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2016年12月

2016/12/31

エレクトロニクスで蘇るポップ・ピシンギーニャ

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今でこそ当たり前みたいになっているアフロ・ブラジリアン・ミュージック。これを最も早くやったブラジル人は1930年代前半のピシンギーニャだったんじゃないかなあ。といってもその時代のピシンギーニャの「アフロ・ショーロ」とでもいうような仕事を、現在 CD でも配信でも簡単かつ存分に聴くことは難しい。なぜならばあまり復刻されていないからだ。

一部聴けるんだが、全貌が分らない。僕が聴いているのはライス盤『ブラジル音楽の父』13曲目「ご主人様は猫を捕まえる」(1931)から17曲目「俺は戻っている」(1932)までのたった五曲だけだ。このライス盤の解説文を書いている田中勝則さんによれば、当時のピシンギーニャにはかなりの数の録音があるらしい。

あとは例のベネジート・ラセルダとの共演分についてだけは、以前から書いているように iTunes Store に完全集があって、そのなかには「ヤオー」みたいなアフロ・ブラジリアン・ショーロ、あるいはカリブ・ショーロと呼べるものがあったりするけれど、このコンビの録音は1940年代末にはじまったので、ピシンギーニャは既に旬を過ぎていた。

全盛期ピシンギーニャの完全集をと言っても、むろんそのなかには今聴くとちっとも面白くないようなものもあるんだろうが、そうなのかどうなのか実際に聴いて自分で判断したいわけだから。早くブラジルでもどこでもいいから完全集をリリースしてくれないかなあ。偉大だったとの評価が定着している音楽家に対する扱いとは思えない。

ともかくライス盤『ブラジル音楽の父』13〜17曲目のオーケストラ作品を聴くと、かなりパーカッションが賑やかで、そもそも曲がリズミカルでパーカッシヴでダンサブル。そんでもって相当にポップでユーモラスですらある。ピシンギーニャというと「カリニョーゾ」「ラメント」など、シリアスな音楽家だと思われているかもしれないが、そんなその後現在でも頻繁にカヴァーされる名曲の方がむしろ例外だったのかもしれないよ。

そんな1930年代前半のポップなピシンギーニャ作品を現代に甦らせた、それも当時そのままのアレンジではなく、打込み中心の現代的デジタル・サウンドで再現したアルバムがある。エンリッキ・カゼス他二名による『エレトロ・ピシンギーニャ』だ。プロデュースもエンリッキがやっている2003年の(僕が持つのは)ライス盤。

打込み中心のデジタル・サウンドはもはや時代の先端ではないという見方になりつつあるように思うけれど、それでも人件費がかからないので、世界中で大量生産されるポップ・ミュージックは今でもやはりコンピューター・メインで音創りしているんじゃないかなあ。

『エレトロ・ピシンギーニャ』に参加しているエンリッキ以外の二名とは、デジタル・キーボードやプログラミング担当のフェルナンド・モウラ、アクースティック&エレクトロニック・パーカッション担当のベト・カゼス。ベトはエンリッキのお兄さんだ。エンリッキも普段から弾く生のカヴァキーニョやギターなどにくわえ MIDI カヴァキーニョも弾いている。

他にゲスト・シンガーが入る曲があったり、ゲスト参加でプログラマーがいたりもするようだけど、まあ以上三名がメインには間違いない。僕にとってはエンリッキこそが最も馴染のある音楽家だけど、一般的にはマリーザ・モンチやマルコス・スザーノの作品にも参加しているフェルナンド・モウラが最も知名度があるんだろう。

ショーロはシリアスな音芸術で、エンリッキもそんな分野の現代における第一人者で、一方フェルナンド・モウラはポップ・ミュージックの世界の人間とされているだろう。間違っているわけじゃないが、この二人が合体している『エレトロ・ピシンギーニャ』を聴くと、無意味な区分に思えてくる。と同時に1930年代前半のピシンギーニャ作品についても同じ無意味さを感じるね。

上で書いたように、ライス盤『ブラジル音楽の父』13〜17曲目で聴けるピシンギーニャのポップなアフロ・ショーロのうち、そんな味が最も濃厚に出ているのが15曲目の「黒人の会話」(1931)だ。1931年というとキューバ発の「南京豆売り」が大ヒットしていた時期だし、ピシンギーニャも意識したんじゃないかな、そんなアフロ・カリブ音楽を。「黒人の会話」をちょっと聴いてみて。
この「黒人の会話」がエンリッキらの『エレトロ・ピシンギーニャ』ではオープニング・ナンバーなのだ。パンデイロの音にはじまり、各種パーカッション、次いで電子鍵盤楽器の音が聴こえる。管楽器みたいな音も入っているが、これはサンプリングしたかシンセサイザー音なんだろう。
スティール・パンのようなサウンドもはっきりと聴こえるが、それはベト・カゼスの生演奏かフェルナンド・モウラが電子的に再現しているのか、僕にはちょっと判断できない。がまあおそらくは電子音だろうなあ、生のスティール・パンの音とはちょっと違うような気がする。

ところでエンリッキはどこで演奏しているんだろう?少なくともアクースティックな弦楽器の音は聴こえないよね。MIDI カヴァキーニョを弾いているのかもしれないが、そうだとすると鍵盤シンセサイザーの音と区別するのは僕には不可能。あるいは生の弦楽器を弾いたが、ミキシングの際に聴こえない程度にまでしたのかもしれない。

でも曲全体のアレンジや方向性はエンリッキが書き決めたものらしい。それに沿ってフェルナンドがプログラミングしたり音を加えたり、ベトが打楽器をオーヴァー・ダブしていったんじゃないかなあ。ベトのことはよく知らないが、フェルナンドの方は元々そんな古いショーロに関わっていたような音楽家じゃないから。

一曲目の「黒人の会話」だけでなく、『エレトロ・ピシンギーニャ』収録の11曲、全てやはりエンリッキがピシンギーニャのオリジナルから現代風に展開してベーシック・アレンジを施した模様。他の二名はあくまでそれに沿って音を重ねていって、それにさらにもう一回エンリッキが MIDI カヴァキーニョの音を足したりしたんだろう。

それにしても書いたように一曲目「黒人の会話」で聴こえないだけでなく、『エレトロ・ピシンギーニャ』収録の他の十曲でもエンリッキの演奏する生の弦楽器はほとんど聴こえない。この人が現代ブラジルにおけるカヴァキーニョ奏者のなかでの最高の存在であることを踏まえると、やや意外な気もする。

が『エレトロ・ピシンギーニャ』では、エンリッキのそんな演奏技巧ではなく、またそれ以外でも生楽器の演奏アンサンブルではなく、あくまで(パーカッションと一部のヴォーカル以外は)デジタル・サウンドを中心に組立てるのだという当初からの目論見通りに事を進めたってことだろうなあ。

ピシンギーニャのオリジナル・ヴァージョンとの聴き比べが、「黒人の会話」「ヤオー」の二曲を除き不可能なので、エンリッキのアレンジがどの程度にまでオリジナルを深化させ展開し、現代的に再現して再構築しているのか、どうも実感できないのが残念極まりない(だからどこか早く復刻を!)。

『エレトロ・ピシンギーニャ』四曲目の「ヤオー」。一曲目の「黒人の会話」以外で、僕がピシンギーニャのオリジナルを聴けるのはこれだけなんだけど、それはアフロなルンドゥーなんだよね。あくまでショーロの枠内ではあるけれど、どこもシリアスではなく、かなりポップに楽しくてダンサブルで、しかもユーモラスだ。
『エレトロ・ピシンギーニャ』ヴァージョンの「ヤオー」は、しかしこの曲だけアルバムのための新録音ではなく、エンリッキがオルケストラ・ブラジーリアで1988年に録音したもののリミックス・ヴァージョン。それは YouTube では再生不可なのが残念だが、かなり大胆なオーケストラ・サウンドになっている。

だからアルバム中「ヤオー」だけはデジタルな音の感触が薄い。というか電子鍵盤楽器らしきサウンドはほぼ聴こえない。フェルナンド・モウラはあるいは全く参加していないかも。やはりパーカッション群がかなり賑やかで、アフリカンなリズムを演奏する上に、ホーン群とユーモラスなヴォーカルが乗っている。

また二曲目「ケ・ケレケー」なども完全なる現代的デジタル・サウンドによるアフロ・ブラジリアン・ミュージック。途中パーカッションのみの(おそらく多重録音による)アンサンブル・パートがあるなと思った次の瞬間に女声ヴォーカルが入る。そしてベネジート・ラセルダ風なフルート(の音を模したデジタル・サウンドだろう)。

そんな二曲目の「ケ・ケレケー」や一曲目の「黒人の会話」や四曲目の「ヤオー」など、エンリッキらが『エレトロ・ピシンギーニャ』で現代的に再現しているものを聴くと、1930年代前半のピシンギーニャがやっていたのは、シリアスなショーロではなく、賑やかでポップで楽しくてダンサブルでユーモラスな娯楽音楽だったんだなとよく分るのだ。

『エレトロ・ピシンギーニャ』中他の八曲も、リズムがかなりアフリカンでパーカッション・アレンジが賑やか。その上に電子鍵盤楽器やプログラミングされたデジタル・サウンドが彩り豊かに乗っている。一部ヴォーカルの入るものには、やはりユーモラスなニュアンスがあるもんなあ。

七曲目のタイトルは「ドラムスのコンサート」(コンセルト・ジ・バテリアス)。これは YouTube で探したらピシンギーニャのオリジナル・ヴァージョンだろうと思われるものがアップされていた。どうだ、これ?曲名通りドラムスほか打楽器メインのかなり派手なサウンド創りで、聴こえるフルートがピシンギーニャなんだろう。
『エレトロ・ピシンギーニャ』収録ヴァージョンの「ドラムスのコンサート」は YouTube ではこれまた再生不可なので残念だが、オリジナル同様にやはり打楽器メインの組み立てで、これは間違いないデジタルなスティール・パン音なども聴こえ、電子鍵盤楽器の短いリフがスタッカート気味に効果的に入っている。

八曲目の「言っとくぞ」でもヴォーカルが聴こえるが、注目すべきはリズムだ。冒頭からドラム・セットの音が聴こえるがそれは間違いなく打込み。その打込みドラムスが出すのがちょっぴりヘヴィなグルーヴ感で、まるで北米合衆国のファンク・ミュージックっぽい。かと思うと、すぐに軽くてポップなサウンドが入ってくるが、その背後でもノリはディープだ。

あっ、九曲目「パトロン、家畜を縛っておけよ」では鮮明にアクースティックな弦楽器が聴こえるぞ。エンリッキだ。ここまではっきりとエンリッキの生演奏によるアクースティック弦楽器が聴こえるのは、『エレトロ・ピシンギーニャ』中これだけのような気がする。全体を通して聴くとかえって珍しくて新鮮な感じ。

10曲目「カエルよ、跳べ」のリズムのかたちは、曲名通りいかにもカエルが跳ねているかのようなヒョコヒョコっとしたもので、相当にユーモラスだ。これも探したら YouTube にこんなのがあったけど、これがピシンギーニャによるオリジナル・ヴァージョンなんだろうか?
『エレトロ・ピシンギーニャ』ヴァージョンの「カエルよ、跳べ」は、この(オリジナル?・)ヴァージョンのヒョコヒョコ跳ねるリズムのユーモラスな感じをさらに一層強調したようなアレンジで、聴いていて思わず笑ってしまえるようなフィーリングなんだよね。

今日は触れられなかった曲も含め『エレトロ・ピシンギーニャ』、どれもこれもそんな賑やかでユーモラスなものばかり並んでいて、聴いていて本当に楽しい。しかもそれはブラジルの楽聖とまで言われるピシンギーニャのソングブックなんだからさ。ホントどうしてそのへんの録音をちゃんとした完全集にして復刻しないんだろうなあ?

2016/12/30

マイルスの「タイム・アフター・タイム」

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シンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」をマイルス・デイヴィスが初録音したのは、公式記録で辿る限り、1984年1月26日、ニュー・ヨークのレコード・プラントというスタジオにて。それが翌85年リリースのコロンビア最終作『ユア・アンダー・アレスト』に収録・発売された。

シンディ・ローパーのオリジナル「タイム・アフター・タイム」が、最初まずアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』(当時は『N.Y.ダンステリア』)に収録されてリリースされたのは前年1983年10月。これがラジオなどでもバンバン流れたので、マイルスもそれを耳にしたんだろうね。シンディの「タイム・アフター・タイム」はシングル・カットもされているが、それのリリースは翌1984年1月27日と、マイルスがスタジオ録音するよりあとだ。

ところで「タイム・アフター・タイム」という完璧に同一曲名の異曲がたくさんあって、僕は四つ(古いジャズ・スタンダード、シンディ・ローパー、ELO、オジー・オズボーン) しか知らないんだけど、調べてみたら全部で十個近くもあるみたい。僕は1946年にサラ・ヴォーン、次いでフランク・シナトラが歌ったオールド・スタンダードしか知らない時期が長かった。

マイルスだってそんな時代の人間であって、だから当然そのサミー・カーン&ジュール・スタインが書いた「タイム・アフター・タイム」を知らないなんてことはありえない。でもそれを1980年代にやるわけないよなあ、どうなってんの?と思ってたらシンディ・ローパーのやつだったという。

マイルスの1985年のアルバム『ユア・アンダー・アレスト』に収録された「タイム・アフター・タイム」は、しかし短縮版であって、オリジナル・テープからもっと長めに収録したヴァージョンが、当時12インチ・シングルでリリースされていたのは、たぶんもうみんな忘れている。

その12インチ・シングル・ヴァージョンは2016年現在でも、たった一枚の例外を除き CD リイシューもされていないからだ。その例外が日本のソニーが1993年にリリースした『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』というもので、タイトルでお分りのように、マイルスの死後にリリースされたコロンビア時代の電化マイルスのベスト盤。

「エレクトリック・サイド」ということは、間違いなく「アクースティック・サイド」もあったはずだが、僕は持っていない。たぶん買ってないんだなあ。どうしてかというとアクースティック時代のマイルスのそれは、全部持っている曲しか入っていなかったはずだからだ。

つまり『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』には、初 CD 化音源や、あるいはちょっと特別なヴァージョンなどが数トラックあったんだよね。最たるものが前述の通り「タイム・アフター・タイム」の12インチ・シングル・ヴァージョンだけど、他にも「イン・ア・サイレント・ウェイ」単独で抜き出したものと、『ライヴ・イーヴル』ワン・トラック目「シヴァッド」の(元は「ディレクションズ」だった)3:31 までを抜き出したものが収録されていたのだ。

これらのうち、「イッツ・アバウト・ザット・タイム」と繋がっていない「イン・ア・サイレント・ウェイ」単独ヴァージョンは、今では2001年リリースの『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』に収録されたので、もはや用なしだ。

そして『ライヴ・イーヴル』の「シヴァッド」は、元々のライヴ演奏時には「ディレクションズ」だったのと「ホンキー・トンク」だったのを、テオ・マセロが編集でそれぞれ短くした上でくっつけたものだけど、はっきり言って「ホンキー・トンク」部分はかったるく、それに対し「ディレクションズ」部分の 3:30 くらいまでがえらくカッコイイので、そこだけくれよとファンは昔から思っていというのが事実。

1988年リリースの マイルスの CD 四枚組ベスト盤『ザ・コロンビア・イヤーズ 1955-1985』に、そういう短縮版の「シヴァッド」が収録されていたらしいのだが、どうしてだか僕はそれを買わなかったんだなあ。短縮版「シヴァッド」以外は全て既存曲と同一の四枚組だったからなのかもしれない。あと、僕は電化時代の方が好きなのに、それの量が少なかった。無理もないんだよね、「一曲」が長尺なので、ベスト盤収録などはやや難しい。

だから1993年の『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』に、『ザ・コロンビア・イヤーズ 1955-1985』収録のと同じ「シヴァッド」短縮版を収録してくれたのは嬉しかったのだが、ちょっと残念なのは、元音源である1970年12月19日のセラー・ドア・ライヴ音源そのものがまだ全く未発表のままだったので、間違いなく『ライヴ・イーヴル』から編集したであろう痕跡が聴き取れることだった。

『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』の「シヴァッド」は、末尾にほんのちょっとだけ「ホンキー・トンク」部分へ入る部分の頭がフェイド・アウトしながら入っちゃっているのだ。これだけが僕は1993年のリリース当時からまあまあ不満で、だから2005年に『ザ・セラー・ドア・セッションズ 1970』がリリースされたのから自分で編集して、完璧な「シヴァッド」冒頭部を作って楽しんでいるんだよね。だ〜ってカッコイイんだもん。

ってことはだ、『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』が現在でも存在価値がある唯一の理由が、「タイム・アフター・タイム」の12インチ・シングル・ヴァージョンが収録されている CD はこれしかないという、それだけだ。だけといっても、僕みたいなマイルス狂には実に大きな理由。

アルバム『ユア・アンダー・アレスト』収録の「タイム・アフター・タイム」は 3:39。一方『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』にも収録されている12インチ・シングル・ヴァージョンの方は 5:34。ポップ・ミュージックの世界ではこの約二分の差はかなりデカい。

その約二分のあいだ、特に目立つのがダリル・ジョーンズのベースとジョン・スコフィールドのギター。特にダリルのベースは、『ユア・アンダー・アレスト』にも収録されている部分では実に堅実というか、言い方を換えれば地味なのだが、そのあとの二分間ではやや派手目に跳ねているんだよね。
そんでもってその前からそんな雰囲気がはっきり出ているジョン・スコフィールドのギターが刻むレゲエ風のビート。それがより強調されている。つまりダリルの跳ねるベース・ラインとあわせ、その約二分間での「タイム・アフター・タイム」はカリブ音楽風なニュアンスがはっきり出ている。

『ユア・アンダー・アレスト』に収録されているものでは、「タイム・アフター・タイム」にカリブ音楽風ニュアンスを聴き取ることは難しいんじゃないかなあ。いやまあ確かにスコフィールドがレゲエ風に刻んではいるけどさあ、でもそれだけだし、かなり控え目だし、レゲエやカリブ音楽に通じていて、なおかつ耳のいいリスナーじゃないと無理かもしれない。だから僕は気付かなかった。

ところが『THIS IS MILES! Vol.2 Electric Side』収録の12インチ・シングル・ヴァージョンでなら、間違いなく誰でも、この「タイム・アフター・タイム」はちょっと違うぞ!ってなるはずだ。ひょっとして単なる美メロのバラードとしてアルバム収録したかったがために、そんな部分をカットしたんだろうか?

『ユア・アンダー・アレスト』のプロデューサーはもうテオ・マセロではない。テオは1983年の『スター・ピープル』がマイルスの新作をてがけた最後になっている。次の84年『デコイ』はマイルス自身のプロデュース、85年『ユア・アンダー・アレスト』はマイルスとロバート・アーヴィング III(当時のバンドのレギュラー・シンセサイザー奏者)との共同プロデュース名義。

さてご存知の通り、1984年のある時期以後はライヴでのマイルスの定番必須レパートリーになった「タイム・アフター・タイム」。とにかくなにかの企画物ライヴ・イヴェントなど特別な理由がないごく普通のライヴでなら、この曲をやらないなんてことは考えられなかった。ひょっとしたら死ぬまで全く一度もなかったかもしれない。

だから録音されているものだけでもメチャクチャな数があるマイルスのライヴでの「タイム・アフター・タイム」。数が多すぎて手に負えないので、公式盤収録のものだけに限っても全部で10個あるもんなあ。もっともそのうち9個は、例の20枚組『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー  1973-1991』にあるものだ。

20枚組のライヴ・ボックスなんて、しかも一枚ごとだいたいどれも似たような内容だし、よっぽどマイルスが好き、それも1981年復帰後のマイルスにも思い入れがあるというファンしか買っていないだろう。僕はそういうファンなので。このモントルー・ボックス、三枚目以後は1984〜91年のモントルーでのマイルスの全てを収録してある。

つまり1984、85、86、88、89、90、91年(最後の91年のレギュラー・バンド分は、モントルーではなくニースでのライヴだが)のマイルスの演奏全てをね。収録されていない87年は、マイルスが毎年七月のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演していないだけ。

そしてその1984〜91年の七年全てで「タイム・アフター・タイム」を演奏している。あれっ?計算が合わないよ、 さっきモントルー・ボックスでの「タイム・アフター・タイム」は全部で九個って言ったじゃないかと思われるかもしれないよね。84年と85年には昼公演と夜公演の一日二回やっているんだよね。だから七年で計九個。

モントルー・ボックスにある計九個の「タイム・アフター・タイム」は、大筋ではだいたいどれも似たような感じの演奏ではある。そんでもってマイルスのトランペットはしばしば音を外す。なんらかの効果を狙う意図があって故意にやっているんじゃないことは、素人の僕でも分る。もう吹けなかったんだよね。

1981年の復帰後も、スタジオでなら用意周到にやって何度もやり直したりできるのでそういうのは聴けないし、ライヴ・アルバムでもマイルスの生前に出たものは、丁寧に編集や修正が施されていて分らないのだが、81年復帰後の来日公演全てに、しかも上京後は東京公演分全てに足を運んだ僕は、現場でしばしば音を外すマイルスを聴いた。

1991年のマイルス死後は、おそらくレコード会社側も遠慮しなくてもいいと判断するようになったのか、81年復帰後のライヴ音源も、編集や修正なしでリリースするようになったものがあるんだよね。2002年にまずワーナー・スイスからリリースされた(のを僕は所持)20枚組のモントルー・ボックスなんかはそれが非常によく分る。

まず1984年7月8日のモントルー。この日の昼夜二回公演での「タイム・アフター・タイム」が、公式でもブートでも、マイルスがライヴでやったヴァージョンが録音されている最初のものだ。しかしその二つはどっちも10分超えと演奏時間がかなり長く、さらになんだかダラダラしていてバンドの演奏にも締りがない。

翌1985年7月14日の昼夜二回公演から、マイルスがライヴでやる「タイム・アフター・タイム」はよくなってくる。バンドの演奏もしっかりアレンジされていてタイトだし、元のシンディ・ローパーの曲にあるポップで切ないフィーリング(が84年ライヴでは出せていない)をよく表現していて、いい感じだ。しかしボスの吹きミスはやはり多い。

1985年の「タイム・アフター・タイム」で個人的に忘れられないのは、同月に来日し7月28日に東京のよみうりランドでやった演奏。これは僕も現場で聴いた。FM 東京が生中継したのだが、そうすると知ってはいたものの、生で観聴きしたくて、録音は諦めたのだ。

それでも FM 放送されたということは、必然的にブートレガーが仕事しやすいわけで(笑)、この1985/7/28のマイルス東京公演も二枚組ブート CD で発売されたのを、僕も後年買って追体験したのだった。85年ヴァージョンではモントルーのよりも、この東京公演の方がいい。

一番いいのはジョン・スコフィールドのギター・ソロだ。非常に短いものだけど非常にスウィートでポップで、普段のスコフィールドからは想像できない演奏。実際、マイルスが亡くなったあとになってようやくスコフィールドも喋ってくれたのだが、ああいう「タイム・アフター・タイム」や「ヒューマン・ネイチャー」などをやるのは本意じゃなかったとのこと。

本当はあんなポップ・ソングじゃなくて、ハードなジャズ・ファンクをやりたかったんだ、でもボスの指示だからしかたなくいやいややっていたんだよねと、スコフィールド自身が告白してくれたのだ。まあ彼のリーダー作など普段のスコフィールドを知っていれば、誰だってうなずける発言だね。それにしては1985年東京での「タイム・アフター・タイム」でのソロは絶品だけど、そこらへんはまあプロの仕事だからさ。

ところで1985年東京ヴァージョンの「タイム・アフター・タイム」では、パーカッション担当のスティーヴ・ソーントンがかなり頻繁にティンバレスでオカズを入れる。同85年のモントルー・ヴァージョンにそれはないし、元々のスタジオ録音ヴァージョン(のパーカションもスティーヴ・ソーントン)でも聴けないんだなあ、あのティンバレスは。

1986年ヴァージョンの「タイム・アフター・タイム」は、公式にはモントルー・ボックスにしか収録されていない(7月17日)。85年ヴァージョンとほとんど変化はないけれど、ギターのサウンドだけが非常に大きく違う。こんな弾き方のギタリストはマイルスの音楽では聴き慣れないなと思ってクレジットを見たら、ロベン・フォードだ。

ロベン・フォードが1986年の一時期マイルス・バンドに在籍していたということは、ファンは当時からその事実だけ知っていたんだけど、音源がなく実態は確かめられなかった 。白人だけどブルーズがかなり上手いギタリストなもんだから、マイルスとやるとどうなるか、前々から興味津々だったんだけどね。

するとマイルスの死後にロベン・フォード在籍時のマイルス・ライヴを収録した数枚のブート盤 CD が出て、それでようやく聴けたのだった。その中の一枚は公式盤のモントルー・ボックスと同じ音源で、だからジョージ・デュークが二曲、デイヴィッド・サンボーンが三曲、ゲスト参加していて、なかなか面白いんだよね。

モントルー・ボックス収録の1988年7月7日収録の「タイム・アフター・タイム」は、前半はただダラダラしているだけなんだけど、後半突如テンポ・アップしてリズミカルになる。そこまではちっとも面白くないし、トランペットの音の外し方があまりにもひどすぎる、聴けないとすら思う瞬間もあるのに、5:30 から変貌するのだ。

5:35 あたりからコンガ(マリリン・マズール)が派手で活発になって、ギター(と音は変わらないリード・ベースのフォーリー)もいい感じのリフを弾く。その約三分間があるからこそ、モントルー・ボックス収録の全九個の「タイム・アフター・タイム」では、1988年ヴァージョンが一番出来がいい。僕が体験した同年八月の人見記念講堂でも同じやり方だった。思い出すなあ。

1989年ヴァージョンの「タイム・アフター・タイム」から、アレンジが変わってくる。この年のものは公式でも二種類あって、録音順に『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』収録の6月5日のシカゴ、モントルー・ボックス収録の7月21日。最終盤でバンドがリフを反復しているんだよね。ケニー・ギャレットのアルト・サックスとアダム・ホルツマン&ケイ赤城のツイン・シンセサイザーが中心のそのリフのおかげでいい雰囲気の演奏になっている。最終盤だけね。意地悪く言えば、ボスのトランペット・ソロだけではもはや聴きにくいので、そういうバック・アンサンブルを考案したのかもしれないね。

公式にはモントルー・ボックス収録のしかない1990年(7月20日)ヴァージョンの「タイム・アフター・タイム」でも最終盤のアレンジも同じだが、違うのはケニー・ギャレットがサックスではなくフルートでリフを演奏しているところ。それ以外は特になにも書くべきことはなし。まあでもあの最終盤のリフは確かにいい感じに盛り上がるものだ。

ニースでのライヴなのに、どうしてだかモントルー・ボックスに収録されている1991年7月17日のライヴ・ヴァージョン「タイム・アフター・タイム」では、1989/90年ヴァージョン最終盤でやっている同じリフを、いきなり出だしからやっている。もっとも演奏しているのはシンセサイザーのデロン・ジョンスン一人だけどね。しかも最終盤でやはり同じリフがもう一回出てきて、それはケニー・ギャレットもフルートで参加し、バック・バンドで反復し盛り上がる。そうしないとボスのトランペットだけだと‥。

よほど魅力的に思えていたんだろうなあ、あのリフがね。それはレコード会社側も同じだったんだろう。その証拠に、まず最初にマイルス晩年のライヴ収録盤が出たのは1996年の『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』だったのだが、それにはあの最終盤のリフで盛り上げる1989年ヴァージョンが収録されたもんね。しかもその「タイム・アフター・タイム」は、『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』本編のラスト・ナンバーみたいな位置付けで、その次アルバム・ラスト「ハンニバル」はアンコールみたいに、数秒の間があってから出てくる。

聴く側も、僕なんかはやはりあの1989年以後ヴァージョンの「タイム・アフター・タイム」最終盤のリフはチャーミングだと思うね。最後にあれが出てくると否応なしに盛り上がるもんなあ。誰の思い付きだったんだろうなあ。ビートルズの「ヘイ・ジュード」、プリンスの「パープル・レイン」などの後半部にあるリフレインと同じ効果なんだよね。

とまあ長々と書いたけれども、マイルスがやった「タイム・アフター・タイム」のうち、僕が聴いている範囲でのベスト・ヴァージョンは、1987年の来日公演、7月25日に東京読売ランドでやったものだ。完璧だとしか言いようがない。晩年のマイルスにしては珍しく全く吹きミスがなく、しかもバックのシンセサイザー(はロバート・アーヴィング III が主導権を握っているはず)の弾くアレンジされたメロディがたまらなく美しい。

その美しいシンセサイザー・アンサンブルに乗り、マイルスはまずハーマン・ミュートを付け絶妙なフレイジングで吹きはじめ、その後淡々と美しく吹いている。ドラムスのリッキー・ウェルマンも、これ以外ありえないというタイミングと音の大きさでスネアを叩く。この雰囲気はちょっとオカシイね。尋常じゃない。

と思って聴いているとクライマックスが 5:23 にやってくる。マイルスはミュート器を外しオープン・ホーンで高らかに吹き上げるのだ。5:59 までとわずか30秒程度だが、そのオープン・ホーンで吹くパートでのマイルスのサウンドとフレイジングはたまらない。

その前までハーマン・ミュートで切なく、しかし実に淡々と吹いていたもんだから、オープン・ホーンで一音吹いた瞬間のドラマティックな効果の絶大さと言ったらないね。これ以上の劇的な展開はマイルスの全音楽生涯で、僕は知らない。この「タイム・アフター・タイム」に泣かないマイルス・ファンはいないだろう。49:05 から。
これが公式化されればいいのになあ。

2016/12/29

震わせるべきか震わさざるべきか、それが問題だ

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アメリカの戦前ブルーズ、それもカントリー・ブルーズばかりどんどん CD リイシューしてくれている Yazoo というレーベル。最近サッパリ新作リリース情報を見かけない(のは僕だけ?)ので、このレーベルが今でも存続しているのかどうか分らないが、1980年代末〜90年代には大いにお世話になった。

そもそもヤズーみたいなレーベルがああいった活動ができたのは、もちろん音源が古くて権利が切れていて、だから原盤レーベルのいかんにかかわらず自由にチョイスして収録できたという一点に尽きる。ヤズーのリリースしたものを見ると、一つのテーマに沿って実に様々な原盤音源が並べられているものが多い。

ヤズーがリリースするものは片っ端から全部買っていたような気がするくらいだった僕で、だからどれの話からしたらいいのか分らないくらい面白いものがたくさんあるんだけど、今日は『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』のことを書いてみようと思う。

アルバム・タイトル通り、戦前におけるカントリー・ブルーズ・ギタリストがスライド・プレイを聴かせてくれるものを、いろいろと14曲集めたアンソロジーで、ジャケット裏に1991年リリースと書いてある。収録の全14人(組)、91年当時だとまだ知らない名前も半分くらいは混じっていたはず。

今では僕もよく知っている人たちばかり、と言いたいがよく知らない人たちもまだ少しいる。全く知らないのは八曲目で「セント・ルイス・ブルーズ」をインストルメンタル演奏するジム&ボブだ。別名ジム&ボブ、ザ・ジーニアル・ハワイアンズ。誰なんだ、この二人組らしきギター・デュオ(に聴こえる)は?調べてみたら1930年代にシカゴで活動した白人二名らしい。う〜ん、知らんかった…。

ヤズー盤の例に漏れず『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』もカントリー・ブルーズの世界の人たちばかりなんだけど、ジム&ボブはブルーズ・メンとも言いにくい人たちなのかもしれない。仮にカントリー・ブルーズ・メンだとしても、そんな世界の人が W ・C ・ハンディが登録した曲をやるのは極めて珍しい。

「セント・ルイス・ブルーズ」だけでなくハンディが版権登録した曲は、もっぱらジャズ・メンや、それと深い関係がある通称いわゆるクラシック・ブルーズの女性歌手たちがよくやっていた。どっちも都会の音楽で、いくら曲の形がブルーズでも、カントリー・ブルーズ・メンはまずやらない。

だからカントリー・ブルーズのギター・スライド・アンソロジーに「セント・ルイス・ブルーズ」が入っているのは相当珍しいはずだ。少なくとも僕はこのヤズー盤以外で見たことがない。まあでも録音は稀でも、カントリー・ブルーズ・マンだってアメリカ各地で流しでやっていて、時代の流行歌はたくさんやったはずなので、ハンディの曲をやることだってありはしたんだろう。

『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』八曲目ジム&ボブの「セント・ルイス・ブルーズ」は1933年録音。ほぼ知らないこのギター・デュオは、一人が通常のギター・プレイで伴奏役、もう一人がスライドであの有名なメロディを弾いている。ブルージーなフィーリングは全くなく、コンビ名通りハワイアン・ギター音楽にかなり近い。

ハワイアン・ギター音楽と書いたが、そもそもギターでのスライド奏法はハワイがルーツらしい。19世紀から20世紀の変わり目あたりか、遅くとも1910年代にはアメリカ本土でも、スライドで弾くハワイアン・ギター音楽が流行するようになっていたらしい。だからその頃にそれを本土の(主に南部の)黒人たちが真似たんだなあ。

アメリカ本土の黒人ブルーズでギターをスライドで弾くのは、戦前に話を限ればもっぱらカントリー・ブルーズの世界での話であって、シティ・ブルーズのギタリストがスライド・プレイを聴かせる音源はほとんどないじゃないかなあ、戦前では。その後は広く拡散して、戦後はブルーズだけでなく、ロック界も含めいろんなギタリストがやるようになったけれど、それらも全てルーツは南部のカントリー・ブルーズ・ギターだ。

カントリー・ブルーズ、特にギターをスライドで弾く時は、非常にしばしば、というかほとんどの場合レギュラー・チューニングではない。主に二種類のオープン・チューニングにするのだが、それを一般にスパニッシュ・チューニング、ヴェスタポル・チューニングと呼ぶ。こういう DVD があるようだ。
スパニッシュ・チューニングとはオープン A(かたまにオープン G)系のもの。ヴェスタポルはオープン D かオープン E のチューニングのこと。オープン A は6弦から順に E - A - E - A - C♯ - E となる。オープン D は6弦から順に D - A - D - F♯ - A - D だ。

こういうオープン・チューニングにしないとギター・スライドはやりにくいのが実情。単にシングル・トーンでメロディを弾くだけならそうでもないが、メロディを弾きながら同時にコードや(低音弦で)ドローンを鳴らしたり、場合によってはバー(でもなんでもいいが)一本で押さえてコードを鳴らすこともあるわけだから。

またスライド・プレイの際に用いられる弦を押さえる道具も、今日話題のヤズー盤は「ボトルネック」の名称をアルバム・タイトルの一部にしているが、それはシンボリックな意味であって、実際は様々。一般的には金属製かガラス製のものだろうなあ。でも動物の骨を使うこともあったらしい。

骨を使った際の音は僕はよく知らないが、金属を使うかガラスを使うかによってスライド・プレイで出る音の感触も変化するのは当然。一般にボトルネックなどと呼ばれるガラス瓶の首を切り取ったものではまろやかな音になるのに対し、金属製のスライド・バーだと音色がもっと硬くて鋭いものになる。

さて『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』に収録されている人たち。まだジム&ボブの話しかしていないが、最有名人は間違いなく六曲目「ミルクカウズ・カーフ・ブルーズ」(1937)のロバート・ジョンスンだ。その次が四曲目「ザ・パナマ・リミティッド」(1930)のブッカ・ホワイトだろうなあ。

その他、一曲目「アトランタ・モーン」(1930)のバーベキュー・ボブ、七曲目「ブラック・エイス」(1937)のブラック・エイス、10曲目「マイ・ワッシュ・ウーマンズ・ゴーン」(1931)のカンザス・ジョー&メンフィス・ミニー、11曲目「イーヴル・ハーティッド・ウーマン・ブルーズ」(1936)のオスカー・ウッズ、12曲目「ユー・キャント・キープ・ノー・ブラウン」(1926)のボ・ウィーヴィル・ジャクスン、14曲目「ソー・ロンサム」(1928)のランブリン・トーマス、これらはブルーズ・ファンなら知っている人たちばかりだ。

上記以外の収録曲をやっているブルーズ・メン(とウィミン)はさほどの知名度はないはずだが、聴くとみんな上手いギター・スライドだなあ。場合によってはスライド奏法なのかそうでないのか、判断が難しい場合すらある。収録曲は全て1926年以後の録音だから、もはや全員スライド奏法を自家薬籠中のものとしていた時期。

有名人でも無名人でも『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』を聴くと、ギターをスライドで弾く奏法の利点が非常によく分る。最大のメリットは、フレットで区切られた半音単位以下の微分音をいとも簡単に出せ、しかも連続的かつ滑らかにそれらを演奏できること。

戦後のギター・ブルーズとロック・ミュージックが普及してからは、チョーキングのテクニックが一般的になったけれど、あの半音以下の小さな音を出してスクイーズしながらヴィブラートをかける感情表現は、ひょっとしたらスライド奏法から発展したものだったのかもしれないよね。

もちろん戦前ブルーズ界のアクースティック・ギター弾きのなかに既にチョーキングのテクニックを使う人はいる。がしかしそもそもそういう古いギタリストたちが弦をギュッと引っ張って押し上げる(あるいは押し下げる)表現スタイルは、同じ楽器であればスライド奏法で出せるあの音程変化とヴィブラートから思い付いたのかもしれないから。

むろんギターに限定しなければ、ヴォーカルやヴァイオリン(など)では大昔から当たり前の演奏テクニックだし、また管楽器、特にジャズ・サックス奏者が音程を微妙に変化させるピッチ・ベンドというものがあったので、そのあたりからチョーキング奏法を思い付いた可能性だってある。

そしてそもそもカントリー・ブルーズ・ギター界におけるスライド奏法だって、そんなヴォーカルやフィドルといったブルーズ界においても当たり前に存在する表現方法を真似したい、あの微妙に小さな音を連続的に出して震わせるという、あのチャーミングな音表現をギターでもやりたいと思ったのが最大のきっかけじゃないかなあ。

上で書いたようにルーツ的にはハワイアン・ギターの演奏法にはじまったらしいスライド奏法だけど(中村とうようさんはこれを否定、マウンテン・ミュージックのダルシマー起源説を言った)、ハワイのギター音楽では少しニュアンスが違っているように思える。ヴォーカルなどと同等の表現をしたいということよりも、やはりギターだけでの独自表現だなあ。ブルーズでのギター・スライドはヴォーカルと同化しているからね。

まあ19世紀末〜1910年代あたりのハワイアン・ギター・スライドをアメリカ本土の黒人たちが聴いた(ということになっているが、やや疑わしい気もする)時、それがどんな表現スタイルだったのかは録音がないので確かめられない。が録音物で辿る限りでは、主に南部の黒人ブルーズ・ギタリストたちは、やはり肉声的表現を求めてスライド奏法をやりはじめたはず。

さらにスライド奏法だと、ギター・ネックの指版上を素早くシュ〜ッと滑らせることにより、幅広い音域全体を一瞬で出せるというメリットもある。これはまあスライド奏法でなくとも、指で同じことはできるのだが、出てくる音色が全く違うのだ。これの場合は肉声的表現というものでもなく、一種の効果音みたいなもんだなあ。

『カントリー・ブルーズ・ボトルネック・ギター・クラシックス 1926-1937』全体を通して聴くと、この時期に既にそんな種々のギター・スライド奏法が存在し、表現スタイルが確立されていたことが分る。もちろん最も頻繁に聴けるのは、細かく微分音的にトレンブリングする感情表現だけどね。

2016/12/28

哀切ラヴ・ソングで表現する女性の肯定感

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「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」という曲がある。バディ・ジョンスンが1945年に書いたブルーズ・バラードだから決して新しいものではない。直後にまず最初は妹のエラ・ジョンスンが兄バディの楽団の伴奏で歌ったものだけど、一般的には1963年のレニー・ウェルチ・ヴァージョンでよく知られているだろう。
しかし僕はこのバラードをヴォーカル・ヴァージョンで知ったのではない。ジャズ・トランぺッター、リー・モーガンが1958年のアルバム『キャンディ』のなかでやっていたので知った曲だった。もちろんインストルメンタル演奏なので、どんな内容の歌なのかは分らないが、美しいメロディだなと思ったわけだった。
その後 CD 時代になって、ダイナ・ワシントンでヴォーカル・ヴァージョンを知った「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」。ダイナはこの切なく哀しいラヴ・ソングをマーキュリー・レーベルに二回録音している。一回目は1947年にピアノとベースだけ(最初ちょっとチェレスタが入る)の伴奏で。二回目は1961年にクインシー・ジョーンズ編曲・指揮のオーケストラ伴奏で。

一度目の1947年ヴァージョンはシングル盤で発売されたので、当然二種類の録音集に入っている。マーキュリー録音完全ボックス・シリーズの第一巻。そしてキーノート、デッカ、マーキュリーの全シングル集四枚組『ザ・ファビュラス・ミス・D』。

二度目の1961年ヴァージョンは、CD ではマーキュリー録音完全ボックス・シリーズの七巻目にしか収録されていないはずだ。聴き返してみると、どうも最初の録音であるピアノとベースの伴奏だけで歌う1947年ヴァージョンの方が切々と胸に沁みるようなヴォーカル表現のような気がするなあ。
この「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」をこの人以上に感動的に、というかドラマティックにやった歌手はいないんじゃないかと思うのがローラ・リーだ。知名度の高い人じゃないよね。でも熱心なソウル・ファン、特にホット・ワックス/インヴィクタス系のものがお好きな方であればご存知だろう。

僕はそんな熱心なソウル・ファンではないし、ホット・ワックス/インヴィクタスについてもあまり知らないのに、どうしてだかローラ・リーのアルバムを持っている。もっともそれはオリジナル・アルバムではなく、1997年リリースの CD 二枚組ベスト盤『ラヴズ・ライツ&ロングズ:ザ・ベスト・オヴ・ローラ・リー』。Deepbeats Records というところが出している。

ベスト盤とはいえ、この女性ソウル歌手の代表作はほぼ全て揃う約1時間51分。僕にはこれで充分だ。しかし全く名前も知らない(今でもほとんど知っているとは言えない)人なのに、どうしてこのベスト盤を買ったんだろう?まあそういうのいっぱいあるけどね。いつどこでどういう理由で買ったのか、サッパリ分らない謎盤がたくさんあるだろう、みなさんも。

あれじゃないか、ローラ・リーは1967年にチェス・レーベルと契約して、この会社が彼女をマスル・ショールズのフェイム・スタジオへ向かわせて、そこで録音したものがあるから、フェイムになんだか特別な思い入れがあるらしいお前はそれで興味を持ったんだろ?と思われるかもしれないが、それは違うんだよね。

だいたいローラ・リーにそんなキャリアがあったなんてこと自体、かなり最近、調べてみて初めて知ったことだからなあ。だから CD 二枚組ベスト盤を買った時点では何者なのかま〜ったく知らなかったはずで、だからどうして買ったのやら分らないわけだ。

ローラ・リーのアルバムは全部で四枚しかない(その他、一時引退後の最近、ゴスペル・アルバムを出しているようだが)。そのうちの一枚がキャデット盤(チェス系)なので、ホット・ワックス/インヴィクタスからは三枚だけ。二枚組ベスト盤『ラヴズ・ライツ&ロングズ:ザ・ベスト・オヴ・ローラ・リー』はそこから満遍なく選ばれている。

話題にしている「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」は、最初のアルバムである1972年リリースのホット・ワックス盤『ウィミンズ・ラヴ・ライツ』に収録されているもので、しかも約八分間もあるという、普通の恋愛ソウル・ナンバーとしては異例の長尺もの。
いや、普通の恋愛ものでもないような歌だ。このローラ・リー・ヴァージョンはかなりの劇的なアレンジと大幅な拡大解釈がされているから分りにくいかもしれないが、上で貼ったダイナ・ワシントン・ヴァージョンならすぐに分るはず。「私の幸せな家庭を、あなたは私に捨てさせたのよね」と歌い出しているだろう。

つまりこれは不倫の歌だ。しかも家庭を捨てて不倫に走って、その結果終生結ばれるのであればまだしも、この主人公は結局その不倫相手の男に捨てられてしまい、というか男が去って(死んで)しまい、しかしそのあとも男のことが忘れられず、いつまでも未練があって、いまだに愛しているのよ、と歌っている。

「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」は「あなたと恋におちてから」その他、ロマンティックな邦題になっていることが多いけれど、それは正確じゃない。”fall for” はちょっとニュアンスが違うんだよね。この表現はいわば「騙される」とか「ひっかかる」とか「おとし入れられる」くらいの意味なのだ。

だからこの曲を歌う女性歌手は、幸せな家庭がありながら別の男に騙されて惚れてしまい後戻りできなくなって、それなのに男の方は死んでしまっていなくなって、それなのに先の見えない真っ暗闇のなかでいまだに忘れられず愛し続けているのよと歌っているという、なんとも哀しすぎる歌なんだよね。

ところが上で紹介したローラ・リーのホット・ワックス録音ヴァージョンをお聴きいただきたい。そんな哀切感が全くといっていいほど感じられない。それどころか正反対に、そんな女性の人生を謳歌して賛美しているかのようなフィーリングでのアレンジと歌い方だよね。

ローラ・リーの「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」は、かなり長めのモノローグではじまっている。歌本編に入ってからも大胆にモノローグをはさむ。こんなのはもちろんオリジナル・ヴァージョンにも、彼女に先行するいろんな歌手のヴァージョンにも存在しない。ローラ・リーのだけなんだよね。

歌に入るまで二分間もあるそのモノローグ。男との最初の出逢いの様子から語りはじめ、その時どれだけ彼が素敵に見えたのか、どれだけ惚れて取り憑かれてしまったのか、そして彼は今去って(死んで)しまったけれども、私の今の気持はどんなものなのか知ってほしいわ、本当に本当にあなたを愛しているこの私のこの気持をと、約二分間も。

それも相手をなくした女が涙でも流しながら切々という感じではなく、カラリと明るい感じ、と言うと少し違うのかもしれないが、かなりポジティヴに、こんな生き方を私は謳歌しているのよとでも言いたげなフィーリングに感じるのは僕だけかなあ?

