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2017年2月

2017/02/28

ジャズは教師、ファンクは説教師

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フリー・ジャズって、慣れない人には単にメチャクチャやっているだけの騒音に聴こえるだろうと思う。実際、昔そんなことを言う人もいたんだそうだ。だからエレキ・ギターなどの電気楽器を使ったフリー・ジャズだったりすると、完全なるノイズの濁流だとしか思えないはず。

電化ノイズの濁流と言われたら、僕がまず思い浮かべるのはルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』とかニール・ヤングの『アーク』とかなんだけど、案外嫌いではないのだ。この二枚の話はまたきっとすることがあると信じて、今日は電化フリー・ジャズのことについてだけ書く。

電化、というかエレキ・ギターを使ったフリー・ジャズとは、僕のなかでイコール、ジェイムズ・ブラッド・ウルマーのことになる。僕が熱心なジャズ・ファンになって数年後、このギタリストを知った時はそりゃ嬉しかったなあ。音色は普通のジャズ・ギタリストのそれだけど、フレイジングとリズムが完全に普通のいわゆるジャズではない。むしろこれはブルーズ〜リズム&ブルーズ〜ファンクだ。

しかしジェイムズ・ブラッド・ウルマーのアルバムは、二作だけメジャーのコロンビアからリリースされたのを除き、他は全てインディペンデント・レーベルから出たものだから、僕が聴きたいと思った時には、例えば1980年のラフ・トレード盤『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』も入手が著しく困難だった。僕がこれを聴いたのは CD になってから。しかしその CD 化もなかなか実現しなかった。

『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』が CD リイシューされたのは1995年のことで、それも日本の DIW、すなわちディスクユニオンが再発したものだ。僕はそれを即買いし、現在まで愛聴している。これはオリジナルそのままではなく、1994年にミックスをやり直したものをマスターにしているようだ。附属の紙にそんなクレジットがある。

『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』が CDリイシューされるまでは、僕は大手コロンビアから出ている二枚しかジェイムズ・ブラッド・ウルマーを聴いたことがなく、でもそれで充分持味・特長が分る音楽家で、しかもメジャーからリリースされるということは、ある程度は売れることを求められてのものだろうから、わりと分りやすい音楽になっている(かもしれない)。

ブラッド・ウルマーのコロンビア盤二枚のうちでは、僕は『ブラック・ロック』の方が好き。音楽内容としてはメジャー第一作の『フリー・ランシング』の方がいいかもなと思ったりしているんだけど、個人的な好みだけなら『ブラック・ロック』になっちゃうなあ。

『フリー・ランシング』も『ブラック・ロック』も肝はエレベのアミン・アリ。このベーシストは1980年の『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』以後、ずっとブラッド・ウルマーを支え続けていた盟友的存在で、ウルマーのフリー・ファンクみたいな音楽の核になっている。

『ブラック・ロック』でも、DIW が再発してくれたラフ・トレード盤『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』でも同じだが、ブラッド・ウルマーはギターの方はかなり変態的で、ちょっと聴いただけではどんなチューニングになっているのかすら分らないものだけど、ヴォーカルの方は極めて分りやすい王道ブラック・ミュージック路線だ。

『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』の方だけに話を限定したいが、このアルバムでブラッド・ウルマーのヴォーカルが聴けるのは二曲。四曲目の「ジャズ・イズ・ザ・ティーチャー(ファンク・イズ・ザ・プリーチャー)」と、ラスト十曲目の「アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?」だ。 CD でしか聴いていないので A 面・B 面は現実味がない。やめておく。

それら二曲のヴォーカル・ナンバーでは、ブラッド・ウルマーのヴォーカルだけでなく、バックで入る三管のホーン・リフもかなりファンキーで、それも全然(フリー・)ジャズ的なものではなく、ジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどで聴けるようなスタイルのものだ。

しかも曲のリズムもかなり明快にタイトでファンキー。ほぼ完全にファンク・ミュージックになっていると言って差し支えない。二曲ともブラッド・ウルマーのギター・ソロみたいなものはなく、ドラムス+エレベのリズム(と四曲目ではリズム・ギターも)と、ホーン・リフと、自ら弾くシングル・トーン弾きのギター・サウンドを散りばめてある上で歌っているだけ。

それら二曲でのブラッド・ウルマーのギターとヴォーカルは、ひょっとしたら多重録音かもしれない。あるいは弾きながら同時に歌っているのだとすれば、どっちもかなり上手いということになるんだけど(プロ音楽家に対し失礼な言い方だ)、しかしギター・フレーズとヴォーカル・フレーズの連絡が僕には分らないから、どうやっているんだろうなあ?

