2019/02/23

いつも周回遅れ

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という思いがぼくをずっともう40年近く駆り立てている。これこそ、音楽にかんするときの最大の原動力なんだよね。ぼくは音楽のなにについても常にすでに遅れている。いつもだれかに教えてもらってばかりだから、一歩も二歩も遅れているというだけじゃない、なにかを知るのが最新流行形じゃなくなってからなのだ。どんな音楽、音楽家についてもずっとそう。いつも常にすでにぜんぶそう。これを巻き返したい、そんな気持ちで熱狂しているんだよね。

たとえば、ぼくの愛好するマイルズ・デイヴィス。出会ったのは1979年だったので、ちょうどかの一時引退期の真っただ中。ってことはリアルタイムでこのひとのニュー・リリースやライヴに接してきたのは1981年の復帰後だ。これがなんとも歯がゆくてしかたがない、という激しい思いでずっとやってきた。

だってさ、やっぱりどう聴いたって1975年までのマイルズ・ミュージックのほうが魅力が強いんだもん。いくらリアリタイム体験のせいで思い入れが強いとはいえ、一歩引いて冷静になって聴いて考えれば、1981年復帰後のマイルズは力が落ちた。トランペット吹奏能力だってバンドの統率能力だってリズムやサウンド・メイクについてだって、甘くゆるくなってしまった。

中山康樹さんはちょうど10歳年上だったんだけど、1973年の来日公演時が生マイルズ初体験だったらしい。なんともうらやましいかぎり。ご本人も、もしかりに73年が初体験じゃなかったらここまでのマイルズ者になっていたかどうか疑わしいとどこかでお書きになっていた。73年の前が64年だから、まさにここしかないっていうベスト・タイミングだよねえ。いいなぁ。ぼくはこんなぐあいに遅れている。巻き返さなくちゃ。

マイルズだけじゃない、好きな音楽家、歌手、みんな、ぼくが知ったのはいちばんいいときじゃない。ジャンルや分野の流行にしたって、終わりかけに or 終わってから知って好きになる。だから時代のなかでスポットライトを浴びて輝いている瞬間を、知らない。そんなにリアルタイム体験を重視しない人間じゃないかアンタは、と言われそうだけど、結果的にそうなっているだけで、そのおかげでふだんはすっかりあきらめ気味で、ヒットチャートなんか横目で見ながらケッとか思うようになっちゃったヒネクレ者なだけだ。ハナからそうありたいわけじゃない。

あるいは将来芽吹くかもしれない才能を、つぼみの時期に見出し拾って、応援し、成長を見守りながら聴き続け、大成を見届けるという体験なんかもぜんぜんない。そんな発掘能力もゼロなんですけれども、たとえば岩佐美咲。まだまだこれからの歌手じゃないかと見られていそうだけど、ぼくが聴きはじめたのは2017年の2月だ。みなさん、その数年前から応援し続けてきていた。そんななかのおひとりが手ほどきしてくださったのだ。

未知の才能を見抜き発掘する才もなければ、時代の流れにリアルタイムで乗る才もないぼく。そんなチャンスがなかったわけじゃないと思うけれど、そもそも向いてないんだね、音楽へのそんな接しかたに。ぼくには無縁な聴きかたなんだろう。できない。どうしたらできるかわからない。するつもりもなくなった。今後のことはわからないけれども。

だから、あれだなあ、半田健人っていうひとがいるでしょ。まだ若いのに(20代だっけ?)日本の古い歌謡曲の世界に精通しているっていう彼。ぼくの音楽狂ぶりは、そんな半田くんのああった姿に通じるものかもしれない。自分は生きていない時代の、過去の、音楽だからこそ夢中になれているっていう、それでディグしまくって詳しくなってしまい、しまいにウンチクを語りはじめるっていう、そんなありよう。

半田くんがどうかは知らないんだけど、ぼくは自分のそんなありようをたいへんもどかしく感じ、なんとか遅れを取り戻したい、巻き返したい、先輩がたに追いつき追い抜きたいという、そんなある種の焦燥感にずっと駆られてやってきている。この焦りは、だからコンテンポラリーな流れをつかもうというほうにはちっとも向かわず、ひたすら古い音楽の同時代性みたいなことばかり考える方向へ行っているんだよね。

2019/02/22

アメリカ南部のブルーズと英国トラッド 〜 レッド・ツェッペリンで

もっともこれはブルーズじゃなくて、ゴスペル・ソングだけどね。でも『プレゼンス』での初演以来、レッド・ツッェペリンはブルーズとして扱ったきたというのが事実。それに実際、第二次世界大戦前のギター・エヴァンジェリストの世界は、弾き語りブルーズと(歌詞内容以外では)差がないんだしね。だから、「ノーバディーズ・フォールト・バット・マイン」もブルーズみたいなもんだろう。

それをジミー・ペイジ&ロバート・プラント名義のアルバム『ノー・クォーター』(1994)では、お聴きのとおり、ブリティッシュ・フォークの趣でやっている。これはこの CD 発売当初、ちょっとした驚きだった。渋い、渋すぎるとみんな言っていたけれど、これがいったいどういった試みなのか、いまだにちゃんと解明してある文章に出会わないから、ぼくが今日ちょっとやってみる。

ハーディ・ガーディのクレッシェンドで入ってくるイントロにドラムスが入り、アクースティック・ギター二本とバンジョーがからむというサウンド構成からして、完璧にトラッド・フォークのそれじゃないかな。ロバート・プラントは年齢のせいもあってかつてのようなハード・シャウトは不可能だが、可能だったとしてもここではそんなシンギングを抑えたはず。実際、ここでも落ち着いた表情を見せている。

こんなサウンド・メイクとシンギングを、さかのぼってレッド・ツェッペリン時代からちょちょっと拾って並べたのが、上のプレイリストだ。初期に集中しているのは当然だけど、意外にも『II』からの曲がない。『III』の B 面はもちろんそのままぜんぶ入れてある。そここそが、こんなトラッド・フォーク・ブルーズみたいな世界の、ツェッペリンにおける、最大の展開だったんだから。

ツェッペリンにおけるトラッド・フォーク路線は、しばしばケルト神秘主義と結合していた。そんな合体と、さらにそこに、このバンドの特色だったメタリックなハード・ロック傾向を加味して昇華したのが、1971年リリースの四作目だね。やはり A 面ラストだった「天国への階段」で完成を見たと考えていいんだろう。ただし、この名曲はトラッド・フォーク・ブルーズといった趣はやや弱くなっていて、その前の「限りなき戦い」のほうに、個人的には大きな魅力を感じる。

ファースト・アルバムにあった「ブラック・マウンテン・サイド」は、もちろんバート・ヤンシュが伝承曲「ブラック・ウォーター・サイド」を弾くそのギター・パターンをそのまま拝借してタブラを足しただけ(で自作とのクレジットだったんだよな〜)のものだけど、ヤンシュはアン・ブリッグズからこの曲を教わったらしい。アン・ブリッグズの世界は『レッド・ツェッペリン III』B 面にもかかわっていそうだね。

『III』B 面に来て、「ギャロウズ・ポール」はやはりトラッド・ナンバーだけど、後半はややロックっぽいハードさもある。プラントもシャウト気味になっているし、そのあたりはややいただけない。最後までじっくり淡々と進んでほしかった。がしかしこの伝承曲(レッドベリーがオリジナルだとか、レッドベリー・ヴァージョンを下敷きにしたとかいう文章も見るが…)をとりあげたということじたいに、ある種の強いアプローチを読み取れる。

「タンジェリン」「ザッツ・ザ・ウェイ」「ブロン・イ・アー・ストンプ」と自作ナンバーが続くけれど、ソング・ライティングにはあきらかなトラッド・フォーク/バラッドからの影響が聴けるよね。アン・ブリッグズの影みたいなことはこんな部分にもある。ツェッペリンがアンのファンだったことは間違いないんだから。ところで、失恋をテーマにした「タンジェリン」って、本当にいい曲ですねえ。

『III』のラスト「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー」は、最も鮮明にはブッカ・ワイトのやる「シェイク・エム・オン・ダウン」を参照している、というかそのまんま。ブッカはアメリカ南部の弾き語りブルーズ・マン。「ハッツ・オフ」も、基本はブルーズ・ソングなのだ。伴奏はアクースティック・ギターでの(ブルージーでもない)スライド・プレイのみ。

アメリカ南部のブルーズをとりあげて、それを「ギャロウズ・ポール」「タンジェリン」「ザッツ・ザ・ウェイ」「ブロン・イ・アー・ストンプ」に続けて、サウンド・メイクもまるで UK トラッド・フォークみたいにした「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー」のことは、なんだかみんな嫌いらしいんだけど、考えてみたら1994年の「ノーバディーズ・フォールト・バット・マイン」へ続く道が敷かれていたんだね。

英国の&英国由来の(アメリカにも伝わった)伝承バラッドの世界は、あんがいアメリカ南部産のブルーズの世界と密接な関係がある。かのマディ・ウォーターズのレパートリーのなかにも「ローリン・ストーン」みたいな非黒人ブルーズ的というか、民謡っぽい曲があったりするし、ブルーズ・メン、ウィミンもよくやる「スタッカリー」なんかも伝承の物語歌、つまりバラッドなんだよね。アメリカ南部に伝わったバラッドというかお話は、黒人白人の共有財産だったものも多いし、たいていフォームもリズムも明確でない。

ブラインド・ウィリー・ジョンスンのやった「ノーバディーズ・フォールト・バット・マイン」は、ブルーズではなくゴスペルだけど、彼が録音する前から代々伝わってきていた民謡的な物語歌であったのは疑いえない。主にアメリカ南部で歌い継がれてきていたものをピック・アップしてレコードにしただけだ。

そんなことのルーツに英国産バラッド、つまり UK トラッド・フォークの世界があるのかもしれない。「ノーバディーズ・フォールト・バット・マイン」のジミー・ペイジとロバート・プラントがどこまで意図して掘り下げ読み込んで解釈したのかわからないが、一流音楽家ならではの直感的洞察だってあったと言えるのかもしれないよ。

2019/02/21

マイルズ『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』はアルバム・プロダクションがいい

マイルズ・デイヴィスのオリジナル・クインテット1955年初録音を含むコロンビア盤『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』(1957)を Spotify でさがすと、このレガシー・エディション(2007)しかないようだ。追加分は無視してオリジナルどおりの全六曲で話を進めたい。そうすると、大評判となってマイルズのイメージを決定づけた表題曲だけじゃなく、アルバム全体がかなりよくできているなとわかる。

コロンビアとしても次世代スターとして目をつけプレスティジから引き抜いたマイルズの、レギュラー・コンボでのコロンビア・デビュー作なんだから、スカウトにしてプロデューサーだったジョージ・アヴァキャンだけでなく、みんな気持ちを入れて制作にあたったんだなあと、全体を通して聴くと鮮明なんだよね。

この、アルバムとして全体的によく考え抜かれている、トータル・プロダクションがいいということは、アルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』についてはあまり言われたことがないので、今日ぼくが書いている次第。だいたいさ、ジャズ・ミュージックって演奏家の力量やアド・リブ内容ばかり言われて、トータルなサウンド・メイクとかプロダクションとかは大部分のファンも専門家も無視か軽視してきている。よくない傾向だ。

それでも代名詞的な一曲とコロンビアも考えたセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」をアルバム・オープナーに持ってきているのは当然だ。その内容について繰り返すことはもはやない。2曲目以後の流れを聴いてほしいんだよね。しかもアナログ・レコード時代の片面三曲づつという構成、曲順だって、ていねいに練りこまれているじゃないか。

2曲目が「アー・ルー・チャ」。テーマ部が二管ユニゾンでもハーモニーでもマイルズの独奏でもなく、ディキシーランド・ジャズふうにホーンの二名がからみあいながら進むという、モダン・ジャズにしては珍しい手法だけど、マイルズはたぶんジェリー・マリガンのコンボを参照したのだろう。チェット・ベイカー参加でマリガンが似たようなアンサンブルを試みていた。マリガンは『クールの誕生』セッション時からのマイルズの盟友じゃないか。こころなしかフィリー・ジョー・ジョーンズのドラミングもにぎやかで楽しい。

フィリー・ジョーのドラミングは、というかリズム・セクションの演奏は、次の3曲目「オール・オヴ・ユー」でも典型的にそうだけど、一番手マイルズの背後では2/4拍子のオン・ビートで演奏、しかもドラマーはブラシでおとなしくやって、二番手ジョン・コルトレインのソロになった途端4/4拍子でにぎやかになるっていう、おなじみのやりかた。ボスの指示なのかバンドでの自然発生的なものなのかはわからないが、まず最初マイルズがオン・ビートで吹き出しているのはたしかだ。

こういったことは、プレスティッジの諸作でもよく聴けるものだけど、録音はこのコロンビア盤のほうが早いんだよね。いつごろこのスタイルをマイルズが、あるいはこのレギュラー・クインテットが、確立したのかは、もっと前の時期の音源からじっくりたどってみないとわからない。音源の絶対数が少ないけれどもね。まぁファースト・クインテット結成前にはあまり聴かれなかったスタイルには違いない。

三番手レッド・ガーランドのソロでの右手シングル・トーンでの玉もいい「オール・オヴ・ユー」で、レコードでは A 面が終わり。ここで盤をひっくり返して B 面の「バイ・バイ・ブラックバード」になるけれど、その出だしのレッドのピアノ・ブロック・コードによるイントロ部がぼくは本当に好きなんだよね。パッと世界が明るくなったみたいで。

A 面はやっぱり「真夜中あたり」が代名詞だから、なんだかんだ言って片面通して夜の雰囲気だけど、B 面に来て夜が明けたかのような、なんだか幕が上がって朝になり光が当たったみたいな、なんだかそんなムードがするなあと、むかしからぼくは感じている。つらいこと、悩みごと、暗い気分はさようならといったような「バイ・バイ・ブラックバード」では、マイルズもいいが、やっぱりレッド・ガーランドのソロ内容がとてもすばらしい水を得た魚。

5曲目、タッド・ダメロンの「タッズ・ディライト」にしたって喜び爆発みたいな明るさで、ここではこの時期に珍しくコルトレインのソロもなかなかいい。たぶんこのアルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』で聴けるトレインのソロのなかではいちばんじゃないかな。また、一曲を通し、フィリー・ジョーがときどきリズムにアクセントを付与しているのもおもしろい。ちょっぴりだけのポリリズム?ただのお遊びだろうけれども。

続くアルバム・ラスト「ディア・オールド・ストックホルム」は、マイルズ自身1952年にジャッキー・マクリーン参加でブルー・ノートに録音している。そっちはひたすらこの曲の哀愁感を強調したような演奏内容だったのに比し、この1956年コロンビア・ヴァージョンではリズム面での探求に重きが置かれ、湿った情緒を消し、乾いて硬質な感じの演奏に仕上げているのが興味深いところ。

こんな六曲を、AB 両面に三曲づつ割りふってこの曲順で並べたジョージ・アヴァキャンのプロデュースぶりは、やはり見事だったというしかない。すばらしい仕事だし、マイルズ・デイヴィスというニュー・スターの実質メイジャー・デビュー盤にふさわしいトータリティを持ったアルバムだ。

2019/02/20

一枚一曲

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一日一善じゃないけれど、音楽アルバム一枚につき一曲でも二曲でもいいものがあれば幸いじゃないだろうか。というのがぼく個人の考え。というより信念なんだけどね。きわめて個人的なものだから、この見解をひとさまにあてはめて考えようとか押しつけようなどとは微塵も思っていない。自分のなかでだけ、これをいろんなアルバムに適用している。

もともといろんなアルバムから一曲単位で抜き出してマイ・フェイヴァリット・コンピレイションを作成する性癖のある人間で、これは高校生のころからずっと変わらずそう。そのまま約40年が経過しているけれど、マイ・ベスト・セレクションを、まず最初カセットテープで(この時代がいちばん長かった)、次いで MD で、それから CD-R で、最近は物体でなく Spotify などのプレイリストとして、もうず〜〜っと作ってきているんだよね。

ってことはだ、商品としてお店で売っている音楽アルバムは、一枚(とか二枚組とか)全体が完璧ですべてがすぐれた曲とか自分好みのものばかり並んでいるなんてことは少ない、まずありえない(からベスト・セレクションを作る)と、直感的に高校生のころから知っていたということにもなるねえ。

ちょうどその高校終わりごろか大学生のころか、どなたかジャズ専門家のかたの文章で、一枚のアルバムにちょっとでもこれはいい!と思えるものを一個でも見つけられればもうけものと思わないといけません、とあったのを読み、うんうんそのとおり!と心からうなずけたのだった。そう、まさにこれこそ<アルバム>というものに対する個人的見方なんだよね。

アルバムを一個のトータリティとしてみなす、たぶんそんな考えが世間で一般的なんじゃないかと思うけど、たかだか1960年代なかごろに実現しはじめた概念だ。レコーディッド・ミュージック全体の歴史からすれば、まぁそれがいつまで続くのか、今後も何千何百年と続くのかわからないが、2019年時点では、かなり歴史の浅い考えかただ。アルバム=トータル・ワークというとらえかたはね。

ぼくはそんなものをぜんぜん信用していない。アルバム album っていうくらいなんだから、それはもともとかき集めたものっていうことだ。それがトータルで見てダメな曲がひとつもないなんてことのほうがまれじゃないかな。逆に言えば、ちょっとくらい石が混じっていたって、そんな程度のことでそのアルバムを評価できないなんて考えはじめたらオカシイ。本末転倒だよね。

それにあれだ、ずっと前に書いたけど、音楽は一曲単位の文化だというのがぼくの強い信念なんで、これは片面一曲単位である SP 時代の音楽にのめり込んできたからという理由もさることながら、最初から LP レコード時代にその形式で用意・発売された音楽作品でも曲ごとに抜き出して聴くっていう、そんな発想がぼくの芯奥にしっかりある。

もうひとつは、LP レコードを買うようになる前の思春期、テレビの歌番組で日本の歌手たちに夢中だった事実も大きいかもしれない。歌番組ではふつう一曲単位で披露されるし、それがきっかけで45回転のドーナツ盤(片面一曲)もわりと買った。モダン・ジャズの LP に没入して人生が激変したけれど、音楽への接しかたの根本は、そのもっと前に土台が築かれていたのだと、最近は思い出すようになっている。

山本リンダ、ジュリー(沢田研二)、山口百恵、キャンディーズ、ピンク・レディー 、その他 〜〜 こういった歌手たちがジャズにハマる前のぼくの耳を奪い、口と身体をも動かして、脳のなかにも沁み(染み)ついていたんだよね。彼らはアルバムも出すけれど付随的で、シングル盤こそが活動のメインだ。あれっ?なんだかサザン・ソウルの世界?

ともかく、アルバムはただの集合体、寄せ集めただけのものにすぎない。そこに(本来的に求めるのはおかしい)完成形みたいなもの、トータルでのなんらかの意味を読み取ろうとするから、ムダなものダメなものが含まれていると一枚としては評価できないなんていうおかしな考えに至るのだ。幸い、ぼくはそんな妙なものに取り憑かれてはいない。

もちろん、偶然に、いや必然でもいいんだけど、結果的にトータルで完璧なアルバムに仕上がっていれば、それは文句なしにすばらしいことなんで、ぼくだってうれしいんだから、そこを否定したい気持ちなんてぜんぜんないよ。それに越したことはない。

2019/02/19

マイクロフォン出現前のアメリカン・ミュージック

アメリカン・ポピュラー・ミュージック録音史におき、1925年ごろの電気マイクロフォンの登場は決定的転換点だった。それまでのアクースティック録音時代のスター歌手のほぼ全員がこれを乗り切れず姿を消した。生き残ったのはアル・ジョルスンとクリフ・エドワーズくらいなもの。そしてそれ以上に、音楽レコードの歴史が1910年代あたりから語りはじめられることが多く、それ以前のことはまるで歴史に存在しなかったかのような扱いになっている。

中村とうようさんのオーディブック『アメリカン・ミュージックの原点』(1994)は、そんな現状の打破を試みたものだ。ぼくはこの1994年盤を知らない。親しんでいるのは、改訂版ともいうべき CD 二枚組ライス盤の同題『アメリカン・ミュージックの原点』(American Music in the Beginning)だ。2005年のものを持っているが、2012年にリイシューもされたようだ。

このアルバム・セットでとうようさんが示そうとしたことは、大きく分けて二点ある。ひとつはマイクロフォンが出現し電気録音が一般化する前の歌手たち 〜 のほぼ全員が忘れられつつあった 〜 の歌とはどんなものだったのかということ。特にビリー・マレイにフォーカスが当たっている。もうひとつは初期のアメリカン・ダンス・ミュージックで、特にワン・ステップ(=ラグ、とその土台たるリールとカリブなど)が重要だということ。この二点がそれぞれ二枚のディスクに割り振られて音源が収録され解説が書かれている。そういうわけで CD1には歌を、CD2には楽器演奏ものを、それぞれ収録してある。

『アメリカン・ミュージックの原点』CD1と CD2は、そんなに密にからんでいるかどうかぼくにはわからないので、今日は別々に切り離して話を進めることにする。CD1のヴォーカル篇。書いたようにとうようさんはビリー・マレイ(その他)に大きな光を当てている。電気マイクの前で歌うようになってから、アメリカ人歌手はそっとささやくような小さくて細い声での歌唱でも通用するようになったが、それ以前は発声のナチュラルなパワフルさが必要だった。

しかしビリー・マレイらは、クラシック声楽のオペラ歌手みたいな歌唱法ではなく、もっと自然かつ素直に声を出して、それでなおかつ声がよく響きわたるような、そんな声の出しかた、歌いかたをした。しかもわざとらしさも体裁も気負いもなく、開放的なヴォーカル表現法をとっていた。こういったことは、二曲収録のビリー・マレイだけでなく、『アメリカン・ミュージックの原点』CD1収録の歌手たちみんなに当てはまることだ。レン・スペンサー、エイダ・ジョーンズ、ハリー・マクドーナ、コリーヌ・モーガン、バート・シェパードなどなど。

なかでもぼくの耳を強く惹くのは、CD1で14曲目、アル・ジョルスン「私の人生をメチャメチャにしたスペイン人」と15曲目、バート・ウィリアムズ「ノーバディ」、17曲目、フランク・ストークス「ノーバディーズ・ビジネス」だ。ジャズ寄りの歌手なら20曲目、クリフ・エドワーズ「魅惑のリズム」なんか、ものすごい。絶賛のことばしか浮かばない。ともかくマイクがないわけで、ヴォーカルの録音も生音をそのまま針に落とすしかないんだから、声の持つナチュラルな魅力がそのまま出る。つまり<つくりもの>ではない 〜 電気マイク出現後のクルーナーたちの歌をつくりものと呼びたいわけじゃないので 〜 ホンモノの存在感がここにある。CD で聴くぼくにも伝わってくる。

ビリー・マレイだけ、収録の二曲をちょっとご紹介しておこう。

「ヤンキー・ドゥードル」https://www.youtube.com/watch?v=6mKZes-hAgE
「はい、バナナは売り切れです」https://www.youtube.com/watch?v=9mkbYaUh8E8

また、ぼくをとらえて離さないバート・ウィリアムズの「ノーバディ」も。これはライ・クーダーがアルバム『ジャズ』のなかでとりあげてカヴァーした。バート・ウィリアムズは黒人ヴォードヴィリアン。深い内省をこめたこのバート独自の歌は、いつ聴いても泣きそうになってしまうもの。
サッチモことルイ・アームストロングよりも先にちゃんとスキャット唱法を録音していたクリフ・エドワーズ「魅惑のリズム」(1924)もご紹介。曲はガーシュウィンが書いたスタンダード・ナンバーだけど、ウクレレを弾きながら歌うステージ芸人的なクリフのこのシンギングも絶賛するしかないものだと思う。特にスキャットが炸裂する後半部は苛烈にすんばらしい。圧倒的。
こんなにおもしろい歌手たちがいっぱいいた電気マイク登場以前のアメリカン・ミュージックのレコード界だけど、ディスク2のダンス・ミュージック篇のことも書いておこう。収録の25曲がほぼすべてインストルメンタル・ミュージックで、わかりやすく初期アメリカン・ダンス・ミュージックのありようが示されている。

とうようさんの論旨は、電気マイク以前のアメリカン・ダンス・ミュージックの最大の流行はワン・ステップで、その土台にアイリッシュ移民が持ち込んだリールのリズムとカリビアン・ビートがあり、それはダンス形式としてはワン・ステップだけど曲としてはラグタイムであると、まあおおざっぱに見てこんな感じにまとめられるかな。

ラグタイムと書くとピアノ音楽と反射的に思ってしまうけれど、そうではない。スコット・ジョプリンらがああいったたくさんの曲を書く前から、ラグは(主にアメリカ南部に)ひろくあって、それは主にバンジョーなどで演奏されていた。それらの根源は民衆の生活のなかにあるフォーク・ラグだったのだ。フォーク・ラグから各々の演奏家がピック・アップし、最終的にはピアノでやるラグタイムとなって流行したが、それとは別にいろんなラグがあった。ブルーズ・シンガーらがよくやったギター・ラグもそのひとつ。

ラグのリズム感の土台に、ってことはビートの効いたダンサブルなアメリカン・ミュージックの根底に、19世紀のアイルランド移民が持ち込んだリールがあるというのがとうようさんの説で、これはぼくもほぼ全面的に同意。これは論理とか頭で考える理屈じゃない、音を聴けば皮膚感覚で納得できるものだ。『アメリカン・ミュージックの原点』CD2だと1〜4曲目にヴェス・L・オスマン「ワラの中の七面鳥メドレー」、ブラックフェイス・エディ・ロス「ロスのリール」、マイクル・コールマン「シャスキーン〜ジャガイモ袋」、ウィル・イーゼル「ウェストコースト・ラグ」が連続収録されている。

このうち、3曲目のマイクル・コールマンはアイリッシュ・フィドラーで、演奏しているのもスライゴー・スタイルのリール。どうです、このスウィング感!アイルランド伝統音楽のリズムなんだけど、そのままアメリカン・ミュージック・ビートの土台になっているのは明白ではないだろうか。19世紀のアメリカにはアイリッシュ移民がとても多かったんだよ。
CD2収録順に、たとえばこのウィル・イーゼルの「ウェストコースト・ラグ」を聴いてみてほしい。これは典型的なピアノ・ラグライムで、しかも自動ピアノのロールの再現とか近年の再録音とかじゃない、1927年の当時のレコードだ。もはやラグタイムの流行は終わっていた時期だけど。
カリビアン〜ラテン・ビートのシンコペイションも、アメリカン・ダンス・ミュージックの大きな屋台骨だ。それはラグタイムが、基本、アメリカ南部の音楽で、近接するカリブ海のリズムと密接な関係を持っていたから。『アメリカン・ミュージックの原点』CD2には、9曲目、スーザ楽団の「ラ・パローマ」や10曲目、ジェリー・ロール・モートンの「ティア・ホァーナ」といったアバネーラや、さらに15曲目、ベニー・モーテン楽団「黒のルンバ」、16曲目、デューク・エリントン楽団「南京豆売り」が収録されている。あんがいなじみが薄いかもしれないスーザの「ラ・パローマ」だけご紹介しておく。
『アメリカン・ミュージックの原点』CD2では、その前後、ブギ・ウギ、ジャグ・バンド、ワルツ、クレツマー、ポルカといった、アメリカン・ダンス・ミュージックの基本となった要素が次々と紹介されながら、オーラスの25曲目にはリングリング・サーカス専属楽団の「サーカス音楽メドレー」(High Ridin' - Jungle Queen - Roses Of Memory - Stop It)が収録されている。これは、マーチ、オリエンタル・トゥー・ステップ、ワルツ、ワン・ステップと、めまぐるしくリズムが変化するメドレーで、19〜20世紀のアメリカ民衆音楽を網羅したような内容。

2019/02/18

岩佐美咲「恋の終わり三軒茶屋」とカップリング四曲を聴く

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去る2019年2月13日に発売された岩佐美咲のニュー・シングル「恋の終わり三軒茶屋」。三種の CD に収録されているものを整理すると、新曲「恋の終わり三軒茶屋」と、カップリングのカヴァー曲が四つ「あなた」「別れの予感」「恋の奴隷」「お久しぶりね」となります。全五曲、ようやくしっかりと CD で聴けましたので、ぼくなりの感想をちょちょっと記しておきます。

オリジナル楽曲「恋の終わり三軒茶屋」は、いわゆる演歌ではありません。いちおうは演歌歌手という看板で活動している美咲ですが、キャリア初期から、わりと軽めの歌謡曲路線や J-POP テイストな感じはありました。主にカヴァー・ソングでのことですが、オリジナル曲でも「もしも私が空に住んでいたら」みたいな名曲がありましたよね。

しかし今回の「恋の終わり三軒茶屋」は、いままでのそれらどの美咲とも違っています。演歌ではなく歌謡曲テイストな楽曲というのは美咲自身も言うとおりで、それだけならいままでにもあったんですが、今回の新傾向はラテン・リズムを活用した跳ねるフィーリングを持っていて、しかもそれが快活陽気な雰囲気ではなく恋の切なさ、哀しみを表現するための媒介となっているということです。