歌本編に入ってからのローラ・リーの歌い方も、未練が切なく後を引いているような感じではなく、”misery and pain” "never see the lights" などと言っているわりには明るく強く人生を肯定するようなポジティヴな感じで歌っているし、いまだに彼を愛しているのよと、これまた歌の最中にもしばしば挿入されるモノローグも同じような、私はこう生きているのよ!という強い肯定感がある。

さらに伴奏のアレンジの劇的な展開も特筆ものだ。ローラ・リーの歌本編に入った曲全体の 3:12 までは普通のラヴ・バラード風なアレンジだが、3:13 で一瞬、快活で強いリズムになり、そうかと思うとすぐに戻り、その後は 3:12 までと同じ感じの伴奏だけど、そんな快活でないような部分でもかなりポジティヴなフィーリングのリズムとサウンドだよね。

またローラ・リーが歌い終った 6:03 にはかなり激しく演奏が変貌しているよね。そこからラストまでは、バック・コーラスは薄く入るがリード・ヴォーカルなしのほぼインストルメンタルで、このかなりのポジティヴな解釈でやる哀切ラヴ・ソングを、シンフォニックに大展開しているようなものだ。

ローラ・リーが1971年にホット・ワックスに「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」を録音するとなった際、このモノローグを大きく挿入するというアイデアと、ポジティヴなフィーリングでやるという解釈と、さらにかなり劇的なテンポ・チェンジとサウンドの激変を伴うアレンジを考案したのは誰だったんだろうなあ?

ホット・ワックス・レーベルは、ご存知の通りモータウンを去ったホランド〜ドジャー〜ホランドのチームが1968年に、モータウンと同じデトロイトに設立した会社で、ブッダが配給していた。1973年には終ってしまうが、インヴィクタスに移行して、同じ歌手や音楽家を起用して同じ音楽をやったので、ファンはホット・ワックス/インヴィクタスと言う。

ローラ・リーの「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」が収録された1972年リリースのホット・ワックス盤『ウィミンズ・ラヴ・ライツ』のプロデューサーはウィリアム・ウェザースプーンだ。というかこの女性歌手がホット・ワックス/インヴィクタスで歌ったものは、大半がウェザースプーンのプロデュースによるものらしい。

ってことはあの「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」の、肯定的な女性の生き方を強く表現するようなアレンジと歌い方とモノローグも、ウィリアム・ウェザスプーンのアイデアだった可能性はある。僕の持つ CD 二枚組ベスト盤『ラヴズ・ライツ&ロングズ:ザ・ベスト・オヴ・ローラ・リー』附属ブックレットにはそのへんのことが全く書かれていないし、そもそもウィリアム・ウェザスプーンがプロデューサーだったことすら一言も記載がないので、ネットで調べて分ったのだ。

『ラヴズ・ライツ&ロングズ:ザ・ベスト・オヴ・ローラ・リー』を通して聴くと、そんな女性の自由と権利と自立を歌うかのようなものが多く並んでいるのは確かだ。曲名や歌詞がというんじゃなく、歌い廻し、サウンド、リズムが開放的で力強く前向きなんだよね。そしてそれらの録音は、時期的には1960年代後半〜70年代初頭からアメリカ発で大きく広がった例の「ウーマン・リブ」(Women's Liberation)運動とピッタリ重なる。今でいうフェミニズムの走りだ。

しかしながらローラ・リー自身は、自分は基本的にはウーマン・リブとかなんとかに肩入れしているわけじゃないのよと語っていたらしい。ただ単に愛し合う二人が一緒になって自由になるべきだという考えで歌っただけなのよと言っているようだ(と附属ブックレット英文解説にある)。

前から繰返しているけれど、音楽家自身が自己の音楽について解説する発言をそのまま額面通りに受け取っちゃいけない場合がかなりある。ローラ・リーの場合は、歌を聴いたら確かに彼女の言う通りのシンプルな表現で、愛と自由という極めて普遍的なテーマを歌っただけなのかもしれないが。

だけれども、まあ二枚組ベスト盤一つを聴いているだけの僕が言うのも憚られることかもしれないが、並んでいる歌全29曲は、なかにはソウル・スタンダードの「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラヴ・イズ」や「ウェン・ア・マン・ラヴズ・ウーマン」とか、あるいはエタ・ジェイムズの「アット・ラスト」もあったりするけれど、多くはやはり肯定感に満ちた女性の生き方を力強く歌い上げるものだというのは、聴いての僕の率直な感想なんだよね。

本当のところ、ウーマン・リブ運動と、ローラ・リーのソウル・ヴォーカルとサウンドとリズムの前向きの肯定感に満ち満ちたフィーリングとの関係は僕には分らないので、あまり深入りするのはやめて、今日はここまでにしておこう。なお、声と歌い方だけ聴くぶんには相当にパンチが効いてているローラ・リーだけど、写真を見ると、想像に反し細身の女性だなあ。

2016/12/27

Us3はソウル II ソウルと同じ

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今では誰一人見向きすらもしないんじゃないかと思う Us3。でも1990年代にはかなり人気があったんだよね。特に92年にシングル盤「カンタループ」が出て、翌93年にそれが収録された最初のアルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』がキャピトルからリリースされた頃は、そりゃもう絶大なる人気を誇っていた。あの頃は特にジャズ・ファンじゃない音楽リスナーだって Us3、Us3って言ってたもんなあ。

数年前から日本で大人気の例の JTNC。考えてみたらあれの走りが Us3だったように思うのに、JTNC 系に夢中な方々は誰も Us3の名前を出さない。むしろ主導者自ら積極的に否定しにかかっているかのようにすら見える。いわく「1990年代のジャズと2010年代のジャズはこう違う」とね。同じに聴こえる僕は要するに違いの分らないオジサンってことなんだろう。う〜む、ネスカフェ。

JTNC 系のものはどうでもいいので放っておいて、Us3。ファースト・アルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』だけは今聴いてもかなりいい。カッコイイよね。特にいいのが1トラック目の「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」、8トラック目の「トゥッカ・ユーツ・リディム」、ラスト13トラック目の「ザ・ダークサイド」だ。

1992年にまず出たという Us3最初のシングル「カンタループ」は僕は買わなかった、というかそもそも Us3の存在も知らなかった。翌93年にファースト・アルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』がリリースされ大きな話題になって、確か FM ラジオでも1トラック目の「カンタループ」が流れるのを聴いたはずだし、テレビ CM かなにかでも同じものが使われていたような気がする。

そんなことで耳にした「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」がえらくカッコイイので、すぐに CD ショップでアルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』を買って何度も聴いた。いやあ、本当にカッコよかったんだよね。しかも大半のトラックは、サンプリングされているブルー・ノート・ジャズのレコード音源、ネタ元も周知のものだったので、その意味でも楽しかった。

それまで特にジャズ・ファンではなかった方であれば逆だっただろう。Us3を聴いて、これいいなあ、元ネタはなんだろう?と思っても、CD パッケージに入っている紙に書いてある「〜〜からのサンプルをフィーチャー」となっているその「〜〜」が分らなかったかもしれないよね。それで情報を探したんじゃないかなあ。

『ハンド・オン・ザ・トーチ』CD アルバム附属の紙にはサンプルの曲名と演奏者名しか書いていないから、知らない人はどのレコード(CD)を買えばいいのか分らないと思うんだよね。僕の持っているこのアルバムはオリジナルの UK 盤なんだけど、あるいは日本盤が出たのかどうか知らないが、出たのであれば日本語ライナーノーツには、サンプル収録の元のアルバム名なども明記されていたかもしれない。

あるいは日本語でも多数の音楽記事が Us3をとりあげて、使われているサンプルを収録してあるブルー・ノートのジャズ・アルバムを紹介してあったかもしれない。僕はほぼ全て周知のものだったので、そういうものは全く読まなかった。でも Us3が使ったサンプルに導かれ、そういうレコードや CD が売れたのかもしれない。

だいたい1トラック目「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」のサンプル収録アルバムであるハービー・ハンコックの1964年『エンピリアン・アイルズ』には、えらくカッコイイ「ワン・フィンガー・スナップ」と「カンタループ・アイランド」があって、この二つは人気曲だったとはいえ、アルバム自体はさほど目立たず大人気というほどのものでもなかったもんね。

あの1960年代の新主流派と呼ばれた時代のハービー・ハンコックで一番人気があったのは、もちろん1965年の『処女航海』であって、あとちょっと毛色が違うけれど68年の『スピーク・ライク・ア・チャイルド』も大人気で、『エンピリアン・アイルズ』はそれらに次ぐ三番手みたいな感じだった。

ところが Us3がサンプリングして使ってくれて、えらくカッコいいヒップ・ホップ風ジャズに仕立て上げてくれたおかげで、ネタ元のハービーの「カンタループ・アイランド」を含むアルバム『エンピリアン・アイルズ』も売れたかも。あのハービーの「カンタループ・アイランド」は、元々ヒップ・ホップ風にしやすいループ的なピアノ・リフをハービーが弾いているし、Us3もそこをサンプリングしてある。
このハービーのを Us3はこんな風にした。冒頭に、これもサンプリングされて入っている甲高い声での MC が誰でどのアルバムで聴けるなんてことは説明不要だから省略する。ヒップ・ホップ風のリズムを出すドラムスのサウンドは打込みだけど、プログラミングしたのはメル・シンプスンかジェフ・ウィルキンスンか、どっちなんだろう?
トランペットのソロが聴こえはじめるが、それはジェラルド・プリゼンサーによる生演奏。ラップ・ヴォーカルはラサーンとコービー・パウエル。ラップが聴こえるジャズってのがそれまでなかったわけだし、普通の4ビートのメインストリーム・ジャズからサンプリングして、ヒップ・ホップ風のデジタル・リズムくっつけたのとあわせ、やっぱり Us3、新しかったよなあ。

そう、Us3の『ハンド・オン・ザ・トーチ』で用いられているサンプルは、メインストリームの4ビート・ジャズが多いのだ。例外は2トラック目「アイ・ガット・イット・ゴーイン・オン」で入っているリューベン・ウィルスンの「ロニーズ・ボニー」とあと少しだけ。リューベン・ウィルスンの1968年の『オン・ブロードウェイ』はファンキーでソウルフルなオルガン・ジャズだ。
この元からファンク・ビートを使ったリューベン・ウィルスンのサンプル以外は、Us3の『ハンド・オン・ザ・トーチ』にあるサンプルのほとんどが、カッコイイが普通のジャズだ。それにヒップ・ホップ風なデジタル打込みリズムを付けて、ラップ・ヴォーカルと管楽器の生演奏ソロを乗せているんだよね。

Us3は元々ロンドンでジェフ・ウィルキンスンがメル・シンプスンと共同ではじめたプロジェクトだった。ブルー・ノートのジャズ・レコードを使っていろいろとやっていたらしいのだが、それらからのサンプルを使ってダンサブルなビートを創ったのがラジオなどでとりあげられ人気が出たのを、当時ブルー・ノート音源の権利を持っていた EMI レコーズ幹部の耳にも入り、やや喜ばしくないと思われたのか、ジェフ・ウィルキンスンはロンドン EMI のオフィスに呼び出され、なにか言われたんだそうだ。

ロンドン EMI のオフィスでジェフ・ウィルキンンスンがなにを言われたのかまでは分らない。とにかく話し合いの結果、裁判沙汰にはならず、ジェフ・ウィルキンスンは EMI から公式にブルー・ノート音源をサンプリングしてよし!との許諾がもらえたのだということは分っている。それで天下晴れて堂々とブルー・ノート・ジャズの音源をサンプリングしたものをリリースできるようになった。

その最初の成果が1992年の初公式リリースのシングル盤「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」だったのだ。公式も公式、これはブルー・ノート・レーベルからリリースされたシングル CD だからね。その翌年93年に出たアルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』もブルー・ノート・レーベル(のブランド名権利を当時持つキャピトル)盤だ。やはりブルー・ノート盤のセカンド・アルバム『ブロードウェイ&52nd ストリート』までは僕も買った。

そのセカンド・アルバム『ブロードウェイ&52nd ストリート』は今では僕ですらもう聴かないし、おそらく今後も聴くことはないだろう。ファースト・アルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』だけで充分。今聴いても楽しいものだとはいえ、これ一枚だけでジェフ・ウィルキンスンとメル・シンプスンの手の内は100%分ってしまうからだ。

さて、Us3は公式には1992年デビューで、ファースト・アルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』が93年のものなんだけど、僕のなかではこのユニットは、同時期のソウル II ソウルとぴったりイメージが重なっている。ソウル II ソウルのデビューの方が数年早いけれど、だいたい1990年代前半に英ロンドン発で大ヒットしたという点においてもね。

音楽の創り方もソウル II ソウルと Us3は共通していたんじゃないかと思うんだよね。Us3の方はジャズであるブルー・ノート音源のサンプルをメインに据えるという大きな違いはあるものの、それ以外はかなり似ている。両者ともビートはコンピューターで創るデジタル・サウンドだしなあ。

Us3では、デジタル・ビートに乗せて、トランペットやトロンボーンやサックスといったジャズでは花形である管楽器の生演奏ソロがあるというのもあたかも売り物の一つであるかのように思えるかもしれないが、僕の耳にはそうは聴こえない。だってサンプル元のレコードで聴ける一流ジャズ・メンのソロを聴いてみて。比較にすらならないよ。

だからソウル II ソウルも Us3も、デジタル・ビートに乗せて人声ヴォーカルが乗るという点こそが売りなのだ。前者では主に普通の「歌」で、後者ではそうじゃなくもっぱらラップだけど、前者も DJ 風な喋りが入っていることが多かったし、<デジタル・ビート+肉声>という点では同じだ。

また当時はなんとなく「似ている」「共通している」「同じようなもんだ」とぼんやり感じていただけのソウル II ソウルと Us3だけど、いま後者の『ハンド・オン・ザ・トーチ』を聴き返すと、ぼんやりどころではない明瞭な類似性がある。5トラック目「ジャスト・アナザー・ブラザー」はソウル II ソウルのいわゆる グラウンド・ビートそっくりだ。
コンピューターで創ったクローズド・ハイハットを刻むシャカシャカという十六分音符の音をメインに据えた全く同じパターンじゃないか。この今貼った音源を聴いた上で、ソウル II ソウル最大のヒット曲「キープ・オン・ムーヴィン」(1989)を聴いていただきたい。
どうです、同じでしょ?打込みドラムスのサウンド、主にクローズド・ハイハットの十六分音符などを使ったビートの創り方は完全に同じだ。また Us3『ハンド・オン・ザ・トーチ』12トラック目「メイク・トラックス」もちょっとグラウンド・ビートっぽいよ。
これはソウル II ソウルのファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』(1989) 二曲目の「フェアプレイ」で聴けるビートに瓜二つだ。
その他細かい部分まで例をあげていたらキリがないと思うほどなんだよね。ソウル II ソウルのファースト・アルバムは1989年に出ていて、Us3は1992年に活動開始したんだから、大ヒットした三年前のソウル II ソウルは間違いなく聴いているし、どっちも同じようなレコード DJ、プロデューサーを中心としたプロジェクトなんだから、やり方が共通していても不思議じゃないね。

当時は逆だったんだけど、今ではどっちかというとソウル II ソウルの『クラブ・クラシックス Vol. 1』よりも Us3の『ハンド・オン・ザ・トーチ』の方が好きで聴く回数も多い僕は、やっぱりジャズ・ファンなんだろうなあ。1トラック目の「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」がカッコイイと思うけれど、アルバム・ラスト13トラック目の「ザ・ダークサイド」が今では案外一番いいかもしれないね。
これで使われているサンプルはドナルド・バードの1974年盤『ステッピング・イントゥ・トゥモロウ』一曲目のアルバム・タイトル曲。これも Us3の『ハンド・オン・ザ・トーチ』では少ない、非4ビートなファンキー・ジャズからのサンプルだ。ドナルド・バードはある時期以後こういうのをやっていたよね。

2016/12/26

ロッドの歌うトム・ウェイツ

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ロッド・スチュワート の『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』は2009年リリースのワーナー盤なんだけど、これが発売されるまでの経緯を説明するのはちょっと面倒臭い。なんたって『ザ・ロスト・アルバム』という副題が付いているくらいで、1992年に録音されたまま当時は発売されず、長年そのままだった。

というと実は不正確で、録音されたもののうち五曲だけが、それもアメリカとカナダ以外で発売された。それが1993年のワーナー盤『リード・ヴォーカリト』の後半だ。そしてこの言い方も不正確で、まず1992年のカヴァー・ソング録音プロジェクトから、トム・ウェイツの「トム・トラバーツ・ブルーズ」が同年にヨーロッパでだけ発売されていた。

ロッドとウェイツというと、1989年にロッドが歌うウェイツ・ナンバーの「ダウンタウン・トレイル」が世界的にヒットしている。おそらくそのあたりから有名・無名ロック・ナンバーのカヴァー集を製作するという意図が芽生えはじめたんじゃないかなあ。

ロッドの「ダウンタウン・トレイル」のプロデューサーはトレヴァー・ホーンで、当時のワーナー UK の取締役だったロブ・ディキンズの発案によるものだった。ロブ・ディキンズは「ダウンタウン・トレイル」の大ヒットに意を強くして、同趣向の一枚のアルバムを創ることを考えたんだろう。

それでやはりトレヴァー・ホーンをプロデューサーに起用して1992年に録音されたのが『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』だ。だがこれはお蔵入りしてしまった。なぜならリリースするかしないかというタイミング、あるいはポスト・プロダクションの途中で、別の魅力的な企画が持ち込まれたからだ。

それが例の MTV アンプラグドのアクースティック・ライヴ。1992/93年頃にはポール・マッカートニーやエリック・クラプトンといったロッドよりもキャリアの長い古参ロッカーの MTV アンプラグド・アルバムが発売され人気が出ていて、一種のアンプラグド・ブームだった。

それでこの企画を MTV 側から持ち掛けられたロッドは、完全にそっちに傾注するようになって、録音済の『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』の方はそのまま放ったらかしにしてしまった。ワーナー側としてはヨーロッパで先行シングルとしてリリースした「トム・トラバーツ・ブルーズ」の評判がいいので、完全に見捨てるわけにもいかなかった。

それで1993年に『リード・ヴォーカリスト』という、1970年代半ば以後ロッドが本拠にしていたアメリカ(とカナダ)以外で発売するベスト盤の後半に、『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』に収録予定だったものから五曲だけ選んで入れたんだろう。

だから僕の持っているロッドの『リード・ヴォーカリスト』は日本盤。アメリカ盤が存在しないわけだから。このアルバムの前半七曲は過去のロッドの有名ヒット・ソングを集めただけのただのベスト盤で、買う必要は全くなかった。古いものはジェフ・ベック・グループ時代の「アイ・エイント・スーパースティシャス」から、新しいものは1978年のヒット曲「ホット・レッグズ」まで。

『リード・ヴォーカリスト』の日本盤リリースは1993年3月で、MTV アンプラグドのライヴはその一ヶ月前に収録されている。恒例で音だけでなく映像も収録され CD と DVD が直後の四月にリリースされている。アメリカではこの『アンプラグド...アンド・シーティッド』が当時のロッドの最新作だった。

『アンプラグド...アンド・シーティッド』のなかには、『リード・ヴォーカリスト』ラストに収録されているトム・ウェイツの「トム・トラバーツ・ブルーズ」もあるし、前半のベスト盤的選曲のなかから「ハンドバッグと外出着」や「ステイ・ウィズ・ミー」や「ホット・レッグズ」もやっている。

つまりそういう内容なもんだから、『リード・ヴォーカリスト』はアメリカでは発売されず、また元々のプロジェクトで録音済だったフル・アルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』も『リード・ヴォーカリスト』後半に五曲だけ収録されたのを除き、そっくりそのままお蔵入りしたんだなあ。

最初に書いたように元々の『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』が、アメリカを含む全世界でリリースされたのは2009年。特に熱心なファンでない限り普通のアメリカ人リスナーが、このアルバムの内容を聴いた最初の機会だったはず。しかし「トム・トラバーツ・ブルーズ」だけは MTV アンプラグド・ヴァージョンがあった。

まあこんなややこしい事情があって、僕たち日本人のロッド・ファンにとっては、1993年3月リリースの『リード・ヴォーカリスト』、同年4月リリースの『アンプラグド...アンド・シーティッド』、2009年リリースの『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』の三つはゴチャゴチャにこんがらがっていたのだ。

それら三枚のうち『アンプラグド...アンド・シーティッド』は、1970年代からのロッド・ファンにもなかなか評判がいいみたい。おそらくはその時代の古いロック・ナンバーをたくさんやっているからだろうなあ。最大のヒット曲「ステイ・ウィズ・ミー」だけでなく、「ハンドバッグと外出着」「エヴリ・ピクチャ・テルズ・ア・ストーリー」「マギー・メイ」、そしてジェフ・ベックとやった「ピーピル・ゲット・レディ」もあるしね。

そんな『アンプラグド...アンド・シーティッド』の話はまた別の機会にしたい。なかなか楽しくて面白いアルバムだからね。今日は『リード・ヴォーカリスト』の後半五曲がなかなか悪くないという話を少し書いておきたかったのだ。書いてきたような事情で、1992年のカヴァー集プロジェクトから当時聴けたのはそれら五曲だけ。

スティーヴィー・ニックスの「スタンド・バック」、ローリング・ストーンズの「ルビー・チューズデイ」、ロイ・ C の「ショットガン・ウェディング」、コントゥアーズの「ファースト・アイ・ルック・アット・ザ・パース」、トム・ウェイツの「トム・トラバーツ・ブルーズ」の五曲だ。

それらのうち、1993年の僕にとって「ショットガン・ウェディング」と「ファースト・アイ・ルック・アット・ザ・パース」は全く未知の曲だった。ロイ・C はリズム&ブルーズ〜ソウル・マンで「ショットガン・ウェディング」は60年代半ばにヒットしたらしい。つまり R&B 〜ソウル好きだった若き日のロッドが聴いていたんだろうなあ。

コントゥアーズは、テンプテイションズ加入前のデニス・エドワーズが在籍していたらしいデトロイトの R&B ヴォーカル・グループみたいだ。「ファースト・アイ・ルック・アット・ザ・パース」も1965年のヒット・ソングらしいので、やはり若き日のロッドが聴いていたんだろう。

この二曲以外の三つは説明不要の有名曲だ。それら五曲で、プロデューサーのトレヴァー・ホーンが腕をふるって豪華な伴奏陣が活躍している。通常のロック・ナンバーで使われる、ギター、鍵盤、ベース、ドラムスといったリズム・セクションに加え、豪華なストリングスとホーン・セクションが入っている。

さらにコンピューター・プログラミングによるデジタル・サウンドも効果的に使われていて、しっとり落ち着いて淡々とした「トム・トラバーツ・ブルーズ」以外は、かなり賑やかで派手な雰囲気だ。ロッドを昔から聴き続けてきているファンにはあまり好みのサウンドじゃないかもしれないが、僕はそういうのも案外好きなんだよね。

しかしやはり一番出来がいいというか絶品なのは、やはりラストのトム・ウェイツ・ナンバー「トム・トラバーツ・ブルーズ」だね。1976年の曲だけど、そのウェイツのオリジナルからして既に(彼自身のピアノ弾き語りにくわえ)ストリングスが入っている。
個人的にはあのわざとらしい声の出し方と芝居掛かったような歌い方があまり好じゃないトム・ウェイツなんだけど、ソングライターとしては大好きなんだよね。その最高傑作がこの1976年の「トム・トラバーツ・ブルーズ」だろうと僕は考えている。サビで引用されているオーストラリアのポップ・ソング「ウォルチング・マチルダ」も効果絶大だ。

ロッドによるカヴァー・ヴァージョンも、上掲トム・ウェイツ・ヴァージョンに沿ったアレンジで、ピアノとストリングスによる伴奏がメイン。そこにかなり控え目にアクースティック・ギターが絡むだけといったもの。ヴォーカルの力量はどう聴いてもロッドの方が上だよね。
この YouTube 音源が『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』のジャケットを使っているのは当然だ。アメリカではこの2009年のアルバム・リリースまでこのスタジオ録音ヴァージョンは発売されていなかったからだ。アメリカ(とカナダ)以外の国のファンは 、1993年の『リード・ヴォーカリスト』で聴いていた人が多い。

いやあそれにしてもこのロッドの歌うヴァージョンの「トム・トラバーツ・ブルーズ」はなんて美しいんだ。まあこんな感じのサウンドの評判が良かったのが、あるいはひょっとして21世紀に入って以後のアメリカン・ソングブック集シリーズに繋がっていたのだろうか?

ただロッドはそういう路線に行く前の2000年に甲状腺癌を患って喉を手術した。そのためにそれ以前のような声は出せなくなっているんだよね。このことを踏まえると、そうなったあとの2009年に、1992年に既に12曲録音済だった『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』をリリースしたのが、なんだか意味深長に思えてくるなあ。

五曲だけ1993年に聴いていた『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』を、フル・アルバムで2009年に聴いてみたら、ボブ・ディランの有名曲などもあるものの、既知の五曲以外はどうもイマイチな感じがしてしまった。僕だけじゃないだろう。日本でも全世界的にもほとんど話題にならなかったからだ。

ってことは1993年に北米以外でリリースの『リード・ヴォーカリスト』後半に五曲だけチョイスしたのは、『ワンス・イン・ア・ブルー・ ムーン』用の録音から特に出来のいいもので、これはリリースしておきたいというものだけ五つ選んだということかも。

いずれにせよ、上掲「トム・トラバーツ・ブルーズ」の絶品の美しさを聴けば、このロック・カヴァー集はこれ一曲だけでも充分なんじゃないかという気がしてくる。それくらい素晴らしい。ロッド自身も直後に『アンプラグド...アンド・シーティッド』でライヴ再演したんだから、やはり気に入ったということなんだろう。

そんなわけで、僕にとってのロッド・スチュワートとは1993年の『リード・ヴォーカリスト』後半五曲と、同年の『アンプラグド...アンド・シーティッド』で既におしまいになっている人なのだ。

2016/12/25

年間ベストテン 2016

1995年以来毎年欠かさずネット上で発表し続けている私的音楽作品ベストテン。今年もここ数年の恒例で今日12月25日、クリスマスの日に発表しよう。これも毎年書いているけれど、僕の年間ベストテンはその年の作品とは限らない。あんまり前のものも選びにくいけれど、それでも僕が買う音楽ソフトは、出てすぐその年に買えるとは限らないものもあるからだ。

そういうわけで「今年買った」ものが対象で、二・三年前くらいのまでのリリースなら入れている僕の年間ベストテン。新作篇とリイシュー・発掘篇に分けて10枚ずつ。ではまず新作篇から。

(1) Irineu de Almeida e o Oficleide 100 Anos Depois

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大のショーロ好きの僕にとって、今年の一位はこれ以外考えられない。僕がショーロというものを知って以来リリースされた新作では、断然ナンバー・ワンの大傑作。いまだにこれを聴かない日はないかも。音楽は「進化」なんかしない。ただ本当に美しいものが、そのままいつまでも美しくあるだけだ 。
(2) Joana Amendoeira / Muito Depois

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ポルトガルの若手(でもないがもう)ファド歌手の最新作にしてベスト作。この声の存在感、迫力、凄みの前には全く言葉がない。伴奏も伝統的ファド・スタイルでジョアナもじっくりと歌い込む。歌が好きなリスナーなら一曲目の一瞬だけで撃沈させられてしまうはず。
(3) Oki Dub Ainu Band / UTARYHTHM

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アイヌの伝統楽器トンコリの奏者兼歌手の OKI さん率いる21世紀型の最新バンド。こういうのこそ「グローカル・ビーツ」と呼んで評価してほしいぞ。重たいリズムのグルーヴ感も最高。
(4) Lệ Quyên & Thái Thịnh / Còn trong kỷ niệm

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去年から惚けっぱなしのヴェトナム人バラード歌手レー・クエン。極めて細かい息遣いの隅々にまで行き届いた歌い廻しの繊細な表現力は、いまや世界中を見渡しても並ぶ者がいないんじゃないかと思うほど。
(5) João Donato / Donato Elétrico

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1950年代から活躍するブラジル人鍵盤楽器奏者ジョアン・ドナート。今年の新作はレトロな1970年代風ジャズ・ファンクでありながら、サン・パウロの若手を起用してアフロビート色も聴かせてくれる。いまだに個人的ヘヴィ・ローテイション盤。
(6) Femi Oorun Solar - Mercy Beyond... Aanu To Tayo

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今年、ブログ記事にしようしようと思いつつ書きそびれてしまったが、ナイジェリアのジュジュ・ミュージックの若手ナンバー・ワン、フェミ・オルン・ソーラーの新作。激しくダンサブルで豪快なように聴こえて、その実かなり繊細なパーカッション・アンサンブルに乗り、フェミの軽快なヴォーカルが舞う。

(7) Paul Simon / Stranger To Stranger

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2016年、この歳の老舗ロッカーがこんなにも瑞々しく新鮮なニュー・ミュージックを創ってくれるとは、失礼ながら予想だにしていなかった。アメリカ音楽(系)のものでは一番よかったね。
(8) Richard Bona / Herigate

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リシャール・ボナの音楽では、前々からラテン要素がいちばん好きな僕なので、アルバム一枚まるごとラテン音楽が全面展開する今年の新作はもってこいの僕向きアルバム。これもいまだに個人的ヘヴィー・ローテイション盤。
(9) Imarhan / Imarhan

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通称いわゆる砂漠のブルーズでは、年頭に日本でも買えるようになったティナリウェンの新作ライヴ・アルバムがものすごいものだったけれど、個人的な好みだけならこっちだ。みなさんよくご存知のトゥアレグ系バンドのサウンドでしかないのに、どうしてこんなに心地良いんだろう?
(10) George Dalaras & Nikos Platyrachos - Ta Astega

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ギリシアのヨルゴス・ダラーラスの新作は、レンベーティカとラグタイム(とそれをルーツとするアメリカ黒人音楽)との合体・折衷作で、この二つの一見無関係そうな音楽の共通性を、世界のポピュラー音楽史を俯瞰しながら考えさせてくれる面白いものだった。
新作部門では、選外にはしたが充実作が今年も多く、大いに頭を悩ませた。書いてあるようにティナリウェンの新作は入ってしかるべきだったし、個人的趣味嗜好だけならデヴィナ&ザ・ヴァガボンズの新作ライヴ・アルバムや、アラトゥルカ・レコーズの面々による『メイダン』だって選びたかったのだが、そこは我慢我慢。



続いてリイシュー・発掘篇のベストテン 2016。

(1) とうようズ・レガシー

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これが出た以上、これを一位にしないことは、熱心な中村とうよう教信者である僕には考えられない。普通の意味での音楽が聴けるのは附属 DVD だけ。でもページをめくるたびにとうようさんの声と、とうようさんが情熱を傾けたいろんな音楽のサウンドが聴こえてくるかのようだ。





(2) 油井正一『生きているジャズ史』文庫版

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ジャズに限れば僕が最も敬愛し影響を受けたのがとうようさんではなく油井正一さん。その油井さんの書いた本では個人的に最大の愛読書だった『ジャズの歴史』(東京創元社)が、リットーミュージックから九月に復刊文庫化されて、こんなにも嬉しいことはなかったね。
(3) Music of Morocco: From The Library of Congresss, recorded by Paul Bowles 1959

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サイズが大きいので、なかなか全貌を把握することがいまだにできていない僕だけど、1940年代末以来終生モロッコに住んだアメリカ出身の作家ポール・ボウルズが、現地の伝統音楽を採取したボックス・セット。今の僕にとってのボウルズとはアメリカ人作家ではなく、こういうモロッコ文化の人物だ。

(4) a viagem dos sans (the journey of sounds) ~ Goa

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ポルトガルのトラジソンがリリースした全12枚のシリーズ。今年になって日本盤が出はじめて簡単に買えるようになり、いわゆる大航海時代のポルトガルが、ギターなどの楽器や、それを使ったり使わなかったりするいろんな音楽を世界各地に持込んで現地で花開いた音楽文化の粋の一端が分りやすくなった。今までリリースされているなかから、僕が最も感動した「ゴア篇」を。
(5) Youssou N'Dour & Le Super Étoile De Dakar / Fatteliku (Live in Athens 1987)

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最近の現在進行形ユッスーにはもはや興味はないけれど、1980年代末〜90年代頭あたり、昇竜のごとき勢いだっ全盛期のユッスーであれば、いつでもどんどん聴きたい。これは1987年にアテネでピーター・ゲイブリエルに招かれてやったライヴ。ピチピチしたユッスーの輝かしい声とバンドの躍動感が素晴らしい。
(6) Bob Dylan / The Cutting Edge 1965-1966

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つい先日、今年も恒例のように巨大なボックス・セットがリリースされたボブ・ディラン。そんな毎年毎年ボンボン出されても困っちゃうわけで、僕の場合、昨2015年リリースのこの『ザ・カッティング・エッジ』も今年に入ってようやく買えた。だがしかしまだまだジックリとは聴き込んでいないという有様。周回遅れだなあ、僕は。ざっと聴いたところ、ディラン自身がアクースティック・ギターでボ・ディドリー・ビート(3・2クラーベ)のパターンを刻みながら歌う「ライク・ア・ローリング・ストーン」その他があるようだが。

(7) B.B. King - The Complete RPM - Kent Recordings

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これも値段がバカ高いのでなかなか買えず、半値程度にまで下がってきた今年になって買えた巨大ボックス。なんたって B・B・キング絶頂期の録音が(ほぼ)全て、これでもかというほど聴けるんだから、楽しいったらない。それにしてもアメリカ黒人ブルーズって、同じようなものをいくら続けて聴いても聴き飽きないね。

(8) The Rough Guide To Blues Women

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別になんでもない初心者向けアンソロジーのように見えるけれど、1920年代の通称いわゆるクラシック・ブルーズと、そのちょっとあとに録音を開始するカントリー・ブルーズの女性歌手が一緒くたに並んでいるという、案外存在しない編纂方針のもので、マニアもなかなかどうして侮れない一枚なのだ。
(9) Led Zeppelin / Coda [Deluxe Edition]

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アラブ〜インド音楽風味こそが僕の最も愛するレッド・ツェッペリンなんだけど、この『コーダ』二枚組デラックス・エディションには、なんと1972年にインドはボンベイ(ムンバイ)で現地のインド人ミュージシャンと共演録音した二曲がある。ジミー・ペイジはつまらんことばかりやってないで、こういう録音の全貌を一日も早く詳らかにしてくれよ。
(10) New Orleans Roots of Soul 1941-1962

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ドック・レゲエことブルーノ・ブルム監修・選曲・解説の三枚組アンソロジー。カリブに端を発し、その後内陸部のメンフィスなどなどソウル・シティに至る道程にあった、カリブへと拓けた河口の街であるルイジアナ州ニュー・オーリンズ。その地の音楽家の録音で、ソウル・ミュージックのルーツと展開・発展を辿るというもの。同じブルーノ・ブルムがてがけた『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』は年末に入手したばかりなので、来年に廻すことにしよう。

2016/12/24

Merry Christmas To You All !

