャーするショウケースになっていて、こういったちょっとこじんまりしたかわいらしいラヴ・バラードをきれいに吹くこのトランペッターのチャーミングさがよくわかる。この曲の演奏にもぼくは好感を抱いている。

2019/06/06

ドナルド・バードの「その」一歩手前 〜『ザ・クリーパー』

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電化ファンク路線のドナルド・バードのことを書こうと思っているが、その前にちょうどその直前にあたる1967年録音作『ザ・クリーパー』をとりあげておきたい。これ、ブルー・ノートから発売されたのは1981年だったため、リアルタイムではいきなり『ファンシー・フリー』(69)がやってきたように見えていたはずだよねえ。当時の話を読んだことはないのだが。

 

『ザ・クリーパー』での目玉は、なんたって断然1曲目の「サンバ・ヤントラ」だ。も〜う、これ一曲だけでじゅうぶんと言ってもいいくらいなもの。曲題に反しブラジルのほうはまったく向いておらず、完全なるアフロ・キューバン、それもモダン・ジャズにおける典型的なそれだけど、しかしここまで激しく徹底してやりまくっているのはなかなかないよ。

 

「サンバ・ヤントラ」を書いたのは、ピアノで参加のチック・コリア。1967年録音だからキャリアの初期だよね。以前も触れたがチックのばあいは独立前にモンゴ・サンタマリアのバンドで活動していたことからラテン傾向があるんじゃないかとぼくは考えている。現在までずっとそう。三つ子の魂百まで。

 

さらにベースでミロスラフ・ヴィトウスが参加しているけれど、残念ながらアルバム『ザ・クリーパー』では活躍していると言いがたい。それにだいたい弾いてんのか?という程度しか聴こえないよねえ。たぶんミキシングのせいだろう。チックとヴィトウスという新世代、それも1970年代以後のジャズ界の最重要人物になっていく存在がいるわけだけど、『ザ・クリーパー』ではチックのほうに目を向ければそれで OK。

 

1曲目「サンバ・ヤントラ」のこの激しすぎるアフロ・キューバン・ビートですべてを持っていかれる思いだけど、ドラムスのミッキー・ローカーも大活躍だよね。ホーンは三管で、ドナルド・バードのほかにサックスがソニー・レッドのアルトとペッパー・アダムズのバリトン。全員がソロをとるが、やっぱりチックのソロがいちばんいいなと思うのはぼくの欲目か。

 

ラテン・ビートがファンクの基礎にあるんだという話は、このブログでもいままで再三再四くりかえしている。ラテン・ミュージックにあるリズムの跳ねかた、すなわちシンコペイションが北米合衆国のジャズやリズム&ブルーズやロックに流入して、というかそもそもそれらの存立の根本要因としてあって、ファンクネスを獲得するにいたる大きな源流だった。

 

だから、モダン・ジャズ、というかハード・バップがあんななめらかでスムースに進むフラットなビート感を持っていたところにラテン・シンコペイションがくわわって、それで1960年代末ごろからのジャズ・ファンクへ流れていくことになったんだと見て間違いないように思うんだ。だからドナルド・バードの『ザ・クリーパー』1曲目の「サンバ・ヤントラ」みたいなのはいくら重視しても重視しすぎることはないはず。ドナルド自身、数年後にファンク路線に転ずることとなったけれど、ちゃんとこうやって伏線というか準備段階があったんだ。

 

アルバム『ザ・クリーパー』では、それ以外は、6曲目の「アーリー・サンデイ・モーニング」がほんのり軽いラテン・ビートが香り、これはいわゆるブーガルー・ジャズ、すなわちリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」の路線だなと思う。だからこれも #BlueNoteBoogaloo だ。

 

これら二曲以外はふつうのモダン・ジャズ演奏が並んでいるという印象で、どうってことないかな。でも2曲目のバラード「アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー」はかなりいい出来だ。邦題が「シェルブールの雨傘」で、ミシェル・ルグランの書いた名曲。ドナルド・バードはこういったきれいなバラードをきれいに吹くのがとてもうまいよね。

2019/06/05

CD 買うのにハズレがなくなった

Fullsizeoutput_1e94https://open.spotify.com/album/05enmrBRGHjSeAzjSvh64M?si=VIr0xGX5SN-AVTuMb1vj9Q

 

のは、もちろんネットで聴けるようになったから。ぼくのばあい主に Spotify などストリーミング・サーヴィスでのことだけどね。以前「未知との遭遇」はまだ(仮想でも)CD でのほうが確率が高いと書いたけれど、それが事実であるとはいえ、いったん見つけたらすぐには買わずネットで試聴する。アルバムが Spotify にあれば、まるごとぜんぶ聴けちゃうんだ。聴いて、買う価値ありと判断したのを(ネット・ショッピングで)カートに入れればいいから、外れる可能性なんてなくなった。