「恋の終わり三軒茶屋」が跳ねる、つまりシンコペイションをともなうラテン・リズムだというのは聴けばわかることなんですが、実はまったく同じリズムを持つものが、いままでの美咲のなかにたったひとつだけありました。2013年のファースト・アルバム『リクエスト・カバーズ』2曲目の「つぐない」です。いうまでもなくテレサ・テンが歌った曲。

「つぐない」でも「恋の終わり三軒茶屋」でも、表現する楽器こそ違え、ひっかくようにしゃくりあげるこのリズム・シンコペイションのパターンは同じです。ぼくの勝手な想像ですが、今回の新曲プロデュースにあたり、過去の美咲を総ざらいした可能性があるかもしれないです。それで「つぐない」のこのパターンはなかなか魅力的だから同じパターンで新曲をやってみようじゃないかと。

お持ちのかたは、ぜひちょっと連続再生してみてください。「恋の終わり三軒茶屋」と『リクエスト・カバーズ』の「つぐない」。ねっ、同じでしょ。しかも「三茶」のほうはちょっぴりタンゴっぽくもありますよね。

あるいは、こういったラテン、というかはっきり言えばキューバ音楽ふうなリズム・ニュアンスを持つ歌謡曲はとっても多く、日本歌謡界の最大潮流といってもさしつかえないほどなんで、だから美咲の新曲がこうなっても特段どうっていうことないとも言えます。まあ実際ホント多いですよね。みなさん意識せずに耳に入れていると思います。

美咲の新楽曲「恋の終わり三軒茶屋」のぼくにとっての最大の魅力はこういった部分なんですね。テレサ・テン路線で、しかもラテン・テイストな、すなわち「つぐない」と同傾向であるっていう、そんなところです。リズムの色彩感がたまらなく大好きです。またさらに、テレサといえば、今回の美咲の新発売曲のなかには「別れの予感」がありますよね。

これはラテン・テイストな曲ではありませんが、別な意味でとても新鮮です。というのはさわやか J-POP みたいだなあとぼくは思うんですよ。テレサの歌だから J-POP じゃなく歌謡曲なんですけど、美咲ヴァージョンのフィーリングはきわめて21世紀的な最新 J-POP ソングにしあがっていると感じています。ちょうどあのあたりの歌手たちの…、あ、いや、具体名をあげることはよしておきますが、シンガー・ソングライター系の J-POP 歌手に近い「別れの予感」と言えます。

「恋の終わり三軒茶屋」と同系の楽曲は、今回、「恋の奴隷」と「お久しぶりね」ですね。二曲ともラテンな跳ねるリズム・シンコペイションを持っていますからね。美咲自身の心性は S じゃないのかと勝手に思っているぼくですが、それで真性ドM 女の告白みたいな「恋の奴隷」を歌うのはなかなかおもしろいですね。いや、リズムのフィーリングがマジでいいんです、この奥村チヨの曲は。

小柳ルミ子(ぼく好み)の「お久しぶりね」では、リズムの跳ねかた、シンコペイションが一層強調されていますね。美咲の今回の新発売五曲のなかでの白眉、出色の一曲がこれではないでしょうか。ホント〜に魅力的。特にサビに入って「もう一度、もう一度」と歌う部分は、現場ではパパンと手拍子できるもので、そのほか手拍子を裏拍で入れたり休符を入れたりしてリズムに陰影を付けられるのが最高に楽しいのです。

残る「あなた」はご存知小坂明子の曲。今回の五曲のなかではいちばん傾向の異なる、熱唱歌い上げ系ですよね。この曲、しかし熱愛カップル向けみたいに思われているような気がしますが、よ〜く歌詞を聴いてください。あなたが「いてほしい」「それがわたしの夢だったのよ」「愛しいあなたはいまどこに?」となっていますよ。つまりそこに至るまでの、ハッピー・ライフを綴ったような部分は、女性主人公の(失われて叶うことのない)妄想なんですなぁ。

2019/02/17

抒情的な、どこまでも抒情的な、レー・クエン 2018

(ぜんぶ聴けます)

ここのところレー・クエン(ヴェトナム人女性歌手)は、ずっとだれかのソング・ブックを歌っている。一枚の新作につき一人といった具合で。いつからそうなったんだっけ?2014年作『Vùng Tóc Nhớ』がヴー・タイン・アン曲集だったあたりから?もう忘れちゃったけど、この路線でほぼずっと来ている。しかもその2014年作を最後に、CD パッケージが豪華なトール・ボックス仕様となった。

2018年新作『Trịnh Công Sơn』ではさらに、前作同様、一曲につき一枚づつ歌詞が印刷された綺麗なポスト・カードのようなものが封入されていて、それにはレーの美しい姿もプリントされたカラフルさで、(CD パッケージ全体も)豪華で贅沢のひとこと。『Trịnh Công Sơn』は12曲だから12枚。なかにはここで歌われている作家の写真を見上げているショットもある。

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2018年新作『Trịnh Công Sơn』で取りあげられた作家はチン・コン・ソン。そのままアルバム題になっている。このこともずっと続いている傾向だ。続いているといえば最大のものは、レーのこのあまりにも濃厚で抒情的な歌い口だ。これこそレーをレーたらしめている最大の特長。このおかげで、悪く言えばどのアルバムも同じ重苦しさに聴こえ、いっぽうファンにとっては変わらぬ情け深い味わいを楽しめて極楽となる。

サイゴンで活動したチン・コン・ソンには反戦歌などプロテスト・ソングみたいなものもあるそうだけど、レーがそういった歌をやるわけないので、2018年作『Trịnh Công Sơn』でとりあげているのは、もちろんラヴ・ソングばかりだろう。ヴェトナム語の歌詞の意味は聴いてもわからないが、そうに違いないというフィーリングは、聴けば全世界が納得する。

2014年作以来ずっと変わらないレーのこの濃厚抒情歌謡路線、ヴェトナムではボレーロと称される種類のもので、必ずしもキューバやスペインのボレーロと関係なさそうだけど、同国の女性歌手がこんな感じのラヴ・ソングを雰囲気を出してやっているのをくくってそんな言いかたになっているのだろう。レーの2018年作『Trịnh Công Sơn』でも同じ。

この重たく湿度の高い空気感、高域よりも中低域で漂ってひきずるようにフレーズをひっぱりまわす歌いかた。レーはなにも変わっていない一貫性で、ぼくみたいなレーのファンはこれが聴けたら大きく安堵のため息をつき、この世界観にどっぷりと身をひたすことができ、快感だ。反面、苦手とするかたがたは苦手だろうなあ、こういったちあきなおみのような濃厚抒情歌謡世界は。

このへんはたんなる好みの問題だから、いい悪いなんてない。ぼくはレーのこのハスキーなアルト・ボイスが低音域中心で重たく湿って漂うように歌いまわすのがたまらない好物なんだ。気持ちいいんだよね。でもこの2018年作、軽いラテン・タッチだってなかにはある。たとえば7曲目「Dấu Chân Địa Đàng」はわりと鮮明なラテン・リズムを使ってある。

それでも軽妙な感じにはつながらず重たいまななのがレーのレーらしさだけど、ぼくは好きだよ、こういった持ち味とフィーリングと表現法。ラテン・リズムはほかにも随所で(隠し味的にでも)活用されていて、はっきり言えばキューバの特にアバネーラと、ブラジルのボサ・ノーヴァのふたつの応用だけど。う〜ん、この二種の全世界的拡散浸透力には驚くねえ。

全体的には、やはりやや大げさな大映の昼ドラのサウンドトラックみたいなレーの2018年作『Trịnh Công Sơn』なんだけど、「サイゴン暮色とでも言いますか、抒情と憂いが混じり合ったようなチン・コン・ソンのスロー・メロに乗せ、ゆったりと弧を描くような歌声を、いつものあの節まわしを、独特なアルト・ヴォイスで聞かせる」(© エル・スール原田さん)ということになるだろうか。クオリティの高さは安定して維持しているしね。

2019/02/16

すばらしく完璧だった岩佐美咲、新曲発売イヴェント、2 days in 東京

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2月13日に発売されたばかりの岩佐美咲の新作 CD 三種類はもちろん(たくさん)買っています。ですが、まだちっとも聴けていません。なぜならば、発売キャンペーンに馳せ参じるべく、2月12日から都内のホテルにいるので、部屋に再生装置を借りてくるか、聴ける場所に CD を持っていくかしないとダメなんです。でも、キャンペーンの現場 BGM で延々ループ再生状態なので、すでにすっかり聴いちゃったような気分なのがいけませんねえ〜。

すでに聴いちゃったようなといえば、でも実際そうなんです。それも美咲のなま歌でね。とくに美咲ファンじゃないかたもお読みになる可能性をふまえ、いちおう書いておきます。美咲のニュー・シングル「恋の終わり三軒茶屋」が、ついこないだ2019年2月13日に発売されました。美咲のためのオリジナル新作曲「恋の終わり三軒茶屋」と、カップリングで四曲「別れの予感」「あなた」「お久しぶりね」「恋の奴隷」が収録されています。

それで発売記念のイヴェントというかキャンペーンがどんどん行われるわけですが、そのうち最初の二日間、四回に参加したというわけです。今回はなにかあるぞと、1月26日のソロ・コンサートで新発売予定の五曲を聴いたときから、なんらかの勘が働いていました。それで急遽参加しなくちゃ!という気持ちになったのです。これに行かずしてどれに行く!?とね。以下は現場におき自分でメモしたセット・リストです。

2月13日
・音のヨーロー堂(浅草)
1. 鯖街道
2. 瀬戸の花嫁
3. お久しぶりね
4. 恋の終わり三軒茶屋

・アキバ・スクエア(秋葉原 UDX)
1. 無人駅
2. 恋するフォーチュンクッキー(演歌 ver)
3. 別れの予感
4. 恋の終わり三軒茶屋

2月14日
・音曲堂(小岩)
1. 鯖街道
2. 東京のバスガール
3. あなた
4. 恋の終わり三軒茶屋

・タワー・レコード浦和店
1. 初酒
2. 虹をわたって
3. お久しぶりね
4. 恋の終わり三軒茶屋

まだ聴けていないんだから新作 CD の話はできません。がしかし、新曲発売にあわせ都内や近郊で行われている岩佐美咲のキャンペーンの初動に駆けつけて、実際に美咲のなま歌で、「恋の奴隷」以外をすべて体験できましたので、その姿を記しておくとします。いやあ、マジほ〜んとすんばらしかったんですよ〜。やはり年に一回の(カウントされる)ソロ・コンサートと、それからこれも年一回の新曲発売記念イベントは、美咲自身の気持ちが乗っていますね。すばらしさがまったく違います。

結論から言って、上記16歌唱はほぼすべて完璧な絶品でした。こないだ1.26のソロ・コンサートのへんから実感していたんですが、美咲は最近グンと大きく成長しました。どこにそれを感じるかというと、なによりもその声の質です。いままではわりとアイドル出身歌手らしい素直なキュートさがメインだったと思うのですが、2.13、2.14に聴いたら、可愛らしさはそのままなんですが、大人らしい落ち着きと色気と艶と張りと伸びがグンと増していました。

しかも、ナチュラルさはまったく失っていないどころか、そんな自然体歌唱法にいっそう磨きがかかったという印象の二日間でした。特にワン・コーラス終わりで声を伸ばしながらスーッとデクレッシェンドしていくあたり、これ以上ない声の美しさでした。過去楽曲で大きな進歩を聴かせ(だから、いままでのヴァージョンでは物足りなく感じてしまうと、ホテルの部屋で聴きながら思っています)、新発売楽曲ではまだ聴いていないので楽しみがふくらみました。いやあ、ここまでの歌手になっているとはねえ。

歌唱技巧という点でも、もはや現在の日本歌手のなかでもトップ・ランクにまで到達しているのは間違いないと、これも二日間で実感しました。まず、計16歌唱、音程を外すということが一瞬たりともありませんでした。ライヴでですよ。ふらつきやあいまいさすらぜんぜんなく、あらゆるすべての瞬間でピッチが正確でした。いくら美咲でもなま現場ではいままで揺らぐこともあったのです。それがきれいに消えていました。

音程がきわめて正確なばかりか、たとえばワン・コーラスの歌い終えで高音部になるとき、あれはファルセットに移行しているときがあると思うんですが、「思うんですが」というのは、一瞬そうとは気づかないんです。これはすごいことですよ。地声とファルセットはふつうの歌手では声の色が異なりますからね。ところがこの二日間の美咲は、ファルセット移行時に声のトーンをほぼ変えずに、きわめてスムースにすっと上昇するのです。最高級の巧さじゃないでしょうか。美咲を聴き慣れていないかたなら、ファルセットだと気づかないと思います。

2.13、2.14では、フレイジングにも特に誇張も強調もなく、抑揚も大きくなく、ふつうに歌メロをナチュラルに歌っていて、だからわざとらしさがぜんぜん感じられず、きわめて素直で自然なフィーリングで美咲は歌っていました。それなのに、客席にいるぼくたち聴き手のメンタルにこれ以上ないしっかりした印象を残すあざやかさだったんです。こんな芸当ができる歌手が、いま現在の日本で、ほかにいるのでしょうか?美咲こそナンバー・ワンじゃないでしょうか?

昨年11月の四国での歌唱イヴェントの記事を書いた際、やはりこういったなま歌現場ではアピールしないといけないから気持ちが入って、フレイジングを工夫してやや大きめに抑揚をとったり表情が豊かになるんですね、という意味のことを書きました。しかしこの二日間、2.13、2.14ではまったく違ったイメージです。現場でのなま歌唱であるにもかかわらずナチュラル・メイクな(あるいはすっぴん?)歌表現で、素材(歌)のよさをそのまま活かすように自然に、ある意味軽くすっと声を出し歌っていましたからね。

そんな軽くすっと出した声に、あんなキラキラした色艶がこもっているのですから、これはもう、岩佐美咲という歌手本来の持ち味がそこまで上昇している、歌手として大きく成長しているというなによりの証拠じゃないでしょうか。ぼくはそう考えています。今2019年に入ったあたりから美咲は変貌しました。成長を遂げました。巧さと表現力に深みをグンと増しました。

観客の反応からもそれはわかりました。たとえば浦和でのイヴェントは、店内の小スペースでのもので、タワレコさんも営業中で関係ないお客さんもたくさんいるということで、いつものようにレスポンスできず、「わさみん」コールはなし、掛け声もほぼなし、拍手も控えめで、というものでしたが、美咲が歌い終えると、オオォ〜という反応が客席に自然に湧き、思わずという感じで自然発生的に拍手が起こっていましたからね。すなわちいつもの<応援>ではなく、歌があまりにもすばらしすぎたため拍手してしまうという感じだったんです。2.14 タワレコ浦和店での美咲は神がかっていましたねえ。

こんな美咲の歌の姿、2.13、2.14と二日間で計四回16歌唱聴けた岩佐美咲こそ、この歌手の真の姿、真のすばらしさなのか、しかもそれが普段着なのと思うと、愛媛に住んでいてなかなか足を運べないぼくはなんだか悔しい思いすらありますが、ここまで見事な美咲を聴いちゃったら、またちょくちょく、は無理にしても可能な範囲で上京せざるをえないでしょうね。やはりホーム・グラウンドでの歌はリラックスした状態で声のよさがすっと出せるんでしょうね。そんな気がしました。

さあ、もうすぐホテルをチェック・アウトしなくてはなりません。自宅に戻って新発売の CD 三枚を聴くのがおおいに楽しみです。特に「恋の奴隷」(奥村チヨ)はなま歌で聴けませんでしたしねヾ(๑╹◡╹)ノ。

2019/02/15

パリのブラウニー(3)〜 歌こそは君

(今日の文章は定説をなぞっただけになりましたので、お読みいただく価値はありません)

『ザ・コンプリート・パリ・セッションズ Vol. 3』の聴きどころは、やはりなんたって大半を占めるワン・ホーン・カルテットもの。それを Spotify でさがすと、これまたマスター・テイクしか見つからなかった。がしかしそれでじゅうぶんかもしれないね。ブラウニーほどの天才でも別テイクでさほどの差は聴けないからだ。じゃあチャーリー・パーカーみたいなのは天才というよりやっぱり分裂症?これは関係ない話だった。

ブラウニー1953年パリ・セッションのハイライトは、おととい書いたようにぼくのなかではビッグ・バンドによる「ブラウン・スキンズ」2テイクスなんだけど、一般的にはこのカルテット演奏六曲こそ白眉だろう。朗々とブラウニーが吹きまくるジャズ・トランペットの醍醐味をこれでもかと満喫できるんだから、ぼくだってこの見方に異論はない。

1曲目「ブルー・アンド・ブラウン」出だしの無伴奏パートから、はやくもこのブリリアントな音色がきわだっているが、その後リズムが入ってきてからでも、あるいはこのパリ・セッションに限った話じゃないけれどいつでもブラウニーのサウンドは、歯切れいい。きわめてよすぎると言いたいくらいなもんで、ちょうど滑舌良好なアナウンサーの実況でも聴いているような快感。ブラウニーのばあい、たぶん、タンギングが見事だからなんだろうなあ。

「ブルー・アンド・ブラック」は自作ナンバーだけど、このワン・ホーン・カルテットのセッションでは、このときの一連のパリ・セッションズの音楽監督だったジジ・グライスがいないためコンポジション/アレンジで頼れず、したがって有名スタンダードを選曲しているのもかえってなじみやすいところ。このへんもカルテット・セッションの人気が高い一因だね。

2曲目「アイ・キャン・ドリーム、キャント・アイ?」も文句なしだが、ぼくが好きなのはその次の「ザ・ソング・イズ・ユー」。これはたんにジェローム・カーンの書いたこの歌のことが大好きだからっていうだけのことかもしれないんだけど。それをブラウニーみたいなトランペット・シンガーがやってくれて、うれしいってだけかもね。でも、すごくいいじゃん、この演奏。まったく一毛の破綻もなし。完璧すぎる。

ファンが多いのは、その次の二曲「カム・レイン・オア・カム・シャイン」「イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング」だよね。たしかにこのふたつも文句のつけどころがない。特にリチャード・ロジャーズの書いた後者かな、あまりにも見事な歌心の権化ぶり。まさに歌こそは君。これはブラウニーのためにあることば。

2019/02/14

パリのブラウニー(2)〜 あんがいビックス的な

(『ザ・コンプリート・パリ・セッションズ Vol. 2』をネットで探すと、マスター・テイクしか見つからないです)

ところで、ジジ・グライスのやわらかいアルト・サックス・サウンドって、クリフォード・ブラウンのトランペット・サウンドとの相性がとてもいいと思う。ブラウニーらのパリ・セッションのお膳立てをしたのは、ライオネル・ハンプトン楽団の公演で彼の輝かしいトランペット・サウンドに感動したアンリ・ルノーだったとのこと。アンリはセッションにも参加し活躍しているが、ジジをくわえたのは大正解だった。音楽監督役をお願いしたということもあったろうけれど。

そんなことが『Vol. 2』の大半を占めるセクステット録音でもよくわかる。「マイノリティ」でも「サルート・トゥ・ザ・バンド・ボックス」でも、ブラウニー&ジジ・グライスの二管の響きがとてもいい(六人なのはリズム隊が四人なため)。テーマ演奏部のアンサンブルはどうってことない気がするが、ソロ・パートになり、まずジジが出て、二番手でブラウニーが出た瞬間に世界が輝きはじめるのだった。むろん、ジジのソロだっていいよ。

1953年10月の録音だけど、ブラウニーはすでに文句の付けどころがぜんぜんない。完璧に完成されている。唇や舌を使う技巧にしてもそうだし、音色だってブリリアント、そしてフレイジングはどの曲のソロでも歌心満点で、しかも、前日も書いたようによどみない。スラスラと、あまりになめらかすぎると嘆きたくなるほどスムースかつ自然にソロ・フレーズが組み立てられている。しかも微細な部分までデリケートに神経が行き届いている。

ここまでのジャズ・トランペッターが史上ほかにいたのか?と問われれば、たったひとり、1920年代後半のサッチモ(ルイ・アームストロング)がその上を行っていた。こっちのほうはいまやほとんどだれも言わなくなってしまったので、声を大にして再度強調しておきたい。1925〜28年のサッチモを超えうるジャズ・トランペッターなど、出現しえない。

それはいい。パリのブラウニー。『Vol. 2』では、たとえば「マイノリティ」なんかもかなりいいよね。これは曲がいい。というか特にコード進行の流れと、イントロ部のリズムが魅力的。イントロ分でラテン・リズムが使ってあるのは、ブラウニーの初録音、1952年、クリス・パウエル楽団での二曲を思い出すようなところ。でもパリでの「マイノリティ」ではイントロが終わってテーマ演奏部になると4/4拍子になってしまう。

ところがそうなったら今度は中近東音楽ふうなトーナリティを感じるようなコードとメロディ展開で、それはソロ部において必ずしも活用されていないが、なかなかおもしろいんじゃないだろうか。ジジとブラウニーのソロもよく聴かせる見事なものだ。三つのテイクがあるんだけど、全体的にはやっぱりマスター・テイクがいいかなという気がする。ブラウニーのソロだけに絞ればテイク2のほうがいいかも。

「サルート・トゥ・ザ・バンド・ボックス」のテーマ演奏部ではジジのアレンジもかなりいい。ブラウニーのソロにはやはりケチの付けどころもまったくなし。「ストリクトリー・ロマンティック」のようなラヴ・バラードふうのもの、やはり急速調の「ベイビー」なんかでもスーパーだ。また、この二曲ではテーマ演奏部におきブラウニーとジジが、二管アンサンブルではなく、からみあいながら進むあたりのアレンジも楽しい。こういうのを聴くと、最初に書いたようにこの二名の音色はよく混ざり合う相性のよさがあるなあと実感する。

オーケストラでの二曲「クイック・ステップ」「バムズ・ラッシュ」と、ジャム・セッションの「ノー・スタート、ノー、エンド」のことは、具体的には省略するけれど、ここでも聴けるブラウニーのトランペットの味は、ある意味、ビックス・バイダーベック的でもあるなと思うんだよね。音色の面では似ていない(ブラウニーもやはりサッチモ系のマチスモ)が、フレイジングの組み立てや、それからパキパキポキポキっていう、このなんともいえないアタック音、それがビックス(系コルネット奏者)にとてもよく似ている。

つまりは、ブラウニーって、ジャズ・トランペット界の先輩偉人たちのいいとこ取りだったなあって思うんだ。究極の完成形っていうかね。そんなところも、パリ・セッション二枚目でわかる。

2019/02/13

パリのブラウニー(1)〜 茶褐色のテーマ

ライオネル・ハンプトン楽団在籍時のクリフォード・ブラウンらが、1953年秋の欧州ツアーの際にパリで行なったセッションのいきさつなどについてはいくらでも文章があるので、ぼくが繰り返す必要などない。もしご存知ないかたもパパッとネット検索してみてほしい。ぼくが現在持っている CD 三枚(バラ売り、なぜセットにしない?)は、1997/98年リリースの BMG France 盤で "original vogue masters” と銘打ってある。一日一枚づつ取りあげてメモしておこう。

Vo.1 はビッグ・バンド編成のものとセクステットでのものがほぼ半々づつ収録されているが、個人的には前半部を占めるオーケストラ録音のほうが好きだ。っていうか正直に言ってしまえば冒頭の「ブラウン・スキンズ」2テイクスで決まり。ブラウニーのパリ・セッション三枚ぜんぶでこの2トラックスこそが最大の好物で、評価の高いカルテットものよりも断然「ブラウン・スキンズ」なのだ。

どうしてここまで「ブラウン・スキンズ」が好きなのか。いくつか理由があるように思う。まず曲題がいい。本人の苗字と黒人であることのふたつにひっかけたシャレだけど、なんともいえずすばらしい。このタイトルだけで絶対いいぞ!とおおむかし直感して聴いたらビンゴだったよ。それはそうと関係あるのかないのか「ブラウン」って、カリブ海方面の音楽というか曲にわりと頻用されることばだけど、音楽における<ブラウン・テーマ>とか考えてみたらおもしろそうじゃない?だれかやってくんないかなあ。'Brown Skin Girl' とか 'Brown Street' とか、いっぱいあるよ。'Ebony Eyes' も同系かな。

それはいい。ブラウニーの「ブラウン・スキンズ」ふたつ。マスターも別テイクもどっちも出来がいい。前半部がスローに漂うような夜のしじま。ここはまるでグレン・ミラー楽団の一連の「セレナーデ」ものによく似た雰囲気だ。こんなことだれも言わないっていうか、グレン・ミラー楽団とか、マトモなジャズ聴きはまず100%スルーする(と村井康司 @cosey さんがおっしゃっていた)から、ピンと来ていただけないはずだけど、間違いない実感。

この「ブラウン・スキンズ」前半部の<セレナーデ>ふうスローな夜の徘徊部でも、ブラウニーのトランペット・サウンドが輝いている。ブリリアントの一言。まるで暗闇の幕にサッと光が当たるかのよう。しかも中盤でファンファーレみたいなブラス・サウンドが咆哮し、アップ・ビートが効きはじめ急速調になってからは、歌心が全開で、しかも超なめらか。よどみないとは、まさにブラウニーのためにあることば。一音の躊躇もゆるぎもなく、湧き出て止まらない泉の水のごとくブラウニーがソロを吹く。ジジ・グライスのアレンジもいい。それは前半部のセレナーデ・パートでもそうだった。

こんな完璧な「ブラウン・スキンズ」ふたつがアルバム冒頭にあるもんだから、『ザ・コンプリート・パリ・セッションズ Vol. 1』では残りの曲が、実際かすんでしまうね。ブラウニーをフィーチャーしているかどうかだって、「ブラウン・スキンズ」では全面的にだけど、3曲目以後は部分的にだから、そりゃあどうしたって分が悪いよなあ。ぜんぶ無視したい。

がそうもいかないので、いままでみなさんが無視してきているか、ばあいによってはこのパリ・セッションのいきさつに関係して嫌悪なさってきているかもしれないことを、一個だけ付言しておく。それは当時のボスだったライオネル・ハンプトンのその楽団は、1953年のほんのちょっと前まではジャンプ・バンドだったということ。それはリズム&ブルーズにも直結していた音楽だった。

ブラウニーの『ザ・コンプリート・パリ・セッションズ Vol. 1』4、5曲目「キーピング・アップ・ウィズ・ジョンジー」後半部で、リズムがボンボンと大きく跳ねるところをちゃんと聴いてほしい。ぼくに言わせりゃ、その部分こそ、この曲における最大の聴きどころで、前半のブラウニー/アート・ファーマーのかけあい部よりもそこのリズムなんだ。

特にドラマーのアラン・ドーソンが、特にスネアで表現していると思うんだけど、それに合わせるように管楽器隊も粘っこいうねりを聴かせているじゃないか。そこではソロをジジ・グライスそのほかが吹いているが、ジャンピーなアレンジはもちろんジジの手になるものだ。

ボスに隠れてこそこそとホテルを抜け出して、ボスの楽団ではできないことをパリのスタジオでやった、というのが定説のブラウニーのパリ・セッションズだけどもさあ、なかなかどうして、ふだん着ている衣装を脱ごうたってそう簡単にはいかない、なんてものじゃなく、そもそもビ・バップとリズム&ブルーズは同じ母親から産まれた音楽じゃないか。母の名とは、すなわちジャンプ・ミュージック。

たんにブラウニーの見事さに感心していればいい録音集なんだけど、今日後半で書いたことはだれも言っていない重要事項だとぼくは信じている。ジョンジーって、ここに参加しているクインシー・ジョーンズのことなんでしょ〜。

2019/02/12

ジャズ・リスナーたちとヴォーカルもの

Billieholiday

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いわゆるジャズ・ファンというと(残念ながら)だいたいモダン・ジャズのファンなので、そこに話を限定すると、ヴォーカルものの聴きかたがすこしおかしいように思うことがある。こんなことは、ぼくが大学生だった30年以上前の、しかも多くのばあい男性ジャズ・ファンに限定されたことで、もうとっくに過去の遺物と化していると信じていたのだが、どうやらそうでもないようなので、ちょこっと短くメモしておきたい。

ジャズ・ファン(=モダン・ジャズ・ファン、と以下では断らない)の大半は、インストルメンタルものとヴォーカルものを分別して考えている。まあだからこれは、ビ・バップ勃興前までの古典ジャズをいかに聴いていないか、知りもしないかという歴然たる証拠だけど、それでジャズ・ファンと名乗っていいのかといぶかったりするぼくだけど、それはおいておこう。

ジャズ演奏家がよくやるスタンダード・ソングの数々。なかにはジャズ・オリジナルもあるにはあって、そういったものはジャズ・メンが最初から演奏用にと書いたものだから、歌うにはややそぐわない面もあるけれど、スタンダード・ソング・ブックの八、九割以上は、もともとポップ・ソングなのだ。すなわち、歌。

だから最初はだれかポップ・シンガーが歌詞のあるそんな歌を歌ったのがオリジナルなんだよね。それはメロディの動きを聴いてもわかることなんじゃないかと思う。いわゆる歌心があるっていうか、有機的な情緒があるメロディ・ラインだよね。楽器演奏のインプロヴィゼイションなんかでも「歌心」ということが言われたりするのは、アド・リブ・ラインがあたかも歌であるように流れているということだ。

