2019/04/25

暖かくなってきたのでズーク快作を 〜 タニヤ・サン・ヴァル

Tanyasaintval_voyage1https://open.spotify.com/album/1ij07EUG3qUR3JR4NLK7XU?si=yHQVW2hRQr6HEVg3bRbP3Q

 

本題と関係ない話から入りますが、アルファベットの人名でハイフンが入るのをカタカナ表記する際、それをダブル・ハイフンで置き換える表記には大反対です。みなさんやっていらっしゃいますけれども、ダブル・ハイフンは数学等号と区別できません。等号ですよ等号、みなさんがお使いになっているのは。左と右が同じ、っていう意味ですよ。ガブリエル・ガルシア・マルケスみたいに原語でハイフンないのにカナでは等号入ったりして、ワケわかりません。三語の名前だと自動的に入るのでしょうか?

 

まあいい。そんなわけでタニヤ・サン・ヴァル。グアドループのズーク歌手で、2016年の『ヴォワイヤージュ』二枚組が快作だったよねえ。これは一枚それぞれ約30分程度なんで、長さだけなら CD 一枚に収録することもできた。それをせず、CD1を「ソレイユ」、CD2を「ルーヌ」と題し、ジャケットも表と裏で変えて、あえて分けているという音楽性の違いはたしかにあるなあ。

 

Spotify アプリで見るジャケットは、その表と裏を合体させたもので、これじゃあちょっと…、と思うんだけど、まあしょうがないんだろうね。CD1の太陽篇はわりとストレートなズークで、ダンス・ミュージックとしてのこの音楽にそのまま焦点を当てたような一直線。これはもちろん楽しい。わりとアッパーなズークが続く印象で、CD1ラストの「Sans Rides」だけがやや落ち着いたしっとり路線かなと思う。

 

どうしてマーティン・ルーサー・キングの有名な演説を挿入してあるのかぼくにはわからない3曲目を含め、タニヤのこの CD1の太陽篇でもわかるけれど、ぼくにとってズークのダンス・ミュージックとしての魅力はタイコにある。タニヤのこれのばあい、打ち込みと生演奏ドラミングを混ぜてあるかなと思うんだけど、特にベース・ドラムのずんずんお腹に来るビート感、これが大好き。

 

いっぽう月篇の CD2はもっとぐっと落ち着いたフィーリングで、ダンスというより歌と演奏を聴かせるような、そんなジャジーな歌謡性をも帯びている。それでも1曲目はやっぱりダンス・ズークかなと思うけど、2曲目「Assis Dans Le Noir」で雰囲気がチェンジするよねえ。曲題どおりというべきか、夜の暗さを感じさせるジャジーさで、しっとりと落ち着いている。タニヤもそんな歌いかたをしている。背後でパーカッション群はかなり細かく刻んでいるけどね。

 

ちょっと驚くのは4曲目「Vini Fou」と5曲目「Mwen Sé Taw」だ。コンテンポラリー R&B みたいなジャズ・ナンバーで、前者ではいきなりハーマン・ミュート・トランペットの音でイントロが創られているし、その後サックスとの合奏になって、次いで本編の歌が出るという具合。そうなってからのリズムも、まるで『アマンドラ』のころのマイルズ・デイヴィスの音楽みたいだ。

 

それはブラック・ジャズ・フュージョンみたいな5曲目でもそうで、これは完璧なバラード。夜の雰囲気で、どこもダンサブルでないズーク。深夜の都会のクラブかどっかでしっぽり決めてくつろいでいるみたいな、そんな雰囲気横溢だよなあ。でもドラマー&パーカッショニストはやっぱりポリリズミックに刻んでいる。シンセサイザーもギターもベースもジャジーだ。これはいいなあ。

 

6曲目「Papillion Ka」なんか、まるでジャコ・パストリアスがやっているみたいな曲だし(出だしのエレベ)、このタニヤ・サン・ヴァルの2016年作『ヴォワイヤージュ』CD2の「ルーヌ」、けっこうなお気に入りなのだ。陽気な CD1とあわせ、暖かくなってきたいまの時期の春とこれからの夏にかけて、またどんどん聴こうっと。

2019/04/24

CD を持っていたって、あなたは音楽を持っているんじゃない

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ぼくも書籍や洋服などと同じようにレコードや CD を買って持っていると、あたかも音楽を「所有して」いるかのような気持ちになっている人間で、ああ、この(CD で聴ける)音楽はいいな、ぼくはそれを自分のものとして持っているんだなと感じていい気分にひたっているから、それをどんどん増やしたいという、そんな傾向があるのは間違いない。

 

でもレコードや CD を持っていて聴けているというのは、はたして音楽を所有しているということになるのだろうか?っていうのは、そもそも音楽って「持つ」ことのできるものなのだろうか?という根源的疑問がぼくにはある。音楽を持つ、所有するって、いったいなんのことだろう?ディスクという物体を持つ持たないならわかる。でも、音楽=ディスクじゃないんだからねえ。

 

つまり、音楽とは得体の知れないものだ。そこにあるとかどこにあるかもわからない。ディスクをプレイヤーに入れて再生ボタンを押しても、必ず流れくるとは限らないのが音楽。物体などなにもなくともしっかり聴こえて強い忘れえぬ印象を心に刻み込んだりもするのが音楽。

 

じゃあぼくたちが音楽と呼んでいるものは、物体形式で可視化できて所有できるものなのか否か、わからなくなってくるよねえ。根本的に、音楽は空気の振動だから、目には見えない。所有することなどもできない。ただ、なにかのきっかけで耳に入り鼓膜を震わせるだけだ。だけといっても、それが鮮烈なものなんだけど。

 

声は喉の振動で、楽器音もなんらかの振動かな、それが空気中に出ても(エレキ・ギターやシンセサイザーなどのように)出なくても電気信号化されたものを拾って記録する。レコードだと物理的な溝の形態で、CD なら光学信号として。それをふたたび電気装置を用いて再生し、最終的にはやはりスピーカーなりヘッドフォンなりで振動化して、耳に聴こえるものとなる。

 

こんなプロセスだからさ、音楽って。それら一切合切ひっくるめて音楽だから、「所有する、している」って、やっぱりなんのことだかわかんないよね。レコードや CD はあくまで販売される商品に音楽を収納しているだけで、それを買って自宅に持っていても、「音楽を持っている」とは言えないんじゃないかな。

 

ディスク形態で持っていても音楽を持っているわけじゃない、と言うと、じゃあネットで聴く、ダウンローディッド・ファイルで聴くのも同じことじゃんね、CD にこだわることはないじゃんね、という意味のことを言いたいんだなと思われそうだけど、ぼくの本意は違う。ぼくは CD がほしい。買って持っていたいんだ。

 

でも、CD を買って持っていてちゃんと聴けていても、だからそれで音楽の所有権を買ったのだ、持っているのだ、自分のものだ、とは決して思わないことにしている。音楽に限らずどんな芸能・芸術だって、創り手をも超えていく。いったん世に出たら、それは製作者、創造者のものですらない。というか、音楽の創造とは個人や集団の手になるものだと言えるのか。

 

そんなようなものを、ましてや音楽のパフォーマー自身でもないぼくが「持っている」「所有している」などとは、おそろしくて到底言えないわけなんだよね。ぼくは音楽の所有権じゃなく、この世にいるあいだだけのいっときの利用権にお金を払っているだけだ。音楽は永遠に生き続ける。ぼくはそのうち死ぬ。

2019/04/23

屈折した究極のナット・キング・コール

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2019年3月17日の誕生日に故ナット・キング・コールの生誕100周年を記念して発売されたアルバムが、もう一枚ある。キャピトルの『アルティミット・ナット・キング・コール』。必要がないから CD は買わなかったが、これはオール・タイム・ベストみたいなもんかな。きっちり一時間でナットのキャリア全体を概観しようという入門向けの内容だろうと思う。

 

1940年代のトリオ時代から、グレゴリー・ポーターがヴァーチャル共演した「イパネマの娘」まで全21曲、まんべんなくヒット曲、代表曲が収録されていると思える内容で、昨日書いたラテン・アルバムからも二曲、「キサス、キサス、キサス」と「ペルフィディア」が入っている。ナット・キング・コールがどういう歌手だったのか、2019年にはじめてちょっと覗いてみたいというみなさんには格好のアルバムかも。

 

しかしナット・キング・コールがどういう歌手だったのかということは、実はあんがい複雑なのだ。それはこのアルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』でもはっきり表れている、というかそういった側面をあぶりださんとして編纂された一枚かもしれないとすら思うほど。もっと言えば、ナットとはだいたいがそんな歌手だったので、ベスト盤を編めば必然的にそうなるということか。

 

それはなにかというと、ナット・キング・コールの歌には、失った愛、手に入らない愛を想い、しかし決して悲嘆にくれるばかりではなく、前向きに(?)がんばって妄想してみよう、そのつもりになってみよう、そうすれば楽しく幸せな気分になれるじゃないか、つらいときこそ笑って!というものが実に多いということだ。もうホントそればかりと言いたいくらい。

 

歌詞のわかるかたは『アルティミット・ナット・キング・コール』をお聴きになって、あるいはトラックリストを一瞥して、このことを理解なさるはず。たとえば「スターダスト」や「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」といった超有名スタンダードも、メロディがあまりにも美しいがために忘れられがちだけど、失恋や未恋を歌った内容なんだよね。それをきれいにきれいに、昇華しているような歌だ。

 

ナット・キング・コールはそういった内容の、ちょっとストレートなラヴ・ソングではないような心模様をあつかって、スムースでナチュラルな、ノン・ヴィヴラートのナチュラル発声で、あくまでどこまでもきれいにきれいに歌いこんでいるじゃないか。肌(耳)ざわりがまるでサテンをまとうかのごとき心地いいサラリ感だから、なかに秘めた悲哀はなかなか伝わりにくい。あたかもおだやかに微笑んでいるかのようだ。

 

でも、最近、57歳のぼくは思う。人生ってそんなもんだなあってさ。つらいこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、それで落ち込んでばかりいるわけじゃない。好きな彼女がぼくに恋しているようなつもりになって、つまりブルーなときもプリテンド、夢想・妄想して、それで楽しくハッピーになれるじゃないか、つらいときも笑って生きていけるっていうもんだ 〜〜 こんなようなことをナット・キング・コールは語りかけてくれているようだ。

 

まずピアノ・トリオ編成で音楽活動をはじめたナット・コール。1930年代末だったからちょうどビッグ・バンド全盛期だ。そんなシーンに一矢放たんとしてのちょっと違った感じのレギュラー・トリオ編成意図だったとまでは言えないかもしれないが、当時新鮮なサウンドだったことは間違いない。当初、ナットは歌う気はなく、リクエストされてもノーだった。あくまでピアニストとしてやっていくつもりだった。

 

それがひょんなきっかけで歌ってみたら大評判。歌手として大成功し、次第にトリオの名義はそのままに大規模管弦楽を伴奏にスタンド・マイクで歌うようになり、しかし時代は徐々にビッグ・バンドから離れていった時代だったけれど、このへんの交差するいきさつを考えると、これまたなかなか興味深いものがあるよねえ。

 

しかし、アルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』で聴いてもわかることだけど、初期のトリオ録音でのちょっぴりジャイヴ感覚を残したヴォーカルと、その後のオーケストラ伴奏でのポップ・ヴォーカルとで、さほどの違いはないじゃないか。キャピトル盤だから収録できないその前のデッカ時代から実はそうなんだけど、ナットのヴォーカルはなにも変わっていない。スムースでナチュラルで、上品でエレガント。ちょっとストレートじゃない屈折した恋愛歌の内容だって同じなんだよね。

 

ここにも収録されているが、「スターダスト」はメタ・ソング、「モナ・リーサ」もメタ・アートだという内容を書く余裕がなくなっちゃったな。

2019/04/22

ナット・キング・コールのラテン集はフィーリン・アルバム?

4589605035069http://elsurrecords.com/2019/03/17/nat-king-cole-latin-american-tour-with-king-cole/

 

https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7GlR8e592Xomud4vjHrN9h?si=fvh4P46ORDGYulbEq80yOw

 

今2019年はナット・キング・コール生誕100周年にあたる。それで誕生日の3月17日にテイクオフ/オフィス・サンビーニャから一枚リリースされた。『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』。大のナット・コール好きでラテン・ソングズも好きというぼくみたいな人間にとってはもってこいの企画盤だ。ナットのラテン曲集アルバム三枚については、以前詳述した。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-be41.html

 

それで、ずっと前、デッカ時代とかキャピトル初期とか、ナット・キング・コールといえばそのへんのピアノ・トリオ作品で決まりだという趣旨の記事をアップロードしたらコメントがついて、「えっ?そうなのですか?ぼくたちにとっては雑音混じりのラジオから聴こえてくる 'カチート' であり…」とおっしゃるかたがいらした。ある世代以上の洋楽ファンのみなさんにとって、ナット・キング・コールのイメージとはそういったものなんだそう。

 

そう言われれば、たしかに「ネイチャー・ボーイ」や「モナ・リーサ」「トゥー・ヤング」「枯葉」などが歌手としてのナット・キング・コールを象徴する大ヒットだし、そんなスーパー・スターであるナットが歌ったラテン・ナンバーを耳にして、特に「カチート」あたりかな、そういうのでラテン音楽ファンになったという年配の洋楽好きのかたがたがいらっしゃるのは当然と思う。

 

だから、そんな「カチート」がテイクオフ/オフィス・サンビーニャ盤『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』で幕開けに置かれているのは当然かな。それ以後も三枚のラテン集からまんべんなく選ばれていて、選曲と並び順は解説をお書きのラテン専門家、竹村淳さんかな?と思うんだけど、全35曲あるうちからオミットした五曲はそれなりの理由のあるものだし、一枚通してとてもよくできているし、『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』はナットのラテンを聴くのにこれ以上ない格好盤だなあ。

 

このアルバムには一曲だけ歌のないインストルメンタル演奏が含まれていて(ナットはもちろんピアノ)、11曲目の「わが情熱のあなた」(Tú, Mi Delirio)。これはセサール・ポルティージョ・デ・ラ・ルスの書いたフィーリン楽曲なんだよね。ナットのは1958年のレコードだけど、キューバ本国ではもちろんとっくにフィーリン・ブームだったとはいえ、アメリカ合衆国でその時点でフィーリンをやったというのはかなり興味深い。

 

むろん、選曲はナット自身というよりもマネイジャー含めキャピトルのスタッフがやったに違いないわけで(そもそもラテン・アルバムを創ろうというのだって、マネイジャーの持ち込んだアイデアだった)、ナットはそれにしたがって演唱しただけとはいえ、それでも結果として、1958年にナットがフィーリンをやっているというのは考えさせられるところがある。

 

っていうのはさ、ナット・キング・コールってあんなやわらかくソフトで軽くそっとささやくように置くようにていねいに歌うクルーナー・タイプでしょ。キューバでフィーリンの第一人者とされるホセ・アントニオ・メンデスはそもそもナットの大ファンで、ナットみたいに歌いたいと思って、結果、フィーリン・ヴォーカルを編み出した。

 

そんなナットがメキシコやキューバ(その他中南米各国の)のラテン楽曲をとりあげて、ホセ・アントニオもあこがれたようなフィーリン先駆けヴォイスでやわらかくやさしく歌ったわけだから、ナット・キング・コールのラテン・アルバムというのは、ある意味フィーリン集とも言える側面があるなあとぼくだったら思うわけ。

 

そういえば、今日話題にしている『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』には、エル・スール原田さんがフィーリン・アンソロジー『フィーリンを感じて』のなかに選び入れた「ペルフィディア」が22曲目にある。それだけじゃない。20曲目に「アレリのつぼみ」(Capullito De Alhelí、プエルト・リコ)、28曲目に「ラ・ゴロンドリーナ」(La Golondrina、メキシコ)がある。二曲ともカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』で歌ったものだ。

 

ナット・キング・コールからホセ・アントニオを経てカエターノへ、そんなフィーリン人脈というか系譜まで想像できてしまうのは、ぼくの妄想が過ぎるという面もあるだろうけれども、ナット・キング・コールのこんな声質と歌いかたでこういったラテン・ソング集を聴くならば、あながち外しすぎとも言いにくいのかもよ。

2019/04/21

どうしてこんなにカッコイイんだぁ!ソナ・ジョバーテ!(二回目)

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一回目はこれ http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-bed0.html

 

大切なことだから、二回言う。ソナ・ジョバーテがカッコイイ。カッコよすぎるだろう。このグリオの末裔らしいガンビア系ロンドナー、コラを弾きながら歌うのだが、そしてソロ・アルバム『ファジーヤ』ではギターやベースなど各種弦楽器も多重録音でこなしているが、すべてがカッコイイ。さわやかで、しかもあったかい。こんな音楽、なかなかないんだよ。

 

しかし一回目に書いた際の反応が皆無だった。日本でソナ・ジョバーテに最も注目されているのは D さん(@Desert_Jazz さん)で、たとえばこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23506233/

 

あるいはこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23767854/

 

だけど、ぼくの目にとまった範囲でソナのことを書いているのは、CD を売っているエル・スールの原田さんと D さんとぼくだけ(あと一人か二人いるらしい)。こ〜んなにすばらしい音楽はないっていうのに!だから、一度強調したけれど、大切なことだからもう一回、中身は同じだけど書いとこうって思うわけ。みんな〜、ソナ・ジョバーテに耳を傾けてくれないか。カ〜ッコイイんだぜ〜!

 

2011年の『ファジーヤ』がいまのところ唯一のソロ・アルバムだけど、ぼくが気づいて買って聴いたのは昨2018年のことだった。そして、考えられないことにその年のベストテン新作篇に選ばなかった。これはいま考えたらありえないことだった。しかしソナの『ファジーヤ』は一回聴いていいぞと思えるものの、時間とともにどんどん熟成度を増し、作品のすばらしさ、特にコラ演奏のものすごさが徐々に身に沁みてわかってくる、そしてとうとうソナのことを忘れられなくなるっていう、そんなアルバムじゃないかと思うんだ。だから許してください。現時点で2018年のベストテンを選ぶならば、ソナの『ファジーヤ』は上位です。

 

コラ演奏の技術がものすごいと書いたけれど、『ファジーヤ』でもアップ・ビートの効いたグルーヴァーである、たとえば1、4、5、7曲目でもそれは本当によくわかると思う。コラでここまでのスピーディで爽快な疾走感を持つグルーヴを表現できる人物って、ソナのほかにいるんだろうか?コラ・ソロも随所で入るが、カッコよすぎて呆然としてしまう。あっけにとられて、しばし我を見失うほど、颯爽でカッコイイ。しかもめくるめくように幻惑的。でありかつ猛烈にグルーヴィ。そんなコラ演奏だ。

 

ソナのコラ演奏は、ゆったりめの曲でもすばらしくて、たとえば2、8、9曲目など。ホント、こんなふうにコラを弾ける人物がほかにいるのかよ?いないだろう、ソナが世界ナンバー・ワンじゃないか。しかもコラと聞いて多くのアフリカ音楽ファンのみなさんが想像するかもしれない世界じゃない。ソナのコラ演奏は高度に洗練されていて、アフロ・ブリティッシュな都会派ポップ・ミュージックのなかで最大の有機体として機能している。

 

ガンビア系ロンドナー、ソナ・ジョバーテの『ファジーヤ』。2011年作だけど、近年稀に見るアフロ・ポップの傑作だと思うんだ。だから、二回目だけど、やはり強調しておいた。お時間とお気持ちがおありのかたは、ぜひどうぞ!