うんまあ、例えばポール・マッカートニーのライヴ録音などを聴いていても 、例えばピアノを弾きながら歌っているような生演奏 YouTube 動画を観聞きして、よくこのピアノのフレイジングにヴォーカルが引っ張られないもんだ、凄いなあなどと、超一流プロ音楽家に対しマジで失礼なことを思ってしまう。ポールにしろブラッド・ウルマーにしろ、一流プロ音楽家ってみんなそうなんだろうなあ。

『アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?』では二曲聴けるブラッド・ウルマーのヴォーカル。それは明快なアメリカ黒人音楽伝統路線に則ったものだと書いたけれど、それら以外のインストルメンタル・ナンバーでもかなりそういう部分が聴けるように僕は思う。言ってみればフリー・ジャズはブルーズだ。

フリー・ジャズはブルーズっていうのは、オーネット・コールマンのアルバムだってデビュー当時から死ぬまでだいた全部ずっとそうだし、それはアルト・サックス(やその他の楽器)でのフレイジングの組立がブルーズっぽいなあと、ジャズ同様熱心なブルーズ・ファンである僕は確実に感じている。

かなりきっちりと定型化し、ある種西洋白人音楽的なシステムも借用している(そうじゃないとバンド形式では非常にやりにくい)シティ・ブルーズばかり聴いていると、そのあたりが分りにくいかもしれない。ジャズの場合、そのなかに吸収されたブルーズ要素は、都会的なものだった場合が多いように思えるし、しかもある時期まではジャズ化したらクラシック音楽的な(特に和声)システムで演奏されるので、ますますフリー・ジャズ=ブルーズみたいなことは分りにくいかもしれない。

つまりシティ・ブルーズじゃなくてカントリー・ブルーズ、ってことは多くの場合一人でのギター弾き語りでやっているようなものをたくさん聴いていると、例えばオーネット・コールマンのあのフレイジングや、またちょっと外れているの?と聴こえるようなピッチのことだって分ってくる。

ところがシティ・ブルーズのファンなら、ジャズは近いから聴けるだろうが、カントリー・ブルーズのファンの場合、ジャズなんかあまり聴かないかもしれない。また逆にジャズを中心に聴いているファンも、やはりジャジーなシティ・ブルーズはとっつきやすくても、いろんな意味でかなり融通無碍で自由自在なカントリー・ブルーズは聴きにくいかもなあ。

あるいはワールド・ミュージックの世界には、オーネットやブラッド・ウルマー(のギターだけ)みたいな妙なピッチやフレイジングがたくさんあって、ギターのワケのわからない変態チューニングや弾き方もいろいろ聴ける。それは要するに西洋音楽のシステムでは成り立っていないからなんだけど、ジャズは誕生期からずっと、特に和声面では西洋白人音楽的な方法論でやってきたからね。

ジャズ・ファンもそれに慣れきっているから耳がそうなっていて、だから1950年代末〜60年代初頭からのフリー・ジャズに対する、一種ヒステリックにも見えた集団アレルギー反応は、要は非西洋音楽へのアレルギーだったんじゃないかと僕は思う。そしてジャズ界だけでなくアメリカ大衆音楽界全般で、特に60年代以後、非西洋化がどんどん進んだんじゃないかと思える。

その典型的な噴出がファンク・ミュージックの台頭で、ハーモニー面でもリズム面でも、安易にアフリカ的と言うとちょっと問題があるかもしれないが、究極的にはそこに行き着くような音楽をやりはじめて、ジャズ界におけるそんな方向性がフリー・ジャズだったように思う。だからジャズとファンクが合体し、さらにそれがアフリカ音楽的なワールド・ミュージック志向になるのは、歴史の必然だ。ドン・チェリーなんか、明快じゃないか。

デビューが1950年代末だったオーネットも、だからそうなっているもんね。70年代以後のオーネットをちょっと振り返れば分る。あるいはもっと前からデビューしていて、やはりフリー・ジャズに抵抗があるような発言をしていたジャズ・メン、例えばマイルズ・デイヴィスだって同じ方向へやっぱり進んだ。60年代末頃からのマイルズ・ミュージックにおけるリズムのファンク化とハーモニーのフリー化は完全に軌を一にしていたのは、ご存知の通り。

そんなオーネットに師事したブラッド・ウルマーとなると、もう完全に最初からフリー・ファンクをやっている。上でジェイムズ・ブラウンやスライ&ファミリー・ストーンの名前を出したけれど、それらよりも P ファンク軍団のあの音の洪水に、ブラッド・ウルマーは近いかも。

だから P ファンクのファンだと、ブラッド・ウルマーはかなり分りやすく聴こえるんじゃないかと思う。あるいはそれらもろもろのルーツになっている、猥雑でゴチャゴチャしたちような戦前黒人音楽の世界を知っていると、P ファンクもブラッド・ウルマーも、あんなフリー・ファンクは本質的にかなり近いんだと感じることができるはず。

こう見てくると、一般にはジャズのメインストリームとされているかもしれない1940年代半ばのビ・バップから50年代末までのハード・バップはなんだったんだ?むしろあの十数年間の方が、ジャズにとってすら例外だったのであって、すると全くメインストリームではないということになってしまう。う〜ん、しかしこの見方もどうなんだろう?