アド・リブ演奏のラインが歌のように流れなくなったのは、ぼくの見るところ、ビ・バップ勃興によってだった。スケールを上下したりなどメカニカルなラインを演奏することが多くなった。これはなにも、歌心礼賛だとか、ビ・バップ以後のモダン・ジャズくたばれだとか、そんなことじゃない。特徴をぼくなりに考えて分析しているだけ。

あ、そうそう、ビ・バップ以前の、しかもヴォーカリストであるにもかかわらず、ビリー・ホリデイのヴォーカル・ラインはわりかしメカニカルに動くよね。ビリーも歌ったのはポップ・ソングなんだけど、この歌手のばあい、大胆(すぎる?)に原旋律からフェイクして、フェイクっていうより新メロディをアド・リブで生み出しながら、楽器奏者みたいに「歌って」いる。

このへん、モダン・ジャズのファンにもビリー・ホリデイだけはいまだに大人気であるという、その要因の一端が見えるような気がしてきたなあ。あるいは気のせいかもしれない。当時としては大胆な人種差別告発だった「奇妙な果実」によって、ある種のシンボルとしていまでも敬愛されているというだけのことかもしれないけれども。

ともあれ、歌とは有機的な、意味のある(まあ意味はどこにでもあるが)旋律を持っているもので、ここもモダン・ジャズ以後、歌心をあえて消して機械的にやるようなジャズ・シンガーたちも出てきはしたが、やはりぼくには魅力が薄い。歌は歌であってほしい。なんというか、ぼくの得意文句だけど、湿り気のあるリリカルさが歌にはほしい。

歌とは本来そういったものであって、ジャズのなかだけ、アメリカ音楽のなかだけ、で考えているからだんだんと自家中毒を起こしそうになるけれど、ほかの、世界の、いろんな音楽におけるヴォーカルものを聴いてほしい。アラブ歌謡でもオスマン古典歌謡でも、ラテン・アメリカのラヴ・ソングだって、東南アジアの、たとえばヴェトナムのボレーロ歌手たちだって、乾いて硬質なものはあまりない。湿って抒情的であるばあいが多いじゃないか。

ジャズ・ファンはジャズだけ特異視する傾向があるんだけど、だからそれもよくないと思う。ひろく音楽の世界を見れば、歌と楽器演奏とのバランスがとても大切だとわかるはずだ。どっちかだけにかたよるのはよくないことなんだよねえ。楽器演奏でメカニカルな技術を駆使しつつ歌はしっとりとやる、というのがぼくの理想型。どっちかだけっていうのは、それがいいと思うことがぼくもあるけれど、多くのばあい、おもしろくない。

だから、ジャズ・ファンの歌手に対する見方は、はなはだおかしいと言わざるをえない。その挙句、<歌姫>という表現に無意味に反感を表明したり、要するにとどのつまり、楽器演奏者こそ偉い、歌手なんてのは、まあしょうもないものだ、なんていうゆがんだ思考におちいってしまうのだろう。だから毎年末の『紅白歌合戦』のことなどもハナクソみたいに言うのだろう。

おかしいぞ、間違っているぞ、ジャズ・ファン。いろいろおかしいが、ここがいちばん意味不明だ。

2019/02/11

ルンバへようこそ 〜 パリ篇(2)

この二枚組 CD アルバム『ルンバの神話(パリ篇)』のジャケット写真になっているのがレクオーナ・キューバン・ボーイズ(Orquesta Lecuona Cuban Boys)。といってもヨーロッパ時代の大半はエルネスト・レクオーナと関係なし。その後もずっとそうだった。もちろんエルネストがかかわってキューバで結成されたオーケストラなんだけど、渡欧中の1933年末か34年頭に、このリーダーたるコンポーザー&ピアニストは病気でキューバ本国に帰ってしまった。その後のレクオーナ・キューバン・ボーイズのヨーロッパでの公演、録音活動にエルネストはいない。レパートリーこそ当初はエルネストの書いたものをやっていたようだけど、それもそのうちメンバー作曲のものが中心になる。

そんなわけで『ルンバの神話(パリ篇)』ディスク2収録の音源(1934〜37)にエルネストはぜんぜんいないわけなのだ。ちょっとややこしい。エスネストのいないパリでのレクオーナ・キューバン・ボーイズの統率者はアルマンド・オレフィチェ(ピアノ)。アレンジはオレフィチェかエルネスト・ハルーコ・バスケス(ギター)が書いたようだ。

『ルンバの神話(パリ篇)』ディスク2には、エルネストが書いた最大の名曲「シボネイ」や、また「タブー」「マリア・ラ・オー」「ラ・パローマ」といった超有名曲も収録されている。それら以外のルンバもすばらしいばあいが多い。ソンだってある。だけど、ぼくが最も胸ワクワクさせるのは、派手でにぎやかなコンガ(やそれに類するもの)の数々だ。コンガとはこれも楽曲形式のことで、打楽器のコンガのほうはトゥンバドールと呼ぶ。キューバでのカーニバル・コンガみたいなのが、本当に心から好きなんだ。

『ルンバの神話(パリ篇)』ディスク2では、イタリア出身の美声歌手アルベルト・ラバグリアッティが歌う甘いボレーロみたいなものだって、もちろん聴き惚れる。15曲目「クバカナン」、17「アナカオーナ」(かの有名サルサ・ソングとは異曲)なんか、絶品この上ないよねえ。また、パリにおける黒いヴィーナスだったジョセフィン・ベイカー(米セント・ルイス出身)との共演である18、19曲目なんかも、パリジアン・ルンバのハイライトのひとつだ。ジョセフィンは特に存在感がすごい。

それでもしかしぼくはにぎやかコンガやそれっぽいルンバのことが好きなのだ。しょうがない、好みの問題なんだから。それらで歌ったのはアグスティーン・ブルゲーラ(ドラムスも担当)であったばあいが多い。甘い美声のラバグリアッティとは好対照。またこの二名がともに歌って競っているような曲もゾクゾクするね。まあでも今日のぼくの話題はコンガやにぎやかルンバだ。

4曲目に「コンガをお聞き」(Oye la Conga)がまずあるが、これはおよそコンガらしくない、というかコンガじゃないだろう。これじゃなく7曲目「キューバのルンバ・メドレー」(Rumbas Cubanas)がまず最初に来るにぎやかで派手なルンバ・メドレーだ。これはオレフィチェが古い<偽アフロ音楽>としてのルンバをつなげて、しかも1930年代ふうのモダン・コンテンポラリー・ルンバに仕立て上げたワン・トラック。大好き。
9曲目に「ルンバ・タンバ」(Rumba-Tambah)が来る。こ〜れが最高なんだ。これは昨年書いた高橋忠雄さんの『中南米音楽アルバム(改訂版)』に収録されている。といってもそれは田中勝則さんの追加分だったけどね。ティンパニーか、ドラム・セットでいうフロア・タムみたいな音がずっと鳴ってリズムをつくっているが、レクオーナ・キューバン・ボーイズにはドラマーがいるので、やっぱりタムかな。野性的なブルゲーラがすばらしい。レーベルにはルンバ・ネグラ(黒のルンバ)とあり。
続く10曲目「グァヒーラ」は珍しくソンでこれは飛ばし、11「ハバナのコンガ」(Conga de la Havane)。このリズムの快活さは特筆すべき。打楽器群がにぎやかで楽しいったら楽しいな。これはエルネスト・バスケスの書いた曲みたい。思い切りにぎやかで、いいねえ。打楽器コンガ(トゥンバドール)そのほかが大活躍。コンサート・ステージでキューバのカーニバルを模した見せ物があったんだろう。
パリや、あるいはキューバからしてもエキゾティックというか、まあオリエンタリズムだけど、それでも芸能としては楽しい14曲目「モスレム・ルンバ」を経て、16「豚足とモツ」(Patica y Mondonguito)。これまたブルゲーラの独壇場で、楽しにぎやかなアフロクバニスモの体現。ちょっぴりだけサルサを先取りしたみたいなピアノを弾いているのは、曲も書いたモイセース・シモンスのゲスト参加。曲題はソウル・フードだから、まさに黒人系。
ジョセフィン・ベイカー参加のコンガ、19曲目の「ラ・コンガ・ブリコティ」(La Conga Blicoti)や、老いた母と息子の(港での?)別れを歌った、しかしにぎやかで楽しいコンガである22「ヴィーゴへ行く」(Para Vigo Me Voy)などを経て、プエルト・リコの大作曲家ラファエル・エルナンデスが書いた有名曲、24「カチータ」(Cachita)は、コンガというかにぎやか系ルンバなんだけど、珍しくブルゲーラではなくラバグリアッティが歌っている。

2019/02/10

ルンバへようこそ 〜 パリ篇(1)

1930年代の全世界的なルンバの大ブーム。それの重要拠点だったのがパリとニュー・ヨークで、といってもそもそも「ルンバ」ということばの定義からはじめないと、こりゃまたややこしいのだ。2017年に CD 二枚組で二種類リリースされた田中勝則さんのディスコロヒア盤『ルンバの神話(パリ篇)』『同(ニューヨーク篇)』の計四枚が参考音源。ルンバということばがなにを指すかについても、それらに附属の田中さんの解説文を踏まえ、まず書いておく。

ラテン音楽(だけじゃなくアメリカ合衆国音楽もそうだったのだが)のレコード・レーベルでは、曲のタイトルの横か下に楽曲形式名が記されてある。それがルンバとなっているものが今日の当面の話題なのだが、これはもちろんキューバ音楽の一種。ルンバがなにを指すかがややこしく、しかも時代を経て定義に変遷があったのでめんどくさい。

ぜんぶ書くとたいへんな長さになってしまうので、田中勝則さんの解説文に読める最新学説を踏まえた上で、ざっと「ルンバ」定義の現状だけ整理しておく。このことばの意味の歴史的変遷などについては『ルンバの神話(パリ篇)』附属のブックレットをご覧ください。

1)キューバでソンという音楽が流行する前の1920年代に、すでにルンバという形式名があった
2)そのルンバとは、のちの1940年代に出現し(ストリート・)ルンバとして知られるようになる、タイコだけで歌われる、かのアフリカ黒人系ダンス・ミュージックではない
3)ソンの台頭でいったんは衰退する
4)新しく生まれた音楽ソンの影響を多分に受けつつ、1930年代にリニューアルされた新ルンバが、アメリカ合衆国をはじめ全世界的に大流行する
5)そんなニュー・ルンバは、決してソンを水で薄めたような薄っぺらい音楽ではない
6)つまり、まずルンバあり、あいだにソンをはさみ、新世代ルンバとなり、それが海外で大ヒットした際、同じ「ルンバ」という名称を持った
7)その後、今度は本当にキューバの黒人たちがアフリカ音楽のルーツを直接的に受け継いだようなストリート・ミュージックが誕生し、それも「ルンバ」と呼ばれたが、別な音楽だ

さて、ニュー・ヨークが1930年代ルンバの一大拠点だったのはわかりやすいが、どうしてパリもそうだったのか?しかしこれもあんがいわかりやすい面があると思う。アメリカ合衆国と違ってキューバ人コミュニティなどなかったはずのフランスで、しかもおそらくはスペイン経由でパリに渡ったケースも多かったはずと推察されるけれど、ジャズ受容と評価の歴史をご存知のかたなら、世界で最も早くアメリカ黒人ジャズを評価し庇護したのがパリ人だったことを思い出されるだろう。

つまり、そんな土地だからってこと。有り体に言ってしまえば、ちょっとしたエキゾティズム、アフリカ系の文化などに興味を示し、促進したいと考えるパリジャンの体質みたいなものがあるかもなあと思うんだ。もっとずっと時代が下っての、かのいわゆる<パリ発ワールド・ミュージック>の時代のことも考えあわせれば、そんな資質をパリという大都市が持っているとわかりやすい。

実際、パリでキューバ人音楽家が初録音したのは、ニュー・ヨークよりも早かった。ニュー・ヨークでドン・アスピアス楽団が「南京豆売り」を録音したのが1930年5月だけど、パリでエドゥアルド・カステジャーノスのオーケストラが録音したのは、同30年の1月だったんだよ。そんな1930年がパリとニュー・ヨークを震源地とする世界的ルンバ・ブームの発祥年と見ていいだろう。

ディスコロヒア盤『ルンバの神話(パリ篇)』のディスク2は全面的にレクオーナ・キューバン・ボーイズなので、今日はそれ以前のレコードを紹介したディスク1に話題を絞っている。1曲目はまだそうでもないが、2曲目カスティージャノス楽団「私のタイコ」から俄然グッとわかりやすく明快なキューバン・ルンバになっている。ソンの痕跡も鮮明に聴けるし、エンターテイメント感覚にあふれたポップ・ミュージックとなっているんだよね。

3曲目、同楽団の「ルンバへの招待」(Invitacion A La Rumba、これが CD アルバム題ともなっている)からは、ポップな芸能感覚も強く打ち出すようになり、また曲題そのものだって、パリでルンバ・ブームを盛り上げよう、そのために…、という意識が鮮明に読みとれる。1932年のレコードだから、初録音から二年で、すっかりそんな機運ができあがっていたんだろうね。

6曲目ドン・バレット楽団「ベガン・ビギン」は、文字どおりマルティニーク音楽で、これはフランス人オーディエンスを強く意識したんだろう。ビギンはこのディスクにもうひとつ出てくる。キューバ人でありながらこういった音楽もそつなくこなすあたりに実力の高さがうかがえるよね。出来も明るい音楽で、聴いていてウキウキ楽しい。7曲目同楽団「マルタ」は名曲。

16曲目エリベルト楽団「シーソー」、17曲目オスカル・カジェ楽団「アリ・ババ」(どっちも1933年)あたりからやや雰囲気が変化しつつあるように思う。打楽器群がにぎやかで派手になり、リズムが色彩豊かで快活さを増しているように聴こえる。キューバ本国の政情と関係ありやなしやわからないが、とにかくこの1933年にはヘラルド・マチャード大統領が失脚している。マチャード政権はアフロ系打楽器の使用を禁止していた。

ともあれ1933年の「アリ・ババ」(ヘティ・クース・エンダンで知られるあの曲)らへんから、ぼくもよく知るいわゆるキューバ音楽になっているみたいだ。この曲のばあい後半部にリズム・ブレイクがあって、そこで派手な打楽器乱れ打ちになっているし、も〜う大好きでたまらない。キューバ本国ではまだまだマチャード派が残っていて反対派との衝突が激しかっただろうけれど、ここパリでは関係ない、パ〜ッとやろうぜ!って感じだったのかな。

20曲目からリコ楽団のレコードが続いているが、1910年ハバナ生まれで26年に渡仏しドン・バレット楽団に在籍していたフィリベルト・リコみずからが率いるバンドの成熟が、たぶん、この『ルンバの神話(パリ篇)』一枚目のクライマックスじゃないかな。最終盤のエリセオ・グレネ楽団の二曲とあわせ、パリにおけるルンバの成熟を実感する。特にディスク末尾の「夜のコンガ」(La Comparsa De Los Congos)なんか最高の名曲じゃないかな。ルンバというよりコンガだけど、山本リンダ「どうにもとまらない」がもう見えている…、っていっつもそこか〜い!

2019/02/09

2019年、いまこの時代に、スティーヴィの「風に吹かれて」〜 ディラン30周年コンサートより

ボブ・ディランのレコード・デビュー30周年を記念して1992年10月16日にニュー・ヨークはマディソン・スクウェア・ガーデンで行われたライヴ・コンサートの収録盤『ザ 30th アニヴァーサリー・コンサート・セレブレイション』。Spotify にはこれしかないのでリンクしたが、ぼくの持つ CD ヴァージョンで聴ける肝心要の部分がすっぽりカットされている。それは、おそらくボブ・ディランという音楽家、その歌がどれほどの意味を持つのか、この日の実況録音で最もクッキリと描き出した最重要箇所なのに。

それは4曲目「ブロウイング・イン・ザ・ウィンド」をスティーヴィ・ワンダーが歌いはじめる前のこと。Spotify ヴァージョンではいきなり歌からはじまっているかのように編集されているが、CD で聴ける当日の現場ではそうではなかった。歌の前に約二分間のスピーチがある。それはスティーヴィがピアノを弾きながらそれを BGM にしてみずからしっかり語りかけているものだ。

この YouTube 音源にあるフル・ヴァージョンでお聴きいただければ説明不要だけど、いちおう。スティーヴィは、この歌が長い長い時代をとおし同時代的な強い意義と重要性を放ち続けてきたと言い、1960年代、70年代、80年代、90年代と順に具体例をあげながらわかりやすく説明し強調している。公民権運動、ヴェトナム戦争、ウォーターゲイト事件、南アフリカのアパルトヘイトに対する抗議運動、などなど。

つまり、ボブ・ディランの「ブロウイング・イン・ザ・ウィンド」という曲が、時代と世界を超えた普遍性を持つもので、いまでも重要なのだとスティーヴィはピアノを弾きつつしっかり語ってから、ドラム・ロールが入って、いざ、「♪ハウ・メニー・ロ〜〜ズ♫」と歌いはじめる。だからこそ、その瞬間に鳥肌が立つんだ。中間部のハーモニカ・ソロも絶品。時空を超えた歌であるばかりか、音楽ジャンルをもまたいでいる。

このコンサートは1992年のものだからスティーヴィも90年代にまでしか言及できないが、いま21世紀、特にここ2010年代後半にぼくたちがリアルタイムで実感している人類の危機、人権軽視問題、それに向けてもボブ・ディランのこの「ブロウイング・イン・ザ・ウィンド」はとっても意義深い重要性を放っているように思うんだよね。いままたもう一度、思い出そうじゃないか。

いま、地球上のぼくたちがいったいどういった状況に置かれているのか、考えてみよう。そして、ボブ・ディランのこの歌が2019年にもどれほどの強いレレヴァンスを持っているのか、聴いて、かみしめたい。そんな契機には、このスティーヴィの、演奏前のスピーチ付きのヴァージョン「風に吹かれて」が最好適じゃないかなと思う。

『ザ 30th アニヴァーサリー・コンサート・セレブレイション』全体では、ボブ・ディランのソング・ブックをみんながとりあげたいろんなおもしろく楽しいヴァージョンがあるので、それはそれでまた機会を改めて書いてみたいと思っている。

2019/02/08

あしたはもっとよくなるさ 〜 カーティス・メイフィールド

結果的にカーティス・メイフィールドの遺作となった1996年のワーナー盤『ニュー・ワールド・オーダー』。不思議な肌ざわりのアルバムだ。諦観や絶望があるかと思えば、前向きの肯定感だってしっかりある。それらがないまぜになって、全体的にしっとり落ち着いたムードのアダルト・オリエンティッド・ソウルとでもいうか、そんなような作品だよね。常にワン・セットである死と再生をこれほどリアルに描きこんでいる音楽もなかなかない。そんなことに、1996年時点では、あるいはカーティスが亡くなっても、気づいていなかった。

どうしても歌詞の意味を沁み込ませるように味わいながら聴くということになってしまうカーティスの『ニュー・ワールド・オーダー』だから、あえてそこに拘泥しすぎることなく、サウンドやリズムや曲想、曲調のおもしろさ、魅力などについて私的なことをちょこっとメモしておきたい。そうであるからこそ、このアルバムから死と再生のテーマを汲みとることができるんじゃないかと思うし。

『ニュー・ワールド・オーダー』の全13曲は、基本、版権登録(の年がリーフレットにぜんぶ記載されてあり)されたばかりニュー・ソングだけど、三曲だけ古いレパートリーの再演がある。6「ウィ・ピープル・フー・アー・ダーカー・ザン・ブルー」(1970)、9「イット・ワズ・ラヴ・ザット・ウィ・ニーディッド」(1979)、11「ザ・ガール・アイ・ファインド・ステイズ・オン・マイ・マインド」(1969)。

これらみっつのうち、「ダーカー・ザン・ブルー」と「ガール・アイ・ファインド」はとてもよく知られているものだからオリジナル・ヴァージョンは云々の説明の必要がない。後者はインプレッションズ時代の曲で、歌詞が、うん、言わないと言ったけれども、マジでいいよ〜。沁みる。「ぼくの見つけた新しい女の子、魅力的、でも去っていっちゃうんじゃないかと心配、いままで全員そうだったんだもん、今度こそ…、本当に気になるなあ」って感じ。

それはいい。問題は1979年の版権登録と記載のある9曲目「イット・ワズ・ラヴ・ザット・ウィ・ニーディッド」だ。これはそのころ、カーティスかほかのだれかが録音してましたっけ?ないんじゃないの?すくなくともぼくは知らない。たぶんだけど、そのころ書いてカーティスがひそかに持っていたお蔵入りソングだったんじゃないかと思うんだ。新作アルバムのためにひっぱり出してきたのかもなあ。

その「イット・ワズ・ラヴ・ザット・ウィ・ニーディッド」でもそうだけどザップのロジャーらが参加しているのはこれもいいがそれよりも6曲目「ダーカー・ザン・ブルー」でのロジャーの活躍がめざましい。本当に見事な仕事をしている。「ダーカー・ザン・ブルー」では、カーティスのヴォーカル以外にロジャーしかおらず、すべての楽器をひとりで担当し、トラックをつくりあげている手腕にうなるしかない。

ここでの「ダーカー・ザン・ブルー」は、基本的に1970年のオリジナルに沿ったアレンジなんだけど、だから中間部でパッと雰囲気がチェンジしてにぎやかなパーティーみたいになっている。そのパートでロジャーはカーティスの声を含め、いろんな音や声をサンプリングしてコラージュし、売りであるトーク・ボックスの音も大胆に交えながら、聴きごたえのある中間部を創っているんだよね。すばらしい仕事だ。

それが終わってふたたび後半の落ち着いたパートになっても、実に淡々と心境を綴るカーティスのヴォーカルに、前半部同様トーク・ボックスでロジャーがからんでいる。それが実にいいエフェクトだ。ご存知のとおりの歌詞な曲なんで、ロジャーのあのトーク・ボックス・サウンドがいい陰影となっている。大成功じゃないかな。曲の終幕部でカーティスは「あしたはもっとよくなるさ」と歌って閉めるが、1970年のヴァージョンとはことばの意味が大きく異なっているよね。考え込むのはやめておく。

ぼくにとっての『ニュー・ワールド・オーダー』とは、こんな「ダーカー・ザン・ブルー」と、それから1996年当時はそうでもなかったんだけど「ガール・アイ・ファインド」が、最高に沁みるものだ。この二曲こそ個人的白眉。いやあ、たまりません、こんな二曲。泣いちゃうよ。

しっとり落ち着いたそれらだけじゃなく、快活でジャンピーなトラック、たとえばアリーサ・フランクリン参加の3曲目「バック・トゥ・リヴィング・アゲン」や、また5「ジャスト・ア・リトル・ビット・オヴ・ラヴ」、10「ザ・ガッド・デン・ソング」には、カリブ〜ラテンな空気がはっきりと漂っているのも、とってもいいね。大好きだ。特に3と10でエレキ・ギターがそこはかとなく3・2クラーベのパターンで刻んでいるのが印象に残るし、曲想もカリブふう。

最高に沁みる11曲目「ガール・アイ・ファインド」が終わったら、アルバム『ニュー・ワールド・オーダー』にはダークな幕が降りる。12「レッツ・ナット・フォーゲット」も13「オー・ソー・ビューティフル」も重く暗い。ヘヴィ・シリアス・ソウルとでもいったフィーリング。バック・トラックのサウンド・カラーとリズムがヘヴィでダウナーだと思うんだよね。

つまりさ、1996年の作品だけど、まるで2010年代後半の R&B みたいじゃない。ブルー&ダウナー。むろん、カーティス自身のおかれた状況がそういう音楽を生み出していたわけだけど。ちょっとおそろしい。

2019/02/07

メロディじたいにリズム感覚を内包するアイルランドのリールが好き!〜 ジェリー・オコナー

アイルランドのフィドル弾き、ジェリー・オコナーの2018年新作『ラスト・ナイツ・ジョイ』。こういった伝統的なアイリッシュ・フィドルが好きなんだとは以前から書いているし、一度はそればっかりを中村とうようさんがコンパイルした MCA ジェムズ盤の話もした。
この記事の出だしでも書いてある「アイリッシュ・フィドルを聴く快感。僕にとってのそれは、一言にすれば、猛烈なスウィング感、いや、ドライヴ感だ」ってこと。これはジェリー・オコナーの『ラスト・ナイツ・ジョイ』を聴いても抱く同感なのだ。そしてジャズ・ファンのぼくにとって、アイリッシュ・フィドルのスウィング感とは4/4拍子のリールのそれに魅力があるということになる。

ジェリー・オコナーの『ラスト・ナイツ・ジョイ』にあるリール・メドレーは1、3、8、11曲目の四つ。あ、いや、でもジグとかエアとかも魅力的だよなあ。まあ今日のところはリールに話を限定しておこうっと。それから7曲目はポルカだけど、このズンズンとフラットに進む4/4拍子系のスウィング感はリールのそれと共通するものだ。これら五つ、どれをいつどんどん続けて聴いても気持ちいい。大好き。

ジェリー・オコナーに限った話じゃないがアイリッシュ・フィドルの世界では、伴奏楽器があっても必要最小限で、しかも小さく控えめで地味だし、ばあいによっては独奏のこともあって、つまりあの4ビート・スウィングを生み出しているのはフィドラーひとりの演奏によってなのだ。それ一台で奏でるサウンド、たったそれだけがこの猛烈なドライヴ感を表現しているとは、上でリンクした過去記事でも書いたこと。

細かな音をズンズンと積み重ねるように、しかし歯切れよく演奏して、フレイジングじたいでスウィンギーさを出しているとわかる。右手に持った弓が弦に当たるそのタイミングや強弱、アタックなど、フィドル一台だけ聴けば、思わず踊り出しそうとなるほどのフィーリングがあると、ジェリー・オコナーのこの一枚でも聴いていただければみなさんご納得のはず。

実際、リールでもジグでも、アイルランドのこういった伝統音楽はダンス・ミュージックなのだ。現実にどんな踊りをしているのか知らないぼくだって、部屋のなかで思わずからだが動き、足踏みし肘や腕や手も動かしているんだもんね。ぼくのふだんの交通手段は50cc の原付バイクだから、そんなときにうっかり聴かないようにしないと命があぶない。

ジェリー・オコナーのアルバム『ラスト・ナイツ・ジョイ』ラストのリール・メドレー「オコナー4」。ここではフィドルが二台聴こえるので、クレジットされているドーナル・オコナー(息子さん)との合奏なんだろう。曲の一分過ぎあたりからそのユニゾン・デュオになり、またしばらくしてそこに同姓同名だが別人のジェリー・オコナーのバンジョーが参加、それが抜けてふたたびフィドル二台での合奏になり、そこにアコーディオンもユニゾンで参加して三台のユニゾン合奏になっているが、そのへんからのスリルと快感は、筆舌に尽くしがたい極上さだね。気持ちエエ〜!