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去年のクリスマス・イヴも同じものの話をしたじゃないかと言わないで。一応内容が違うので。上掲写真左も微妙に違うのだ。

ジェスロ・タルの『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』がリリースされたのは2003年。それから五年後の2008年にロンドンのセント・ブライズ教会(英国国教会)でタルがやった音楽を含むクリスマス・サーヴィスの模様が録音され、元の2003年盤とあわせ二枚組で2009年にリリースされている。スタジオ録音盤は既に持っているわけだから、ライヴ盤だけ一枚物で出してくれたら一番よかったんだけどね。

2009年リリースの二枚組『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』の二枚目の方は『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 というタイトルになっている。この2008年のクリスマスに行われたライヴ・コンサートを含むサーヴィスの主な目的はチャリティで、ロンドンのホームレスを経済的に支援しようという慈善企画だった。

ということが、2009年盤『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』の二枚目『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 に寄せてイアン・アンダースン自身が書いた説明文にある。なんだかちょっと高尚というか非常に格調高い英文で、読むのにちょっぴり苦労した僕の英語力の貧しさよ。

ジェスロ・タルの『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 は全17トラックで計1時間4分ほど。しかしそれらは全てがいわゆる「音楽」ではない。これは音楽コンサートというよりも慈善目的のクリスマス・サーヴィスの実況録音盤なので、タルの連中が演奏しない朗読みたいなトラックが複数ある。

ただ詩の朗読をやっているあいだでも、バックで楽器伴奏や聖歌隊の声が小さく入ったりもするので、音楽的要素がゼロだとも言い切れないし、それにそもそも英国はバラッドの伝統がある国だ。そうでなくたってそもそも声に出して読み上げる文学と音楽とのあいだに厳密な境界線は引けないだろう。古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩にも楽器伴奏が付いた。あの時代、文学は「読む」ものじゃなく「聴く」ものだった。印刷技術はおろか、紙すらもまだない。

それに文学、特に詩が声に出して読み上げられる時には、しばしば抑揚が付いてメロディアスになり、さらに韻律を伴う場合が多いので、リズミカルにもなるものだ。この音楽化する文学という方向性だけでなく、その逆、すなわち音楽作品が高度な文学的意味合いを帯び、そういうものとして評価される場合もあるのは、今年ボブ・ディランが証明したばかりじゃないか。

ともかくジェスロ・タルの『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 には詩の朗読と、さらにタルの連中はおそらく演奏に全く関わっていない、聖歌隊だけの賛美歌合唱がいくつもある。それらとさらにセント・ブライズ教会の牧師がサーヴィスを執り行う様子もちょっぴり収録されている。

とはいえ『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 、一応はジェスロ・タルを迎えて、彼らのやるクリスマス・ミュージックを楽しみ、参加者から少しずつ募金を集めてロンドンのホームレス支援に充てるというものなので、やはり七割程度は、普通のいわゆる音楽だ。

『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 収録のジェスロ・タルによる演唱は、全部で10トラック。殆ど全て先行する2003年の『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』で披露されていたレパートリーだが、二つだけそれには含まれていない曲がある。一つは4トラック目の「リヴィング・イン・ジーズ・ハード・タイムズ」。1978年の『ヘヴィー・ホーシズ』2003年盤のボーナス・トラックだったもので、特段クリスマスとは関係ない。

おそらくは慈善目的、しかも経済的に厳しい状況に置かれているホームレス支援、そしてそうでなくても日々過酷さを増す昨今の経済状況を鑑みて、「リヴィング・イン・ジーズ・ハード・タイムズ」がチョイスされたんだろう。曲がはじまる前にイアン・アンダースンがそんな意味のことをちょろっと喋って曲紹介している。

もう一つは『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 のラスト17トラック目でメドレーの最後に演唱される「シック・アズ・ア・ブリック」だ。これはジェスロ・タルを聴くファンのみなさんには、いやそうでなくたって UK ロック・ファンであればみんな知っている有名曲だから、説明不要。

ジェスロ・タルが演奏するものでは、これら二曲以外は全て2003年の『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』でやっていた曲ばかり。それらの『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 ヴァージョンとの最大の違いは、ドラムスの演奏が完全にゼロであることと、電気楽器も完全にゼロであること。

つまり『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 はドラム・セット抜きで完全フル・アクースティックなクリスマス・ミュージックなのだ。前作のクリスマス・アルバムでドラムスを叩いていたドーン・ペリーは既におらず、代わってジェイムズ・ダンカンが参加しているが、ドラム・セットは全く叩かず、カホンなどパーカッション各種を担当している。

またベーシストもジョナサン・ノイスからデイヴィッド・グディアーに交代しているが、デイヴィドもエレベではなくアクースティックな(おそらくギター型の)ベースを弾いているし、ギターも『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』では効果的にちょっとだけ使われていたエレキは完全に弾かれず、アクースティック・ギター・オンリー。

鍵盤楽器とアコーディオン担当となっているジョン・オハーラは、ひょっとしてシンセサイザーなのかなと思う音を出す瞬間もあるが、そんなのは極めて稀な例外で、アコーディオンの他はほぼ全てオルガンとピアノを演奏している。あとはマーティン・バーがマンドリンも弾いたりして、その上にお馴染イアン・アンダースンのフルートが乗っている。

ジェスロ・タルが演唱する個々の曲目については、書いたようにほぼ全て2003年の『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』にあるものなので、取り立てて繰返す必要はないだろう。昨年12月24日付の僕の記事でも少しだけ書いたので、ご参照あれ。
ただ『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 の方は全編ドラム・レスの完全アクースティック・ミュージックなので、そしてそれは英国国教会でのクリスマス・サーヴィスとして行われたものなので、やはり雰囲気が違うのは確かだ。雰囲気を変えているのは、ジェスロ・タルによるアクースティックなクリスマス・ロックのあいだに、敬虔な雰囲気の聖歌隊合唱が挟まれているのも一因。

『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』 にあるトラディショナルなクリスマス・キャロルは五曲。2トラック目のジョージ・ピッチャー牧師の語りに続く「ワット・チア」、5トラック目の「サイレント・ナイト」、10トラック目の「オー、カム・オール・イェ・ファイスフル」、 16トラック目の「ガウデーテ」、17トラック目のメドレー一曲目「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン」。

これらのクリスマス・キャロルのうち、「サイレント・ナイト」「オー、カム・オール・イェ・ファイスフル「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン」の三つは日本でもよく知られているスタンダードだ。最初のものは「聖しこの夜」、二番目は「神の御子は今宵しも」、三番目は「世の人忘るな」(あるいは「神が歓びをくださるように」など)の邦題が広く普及している。

「ガウデーテ」(Gaudete はラテン語で「歓び」の意)は僕は知らない曲だけど、調べてみたら欧米のキリスト教会ではそこそこ有名なものらしい。いやあ、まあ分らない。僕はキリスト教信者ではないので。17トラック目の「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン」だけは、ジェスロ・タルも2003年の『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』で既にやっていたものだ。

『クリスマス・アット・セント・ブライズ 2008』でも「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン」だけは聖歌隊合唱ではなく、ジェスロ・タルの面々によるアクースティックなロック風クリスマス・キャロル演奏になっている。それ以外の四つのクリスマス・キャロルではタルは全く演奏せず、聖歌隊合唱のみ。

そのアルバム・ラスト「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン/シック・アズ・ア・ブリック」は、最も長い10分以上もあるもの。ジェスロ・タルの面々によるインストルメンタル演奏がパッと止まると、イアン・アンダースンがクリスマス向けにちょこっと喋り、また演奏再開。

それも終ると切れ目なしでパイプ・オルガンが鳴りはじめ、今度は聖歌隊合唱だけで同じ「ゴッド・レスト・イェ・メリー・ジェントルメン」を賛美歌として歌いはじめる。その部分に来ると、完全なるキリスト教会でのクリスマス・ミサの敬虔な雰囲気になる。

そしてその聖歌隊合唱も終わると、またしても切れ目なしで今度はアクースティック・ギターを刻む音が聴こえはじめ、再びジェスロ・タルの演奏による「シック・アズ・ア・ブリック」に入っていくのだ。「シック・アズ・ア・ブリック」部分は非常に短く、約一分間しかない。そこはイアン・アンダースン一人のギター弾き語り。

それを終えると、イアン・アンダースン自身が「メリー・クリスマス・トゥ・ユー・オール、サンキュー!」と一言だけ、しかし大きくはっきりとした声で叫び、このクリスマス・サーヴィスは終りを告げる。

なお、2009年盤の二枚組 CD『ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム』を買うと、その収入は、避難所と食べ物などロンドンのホームレス支援のために廻ることになっていた。あるいは今でもそうかもしれない。

2016/12/23

マイルスがハーマン・ミュートでバラードを吹いたのはこれが初

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初リーダー作『クールの誕生』がキャピトル盤だったのを除いて、マイルス・デイヴィスが自己名義のアルバムを録音したレーベルは四つだけ。プレスティッジ、ブルー・ノート、コロンビア、ワーナーで全部だ。ということになっているが、実は一枚だけ別の会社へ録音したものがある。昔も今も誰も話題にしないけどさ。

それは1955年録音の『ブルー・ムーズ』で、デビューというレーベルのアルバム。デビューはチャールズ・ミンガスが1952年に設立した会社だ。正確には彼の妻セリアとマックス・ローチ三名の共同による会社だけど、実質的にはミンガス一人でやっていたようなところ。

『ブルー・ムーズ』は1955年7月9日にルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオで録音されている。この日付の二日前にプレスティッジに六曲録音したのが、アルバム『ザ・ミュージング・オヴ・マイルス』になっている。スタジオ録音ではこのあと八月に、やはりプレスティッジ盤『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』を録音。

がしかしもっとはるかに重要な演奏が七月にあった。それが例の17日のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのステージで、あの時にセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」を吹いたのが評判になって、それを聴いたコロンビアのジョージ・アヴァキャンが専属契約を申し出た(ということになっている)。

マイルスが今みたいな超有名人になったのも、全てはコロンビア移籍後のことだから、デビュー盤『ブルー・ムーズ』の録音は、その「伝説の」ニューポート・ライヴの直前というような時期。その頃のマイルスはもっぱらプレスティッジに録音していたのに、どうしてデビューに一枚だけ録音したのかにはいわくがある。

マイルスはチャールズ・ミンガスに借金があって、それをなかなか返済しようとしないもんだから、それに業を煮やしたミンガスが借金のカタ代りに自分の会社へ録音させたというもの。しかしこれ、本当なんだろうか?僕も大学生の頃から読んでいるものなんだけど、確たるソースがないんだなあ。

でもまことしやかに伝えられてきているものではある。そういえば大学生の頃の僕が『ブルー・ムーズ』を買ったのはいつもは行かないレコード店でのことで、なんとなく棚を漁っていたら見たことのないジャケットを発見したのだった。まあしかしホントどうしようもないジャケット・デザインではあるよなあ。

既にマイルスに狂っていたのでそのままレジへ持っていったが、その店は個人経営の小さなところで、店舗の半分がレコード売り場、もう半分がオーディオ売り場だった。『ブルー・ムーズ』とその他何枚か(僕は一枚だけ買うというのはしたことがない)をレジへ持っていくと、店主らしきおじさんに「珍しいもの見つけましたね」と言われた。

珍しいんだかなんだか当時の僕はあまりよく分らず、ただプレスティッジやコロンビア、ブルー・ノートの有名盤(ワーナーと契約するのはもっとずっと後)を聴いて狂いはじめていたので買っただけ。今考えたら確かにかなり珍しいアルバムなんだよなあ。

チャールズ・ミンガスからの借金のカタ代りなのかどうなのか、まあでもあの時期のマイルスならありうる話ではある。書いたように売れるようになって生活に不自由しなくなるのはコロンビアと専属契約して以後で、それ以前はインディーズのマイナー・ミュージシャンだったわけだからさ。

そのデビュー盤『ブルー・ムーズ』は全四曲でたったの26分ほどしかない。普通の聴き方をしている限りはっきり言って全く面白い作品じゃないんだが、でも僕を含めマイルス狂は、それでもそれなりに聴きどころを見つけてしまうのだ。僕の場合それは大きく分けて二点。

一つは前々から僕が繰返しているようにマイルスと先行するヴォーカル・ヴァージョンとの関係。もう一つはマイルスの持つ「白い」音楽性、すなわち現代西洋白人クラシック音楽的な志向がはっきりと聴き取れること。今の僕には前者の方が興味深いところ。

まず『ブルー・ムーズ』の一曲目はあの「ネイチャー・ボーイ」。もちろんご存知の通りナット・キング・コールが歌ったので超有名な一曲だ。ナット・キング・コールによる初演は1947年録音48年リリースのキャピトル盤。彼によるものでは、「モナ・リーサ」などと並び最も有名な歌唱だよね。
これを『ブルー・ムーズ』ヴァージョンのマイルスは、ハーマン・ミュートを付けてほぼそのまま踏襲している。そしてこれは非常に重要なことだから注意してほしいのだが、マイルスがトランペットにハーマン・ミュートを付けてヴォーカル・バラードを再現した史上初録音がこの「ネイチャー・ボーイ」なのだ。
その後は電気トランペットを導入する前まで、いちいち具体例なんかあげていく必要ないほどあんなにたくさんのハーマン・ミュートでのバラード吹奏があるマイルスの、その最初の一例なんだよね。しかもそれはナット・キング・コールの大ヒット・ソングだったという。

こんなところからもマイルスという人の音楽的志向をはっきりと読み取ることができるだろう。つまり多くの場合、誰か歌手が歌った美しいバラードを、その解釈そのままにハーマン・ミュートを付けて吹いた。それがマイルスだ。それはある時期消えてしまうが、1981年の復帰後は再び同じことをやるようになる。

『ブルー・ムーズ』では「ネイチャー・ボーイ」以外の三曲も全てヴォーカル・バラード。「アローン・トゥゲザー」「ゼアズ・ノー・ユー」「イージー・リヴィング」。後者二つはそれぞれフランク・シナトラ、ビリー・ホリデイで有名だからみなさんご存知のはず。

僕のブログを普段からお読みの方なら「またシナトラとビリー・ホリデイか…、そればっかりじゃないか、マイルス!」って思われるだろうね。そう、その通り、そればっかりなのだ。本当に多い。やっぱり好きだったんだなあマイルスはこの二人の歌が。彼らの歌を聴いてはとりあげていた。

ビリー・ホリデイの「イージー・リヴィング」は有名だろう。1947年デッカ録音。シナトラの「ゼアズ・ノー・ユー」の方はちょっと説明が必要かも。おそらく最も知られているのは1957年のキャピトル盤『ウェア・アー・ユー?』収録のものだろう。

あれっ?マイルスのより遅いじゃないか!と言わないで。シナトラはこの曲をコロンビア時代の1944年に録音・発売しているんだよね。マイルスは間違いなくそれを聴いて参考にしたであろうようなフィーリングだ。まあしかし1944年のコロンビア時代のシナトラなんか、あまり相手にする人いないよねえ。

マイルスの『ブルー・ムーズ』収録の四曲では、かなり有名な「ネイチャー・ボーイ」「アローン・トゥゲザー」「イージー・リヴィング」の三曲と違って、「ゼアズ・ノー・ユー」はあまり知られていないかもしれないが、アトランティック時代のレイ・チャールズもインストルメンタル演奏で録音しているんだよね。

「アローン・トゥゲザー」の説明をしていないなあ。必要ないとは思うんだけど、ジャズ・ヴァージョンはアーティ・ショー楽団の1939年録音が初演であるブロードウェイ・ミュージカル・ナンバー。アーサー・シュウォーツの書いた曲では間違いなく一番有名なもの。
でもマイルスの『ブルー・ムーズ』ヴァージョンは、あるいは自身の録音前年になる1954年のダイナ・ワシントン&クリフォード・ブラウン共演の『ダイナ・ジャムズ』ヴァージョンを参考にしたのかもしれない。もっともそれはハロルド・ランドのテナー・サックス・フィーチャーで、ダイナも歌わずブラウニーも吹いていないけれど。
マイルス・ヴァージョンの「アローン・トゥゲザー」はちょっぴりラテンなフィーリングにアレンジされていて、アルルバム中この曲だけアレンジをやっているのがチャールズ・ミンガスなんだよね。これはいかにもミンガスらしさを感じるものだ。
『ブルー・ムーズ』では、これ以外の三曲は全てヴァイブラフォンで参加のテディ・チャールズのアレンジで、おそらく全体的な音楽的リーダーシップもテディ・チャールズが執っている。そのせいでアルバム全体がやや抽象的で西洋白人音楽風なものになっているのだが、あれれっ、このことを詳述する余裕がなくなっちゃったなあ。

2016/12/22

僕の最も好きなライトニンはこれ

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ライトニン・ホプキンスの1960年録音のアルバム『モージョー・ハンド』。それにしてもインパクトのでかいジャケット・デザインだよなあ。黒人ブルーズ・ファン以外からは、いや黒人ブルーズ・ファンだって洗練されたお洒落なものが好きな方には相手にされないというか、積極的に遠ざけられるとしか思えないジャケットだ。

しかしマディ・ウォーターズも「フーチー・クーチー・マン」の歌詞のなかに歌い込んだモージョー・ハンドとは、まあああいった意味ではあるのだ。フーチー・クーチーもね。あんまり詳しく説明するとただの猥褻記事になってしまうのでやめておくが、ああいったものとブルーズが切り離せないのは確かなこと。もしご存知ない方はネットで調べてみてほしい。

あ、そういえば実を言うと現物はもう手放してしまっていて、言及する時は全て記憶頼りである小出斉さん執筆の『ブルースCD ・ガイド・ブック』。あの本の表紙にライトニンの『モージョー・ハンド』を使ってあったよなあ。それくらい象徴的というか、ブルーズとはこういうものだっていうことなんだろうね。

ライトニンのやるブルーズはジョン・リー・フッカーのスタイルに似ている。スローなものをやる時はドロドロにエグい感じで、ミドル〜アップ・テンポのものなら基本全てジャカジャカというブギ・ウギのパターン。『モージョー・ハンド』に限れば、それをエレキではなくアクースティック・ギターでやるのがライトニンだ。

ライトニンはエレキ・ギターもよく弾くが、スタイルは全くどこも変わらない。アクースティック・ギターでやる時と完璧に同じブルーズだ。例えばもう一枚の有名盤であるヘラルド録音集『ライトニン・アンド・ザ・ブルーズ』は全編エレキ・ギターだが、全編アコギのファイア盤『モージョー・ハンド』と完全に同じスタイルだ。

録音はこっちが早い『ライトニン・アンド・ザ・ブルーズ』と、その後の『モージョー・ハンド』はしかしライトニン一人での弾き語りではない。ベースとドラムスの伴奏付き。ということになってはいるが、しかし二枚とも全曲で伴奏付きではないようだ。ドラムスの音は全曲で聴こえるが、ベースの音は聴こえたり聴こえなかったりする。ピアノが入る曲もある。

これら二枚のうちでは『モージョー・ハンド』の方が有名で評価も高いのかもしれない。ひょっとしてそれは全編アクースティック・ギターだからなのだろうか。でもそれはおそらくある種のブルーズ・ピュアリズムのせいなんじゃないかなあ。内容的に同じものだから、個人的にはヘラルド盤もファイア盤も同じくらい好きだし、評価としても同じだ。

がまあしかし今日は『モージョー・ハンド』の話を中心にすると、1962年にファイア・レーベルからレコードがリリースされた時は全部で九曲で40分もない。僕が現在持っているリイシュー CD は P ヴァインが1998年に出したもので、「コンプリート・セッション」の名が冠してあり、九曲が追加されている。その追加部分含め全部で約71分。

その追加トラック九つのなかにはよく分らないものもある。アルバム全体の15曲目「アイム・リーヴィング・ウィズ・ユー・ナウ」で歌っている女性は誰だろう?日本語ライナーノーツでも不明だと書いてあるし、ネットで調べても分らず、聴いて分るような声と歌い方でもない。ギターのスタイルは確かにライトニン。

その15曲目以外はライトニンしか歌っていない。この人もまた金太郎飴状態のブルーズ・マンで、先に書いたようにエグ味のあるスロー・ブルーズと快活なギター・ブギの二種類のパターンがほとんどだ。もっとも初期録音だともっとダウン・ホーム感のある、いかにも南部的なカントリー・ブルーズもある。

そういうダウン・ホーム感覚は1954年のヘラルド録音集『ライトニン・アンド・ザ・ブルーズ』にはまだまだあるが、60年ファイア録音の『モージョー・ハンド』では薄い。その分かえってエグ味とブギの切れ味は増しているように聴こえなくもない。シングル盤にもなった一曲目の「モージョー・ハンド」はかなり売れたらしい。
お聴きになれば瞬時にお分りのように、完全なるギター・ブギ。だからテキサス生まれで生涯のほぼ全ての時期をヒューストンで過ごしたカントリー・ブルーズ・マンであるとはいえ、都会的なフィーリングは充分にある人なんだよね。いや、戦後の人だからこういう言い方もオカシイのか。

ブギ・ウギが(主にピアノで)大流行したのは1930年代末〜40年代で、その後はごくごく当たり前の日常的なものになったので、戦後ならそれを都会的とか田舎的だとか言うのはオカシイんだろう。ライトニンは1912年生まれだから、20年代半ば頃にはもうブルーズをやっていたんだろうけどね。

初録音が戦後、1946年のライトニンだけど、白人社会を含め一般的に人気が出たのはおそらく1950年代末か60年代に入ってから。ってことは既にロック・ミュージックも流行していたし、またアメリカではフォーク・リヴァイヴァルの真っ最中だったから、あるいはそんなルーツ再発見的な意味合いで評価されたんだろうか?

1960年録音のファイア盤『モージョー・ハンド』でアクースティック・ギターしか弾いていないのは、あるいはそんなフォーク・リヴァイヴァル運動と関係があるんだろうか?そういえばライトニンのブルーズにもフォーク・ミュージック的な要素は聴き取れる。

例えば『モージョー・ハンド』四曲目の「ブラック・メア・トロット」。これではライトニンは歌わずギター・インストルメンタルなんだけど、黒さみたいなものが薄くて、むしろ白人民謡的なサウンドだよね。ライトニンの音楽について「白い」なんて言う人は稀だと思うが。
そうかと思うと三曲目「オーフル・ドリーム」はエグ味極まるドロドロで真っ黒けなスロー・ブルーズだ。一般に黒人ブルーズが好きな人はこういうのにシビレるんだよね。僕も全く同じだ。こういうのばかり集めてりたっぷり聴きたいぞ。ヴォーカルもギターも最高だ。特にギターのフレイジングはたまらんね。
ピアノが入る五曲目は「ハヴ・ユー・エヴァー・ラヴド・ア・ウーマン」と、エリック・クラプトンの得意レパートリーにもなったフレディ・キング・ナンバーと全く同じ曲名だけど、あんまり関係ないみたいだなあ。フレディ・キングのがシングル盤でリリースされたのは翌1961年だしね。
それよりは続く六曲目「グローリー・ビー」が、三曲目によく似たこれまたエグいドロドロのスロー・ブルーズで、やっぱりこういうのがいいなあ、ライトニンは。ギターの弾き方にはかなり南部的なダウン・ホーム感もある。というかそれがないとこんな風なブルーズにはならない。
ブギである七曲目「サムタイム・シー・ウィル」をはさみ、八曲目「シャイン・オン、ムーン!」と九曲目「サンタ」がこれまたエグ味満載のスロー・ブルーズ。後者なんか曲名通りクリスマスを歌った内容なのに、ちっとも宗教的でもなければ祝祭感もどこにもないね(笑)。
オリジナルのアナログ盤だと『モージョー・ハンド』はこれで終り。そう見るとこのアルバムは要するにギター・ブギとエグいスロー・ブルーズと、ほぼ完全にその二本立てで押しているもので、だから黒人ブルーズが好きな人間には人気があるんだなあ。上で白人民謡的要素があるとは書いたものの、それは例外だ。

そして録音はこれよりも早い『ライトニン・アンド・ザ・ブルーズ』も、ギターがエレキになっているだけで同じ内容だから、やっぱりライトニンはこういう音楽家なんだと間違いなくそう思われているだろう。僕も異論などない。完璧に同意する。

だけれども個人的な好みだけなら、一番好きなライトニンのアルバムはそれら二枚や、あるいはアラジン録音集などでもない。『キャディラック・マン』というなんだかよく分からない一枚が僕の一番好きなライトニンで、しかも生まれて初めて買ったライトニンのレコードだった。

大学生の時だったが、しかしそのアナログ・レコードが『キャディラック・マン』のタイトルだったかどうかすら、もう忘れてしまった。しかもこれはライヴ録音なのかスタジオ録音なのかも分らないというか、でもまあ一曲目では観客の笑い声などが聴こえるのでライヴなんだろうと思うと、二曲目以後はそれがないというもの。

ただ大学生の時に聴いたその一曲目の印象が非常に強く残っていて、ジャケット・デザインは間違いなくこんなものではなかったような記憶があるんだけど、探しに探して見つけた CD のタイトルが『キャディラック・マン』というもの。これは日本の meldac というところがリリースしている。

『キャディラック・マン』。二曲目以後は僕にとってはどうでもいい。一曲目が全てなのだ。「ビッグ・ブラック・キャディラック・ブルーズ」という、これは間違いなくライヴ録音。これこそが僕がライトニンの全録音中最も好きなものななんだよね。
お聴きになれば分るように「ちょっとごめんよ、おねえちゃん」ではじまるライトニンの語りが僕は好きなんだよね。聴衆も湧いている。しゃべくりで客を楽しませ笑わせるエンターテイナー精神横溢の一曲なのだ。しかもなかなか普通のいわゆる「音楽」に入らない。

僕は内部で体験したことなど一度もないんだけど、ブルーズの「現場」とはこういうものなのかもしれないよね。ライトニンもちょっろっとギターを触りながらではあるが、延々しゃべくって客を笑わせてひとしきり場をあたためた四分後に、ようやく音楽らしきものになる。

「音楽」になるとそれはいつものライトニン節であるギター・ブギ。それがかなりダンサブルなんだよね。まあブギ・ウギとはダンスのことだからさ。一曲、いや「曲」なのかなんなのか、約七分間のあいだ、前半がしゃべくり、後半がダンス音楽で、そうやって客を楽しませているというのがブルーズの現場。

この一曲というかワン・トラックが、僕が大学生の時に初めて聴いたライトニンで、それでライトニンが好きになったわけなのだった。半分は普通のいわゆる音楽じゃないからね。ステージ上での漫談みたいなもんだし、音楽になってからも徹底したエンターテイメントだ。音楽とはピュアなもので芸術だと心の底から信じている方々には、こういうものは永遠に分らない。

2016/12/21

1964年、アップタウン・シアターの興奮

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アメリカ黒人歌手ならここに出演したいっていうステイタスみたいな場所が各地にある。一番有名なのはおそらくニュー・ヨークのアポロ・シアターだね。その他シカゴのリーガルだとかいろいろあるけれど、フィラデルフィアにおける黒人音楽の拠点がアップタウン・シアターだ。

そのフィラデルフィアのアップタウン劇場で1964年7月24日に行われたレーベル・パッケージ・ショウをライヴ録音したアルバムがある。そのレーベルはアトランティックで、アルバム名は『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』。しかしこの日は金曜日だったらしいのだが。

金曜日がどうして「サタデイ・ナイト」になるのか僕は無知にして全く分らないので、どなたか教えてください。とにかくフィラデルフィアのアップタウン劇場における金曜日は<ティーネイジ・ショウ>となっていて、若者が安価で観聴きできたんだそうだ。それでこの日に実況録音が設定されたんだろうね。

つまり1964年当時の若者が当時のソウル・ショウに熱狂する様子をパッケージングしようってことだった。がしかしアルバム『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』はたったの38分程度なので、この日のライヴの全てではないはずだ。この点だけはちょっと残念。

『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』に収録されているソウル歌手のうち、現在最も知名度があるのは間違いなくウィルスン・ピケットだ。次がドリフターズ。がしかし1964年というとピケットはまだアトランティックと契約したばかりで、まだ大成功はしていない時期。

だから『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』になった1964年7月のライヴ時点ではドリフターズが一番の大御所的存在だった。だからライヴ当日はトリだったんだろけれど、アルバムではトップに収録されている。最大の目玉音楽家だから頭に持ってきたんだろう。

ドリフターズとウィルスン・ピケット以外で『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』に収録されている音楽家は、ソウル素人の僕には馴染が薄い人たちが多い。全然知らない名前というのはないけれど、あまりたくさんは聴いていない人たちばかりだ。それでもパティ・ラベルはまあまあ知っている。

なぜならパティ・ラベルはのちにラベルを率いるようになるからだ。『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』ではパティ・ラベル&ハー・ブルーベルズとなっている。これはのちのラベルの前身だ。あとアルバム・ラストにある「ウィ・ガット・ア・グッド・シング・ゴーイン」は僕もよく知っている曲。

なぜならばローリング・ストーンズが1965年の、アメリカにおける(というのは当時のストーンズは英米でリリース内容が異なっていた)三枚目のアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ、ナウ!』のなかでカヴァーしているからだ。まあホントあの頃のストーンズはアメリカ黒人音楽のカヴァーばっかりだったよなあ。

アトランティクのレーベル・パッケージ・ショウと書いたけれど、この1960年代頃はこういうのよくあったみたいだ。モータウンのアポロ・シアター盤とかもあったよね。でも『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』にあるヴァイブレイションズとカールトンズはチェス系じゃなかったっけ?

そのあたりは緩いというか、まあおおらか、のどかだったんだろうなあ。とにかく『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』を聴くと、アップタウン劇場の若い観客、特に女性の嬌声がかなり大きく聴こえる。現在の感覚からしたらちょっと考えられない録音方針だと思うほど賑やかだ。

でもあの時代の熱狂ぶりがよく伝わってきて、そんな崩れたような録音バランスもマイナスにはなっていない。荒いのは録音だけでなく、演奏も歌も良くも悪しくも荒いのだ。しかしこの日のこのバック・バンドは誰なんだろう?『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』CD パッケージやブックレットに記載がない。アール・ウォーレン(Earle Warren)のバンドだという説もあるが。

アール・ウォーレンはカウント・ベイシー楽団出身のアルト・サックス奏者(兼ときたま歌手)だ。もし彼のバンドだというのが本当だとすると、やはりベイシー楽団の音楽とリズム&ブルーズやソウルなどの黒人音楽はかなり密接に繋がっているっていうことではあるなあ。

『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』でまず最初に出るドリフターズは三曲。アルバム中最も収録曲数が多いから、やはりこの日の目玉だったんだろう。「渚のボードウォーク」「オン・ブロードウェイ」「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」、いずれもかなり有名。

シングル盤「渚のボードウォーク」は1964年6月発売だから、『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』になった7月24日の本当に直前だ。今の感覚だとそんな感じじゃないかもしれないが、1960年代だからマジでこの日のライヴ前夜に発売されたばかりというのが実態。

それにもかかわらず『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』における「渚のボードウォーク」では、観客は早くも歌詞を憶えていて、大きな声で一緒に合唱している。この当時のドリフターズがどれだけ人気があったのかを如実に物語る様子が聴けて楽しい。

そんな様子は「オン・ブロードウェイ」「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」でも全く同じで、観客(特に女性)が大きな声で合唱している。「オン・ブロードウェイ」では、(誰がリード・シンガーなのか?)歌詞のなかの「ブロードウェイ」を地元フィラデルフィアの「ブロードストリート」に置き換えて歌っているので、これまた大騒ぎ。

「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」でのリード・シンガーはチャーリー・トーマスだと思うんだけど、この人は完全なるサム・クック・フォロワーだね。『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』の「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」でもそのまんまのサム節だ。同曲のオリジナルではご存知ベン・E・キングだった。

さて九曲目、十曲目のウィルスン・ピケット。前述の通りまだアトランティックと契約したばかりで、1965年リリースの『イン・ザ・ミッドナイト・アワー』(スタックス録音)収録の同曲が大ヒットしてスターになるのだが、64年7月というと、アトランティックで「アイム・ゴナ・クライ」をリリース済だった。

だから『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』でも「アイム・ゴナ・クライ」は当然披露している。もう一曲は「イフ・ユー・ニード・ミー」。後者は1963年にドン・コヴェイと創った曲で、アトランティクのジェリー・ウェクスラーに提供しソロモン・バークが歌って大ヒットした。

ウィルスン・ピケット自身はこの曲をダブル・L に録音し、しかしそこそこのヒットにしかならなかった(ビルボードの R&B チャート30位)。それを『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』でも当然作者のピケットが歌っているのだが、これも見事なゴスペル風ソウル・バラード。

まるで黒人キリスト教会における説教師と会衆との掛け合いみたいだ。つまり「イフ・ユー・ニード・ミー」でのウィルスン・ピケットは、歌うというよりもまるで語りかけるような感じで、アップタウン劇場の聴衆もその<説教>に呼応して歌っている。『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』のなかで最もゴスペル色が濃いのがこの曲だ。

ドリフターズ、ウィルスン・ピケット二名以外の歌手たちは、前述の通り曲「ウィ・ガット・ア・グッド・シング・ゴーイン」に馴染があるだけであまりよく知らないので書けないが、五曲目でパティ&ジ・エンブレムズが歌う「ミクスト・アップ、シュック・アップ、ガール」はリオン・ハフの書いたものみたいだ。

また『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』に二曲あるヴァイブレイションズのうち「マイ・ガール・スロッピー」は、マッコイズの「ハング・オン・スルーピー」だなあ。ちょぴり改題してカヴァーしたってことなんだろうか。いやよく知らないけれども。

カールトンズも名前とチェス系だということしか知らないが、収録の「キャント・ユー・ヒア・ザ・ビート」を聴くと、ちょっとあのカーティス・メイフィールドのインプレッションズみたいな雰囲気のコーラス・グループだ。似ているんじゃないかな、特にファルセットで歌うリード・シンガーが。

アルバム・ラストのバーバラ・リンが歌う「ウィ・ガット・ア・グッド・シング・ゴーイン」は、書いているように曲自体はローリング・ストーンズ・ヴァージョンで馴染があるが、『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』収録のを聴くと、姉御肌みたいな雰囲気のこっちの方がいいよなあ。

いずれにしても有名・無名(だと思っているのは僕だけかも?)取り揃えた『サタデイ・ナイト・アット・ジ・アップタウン』。リズム&ブルーズ、ソウルなど1960年代半ばの現場のあの熱気を、たった38分間とはいえたっぷり味わえる好盤でオススメ。

2016/12/20

スピリッツ・オヴ・リズムの愉しさ

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スピリッツ・オヴ・リズムとかキャッツ・アンド・ザ・フィドルみたいなノヴェルティなストリング・バンドって本当に愉しいよね。ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリらを擁したフランス・ホット・クラブ五重奏団も、音楽性は同じようなもんだろうと僕は思うんだけど、ジャズ・ファンは誰もそういうこと言わないなあ。ジャンゴらについては熱心に語る人が多いけれど、フランス・ホット・クラブ五重奏団をジャイヴの文脈に位置付ける文章って見たことがない。

でもジャンゴらは頻繁に話題になっているのでまだ随分マシだ。これがスピリッツ・オヴ・リズムとかキャッツ・アンド・ザ・フィドルその他となると、ジャズ・ファンは誰一人とりあげようとすらしない。僕がこういう人たちの録音集を聴くと立派なジャズに聴こえるんだけど、しょうがないなあ。

その他弦楽器を中心とする楽しくて面白いジャズ系のバンドが1920年代末から30年代、そして40年代のビ・バップ勃興前までには結構あった。みんな楽しい。もっと知ってほしい、聴いてほしいのでジャズ・ファン向けにちょっとずつ書いていこう。キャッツ・アンド・ザ・フィドルその他の話はまた別にするとして、今日はスピリッツ・オヴ・リズムだ。

しかしこの「スピリッツ・オヴ・リズム」という名前での録音は1933年10月のものが初。正確には「ファイヴ・スピリッツ・オヴ・リズム」名義で、既にギタリストのテディ・バンが参加している。ジャズ的な意味ではテディ・バンこそがこのグループ最大の聴きものだろう。だって抜群に上手いもんね。

実質的にはそのほんのすこし前、1933年9月録音の三曲が既に同一メンバー六人で、だから当然テディ・バンもいるのだが、「ザ・ファイヴ・カズンズ」名義なのだ。だが聴いてみると全く同じ音楽を既にやっているので、後世の人間はみんなその33年9月録音の三曲を実質的なスピリッツ・オヴ・リズムの処女録音とする。

その前、1930年にテディ・バンとダグ・ダニエルズが組んで「アラバマ・ウォシュボード・ストンパーズ」名で録音。一方、レオ・ワトスンとウィルバー・ダニエルズが組んで「ザ・ウォシュボード・リズム・キングズ」名で1932年11月に録音している。両ダニエルズは兄弟。後者の方がスピリッツ・オヴ・リズムに近いものだ。

僕の持っている『スピリッツ・オヴ・リズム 1932-1941』というオランダ製 CD もその1932年録音の二曲からはじまっている。その二曲を含め全24曲のこの録音集は CHALLENGE Records という名前のレーベルが1996年に出している。日本の P ヴァインも一枚出していた。P ヴァインが出すということはジャズではなくブルーズという位置付けなのか…。う〜ん…。

その後、スピリッツ・オヴ・リズムという名称を用いるようになって以後はアメリカン・デッカに録音するようになるので、必然的に中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ・アンド&ジャイヴ篇』にも一曲収録されている。1934年録音の「ジャンク・マン」。

さて、1932年11月のザ・ウォシュボード・リズム・キングズ名での録音がスピリッツ・オヴ・リズムに近く、僕の持つオランダ盤 CD のスピリッツ・オヴ・リズム録音集もそれからはじまっていると書いたが、それはどこに感じるのかというとヴォーカルの風味だ。歌っているのはウィルバー・ダニエルズとレオ・ワトスン二名。

だから上でテディ・バンのギターこそがこのグループ最大の聴きものであるようなことを書いたけれども、それは純ジャズ・ファン向けの発言なのだ。ジャンゴ・ラインハルトなどがお好きな方であれば、スピリッツ・オヴ・リズムを聴いてオッ!となるのは、間違いなくアクースティック・ギターでのシングル・トーン弾きソロだからね。

実際1930年代前半からのテディ・バンは同時期のジャンゴに非常に近い。それなのに前者が後者ほどの話題になっていないのはどうしてなんだろう?最初に書いたようにフランス・ホット・クラブ五重奏団にもジャイヴな味があるように僕には聴こえるんだがなあ。不可解だ。

まあいい。スピリッツ・オヴ・リズムの面白さは、テディ・バンのギターの上手さもさることながら、上で触れたようにヴォーカルのコミカルな味だから、ジャズ・ファンのみなさんにもそこを聴いてほしい。それは1932年録音のウォッシュボード・リズム・キングズでの録音二曲に既にしっかりあるんだなあ。

二曲のうち、「アンダーニース・ザ・ハーレム・ムーン」はあまり馴染がない曲かもしれないが、もう一つの「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン?」の方はモダン・ジャズ・メンもよくやるスタンダードなのでご存知のはず。二曲とも意味不明な言葉の羅列、スキャット・ヴォーカルが聴ける。ご紹介しようと思ったら YouTube にないじゃないか。

ただしそのウォッシュボード・リズム・キングズでの1932年録音二曲にはトランペッターと複数のサックス奏者がいるので、ストリング・バンドではない。ストリング・バンドかどうかという点は重要なのでこだわりたいんだよね。主に1930年代に活躍したノヴェルティなジャズ・バンド、すなわちジャイヴ・バンドの多くがストリング・バンドだったからで、そういう編成だったからこそ、ああいった味を出せたんだと思うのだ。

その意味でもやはりジャンゴらのフランス・ホット・クラブ五重奏団も類似性があるんだけど、このバンドについては今日は書かない。ウォッシュボード・リズム・キングズ名になっているくらいで、つまりウォッシュボード・バンドなわけだけど、しかし1932年録音の上記二曲でのウォッシュボード担当が誰なのか不明となっているのが残念。

ウォッシュボード・バンドも1920年代あたりからアメリカにたくさんあって、猛烈なスピード感と泥臭いダンス感覚を表現していた。ウォッシュボードって、なんだそれ、洗濯板じゃないか!と真面目な音楽愛好家の方々は思われるかもしれないが、かなり面白いよ。一昨日書いたレッド・マッケンジーの櫛と同じく、そういう芸風は誕生期のロックへと繋がっているからね。エリック・クラプトンの『アンプラグド』でも、ドラマーが一曲使ったじゃないか、ウォッシュボード。

レッド・マッケンジーといえばスピリッツ・オヴ・リズムの録音に参加したのが四曲あって、僕の持っているオランダ製 CD『スピリッツ・オヴ・リズム 1932-1941』にも収録されているから、やっぱり繋がっているんだよね。ウォッシュボード・バンドの泥臭いダンス感覚をいわば都会風に洗練させて、ちょっと洒落たステージ・エンターテイメントにしたのがスピリッツ・オヴ・リズムなんだよね。

スピリッツ・オヴ・リズムとレッド・マッケンジー。スピリッツ・オヴ・リズムは「アイヴ・ガット・ア・ワールド・オン・ア・ストリング」という同じスタンダード・ナンバーを、まず最初は1933年9月にグループの六人で録音し、次いでレッド・マッケンジーをヴォーカルで迎えて34年9月にも録音している。マッケンジー以外のメンバーも少し違う。

1934年録音では不明のピアニストと、ベースでウェルマン・ブロウドが参加しているのだ。この二名は33年録音にはいない。熱心なデューク・エリントン楽団のファンであればウェルマン・ブロウドの名前にアッと思うはずだ。そう、1920年代後半の同楽団で活躍したベーシストだからだ。

しかしウェルマン・ブロウドのベースは、スピリッツ・オヴ・リズムでははっきり言ってどうでもいい。重要なのはヴォーカルのコミカルな味とテディ・バンの弾く単音ソロだ。「アイヴ・ガット・ア・ワールド・オン・ア・ストリング」の1932年ヴァージョンで歌うメイン・ヴォーカリトはレオ・ワトスンで、その他三名がバック・コーラス。
この YouTube 音源はテディ・バンの名前で上げているが同じもの。本当はザ・ファイヴ・カズンズ名での録音だ。テディ・バン名であげるのは、そりゃまあ分らんでもないが。バンの単音弾きギター・ソロが素晴らしいので、普通のジャズ・ファンはそこへ耳が行くだろうからね。がしかしヴォーカルの方がもっと面白いんじゃないかなあ。

レオ・ワトスンのリード・ヴォーカルも楽しいが、もっといいのは背後で入るワゥワゥっていうバック・コーラスじゃないかなあ。ジャズ界にはこんなのが1920年代後半からあったんだけど、ここまで拡大・強調するようにになったのは30年代前半からのグループで、スピリッツ・オヴ・リズムもその典型の一つ。

テディ・バンが単音弾きソロで見事な腕前を、スピリッツ・オヴ・リズムの全録音で披露するので、やはり売り物だったことは間違いないのだが、バン以前にジャズ界にはエディ・ラングというアクースティック・ギタリストがいて、同じくらい見事な単音弾きギターを聴かせる。ヴァイオリンのジョー・ヴェヌティとのコンビでやったものなんか最高なんだよね。エディ・ラング、ジョー・ベヌティ両名とも、今年九月に復刊文庫化された油井正一さんの『生きているジャズ史』のなかに出てくる名前。

さて「アイヴ・ガット・ア・ワールド・オン・ア・ストリング」のレッド・マッケンジーがリード・ヴォーカルをとった1934年録音の方。やはりマッケンジーの歌の方がレオ・ワトスンよりもピュア・ジャズ的だと言えなくもないが、でもかなりコミカルではある。こっちの方のバック・コーラスは33年ヴァージョンよりもおとなしい。
なんかこの YouTube 音源もレッド・マッケンジーの名前しか出してないけどさぁ。演唱全体にわたってよりジャイヴィーであるのは1933年録音の方だろうね。テディ・バンのギターの上手さは同じだ。34年ヴァージョンではちょっぴりハーモニクス奏法が聴けたり、また33年のでも34年のでもちょっぴりハワイアンなフレイジングに聴こえる瞬間があるよね。

スピリッツ・オヴ・リズムは、これまたジャズ・スタンダードであるガーシュウィン・ナンバー「アイ・ガット・リズム」も二回録音している。1933年9月と10月で、これは完全に同一メンバーのスピリッツ・オヴ・リズム六人。このグループにおけるテディ・バンのギター演奏では、この二つが一番いいかもしれない。

お聴きになれば分るように10月ヴァージョン弾き出しのテディ・バンは、カウント・ベイシー楽団の1937年録音「ワン・オクロック・ジャンプ」の出だしにおけるカウント・ベイシーのピアノの弾き方にソックリだ。まあこういうのはいっぱいあって、要はちょっとしたブギ・ウギ。

「アイ・ガット・リズム」の1933年9月ヴァージョンでも10月ヴァージョンでも、しかしテディ・バンのギター以上にリード・ヴォーカルとバック・コーラスに注目していただきたい。楽しいんじゃないかなあ。どっちのヴァージョンでもレオ・ワトスンがスキャットを聴かせてくれているのがいいね。ルイ・アームストロングのスキャットはピュア・ジャズ・ファンも称揚するのになあ。同じようなもんじゃないの?