ブラッド・ウルマーもメジャー・リリースは二枚しかないし、その他のフリー・ジャズ(のなかに一般に分類されているもの)連中のアルバムもインディー・リリースが多く、つまり売れる見込みがないので、大手も契約したがらない。しかしファンクに分類すればもっと売れるかもしれないぞ。ウルマーだって、1970年代以後のオーネットだって。

そんなことがジェイムズ・ブラッド・ウルマーの音楽の本質なんじゃないかと僕は考えている。ワールド・ミュージックと同じような、もっと言えばアフリカ音楽にルーツがあるような、アメリカ黒人ブルーズ由来のフリー・ファンク。ピッチやフレイジングの突拍子もない変態感も、そう感じるのは西洋白人音楽耳になっているからそう聴こえるだけ。リズムのタイトさとファンキーなんかは、どう聴いても間違いなくアフリカ的なファンク。

だからごくごく普通のジャズ・ファンには、ブラッド・ウルマーはやっぱり分りにくく売れないんだなあ。最近は分りやすく聴こえはじめているのかというと、全くその逆で、2010年代以後の現代ジャズ(とその他いろんな音楽)は、西洋クラシック音楽的なものに接近しているようにすら聴こえていて、専門家も一般のリスナーもそれを絶賛するので、ダメだこりゃ。

2017/02/27

諧謔と滑稽〜ビートルズのオールド・ポップ

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イングランド・サッカーに FA カップというものがある。FA はザ・フットボール・アソシエイション(The が必要)の略で、イングランド・サッカー協会のこと。サッカー発祥国なので、イングランドだけは協会名に国名が付かない。FA カップは、日本だと Jリーグ杯(スポンサーがついて旧ナビスコ杯、現ルヴァン杯)が似た位置付けだ。

ご存知の通りサッカーの世界では、ラグビー同様、UK の四ヶ国は別々に活動している。いわゆる英国四協会があって、各国のリーグ戦も別々だし、W杯予選などの国際大会にも四ヶ国別々に出場する。サッカーの世界で四協会合同の連合王国代表チームが存在したのは、僕の知る限り、2012年のロンドン五輪の時だけだ。開催「国」は予選なしで本大会に出場できる、というか「国」代表として出場しなくちゃいけないので、やむをえなかったんだろう。

そんな FA カップの今年2月21日に行われた五回戦で、一部リーグ(プレミア・リーグ)のアーセナルと対戦したイングランド五部リーグのサットンというチームに、ウェイン・ショーという控え GK がいる。この巨漢(体重100キロ以上)GK がアーセナルとの試合中にパイを食べたというので批難の対象となり、所属チームのサットンはショーを解雇したと報道されている。

この一件で、ショーの解雇を撤回してほしいという声が英国内で強くあがっていて、一般のファンばかりかプロのサッカー関係者でも同様だったりする。イングランド代表でも大活躍した往年の名選手ゲイリー・リネカーもその一人で、解雇したサットンを批判するメッセージを送り、自身の公式 Twitter アカウント(@GaryLineker) でも「サッカー界は日ごとに愛情とユーモア・センスを失いつつある」(Day by day football is losing its heart and its sense of humour.)と残念がっている。

どうしてこんなサッカー関連の話をマクラにしているかには理由がある。ウェイン・ショーが試合中にパイを食べたのかどうか本当のところを僕は知らないが、本当だとしたらたとえ控え選手でもあるまじき姿だと僕も思う。本人は「お腹が減っていたから食べただけだ」と説明しているらしい。このコメントも笑えるが、もっと重要なのは、上でも引用したゲイリー・リネカーの発言にもあるように、英国にはこんなユーモア文化が今でもしっかり根付いているんだっていうことだ。そして、それは英国ポピュラー・ミュージックの世界でも同じなんだよね。

ようやく本題に入る。英国最大の人気音楽家ビートルズのなかにも確実に存在する、1920年代のアメリカにあったようなジャジーでユーモラスなオールド・ポップ・チューン。ビートルズはそういうものを模したわけだけど、聴いた感じモロそのまんまというものだって多い。先走って少し言っておくと、それらはアメリカン・ポップというよりも、そのルーツたる英国ミュージック・ホールに繋がっているんだよね。だからその意味ではビートルズは伝統主義者であって、他の1960年代 UK ビート・バンドとは一味違うところだ。