 

だからぼくは最近、ネットで聴けないもの(最近なら、たとえばスコットランドのハンナ・ラリティやブラジルの Guanduo など)を除き、すべて Spotify でフル試聴してから CD を買っている。ばあいによっては CD が入手できなくとも聴ければ満足(するしかない)ということだってあるよ。エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 はどうにもフィジカルが入手できなかった。でも Spotify で不足なく聴けて、充実作だとわかる。(注)CD が買えるようになりました。

 

アンガームといえば、もっとすばらしかった2019年新作『Hala Khasa Gedan』もたぶん CD は買えないなとなかばあきらめながら Spotify でなんども聴いて、そのあまりのすばらしさに絶句するしかなかったわけだけど、ダメもとでエル・スール原田さんに非常に強く懇願してみたら、どうやら少数だけ確保できて入荷するようだ。よかった。(注)安定供給かもしれません。

 

しかしその CD が買えるアンガーム2018にしても2019にしても、買う前から大当たりだとわかっている。もうさ、この世の音楽流通の九割以上は Spotify で聴けるんだから、経済的に限度のある一般庶民なら使わない手はないと思うよ。タダ同然で無限に聴ける、しかも高音質なのに、CD 買ってみるまでアタリかハズレかわからないなんていうアホなギャンブルをしている意味がわからない。

 

こないだ書いたノラ・ジョーンズの新作にしろケンドリック・スコットの新作にしろ、どっちもブルー・ノート系だから同レーベルの Twitter アカウントがリリースをお知らせしてくれていて、発売日ピッタリに Spotify で聴けるようになったから速攻でくりかえし聴いた。それで CD 買いたい充実度だと判断したから買ったわけ。

 

ぼくもそうだけど、みなさんもお財布的な限界があるんでしょ。玉石混交でじゃんじゃん買える、その上でハズレは処分してアタリだけ楽しめばいいっていう富豪じゃないんでしょ。いい作品を一枚でも多く買いたいでしょ。そのためにはハズレ作品をなるべく買わないようにするしかないと思うよ。その上でアタリも数多いから厳選するしかないんだけどね。

 

そんなわけで、アタリかハズレか事前にわかっていれば大いに助かる。音楽フィジカルを買うのは、なにも宝くじ買っているわけじゃないんだから、ギャンブル的なスリルとかが享楽になったりはしないと思うんだけどね。すくなくともぼくはアタリの CD しか買いたくない。ひと月にそう何十万円も買えるわけじゃないんだから。

 

そうなれば、あらかじめ聴けるという手段を活用するしかない。大都会の路面店などに足を運べるみなさんは店頭の試聴機や試聴機会を利用して、それを実行していらっしゃるのだろう。愛媛県大洲市というド田舎に住むぼくにはそれが不可能。だったら月額たった980円の Spotify プレミアムしかないじゃないですか。

 

そんなわけで、最近ぼくはこんな考えに到達しつつある。それは、この世の音楽作品は二種類に分かれる。ネットで聴けるものと聴けないものだってこと。

2019/06/04

ストーンズ『レット・イット・ブリード』では A 面がいいね

Fullsizeoutput_1ed3https://open.spotify.com/album/4l4u9e9jSbotSXNjYfOugy?si=ozk2Rg8wQe2E0qPDY9fkpw

 

ローリング・ストーンズ『レット・イット・ブリード』(1969)では B 面がイマイチに聴こえるけれど、A 面は最高にすばらしい。黒っぽいリズム&ブルーズ調のオリジナル「ギミー・シェルター」で幕開け。そこからしてすでに文句なしだ。こういったブラック・ミュージック的なのはカヴァーが多かったストーンズだけど、バンド結成後七年でオリジナルでもここまでできるようになった。

 

2曲目「ラヴ・イン・ヴェイン」はロバート・ジョンスンのブルーズがオリジナルだけど、それがブギ・ウギ調だったのに対し、ストーンズはブルーズくささを消して、切なく甘いロッカバラードに解釈しているのがなんともいえず見事だ。ロバート・ジョンスンのオリジナルにバラード感覚がひそんでいると見抜いての展開で、本質をつかむとはこういったことを指すのだろう。個人的にはストーンズ・ヴァージョンでこの曲を知ったので、ロバート・ジョンスンのオリジナルはいまでも物足りず。

 

カントリー・ナンバーである3曲目「カントリー・ホンク」はもちろん「ホンキー・トンク・ウィミン」のプロトタイプだ。ブルージーなロック・ナンバーな後者に対し、ここでは完璧なるカントリー・ナンバー。フィドルまで入る。この時点でグラム・パースンズとの親交がはじまっていたに違いないとわかる音楽性だよね。カントリー・ロックではなくカントリー・ナンバーだ。

 