2019/02/06

Spotify を活用してストレージ容量を節約だ

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こういったことは、Spotify を本格的に使うようになって約二年、自宅にいても出先でも旅行をしても、結局なにも変わらず同じように音楽が聴けて、しかも CD やインポート/ダウンロードしたファイルで聴くのとなにも違わない、聴きかたも受け止めかたも考えも、結果書く文章も、ぜんぜん変わりない、とわかってきたからなんだよね。だったなら…。

音楽 CD は相変わらずどんどん買うけれど、聴いていいぞと思っても iTunes にインポートしなくなったというのは2019年1月13日付で書いた。でもそれだけじゃあまだまだなんだよね。ぼくが現在メイン・マシンにしている MacBook Pro 内蔵 SSD のキャパシティは1TB。それの空き容量をちょっとでも増やしたい。だから、現在インポート済みのものでも Spotify で聴けるものはデリートしていきたい。だからたとえばマイルズ・デイヴィスなんかはほぼ全面的にぼくの Mac から消える。

これを着々と進めつつあるんだけど、だってさ、持っている CD ぜんぶは内蔵ディスクに入らないわけです。ほんの一部しか入らない。だから厳選して入れてあったけど、それでも1TB なんかでは不足なんだよね。困ってしまって、でもノート型 Mac のばあい(ぼくはノートブックにあらずんばパソコンにあらずとの思想の持ち主です)最大の内蔵ディスク容量のオプションにして買っても、1TB が限界だった。

昨2018年秋に MacBook Pro のニュー・モデルが発売され、最上位機種だと2TB の SSD を選べるようになった。あなうれしやと思ったが、このオプションを選択したばあい、合計金額が40万円を超えてしまうんだよね。40万ですよ。経済的に不可能な数字ではないけれども、やっぱりこれはムリっぽいなあ。

というのもいま使っている MacBook Pro は2014年10月に買ったものでずっと激しく酷使してきたから、そろそろニュー・マシンがほしいわけ。ところが、上段で書いたとおりな事情なもんで、内蔵ディスク2TB のオプションを行使して高額を払うか、そうでなければいままでどおり1TB か、あるいは512GB ならかなり安価。どうしようかなあ〜と考えているところなのだ。

そしてその冬12月末ごろから、以前より書いているが iTunes に CD からインポートするものが激減し、入れるのは Spotify にないものだけとなり、音楽生活が一変したんだよね。これがぼくにとっては大きな契機、転換点になりそうな気が、いま、している。iTunes にインポートするものは Spotify にないものだけとなると、内蔵ディスクの使用済み量は微増しかしないとわかった。

しかしそれでもやはり一定数はインポートする。しかも上で書いたように新しく買う MacBook Pro(Pro でない MacBook でもいいんだけど)の価格が高くなりすぎないようにしたいから、そのためには内蔵ストレージ容量を小さめにおさえるしかないんだよね。となれば、現在のマシンに入っている音楽ファイルのうち、Spotify で聴けるものは削除していけばいい。っていうかそれしかない、ぼくのばあい。

それにね、実際、最近そういったものは、もはや CD か Spotify でしか聴かないようになっているんだしね。マイルズもプリンスもアリーサ・フランクリンも、メディ・ジェルヴィルもパウロ・フローレスも、ニーナ・ヴィルチもアイオナ・ファイフも、可能な範囲におき Spotify で聴いている。むろんぜんぶ CD だって持っているし、それで聴くケースも多々あるが、 iTunesファイルはデリートして、ディスクの空き容量を増やしたい。

そうやって準備して、現行ストレージの使用済み量をミニマムにしておけば、いざ新しいマシンを買う際も、小さめのサイズの内蔵ディスクでいいとなるはず。Spotify で聴けるものを全削除しておけば、まだその作業は50%程度しか進行していないが、ひょっとしたら新購入のマシンでは512GB で充分となるかもしれないね。どれくらいになるのかは、作業が完了しないとわからない。

岩佐美咲をはじめ、Spotify では聴けない、CD で聴くしかないという音楽は、もちろん iTunes にインポートし続けますよ。でも、そうじゃないものはなるたけ Mac に入れないようにしたい。ぼくが音楽を聴くのは、まずもって CD で、だけど、それをどんどんインポートする生活とは、もうそろそろこのへんでおさらばしたい。

ま、なんだかんだいって、内蔵ストレージ容量に限界があるからしかたないというだけの話かもしれないんだけれども。

2019/02/05

カークを聴くべきロイ・ヘインズ・カルテット

ロイ・ヘインズ(なんと93歳現役!)の『アウト・オヴ・ジ・アフタヌーン』(1962、インパルス)は、なんてことない普通のモダン・ジャズ・アルバムだ。ローランド・カークが主役であるにもかかわらず、というか、ここは意外に思われるかもしれないが、きれいなメインストリーム・ジャズ作品。カークって、ただきれいに吹く主流派ですからね。それなのに、音を聴かずゲテモノ扱いしてイメージを定着させたのは、某岩浪洋三の罪だ。

ローランド・カークがあのリード楽器を複数同時にくわえていたり鼻で吹いたりといったああいった容貌とは裏腹に、出てくる音をしっかり聴けば、ふつうにきれいなだけの、だけっていうか、かなりしっかりした守旧派リード奏者なのはあきらかだろう。いまやこの見方が定着しているようで、うれしいかぎり。そんなカークをフィーチャーしたのが、ロイの『アウト・オヴ・ジ・アフタヌーン』なのだ。

実際、このアルバムの1曲目「ムーン・レイ」(アーティ・ショウ)を聴けば、カークが美に徹した演奏をしているとわかる。ひとり同時多重奏もやっているが、そうすれば音にふくらみが生まれ、きれいな旋律がよりいっそうきれいになるという計算のもとでのこと。曲じたいがもとからきれいなんだけど、それを最大限に活かすべく腐心して吹奏している。

それからこのアルバムのピアノがこれまたトミー・フラナガン。特に派手さ、きわだった美しさなどをことさらには表現しないひとだけど、ここでもツボを押さえた着実な演奏ぶりで、伴奏にソロにと活躍。ベースのヘンリー・グライムズは、このアルバムではまだまだどうってことない。リーダーのドラマー、ロイ・ヘインズは、ところどころでビートにアクセントやニュアンスをつけ、ふつうのメインストリーム・ジャズ演奏にアクセント、色彩感、躍動感、遊びをもたらしている。

2曲目が、日本ではアニメ『エヴァンゲリオン』で使われて再ヒットした「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。ワルツ・タイムにアレンジしてあるが、カークがちょっとだけフリーキー・トーンを発する。ここではややとんがっているのかな。その他、ヘインズのオリジナル楽曲では、カークがすこしアウト気味に吹く場面もあり。それをほかの三人が抑制しているというか、まあカークもそんなにフリーキーな持ち味のひとではないですがゆえ。

それからカークはなにを吹いても音色がいいよね。エモーショナルで色艶があるように、音だけ聴いて感じることができる。ちょっとたまに情緒過多かも?と感じるときすらあるほどで、そんな強めのエモーションが漂っているところもぼく好みなところ。あくまで美しく美しく、もとの曲の味をこわさないようにていねいに演奏するカークだけど、そこに生々しい艶っぽさが混じるのがイイ。

アルバム5曲目「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」。だ〜いすきな歌だ。この悲哀に満ちた一曲を、やはりカルテットがふつうにきれいにやっているだけなのが好感の持てるところ。饒舌なカークは、ここでも音数多く吹いていて、まるで一時期のジョン・コルトレインを彷彿とさせるシーツ・オヴ・サウンドみたいにちょっとだけ。ガーシュウィンの「サマータイム」などを引用。

2019/02/04

エンリッキ・カゼスが案内するブラジルのカヴァキーニョの歴史

ぼくの読者さんでショーロやサンバ聴きのかたがたにはまったくもって説明不要の超有名楽器カヴァキーニョ。ところがそこから一歩離れるとまったくもって知られていない超無名のものかもしれないよなあ。やっぱり説明しておいたほうがいいのか。ポルトガルがかつて世界中を船で旅行していた時代に、植民地にした土地土地に(ギターやそれみたいな)弦楽器を持ち込んだのだが、そのうち単弦4コースのものも各地でいろんな名称となって現在まで演奏されている。

ギターみたいなかたちの単弦4コース楽器というと、たぶんハワイのウクレレが最もよく知られているはずだ。日本でもよく親しまれているので、これは正真正銘どなたにとっても説明不要。そのほか、同族楽器にインドネシアのクロンチョンだとか、またあるいはひょっとしてペルーのチャランゴなんかも同起源かもしれない。ポルトガルはブラジルも支配したので、当地で発展した単弦4コース弦楽器があり、それをカヴァキーニョと呼ぶ。ブラジル独自の音楽であるショーロやサンバでは必須。元来はリズム楽器で、ブラジル音楽のスウィングの源であるとまで言いたい。音域はギターのちょうど1オクターヴ上で、キラキラとした輝きを聴かせる。

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ブラジルにおけるカヴァキーニョは、なんたってショーロの世界で大発展を遂げたので、この楽器のことを考える際には、やはりショーロを念頭におくのが好都合。現在のブラジルにおける最高のカヴァキーニョ名人といえばエンリッキ・カゼス(ぼくの三歳上)だから、エンリッキの案内で分け入るのが好適なのだ。ってなわけで、エンリッキみずからプロデュースし演奏もやった CD アルバム『ブラジルのカヴァキーニョの歴史』(Uma Historia do Cavaquinho Brasileiro、2012)の話を今日はする。

兄のベト・カゼスを含む四人編成コンボが基本となって録音されたこのアルバムは、いわく由来があるようで、もとはブラジルの石油会社ペトロブラスが顧客に配布するためにつくった12枚組ボックス・セット『Sons musica brasileira』の「カヴァキーニョ&バンドリン篇」のために録音されていたものらしい。それが市販されないこととなったので、エンリッキが音源の権利を持ち、新録音もくわえてまとめあげたのが『ブラジルのカヴァキーニョの歴史』とのこと。その際には親交のある(オフィス・サンビーニャの)田中勝則さんもアイデアをお出しになったよう。

『ブラジルのカヴァキーニョの歴史』、時系列を飛ばして、1曲目が「ブラジレイリーニョ」であるのはわかりやすい。ヴァルジール・アゼヴェードのこの曲(1949)こそ、カヴァキーニョ奏者にとって最大のシグネチャー・チューンだからだ。これをやったことのないカヴァキーニョ奏者はいないはずで、エンリッキも過去なんども録音している。このアルバムのものはまた気合が入っていて、細かくにぎやかな装飾をくわえながら華麗に弾きまくる。これがウクレレと同系楽器を演奏したものだとは、ご存知ないかたにはにわかに信じていてだけないかも。『カフェ・ブラジル』のも貼っておこう。
このライヴ・ヴァージョンもなかなかすごい。
『ブラジルのカヴァキーニョの歴史』2曲目以後は、だいたい歴史順にカヴァキーニョ演奏の発展やショーロ史のなかでの役割変化、演奏法の変遷などをたどりながらエンリッキが実演してみせるといった具合に進む。ショーロ史そのものを、カヴァキーニョを通して、概観してみたという側面もあって、ある種のコンパクト・ショーロ・ヒストリーとしても楽しめる内容で、すぐれている。

2曲目「高い音色を奏でて!」(Cruzes Minha Prima!)は、19世紀後半のショーロ初期の偉人ジョアキン・カラードの曲で、フルート、ギター、カヴァキーニョという例の三つ揃えでの演奏。カヴァキーニョは脇役のリズム刻みに徹しているのが、ショーロ初期におけるこの楽器の本領だった。それでもこの独特の高音のきらめきは、アンサンブルに混じっても鮮明に聴きとることができる。まさにショーロの(ってことはブラジル音楽の)リズム・スウィングの源泉だった。

そんなリズム伴奏楽器だったカヴァキーニョで最初にソロを弾いたとされているのが、3曲目「田舎娘」(Roceira)のマリオ・アルヴィス。すでに現代ショーロにおけるカヴァキーニョ奏法の原型をここに聴きとることが可能だ。ネルソン・アルヴィスの4曲目「それはありえない!」(Não Pode Ser!)を経て、5曲目「ジンガンド」(Gingando)のカニョート。ベネジート・ラセルダ楽団のカヴァキーニョ奏者で、ここにおいてこそモダンなコンジュント・スタイルにおけるカヴァキーニョ奏法が確立された。「ジンガンド」でのエンリッキは伴奏とソロを多重録音で両方やっているが、伴奏カヴァキーニョのリズムのほうは完璧にカニョートへのオマージュだ。

6曲目「私のカヴァキーニョ」(Meu Cavaquinho)のガロート。このひとはカルメン・ミランダといっしょにアメリカ合衆国にわたり演奏活動をともにしたから、有名人のはず。それに続き、いよいよショーロ・カヴァキーニョ史上最重要人物かもしれないヴァルジル・アゼヴェードの登場となる。7曲目「デリカード」(Delicado)、8「カヴァキーニョと戯れながら」(Brincando Com o Cavaquinho)、9「永遠のメロディ」(Eterna Melodia)と三曲続く。

このへんが、ぼくにとっての『ブラジルのカヴァキーニョの歴史』におけるクライマックス。なかでも、ガロートの「私のカヴァキーニョ」もそうだったが、「永遠のメロディ」とか、あるいはエンリッキの自作曲12「レアル・グランデーザ通り」(Real Grandeza)といった、スロー・テンポでしっとり泣く、まさにこれぞショーロ(泣く)というべきサウダージを聴かせるものが、ぼくは心底ホント〜に!だ〜〜いすき!

こういった音楽を全世界でさがそうとも、ブラジルのショーロ、あるいは室内楽的サンバ・ショーロ(ショーロふうサンバ)しか、ないと思うんだよね。この情緒。ぼくがショーロに惹かれているのもここなんだ。泣きながらしっとりゆっくりと歌っているような、しかしいっぽうでは楽しく二、三人でスウィングしたりするものもあり、かつそういうものには余裕もあり、さらにコミカルなユーモア感覚だって持ちあわせている。ユーモア・センスはスウィング感と一体化しているしね。

そんな音楽は、ショーロしかないと思うよ。

2019/02/03

タンボレーラはセンバだ!、いやコンガか! 〜 パナマの歌姫シルビア・デ・グラッセ

歌姫と書いたが、パナマのシルビア・デ・グラッセは決して歌わされる存在ではなかった。みずからの歌、音楽に自意識や自覚を強く持ってしっかり取り組んだ歌手で、その意味では、大嫌いなことばだけど "アーティスト” と呼ばれることがあっても不思議じゃない。中米の小国パナマは音楽マーケットも貧弱なため、シルビアも海外を移動しながら歌手活動を行なったが、それなのに常に母国パナマの歌をみずからとりあげて歌うということを忘れなかった。ビジネス上なかなかむずかしいことだったはず。パナマ音楽史上、不世出の、最高の歌手だろう。

そんなシルビアの歌を、昨2018年にディスコロヒアの田中勝則さんが一枚のアンソロジーにまとめてくださったのが『タンボレーラの歌姫』で、全25曲。録音時期が必ずしも判然としないのだが、田中さんの解説文によれば、初期録音を多く収録すべく心がけたとのこと。実際、幕開けの二曲は SP 時代のシルビア初録音で、はっきりしないけれど1930年代末ごろの歌だろう。アルバムの最後のほうは1960年代録音。

最初にズバリ。このディスコロヒア盤『タンボレーラの歌姫』で聴けるうちの最高傑作は、21曲目の「パナマのトナーダ」(Tonada Panameña)だ。こ〜れがも〜う、すごいんだ。タンボレーラはダンス・ミュージックなんだけど、かつ、この曲もまたメタ・フィクショナル。かねてより繰り返すように、すぐれた作品はメタ特性を帯びるという自説どおりの一曲を書いたのは、このころのシルビアの音楽パートナーにして、もとの LP レコードのプロデューサーだったダミローン(ドミニカ人)。
パナマの音楽タンボレーラは(アフロ系の)激しいダンス・ミュージックなんだけど、それと同時に、お聴きになればおわかりのように、哀愁感が強く漂って、聴くための歌謡音楽としても完成度が高い。まるでブラジル音楽でいうサウダージに通じそうなものかも。曲を書きプロデュースしたダミローンは、パナマ音楽の最も大切な部分を見事に汲みとっているし、歌うシルビアも気持ちが入っていて、両者あいまってここまで完成度の高い一曲に仕上がった。すばらしいことだ。

ディスコロヒア盤 CD『タンボレーラの歌姫』では、この前後、20〜25曲目が同じ LP からとったもので、どれも見事なものばかり。シルビア+ダミローンのコンビによるパナマ音楽タンボレーラの成熟と完成をここに聴けるし、パナマの全タンボレーラ史上で(といってもなにも知りませんが)これ以上の作品があったかどうか疑わしいと思うほどの輝きだ。特に21曲目「パナマのトナーダ」は最高の宝石。

アルバム『タンボレーラの歌姫』では、上で書いたようにまずシルビアの最初期レコードから幕開けしているのだが、そのへんを聴くと、アフロ系っていうか、なんというかワイルドで素朴。1曲目の「輪になって踊れ」(Hagan Rueda)なんか、打楽器しか伴奏していないもんね。+シルビアのリード・ヴォーカル&コーラスのコール&レスポンスで、まさしくアフリカン・ミュージックじゃないか。それはタンボリートと呼ぶ民俗音楽で、パナマの人口ではアフリカ系の比率も高いらしい。

そういうのが続くものの、4曲目「ホローンに上ろう」(Sube Al Joron)から、突如雰囲気が一変する。ここからの多くが大衆音楽タンボレーラなんだけど、まず目立つのがハモンド・オルガンのサウンド。それは13曲目まで一貫してシルビアの音楽を支配している。弾いているのがアベリーノ・ムニョス(パナマ人)。シルビアとの二人三脚で音楽創造にあたった。シルビアがニュー・ヨークに拠点を移すまでコラボが続く。
シルビア+ムニョスの録音は(主に)プエルト・リコで行われたそうだけど、常に母国パナマの音楽に立ち返るようにして、掘り下げて、歌い伴奏していたことは特筆すべき一点だ。いや、むしろ海外生活を続けていたからこそ母国の音楽伝統に素直に自覚的になれたということかもしれない。ともあれムニョスのオルガンがモダンで腕もよく、シルビアの歌も洗練の度を増し、曲全体でモダンなタンボレーラになっているのが見事。

9曲目「あなたにために」(Por Ti)なんかコロンビア音楽なんだけど、ムニョスのオルガンがビヒャ〜と入るだけでタンボレーラに聴こえるから不思議だ。この時期に来ればシルビアのヴォーカルは完成されていて、かわいくてチャーミングだけど、最高度の技巧を駆使しているし、クラシック声楽を学んだがゆえ身につけたのか、小鳥のさえずりのようなソプラノのハイ・トーン・スキャットも自在に操っている。

シルビア+ムニョスによるパナマ音楽追求の集大成なのが、ディスコロヒア盤 CD の10〜13曲目の四曲。田中勝則さんの解説文によれば、推定録音時期は1958/59年あたり。すべて内容は極上だけど、なかでも10「コサ・リンダ」(Cosa Linda)とか12「私はモレーナちゃん」(Soy Morenita)など、絶品。ムニョスのオルガン・ソロも一級品で、それがからんでいくシルビアのヴォーカルもチャーミングで迫力もあって、豪華で贅沢。それでいて、庶民派ダンス・ミュージックなんだよね。

2019/02/02

ブルーズ・ロックなセロニアス・モンクもいいよ

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ハル・ウィルナー・プロデュースの1984年盤(あれっ?その数年前のような気がしていた)『ザッツ・ザ・ウェイ・アイ・フィール・ナウ 〜 ア・トリビュート・トゥ・セロニアス・モンク』。モンクの死後二年が経過していた。現在 CD リイシューされているものをぼくも持っているんだけど、オリジナルの二枚組アナログ・レコードと比較して、大きく曲目が削られているし、曲順もかなり変更なのが残念だ。だがまあしかしレコードで聴くんじゃないかぎりこれしかないわけだから、ど〜こ〜言ってもしょ〜がないと、あきらめのため息。

そんなわけで全16曲の現行 CD に沿って話を進める。このうち、ジャズ・オーケストラ(を模した大編成バンド)・ピースがおもしろくないのはやや意外だけど、1984年当時からぼくのなかで変わらない印象。すなわち、7曲目「モンクス・ムード」(シャロン・フリーマン)、11曲目「’ラウンド・ミッドナイト」(ジョー・ジャクスン)、15「ミステリオーソ」(カーラ・ブレイ&ジョニー・グリフィン)。9曲目のワズ(ナット・ワズ)だけはいい。

ジャズ・マンがやったストレートなジャズ・カヴァーでも、8曲目バリー・ハリスの「パノニカ」はかなりいいと思う。この好印象は、たぶんタック・ピアノを弾いているおかげだろう。かすかにチェンバロっぽいサウンドが香ったりもして、そんなバロックふうな典雅なムードが、かえってモンクの曲のユニークさをきわだたせる結果となっているように感じる。

またアルバムで演奏しているジャズ・メンといわず演奏家のうち最多参加のスティーヴ・レイシーはかなりいいよね。三曲あるのはどれも上出来だけど、ぼく的にはとくにチャーリー・ラウズとのサックス二重奏でやった「アスク・ミー・ナウ」と、ギル・エヴァンズの異様なフェンダー・ローズとのデュオ「ベムシャ・スウィング」が印象に残るところ。

がしかしそれでも、このセロニアス・モンク追悼アルバム『ザッツ・ザ・ウェイ・アイ・フィール・ナウ』でぼくの耳をことさら惹くのは、ロック・ミュージックやその周辺にいるとされている音楽家たちの解釈だ。このアルバムでは、曲のチョイスもたぶんそうかなと思うんだけど、アレンジは演奏した本人みずからがやっているとクレジットされている。それが、本当におもしろい。

たとえば、以前からこれはすごくいいぞと繰り返している3曲目「リフレクションズ」。スティーヴ・カーン(g)と ドナルド・フェイゲン(key) とのデュオ演奏で、主導権はたぶんフェイゲンが握っていたんじゃないかな。曲題どおり、内省的で、むかしを懐かしむ郷愁、ノスタルジーをふたりがこれ以上ないほど実にうまく表現している。それは、失われた青春時代の回顧なのかもしれない。
これに続く4曲目がドクター・ジョンのソロ・ピアノ演奏「ブルー・モンク」だというのもいい。この演奏はわりとストレート・ジャズに近い解釈だけど、それでも随所にニュー・オーリンズ・ピアノのあの独特のころがりかたが聴けて、笑みがこぼれてしまう。ユーモア感覚もあるし、それはもともとモンクが持ち合わせていたものだった。ドクター・ジョンもそれをディグしてくれたんだね。
6曲目、マーク・ビンガムの「ブリリアント・コーナーズ」も好きだけど話を戻し、アルバム・オープナーの「セロニアス」。ブルース・ファウラーらによるホーン・アンサンブルではじまり、途中からリズムも入る。ソロはいっさいなしで、たったの一分もない短尺だけど、なかなかおもしろい。続く2曲目「リトル・ルーティ・トーティ」をやる NRBQ アンド・ザ・ホール・ウィート・ホーンズは逆にソロまわしで聴かせる。ピアニストがモンクのスタイルで弾いているね。テーマ・アンサンブル部はエレキ・ギター中心。

10曲目「フォー・イン・ワン」は、さすがほぼすべてトッド・ラングレンひとりの密室スタジオ作業というだけある出来で楽しい。そして〜!なんたってこれだよ、これ!大学生のころ一回目に聴いてこれがいちばん好き!と快哉を叫び、いまだに聴くたびに気持ちいいっ!ってなるのが、13曲目「ワーク」。クリス・スペディングとピーター・フランプトンのエレキ・ギター二重奏。たまらない快感だ。たったいま気がついたけど、これ、エレベがマーカス・ミラーなんだね。
そ〜りゃもうこういったブルーズ・ベースのハード・ロック・ギターが好物中の大好物なぼくなんだから当然だよなあ。テーマ演奏部もソロ部も、エレキ・ギターの音色選択、フレジング、ピッキング・ニュアンスの微細な隅々のひとつひとつまで、たまらなく好きだ。なにもかもが、だ〜いすき。もっと長く、せめて五分は演奏してほしかった。このハード・ロックなセロニアス・モンクこそ、このアルバムでの個人的白眉。

2019/02/01

無国籍な青春サウンドトラックとしてのスティーリー・ダン(2)〜 『ガウーチョ』

『ガウーチョ』でぼくが強い引力を感じるのは、1曲目「バビロン・シスターズ」、4「ガウーチョ」、6「マイ・ライヴァル」、7「サード・ワールド・マン」だけど、ジュヴナイル・ノルタルジーのサウンドトラックみたいな面は、むしろそれら以外の曲にあるように思う。がまあでも書いた四曲はマジすごくいいなあ。

アルバム・タイトルにもなっている曲「ガウーチョ」(と「バビロン・シスターズ」)が目玉かな、このアルバムは。前作『エイジャ』がインチキ極東イメージのサウンドトラックだったとすれば、こっちはインチキ中南米かなって思うけど、そんな面も含め、やっぱりこっちのほうか、幕開けの「バビロン・シスターズ」こそ、この作品の白眉だ。

ニュー・ヨーク出身でありながら西海岸でホーム・シックに苦しみながら音楽生活を送るドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーという、こんな彼らの自叙伝的性格をも帯びている「バビロン・シスターズ」は、しかしレゲエでもある。たぶん、スティーリー・ダンでレゲエが出てきた初例かなあ。だからインチキ・カリブふうニュアンスをここでも出しているんだね。しかも、フェイゲンが、あの独特のハーモニカ・ライクな音色のシンセサイザーを弾いているのも耳をひく。

このレゲエとハーモニカ音色のシンセで内心の葛藤を歌うというのは、『ガウーチョ』の(事実上の)次作であるフェイゲンのソロ作『ザ・ナイトフライ』1曲目「I.G.Y.」を先取りしたものだ。「I.G,Y.」のほうには西海岸で暮らすストレスを歌った歌詞なんかは織り込まれていないが、サウンドとリズム構築手法はほぼ同じ。うん、大好きだ「バビロン・シスターズ」(と「I.G.Y.」)。

この当時ライヴ活動を行なっていなかったフェイゲン自身、それを1993年に再開するにあたり「バビロン・シスターズ」の生演奏再現に眼目を置いたと伝えられているくらいなんで、やはりこの音楽家のなかでもスペシャルな一曲だったんだろうと思う。軽く薄いレゲエのリズム・ニュアンスは、このジャマイカ音楽の持つ(過剰な?)ヘヴィさ、シリアスさを剥ぎとり、音楽をポップで軽く親しみやすいものとする一助だ。

アルバム6曲目「マイ・ライヴァル」が好きなのは、ポップなリズム&ブルーズ/ファンクっぽい一曲だから。特に、だれが弾いているのか冒頭からミュート気味のエレキ・ギターがシングル・ノートでショート・パッセージを反復しているのがとてもいい。ティンバレスの入りかたも効果的。ここでもちょっぴりだけ中南米のニセの香りが漂う。

ラストの「サード・ワールド・マン」。これもラテン・バラードっぽいニュアンスがある一曲で、とても強い哀愁が漂っているあたりの曲想もそうだ。ラリー・カールトンが弾いているらしいエレキ・ギター・ソロが(ぼくには)強い魅力を放っているが、しかしもともと『エイジャ』録音セッションのときに録ってあったものらしい。だからこのちょっとの唐突感があるのかな。でもそれがかなりいい感じだよね。

また、ここまで書いたうち、「ガウーチョ」と「サード・ワールド・マン」はドラマティックに展開し、前作『エイジャ』のタイトル曲同様、大きなスケール感もあるのがとても好きだ。激しくエモーショナルに大きく展開した次の瞬間に、パッと現実に連れ戻されるような感覚があるのもおもしろい。

「ヘイ・ナインティーン」「タイム・アウト・オヴ・マインド」みたいなコンパクトにまとまった短編小説的なシティ・ポップスも楽しくて、しかも三名の生活と青春回顧のサウンドトラックとしては、むしろこういったショート・ストーリーズの積み重ねがスケールの大きな傑作曲よりもモノを言うし、やっぱり『ガウーチョ』もかなりいいね。

2019/01/31

無国籍な青春サウンドトラックとしてのスティーリー・ダン(1)〜 『エイジャ』

1974年だっけな、バンドとしては崩壊しライヴ活動を停止したスティーリー・ダン。以後スタジオ・ワークに専念し、主にジャズ/フュージョン系の辣腕ミュージシャンたちをどんどん起用するようになって誕生したのが77年『エイジャ』、80年『ガウーチョ』。このころは、ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカー、ゲイリー・カッツ(プロデューサー)の三頭体制だった。

ところで、現在ぼくが聴いているスティーリー・ダンの CD は、と言っても『ガウーチョ』までの話だけど、ぜんぶ紙ジャケットの日本盤で、SHM-CD 仕様のリマスタード・アルバム(2000年発売)。復帰新作にあわせてリマスターされたってことかな。七枚をぜんぶいちどに買ったはず。音質がいいんだよね。スティーリー・ダンのような、特に『エイジャ』『ガウーチョ』あたりの作品を聴く際には、ここは重要になってくることだ。

『エイジャ』にしろ『ガウーチョ』にしろそうなんだけど、一種のサウンドトラック、言いかたを換えれば BGM のようなもんだとぼくは思っているわけ。上質なそれを創りだすために、三人が凝りに凝ったスタジオ・ワークの繰り返しでこだわって練りに練って作業したけれど、そういった専門方面にばかりスティーリー・ダン関係の話が行ってしまうのには、ちょっと違和感を持つこともある。

スタジオ・レコーディング作業に通じているわけでもなければ音楽の専門家でなく演奏家や歌手でもないぼくなんかには、やはり『エイジャ』も聴きやすいスムース・ロックに聴こえるわけだよ。なかなかすごいことが展開されているなとは聴けばわかるんだけど、そこにこだわりすぎずに、できあがった作品から得られる質感にこそ耳を向けていきたい。というか、ずっと長いあいだ、そうしてきた。

『エイジャ』のばあい、このアルバム題兼曲題とジャケット・デザインのおかげで、極東のイメージがちょっぴりあるかもしれないが、これはまあはっきり言っって<なんちゃって>なのだ。いい加減というか、コリアでも日本でもチャイニーズ・ミュージックでもない、三人が抱くなんとなくのインチキ東洋イメージ。それが『エイジャ』のバックボーンだ。

しかも曲「エイジャ」にはラテン音楽ふうのニュアンスだってあるよね。ウェイン・ショーターのサックス・ソロが入るパートでスティーヴ・ガッドがどんどんたたみかけるドラミングを聴かせるが、ここの荘厳な迫力はものすごい。爽快感だってある。しかも一曲を通し、ピアノが弾くフレーズが跳ねていて、だからそのせいでもラテン風味があると言える。しかし、歌詞にちょびっと出てくるものの、東洋イメージはホントいい加減だなあ。っていうか、どこにあるのか?