ビートルズのなかにあるそんなオールド・(アメリカン・)ポップ・チューン。1970年の正式解散前までにリリースされていたなかで最も早いものは、1967年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』B 面の「ウェン・アイム・シックスティー・フォー」だろう。これはディキシー・ランド・ジャズだ。
お聴きになれば分るように、この曲のサウンドの中心はクラリネット。たぶん三本入っていて、そのうち一本はバス・クラリネット。このクラリネット・トリオが強烈にディキシー・ランド・ジャズ風な雰囲気、じゃなくってそれそのものを表現し、ポールの書いた曲のメロディも懐古的だ。クラリネット・トリオのアレンジは、ポールではなくジョージ・マーティンが書いたかものかしれない。

読みかじった情報によれば、ポールはこの「ウェン・アイム・シックスティー・フォー」を、ビートルズのキャヴァーン・クラブ時代に既に書いていたらしい。キャヴァーンはビートルズ・ファンには説明不要だが、リヴァプールにあった音楽クラブで、独ハンブルクから戻ってきた1960年代初頭のビートルズも出演していた。

ハンブルク時代にもたくさんポップ・ソングをやっていたみたいで、『アンソロジー 1』の最初のあたりで断片的に垣間見ることができるよね。しかしそこまで突っ込んで話をすると少し面倒くさくややこしいので、今日はやめておく。とにかく独ハンブルク〜英リヴァプール(キャヴァーン)時代のビートルズは、自作か他作かを問わずたくさんのポップ・ソングをやっていた。

1962年にレコード・デビューした頃のビートルズは、やはりロックンローラーであって、それもアメリカの黒人リズム&ブルーズや白人ロックンロール・スタンダードなどを下敷きにしたり、あるいはそのままカヴァーしたりなど、典型的なロッカーという趣が強かった。意図的・戦略的にそうしたのかもしれない。

地球上で売れまくって大成功したあとからのビートルズは、好きなことがやりたいようにできるようになったからということなのかどうなのか、元々彼らのなかにあったオールド・ポップ好き資質を鮮明に出すようになっている。といってもそのずっと前の二作目のアルバムである1963年の『ウィズ・ザ・ビートルズ』には、「ティル・ゼア・ワズ・ユー」があるけれどね。
しかしポールの歌うこの曲は、別にオールド・ポップではない。1957年が初出のものだからビートルズにとってはコンテンポラリー・ヒットだ。それもたぶんポールはペギー・リーが61年に歌って出したレコードが英国でヒットしたのを下敷にしているみたいだからね。だから全く古くはないのだが、しかし曲調はレトロ風のポップ・チューンだよね。

まあでもこれは初期ビートルズでは例外中の例外みたいなものだ。オールド・ポップ志向が鮮明に顔を出すのが、やはり上述の1967年「ウェン・アイム・シックスティー・フォー」からで、この67年というのは、四人がライヴ活動を引退して、スタジオ録音に(ほぼ)専念するようになった年なんだよね。

その後のスタジオ録音アルバム(しかないからさ)ではどんどん増えていく、ビートルズの懐古的オールド・ポップ・ソング。それが最もはっきりと、それも質量ともに表現されているのが1968年の二枚組『ホワイト・アルバム』だ。このアルバムが個人的に最も好きなビートルズ・アルバムだという僕の嗜好は、このせいなのだろうか?そこは自覚がない。

最も露骨なのからご紹介しよう。『ホワイト・アルバム』二枚目 B 面二曲目の「ハニー・パイ」。まずとにかく聴いてもらいたい。
どうです、これ?ロックンローラーが書きやっている曲だとは到底思えないよね。書いたのも歌っているのもポール。なんたって歌本編(リフレイン)の前にヴァースが付いているのが、古式ゆかしきオールド・ポップ・ソングの流儀。しかもヴァース部分では、一節歌うと "Now she's hit the big time!" 部分で突然 SP 盤を再生しているような針音(スクラッチ・ノイズ)まで入っているという手の込みよう。

一応エレキ・ギターのサウンドが薄〜く聴こえるのが効果的ではあるけれど、僕なんかは残念でならない。全編フル・アクースティック・サウンドでやればよかった。リフレイン部分になってポールがピアノを弾きながら歌うと、またしてもクラリネット中心のリード楽器隊が、極めてスムースな、まるでストリングス・セクションかと一瞬聴き間違えそうなほど滑らかなアンサンブルを奏でる。

こんな「ハニー・パイ」は、直接的には20世紀初頭におけるアメリカの古いティン・パン・アリーの作風を模したものかもしれないが、もっと重要なのはやはりこれは英国のミュージック・ホール伝統へのダイレクトなオマージュだということだろうなあ。曲の歌詞の流れはティピカルなミュージック・ホール・プロットだし、メロディ・ラインだってサウンドだってそうだ。

ヴィクトリア朝時代の1850年ごろ、英国で盛んになったらしいミュージック・ホールは、20世紀半ばまでは存在したようだ。アメリカのヴォードヴィル・ショウみたいな大衆娯楽の場で、ポップ・ソングの演唱を含むコメディなどの舞台演芸がメイン。低層労働者階級のためのものだった。