2019/04/20

bunboni さんのおかげで、すっかり Spotify 漬けになっています

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今日は2019年4月19日ですけど、今日付で更新された bunboni さんのブログでとりあげられているデデ・サン・プリ(マルチニーク)の新作も CD は見つかりません。速攻で Spotify で探したらありましたのでそのまま save。そしていま聴いています。楽しいですねえ。たしかに傑作だとぼくも確信できる内容です。が、しかし CD は買えないんです、すぐにはね。Spotify でならすぐに見つかってそのままぜんぶ聴けます。

 

実にこんなことばかりなもんで(最近ならミジコペイもピポ・ジェルトルードもエムドゥ・モクタールも)、だからぼくは bunboni さんのブログのおかげですっかり Spotify 人間になりました。bunboni さんがブログで書く→ぼく、CD さがすけど、ない→Spotify で瞬時に見つかる→そのまま Spotify でくりかえし聴く、このパターンのなんと多いことでしょう。というかこればっかり。after you を読んでいれば必然的に Spotify 人間になるでしょうよ、そりゃあ。

 

bunboni さんがブログでとりあげられる音楽アルバムは、ものによっては探せば瞬時に CD が見つかるばあいもわりとあるんです。bunboni さんご自身、日本の街の CD ショップ(など)でお買いになったものだから、ということなのかもしれないですね。そう推測できます。がしかし、大半はすぐには買えないんです。日本で通販商売をしている CD ショップのどこにもないというもののほうが多いんですね。

 

Spotify とか Apple Music とかこの手のサーヴィスがはじまる前なら、みなさんもぼくも after you の読者は悔しい思いをしてそのままチキショ〜!と心で叫びその場はあきらめて、どこかのお店(セレクト・ショップ?)が入れてくれるのをひたすら待つ、ということしかできなかったと思います。10年も続けていらっしゃるブログだそうですから、読者にとってはそんな時代が長かったのかもしれませんね。

 

ですが!もう時代は変わりました。ぼくの嫌いなことばを使えば「進化」したんです。ストリーミング・サーヴィスが開始され、ネットで定額制で聴き放題できるということになり、しかも、ぼくは Spotify メインだからその話になりますが、この世で流通している音楽商品のほぼだいたいぜんぶが Spotify で聴けるというような、うれしい時代になりました。

 

この時代の変化を得て、bunboni ブログ after you の読みかた、利用方法も「進化」したと思います。上で書いたように、CD は見つからずとも Spotify でそのまま聴ける、after you で読んだ次の瞬間にそのまま速攻でアルバムのすべてが Spotify で聴ける、ということになっているんです。

 

以前から書いていますように、ぼくはなんだかんだ言ってまだまだ CD 買いたい派なんで、すぐには見つからなくとも根気強く待ち、探し続けて、結局は買っています。今日知って聴いたデデ・サン・プリの『Mi Bagay La』もマジでいいので、いまは見つけられないけれど、日本に入ってくれば間違いなく買うと思います。

 

多くのみなさんのばあい、そうやって待って、after you で紹介されていてすぐには買えなくても待つ、ということなのかもしれないですね。ぼくはそのへんがダメ人間でこらえ性がないというか、読んでオモシロソ〜〜っ!と思ったらその場で即聴きたいんですね。すくなくともその日のうちに CD 購入のボタンをクリックしたい。そうじゃないとイヤ。

 

でも CD はない。そういう場合が多いです、after you で紹介されているアルバムはですね。待てない人間であるぼくは、だから Spotify で検索して、すると九割がたは見つかりますからね。で、そのまま聴くんですよ。さいわいというかさすがというか、bunboni さんの紹介なさっている音楽は、ほぼどれもおもしろく楽しいです。

 

おもしろく楽しいと感じる、そんな体験を、after you を読んで即そのまま Spotify でぼくはしているわけなんですね。すぐに CD は買えないけれどすぐに Spotify で聴けるという状況ですから、九割がた以上はですね。皮肉なことです、bunboni さんはあそこまでフィジカルのあるなしにこだわっていらっしゃる音楽愛好家なのに、おかげで、すっかりぼくは Spotify 愛用者になりました。

 

それはそうと、デデ・サン・プリの『Mi Bagay La』、マジですんごくいいですよ。楽しいです。日本は、というかこちら愛媛県地方は完全に春になり、もはや夏も予見できるほどの日差しがふりそそぐ暑さになってきましたから、ちょうどいまピッタリの音楽で、文句なしです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19

2019/04/19

現役ジャズ・メンはやはりすごい 〜 Dr. ロニー・スミス篇

Mi0004362149_1https://open.spotify.com/album/0anjMU3ensntiJOq3SCjij?si=5pKElF1jRoyouGnnq5ADWw

 

完全に見逃していたドクター・ロニー・スミスの2018年新作『オール・イン・マイ・マインド』。今年三月、気が付いたのは、ブルー・ノート・レーベル公式配信プレイリスト「Dr. ロニー・スミス:ザ・ファイネスト」を聴いたから。ロニー・スミスのベスト盤みたいなもの。ふつうにカッコイイよねと思いながらお風呂で流していたら、ラストに来て耳慣れないのが聴こえてきた。ポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」だったのだ。

 

そ〜れがすんばらしくて!、この曲をロニー・スミスやってんだ、どのアルバム?と思ってクリックしたら2018年リリースの最新作『オール・イン・マイ・マインド』が出てきたというわけ。あわてて CD 買いましたよ〜。これはライヴ・アルバムで、ニュー・ヨーク・シティでの収録。パフォーマンスの年月日は記載なし。いやあ、こりゃあなかなかの快作だ。現役ミュージシャンのことは常にチェックしておかないといけないなあと反省。

 

Dr. ロニー・スミスの『オール・イン・マイ・マインド』アルバム全体では、書いたようにポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」が異様にすごいし、ブルー・ノート公式だってこれをベスト盤的プレイリストに選んでいるんだからやはり同様の考えなんだろう。そのほか、なんでもないメインストリームなオルガン・ジャズも混じっているが、そうじゃない1曲目「ジュジュ」、5「アルハンブラ」、6「オール・イン・マイ・マインド」あたりが聴きものだ。

 

パーソネルは、ロニー・スミス(キーボードのほうが先に書いてある)、ジョナサン・クライスバーグのギター、ジョナサン・ブレイクのドラムスという典型的オルガン・トリオ。ロニーはヴォーカルもこなし、また3曲目でだけドラマーがジョー・ダイスンに交代。6曲目でゲスト参加の女性歌手、アリシア・オラトゥージャ。

 

1「ジュジュ」は、かのウェイン・ショーター・ナンバー。ロニー・スミスはポリリズミックなアレンジを施してあって、ドラマーの叩きかたがおもしろいのでかなり聴ける。実際、この曲での主役はジョナサン・ブレイクだね。オルガンのあとドラムス・ソロも出るのが聴きものだけど、ギターやオルガンの背後でも大活躍している。ソロのあとで、スネアのリム・ショットにダブふうなエコー処理が施してあるのもいい。おもしろいけど、ひょっとしたらスタジオでの音加工とかじゃなかった可能性があるかも?

 

3「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」をどうしてロニー・スミスが選曲したのかわからないが、アレンジは全曲ロニー本人との記載はあれど、この曲にかんしてはポール・サイモンの1974年オリジナルにほぼ忠実。それはスティーヴ・ガッドのドラミングをフィーチャーしていたが、そのパターンをジョー・ダイスンもそのまま踏襲している。

 

がしかし大きく異なるのがギター・ソロだ。このロニー・スミス・ヴァージョンでの最大の聴きどころがジョナサン・クライスバーグの饒舌なギター・ソロなんだよね。うまいのひとこと。しかもソロ後半でパッとエフェクターのフット・スウィッチを踏んで音色を飾り、まるでスティール・パンみたいな音色で弾きまくるパートなんか、サブイボ出そうなほどすばらしい。

 

5「アルハンブラ」(ロニー自作)は、曲題に反しアンダルシアふうなところはまったくないジャズ・ファンク。でもカッコイイぞ。疑問なのは冒頭でハーマン・ミュートをつけたトランペットの音(に間違いない)がしばらくプレリュードふうに聴こえるんだけど、トランペッターが参加している様子はないので、サンプリングしたものをロニーが弾いているのかなあ、たぶん。

 

女性ヴォーカリストをフィーチャーした6「オール・イン・マイ・マインド」(ロニー自作)は、ちょうどコンテンポラリー R&B みたいで、ダウナーでブルー。エラ・メイとか、あのへんのサウンドと歌にとても近い。歌っているアリシア・オラトゥージャってぼくは知らないんだけど、アレンジとサウンド・メイクをやったのは Dr. ロニー・スミスなんだろうからね〜。

2019/04/18

バラディアーとしてのアンガーム2019は完璧なる宝石

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はぁ〜、なんだこれは。エジプトの歌手アンガームの2019年(2月20日リリース)作『Hala Khasa Gedan』がとんでもない大傑作じゃないか。あまりにもすばらしすぎる。これはポップ・バラード・アルバムなんだけど、9、10曲目なんか、どこからどう聴いてもなにからなにまで100%完璧だとしか思えない美しさ。ため息しか出ず、ことばがない。アラブ伝統色も濃いという点では2018年作と同傾向だけど、でありながら同時に2019年作は全世界で通用する普遍のポップネスをも獲得。そして、生の人力楽器演奏の比率はさらに上がっているはず。ひょっとしたらぜんぶ人力かも。

 

いやあ〜、しかしこんなにも美しいアラブ・ポップスがいままでにあっただろうか。いや、アラブと限定することはない、あらゆる音楽のなかでも、こうまですばらしい作品にはなかなか出逢えるもんじゃないと思うよ。完璧なる玉じゃないか。アンガームの最高の円熟、絶頂をここに聴く思いで、ホ〜ントため息しか出ないんだ。ホント、ホント〜に、この2019年作はきれいだ。特に9〜14曲目の六曲の流れは、いや、全体が、はぁ〜、なにこれ!こんな綺麗な音楽、聴いたことないよ。

 

9曲目が個人的にはこの2019年作の白眉なんだけど、このちょっと軽いラテン・リズムの効いたバラードは、プロデュース、曲創り、伴奏アレンジとその演奏、主役歌手のヴォーカル・パフォーマンスのどれをとっても100%完璧だ。適切な湿度のこもった情緒とリリカルさを持っていて、しかも重たくなりすぎず軽快なふんわりさをもまとっている。特にこのリズムだなあ、それとそれに乗せてアンガームがたたみかける歌いまわしの切なさにゾッコン参ってしまう。もう、とろけそうだ。コーラスで進む部分はアンガームのひとり多重録音の可能性があると思う。

 

しかもこの9曲目は、アラブ・ローカル色がちょうどいい感じでユニヴァーサルなポップネスに昇華されていて、楽器はウードなども使うものの、楽想は普遍的なものだ。アンガーム自身もアラブ古典歌謡のコブシまわしを駆使しつつ世界に通用するチャーミングさをふりまいているじゃないか。さらに、キュートさよりも大人の女性の落ち着き、しっとりさ、切なさを聴かせているよなあ。

 

9曲目以前も以後も、たまらない美しさ。どうしてここまで美しいのか。曲もオーケストラも歌手も、みんながあまりにもきれいすぎて、ウットリ聴き惚れて、聴いているあいだ、ほかのことができない。ただただ Spotify アプリで表示されるジャケ写とトラックリストをジッと見つめたまま身じろぎもせず指一本動かせず、ただボ〜ッとしながら耳はアンガームの音楽だけに集中しているんだ。

 

こんな体験は滅多にないことなんだよなあ。アンガームの2019年作『Hala Khasa Gedan』が見事に完璧な宝石すぎて、ここまでの美しさを放っている音楽なんてこの世にほかにはないだろうと思うと、うれしいけれど気持ちが平常や冷静を保てず、このまま、アンガームのこのアルバムを聴きながらそのまま、いっそ死んでしまいたいとすら思う。

 

いま円熟の極致にあるエジプト人歌手アンガームの至高の完成美、それが2019年作『Hala Khasa Gedan』だ。ぼくの人生57年、ここまで美しい音楽には出逢ったことがない。このまま溶けてしまいたい。

 


حالة خاصة جدا

2019/04/17

円熟のアンガーム2018がいいね 〜 特にリズム

Fullsizeoutput_1e78https://open.spotify.com/album/2TjMUXHMejsedEFVoKXuX2?si=fkSk9VjFQMGpIIRkEk-MZw

 

エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 は、ずばり、ハリージ・アルバムだね。ハリージとは近年の(クウェートなど)ペルシャ湾岸地域で盛んなダンス・ミュージックのこと。パーカッション類をがちゃがちゃと多用し、リズムがヨレて突っかかり引っかかるような独特のノリを持っているところが特徴。アンガームはそんな音楽に挑戦した。

 

だから2018年作はローカルもローカル、全面的にアラブの一色に染まっているわけ。国籍不問のユニヴァーサル・ポップスを歌っていたアンガームの姿はここにないが、しかしこの歌手が本来的に持っているアラブ古典歌謡の素養がフルに発揮され(ここまでアラブ色の濃い作品は、いままでのアンガームになかったのでは?)、結果、見事な結果につながっているとぼくは聴く。すばらしいアルバムじゃないかな。

 

出だしの1曲目からパーカッション類の独特の使いかたやそのリズムで、これはハリージだなとわかる。サウンドやリズムをプロデュース、アレンジしたのがだれなのか、とても知りたい気持ちだが、2018年のアンガーム(といっても録音はたぶん2017年内に行われたはず)なら、みずからの意思もかなり反映されていただろうとも推測できる。

 

ハリージを歌うんだというアンガーム自身の強い意思は、なによりその声の美しさ、張り、艶、伸び伸びとしたフレイジングなど、歌唱全体に聴きとることができる。歌手として完璧に円熟期に入ったことを確信できる見事な歌いっぷりで、乗りにくいんじゃないかと素人なら思うハリージのバック・トラックの上で自在に飛翔して破綻なく、立派な歌を聴かせてくれているよね。

 

ラテンだってある。「ワン、トゥー!」の掛け声ではじまる4曲目がそう。これはサルサなんだよね。この曲はアルバム中異質な感じもちょっぴりあるので、プロデューサーなどが異なっている可能性があるように思う。わからないけれども。しかしラテン/サルサなこの一曲のなかでも、後半部からはガチャガチャしたハリージっぽいパーカッション・リズムになって、やっぱりアルバムの全体像は損なわれていない。

 

このラテン・ナンバーが終わったら、アルバムは完璧にハリージまっしぐら。エジプト人なりの、というかアンガームなりのハリージ解釈だろうから、ダンスというよりも歌謡、またリズムのヨレかたもそこそこスムースなほうに流れているようには思うけれども、それでもまごうかたなきハリージ・ミュージックの展開だ。バラードっぽい曲でも、やはり背後で複雑なリズムをパーカッション類が刻み込んで、つんのめる。

 

それなもんで、激しいダンス・ナンバーである、たとえば6曲目(はちょっぴりだけフラメンコっぽくもある)とか、8曲目(はロック的でもある)とかなどでのリズムの強いネジレとヨレ、つんのめりと突っかかりかたは本格ハリージと呼んでもいいほど。また、ハンド・クラップも多くの曲で頻用されているし、生の人力演奏の割合もかなり増しているはずだ。

 

どっちかというとダンスというよりは聴かせるバラードのほうが多いのかなと思うアンガームの2018年作だけど、そんなバラディアー傾向は、次の今2019年作につながっていく部分でもある。2018年リリース作で、どうして突如こんなハリージ傾倒を見せているのかはわからないが、結果としては歌手としての円熟を見せつける結果となっていて大成功。実際、アンガームのヴォーカルは大人らしい落ち着きを増すと同時に飛翔力をも高めている。すばらしい熟しかただ。

2019/04/16

愛しのアンガーム(2)〜 2015年作はアラブ色が濃いめ?

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エジプトの歌手アンガーム。昨日書いた2003年作『あなたと生きる』と比べ、(ここまではぼくも CD で持っている)2015年作『Ahlam Barya』ではバックのリズム・トラックも生演奏の比率が上がっているのかなと思うんだけど、この聴感上の印象は間違っていないだろうか?それからアラブのローカル色がやや濃いめに出ているようにも思う。それとユニヴァーサル・ポップスのカラーがちょうどいい感じにブレンドしていて、こりゃあいいねえ。

 

アルバム幕開けの1曲目は、カフェ?レストラン?クラブ?みたいな場所でのサウンド・エフェクトから入って雰囲気をつくったかと思うと、カーヌーンが奏でるアラブ伝統音楽の伴奏みたいなものが出て、ここだけでもオッ!こりゃいままでとは違うぞ、と思わせる。その後アンガームのヴォーカルが入ってからはユニヴァーサルなポップスにもやや近いかなと思う内容で、しかしその背後の伴奏はアラブふうだ。

 

こんなブレンド具合が、この2015年作では全編をとおし聴けると思うんだよね。ローカルすぎずユニヴァーサルすぎもしない適切な折衷の中庸具合がとてもいい。アンガームの歌いかたは、根底にアラブ古典歌謡の節まわしを持ちつつ、やはり表面的には濃ゆすぎない軽みを聴かせていて、それがこのひとのいいところだね。

 

それでも2003年作などと比較すれば、アンガームの歌もややアラブ伝統寄りかな?と思わせる部分もある。たとえば完璧な米欧ポップスみたいでフォーキーですらある2曲目でも、バック・トラックはそうでも、上に乗る歌手のフレイジングにはやや粘り気もあるように思うんだ。でもやりすぎていない適切さ、それがアンガームの美点だ。

 

アラブ・ローカル色をちょっとだけ濃いめに持つ曲と国籍不問のポップスみたいなのが、その後も交互に出てくるように思うこのアルバム、最初に書いたように、伴奏陣に生人力演奏人員の比率が上がっていると思うんだけど(楽器のチョイスもアラブ伝統にやや傾いているね)、そのせいか関係ないのか、アンガームの歌まで有機的に生き生きとしているように聴こえるのがイイネ。

 

途中ジャジーなバラードなどもはさみながら、アルバム・タイトルにもなっている7曲目は、なんと完璧なるボサ・ノーヴァ・ナンバー。伴奏はかなりな部分人力演奏だな。アンガームもさらりと軽く乗せて置くように歌っていて、ちょっぴりコブシをまわすものの大人のアッサリ感を漂わせ、こりゃあいいねえ。これ、だれが曲を書きアレンジしたんだろうなあ?プロデューサーも知りたい。いい一曲だ。アルバム・タイトルに持ってくるのはわかる。サルサっぽいラテン・テイストすらもある。

 

8曲目もリズムがラテンだし(といっても、以前からアラブ歌謡のなかにあるおなじみのパターンだけど)、そうかと思うと10曲目はこれまたアラブ伝統色がモダンな感じで活かされている。2003年作『あなたと生きる』でたっぷり聴けた打ち込みのずんずんビートを使った11曲目を経て、アルバム・ラストはしっとりバラードで、しかもちょっぴりだけジャズ・フュージョンっぽい。そこにアラブ色はないが、細やかに歌い上げるアンガームのしなやかさは絶品だ。

2019/04/15

愛しのアンガーム(1)〜 けっこうモダン R&B っぽい2003年作

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エジプトの歌手アンガーム。フィジカルが入手できないけれど、2018、19年と順調に新作が発売されていて問題なく聴けるから、それらもそのうち書くつもり。CD なくても書かずにいられないっていう充実度。アンガームはいまキャリアの絶頂期にあるんだもんね。今日は2003年の『あなたと生きる』(Omry Maak)の話。ぼくもかねてより愛聴している。ホ〜ントいい歌手だよねえ。しかも美人だ。それもぼく好み。

 

『あなたと生きる』は日本でいちばん聴かれているアンガームなんじゃないかと思う。なぜなら日本盤が出ていて、その解説文をわれらが bunboni こと荻原和也さんがお書きになっているからだ。実際、ぼくもおおいにお世話になっている。このアルバムは、モダンなエジプト/アラブ・ポップのアンガームによるひとつのブレイクスルーだったとみなしていいんだろうか。

 

『あなたと生きる』のバックトラックはかなりの部分がコンピューターで創られている。すくなくともリズム・トラックは間違いなくほぼ100%近く打ち込みで、ベースとドラムスの音が強調され、その上に乗るストリングスは生演奏なのかシンセサイザーなのか、ぼくの耳では判断できないが、やっぱちょっぴりシンセ音くさいような…。

 

アクースティック・ピアノやギターなどの音は人力の演奏者がいるんだろうね。ともかくバック・トラックが完成してからアンガームがヴォーカルを重ねるという手法で製作されたことは間違いない。リズムとサウンドには、ややラテン・ポップスやラテンふう(の影響を受けた)R&B の色が濃く、そこだけ取り出すと、エジプト/アラブのローカル色はほぼなし(7曲目を除く)。

 

アンガームの歌にしても、わりとサラリとこなしている様子に一聴すると受けとれて、そこに濃厚なあのアラブ古典歌謡のコブシまわしは聴かれない。わりと普遍的な国籍不問のポップ・シンガー然としたヴォーカル・パフォーマンスだよね。軽く声を出してアッサリ乗せているような感じがする。

 

アンガームの経歴を知ると、若い時分にアラブ古典歌謡の歌唱を学んだそうで、素養はあるんだそうだ。そう言われたら、この『あなたと生きる』でも聴けるこの軽めの歌い口のなかにも、そんな古典素養が下敷きになっているとうかがえる部分はあるね。ただ軽いだけの(アラブ・)ポップ・シンガーじゃない技術力を漂わせているとわかる。

 

ただし、できあがりだけで判断すると、打ち込みメインのモダン(でラテンな)R&B っぽい音楽に仕上げようというプロデュース意図にアンガームも沿って、あまり粘りつかずしつくこなく、濃厚さを薄めてアッサリ味の繊細さにして歌っていると言えるんじゃないかな。それがこんなバック・トラックにうまくフィットして人気を獲得できていると思う。

 

なんだかんだいってアラブ古典歌謡がやっぱり(日本で)イマイチな人気なのは、あの正攻法な濃ゆすぎる重厚なコブシまわしが敬遠されているせいじゃないかと思うから、新世代のアンガームがこんな方向性を取っていたのは大正解だったんじゃないかと思うんだ。

 

アルバム『あなたと生きる』では、また、たとえば6曲目はしっとりバラード(コントラバスの音から出る)で、軽くジャジーなボサ・ノーヴァの香りすら漂っていたりもするし、8曲目もちょっぴりだけジャズ R&B・バラードふうで、11曲目はワルツ。どれにしても完璧にアンガームはこなしている。

2019/04/14

お気に入り CD の山

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というのがぼくの部屋の CD プレイヤーの上にある。基本、CD 収納はいっさいの事情を考慮せず音楽家の名前の ABC 順に並べてあるんだけど、そうじゃない例外がいくつかあって、たとえばサイズの大きなボックス・セットなどはもちろん分けてそれなりの場所に置くしかない。それとは別に、聴いて、書いて、そしてそのなかでもことさら大好き!というアルバムだけ特別視して分けて置いてあるのだ。それが CD プレイヤーの上。写真だと左の山がそう。右は未聴 CD という意味の山だ。

 

左のお気に入り CD 山は、現在、いちばん上がドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』で、その下がマルモータの『a margem』。それ以下ここ数年で特別好き!というものだけ積んでいるんだよね。ヴァン・モリスン、ソナ・ジョバーテ、パウロ・フローレス、メディ・ジェルヴィル、HK の脱走兵、『牛深ハイヤ節』、ライ・クーダー、スリム・ゲイラード、などなど。

 

もっとずっと前に買って聴いたものでも、ここ数年で聴きかえしブログ記事にして、愛好度が一層増したというものは、やはり積んである。サローマ、ファニア・オール・スターズ、ナンシー・ヴィエイラ、サラ・タヴァレス、クーティ・ウィリアムズ、『カフェ・ブラジル』、などなど。

 

そうそう、『カフェ・ブラジル』と書いて思い出した。ここ二、三年のブラジル音楽は本当に充実しているので、そのなかでも特別気に入っているものはこれまた分けて、それだけ数枚、スピーカーの上に平積みしてある。イリニウ・ジ・アルメイダ曲集がなかでも格別なものだけど、ほかにもモナルコとかマルチーニョ・ダ・ヴィラだとか、傑作が多いよねえ。あ、でもブラジリアン・ジャズはここに置いてないなあ。どうしてだろう?