こんなことは『エイジャ』全体をとおし言えることで、ドナルド・フェイゲンやウォルター・ベッカーの少年・青春時代へのノスタルジーのなかにあるチープなまがいものミュージック、それはつまりテレビ・ドラマや映画などのサウンドトラックなんだけど、そんなようなものをグッと上質化して一流のアダルト・オリエンティッド・ロック、すなわちジャズ・フュージョン的ロックに仕立て上げたのが、アルバム『エイジャ』なのだ。

そうするために、上等なフェイク音楽作品を創りあげるために、気持ちと時間とお金と時間と人員を惜しみなくフル稼働させ、練り上げた。スティーリー・ダンでも、これ以前の作品ではここまで明確じゃなかったと思うんだけど、ジュヴナイル・ノスタルジーのサウンドトラックとして創った音楽ってことがさ。だから、『エイジャ』には、アルバム全体をとおし、なんだか独特の甘酸っぱさみたいなものがあるね。

関係ない話かもしれないが、アルバム『エイジャ』では、2曲目のタイトル曲のほか、4曲目「ペグ」、ラストの「ジョジー」もかなり好き。どれもミュージシャンたちの最高級の辣腕技術がなかったら音にならなかったものだけど、この部分にだけこだわりすぎるのもよくない。もっと、こう、できあがっていま聴ける曲としての、青春回顧サウンドトラック的な受け止めかたを大切にしたい。

(特にフェイゲンの)そんな志向は、自作『ガウーチョ』でも続き、そしてなにより、この二部作の事実上の続編であるソロ作『ザ・ナイトフライ』(1982)でもフル展開されている。

2019/01/30

サッチモ泰然自若 〜『プレイズ W. C. ハンディ』

Spotify にあるのだとこういうジャケット・デザインだけど、ぼくにとってはルイ・アームストロングのこの『プレイズ W. C. ハンディ』は断然こっちの上掲ジャケなのだ。そのむかし、この三角形に切り込みの入ったジャケットのアナログ・レコードを繰り返し聴いたんだからさ〜。

『プレイズ W. C. ハンディ』は、Spotify ので見るその同じジャケットで、CD 二枚組の「コンプリート・エディション」というのがリリースされていて、もとのオリジナル・レコードが全11曲だったのに対し、プラス19トラックを追加して、さらに詳細な英文解説が附属している。解説文にはずいぶん助けてもらうけれど、音の追加分は考慮に入れなくていいと思う。

さて、1928年を最後にレギュラー・コンボを解散し、その後しばらくはオーケストラを率いて活動することの多かったサッチモ。レナード・フェザーらの熱心な働きかけもあって、ふたたびスモール・コンボを正式に再組織したのが1947年夏(その前年から臨時に同様の活動をしていた)。六人編成のオール・スターズで、サッチモ、ジャック・ティガーデン、バーニー・ビガード、ディック・キャリー(p)、アーヴェル・ショウ(b)、シドニー・カトレット。

この第二次世界大戦後初のレギュラー・コンボの活動内容がすばらしく、評価も高かったので、なんとかそれをレコードに残したいと考えたコロンビアのジョージ・アヴァキャンが、当時デッカ所属だったサッチモの、このコンボをボスごと借り受けて1954年に制作したのが『プレイズ W. C. ハンディ』だ。しかしバンド・メンバーには若干の違いもある。『プレイズ W. C. ハンディ』では、トロンボーンにトラミー・ヤング、ピアノでビリー・カイル、ドラムスでバレット・ディームズ。さらにゲストの女性歌手ヴェルマ・ミドルトンがいる。

サッチモの『プレイズ W. C. ハンディ』は、日本でもレコード発売時から評価が高く、たぶんいまでも戦後のサッチモのストレート・ジャズ作品では最高傑作ということになっているものだ。(ポップスなどと切り離し)ストレート・ジャズと限定することが、はたしてサッチモのような音楽家の見方としてふさわしいのかどうかは言いたいことがかなりたくさんあるけれど、今日はいったんそれをおいて、たしかに内容は極上である『プレイズ W. C. ハンディ』のことをちょちょっとメモしておこう。

W. C. ハンディ曲集だから、1920年代以後、都会派女性ヴォードヴィル系ジャズ・ブルーズ歌手たちもたくさん歌ってきたレパートリーが『プレイズ W. C. ハンディ』にも含まれている。サッチモはその当時そんな歌手たちの伴奏を務めたばあいがある。たとえばここにも1曲目にある「セント・ルイス・ブルーズ」はベシー・スミスが歌ったものの伴奏にサッチモがついた。サッチモ自身も自分のビッグ・バンドを率い1929年にオーケーに録音したのがレコード発売され CD 復刻もされている。

『プレイズ W. C. ハンディ』の「セント・ルイス・ブルーズ」も、かの印象的なアバネーラ・リズムが活用され、しかもヴェルマ・ミドルトンがかなりの部分を受け持ってフィーチャーされ、ソロまわしもほぼ全員に割りふられている。幕開けに置いたこれがこのアルバムの目玉、売りであるとしたコロンビアの目論見がはっきりと出ているよね。

かなりいいなとぼくも思うものの、ここでの「セント・ルイス・ブルーズ」は、やや大上段に構えすぎたように感じているのも事実。ちょっと大げさじゃないだろうか。演奏時間もアルバム最長の八分超え。ちょっとやりすぎかもなあ。むかし大学生のころからそう感じていて、率直に告白すると、ちょっぴりだけ息苦しさをおぼえないでもない。

ぼくの好きな『プレイズ W. C. ハンディ』は、2曲目以後。ビリー・カイルのピアノが軽いタッチとフレーズで弾きはじめる「イエロー・ドッグ・ブルーズ」からして、とってもいいなあ、快感だなあと、これは間違いないフィーリングだ。心なしかサッチモのヴォーカルもトランペットも、軽快でふんわりソフトだ。重くない。これはサッチモのようなトランペッターについては意外に思われることかもしれないが、すくなくとも『プレイズ W. C. ハンディ』2曲目以後ではサウンドに軽妙さが聴ける。バンド全員の出す音もそう。ここが、好き。

サイド・メンのなかではトラミー・ヤングがいちばんたくさんソロを吹いていて、ぼくの大好きなバーニー・ビガードは二番目。バーニーのクラリネットをもっと聴きたかったかもしれないが、しかしソロは多くなくてもオブリガートなどをたくさんつけているから不満足感はない。サッチモのヴォーカルへのからみかたなども、うまあじだ。

また、ピアノのビリー・カイル。このひとは、ある意味この『プレイズ W. C. ハンディ』バンドの肝だね。イントロを弾いて雰囲気をつくったりするだけじゃない、曲中でもそのフレーズでバンド全体のリズムを動かしているように聴く。もともとニュー・オーリンズのジャズでは、バンドはバンド、ピアノは単独で、という水と油だったが、サッチモ自身、シカゴ時代にバンドにピアノが入る有用性を学んだ。クラシカルなニュー・オーリンズ・ジャズでも、ある時期以後はピアニストが参加するばあいもある。

曲によっては、ブルーズ・ソングだからなのか、特に終盤部の盛り上がるところで8ビートっぽいシャッフルになっているのもおもしろい。ストレートな伝統派ジャズ・リスナーのみなさんには受け入れがたい意見かもしれないが、リズム&ブルーズやロックに似た8ビートは、ふつうのジャズのなかにもどんどんあって、そこだけでもって音楽の区別をすることなど不可能だ。

それから、これは大学生のころからアルバム『プレイズ W. C. ハンディ』の2曲目以後に強く感じているチャームなんだけど、うまくことばにできないこの雰囲気、こう、なんと言ったらいいのか、晴れた日に川の土手にすっくと立って対岸を泰然自若としてジッと眺めているような、こんな表現で伝わりますかどうか、とにかくそんなフィーリングがあって、ぼくにだけかな?わからないが、そんなところ、本当に大好きだ。

サッチモのほかの作品やほかのジャズだけじゃない音楽作品にあまり感じないこのサッパリした空気感。『プレイズ W. C. ハンディ』の最大の聴きどころがぼくにとってはこれで、大学生のころからいちばん好きだと感じ続け、いま2019年現在でもそれが変わっていない。これって、どういうことなんだろう?ほかのみなさんは感じないものなのだろうか?

特にサッチモのヴォーカルとビリー・カイルのピアノに、強くこれを感じとっている。なんなんだろう?

このサッチモとバンドのスタンスは、6曲目の「メンフィス・ブルーズ」にも強くあるし、7曲目「ビール・ストリート・ブルーズ」の歌や、10曲目「ヘジテイティング・ブルーズ」のトランペット演奏パートと歌、幕閉め11曲目「アトランタ・ブルーズ」なんか一曲全体を通しこの爽快感があると思うんだけどね。ビリー・カイルのピアノ・ソロ部も気持ちいいし、その後のサッチモひとり多重録音パートにも漂っているこの自若さはなんだろう?聴いていて、気分いいことこの上なし。

2019/01/29

人気の美咲

平成で人気のお名前は翔太くんと美咲ちゃんという上記 Yahoo! ニュースを読んだのが11月27日。しかしぼくらにとって、特に女の子のほうの美咲という名前の前に来る苗字は、岩佐!岩佐だ。岩佐美咲しかありえない。我らがわさみんこと演歌歌手の岩佐美咲こそ、日本中のありとあらゆる全員の美咲ちゃんのなかで、最高峰に君臨する女王だ。

このニュースにかんしては、実はその日のうちに岩佐美咲本人も反応していて、そうか、美咲って人気のお名前ってことですかね、たしかによく出会います、美咲ちゃんには、とツイートしていた。やっぱりふつうのありふれた女性名ではあるんだよね、美咲っていうのはね。ところが、その上に岩佐とついたら、唯一無二の至高の存在になる。世界でまったくふたりといない、ただひとりの「美咲」になるんだよ。

なんたって歌がいいと思うよ、われらが美咲のばあいは。いちおうこれでもかりに歌好き、音楽好きなつもりのぼくで、いままでかなりたくさん聴いてきたつもりなんだけど、岩佐の美咲ちゃんにはビックリさせられちゃったもんねえ、いい意味で。こんな素直にスッとナチュラルに歌え、しかもそんなナイーヴ歌唱法で濃いめのドロドロ情念演歌まであっさりこなしているなんて。

これはいままで散々繰り返してきたことだけど、なっかなかできることじゃないと思うんだ。「石狩挽歌」でも「北の螢」でも「なみだの桟橋」でも、いろんな歌手によるカヴァー・ヴァージョンをちょっと聴いてみてよ。みんなああいった濃いめの情緒をたっぷり表に描き出しているじゃないか。

演歌じゃないが、中島みゆきの「糸」でも同じ。YouTube にたくさんあるのをささっと聴いてみてほしい。美咲にもうしわけないが、この曲にかんしては中島みゆきのオリジナル歌唱がいちばんすぐれている。美咲も超えていない。テレサ・テンのレパートリー同様にね。でも、そのほかの歌手たちがやる「糸」やテレサの曲と比較すれば、美咲の歌唱が断然別次元の高レベルにあることを実感できる。

濃厚情念演歌でも、中島みゆきでも、テレサ・テンでも、J-POP とかでも、美咲ヴァージョンがぼくらにとっては No. 1だぜ。そりゃあオリジナル歌手を超えていないかもしれないが(どれとは言わないが、曲によっては初演歌手の上を軽々と飛翔している)、カヴァー歌手のなかで、だれか美咲以上に歌そのものの持つ魅力をストレートに聴き手に伝達できているひとがいるんなら、ぜひ教えてほしいものだ。

そう、コミュニケーション力が異常に高いんだな、美咲の歌は。歌本来の持ち味を、リスナーにフルに伝えることのできる歌手が美咲だ。結果、ぼくらの涙腺は崩壊してしまうから、言い換えれば美咲パワーは破壊力でもある。もちろん乱暴なものじゃない。そっとやさしくことばを置くようにフェザー・タッチで歌を綴るそのデリケートさで、ぼくらの心をもみほぐし溶かすんだ、美咲はね。

美咲の容貌の可愛さ、チャーミングさについて語るのは、ぼくのこのブログの範囲外なのでつつしんでおく。とっにかく!可愛いんだ、岩佐の美咲ちゃんは!写真や動画で見てもすばらしいが、実物の魅力はそのはるか上を行くチャーミングさなんだよ。しかも生ステージに立ってマイクを持ちイントロが流れた瞬間に、キリッとした凛な表情に変貌する。そして、しっかりとした歌をはじめちゃうんだな。

こんな岩佐美咲(愛称「わさみん」)。美咲という名前がどれほど人気があってポピュラーで、世にあふれていて、ありふれた名前であろうとも、岩佐の美咲ちゃんこそトップにいる存在で、最も人気のある最有名な「美咲」に違いない。世の美咲ちゃんが束になってかかってこようとも、岩佐の美咲ちゃんひとりには全然かなわないと思うよ〜。

2019/01/28

岩佐美咲 2019.1.26 at 東京キネマ倶楽部がすばらしかった

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いま、1月27日午前中に新宿にあるホテルの部屋でゆっくりしながら、テキスト・エディタに向かって Mac のキーボードを叩いています。岩佐美咲関連の文章は、いつもいつもわさ友であるわいるどさんのブログを参考に、というか下敷きにさせていただいておりますので、今日もセット・リストを拝借させていただきます。それにしても、毎回こういったことをわいるどさんは客席でメモなさっているのですよね。お疲れ様です。日本の演歌、歌謡曲、J-POP の世界におくわしいということもわかっております。

わいるどさんのブログ
2019.1.26のセット・リストは以下のとおり。

01. 佐渡の鬼太鼓
02. 旅愁
03. 能登半島
04. 遣らずの雨
05. 冬のリヴィエラ
06. 恋の奴隷
07. お久しぶりね
08. あなた
09. 別れの予感
(ラウンド・コーナー)
10. 飛んでイスタンブール
11. 大阪ラプソディー
12. 手紙
13. 狙い撃ち
(ラウンド・コーナー終了)
14. 揺れる想い
15. ルージュの伝言
16. 元気を出して
17. ごめんね東京
18. もしも私が空に住んでいたら
19. 鞆の浦慕情
20. 鯖街道
(アンコール)
EN1. 恋の終わり三軒茶屋
EN2. 初酒
EN3. 無人駅

今回のコンサートも、やはり、もうすぐ2月13日に発売になる新曲「恋の終わり三軒茶屋」の路線にあわせて構成された内容だったように思います。ぼくは昨日はじめてこの新曲をフルでちゃんと聴いたのですが、それ以前からみなさんがおっしゃっていたとおり、演歌というより歌謡曲というか、ライト・ポップスに近い曲です。ショート・ヴァージョンのヴィデオがすでに正式公開されています。
こんな感じ、簡単に言えば(三木たかし作の)テレサ・テン楽曲路線と言ってさしつかえないのではないでしょうか。2月13日発売のこの新曲「恋の終わり三軒茶屋」のカップリング曲も、昨日ぜんぶ歌われましたが、それは6〜9曲目の四つです。四つとも抜群の出来でしたが、なかでも特に「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「お久しぶりね」(小柳ルミ子)、「別れの予感」(テレサ・テン)が耳を惹きました。

着目すべきは、どれもリズムが快活なラテン・タッチです。個人的にこういったラテン調歌謡曲がたまらなく大好きなのですが、日本の大衆歌謡(演歌でも歌謡曲でもなんでも)のなかにラテン・タッチが抜きがたく浸透していることは、以前、美咲関連の記事で強調しました。直接的にはビゼーの「カルメン」由来でしょうけれど、それがそもそもキューバのアバネーラからもらっているものなのです。
ふだんから Black Beauty を読んでくださっているみなさんなら、ぼくのラテン好きをよくご存知でしょう。東南アジアやアラブ圏にまでおよぶ、ラテン(中南米)音楽の全世界的影響力とはなんなのか?といった内容を、いつの日かまとめてみたい、書いてみたいと思っていますが、今日の話題は岩佐美咲です。

「恋の奴隷」も「お久しぶりね」も、いままでの歌唱イヴェントで披露されていますし、「別れの予感」は以前のソロ・コンサートでも歌われました。それらを現地で体験なさったみなさんのお話を総合すると、こういった曲群と美咲の資質の相性がとてもよいということは、ぼくも推測できていました。がしかし、昨日、鶯谷で生で聴いて、ここまで見事な歌唱に仕上がっているとは、ビックリしちゃったと言いたいくらいの強烈な魅力を放っていましたね。

これは新曲「恋の終わり三軒茶屋」についても同様のことが言えるのですが、ラテン・タッチな跳ねるリズムへの美咲のヴォーカルの乗りが絶妙にすばらしく、声に艶と張りもあって、フレイジングの隅々にまで細やかな神経が配られていて、結果、全体的にこれら五曲は最高にチャーミングな歌となっていましたね。

大瀧詠一が書いた森進一の「冬のリヴィエラ」でも、ぼくは同じことを感じました。昨日のコンサートを通し、こういったラテン・タッチでライトなポップス路線はこれが最初に来たもので、そこまではわりと従来路線的な濃厚演歌で攻めていましたから、「冬のリヴィエラ」でオオッ!となったのは事実ですね。そこまでは、たとえば石川さゆりの「能登半島」なども歌われましたので。

美咲のためのオリジナル楽曲は、新曲「恋の終わり三軒茶屋」含め、八曲、もちろんすべて披露されましたが、昨日のコンサート全体から受けた印象では、美咲の今年の、あるいは今後の、展開は、演歌路線をいったんおいて、軽歌謡路線に舵を切っていくかもしれないな、と思えました。

いや、もちろん演歌路線も、そうじゃないものも、すべて美咲の歌はすばらしいですが、新曲「恋の終わり三軒茶屋」(2月13日発売)とそのカップリング四曲の、合計五曲に端的に象徴されている、跳ねるラテン・リズムをともなった軽妙な歌謡曲路線こそ、美咲の資質がフル発揮されるものなのかもしれませんね。

2019/01/27

わさみん運営、しっかりお願いね

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ごらんのとおり、チケットは無事届き、コンサートも観覧できました。




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いまこの文章は2019年1月8日に書いていますが、26日の岩佐美咲コンサートのチケットが無事届き、現場でコンサートも体験できたら、そのあとでネットに公開しようと思います。




つまり、いまだ(1月8日時点では)コンサート・チケットは届いていない。仕事が遅すぎると思うんだよね。ぼくが56年の人生でたくさん足を運んだ、もうそりゃあ無数に体験したと言っていい各種コンサートのなかで、岩佐美咲関係がいちばん遅い。しかもですよ、そもそも買えたかどうか、すなわち自分の席が確保できているのかどうかさえ、わからない。というかちゃんとしたひとこともない。

こんなもんなんでしょうか?こういった歌手たち、アイドル・タレントたちのコンサートやその関係って?でもしかし、同じくアイドル(界出身の)歌手である原田知世コンサートが、なんとなんと1月28日に渋谷 NHKホールで開催されるんだけど、それは昨年11月の告知と同時にぴあで買ったら、当選告知がメールでちゃんと来て、その一週間後にチケット現物も届いたよ。

そうそう、今日の本題に関係ない話だけど、岩佐美咲コンサートが2019年1月26日夜、原田知世コンサートが1月28日夜と、なんなんこれ?ぼくがいまの日本人歌手で最も好きな二名のフル・コンサートが、それもたったの中一日で立て続けに東京都内で開催されるなんて😍!神の思し召しだとしか思えないね❤️!

それだから、東京都内のホテルに連泊することにしてあるんだけど、まあそれはいい。美咲コンサートのチケット発送が遅すぎるという話だ。発送どころか、書いたように当選したどうかの通知も、ない。ないんだ。ぼくはいわゆるおっかけじゃないっていうか、美咲単推しのオタクじゃないのだろう。いろんな音楽が、いろんな歌手が、音楽家が、好きでどんどん聴いている。美咲も、スペシャルであるとはいえ、そのなかのひとりだ。

言い換えれば、ぼくは美咲のことをひとりのちゃんとしたというか、立派な一人前の歌手として見ているし、実際いままでもそう扱ってきたつもりだ。そうじゃなかったら、いままでのこんな美咲関係のブログ記事が書けるわけはないと思うよ。だからこそ、マネージャーさんはじめ、運営側のみなさんにもちゃんとしてほしい。自分たちが仕事をしている美咲のことを、一人前の歌手として扱ってしっかり仕事をしてほしい。

美咲ファンのなかにも、少数派かもしれないがぼくのように、その歌をしっかり聴き、たんなる若い可愛い女の子アイドル(出身)・タレント歌手というだけじゃない、いままでの日本歌謡史のなかにしっかり位置付けて、諸先輩の歌手のみなさんと比較しても遜色ないすぐれた歌手として、聴いて、考えて、文章を書いている人間だっているんだよ。

そんなとき、いざ年に一回の大切なフル・コンサートの、そのチケットの、代金と手数料の振り込み手続きをしたのは昨2018年9月だっていうのに、チケット現物の発送は、なんと本番のたった二週間前なんですと!長良事務所のスタッフさんがブログを更新して、そうおっしゃっていた。

前年の九月に一万円を超えるお金を振り込んで、現物入手が一月半ば。こんなことって、ありえるのでしょうか?遅い。遅すぎる。仕事が。美咲はちゃんとしっかり準備して立派な歌を歌っているのに、周囲のみなさんがのんびりしすぎているのでは?上でも書いたがこのことは、言い換えれば肝心のスタッフさんたちが美咲のことを、ファンのことを、一人前に見ていないかもしれないという証左だ。

第何回とカウントされる美咲のコンサートは、年に一回しかないんだよ。そこに向けて日本全国の美咲ファンのみなさんも準備し、ふだんの生歌イヴェント系になかなか足を運べないかたがたもお金を貯め、仕事を休む算段をつけ、宿泊や交通手段も確保して、それでみなさんが集結する、そんな大切なコンサートなんですよ。

嗚呼、それなのに…。チケット現物は、いまだ届かず。まあファン・クラブ枠で応募したみなさんの席はぜんぶ確保できております、ご安心くださいとの、スタッフさんのご発言があったとはいえ、いくらなんでもなあ。不安で不安でしかたがない。岩佐美咲ほどの大きな才能を持ち花咲かせつつある歌手の、それも年に一回のフル・コンサートなのに。このままでいいのでしょうか。

2019/01/26

サッチモの写真を見るのが好き

一度も会ったことのないサッチモだけど、このひとのことが、心底好き。音楽がやっぱりいいんだけど、音楽を聴かずに写真だけ見ていてもいいよねえ。っていうかサッチモのばあい、写真から、あのコルネット(トランペット)・サウンドと歌声が鮮明に聴こえてくる。間違いない。それで最高に心地いいし、安らげるし、心おだやかになるんだ。

こんなことは、たぶん、サッチモがまさに狙ったことだ。彼の意図通りぼくの心に作用している。亡くなったのが1971年だから、もう何年になるんだろう、勘定する気もないんだけど、それは意味のないことだからさ。どうしてかって、いま書いたように、生前のサッチモがみんなのことを楽しく幸せな気持ちにしたいと思って活動したそのまま、2019年のぼくもそうなっているんだから、完璧に時空を超え飛翔している。

なんてすばらしいことなんだろう。もはや、20世紀のアメリカン・ポピュラー・ミュージック界最大のイコンだったなんていう次元じゃない。すくなくともぼくにとっていちばん楽しいのがサッチモだから、古今東西ありとあらゆる音楽世界で最も秀でた音楽のイコンがサッチモなんじゃないか。間違いないと思う。

もちろんふだんからサッチモの音楽を聴いている。このひとのいろんな写真を眺めながら。そしてサッチモはいつも笑っている。大きながま口を開けて(サッチモとの愛称はここから)、ガッハッハという顔つきで思い切り笑っているよね。サッチモのそんな笑顔を見ながらその音楽を聴けば、この笑顔と音楽が完璧に一体化しているとわかる。

写真を眺めるだけでも、サッチモの笑顔はぼくを楽しく幸せな気分にしてくれる。音楽と一体化しているというのは、このひとの音楽こそ最高・至高のものだと信じているぼく(だけじゃないと思うんだ)の考えだけど、サッチモの音楽に特に縁のないみなさんだって、上で一枚ご紹介したし、以下でも貼っていくものをご覧になれば、同じような気持ちになれるかも。

また、いちばん上でサッチモの公式 Instagram の宛先を書いておいたので、もしご興味とお時間のあるかたは、ぜひちょっとパラパラ眺めてみてほしい。生活や人生の辛苦を、いっときでも、忘れることができるし、どんどん眺めていればそんな時間がちょっとづつ長くなり、どっちかというと楽しい時間のほうがたくさんになってくるというのが、ぼくのばあい。

たとえばこれは若いころだなあ。オーケー・レーベルに録音していた、たぶん1920年代の写真だね。わりと有名な一枚で、各所に転載されるので、ぼくも以前からよく見ている。

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これは戦後の一枚だね。どこかのレコーディング・スタジオでのワン・ショットだろうなあ。

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モダン・ジャズ・トランペットの巨人ディジー・ガレスピーと競演中のこんな写真もある。ここでは笑っていない。真剣な表情で対峙しているよね。そういった顔もまたいい。音楽に対するサッチモの姿勢がよく伝わってきて、これも大好きな一枚だ。

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1970年に「ウィ・シャル・オーヴァーカム」を録音した際のスタジオでの一枚。いっしょに写っているのがマイルズ・デイヴィス。ふたりとも、いや特にマイルズのほうが一層、うれしそうだ。いいツー・ショットだなあ。あのしわがれ声のマイルズが、このときはなんとバック・コーラスでレコーディングに参加した。サッチモへの敬愛を、この写真からも感じとることができる。

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猫との一枚。

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これはデューク・エリントンとだ。デュークの笑顔もはじけている。

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本当に好きで好きでたまらない、ぼくも敬愛するサッチモことルイ・アームストロング。1920年代から亡くなる1971まで、あの音楽とあの笑顔で、ずっとみんなのことを楽しませ幸せな気分にし、そして亡くなったあとにサッチモのことを知り大好きになったぼくのような人間のことも、やはり同じようにエンターテインし、慰撫してくれる。

なんて偉いひとなんだろう。

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2019/01/25

ステレオ?モノ? 〜 スピーカーは一台でいいかも

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専門家じゃない個人がふだん自室で音楽を聴く際のスピーカーって、実は一台でじゅうぶんじゃないだろうか。最近そう感じるようになっている。ってことはつまりモノラル再生ってことだけど、そもそもモノとかステレオとかっていう(録音物)再生概念があやしいと最近思いはじめている。それはそうと、ある時期以後音楽再生機器をステレオと呼び習わすのは、どうしてなんだっけ?

それはアンタが録音時期の古いモノラル音楽ばかり聴いているせいだろう、だからスピーカー一台でオッケーなんだろう、モノラル再生は本来スピーカー一台でやるのが本筋とオーディオ専門家も言うしなってなことでは全然ないのだ。ステレオ録音作品をどんどん一台で聴いている。音が左右にクッキリ分かれないだけで、そのほかはなんの違いもなし。

あ、たったいま気がついた。ステレオと銘打っていた時期のレコード、ってことはすなわち1950年代末〜60年代のものってことだけど、あのころ、左右に音が分かれすぎていたよね。その後はこれがなくなっている。むろん、右か左にしか定位しない音があるものの、全体的には一丸となって音が出てくるようなミックスになっているよね。近年だと1990年代あたりから?21世紀になってから?わからないけれど、CD でも配信でも、モノラルなミックスと再生状況に近づきつつある。回帰しつつある?

スピーカー一台で聴くとぼくが言う際のスピーカーは、主に上掲写真にある Bose の Bluetooth スピーカーのこと。音楽再生は一台のスピーカーでいいのだとは、2017年夏にこれを買って使いはじめ、一年半ほどが経過しての実感なんだよね。皮膚感覚で得たものだ。同じく Bose の同じく Bluetooth スピーカーで、下掲写真の小さいやつは IPX7規格の防水性能ありのポータブルで、お風呂場などで使っている。

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Bose のこれらのスピーカーは、二台を無線接続してステレオ・モードで鳴らすことも可能だし、実際購入当初はぼくも同じ円柱形のを二台買ってそうしていた。だが、だんだんと、一台で鳴らしたときの音楽再生音が特に違いを持たないとわかるようになってきたんだよね。音が左右に分かれない、ビュンビュン飛ばないってだけのことで、音は記録されているものぜんぶが聴こえるし、それに、上でも触れたが左右分割じゃないとおもしろみがわからない音楽はほぼなし。

っていうかさ、ご存知のとおり1950年代末〜60年代の、ステレオ・レコード黎明期の音楽なんかも、実はモノラル再生したほうがいいものだよね。それだけまだ技術が進んでいなかったということだけど、あんな中抜けしているようなステレオ状態なんて本当はまやかしで、音楽現場の実像からも遠く、再生物としても中途半端で、聴いちゃいられない。みなさん実感がおありのはず。

いま、音楽現場の実像と書いたが、かのフィル・スペクターもそう考えていたように、演唱されている現場で聴く音楽とは、左右に音が分かれたりなどしていない。言ってみれば、まあ、モノラル状況だ。聴き手の右や左から異なる音が聴こえてくるなんてのは、複数の演奏者に囲まれているようなケースでしかありえないことで、ふつうのライヴ現場、でなくとも日常の生音楽体験で、(いわゆる)ステレオで音が聴こえることなんて、あるの??