重要なことは米国のヴォードヴィル・ショウがそうだったように、英国のミュージック・ホールもまた、時代の新しいポップ・ソングが産まれる母胎となったということだろう。僕は音楽ファンなので、やはりそこに一番注目している。時代のキャッチーな流行歌が、19世紀後半〜20世紀頭の英国ミュージック・ホールで誕生した。

20世紀に入って少し経つと、アメリカからジャズが流入してきて英国でも一斉を風靡しはじめたので、音楽の新作品を産む場としてのミュージック・ホールの意義は薄くなっていたかもしれない。だがしかしコメディを中心とするユーモア感覚や舞台演芸の伝統は連綿と流れ続けて、以前このブログでも書いたように、1960年代後半〜70年代前半のモンティ・パイスンまでその流れのなかにある。
ビートルズの四人もまたこんなコミカルでポップなミュージック・ホールの伝統の末裔だ。『ホワイト・アルバム』の「ハニー・パイ」はあまりにもダイレクト過ぎるオマージュだけど、それっぽい雰囲気が聴き取れるビートルズ・ソングとなると、かなり数が多いんだよね。それも今日ここまで紹介してきたポールだけでなく、曲を書いた他の二名、ジョンとジョージも持っていたテイストだ。

1966年の『リヴォルヴァー』には、リンゴが歌う「イエロー・サブマリン」があるし、同じくリンゴが歌う同系統の曲としては、録音順ならラスト作である69年の『アビイ・ロード』に「オクトパシズ・ガーデン」があるじゃないか。しかもその『アビイ・ロード』には「マックスウェルズ・シルヴァー・ハマー」があるもんなあ。

「マックスウェルズ・シルヴァー・ハマー」は、歌詞内容だけなら極めて恐ろしい曲だが、メロディと曲調とアレンジされたサウンドは極めてコミカル。この両要素共存で面白くするのが英国ミュージック・ホール由来なんだよね。『アビイ・ロード』ヴァージョンはどうやら YouTube にアップロード不可のようなので、仕方なく『アンソロジー 3』収録ヴァージョンを貼っておく。ちょっとは雰囲気が分ると思う。
ビートルズのなかにある英国ミュージック・ホールの伝統が、1960年代のコンテンポラリーなロックやポップに昇華され最高の音楽作品になっているのが、他ならぬ『アビイ・ロード』B 面の「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マニー」ではじまるあのグランド・メドレーなんじゃないかと僕は考えている。ジョンのいんちきスペイン語が炸裂する二曲目の「サン・キング」以後は全てかなり短い断片のコラージュだけど、曲題といい歌詞といい旋律といいサウンドといい、笑えることこの上なく、しかもポップだ。

その最後にある「ゴールデン・スランバーズ」ではじまる三曲メドレーはかなりシリアスな感じだけど、そのメドレー・ラストの「ジ・エンド」で、三人のギタリスト・ソロ応酬も終ったまさにジ・エンド部分で実に美しく大団円になって、あぁ(録音順なら)ビートルズも綺麗に終ったんだなとシリアスな感慨にひたっていると、しばらく経って「ハー・マジェスティ」が流れちゃうもんね。ポールも余計なことしてくれるよなと、昔は思っていた僕だったのだが。

2017/02/26

失われた世界〜ジャズ・クラリネット

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音楽でも古いものは新しいもののなかに流れ込んでいるんだから、そんなのは新しいもので聴けばいいんだという方もいらっしゃるようだ。この考えが大きな間違いであることを僕は心の底から確信している。新しいものになかに流れ込まず、失われたままになっているものが実にたくさんあって、そういうものは古い録音でしか絶対に聴けない。

ジャズの世界の楽器で言えば、それは例えばクラリネットだ。ジャズ誕生期から1940年代のビ・バップ勃興までは実に頻用された花形楽器の一つだったクラリネット。それがモダン・ジャズ以後は壊滅状態に近い。何人かモダン・ジャズ・クラリネット奏者がいるにはいるが、まあ例外だろう。

ジャズは管楽器音楽だけど、トランペット、トロンボーン、サックスの三管は、ジャズ初期からビ・バップ、フリー・ジャズ、クロス・オーヴァー・ジャンルを経てのち、21世紀の現在でもよく使われる。クラリネットもビ・バップまでは同じだった。いや、リード楽器のなかでは最も重宝される楽器だったと言ってもいい。ある意味サックスよりも重視された。

なんたってニュー・オーリンズ(・スタイルの)・ジャズにサックスはないが、クラリネットはあるもんね。このスタイルのジャズでは、トランペット(コルネット)+トロンボーン+クラリネットの三管編成が最も一般的。これにサックスが入るようになったのは、おそらくビッグ・バンドでやるようになって以後じゃないかなあ。