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ともあれ、すぐ手に取って、いつでもパッと聴きたいっていう、そんなお気に入りの音楽 CD はそうなっているわけ。座ったまま手を伸ばせばすぐ届くという範囲内に置いておきたい。それにそれを平積みしてある風景をただ眺めているだけで気分いいもんね。心が落ち着く。この山のなかから一枚かけながらこの山を眺めていれば、平和でおだやかな心地がする。

 

と言ってもですね、ぼくが特にこの四人は!と神聖視している四人の女性歌手の CD だけは、こういった山々とはまた別に、もっと取りやすい場所に置いてあるんだ。岩佐美咲、原田知世、ニーナ・ヴィルチ、アイオナ・ファイフの四歌姫。彼女たちの CD は、まあぜんぶあわせても数がまだたいしたことないのもあって、CD プレイヤーの下になっているプリメイン・アンプの真ん前にあるんだよね。いつでも速攻でかけられる。

2019/04/13

興奮のフィルモア 2 days 1968 〜 スライ

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スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『ライヴ・アト・ザ・フィルモア・イースト、オクトーバー 4th & 5th、1968』(2015)。CD 四枚組だけど、一枚目(10/4、アーリー・ショウ)ではまだたいしたことはない。まだまだ盛り上がりかたがイマイチな感じがする。スライやバンド連中にとっても、また客席にとってもそうだったのではないか。

 

興奮がマックスに達するのは CD2(10/4、レイト・ショウ)の、それも後半に入ってからだ。8トラック目の「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」からかな。そこからは雪崩のような一気の勢いで思い切り振り切れる。「ミュージック・ラヴァー」だってとてもいい。最高度の興奮だ。また二枚目は幕開けが「マ・レイディ」なのもグッド。これもアッパーなあげあげダンス・ファンクだ。これだけでこのステージの楽しさは保証されたみたいなもの。

 

CD3、CD4とほぼ同様の展開が続く。曲で言えば「マ・レイディ」「ミュージック・ラヴァー」「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」、この三つに集約される1968年秋のアッパー・スライ。それを中心に10/5の二回のショウとも興奮できる演奏になっているよね。

 

特に CD3(10/5、アーリー・ショウ)の終盤なんか、その三曲がメドレーのノン・ストップ状態で流れてくるんだからこたえられない。最高度の興奮と快楽がここにある。1968年秋のライヴということでアルバム『スタンド!』はまだ。シングル「サンキュー」もまだで、でもすでにあんな路線はここに明確に聴きとることができるんだ。

 

『暴動』や、それに続く『フレッシュ』も人気で、評価だって高いけれども、個人的にはやっぱりこの1968/69年ごろの、西海岸サン・フランシスコで "Don't hate the black, don't hate the white" とくりかえし叫びながらユートピアを楽しそうに疾走していた、気分上々のスライたちがなんたって大好きだ。ぼくという人間のことを考えても、やっぱりこういった気分にこそ共感できるんだしね。

2019/04/12

信ずるは耳のみ

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どなたか信用させていただいているかたがこの音楽はいいぞと言っていても、自分で聴いたらそうでもなかったとか、世間の評判がダメでも、とってもすばらしいと感じて愛聴するとか、そんなことはいくらでもある。自分の耳で聴くしかない。それでもって判断するしかないんだ。文書を書くためにとりあげるにせよ、なにをどう扱うかで頼りになるのは自分の耳だけ。他人の耳で音楽聴くことほどバカらしいことはないぞ。

 

一般に信用されていて人気も高い紹介者・評論家のみなさん(など)の推薦盤はやはりこぞって聴かれるけれど、どうもぼくだけなのか、実際聴いてみたらおもしろくなかったということも多い。逆にこんなにすばらしい音楽作品はないぞと自分で感じても、いっこうに話題にならなかったり低評価、ダメ評価だったりする。

 

そんなとき、やっぱり自信がなくなっちゃうんだよね。自分の鑑識眼が実にいい加減なものだとわかっているから、やっぱりこっちの見立てが狂っているのか、外れているのか、と気になってしまう。でも結局のところ、音楽を聴くとは個人的享楽体験だから、自分にとってどうなのか、ということにだけ比重を置くしかない。世間でのとらえられかたと一致してもしなくても関係ない。と思うしかない。

 

このブログの文章にしても、こんな音楽をとりあげていいのかな?恥ずかしくないかな?この文章内容は外しているんじゃないかな?とか、気にしはじめたらキリなくて、まあ要するに自分に自信がないわけなのだ。ふだんこんなにふんぞりかえっているのにもかかわらず、というかそうだからこそそれは虚勢であると、まあもはや見抜かれているだろうなあ。

 

だから、いつもいつも、この音楽は、ぼくはいいと思うけどみんなはどうかな?とか、この感想でいいのかな?妙な妄想を書き連ねていないかな?などと気にしているのが事実だけど、ちょっとづつそんなことに、本当にちょっとづつ、自信じゃないけれど、結局自分を信じるしかないんだから思ったものをとりあげて思ったことを書けばいいと、それでオッケーと、 すこしは余裕が持てるようになってきたかもしれない。ちょっとだけ。

 

ひとの言ったことを、高評価も低評価も、そのまま鵜呑みにせず、自分の耳だけを信じて、自分の耳にこれはイイ!と聴こえるものはマジでいいんだと、そう信じて、感じたことを書いておけばいい。自分の耳におもしろくないものは、どんなに信頼しているかたが褒めていようとも、それはつまらないんだから、そういったものは書かないでおこう。

 

自分の耳で聴こう。それしか頼るものはないんだから。他人のものさしで自分の体験を測らないようにしなくっちゃね。ことに音楽とかの趣味のことや(コーヒーでも料理でもそうだけど)なんかにかんしては、自分の耳と感性を信じて、それでもってだけ聴いていけばいい。

 

自分のことなんだから、頼れるのは自分の耳だけ。それだけ。

2019/04/11

さすがのブルー・ノート、大好き

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といってもスケールじゃなくて音楽レーベルのほうだけど。Spotify や Apple Music など音楽ストリーミング・サーヴィスが一般的になって以後、最も活気付いているアメリカのレコード会社がブルー・ノートにほかならない。ぼくのばあい主に Spotify を使っているのでそっちでしか見ていないけれど、ブルー・ノートの作品は「ぜんぶ」ストリーミングで聴けるんじゃないかと思う。

 

カタログがぜんぶ聴けるだけじゃない、以前もソニー・クラーク関連で言ったけれども、レーベル公式のプレイリストをどんどん作成・公開しているのがブルー・ノートで、これにかんしてはたぶん全世界ナンバー・ワンだ。そのおかげで、いままで気づいていなかったことを発見してモダン・ジャズを聴く楽しみが増しているよ、事実。

 

昨年は公式プレイリスト『ブルー・ノート・ブーガルー』にとても大きくお世話になって、結局これを2018年のリイシュー部門第一位に選んだほどだけど、実際それくらい意義深いことだった。これだけじゃない、ブルー・ノートは実におもしろい公式プレイリストをたくさん公開しているんだよね。そのおかげでずいぶんと楽しませていただいている。

 

しかもブルー・ノートのばあいは、プレイリストを作成・公開したら、必ず公式 Twitter アカウントでお知らせしてくれる。これがいいんだよね。毎夜のようにぼくの楽しみになっている。そんなレーベル公式ツイートは、だいたい(日本時間の)毎晩深夜23時台前後なので、プレイリストをフォローしておいて翌日の楽しみとして、幸せな気分で眠りにつく。

 

ブルー・ノートはいったいどれだけの公式プレイリストを公開しているのか。かなりな数があるよなあ。ひとりのジャズ・マンに焦点を絞ったり、テーマを設定してレーベル全体を横断して多数のジャズ・メン作品から拾ったり、などなど、数も種類も多い。なかにはかなり興味深く意義も大きなプレイリストだってあるんだよ。

 

ブルー・ノートはフィジカル商売だってまだまだやっているだろうけれど、いまのストリーミング時代に、1939年創業の老舗ジャズ・レーベルとは思えないほど完璧に対応している。新しい時代に合わせて商売方法を更新していくのは、健全なビジネスの姿じゃないだろうか。音楽会社のある種の理想を、ぼくはいまのブルー・ノート・レーベルに見る思いがする。

2019/04/10

ボレーロみたいな(ボサ・ノーヴァ?)〜 ローザ・パソス

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ブラジルの歌手ローザ・パソスの最新作『Amanhã Vai Ser Verão』(2019)。でもこれ、どうして買ったんだろう?なんとなくの直感みたいなもんかな。ジャケ買いであるようなそうでもないような、こういった南洋リゾートの風景をイラストにしたみたいなお洒落ジャケットは一般的には人気あるだろうけれど、中身がイマイチだったりすることもあるので、ちょっぴりの警戒心も働いたかも。

 

でも聴いてみたら中身の音楽はおもしろかったよ。結論から端的に言っとくと、このローザの『Amanhã Vai Ser Verão』は、ブラジルのボサ・ノーヴァ歌手のやるボレーロ/フィーリン系の音楽なんだよね。ん〜、どっちかというとボレーロを意識したのかなという内容だね。しかしキューバ/メキシコの歌手がやるようなしっかりしたボレーロではなく、フワ〜ッ、ボワ〜ッとしたつかみどころのない超ソフトでおだやかすぎるボレーロ(っぽいボサ・ノーヴァ?)なんだ。

 

なかにはジャジーな、というかたぶんジャズ・ナンバーと呼んでさしつかえない8曲目「Inocente Blues」もあるし、またやっぱり全体的にいかにもブラジルの音楽家がやりそうな雰囲気横溢の BGM っぽい軽い音楽なんだけど、それでもここまでラテン性というかボレーロ系を強く意識した音楽をローザ・パソスはいままでやってこなかったはずだ。

 

収録の全13曲はどれもローザの自作(というか共作)だけど、1曲目のタイトルが「Alma de Bolero」だしね。それで多くの曲でドラマーが軽くボレーロっぽいあのちゃかちゃかっていう8ビートを表現しているのが特徴的。アコーディオンもアルバム全編で頻用されていて、サウンドの色調を支配している。ギターも印象的だが、そのギターリスト、ルーラ・ガルヴァンがほとんどの曲でアレンジも担当。

 

サウンド・カラーはどっちかというとフィーリンっぽいふんわりソフト加減で、それらの上にローザのあのやさしくやわらかい声が乗っかっているっていう、そんなアルバムなんだよね。全体的に、やっぱりムード重視の南洋リゾート砂浜 BGM みたいな、う〜ん、やっぱそうだよなあ、そんな音楽になっているよなあ。悪い意味じゃなく、ときどきはこういった軽〜い音楽もいいんじゃないだろうか。ガツンと来ないけどれど、悪くないというか、かなりいい、印象というかあたりが。

 

アルバム中おしりの二曲だけがローザのナイロン弦ギター弾き語りで、それらふたつだけはジャンル不問のブラジリアン弾き語りミュージックだ。昨年来、ブラジルのギター弾き語り音楽にいいアルバムが頻出していると書いているけれど、もともとそんな音楽も得意なこのローザ・パソスの『Amanhã Vai Ser Verão』でもラスト二曲はそんな音楽で、これらは文句なし。自作自演のギター弾き語りでボレーロ/フィーリンというと、ホセ・アントニオ・メンデスを想起させるしね。

2019/04/09

カッコよさとなめらかさ 〜 マルモータ

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bunboni さんに教えていただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-02-28

 

ブラジルの四人組ジャズ・ユニット、マルモータ(Marmota)。メンバー構成はギター、ピアノ、ベース、ドラムス。その最新作『a margem』(2017)がかなりいいぞ。傑作と呼びたいくらいなできばえで、なんたってこのジャケット・デザインがいいでしょ、これで中身を直感して買っても決して損はしない上質なジャズ・アルバムに仕上がっていること請け合い。

 

ぼくにとってアルバム『a margem』の最大の魅力は全体的にとてもなめらかでスムースだってこと。そして爽快にカッコイイ。これに尽きるんだけど、しかしこのことは決してイージーに響くとか、イージーな音楽だとかいうことではない。その逆で相当むずかしいことをやっているんだけど、できあがりが聴きやすくなっているのは、真の腕利きである証拠。

 

アルバムの多くの曲、たとえばいちばん長尺なオープニング・ナンバー「Ar」なんかでも、メロディとリズムはころころチェンジする。しかも変わるときリズムとメロディの変化が同一のものとして合体しているんだよね。約10分間これだけめまぐるしく変わるのに、一糸の乱れも聴かれないのは、コンポジション/アレンジとリハーサルのたまものか。結果、なめらかなスムースさに到達しているんだよね。

 

いちばんのお気に入りは3曲目の「Hades」。エレキ・ギターのエフェクト・サウンドからはじまってしばらくのあいだは音響系みたいなサウンドが漂っているが、ドラマーがかなり強くスネアをバンバン!とやってからが本番だ。使っている音階がちょっとしたアンダルシア〜中近東系のそれに近いように聴こえ、スペインふう&アラブふうというかそんなところが大好き。ブラジルからしたらかなりエキゾティックなサウンドなんじゃないのかな。最後までドラマーがドラマティックに叩くのもいい。ぼくにとってはど真ん中ストレートな大好物の一曲。

 

ここのところのジャズ・ミュージックではアレンジの比率が上がっていて、用意周到な複雑アレンジのなかを縫うように短めなソロが効果的に入るというような、そんな構成になっているものが増えているんじゃないかと感じているんだけど、マルモータの『a margem』でもそれは同じ。整然とした練り上げられた音楽のほうが(一発勝負みたいなものより)断然好きなぼく。だからマイルズ・デイヴィス好きなわけだけど、近年のジャズはぼくにとっては好ましい方向へ流れてきている部分もあるようで、うれしいかぎり。

 

bunboni さんもおっしゃっていることだけど、ここのところブラジルの最新ジャズ・シーンがかなり充実してきている、ブラジルのジャズが、いま、きている、というのが事実のよう。シーンを把握できない質のぼくでも気づくくらいだから間違いない。昨年もイチベレ・ズバルギの超傑作などがあったけれど、マルモータの『a margem』は、個人的な好みだけなら近年ナンバー・ワンの心地よさ。流してよし聴き込んでよしの傑作。もうすでに何回聴いたかわからないほど聴いている。いやあ、好きですね。

 

(注)6曲目「Indução」の最終盤で挿入されている英語のしゃべりは、どうやらビル・エヴァンズのものらしい。しかしそれがここにどうして使われているのか、ぼくにはわからない。

2019/04/08

ぼくはどう書き、どう推敲しているか

Fullsizeoutput_1dc9 Fullsizeoutput_1dcb https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/16CwqmoXgaQY1OQDgW1M72?si=FwARWQmvR0mQRXerbSdx1w
(BGM はこのへんで)

 

今日は特に音楽の話をせず、ふだんこのブログ用にどうやって文章を書いたり推敲したりしているか、ちょちょっと個人的にメモしておきたい。Apple 社製の各種機器をお使いのみなさんにはすこしの参考になるかもしれないし。

 

まず最初に書くときはスマホやタブレットではまだムリで、やっぱり Mac でテキスト・エディタに向かって物理的キーボードを叩いているんだけど、いったん完成したらそれを推敲するのは iPhone や iPad でのほうが細かなことに気付きやすいという面があって、そのほうが便利だと思うことも。どうやらぼくだけじゃないようで、ほかの複数のかたから同種のお話をうかがったことがある。

 

Mac でブログ記事執筆用にと使っているテキスト・エディタは Jedit Ω。各種の文字装飾が必要となる仕事用に使っているのが LightWayText。この二種のエディタは初登場がどっちも1995年。その後ヴァージョン・アップを重ね現在でも存続している現役選手で、ぼくはこの二本使いでずっと2019年まで来ている。ワープロ・ソフトなんていうものはいまだかつて使ったこともない。今日の話には Jedit Ωだね。

 

Jedit Ω は Mac 専用エディタで、それは Windows 版がないとかっていう意味じゃなくて、 iPad や iPhone で動く iOS 用のヴァージョンがないという話。これはちょっとした悩みなんだよね。それでも Mac でこれ以上使いやすいエディタはないので Jedit 系でずっと来ている。ところで、ブログに上げるぼくの音楽文章は、だいたいどれも一回性一方向性のインプロヴィゼイションなんだよね。最初に書くときはね。

 

それをアップロードする前に読みなおして加筆訂正したりなど推敲するわけだけど、音楽で言えば録音後の編集作業みたいなもんかな。ちょっとしたミスを修正したり音を足したり減らしたり微調整したりなど、みなさんなさるでしょ。SP 時代のあと、テープに録音するようになって以後はさ。ぼくも Jedit Ω で当該ファイルをもう一度、二度と開きなおし読みかえし、推敲していた(と過去形)。

 

ところが、モバイル・ディヴァイスを使うようになってやや様子が違ってきているんだよね。偶然の発見みたいなもんなんだけど、自分で書いてブログにアップロードした文章を iPhone で読んでいて、Mac だと気づかない細かな書きミスに iPhone(や iPad)だと鮮明に気づきやすいということがわかってきた。これはあれかなあ、画面サイズが小さいため、かえって発見しやすいということなのか?わからないが、間違いない事実だ。

 

これはブログにアップロード後にそれを読んで、ということだったのだが、それをアップロード前の推敲でやるようになったのが2018年10月に最初の iPad を買ってから。しかし問題がある。上でも書いたが常用必須の Jedit Ωに iOS ヴァージョンが存在しないってことだ。最近のメイジャー・アプリは macOS 用、iOS 用の両方ともリリースするのがふつうになってきているんだけど、Jedit 系は Mac アプリしかない。

 

だから iPhone や iPad でアクセスし書き終えてある文章を読み込んで(そう、テキスト・ファイルもローカル・ディスクにはいっさい置いていない、ぜんぶクラウド上にある)、それで読みかえして推敲などしようとすれば、違うアプリを使わざるをえないのだ。そのためのほぼ唯一の選択肢が LightWayText 開発者である山下道明さん作成の iText Pad。これは iOS 専用のテキスト・アプリだけど、同じ山下さんの Mac 用のエディタ iText のモバイル版みたいな位置付けなのだろう。

 

iPhone や iPadの、っていうかだいたいのばあい iPad でだけど iText Pad でクラウドにあるぼくのテキスト・ファイルにアクセスし読み込んで表示、それをじっくり読みかえしながら細かな書きミスを訂正したり表現をあたらめたりする。これがケアレス・ミスにいちばん気付きやすい最好適なやりかたなのだ、ぼくのばあいは。そうやって推敲したものを iText Pad で保存するとそのままクラウドにあるので、次に Mac の Jedit Ω でアクセスしたら同じ推敲済みの同ファイルが立ち上がる。

 

な〜んて便利なんだ!

 

最近は iPhone や iPad での文字入力も劇的に速度が向上しタップ・ミスもかなり減ってきた。いまだに QWERTY 配列のソフトウェア・キーボードでローマ字入力なんだけど、Mac の物理キーボードを叩く速度に近づきつつあるんだ。だからそのうち、iPad などでブログ用の文章を書きはじめるかもしれないよ。といっても iOS 上で動く高機能なテキスト・エディタがほとんどないのが難点だけどね。

2019/04/07

ジョアナの爽やかな想いあふれて

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なぜかジョアナ・アメンドエイラのファドが聴きたくなった。どうしてだろう?マリア・テレーザ・デ・ノローニャの完全集なんかも最近あって、それでちょっとファドづいているせいかなあ?わからないが、選び出したのはジャケットの雰囲気が好きな2006年の『ア・フロール・ダ・ペーレ』。これ、いいんだよぉ。いまでもぼくは大好き。

 

聴いていて感じるのは、ファド新世代ということかどうかよくわからないのだが、ジョアナの声は、また伴奏も、軽い。そして明るい。いい意味でね。さっぱりしていて聴きやすいのだ。これは大きなメリットじゃないだろうか。ふつう一般的にファドというと暗く重苦しいイメージがつきまとう。ジョアナのばあいはスウィンギーですらあって、また歌いくちがベタつかず爽やかで心地いい。そんな気がしたんだけどね。

 

『ア・フロール・ダ・ペーレ』のばあい、5曲目まではわりと従来路線っぽいファド・ナンバーが並んでいる。アマリア・ロドリゲスなどと比較したらそれでも相当軽いんだけど、それでもジョアナもファド歌手だけあるという湿った重い質感を表現しているよね。しかしそのなかに、ジョアナにしかない独特の爽やかサウダーデがこもっているのを聴きとることが可能だ。やはり新世代。

 

1〜5曲目までのあいだでも、たとえば4曲目「Plantaei um cravo à janela I」なんかは明るくて聴きやすい。そう、ジョアナのファド歌唱(や伴奏)は聴いていて、気持ちがドンヨリしないのだ。あくまで前向きに進んでいこうっていうそんな明るさが音楽から聴きとれるとぼくは思うけどね。引きずっていない。そんなところもポイント高し。

 

それが6曲目「Amor, o teu nome」でいきなり真っ青な陽光のもとに飛び出たみたいなキラキラさと輝きと軽さ、明るさが全開。伴奏のふたりのギタリストがそんな弾きかたをしているのが大きいんだけど、こんな伴奏をファドで聴いたことないよなあ。そう、ジョアナのばあい、曲もそうだし伴奏のアレンジや演奏も考え抜かれている。ジョアナのどんな味を際だたせるか、徹底して創り込まれているんだね。

 

その後も、伝統的なファドとジョアナらしい軽く明るい新世代ファドとが織り交ぜられて出てくるのだが、全体から受ける総合的なイメージはライトでソフト。そんなファドってあります?ジョアナ独自の持ち味なんじゃないだろうか?もちろんコントラバスもくわえての三人の伴奏陣とそのアレンジ、さらに選曲や曲創りの工夫も大きい。ひとことにすれば、爽やかファド。やはり新世代。

 

9曲目「Barco de sonhos」、13「Lisboa amor e saudade」なんかも聴いてみて。これが果たしてファドなのか?と、イメージをくつがえされるかもしれないよ。伴奏のトリオ演奏も完璧だし、ジョアナは軽く明るいだけでなく、しっかりとした情緒を表現する技巧はすでに最高だし、声にキラキラと同時にしっとりした落ち着きもあって。だから、総合点はかなり高いんだ。

2019/04/06

跳ねる左手 〜 ジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ

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発売年記載のない Retrieval 盤 CD『24 レア・レコーディングズ・オヴ・ピアノ・ソロズ・バイ・ザ・キング・オヴ・ジャズ&ストンプ 1923-1926』。愛聴盤なんだけど、アルバム題どおり、ジェリー・ロール・モートン、1923〜26年のソロ・ピアノ録音を集大成したアルバム。晩年にもソロ演奏のあるモートンだけど、20年代ものはおもしろみが断然上なのだ。

 

晩年の録音では聴けない1920年代のソロ・ピアノ集にあるモートンの特徴とは、いまのぼくにとって<跳ねる左手>、これがすべてだ。こういうと、ライ・クーダーや中村とうようさんも着目した「ザ・パールズ」「ティア・フアナ」の話だろうと思われそう。それは実際そのとおりだ。この二曲(「ザ・パールズ」は1923年、26年と二つヴァージョンがある)は群を抜いておもしろい。

 

端的に言って、それら二曲では、部分的にだけど、モートンの左手がキューバのアバネーラふうにシンコペイトしているのが興味大ということになる。しかしモートンの1920年代ソロ・ピアノ集をじっくり通して聴くと、これら二曲だけじゃないんだよね。モートンの跳ねる左手は、ほかにも随所で聴けるものなのだ。

 