『レット・イット・ブリード』やこの時期のストーンズとしては、4曲目「リヴ・ウィズ・ミー」がやや異質なハード・ロック・ナンバー。出だしのエレベぶいぶいはどう聴いたってビル・ワイマンのはずがないぞと思って調べたら、やっぱりキース・リチャーズじゃん。ギターはもちろん弾いているが、ミック・テイラーとの役割分担がぼくにはわかりにくい。

 

ところでこの「リヴ・ウィズ・ミー」という曲のことがぼくは大好きなんだけど、理由のひとつとして中間部でボビー・キーズのテナー・サックス・ブロウが入るということがある。ジャジーだし、テキサス・ホンカーでありながら、ここでは都会的な夜の雰囲気を演出しているなと思う。キースの弾くエレベや(テイラーもふくめの)ギター・ワークとあわせ、洗練された都会の大人のムードがあるでしょ。AOR 的と言ってもいい??そんなところが大好き。

 

わかりやすくコピーしやすい5曲目「レット・イット・ブリード」。歌詞もメロディもリズムもいいね。コピーしやすいというのは本当で、なんたってこのぼくですらこのアクースティック・ギターの刻みをやりながら弾いて歌えていたほど。ちょうど20世紀の終わりごろ、ネットで知り合った音楽仲間たちとスタジオでこれをやって遊んでいた。きっかけはスキマ時間にぼくがギターを借りてこれを弾きだしたら後ろのドラマーがその場で合わせてくれたこと(そのひとは本来ベーシスト)。それでちょろっと歌ってみた。同じ3コード反復でカンタンなんだ。

 

しかし素人にはコピーできないのが、曲「レット・イット・ブリード」に漂うフワ〜っとした幕のようなサウンドというかアンビエンスで、たぶんそれがビル・ワイマンの担当となっているオートハープかなあ。もちろんライ・クーダーの弾くスライド・ギターも絶対に真似なんてできないもの。一曲全体をライのスライドがラッピングしていることで、この曲「レット・イット・ブリード」にアメリカ南部的なイナタさが付与されている。

2019/06/03

サンバ・カンソーン二題(2)〜 エレーナ・ジ・リマ

1007845145https://open.spotify.com/album/7605mLWOh3U3f1bWhNvlk0?si=XB2MhZQIQbCsp7WFnEa1sg

 

エルザ・ラランジェイラのリイシュー盤を買おうとして、ディスクユニオン通販の同じページに掲載されていた同じ復刻レーベルの同じシリーズということだからついでに買ったブラジルの歌手エレーナ・ジ・リマの二枚。そのうち『a vos e o sorriso de Helena de Lima』(1961)の話をしておきたい。このひともいいサンバ・カンソーン歌手だなあ。

 

このアルバムを聴くと、エレーナは、たとえばエルザ・ラランジェイラと比較してクラシカルな感じがする。エルザよりも躍動感と表情に乏しいかもしれないが、端正で典雅だ。現代のサンバ歌手、そういえば、エレーナもこのアルバムで「ノティシア・ジ・ジョルナル」をやっているからと思ってニーナ・ヴィルチと比べたら、やっぱりエレーナにスピード感はない。なんだかもっさりしている。

 

でもこういったことは、必ずしも欠点にならないと思うんだよね。かえってエレーナの優雅さを際立たせることになっていて、しかもゆったりと夜のしじまに漂うような雰囲気を実にうまく表現できることにつながっているかと思う。伴奏を担当する RGE のオーケストラも似たようなクラシカルなムードだ。アレンジはポショかネルシーニョ。ストリングスの使いかたもいいね。

 

そんなエレーナだから、アップ・テンポで軽快にやるような曲よりも、スローでゆったりした曲のほうが似合っているし出来もいいように思える。このアルバムだと、たとえば1「ジ・アゴスト・ア・セテンブロ」、4「オウヴ、メウ・アモール」、5「ペルドナ、メウ・ベン」、11「カンソーン・ジ・アモール」なんか、特にいいね。

 

それらの曲では、歌に込める情感の表現法が格別ていねいで、ことばをしっかりこまかく扱って、大げさにならないようにクールに歌うのかと思いきやかなりエモーショナルに熱い思いを出して強く長く声を張ったりもする。フレーズにつける表情はやや一本調子かなと思わないでもないけれど、抑揚を大きめにとってエレーナなりの哀感や笑顔をうまく見せている。

 

そんなサウダージなバラードの数々で実力を見せるクラシカルなサンバ・カンソーン歌手エレーナ・ジ・リマだけど、アルバム中9曲目の「エウ・ソウ・エウ」だけは、ボサ・ノーヴァになっているんだよね。もっさりしたエレーナなのに、この曲ではこのリズムに乗ってはずむように軽快に歌いこなしているのが印象に残る。声も抑えてソフトに軽く発音しているのが、当時の新音楽ボサ・ノーヴァによく似合っているしね。思わぬめっけものだ。

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