ジャズのビッグ・バンド第一号は1923年のフレッチャー・ヘンダスン楽団なので、サックスの頻用はこれ以後だ。しかしやはりクラリネット奏者がしっかりいて、ソロも吹く。コンボ編成でも、ほぼ同じ時期のシカゴで、ニュー・オーリンズからやってきたジャズ・メンをお手本にしてやりはじめたディキシー・ランド・ジャズではサックスが入りはじめるが、やはりクラリネット奏者もいる。

ジャズがアメリカ大衆音楽界で最も人気があったのが1930年代後半のスウィング黄金時代だけど、あの頃の最大のスーパー・スターはベニー・グッドマンだ。BG はクラリネット奏者じゃないか。ということは、アメリカでジャズが最ももてはやされた時代の象徴的楽器はクラリネットだったと断言してもいいくらいだ。

そこまで人気があったクラリネットなのに、ビ・バップ以後のモダン・ジャズでは吹く人がガタ減りで、というかほぼゼロに近く、しかしこれは分らないでもない。あの木管楽器の音色はまろやかで丸く柔らかく、シャープさや激しさに欠ける。だからモダン・ジャズのハードさや苛烈さのなかに混じるとついていけないんだよね。これは一部の例外的モダン・ジャズ・クラリネット奏者を聴いても、やはり同じだと実感する。

だから仕方がないんだよね。モダン・ジャズにクラリネットを求めるのは大間違いだ。これはある種の「情緒」「フィーリング」が失われたという意味でもある。失われたまま戻ってこない、取り返せない不可逆変化なので、そんなクラリネットで表現されるフィーリングは、1930年代末までの古い録音で聴く以外ない。録音が戦後でも古いスタイルのジャズでなら聴けるものだけど、やはりなにか少し違うんだ。時代のスポットライトはもはや浴びていないので、輝きが弱い。僕は好きだけど。

そういうわけだから、今日もやはり古い戦前古典ジャズの話になる。この世界には大勢の素晴らしいクラリネット奏者がいる。最大の人気者だったのが上でも書いたベニー・グッドマンで、今ではバカにしかされていないように思うけれど、なかにはかなりチャーミングなソロもあるんだよね。特にビリー・ホリデイの1930年代録音に参加したものなどはいい。

じゃあその話からしようかな。ビリー・ホリデイの戦前コロンビア系録音は CD10枚組で集大成されていて、誰でも簡単に買って聴くことができるのは嬉しい。ありがたいことだが、しかしジャズ・ファンでも案外これを聴いていないみたいだ。そんな嘆きを重ねるのはよしておこう。ベニー・グッドマンのソロがいいという話をしたい。

ベニー・グッドマンがビリー・ホリデイの、というよりも実質的にははテディ・ウィルスンがリーダーのブランズウィック・セッションに参加したのは、ジョン・ハモンドの事実上の命令によるもの。なんたってハモンドは BG の恩人だから断りようがない。1935年7月2日に初参加し、歌手にビリー・ホリデイを起用して四曲録音しているのが、『レイディ・デイ:ザ・コンプリート・ビリー・ホリデイ・オン・コロンビア(1933-1944)』10枚組の冒頭を飾っている。

繰返し言っておくが、それはテディ・ウィルスン名義のブランズウィック・セッションだ。1930年代後半のテディのブランズウィック録音集については、以前も一度詳しく書いたし、その後も折に触れて書いている。スウィング期最高のコンボ・セッション集の一つだとね。しかしマトモな CD リイシューはいまだなし。

テディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションを、本家筋であるコロンビアがちゃんと CDリイシューしているのは、ビリー・ホリデイ参加分だけをビリー・ホリデイ名義で復刻しているにすぎない。コロンビアさん、これはあまりに冷酷な仕打ちじゃないでしょうか?それとも御社は自らの持つ遺産の価値に盲目なのでしょうか?

聴くことが不可能じゃないからまあいいや。特にビリー・ホリデイ参加分だけは、その気になれば入手はたやすい。テディ・ウィルスン名義のセッションでビリー・ホリデイが歌う1935年7月2日録音の四曲。全てベニー・グッドマンのソロが見事だが、特に絶品なのが「ワット・ア・リトル・ムーンライト・キャン・ドゥー」と「ミス・ブラウン・トゥ・ユー」の二曲。 前者は軽快にスウィングするアップ・テンポ・ナンバー、後者はミドル・テンポのバラード調。
レイディ・デイのヴォーカルのポップでスウィンギーな軽妙さも聴いてほしいのだが、今日の話題はベニー・グッドマンのクラリネットだ。「ワット・ア・リトル・ムーンライト・キャン・ドゥー」では、トップ・バッターで猛烈にスウィンギーなクラリネット・ソロを吹く。ドラムスのコージー・コールのブラシ・ワークも絶品だが、当時これほどスウィングして、しかもその上キュートでチャーミングなクラリネットを吹けるジャズ・マンはそう多くなかった(その後五年ほどで急速にダメになるが)。