たとえば1923年の「ニュー・オーリンズ・(ブルーズ・)ジョイズ」ふたつ。ここでも部分的にだけど左手が踊るように跳ねるリズムを表現している。踊るというよりこのモートンの20年代録音だとゆるやかに舞うといった優雅な室内楽的フィーリングをかもしだしているよね。いかにも特権階級だったクレオールだけあるというムードかな。

 

そう、モートンの左手が表現するダンサブルなジャンプ感覚は、決して野卑じゃない。優雅だ。上品で繊細でエレガントなのだ。まあキューバのアバネーラだってそういったものだったし、このへんは旧宗主国のスペインやフランス由来といった文化痕跡なのだろうか。モートンのソロ・ピアノ集のなかには欧州系の室内楽ダンス・ミュージックに通じる感覚もあるよなあ。

 

上で触れた「ニュー・オーリンズ・(ブルーズ・)ジョイズ」では、2ヴァージョンとも、1928年のブギ・ウギ・ピアノ録音であるクラレンス・パイントップ・スミスが弾いたパターン(「パイン・トップス・ブギ・ウギ」)がすでに出現している。パイントップがモートンのレコードを聴いて…云々というより、こういったリズム・フィギュアはある種の共有財産だったのだろうと思う。

 

そのほか、モートンの左手はいつもスウィンギーでジャンピー。これは1920年代ソロ録音のだいたいどれでもそうなのだ。スムースにフラットにすーっと進むということがほぼなくて、グルグル回転したり跳ねたり止まったり、とにかくおもしろい。リズム面に最もおもしろみが出ているのがこのひとのソロ・ピアノ録音の魅力なんだよね。

 

ジャズ・ソロ・ピアノ録音史上、たぶん最も早い時期のひとつだったろうモートンの録音集。その後のジャズ・ピアノは、というかジャズ・バンド演奏もだけど、スウィンギーさをもっと平坦にしてずんずん進むようなフラットなビート感に移行したかのような印象がある。

 

じゃあモートンの1923〜26年ソロ・ピアノ録音集みたいな音楽はどこへ行ったのか?というと、上でも触れたがブギ・ウギ・ピアノや、それを源流とするジャンプ(・ブルーズ)・ミュージックに流れ込んでいるように思う。決してぜんぜん泥臭くないモートンの音楽なんだけど、リズムの強靭さと跳ねかたを考えると、そっち方向へ行ったのだとみなすことができよう。またもっと時代が下っての(プロフェッサー・ロングヘアなど)ニュー・オーリンズ R&B にも強い影響を与えているのがわかる。

 

これがぼくの見解。ジャズ・ミュージックという狭い枠だけで見ているとモートンの偉大さに気づかない。

2019/04/05

紙ジャケやデジパックが好き

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これは紙ジャケ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Fullsizeoutput_1de3 これはデジパック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なかにはプラスティック・ケースじゃないと購買意欲が削がれるとかいうオカシナおっさんもいるけれども、だいたいのみなさんは紙ジャケットやデジパック歓迎じゃないだろうか。そして、実際、もうそれらでしか音楽フィジカルの新リリースは出なくなっているとまで言いたいくらい増えている。新発売 CD 全商品の八割九割が、紙ジャケかデジパックのはず。もはやそれしか買っていないとまでの実感があるけれどね。

 

プラスティック・ケースは CD メディアの登場とともに採用されたものだけど、環境問題云々もさることながら、すぐにヒビが入ったり割れたりするし、イヤなんだよね個人的には。本当はデジパックもイマイチで、どうしてかって、ディスクを留める部分にはプラスティックの板と爪が使われているからだ。外は紙だから割れないし手触りもいいけれど、なかの爪がわりとよく折れちゃうんだ。すると、CD が安定しない。

 

紙ジャケはその点も安心だ。紙だけでできたジャケットのなかに CD を入れ込んであるだけだから(日本盤のばあい袋にも入っているが、あれはいらん)安定性も抜群。ぜんぶ紙だから触った感じも最高に心地いいし、あたたかみがあって、しかも割れたり折れたりヒビが入ったりもしない。快適のひとことに尽きる。

 

紙ジャケとは、かつては日本独自の文化だったかもしれない。特にリイシュー盤で LP レコードのそれを再現したミニチュア・レコードともいうべき紙ジャケ CD は、たくさん日本で生産されている。そういうのがいいと感じたり、(プラケで)持っているアルバムでも紙ジャケでリイシューされたら買ってしまうというのは、やっぱり世代的なものかなあ。アナログ・レコード時代へのノスタルジーでミニミニ LP みたいな紙ジャケ CD を買うのかもね。

 

いやいや、しかし、紙ジャケは、いまや日本の文化云々ってことはなくなった。世界の新リリース CD の多くがどんどん紙ジャケやデジパックになっているもんね。ぼくは薄ければ薄いほど、軽ければ軽いほど、好き!という性格の人間だから、こういう時代になって本当にうれしいよ。軽薄礼賛!

 

プラスティック・ケースのものは厚みを取ってしまうのも問題だ。アナログ・レコードをラックに立ててたくさん収納している(経験のある)みなさんはご存知でしょう。どんどん押し込めるんだよね。あまり詰め込むと取り出しにくくなるけれど、ムリにでもグイグイ行けて、スペースのない狭い部屋では必須の技術なんだ。

 

プラケ CD はこれができない。あたりまえだがプラスティックなんてどんなに押したってサイズ縮まないもんなあ。まあデジパックもこの点では同じだけれども〜。紙ジャケは LP レコードと同様の収納技術が使えて省スペースにもなる。ま、だからいまぼくんちのラックにある紙ジャケはキッチキチで取り出しにくいんだぁ〜(苦笑)。

 

どこにも長所のないプラスティック・ジャケット。あ、いや、平積みはしやすいという点があるかな。でも平積みなんて、一品を大量に陳列したいお店じゃないんだから、個人の自宅ではほかにやりようがなくなった人間の窮余の一策でしかない。ふつうはやっちゃいけません(つまりぼくはやってます)。そんなことで、ほかになんのメリットのないプラケなんて撲滅して、今後の(音楽だけじゃない)CD の新リリース・パッケージはぜんぶ紙ジャケ仕様にしちゃってほしいのだ。

 

問題は、ぼくの大好きな岩佐美咲と原田知世がいまのところぜんぶプラケ入りだってことかな。今後もなかなかそれが変わりそうにない。なんとかしてくれ〜。

2019/04/04

いきなりジャズ狂になったわけじゃない 〜 映画サウンドトラックの時代

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https://open.spotify.com/user/thebluebonnet/playlist/6f9tMg31JZFB5Oi6c3Ltbu?si=-cgtSmSMTgWQM9fpm1gGCw
(BGM はこのへんで)

 

ジャズキチになる前はテレビの歌番組に出てくる歌手たちに夢中だったといっても、この移行は飛躍がありすぎてなかなか理解していただけないかもしれない。自分でもそうなんで、そのころのことについて忘れていたのを思い出すと、このあいだに映画のサウンドトラック盤に夢中だった時期がはさまっていたのだ。それも本当に短期間。そう、一年もなかったくらいだったかも。

 

映画好きだった(と過去形で言わないといけないが)ぼくは、1970年代後半当時、松山市内にまだまだたくさんあった映画館で洋画・邦画ともよく観ていたのだが、観終わって映画館を出ると、いい映画だったと思ったばあいはその足でそのままレコード・ショップに立ち寄ってその作品のサウンドトラック盤を買う習慣があった。

 

どの映画を?ってなことはない。いいと思ったものはサントラ盤レコードを買っていた。なんたってぼくが夢中だったのは『007』シリーズ。どうしてジェイムズ・ボンド映画が好きになったのかはわかっている。ミステリー小説好きで、なかでもスパイものが大好物だったからだ。イアン・フレミング原作の小説の翻訳本をよく読んでいた。

 

それではじめて観たのが1977年の『私を愛したスパイ』だったから、ロジャー・ムーア時代だね。おもしろかった。それでレコードを買ったんだ。映画館で聴いた音楽も印象的だったし。帰宅してレコードを聴いて、こりゃあいいな!と思ったのだ。これ以前の映画007シリーズは、テレビ放映で観たり名画座に来るので観たりなど。ジェイムズ・ボンド映画はぜんぶおもしろいと思ったよ。

 

そうこうするうち、映画本編も音楽もショーン・コネリー時代のもののほうが楽しいと思うようになった。ショーン・コネリー時代の007映画シリーズのサントラ盤は、一作づつぜんぶ買ったのではなく、むろん買った作品もあったろうが、ベスト盤みたいなのが出ていたんだよ。それで代表曲をだいたい聴いた。

 

映画音楽の世界は権利関係がなかなかむずかしいらしく、ベスト盤編纂時もオリジナルではなく、そのとおりにソックリに他人が演奏しなおしたヴァージョンとかがよく収録されているのは当時から同じだったように記憶している。でもテレビや映画館で観て聴いた印象と差がなかったから、あれでよかったんだろう。違和感はなかった。

 

大事なことは、映画のサントラって大半がインストルメンタル・ミュージックでしょ。主題歌や挿入歌があるにせよ、だいたい楽器演奏が中心だ。ミュージカル映画みたいなのは別にしてね。ジャズ音楽にハマる下地がここにあった。それにねえ、007映画で使われているインスト音楽って、カ〜ッコイイんだよ〜。高校生のころからそう感じていたが、いま聴きかえしても同感。

 

007映画の音楽って、バックの管弦楽は西洋クラシック音楽のそれだけど、リズム・セクションはジャズやポップスのそれを使っている。それでインストルメンタル演奏をするわけだよ。だから、高校生のなかごろだったか、映画のサントラ盤レコードをどんどん聴いていた時期が、ぼくのジャズ狂時代への準備になっていたんだね。

 

それだけじゃない。007映画のショーン・コネリー時代は大半が1960年代で、主題歌はあの時代のヒット・ポップスに沿ったような創りになっている。そういうことは高校生のころまったくわかっていなかったが、あの時代のオールド・ポップスが好きになるぼくの趣味をも準備してくれていたんだね。シャーリー・バッシーとかダスティ・スプリングフィールドとか、歌ってたんだよねえ、007映画でさ。

 

音楽で情景をとらえたり想像したりくっつけたりするのがうまくなったのも、映画好き、サントラ好きだったこの青春時代の副産物かもしれないが、この話は今日のところ、関係なさそうだ。ともかく、山口百恵、沢田研二、ピンク・レディーなどなどが好きだった少年が、いきなりある日突然ジャズ愛好家に変貌したわけじゃなかったんだなあ。

2019/04/03

ぼくにとってのデジタル・ディヴァイスは、すべてネット端末兼ジューク・ボックス

Fullsizeoutput_1d9cだというのが1995年以来の変わらぬ実像。ぜんぶインターネットのためなんだ。そもそも95年に Mac を買った動機がそれだから。ネット活動のために文章書いたり写真や音楽ファイルをどうこうするようになったので、結果的にそういった作業もするようになったけれど、もとの動機はすべてネット活動のためだ。

 

だから、まあいまは iPhone や iPad も活用しているけれども、結局それらは最初からネット端末として使うものだというか、ネット回線常時接続環境が整備されてはじめて商品化が可能となったものなので当然だ。そして音楽好きなので、ネット・ユーザー兼音楽愛好家というこの二面が、いまやピッタリ貼りつくようになっている。

 

だから、ネットで音楽を聴けるようになって本当によかったと、心の底から思い、感謝している。べつに Spotify や Apple Music みたいなサブスクリプションじゃなくたって YouTube があるでしょ。ストリーミングで音楽を聴くのはイヤだ(とお思いであるように見える)というかただって、YouTube ファイルはどんどんお聴きのようで、Twitter アカウントにどんどんリンクされ、ツイートされている。

 

ネットにつながっていることはある程度あたりまえのことになったので、そもそも1995年にはじめてパソコンを買った動機がネットをやりたいがためだったぼくにとっては、いまはもう理想郷が実現しているというに近い状況。その上、音楽までそれで聴けて極楽で、もういつ死んでもかまわない(ウソ)。

 

Mac(しかぼくはパソコンを知りませんが)だってハナからノートブック愛好家で、だから可搬性が高いのでどこにでも持ち歩き、iPhone や iPad はもちろんそれしかありえないわけで、しかし部屋のなかでじっと座っていても同じように使えるもので、そういうばあいたいてい Wi-Fi につながっていりことが多くなったし、交通機関、飛行機のなかですらそうなんだから、ネットをやるのに不自由することはなくなった。むかしはこうだったんですよ…、という話はやめておこう。

 

ともかく MacBook と iPad と iPhone。これらのなかにぼくのすべてがある。電話機でもある iPhone は一個の電話番号で個体がアイデンティファイされるので一台持ちだけど(二台持ちだとかいうかたもいらっしゃる模様)、Macと iPad はそれぞれ三台づつ持っているぼく。そんなにあったってメイン・マシンはやっぱり一個なんだから不要じゃないか、とはならない。特に iPad がそうだ。

 

マンションの小さな部屋に住んでいるので、iPad が三台あれば、三つのテーブルにそれぞれ一個づつ置いておいて、ふとしたときにすっと触ってネットでチェックできる。ぼくのばあいだいたいいつも Twitter をやっているけれど、複数ディヴァイスでも同じアプリで未読位置をシンクロできるから、こっちでここまで読んだら別なのでそのまま続きを読めるという便利さ。

 

Spotify だって、Mac アプリと iPhone、iPad アプリを同時起動しておけば、一個が他方を操作するリモート・コントローラーになるんだよね。だからたとえばぼくの Mac の音は AirPlay でそのまま無線接続でアンプ、経由でスピーカーまでつながっている。それでふだん自室のなかでは Spotify で音楽を流しているけれども、キッチンにいてもモバイル・アプリがコントローラーとなって曲やアルバムの再生を操作できちゃう。

 

ネットのおかげだ、すべては。1995年にはじめて Mac コンピューターを買ったしょっぱなからネット端末として扱ってきたぼくだけど、いまや iPad や iPhone も含め、ネットを活用した SNS と音楽ストリーミング・サーヴィスで、24年来の願望がフル実現していて、しあわせだ。

2019/04/02

わりかしラテンなソニー・クラーク

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https://open.spotify.com/user/bluenoterecords/playlist/1bNfRB8uzz2G52DBK4Rs1C?si=ehbsu39eR9Cj-V-owHXlzA

 

2019年3月上旬にブルー・ノート・レーベル公式配信で公開されたプレイリスト "Sonny Clark: The Finest"。この「ザ・ファイネスト」はシリーズみたいなもんで、ブルー・ノートはいろんなジャズ・マンについて同題の「だれそれ:ザ・ファイネスト」公式プレイリストたくさん作成・公開している。ベスト盤みたいなもんだね。いまこれを書いている3月8日時点での最新がソニー・クラーク。

 

計1時間56分のこのプレイリストを聴いて再確認したことは、ソニー・クラークの録音にはわりかしラテン・タッチがあるぞ、ということだった。といってもたいしたことはない、ほんのちょっとのことのことなんだけど、でもそれはある種の本質が垣間見えているということだと判断できるので、すこし書いておきたい。

 

ソニー・クラークの録音で聴けるラテン・タッチはどれもアフロ・キューバン・スタイルで、しかもモダン・ジャズ・メンがよくやる典型的なものだ。ディジー・ガレスピーやアート・ブレイキーなんかで頻繁に聴けるあれね。モダン・ジャズにおける典型ラテンといえばたいていそれになるけれど、もとをたどるとビ・バップ時代にキューバ人ミュージシャンがジャズ・メンと共演して表現したものが直接のルーツなのかなあ。

 

プレイリスト『ソニー・クラーク:ザ・ファイネスト』でのラテン、つまりアフロ・キューバンなタッチは、しかしどれも部分的なもので、アド・リブ部でラテン・リズムが使ってあるのは一個もなく、テーマ演奏パートの一部でだけリズムがそんな感じにアレンジされているというだけだ。ドラマーが、特にスネアで、それをわかりやすく叩き出していることが多い。

 

たとえば「スピーク・ロウ」(『ソニーズ・クリブ』)。スタンダード曲だけど、このリズム・アレンジはもちろんソニー・クラークが施したもの。そのほか、自作ナンバーではもちろん、他作曲でもアレンジはソニーがやっていると言うまでもない。だから、彼はあえてこういったラテンなリズム・フィーリングをわざわざ選んだということになるよねえ。

 

プレイリストでの登場順に、たとえば「ダイアル S フォー・ソニー」(『同』)。これは鮮明なラテン・タッチではないのだが、コントラバスのウィルバー・ウェアがテーマ演奏部の背後で跳ねるビートをはじきだしているように聴こえる。感じすぎだろうか。ドラマーのルイス・ヘイズもリム・ショットを複雑に入れてシンコペイトする瞬間だってあるじゃないか。

 

ケニー・バレル参加の「マイナー・ミーティング」(『マイ・コンセプション』)。これもテーマ演奏の A メロ部でだけドラマーがスネアでラテン・ビートを叩いているし、こころなしかテーマ・メロディじたいもファンキーに上下するユーモラスなラテン・タッチふう?『クール・ストラティン』からの選曲である「ブルー・マイナー」はかなり有名なので多言無用だ。

 

プレイリスト・ラストの「ニューズ・フォー・ルル」(『ソニーズ・クリブ』)。テーマ演奏部でのアート・テイラーのシンバル遣いがなんとも魅惑的じゃないか。もちろん鮮明すぎるほどのラテン・ビートだ。たぶんこのプレイリストで、というよりぼくの思い出せるかぎりでの全ソニー・クラーク音源でも、この曲でラテン・タッチがいちばんクッキリし…、あ、いや、「ミッドナイト・マンボ」(『リーピン・アンド・ローピン』)があったか。

 

ソニー・クラークは最も典型的なハード・バッパーのひとりとして日本では大人気のジャズ・マン。特に奇や異や変や別や特をてらったところのない<ふつうの>モダン・ジャズ・マンなんだよね。そんなソニーの音楽のなかにでもこんなラテンなニュアンスがわりとはっきりと入り込んでいるという事実を、ふつうのジャズ・リスナーのみなさんにもっとしっかり考えてもらいたいと思う。

 

ジャズにおけるラテンというか中南米カリブ音楽は、本当に抜きがたいあたりまえのものなんだってこと。特別視したりすることなく、楽しんで聴いて、そしてジャズ・ミュージック揺籃期の文化混交のありようや、成立後の発展形態などをじっくり考えながらたどってほしいんだ。

 

ソニー・クラークは1963年1月に若くして亡くなってしまったけれど、相前後して、ぼくも昨年初夏来強調しつづけているブルー・ノート・ブーガルー #BlueNoteBoogaloo 、すなわちモダン・ジャズにおけるラテンな8ビート・ブルーズ・ファンクが勃興し流行している。あともうすこし長生きしていたらソニーだってやったかもと思うんだ。それを想像できたレーベル公式プレイリスト『ソニー・クラーク:ザ・ファイネスト』だった。

2019/04/01

プレイリストを作る楽しみ

Fullsizeoutput_1e28Spotify でプレイリストを作成し公開する楽しみの最大のものはもちろん個人的なことで、自分で聴いてこりゃいいねと思えることにあるんだけど、さらにもうひとつ大きなことがある。Spofity プレイリスト、それは私家製だけど公式であるってこと。これはかなり重要なことなんだ。

 

以前から繰り返すように、高校生のころからマイ・ベスト・セレクション作成癖のあるぼくで、もうず〜っと40年間やり続けている。なにかちょっとあるとすぐ作る。でも Spotify サーヴィスが開始するまで、そういったセレクションは、あくまで私的複製であって、他人にあげたりは、まあ無料でさしあげる分には法的に問題ないような気がするからずっとそうしているが、やっぱりどっか後ろめたいわけ。

 

音楽商品の複製は私的利用に限って認められているわけでさ。だから他人にあげるのもあくまでヒミツであって、おおやけになんか絶対にできるわけなかった。ねっ、ぼくの言いたいことがもうおわかりでしょ。Spotify プレイリストは公開できるんだよ。おおやけにできるんだ。世界中のみんながアクセスできるってこと。だからばあいによっては当の音楽家や関係者やレコード会社にだって届いて聴かれる可能性が0%じゃないかも。

 

しかもそれで法的にはなんら問題がない。100%セーフ。というより歓迎されるものなのだ。こ〜れは大きなことだよ。もちろん Spotify のプレイリストは非公開を選ぶこともできる。だから自分だけのひそやかな享楽として作成しているかたも大勢いらっしゃるだろう。個人的には(なんでも)公開しなくちゃおもしろくないという考えだから、ぜんぶおおっぴらにしているけれどもさ。

 

いままで40年間、こんなことはできなかったわけ。ダビングはあくまでプライヴェイトな行為としてだけ認められているわけだから、マイ・ベストを(一部友人などを除き)シェアなんかできっこなかったんだもん。Spotify のプレイリストはダビング、複製じゃない。すべての音源がオフィシャルなままそのまま、マイ・ベストのセレクションにできちゃうのだ。どうこれ?

 

音楽を聴き愛するのはあくまで個人的なことに違いない。だから自分好みに並べたプレイリストを作成しても、おおやけに世の全員にさらすなんてのはどうなのか、というお考えのかたもいらっしゃるかも。またそもそもマイ・ベストなんか作らないぞ、商品として流通しているそのままの形態で聴くんだぞ、ともおっしゃるかもしれないね。

 

ぼく個人の(ひとさまにはいっさい押し付けるつもりのない)考えは、そんなみなさんのお考えからしたら真逆なんだよね。自分が楽しいことはシェアできるのならしたい。それでうれしみが倍増、どころか百倍増くらいするし、自分の人生がいっそう充実していくように実感している。

 

こんなこと、いままで40年間は(私的に)複製したカセットテープや MD や CD-R をどんどんひとにあげることで「ひそやかに」実現していたことなんだ。書いたように、それは天下おおっぴらには決してできない、裏道だった。いまや Spotify プレイリストの作成・公開は、オフィシャルに認められた天下の表通りの正統行為なんですよ。

 

決定的に違っている。どっちが楽しいか、は明白だ。

2019/03/31

無人駅で背筋も凍る by 岩佐美咲 at 大阪岸和田 2019.3.30

Img_9465 いやあ、今日のわさみんの二回目はマジすごかった!とんでもないものを聴いてしまいました!