サッチモのやったああいう意味のない言葉、ナンセンス・シラブルをスキャットで歌うっていうやつ。それはいわゆる「歌」というよりも器楽的唱法なわけで、サッチモの場合コルネットで吹くそのままのスタイルでやってああなったわけだけど、その後のキャブ・キャロウェイや、スピリッツ・オヴ・リズムのレオ・ワトスンやダニエルズ兄弟や、その他みんな同じじゃないか。全部器楽的唱法でのスキャットじゃないか。

だからレオ・ワトスンとスピリッツ・オヴ・リズムや、他にもいっぱいあったジャイヴ・バンド(の多くがストリング・バンド)におけるジャイヴ・ヴォーカルの源泉はサッチモの1920年代後半録音にあったんだと僕は確信しているけどね。サッチモをそんな文脈で再評価する人っていまだに一人もいないんだけど間違いないから、これについてはそのうちじっくり書くつもり。

スピリッツ・オヴ・リズムの最盛期は1930年代で、その頃はニュー・ヨークの52丁目(52nd Street を「52番街」とするのは中村とうようさんもやっているんだが、よくない)で大活躍したのだが、40年代に入ると西海岸のロス・アンジェルスに移り、同年代後半にこのグループは消滅した。

あぁ、長くなったので、ストリング・バンドとしてのスピリッツ・オヴ・リズムのサウンドを特徴づけているティプレのことなんか全然書けなかったなあ。ティプレは小型でギターの変種。興味のある方は是非ネットで調べてみてほしい。ラテン・アメリカ音楽との繋がりなんかも見えてきて面白いよ。

2016/12/19

フォーク・ギタリストとしての眼差し〜デイヴィ・グレアム

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デイヴィ・グレアムというギタリストを知ったのは、僕の場合やはりレッド・ツェペッリンのジミー・ペイジのルーツとしてだった。なかでもグレアム1962年の「シー・ムーヴズ・スルー・ザ・フェア」が、ヤードバーズ時代からのペイジのギター・ソロ作品「ホワイト・サマー」の原型になっている。
演奏時間がちょっと長めのこういうヴァージョンもある。
デイヴィ・グレアムのこのギター・ソロ作品「シー・ムーヴズ・スルー・ザ・フェア」の原曲はアイルランド民謡なんだけどね。でもアイリッシュとかケルト音楽というより中近東風だよなあ。そしてそもそもケルト音楽とアラブ音楽の親和性が高いのは、双方をお聴きのみなさんであればよくご存知のはず。

レッド・ツェッペリン時代でも初期はコンサートでやっていたペイジの「ホワイト・サマー」をお聴きになったことがある方であれば(公式盤『コーダ』に収録)、デイヴィ・グレアムの上掲音源をお聴きになって、アッ!そのまんまじゃないかと思っちゃうだろうなあ。そもそもペイジが DADGAD チューニングで弾きはじめたのは完全にグレアムの影響だ。

ペイジのギター・ソロ作品であるヤードバーズ時代の「ホワイト・サマー」は例えばこれ。
これについて、デイヴィ・グレアムの「シー・ムーヴズ・スルー・ザ・フェア」との”類似性”が指摘されてきたが…という書き方になっているものが多い。こりゃ甘いというか緩すぎるだろう。類似性なんていうようなもんじゃないぞ。ほぼそのままパクリじゃないか。ペイジいつものパターン。

またデイヴィ・グレアムの1964年「ムスタファ」。
これを踏まえた上で、レッド・ツェッペリン時代に「ホワイト・サマー〜ブラック・マウンテン・サイド」のメドレーでやったものをお聴きいただきたい。これは1970年のライヴ録音。
ねっ、お分りでしょ。ざっとこんな具合なので、デイヴィ・グレアムもなにも全く知らなかった頃は、僕もジミー・ペイジって面白いギター弾くんだなあと感心していたんだけど(まあ今でもそれはちょっとあるが)、デイヴィ・グレアムを聴いてみたら、そのルーツというかパクリ元がバレてしまった。

もちろんペイジばかりではなく、デイヴィ・グレアムがはじめたものらしい DADGAD チューニングはいろんなギタリストに広範囲に影響を及ぼしていて、グレアム自身このチューニングを思い付いたのはモロッコを旅して現地の音楽に触れ、それをギターで再現しようとしてのことだったらしい。

ってことは、あれだ、ペイジとロバート・プラントがツェペリン結成後一緒にモロッコや北アフリカ地域やインドなどを旅することがあったのも、あるいはデイヴィ・グレアムの影響だったのかなあ。音楽的な意味だけでなく、なにかこう姿勢みたいな部分でも。そんでもってペイジがまず「ホワイト・サマー」、続編みたいなツェッペリン時代の「ブラック・マウンテン・サイド」などをやらなかったら、中期以後のツェッペリンのああいった路線もなかったはず。

以前から書くように数あるツェッペリン・ナンバーのなかでの僕のモスト・フェイヴァリットが『フィジカル・グラフィティ』にある「カシミール」なんだけど、このアラブ風な曲も DADGAD チューニングのギターでまずリフを思い付いたものらしい。「ホワイト・サマー」だったか「ブラック・マウンテン・サイド」をライヴで弾いている時にアド・リブでとっさに出てきたものなんだそうだ。

YouTube で探したらこんなのが上がっていた。これは1989年の演奏だからちょっとあれだし、「ホワイト・サマー」と「カシミール」を無理くりひっつけたような感じも少しあるけれど、間違いなくレッド・ツェッペリン初期からライヴでは同じようなギター・ソロ演奏をやっていただろう。
そんな「ホワイト・サマー」「ブラック・マウンテン・サイド」「カシミール」はデイヴィ・グレアムなくして生まれなかったものなので、つまりグレアムがいなかったら、ペイジが彼を知らなかったら、ツェッペリンで僕が最も好きな中近東音楽風のロックは誕生しなかったことになるよなあ。グレアム様さまだ。

ペイジ自身は「CIA コネクション」と呼んでいた、レッド・ツェッペリンのそんなケルト(Celt)〜インド(India)〜アラブ(Arab) テイストについては、また機会を見てじっくり掘り下げることにして、今日はここまで。ペイジのそんな音楽的嗜好性のルーツだったデイヴィ・グレアムのことをこのあと少しだけ書いておこう。

デイヴィ・グレアムは最初に貼った音源の元がアイルランド民謡だったのでお分りの通り、1960年代のブリッティシュ・フォーク・リヴァイヴァルの動きのなかで登場し注目されたギタリスト。しかし出発点はロニー・ドネガンらのスキッフルだったらしいので、やはりその点では UK ロック界の人物と共通性がある。

レコード・デビューが1962年で、EP『3/4 AD』に含まれていた「アンジー」(Angi)が同業ギタリストたちの評判になって、バート・ヤンシュ、サイモン&ガーファンクル、チキン・シャックにカヴァーされたあたりから注目されるようになった。でもデイヴィ・グレアムの場合、注目されたといってもセールスは全くかんばしくなく、主に同業者に激賞される、いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャン、ギタリスツ・ギタリストだ。

実際デイヴィ・グレアムはその後も世間一般的にはほぼ売れず、商業的成功とは無縁の人だった。だが上で貼った二つの音源をお聴きいただければ分るようにものすごく上手いテクニシャンなんだよね。エレキ・ギターは全く弾かず、もっぱらスティール弦のアクースティックのみで、それも多くがギター独奏、たまにドラマー(とベース)が入る程度だから、まあ売れるわけがない。

しかしデイヴィ・グレアムは伝承フォーク・ソングばかり演奏していたのかというと、全くそんなことはない。というか1963年の初フル・アルバム以後は、むしろジャズやブルーズなどアメリカの大衆音楽のフィールドから出てきた曲の方を多く演奏していたんじゃないかと思うほどなんだよね。

だいたいその1963年の『ザ・ギター・プレイヤー』には、ソニー・ロリンズ、キャノンボール・アダリー、ポール・デズモンドなどの楽曲をアコースティック・ギター演奏でカヴァーしているし、その後もセロニアス・モンクの「ブルー・モンク」、ボビー・ティモンズが書いてアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズがやった「モーニン」、ハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」など、かなりジャズ・ナンバーをやっている。

ブルーズ・ナンバーだって、もういちいち例はあげないが、アメリカ黒人ブルーズを実にたくさんやっている。僕が一番好きなのはリロイ・カーの「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」と、珍しくヴォーカルもとっている古いブルーズ・ソング「エイント・ノーバディーズ・ビジネス・イフ・アイ・ドゥー」をやっているもの。前者は YouTube にないのが残念だが、後者は上がっているので。
このフル・アルバムで上がっている1964年の『フォーク、ブルーズ&ビヨンド』はデイヴィ・グレアムの作品中、僕が最も好きなものの一つ。お時間のある方は是非フル・アルバムで耳を傾けていただきたい。ジャズ・ナンバーは「モーニン」だけであるとはいえ、ブルーズ弾きの上手さが非常によく分る。

最も重要なことは、ジャズであれブルーズであれ、またなかにはレイ・チャールズの「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」なんかもやっていたりする、そんなアメリカ黒人大衆音楽に題材をとったものでも、デイヴィ・グレアムが弾くと、伝承フォークをやる時と同じフィーリングで聴けるということだろうなあ。

これはデイヴィ・グレアム自身の姿勢だったんじゃないかなあ。イングランド出身でケルト地域の伝承曲をたくさんやるフォーク界の人間でありながら、同時にアメリカ大衆音楽曲をたくさんやったわけだけど、それらをとりあげる時でもグレアムの接し方は同じだったはず。

同じ接し方だったというのは仕上がったギター演奏を聴いて僕がそう判断しているだけなんだけど、アメリカの黒人大衆音楽のなかから誕生した楽曲も、いわば「伝承曲」として、なんというか現代の民謡ソングみたいなものとして考えてとりあげて演奏したんじゃないかと僕は思うのだ。

つまり楽曲ジャンルとしてのフォークではなく、音楽的アティテュードとしてのフォーク。デイヴィ・グレアムはそういう音楽家だったんだろう。アラブ中近東やインドの音楽に接近する時でも、やはりその眼差しは同じで、民衆のなかで受け継がれてきているもの、言葉本来の意味での「フォーク」・ミュージックとしてやったに違いない。

ケルト地域の民謡も、ジャズもブルーズも、アラブやインドの音楽も、なにもかも全て “folk” の、すなわち民衆のあいだでの伝承ものとして接して、それを自分一人のアクースティック・ギターでどうやったら上手く表現できるかを常に考えて、DADGAD チューニングも、その他いろんな演奏法も試した人なんだろうね、デイヴィ・グレアムは。

その結果出来上がった音楽が常に地味極まりないもので、世間的にアピールしてセールスが見込めるようなものでは全くなかったがために人気者とはなりえなかったデイヴィ・グレアムだけど、そのギター演奏の絶妙極まりないテクニシャンぶりは、同業者であれば一聴して舌を巻くようなものだから、甚大な影響を与えることとなった。

その一人がジミー・ペイジなわけだけど、彼のレッド・ツェッペリンもペイジ自身が “CIA” と呼ぶ路線は、普通一般のロック・ファンにはやっぱりイマイチな評価と人気だよなあ。一般受けしてきたのはあくまでブルーズ・ロック路線であって、「ホワイト・サマー」「ブラック・マウンテン・サイド」「カシミール」、あるいは「フレンズ」「フォー・スティックス」みたいなものは、いまだにちょっと風変わりなキワモノ扱い。残念だ。

でも最も有名なツェッペリン・ナンバーである「天国への階段」にだって、インド〜アラブはないけれど、はっきりとしたケルト由来のフォーク・ミュージック要素はあるんだけどなあ。でもこの曲に(も)あるそんな要素は四枚目のアルバム収録のスタジオ・オリジナルでしか聴けず、数多いライヴ・ヴァージョンでは完全に消えているんだけどね。

2016/12/18

エディ・コンドンの古典録音集

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アメリカの戦前ブルーズや戦前ジャズばかりどんどんリイシューしている英国のレーベル  JSP。ある時ギリシアの古いレンベーティカのボックスを五つだったか六つだったか次々とリイシューしたことがあるけれど、あれはなんだったんだろう?あれで随分楽しませてもらったし、今でもよく聴くシリーズだ。知らなかったこともたくさん教えてもらった。

まあしかし JSP は基本的には戦前アメリカ音楽のリイシューを専門としているので、僕みたいな趣味嗜好の人間には大変ありがたい。このレーベルが2014年にエディ・コンドンの1927〜49年録音集CD四枚組ボックスをリリースした。僕が気が付いたのは翌2015年。この古いシカゴ派ジャズの親玉のまとまった録音集はなかなかないからね。

そのJSP 盤のタイトルは『クラシック・セッションズ 1927-1949』。名前通りの年代の録音集だが、エディ・コンドン名義のものばかりではない。というかコンドン名義のものの方が少ない。そもそもこのエディ・コンドンという人物は音楽家ではあるものの、その音楽的才能で他を引っ張った存在ではない。

いや、あれも一種の「音楽的」才能と言えるのか、とにかくエディ・コンドンはまさにフィクサーとでも呼ぶべき存在で、1920年代の禁酒法がありマフィアが暗躍した時代のシカゴで活躍したボスなのだ。楽器は一応ギター。初期はバンジョーだった。その腕前はまあ大したことはないというか、ほぼ聴こえないに等しい。

『クラシック・セッションズ 1927-1949』でも、ものによってはコンドンのギターの音なのかなと思うものが鳴っている時間があるけれど、そんなのはかなり稀なのだ。そして歌も歌わないから、録音集を聴くだけではエディ・コンドンとはいったいなにをした人物なのか分りにくいかもしれない。

音楽に関連して彼の最大の仕事だったのは、禁酒法時代のシカゴでは密造酒(ブートレグ)の製造・販売が横行し、違法物だからマトモな人間がやるわけはなく、当然マフィアが手掛けていた。音楽家の毎夜の演奏場所は酒の飲めるナイト・クラブなどなので、そこでブートレグを取り仕切るマフィアと関わっていかなくてはならなかった。

だから1920〜30年代のシカゴのジャズ・メンは全員マフィアと関係があったというかその庇護下にあった。マフィアがブートレグを販売するナイト・クラブなどが主な活動場所だということは、まあ無法連中なわけだから無理難題を押し付けられることもあって、そこで普通に音楽をやりたいだけのジャズ・メンとの間で調整役をやったのがエディ・コンドンだったのだ。

つまりシカゴのジャズ・メンの親玉がエディ・コンドンで、コンドンがマフィアとの間を取り持ってくれるおかげで、他の普通のジャズ・メンも安心して演奏活動ができたというわけだ。だから主にギターをやった楽器の腕前がイマイチでも、彼とは比較にならないほど楽器が上手い連中もみんなコンドンを慕って集まってきた。

といいながら、しかしコンドンのギターが、油井正一さんの言うほどそんな聴くに耐えないくらい下手だなんてこともない。『クラシック・セッションズ 1927-1949』でもちょっとだけ聴こえる彼のギター演奏や、戦後録音でならもっと明瞭に聴こえる音は、わりとしっかりしているんだよね。

ギターを弾いている時のコンドンはシングル・トーンでのソロみたいなものは全く弾かない。おそらく生涯で一度も弾かなかったというか弾けなかった。そんな腕がなかったからだ。もっぱらジャカジャカとコードを鳴らしているだけだ。それもかなりシンプルなものを。1930年代に登場するフレディ・グリーンみたいな上手さは当然ない。

脱線になるが名前を出してしまったついでに書くと、生涯カウント・ベイシー楽団で活躍したフレディ・グリーンも、(かなり稀な例外を除き)もっぱらコード弾き一本槍だけど、この人はものすごく上手い。複雑な構成の和音を、それも一拍ごとにどんどんチェンジして、それを極めて正確なタイミングで一小節に四つ刻む。

コンドンにそんな腕前はない。ただなんとな〜くジャカジャカ鳴らしているだけみたいなギター演奏ばかりだ。だから楽器の腕前でリーダーシップを発揮した人ではないんだよね。楽器が上手くないとはいえ、しかしながら普通の意味での音楽的才能がなかったとも僕は思わない。

なぜならコンドン名義や、あるいはそうでなくてほかのジャズ・マン名義のセッションにコンドンが参加して実質的リーダーだったものなどを『クラシック・セッションズ 1927-1949』で聴いていると、まず人選の的確さがある。どんな楽器奏者をどんな編成で組合せるとこんな音楽ができあがるという青写真がしっかりあるもんね。

またなんの曲を採り上げるか、その曲のテーマ演奏はこんな感じでやろう、ソロ廻しはお前とお前が何小節ずつこの順番で、エンディングはこうやろうなどなどコンドンは指示も的確であることが、できあがった録音物がリイシューされているのを聴くとヒシヒシと伝わってくる。

そういうのはやはり音楽的才能と呼ぶべきだろう。つまり調整、アレンジ、バンド・リード能力に長けていたのがエディ・コンドンというジャズ・マン最大の特長だ。それが抜群であったがために、マフィアとの調整能力とあわせ、肝心の楽器の腕前がイマイチでもみんなが集まって、その結果いい音楽ができあがったのだ。

『クラシック・セッションズ 1927-1949』は年代順に CD 四枚に分割されているが、1927〜30年録音の一枚目からして既にシカゴ録音は少ない。なぜならばコンドンは1928年にニュー・ヨークに進出しているからだ。だからこのボックスにあるシカゴ録音は、冒頭の27年録音の四曲と続く28年録音の四曲の計八曲のみ。

JSP はいつものことでデータ記載はかなり簡素に見えるが、実は全部書いてあるそのクレジットでは、それら八曲ではコンドンはバンジョーとになっている。がしかし全く聴こえない。1927/28年だから録音技術のせいもあるだろうが、おそらくそれ以上にコンドン自身あまりしっかりした音で弾いていないか、あるいは全く弾いていないためだ。

コンドンがバンジョーからギターにスイッチするのが、『クラシック・セッションズ 1927-1949』で辿ると二枚目収録の1933年10月21日録音から。それ以後はおそらく死ぬまでずっとギターで、その腕も下手くそだとはいえ活動を続けていたわけだから徐々に向上しているのが分る。

まあでもコンドンのギター演奏そのものを話題にはできないね(苦笑)。演奏内容自体は他の参加ミュージシャンの旨味を楽しむというのがコンドンの録音集では昔から定石だ。『クラシック・セッションズ 1927-1949』の一枚目でちょっと面白いのはレッド・マッケンジーだ。

一枚目に約10曲も参加しているレッド・マッケンジー。JSP の一見簡素だがしっかりしているデータ記載でも “Comb, Vocal” となっている。ヴォーカルはいいとして「コーム」ってなんだそれ、櫛じゃないか、そんなもの楽器じゃないだろうって思われるよねえ。これがマッケンジーの「楽器」なのだ。

レッド・マッケンジーは歌は歌うが、普通のいわゆる楽器はできなかった。その代わり櫛にパラフィン紙を巻きつけて、それをブーブー吹いて鳴らすという人。ちょっとカズーに似たようなサウンドで、まあ素人楽器ではあるけれど、なかなか楽しいよ。ちょっとご紹介しよう。マウンド・シティ・ブルー・ブロワーズ名義の「インディアナ」。
ところでこの「インディアナ」。スウィング時代あたりまではよく演奏された有名スタンダード曲なんだけど、モダン・ジャズの時代には完全に忘れ去られた。「曲」自体はね。でも聴いていてなんとなく聴き覚えのある流れだなと感じる人が多いんじゃないかなあ。

そう、「インディアナ」のコード進行は「ドナ・リー」のそれと同じなのだ。「ドナ・リー」を書いた(チャーリー・パーカーではなく)マイルス・デイヴィスは「インディアナ」のコード進行だけ拝借して新しいテーマ・メロディを乗せ「ドナ・リー」にしたのだ。

「ドナ・リー」はビ・バップ・スタンダードになったし、チャーリー・パーカー・ヴァージョンその他をお聴きでない方でも、ジャコ・パストリアスがソロ・デビュー・アルバムでやったのはご存知のはずだ。そんなわけで古い曲「インディアナ」もコード進行だけは生き延びている。

ビ・バップ・スタンダードの多くがこんな具合で、古い有名スタンダードのコード進行だけ借りていて、それは例のレコーディング・ストライキがビ・バップ勃興の真っ只中で、著作権問題で古いスタンダード曲をそのままは使えなかったせいだとかは、以前この記事で詳しく書いた。ディキシーランド・ジャズをマイルスも聴いていたってことだ。
そんなことはともかく上掲音源の「インディアナ」。ヴァイオリンの音が出るまでブーブーっていう音がしているが、それがレッド・マッケンジーの吹く櫛だ。ヴァイオリンのあとに続いて出るヴォーカルは当然マッケンジー。コンドンはバンジョーで参加となっているが、やはりその音は聴こえない。ある時期、マウンド・シティ・ブルー・ブロワーズという名前でマッケンジーは活動した。

演奏風景もちょっとご紹介したいので、エディ・コンドン関連ではないが YouTube にあったのを貼り付けておく。古いジャズ(関連)音楽がお好きな方ならみんな知っている有名曲「アイ・エイント・ガット・ノーバディ」。英文説明も是非読んでほしい。
お前はいつも古臭いジャズの話ばっかりじゃないかと思われそうだけど、このレッド・マッケンジーの櫛の場合はそうとばかりも言い切れないぞ。これは要するにスキッフルと同じようなものだ。ってことは UK ロックの誕生と非常に密接に繋がっているんだよね。

そんなマッケンジーのマウンド・シティ・ブルー・ブロワーズにベニー・グッドマンが参加して(となっている)録音したのが1930年録音の「ガールズ・ライク・ユー・ワー・メント・フォー・ボーイズ・ライク・ミー」。エディ・コンドンの『クラシック・セッションズ 1927-1949』に収録されているのだが、しかしこれ、グッドマンのクラリネットの音は聴こえない。

グッドマン云々よりも、コールマン・ホーキンスのテナー・サックスとファッツ・ウォーラーのピアノ演奏が立派なので、それに聴き入るという一曲だなあ。そしてやはりマッケンジーが櫛を吹いてヴォーカルも取る。ファッツはこのほか『クラシック・セッションズ 1927-1949』でたくさん聴ける。

僕はだいたいいつもデータの類を見ずに音だけ聴いている人間だけど、突然ピアノの音が違って聴こえるし、なんだかスタイリッシュで立派なもので、こりゃ誰だ?と思ってデータ記載を見ると、ことごとくファッツ・ウォーラーなんだなあ。やっぱり超一流の人は音だけで目立ってしまうんだよなあ。

さて『クラシック・セッションズ 1927-1949』全四枚に一番たくさん参加しているジャズ・マンは、エディ・コンドン以外ではテナー・サックス奏者のバド・フリーマンだ。この人はコンドン一派、すなわちシカゴ派の番頭格みたいな人物だった。ボックス二枚目の1933年10月21日録音以後、かなり多くのセッションに参加している。パキパキ・ポキポキっていうあのテナーの音、いいよねえ。

クラリネットのピー・ウィー・ラッセルも非常に多く参加していて、頻繁にあの独特のサウンドが聴けるのも楽しいが、僕は『クラシック・セッションズ 1927-1949』を通して聴いていて、一番グッと来るのが三枚目冒頭から。トランペットの音が突如変貌するからだ。

その一曲目「エンブレイサブル・ユー」で、あのビックス・バイダーベックにそっくりなサウンドが聴こえ、ってことはトランペットじゃなくコルネットだな、しかも白人のあの人に違いないと思ってデータ記載を見たら、やはりビンゴだった。ボビー・ハケットだ。

ハケットは『クラシック・セッションズ 1927-1949』三枚目冒頭の四曲(1938年1月と6月録音)でだけ吹いているが、そのコルネット演奏がもう絶品で、聴いていて僕は嬉しくてたまらない。それら四曲ではピー・ウィー・ラッセルのクラリネット、バド・フリーマンのテナー・サックスも聴ける。ピアノはジェス・ステイシー。

エディ・コンドンの『クラシック・セッションズ 1927-1949』。多くのジャズ・ファンにとっては四枚目末尾にある1949年の NBC スタジオ・セッションでビリー・ホリデイが歌ったりルイ・アームストロングがトランペットを吹いたりする二曲が目玉なんだろう。もちろん素晴らしいものだが。

しかし僕にとっての『クラシック・セッションズ 1927-1949』最大の好物は、三枚目冒頭の四曲、1938年1月と6月録音だなあ。それほどボビー・ハケット、ピー・ウィー・ラッセル、バド・フリーマンの三人が好き。そしてそれら四曲では珍しくエディ・コンドンのギターの音もクッキリと聴こえる。

2016/12/17

ビルヒニアの歌うボレーロってチャーミングだね

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僕が小学校低学年の頃、父親が熱心なマンボ・ファンで、ペレス・プラード楽団その他の8トラ(死語?)・カセットばかりクルマのなかでかけていたという話はもう何度もしているが、なんでもその時代の日本のラテン音楽ファンは、ペレス・プラード派とトリオ・ロス・パンチョス派に分れていたんだそうだ。

なんてことを僕が知ったのはもちろん随分あとになってのこと。父は熱心なマンボ・ファンで、僕が助手席に座っている時にもそんな8トラばっかり流していたので、僕も小学校低学年の頃には「マンボ No. 5」などのメロディも曲名も憶えてはいたが、そんな素地が花咲くのはかなりあとになってだ。

ペレス・プラードに代表されるマンボ派はいわばダンス好きで、パンチョスに代表されるトリオ派はいわば歌謡好きってことかなあ?しかし若い頃は熱心なマンボ好きだった僕の父は、亡くなる前20年間ほどは熱心な演歌好きになったので、歌謡好き資質もあったんじゃないかと思うんだよね。

僕が生まれたのは1962年なので、父のマンボ好きはおそらく50年代中頃から60年代末頃までのことだったんだろう。世界中で大流行したマンボの日本におけるブームっていつ頃のことだったんだろう?そんな事情にあまり詳しくない僕だけど、しかし地方都市だし時代を考えてもブームが来るのは遅れたかもね。

いずれにしてもマンボ好きだった父が踊っているのを僕は見たことがない。聴いて楽しそうにしているだけだった。さてペレス・プラードに代表されるダンサブルなマンボ派と、トリオ・ロス・パンチョスに代表される歌謡派。日本でのことは知らないが、アメリカ大陸では1950年代が最盛期かなあ。

北米合衆国〜メキシコを中心としてマンボ派とトリオ派がしのぎを削ったのは、おそらく1940年代末〜50年代のことなのかもしれない。CBS と RCA ヴィクターというアメリカの二大メジャー・レコード会社がメキシコに進出したのが1946年のことらしいからね。その後の50年代が最盛期だろうなあ。

それまでのラテン音楽の中心地は北米合衆国のニュー・ヨークだったのだ。それが1940年代末からメキシコに移行する。メキシコに進出した CBS はロス・パンチョスを、RCA はペレス・プラードを専属音楽家として迎え、49〜50年頃から両者ともメキシコを舞台に大活躍することとなった。

ペレス・プラードとマンボの話は今日はおいておく。そんな1940年代末〜50年代にトリオを伴奏に(することが多かった)ボレーロを歌った女性歌手がいる。ビルヒニア・ロペスだ。ビルヒニアはプエルト・リコ移民の両親のもとニュー・ヨークで生まれ育ったのだが、活躍した舞台は主にメキシコ。

それで今日はビルヒニア・ロペスのことをちょっと書いてみたいのだ。といっても僕がこの女性歌手の名前を知ったのはかなり最近の話で、中村とうようさん編纂の『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』という2002年リリースのライス盤に一曲ビルヒニアの歌が入っていたからだ。

ビルヒニアは前述の通りプエルト・リコ系なので同国の作曲家の歌をやっているというわけだ。とうようさん編纂の『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』13曲目にあるビルヒニアが歌うのはフローレスの「恋の執念」(オブセシオン)。これは実に見事な一曲で、選ばれるのはよく分る。

その「恋の執念」一曲しか僕はビルヒニアを知らなかったのだが、その後田中勝則さん編纂で2014年に『プエルト・リコのボレーロ姫』というディスコロヒア盤がリリースされ、これは全26曲収録とたっぷりビルヒニアの歌を楽しむことができるようになって感謝感激。田中勝則さん、お世話になってます。

というわけでその田中勝則さん編纂のディスコロヒア盤『プエルト・リコのボレーロ姫』に沿って話を進めたい。ボレーロは、19世紀末頃かなあ、キューバで誕生した歌曲形式の一つだけど、キューバ以外のスペイン語のラテン圏全域にも広く普及しているもので、ゆったりとした甘いバラード。

ボレーロの甘くてソフトなフィーリングは、要するに1940年代末〜50年代〜60年代初頭あたりのフィーリンの祖先。というかほぼ同じものだ。僕みたいな人間はボレーロとフィーリンは区別できない。実際ビルヒニア・ロペスもボレーロと並びフィーリンもたくさん歌った。

だから『プエルト・リコのボレーロ姫』にはフィーリンも収録されている。10曲目の「あなたが去ってゆくとき」と11曲目の「こんなに幸せ」。後者「Soy Tan Feliz」はホセ・アントニオ・メンデスの曲で『フィーリンの真実』に2ヴァージョン収録されている。どっちもギター弾き語りだ。

ビルヒニアの「こんなにも幸せ」は、その前10曲目の「あなたが去ってゆくとき」と同じくオーケストラ伴奏で歌っている。それにしてもこういうビルヒニアのフィーリン録音を聴くと、軽くてソフトでちょっぴりモダンな感じかもなあとは思うものの、それ以前とそれ以後収録のボレーロとの本質的な違いは聴き取れない。

『プエルト・リコのボレーロ姫』で僕が本当に溜息が出るほど素晴らしいと思うのは、11曲目のフィーリンの次12曲目「幸せになろうよ」から23曲目の「ベサメ・ムーチョ」までだ。それらの曲でのビルヒニアの歌は、もう的確に表現できる言葉がないねと思うほど素晴らしく聴き惚れるしかない。

特にとうようさんが『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』に収録した、『プエルト・リコのボレーロ姫』13曲目の「恋の執念」。ペドロ・フローレスの作曲も見事なら、ビルヒニアの歌唱にも絶賛の言葉しか浮かばない。伴奏のレキント(ギターの一種)もタメの効いたいい演奏だ。
14曲目「ふたりの誓い」もマイナー調の哀愁ラテン歌謡で、13曲目「恋の執念」と同じくらい素晴らしい。伴奏のレキントもビルヒニアの歌もタメが効いていて、日本の演歌に通じるものがある。僕の父親が晩年は熱心な演歌好きで、僕も少し演歌好きなのは、こんな部分と関係あるのかなあ、どうだろう?

「恋の執念」を書いたペドロ・フローレスの名前を出したけれど、とうようさんが『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』というアンソロジーを編んだくらいで、ラファエル・エルナンデスもプエルト・リコの作曲家では最重要存在の一人。ビルヒニアも当然のように何曲も歌っている。

『プエルト・リコのボレーロ姫』では12曲目「幸せになろうよ」、24曲目「プレシオーサ」、25曲目「ボリンケン哀歌」がエルナンデスの書いた曲。後者二つはエルナンデスのニュー・ヨーク時代の作品だが、「幸せになろうよ」はメキシコ時代に書いたボレーロ。レキントの伴奏もビルヒニアの歌も楽しそう。
「ボリンケン哀歌」はカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』や『粋な男ライヴ』でやっているので、そちらでもかなり有名になっているだろう。ビルヒニアの『プエルト・リコのボレーロ姫』では12曲目のエルナンデス「幸せになろうよ」から17曲目「そしてそのとき」までがプエルト・リコのボレーロだ。
その後18曲目「ヌンカ」から23曲目「ベサメ・ムーチョ」まではメキシコのボレーロを歌っている。その前のプエルト・リコのボレーロを歌った六曲と同じトリオの伴奏によるもの。中心がレキント奏者のフニオール・ゴンサレス。このフニオールが伴奏者だった時代がビルヒニアの最も良かった時代だね。
フニオールの伴奏でプエルト・リコ作曲家の曲を歌った12曲目から17曲目までの六曲が、オリジナルはアルバム『ビルヒニア・エン・プエルト・リコ』収録。同じ伴奏でメキシコの作曲家の曲を歌った18曲目から23曲目までの六曲のオリジナル収録盤が『ラ・ボス・デ・ラ・テムラ・カンタ・ス・カンシオン・ファボリータ』。

フニオールがビルヒニアの伴奏をやったにのはこれら二枚のアルバムしかなく、それら二枚から中心に選ばれて収録された12曲目「幸せになろうよ」から23曲目の「ベサメ・ムーチョ」までが、『プエルト・リコのボレーロ姫』ではビルヒニアの歌も最も素晴らしく輝いている。

2016/12/16

1971年のマイルス・ライヴは『オン・ザ・コーナー』の予兆?

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マイルス・デイヴィス・バンド1971年の公式録音は今でも一つしかない。それが『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』収録のライヴ。以前も書いたが、71年のマイルスにはどうしてだかスタジオ録音が皆無なので、今まで出ている71年もののブートレグも全てライヴだ。

僕はちょっと好きな1971年のマイルス・バンドのライヴ。しかし長らく公式盤がなく、『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』がリリースされたのは2015年。遅かったよなあ。まあブートでなら音質も内容もいいものが何枚かあったんだけど、ほぼ全て、一曲目冒頭の数秒間(と思われるもの)がなかったり、末尾が演奏終了前に切れていたりして不満だった。

だから2015年の『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』四枚組のラスト四枚目に1971年バンドのライヴのフル・セットが収録された時は結構嬉しかった。1975年までというタイトルなのに71年ものがラストなのか?と思われるかもしれない。

そうなんだよね、『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』の収録順はやや不可解だ。1955年のマイルス初のニューポート・ジャズ・フェスティヴァル出演以来、基本的には時代順であるものの、三枚目に1969年、73年、75年バンドのライヴがこの順番で収録されているのだ。

おそらく一回のライヴ演奏時間の長さゆえにこうなっているんだろうなあ。しかし1975年ものは「エムトゥーメ」(スタジオ版は『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録)たった一曲だけしか入っていないのはどうしてなんだろうなあ。さらにこの四枚組、大半は2015年よりも前に公式やブートで発売済のものだだったので、僕はなかなか買わなかった。

一番有名なのは一枚目収録の1958年のニューポート・ライヴだろう。これは全曲ではないとはいえ、セロニアス・モンクのものと A面 B 面抱き合わせで60年代からレコードが出ていたし、CD ではフル・セットがマイルスの単独盤としてリイシューされている。

その他いろいろとあるが、あまり詳しく書いていると今日の本題からどんどん逸れていってしまうので、また別の機会に。『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』四枚目収録の1971年バンドのライヴは、しかしニューポートという土地におけるものではない。

1971年10月22日、スイスの Dietikon(ディエティコンと読むのかな?)におけるライヴなのだ。じゃあどうしてそれが「ニューポートのライヴ集」を銘打ったボックスに入っているのかというと、このスイス・ライヴは「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ユーロップ」だからだ。

1954年開始のニューポート・ジャズ・フェスティヴァル自体は有名なので説明は不要だろう。これのオーガナイザーであるジョージ・ウェインは、このブランド名を使って、おそらく1960年代末か70年代初頭にヨーロッパでも公演を行うようになっていたんだよね。

『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』三枚目収録の1973年ベルリン・ライヴも「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ユーロップ」の名を冠して行われた公演だし、このボックスには未収録だがジョージ・ウェイン司会の声が冒頭にあるから、69年のストックホルム公演もそうなんじゃないかなあ。

なんちゃらジャズ・フェスティヴァルの例に漏れず、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルもある時期以後はジャズ・メンに限らずいろんな音楽家が出演するようになっている。1969年頃からジェフ・ベック、テン・イヤーズ・アフター、ジェスロ・タル、B・B・キング、 ジェイムズ・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどなど。

マイルスはいくらファンク系の音楽をやるようになっていたとはいえ、一応はジャズ畑(出身)の音楽家なんだから、ジャズの名があるフェスティヴァルに出演するのは全く当たり前の話だし、そもそも1955年のニューポート公演で一躍注目されて、それまでインディ・レーベルに録音していたマイルスが、一気にメジャーのコロンビアと契約できたというくらい縁のあるフェスティヴァルだしね。

ともかくそんな事情で1971年10月22日、スイスにおけるマイルス・バンドのライヴ。公式ではこれ一つだけであるとはいえ、それは CD 一枚丸ごと目一杯の79分以上もあるものだから、普通のファンはこれだけで充分だろうと思う。演奏内容はもっといいのがブートであるけれど、それの話をしてもなかなか入手が難しい。

1971年10月22日のマイルス・バンドとそれ以前のバンドの最大の違いは、パーカッショニストが二名いることだ。マイルスがレギュラー・バンドに初めて雇ったパーカッショニストは、1970年2月のアイアート・モレイラ。スタジオ・セッションではその数ヶ月前から使っているが、恒常的にライヴ活動するバンドに起用したのはその時期。

その後マイルスは死ぬまでずっとパーカッショニストを使い続け、レギュラー的に雇っていない時期は一度もない、と思われるだろうが、実は一つだけパーカッショニストのいないレギュラー・バンドがある。それは亡くなる年1991年に活動したバンドで、打楽器奏者はドラマーのリッキー・ウェルマン一人だけ。

1969年以後はあれだけリズム重視だったマイルスなのに、どうして最後のバンドにだけパーカッショニストがいないのか、なにか音楽的方向性の変化なのか、あるいはもっと別の理由なのか、じっくり考えてみないと分らないし、なにしろ1991年バンドの録音はブートでも少ないので、音を聴いて検証することがちょっぴり難しい。

そんな1991年の生涯ラスト・バンドを除き、常に一人のパーカッショニストは欠かしたことのないマイルスだけど、同時に二名雇っていたというのも例外なんだよね。1971年10〜11月の欧州公演でだけなのだ。二名とはドン・アライアスとエムトゥーメ。これ以前は同年夏前までのアイアート一人。

ドン・アライアスは1969年8月の『ビッチズ・ブルー』の録音から既にマイルスのセッション参加経験があるのはご存知の通り。基本、パーカッショニストとしてだがドラムスを叩くこともあった。エムトゥーメも1972年以後のマイルス・バンドで大活躍したので説明不要だね。

このパーカッショニスト二名構想をマイルスはどのあたりから思い付いたんだろう?まずきっかけは1969年以後のレギュラー・ドラマーだったジャック・ディジョネットが1971年の春に退団を申し出たことだ。それで当時のレギュラー・サックス奏者ゲイリー・バーツが、後任ドラマーとしてレオン・ンドゥグ・チャンクラーとエムトゥーメの二名を推薦した。

ゲイリー・バーツは、チャンクラーかエムトゥーメ(後者がドラムスを叩くのを聴いたことがないのが、まあできるだろう)のどちらか一名をバンドのレギュラー・ドラマーとして、ということだったのかもしれない。だがマイルスは1971年10月以後の欧州公演に向けて、両名とも雇ってしまった。

それでチャンクラーの方がドラムスを担当、エムトゥーメがパーカッションを、ということだったのかなあ。しかしここまでなら理解はたやすいし、ゲイリー・バーツはじめ当時のサイド・メンの各種発言も残っている。がしかしそれにくわえ、さらにドン・アライアスまで同時にパーカッショニストとして雇ったのは、ホントどうしてだったんだろう?