また「ミス・ブラウン・トゥ・ユー」冒頭部では、ベニー・グッドマンがまず最初、無伴奏で四小節吹くのだが、その部分はこれ以上ない可愛らしさじゃないだろうか。思い出すのは油井正一さんのエピソード。ご自身が書いていたのだが、油井さんはこの四小節に完全にやられてしまい、買った SP 盤でその四小節部分だけを繰返し再生してはニンマリしていたそうだ。

「ミス・ブラウン・トゥ・ユー」では、四小節の無伴奏ソロのあと、リズム・セクションが入ってきてのクラリネット・ソロが続く。その部分もキュートで素晴らしい。それはそうと、ここでもブラシを使うコージー・コールというドラマーは名手だよなあ。今では誰も名前すら憶えていないんじゃないかと思うけどね。

ついでというわけじゃないが、テディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションの話をしたから、同じセッション集で聴けるもう一人のクラリネット名人について書いておく。バスター・ベイリーだ。バスター・ベイリーは1923年時点で既にフレッチャー・ヘンダスン楽団に在籍し、クラリネット・ソロも吹いている。退団が何年かはっきりしないが、同楽団でのソロは、1929年4月録音の「レイジン・ザ・ルーフ」が最後となっている。

その間、フレッチャー・ヘンダスン楽団でバスター・ベイリーがクラリネット・ソロを吹いたものだけ抜き出すと全部で11曲あって、既に立派にスタイルを確立している。1924年に在籍したルイ・アームストロングとソロで競うというものは「コペンハーゲン」一曲のみだが、コールマン・ホーキンス、ジョー・スミス(コルネット)といった名人たちに一歩も引けを取らない。以下は1928年版「キング・ポーター・ストンプ」。この曲は同楽団でもその後なんども録音しているので、要注意。
そんなバスター・ベイリーもまた、テディ・ウィルスンの1930年代後半のブランズウィック録音に呼ばれた一人だった。オール・スター・セッションだから呼ばれた名人が実に多くて、キリがない話ではある。クラリネット奏者だけに限定しても、バスター・ベイリー、上述のベニー・グッドマン以外にも、ルディ・パウエル、ピー・ウィー・ラッセルなどなど。

テディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションにおけるバスター・ベイリーは、1936年と37年に全部で16曲参加している。それらのなかでもバスター・ベイリーのクラリネットがこれ以上なく湿った独特の情緒を表現する最高傑作が、1936年5月14日録音の「ブルーズ・イン・C・シャープ・マイナー」だ。
どうですこれ?このクラリネット・ソロなんて、もうこんな情緒というか世界は、ジャズ界から消えてなくなってしまったよ。チュー・ベリーのテナー・サックス・ソロもいいが、バスター・ベイリーのクラリネット・ソロで聴ける、このなんというか、しゃくりあげながら泣いているような、こんなフィーリングは、絶対に古い録音でしか聴けないものだ。どこが「新しい音楽に流れ込んでいる」もんか。

え〜っと、まだベニー・グッドマンとバスター・ベイリーの話しかしていない。それもテディ・ウィルスンのブランズウィック録音集で聴けるものしかとりあげていない。戦前古典ジャズの世界には本当に多くのクラリネット名人がいて、この二名以外で僕が特に好きな三名は、名前をあげておくだけにしよう。ジミー・ヌーン、ジョニー・ドッズ、バーニー・ビガード。最高の名手たちだ。

この三名のうち、バーニー・ビガードはデューク・エリントン楽団で大活躍したので、今でも人気があるはずだ(が?)。名演がいっぱいあってこれもキリがない。同楽団でバーニー・ビガードが特に輝いていて、それもエリントン・アレンジの素晴らしさとあいまって、最高に聴き応えがあるものの音源を貼るだけにしておこう。1934年1月9日録音の「ストンピー・ジョーンズ」と、1940年3月6日録音の「ジャック・ザ・ベア」。
特に後者「ジャック・ザ・ベア」では、エリントンが書いた音の壁のようにせりあがってくるアンサンブルに、バーニー・ビガードがクラリネット一本で対抗するあたり、アレンジもいいがソロも見事だ。「ストンピー・ジョーンズ」にかんしては、コンボ編成でやった1936年12月19日録音(アルバム『ザ・デュークス・メン』収録)の方がもっといい。あるいはそれはバーニー・ビガードの生涯最高名演かもしれない。
あぁ〜っ、ジミー・ヌーンとジョニー・ドッズのことは一言も書けなかったじゃないかぁ。大好きなのに。二人とも戦前古典ジャズ界のクラリネット奏者のなかでも特にブルージーで、実際楽曲形式もブルーズが多く、ジャズ・ファンよりもむしろブルーズ・ファンのあいだで愛聴されているかもしれないね。