 

いやはや、今日の岸和田トークタウンでの岩佐美咲、15:30からの回はものすごかったですねえ。四曲ともすごかったですが、特に一曲目でやった「無人駅」。こんな「無人駅」は聴いたことないです。壮絶というか、背筋も凍るかと思うほど、ものすごかったです。いやあ、こんな美咲は、こんな「無人駅」は、聴いたことなかったです。すごいすごい、ものすごいのひとことで、ほかに表現がありません。いままでぼくは美咲をちょっとしか聴いていませんが、こんなにものすごい歌には、はっきり言ってビックリでした。完璧さを通り越して時空を歪めましたね。

 

岸和田トークタウンの最寄駅は東岸和田。それがある阪和線に無人駅があるかどうか、知りません。たぶんまあ、ないのでしょう。しかし孤独の心境を綴った美咲のデビュー曲「無人駅」がここまでの高度な次元に到達してしまうと、究極の空白状態に心がおちいって、会場の席にすわって聴くぼくはただボ〜ッと口を開けて、「なんじゃこれ〜〜!?」と驚いていることしかできませんでした。もうなんにも考えられなかったです。

 

それにしても、2019.3.30、岸和田トークタウンでの15:30からの回の美咲はいったいどうしたのでしょう?なにがあったのでしょう?四曲ともすばらしすぎたんです。こんな美咲は、ぼくはいままで聴いたことないです。四曲とも音程も完璧、発声も見事で、しかも歌唱表現が、もう、聴いたことない究極の極致、最高度のレベルに達していました。特に「無人駅」。

 

美咲本人が言うには、13:00からの一回目終了後の間合いにお寿司を食べたそうで、それは岸和田トークタウンに来るたびに楽しみにしているものだそう。やっぱり美味しいご馳走を食べると人は変わりますね。13:00からの美咲もよかったんですけど、15:30からの回は歌手として、いや、人として、違っていました。歌で表現する世界の、そこに存在する人間としてのありようの、細部まで神経が行き届き、繊細だけど大胆で豪放、演歌歌手、歌謡曲歌手としてここまでレベルの高い次元にいる人間は、いまほかにいないのだぞ、並ぶものなどいないのだぞと見せつけてくれましたね。いやあ、すごかった。

 

15:30からの回では、「東京のバスガール」も「お久しぶりね」も「恋の終わり三軒茶屋」も、ぜんぶ完璧でした。完璧とは音程が、というだけではありません。表現として相当な高みにあったという意味です。しかしそれでも、オープニングで歌った「無人駅」の破壊的ど迫力、孤独の境地を綴る究極の歌唱表現の前には、なにもかも消し飛んでしまったのです。それほど、あの「無人駅」はスペシャルでした。たぶん、ワン・アンド・オンリーです。二度とあんな背筋の凍る歌は聴けないと思います。いくら美咲でも。

 

いやあ、しかし、1.26のソロ・コンサート、2.13、14の新曲発売記念イヴェントと美咲の成長&完成を聴いてきたつもりでしたが、3.30岸和田15:30からの回は、それらのさらに上空を飛翔するすんばらしさでした。こんな歌、こんな美咲、こんな「無人駅」は、知らないです。いやあ、今日はものすごいものを聴いてしまいました。大感動です。美咲に心から感謝します。いや、それにしてもホント、今日の美咲はいったいどうしたのでしょう?どうしてここまでの歌表現ができるのでしょう?わからないことだらけになりました。

 

2019.3.30岸和田トークタウンでの岩佐美咲イヴェントのちゃんとしたレポートは、このわいるどさんのブログ記事をお読みください。
https://ameblo.jp/saku1125/entry-12450489104.html

2019/03/30

可能なら権利を買ってでも上げたいんだけど

Fullsizeoutput_1dce どんどん自作ムーヴィを YouTube に上げているけれども、といってもオリジナルではなく流通音楽 CD 商品から勝手にアップロードしているだけで、それが現在いくつあるのかな、500個近くあるのか?、ともあれ権利の切れた古い録音以外はすべて著作権侵害を起こしていることになる。

 

だからダメっちゃあダメなんだけど、どうしてもこの音楽をみなさんに紹介したい、聴いてもらいたいという一心でやっているボランティア行為であって、手間がちょっとだけかかり、お金は一円もかからないけれど、もちろんぼくの懐になにがしかが入ってくるなんてことはありえない。NPO みたいなもんなんだから、もっとゆるく長い目で見てもらってもいいんじゃないかと思うこともある。

 

ブログを開始して以後は、論を進める上で音を聴いて検証してもらいたいという目的でも、ネットにまだ存在しない音源を自作ムーヴィにして YouTube に上げるようになった。Spotify を本格活用するようになって以後それで見つかる音楽はそれで、それになければ(無関係の第三者の手になる無断のものでも)YouTube アップローズを探し、それもなければ自分で上げる。

 

こういうのはですね、まあ法を犯しているという意味では絶対ダメな行為ではありますけれどもね、音楽が好きで好きでたまらない人間の、社会への一種の奉仕、恩返しでもあると思う。しかし、違法は違法、取り締まられることもある。いままで四回、問答無用で YouTube 運営側にムーヴィを強制削除された。一回削除されるたびに警告のメールが来て、著作権法のお勉強問答をやらされ、さらにアカウント停止の猶予回数が一個減る。

 

事前告知なしで運営側に無言強制削除される YouTube アップロードは、見ているとどうも再生回数の多いものが標的になる傾向があるように思うのだが、たぶん間違いないね。音楽家の有名/無名、ネット音源管理に厳しい/厳しくない、も関係ないようだ。マイルズ・デイヴィスなんか、いくら上げてもいっこうに注意すらされないもんね。野放し状態。

 

はじめてその手の強制処分を受けたのはプリンスの音楽だけど、彼は超人気有名人でネット音源管理にも異常に厳しかったので知られているけれど、それでも四個上げたうち、最も再生回数の多いほうから二つだけが強制削除された。察するに動画の再生回数が増え人気が上昇すると、たぶん話題になりやすく、結果、権利者(クレームするのは発売元のレーベルである模様)の目にとまりやすく、それで、アッ!これはアカンやないか、削除申請を出そう!となっているように推測する。たぶん、間違いないね、うん。

 

2018年に発売されたグラント・グリーンのファンク・ライヴからのファンキー・メドレーも、むろん無断で上げているわけだから文句は言えないが、発売元からのクレームで強制削除された。だからライフがまた一個減ったわけ。その際、残りライフがたったの一つとなってしまい、もう一度同じことがあれば君の YouTube アカウントは停止されるぞとの警告メールが来たので、もう今後はなにも上げないようにしたい。

 

いちばん言いたいことは、いまの時代、音楽のリリース商品はフィジカルだけでなくネットでも聴けるように、というかむしろどっちかというとネット優先で聴けるように、してもらいたいということだ。前々から言っていることだけど、それが音楽リスナーの便に利することなのだ。CD しかないとかだと、ネットで紹介できないでしょ。それを買ってほしいと言って乞い願うしかないわけで、ばあいによっては相手によっては、むずかしい提案だったりするんですよ〜。あるいはネットに文章でも公開するばあい、音源を例証として引用できないじゃん、ネットで聴けないとさ。

 

その点、プリンスの音楽は、昨2018年、(ほぼ)ぜんぶネットでオフィシャルに聴けるようになったので、もはや悩みはなくなった。こんなにもステキだぞと紹介したいばかりにその一心で YouTube アップロード・ファイルを作り、上げて、結果、強制削除され警告されてライフが計二個減ったけれども、いまはもうだいじょうぶ。あんなプリンスだったけど、亡くなって、遺族やレコード会社のみなさんが考えてくださったということだね。ことばもないほど感謝している。

 

そういったことを、グラント・グリーンのかのライヴ盤にしろなんにしろ、発売元は考えて実行してほしいんだ。アッ!無断アップロード見っけ!報告し削除申請を出そうっと!ってなことは、まあ当然でしょうがそればかりじゃなく、みんなが簡単にネットで聴けるようにしてくれなくっちゃダメなんだよ。CD っていつかは廃盤や製造・販売中止になるでしょ。その後はどうすんのさ。

2019/03/29

むかしこんなひとがいた

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22歳で東京に出てきたんですけど、その前の五年間がジャズ時代というかジャズ修行時代っていうべきでしょうか、ぼくにとってはそんな時期でした。情報というか、知識と知恵を求め、経験を求め重ね、そして当時はレコードしかありませんでしたからレコード・ショップのジャズ・コーナーで長い時間を過ごしていましたねえ。

 

だいたい、ジャズのレコードでどれを聴いたらいいか、このジャズ・マンのことはちっとも知らないけどどこから聴いていったらいいか、なんていうことも、まあ1979年以後のことですからそれなりに情報というかガイドがあったんですけど、ものによってひとによって、言うことが違っていたり正反対だったりしますから、結局のところ、自分の直感みたいなものを信じるしかないんです。

 

ずっとそれでちょうど40年間やってきました。結果的にこんな人間になりましたから、成功だったか失敗だったか、自分では判断できません。それでもまあまあちょっとは聴いてきたと言えるんじゃないかと、ぼくなりに自負しております。そんなあいだ、ときどきはイヤな思いをしたりゲンナリすることもあったんです。

 

いちばんチェッ!と思った瞬間は、レコードを買う際、他人にその選択を支配されようとしたりしたことでした。さすがに2019年ともなればそんなひとびとは絶滅したと信じていますが、むかしはこんなひとがいたんです、それもレコード・ショップにですよ、アンタにこれはススメられない、まだ早い、まずこっちから聴け、だからまずこれを買えと言われるんです。ジャズのレコードの話です。それもレコード・ショップのジャズ担当者が言うんですよ。

 

なんどがあったんですけど、おかしいでしょう。レコード・ショップで、たとえばチャーリー・パーカーを抜き出して、大学生のぼくはお店のおじさんに聞くんです、「これはどんな感じですか?」と。すると、上で書いたような内容をまくしたてられ、ウンチクを聞かされて、挙げ句の果てにぼくが抜き出して尋ねたレコードは売ってもらえないんですよ。

 

こんなことがあっていいのでしょうか。ジャズにかぎらずどんな音楽家でも、どこからまず入って聴きはじめるかは、各人おのおの自由でいいはずです。その音楽家をよ〜くご存知の先輩が、まあよかれと思っての老婆心なんでしょうけど、これはまず入門には向かない、まず順番にこれらを聴いてからそれを、とアドヴァイスなさりたいお気持ちは、ぼくもいたくわかります。けど、やっちゃダメですね。

 

そういった老婆心の発揮は、たんにアドヴァイスとして功を奏さないばかりではありません。マニアとして自分たちとその世界を囲い込み、結果的にその音楽家や音楽の敷居を高くして、これから入ってこようという人間を遠ざけてしまうだけなんです。つまり、ご本人の意図と正反対の結果しかもたらしません。

 

なににガビ〜ンと来るかは、ひとそれぞれ違うと思うんです。ツウが思う意外なものが、イイッ!と感じることだってありますよね。

 

以前、ぼくは痛烈なマニア批判を(サッカー・マニアと上西小百合議員の一件にからめて)やりました。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-6f6b.html

 

これは自戒の念を込めてという意味もあっての文章だったのですが、今日のこの文章も、長年にわたるぼくのレコード/CD 蒐集と、それにともなってのイヤな経験とをあわせ、はたして自分がそんなダメおやじになっていないかを自省してという側面もあるんです。

 

他人にアドヴァイスする際は、細心の注意を払わないといけませんね。

2019/03/28

イーグルズ『ザ・ロング・ラン』がわりとブラック・ミュージックだし

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https://open.spotify.com/album/1sW1HxI9VppbiXqgFQHVCP?si=wF131hFYSjmlcS6GmdBESg

 

『ホテル・カリフォルニア』の大成功から二年以上を経て1979年に発表されたイーグルズの『ザ・ロング・ラン』。個人的にはこれがリアルタイムでの初&唯一イーグルズなのだ。解散前にもうひとつ、ライヴ・アルバムがあるが、どうしてだかその気にならず手に取ったこともない。むろん再結成後なんか眼中にない。それは『ザ・ロング・ラン』が強い終末感を、すなわちぼくたちはもう終わったんですよというオーラを強く放っているせいかもしれない。

 

リアルタイムでの初&唯一のイーグルズなんだから、彼らのほかのどんなアルバムより思い入れは強い。そしてそれ以上にこの『ザ・ロング・ラン』を特徴付けているのは、けっこう黒っぽいということだ。たぶんイーグルズが最もブラック・ミュージックに接近したのがこの一枚なのだ。こういったことをイーグルズのファンやロック専門家のどなたかがたぶんすでに言っているだろうとは思うものの知らないので、今日、ぼくなりに書いてみようっと。

 

5曲目の「キング・オヴ・ハリウッド」までがレコードでの A 面だったが、そういった思い出にかかわる部分をいったんおくと、まずオープナーの「ザ・ロング・ラン」がわりかしメンフィス・ソウルふうなビートというかリズムの創りじゃないかな。それをもっとタイトにしたみたいな感じがする。そのほか、『ザ・ロング・ラン』で黒人音楽的かなと思うものを拾ってみれば、2曲目「アイ・キャント・テル・ユー・ワイ」、5「キング・オヴ・ハリウッド」、7「ゾーズ・シューズ」、8「ティーネイジ・ジェイル」あたりかな。ラストの「ザ・サッド・カフェ」はジャズだけど、黒人音楽的ではないね。

 

2曲目、新参加のベーシスト、ティモシー・シュミットの「アイ・キャント・テル・ユー・ワイ」。これこそ、レコード発売当時から現在2019年まで、ずっとこのアルバムでいちばんの愛聴曲。これは R&B バラードだもん。ブルー・アイドだけど完璧だ。ブラック・ミュージックのデリケートな肌ざわりがあるよね。サウンド・メイクもそうだけど、なんたってティモシーのやわらかいヴォーカルと、それからクリーン・トーンで弾くグレン・フライのギター・ソロで泣ける。すばらしいのひここと。

 

5曲目「キング・オヴ・ハリウッド」は特に黒人音楽的に聴こえないかもしれないが、この淡々と進むビート感。起伏に乏しく(平坦で)起承転結がなく、同一の雰囲気と同一のパターン、ワン・グルーヴを延々と反復しているこのサウンド&リズム・メイク、それがブラック・ミュージック的だなと思うわけ。だいたい音楽における<ドラマ>なんて、近代西洋の発想だ。黒人音楽はその尺度では計れない。

 

7「ゾーズ・シューズ」、8「ティーネイジ・ジェイル」はやや似たような黒人音楽寄りのサウンドを持っていると言えるかも。それはファンクへのアプローチ、それもリズム面でなくサウンド・カラー面での接近といったことがあるんじゃないかと思う。粘りつくような湿度の高い音色でやる(特に)ギター・トーンの創り。ザップのロジャーなんかに相通ずるものがあるよねえ。

 

「ゾーズ・シューズ」ではジョー・ウォルシュ、ドン・フェルダーが二名ともトーキング・モジュレイターをエレキ・ギターにかませて弾いている。つまりトーク・ボックスのサウンドになっているよね。この二人のトーク・ボックス・ギターのからみがこの曲最大の聴きどころ。どう、粘っこいよね。大好きだ、こういうの。この曲ではこころなしかビートもファンクっぽい。

 

「ティーネイジ・ジェイル」での聴きどころとぼくが感じるのは、この大きくゆったりうねる&ストップ・タイムを活用したリズム(とドラミング)と、それからやっぱり楽器ソロだね。一番手でシンセサイザー・ソロが出るが、グレン・フライとクレジットされている。鍵盤シンセだとは思うけど、ちょっぴりギター・シンセっぽくもあるフレイジングだよね。あれっ?やっぱりギタシンなの??ともかくそのシンセの音色がまるでクラヴィネットみたいに粘りつく。この粘着力はブラック・ミュージックのそれだよ。

 

アルバム・ラストで、ゲストにデイヴィッド・サンボーンを迎えてやっている「ザ・サッド・カフェ」。幕閉めに置かれていることといい、これ以上の終末感もないもんだと思うほどのわびしさだけど、しかしそのなかでもアクースティック・ギターのカッティングに着目したい。黒人音楽らしさはないかもだけど、ラテン・ビートの亜種のようなリズム・ニュアンスがあるじゃないか。特にソロ部。ドン・フェルダーが弾いているんだってさ。ラテンの痕跡が聴けるのは、いかにも西海岸のバンドの終焉にふさわしい。

2019/03/27

リンダがリンダだったころ

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ライノから今2019年に発売されたリンダ・ロンシュタット1980年のライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ハリウッド』。意外なことにリンダのキャリア初のライヴ盤となるこれの唯一の瑕疵は、最後の曲「デスペラード」を歌い終えて、「おやすみなさい」と言って音がフェイド・アウトしたのに、そのままにしているとしばらくしてもう一回音が出て、バンド・メン紹介が流れることだ。ここは「デスペラード」より前のパートだったのでは?このしんみりとしたイーグルズ・ナンバーを歌ったリンダの声でおやすみって言われて、そのままアルバムも終われば100%文句なしだった。


しかしこれはけなしているのではない。逆だ。このたった一点を除き、リンダの『ライヴ・イン・ハリウッド』はあらゆる意味で完璧なんだ。1970年代アメリカン・ポップス/ロックのもっとも良質な部分をある意味体現していたと言える70年代後半〜末ごろのリンダ。だから80年の、しかも西海岸ハリウッドでのライヴとなれば、中身は保障されたも同然だけど、実際『ライヴ・イン・ハリウッド』は折り紙つきの上質さ。収録の12曲は、その夜80年4月24日のオリジナル・コンサートから、リンダ自身がお気に入りを選んだらしい。


附属解説文によれば、この『ライヴ・イン・ハリウッド』はブートレグ対策として公式リリースされたという面もあったようだ。しかもそのブートレグは DVD だとのことで、ってことは映像もオフィシャルに記録されているだろうと思うんだよね。テレビ番組用の収録だったようだしさ。今回 CD でのリリースだけど、あの、1980年の、チャーミングなことこの上なかったリンダの姿をもう一回観たいもんだと思う。歌はもちろん言うことなしだから。


『ライヴ・イン・ハリウッド』のバック・バンドは、三人のギタリストを含む八人。たぶんこのテレビ・ライヴ収録用の臨時編成なんだろう。ダニー・コーチマー、ラス・カンクル、ビリー・ペイン、ダン・ダグモア、ボブ・グローブなど、西海岸の腕利きメンツが揃っている。リンダのプロデューサーだったピーター・アッシャーもいる。演奏もこなれたもので、必ずしもリンダの伴奏をしたことがなかったひともいると思うんだけど、立派な出来だ。


西海岸のといえば、『ライヴ・イン・ハリウッド』にはリトル・フィートの曲もある。ビル・ペインの演奏面での参加と関係あるようなないような、要は西海岸勢としての一体感ってことだろうね、イーグルズの「デスペラード」を幕閉めみたいにしてやっていると上で書いたけど、フィートのほうはロウエル・ジョージの「ウィリン」を歌っている。


イーグルズとかリトル・フィートなどとリンダの関係はいまさら言うことはないほど有名だから省略。歌唱の出来をいうと、「ウィリン」のほうはロウエルと比較できない。あんなロウエルしゃべりがあってこその曲だからむずかしいよね、ふつうに歌ってもサマになんないもんねえ。でも伴奏陣はかなりいい内容を展開していると思うよ。


「デスペラード」でのリンダは極上だ。ビリー・ペインのアクースティック・ピアノだけを伴奏にして淡々と、実にしんみりとこんな歌詞を綴っている。沁みるなあ。声を強く出し張るところもあるけれど、全体的にはイーグルズ・ヴァージョン同様の落ち着いたフィーリングでしゃべりかけてくれる。そこには、ひとり者の心境にそっと寄り添う真のやさしさみたいなものだって感じられるもんね。いいなあ、このリンダの「デスペラード」。あぁ、くどいけれども、これでアルバムが終わっていれば…。


『ライヴ・イン・ハリウッド』の目玉は、しかしもっとリズムの効いたロック系ポップ・ナンバーで、しかもそこにはあきらかな、あるいはそこはかとなき、メキシコ/カリブ/ラテン風香がまぶされていて、ぼくなんかはニンマリ。そりゃあねえ、ご存知のとおり西海岸にはヒスパニック系も多いですからね。だいたいサン・フランシスコだってロス・アンジェルスだって、スペイン語の地名だから。


いちばんはっきりしているのが5曲目、ロイ・オービスンの「ブルー・バイユー」で、これはもうラテン・ナンバーと呼んでさしつかえないほどのできばえ。いやあ、すばらしい。伴奏陣もいいんだが、リンダのよく通りわたる澄んだヴォーカルになんたってため息が出る。終盤部、スペイン語で歌うパートが特にいい。エンディングで「アズ〜ル」の「ル」で声を裏返しファルセットになる瞬間のキラキラ!