前々から繰返し今日も書いたが、1971年のマイルスは全くスタジオ録音をやっていない。次にスタジオ入りするのは1972年3月のセッションだが、しかしそれは「レッド・チャイナ・ブルーズ」(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』)の収録で、コーネル・デュプリーやバーナード・パーディーらセッション・メンを起用したもの。

だからそのセッションに参加しているレギュラー・メンバーはエムトゥーメだけなのだ。なおこの時初めてアル・フォスターがドラムスで参加してはいる模様。レギュラー・バンド的なもの+α で録音をやったのは1972年6月のセッションで、それは結果的に『オン・ザ・コーナー』になった。

その『オン・ザ・コーナー』になった二回のセッションが、恒常バンドとしては一年以上ぶりのスタジオ録音なのだ。その内容はみなさんご存知の通りのリズムの洪水と混沌。これを踏まえると、半年ほど前の1971年暮れの欧州公演における上記のようなバンド編成の理由は少し見えてくるはず。

1971年10〜11月欧州公演のマイルス・バンドは、ジャック・ディジョネットからレオン・ンドゥグ・チャンクラーへのドラマーの交代と、パーカッショニストを二名にしたという以外は、メンバーは誰一人代わっていない。サックス(ゲイリー・バーツ)も電気鍵盤楽器(キース・ジャレット)もベース(マイケル・ヘンダースン)も同じだ。

このドラマーとパーカッショニスト二名以外は完全に同一メンバーで、しかも演奏曲目もほぼ同一という約一年前のライヴ録音、例えば公式盤なら1970年12月のセラー・ドア公演(『ライヴ・イーヴル』でかなり聴ける)と、71年10月スイス公演を聴き比べると、バンド・サウンドの変化、ボスであるマイルスの音楽志向の変化が少し分ってくるんだなあ。

どちらのライヴでもオープニングはやはり「ディレクションズ」で、その他「ワット・アイ・セイ」「イッツ・アバウト・ザット・タイム」「ファンキー・トンク」など、演奏曲目はほぼ全て同じだが、リズムの感じが少し変わっているんだよね。1971年は相当にヘヴィーなのだ。ヘヴィーすぎると思うほど。

一部が『ライヴ・イーヴル』になった1970年12月のセラー・ドア・ライヴで充分ヘヴィーじゃないかと一般のジャズ(系)・リスナーのみなさんは思われるだろうが、翌71年10月のスイス・ライヴではもっとグッと重心を落とし、曲の演奏テンポもやや落ちて、重たすぎるかもしれないと思うほどのグルーヴ感だ。

レオン・ンドゥグ・チャンクラーのドラミングをジャック・ディジョネットと比較すると、やはり物足りない。ドタバタしている感じでまとまりに欠け、バンドをグイグイ引っ張る推進力や躍動感に不足を感じてしまう。ボスも同感だったんだろう。その証拠に翌72年の『オン・ザ・コーナー』になったセッションではディジョネットを呼び戻しているもんね。

しかしパーカッショニストが二名いることによるリズム・アンサンブルの多彩さは、これ以前には聴けなかったものだ。そしてこの点こそがマイルスが1971年暮れのバンドでこだわった部分なんじゃないかと思うのだ。打楽器セクションの人員と内容を拡充して、リズムの色彩を豊かなものにしたいという部分だ。

マイルスのライヴ・バンドでパーカッショニストが常時二名在籍したのは、生涯通しこの1971年暮れの欧州公演だけ。しかしスタジオ・セッションでなら1972年にはほぼ常に同じだった。その典型的果実が『オン・ザ・コーナー』なんだよね。だから71年暮れバンドはその予兆だったのかもしれない。

スタジオ録音だけで辿ると、『オン・ザ・コーナー』になった1972年6月セッションの前がエルメート・パスコアール参加の「リトル・チャーチ」を録音した1970年6月のセッションだから、内容的にどうにも飛躍がありすぎて、『オン・ザ・コーナー』がまるで突然変異のように見えてしまう。

2003年リリースの『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』に1970年春頃の録音でリズムがかなり躍動的でファンキーなものが収録されてはいるものの、それらは2003年まで完全に未発表のままだったもの。それにいくら躍動的でファンキーといっても、まだまだ軽いし爽快感がある。

それがスタジオ録音だけだと次にいきなり『オン・ザ・コーナー』が来てしまうもんだから、マイルスのなかにいったいなにがあったんだ?と多くのファンは昔から不思議に思っていたんだよね。でも前年1971年暮れの打楽器奏者計三名参加の欧州公演、公式盤では『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』だけなのだが、そこで既にそんな方向へ向かいつつあったんだよね。

そう考えると、演奏内容の音楽的レベルでは1970年12月のセラー・ドア・ライヴよりもレベルが低いだろうとしか思えないマイルス・バンドの翌71年10月のスイス公演も、なかなか興味深く聴けるんじゃないかなあ。

2016/12/15

ある時期ピュアリファイされたアメリカ黒人ブルーズの姿

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「サムデイ・ベイビー(・ブルーズ)」「ウォリード・ライフ・ブルーズ」「トラブル・ノー・モア」。三つ全部同じものだ。古いブルーズって面白いというか面倒くさいというか、なんなんだろうねこれは。「サムデイ・ベイビー」はスリーピー・ジョン・エスティスの録音で、「ウォリード・ライフ・ブルーズ」はビッグ・メイシオの録音でよく知られているはず。

スリーピーの「サムデイ・ベイビー」初録音はデッカへの1935年。ビッグ・メイシオの「ウォリード・ライフ・ブルーズ」は1941年のブルバード録音が初。しかしこの事実だけをもって、このブルーズがスリーピーのオリジナルだと言うこともできないし、ビッグ・メイシオの方がモダンなのだとも言いにくいだろう。

なぜならばこれら二つとも、元々アメリカ南部に古くから伝わっている伝承ものをベースにして、それをスリーピー、ビッグ・メイシオ各人がアダプトして自己流に料理しただけだからだ。したがって僕は聴いてはいないのだが、1935年のスリーピー・ヴァージョンよりもずっと古くから歌われていると思う。

その根拠となるのがミシシッピ・フレッド・マクダウェルのヴァージョンだ。マクダウェルはこの古いブルーズを何度も録音しているが、そのたびに曲名を変え、ある時は「サムデイ・ベイビー」、またある時は「ウォーリド・マインド」などとしてやっている。全て同じ曲なんだよね。

そしてマクダウェルらミシシッピ州北部ヒル・カントリーのブルーズ・メンは、録音開始が戦後になっただけで、ブルーズのありようとしてはかなりプリミティヴで伝承的な姿を残していたというのも周知の事実。実際、マクダウェルのやる「サムデイ・ベイビー」(「ウォリード・マインド」他)は、スリーピーのヴァージョンと比較してもずっと素朴だ。

それはそうとこの「サムデイ・ベイビー」あるいは「ウォーリード・ライフ・ブルーズ」(あるいは「トラブル・ノー・モア」)は、ブルーズという言葉本来の意味、すなわち憂鬱、悲しみ、心配、悩みといったステレオタイプが実にピッタリ似合う。この曲以上に似合うものはないんじゃないかと思うほどだ。

曲名だけ見たってそれは分るじゃないか。「いつの日にか(心配事がなくなりますように)」とか「悩み多き人生のブルーズ」とか「心配事はもう勘弁」だとかいう意味だし、聴いたら歌詞もまさにそんなフレーズがずらりと並んでいるし、メロディも長調だとはいえやはり悲痛感が漂っている。

そしてこのブルーズ・ナンバーを広めたのがスリーピーに他ならず、また彼以上に苦しみと悲しみに満ちたブルーズ・マンもいないだろうというほどの人生で、そんなイメージがつきまとう人間がやや高めのピッチの悲痛な感じの声を張り上げて「サムデイ・ベイビー」を歌うもんだから、ますますこのステレオタイプ・イメージが増強される。
さらにスリーピーは戦後「再発見」されたのちは人気が出て、シカゴのデルマークにもアルバムを録音したし、日本公演まで実現している。特に日本のある世代までのブルーズ・ファンにはかなり人気のあるブルーズ・マンだったから、スリーピーの人生と歌う「サムデイ・ベイビー」その他が合体して、この音楽はこういうもんだと考えられてきたんじゃないかなあ。

言うまでもないことだが、世の中にはそんな(悲痛な)ブルーズばっかりではない。ブルーズという名称が付いているくらいだから元々はそういうもんだろうと思われるかもしれないが、案外そうじゃない面があるんだよね。それがフォーク(民謡)・ブルーズで、誕生期の初期型ブルーズにはバラッド的要素が強い。つまり「お話」であって、悲痛な感情を叫んでいるとは限らないし、黒くもない。

この事実は一般には悲痛感満載のブルーズとして認識されているであろう「サムデイ・ベイビー」(「ウォリード・ライフ」)にすら当てはまるのだ。それは上でも書いたミシシッピ・フレッド・マクダウェルのヴァージョンを聴けば誰でも実感できる。歌詞も旋律も曲調も散漫でブルージーではない。リズムがヒプノティックで面白い、楽しい、ダンサブルだというのが最大の特徴なんだよね。
だからやはりマクダウェル・ヴァージョンの「サムデイ・ベイビー」(「ウォリード・ライフ」)こそが、この曲の録音では最も古い姿を残しているんじゃないかと僕は思う。真っ黒けで悲痛感漂うスリーピーのヴァージョンは、ある時期以後のアメリカ黒人音楽の変化によるものなんじゃないかなあ。ある意味ピュアリファイされたってわけだ。

録音順では1930年代後半にデッカに二つあるスリーピーに次ぐ、ビッグ・メイシオの1941年ブルーバード録音「ウォリード・ライフ・ブルーズ」も黒いフィーリングはさほど強くないかも。だいたいギター・ブルーズに比べてピアノ・ブルーズは都会的で洗練されているからね。
長年の盟友ハーモニカのハミー・ニクスンと自らのギター&ヴォーカルでやるスリーピー・ヴァージョンに対し、ビッグ・メイシオの1941年録音は自らのピアノ&ヴォーカルに、ギターでタンパ・レッドが参加しているシカゴ録音。間違いなくリロイ・カー&スクラッパー・ブラックウェルのコンビをお手本にしたような演奏スタイルだ。

録音順で次に来るのは、僕の持っているなかではなんとジャズ・ヴァージョンだ。アンディ・カーク楽団の1942年録音で、曲題は「ウォリード・ライフ・ブルーズ(サムデイ、ベイビー)」と併記されている。歌っているのはジューン・リッチモンドという僕は知らない歌手で、サックス・ソロも知らない人だなあ。
アンディ・カーク楽団は古い黒人ブルーズ・ソングをとりあげてビッグ・バンド・ジャズに料理することがあったが、1942年の「ウォリード・ライフ・ブルーズ(サムデイ、ベイビー)」も全く黒い感じがない。少なくとも同じ頃のジャンプ系楽団のようなフィーリングは僕は感じないなあ。

録音順でその次が戦後になって、レイ・チャールズの1953年録音。それのタイトルは「サムデイ・ベイビー」であるにもかかわらず、内容的にはビッグ・メイシオ・ヴァージョンに近い。当時スリーピーが忘れ去られていたということもあるだろうけれど、同じピアニストのヴァージョンを参考にしたからというのが一番大きな理由なんだろう。
これの次がマディ・ウォーターズの1955年チェス録音。曲名が「トラブル・ ノー・モア」に変わるが同じもの。マディのそれは当然電化バンド・ブルーズで、黒いフィーリング満載のグルーヴィーなブルーズだ。フランシス・クレイがブラシで叩くドラミングもいいが、アンプリファイされたハーモニカがいいよなあ。
しかしそのマディ・ヴァージョンでのハーモニカが誰なのかが判然としない。ウォルター・ホートンかリトル・ウォルターかのどっちなんだ?僕が持っている英チャーリーのコンプリート・ボックス附属のディスコグラフィーではウォルターとなっているが、一方小出斉さん編纂の日本盤『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』の記載ではどっちか分らないとなっているんだなあ。

僕の耳にはどっちかというとリトル・ウォルターのスタイルなんじゃないかと聴こえるんだけど、小出さんの耳の方が確かだからやっぱり分らない。 がいずれにしてもそのブルーズ・ハープのサウンドが黒くてブルージーなフィーリングを強烈に表現していて、いいなあこれ。

マディの「トラブル・ノー・モア」をそのまま下敷きにしたのがオールマン・ブラザーズ・バンドの1971年フィルモア・ライヴ・ヴァージョンで、曲名も同じでマディの名前を作者としてクレジットしている。オールマンズのものはマディ・ヴァージョンにおけるしゃくりあげるようなハーモニカをデュエインのギター・スライドに移し替えている。
スリーピー・ジョン・エスティスのヴァージョンにもハーモニカのハミー・ニクスンが参加してブルージーな感じを出していた。マディはスリーピーのものかビッグ・メイシオのものか、どっちを参考にしたんだろうなあ?録音だけ聴くとスリーピー・ヴァージョンに近いが、1955年だとスリーピーはまだ忘却の彼方というか死んだと思われていた時期だ。

いずれにせよ、録音時期は戦後だが内容的には誕生期の原初伝承型を残していたに違いないミシシッピ・フレッド・マクダウェルのヴァージョンを除き、1950年代半ばか60年代以後にこの曲をやるブルーズ・メンやロッカーはほぼ全員、スリーピーのとビッグ・メイシオのと、両方を聴いて参考にした可能性はある。

なお、スリーピー・ジョン・エスティスは1929〜41年にヴィクターとデッカに録音したものこそが本領発揮のもので、ビッグ・ビル・ブルーンジーのテキトー発言のせいで生存はほぼありえないと思われていた62年に「再発見」されデルマークに吹込んだものは、今聴くとイマイチなんだなあ。

デルマーク盤『スリーピー・ジョン・エスティスの伝説』でも「サムデイ・ベイビー」をやっているし、同様に代表曲の「ドロップ・ダウン・ママ」もあるが、どっちも戦前録音に及ばないと僕には聴こえる。がしかしあのデルマーク盤でスリーピーは人気が出て、1974年に来日公演が実現したのもそのおかげであるのは確かだ。

ちなみにその第一次ブルーズ・ブームだった頃のスリーピーの来日公演をプロデュースしたのは中村とうようさんだ。とうようさん編纂の MCA ジェムズ盤『スリーピー・ジョン・エスティス 1935-1940』が日本盤で買える一番適切なスリーピー入門盤に違いない。

以前も書いたがこの MCA ジェムズ・シリーズの慣例で、スリーピー最大の代表曲「サムデイ・ ベイビー」のオリジナル録音は『ブラック・ミュージックの伝統〜ブルース、ブギ&ビート篇』に入っているので、重複を避けるためスリーピーの単独盤には収録されていないのには注意しないといけない。

ビッグ・メイシオの1941年ブルーバード録音「ウォリード・ライフ・ブルーズ」は、1997年に米 RCA がリイシューした単独盤『ザ・ブルーバード・レコーディングズ 1941-1942』で簡単に聴ける。エリック・クラプトンの『24・ナイツ』ヴァージョンは、これをそのまま再現している。ジョニー・ジョンスンのピアノがいい。
またスリーピーの録音にジャグ・バンドっぽいものがあったり、タンパ・レッドの「イッツ・タイト・ライク・ザット」のパターンが聴けたり、そのタンパ・レッドがビッグ・メイシオの1940年代ブルーバード録音に参加していたりなど、いろいろと面白いことがあるんだけど、そんな話までする余裕はないのでまた別の機会に。

2016/12/14

八代亜紀さんへの公開ラヴ・レター

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八代亜紀さん、大好きです。もう40年間以上あなたのことを想い続けています。

僕が八代亜紀さんを知ったのは中学生の時。テレビの歌番組で歌うあなたを見て、なんて綺麗な女性なんだろう、そして歌がなんて魅力的なんだろうと、一目(一耳)惚れしてしまいました。その時八代さんがなにを歌っていたのか、もう記憶が曖昧になっているんですが、僕が中学生の頃だから「しのび恋」だったかもしれません。

それは「なみだ恋」だったような気が僕はするんですが、あの曲は1973年リリースですから、その時僕はまだ小学生でした。ですがテレビの歌番組ですから、あるいは最新曲ではなく八代さんの最初の大ヒット・ナンバー「なみだ恋」を歌っていらっしゃったかもしれません。

とにかく大好きになってしまったんです。惚れてしまったんです、八代さんに。僕の通っていた中学校でクラスメイトに「僕は八代亜紀が一番好きな女性なんだ」と言うと、「なんだ 、お前はあんな年上女が好きなのか?」と笑われたりしました。それでも僕は頻繁に八代さんのことを喋り、歌も容姿もどれほどチャーミングなのか熱く語っていたのです。

今考えたら世の中のことをなに一つ知らないただの中学生がそんなことを、しかも他はみんな同年代か少し上のアイドル歌手のことをいいと言っていたのに、僕だけ10歳以上年上(と言ってもあの頃八代さんの年齢は知りませんでしたが)の、それも演歌歌手がいいんだなんて、ちょっと変わった中学生だったかもしれません。

その後、僕が少しは演歌好きになったのは間違いなく完全に八代さんのおかげです。中学生の時に八代さんに出逢わなかったら、その歌と容姿の虜にならなかったら、その後の僕が演歌を聴くようにはならなかったかもしれないし、いまだに演歌の魅力に気がついていないかもしれません。全ては八代さんのおかげなんです。

中学生の時に八代さんに惚れてしまって以来、現役日本人女性歌手では僕は八代さん一筋で追いかけてきたというのが事実です。僕は17歳の時にジャズをきっかけにいろんな音楽にどっぷりハマってしまうようになり、人生がすっかり狂ってしまい現在までそれは続いています。

17歳頃からは主に洋楽をどんどんキチガイみたいに聴きまくるようになり、そしてその関連で日本の音楽も聴くようになり、日本人女性歌手もいろんな人を聴いてきました。スウィングする洋楽歌手が大好きな僕ですから、日本人女性歌手でも同資質の歌手、例えば生田恵子さんとか10代の頃の美空ひばりさんとかが凄いと思うんですが、最も感情移入できるのは今でも八代さん、あなたの歌です。八代さんこそが僕にとってのナンバー・ワンなんです。それくらい中学生の時に聴いた「なみだ恋」(だったように思うんですが)の魅力は大きかったのです。

これは八代さんがスウィングしないという意味ではありません。演歌歌手とそうではないポップス歌手とでは「スウィング」の質が違っているように思います。演歌はそもそも快活で軽快にノルようなものは多くありません。がしかしリズミカルなフィーリングはもちろんあって、というかそれがない大衆音楽なんて存在しないわけですから。

この意味では八代さんは最高に「スウィングする演歌歌手」に違いないと僕は考えています。今まで八代さんが発売した全106曲のシングル・ナンバーのなかには、確かに多くは演歌らしいしっとりした粘り気のあるノリ、スウィング感のものが多く、それらにおける八代さんの歌いこなしは見事というしかありません。

例えば、今まで八代さんが歌った曲のなかで最もドロドロした怨念に満ちたものは1974年の「愛の執念」なんじゃないかと思います。なんといっても川内康範さんの書いた歌詞がもう尋常ではなく、それに合わせ曲調もリズムのノリも、これでもかというような女の執念を吐露するような粘っこいことこの上ないものです。

そんな「愛の執念」における八代さんの歌い方、リズムへのノリは、しかし必ずしも男に向けた執念をしつこく引きずるようなフィーリングではないように聴こえます。楽器伴奏のアレンジや八代さんの発声は確かにドロドロしているんですが、フレイジングのリズム感は典型的な三連のリズムの上に軽く置くような感じが僕はします。

「愛の執念」みたいな曲でもそうなんですから、したがって「おんなの夢」(1975)、「ともしび」(1975)、「おんな港町」(1977)や「もう一度逢いたい」(1976)といったリズミカルでポップなものでは、八代さんの軽快なノリが抜群に活き活きとしています。しかも非常に細かい部分の息遣いの隅々にまで歌い分けがされていて、時にドスを利かせ、時に優しくささやいて、声の質や歌い回しを微妙に変化させ、僕たち聴き手の情感に忍び込んできます。

ちょっとした変わり種は1976年の「花水仙」ですね。これは演歌というよりまるで小椋佳さんが書きそうな曲なんですよね。布施明さんが歌った1975年の「シクラメンのかほり」にちょっと似ています。でも小椋佳さん作じゃないんですよね。池田充男さんと浜圭介さんの書いたものです。ちょっと日本のいわゆるフォークっぽいフィーリングがします。

八代さんは「なみだ恋」で大ブレイクしたのちはどんどん大ヒットを連発するようになり、女性演歌歌手としては不動の地位を築き、国民的歌手となりました。それはおそらく1979年の「舟唄」、翌80年の「雨の慕情」、このあたりからなんでしょう。これら二曲は日本歌謡史に残る名唱だと僕は確信しています。

僕は特に1979年の「舟唄」が大のお気に入りで、メロディ(浜圭介さん)も歌詞(阿久悠さん)もアレンジ(竜崎孝路さん)も、そして全体的な八代さんの歌い方、特に中間部でテンポ・ルパートで挿入される「ダンチョネ節」部分でのコブシ廻しなどなど、絶品だとしか言いようがありません。

八代さんの歌ったもののうち、当時から現在に至るまでの僕の最愛曲である「舟唄」なんですが、 最近、僕はこの曲でちょっと面白いことを発見しました。それはこの曲はレゲエだということです。一番のなかで 0:47 あたりから伴奏が突然賑やかでリズミカルに変化する「しみじみ飲めばしみじみと」部分から、「ダンチョネ節」に入る 1:11 までのあいだ、エレキ・ギターの刻むのはレゲエのリズム・パターンです。

二番でも同じようにスキャットで「ダンチョネ節」を歌いはじめるまでのあいだ、エレキ・ギターが(ン)ジャ!(ン)ジャ!と裏拍で刻む典型的なレゲエのパターンを弾いています。かなり控え目の小さな音での隠し味ですから、耳を凝らさないとちょっと気づきにくいもので、八代さんの演歌のなかにレゲエを聴き取るファンがどれだけいるのかも分りませんが、右チャンネルから間違いなく聴こえます。

さて、ここまで全て八代さんのテイチク時代の話ですが、実際1971年のレコード・デビュー(前まではいろんなことがあったとうかがっています)から1982年にセンチュリーレコードに移籍するまでのテイチク時代こそが、僕にとっての八代さんが最も輝いていた時期に聴こえます。

もちろん八代さんはテイチク時代以後も、そして2016年現在でも第一線で大活躍中です。演歌の女王、日本の国民的歌手という地位はもはや揺るぎのない確固たるものになっているにもかかわらず、そんなステレオタイプを打ち破るべく様々なチャレンジをされています。だからテイチク時代が一番良かったなんて言い方をするのは失礼だと承知してはいます。

がしかしそれでも今の僕が八代さんの CD を聴いてこの歌が最も素晴らしい、最も輝いているなと心の底から実感するものは、1982年までのテイチク時代に圧倒的に多いというのが偽らざる心境なのです。テイチク時代の全35曲、どれもこれも大好きなんですが、僕が普段最もよく聴くものはそのなかから30曲を選び CD 二枚組に収録したものです。

その二枚組はだからベスト盤なんですが、全30曲 CD 二枚で計1時間47分ほど。これで八代さんが名曲を歌いこなす名唱を聴いている時間が僕にとっては至福の時間なんです。発売順に並んでいるのではなく、一枚目が「おんな港町」ではじまり「舟唄」で終り。二枚目が「雨の慕情」から「愛の終着駅」まで。

あと五曲追加するだけでテイチク時代の八代さんの完全集になりますし、五曲追加しても CD 二枚に入る長さだと思いますので、できうればテイチクさんにはコンプリート集をリリースしていただきたいです。1970年代以後の日本に出現した現役女性歌手では最高峰に違いないと僕は考えている八代亜紀さんの、その絶頂期の歌唱の完全集が是非ほしいところです。

僕の今日のこの文章が、どうか八代亜紀さんご本人の目にとまりますように。あ、いや、本当に届いてしまったりしたら、僕としてもちょっと困ってしまうかもしれませんが、それでも僕の八代さんへの気持をなんとか分っていただけたらと思い、恥ずかしながらしたためました。

2016/12/13

美しきベースとサックスのユニゾン〜ウェザー・リポート

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「お前のしるし」などという、どうしてこんな和訳題になっているのか分らないウェザー・リポートの「ア・リマーク・ユー・メイド」。ローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』みたいに結果的にカッコよくなるならまだしも、誤訳した上にダサくなってしまうという醜態を演じているじゃないか。

“You” が「お前」になるのを我慢すれば、“A Remark You Made” とは「お前が言ったこと」の意。だからあえて言えば「お前が残したこと(もの)」ということだ。そこから転じて「お前のしるし」になってしまったのだろうか?そういえばこの曲をアル・ジャロウが(当然歌詞入りで)カヴァーしていたなあ。

そのアル・ジャロウ・ヴァージョンのタイトルが「サムシング・ザット・ユー・セッド」だったから、これを参考にすれば、ちょっと分りにくいあの「ア・リマーク・ユー・メイド」という曲題の意味が誰でもはっきりするはずだ。それはそうと、あの「ア・リマーク・ユー・メイド」、ウェザー・リポート・ナンバーのなかで最も美しい曲じゃないかなあ。
この「ア・リマーク・ユー・メイド」はウェザー・リポートの1977年作『ヘヴィ・ウェザー』のA面二曲目。作者はジョー・ザヴィヌル。ザヴィヌルが書いた数多くの曲のなかで最も美しいメロディーを持つものに違いないと僕は思う。特に美しいと思うのが、あのサックスとベースのユニゾン部分だ。1:58〜2:16まで。

そこへ至るまでも全てが美しい。ザヴィヌルのアクースティック・ピアノを中心とする各種鍵盤楽器のイントロに続き、ウェイン・ショーターがテナー・サックスでメロディを吹きはじめる。その背後でジャコ・パストリアスが下降するベース・ラインを弾いている。

その最初のショーターのソロ部分はもちろんアド・リブではない。ザヴィヌルの用意した譜面通りだ。そもそも「ア・リマーク・ユー・メイド」でもアド・リブ・ソロだと言える部分はほとんどない。終盤でザヴィヌルが弾くシンセサイザー・ソロだけじゃないかなあ、アド・リブは。

そのシンセ・ソロ部分以外は全てあらかじめ綿密に組み立てられていたものだ。ある時期以後のウェザー・リポートの曲はだいたいそうだけどね。そう思うと、このバンドの支配者だったザヴィヌルの曲創りはジャズというよりクラシック音楽みたいなものに近かったのかもしれないね。

火花を散らすような丁々発止のやり取り、命を削るようなスリリングで緊張感に満ちたアド・リブの応酬。ジャズとはそういうものを軸に据えた音楽だと一般的には考えられているよね。ビ・バップやフリー・ジャズなんかはその典型だ。もちろん素晴らしいものだけど、そうじゃないジャズだってたくさんあるよね。

ジャズ界最高の作曲家にして最高のバンド・リーダー、あるいはなんの付属言葉もいらない「至高の存在」デューク・エリントン。そうであることに異論を挟む人は誰もいないだろうが、エリントンの音楽もあらかじめ緊密に構成されて譜面化されていたようなものだ。これも誰も疑わないよね。

いつ頃だったか、ザヴィヌルは1970年代以後のデューク・エリントンになりうる可能性があると書いていた専門家がいた。誰だっけなあ。それを大学生の時に読んだ時はアホなことを言うな、いくらなんでもザヴィヌルとエリントンは並べられないだろうと笑っていた僕だったんだけど。

今でもこのザヴィヌル=現代のエリントンみたいな言い方はやっぱり言いすぎ、ザヴィヌルを褒めすぎだろうとは思う。だがしかし一面の真実を言い当ててもいたのかもしれないなあ。上で書いたような両者の音楽志向の共通性を踏まえ、さらに両者ともオリジナル楽曲を自分のバンドで演奏することにこだわったという意味においても。

そしてエリントンとはやはり比べれられないが、ザヴィヌルもそこそこ多くの良作を世に送り出してきた。『ヘヴィ・ウェザー』収録の「ア・リマーク・ユー・メイド」はそのメロディ・ラインの美しさという点ではザヴィヌルの最高傑作なんだろうなあ。

少し話が横道に入ってしまったが、『ヘヴィ・ウェザー』の「ア・リマーク・ユー・メイド」。鍵盤イントロに続きショーターの吹くメロディは、しかしなんかちょっとヘンではあるね。しゃくり上げるような旋律の短いパッセージを吹くと一瞬パッと止まって、再びまた少し吹いて終る。

ショーターのテナー吹奏がすぐに終ると、ジャコのベースがモチーフを弾く。その部分も最高に美しいが、それも短いパッセージですぐに終り、ザヴィヌルがシンセサイザーで少し弾くと、ショーターの本格的なソロに入る。ところであのジャコの弾く短い部分こそが「ア・リマーク・ユー・メイド」最大のモチーフじゃないだろうか。

というのは曲の後半部でもジャコは同じ旋律のパッセージをリピートしているからだ。それが「ア・リマーク・ユー・メイド」の曲構造の土台になっているのが、その後半部を聴くと分るので、やはりあれこそがザヴィヌルが根幹に据えたモチーフなんだろうと僕は判断している。

さて前半部におけるジャコの弾くモチーフに続くショーターのやや長めのソロは、おそらくウェザー・リポート時代の彼のテナー吹奏最高傑作だね。長めといっても 1:22〜1:57 までと一分間もないのだが、このバンドでのショーターとしては長い方だし、かなり美しいので聴き惚れる。特に吹き終りの三秒間が泣けるのだ。

こりゃいいねと思っていると、それに続いてもっと泣けてしまうパートがやってくる。それが上でも書いた 1:58〜2:16までのサックスとベースのユニゾン部分だ。こんな完璧なメロディを書いていたこの頃のザヴィヌルには心服するしかない。悪口を言う人も多いけれど、そんなことに構わず僕はソングライターとしてのザヴィヌルは天才だったと言いたい。

「ア・リマーク・ユー・メイド」のあのテナー・サックスとベースのユニゾン部分で泣けるんだというファンはかなりいるんだよね。この旋律を思い付き、しかもそれをテナー・サックスとベースの、しかもジャコのあのフレット抜きエレベ音とのユニゾンでやらせようと思い付いた時点でザヴィヌルの勝利だ。

それくらいあのサックス+ベースのユニゾン部分は至高の美しさ。もちろんジャコがフレットを抜いたフェンダー・ジャズ・ベースで出すあの独特のサウンドを持っていなかったら、ザヴィヌルもこんな発想は持たなかっただろう。ジャコのあの音色ありきで思い付いたユニゾンに違いないんだけどね。

テナー・サックスとベースのユニゾンが終った 2:16 以後の「ア・リマーク・ユー・メイド」は、僕にとってはイマイチ魅力がない。引き続きショーターがソロを吹き、その背後でのジャコのベースもかなりいいが、まあ余韻が後を引いているみたいなもんだよなあ。

その後書いたようにジャコは冒頭部でも弾いたモチーフを何度も反復し、その上でザヴィヌルがシンセサイザーでソロを弾いたりもするが、あのアド・リブ・ソロはない方がよかったと僕は思う。ジャズ・ファンがジャズ(系のもの)を聴いてアド・リブなしがいいと発言するなんて、オカシイのかもしれないけどね。

「ア・リマーク・ユー・メイド」はウェザー・リポート自身によるライヴ・ヴァージョンが二種類公式発売されている。一つは1979年リリースの『8:30』収録のもので、録音年は78年か79年かはっきりしない。もう一つは2015年リリースの四枚組『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス: 1978-1981』収録の78年東京録音。

どっちもはっきり言って面白くない。前から繰返しているように、ウェザー・リポートのライヴ演奏がスタジオ・オリジナルより上を行くということはまずない。完璧性こそが売りのバンドだから、やはり緊密に構成された構築美を持つスタジオ録音の方が、それが若干緩むライヴ演奏よりもずっといいんだよね。

他の音楽家による「ア・リマーク・ユー・メイド」カヴァーを僕は三種類だけ持っている。一つが前述のアル・ジャロウによるヴォーカリーズ・ヴァージョン。2000年のヴァーヴ盤『トゥモロウ・トゥデイ』七曲目。歌詞はもちろんアル・ジャロウ自身が書いている。
キューバ人ピアニスト、トニー・ペレスの2002年作『ライヴ・イン・ハヴァナ』ヴァージョンの「ア・リマーク・ユー・メイド」は、ピアノ+ベース+ドラムスのトリオ編成で実に淡々と弾く。これはあんまり面白いもんじゃないなあ。だからなにも言わないでおこう。それにしてもどうして僕はこの CD を持っているんだろう?

そして最もいいのが、リゾネイター・ギター(まず100%ドブロ)弾きのジェリー・ダグラスの2005年作『ザ・ベスト・ケプト・シークレット』の四曲目の「ア・リマーク・ユー・メイド」だ。これは本当に美しい。基本的にギター+ウッド・ベース+ドラムスのトリオ編成で、後半でヴァイオリンが少し絡む程度。
美しすぎるだろう、これは。このジェリー・ダグラスのカヴァー・ヴァージョンが、ウェザー・リポート以外の音楽家による「ア・リマーク・ユー・メイド」カヴァーでは間違いなく一番いい。全てアクースティックでシンプルな楽器編成と、ドブロをスライドで弾いたあのサウンドが、原曲の持つリリカルさと感傷を際立てているよね。

あまりそう話題になっていないように思うジェリー・ダグラスだけど、かなりいいドブロ弾きなんだよね。彼がスライド・プレイをする時は、たいていラップ・スティール・スタイル、すなわち膝の上にドブロを寝かせて置き、その上からバーで押さえるという弾き方。その腕前が一流であることは、上で音源を貼った「ア・リマーク・ユー・メイド」一つ聴くだけで分っていただけると思う。

2016/12/12

ネット用語「スパム」のルーツとスパイシーな英国(音楽)文化

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Spam

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今ではただ単に「スパム」(Spam) とだけ言えば、それはネット上での迷惑メールや迷惑行為や迷惑アカウントを意味するようになっている。ひょっとして今ではそれだとしか認識されていないだろうか?英語圏はもちろん日本語文化圏でもそれくらい一般的な使用法になっているよねえ。

もちろんご存知の通りスパムはアメリカのホーメル・フーズ社製のランチョンミートの缶詰のこと。すなわち食べ物だ。欧米では一般的に普及しているが、日本国内でスパムの缶詰は、おそらく沖縄県民以外には馴染が薄いかもしれない。沖縄以外のいわゆる本土では、輸入食品を扱う店じゃないと買いにくいからだ。

スパムが(おそらく)沖縄でだけよく知られているのは、もちろんアメリカ統治時代が長かったせいだ。今でも米軍基地がたくさんある。米ホーメル・フーズ社と関係がある沖縄ホーメルもあるし、他社製でもポークと沖縄では呼ばれる肉の缶詰がある。

がしかしそんな食品名であるスパムが、どうしてネット上の迷惑メール/アカウント/行為を指すものとなってしまったのかは、少し説明が必要かもしれない。ご存知の方も大勢いらっしゃるかもしれないが、ひょっとしてご存知ない方のためにちょっとお時間をいただきたい。そしてそれは音楽を含む英国文化とも密接な関係があるのだ。

英国 BBC が1969〜74年に製作・放送した『空飛ぶモンティ・パイソン』というコメディ番組がある。同国のコメディ・グループ、モンティ・パイスンが出演したもので、日本でも1976〜77年にかけて放送されたようだ。僕は英国製のこの手のコメディ番組が大好きで、当ブログや Twitter のアイコンにしている赤いぬいぐるみも、英 BBC 製作の幼児向けでちょっとおかしくノンセンスな教育番組『テレタビーズ』の登場人物(人物?)から拝借している。

『テレタビーズ』は何年頃だったか日本でもテレビ東京が放送したが、僕はそれは全く観ていない。僕はもっぱら英国直輸入のヴィデオを販売する店でテープを買って観て楽しんでいた。幼児向け番組だから英語が非常に簡単で(といってもメイン・キャラクターの四人は意味のある言葉らしきものはほとんど発さず、ナレイションが英語で喋るだけ)、だから初心者向け英語教材としても好適なんだよね。

いやまあその、僕は別に英語教師だから教材として『テレタビーズ』に興味を持ったとか、そういうことではない。最初に見かけたのは確か銀座のソニープラザ(今でもあるの?)でだったと思うけれど、店内をぶらついている時に、ヴィデオ・テープのパッケージに映る四色の四人がなんだかかわいくて面白そうだなと思っただけなのだ。それで観てみようと思っただけ。

『テレタビーズ』自体にはもはや関心はないが、でもあのなかでも英国特有のユーモア感覚が活かされていたように記憶している。そんな何百年間も続く英国のコメディ文化を、現代のテレビ番組に限らず大きく形作ったのが上記1969〜74年の『空飛ぶモンティ・パイソン』だったのだ。たぶん DVD を売っているだろうと思うので、興味のある方は是非。

その『空飛ぶモンティ・パイソン』のなかで1970年に放送された、第2シリーズ第12話のラストに放送されたスケッチがネット迷惑行為としてのスパムの語源だ。そのスケッチは一般に「スパムの多い料理店」とか「スパムの多い大衆食堂」などと呼ばれている。

そのスケッチはそんなに長いものではないので、もしまだご覧になったことのない方は、下に貼る YouTube 映像を是非ちょっとご覧いただきたい。同じものがいくつか上がっていたが、英語字幕が出るこれがリスニング能力に自信のない方にも分りやすいと思う。
ご覧いただければ僕が説明する必要はなにもないようにも思うけれど、このスケッチのなかに頻出するスパムという言葉はもちろん食品名だ。1970年だからまだインターネットなど一般には普及しておらず、そもそもそんな時代が到来するなんて考えていた人は少なかったはず。

食堂にやってきた客がウェイトレスにメニューを尋ねるとウェイトレスはそれを読み上げる。注意してほしいのはその最初の二つにはスパムは含まれていない(笑)のだが、すぐに「なんちゃらとスパム」ばかり連発するようになり、次第にスパムしかないような状態になってしまう。

スパムが連発されスパムだらけになり、すると周囲にいたヴァイキングたちが「スパム、スパム、スパム……」と合唱をはじめ、食堂はワケの分らない大混乱状態になる。料理を注文しようとした客は逆上し、もはやなにもできないというようなことになってしまうのだ。

カットが変わって歴史学者が登場しヴァイキングについて語りはじめるが、その話の内容もすぐにスパムだらけになり、背景の幕が吹っ飛ぶとそこは元の食堂で、結局ヴァイキングがスパムを合唱。食堂をバックに流れるクレジットも「SPAM」で溢れているじゃないか。

とこここまで説明すれば、この「スパム」がどうしてネット迷惑行為を指す言葉になったのか、もうみなさんお分りだと思う。正常なというか普通の行為(このスケッチの場合料理の注文)をやりたいだけなのを、別のなにか(この場合スパム)を執拗に繰返すことによって妨害して不可能にしてしまうので、スパムがそんなネットでの妨害行為、妨害主の意になったのだ。

なお、このモンティ・パイスンのスケッチにおけるスパム(spam)は、発音の類似性を使ってスパーム(sperm)とのダブル・ミーニングになっている。sperm とは精子のこと。料理名やヴァイキングの歌う合唱が男性器や性行為、特に男性同性愛の意味合いを帯びている。これを具体的かつ詳細に説明するのは遠慮しておこう(笑)。

モンティ・パイスンの結成は1967年らしいが、大人気になったのはやはり紹介しているように1969年にはじまった『空飛ぶモンティ・パイソン』によってだった。このコメディ・グループは同時代の UK ロッカーたちと関わりが深い。ボンゾ・ドッグ・バンドのニール・イネスはもう一人のモンティ・パイスンみたいなもんだし、『空飛ぶモンティ・パイソン』の前に流れていたモンティ・パイスン出演の子供向けテレビ・ドラマにはボンゾ・ドッグ・バンドが出演している。

ビートルズとの関わりも深い。しかもそれにはボンゾ・ドッグ・バンドが絡んでいる。リンゴ・スターは作品に出演し、ジョージ・ハリスンもメンバーと親しく映画に出資した。ジョン・レノンは死の二日前にインタヴューで、「もし生まれ変われるのなら、ビートルズではなくモンティ・パイスンのメンバーになった方がある意味では幸せなのかもしれない」と語っていた。

ビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』をご覧になった方であれば、世界で最も有名なこの四人組の、少し毒の効いたユーモア感覚がお分りだと思う。それはモンティ・パイスンやボンゾ・ドッグ・バンドと共通するものだ。1967年に BBC で初放映されたあのビートルズの映画にはボンゾ・ドッグ・バンドが出演しているし、音楽にも関わっているよね。

ビートルズとボンゾ・ドッグ・バンドの音楽的関係については詳しく書くことがあると思うし、そもそもビートルズと関係なくボンゾ・ドッグ・バンドについて書くかもしれない。またビートルズのなかにあるそんな英国式のスパイシーなユーモア感覚と、それが英国ミュージック・ホールの伝統とどう繋がっているか、その系統にある UK ロッカーたちについても書くことがあるだろう。

2016/12/11

ビ・バップ全盛期の二大巨頭共演ライヴ

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ディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーがライヴで共演した1945年6月22日のニュー・ヨークはタウン・ホールでのコンサート。これを実況録音したものが2005年に CD で発売されている。これはもんのすごく貴重な録音なんだよね。なぜならばジャズの新スタイルであるビ・バップというものが確たるものとして公の聴衆の前で披露された、それもディジーとバードという二台巨頭の共演で実現した最初の機会だからだ。

その共演録音盤 CD のタイトルは『ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー:タウン・ホール、ニュー・ヨーク・シティ、ジューン 22、1945』。Uptown という僕はよく知らないレーベルから出ている。元々これは12インチのアセテート盤七枚に録音されていたものらしい。

そのアセテート盤七枚をアップタウンのオーナーであるロバート・サネンブリックが入手したことが2005年の CD 化に繋がったらしい(と附属ブックレットの英文解説でサネンブリック自身が書いている)。それにしてもスタジオ録音でならしばしば共演したディジーとバードだけど、ライヴ共演が聴けるものってあまり多くないよなあ。『ジャズ・アット・マッシー・ホール』が昔から有名だけど、あれは1953年だからなあ。

1945年6月というとまだ第二次大戦も終っていないのだが、ビ・バップ自体は既にそのかたちを整えていた。その中心人物だったディジーとバードが初めて出会ったのは1940年のことだったらしい。40年というとディジーはキャブ・キャロウェイ楽団、バードはジェイ・マクシャン楽団在籍時だ。

初「共演」が実現したのが1942年。この年にバード在籍のジェイ・マクシャン楽団がニュー・ヨーク公演を行って、サヴォイ・ボールルームその他で演奏。それにディジーが参加したわけではないのだが、アフター・アワーで共演セッションなどすることがあったらしい。

正式な初共演は翌1943年。この年にアール・ハインズ楽団がディジーとバードの二人を同時に雇ったのだ。つまりその43年にはバードもカンザス・シティを離れニュー・ヨークに住み定期活動するようになっていたんだなあ。しかしその当時のアール・ハインズ楽団で二人同時の音が聴ける共演音源は残されていないのが残念。

録音上でのディジーとバードの初共演は、アール・ハインズ楽団在籍時の1943年2月15日に、シカゴのサヴォイ・ホテルでやったライヴ録音の「スウィート・ジョージア・ブラウン」。これは78回転SP二枚にわたりパート1とパート2に分割されて発売され、現在でもパーカー名義の『バース・オヴ・ザ・ビ・バップ』というアルバムに収録されている。

しかしそれを「ビ・バップ二大巨頭の初ライヴ共演」と呼んでもいいものかどうか、僕はちょっと迷ってしまう。二人とも、特にバードの方はまだ少しスタイルを確立しきれていないような部分が聴き取れるからだ。ちなみにバードがしっかりしたビ・バッパーとなったと言えるのは、僕の見解では1944年9月のサヴォイ・レーベルへの録音開始からだ。

もっともバードのサヴォイ初録音は彼の自己名義ではなく、タイニー・グライムズ・クインテットでのものだけど、アルト・サックスのスタイルはもうはっきりと確立している。バード自己名義の初スタジオ録音は案外遅くて、1945年11月26日のサヴォイ録音だ。既にマイルス・デイヴィスがレギュラー・メンバーになっていて、「ビリーズ・バウンス」「ナウズ・ザ・タイム」などを録音している。

そんなわけなので、1945年6月22日(はまだバード自己名義録音も存在しない)にニュー・ヨークのタウン・ホールでやったディジー&バードの共演ライヴは、このビ・バップの象徴二人が揃ってステージに立ち、公の聴衆の前で「これが新しいジャズ、ビ・バップというものです」と演奏してみせた最初の機会だったと言えるはず。