ここまで書いてきたことは、しかし後付けの理屈なのだ、ぼくのなかでは、一年以上にわたり Bose の Bluetooth スピーカーで音楽を聴き続け、だいたいが長風呂人間で、真夏でも湯船に20分は浸かっている(体温程度のお湯ですよ)という人間だから、防水ポータブルの Bose 一台を持って入り、ずっと聴いているし、っていうかこのスピーカーのおかげでお風呂タイムが楽しくなって長風呂になったんだけど、お風呂じゃなく自室でも Spotify で聴くばあいは(ヘッドフォンやイヤフォンが嫌だから)スピーカー派のぼくの現実的選択肢は、一台の Bluetooth スピーカーを iPhone とペアリングするしかないっていう、だからずっとそれで聴いているという 〜〜〜 この一年半以上のあいだの実体験から来るものなんだよね。

それで、最近はブログ用にでも書く文章でも、そうやって聴いて書いたものがすでにたくさんある。どれがそうだなどとは指摘できないほどで、今後はもっと増えていくはず。すなわち、音楽聴取と、それにもとづく感想や考察や、それを文章化したものに、ぼくのなかでは、なんの違いもないんだよね。CD や iTunes ファイルを聴くときは、下掲写真の JBL 四台体制だけど、同じ音源でもスピーカー一台で聴いて、なんの違いも、ない。それがようやくわかった。

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2019/01/24

すごい、このンゴニの音!〜 タラウィット・ティンブクトゥは振動がすべて

タラウィット・ティンブクトゥ(Tallawit Timbouctou)の2018年リリース作『Hali Diallo』。見開きジャケットを開いた左側に記載の情報によれば、録音は2011年のものらしい。どうして七年間も眠らせてあったのかはぜんぜんわからないが、この音楽、すごいぞ。マリ北部の砂漠のトゥアレグの、と書くとギター・バンド、砂漠のブルーズ、とリプが来そうだけど、ここではギターじゃない。ンゴニ(ここでの名、テハルディン)だ。それも激しく電気アンプリファイドされている。そ〜れが!しびれるほど魅力的!!

それで、このアルバム『Hali Diallo』は、いちおう10個にトラックが切れていて、曲名もつけられているが、これたぶん「一個の」演奏なんだよね?そう、たぶん間違いない。メドレーのノン・ストップ状態というよりも、一つ、一曲の演奏だからこうなっているんだと思う。たぶん、なんらかの現場、儀式かなにかで延々とやっているような、そんな音楽なのかもしれない。だから45分間ずっと一個なんだろう。モロッコの儀式グナーワなんかと同じで。

『Hali Diallo』のタラウィット・ティンブクトゥは三人編成。テハルディンだけど便宜上ンゴニと呼ぶが、それが二台。うち一台はベース役。そのほか一名が打楽器カラバシを担当している。アルバムの音を聴くと、おそらく多重録音などいっさいなしで、このトリオだけによる現場での即興演奏をそのまま録音したものなんじゃないかと思う。

そのインプロヴィゼイションも、聴くひとによっては単調だとかワン・パターンだとかとらえられてしまうかもしれないものだけど、とんでもない。こんなシビれる音楽の反復形式はないんだよね。アフリカ音楽だとこういった高揚や興奮があたりまえのものだ。特にカラバシのサウンドがズンズン、バシバシ決まって、ビートでまいっちゃう。

でもしかし、ぼくにとってのこのタラウィット・ティンブクトゥ『Hali Diallo』は、メイン・パートを弾き歌う Aghaly Ag Amoumine の魅力がほぼすべて。特にンゴニだなあ、シビれちゃうのは。ヴォーカルのほうは、全45分間でほぼ出てこないと言いたいほどあまり入らないし、歌っているあいだもどうってことないんじゃないかな。でもちょっと典型的な砂漠のブルーズ・バンドのヴォーカリストっぽいトーキング・スタイル。

それよりなにより、このンゴニの音だよ、このアルバムは。こんなンゴニの音、聴いたことありましたっけ?電気アンプリファイドされているけれど、激しくひずんでいる。間違いなくなにかのエフェクターをかませてあるよなあ。ファズとかディストーション系かオーヴァードライヴかを。それで、こんな、まるでハード・ロック/ヘヴィ・メタルのエレキ・ギタリストが出しそうなンゴニ・サウンドになっている。

こういったひずみまくった音が、も〜う!大好物だから、ぼくは。喩えて言えば、まるでマラハティーニのあの声そのままをンゴニに移植したような、そんなサウンドでビリビリ空気が振動して、こ〜りゃ快感だ。しかもアルバム『Hali Diallo』の全45分間、まったくやむことなく、こんなディストーティッド・ンゴニがビリビリ鳴り続けているんだもん。快感すぎて、もう一気に駆け抜けて、聴き終えたら爽快感すらある。

ビリビリっていう振動がすべてのタラウィット・ティンブクトゥ『Hali Diallo』。いわゆる砂漠のブルーズ愛好家にもアピールできる内容だし、ハード・ロック好きにもいけるし、西アフリカのンゴニが好きなかたには、それがここまでの音に化けているのか!と、興味本位で入っていけるかもしれないし、なんたってこのひずみまくった音のノン・ストップ状態45分間でイキっぱなしになるし、こんなに気持ちいい音楽がほかにあるのか。

2019/01/23

『ウィ・ウォント・マイルズ』一枚目の急速二曲がけっこうすごい

こないだ、マイルズ・デイヴィス人間化提言(?)の記事を書いたでしょ。このトランペッターが帝王化したのはたぶん1981年の復帰後と判断して、そのへんのアルバムを聴きながらだったんだよ。それで発見したのが、復帰第二作の二枚組ライヴ・アルバム『ウィ・ウォント・マイルズ』一枚目にある急速調の二曲で、特にバンドが、いや、マイルズも、かなりすごい演奏を展開しているなということだった。

すなわち「バック・シート・ベティ」と、「ファスト・トラック」(との記載だが「アイーダ」)。そもそも『ウィ・ウォント・マイルズ』では、二枚目 A 面いっぱいを占めていた「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」がいちばんいいということに長年(ぼくのなかでは)なっていて、ぼくだけじゃなく同様の意見を表明なさるかたはわりといた。ま、いまでもぼくは基本そうなんだけど。

一枚目だと、東京は新宿西口広場でのライヴ収録である「ジャン・ピエール」がなんともおもしろくなくて、それがしかもレコードのオープナーとクローザーみたいに置かれて二回出てくるので、正直言ってちょっとこれは、テオ、なんだよ〜、バンドは大健闘だけど…、って感じてたんだよね。そのせいか、それにはさまれた「バック・シート・ベティ」「ファスト・トラック」にしっかり耳を傾けていなかったかも。

整理しておくと、「バック・シート・ベティ」は1981年7月5日、ニュー・ヨークのエイヴリー・フィッシャー・ホール公演から、「ファスト・トラック」は同年6月27日、ボストンのクラブ、キックスでの公演から、それぞれ編集されて収録されている。どっちもブートレグでオリジナル演奏を聴けるので、かなりな程度までテオが手をくわえているとわかっている。

しかしバンドの演奏やボスの吹奏ぶりそのものを変更できないもんねえ。実際、マイク・スターン(g)+マーカス・ミラー(b)+アル・フォスター(d)の三人は、はっきり言って大名演として問題ないほどのものすごい演奏を展開。そこにパーカッションのミノ・シネルも加わって(ミノはボストンでマイルズがスカウトした)、このリズムの躍動感はなかなかすばらしいものだよねえ。

「バック・シート・ベティ」では、スタジオ作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』で聴けるミディアム・テンポでのゆったりした、しかし複雑にレイヤーされたグルーヴは影をひそめ、激速的とまで言えるほどの壮絶なワン・トラックにアレンジしてある。リズム・パターンはかなり整理されてシンプルになっているが、ここではそれがいい方向に作用している。

マイルズは最初ハーマン・ミュートをつけて控えめに吹きはじめるのだが、そこからしてすでにただならぬ妖気がただよっていると、いまのぼくなら感じる。そのミューティッド・ソロのあいだ、バンド、特にマーカスとアルが協調して盛り上げて、マイクがそれに引っ張られ合わせているように聴こえる。しかしまだまだ序章だ。

3:06でいきなりオープン・ホーンで一音高らかに吹いてからが本番。そのトランペット・サウンドも熱気をはらんでいるが、バンドがいきなり四音のストップ・タイム的ブレイクふうなパターンに移行。四つ目を合わせた次に五つ目のバン!が来るこのリズム・パターンは、しかし事前のアレンジじゃない。エイヴリー・フィッシャー・ホールの演奏現場でのアド・リブ着案なんだよね。それなのにドンピシャのタイミングで四人が合奏。マイルズもあおられて、ソロ内容がどんどん高揚していく。

クライマックスは、4:55 〜 5:06。ここも事前に用意のないアド・リブだと思うけれど、マイルズが吹く背後でギターとベースが止んで打楽器二名オンリーの伴奏になっている。この約10秒間でマイルズはこれ以上ない最高のフレーズを発しているよね。吹き終わりで、だれかがイエィ!って叫んでいるもん(ミノ?)。ギターとベースが再開してからも(ブロック・リフを演奏しつつ)熱は下がらず、高温沸騰したまま例のギター・ファンファーレみたいなのが来て、この興奮のワン・トラックは突如終了。いやあ、すごいなあ。

続く「ファスト・トラック」は、キックス現場での演奏「アイーダ」を収録したテープの回転数を上げテンポを速めてある。そうだとうなずける音響だよね。悪く言えばやや不自然で人工的に響くのだけど、しかしテオのそういった編集作業が、ここでも功を奏し、急速調の興奮をさらに一層かきたてることに成功しているんだよね。

「ファスト・トラック」では、7:14 からはじまるボスの二回目のソロからものすごいことになっているじゃないか。本人の熱の入りようも尋常じゃないが、バンドもどうしたんだこれ?そのままミノのコンガ・ソロになり、それが終わってからの 10:00 過ぎあたりからがいよいよこの世のものじゃない異次元に六人が飛躍していってしまう。

マイルズも(このころまだ体調がおもわしくなかったにもかかわらず)ハイ・ノートをどんどんヒット。しかもパワフルだ。マイクのギター・コード・ワークを中心として、ちょっとふつうじゃない妖気をバック・バンドが放っている。そして13分過ぎごろから、完全なる宇宙空間へ飛び出しているよねえ。なんなのここは?いったいどうしちゃったの?

今日書いたことは、すべて事前打ち合わせなどで実現できることじゃない。現場での瞬時な即興であるからこそかなえられた展開なのだ。いやあ、この1981年のカム・バック・バンド、いまさらだけど、やっぱりなかなかすごい実力を持っていたんだよなあ。ボスのトランペット吹奏能力も1983年ごろにようやく戻ったなどと思っていたのだが、とんでもない。いまごろ気づいたのはぼくだけに違いない。

2019/01/22

ナターリア・ラフォルカデの汎ラテン・アメリカン古謡、こっちが一作目

ナターリア・ラフォルカデによるラテン・アメリカン古謡シリーズ『ムサス』のファンなんですけど、ぼくは。最初に聴いた2018年リリースの二作目の印象がとてもよかったんだよね。それで、その前の一作目(2017)も渋谷エル・スールで買って聴いたわけ。もともと評価が高かったのはこっちだし。そうしたら、これもなかなかすばらしい。まあナターリアの声は、なんちゅ〜かその〜、アイドル・ヴォイスかもしれませんが、ぼくなんかは抵抗ないよ。

正式題は『MUSAS: Un Homenaje al Folclore Latinoamericano en Manos de Los Macorinos』と長すぎるので、みんな『ムサス』と呼んでいるこの二枚シリーズ。2018年リリースの Vol. 2については以前書いたのでご一読いただきたいと思います。今日はさかのぼって一作目のことだけ。といってもアルバム・コンセプトは同じで、内容もかなりな部分完璧に同一といってさしつかえないものだけどね。
もちろん違いはある。『ムサス』一作目は、汎ラテン・アメリカンというより、メキシコとキューバ二ヶ国の古謡(か、それに似せた自作&共作も多し)にほぼフォーカスがしぼられている。キューバとメキシコが、特に音楽の世界で、それもキューバ革命までは、かなり密接な関係にあったことはご存知のとおり。そこにアメリカ合衆国も深くからんでいる。『ムサス』Vol. 1だと、ナターリアも、特にメキシコという自身の土地のルーツに目を向けていたということかな。

それで、以前、ライ・クーダーをフィーチャーしてチーフタンズがやったメキシカン・フォークロア・アルバムのことを書いたでしょ。『サン・パトリシオ』だっけな。たしか2010年作。あれは米墨戦争に題材をとったものだからああなっていた。ナターリアの『ムサス』Vol. 1をご存知ないかたも、だいたいあの『サン・パトリシオ』を想像していただければ、遠くないと思う。
『ムサス』Vol. 1で最も有名な曲は、たぶん9曲目「Tú Me Acostumbraste」だね。かのフランク・ドミンゲスが書いたもので、ナターリアはオマーラ・ポルトゥオンドを迎えデュエットで歌っている。やはりちょっとフィーリンっぽい仕上がりに聴こえるのはオマーラのおかげか、曲がもともとそういった傾向のものだからか。ナターリアの声はでもそんなにクールさを感じないものだけど。

このへんは、もちろんオマーラとナターリアが歌手として器が違いすぎるからっていうのもあるよね。年季が入って枯れたクールな味わいに到達しているオマーラはやはりさすがだ。しかもドライになりすぎない情緒をしっかり残してある。ナターリアも、でもかなり健闘はしているよねえ。オマーラと並ぶと分が悪いけれど、落ち着いたフィーリングで淡々と、ほかの曲でもこなしている。

それから『ムサス』Vol. 1におけるナターリア最大の功績と思うのがソング・ライティングだ。自作、あるいはほかの作者との共作でナターリアがたくさん書いているが、上でも触れたフランク・ドミンゲスそのほかの曲群と並んでも違和感ないもんね。アルバムでは主に前半部が自作セクションみたいになっている。

そこでは、たとえば1、5、6曲目がナターリアひとりでの自作、2、3が共作で、(主に)メキシカン・フォークロアの世界を見事に再現している。それらを聴き、アルバム後半の有名他作曲セクションへスムースに流れていくのを聴いていると、なかなかすごいな、ナターリア、かなり勉強したんだなと痛感する。しかも1曲目にはレゲエのニュアンスだってあるもんさあ。

プロデュースも全面的にナターリアがひとりでやっている(とのクレジットだけど、共演のロス・マコリーノスが手を貸しているはず)ところからしても、アルバム全体でラテン・アメリカン古謡の陰と陽を交互に並べ陰影をつけていく選曲や並び順といったところからしても、しっとりとした歌いこなしやアレンジ、そしてなによりアイドル歌謡(?)の世界からここまで深い部分まで掘り下げる野心や心意気などからしても、ナターリア・ラフォルカデには感心しきりなぼく。かわいいし。

2019/01/21

「どんな気分だい?」なんて言わないし 〜 マイ・フェイヴァリット・ディラン

ぼくのいちばん好きなボブ・ディラン、それは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(1967)と『ナッシュヴィル・スカイライン』(1969)の二枚だ。とても雰囲気が似ている。コンサヴァティヴ、というと拒否反応を示すロック・ファンもいそうだけど、そんなおやだかなムード、衣装がぼくはとても好き。落ち着いているし、ゆっくりくつろいでいるような、そんな音楽じゃないか。とがったところや激しさや攻撃性がない。だから、いま、この二枚がとっても好き。

曲のつくりもバンドの楽器編成や演奏スタイルも、この二枚ではよく似ている。基本カントリー(・ロック)なテイストで、ペダル・スティールやエレキ・ギターも隠し味的に入るけれど、根本的にはアクースティック楽器で編成されたおだやかサウンドだ。『ジョン・ウェズリー・ハーディング』のほうでは、ディランがハーモニカもたくさん吹く。

シンプルなラヴ・ソングがたくさん含まれているのも特色で、ぼくがこの二枚がとても好きだと感じる要素。たとえば、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』にある「今宵ぼくは君のもの」(I'll Be Your Baby Tonight)、『ナッシュヴィル・スカイライン』にある「君とふたりっきり」(To Be Alone With You)、「今夜は君とずっといっしょにいるよ」(Tonight I'll Be Staying Here With You)などなど。

こんなわかりやすい恋愛曲を、おだやかでやさしくソフトな演奏と歌い口でディランがやってくれる。挑発的で好戦的な衣を脱いで、普段着のやわらかさを出した彼が、人生や生活で傷ついた聴き手のささくれ立ったつらいメンタルを、そっと慰撫してくれているかのような、そんな心地がする。

だから、今後もなにかあったら、この二枚を一個にしたプレイリストの、約1時間4分を聴こう。繰り返し繰り返し、聴こう。それで生きていける。

2019/01/20

渋谷エル・スールに捧ぐ(たぶん1月27日夜)〜 ミンガス、マイルズ&モア

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2019年も、今月、渋谷エル・スールにお邪魔することとなりました。大好きな歌手二名のコンサートが、なんと1月26日、28日と立て続けに東京都内で開催されますので。四泊程度の東京滞在となります。エル・スール店舗に顔を出せるのがいつになるか、まだはっきりしませんが、たぶん1月27日(日曜)の夜、晩ごはんを食べてから向かおうと、いまのところは考えております。

それで、エル・スール原田(プロレスラーのリング・ネームみたい)さんとのお約束で、なにか音楽 CD-R を焼いて持参することとなり、原田さんがチャーリー・パーカー以後のジャズがいいとおっしゃるのでマイルズ・デイヴィスと、それから Twitter で原田さんとこのお話をしていたときたまたま聴いていたのでチャールズ・ミンガスの、それぞれマイ・ベスト・セレクションをつくりました。+おまけでブルーズ・ロック・ギターのベストと、計三枚を持っていきます。

マイルズは1970年代電化ファンク時代のベスト。ミンガスは泥臭くブルージーにクッサく攻めているものを中心に。ブルーズ・ロック・ギターの一枚は以前このブログで書いたものとほぼ変わりません。三つ目にかんするくわしいことは、以下をご一読ください。
マイルズとミンガスのそれぞれ一枚は、いまだ書いていない新制作ものなので、曲目など以下に記しておきます。曲目だけでなく、付記したほうがいいかなと判断するデータはそうしてあります。そうですね、演者名は不要だから、曲名と、収録アルバムとその発表年(録音年は曖昧なばあいもあり)くらいでしょうか。内容の説明は今日はしません。

・チャールズ・ミンガス・ベスト
01. Ysabel's Table Dance (Tijuana Moods)1962
02. Better Git It In Your Soul (Mingus Ah Um) 1959
03. Cryin' Blues (Blues & Roots) 1960
04. E's Flat Ah's Flat Too (Blues & Roots)
05. Devil Woman (Oh Yeah) 1961
06. Ecclusiastics (Oh Yeah)
07. Hog Callin' Blues (Oh Yeah)
08. Oh Lord Don't Let Them Drop That Atomic Bomb On Me (Oh Yeah)
09. Invisible Lady (Oh Yeah)
10. Jelly Roll (Mingus Ah Um)
11. Flamingo (Tijuana Moods)

・マイルズ・デイヴィス電化ベスト
01. Sivad (Live-Evil) 1971 - edited by Toshima
02. Honky Tonk (Get Up With It) 1974
03. The Little Blue Frog [alt .take] (The Complete Bitches Brew Sessions) 1998
04. Johnny Bratton [take 4] (The Complete Jack Johnson Sessions) 2003
05. Archie Moore (The Complete Jack Johnson Sessions)
06. Sugar Ray (The Complete Jack Johnson Sessions)
07. Maiysha (Get Up With It)
08. Big Fun (1973 single A-side)
09. Holly-wuud (ibid B-side)
10. Minnie (The Complete On The Corner Sessions) 2007

ミンガス・ベストはすべて既発の公式音源を好みで並べただけ。マイルズ・ベストのほうは、1曲目の「シヴァッド」がぼくの手になる短縮編集作業を経たものなので、この世にこれでしか聴けません。それ以外はこっちも公式発売音源そのままです。

また、マイルズのほうで3、4、5、6、10曲目は、当時未発表で長年お蔵入りしていたもの。大部なボックス・セットではじめて日の目を見たものたちですが、なかなかどうして、おもしろいんじゃないでしょうか。8、9曲目はシングル盤で当時既発とはいえ、CD リイシューは2007年の『オン・ザ・コーナー』ボックスでが初でした。

あ、そうですね、ブルーズ・ロック・ギターの一枚も、いちおう曲目と演者名だけ記しておくことにしましょう。

・ブルーズ・ロック・ギター
01. Albert's Shuffle (2002 Remix Without Horns) - Mike Bloomfield, Al Kooper
02. Shake Your Moneymaker - Fleetwood Mac
03. I Ain't Superstitious - Jeff Beck
04. Have You Ever Loved A Woman - Derek & The Dominos
05. Merely A Blues In A - Frank Zappa
06. Cosmik Debris - Frank Zappa
07. I Can't Quit You Baby - Led Zeppelin
08. Stop Breaking Down - The Rolling Stones
09. The Sky Is Crying [Live] - Stevie Ray Vaughan
10. Red House - Jimi Hendrix
11. Purple House - Prince
12. The Ride - Prince
13. Matchbox - Paul McCartney

2019/01/19

ハバナのチャネー(ガリシア出身)

ジャケットに描かれている人物がチャネーことホセ・カストロ・ゴンサーレス(1856〜1917)だ。スペイン北東部ガリシア出身の音楽家で、キューバに渡り活躍、主に作曲家としての功績が大きいと言えるはず。いわゆる国民楽派っていうか、マヌエル・デ・ファリャ(スペイン)、エルネスト・レクオーナ(キューバ)、ルイス・モロー・ゴットシャルク(ニュー・オーリンズ)といった、ラテン/アメリカ音楽世界で、その19世紀末〜20世紀初頭ごろに出現した1グループに分類できるかも。

2017年はそんなチャネーのハバナでの没後100周年に当たるので、たぶんそれで企画されたのが、今日話題にしたい音楽アルバム『アバーナのチャネー』(Chané na Habana) だね。主役はチャネーのすばらしい曲の数々だけど、演奏しているのは、中心がキューバ出身のピアニスト、アレハンドロ・バルガスとその六人編成バンド。さらにカメラータ・エヘリアという弦楽隊が付き、女性歌手ローサ・セドロンがヴォーカルを担当している。

『アバーナのチャネー』は、2017年7月30/31日に、ガリシアのオーディトリアムでライヴ録音されたもので、しかしライヴ感はまったくと言っていいほどない。拍手や歓声は100%カットされているようだし、音響もライヴ・ホールのものじゃないような感じだ。また生演唱ならではのほころびもなく、でもこれは事前の準備に時間をかけたということだろう。

それから、なんたってこのアルバム『アバーナのチャネー』パッケージは豪華。音楽 CD は一枚なんだけど、それがていねいな薄緑色の草模様をあしらったケースに入り、西英二語によるブックレットは分厚くゴージャスで詳細(ページ数は打たれていない)。それらが、まるでキューバ特産の葉巻ケースを模したようなハード・ボックスにおさめられている。瀟洒な感じもあるが、それはまるでチャネーの音楽をそのままパッケージでも再現したかのよう。

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以下、演唱家たちのその内容というよりもチャネーの曲の内容に主に絞って、ぼくの好みな部分だけ、感想をちょこっとメモしておきたい。いや、でもホントこの『アバーナのチャネー』は一回目に聴いた第一印象が極上で、質のいいシルクの布をまとっているかのような肌ざわり。聴き込むうち徐々にイマイチかも?と思える部分も出てきたが、全体的にすばらしい内容であるのは間違いない。

ガリシアの民俗音楽にヒントを得てチャネーが書いたものも好きだけど、個人的にはキューバ音楽要素が気になるし、それこそ大好きだ。音階は必ずしもスペイン音階と限らないのがやはりガリシア出身のコンポーザーらしいところか。それでも随所にそれっぽい旋律は聴ける。でも、やっぱりリズムだなあ、ぼくには。

たとえば1曲目「A Foliada」もアフロ・キューバ系のビートを(軽く)持っているが、ローサの歌が出るとそれがいったん落ち着いている。しかし歌の後半部分でパッと変化して、リズムが快活なカリブ系のそれになってからは、弦楽のリリカルな響きもあいまって、とても見事な雰囲気だ。めくるめくようなメロディの動きも実にいい。

2曲目「Gaiteiriño Pasa」はボレーロ/モルナとされているが、これも含め、これ以後アルバムにあるボレーロ楽曲はどれも大好きだ。それはアバネーラ楽曲とも密接な関連がありそう。キューバにおけるアバネーラやボレーロの登場をいつごろと見るのかなかなかむずかしいが、チャネーのキューバ到着は1894年1月だから、どっちもすでにしっかりあったと見て間違いない。

チャネーは、そんなキューバ音楽要素を、渡玖前に、スペイン人作曲家がアダプトしたものからも学んでいたかもしれない。いずれにせよ、チャネーのボレーロ/アバネーラに聴ける優雅で典雅なムードはとてもすばらしい。3曲目「Os Teus Ollos」もボレーロだが、ぼくが(フィーリンにもつながっていくものとして)知っているキューバン・ボレーロほどリズムの8ビートなちゃかちゃか感はない。もっとゆったりゆるやか。

10曲目「Un Adiós A Mariquiña」でも同じ印象がある。これはボレーロ/コンゴとされている。コンゴっていうのは(音楽としての)コンガのことかなあ?そんな快活なリズムにも聴こえないから、別のなにかかもしれない…、と思って聴いていると、やはり後半部でにぎやかになってくる。がまあでも、全体的にとてもしっとりやわらかいソフトなフェザー・タッチだ。

そう、いま書いたことと、上でもちょこっと触れたけれど、ちょっとフィーリンっぽいんだよね、チャネーのボレーロは。これは演奏やローサのスムースな歌唱のおかげもあるのか、ちょっとわからないが、個人的印象としてはチャネーの楽曲そのものにフィーリンになりうる要素が宿っていたに違いないと思う。バラーダ(バラード)とされている4曲目「Luisa」にしても、アフロとなっている6曲目「Alalá」にしても、そう。フィーリンっぽいよ。

ところでこの「アララー」という曲はとってもいいね。アルバム『アバーナのチャネー』の全曲のなかで最大の好物かもしれない。あ、いや、あるいはアルバム・ラストの12曲目、アバネーラと記されている「Balada Inédita」かもなあ。ふたつとも大好物。「アララー」と「バラーダ・イネーディタ」は、どっちもガリシアのトラッド・フォークからモチーフを得たものだそうで、でもリズムはこれ、キューバのものだよなあ。ガリシア+キューバの合体美ってことか。すばらしい。

陽気で激しいビート・ナンバーも聴き逃せない。たとえば7曲目「Primeira Perda」(グアヒーラ)、8「Cantiga」(チャチャチャ)、9「Tangaraños」(コンガ・サンティアグエーラ)、そして11「Soledades」(メレンゲ)あたり。

どれもいいけれど、ぼくにとってすごく楽しいのが11「ソレダーデス」。こんな曲題だけどさびしさやわびしさはなく、これはほぼサルサ・ミュージックの先取り、100年近く前にそれを予告したかのようなワン・トラックなのだ。だから好き!ピアノの弾きかたにしてもまるでエディ・パルミエーリみたいだし、リズム・セクションのビート感にしてもそう。ティンバレスでも入っていれば完璧だったが、そこまでは望むべくもない。がしかし、しっかりキューバ発祥で花開いたものが聴こえているよ。

2019/01/18

2018年も快進撃だったフェミ(1)〜 ややフェミニンなの?