2曲目「イッツ・ソー・イージー」でもリズム・シンコペイションがいいし、4曲目「ジャスト・ワン・ルック」でもだれなのかエレキ・ギターで引っ掻くようなコード・ワークを聴かせてくれているのが効果大。そのカッティングにはあきらかなラテン・ビートの痕跡があるよね。跳ねるリズムだしね。いや、跳ねているのはアルバムのほぼ全曲そうなんだけど。


リンダにとってブレイクスルーだった大ヒット、9曲目「ユア・ノー・グッド」では、オリジナルにないジャム・パートをはさんでの約六分間。ジャムはギター二名のソロ・バトル。この日のライヴ、クレジットでは三人のギタリストがいるし、スタイルを聴解する力がぼくにはないので、どなたかお願いします。ジャム・パートはライヴならではのおまけだけど、あらためていい曲だよねえと実感。

2019/03/26

奇特なぼくら

 


Fullsizeoutput_1dc1ときどき忘れて勘違いしそうになるけれど、音楽にかんしてぼくはマイノリティのなかのマイノリティなのだ。音楽を好むという人間はどっちかというと多数派だと思うけれど、たいていみんな自国の歌を聴いている。それもポップ・ソング、つまり(日本だと)歌謡曲とか演歌その他であって、ましてや外国の音楽、それもそのなかでも特に人気のない分野を選り好みして進んで聴くというような人間は、超少数派。


洋楽でもロックとかジャズは人気のあるほうに入ると思うし、有名歌手や音楽家は知名度だってあるだろう。ブラジルのサンバとかボサ・ノーヴァとかもわりと知られているのかな。でもたとえばそのブラジルのなかでもショーロとかってなると、好きでどんどん漁って聴いているという人間なんて、まずいないんだ。ぜんぜんいないかも?と思ったほうがいいんじゃないか。


ここらあたりはぼくがときどき誤解しそうになることで、ショーロについて熱心に語った文章をブログに上げて、そのお知らせを Twitter に書くとすこしだけ好反応があったりするんだけど、よくよく見てみたらそれはみんなエル・スールとなんらかの関係を持つひとたちだけで、彼らもやっぱりみんな奇特な部類なんだよね(笑)。世間一般の嗜好とは、ぼくたちみんな、かけ離れているんだぞ。ショーロなんて、そんな音楽があるということすら知られていないと思う、一般的には。


洋楽でもアメリカ音楽やブラジル音楽はわりと知名度のあるほうで、しかしそのなかでもたとえばジャンプ・ミュージックやジャイヴや、上で書いたショーロとかなんかはまったくもって人気がないどころか知られてもいない。だからましてやアメリカやブラジル以外の国や地域の音楽なんて、そもそもそんなもんがあるのか?くらいに思われているかもねえ。


困ったことにヾ(๑╹◡╹)ノ、エル・スールというお店はそういった「そんなもんがあるのか?」という音楽の CD ばかり売っていて、ここに集結するリアルでもネット通販でもお客さんは、ぼくを含め、そういうのこそが好きなのだ。ぼく個人はなんだかんだいってアメリカ合衆国産の音楽が結局いちばん好きだけど、みなさんはそうでもないみたいだしなあ。ソ〜ト〜珍しい部類の音楽好きに入っちゃうんだぞ〜。


ぼくたち、常にマイノリティ。だから虐げられているなんてことはなく、そんな感覚も事実もなく、ただたんに好きな音楽を心ゆくまで存分に楽しめれば、それでだれにも災いをもたらさなければ、なんの問題もない。自分の趣味や考えを、ほかの音楽愛好家に強要したりすることなく、ただ個人個人がおのおの好きなものをひたすら楽しんで、ひとによってはおおやけに文章を書いたりして、それも趣味の範囲なんだから、どなたとも関係なしだ。


音楽愛好の世界で、自分たちが中心にいるだとか、みんなを引っ張っているだとか、そんなことをいっさい考えず意識もせず、ただ偏屈で珍妙なマイノリティ趣味のままどんどんひとりで進みたい。間違ってもぼく(たち)は音楽リスナーの王道表通りを歩んでいるだとか、勘違いしないことだ。マイナーな人気のない音楽をひっそりと楽しんで、結果、文章を書いては公開しているけれど、あくまでだれにも理解・共感されない日陰者だ。

2019/03/25

これまた2010年代のアマジーグ・フォロワーだ 〜 フリークレイン

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これはフリークレインっていうほうがバンド名で、『ノマド』は作品名か。な〜んも知りませんがゆえ、いまようやく把握いたしましたこの2017年のアルジェリア盤 CD。しか〜し、中身の音楽はそんなに知らないものじゃないぞ。端的に言えば、これまた21世紀に蘇りし1998年のグナーワ・ディフュジオンというか現代版アマジーグ・カテブにほかならない。人気だなあ、アマジーグ。


昨年もこのブログで書いた、なんだっけなアルジェリア出身のバンドが、もろグナーワ・ディフュジオンだったけれど、っていうかこのバンドはアマジーグのワン・マン体制なのでアマジーグの影響ということか、どうもこの2010年代に入ってそれが若い世代のアルジェリアのバンドに顕著に出てきているような気がする。シーンを把握するのが苦手な性格なのでわかりませんが、なにかこう、現代版アマジーグとでもいうような傾向が見えるような見えないような…。


2010年代のアマジーグがいまのアルジェリアのバンドに見えるというのは、このフリークレインの『ノマド』にしてもそうなんだけど、ライ(はアマジーグにはないのだが)と、それからシャアビを根底に置きながら、音楽の方法論としてはレゲエやロックやラガマフィンなどをまとうという、そういったサウンド・メイクのありように最も顕著にあることなのだ。アマジーグ・フォロワーのぜんぶのバンドがこの方向性を取っている。


フリークレインのばあいは、それプラス、リード・ヴォーカリストの歌いかたにもアマジーグ唱法の直接の痕跡がはっきりと聴ける。声の出しかた、張りかた、ワン・フレーズの終わりで「アァ〜〜」と声をサステインさせるときのその声のトーンなんかもそっくりじゃないかな。ちょっと揺らぎながら哀しみを込めて、しかし強く訴えかけるように濃いヴォイスで伸ばすところ。同じだ。


『ノマド』にはレゲエもはっきりと(直接的、間接的に)聴けるし、またそれ以外の曲の多くはビートがロックのそれだなと聴こえたり、しかしグナーワ・ディフジオンと違ってストレートなシャアビなんかは聴けない。徹底的にポップ・ビートの衣をまとわせているのが今様なのかな。エレキ・ギターの単音弾きはここでもやっぱりカルロス・サンタナっぽい。って、サンタナの影響拡散力もこれまたすごいものがあるなあ。


だいたいフリークレインの『ノマド』には「Amazighia」なんて曲題のものがあるくらいで、その1曲目なんか聴いたら、な〜んだグナーワ・ディフュジオンのコピー・バンドじゃん、って感じちゃうくらいクリソツなんだけど、2曲目以後ラストまではそれなりのこのバンドらしい個性もうかがえて、微笑むところ。なかなか完成度も高いし、楽しめる一枚です。

2019/03/24

超爽快なバンドリン・ジャズ 〜 カラピッショ・ランジェル

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この作品、bunboni さんに教えていただきました。感謝します。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-19


いやあ、カッコイイなあこのブラジリアン・ジャズ。そう、ジャズに違いない作品だ。主役は(ジャズというよりショーロで頻用される)バンドリンだけど、こういったジャズこそ、現在進行形のもののなかでは、いまのぼくにとって理想形のひとつ。も〜う、カッコイイのひとことに尽きるほど爽快にカッコイイぞ。まるでイケメンが颯爽と疾走するかのごとき風景を感じるサウンドだ。おかしいですか、この表現?


このアルバムでの主役バンドリン奏者はカラピッショ・ランジェル(Carrapicho Rangel)。アルバム名は『Na Estrada Da Luz』(2018)で、編成はバンドリン、ピアノ、ベース、ドラムスのカルテット。まず、いちばんグッと来るのがアルバム・ラスト8曲目の「Brisa」(作はパウロ・アルメイダ)。こ〜れが!もう!特にリズムのキメが爽快のひとことに尽きる!カッコイイなんてもんじゃない。ピアノ+ベース+ドラムスの三人がビシバシ決めまくるんだけど、いやあ、すんごくいいぞ!


曲「Brisa」では出だしからそのキメが入るので、みなさんすぐにおわかりいただけるはず。キメが演奏されたまま、そのまま上にカラピッショのバンドリンが乗っていく。それもうまくて舌を巻くような技巧だけど、決してメカニカルに無機的ではない。ぬくもり、あたたかさ、リリカルさを感じられる弾きかたなのがいいね。しょんべんチビリそうなほど超絶クールなキメの上をバンドリンが走るさまは爽快。快感だね。キメたまま曲じたいが終わる。いやあ〜、たまりませんね。


「Brisa」の前の7曲目「Partindo Pro Alto」だって同様のカッコいいキメが(ここではピアノとドラムスのデュオで)ビシバシ入るし、だいたいこのカラピッショのアルバム『Na Estrada Da Luz』は全体的にとてもよくアレンジされ練りこまれている。合奏パートが多く、その合間を縫うように入るソロは必要最小限で曲全体を壊さないように、というのが考え抜かれているんだよね。


それでここまでカタルシスがあって、しかもアルバム全体がたったの37分間で、しかもそれで食い足りない感じなんて全然なくって大満足っていう、こうなるとアメリカ合衆国の1960年代ジャズなんて、いったいなんだったんでしょうか?と言いたくなってしまうが、音楽の種類が違うんだから比較は無意味ですね。いまの即興系なんかも、ちょっとその…(モゴモゴ)。


カラピッショの『Na Estrada Da Luz』。ここまで乾いてクールなキメというかアレンジをやりまくるのに、ぬくもった情感があって、それはあたかもショラール感覚と言ってもいいようなものなんだけど、それは主役がバンドリンを弾いているせいなのか、あるいはそういった持ち味の音楽家でそういった音楽なのか。ちょっと2010年代後半の新世代ブラジリアン・ジャズって、おそろしいほど上質だ。

2019/03/23

渋谷で5時

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1991年に渋谷にメイン・キャンパスがある大学に就職したけれど、その前は東急東横線の都立大学へ通っていたから結局やっぱり渋谷駅がターミナル。そんなわけで1984年の上京時から2011年に愛媛に帰ってくるまで、ずっと渋谷がぼくのホーム・グラウンドだった。レコードや CD も、渋谷でいちばんたくさん買った。だから渋谷にあったレコード、CD ショップには、ほぼ入りびたり状態だったなあ。


いまでこそワールド・ミュージック・ショップ、エル・スールでめっちゃたくさん買っているが、このお店はぼくの東京時代、宮益坂にあった。現在は公園通りの NHK ホールへと向かう道中にある。しかし東京時代にそんなにたくさん通ったわけじゃなかった。ぼくが上京したころ、まだなかったように思うんだけど、間違っていたらゴメンナサイ。


タワー・レコード渋谷店も1984年にあったかどうか、記憶が定かでない。あったかなと思うんだけど、ぼくが憶えているのは宇田川町のジーンズ・ショップの二階にあったタワレコ渋谷店。80年代なかごろ?か後半からか?そこに通いはじめ、輸入盤のレコードや CD を、それこそ山のように買いまくった。都立大学から渋谷まで帰ってきて買って、自宅へ向かう山手線に乗る前に荷物を抱えて、という感じだったなあ。


アナログ→ CD の移行もタワレコ渋谷店で体験した。以前も書いたが、ぼくがはじめて買った CD はマイルズ・デイヴィスの『オーラ』で、当時これが CD しか店頭に並ばなかったためだ。まずそのソフトを買って、すぐにプレイヤーを買った。マイルズの『オーラ』CD をタワレコ渋谷店で買ったんだよね。でも当初、レコードはないのか?!と店内をさがしまわり、店員さんにも聞いたんだよ。


渋谷にメイン・キャンパスがある大学に就職してからは、サムズが最頻店となった。大きな歩道橋を渡った渋谷警察署の裏のビル二階にあった時代の話だ。渋谷駅を降りて大学まで歩いていくちょうどその道中にあったのでそれで発見し、通うようになった。ここはアメリカ黒人音楽の専門店。そりゃあも〜う、買ったなあ、サムズで。現在持っている CD の総量でいえば、サムズで買ったものがかなりの割合を占めるはず。


サムズには毎日(のように、ではなく文字どおり毎日)行っていた。小さなお店だし、そんなに行っていたらもちろん顔と名前を憶えられてしまう。好きな黒人音楽の趣味も把握されてしまい、ある時期以後は店内で物色しているとお店のかたから「戸嶋さん、こんなの出ましたけど、どうですか?」などとオススメされることも増えたのだった。その多くがブルーズ。1990年代はブルーズ・ブームだったしね。いやあ、サムズではとにかく買った。移転してからは行きにくくなってしまい残念。いまはもうない。


それからいままでもぼくの文章でしばしば名前を出しているが、渋谷東急プラザ(も、いまはもうないんだっけ?)内にある新星堂でもたくさん買ったなあ。ここでは CD しか買わなかった。仕事のとき、ぼくは常に早めに渋谷駅に到着してしまう習慣があったので、まだ大学まで歩いていく時間じゃないなと思ったとき、井の頭線のホームから近いので東急プラザによく立ち寄ってブラブラしていたんだ。紀伊国屋書店も入っていたので、そこもよくぶらついていたよ。


ディスクユニオン各店だって渋谷にもあるし、HMV も Wave もあったし、なんというか渋谷は(いまはどうだか知らないが)レコード、CD ショップがひしめく激戦区みたいな印象が1980年代後半〜90年代いっぱい、つまり20世紀末にはあったと記憶しているんだけど、違うかなあ。もうホント、時間がいくらあっても足りないんだよね、そんなに音楽ショップがあったら、その街をぶらつくのにさ。半日くらいはあっという間に過ぎてしまう。


そんな街だからなのか関係ないのか、1995年に参加してサーヴィス終了まで夢中でやっていたパソコン通信 Nifty-Serve の音楽部屋のオフ会は、どれも必ず渋谷で行われていた。レコード/CD ショップがたくさんあるのでみんなでグルグルまわり、食事をするお店にも困らないし、最後は老舗ロック喫茶の BYG(道玄坂)でゆっくりしながら、その日の収穫物をみんなが報告し、あとは雑談。楽しかったなあ。

2019/03/22

UK ブルーズ・ロック 9

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ブルーズはアメリカ産のものなのに、ブルーズ・ロックとなると、むろんアメリカ人もやっているけれど、断然ブリティッシュ勢、それも1960年代発信のものがおもしろいし、すぐれているように見えるし、熱心でもあって、成果を残しているよね。ポール・バタフィールド、オールマン・ブラザーズなどアメリカにもいるが、イギリスだと、たとえばローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン、ヴァン・モリスン、などなど、嗚呼、瞬時にどんどん名前があがるじゃないか。いくらでもいる。やっぱりね、そうだよ。


そんなわけで、今日は個人的にお気に入りの UK ブルーズ・ロックのアルバム九枚を並べておくことにする。ベストテンじゃなく九枚なのは、ひとえに上掲画像のようにタイルしたかったから。それだけ。以下、2019年3月時点での個人的好み順に一位から並べておいた。上掲正方形画像も同じ順で左上から貼ってある。


1. Fleetwood Mac / Fleetwood Mac (1968)
2. The Rolling Stones / Exile On Main Street (1972)
3. Led Zeppelin / Led Zeppelin (1969)
4. Jeff Beck / Truth (1968)
5. Free / Free (1969)
6. Cream / Wheels of Fire (1968)
7. John Mayall & The Bluesbreakers With Eric Clapton (1966)
8. Them / The Angry Young Them (1965)
9. The Animals / The Animals (1964)


フリートウッド・マックは、例のアルバム以後大人気になったけれど、ブルーズ・ロック観点からはもちろんピーター・グリーン時代だ。同様にゼムもやっぱりヴァン・モリスン時代がいいってことになるよね。アニマルズも似たような傾向があると思うので、これら三者、そういった時期のそういったアルバムでいちばん好きなものを選んでおいた。


エリック・クラプトン関連が二作となったのはあれだけど、でも当然という気もする。1960年代の英国で、ブルーズ・ベースの(ロックのような)音楽をやっていたなかで、いちばん輝いていたのはやはりクラプトンに違いないから。クリームにかんしてはもっと違うアルバムがよかったような気がしないでもないが、『ウィールズ・オヴ・ファイア』がぼくは好き。それだけ。ジョン・メイオール関連はもちろんこれだ。ひょっとしてブルーズをやるクラプトンの生涯ナンバー・ワン?


レッド・ツェッペリンとジェフ・ベック・グループのブルーズ・ロックはファーストと『トゥルース』で決まりだと、たぶんみなさんも思うんじゃないかな。フリーについてのぼくの選出はイマイチかも。でもこれも(ジャケット含め)好みの問題だから、しょ〜がないよ。


ローリング・ストーンズのブルーズ・ロックというと1960年代ものをみなさんあげるんじゃないかと思う。異論はないんだけど、個人的見解としては、1972年の『エクサイル・オン・メイン・ストリート』こそ、最高に消化・昇華されたブルーズ・ロック、でもない、もはやこれはブルーズそのものの味わいだと言いたくなるほど。それほどぼくは好きだし高く評価している。UK ロック勢が生み出したさまざまな作品のなかで、いや、別のいろんな意味でも、ロック界最高傑作じゃないかな。

2019/03/21

大編成オーケストラの時代

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クラシック音楽の大規模管弦楽とか、ジャズのビッグ・バンドとかは、なんたって生演奏現場の隅々にまで音を届けなくちゃいけないからあんな大人数編成になっていたというのが、誕生当時のまずもって最大の理由。少人数編成での生音では大きな会場の隅々にまで音楽が行き渡らない。電気拡散技術、すなわち PA(Public Address)なんかまだなかった時代の話。


ってことは、PA なしでも、聴衆規模が小さい時代やばあいには、あんな大編成は不要だと考えることも可能。実際、クラシック音楽のシンフォニーなんかでも、モーツァルトが生きていた時代あたりだと、聴衆のいる場所がまださほどの大きさじゃなくて、だからいわゆる古楽っていうんですか、楽器もあの時代のものを再現したものを用い、演奏するオーケストラの規模も抑えてわりと小さめの編成で再現した交響曲のレコードなんかがあるよね。大学生のころ、そんなモーツァルトのエインシャント・シンフォニーが新鮮でときどき聴いていた。


裏返せば、聴衆規模の、すなわちコンサート・ホールの大規模化は、19世紀の一般市民社会の誕生と軌を一にしていた。19世紀には、ほかにもオリンピックの復活現代化や、万国博覧会、百科事典、デパートメント・ストアの誕生など、似たようなことだったかなと思える事象が発生している。網羅的に大規模化し、それが一般大衆に行き渡ることを最大の目的とするといったことがらがね。


ジャズのビッグ・バンドも、こっちはまずもってアメリカ国内でダンスの伴奏をするのが第一目的で、誕生が、クラシック音楽でいう大編成シンフォニーの時代よりすこしあとだったのでとうぜん会場規模は大きい。もちろんニュー・オーリンズで誕生したころのジャズはそんなことなかったのだけど、シカゴ、ニュー・ヨーク、カンザス・シティなどのダンス・ホール、ボール・ルームなどでやるようになってからはビッグ・バンドじゃないと音量不足だったことは明白だ。


ダンスの伴奏音楽としてのジャズ音楽が会場で踊る客みんなに聴こえないといけないわけだから、コンボ編成ジャズ・バンドの、まあドラムスやピアノなんかはもとから音がデカいのでそのままでいいが、管楽器は同じものの人員を三人とか四人とかに増幅し、音量増大を図ったんだね。むろん、クラシックの管楽、すなわちブラス・バンドや、ひいてはマーチやポルカのバンドなども参照したに違いない。


古典的クラシック音楽(ミョ〜な言いかただけど)のコンサートではあくまでアクースティック・サウンドを届けることになっているのでいまでもそうだけど、ポピュラー音楽ではある時期以後マイクで拾った音を電気で拡大して大きなスピーカーで鳴らし、それでパブリック・アドレス目的は果たされることとなった。だから少人数編成だろうが、アクースティック・ギター弾き語りだろうが、そのまま野球場でもライヴ・コンサートを開催できる。


で、実際そういうことになっているけれども、ポップスやジャズやラテン音楽などのビッグ・バンドはやっぱり途絶えない。音量増幅というだけなら意味はなくなったわけだからそこじゃなく、なにか大規模編成、特に大人数管楽器同時演奏になんらかの魅力があって、それはコンボ演奏では実現できないものだからみんな聴くということになっているんだよね、きっと。


純音楽的内容から離れるような離れないようなわからないが、ビッグ・バンドは一種の祝祭、ハレの空間&時間&サウンドであるということもあるんじゃないかと思う。いまぼくは、たとえば渋さ知らズのような集団を念頭に置いているのだが、生でもなんどか観聴きしたこのビッグ・バンドは、CD で聴いてもわかる非日常性を実現している。コンボ編成ではちょっと実現不可能なような、まあ有り体に言えばニギヤカシだよね。それが(音だけ CD で聴いても)チョ〜楽しい。


そのほか、ビッグ・バンドだと、複数管楽器のトゥッティがもたらす分厚いハーモニーやユニゾンが、ある種のウネリを生んでいると言える。一糸乱れずクラシック音楽みたいに整然と演奏されるのとは若干異なる重なり合いが濁りみとなり、聴き手に快楽をもたらす、そんなことがあるんじゃないかな。


ここ10年くらいかな、大規模なジャズ・バンドが復権しつつあって、それにはラージ・アンサンブルというニュー・タームが使われているが、ビッグ・バンドと言わないのにはなにか明白な理由があるに違いない。いまでも銘柄として現役活動している古典的名門ビッグ・バンドと区別したいというだけじゃない、なにか音楽的な違いがさ、あるんだろうね。評価と人気が高いらしいマリア・シュナイダーとか挾間美帆なんかも不精してまだちっとも聴いていないが、もちろんきっとそのうち聴きますよ。渋さ知らズみたいなのが好きなぼくだけどね( ͡° ͜ʖ ͡°)。

2019/03/20

マイルズの電化トランペット時代はマチスモ志向

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それから今日書きたいテーマ向きの端的ないい写真が見つからなかった。ずいぶん前、紙媒体の雑誌かなにかで、マイルズ・デイヴィスの持つトランペットからケーブルが出ているのを直接とらえた写真をいくつか見ていた記憶があるんだけど、画像検索しても出てこない。


現在までに公式発売されている全音源でたどるかぎり、マイルズがはじめて電気トランペットを吹いたのは、1970年6月3日録音の「リトル・ハイ・ピープル」でのこと。現在ふたつのテイクが公式発売されているが、テイク7、テイク8との表記なので、アーリー・テイクがあるんじゃなかろうか。どんな様子だったのか、知りたいもんだ。ともあれ「リトル・ハイ・ピープル」は『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』(2003)で聴ける。それまで完全未発表だった。


マイルズに電気トランペットを提案したのはチック・コリアだったとのことなんだけど、実際、「リトル・ハイ・ピープル」のセッションに参加している。がしかしアイデアはもっと前にチックが持ちかけていたものなんだろう。それでおもしろいとボスも思ったのか思わなかったのか、しかしその後すぐには電気トランペットを吹かなかった。


本格的に電気トランペットを吹くようになったのは、公式発売音源だと1970年12月のセラー・ドア・ライヴから。その後翌71年もライヴで吹き続け、この年はスタジオ入りがなぜだかまったくないのだが、72年にスタジオ・セッションを再開したらもう全面的に電気トランペットしか吹かないという具合になって、そのまま75年夏の引退まで続け、81年に復帰したらやめていた。


だからほんの五年間だけのマイルズの電気トランペット時代だけど、その前後と比較して、やはりトランペットの音もトータルでの音楽性も、かなり異なっていたように思うんだよね。ひとことにすれば、マチスモ・ファンク時代。リズムが強靭になり、サウンドも激しく電気増幅されてハードになり、だから最大の上物である自身のトランペットの音も強化すべしと考えたかもしれないよね。


以前から書くように、ジャズ・トランペットにはそもそもマチスモ的なイメージがつきまとう。それを変えたのがほかならぬマイルズだった。音量も音色も小さくか細く、まるで女性的(女性のみなさん、ごめんなさい)。およそ猛々しくないやさしくソフトなサウンドでしか吹けないのがマイルズで、かのチャーリー・パーカーだってそんなマイルズの特徴がちょうど自分のアルト・サウンドといいコントラストになると踏んでバンド・レギュラーに起用したのだろう。