その時のタウン・ホール・コンサートはディジー・ガレスピー・クインテット名義で、ディジー、バード二人の他は、ピアノのアル・ヘイグ、ベースのカーリー・ラッセル、ドラムスのマックス・ローチという編成。ビ・バップ好きならよく知っている名前ばかりだね。

でもこれは正確じゃない。一曲だけテナー・サックスのドン・バイアスが参加して六人編成になり、さらに他の一曲では五人のままドラマーがマックス・ローチからシドニー・キャトレットに交代している。ドン・バイアス参加の理由ははっきりしている。

この時のタウン・ホール・コンサートの MC があのシンフォニー・シッドだが、一曲目の「ビバップ」演奏前の紹介で、「ディジー・ガレスピー・クインテットで、チャーリー・パーカーをフィーチャー…、と言いましてもチャーリーはまだ到着していませんので、代わってドン・バイアスが準備万端であります」と喋っているのだ。

この1945年6月22日のタウン・ホール・コンサートは二部構成で、一部がディジー・ガレスピー・クインテット、二部がエロール・ガーナー・トリオにドン・バイアスがゲスト参加するというものだった。バードがなかなか来ないので、それでおそらくは楽屋で待機していたか既に舞台袖でスタンバッていたドン・バイアスをピンチ・ヒッターに起用したんだろうなあ。

その一曲目「ビバップ」では一番手のソロがドン・バイアス。ドン・バイアスは一応スウィング・スタイル、あるいは中間派テナーとされているが、なかなかどうしてモダンなサックス・ソロを吹いているじゃないか。二番手でディジーがソロを吹くが、それは説明不要の完全ビ・バップ・スタイル。

ディジーのソロが終るとアルト・サックスの音でソロが聴こえはじめるので、ここでバードが到着したっていうことなんだろう。バードのソロを聴いていると、まあまあモダンで悪くないと思っていたドン・バイアスのテナー・ソロが、突然遠くにかすんでしまう。

「寄らば斬るぞ」というようなスリリングな緊張感を持ったバードのソロ。僕の本音を正直に告白すると、こういう聴き手にも緊張を強いるような音楽はややしんどくて、もうちょっとリラックスして寛げる音楽の方がいいなあとも思うのだが、まあしかしホント空前絶後の超天才サックス奏者ではあったよなあ。

そんなバードの天才ぶりがよく分るのが二曲目の「チュニジアの夜」。お馴染のテーマ吹奏が終った直後のブレイク部分で、バードはかの「フェイマス・アルト・ブレイク」に匹敵する吹きっぷりを披露しているのだ。「フェイマス・アルト・ブレイク」とは、1946年3月ダイアル録音の「チュニジアの夜」の失敗テイクのこと。

1946年3月28日のダイアル録音では「チュニジアの夜」を五回演奏し、完奏テイクは現在4テイク目と5テイク目が発売されている。五回のうちファースト・テイクのブレイク部分で吹いたバードのソロがあまりに素晴らしいもので、しかしバンド全体の演奏は全く使いものにならない失敗だった。

しかしそのブレイク部分のバードのソロのずば抜けた閃きと輝き、緊張感は、このまま廃棄してしまうに忍びないものだと判断したダイアルのロス・ラッセルも、LP 時代になってその「チュニジアの夜」の失敗テイクのブレイク部分だけを「フェイマス・アルト・ブレイク」という名で発売したのだった。もちろん今でも CD で聴ける。

そんなスリリングなアルト・ブレイクを、バードはダイアル公式録音の約一年前にタウン・ホールでの生演奏で披露していたんだなあ。だから既に自身のビ・バップ・トランペット・スタイルを確立していたディジー同様、1945年のタウン・ホール・コンサートでは、完璧に姿かたちを整えたビ・バップの生演奏をやっていたということだ。

三曲目「グルーヴィン・ハイ」、四曲目「ソルト・ピーナッツ」はどちらもディジーの書いたビ・バップ有名曲。といっても多くのビ・バップ・スタンダードの例に漏れず、前者は古い有名曲「ウィスパリング」(ポール・ワイトマン)のコード進行を使っている。

さて、CD アルバム『ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー:タウン・ホール、ニュー・ヨーク・シティ、ジューン 22、1945』のジャケ裏やブックレットに書いてあるクレジットでは、四曲目「ソルト・ピーナッツ」と五曲目「ホット・ハウス」でのドラマーがシドニー・キャトレットだとなっているのだが、これは間違いだね。

ドラムス・ソロまである「ソルト・ピーナッツ」でのドラミングは、どう聴いてもビッグ・シドのスタイルではない。三曲目まで叩いているとなっているマックス・ローチのスタイルに間違いないと僕の耳には聴こえるね。特にスネアとバスドラの使い方を聴くと、これには自信がある。

シドニー・キャトレットが叩くのは五曲目のタッド・ダメロン・ナンバー「ホット・ハウス」だけだ。この曲でのドラミングと、四曲目までのドラミングの違いは鮮明だし、MC のシンフォニー・シッドも「ホット・ハウス」の演奏前に、「ここで少し趣向を変えましてシドニー・キャトレットを迎えます」と喋っているじゃないか。

ところでそのシドニー・キャトレット。以前ソニー・ロリンズ関係で書いたように、スウィング期のドラマーにしてモダン・ドラミングへの橋渡し役ともなった重要人物なんだけど、そのロリンズの『サクソフォン・コロッサス』で叩いているのが、今日の話題1945年タウン・ホール・コンサートでも叩いているマックス・ローチなわけだ。

タウン・ホール・コンサートの四曲目「ソルト・ピーナッツ」までのドラミングと五曲目「ホット・ハウス」でのそれには、誰が聴いても分る鮮明な違いが表面的なスタイル上はあるので、やはりスウィング期ドラマーとモダン期ドラマーは違うよなとなってしまうだろう。

だがその違いは本質的なことじゃないんだよね。「ホット・ハウス」でのシドニー・キャトレットのドラミングは、ディジーやバードやアル・ヘイグら生粋のビ・バッパーに混じってもほぼ違和感がない。ビ・バップのリズム感覚は、それまでのジャズにはない全く斬新なものだったとなっているんだが、案外伝統的な部分もあるんだよね。

そんな「ホット・ハウス」に続き、アルバム『ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー:タウン・ホール、ニュー・ヨーク・シティ、ジューン 22、1945』では、ラストでこれまたお馴染のビ・バップ・スタンダード「52丁目のテーマ」(セロニアス・モンク作)を短く演奏して終了する。

2016/12/10

ハッサンの生グナーワ

Spirit









ゲンブリとシンティールは呼び名が違うだけで、楽器自体は同じものだよね?少なくとも音だけ聴いている分には完全に同じだ。がしかしハッサン・ハクムーンのアルバムでは全て必ずシンティールと書いてある。僕の場合、この名称はハッサンのアルバム以外で見ることは多くないんだなあ。

ともかくそんなシンティール奏者兼ヴォーカリストにして、グナーワ・マスターのハッサン。今までリリースされたアルバムで僕が一番好きなのは2007年のライヴCD『スピリット』。これが一番現場の生のグナーワに近いからだ。といっても僕はそんなグナーワが演奏される儀式現場に居合わせた体験はなく、こういうのがそうだぞと言われる録音物を聴いて、そうなんだと思っているだけ。

『スピリット』は2007年作と書いたけれど、CDパッケージにそう書いてあるだけで、これを僕が買ったのは2012年か翌13年だったはず。どこで買ったのか忘れたが、日本盤ではない。まあ2012/13年ならエル・スールで買った可能性が高い。そういえば僕が買った(のがエル・スールだったか記憶が定かではないが)あとしばらくして、同店でハッサンのサイン入りのを売り出して、ちょっと羨ましかった。

その数年後に Twitter でもハッサンと知り合って、ご存知の通り彼はある時期以後米ニュー・ヨークに住んでいるし、前から英語も達者。そんでもって奥さんが日本人だからなのか頻繁に来日し、ある時は(移転前の)エル・スールに行きたいんだが場所が分らないから教えてくれと、なぜか僕に DM で聞いてきたことがあったなあ。会おうよとも言われたが。

最近のハッサンのアルバムでは今のところの最新作である2014年の『ユニティ』も凄かった。一般の多くの音楽リスナーには間違いなくこちらの方が評判がいいはず。ドラム・セットはじめ米英ポピュラー・ミュージックでよく使われる一般的な楽器もたくさん入っていて、ロック〜ファンクっぽい部分もあるからだ。

今日は『ユニティ』の話はしない。こんな大傑作について、『スピリット』のついでみたいにして語るのは実にもったいないし、失礼だとも思うからだ。『ユニティ』は2014年に出現した21世紀型北アフリカ音楽、グナーワ・ファンク(・ロック)の最高の成果だから、機会を改めてじっくり考えてみたい。

『ユニティ』に先立つ『スピリット』に、そんなアメリカン・ファンク(・ロック)色はほぼない。楽器もドン・チェリーのポケット・トランペットが二曲目で聴こえるが、他は米英大衆音楽で一般的に用いられる楽器は少ない。というかほぼ聴こえない。

『スピリット』では一曲ごとに演奏に参加しているメンバーと担当楽器名が明記されている。一曲ごと全て演奏場所が異なるライヴ録音で全10曲。それを見ると録音場所も多岐にわたっていて、メキシコ、ブルックリン、マラケシュ、ニュー・ヨークなどなど。なかにはスタジオ・ライヴもあるようだ。

楽器編成も一曲ごとにかなり違っている。最後の10曲目がハッサン一人での演唱なのを除けば、他は全て最低でも三人、多いものは二曲あるマラケシュ・ライヴで十人近い演奏者が参加している。が『スピリット』というアルバムを通し、完全に聴感上の統一感があるのはやや不思議だ。

二曲目でドン・チェリーが吹くポケット・トランペットだけが他の曲とは印象が違うかなと思うだけで、しかもそのドン・チェリーの演奏はなかなか見事だ。さすがはジャズ・フィールドだけの人ではない。トランス・ジャンルの音楽家だけはある吹奏ぶりだ。

ドン・チェリーのそんなジャズ発の越境的音楽性を、いまさら僕が繰返す必要は全くないはず。ドン・チェリーは1995年に亡くなっているが、90年前後にハッサンとの共演歴がある。『スピリット』に収録のブルックリン・ライヴも、おそらくはその時期のものじゃないかなあ。録音年は全曲明記がないが。

ただし僕の場合、ハッサンの『スピリット』におけるドン・チェリーとの共演ナンバーは大好きというほどでもない。他の、シンティール+ヴォーカル+カルカバ(との表記の例の金属製カスタネット)+ハンド・クラップ中心みたいなものの方がもっと好きなのだ。

だってすんごいディープなフィーリングがあるからね。例えばドン・チェリーとの共演二曲目に続く三曲目マラケシュ・ライヴや、四曲目ロス・アンジェルス・ライヴ、五曲目メキシコ・ライヴなどは、聴いているこっちまで本当にトランスしそうだ。

三曲目のマラケシュ・ライヴには複数のヴァイオリン奏者、バンジョー奏者やウード奏者、キーボード奏者がクレジットされてはいるが、シンセサイザー音以外ほとんど聴こえず、もっぱらハッサンのシンティール+カルカバ+ヴォーカルと、他の打楽器と手拍子と、女性ヴォーカル・コーラスだけのように思う(のは僕の耳がヘボなせいだろう)。

八曲目のマラケシュ・ライヴも書いてある楽器編成は同じだから、おそらく三曲目と同じ時のライヴなんじゃないかなあ。ハンド・クラップもトランシーでいいなあ。八曲目の方ではヴァイオリン・セクションの音は鮮明に聴こえるが、それは必要なかったとさえ僕は思う。

ハッサンのシンティールとヴォーカル以外は打楽器だけの四曲目ロス・アンジェルス・ライヴもディープでトランシーでいいが、同様の編成の五曲目メキシコ・ライヴはもっとグルーヴィーだなと僕は思う。それはミドル・テンポのヘヴィーに沈み込むような感じで本当にドロドロ。

五曲目メキシコ・ライヴではドラマーが参加している。確かにドラム・セットの音が聴こえるんだけど、これもない方がよかった。二名クレジットされているドゥンベック奏者だけで充分だよなあ。ドゥンベックはダルブッカと同じもので、地域によって呼び名が違うだけ。僕はダルブッカの音が大好きだからね。

ヴォーカル+シンティール(ゲンブリ)+カルカバ(ケルカブ)+ドゥンベック(ダルブッカ)、それにくわえ手拍子だけで創るようなグナーワ・サウンドのグルーヴ感が僕にはたまらなく心地イイ。六曲目もほぼ同様の編成で似たようなグルーヴ感だけど、ドラム・セットとエレキ・ギターの音が目立つので、僕にはイマイチだ。

七曲目のスタジオ・ライヴ、九曲目のメキシコ・ライヴでもギターの音が聴え、決して悪くはないが、ハッサンがシンティールを弾きはじめ、打楽器も入りはじめるともっといい。曲のグルーヴィーさ、トランシーさは三曲目・四曲目・五曲目とほぼ変わらないんだけどね。

九曲目「ミムナ」(という曲名ではないが)ではハッサンが歌詞のなかに現地メキシコの名前も織り込んで歌い、そのせいか観客も盛上る歓声がはっきり録音されている。その部分での楽器伴奏はほぼシンティール+ドゥンベックのみのシンプルな感じでいいなあ。ハッサンはかなり即興的に歌っているみたいだ。

アルバム『スピリット』ラスト10曲目はニュー・ヨーク録音となっているが、ライヴの文字がないのでスタジオ収録なんだろう。たったの三分程度しかないものだけど、ハッサン一人のヴォーカル+シンティール+カルカバだけで、これが絶品だ。アルバムを締め括るに相応しいフィーリングだし、アルバム中これが一番いいように思う。

モロッコでの夜の儀式現場で演奏されるグナーワがどんなものなのか実体験ゼロの僕で、それはこういうものだという録音物もそんなにたくさんは聴いていないんだけど、ハッサンのライヴ・アルバム『スピリット』を聴くと、グナーワの素の姿に近いんじゃないかなと思うのだ。そんなものだからやっぱりこれが一番好きなんだよね。

2016/12/09

マイルスのモノラル盤を聴く

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といってもプレスティッジ盤などのことではない。コロンビア盤の話だ。録音順で言うと1961年3月録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』まで、リリース順で言うと64年リリースの『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』(のA面だったマイルス・コンボ分の録音は58年)まで、マイルス・デイヴィスのアルバムはモノラル盤も制作・販売されている。

この世で初めてマイルスのアルバムがステレオ盤でリリースされたのは、1959年8月発売の『カインド・オヴ・ブルー』だったのだが、しかしこの時もまだ同時にモノラル盤も出ている。というよりモノラル盤の方が第一優先だった。理由は一般家庭にステレオ盤レコードを再生する機器がまだ普及していなかったため。

だからモノラル盤をリリースしないと売上げが見込めなかったのだ。これは言うまでもなくマイルスに限らずある時期までの全ての音楽レコードについて事実だった。以前ピーター・バラカンさんが、英国時代に体験していたビートルズのレコードはモノラル盤だったのでステレオ盤は違和感があると、なにかで書いていたよね。

といってもアルバムでいうと『アビイ・ロード』と『レット・イット・ビー』の二枚は当時からステレオ盤しかなかったはずなので、バラカンさんの言うのはそれ以前のビートルズってことなんだろうね。ビートルズの場合、1988年の初 CD 化の際でも最初の四枚のアルバムはモノラルだった。

その後の『ヘルプ!』から『ホワイト・アルバム』までのビートルズ・アルバムのモノラル盤を聴いたのは、僕の場合2009年リリースのモノ・ボックスが初体験だった。するとステレオ盤では分らなかったこともいくつか発見し面白かった。バラカンさんの言うのはこんなことだったのかなぁってね。

僕はもちろんバラカンさんたちの世代ではない。生まれた頃からステレオ盤が標準で、熱心に音楽レコードを買い集めるようになる1979年以前から、どんなドーナツ盤も全てステレオ盤だったも。その後しばらくして、モノラル録音しか存在しないような戦前音楽の世界にどっぷりハマるようになるけれどね。

マイルスについてはコロンビア時代の最初の二枚、1955/56年録音57年リリースの『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』と同57年録音・発売の『マイルス・アヘッド』はモノラル盤レコードしかなかったけれど、その次の58年『マイルストーンズ』以後は最初から全部ステレオ盤しか聴いたことがなかった。僕だけじゃなく、かなり年上で50年代前半までのレコードをリアルタイムで買っていた世代以後はみなさん同じだろう。

調べてみたら、コロンビアの技術でステレオ録音が可能になったのがどうやらこの1958年のことだったらしいのだ。アメリカやアメリカ国外の他のレコード会社を見渡すとこれは早い方だ。会社によっては60年代に入ってもモノラル録音だったところもあるもんね。

といっても実はマイルスの場合、ギル・エヴァンスとのコラボによる1957年録音の『マイルス・アヘッド』で既にステレオ録音がはじまっていた。がしかしこのアルバムのステレオ盤がこの世で初めて発売されたのは1987年の初 CD 化の際で、この時までずっとモノラル状態でしか録音されていないんだろうと思い込んでいた僕はちょっと驚いた。

しかもその『マイルス・アヘッド』CD は、もちろんあの疑似ステレオなんていう人類レコード史上最悪の愚劣行為なんかではなく、さらにステレオ録音初期時代にはしばしばあった、音が左右のチャンネルに完全に分かれてしまい真ん中が存在しないなんていうようなものでもない。

『マイルス・アヘッド』のステレオ盤 CD は主役のトランペットがちゃんとセンターに定位して、その他の楽器もバランス良く左右に配置され奥行きもあるというリアル・ステレオ。これが1957年5月の録音だから、その時期のコロンビアでは既にそれを実現できるような状態でテープに録音されていたってことだなあ。

ってことは上で書いた「コロンビアの技術でステレオ録音が実現したのは1958年」という僕の記述はちょっとオカシイが、まあしかし一般的には当てはまっているだろう。少なくともマイルスのアルバムは『マイルス・アヘッド』の次作、58年2/3月録音の『マイルストーンズ』からは、ある時期以後ステレオ盤に切り替わり、それがスタンダードになった。それしかない。

が最初に書いたようにその頃はまだ一般家庭にステレオ盤を再生できる装置が普及していなかったがゆえに、リアルタイムではモノラル盤でリリースされていたわけで、『マイルストーンズ』もその次の『ジャズ・トラック』もその次の『ポーギー・アンド・ベス』もモノラル盤しか存在しなかったわけだ。

ようやくステレオ盤が販売されるようになったのが『ポーギー・アンド・ベス』の次の『カインド・オヴ・ブルー』だったのだが、最初に書いたようにやはりモノラル盤優先でリリースされていて、そんな二重状態が1964年5月発売の『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』まで続く。

ステレオ盤オンリーになったのは、したがってその次、1964年5月発売の『クワイエット・ナイツ』から。スモール・コンボものなら、ちょっと時代を遡って63年7月発売の『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』からなんだよね。ちなみにここまでは多くのアルバムが LP と同時にリール・テープでも発売されている。

余談ながら、本当の発音は「リール」である英単語 “real” を僕がそう表記しないのは、リール(reel)・テープのそれと区別したいという一心からなんだよね。とにかく僕はリール・テープで音楽を買ったことはない。学校の図書館にもたくさんあるので聴いたことなら何度もあるが。

かなりまわりくどくなったけれど、コロンビア時代のマイルスの最初の二枚『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』と『マイルス・アヘッド』は、僕の世代でもモノラル盤しかなかった(前者は今でもそうだ)からそれが標準だけど、『マイルストーンズ』〜『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』までの七枚のモノラル盤を僕が聴いたのはかなり最近のことなんだよね。

それが『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』という CD 九枚組ボックスで、これはコロンビア/レガシーが2013年にリリースしたもの。これを僕が買ったのは今年2016年のこと。上記七枚に最初の二枚を足して計九枚。それに加えかなり詳しい英文解説とデータが附属している。

『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』は日本盤も出ているようだ。日本語解説文があれば読みやすいけれど、値段が高めなので買わない僕。なお、一枚目である1955/56年録音の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』は現在でもモノラル盤しかないし、そもそもステレオにできる状態の録音テープが存在しないはずなので、このボックスに収録する意味はあまりないと思う。

『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤は、この2013年の CD リイシューに際しオリジナル・テープから新たにモノ・マスターを作成し直したものだと解説文にある。ってことはモノ盤が出ていてその後は完全にステレオ盤が標準になった『マイルストーンズ』以後のものは、モノ・マスターが現存していなかったってことなんだろうなあ。

といっても『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』にも入っている、現在でもモノ盤 CD しか存在しない『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』はデジタルでもモノ・マスターがあるはず。また『マイルス・アヘッド』もCDリイシュー後はステレオ盤が標準になったとはいえ、それまでは何十年間もモノ盤だったし、以前一度指摘したように、CDでも一度だけ(1993年だったかな?)モノのアメリカ盤が出ている。

だからこの二作については新たにモノ・マスターを作成し直したのではなく、それ以前から存在するデジタル・モノ・マスターをそのまま流用した可能性はある。そういう記述は見つけられなかったが、そうじゃないかと推測するし、なにより音を聴いた僕はそう判断している。

『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』九枚組ボックスで、今年になるまでステレオ盤でしか聴いたことのないマイルスのアルバム七枚を初めてモノラルで聴いた僕。そうすると、ビートルズのステレオとモノのような違いは聴き取れないんだけど、でもちょっぴり面白いこともあったりしたのだ。

まずもって1961年3月録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』まではモノラル盤優先で販売されていたという事実そのものを、僕の場合『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』附属ブックレット解説文で読むまで知らなかった。57年の『マイルス・アヘッド』までがモノ盤だったという僕のそれまでの認識が覆ってしまった。

演奏内容そのものは全九枚、たった一曲だけを除き現行CDと一秒たりとも違わない。そのたった一曲が『カインド・オヴ・ブルー』一曲目の「ソー・ワット」だ。これも以前指摘したけれど、ある時期以後のリイシュー CD ではフェイド・アウトして消えるタイミングがほんの少しだけ遅くなり、すなわち曲の収録時間がほんの数秒だけ長い。

それが『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤『カインド・オブ・ブルー』の「ソー・ワット」では、フェイド・アウトして最終的に完全に音が消えるタイミングが、アナログ盤や初期の CD で聴いていたオリジナル通りに戻っている。僕にはこれがまあまあ嬉しかった。

フェイド・アウトがほんの数秒違ったところで大差ないだろうというのが一般のリスナーの意見だろうなあ。それにごく最近『カインド・オヴ・ブルー』 CD を初めて買って聴いているファンは全くそんな事実は知らないはず。だが、僕たち熱心なファンはそうじゃないんだよね。

「ソー・ワット」に限らないが、曲の終盤で徐々に音が小さくなりフェイド・アウトしていくその微細な姿かたちまでもクッキリ鮮明に焼きついているからなあ。だから現行ステレオ盤 CD の『カインド・オヴ・ブルー』は(一曲入っているボーナス・トラックのせいもあるが)ちょっと違和感がある。

それを2013年の『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスに収録する際に、新たにモノラル状態にミキシングし直したんだそうだから、その時にオリジナル・ヴァージョンのフェイド・アウトのタイミングに戻そうと、誰かは知らないが決断したってことだなあ。

また『マイルストーンズ』のモノ盤を何度も聴くと、以前も一度書いたがこのアルバムがどうして僕にとってイマイチなのか、ちょっと分ってきたような気がする。1958年の作品にしてはビ・バップ的だからだ。ステレオ盤ではこれが分りにくいというかほぼ分らない(のは僕だけ?)。

マイルスは本格的にはチャーリー・パーカーのコンボでデビューしたジャズ・マンであるにもかかわらずビ・バップ不適合者だったことは、みなさんよくご存知のはず。それでも「ドナ・リー」みたいにメカニカルに上下する旋律を持つティピカルなビ・バップ曲も書いていたりはするのだが。

だがやはりマイルスは、音楽家としての「姿勢」みたいな部分では終生ビ・バッパー的だったと言えなくもないが、やっている音楽内容を聴けば、落下したら死ぬようなタイト・ロープの上を、それも歩くのではなく疾走しているかのようなスリル満点な一発勝負はほぼやっていない。一部のライヴでそうなっているかのように思えるのは、全部サイド・メンがやっているだけ。

ビ・バップとはそんな生きるか死ぬかみたいなギリギリの世界で、まさしくアドリブ一発勝負が命。そんな世界でフル活動したからこそチャーリー・パーカーは、交通事故でも不治の病でもないのに34歳で死んじゃったんだと僕は思っている。マイルスはそんな人間のバンドでデビューして、それを目の当たりにしていたんだよね。

そもそもの音楽性も最初からわりと静的な部分があるマイルスだけど、それに加えパーカーみたいな人間のそばにいたから、ディジー・ガレスピーもそうだけど、ちょっとこうパーカーを反面教師にしたというか、自分はこうならないでおこうみたいな部分もあったんじゃないかなあ。

それがあったのかどうかマイルスの内心が分るわけもない僕だけど、創る音楽作品がアンチ・ビ・バップ的であることは分りやすい。マイルスは破綻寸前で成立するアドリブのスリルではなく、あらかじめよく練り込まれ構築された均整美、全体的に統一されたグループ表現を心がけている。

僕はマイルスのそんなアレンジド・ミュージックが大好きなんだ。ところが1958年の『マイルストーンズ』のモノ盤でではビ・バップ的苛烈さみたいなものがあるんだよね。こんな意見を言っている人はおそらくいないだろうが、今年になってモノラル盤で何度も聴いて、僕は間違いなくそれを感じ取っている。

『マイルストーンズ』は通常、モーダルな作曲・演奏法をマイルスが初めてやった作品と位置付けれらている。がしかしよく考えてみて。いわゆる普通でいうモーダル・ナンバーはアルバム・タイトル曲たった一つだけで、それ以外は従来のコーダルな曲ばかり。

『マイルストーンズ』にはブルーズが三曲もある。ブルーズもスケールにもとづいて演奏するものだから、言ってみれば一種のモーダル・ミュージックではある。そう考えると広い意味でのモーダル・ナンバーは『マイルストーンズ』に四曲あることにはなるのだが。

しかしそれら三曲のブルーズ・ナンバーで、ボス以下全員のソロにモーダルな雰囲気は薄いんじゃないかなあ。特に『マイルストーンズ』一曲目の「ドクター・ジキル」。このジャッキー・マクリーン・ナンバーを、プレスティッジ時代の1955年初演とはガラリと雰囲気を変えた超急速テンポでやっているのなんか、相当に苛烈だ。

聴き直してみると、1955年プレスティッジ録音ヴァージョン(は「ドクター・ジャックル」の曲名)の方がむしろモーダルなフィーリングがあって、1958年『マイルストーンズ』ヴァージョンは完全にビ・バッパーのやるブルーズなんだよなあ。僕はこういうブルージーさが薄いブルーズは好きじゃない場合が多い。

そんなビ・バップ的要素は、長年ステレオ盤(しかなかったから)で聴いていた『マイルストーンズ』では僕は自覚できなかった。あるいは全盛期のリアルタイム録音で聴くビ・バップは全てモノラルばかりなせいなのか、そんなことは無関係に単に僕の耳がヘボなだけか、とにかくモノ盤で聴いて初めて鮮明に自覚できたのだ。

『マイルストーンズ』のアルバム・タイトル曲はややスタティックで、いかにも翌年の『カインド・オヴ・ブルー』を予告するモーダル・ナンバー。ところで今日の話題からは離れるが、マイルス本人はこの曲があまり好きじゃなかったのか、ライヴで演奏するレパートリーにしていなかった。

それをライヴでやるようになったのは、1963年に雇ったトニー・ウィリアムズの進言によってだったんだよね。トニーは「マイルストーンズ」という曲が大のお気に入りだったらしく、やらせてくれとボスに言ったんだそうだ(とのマイルスの発言がある)。

さて、『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤で聴いてみないと分らなかった鮮明な違いは以上なんだけど、その他長年聴いていたステレオ盤とモノ盤のかすかな違いは随所にある。2013年の最新技術で作り直した新モノ・マスターをもとにしているにしては、わりと古いというか「かつての」あのサウンドだ。

これはおそらくモノとステレオという録音・ミックス・再生状況がもたらす本質的宿命みたいなもんだろうなあ。音楽の録音・再生はモノこそが「本物」だと主張する音楽家や関係者は、ステレオ技術普及後もたくさんいるじゃないか。僕たち大衆音楽ファンにお馴染なのはフィル・スペクターだ。

クラシック音楽界にも多いようだ。大学生の頃好きで聴いていた J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」(の何番だったかは忘れた)を収録したレコードのライナーノーツにも、当のチェロ奏者のそんな言葉が載っていたようなかすかな記憶あある。誰だっけなあ、パブロ・カザルスだっけなあ?

カザルスだったかどうかもう憶えていないが、チェロ一台の演奏なんだからモノラルで充分という意味ではなく、複数人数であれオーケストラであれなんであれ、音楽というものの「現場」を考えてみろ、モノラルな音状況じゃないか、それをレコードで左右2チャンネルにするっていうのは本質から外れているんだとか、そんな内容だった(ような気がする)。

僕は書いたように幼少時代からレコードといえば全てステレオ盤で育った人間だから、こういうモノこそ本物の音楽録音・再生だというのは、やや違和感があるというか、イマイチ心の底からは納得しにくいんんだけどね。でも最近なんだかちょっとだけ分るような気もする。

フィル・スペクターの例のあのボックス・アルバムのタイトルは『バック・トゥ・モノ』じゃないか。スペクターはステレオ録音技術普及後もモノにこだわった人間。それは彼の創るサウンドを聴けばだいたい全員その理由は実感できるはず。「音の壁」と形容さえるあれはモノじゃないと実現できないからだ。クラシック音楽の人間みたいに現場の忠実な再現を求めてのことではない。スペクターの場合は録音テクニック上の理由だ。

マイルスの初期コロンビア録音九枚のうち、現在単独盤 CD では一作目の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を除き全てステレオ盤しか販売されていない。モノ盤を聴こうと思ったら『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスを買うか、あるいはオリジナル・アナログ・レコードを探すしかない。

それらモノかステレオか、どっちが「優れている」だとか「本質的だ」とかは言えないというか意味がない。ただリアルタイムではモノ盤優先で販売されたので、コロンビア側もおそらくはモノ・ミックス作成の方により力を入れていたのは間違いないんじゃないかという気もする。モノ盤で聴く『カインド・オヴ・ブルー』なんかなかなか新鮮だったよ。

ってなことや、今日書いたようなことや、あるいはモノが好きだとか、モノかステレオかを実際にちょっと聴いてみて判断したいとか、そんなようなことを実感してもらうためにも、コロンビア/レガシーは値段高めの『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスだけじゃなく、一枚一枚単独でもモノ盤をリリースすべきだね。

2016/12/08

マックスウェル・ストリートの喧騒

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シカゴにマックルウェル・ストリートというのがあった。治安の悪化を理由に1994年に取り壊されたので今はもうない。それまでの百年間以上にわたり、シカゴ大衆音楽の中心地だった。特に日曜日になると屋外マーケットが開かれるので、大勢の人間がやってきて賑やかになり、いろんな音楽が演奏されていたらしい。

マックスウェル・ストリートというとブルーズだろうと思われるだろうが、そうとは限らない。ジャズもカントリー&ウェスタンもあったし、そして日曜日なら教会へ行く日なのでゴスペルもやっていたはずだ。だがまあやっぱりこの地区はブルーズのイメージだなあ。

そんなマックスウェル・ストリートでのブルーズ(を中心とする音楽)の姿を鮮明に捉えたアルバムがある。『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』という Studio IT 音源の二枚組CDで、僕が持っているのは日本の P ヴァインがリリースしたもの。

この P ヴァイン盤のリリース年は1998&1999という文字が見える。これはこの二枚組 CD が世界で発売された最初だった。この P ヴァイン盤 CD の帯を、僕にしては珍しく取ってあって、それには4200円という値段が書いてある。CD二枚組で4000円超えるって、今じゃあブートレグでもない限り滅多にないことだなあ。

しかしこの『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』は元々音楽だけを録音・発売しようとしたものではない。マイク・シェイという人物がマックスウェル・ストリートでの人々の様子をおさめた一本の映画にしようとしたもので、完成したドキュメンタリー映画のタイトルは『アンド・ディス・イズ・フリー』。

マイク・シェイがマックスウェル・ストリートを撮影したのは1964年8月から12月まで。翌65年に編集を済ませ映画は完成し、アメリカやヨーロッパでは上映されたのだが、さっぱりな評判で全く人気も出ず、マイク・シェイもシカゴを離れロス・アンジェルスに移って映像関係の仕事をしたとのことだ。

映画『アンド・ディス・イズ・フリー』は僕は全く一度も観たことがない。日本では上映もされず、ヴィデオは発売されたらしいが、僕がその存在に気が付いた頃には既に廃盤だったはずだ。と思って調べたら2008年に P ヴァインが DVD をリリースしているみたいだなあ。しかしそれも今や入手困難だ。

ドキュメンタリー映画の方はさっぱりな評判だったとはいえ、それは1964年のマックスウェル・ストリートにおける音楽と集う人々の喧騒を生で捉えた極めて貴重なもので、大勢のブルーズ・メンが演唱する姿も記録されていたので、発売までの紆余曲折は省略するが、Studio IT が権利を持つ約二時間分の音楽がCD二枚組となって発売された。

やっぱり僕にとっては音楽なんだなあ。「伝説化」していた1960年代前半のマックスウェル・ストリートにおける(主に)黒人ブルーズの生の姿がそのまま聴けるなんて、まるで夢のような話じゃないだろうか。少なくとも1990年代末頃の僕にとっては狂喜乱舞以外のなにものでもなかった。

『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』の主人公はロバート・ナイトホーク。彼が最もたくさん収録されているブルーズ・マンだ。ナイトホークとマックスウェル・ストリートといえば、ブルーズ・ファンはみんな例のラウンダー盤『ライヴ・オン・マックスウェル・ストリート』を言うだろう。

そのラウンダー盤のオリジナルが『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』というか、マイク・シェイの撮った映画の音源だ。ラウンダー盤のプロデューサーとしてノーマン・デイロンの名前が記されているが、デイロンはマイク・シェイがその映画を撮る際の一スタッフだった。

でも正直に言うと僕はナイトホークの単独盤であるラウンダーの『ライヴ・オン・マックスウェル・ストリート』をそんなに熱心に聴いていなかった。1998/99年にPヴァインが『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』をリリースしたのを聴いて、初めてその生々しさに感動したのだ。

『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』にはナイトホークのブルーズが12曲も収録されている。なんといってもこの人はギター・スライドの巧さだなあ。まるでしずくが滴り落ちるかのような活き活きとしたスライド・プレイ。肉声を聴いているかのような気分になる。


戦前からロバート・リー・マッコイの名で活躍しレコーディングもあり CD リイシューもされているナイトホークだけど、その絶頂期の姿を捉えたのが『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』にある12曲だろうなあ。どれもこれも魅力的だけど、白眉は二枚目にある「アニー・リー〜スウィート・ブラック・エンジェル」だと思う。

それら二曲ともタンパ・レッドの書いたスロー・ブルーズだけど、元々「同じ曲」らしい。この曲の最も有名なヴァージョンは、間違いなく B・B・キングのやったものだ。BB の「スウィート・ブラック・エンジェル」初録音は1956年で、その後もライヴでは定番曲で録音もある。曲名は少し違うが。

『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』で聴けるナイトホーク・ヴァージョンの「スウィート・ブラック・エンジェル」は、録音が1964年なだけで、ナイトホーク自身戦前からレパートリーにしていたものだから、完全に自家薬籠中のものといった演唱ぶり。
そんでもってB・B・キングへ与えた影響の大きさもよく分る。この曲でもナイトホークのギター・スライドが絶品であるのは言うまでもないが、ヴォーカルの魅力もかなり大きいよなあ。ラウンダー盤では「マックスウェル・ストリート・メドレー」のタイトルで収録されていたもの。

しかしそのラウンダー盤のものは『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』収録の(タイトルは違うが)同曲より二分以上短い編集版だ。ラウンダー盤では間奏のギター演奏をカットしてあるんだが、そのカットされた間奏のギター・スライドがなかなか魅力的だからね。

それをカットしたノーマン・デイロンの見識を疑ってしまうのだが、それはいいや。『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』でのナイトホークは、収録の12曲全てでエレキ・ギターをスライドで弾いているし、リズム・パターンはブギ・ウギ・シャッフルなものも多い。

一枚目にある「チーティング・アンド・ライイング・ブルーズ」(ドクター・クレイトン作)では、ギター・スライドもさることながら、ナイトホークのヴォーカルもかなりの旨味で光っている。前半のギター・スライドはやや控えめなのだが、後半からグングン魅力を増してきて、まるで胸を締め付けられるような演奏でたまらない。

ナイトホークに限らず、2016年現在までに録音されたあらゆるエレキ・ギター・スライド・プレイの最高傑作だと僕は確信しているものだ。ヴォーカルの迫力・魅力とあわせ、このマックスウェル・ストリートでの「チーティング・アンド・ライイング・ブルーズ」こそナイトホークのベスト・ナンバーだ。
この YouTube 音源では「ゴーイン・ダウン・トゥ・イーライズ」の曲名になっているが、それは同じものを収録したラウンダー盤におけるタイトルをそのまま使っているんだろう。言うまでもなく『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』収録のと全く同じもの。

さて、こういうものをお聴きになれば分るように非常に強い南部的ダウン・ホーム感覚があるよね。録音されたのが1964年だから、シカゴ・ブルーズ・シーンから出てくるレコードの人気・セールス、つまりヒットチャート上では、そういうブルーズはもはや死の淵に瀕していた時期と言うべきだ。

しかしブルーズとは、レコードやそれを買って聴くファンや、それによるチャート・アクションだけでは分らない音楽なんだよね。というか本質的にはそういう部分とはあまり関係のないところ、すなわち黒人コミュニティ内部や路上でこそホンモノの姿が分るという音楽じゃないかなあ。

『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』(やそのもとになった映画『アンド・ディス・イズ・フリー』)は、そんな現場の黒人コミュニティにおいて活き活きと脈動するブルーズの姿を鮮明に捉えたものなのだ。1964年というとシカゴでも既にブルーズ新時代だけど、「現場」では必ずしもそうではなかったのだ。

シカゴのマックスウェル・ストリート含め、あらゆる黒人ブルーズ・コミュニティの現場内部に分け入ったことなどない僕だけど、『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』二枚組CDを聴くと、あぁ、こんな雰囲気だったのかなと、混じって聴こえる聴衆の喧騒もあわせてぼんやりと想像することができる。

個別の音楽家はロバート・ナイトホークの話しかできなかったが、『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』に収録されているブルーズ・メンでは、ジョニー・ヤングとキャリー・ベルの二人が最もたくさんレコードを残している有名人だ。

また一枚目に「コリーナ、コリーナ」がある。アーヴェラ・グレイがリゾネイター・ギターで弾き語っているが、これにはいわゆるブルーズ・フィーリング、黒いものは聴き取りにくい。なぜならこれはトラディショナル・バラッドを下敷きにした古い伝承もので、やっているのはブルーズ・メンばかりではない。

その一枚目八曲目の「コリーナ、コリーナ」に続く九曲目「パワー・トゥ・リヴ・ライフ」はゴスペル・ソング。『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』には他にも三曲のゴスペル・ナンバー「聖者の行進」「アイル・フライ・アウェイ」ともう一つが収録されている。

そのもう一つとは『アンド・ディス・イズ・マックスウェル・ストリート』二枚目ラストにある「アイ・シャル・オーヴァーカム」。ファニー・ブルワーがアクースティック・ギターを弾きながら歌っているが、僕の知る限り、彼女単独ではこれがたった一つのレコーディングだ。

「アイ・シャル・オーヴァーカム」をやったりしたのは、やはり1964年だったからなのかもしれない。公民権運動の時期だけど、そんな時代のシンボリックな曲という意味でやったのではなく、単に時代の流行歌だからエンターテイメントとして、みんなよく知っていて口ずさんでいるものだからというだけの理由なんだろう。

つまり最初に書いたようにシカゴのマックスウェル・ストリートは、みんなが集まってわいわい賑やかに音楽をやったり聴いたりして騒いで踊る、そんな娯楽の場所だったわけで、別にブルーズに限らず、楽しくてダンサブルなものならなんでもやっていたんだろうなあ。

2016/12/07

「汚く」濁った声でのハード・スクリームで実感するアメリカ黒人音楽の「美しい」昂揚感

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アーチー・ブラウンリーがいた頃のファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピの録音集を僕は CD で 三枚持っている。リリース順に1987年の P ヴァイン盤『ジ・オリジナル・ファイヴ・ブラインド・オヴ・ミシシッピ』、89年の CEDAR(と書いてあるがなんだこりゃ?)盤『ユー・ダン・ワット・ザ・ドクター・クドゥント・ドゥー』、99年の中村とうようさん編纂のMCAジェムズ・シリーズの一枚『ゴスペルの真髄:ブラインド・オヴ・ミシシッピ 1950-1974』。

これら三枚のうち、P ヴァイン盤はヴィー・ジェイ録音集なので他の二枚とはダブらない。問題は CEDAR と書いてあるものととうようさん編纂のだなあ。CEDAR と書いてあるものを見るとチェコスロバキア製となっている。Gospel Jubilee とも書いてあるが、どっちがレーベル名だろう?