(2)をいつ書くかはまだぜんぜんわかりません。

フェミ(・オルン)・ソーラーの快進撃が止まらない。昨2018年にも二枚の新作をリリース。いまぼくの自室にも、その『オン・ストリート』と『スウィートネス』がある。どっちもよかった。今日はナイジェリアで昨年五月のリリースだったらしい『オン・ストリート』のほうだけちょこちょこっとメモしておきたい。それにしてもナイジェリア盤 CD って、パッケージがどうしていつもこんな糊付け甘いんでしょうか?買えて聴けるんだから文句言えませんけれども。

『オン・ストリート』はわずか36分程度で、しかもぜんぶがひとつながりのワン・トラック。ジャケ裏には Tracks と題し五つの曲名が記されているが、これってメドレー形式ってことでもないような気が、ぼくが聴いてわかる範囲では、する。いちおう五曲メドレーってことなんだろうけど、なにもわかっていないぼくには36分間ぜんぶで「一曲」にしか聴こえないんですゴメンナサイ。

だってね、『オン・ストリート』では一度も曲調が変わらないままずっと最後まで続いている。快活で陽気に跳ねるような元気満々のグルーヴで貫かれているよね。それがね、聴いていると楽しいったら楽しいな。楽器編成は、複数ギター、ドラム・セット、複数トーキング・ドラム、各種パーカッション類といったあたりかな。バック・コーラス隊もいつものようにいる。

しかしいつものフェミの作品と異なっているのは、リード・ヴォーカルにゲストが迎えられていることだ。ジャケ表にフィーチャリング・イドウ・サンタナと書いてあるのがきっとそれだ。でもこのひと、だれなんだろう?エル・スール原田さんでもほぼなにもわからなかったと HP でお書きだから、まあ謎の人物なんですな、きっと。フェミとは声質も節まわしも違ってややガサついているので、二名の聴き分けは容易。

イドウは『オン・ストリート』の最初から最後までどんどん参加しているが、やはりそれでもあくまで主役はフェミだ。このやや甲高く軽やかなジュジュ声こそフェミの持ち味で、やさしさをもぼくは感じとっていて、そのやわらかな感触はフェミニンですらあると、ぼくだったら思う。ジュジュ・ミュージックの主役歌手に対しふさわしくない形容かもしれないが、そもそもキング・サニー・アデにだってぼくはこれを感じていた。

だから、ぼくにとってのジュジュ・ミュージックとは、この野太い、まあ野生的な、しかし、でありかつ細やかにすみずみにまで神経を配って組み立てられた洗練リズム・アンサンブルの上を、エレキ・ギターがヒュンヒュン飛んで、最上層に主役歌手のソフト・タッチな女性的ヴォーカルがふわっと乗っているという、そんなイメージというか、そんなところが魅力なんだよね。

ジュジュとかフジとか、ナイジェリアのこういった種類の音楽について、こんなことを言っている文章に出会ったことがないので、ぼくだけのおかしな印象かもしれない。でも個人的には間違いない実感なんだよね。すくなくともフェミのジュジュというか、ジャサは、フェミニンにやさしい。

もちろんパーカッシヴなリズム・アンサンブルの躍動感、隙のないサウンド・メイクが土台にあってこそだけどね。

2018年のフェミは二枚目の『スウィートネス』も最高だったし(こっちは Spotify にもあり)、今日書いた『オン・ストリート』も楽しくて、36分間ワン・トラックだしで、あっという間に聴き終えてもう一回!とリピートする快作だ。

2019/01/17

ひとり書き For No One

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音楽をどんどん聴くのは、もちろんだれのためでもない自分のため、というかためでもなく、ただたんに聴きたいからだ。しかしまあ、ためというか自分にとっての効用みたいなことはあるように感じている。なんだか気分がダウンなとき、肉体的になんらかのつらい状況にあるときなどなど、好きな音楽に聴き入ることで、ある種の救い、とまで言わないまでも強い癒しになっているのは間違いない実感。むろん、べつになにもない平穏で楽しい時間にだってどんどん聴いている。つまり、いつでも音楽といっしょ。

そうやってどんどん聴いて、それについて毎日どんどん文章を書き、公開するというのは、しかしいったいぼくはなんのため or だれのためにやっているのだろうか?まあこれも露出狂趣味のナルシストであるぼくだから、書いて見せるという行為が快感なだけだからっていうのが最大の理由だろうなあ。たんに、楽しいんだ。

最初ぼくはブログをはじめるつもりはなかった。はじめたのは2015年9月3日だけど、その約半年ほど前から音楽について書いてはツイートする、ほぼ毎晩のように、ということを続けていた。あれはいったいどうしてはじまったのか?などという問いを立ててみることも無意味だろう。音楽好き&おしゃべり好き人間だから、どんどん聴いている音楽についてたくさんしゃべりたい、ぼくにとってそのための場は Twitter しかなかったというだけだ。

Twilog というウェブ・サーヴィスがあって、ツイートをぜんぶ記録してくれる。検索も容易だから、ずいぶんと助かっている。2015年の春先あたりから音楽投稿をどんどんやるようになり、しかし Twitter はひとつのツイートが140文字までという制限があるから連続ツイートになる。タイムラインだと次々と流れていってしまうので、あとからさがして読みなおそうと思ったら Twilog が便利なのだ。

それで Twilog で自分の音楽ツイート連投を拾い、一つの話題についてのものを一個のテキスト・ファイルにまとめていた。最初は Twitter に投げっぱなしであとから Twilog で拾うというやりかただったんだけど、そのうち、たくさんのツイートじたいを保存しておいて、そのままテキスト・エディタにまとめて貼り付けてまとめるということをやりだした。ドラッグ&ドロップで。

そうしてできあがり保存してある音楽文章のテキスト・ファイルが、ぜんぶで150個ほど(だったと思う)たまってきて、これをこのまま死蔵したままでいいのだろうか?もったいないんじゃないだろうか?いや、べつにどなたに見せるとかいうんじゃなく、自分自身のために、ブログみたいな、別のなにかでもよかったんだけど、なんらかのものにして公開していけば楽しいかも?と考えるようになった。

これがこのブログをはじめた動機。だから文章を書きはじめてからブログをはじめる2015年9月3日までにすこし時間が経過していた。貯金が150個近くもあって、その上さらに休まず毎日連続ツイートしているんだから心配ないと思い、毎日更新するということを決めた。これにかんしては現在テキスト・ファイルの貯金が28個になっているので、ちょっとがんばらないといけないのかも。

ブログに毎日上げるようになってしばらく経ってからは、そもそもの書きかたが変化して、連続ツイートというより最初からブログ用にと考えて書くようになったけれど、しかしそうなってもやっぱり書くのは Twitter アプリ(Mac用でサード・パーティ製のやつ)のテキスト入力フィールドを使ってだったというありさま(笑)。140字という字数制限があるので、それくらい書いてはエディタに保存し、続きをまた Twitter アプリの文字入力欄で書くっていう、なにやってたんだぼくは(苦笑)?

これをやめ、もちろんいまでは最初からテキスト・エディタ(Jedit Ω)で書いているんだけど、それをもとに、やはり Twitter での連続投稿はやっている。ツイートしたものをそのとき一個一個見ながらが最終校正になるんだよね。これはちょっと不思議なようなそうでもないのか分からないが、エディタ画面で見てわからない細かな書きミスに、ネット投稿済みのものを見れば気づくっていう、ホントこれ、なんで?

そんな連続ツイートに反応があったり、完成品をブログに上げたお知らせをツイートしたものに反応があったりと、なにか目に見えるものや、そうでなくともひそかに感じられるちょっとしたものでもあれば、もちろんうれしく励みになる。この nifty のココログには<いいね>ボタンみたいなものがないんだもんなあ。はじめる際にそこまではまったく思いがおよんでいなかった。

だからつまりこれ、このブログ内に限れば、コメントが付く以外の反応はいっさいわからない仕組みになっている。<いいね>ボタンでもあるようなブログ・サーヴィスを選べばよかったのだろうか?

でもしかし、一時期そんなふうに感じていたものの、最近、そう、ここ半年くらいかな、これはいっさいなにもないほうがぼくにはいいのであるとわかるようになった。Twitter や Facebook にブログ更新のお知らせを書き、それに反応があるときは、もちろんすごくうれしく幸せだ。でも、なにもなくたってかまわない。

つまり、反応がないばかりか、どなたが読んでくださっているだとか、そもそもどんな層が読者であるとか、あるいはそういったもの、つまり読者を想定しながら書くことだとか、そんなこと諸々、ぼくには、いっさい、関係ない。やっていないし、考えすらもしなくなった。読者はまったく想定せずに書いている。

ぼくはだれのためにも書いていない。For No One。だれにも見られていないと自覚するようになっている。それに、そう思えばなんだって書けるし、筆が乗らない日にこんなつまらないものしか書けなかったなと思っても、躊躇なくブログで公開できる。それも正直な記録なんだしね。

すべては自分のためだ。自分ひとりで音楽を聴き、自分が読むために文章を書き、自己満足のために公開する。今日のこの記事だってそうなんだよ。

2019/01/16

ルー・ドナルドスン with レイ・バレット

いま部屋にあるルー・ドナルドスンのアルバムのうち、コンガでレイ・バレットが参加しているものだけ拾ってみたら、『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚だったので並べてみた。どっちも当然ブルー・ノート盤で、1958年録音で、編成も同じワン・ホーン・クインテット。なんだか似たような傾向の作品だね。しかもレイ・バレットが参加していないアルバムとは、やはり違いがあるよ。

レイ・バレットとは、つまり例のコンガ奏者なんで、自身はニュー・ヨークで生まれ育ったとはいえ両親がプエルト・リカン。ファニア・オール・スターズにも参加し、かのチーター・ライヴでも演奏している。そのころがレイの音楽人生最大の成功期かなあ。ルー・ドナルドスンとやったのは1950年代末だからまだまだどうってことないけれど、それでもこのストレートなモダン・ジャズ・コンボに色彩感を与えていると言えるのかもしれない?

『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚では、疑いなく前者のほうが評価が高い。そもそもストレート・ジャズをやっているルーの代表作とみなされているよね。たぶんビ・パップ・ルーツがまだ鮮明だからじゃないかと思う。個人的な好みを言わせていただければ『ライト・フット』に軍配をあげたい。なぜなら、より泥臭く、ブルーズ/リズム&ブルーズ寄りで、しかもラテン・タッチもちょっとだけあらわになりつつあるからだ。

そんなわけで、あたかもレイ・バレット参加のちょっぴりラテン寄りモダン・ジャズの話をするかのように見せかけながら、その実、以下では特にそれにこだわらず(なぜかって、さほどのことにはなっていないような)、ふつうのストレート・アヘッドなジャズ・アルバムとして『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』についての個人的感想メモを書いておこう。

『ブルーズ・ウォーク』のほうがまだビ・バップ的っていうのは、何点かに見受けられることだ。選曲でもデンジル・ベストの「ムーヴ」があったりするし、それ以上に主役アルト・サックス奏者のスタイルが、まだまだ直接的にチャーリー・パーカー的そのままじゃないか。引用句までそっくりだしね。それでも「オータム・ノクターン」みたいな曲ではしっとりとした艶を聴かせ、1曲目のアルバム・タイトル・チューンでは、レイ・バレットのおかげかそうでないのか、ちょっぴりふだんとは雰囲気の異なるブルーズ演奏に聴こえなくもない?

ブルーズ演奏といえば、やっぱりこの点こそ『ライト・フット』で大きく変化している部分で、この二枚の特徴を分かつところ。つまり2曲目の「ホグ・モウ」。これしかし、Spotify のではなぜだか存在を抹消されているがマスター・テイクの前に「フォールス・スタート」があるのがいままでのフィジカル・アルバム。なかなかいい雰囲気のスタジオ・トークだから、ストリーミングで聴けないのは不可解だ。

それはいい。「ホグ・モウ」。これはもうドロドロに泥臭いという意味でのファンキー・チューンまっしぐらで、いくらブルーズが得意なルーでもここまでのものはやったことがなかったはず。1958年だと、同じモダン・ジャズ・アルト奏者でもキャノンボール・アダリーですらやったことがあるかないかといったあたり。実にクッサァ〜!大好きだこういうの!ヾ(๑╹◡╹)ノ

こんなスローでクッサいファンキーなストレート・ブルーズ「ホグ・モウ」では、ルーもいいがピアノのハーマン・フォスターがさすがの水を得た魚。バッキングにソロにと、特にブロック・コードでぐいぐい攻めるあたりのクッサいブルージーさが、ブルーズ大好き人間にはこらえられない旨味なんだよね。ちょっぴり「アフター・アワーズ」のエイヴリー・パリッシュ系だね。個人的にはこういった跳ねるジャズ・ブルーズこそ、最高の大好物。

アルバム『ライト・フット』には、まだまだ(ブルー・ノート・)ブーガルーには遠いけれど、ほんのかすかにラテン・ジャズのタッチを感じるものが二曲ある。3曲目「メアリー・アン」と4曲目「グリーン・アイズ」。前者はレイ・チャールズのラテン R&B ソング。後者はジミー・ドーシー楽団のもの(1941年)だけど、曲はキューバ出身のニロ・メネンデスが1929年にスペイン語題で書いたもの。

ちょっぴりアフロ・キューバンを香らせたかと思えば、演奏の大半はラテン・タッチを捨てストレート・ジャズになってしまっているとはいえ、こういった二曲に目をつけるということじたいが、ルー自身が変わりはじめていたか、レイ・バレットの助言でもあったのか、あるいはそもそもそんな時代だったということか、よくわからないが、おもしろいところじゃないだろうか。期せずして、これら二曲ではアルバムのほかの曲よりもバレットのコンガが目立っているような?そうでもない?

まぁこのあたりは、むかしもそうだし、たぶんいまでも、真っ正直なストレート・ジャズ愛好家は評価してくれないところなんだ。残念きわまりない。もっと時代がくだってルーが『アリゲイター・ブーガルー』を録音・発表したり、そもそもその周辺の、つまり昨年来繰り返している #BlueNoteBoogaloo の動きとか、ってことは要するにハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」(1962)、リー・モーガン「ザ・サイドワインダー」(1963)につながっているわけだから、するってぇ〜と1970年代のジャズ・ファンクに流れ込んでいるだとか…。サルサ勃興の動きとも同時代で共振していただとか……。

あんまりこんなことまでルー・ドナルドスン with レイ・バレットの話で書くのはやりすぎかもしれないんだけど、でもたまにはさ、フツーのジャズ・ファンのみんなにも考えて聴きなおしてみてほしいと思うんだよ。ジャズのなかのラテンがいったいなんだったのか?それがどういうことで、結果どんなものを生み、なにとつながっていったのかをね。

2019/01/15

カッコイイなあ、エルヴィス『オン・ステージ』

超カッコいいエルヴィス・プレスリーのライヴ・アルバム『オン・ステージ』(1970、RCA)。しかしこれ、エルヴィスの名がジャケットのどこにもないよね。1970年だとそれほどのイコンと化していたってことだね。いまぼくが持っていて聴いているのは1999年リリースの拡大盤で、全16曲。しかし上でリンクを貼った Spotify のはオリジナルどおりの10曲でたったの30分間。 内容がいいから、いくらなんでも短すぎるんじゃないかと思うんだけど。でも疾風のように吹き去って、それもいい。

拡大盤のトラックリストは以下のとおり。

01. See See Rider
02. Release Me
03. Sweet Caroline
04. Runaway
05. The Wonder Of You
06. Polk Salad Annie
07. Yesterday / Hey Jude
08. Proud Mary
09. Walk A Mile In My Shoes
10. In The Ghetto
11. Don't Cry Daddy
12. Kentucky Rain
13. I Can't Stop Loving You
14. Suspicious Minds
15. Long Tall Sally
16. Let It Be Me

ぼくにとってのエルヴィス『オン・ステージ』は、まず一発目の「シー・シー・ライダー」(伝承ブルーズ)で爽快かつ軽快にかっ飛ばすクールさにやられてしまうっていうのが正直なところ。それから6曲目の「ポーク・サラッド・アニー」(トニー・ジョー・ワイト)だなあ。ふたつともカッコよすぎる。ロックはレベル・ミュージックだなんて勘違いしている向きには、このへんの時期のこんなエルヴィスは絶対に受け入れられないだろうなあ。わっはっは。

1970年のオリジナル・リリースのレコード10曲だと、当時エルヴィスのイメージがついていない曲ばかり収録したという側面もあったようだ。Spotify にあるやつで追体験してほしい。ぼくもそうしている。現行の拡大盤 CD だと「イン・ザ・ゲトー」「ケンタッキー・レイン」「サスピシャス・マインド」などもあるので、この印象は弱くなっている。だから1970年のレコード発売時の会社の目論見はややわかりにくくなっているかも。

それでも、チョ〜カッコいいと思う「シー・シー・ライダー」「ポーク・サラッド・アニー」(やっぱりこの二曲がぼく的には『オン・ステージ』の白眉)なんかはやはり新鮮。後者はコンテンポラリー・ソングだったけど、前者の伝承ブルーズ・ソングはだれの提案・選曲だったんだろう?ホ〜ント古い歌なんだよね。レコードでの初演は1924年の女性歌手マ・レイニー。以前、記事にしたことがある。
つまり、自分のパートナーの浮気癖で悩み悶々とし問い詰め嘆き苦しむという歌なのに、『オン・ステージ』幕開けのエルヴィス・ヴァージョンの爽快さったらないね。ホント選曲者を知りたいが、アレンジャーがだれだったのかはもっと知りたいぞ。バンドの演奏もいいが、もっといいのがエルヴィスのさっぱりした歌い口だ。どこにも浮気性な女を問い詰める苦悶なんか感じられない、爽やかロックンロールだ。こうしたガラリの変貌も、音楽のおもしろさだね。

アダプト、アレンジがいいっていうのは『オン・ステージ』全体について言えること。エルヴィス本人がどこまでこのラス・ヴェガスでのショウの構成にかかわっていたのかわからないが、想像するに音楽監督みたいな役割の人物がいたに違いない。ショウのプロデューサーってことかな。それで、それまでエルヴィスが録音したことのない、エルヴィス色のついていない曲を選ぶことになったのだろう。それをこんなふうにやってみようとアレンジ&プロデュースした人間の実力がかなり高かったんだと思う。

しかしエルヴィスはたんに上に乗っかっているだけの人形なんかじゃない。それまで自身が歌い込んだことのない数々の曲を、『オン・ステージ』を聴けばあたかもむかしからのおなじみレパートリーであるかのように楽々、軽々と(と聴こえるのがすごい)歌いこなしているじゃないか。凡百の歌手には不可能なことなんだよ。

つまり、裏方で音楽をプロデュースする人間の力、フロントに立つスター歌手の実力、そしてひるがえって曲そのものの魅力、それを書いたソングライターの真価までも、手に取るようにわかってしまう 〜 それがエルヴィスの『オン・ステージ』なんだよね。いやあ、すばらしいアルバムじゃないだろうか。たんに一発目の「シー・シー・ライダー」があまりにカッコよくて快感なだけでぼくはハマった一枚だけど、考えてみればすごいことをみんなやっている。

ラス・ヴェガスなんかでやっているこういった種類の音楽エンターテイメント・ショウのことは、わりかし鼻で笑ってバカにしているシリアスな音楽リスナーが多そうな気がしているけれど、とんでもない話だよ。(当時の)現役トップ・プロたちの一流のエンターテイメントは、最高におもしろく楽しくすばらしい。

2019/01/14

あなたはいずこ?(4分19秒の宝石)

聴いてほしい、このクリスチャン・マクブライド(ジャズ・ベーシスト)のアルバム『カインド・オヴ・ブラウン』ラストの「ウェア・アー・ユー?」を。なんて美しいことか。こんなにも美しいジャズ・ベース演奏、特に弓弾きでのそれは聴いたことがない。あぁ、美しい…。

クリスチャン・マクブライドの『カインド・オヴ・ブラウン』(2009)というアルバムは、全体的にはどうってことない凡庸な一枚だ。退屈だと言ってしまってもいいくらい。「ウェア・アー・ユー?」を除いては。ぼくとマクブライドとの出会いのこと(トーニックでのライヴ盤三枚組)や、このベース奏者の非凡さをどう考えているかなど、諸々、今日はいっさい省略。「ウェア・アー・ユー?」の、この世のものとは思えない美しさに酔えば、それでいいのではないだろうか?

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」はピアノ(エリック・リード)とのデュオ演奏。曲はジミー・マクヒュー&ハロルド・アダムスンの手になるもので、1937年の映画挿入歌。その後多くの音楽家がやってスタンダード・ソング化している。アリーサ・フランクリンの、それからなんとボブ・ディランの、ヴァージョンもあるんだよ。

曲題で察せられるとおり、好きな相手が自分のもとを去っていってしまい、あなたはいまどこにいるのですか?わたしをおいてひとりぼっちにしてどこへ行ってしまったのですか?と悲痛な嘆きを歌ったもの。という歌詞なんだけど、メロディの動きはひたすら美しく、失くしてしまった愛を、いまだ傷癒えぬとはいえ、きれいな想い出に昇華しつつあるような、そんな旋律だよね。っていうかね、こんな端正なメロディだからこそ、この失恋の痛みがいっそう強く聴き手に沁みてくるのかもしれない。

クリスチャン・マクブライドのヴァージョンはかなりテンポを落とし、リリカルすぎるピアノ・イントロに続きマクブライドが弓弾きで入ってきた瞬間、その音色のあまりの美しさに涙がこぼれそうになってしまう。ロスト・ラヴ・ソングだという歌詞のこの内容をこれ以上ない耽美さで表現できているアルコ弾きサウンドじゃないかな。

3:15〜3:18 において、音をぐいぐい折り重ねるあたりで、ぼくは感極まってしまって、いまだになんかい聴いても涙腺がウルウルってなっちゃうんだよね。しかもその折り重なった次の瞬間にサッと転調しちゃうもんだから、もうダメだ涙腺崩壊。こんな展開、ずるいよ〜。あまりにもきれいすぎる。弓弾きでここまできれいに聴こえるっていうのは、クリスチャン・マクブライドの最高級の技巧ゆえだけどね。特に音程が正確きわまりない。コントラバスではむずかしいんだ。

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」。一曲をとおし、伴奏のピアニストも主役ベーシストも、この失愛の歌を、ひたすらていねいにていねいに、やさしくやさしく、そっとそっと撫でるように、そんな心持ちで、まるで大切なものを両手で胸にそっと抱え持つように、心をくだいて演奏しているなとわかるので、とってもいいよねえ。

いやあ、こんなにも美しいジャズ・べース演奏は、ぼくは、聴いたことがないよ。この「あなたはいずこ?」、折に触れて聴いて、感嘆のためいきをもらしている。

2019/01/13

ここはいまどこ? 〜 どうして iTunes や Spotify で聴くか

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Spotify に同じものがある CD は、最近 iTunes にインポートしなくなった。昨年末に書いたブラジル三題だってぜんぶ CD を買ったけれど、Mac には入れず、CD で聴くか Spotify で聴くかだったんだよね。マライア・キャリーとマイルズ・デイヴィスの関係を書いたあたりからそうなったし、そのほか、どんどん増えている。 CD で聴けるんだから Spotify で聴かなくたって…(あるいはその逆)、と思われるかもしれないが、これにはぼくなりの理由がある。

それで、最近は CD で聴いてこりゃあいいね〜となった音楽をMacの iTunes に取り込まず、まず Spotify で探して、あればそのまま save する。あるいは Apple Music でもいい、どうしてもストリーミング・サーヴィスで見つけられないばあいだけ CD を Mac にインポートするということになった。上段と同じことを書いているけれども、一面、MacBook Pro の内蔵ストレージの空き残量が激減しているせいでもある。

要するにブログで記事にしたいとか、そうじゃなくともちゃんと聴いて考えたいとかって思ったものは、iTunes で聴けるか Spotify で聴けるかのどっちかにはするっていう意味なんで、これがいまのところはぼくにとって必須なのだ。画面上でトラックリスト、プレイリストを見ながら再生中の場所を把握しながら聴けること、いま耳に入っているのは何曲目の何分何秒目か、など、こういったことがわかるのが個人的には不可欠。

また一定部分だけを反復再生したり、違う(ひとの)アルバムに収録されている同じ曲を抜き出して一堂に集めて聴きたいとか、一個のアルバムやプレイリストで三曲あとのものを連続再生したいとか、別な音楽家の別な曲へ次はそのまま飛びたいとかなどなど、まあこういった自在な聴きかたが iTunes や Spotify では簡単にできちゃうのだ。それらをやることが、毎日書いている文章の土台になっている。

CD (や配信)で聴けるアルバムをそのままとらえてストレートに聴いて考えることができたらいいなと、本心からそう思うんだけど、たとえばはじめて聴く作品など収録曲がわからないし、どんな順番でどんな曲が流れてくるか頭に入っていないわけだから、そんなばあい、CD プレイヤーのディスプレイ部表示だけでは情報不足なんだよね、ぼく的には。

たぶんみなさんは CD ジャケット裏とか附属リーフレット or ブックレットなどに記載のある曲目表などを眺めながらそれをおやりなんだろうと思う。ぼくだって長年ずっとそうだったし、いまから20年以上前に音楽誌に原稿を書いていたころはそうしていたはずなのに、iTunes の便利さに慣れたら戻れなくなっちゃった。当面は。あっ、iTunes って元来 iPod に音楽を入れるためのアプリだったんだっけ?

ネット配信で音楽が聴けるようになって、まあ Apple Music その他でもいいんだけど Spoify でも画面上にトラックリスト、プレイリストが表示されるので眺めながら聴けば、まったく未知のアルバムでもいま何曲目のなんというものを再生中なのか、いま自分はどこらへんあたりを聴いているのかが瞭然とするのがいい。これがなかったらぼくの文章もないんだ。

こんなこと、むかしから耳タコになるまで繰り返し聴いていてよく知っているアルバムだったなら問題ないわけなんだよね。CD をプレイヤーのトレイに乗せてそのまま再生すれば、いま自分がどこを聴いているかだって、その瞬間瞬間にぜんぶわかる(はずだけど、たまにボーッとしていて見失う)。はじめて聴く、まだ繰り返し聴いていないものだと、そのへんがただ CD で聴くだけだとわかんないでしょ〜?違う?みんなどうしてんの〜?

べつに分析的な聴きかたをしたいとか、それができているとか、そんな意味じゃないんだよ。いま、自分が、どこにいるか?:これを常に確認しながら進みたいだけなんだ。ふつうに聴いてさ。未知の世界だとそれがわかりにくなるばあいも、ある、ぼくは。だから CD よりも現状確認が容易な iTunes や Spotify で聴く。それだけ。CD で同じことができるなら、そっちのほうがいいんだけど。だれかやりかたを教えてください。

あと、かなり重要な一点がある。CD そのままでは素人にはまず不可能なことが iTunes や Spotify では簡単にできる。それはマイ・ベスト的なプレイリストを作って聴けるということ。この、自家製セレクションがあっけないほど簡単にだれでもできるというのは、本当に楽しいことなんですよ。

2019/01/12

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(2)〜 ゴスペル篇

2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』二枚目のゴスペル篇もビル・フェリスみずからの採取で、録音時期は CD1のブルーズ篇とほぼ同じ1966〜78年。

収録されているゴスペル・ソングは、教会での合唱(マス・クワイア)もあれば、教会のサーヴィス現場での音楽を録音したのかと思えたりするものもあり、また少人数編成(しばしば家族グループなど)による、いわゆるカルテット・スタイルにやや近いようなものもあり、さらにひとり(かごく少人数)での弾き語りブルーズと区別しにくいような、すなわちギター・エヴァンジェリスト的スタイルでやっているものもある。

実際、かなり大きな歓声と拍手が飛んだりするトラックも多いし、そうでなくとも音響があきらかに教会でのそれだとわかるものだってあるので、そういったものはやはり教会やどこかの集会場みたいなところでのゴスペルの現場録音なんだろうね。と思ってからブックレットを読んでみたら、やはりそうだった。ぜんぶ録音場所や教会名が記載されてあるじゃないか。最初から見ておけばよかった。

『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録のゴスペル録音も全体的に大いに楽しめるものだけど、ものがものだけに、うんまあ CD1のブルーズだって日常生活での現実的効用があったと思うんだけど、CD2のゴスペル篇だとそれがより一層顕著だと、聴けばわかる。

まったく救われないだとか陽がささないだとかあなたの罪だとか、そういった歌もたくさんあるが、そう歌うことにより、ある種のカタルシスを得るものなんだろうし、もっと違った種類の、前向きの肯定感、生きる意味を強く再確認して喜びを歌いあげているようなものは、激しいビートをともなっていてもいなくても、強く高揚する。そういった直截的にポジティヴなゴスペル・ソングが、ぼくは本当に好きなんだ。

南部ミシシッピの黒人民俗共同体内部でも、やはり同じような高揚があって効用が働いていたはずだ。『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録の、教会や集会場、公民館みたいな場所での現場録音ものなどだと、それがクッキリと伝わってくる。それに、そんな<ゴスペル>の意義なんか抜いても、たんに、純に、ビートの効いた音楽として、聴いて踊れば快感だ。そう、実にダンサブルなんだよね。

この一枚のなかで、ぼくにとって特に高揚するやつが、以下の五曲。

・You Don't Know Like I Know
・So Glad I Got Good Religion
・I Know The Lord Will Make A Way (Yes He Will)
・We're So Glad To Be Here
・Glory, Glory (Lay My Burden Down)

なかでも二曲、「ユー・ドント・ノウ・ライク・アイ・ノウ」「グローリー、グローリー(重荷をおろす)」だなあ、カッコイイのは。なんなんだこの昂まりは。実際、このふたつを聴くと、自室のなかでぼくはどんどん激しく腰や膝や肘、腕、指を動かしてダンスしている。こうやって(アメリカ南部黒人も)日常の辛苦を忘れていくのだな。

いずれも伴奏楽器は必要最小限しかなく、だいたいがヒューマン・ヴォイスとハンド・クラップで構成されているサウンドも、素朴なようでいて、実は21世紀的にも卑近なアピール力を持っているかのように聴こえる。「グローリー、グローリー」のほうなんか、現場会衆はもちろん CD(や配信)で聴くだけの聴衆をも、有無を言わさず納得させるだけのものがあるなあ。

ものすごいのひとことだけど、南部黒人フォーク・ライフのなかにある説得力が普遍性を持つということなんだろうなあ。すなわち、生きるということ。それが持つパワー。

2019/01/11

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(1)〜 ブルーズ篇

ジャケット写真にいるドクロを持った人物は、ブルーズ・マン、ジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。この2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』の録音編纂者の長年の友人で、地元ミシシッピのブルーズ・マンにしてスカルプター。

ウィリアム・フォークナーとボビー・ラッシュが仲良くすわっているようなそんな世界の住人だったウィリアム・フェリス。ミシシッピはヴィックスバーグに1942年に生まれ、人生のすべてをアメリカ南部のフォークロア採取・研究に捧げてきた。フォークロア・リサーチ、オーディオ・レコーディング、文献記録、写真撮影、フィルム・メイクなど、ひたすら南部の声を記録し続けてきたのだった。

このディケイドで三冊の本も出しているボブ・フェリスだけど、ダスト・トゥ・デジタルからディスク四枚と大部のブックレットで出版された『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』は、主に音楽などオーディオ面における彼のサザン・フォークロア採取の集大成と言えるはず。いくら生まれ育った土地と環境であったとはいえ、相当な愛情熱がないと、ここまでのものにはならないはず。すごい、のひとことだ。

ダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』のディスク3はストーリーテリングで、ディスク4はドキュメンタリー・フィルム。それらもおもしろいんだけど、こんなボックス・セットのすべてを扱うのはぼくの能力を超えている。ブックレットの文字情報も写真類も考慮外に置くしかない。だから一枚目のブルーズ篇と二枚目のゴスペル篇の、わかりやすく音楽的な部分だけに絞って、今日、明日の二日で二枚をそれぞれ短く簡単にメモしておきたい。

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD1のブルーズ篇は、おおよそ1960年代末〜70年代半ばの録音で、フレッド・マクダウェルみたいな超有名人もいるにはいるが、アノニマスに近いような存在だって多い。あるいはブルーズ・マン、ウーマンなどと呼ぶのもおかしいのかもしれない。つまり、ミシシッピの黒人のふだんの日常生活にそれがあって、そこいらへんのおっちゃん、おばちゃんがちょろっと(たぶん毎日の生活でそうしているように)ブルーズをやってみただけのものを、ビル・フェリスは録ったのだろう。

だからまさにフォークロアっていうかフォーク・ブルーズなわけだけど、CD でお持ちでないかたも上のアルバムでちょっと聴いていただきたい。アメリカ黒人ブルーズ、それも商業化されたポピュラー・ブルーズのファンなみなさんなら聴き憶えのあるものがかなり混じっているはずだ。「ブギ・チルン」だったり「スタッカリー」だったり「アイサイト・トゥ・ザ・ブラインド」だったり「ダスト・マイ・ブルーム」だったり「リトル・レッド・ルースター」「ミステリー・トレイン」だったり、まだまだあるが省略。

それらは必ずしもそういった曲題が記載されていない。そもそもこの CD1に収録されているブルーズ録音が、いったいどういったもので構成されているかをちょっと考えて整理してみたのが、以下のとおり。

1)過去から受け継がれた南部ミシシッピの口承伝統、それを演者個人がパーソナライズしブルーズとして歌ったもの

2)同じような伝承レパートリーから、過去に先人ブルーズ・マンが商業録音し、スタンダード化したばあいもあり

3)過去何十年にもわたりなんども商業録音されていたポピュラー・ブルーズが、ここでひとつのフォーク・ヴァージョンとなっている

4)ここに収録されている演者のオリジナル・コンポジション

だいたいこれくらいかな。何曲目がどれみたいな指摘はむずかしいばあいもある。たとえば「スタッカリー」なんかはもちろん口承伝統のお話で、実にさまざまなヴァージョンがあるとみなさんご存知のとおり。ひょっとして「リル・ライザ・ジェイン」も、かのヒューイ・スミスがやったものは、ここに収録されているフォーク・トラディションが土台だったのかも。

いっぽう「ミステリー・トレイン」として知られているここでの曲名「トレイン・アイ・ライド」なんかは、ぼくの考えでは、もともとポップ・ソングというかポピュラー・ブルーズだったんじゃないだろうか。かなりの有名曲なので、南部のフォークロアのなかにも入り込んだのだと見るべきかと思う。違うかもしれないが、わからない。そのほか、似たような事情かなと推察できるトラックがあり。

しかしながらロバート・ジョンスン/エルモア・ジェイムズで有名な「ダスト・マイ・ブルーム」とかジョン・リー・フッカーで有名な「ブギ・チルン」であるここでの曲名「アイ・フィール・ソー・グッド」なんかは、どういう経緯でこのボックスにあるのか、ぼくにはよくわからない。「ダスト・マイ・ブルーム」は南部フォークロアからロバート・ジョンスンがピック・アップしたもので、「ブギ・チルン」はポピュラー・ブルーズのフォークロア化かなあ?いやあ、わからない。

がしかし「トレイン・アイ・ライド」も「アイ・フィール・ソー・グッド」も、演者はどちらもラヴィ・ウィリアムズとなっている。商業的なブルーズ界でも活躍するかの人物とは別人じゃないだろうか?う〜ん、まあそれだけじゃあなんだかわからないよなあ。どうなんだろう?「ブギ・チルン」はやっぱりジョン・リー・フッカーのがオリジナルのポップ・ブルーズで、それをここでラヴィ・ウィリアムズがこんな感じに仕立てているってことかなあ?