自身のバンドを結成してからも、マイルズはただでさえ音量の小さいソフト・サウンドである自身のトランペットに、さらに弱音器まで付けてもう一段小さく細くしてしまうというやりかたでトレード・マークとしたくらいなのだ。そんなハーマン・ミュートでのプレイで必要最小限の音数しか使わず、繊細にていねいに、薄〜っいガラス製品を扱うがごとき演奏で評判をとり、人気も定着した。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0e78.html


1970年暮れから五年間の電気トランペット時代は、そういった方向性とはまるで真逆だよね。猛々しく荒々しい音色だし、しかもその時代、マイルズはかなり音数多めに吹きまくっている。女性的な繊細さとはほど遠いマチスモ・イメージがあって、しかも1981年にカム・バックして以後は、またふたたび従来のソフト路線に回帰したかのようだったので、70〜75年のあいだだけの特異現象だったかもしれないんだなあ。


マイルズの電気トランペット時代は、ジャズ・トランペットというものの本来的特色を再獲得し回帰しただけだったと言うこともできようが、マイルズの音楽キャリア全体を見ればちょっとそれも違うような気がする。あの1970年代のロック/ファンク時代に合うように自身の楽器の音もチューンナップしていたと、それも一時的なものだったと見るのがふさわしいんじゃないだろうか。


あんなハードな電化ファンクへと変貌していたマイルズ・ミュージックだから、自身のか弱いトランペットの音(しかこのひとは生では出せない)ではそぐわない、バンド・サウンドのなかに埋もれて消えてしまう、なんとかしなくちゃ!と考えて採用したのが、トランペットにピックアップ・マイクをつけ、ケーブルでアンプに接続し電気増幅するという手段だったんだろう。必然的に音色も、吹奏全体も、バンド・サウンドも、デリケートさよりワイルドさのほうが勝るようになる。


1970年代マイルズのファンク志向と一体化していた電気トランペットの吹奏は、このひとにしては珍しいマチスモ志向だったのだと見ることができるかも。


2019/03/19

トランプ時代のアメリカ音楽 〜 メイヴィスの『ライヴ・イン・ロンドン』

ロンドンのユニオン・チャペルで2018年7月に録音されたメイヴィス・ステイプルズの『ライヴ・イン・ロンドン』(2019)は、完璧にオールド・ファッションドな音楽だ。1曲目「ラヴ・アンド・トラスト」出だしのブルージーなエレキ・ギターを聴いただけで、まるで50年くらい時代をさかのぼったような気分になる。メイヴィスは80歳ほどなわけだし、ちょうどいちばん元気があったころのそんな音楽をいまに再現していると言えるかも。

元気があったころと書いたけれど、でも『ライヴ・イン・ロンドン』でのメイヴィスも相当元気だよ。そして、実際、いま2018〜19年も、ちょうど50年前くらいと似たような時代状況になってきているのじゃないだろうか。メイヴィスの音楽が、変わっていないのに老いず衰えず(と聴こえる)訴求力を放っているようなのは、きっとそのせいに違いないと思える。おそらくこの歌手はこのことに自覚的だ。だからこんなライヴ・アルバムをリリースしたのだろう。

とりあげているレパートリーも、トラックリストで曲名をざっと一瞥しただけで想像できそうな、まったくそのとおりの内容の歌が続いている。いま、2018/19年ごろに、アメリカ(だけでなく世界)で失われようとしているかのように見えるものを取り戻さんとでもいうべきメッセージというかアピールだよね。しかも、社会的、政治的であると同時にきわめてパーソナルな日常の現実にも密着している。

そんな内容を綴るメイヴィスの歌声に変わらぬ力強さがあって、失礼ながらとうていこの年齢の歌手とは思えぬ張りと艶を感じる。いま2019年にこの年齢の歌手のなかでは、世界で最もしっかり歌える存在じゃないだろうか。まぁあれだ、愛と信頼とか、あなたは決してひとりじゃないのよとか、そんな内容はちょっといまのぼくは信じられない気分もあるんだけど、メイヴィスにこうやって歌われると違ったフィーリングにもなってこようというもの。

しかも『ライヴ・イン・ロンドン』は伴奏がシンプルだ。ギター&ベース&ドラムスの三人だけでオーヴァー・ダブもなし。あと、バック・コーラスが二名いて、本当にたったこれだけ。この、いわばスカスカに空間のあいたサウンドが、かえって主役歌手のヴォーカルの存在感、ナマナマしさをきわだたせる結果となっているから大成功だ。飾り付けない音楽で、メイヴィスが歌い伝えたい内容がダイレクトに響いてくる。そんな気がする。

昨2018年にはライ・クーダーの『ザ・プローディガル・サン』があったけれど、メイヴィスの『ライヴ・イン・ロンドン』といい、いまのこの時代の、しかもアメリカ合衆国人じゃないと産み出しえない音楽作品じゃないかと思うんだよね。

2019/03/18

三天皇といっしょにツェッペリンのフィルム・コンサート(夢)

(BGM はこれで)

この夢を見てから時間が経過しているので内容を忘れている部分もあり、すこしあやふやだけど、憶えていることと、それからしょせんは夢なんだからもう一回想像力を働かせて盛ってふくらませて、記しておこう。今朝の夢のなかでぼくは、昭和、平成、次代の三天皇の居並ぶ同席で、クラスメイトといっしょに、レッド・ツェッペリンのライヴを収録したフィルム・コンサートを見た。

だから、やっぱり夢だよねえ。いまの皇太子が平成の次の天皇になるその元号は決まっていないし、昭和天皇はこの世にいない。それに天皇家がレッド・ツェッペリンのような音楽を聴くかどうかもわからない。マスコミ報道などではクラシック音楽の楽器演奏をおやりのかたもいらっしゃると見るけれど、だからハード・ロックの、それも生演奏ライヴじゃなくてフィルム・コンサートなんかにいらっしゃるとは思えない。

まあでも英国王室で、ずっと以前、どなただったかがアメリカのジャズに夢中で…、云々みたいな話を読んだこともあるし、世界の王族・皇族がたのなかで、ポピュラー・ミュージックに興味を示されるばあいがあってもそんなに不思議じゃない気がするよね。それでも、日本の三天皇がレッド・ツェッペリンとはなあ。

ぼくがツェッペリンの大ファンであることは前からご存知のとおり。それから第二次世界大戦後の皇室に対し好意を抱いていることもたしかだ。特に平成天皇以後かな、共感するようになったのは。このツェッペリン好き&皇室好きのダブルであいまって、夢のなかでそんなことになったんだろうか。う〜ん、わからない。とにかくそのときは高校のクラスでフィルム・コンサートを見るという会で、それに三天皇が同席された。

あらんことか、ぼくはそのコンサート終了後、平成天皇とことばも交わしたのだった。その内容はぜんぶ忘れたが、たぶんツェッペリンの音楽についてどうお聴きになりましたか?みたいなことをしゃべったんだという気がする。日常のご公務にかんしてもなにか話したかもしれない。う〜ん、忘れちゃった。

それでそのツェッペリンのフィルム・コンサートは、(愛媛県松山市の)高校のクラスで見るものだったにもかかわらず、サハラかどこか、とにかく砂漠のなかに会場が設営されてあって、スクリーンがあって、席は急ごしらえのパイプ椅子を並べただけだった。不思議なことに、コンサート終了後に平成天皇とことばを交わした際、はしごのようなものを降りてきつつだったように憶えているので、ってことは会場は階上だった?う〜ん、わからない。とにかくふつうにしゃべっただけでなく、はしごか階段を下りてきながら会話した。

フィルム・コンサートで観たツェッペリンのライヴじたいは、たぶん例の『永遠の詩』(The Song Remains The Same) ではなかった。あれは実際に映画として上演されたもので、ぼくも松山市の映画館で観た、高三のときに。まさにフィルム・コンサート然としていたが、あの映画にはマディスン・スクウェア・ガーデンでのライヴ演奏シーンだけでなく、さまざまにフィクショナルなシーンが挿入されているので、ライヴ体験というのともちょっと違う面がある。

その意味では、21世紀になってから公式発売された『DVD』(か『VHS』)はコンサートの模様だけを収録したものだから、あれをスクリーンに投影すればツェッペリンのフィルム・コンサートみたいな感じにはなるなあ。いちばん上でリンクを貼った CD 三枚組ライヴ・アルバム『ハウ・ザ・ウェスト・ワズ・ウォン』は、『DVD』と同時期に姉妹商品のようにして発売されたものだった。

いまでも鮮明に憶えているのは、その三天皇同席のフィルム・コンサートでは、ラスト・ナンバーが「ロックンロール」だった。これは間違いない。だってね、曲の最終盤のストップ・タイムを使ったア・カペラ部 "lonely, lonely, lonely, lonley time!" を、うれしくなったぼくは同時に叫ぶように歌ったんだもん。でもって、そこの lonely と time のあいだの間合いは、四枚目のスタジオ・アルバムにあるオリジナル・ヴァージョンと同じで、間合いをかなり空けることもある各種ライヴ・ヴァージョンのものではなかった。

2019/03/17

シームレス連続再生のために

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音楽狂いで、片時も音楽から離れられないというみなさん、どうなさっているでしょうか?ぼくを含むそういった音楽キチガイのばあい、音楽再生装置をどこにでも持ち歩く以外ないと思うんですけど、なかなかたいへんなばあいもありますよねえ。しかも音質だってあまり犠牲にしたくない。どうすれば、どこへ行っても変わらず音楽を聴き続けられるか、悩むところであります。

寝ているあいだと仕事のあいだを除けば、ぼくもず〜〜〜〜っと音楽を聴いているという人間だから、それなりに工夫をしないといけません。カセットテープを聴くウォークマンを大学生時分に買って以来、いろいろと音楽の携帯を試してきたんですけど、シームレス連続再生という観点もあわせ考えると、最近、ひとつの結論にたどりつきつつあるのかもしれないです。

それは Spotify(でなくともいいんですけど)でストリーミング再生し、しかも出力は Bluetooth 機器を用いるという方法です。この Bluetooth 機器を用いるという点が肝心で、ぼくは現在のところその手の音楽出力装置を(常用しているものだけだと)三種類使い分けています。それをいちばん上の写真で示しました。二個までがスピーカーで、残り一個がイヤフォンです。ときどき使うといった程度なら、これら以外にもう三個、Bluetoothスピーカーやヘッドフォンも持っています。

どうして Bluetooth 機器であることが肝心かと言いますと、これがまさにシームレス連続再生を可能とするものだからです。たとえばですよ、長時間の(フィジカルだとボックス・セットに相当する)一個の音楽作品を、ずっと自室のスピーカーの前にすわって聴くのはなかなかたいへんです。事実上、不可能じゃないでしょうか。五時間とか八時間とか、ばあいによっては半日とかも再生時間がかかる音楽作品は、その長さのあいだに出かけたり、いろいろとするじゃないですか。

そんなとき、Bluetooth 機器で鳴らしていれば、たとえばスピーカーで聴いていて、別な Bluetooth スピーカーやヘッドフォンやイヤフォンの電源を入れるとですね、自動的にそっちへスウィッチしてくれ、そっちから音楽が流れてくるんですよ。オートで切り替わるんです。タイム・ギャップもありません。音楽がシームレスに流れつながります。これはぼくも最初、知らなかった仕様で、最近はたいへんありがたく活用しています。

音楽を聴いていて、途中で席を立ちたいとなったとき、というかそうならないなんてことはありませんよね、人間ですからトイレに行ったり、キッチンに立ったり、お仕事やお買いもので外出したり、などなど、さまざまな必要に迫られます。ふつうの(音楽狂ではない)人間なら、音楽を聴くのはそこでストップ、となるのでしょうね。ところがぼくはそれがイヤなんです。ず〜〜〜っと聴き続けていたいんです。有り体にいって、ぼくにとっての音楽とは空気、酸素だから、呼吸を止めるわけにはいかないんです。

だから、どこででも音楽をシームレス連続再生したいんです。上記のようなケースにくわえ、最近ぼくは毎夜のお風呂前に30分間のウォーキングを欠かさなくなりました。毎晩八時半ごろから歩くんですが、もちろんそれまで部屋でずっと音楽を聴いています。その聴いている音楽を途切れさせず、そのままウォーキングの BGM として持ち歩きたいんです。というか、現実にそうしています。シームレス連続再生で、途切れず、聴きながらそのまま外出し、そのまま聴き続け、帰宅したら、部屋の Bluetooth スピーカーの電源を入れたら、またそっちにシームレスに音楽再生が移動します。

ウォーキングから帰ったらすぐにお風呂に入りますので、今度は防水ポータブルの Bluetooth ミニ・スピーカーを使いますが、それの電源を入れたら、また自動的にそっちに再生が移動し、またシームレスでそのまま連続再生。お風呂で聴いて、出てからだを拭いて、部屋のスピーカーでまたそのまま連続再生…、てな具合で、部屋に座っていても立って移動しても、どこへ外出しようとも、ぼくのばあい、音楽を途切れずそのままシームレスで連続再生し聴いています。

だから、途中でなにかしてもしなくても、部屋にいても外出しても、長時間の(ボックス・セット相当の、あるいはどんどんたくさんのアルバムやプレイリストの)音楽をそのまま連続再生し続けて、最初から最後まで八時間でも十時間でも、聴けています。どんな長さの音楽でも次々とスウィッチしながら、どんどん聴くっていう具合です。

音楽狂で、いつでもどこででも音楽と肌身離れずくっついていたいというぼくみたいな人間にとっては、ホントこれ以外の方法はないと思うんですね。どこへ行くにも音楽をシームレス連続再生できるので、日常生活のどんなことも一層楽しくなりました。いつでもどこででも、音楽といっしょ。これが理想です。実現している理想です、ぼくのばあい。

なお、Bluetooth 出力装置さえ使えば、べつに Spotify(とかその他ストリーミング・サーヴィス)である必要はありません。スピーカーなりイヤフォンなりヘッドフォンをパソコンとペアリングすればいいだけですから、音楽ファイルがパソコン内にあれば、同じシームレス連続再生が実現できます。しかしですね、外出時に本体からあまり離れると Bluetooth の電波が入らなくなります。だから、現実的にはスマートフォンを持ち歩きながらストリーミング・サーヴィスを使いながらでやる以外ないと思うんですね。

どうです、音楽好きのみなさん?

2019/03/16

ドゥドゥ・タッサの『エル・ハジャール』で『ラテン・プレイボーイズ』を思い起こした

昨日、イスラエルのアラブ・ロッカー、ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』のことを書いたけど、これをまず一回目に聴いたとき最初に思ったのは、まるで『ラテン・プレイボーイズ』みたいだなということだった。アメリカ西海岸のチカーノ・ロック・バンド、ロス・ロボスの別働隊であるラテン・プレイボーイズの1994年第一作だ。実態はデイヴィッド・イダルゴ、ルイ・ペレス&ミッチェル・フルーム、チャド・ブレイクの四人。

『ラテン・プレイボーイズ』がどんなふうに創られた音楽なのかはさておいて、『エル・ハジャール』がそれに似ていると感じたのは、おおざっぱな聴感上の類似だけのことで、たとえばドラムス・サウンドとエレキ・ギター、エレベの音が、ミキシングを経てこんな感じに大きく聴こえて、なんだか強調されているなと思うっていう、そんなところが共通しているなと思っただけ。

『ラテン・プレイボーイズ』だと、たとえば1曲目の「Viva La Raza」なんかでも、イントロを経て本編に入ると、突然ドラム・セットとエレキ・ギターの音がかなり大きく強調されている。ドゥドゥ・タッサらの『エル・ハジャール』でも、たとえばナスリーン・カドリが歌う2曲目で、ヴォーカルに続き大きくそれらが聴こえるし、ドゥドゥみずから歌う3曲目なんかでもそうだ。このズンズン来るドラムスの音、それがいいなとぼくだったら思う。それは『ラテン・プレイボーイズ』でも同じだ。

「Viva La Raza」は、なんだか曲調もアラブ音楽ふうだと感じないでもないような…、そんな気がしないでもないような…、どうですか?そういえば、同じアルバムの5曲目「Manifold De Amour」ではコントラバスが使ってあるけれど、この曲もなんだか哀感調がアラブ歌謡ふう…、じゃなくてラテン音楽の切なさなんだけど、でもなんだかちょっとこれ、相通ずるものがありそうな…、そうでもないですか?

サウンドの全体的な触感も、ロー・ファイな技術を駆使した『ラテン・プレイボーイズ』と、特別そんなことはしていないだろう『エル・ハジャール』では似ていないはずなのに、なんだか共通する印象を持ってしまうのはぼくだけだろうか?ん〜、うまく言えないんだけど、どっちも音がザラついている。そんな触感がある。しかも隙間がよく空いている。そしてかなりナマナマしい肉体性を感じる。

ま、ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』で『ラテン・プレイボーイズ』を連想するのはぼくだけかもしれないけどね。音楽創りの姿勢や手法なんかは、まるで正反対のように思うし。

2019/03/15

こんなアラビック・ロックを待っていた! 〜 ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティス

な〜んだこりゃ〜あ!最高におもしろいじゃないか!今日はまだ2月25日だけど、2019年新作篇ベストテン第一位はこれで決まりだな。と断言したいほどすばらしい音楽作品であるドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの2019年作『エル・ハジャール』。最高だよ。ドゥドゥ・タッサがだれなのかちっとも知りもせず、エル・スールのホーム・ページで見かけたときなんらかの勘が働いたんだよなあ。我ながら見事だったと、いま聴き書きながらひとりごちている。

いや、ひとりごちなんてもったいない、イスラエルのドゥドゥ・タッサのこの『エル・ハジャール』は多くのかたにおもしろがっていただける内容をもったすぐれた音楽作品なのだ。イスラエルと読んで、ある種のステレオタイプが耳に浮かぶかたは、考えをあらためたほうがいいかも。これはアラブ音楽なのだ。厳密にはユダヤ人のやるイラク音楽で、それを現代ロックふうに再解釈したものなんだよね。

どうしてそんなことになっているのか、すこし説明しておいたほうがいいのだろうか。1930〜40年代のイラクで絶大なる人気を誇ったアラビア音楽のバンドがあった。名をサレハ&ダウド・アル・クウェイティ・ブラザーズという。サレハとダウドは兄弟で、ユダヤ人。ご存知のとおりユダヤとアラブは密接な関係にあって、音楽をはじめ文化的には不可分一体の関係だった。かつてのイラクでユダヤ人アラビア音楽家が活躍したのもむべなるかな。

イスラエル建国後の中東戦争を経て、イラクでもユダヤ人は迫害されるようになったので、サレハとダウドのクウェイティ・ブラザーズも家族とともにイスラエルに移住。のちの1977年にドゥドゥ・タッサが生まれることになるが、ダウドが直系の祖父なのだ。サレハが大叔父ということになる。先祖の偉大な音楽家の血脈を受け継ぐドゥドゥ・タッサは、ふだんイスラエルのロッカーとして音楽生活を送っているが、クウェイティ・ブラザーズの音楽を現代的に解釈・再現しようとしてやっているのがザ・クウェイティスなんだよね。

2019年作『エル・ハジャール』も、音楽的には完璧にアラブ音楽。収録の10曲すべてサレハ・アル・クウェイティの書いたもので、それをドゥドゥがピックアップして、現代ロック的な楽器編成と演奏で解釈しなおして、バンドで演奏し、みずから、またゲスト・シンガーを迎えて歌っている。コンピューターを用いたプログラミングも多用されているようだ。

アラブ音楽だけれども、曲そのものはクラシカルであるとはいえ、そこは現代ロックのフィルターを通してのものだから、アラブの芳香はやや弱くなっているかもしれない(と、数々のアラブ古典歌謡と比較してそう感じる)。しかし、たとえば打ち込みのドラムス・サウンドの強調や、エレベやエレキ・ギターの多用で、かえって哀感が色濃くにじみ出ているばあいもあるなと、アルバム『エル・ハジャール』を聴くとぼくだったら感じる。

特にゲストの女性歌手二名がそれぞれ歌う2曲目「トリ・ヤ・レイライ」(ナスリーン・カドリ)、4曲目「ヒルワ・ムラット・エル・ラヤリ」(レヘラ)には、抗うことなど不可能な強い艶と色香が漂っていて、まるで魔力のように聴き手を惹きつけてやまない。いやあ、すばらしい。女性歌手の声がいいっていうことなんだけど、ドゥドゥらによるバック・トラックも見事だと思うよ。

それら以外では多くの曲でドゥドゥみずからが歌っているが、立派なアラブの発声とコブシまわしじゃないかな。さらに、ここはたぶん多くのアラブ歌謡ファンと意見が異なるところなんだろうと思うんだけど、(打ち込みによる)ドラムス・サウンドの強さなどもいい効果になっているなと感じている。ヒップ・ホップ感覚の、特異なアラブ・ロックともいうべき容貌と化しているようじゃないか。大好きだ。特にたとえば3曲目「モシャブからやってきた娘」。

一般的には、たぶん7曲目「愛している」がハイライトということになるかもしれない。ここでフィーチャーされているヴォーカルは、なんとダウド・アル・クウェイティ。そう、ドゥドゥの祖父の声だ。古い、たぶんダウドのイラク時代に録音されたものを使っているんじゃないかな。それにくわえ、楽器伴奏を孫のドゥドゥらがやって最新のバック・トラックを創り、足して合体させたんだと思う。さすがに異様な妖気が漂っている。

2019/03/14

エンリッキのアゼヴェード再読に聴くショーロのアフロ性

これも2019年1月27日に渋谷エル・スール店内で見つけて買った一枚。エンリッキ・カゼスの『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』(RGE、1998)。もちろんヴァルジール・アゼヴェードの現代的再解釈を試みたアルバムで、エンリッキだからあたりまえ〜と言うのはあれだけど、やはりいつもながらレベルの高いショーロ作品となっている。

このエンリッキの『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』のテーマは、ずばりショーロのアフロ・ラテン特性を表現することにある。特にリズム面でその方向性がはっきりと出ているように思う。だから、しっとりゆるやかな(バラードふうの)楽曲である2「Pedacinho Do Cêu」、8「Mágoas De Cavaquinho」、9「Você, Carinho E Amor」などは、いかにもショラール(泣き)系ショーロで大好きなんだけれども、今日の話題からは外れる。またアルバム・ラスト14曲目のカヴァキーニョ独奏「Minhas Mãos, Meu Cavaquinho」はこの上ない美しさでため息が出るけれど、泣く泣く話題の外に置く。