とにかくそのチェコスロバキア製 CD ととうようさん編纂の MCA ジェムズ・シリーズの一枚は内容がかなりダブっている。とうようさん編纂のは MCA 系だから当然ピーコック原盤の録音集だが、チェコスロバキア製の CEDAR(だか Gospel Jubilee だか)とかいうのもピーコック録音集なのだ。

僕がアーチー・ブラウンリーというもんのすごいハード・シャウター(というか実際聴いてみたらスクリーマーだね)がいるというのを知り、彼が在籍したブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピというゴスペル・カルテットを是非聴きたいと思って最初に買えたのが、その CEDAR だとか書いてあるチェコスロバキア製の1989年盤 CD なのだ。

ヴィー・ジェイ録音を収録したPヴァイン盤 CD の方が二年早く出ているが、その1987年頃は僕の場合まだこのゴスペル・カルテットとアーチー・ブラウンリーのことは知らなかった。チェコスロバキア製の CD を聴いたらとんでもなくものすごくて、聴きながら椅子から転げ落ちそうになるほどビックリして激しく感動し、それで慌てて CD ショップに行き探して P ヴァイン盤も見つけて買ったのだ。

アーチー・ブラウンリーみたいなドロドロに濁った声でシャウト、というかスクリームする歌手こそ最高に「美しい」と心底感動するわけだから、そりゃオペラ歌手などクラシック音楽の声楽家やなんかどこがいいんだかサッパリ分らんわけだよ。上記 MCA ジェムズ盤の解説文で中村とうようさんも全く同じことを書いているなあ。

逆にクラシックのオペラ歌手がキレイな声だ、素晴らしいと感じる大勢のリスナーの方々にとっては、アーチー・ブラウンリーみたいな歌手は「汚さ」の極致に違いない。しかしファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピの録音集を聴いていると、アメリカ黒人音楽の昂揚感とはまさにこういうものだ!と信じるものだね。

P ヴァインが CD リリースしているヴィー・ジェイ録音も素晴らしい。ピーコック録音になんら劣るところはない。特に七曲目「レッツ・ハヴ・チャーチ」とか八曲目「アイム・ウィリング・トゥ・ラン」なんか壮絶の一言で、黒人教会におけるサーモンとはこういうものなのかと思うド迫力。

またヴィー・ジェイ録音では伴奏のギターがあのウェイン・ベネットだったりするものがあったりもして、ブルーズ・ファンだって聴き逃せないものなのだ。しかしそんな P ヴァイン盤の話までしている余裕はないので、今日はピーコック録音集 CD 二枚だけに限ることにする。

さてアーチー・ブラウンリーの声が凄い、ドロドロに濁っている、そんな「汚い」声でハード・シャウトというかスクリームしていて、昂揚できることこの上ないと書いたけれど、ひょっとしてまだご存知ない方がいらっしゃるかもしれないので、ちょっとご紹介しよう。チェコスロバキア製 CD でもとうようさん編纂のでも一曲目の「ジーザス・ゲイヴ・ミー・ウォーター」。
この曲は1950年録音で、ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピはまだア・カペラ・グループだった頃のものだ。ゴスペル・カルテットというよりちょっぴりジュビリー・スタイルが残っているが、特に後半とんでもない声で叫ぶアーチー・ブラウンリーのスクリームを聴いてほしい。

同じ1950年録音でドラムス一台が伴奏の「アワ・ファーザー」。これはチェコスロバキア製 CD には収録されていない一曲だが、ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピ最大のヒット曲だ。ピーコックでのセカンド・セッションでの収録曲で、このあたりから楽器伴奏が入りはじめて感じが変わる。
またこれもファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのピーコック録音中最も素晴らしいものの一つ「イン・ザ・ウィルダネス」。チェコスロバキア製 CD では四曲目、とうとうさんのでは五曲目。これが両方に収録されているのは納得というか当然だ。
この曲でのアーチー・ブラウンリーも、特に中盤から後半すんごい濁った声でスクリームするが、こういうのこそ僕たちアメリカ黒人音楽ファンは「美しい」と心の底から実感するんだよね。クラシックのオペラ歌手など声楽家や、そういうのを基準にしてやっている大衆音楽歌手の澄んで「キレイな」声の歌手などではなくてね。

チェコスロバキア製 CD のアルバム・タイトルになっている「ユー・ダン・ワット・ザ・ドクター・クドゥント・ドゥー」。だから当然それに収録されているが、とうようさん編纂のにも収録されている1959年録音。「ジーザス・ゲイヴ・ミー・ウォーター」や「イン・ザ・ウィルダネス」などと並び、これが収録されないなんて考えられないから当たり前だ。
お聴きになれば分るように、これまたアーチー・ブラウンリーのド迫力の「汚い」声でのスクリームがすごく「美しい」。さらに楽器伴奏が既にかなり賑やかだ。少なくともギター、ピアノ、ベース、ドラムスは聴き取れる。ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピは1952〜54年あたりから徐々にこんな感じになって、サウンドの彩りが豊かになる。

この「ユー・ダン・ワット・ザ・ドクター・クドゥント・ドゥー」を録音した1959年1月は、ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのピーコック復帰セッションで、その前56〜58年はヴィー・ジェイに吹込んでいた。それらから収録したのが上記 P ヴァイン盤だ。

音源を紹介してきたアーチー・ブラウンリーのこういったドロドロの濁声スクリーム、ハード・シャウトこそ、そして彼のそんな声と歌い方を支えるこのゴスペル・カルテットのリズムこそが、中村とうようさんはじめ、僕たちアメリカ黒人音楽ファンにとっては音楽の理想形としての声、歌い方、スタイルなんだよね。

MCA ジェムズ盤のとうようさんの解説文によれば、とうようさんはエルヴィス・プレスリーが RCA から第一弾シングル「ハートブレイク・ホテル」をリリースして大ブレイクする前年に、ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのヴォーグ盤 LP を聴いて、離れられなくなったんだそうだ。

僕はそんなファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピを LP 時代に全く知らなかったので、それだけは痛恨の極みだが、しかしアナログ盤 LP ではちゃんとしたものがなかったらしいので、CD 時代になってしっかりリイシューされたもので聴けて幸福なのかもしれない。

そんなファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのピーコック録音集で僕が初めて知ったのが、書いているように1989年のチェコスロバキア製 CD で、これでぶっ飛んでタマゲてしまい、僕もまたとうようさん同様離れられなくなってしまった。くどいようだがクラシックのオペラ歌手やなんか聴いている方々には、そんなとうようさんや僕の気持は到底理解できないだろう。

チェコスロバキア製 CD は、音楽家名がアーチー・ブラウンリー・アンド・ザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピになっていて、だから当然アーチーをリード歌手とした時代のピーコックへの1948〜59年の録音だけを全部で18曲収録したもの。

それに対しとうようさん編纂の MCA ジェムズの一枚は、1960年にアーチー・ブラウンリーが亡くなって以後の録音もかなり含まれているのが最大の違い。とうようさんのではアーチー時代の録音は16曲目までで、それ以後の10曲は当然リード・シンガーが違う。最後の一曲は1974年録音だ。

僕としてはチェコスロバキア製 CD でアーチー・ブラウンリーのあの声に激しく感動したわけだから、彼が死んでしまったあとのファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピなんか聴いたって仕方がないだろうとか、正直言ってそんな気分で、とうようさん編纂のものが1999年にリリースされた当時も、17曲目以後はそんなに熱心には聴いていなかった。

今回ちょっと気を取り直して17曲目以後を真剣に聴いてみたら、これはこれでなかなかいいなあ。というか大健闘でアーチー・ブラウンリー亡きあともそんなにレベルを落とさず水準を保ちながら活動していたことがよく分る。特に22曲目以後のヘンリー・ジョンスンはいいリード歌手だ。

そりゃアーチーと比較するなんてことは誰にとっても不可能だけど、それでも(おそらく)1964年加入のヘンリー・ジョンスンはなかなかの歌唱力の持主で、アーチーのあの恐怖すら感じるド迫力の濁声スクリームをまあまあ受け継いでいる。

特にいいのが24曲目の「ジーザス・ロウズ」。やはり当然ピーコックへの1964年録音。こりゃ素晴らしいリードじゃないだろうか。アーチーに肉薄すらしていないけれども、なかなかのスクリームぶりで迫力満点だ。まあでも MCA ジェムズ盤のとうようさんの解説も、アーチー時代の曲に比べたらアッサリとしてはいる(笑)。
それにしてもアーチー・ブラウンリー在籍時代のファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのピーコック録音って何曲あるだろう?全部聴きたいんだが、コンプリート集みたいなものって見たことないよなあ。ゴスペルはアメリカ黒人音楽でもジャズやブルーズよりリイシューが遅れているから仕方がないのか。

そんなジャズやブルーズですら、古いものは本家レーベルがなかなか完全集にして復刻リイシューしたがらないというのが事実だから、ましてやゴスペルなんか放ったらかしなのかもしれない。ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピにしたって、ピーコック録音を本家筋からリイシューしたのはとうようさんのだけだもんなあ。

そんなわけなので、収録内容が少し異っているチェコスロバキア製 CD ととうようさん編纂の一枚のと、それらを曲目をダブらないようなプレイリストを自分で作って CD-R に焼いて楽しんでいる僕。なかには前者収録曲で後者には入っていない素晴らしい曲もあったりするからね。

そんなのでファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピを聴いていると、本当にこういう声と歌い方とハーモニーとリズムこそが、ディープ・ソウルの高揚感、ファンクの強烈な持続力などなど、音楽の内部から湧き出る抗いがたい肉体的かつスピリチュアルな強い快感の根底にあって、それこそがアメリカ黒人音楽の髄だと、心底痛感する。

2016/12/06

ハモンド B-3 のシャワーを浴びる

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ハモンド B-3 オルガンをフィーチャーした『Organ-ized』というアルバムがある。このタイトルはなんとも日本語にできないよねえ。そのままカタカナ書きすらできないので困ってしまうが、みなさん意味はお分りだと思う。1999年発売の CD で High Street というところがリリースしている。知らないレーベル名なんだけど、配給は BMG だ。

このアルバムは副題が『アン・オール・スター・トリビュート・トゥ・ザ・ハモンド B3 オルガン』というもので、その名の通り計13名のハモンド B-3 弾きが一堂に会し、一曲ずつこの楽器を弾いてみせ、B-3 サウンドの魅力をこれでもかというほど知らしめてくれるというものだ。

といっても収録の13曲にこのアルバムのための新録音はないのかもしれない。既発音源から一つずつチョイスして寄せ集め並べたコンピレイション盤なんだろうけど、ハモンド B-3 のサウンドが大好きでたまらず、それをいやというほど全身に浴びまくりたいというリスナーには好適な一枚だ。

だから大のハモンド B-3 好きの僕にはもってこいの一枚。みなさんご存知の通りハモンド・オルガンは、元々パイプ・オルガンのエミュレイターとして開発されたもの。パイプ・オルガンはかなり大掛かりな装置で、僕の知る限り全楽器中最もサイズがでかい。僕も一度現物を目の当たりにしたが、デカすぎるねあれは。

パイプ・オルガンは主にキリスト教会や劇場などで使用されるものだけど、あまりの大きさと、したがって値段も高いので、そうそう簡単に設置できるというものではないようだ。クラシック音楽のレコードや CD で聴くその音色は大変に魅力的なものだけど、あれをもっと簡便に再現する代用楽器はないのか?という声は前からあったらしい。

それで1935年にロウレンス・ハモンドが電気機械式のものを開発し、それに「ハモンド・オルガン」という名称を付けたのが、僕たちもよく知るポピュラー音楽の世界におけるオルガン史のはじまり。それまでオルガンという用語はイコール、パイプ・オルガンのことだった。当時はまだ B-3 モデルではなく、現在ではモデル A と呼ばれるもので、B-3 モデルは1954年発売開始。

1935年のハモンド・オルガン開発以後は、クラシック音楽の世界でもこれが使われることが出てくるようになり、そして僕たちがよく知っているジャズやゴスペルやリズム&ブルーズやロックなど様々なアメリカ(発)音楽で頻用されるようになって、ある時期以後は不可欠な楽器となった。

僕が聴いている大衆音楽の範囲内で、オルガン弾きのなかのパイオニアはトーマス・ファッツ・ウォーラーだ。僕の持つ全音源中、ファッツが最も早くオルガンを弾いている。しかしそれは1926年だからハモンドじゃないはずだ。また彼のオルガン・プレイは、あの時期のジャズ・ピアノ同様オーケストラ・スタイルで、基本的には一人で完結しているもの。

それを管楽器みたいにシングル・トーンでソロを取るメロディ楽器にしたのは、これまた僕の知る限りだがジミー・スミスだ。ハモンド B-3 を最大限にまで活用した最も早い一人に間違いない。そのジミー・スミスが『Organ-ized』にも参加して一曲弾いている。例によってギターとドラムスというトリオ編成で「ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」をやっている。

この世界をご存知ない方はベースがいないじゃないかと思われるかもしれないが、専業ベーシストはハモンド B-3 奏者には不要。なぜならばフット・ペダルでベース・ラインを出すことができるからだ。だからハモンド B-3 を弾くジャズ・オルガニストはたいていの場合ベース・レス編成でやるのだが、これを一般化したのもまたジミー・スミスの功績だ。

アルバム『Organ-ized』でもほぼ全曲ベース・レス編成。専業のベーシストが参加しているのは、五曲目のギャラクティック、八曲目のリッキー・ピータースン、11曲目のリューベン・ウィルスンの三者だけ。全てファンク・ミュージックだ。

と思いつつ聴き直してみると、アルバム・ラストのブラザー・ジャック・マクダフがやる「ミスティ」。これのベース音はフット・ペダルの音じゃないように聴こえるなあと思ってクレジットを見たら、やはりベーシストがいる。なんでもない普通のジャズ・バラード演奏なのに、ちょっと不思議だ。それは(ベースとしか書かれていないが)ウッド・ベースの音だ。

ブラザー・ジャック・マクダフといえば、まあ確かにジャズ・オルガニストではあるものの、1960年代にジョージ・ベンスンを雇いデビューの機会を与えた人物だ。そのあたりからはソウル・ジャズ〜ジャズ・ファンク系のものをやるようになっていたので、いわゆるレア・グルーヴ好きのみなさんもご存知のはず。

だから『Organ-ized』にも「ミスティ」なんかじゃなく、そんなソウル〜ファンク・ジャズ系のものを選んでくれたらもっとよかったのにと僕みたいな趣味の人間は思ってしまうが、まあいいや。『Organ-ized』の一曲目はジョーイ・ディフランシスコだ。マイルス・デイヴィス狂なら全員知っている名前。

僕が CD ショップ店頭で『Organ-ized』を発見し、これを買おうと思った最大の理由がジョーイが一曲目だったからだ。彼は1988年末の数ヶ月間だけ、オルガンではなくシンセサイザー奏者としてマイルス・バンドのレギュラー・メンバーだったし、公式録音もあるんだよね。

マイルス・バンドでのスタジオ録音では、1989年5月リリースのワーナー盤『アマンドラ』二曲目「コブラ」(録音は88年暮れ)でだけシンセサイザーを弾いている。スタジオ録音はたったこれだけ。恒常的にライヴ活動はしていたので、録音はそこそこあるが、公式盤はこれまた一枚だけだ。

それがワーナーが1996年にリリースした『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』。これは1988〜91年のマイルスの各種ライヴ録音からチョイスして編集した一枚で、冒頭二曲が88年12月のニュー・ヨーク録音なのでジョーイが弾いている。一曲目は「イン・・ア・サイレント・ウェイ」だもんね。

アルバム『Organ-ized』とは関係ない話になるが、1988年のマイルス・バンドのライヴ・オープニングはいつも必ずジョー・ザヴィヌルの書いた「イン・ア・サイレント・ウェイ」だった。1969年2月に作曲者自身も演奏で参加して録音して以後、マイルスは死ぬまでこの曲が大好きだったのだ。

といってもザヴィヌルがなかなか許諾を出さないので、公式にアルバム収録するなどは叶わなかったらしい。1988年にもライヴでは使っていたものの、当然ザヴィヌルも存命だったので、公式発売はできなかった(ブートレグでならマイルスの死後すぐに出ている)。

といっても「イン・ア・サイレント・ウェイ」が一曲目の『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』がリリースされた1996年というと、ザヴィヌルはまだ生きている。ってことは彼のこだわりが弱くなっていたか、あるいはかつてのボスはもう五年前に死んでいるんだからもういいだろうということだったのか。

あ、そういえばマイルスの1969年のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』でもザヴィヌルが担当したのはフェンダー・ローズではなくオルガンだよなあ。ハモンド B-3 の音がするじゃないか。これ、なにか今日の本題と関係あるのかなあ?あまりないように思うけれど。

ともかく1988年に本来はオルガニストだったジョーイ・ディスランシスコをレギュラー・メンバーとして雇いシンセサイザーを弾かせたマイルス。死んだ年1991年に活動した最後のレギュラー・バンドのシンセ奏者も、デロン・ジョンスンという、これまた本来はオルガニストの人だった。

アルバム『Organ-ized』の話題に戻ろう。ジョーイ・ディフランシスコが弾く一曲目はなんでもない普通の4ビート・ジャズだ。この人、マイルス・バンドではまあまいい演奏するなあと思って、リーダー作を一・二枚買ってみたものの、どうってことないオルガン・ジャズで、かなり退屈なんだよね(苦笑)。

『Organ-ized』二曲目はあのジョン・メデスキ。こりゃなんと言ったらいいのか、ヒップ・ホップ・ジャズみたいなフィーリングだ。ハモンド B-3 以外にいろんな音が聴こえるんだけど、それは生演奏ではなく、DJ ロジックがターンテーブルを操作して出しているもの。JTNC 系のものがお好きな方にもウケそうだ。
三曲目はアート・ネヴィル。ここまでの三人と、上で名前を出した五曲目ギャラクティックのリチャード・ヴォーゲル、六曲目のジミー・スミス、ラスト13曲目のブラザー・ジャック・マクダフ。これら六人だけが僕が『Organ-ized』を買う前から、その演奏スタイルもよく知っていた人たちだ。

それら六人以外のオルガニストは1999年に『Organ-ized』を買って初めて知り演奏を聴いた人たちなんだよね。ほぼ全員カッコイイなあ。知らなかった人たちの演奏のなかに普通のいわゆるオルガン・ジャズは一曲もなく、全てファンキーなソウル・ジャズ〜ジャズ・ファンクばかりなのもいいね。

七曲目のマイク・フィネガンがやる「ジャスト・ア・リトル・ビット」なんか最高だよなあ。あ、しかしこれ、記載がないないが、これも明らかにフット・ペダルのベース音じゃないなあ。間違いなく専門のエレキ・ベーシストがいるぞ。それにくわえエレキ・ギター、ドラムスというカルテット編成だ。

そのマイク・フィネガンのやる「ジャスト・ア・リトル・ビット」は、もうどこにもジャズがないような完璧なファンク・ミュージックだ。ハモンド B-3 の音も、ドローバーをスライドさせて切り替えるこの楽器の持つ多彩な音色で華麗に弾きまくっている。
八曲目リッキー・ピータースンの「ドロップ・ショット」は、ハモンド B-3 もさることながら、ハタハタというスネアの強い音と、五本入っているホーン・セクションのサウンドの方がむしろ目立つような演奏。これも1ミリもジャズがない完璧なファンク。さながら歌のないジェイムズ・ブラウン・バンドというような趣。
歌のないジェイムズ・ブラウン・バンドといえば、11曲目リューベン・ウィルスンの「イエス・サー」も、冒頭オルガンではなく、ジミー・ノーラン風に刻むエレキ・ギターのリフがまず鳴りはじめ、しかし全体のサウンドは少し柔らかめのソフト・ファンクというか、いい意味でのイージー・リスニング風な感じがちょっとだけする。
もっと面白いのが続く12曲目のミック・ウィーヴァー。なにが面白いかというと、12曲目はジョー・ザヴィヌル・ナンバーの「マーシー、マーシー、マーシー」だからだ。リズム・セクションとホーン陣もいるが、あくまでハモンド B-3 がメイン。
オリジナルであるキャノンボール・アダリー・ヴァージョンでのザヴィヌルはフェンダー・ローズだったのだが、あるいはザヴィヌルがオルガンで「マーシー、マーシー、マーシー」をやったならば、さしずめこんなフィーリングになったのかなと想像できるようなもので、こりゃ最高だ。途中ちょっとだけテナー・サックスのソロも出るが大したことはない。

続く13曲目、ブラザー・ジャック・マクダフが弾く「ミスティ」でアルバムはおしまいとなる。上でも書いたようにこのオルガニストはもっとファンキーな路線の方が絶対いいんだけど、でもハモンド B-3 のサウンドで聴くジャズ・スタンダード・バラードはしっとりと落ち着いてて、終幕に相応しくはあるね。

2016/12/05

ブギ・ウギ・ベースのロックンロールとサイケの合体〜『メイン・ストリートのならず者』再び

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リリースされたばかりの11年ぶりの新録音による最新作『ブルー・アンド・ロンサム』がなかなかの快作であるローリング・ストーンズ。CD などフィジカル現物はまだ買えないけれど(12/03時点)、我慢できないので iTunes Store でダウンロード購入したのを CD-R に焼いて聴いている僕。

『ブルー・アンド・ロンサム』は伝えられていた通り、全曲アメリカ黒人ブルーズのカヴァーで、かなりの有名曲から、熱心なブルーズ・ファン以外には馴染が薄いだろうようなものまで全てキレキレの演唱で、このバンドのキャリアを考えたらありえないとすら思える新鮮さだ。ポール・サイモンといい、2016年は老人が活躍する年なのか?

むろん音楽的中身が斬新だったポール・サイモンの『ストレンジャー・トゥ・ストレンジャー』と違い、ストーンズの『ブルー・アンド・ロンサム』は全てが完全なるモダン・シカゴ・ブルーズだから、キレキレとはいえ目新しさなどは全くどこにもない。しかし老成の境地かというとそうでもなく、むしろこのバンドのデビュー当時のような瑞々しいサウンドなのだ。

ただ一点、ご覧の通りジャケット・デザインだけがどうにも面白くないようには思う。ブルーズだから青色で、それの上にストーンズのベロ・ロゴなんだろうが、もうちょっと工夫できなかったのかなあ。かなりテキトーに仕上げたようにしか見えないのが残念。中身はいいだけにね。

なお次号の『ブルース&ソウル・レコーズ』誌附属 CD に『ブルー・アンド・ロンサム』全曲のオリジナル・ヴァージョンが収録されるそうだ。九曲をユニバーサル、三曲を P ヴァインが原盤権利を保有しているので可能だったようだ。もしご存知ない曲があるという方には格好の機会じゃないだろうか。

そんな『ブルー・アンド・ロンサム』は CD 現物が届いて詳しいことが判明したらまたなにか書くかもしれないが、おそらくそれは来年のことになるだろうなあ。今日は前回書いた時の予告通り、またまた1972年の最高傑作『メイン・ストリートのならず者』。
この時は「シェイク・ユア・ヒップス」と「ダイスをころがせ」の話しかしていないように思うんだが、このアルバムについては書きたいことが山ほどあるからなあ。あともう一つ、ストーンズのカントリー・ソングについて書いた際に「スウィート・ヴァージニア」の話をしただけだよなあ。
だから今日はそれら三曲以外の話をいろいろとしたい。それはそうと僕はこの『メイン・ストリートのならず者』の CD を、一番多い時期で五枚も持っていたことがある。アホだとしか言いようがない。

たくさん買ったからといって、AKB48やその他みたいに握手券がもらえるわけでもないのに、どうして五枚も持っていたのか自分でも分らない。バッカじゃないの。そのうち三枚はパッケージング含め完璧に同じものだからなあ。だからその三枚のうち一枚はかつて卒論指導をしていたさなかの学生にあげた。

以前も書いたんだけど、その学生はボブ・ディランで卒論を書きたいということで僕が指導教官をやったのだった。音楽専攻コースなんか存在しない大学だったので、僕が所属していた文学部やその他の学部でも、米英大衆音楽で卒論を書きたいという学生が出ると、教務部は全部僕のところへ廻していただけ。

外国文学専門の学部もなかった時期が長いので(なんたって日本のことについてが本領の大学)、米英の小説や、あるいは米英でなくても20世紀小説や批評論で卒論を書きたい学生の面倒も見ていた。ミラン・クンデラ(チェコ)やガルシア・マルケス(コロンビア)などいろいろと。

ともかくボブ・ディランで卒論を書く学生といろいろとディランやその他ロックの話をしていて、ある時関連でストーンズの話題になったので突っ込んで聞いてみたら、『メイン・ストリートのならず者』は聴いたことがない、持っていないというので、じゃあ僕は何枚も持っているからと一枚あげたのだった。

卒論指導は一ヶ月に一回やっていた。次回来たときにその学生は「参りました、凄いです、傑作です」と『メイン・ストリートのならず者』のことを言ってくれた。18年か19年くらい前の22歳だから、今は40歳程度になっているであろう男性。CD だと一枚ものになっているというのも、かえって聴きやすいのかもしれない。

昔話はこのあたりにしておいてストーンズの『メイン・ストーンズのならず者』。一曲目の「ロックス・オフ」は、これに先立つ「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」(この曲はアルバムによって「ジャンピン」だったり「ジャンピング」だったり一定しない)とか「ブラウン・シュガー」みたいだよね。
つまりキース・リチャーズが冒頭からカッコいいギター・リフを弾いてかっ飛ばす爽快なロックンロール。似たような曲が『メイン・ストリートのならず者』にもう一曲ある。二枚目B面一曲目の「オール・ダウン・ザ・ライン」。こっちの方は聴いたらオープン G の五弦テレキャスターだとみんな分るものだ。
ストーンズやキース・リチャーズ・ファンはみんな知っているが、キースは1968年か69年頃に、ひょっとして最初はライ・クーダーから教わったのかオープン G・チューニングでギターを弾くようになり(ライはこの類のことにあまりにも詳しい)、その際6弦がルート音の G じゃなくなるので、張らなくなった。

1〜5弦の五本だけ張って、一番低音の5弦が根音のGなので、どこも押さえずそのままジャ〜ンと鳴らせば G の和音になるというもの。ギターのオープン・チューニングは、アメリカでもかなり古くから、例えばブルーズ界にもたくさんあって、オープン G や A 系と並びオープン D 系などもよく使われる。ギターのチューニング・スタイルはその他たくさんある。

一番とんでもないのがクラシック・ギターの世界におけるチューニングだろうなあ。どうなっているのか聴いてもさっぱり分らないものがいろいちろあるもん。近年知ったビルマ・ギターのチューニングもワケが分らない。そこいくとブルーズやロックにおけるギター・チューニングはまだ分りやすい場合が多い。

分りやすいというか慣れているだけなんだろうけどさ。ともかくキースはそれまでレギュラー・チューニングで弾いていた曲でもオープン G チューニングで弾くようになったりもしている。オープン G の五弦テレキャスターだと誰でも分りやすいのが「ホンキー・トンク・ウィミン」。あれは曲のキーも G だからそのまま全弦解放で鳴らせばオッケー。

『メイン・ストリートのならず者』では「ダイスをころがせ」もオープン G だ。このチューニングじゃないとあの印象的なリフはちょっと弾きにくい。僕は最初これを知らずレギュラー・チューニングでコピーしようとしていたので、どうしてこの曲のリフを弾くときはこんなヘンテコな指の形になるんだと思っていた。

でも「ダイスをころがせ」をレギュラー・チューニングで弾けないってことはない。指の形が若干いびつになるのを我慢すれば充分いけるのだ。しかしある時事実を知りオープン G にしてみたら、な〜んだ楽ちんじゃんって(苦笑)。本屋でタブ譜本を買ったらしっかり書いてあったもんね。もっと早く買えばよかった。

そんなオープン G の五弦テレキャスターで弾いている「オール・ダウン・ザ・ライン」も超カッコいいロックンロール。特にキースが弾きはじめてミックが一節歌ったその次のジャカジャカジャカっていう短い数秒間がスーパー・クールだ。すぐにミック・テイラーのスライド・ギターも出てきて、僕は完全に昇天。

さっきからロックンロール、ロックンロールと書いているが、ロックンロールとロックは完全に同じもの。区別する人もいるが無意味だね。特に日本の内田某がなにかというとすぐにロケンロールとか言ってバカじゃないのと。僕はそう考えているのだが、たまにこれはロックンロールと言う方が相応しいと思う場合がある。

その一つがキース・リチャーズがチャック・ベリー・スタイルのああいったギター・リフを弾く場合だ。ホントそういう感じのものが多いよね。『メイン・ストリートのならず者』における「ロックス・オフ」や「オール・ダウン・ザ・ライン」もそんなもののうちの二つ。しかしこの二曲には違いもある。

それは「オール・ダウン・ザ・ライン」が終始一貫チャック・ベリー風ロックンロールなのに対し、「ロックス・オフ」の方は中間部でかなり雰囲気が変るのだ。音の質感も変ってかなりくぐもったようなモヤモヤした音でサイケデリックな曲調に変化して、それが少しのあいだ続くんだよね。

最初の頃、僕はあのサイケデリックな中間部が嫌いで、ミックのヴォーカルも妙な音加工が施してあるし、なんでこんなことしているんだ?ストレートにやってくれよ、「ブラウン・シュガー」みたいにさとか思っていたのだった。そんな中間部以外は明快にカッコイイから昔から大好きだったんだけど。エンディングでフェイド・アウトしていきながら入ってくるミック・テイラーのソロもいいよね。
 
それはそうと「ロックス・オフ」で聴こえるピアノは完全なるブギ・ウギ・スタイルのロック・ピアノだから、間違いなくイアン・スチュアートだろうと思って見てみたら、ニッキー・ホプキンスなんだよね。意外だなあ。ああいった弾き方ならスチュの方が得意なように思うのに、どうして弾かせてあげなかったんだろうなあ。

「ロックス・オフ」においてブギ・ウギ・ベースのロックンロールで、サイケデリックな中間部を挟むというあの発想は、それまでのストーンズにはなかった。「サティスファクション」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ブラウン・シュガー」などストレートなロックと、それ以外のサイケ路線は分けていたもんね。

それをアルバム一曲目のなかで両者を合体させているのはちょっと面白い。本当に面白いと僕が感じるようになったのはわりと最近で、1990年代半ば以後のこと。どうして面白いかというと『メイン・ストリートのならず者』というアルバム全体の構造を、いきなり一曲目で暗示しているように思うからだ。

『メイン・ストリートのならず者』におけるブギ・ウギやブルーズや、それ由来のストレートなロックのことは、いまさら書かなくてもいいだろう。「ロックス・オフ」中間部における音処理とサイケデリック風味は、例えば二枚目A面四曲目の「アイ・ジャスト・ワント・シー・ハー・フェイス」が同じだ。
https://www.youtube.com/watch?v=EymLq0htbL8

続く五曲目「レット・イット・ルース」も似たような感じだよなあ。キースの弾くギターの音に、これはおそらく弾いている時にではなく録音後にスタジオで加工処理が施されてあって、サイケデリックな響きになっている。この曲ではマック・レベナック(ドクター・ジョン)その他大勢のコーラス陣が入る。
一般に二枚目A面では、トップのキースが歌う「ハッピー」が一番人気があるはず。僕も長年同じだった。でも最近は二〜五曲目の展開の方が面白いように感じている。二曲目「タード・オン・ザ・ラン」はアメリカ南部ブルーズ風だし、三曲目の「ヴェンティレイター・ブルーズ」のレイジーな雰囲気もいい。
一枚目B面三曲目の「スウィート・ブラック・エンジェル」ではかなりクッキリとギロ(ヒョウタンの側面に刻みを入れて、それを棒でこすってギジギジという音を出す打楽器)の音が聴こえる。パーカッションとのクレジットになっているジミー・ミラーの演奏だろう。それがハーモニカやマリンバと絡む。
どうでもいいがこの「スウィート・ブラック・エンジェル」という曲名は、おそらく B・B・キング・ヴァージョンが一番有名なあのブルーズ・スタンダードと全く同じだ。でも全然違う曲。紛らわしいよなあ。全く異ジャンルの音楽家ならそうでもないんだろうが、ストーンズはアメリカ黒人ブルーズを実によくやるバンドなもんだから。

一枚目B面では続くラストの「ラヴィング・カップ」も面白い。一番面白いのはこの曲もやはり中間部が少しサイケデリックになりかける瞬間があるのだ。ホーン・セクションが入ってくるところだ。ジミー・ミラーの叩くドラムスはドタバタしていてチャーリー・ワッツとは比較できないが、そんなに悪くもない。
なお「ラヴィング・カップ」にはスティール・パンが入っている。えっ?スティール・パンなんか聴こえないぞって言われるだろう。確かにほとんど聴こえないが、ヘッドフォンで耳が痛くなるほどまでにかなりヴォリュームをあげて、その状態で相当に耳を凝らして集中して、それでようやくかすかに分る程度。

だから「ラヴィング・カップ」におけるスティール・パンは無視してもいいんだろう、普通のリスナーは。だって書いたようにしないと聴こえないもんね。『メイン・ストリートのならず者』がメチャメチャ好きなファンじゃないと気付いてないはずだ。しかしストーンズはあの曲にどうしてスティール・パンを入れたんだろう?

もう一つだけ、二枚目B面二曲目のロバート・ジョンスン・ナンバーについて書いておこう。その「ストップ・ブレイキング・ダウン」ではミック・テイラーのスライド・ギターが大活躍。なんて美味しいんだ。ストーンズがアメリカ黒人ブルーズをたくさんカヴァーしているもののなかでは、僕はこれが一番好き。
ミック・テイラーのスライド・ギター・ソロは全4コーラス。3コーラス目が終わりかける刹那に、あまりにカッコイイのでミック・ジャガーが「もう一つ!」と叫んでいるもんね。その瞬間に入るピアノのフレイジングも好きだけど、これもスチュじゃなくてニッキー・ホプキンスだと書いてあるなあ。

ロバート・ジョンスン・ナンバーはいろんな UK ロッカーがカヴァーしているけれど、個人的な好みだけなら僕はストーンズのやった「ラヴ・イン・ヴェイン」と「ストップ・ブレイキング・ダウン」で決まり。ストーンズのそれらはロバート・ジョンスンの原曲の持つかたちではなく、フィーリング、本質から汲取っているもんね。

2016/12/04

油井正一の名著、復刊文庫化なる!

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油井正一さんの著書のなかで僕の最大の愛読書だったのは、アルテスパブリッシングから復刊もされた『ジャズの歴史物語』(スイングジャーナル社)ではなく、東京創元社から出ていた第一著書『ジャズの歴史』。元々これの中身は雑誌『ミュージック・ライフ』における1953(昭和28)〜56(昭和31)年のあいだにわたる連載だ。

その連載をまとめて東京創元社から単行本として初めて出版されたのが1957(昭和32)年。これが評判になって結構売れて、『ミュージック・ライフ』誌連載時にはまだ専業のプロ・ライターではなかったらしい油井さんも、ジャズ関連の文筆一本で食べていけるようになったそうだ。

僕が今でも大事に持っている大学生の時に買った東京創元社刊『ジャズの歴史』奥付を見ると「1981年19版」と書いてある。81年というと僕は大学三年生だが、もっと前に買ったはずだという記憶があるから、古い版を買って読み、その後81年版を買い直したので、それ以前の版は処分したってことだろうなあ。

1981年版を最後に東京創元社からは出なくなったので、僕はてっきりこれが絶版になったままなんだと思い込んでいて、後生大事にその81年版を今でも持ち続けている。その油井さんの『ジャズの歴史』、僕が気が付いたのはつい先月のことなんだけど、去る九月に文庫で復刊されているじゃないか!

アマゾンをぶらついている時に発見したその文庫版、僕が自力で発見するまで全く誰も話題にしていなかったはずだ。それで二ヶ月間も気が付かなかったんだなあ。お前はいつも他力本願じゃないかと言われるだろうが、それでもこんな面白い本の復刊文庫化なんだから、誰かジャズ関係者が話題にしてもよかったように思う。僕はあわてて即買った。

リットーミュージックから出た立東舎文庫である油井さんのそれは、しかし『ジャズの歴史』という書名ではない。『生きているジャズ史』だ。このタイトルは『ミュージック・ライフ』誌連載時のタイトルに戻したもので、しかも立東舎文庫版にある最初のあたりの説明書きを読むと、1988年にシンコー・ミュージックから『生きているジャズ史』のタイトルで一度復刊されていたんだそうだ。

僕はその1988年の復刊を全く知らずに今まで来た。今年九月の立東舎文庫版『生きているジャズ史』末尾には「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」という一章が追加されている。さらに油井さん自身が88年3月の日付で「はじめに」を書いているのが載っている。それによればこの本に縁が深いシンコー・ミュージックへの復帰を云々とある。

東京創元社刊の1981年版『ジャズの歴史』の内容は三訂版(1968年版)で、「一九六七年のジャズに思う」という一章で終わっている。81年版はその三訂版の19刷なんだよね。だから上で書いたように、僕が最初に(高校生の終りか大学生のはじめ頃)買ってその後処分したのも中身は同じだった記憶がある。

今回、立東舎文庫版『生きているジャズ史』を買って、またいちから読み直し、また僕は初体験の「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」も読んだ。本当に面白いなあ。東京創元社刊の81年版『ジャズの歴史』は活字が古く、しかも何刷もしたように文字がやや潰れかすれて薄いので、今の感覚だと読みにくいかもしれない。

僕くらいまでの世代だとそんな古い活版印刷の文字も読み慣れているのだが、立東舎文庫『生きているジャズ史』は新たに組み直した、というか間違いなく新たに作り直したコンピューター製版だから、文字が鮮明でクッキリとしていて大変読みやすいのがいい。若い方にも違和感なく見えるはず。

油井さんは1988年3月の日付になっている「はじめに」を書いた三ヶ月後に亡くなっているので、「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」以外は東京創元社刊『ジャズの歴史』81年版とほぼ変わらない。じっくりと読み比べてみたが、88年版刊行に際し加筆訂正した部分はほとんど分らない程度。

だから最大の違いはやはり「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」なんだけど、それはマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』とそれに関連するその後のジャズ関連音楽についての話題だ。しかも粟村正昭さんの『モダン・ジャズの歴史』終盤における『ビッチズ・ブルー』論を踏まえてのものになっている。

粟村さんは『ビッチズ・ブルー』で「ジャズ」という音楽に一区切りがついた、言ってみれば「終った」と考えるのが妥当なのではないかと『モダン・ジャズの歴史』のなかで結論づけているのだが、油井さんも「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」のなかで似たようなことを書いているんだなあ。

ただし『ビッチズ・ブルー』を理解しなかった粟村さんとは違って、油井さんはこれに極めて高い評価を下していた。それは「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」にも書いてある。ただ一度オープン・テープで試聴しただけなのに「歴史を揺るがす傑作ついに出ず!」と『レコード芸術』誌に書いたんだそうだ。

そうではありながら、『ビッチズ・ブルー』以後、1988年当時の呼び方だったブラコン(ブラック・コンテンポラリー)までの黒人音楽の流れと内実を見ると、いわゆるジャズ系とされるハービー・ハンコックやクインシー・ジョーンズなどの作品ですら、もはやジャズではないだろうと。

だから油井さん自身、粟村さんの言う1969年の『ビッチズ・ブルー』でジャズは終ったのだという考えに、近年徐々に傾きつつある、「この辺で一本の線を引いた方が、ジャズという音楽の全体像がスッキリ掴めるような気がするのです」(p. 375)と結論づけている。いま引用したこの一文が立東舎文庫版『生きているジャズ史』のエンディングだ。

今の若いジャズ・ファンにはこんなことが書いてある「一九八八年のジャズに思う(昭和六十三年増補稿)」が最も興味を惹く部分だろう。ですがねぇ、油井さんの『生きているジャズ史』(『ジャズの歴史』)の本領はそんなところにはないのですよ。この本の大部分はビ・バップ以前の戦前古典ジャズの話で、八割以上を占めるそんな部分でこそこの本での油井さんは輝いているんだよね。

『生きているジャズ史』(『ジャズの歴史』)は、まずニュー・オーリンズでのジャズ誕生から話しはじめ、その後は「初期のニグロ・ジャズメンたち」でバディ・ボールデンとフレディ・ケパードを扱い、「ルイ・”サッチモ”・アームストロングを分析する」で、特に1920年代後半録音を中心にサッチモのスタイルの変遷を詳細に分析、「エメット・ハーディという男」ではビックス・バイダーベックの影響源を論じている。

さらに「ジャズにおける人種的偏見」ではベニー・グッドマンが黒人ジャズ・メンを雇った話や、戦前の黒白混成バンド、「レコードをききながらの妄想」ではベニー・グッドマンのクラリネット・スタイルについて、「ジャズ・ヴォーカルの変遷と鑑賞」ではベシー・スミスの歌い方を詳しく解説。

はたまた「ブギー・ウギー物語」「ジーン・クルーパ物語」「ベニー・グッドマンという男」「エディ・コンドンという男」と、立東舎文庫版『生きているジャズ史』なら183ページまで、これ全て戦前古典ジャズの話題だ。184ページでようやく「ウディ・ハーマンという男」というのが来る。

がしかしその「ウディ・ハーマンという男」も1944年スタートのいわゆるファースト・ハードにはじまるモダン・バンド時代より前の話が中心だから、ウディ・ハーマン楽団のモダン時代のことが書いてあるのかと思って読むと当てが外れちゃうんだよね。

その後はまた「ディキシーランド・スタイル」「ディキシーランド・リヴァイヴァル」を経て、はじめてモダン・ジャズの話題になるのが235ページからの「クール・ジャズ」という章。そして東京創元社刊『ジャズの歴史』初版はここで終っていたのだ。

その後続く「モダン・ジャズに関するノート」「ジャズの将来について」「ファンキー考」は1961(昭和36)年刊の第五版で書き加えられた章であって、さらに、収録順ではもっと前に入っているが「カナ書き談義」「デューク・エリントンという男」も後年の加筆だし、また収録は後ろの方である「一九六七年のジャズに思う〜オーネット・コールマンの出現と日本のジャズ」は三訂版(1968年版)で書き加えられたもの。

ってことは要するに油井さんの『生きているジャズ史』(『ジャズの歴史』)のメインはあくまで戦前古典ジャズの話題であって、モダン・ジャズに関する考察はあくまで付け足しに過ぎない。そんな本、いまどきないんじゃないかなあ。2016年に文庫で復刊できたのが奇跡のように思える。

しかも東京創元社刊『ジャズの歴史』初版だった「ウディ・ハーマンという男」までの部分と、その後改訂のたびに加筆された部分とでは、油井さんの語り口が変化しているのがよく分る。初版分までの文章では、なんというかいわば岡目八目的野次馬精神が横溢していて、実に楽しい。

批評的分析だとか論考なんてものじゃなく、ある種の講談なのであって、それをそのままテープから起こしたような文体なんだよね。僕が最初に東京創元社刊の『ジャズの歴史』を買って読んで大いに楽しんだのも、そんな気さくな油井さんの語り口だったのだ。