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』一枚目に最もたくさん収録されているブルーズ・マンは、やはりジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。ボブ・フェリスの親友だからなのか、あるいはサン・トーマスの、ここにも収録されているブルーズ演唱が、きわめて南部的にディープで、まさにミシシッピの声、黒人の民俗生活に即したようなできあがりになっているからなのか。まあ両方かな。

サン・トーマスのブルーズは、「44 ブルーズ」「ケイロ」「ダスト・マイ・ブルーム」「アイ・キャナット・トゥ・ステイ・ヒア」と四曲収録されているが、なんど聴いてもすばらしいと感銘を受けるのが「ケイロ」(カイロ)だ。ここではエレキ・ギターで弾き語っている。声も見事だが、なんたってギター演奏がすばらしいクサさ(褒めことば)。実にディープにブルージーだ。こんなブルーズをいつもそばにおいておきたい、聴いていたいと思わせる日常的な親密さもあり、しかし同時に冷たく突き放されているような近寄りがたいオーラもあり。文句なしだ。

2019/01/10

メロウ・ステフォン・ハリス 〜『ソニック・クリード』

このアルバム、ぼくのこの記事への bunboni さんのコメントで教えていただきました。まさにぼく好み。
ジャズ・ヴァイビスト、ステフォン・ハリスは、メロウ R&B みたいなのが最大の持ち味なんだろうか。今回はじめて聴くので、そのへんはつかみきれないけれど、ステフォン・ハリス+ブラックアウト『ソニック・クリード』(2018)で聴くかぎりでは、極上のメロウネスをふりまいていて、それがなんともいえず心地いい。だから、ホレス・シルヴァーきっかけで教えていただけたとはいえ、ぼくにとってのステフォンとは甘さのひと。メロウ R&B みたいなジャズのヴァイビストって感じ。

アルバム『ソニック・クリード』にあるメロウ・サウンドは四曲。どれもすばらしい。そしてすんごく心地いい。3「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」、7「スロー・イット・アウェイ」、8「ナウ」。9「ゴーン・トゥー・スーン」。3と8には女性ヴォーカリスト、ジーン・ベイラーが参加。それもまたたまらない甘美さだし、全体のサウンドの組み立ても見事にスウィート。

ステフォン・ハリスのメロウさは、こういった曲群に限った話じゃなく、ビートが強くテンポも速いものでもきわだっている。くだんのホレス・シルヴァー「ザ・ケープ・ヴァーディアン・ブルーズ」なんかでも、ノリよく、しかも曲内での複雑なリズムの変化をなんなく自在にこなしながら、しかし同時にハードすぎず乾かない。わりとしっかりした湿り気があるよね。サウンド全体に甘いシュガー粉をふりかけたようなというか、そんな幕が間違いなく垂れ込めている。特にケイシー・ベンジャミンのアルト・サックス・ソロ部でそれが顕著だ。

ステフォン・ハリスのヴァイブラフォン演奏にもスウィートさ、メロウさがあって、こんな弾きかたはジャズ演奏家のものでもないような気がしてしまう…、のはぼくの感覚が古くさいせいだね、きっと。マリンバを叩いている曲や、あるいはヴァイブでもモーターの回転を抑えてヴィブラートを控えている曲もあるけれど、それでも感じるステフォンのメロウ体質。

ハードで硬い曲でモーターを回さないものですらそうなんだから、上で触れた四曲、3、7、8、9ではも〜うモーターぐいんぐいん回しまくり、ホントすばらしくやわらかいヴァイブをもたらしている。ステフォン・ハリスは自身のヴァイブ演奏だけでなく、サウンド全体の組み立ての隅の隅まで細やかに気を配り、ていねいにていねいに、やさしくやさしく、まるで愛する女性を愛撫するかのごときデリケート・タッチで、やっているんだよね。うん、そういった行為の BGM としてもよく似合いそう。大好き。

3曲目「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」出だしでは、いきなりモーターの回転全開で、グワングワンとヴィブラートを思い切り効かせたエコーまみれのヴァイブ・サウンドで幕開け。このイントロ部だけでもうこの音楽がなんなのか、理解できようというもの。こんな甘美さは、アルバム終盤のスーパー・メロウ・セクションである7〜9曲目で一層きわだっている。

モーターを回してヴィブラート効かせすぎなんじゃないかとすら思う瞬間すらあるメロウなステフォン・ハリスだけど、アビー・リンカーンの7「スロー・イット・アウェイ」も、ボビー・ハッチャースンの8「ナウ」も極上。でも、このアルバムで最も大きな感動を得たのは、ラストのマイケル・ジャクスン・ナンバー、9「ゴーン・トゥー・スーン」だ。これはヴァイブとマリンバの、ステフォンひとりデュオ多重録音作品。

「ゴーン・トゥー・スーン」は、メロウというのとはちょっと違う雰囲気かもだけど、このあまりにも切ない一曲をステフォンひとりでの多重録音デュオで、この上ない美しさに仕立て上げているじゃないか。マリンバが伴奏でヴァイブが主旋律を弾く。このひとりデュオ演奏を聴いていると、ぼくなんか、やっぱりたまらない気持ちになって、きわまってしまうなあ。泣いちゃいそう。名演ですね。

2019/01/09

ンビーラとは楽器であり音楽であり、生きかたである 〜 ステーラ・チウェーシェの初期シングル集

現在ドイツで活動しているジンバブウェの女性ンビーラ奏者&歌手ステーラ・チウェーシェ。彼女の1974〜83年の7インチ・レコード音源八曲(でぜんぶではないんだろう)を、ドイツのグリッタービート・レーベルが CD リイシューしてくれたのが昨2018年にリリースされた『カサーワ:アーリー・シングルズ』。オフィス・サンビーニャ盤をぼくは買った。収録の音源は、いままでまったくリイシューされたことがなかったはずだ。

整理しておくと、CD アルバム『カサーワ:アーリー・シングルズ』収録の音源はぜんぶで8トラックだけど、それのもとになった7インチ・シングルでは9トラック8曲。CD6トラック目の「マヤヤ」がパート1と2のシングル・レコードでは両面だったものを一個にしたものだから。CD で1曲目の「不可能なこと」(Ratidzo)だけはどこのレーベルのものか不明だが、そのほかは二つのローカル・レーベル Shungu と Zimbabwe から発売されたものがオリジナル。

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ンビーラ(親指ピアノの名称でありかつ音楽のジャンル名でもあり)のこともステーラ・チウェーシェのこともそこそこ知られていると思うので、そのあたりの紹介はいっさい省略する。それでもしかし、彼女のジンバブウェ時代のこんなキャリア初期シングル集がまとめられ、国外というか世界的マーケットで販売されるのは、もちろん初の事態だろう。うれしかったなあ。大歓迎。

『カサーワ:アーリー・シングルズ』では、1曲目「不可能なこと」でだけ、左右のチャンネルに一台づつ、計二台のンビーラが聴こえる(ように思うのだが)。インストルメンタル・ナンバーであるこれ、もし二名の合奏だったとしたらステーラのほかはだれなのか、ぼくにはまったくわからない。マラカスのようなパーカッション・サウンドも聴こえる。

マラカスのようなシャカシャカっていう音の打楽器はホショと呼ぶらしい。アルバム2曲目以後は、すべてステーラひとりのンビーラ弾き語り+ホショという編成。ショナ人であるステーラのンビーラ演奏は、例によってミニマル・ミュージック的に同一パターンを延々と反復しながらちょっとづつズラしているが、そのパターンを取りだしてみると、かなり複雑なリズムを表現しているばあいがある。

裏拍を強調しながら進んだり、ポリリズミックになったりしながら、あたかも二個以上のフラグメンツをすこしずらして合体させ同時進行させているような、そんな難度の高いフレーズというかパターンを延々と反復することで、ぼくたち聴き手は陶酔し、徐々に酔い、日常とは異なる地平に連れていかれるかのような、そんな音楽だね、ステーラのンビーラ。

しかしステーラ本人にとってのンビーラ演奏は、まったきリアルな人生そのものだった。グリッタービート盤の英文解説によれば、10代のころはエルヴィス・プレスリーほかアメリカのロックンローラーたちに夢中だったらしいが、ンビーラの伝統継承者となろうと決心したら、今度は大きな壁が待ち受けていたようだ。そもそも女性がンビーラを演奏することは許されていなかったとのことなので。

だから、だれもステーラにンビーラ演奏の手ほどきもしないばかりか、そもそも楽器を手に入れることすら困難だったとのこと。デビュー・シングルである「ネマムササ/カサーワ」は、人から借りたンビーラで演奏したらしい。演奏法や歌唱なども、独学で苦労しながら身につけたものだったかもしれない。

ンビーラを弾きながらステーラが歌うその声には、そんな困難を経て、まあ言ってみればジンバブウェ内でも "レベル" 的な生きかたをしながら、それを経て獲得したのであろうパワフルさがみなぎっている。オフィス・サンビーニャ盤の日本語解説ではヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの声が引き合いに出されていて、それはちょっと言いすぎでは?と思わないでもないが、ジンバブウェでのデビュー期のステーラの音楽に、苦闘と表裏一体の鋭強さを聴きとることは、どなたにとっても容易なはず。

2019/01/08

みなさん、イマルハンをもっと聴いてくれませんか

一時期70分超もあたりまえだった音楽新作 CD の収録時間が、ここ最近ぐっと短めになってきていると思いませんか。ぼくは鈍感だから、ようやく気がついた。昨年暮れのマライア・キャリー新作もブラジル三題もそうだった。今日話題にしたいイマルハンの2018年作『Temet』も約41分間。やっぱりこれくらいが集中して聴きやすく、気軽になんどでも聴けるし、いいね。レコード時代への回帰?

イマルハンは、サハラのトゥアレグのギター中心の、いわゆる砂漠のブルーズに分類されるバンドだけど、以前書いた一作目からして、ぼくのなかではティナリウェン以上に魅力的だった。二作目になる2018年新作『Temet』で、ますますその感を強くした。ひょっとしたらこの手のあまたあるトゥアレグ・ギター・バンドのなかでの、ぼくの最大の好物かもしれないとすら思う。

いくつか理由をぼくなりに考えてみたので、整理してみよう。

・ドラム・セットが使われている
・ビート感がとても強く、アップ・テンポで激しくグルーヴするものが多い
・リード・ヴォーカリストの発声や歌いかた、というかコブシまわしが浪曲〜演歌的で好み
・っていうかつまりアラブ歌謡ふうだ
・それらの結果、強い高揚感がある

この五点は密接に関連している。四点目までを総合した結果五点目があるわけ。決定的なのが、ぼくにとってはヴォーカルのこと。ティナリウェン他とここが決定的に違っている。ティナリウェンのイブラヒムらは、うつむいてポツポツ落としていくようなフラグメンタリーなことばの発しかたなんだけど、イマルハンのサダム(Iyad Moussa Ben Abderahmane)は強く朗々と声を張るスタイル。ここが好き。いわばアメリカのソウル・ミュージックや、だから浪曲や演歌の歌手にも近い。

それでありかつ、曲のもとからのメロディにアラブ歌謡ふうというか、ムスリム音楽的というべきか、そんな粘っこさがあるんだよね。サダムのフレイジング、コブシまわしにもそれがあるかも。それをドラム・セットなども使いながら強く激しいリズムに乗せてグイグイやるっていう、つまり米ファンク・ミュージックにも通じるような、そんな高揚感だってあるじゃないか。

新作『Temet』にもアクースティック・ギターを使ったフォークっぽいもの(7、10曲目)があったり、またトゥアレグ・ハリージ(ハリージとはペルシャ湾岸ポップスのこと)みたいなというべきか、リズムがヨレてつっかかるような9曲目「Zinizjumegh」 があったりもするけれど、あくまで中心はストレートなハード・グルーヴ・ナンバーだ。

たとえば地を這うような重厚なエレベのリフではじまるトゥアレグ演歌の1曲目「Azzaman」もそう。シングル・トーンのエレキ・ギターの小さめの音で反復リフが入っているのも印象的だ。また3曲目「Ehad wa dagh」、6「Tumast」なんかのビートの強さ、グルーヴの激しさは特筆すべき。しかも聴きやすいポップさだってあるから、米英のポピュラー・ミュージックに最もなじみがあるぼくだってすんなり入っていける。たぶん、多くのみなさんがそうじゃないだろうか。

そうかと思うと、トゥアレグ・グナーワとでも呼びたいような雰囲気のものもあったりして、なかなか多彩なイマルハンの新作『Temet』。ここまで書いたような傾向は、それまでの(いわゆる)砂漠のブルーズのバンドにはなかったものだと思うんだ。ここまで実力が高く、楽しくおもしろく、聴きやすく、しかも CD が簡単に買え配信でだってすぐ聴けるトゥアレグ・ギター・バンド、イマルハンが、どうしてここまで話題にならないのか、不思議でならない。

2019/01/07

ノーティー・ナスティ・マリア・マルダー、好きだぁ〜!

2018年9月末のリリースだったマリア・マルダーの最新作『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ(ザ・ノーティ・ボーディ・ブルーズ・オヴ・ブルー・ル・バーカー)』。ジャケットを一瞥し、ある種の想像をなさったみなさまがた、その期待を裏切らない内容ですので、安心してお求めいただけます。いやあ、すばらしい。もうおばあちゃんのマリアだけど、本当に色っぽい、艶っぽいよね。いや違う、これが歌芸の力だってことか。いずれにせよ、楽しいアルバムだ。

内容は、アルバム題どおりルイーズ・ブルー・ル・バーカー曲集。ニュー・オーリンズのジャズ・ブルーズ歌手だったブルー・ル。パートナーのダニー・バーカー(ギター、バンジョー)の名はジャズ・ファンなら知っている有名どころ。マリア・マルダーは以前よりブルー・ルに共感を示してきていたようだ。

というかここのところのマリア・マルダーは、ずっと古いブルーズの世界に寄り添ってきていたらしいが、最近はずっとマリアのことをスルーし続けていたので、なんにも知らなかったのだ。今回、新作がスケベで楽しいので、と思って情報にあたり、はじめて知った。不明を恥じるばかり。

『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ』、ブルー・ル曲集ということで、音楽的には古いジャズ・ブルーズとなっている。それもコンボ編成でやるレトロなニュー・オーリンズ / ディキシーランド・ジャズが伴奏をつけているんだよね。マリア・マルダーのヴォーカルは、声がもうおばあちゃんのそれだけど、それがかえってこの猥歌集に独特の香りをもたらすことになり、生々しすぎないちょうどいいセクシーさをもたらしてていて、それでいながらまだまだ現役よと言わんばかりの老いてますます盛んみたいな雰囲気もあって、とってもいいね。

マリア・マルダー自身がプロデュースしているこの新作アルバムでは、多くの曲がだいたい2/4拍子で、バンドはギター、ピアノ、ベース、ドラムスのリズム・セクションに、管楽器がサックス(クラリネット持ち替え)、トロンボーン、トランペットの三本。随所でホーン・アンサンブルがリフを入れるけれど、どれもシンプルな反復で、アレンジャーらしき人物はいないかもしれない。男声バック・コーラスもどんどん入るが、たぶんホーン奏者たちの担当かなあ。

リズム隊のなかではデイヴ・トルカノフスキのピアノが一番活躍している。最新録音盤なので音はいいが、スタイルはレトロだ。ドラマー(ハーリン・ライリー)もベーシスト(ローランド・ゲリン)もそうだけど、クリストファー・アドキンスの弾くギターは、たんにレトロ・ジャズというにとどまらないおもしろさを出している部分もあるよね。ギターはマリア・マルダー自身もちょっと弾いているかも。

1曲目の「ジョージア・グラインド」からぐいぐい下世話に攻めるマリア・マルダーとバンド。卑猥なんだけど、ねっとりとしたいやらしさが薄く、さっぱり乾いたユーモアや猥雑さを感じさせるのがとてもいいね。2/4拍子で演奏するバンドのノリもステキだ、というかぼく好み。こういった古いジャズ・ブルーズが好きな人間にはこたえられない内容だと思う。いやあ、楽しい。セックスを扱うマリアの歌いかたがいいと思うよ。ナスティ&ノーティでさ。

3曲目「あんたのダンナを貸してよ」なんかでのこの大きくゆったりと乗るビートもとてもいい。マリア・マルダーのこのヴォーカルがまたステキだし、リズム伴奏もホーン・ソロもリラックスしていて聴きやすい。5曲目「あんたはおちぶれ」のマリアの快活なリズムへのノリも見事。歌の合間合間にウ〜ッ!とかアッ!とか叫ぶように入れる合いの手も色っぽい。ホーン・セクションのワン・リフ反復でリズムが決まっているのもグッド・アイデア。

7曲目「ニックス・オン・ゾーズ・ラッシュ・ヘッズ」もスケベで最高だが、リズム隊の伴奏がユニークなのと、ここでもサックス・ソロがいいのに注目したい。トランペット・ソロの途中でストップ・タイムを使ってあって、その間ミュート気味のギター・カッティングがシャカシャカ刻み入るのも心地いい。

11曲目「ハンディ・アンディ」とか12「ドンチュー・フィール・マイ・レッグ」なんかもどスケベで最高なんだけど、老婆のいやらしさ全開でマリア・マルダーが歌う歌詞内容の解説は書けないのでご勘弁ください。聴けばなんとなくの雰囲気は嗅ぎとっていただけるのではないだろうか。バック・バンドの演奏がズンズンと大きくゆったりノッているのも最高にムーディ。

たんに年増好きなだけかもしれないぼくで、だからおばあちゃんシンガーがこういう猥歌を雰囲気を出してやっているのを聴いて、このジャケットを眺めながら妄想し、いい気分にひたっているだけなのかもしれないんだけど、マリア・マルダーの『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ』、なかなどうして、たいしたもんじゃありませんか。快哉を叫びたい。お元気そうでなによりです。

2019/01/06

心地よい『ジャズ来たるべきもの』〜 オーネットはイージーだ

あのさ、コードとかモードとかの和声のことや楽理体系全般、突き詰めたら結局シロウトにはわからないわけよ。ってかぼくはそうなんだけど。すくなくとも聴いただけじゃあ、よっぽど特別なことになっていないかぎり、そんな大差ないと感じるけどさぁ、みんなどうなの?演奏家、理論家じゃないそこのみんな?小節数とかも、ふだん数えながら聴いたりします?

オーネット・コールマン1959年の『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』だって、これが問題作だとか衝撃作だってとらえたのは、要は(当時の)演奏できるジャズ・ミュージシャンたち、専門家たちなんでしょ?さらに、もうずいぶん時間が経過した。いま、ぼくらシロウトが、聴いて、これのどこがそんなにとんがっていると感じることがあるのかなあ?むしろかなりおだやかな音楽じゃないかと聴こえるけどね。

しかも全曲なめらかな定常ビートがあるでしょ。聴きやすい。ぼくのばあい、ここが聴く際にイージーに感じるかどうかの最大の分かれ目で、ビートが定常的(であればポリリズムでもミックスでも変幻でも、また和声もアトーナルでもなんでも、かまわない)でなかったりするとむずかしいと感じることがある。テンポ・ルパートというのとはちょっと違うことなんだけど。

そんなことでオーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』も、1959年当時の受け止められかたがどうだったかは文献資料などで読むしかないが、ぼくがジャズ・ファンになった1970年代末でも似たような衝撃問題作視する言説がちょっぴり残っていたように憶えている。それが現在ではほぼ消えてなくなっているように見えるのは喜ばしい。個人的実感とも一致する。

そう、オーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』は聴きやすく心地いい。リラックスできる音楽で、だから日常の部屋のなかで BGM として流れてきてもぜんぜん違和感がない。っていうかね、ここで正直に告白するけれど、こんな気持ちを抱くようになった卑近なきっかけは、21世紀に入ってすこし経ったころかな、よくネット・ラジオの音楽チャンネルをかけっぱなしにしていることが多かったんだけど、その際のことだ。

昼間でも夜でも深夜でも、部屋でなにかをしているときにネット・ラジオで BGM として不意にふと流れくるオーネットの「ピース」や「コンジーニアリティ」。「ロンリー・ウーマン」が来ることもあったっけ。それで耳に入り、あっ、いい雰囲気だね、心地いいって、そう感じたんだよね。前後はジャズじゃないもののことが多かったはず。しゃべりはいっさいなしで音楽だけがどんどん来るチャンネルがいくつもあるよね。

ああいったネット・ラジオでの BGM 体験がなかったら、オーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』に対し、いまだにやや身構えるような部分が残っていたかもしれないところ。つまり、要はあまりちゃんと聴いていなかったかも。中身の音楽がどんだけ心地いいか知らなかったわけだから、読む知識だけあって音をしっかり耳に入れていなかったんだなと指摘されても、おっしゃるとおりですと言うしかない。

ホント、でも「ピース」ヤ「コンジーニアリティ」は耳あたりがよく快感で心地よくスムースでなめらかな音楽だよね。っていうかアルバム全体がそうだ。それで、このことは長年抱き続けているオーネット像なんだけど世論と乖離が大きいので遠慮して言ってこなかったことをここで告白するが、オーネットの音楽はだいたいいつの時代のどんな作品も、やわらかくて違和感がなく、聴きやすくとっつきやすく、なめらかだ。フリー・ジャズだとの紋切り型セリフにつきまといがちな印象がない。

「ロンリー・ウーマン」のばあいは、中近東ふうなところがあるのも、いまのぼくにとってはポイント高し。まずチャーリー・ヘイデンの弾くベースのラインがアラブ音階を使っているかのようじゃないか。オーネットとドン・チェリーが(ズレた)ユニゾンで吹く二管テーマにもアラブ音楽っぽいなニュアンスがある。

さらにおもしろいのは、これ、ドラマーがビリー・ヒギンズでしょ。かのラテン・ジャズ、ボサ・ノーヴァ・ジャズ、ブーガルー・ジャズのビートを叩かせたら随一という人物だ。「ロンリー・ウーマン」でも、音階はアラブのそれを想起させるニュアンスを香らせながら、ヒギンズのビートには、特にスネアの使いかたに、やはりラテン(ブーガルー)要素があると聴こえるんだ。アラブ音楽とラテン・リズムの相性の良さは証明されているじゃない。ねっ、「ロンリー・ウーマン」、相当おもしろいよね。BGM 的に聴きやすいしさ。

2019/01/05

オーネットのタイトな明快フュージョン 〜『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』

過去の名盤みたいなものが CD ではどんどん入手しにくくなりつつある。中古価格が、いっぽうでたったの一円とかの価格設定になっているかと思えば、もういっぽうで一万円を軽く越えていたりする。CD 一枚の値段ですよ。 どっちもイヤだ。オーネット・コールマンの1982年作『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』は後者のパターンで、超高値。まあ名盤じゃないかもしれないが、ぼくはかなり好きな一枚なんだよね。だけど、もはやフィジカルは入手不可になってしまった(涙)。だから、今日のこの文章も Spotify で聴いて書く。

オーネットの『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』のばあいは、当時から廃盤になるのも早かったらしいから、そのまま再発されていないってことかなあ。評価が低いとか人気もないとか、そんなことなんだろうか?そうかどうかよくわからないが、ぼくがこのアルバムを好きなのは、とても聴きやすく明快で、しかもシンプルで、悪く言えばワン・パターンというか、アルバム全体で一本調子で変化がないけれど、言い換えればたったの36分間を一気に駆け抜ける爽快さ、痛快さがあるから。

ツイン・ドラムスの一方に息子のデナード・コールマンが入り、エレベがジャマラディーン・タクマ。この総勢三名が、強くタイトなリズムをバキバキ決めているのがぼく好み。ファンクなリズムということになるかもしれないが、ぼくだったらロックへの接近と聴くところ。だからつまり、『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』はジャズ・ロック・フュージョンなんだよね。あっ、それで評判悪くて再発されないの?

特にジャマラディーン・タクマのエレベがキマっているのがうれしい。こういったサウンドのエレベがぶんぶん言わせる音楽、好きだなあ。同じようにタイトに叩いているドラマーは、どっちかというとデナードなんだろうか?二台のエレキ・ギターはほぼソロを弾かず、オーネットの背後で動くだけ。だからソロイストはオーネットだけと言ってさしつかない。

その主役オーネットも、いつになくわかりやすい鮮明なソロ内容を展開していて、そう、うんまあフリー・ブロウイングなんだけど、このひとのばあいはむかしからずっと、いわゆる前衛的な感じがしないのがいいね。明快な反復パターンやショート・パッセージをヴァリエイションを持たせながらの連発で、だからどっちかといえば、エンターテイメント性のあるジャズ、そう、ジャンプ・ミュージックやリズム&ブルーズといった芸能系ジャズに近い感触がある。と、ぼくは以前から感じている。

そんなオーネット元来の資質が、1970年代末〜80年代前半に、時代の流行のロック/ファンクと合体してタイトで明解になったのが『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』だったかもしれないよなあ。いや、ホントどの曲もだいたい同じような内容なのでアレですが、尺が短いんで飽きずに最後まで走り抜けられるよ。

«このころのオーネットは、ジャズ界のキャプテン・ビーフハート

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