アルバムがヴァルジール・アゼヴェード作品集ということで彼の曲をやっているわけだから、1「Delicado」、12「Brasileirinho」といった超有名曲もある。しかし今回このアルバムではちょっとふだんと違ったアプローチでエンリッキは取り組んでいて、それはたとえば「ブラジレイリーニョ」だけ聴いてもわかる。というかこの曲こそエンリッキ自身なんどもなんども録音しているから、この『アゼヴェード再読』ヴァージョンの特別さがよくわかると思うんだ。

なにがスペシャルなのか、ひとことにすれば、ベト大活躍のパーカッシヴな「ブラジレイリーニョ」になっていて、しかもリズムにシンコペイションが効いていて、ヒョコヒョコっと跳ねているということなんだ。ベトが活躍しパーカッション類のシンコペイッティド・サウンドが強調され、ユーモラスに跳ねているという、この一点こそ、このアルバム全体を貫く音楽性の肝だ。ヤなことばで使いたくないが、アルバム・コンセプトはそこにある。

このことを踏まえれば、上記曲以外、このアルバム収録曲は、どれもすべてリズムのアフロ・ラテン/アフロ・ブラジリアン性に重きをおいた演奏になっているとわかるはず。ゆるやかでおやだかにスムースにスーッとリズムが進むものがほぼないんだよね。どの曲も跳ねている。ひっかかりながらユーモラスに(リズムが)上下する。意図してエンリッキはあえてそうアレンジしたに違いない。そのため、ベトの打楽器演奏に重心を持ってきている。

それでもって、ショーロが本来、発生的には持っていたストリート・ミュージックとしてのアフロ・リズム特性をあばきだし、そのための媒介としてヴァルジール・アゼヴェード作品を用い、ある時期以後この音楽がまとったエレガントでクラシカルななめらかさは消した。なんというか、このアルバムの音楽はガチャガチャしているんだよね。いやいや、そんなふうには聴こえないよ、と思われるかもしれないが、これがぼくなりのエンリッキ『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』の解釈だ。

2019/03/13

自然と密着したスコットランドのトラッド・カルテットがいい 〜 ファラ

このアルバム、bunboni さん経由で山岸伸一さんに教えていただきました。
ファラの『タイムズ・フロム・タイムズ・フォール』(2018)。トラッドというか、ぜんぶ自作曲なんだけど。ほ〜んとカッコいいジャケット・デザインだよねえ。見た瞬間に、こりゃいいんじゃないかと思ったらビンゴ。鮮烈な印象を残すあざやかな音楽で感心しちゃった。ファラはスコットランドの四人組。三人までがフィドルで、ほか一名がピアノだけど曲によってはフィドルという、なかなか変わった編成。しかし奇をてらったふうはなく、あくまで素直にストレートに、ケルト・トラッドふうのメンバー自作曲を演奏していて、好感度大。

コンボ編成だけど同じ楽器を多数起用して音を重ねるといえば、ジャズのマイルズ・デイヴィスが1968年暮れから70年まで、鍵盤楽器奏者を二名か三名同時起用していた。ファラの多重フィドルも複層的に重なり合い、クラシック音楽みたいに整然と合奏するだけでなく、微妙にズレているのはあえて意図してやって、サウンドにふくらみを持たせようという試みだとわかる。

たしかにケルト系のトラッドらしく猛烈にドライヴする曲もすばらしいんだけど、しかもそれが多重フィドル演奏で実現しているわけだからユニークな個性といえるけれど、この手のドライヴ感はこういった種類の音楽、のことにフィドル演奏ではあたりまえなものだから、そんなに独自だという印象を持たなかった。いや、めくるめく展開はたしかに見事。

それより個人的に印象に残ったのは静かでゆったりした(バラードっぽい)曲の数々。3曲目「アト・ジ・エブ」(からそのまま続けて4曲目に入る)とか、ヴォーカル・ナンバーである5曲目「ソング(ラヴ・ギャザーズ・オール)」とか、7「フランシス・デイ」、8「シー・イット・オール」、そしてなによりアルバム・ラスト12曲目の「マックスウェルズ・ライト」。

それらゆったり静謐ナンバーのほうに、むしろドラマを感じるのだった。美しい自然の風景を眺めているかのような、そんな気分で、内心落ち着くことができて、心象も暖かく豊かになっていくような、そんな心持ちがするよ。自然と密着したケルト系トラッドの世界を、自作曲で見事に実現しているなあ。ファラって、ただカッコイイだけじゃない懐の深さを感じる四人組だ。

2019/03/12

ババ・コマンダント二作目が心地いい

一作目がかなりおもしろかったブルキナ・ファソのババ・コマンダント&ザ・マンディンゴ・バンドだから、二作目リリースを知って飛びついて買ったんだけど、その『Sira Ba Kele』(2018)はこりゃまただいぶ感じが変わったよねえ。サイケデリックだった面影は消えて、サウンドも整理され、グッと聴きやすくなって、いいのやらイマイチなのやらわからないが、でもぼくはけっこう好き。それに二作目は一聴目の第一印象がかなりよかった。これも聴きやすさのおかげってこと?

変化を強く実感するのは2曲目「Siraba Kele」だろうか。サウンドの中心になっているのはバラフォンと司令官の弾くンゴニで、エレキ・ギターも聴こえるものの質感はアクースティック。ナチュラルっていうかオーガニックなテイストで、それはアルバム全体をとおしてそうなのだ。オーガニックですよ、ババ・コマンダントがさ。あ、いや、こういう言いかたはよくないな。いいほうへ変化したと。

2曲目もそれ以外も、ンゴニやバラフォン(やエレベなどのこともあり)が弾く同一パターン反復の上に音楽が成り立っていて、まるで西アフリカ音楽のクラシカルな典型に立ち戻ったかのよう。アクースティックなサウンド質感だって伝統的だし、聴きやすく整理されていてあまりゴチャゴチャしていないし、司令官の野卑にしゃべるようなヴォーカルはそのままの迫力で、いいねえ、こりゃ、この二作目。

第一印象がよかったというのは3曲目「Bobira」と4曲目「Siguisso」 、特に4曲目のこと。3曲目ではバラフォンの音が目立っていて、そうだからだと思うんだけど、このアルバムの音楽はさわやかで軽快な味をバンドのサウンド全体にもたらしている。一作目になかったバラフォンをくわえたのは大正解だったと言える。大好きな4曲目では、全速力のリズムの疾走感がいいね。やはりそれをバラフォンが主に表現しているのがポイント高し。それに司令官のンゴニがからみ、エレキ・ギターはあくまでエフェクト程度。ファンクっぽいしね。これもいいなあ。

5曲目「Keleya」のエレベ・パターン延々ループも快感だ。しかもエレキ・ギター・ソロがちょっぴりカルロス・サンタナっぽいし、なかなかおもしろい。あ、サンタナっぽいといえば、この新作ではエレキ・ギターのシングル・ノート弾きがわりとどの曲でもそうなんだよね。これはいったいどうして?なんていう問いも無意味だろうか、ああいったラテンなギター・スタイルは全世界に波及している。

いやあ、ホント聴きやすくノリやすいし、聴いたあとくちもサッパリさわやかだし、ババ・コマンダントの二作目『Sira Ba Kele』、なかなかのオススメ品です。呪術を思わせるようなジャケット・デザインは逆効果かも。体をあまり表現していない。

2019/03/11

ロックからアラブ音楽に入門するならこれ 〜 ヤシーン

ヤシーン&ジ・オリエンタル・グルーヴ(っていかにもインチキくさい名前だが)の2016年盤『メディタレイニアン・クラッシュ』。この音楽家とは初邂逅だったんだけど、五人編成バンドのようで、アルジェリアンはアルジェリアンでも在仏ではなく在西。それもバルセロナに住んでヤシーンは活動しているらしい。音楽もなかなかおもしろいね。やっぱりフェイクっぽいかな?という感じも若干あるけれど、ロック・ミュージシャンがやるアラブ・アプローチと考えればかなりいい出来に入るはず。

『メディタレイニアン・クラッシュ』というアルバム題は社会派かな?と香らせたりするものだけど、アルバムの中身の音楽はそんなことまったく無関係に楽しめるものだ。やっぱりアラブのライ・ロック、シャアビ・ロックとか、そんな趣が濃厚で、ちょうど「カシミール」のレッド・ツェッペリンとかあのへんをもっとグッと本格的にしたみたいなフィーリングかもね。

1曲目「Barcelona Sona」のイントロだけでそんなふうに心をつかまれてしまうもので、歌が出たらもっとクッサ〜い(いい意味で)アリジェリア香が漂っている。この曲だけでなくアルバム全体に、かの ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)っぽいサウンド色があって、そんなところも聴きやすく、ぼく好み。こういったポップなミクスチャー系が苦手な向きには推薦できないが。

だまって聴いていたら4曲目で耳馴染みのあるメロディが。これは「アラウィ」じゃないの。と思ってはじめて曲名を見たら「Turkish-Al-lawi」となっている。でもトルコふうな部分はあまり感じない。それより ONB ヴァージョンの「アラウィ」にとてもよく似ているよね。1990年代末を思い出すかのよう。だからヤシーンのこのアルバムはちょい古いといえば古い。でも、好き。

本格的なウード独奏も入る5曲目などを経て、7曲目でこれまたよ〜く知っている曲となる。「Mare tournaré demà」となっているこれは、たとえばラシッド・タハらもやったかのカビール・ソング「Menfi」だよね。それをヤシーンらは正面切ったアレンジと歌でしっかりやっていて、これはなかなかの聴きものだ。後半は幻惑的な展開となって、テンポがどんどん上がる。アルバム中いちばんいい。

聴きやすいしなかなかおもしろいよ、このヤシーン&ジ・オリエンタル・グルーヴの『メディタレイニアン・クラッシュ』。ツェッペリンその他でロックからアラブ(系や周辺)音楽に近づいてきた入門者にも推薦しやすい内容で、共感していただきやすいサウンドだ。ここをきっかけにライやシャアビの世界へと足を踏み入れていけばいいんだと思うしね。

2019/03/10

アンゴラの歌(と踊り)40年

2016年盤の17曲入り一枚もの CD『40 Anos A Cantar Angola』(Spotify のだと16曲)。よくわかってないんだけど、一種のサンプラー的アンソロジーってことなんだろうか?だいたいぜんぶセンバ?これを買ったエル・スールのホーム・ページにも CD パッケージにも、まったく曲目一覧しか記載がない。あ、いちおう選曲者がペラ紙の内側に書いてあった。Virgílio Correia さん。ぜんぜん知らないや。1975年のアンゴラ独立年に40を足すと2015年となるが、そういう意味なんだろうか?

聴いていると、たしかにアコーディオン(じゃなかったんだっけ?)が特徴的な、独立後の早い時期のセンバみたいなのが多いし(それがアルバムの主体かな)、そうかと思うと打ち込み主体かと聴こえるモダンなものもちょっとあり、いっぽうぼくでも知っている有名人パウロ・フローレスもいる。以前『メモリアズ・ジ・アフリカ』っていうボックス・セットのことを書いたでしょ。ポルトガル語圏アフリカの音楽アンソロジー。あれにアンゴラ篇があったけど、それの収録曲と似たような感じが『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』でも出てくる。
『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』、Spotify で聴ける全16曲アルバムに即して話を進めるけれど、聴いた感じ(ホントなにもわかっちゃいませんから)、1〜5曲目までがモダン・センバみたいに聴こえ、だからパウロ・フローレスを幕開けに置いているのはそういうシーンのトップ・ランナーとして、ということなのかもしれない。しかしぼく的にはここでグッと来るというわけじゃないアルバムだ。

6曲目の Carlos Burity「Monami Ya N'Gienda」がまるでアメリカのコンテンポラリー R&B みたいに聴こえるメロウ・バラードなんだけど、これはセンバじゃないよねえ。ぼくのなかでセンバとは激しく快活で躍動的なダンス・ミュージックのことになっている。それでも、この6曲目は国籍を感じない普遍的なブラック・ミュージックで、これはこれでかなりいい。ジャズ・フュージョンっぽくもある。

それが終わって7曲目から11曲目までの五曲が、ぼくにとっての『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』のハイライト。いやあ、めっちゃくちゃいいじゃないですか!極上の楽しさだ。この五曲は、録音時期も音楽のスタイルとしても古い典型的なセンバなんだよねえ、たぶんさ。もはや時代遅れのオールド・スクールかもしれないが、2019年に聴いて楽しいったら楽しいな、という間違いない実感がある。ダンス・ミュージックは古くならないんだ。

マジほんとダンサブルで、実際、ぼくはこの五曲のセクションを聴きながら部屋のなかでは踊っているし、気分ウキウキの極上フィーリング。あっ、アコーディオン(?)は、このセクションでは7曲目だけか。ほかはエレキ・ギターが中心で、それにくわえ打楽器群という編成だね、聴いた感じ。くわえてリード・ヴォーカルとコーラス隊とのコール&レスポンス。う〜ん、わかりやすくて、グルーヴが明快で、とてもいい。

この五曲のセクションを聴いてからだが動かないひとは、たぶんアンゴラのセンバには縁がないということになってしまうかもしれない。いやいや、そんなことない、ここを聴いて指先一本動かない人間なんていないよ。このグルーヴには抗えないはず。じゃなかったら、大衆音楽のことをジッと座ってだけ聴くものだと思い込んでいるか、だ。

アルバム『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』では、12曲目のゆったりナンバーをはさみ、13曲目以後ラストまで、やはり激しいダンス・ビートが並んでいる。冒頭の1〜5曲目もダンサブルなセンバだったし、結局このアルバムは歌というよりダンスなんだよね。アルバム題に 'Cantar' とはあるものの、踊って過ごす40年ってことかな。聴くぼくら日本人をも踊らせる強力なグルーヴがあるね。

2019/03/09

フォーキーなチャブーカ版ボサ・ノーヴァ or フィーリンの誕生?

ペルーのチャブーカ・グランダ。ムシカ・クリオージャの音楽家として知名度があるので、無知なぼくでも知っている。彼女が書いて歌ったものはだいたいぜんぶバルス・ペルアーノだ。昨2018年にエル・スールで買った『未発表音源集』(Lo Nuevo de Chabuca Granda)は、お蔵入りしたままだった1968年の録音集とのことで、いままで聴いていたチャブーカの歌とは若干趣きが異なっているかも。

シンプルなギターとカホンだけの伴奏によるトリオ編成で、チャブーカはきわめてプライヴェイトな装いを見せ、ナチュラルにすーっと歌っている。なめらかっていうか、スムースで、それはあたかもキューバのフィーリンやブラジルのボサ・ノーヴァにも通じるような自然体。それが心地いいんだよね。創り込まれていないラフさっていうか、日常の歌って感じ。実にいい。

実際、『未発表録音集』で聴けるチャブーカの歌は、かなりラフな状況で演唱され録音されていたものなんだろうと想像できる。音響の空気感からも、スタジオかどこかでのライヴ一発録りに違いないと思え、そんな親近感や卑近性が、チャブーカの音楽の持つ優雅さと複雑さ(後者はアフロ系の微妙さか)の絡みをきわだたせることになっている。むきだしのチャブーカっていうか、生のソフトな肉体を感じられるところがいいんだよね。

だれが弾いているのか(クレジットもないから)わからないナイロン弦ギターのフレーズにはジャジーで洒落たタッチも聴きとれて、チャブーカのヴォーカルもリキみがなく、この時期のラテン歌手にしてはありえないほどフリーで自然体で、しかもフォーキー。それらすべての要素があいまって、この音楽をチャブーカ版のフィーリンとかボサ・ノーヴァみたいなものに響かせているよ。なかなかこんなムシカ・クリオージャ、聴いたことないよ。

チャブーカの『未発表録音集』、たしかに作品としての緻密な完成度という観点からは相当もの足りないんだけど、このちょっとしたアマチュア性というか、ラフな日常性(はラテンな音楽性からはやや遠いかもしれないし)が、簡単には生まれえない独特のおしゃれな陰影を歌にもたらして、得がたいライト・タッチなフィーリングを生んでいる。かなりいいと思うなあ。

仲間内だけの親密な集まりで、小さな狭い部屋のなかで、日常的なリラックスした楽しみのためにだけちょちょっと弾き歌う、そんなこじんまりしたパーティのための音楽としてバルス・ペルアーノを再構築したいとう実験的録音だったのかもしれないね。バルス・ペルアーノもまた、かしこまって聴くための音楽と日常的なダンス・ミュージック、この両面を、やはりポピュラー・ミュージックらしくあわせもっていたんだろうと、チャブーカのこの録音集を聴くと実感する。

2019/03/08

(懐かしき)プエルト・リコは歌

2018年の仏ブダ盤『懐かしきプエルトリコ 1940-1960 プレーナ、グアラーチャ、ボレロ、ヒバロ』(Nostálgico Puerto Rico - Plenas, Guarachas, Boleros y Canciónes Jibaras - 1940-1960)。カリブのプエルト・リコが世界の音楽でどれだけ大きな役割を果たしてきたか、キューバ音楽ほどではないにせよ、知っているひとは知っていることだ。1940〜60年と限定し、その時代のプエルト・リコ音楽を収録したのがこのアンソロジー。

このアルバム全体から受ける印象としては、1940〜60年というと、たとえばキューバ音楽などはメカニカルな反復形式を持つダンス・ミュージックが主たるものとなっていたと思うんだけど(その反面、メロウな歌謡音楽であるフィーリンも隆盛だったが)、プエルト・リコではなにしろ<歌>がメイン。これはとても強いイメージとしてこのアンソロジーでも全体を貫いている。

たとえばこのブダ盤でぼくが最も強い印象を受けるのは17曲目の「コンパシオン」なんだけど、なんなんだろうこの哀愁というか、悲哀に富んだコード・ワークとメロディの組み立ては。思わず感極まって涙がこぼれそうになってしまうほどだ。アコーディオンも効果的。ところで 'Compasión' って、英語でいう 'Compassion' と同じような意味なんだろうか?いやあ、この一曲だけなんども聴いてしまう。最高だ。ボレーロかな、これは。しかしおよそダンスには向いていなさそう。

こんな短調の旋律を持つ哀感ラテン・ナンバーはこの『懐かしきプエルトルコ』のなかにほかにもたくさんあって、特に歌われるパートの旋律美がとてもすばらしい。ラファエル・エルナンデス、ペドロ・フローレスというプエルト・リコ二大コンポーザーはここにもいるが、彼ら以外の手になる曲も美しい。そして泣いちゃうそうだ。そんな哀感がとても強い。

そうかと思うと、長調でわりかしダンサブルな快活ナンバーも同じくらい収録されていて、キューバでいうマンボに近いものもあれば、そのなかには20、21曲目の大編成でやるプレーナ(セサール・コンセプシオーン)なんかはとても見事だ。しかも(プエルト・リコ系ニュー・ヨーカーの音楽である)サルサへつながる道程をすでにここに聴きとれる。

それでもメロディがなめらかで流麗なのがプエルト・リコ音楽らしいところか。マイナーなボレーロでもメイジャーなカンシオーンであるヒバロでも快活陽気なプレーナやコンガでも中庸なダンス・ミュージックのグァヒーラ・グァラチャなんかでも、プエルト・リコ音楽として一貫している特徴は、ヴォーカルの即興性と哀感と甘美な歌唱性。

そんなところを持つつつ、中南北米の雑多な音楽を吸収しながら、(マンボのような)ダンス・ビートをも併行して体験していった歌手や演奏家が、やがてサルサのような音楽を産んでいくことになったのだろう。

2019/03/07

その(2):タールとトンバクの完全デュオ即興ライヴ 〜『チャカヴァク』

こういう音楽をぜひ一度生で聴いてみたい『Chakāvak』。これはウードじゃなくタールで、パーカッションはトンバクだけどね。アルバム『チャカヴァク』は、2018年4月15日のオスロでのライヴ録音で、タール(イラン人、写真左)とトンバク(イラン系ノルウェイ人)の完全デュオによるインプロヴィゼイション・ミュージック。オスロでの当夜の前半部を収録したものらしい。

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それで、昨日も書いたことだけど、こういったインストルメンタル・ミュージックのなんとなくの雰囲気がたまらなく大好きなんで、だから部屋のなかで集中せず BGM として流していいなぁ〜って感じているから、タールとトンバクの二名、特にリーダー役(じゃないかと思う)のイラン人タール奏者がだれか?なにをやっているのか?この音楽とはいったいどういうものか?にはイマイチ興味がない。なんとなく雰囲気がいいなあと思って愛聴し、というか流しているだけ。

『チャカヴァク』はいちおう10個にトラックが切れていて曲名もつけられているけれど、聴いた感じ、これは最初から最後まで一個のインプロヴィゼイションなんだろう。うん、間違いない。場所場所でそれぞれの展開があるので、それでトラックを切ってふさわしそうな曲題も考えてつけただけのことだね。即興のモチーフとなるような旋法はもちろんあるんだろう。聴くと明確なトーナリティが感じられる。しかもその和声統一感は、アルバムの最初から最後まで変化しない。

『チャカヴァク』にしかない、たとえば昨日の『ワスラ』などとの最大の違いは、やはり主役たる弦楽器の響きの差がもたらすものだろう。タールって、複弦3コースなんだっけな、音色も音域も、たとえばウードなどとはかなり異なるよね。ウードが低域でうめくものだとすれば、タールは甲高くさえずる、そんな印象がある。そんなタールの、タールにしかない独自のサウンドが、アルバム『チャカヴァク』最大の特長だ。好きだなあ、こういった音。

『チャカヴァク』でのトンバクは目立たず、あくまで脇役脇役と心がけているのが、聴いているとよくわかる。イラン人タール奏者はどうやらベテランのマスターなのかもしれないが(そのへん、本当になにも知りません)、その華麗な技を最大限にまで引き立てるべくトンバク奏者も徹底して伴奏に努めている。結果、大成功しているよね。だから、聴感上は、あるいは音楽の本質として、このアルバム、タール独奏というに近い。

そしてそのタールのこの高音域でひばりがさえずっているような、そんなサウンドが、聴いていて心地いいんだよね。なんらかのラメントみたいなものも含まれているのかな?とか、あるいは6トラック目「スパーク」と題されたパートなどは、たしかに火花散るような迫力もあって、エモーショナルに高揚し、実に心動かされるものだなあとか、アルバム『チャカヴァク』を通してなんども聴いて、随所に聴きどころがあるけれど、全体的にはあくまで一種のムード・ミュージックとして自室のなかで流して、それで心地いい雰囲気をかもしだしてくれる。

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