音楽的鑑識眼と文筆力には磨きがかかっていくものの、そんな気さくな部分がその後の加筆稿部分でやや失われている原因ははっきりしている。加筆部分はプロのジャズ批評家時代に書いたものだけど、初版部分のもとになった『ミュージック・ライフ』連載時には、油井さんはまだ専業的プロ・ライターじゃなかったからだ。

プロではなかったにもかかわらず音楽を聴く耳は確かで、聴いたものを文章化する際にはそんなアマチュア精神が大いに発揮されて、初版分までの章では文章が闊達で伸び伸びしているし、読んでいて堅苦しいところが全くなく実に楽しい。いくら「講談師」油井正一さんでもその後はその味が少し失われているからね。

今年九月刊行の立東舎文庫版『生きているジャズ史』でも、当然中身の八割方以上が戦前古典ジャズの話題で、シンコー・ミュージックからの1988年版からは当然文章にも手が入っていないので、語り口もそのまま。いまや古いジャズに興味を示すファンが減っているなか、分りやすく親しみやすい入門的<読み物>としては格好の一冊だなあ。

というわけなので、もしひょっとして戦前古典ジャズに興味を持ちはじめ少し聴いていて、なにか手引・入門になるものはないのかなとお考えのそこのあなた、あなたですよ!是非!油井正一さんの立東舎文庫版『生きているジャズ史』を買ってみてください。税抜900円ですよ。

以下蛇足。

この文庫化に際し、解説を菊地成孔が書いている。じっくり読んでみたが、菊地の文章自体はこの油井さんの名著の値打を下げるものだとしか思えない。がしかしいわゆる現代ジャズに強い興味を示し、それをどんどん聴いているファンにも菊地は人気がある。菊地が解説を書いているならばと立東舎文庫版『生きているジャズ史』を手に取る人もいるのかもしれない。だからあながちマイナス材料とだけも言えないんだろう。

2016/12/03

二拍子と三拍子がカリブでクロスした「アメリカ」の混血音楽

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欧州列強による植民地支配。あれは悪いことばかりだったというのが一般的な認識かもしれないが、こと世界のポピュラー・ミュージックの歴史を考える際には、そうとばかりも言切れない。と言うと誤解されそうだけど、あれがなかったらポピュラー・ミュージックは今のような姿じゃなかったはずだし、ひょっとして誕生すら遅れていたかもしれない。

例えば20世紀大衆音楽では最も売れている北米合衆国(産)音楽。もちろん全て混血音楽だ。北米大陸がスペインに植民地支配され、その後英国による支配、その結果奴隷としてアフリカから大勢の人間が来るという、いわば北米大陸+ヨーロッパ+アフリカという史上空前の文化衝突がなかったら、ジャズもブルーズもロックもなにもかもなかった。

そんなことはない、カントリー・ミュージックやブルーグラスは純白人音楽で、ブルーズなどは純黒人音楽だとおっしゃるかもしれないが、一例をあげればカントリーやブルーグラスでは実によくバンジョーを使うよね。バンジョーはアメリカにおいて黒人が造り出したアフリカ由来の楽器だ。

真っ黒けなものだと思われているブルーズにもヨーロッパ白人的な要素はある。これも一例をあげるにとどめておくが、誕生期の初期型ブルーズはバラッド色が濃い。そんな欧州〜英国〜アイルランド由来のフォーク・ミュージック的な要素は、第二次大戦後のモダン・ブルーズでも聴ける。

そんな北米合衆国音楽は中米カリブ音楽の影響が強いのはもちろんの話。そもそもカリブ地域での音楽文化揺籃がなかったらアメリカ大衆音楽は少し遅れてしか誕生しなかったかもしれないし、誕生後もその姿はかなり異なるものになっていたはず。そんなカリブ地域の音楽文化も混血的だ。

すなわち原住民と、植民地支配したスペインなど欧州各国と、そこで働かせるためにアフリカから強制移住させた黒人たち。これら三種類の持つ文化が衝突・合体・融合して、あるいはひょっとして世界初のポピュラー・ミュージックがカリブ地域で誕生した。

と簡単に言っているが「カリブ地域」の定義はちょっと難しい。キューバ、ハイチ、ドミニカ、プエルト・リコなどを含む大アンティル諸島と、小アンティル諸島と、ドミニカ、マルティニーク、トリニダード・トバゴなどを含むウィンドワード諸島から成るというのが一般的な地理的認識のはず。

けれどもポピュラー・ミュージックの世界では、「カリブ」のなかに海域ではない中米地域や、南米大陸の一部であるコロンビア、ベネスエーラ、フランス領ギアナなども含めて考えた方が面白いし、そうしないと分りにくいことがある。北米大陸の一部であるメキシコはもちろん入れないといけないし、場合によっては北米合衆国の南部地域、例えばニュー・オーリンズを含むルイジアナなどは入れた方が楽しい。

なお今日の記事タイトルの一部にし、内容もここまで全て「アメリカ」の話だが、ここで言う「アメリカ」とは United States of America のことではない。そもそも「アメリカ」という言葉は一国を指すものではない。南中北のあの大陸(と場合によっては海域も含め)全体を指す地理的名称だ。それを一国名として使ってしまうのは本当はオカシイ。

僕も普段からアメリカ、アメリカと言うが、主にそれはあの国のことを指すのが明確である場合であって、カリブ中南米の音楽、すなわちラテン(・アメリカ)音楽と並べて話をする際には必ず「北米合衆国」と書いてきているはずなのは、みなさんお気付きだろう。アメリカ= USA みたいな発想が僕は嫌いなんだよね。

かつての僕の専門は英語で書かれた北米合衆国小説であったにもかかわらず、一度もアメリカ文学会に所属したことがない。単なる学会嫌いなだけでもあるんだけど、「アメリカ文学」会を名乗っているのに、20世紀半ば以後はあれだけ隆盛のラテン・アメリカ文学を全く扱わないのが許せないからだ。

アメリカ文学会の世話役の方からは、こないだの論文が面白かったからそれ関連の話を学会でしてくれ、学会誌に書いてくれと何度も言われたが、全て断っていた(のもオカシイんだが)。そうして僕は北米合衆国のディープ・サウスの小説家であるウィリアム・フォークナーとラテン・アメリカの小説家、例えばコロンビアのガブリエル・ガルシア・マルケスやチリのホセ・ドノソとの関係、そしてそれが北米合衆国にフィード・バックしたようなスティーヴ・エリクスンなどについて書き続けていた。

そんな仕事を学者が読むものではない一般の刊行物でやるのを、僕が28歳の時に初めて紹介してくださったのは、以前も一度話をした篠田一士さんなのだ。篠田さんは定年退職したら「真の意味での」アメリカ文学会を作るからと常日頃からおっしゃっていたのだが、定年を迎えるその年に急死してしまった。アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスを日本で初めて紹介したのは篠田さんなんだよね。

話が音楽となんの関係もない方向へそれているが、僕は専門分野でもそんな人間だったのであって、音楽についても北米合衆国の音楽と中南米カリブの音楽を結びつける傾向が以前から強い。それら全てひっくるめて初めて真の意味での「アメリカ音楽」と言えるんだと思っている。

話を戻してカリブ音楽というものに、世間一般でいういわゆるカリブ地域だけじゃなく南北米大陸地域の音楽の一部も含めた方がいいというのは、中村とうようさん編纂の『カリビアン・ミュージック・ルーツ』(2002年、オフィス・サンビーニャ)でも明言されている。というか僕のこれは正直に言えばとうよう説の丸写しだ。

とうようさんは岩波新書『ポピュラー音楽の世紀』で「ラ・パローマ」をとりあげて、スペイン人作曲家の書いたものだとはいえキューバ音楽的であるこの曲こそが、世界のポピュラー音楽の誕生を告げる最重要曲だと指摘していた。僕が「ラ・パローマ」をコレクトするようになったのは、それを読んで強い感銘を受けたからだ。

オフィス・サンビーニャ盤『カリビアン・ミュージック・ルーツ』は、そのカリブ地域=世界のポピュラー音楽揺籃の地というとうようさんの自説を、実際の音源を並べて実証したようなCDアルバムだ。といってもカリブ地域の音楽に限定されているので、スペイン楽曲「ラ・パローマ」は含まれていない。

そして上で書いたようにいわゆるカリブ地域の音楽だけでなく、コロンビア、ベネスエーラ、ペルー、ブラジルといった南米大陸音楽もかなり収録されているし、それに加え北米大陸の一部であるメキシコと、そして一曲だけ北米合衆国の音楽家の録音もあるんだよね。

それが僕も上で書いた南部ルイジアナはニュー・オーリンズの人であるジャズ・マン、シドニー・ベシェのものだ。『カリビアン・ミュージック・ルーツ』にあるベシェは20曲目の「トロピカル・ムーン」で1939年録音。ベシェは52年に「可愛い花」(Petite Fleur)を書き、日本でもザ・ピーナッツが59年に歌ってデビューしたので有名なはず。

そんなベシェはニュー・オーリンズ生まれのクリオール(Creole はフランス語由来の言葉だから「クレオール」表記が正しいが、英語文脈ならクリオールだ、が Sidney Bechet はフランス系の名前)であって、クリオールはジャズ誕生期のニュー・オーリンズで大きな役割を果たした。ニュー・オーリンズはそもそもカリブ海に繋がる港町だ。

『カリビアン・ミュージック・ルーツ』20曲目のベシェ「トロピカル・ムーン」を聴くと、1939年録音にしてはかなりラテン風味が強いというか、アフロ・キューバンなラテン・ジャズが多くなるのは一般的には40年代以後だから、やはりカリブに繋がるニュー・オーリンズの人間だけあるなという感じだ。

もっともルイ・アームストロングやデューク・エリントン楽団その他が1930年あたりに、当時大流行していた「南京豆売り」を録音している。サッチモはたぶん単なる一流行歌としてやっただけだろうが、エリントンはその後もプエルト・リカンであるファン・ティゾルを雇い「キャラヴァン」をやっているよね。39年よりも前だ。

その他いくつかあるので、『カリビアン・ミュージック・ルーツ』のベシェ「トロピカル・ムーン」の曲目解説でとうようさんの言う「40年代にアフロ・キューバン・ジャズが出現する以前のジャズの録音では、ほかにこれほどラテンっぽいものはないと思う」という文言はちょっとどうかとも僕は思うけどね。

それはいいとして『カリビアン・ミュージック・ルーツ』を通して聴いていて、オッ、これはいいぞ違うぞと感じるのは10曲目と19曲目だ。この二曲では部屋の空気が一変する。前者はピシンギーニャとベネジート・ラセルダの、後者はセステート・ナシオナルの録音だ。前者は言うまでもなくいわゆるカリブ音楽ではない。

ブラジルのショーロだよね。その10曲目「ヤオー」は1950年と録音が新しいせいもあって、グッと新鮮に響くのだが、録音のせいだけではないはず。「ヤオー」はショーロというよりルンドゥー、すなわちアフリカ音楽の痕跡が強く残るもので、とうようさん用語で言えば「跳ねる二拍子」。

そんな跳ねる二拍子のルンドゥーをピシンギーニャとベネジート・ラセルダはグッとモダンなフィーリングで演奏している。ベネジートのフルートのせいでそんな印象が強くなっているのもあるが、ピシンギーニャのテナー・サックスの入り方がショーロの王道コントラポントだから、そのせいもあってモダンに聴こえるんじゃないかなあ。

ピシンギーニャとベネジート・ラセルダの「ヤオー」はライス盤『ショーロの聖典』には収録されていないが、僕が iTunes Store で買ったこのコンビの録音全集には当然入っている。それでは曲名が「ヤオー・イ・ガスタオ・ヴィエナ」となっている。どこかこのコンビの録音全集をCDでリリースしてくれないかなあ。

『カリビアン・ミュージック・ルーツ』19曲目のセステート・ナシオナル「ボンゴー万歳」は当然キューバのソン。1927年録音で、まだトランペッターが参加していない時期だけど、キューバのソンがいかにタイトでいかに音楽的に完成されていたかがクッキリと分ってしまう。

とうようさんも曲目解説で、キューバのソンのカッチリした強固なまとまりのせいで、この曲だけがアルバム全体のなかで浮き上がってしまわないかとの懸念を書いているくらいだ。それでもまだ雑然とした感じの初期録音をチョイスしてみたと書いているが、他のいわゆるカリブ地域音楽を収録したものと並べて聴くと、やっぱり違うサウンドだ。目立ってしまい印象が違うように聴こえる。

『カリビアン・ミュージック・ルーツ』と(広い意味での)カリブ地域音楽の話、そしてその地域ではおそらくはアフリカ由来の二拍子系リズムと、おそらくヨーロッパ由来の三拍子系リズムが交錯してクロス・リズムになり、タ〜ン・タ・タンという付点つき二拍子、つまり跳ねる二拍子になって、それがキューバはじめカリブ地域音楽のリズムの特長になったという話をしたいと思って書きはじめたのだが。

そのクロス・リズム、跳ねる二拍子が表現された典型があの「ラ・パローマ」であって、それはスペイン楽曲だから『カリビアン・ミュージック・ルーツ』には収録しない代わりに、一曲目に同じハバネーラ・リズムを使ったキューバの「トゥ」(ホセ・マヌエール・ロドリゲス)が収録されている。

『カリビアン・ミュージック・ルーツ』では、その後、北米のメキシコ、南米のコロンビア、ベネスエーラの音楽が続き、ハバネーラのリズムがどう活かされてどう変化しているのかを実証している。なかにはそんなリズムの交錯が6/8拍子的、いわゆるハチロクになっているものもある。

トリニダード・トバゴ、ハイチ、パナマ、ジャマイカ、マルティニークなどと続いているが、全てフォーカスはクロス・リズムの面白さに当てられている。時に三拍子が強く出たり、鮮明なハチロクになったりなどする。アフリカ由来の(つまり黒人奴隷が持込んだ)カリンダ、ベレが基層となり、そこからハバネーラ、ビギンなども誕生し、さらにダンサ、ダンソーンが形を整えたのが分る。

そんな汎カリブ音楽、言い換えれば真の意味での「アメリカ」音楽の現代版がレゲエで、『カリビアン・ミュージック・ルーツ』のラストにはマルティニークの音楽家カリのやるレゲエ「フリーダム・モーニング」が収録されている。レゲエはカリブ発でありながらワールド・ビートであり、しかも元々のルーツ地域であったはずのアフリカの音楽家にも強い影響を与えているよね。一種の里帰り?

こんなリズムのクロスする面白さが、いわゆるカリブ地域で世界で初めて誕生した(のかもしれない)世界のポピュラー音楽の魅力であって、世間一般でいういわゆるアメリカ音楽(=北米合衆国音楽)もそうやって俯瞰しないと真の魅力が分りにくいんじゃないかなあ。

したがって北米合衆国の音楽も、これすなわち全て混血音楽であって、南中北米カリブを全部含めた真の意味での「アメリカ音楽」こそが魅力的であって、狭い意味でのアメリカ音楽が20世紀以後の世界で最も人気のあるものになりえたのも、そんな要素を内包していたからこそに違いないと思うんだよね。

2016/12/02

マイルス・ミュージックの真相

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マイルス・デイヴィスは、自分が雇った歴代ギタリストのなかでジョン・マクラフリンを一番信用していたような気がする。といってもマクラフリンはレギュラー・メンバーとしては起用されたことがない。『イン・ア・サイレント・ウェイ』になった1969年2月録音のセッションで初起用して以来しばらく使っているが、全てその時だけのゲスト参加だ。

だが1981年の復帰後にもマイルスはマクラフリンを使ったアルバムが二枚ある。どっちもコロンビア盤の『ユア・アンダー・アレスト』と『オーラ』だ。両者ともアルバム収録曲の全てにマクラフリンが参加しているわけではなく、一部で弾いているだけなんだけど。

『ユア・アンダー・アレスト』も『オーラ』もほぼ同時期の録音。前者が1984年から85年1月にかけて、後者が85年1月と2月に録音されている。がしかしリアルタイムでは『ユア・アンダー・アレスト』しかリリースされなかった。そしてそれがリアルタイムではマイルスのコロンビア最終作になった。

『オーラ』が発売されたのは、マイルスがワーナーと契約していた1989年。これは鮮明に憶えている。どうしてかというと、僕が CD プレイヤーを買ったのは『オーラ』のせいだからだ。そう、このアルバムは当時 CD でしかリリースされなかった。のはずなんだけど、調べてみたらアナログ LP でも出ていたみたいだなあ。

つまり僕が見つけられなかっただけか。あの当時の僕が音楽録音物を買っていたのは渋谷と新宿と池袋だけ。本当にこの三ヶ所だけだった。マイルスの<新作>がリリースされたというのでその三ヶ所で探したのだが、僕はその新作『オーラ』は CD しか発見できなかった。

当時の僕は CD プレイヤーを持っておらず、というか正確に言うと迷っていた時期で、いろんな新作や旧作が CD で出るようになっていたから、そろそろ買わなくちゃいけないのかなあとぼんやり感じていたのだった。そこに最愛の音楽家マイルス・デイヴィスの<新作>が出て、それは CD しかないぞ!となったのだ。

それでこれも憶えているがタワーレコード渋谷店で『オーラ』の CD ソフトだけをまず先に買い、その直後にそれを聴きたいがためだけに CD プレイヤーを買った。もし『オーラ』のアナログ盤を当時買えたならば、僕が CD プレイヤーを買うのはもっと遅くなっていたはず。

1990年代に入って古いアメリカ音楽がどんどん CD リイシューされるようになったので、1989年にそれを再生できる機器を買っていたのは、結果的にはピッタリのタイミングだったなあ。それはそうとアナログ盤プレイヤーに比べて CD プレイヤーはやや寿命が短めのような気がするんだが、僕だけだろうか?

ともかく1985年に録音されていたにもかかわらず四年間リリースされなかったマイルスの『オーラ』と、ほぼ同時期に録音され、こっちは即発売された『ユア・アンダー・アレスト』の両方にジョン・マクラフリンがゲスト参加して、少しギターを弾いている。

しかしこの二つのアルバム、中身はかなり違う。録音が少しだけ先の『ユア・アンダー・アレスト』は当時のレギュラー・バンドを中心とするファンク・アルバムなのに対し、『オーラ』は全面的にデンマークで録音された現代音楽のオーケストラ作品なんだよね。

だから『ユア・アンダー・アレスト』の方は当時のいつもの調子なので、ファンであれば理解はたやすい。収録曲もアルバム・リリース前後からライヴでよくやっていた。晩年のマイルスにとっての必須レパートリーになった二曲のポップ・バラード「ヒューマン・ネイチャー」と「タイム・アフター・タイム」のアルバム初お目見でもあった。

ところが『オーラ』の方は西洋白人現代音楽なんだよね。ひょっとしてそういう内容だからコロンビアは四年間もリリースしなかったのだろうか?デンマーク録音の『オーラ』制作の端緒は1984年12月にデンマークのレオニー・ソニング音楽賞をマイルスがもらったことだ。

そのソニング賞の授賞式出席のために1984年12月にデンマークを訪れたマイルス。どこの国のどんな音楽賞だって、普通、授賞式ではもらった人が演奏したり歌ったりするよね。この時のマイルスも当時のレギュラー・バンドからギターのジョン・スコフィールドと、甥のドラマー、ヴィンス・ウィルバーン二名を伴ってデンマークへ行った。

そのソニング賞授賞式の際の(オーケストラ)作品を書き演奏したのが、デンマークの音楽家パレ・ミッケルボルグ。マイルスは当初、オーケストラ作品なら常にそうしてきたように、ギル・エヴァンスに委託しようとしたのだが、断られてしまったのでミッケルボルグになった。といっても授賞式本番ではマイルスは吹かなかったそうだ。

その授賞式の時のミッケルボルグ作編曲指揮のオーケストラ作品がマイルス本人には評判が良かったので、そのままミッケルボルグに依頼して、翌1985年初頭に再びデンマークへ、そして今度はギターはジョン・スコフィールドでなくジョン・マクラフリン(とドラマーのヴィンス・ウィルバーン)を伴い行って録音されたのが『オーラ』だ。

とまあしかしそんな経緯をいくら書いてもあまり意味がないことではあるなあ。なぜならば『オーラ』はちっとも面白くないアルバムだからだ。少なくとも僕みたいに1969年以後のマイルスにはブラック・ファンク〜ロック系のものを求めてしまう人間なら全員間違いなく放り出すだろう。

退屈極まりないマイルスの『オーラ』。『マイルスを聴け!』のなかで中山康樹さんも同じことを書いているが、中山さんの場合は1949/50年録音の『クールの誕生』に関しても同意見で、全部の曲が同じに聴こえるとか、誕生と同時に死を迎えたような音楽とまで書いているので、ちょっと割り引いて読まなくちゃいけない。

僕にとっては『クールの誕生』は面白いからね。そんでもってそれと『オーラ』は通底するものがあるのは確かだから、どっちもダメだという中山さんの見解は一貫性があって納得はできる。つまりマイルスがキャリア初期から強く持っていた「白い」音楽性、すなわち西洋クラシック音楽的な要素だ。

中山さんと僕との違いは、マイルスのなかに強くある西洋白人音楽的なものが全てダメだとは思っていないところだ。そりゃそうだろう、前々から言っているようにアクースティック時代の作品と限定すれば、コンボものもなにもかも全て含めても、1957年の『マイルス・アヘッド』が一番好きな僕だから。

ギル・エヴァンス編曲・指揮のオーケストラとやった『マイルス・アヘッド』にアメリカ黒人的、さらにいえばアフリカ的というような音楽要素を聴き取ることは、少なくとも僕の場合難しい。そしてクラシック音楽側からマイルスを聴いている方々も、『マイルス・アヘッド』が好きだという意見になる場合が多いのだ。

がしかし同時に僕は大のブルーズ好き人間でもあって、それもマイルスのなかに非常に強くあるもので、だから西洋クラシック音楽的に美しければなんでもいいとか(あるいは逆になんでもダメだとか)いうような嗜好の人間でもないんだなあ。ものごと、なんでもいい塩梅じゃないとね。

そうなると僕にとっては「いい塩梅」の『クールの誕生』や『マイルス・アヘッド』にある重要なものが、『オーラ』には決定的に欠けているようにしか聴こえないんだなあ。『オーラ』を高く評価するファンも実はたくさんいる。そのほとんどはアルバム中のマイルスとマクラフリンのソロを褒めている。

僕が聴くとマイルスのソロ部分も『オーラ』ではつまらない。マクラフリンのギター・ソロ(は全十曲中三曲だけだが)だけが唯一聴けるかなと感じるだけ。バックのオーケストラ・サウンドなんかどこにも全く面白味がないよなあ。クラシック音楽ファンであれば違う意見になるかもしれない。

ただ『オーラ』で聴けるマイルスのトランペット・ソロの音色とフレイジングだけ抜き出すと、普段とどこも変わらないのは確かだ。だからそれだけはいいという意見の中山さんと正反対に、だからこそ僕はダメだと思う。だいたいマイルスは普段からそんな面白くて旨味のあるトランペットを吹くことは少ない。

バック・バンドにいい味を出す人間を起用して、そのスウィンギーだったりファンキーだったりするバンド・サウンドの上に自分の西洋白人的なトランペットを乗せていたというのがマイルス・ミュージックの真相じゃないかなあ。だからバック・バンドが面白くなく、同時にマイルスもいつもの調子でしか吹かないと、全然ダメな音楽に仕上がってしまう。

マイルス・ミュージックとはだいたいの場合、極上のバンド・サウンドと極上のサイド・メンのソロを聴くべきものであって、ボスのトランペット・ソロだけ抜き出すと、それ自体にそんな強い旨味は感じられない場合が多いんじゃないかなあ(一部例外を除く)。そんな音楽じゃないのかなあ、マイルスのやっていたものって。

これはおそらくチャーリー・パーカー・コンボ時代に、壮絶極まりないパーカーだけでなく、同じ楽器ならディジー・ガレスピーみたいな人を間近で体験していたがために、自分にこの人たちみたいな真似は到底できないぞと観念して、自分は自分の音楽家としての生きる道を探り見定めたということじゃないかなあ。だから初リーダー作が『クールの誕生』みたいなビ・バップとは似ても似つかないものになった。

さて「スウィンギーなバンド・サウンド」と書いたけれども、そこが『クールの誕生』『マイルス・アヘッド』その他と『オーラ』との決定的な違いだ。僕は西洋クラシック音楽でも曲や演奏家がスウィングしているものが好みなのだ。クラシック音楽にスウィング感を求めるのはオカシイかもしれないが、間違いなく聴き取れる場合があるよね。

バンドのサウンドがスウィンギーだったりファンキーだったりすればいいが、いつものそんな感じでなくなるのであればマイルスはいつもと違う吹き方をしないといけないのに、『オーラ』でもいつもと変わらないトランペット・ソロだから、アルバム全体が面白くないものになっているんだと僕は思っている。

作編曲指揮のパレ・ミッケルボルグもトランペッター。そして彼の最大のインスピレイション源がマイルスとやる時のギル・エヴァンスのスコアだったらしい。僕はミッケルボルグの他の作品は全く聴いていないのでなんとも言えないが、『オーラ』を聴いて判断する限りでは、マイルスを活かせるようなサウンドは創れない人だなあ。

『オーラ』にもエレクトリックなファンク・チューンはある。1985年録音だからミッケルボルグも時代を意識したんだろう。一曲目の「イントロ」、四曲目の「オレンジ」、五曲目の「レッド」、八曲目の「エレクトリック・レッド」がそういうものだ。

それら全てでヴィンス・ウィルバーンが電子ドラムスを叩いている。いかにも1980年代風のチープなサウンドで、今聴くとやっぱり面白くない。でもあの時代のドラマーはほぼ全員叩いていた。日本の村上ポンタ秀一だって使っていたもんね。だからそれ自体は別にどうってことはない。

問題はミッケルボルグの書いたリズム・アレンジがうわべだけのファンクだってことだなあ。一応リズムのかたちはファンクではあるものの、それはリズム・セクションの内側から自然に湧き出るような(ファンクはそういうもんだから)ものじゃなく、本当に格好だけ借りましたというようなものでしかない。

うわべのかたちだけファンクの衣を借りたみたいなものよりは、まだそれがどこにもない西洋クラシック音楽的な曲の方がまだマシだ。二曲目「ホワイト」とか、ハープの音ではじまる三曲目「イエロー」とかね。またマイルスがあまり吹かない六曲目「グリーン」や、全く吹かない4ビートのジャズ・ナンバーである九曲目「インディゴ」も、極端には悪くない。

上でも書いたように『オーラ』で最も聴ける、というか唯一聴けると思うのがジョン・マクラフリンのギターだけど、彼が弾いているのは一曲目「イントロ」、四曲目「オレンジ」、そしてアルバム・ラストの「ヴァイオレット」の三つだけ。といってもギタリストは現地のデンマーク人も参加していて、どこがどっちというクレジットはないので、僕の耳判断だけ。でも自信はある。

そのなかでマクラフリンのソロも、マイルスのソロも、バック・バンドの演奏も一番マシなんじゃないかと思うのがアルバム・ラストの「ヴァイオレット」だ。これはブルーズなんだよね。エレベのラインもいいなあと思ってクレジットを見たら、あのニールス・ヘニング・ペデルセンとなっているじゃないか。

ペデルセンのエレベ・ラインと、ヴィンス・ウィルバーんの電子ドラムス、それにくわえシンセサイザーが浮遊する上でソロを取るマイルスとマクラフリンのブルーズ演奏はなかなか悪くない。パーカッション・サウンドが聴こえるが、それはマリリン・マズールによるもの。
マリリン・マズールの名前は僕たちマイルス狂は忘れられないものなんだなあ。彼女はニュー・ヨーク生まれの黒人だが六歳からデンマークに住んでいた。この『オーラ』の時の演奏をマイルスは気に入って、数年後にバンドのレギュラー・パーカッショニストとして雇ったのだ。

マイルス・バンド時代のマリリン・マズールは1988年の来日公演時もメンバーだったので、僕も人見記念講堂で生演奏を体験した。その時のライヴではマズールのパーカッション・ソロをフィーチャーした曲もあったなあ。かなりセクシーな容姿と扮装の女性で、その点でも僕はお気に入り(笑)。

さてさて同じ1985年1月に、同じジョン・マクラフリンを加えてレギュラー・バンドで録音され、アルバム『ユア・アンダー・アレスト』に収録された「カティーア」のことを少しだけ書いておこう。B面一曲目だったこれではほぼ全面的にマクラフリンのギターをフィーチャーしている。
当時のバンドのレギュラー・ギタリスト、ジョン・スコフィールドは全く弾いていない。一応A面四曲目の「ミズ・モリシン」でもギターはマクラフリンとのクレジットだが、これのギター・ソロはスコフィールドのスタイルに似ているから、イマイチ判然としない。

だから「カティーア」と(その前の「カティーア・プレリュード」)だなあ、僕には。アップ・テンポのかなりハードでタイトなファンク・チューンで、これ、どうしてレギュラー・ギタリストのスコフィールドじゃなく、マクラフリンに弾かせようとマイルスは考えたんだろうなあ。

ボスの心中は分らないし、なにかそれについて書いてある文章も当時から現在に至るまで僕は見たことがない。だが、最初に書いたように、どうもマイルスはギタリストに関してはマクラフリンに最大限の信頼を置いていたと思えるフシがあるんだよなあ。

ジミ・ヘンドリクス的なサウンドを持っていて、なおかつ1960年代ジョン・コルトレーン的な音の配置ができるギタリスト。そんな風にマイルスはマクラフリンをみなしていたんじゃないかと僕は思うのだ。1969年2月のセッションで最初に起用したのはトニー・ウィリアムズの推薦だったのだが、ボスはかなり気に入ったみたいだ。

それにしてはレギュラー・メンバーにしなかったが、それはおそらくマイルスの一種の音楽的保守性と、以前書いたように和音を出せる楽器奏者としては、どっちかというとギタリストよりも鍵盤楽器奏者を重視したせいじゃないかなあ。マクラフリンとの出会いがあと二・三年遅ければ、間違いなくレギュラー・メンバーとして雇っただろうと僕は思う。

2016/12/01

ココモの肉声的ギター・スライドとシティ・ブルーズの痕跡

Unknown










少し前にロバート・ジョンスンの話をし、つい先週もその系統のブルーズ・メンについて書いたばかりなのに、今日もまたロバート・ジョンスンへの最大の影響源の一人でもあった人の話をしたい。うん、まあ好きなんだよね、ロバート・ジョンスンがね。今日の話題はココモ・アーノルド。

といってもココモの録音集を聴いていると、ロバート・ジョンスンの大きな栄養源なんていう枕詞は完全に消し飛ぶ。そんなこととはなんの関係もない魅力を持ったブルーズ・マンなんだよね。僕にとっては特にギター・スライドが素晴らしく響く人で、戦前のブルーズ界におけるスライド・プレイ最大の名手の一人だ。

ココモがギターを抱えて演奏でもしているような写真は残っていないらしいし僕も見たことがないんだが、彼はギターを膝の上に寝かせて、その上からスライド・バーかボトル・ネックかナイフかなにか分らないが、それで押さえるという弾き方をしていたらしい。いわゆるハワイアン奏法だね。

いや、ハワイアンとだけも言えないのかな。カントリー・ミュージック界なんかにも結構そういう人は多いよなあ。しかしながらカントリーでそんな弾き方をする(それしかできない)楽器ペダル・スティール・ギターはハワイがルーツだ。

そんでもってセイクリッド・スティールみたいなアメリカ黒人宗教音楽もあるわけで、だから人種や音楽ジャンルの区別をやりすぎるのはあまり意味がない。全部ズルズルと繋がっているんだよね。特に欧州イベリア半島から南北アメリカ大陸にやってきたギター(の起源はアフリカのはず)に関してはそうだ。

さてココモのギター・スライドを聴いていると、この奏法がいかに表現力豊かなもので、これを活用することによりギターがヴォーカルと同じだけの表現の幅を獲得したんだということが非常によく分る。戦前ブルーズ界におけるスライド奏法最大の名手はやはりロバート・ジョンスンになるんだろうが、数年前のココモが既にそれを確立している。

僕が普段よく聴くココモの録音集は、日本の Pヴァインが1998年(と見えるんだけど、なにしろ文字が小さくて老眼鏡をかけても判然としない)にリリースした『オールド・オリジナル・ココモ・ブルース』という一枚物CD。全24曲で、1934〜38年のデッカ録音集(最後の二曲だけ30年録音)。

デッカは元々英国の会社なんだけど、アメリカ支社が1934年に設立され、メイヨ・ウィリアムズというプロデューサーがデッカの黒人音楽部門で働いて、彼がアメリカン・デッカ設立早々に見つけだして録音させたのがココモだった。1934年からの四年間で90曲以上も吹込んだらしい。

僕はそんなココモの全貌は聴いていない。前記 Pヴァイン盤と、あとは各種戦前ブルーズのアンソロジーに一曲程度選ばれることも多いので、そんなものは結構前から聴いていた。そのうちの二つが日本の中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統〜ブルース、ブギ&ビート篇』と、やはり日本の Pヴァインがリリースした『戦前ブルースのすべて 大全』。

それらのうち、とうようさんの『ブラック・ミュージックの伝統〜ブルース、ブギ&ビート篇』にある「オールド・ブラック・キャット・ブルーズ」は単独盤『オールド・オリジナル・ココモ・ブルース』にもあるが、『戦前ブルースのすべて 大全』にある「ミーン・オールド・トゥウィスター」は単独盤には入っていない。

その「ミーン・オールド・トゥウィスター」も1937年シカゴ録音でデッカ原盤だ。これもなかなかいいブルーズだから単独盤にも収録したらよかったのになあ。同じ Pヴァインだから重複を避けたってことでもないと思うんだけど、どうなんだろう?
ココモの単独盤『オールド・オリジナル・ココモ・ブルース』一曲目は1934年録音の「ミルク・カウ・ブルーズ」。曲名だけですぐにロバート・ジョンスンのルーツ曲だなと誰でも気がつくと思うので、その話は割愛する。そんなことより、既に魅力的なギター・スライドのスタイルが確立されているのが重要。
聴き進むと、魅力的なココモのギター・スライドはまあだいたいどの曲でも同じようなパターンで、はっきり言ってそんなに多彩なパターンは持っていなかったブルーズ・マンだったんだなと分ってしまう。ヴォーカルもそんな感じで、どの曲でもよく似ている。


ココモの録音では、曲中彼が実に頻繁に掛け声を入れる。「プレイ・イット!」「ヤー、メン!」とかそんな戦前ジャズでもよくあるやつ。そのうちでちょっと面白いのが、ボーナス・トラック的に入っている末尾の1930年録音(だからデッカ原盤ではない)の24曲目「パドリン・マデリン・ブルーズ」。


なにが面白いのかというと、「パドリン・マデリン・ブルーズ」で聴けるココモの掛け声は「フィドル・イット・ナウ!」だからだ。もちろんヴァイオリンのことではない。ココモ一人でのギター弾き語りだ。彼の叫ぶ「フィドル・イット」とは「スライドで弾け」の意味なのだ。
せわしなくバー(かなにか分っていないそうだが)をスライドさせるココモのギター・スタイルがお分りいただけると思う。そんなスライド奏法のことを「フィドル」と呼ぶのはちょっと面白いんじゃないだろうか。スライド・ギター・スタイルを「ギット・フィドル」と呼ぶことがあるんだけど、バーなどで音をスラーさせることからフィドルっていうのかなあ。
そういえば音程を連続的かつ滑らかに変化させるのをクラシック音楽ではポルタメント(はとうようさんも使っている言葉)と言うけれど、ギター・スライドはまさにポルタメントだ。そんでもってポルタメントはクラシック声楽とヴァイオリンなど擦弦楽器での演唱法なんだよね。
ヴァイオリン、すなわちフィドルだよね。ココモの「フィドル・イット」の掛け声でギター・スライドが入るっていうのは、そういうことなのかなあ。いやまあ僕にはよく分らんけれども、勝手な連想と憶測を並べてみただけだ。でもあながち的外れでもないじゃないと思う。


「フィドル・イット・ナウ!」の掛け声でスライド奏法をやる「パドリン・マデリン・ブルーズ」(ともう一曲)は1930年録音だから、まだデッカのメイヨ・ウィリアムズに見出される前で、これら二曲をA面B面にしたレコードは全く売れず、やはり34年にデッカに録音するようになって以後の四年間がココモの全盛期。


1934年以後録音のブルーズでは、俗にココモ節と呼ばれるお馴染のスタイルで、上でも書いたようにどの曲のギターもヴォーカルもほぼ似たようなパターン。ココモはカントリー・ブルーズ・マンには違いないけれど、34年以後という録音時期を考えたらシティ・ブルーズの影響があってもおかしくない。


そして実際聴けるのだ。一番ハッキリしている二曲が単独盤12曲目の「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」と13曲目の「ボ・ウィーヴィル・ブルーズ」。曲名だけでみなさん瞬時にお分りのはずの超有名曲だから説明不要だろうね。


のはずなのに、Pヴァイン盤のライナーノーツにおける小出斉さんの記述はオカシイ。こうあるんだ。引用する。
 逆に(13)「ボー・ウィーヴィル・ブルース」は、いわずとしれた
 リロイ・カー・ナンバーで、こういうのを聴くと、
 ああ、ココモもシティ・ブルースマンと思ってしまうが(以下略)

あの〜、小出さんがお分りでないなんて絶対に考えられないので、12曲目・13曲目と連続しているがために、ちょっと誤記してしまっただけなんだろうと僕は判断している(にしては曲名まで明記してあるのは不可解だが)。「いわずとしれたリロイ・カー・ナンバー」とは言うまでもなく12曲目「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」の方だ。あるいは僕の知らないリロイ・カーの「ボ・ウィーヴィル・ブルーズ」があるのかなあ?
13曲目の「ボ・ウィーヴィル・ブルーズ」の方は1920年代のいわゆ通称クラシック・ブルーズの女性歌手たちが得意にしたレパートリーである古い伝承もので、マ・レイニーもベシー・スミスも録音しているのを僕は持っているし、カントリー・ブルーズ・マンではチャーリー・パットンのヴァージョンもある。
録音時期は当然マ・レイニーとベシー・スミスの方が先だが、録音を聴くと1929年であるチャーリー・パットン・ヴァージョンの方が、ブルーズのありようとしては古い姿を残している。そもそも彼女たちは最も早く録音したブルーズ歌手なので「クラシック」・ブルーズと呼ばれているだけであって、別にブルーズの「古典的」スタイルなんかじゃない。だから本当はこの呼称はやめるべきだよね。


ともかくココモの「ボ・ウィーヴィル・ブルーズ」を聴くと、直接的にはチャーリー・パットンらカントリー・ブルーズ・メンのを下敷きにしているが、じゃあ通称クラシック・ブルーズの女性歌手ヴァージョンの影響はゼロかというと、そんなこともないように僕には聴こえるなあ。
だいたいココモのデッカ録音は全てシカゴかニュー・ヨークで行われている。どっちも大都会だ。そんなこともあるし、1930年代半ば〜後半という録音時期のことを考えても、ギター弾き語りスタイルであるとはいえ、ココモのブルーズに都会のブルーズの痕跡は間違いなくある。


一番ハッキリしているのがリロイ・カー・ナンバーである12曲目の「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」。弾きはじめのギター・スタイルはリロイ・カーのピアノをそのまま移しかえているような弾き方だし、どう聴いてもこれはシティ・ブルーズのスタイルだ。
ところでココモがやるリロイ・カーの「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」。これをカヴァーする人はみんな「ハウ・ロ〜ング、ベイビー、ハウ・ロ〜ング」と歌いはじめるんだけど、ココモはリロイ・カー・ヴァージョンの ”Went and asked at the station: 'why's my baby leavin' town?’” ではじまる二連目から歌い出しているよね。
もっともココモは ”Sat and asked 〜〜”と歌っているけれどね。そんでもってまた文句を垂れるけれど、Pヴァイン盤についている歌詞カードの「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」のところでは、この歌い出しが ”Standin’ at the station〜〜” と記載されているんだなあ。
これはオカシイ。僕の耳にはそうは聴こえない。末尾に聴き取り担当者として Chris Smith という名前が記載されているが、これ、本当に英語ネイティヴの方なんだろうか?英語ネイティヴではない僕だって明らかに違うと分るのにヘンだなあ。


というのもこんなのが昔からあって、特にロック・レコードの日本盤を買うと必ず付いていた歌詞カード(今は知らん)に聴き取り担当者名が記載されてある場合があって、まるで英語ネイティヴであるような名前が記載されていたが、ありゃ今考えたら絶対ウソだね。英語聴き取り能力がイマイチな日本のレコード会社関係者だったとしか思えない。


まあいいや。重要なことは「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」でなくても、ココモの弾くギター・スタイルにはリロイ・カー的なシティ・ブルーズ・ピアノの影響が明らかに聴き取れるってことだ。ダダダ、ダダダっていうピアノ鍵盤を叩く例のやつを、そのままギターでやっているんだよね。


例えば単独盤七曲目の「フロント・ドア・ブルーズ」弾きはじめの数秒間は、ギターを弾くリロイ・カーだ。これはほんの一例で、他でも随所で聴けるから、やはりココモには明らかにシティ・ブルーズの影響があるね。それにカントリー・スタイルの肉声的スライド・プレイを合体させているんだなあ。
こんな田舎のブルーズと都会のブルーズをギター弾き語りで合体表現したのが、ロバート・ジョンスンにかな〜り大きな影響を与えたんだが、それを説明する余裕が今日はもうなくなってしまった。歌詞でも「スウィート・ホーム・なんちゃら」とか「2たす2は4」とか「ベイビー・ドンチュー・ワナ・ゴー」とか「アイ・ビリーヴ(・アイル・ダスト・マイ・ブルーム)」とか、その他いろいろとココモの録音に頻出するぞ。


一人でやるのは寂しいからやっぱり女、女がダメならオカマでもいいぞと歌うから笑ってしまう「シシー・マン・ブルーズ」(sissy の意味をちょっとネット検索してちょ)とかの話はもう完全にできなかったので、ちょっと聴くだけ聴いてみて。

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