僕がルイ・アームストロングの戦前オーケー録音集では、絶頂期と衆目の見解が完全に一致している1928年よりも、その前の1925〜27年の方がもっとずっと好きなのは、ジョニー・ドッズがいるからだというのも理由の一つなんだよ。もちろんそれだけではない。そんなサッチモの1925〜27年録音については、また別の機会に改めることにしよう。

2017/02/25

ファド歌手が再認識させてくれたボサ・ノーヴァの特性

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『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』。かなりいいじゃないか。しかしこれはボサ・ノーヴァじゃなくてフィーリンのアルバムなんじゃないだろうか?というかまあ、ボサ・ノーヴァはブラジル版フィーリンみたいなものなわけだから、同じことかもしれないけれど。ポルトガルのファド歌手カルミーニョがアントニオ・カルロス・ジョビンのソングブックをやって、ボサ・ノーヴァの持つフィーリン的本質を剥き出しにして見せてくれたということなのか。

ファド歌手がボサ・ノーヴァに挑戦するなんて、どう考えても失敗作に終るとしか思えなかった。これは誰でも想像がつくはず。ポルトガルのファドは強く張りのある声でグリグリと濃厚なコブシ廻しで歌う、まるで情念を思い切りぶつけるようなもの。一方それに対しボサ・ノーヴァはサラリと軽く朴訥に、まるで喋っているかのようなシロウト唱法みたいなもので歌う。

これは例えばアマリア・ロドリゲスとジョアン・ジルベルトの歌い方を比較すれば、誰でも即座に納得できる。ファドとボサ・ノーヴァっていうのは、いわば対極の美学を持った水と油のようなもの。それに元は同じ言葉だとはいえ、ポルトガルの言葉とブラジルの言葉も、いまや発音が少し違ってきている。後者の方はいまやブラジル語と呼びたいくらい。

ブラジル語と書いていま思い出したので、またまたいつものように脱線。1995年にネットをはじめた頃、ある Mac 関係のフォーラム会議室で、ある方が「ブラジル語は…」云々と書いたことがあった。これに大勢から当然のように一斉にツッコミが入った。「ブラジル語ってなんだよ?ポルトガル語だろ!」ってね。ブラジル語と書いた方を擁護したのは僕だけだった。

そんなわけで言葉の発音も(少し)違えば、音楽性なんかもはや完全に真逆であるとしか考えられないポルトガルのファドとブラジルのボサ・ノーヴァ。だからファド歌手がアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌った企画物アルバムなんてちょっとね…、というのが正直な気持だった。今年年頭に荻原和也さんが『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』をブログで書いていらして、僕もコメントしたんだけど、それでもやはり半信半疑だった。

『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を買ったのは、エル・スールさんの Twitter アカウントがこれをツイートしていたからだ。僕の邪推かもしれないが、入荷していてホーム・ページにも掲載済のものをエル・スールさんがツイートする時は、それは売れ行きが芳しくないものなんじゃないかなあ。

だって人気商品で、しかも極少数しか入荷していないものなんか、ホーム・ページに掲載すらされず一瞬で売り切れてしまうみたいじゃないか。元々そんなにたくさん数が確保できないものも多いということと、やっぱりあれだなあ、渋谷にあるエル・スールの路面店に足を運ばないとダメな場合がたくさんあるんだろう。どうもそういう面があると見受けられる。

かといって今の僕に、一部の熱心なエル・スールさんの顧客の(ほぼ)オジサン方みたいに、毎日のように渋谷の路面店に通って入荷商品をチェックするなんて不可能。だから後回しにされているような気がしないでもないのだが、通販客は通販客なりに買えるものだけ買っていくしかないね。

そんなエル・スールさんが、売れ行きが芳しくないということでだったのかは分らないがツイートしていた『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』。荻原和也さんのブログで読んで知っていたので、勢いみたいなものでつい Twitter 上で買ってしまっただけなのだ。ほとんど期待はせずに。

届いた『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を一聴して僕が感じたのが、最初に書いたようにこれはフィーリン・アルバムなんじゃないかということ。そう感じた一番直接的な理由は聴こえてくるチェロの音、しかもソロを弾く部分だ。このチェロの音、弾き方はよ〜く知っているぞ、あれだ、カエターノ・ヴェローゾの『粋な男』『粋な男ライヴ』で聴き馴染のあるあれだよね、と思ってブックレットをその時初めて開いたらビンゴだった。ジャキス・モレレンバウムだ。

しかしジャキスのチェロだから、それがカエターノ・ヴェローゾのフィーリン・アルバム『粋な男』で聴けるものだから、それで『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』がフィーリン作品だと感じる僕もかなりオカシイといえばオカシイ。なぜならジャキスは元々ジョビン一家と関わりの深い音楽家だからだ。

ジャキスは早い時期にアントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムでアレンジャーもやっているし、また1995年にはアントニオの息子パウロ・ジョビン、その息子(つまり孫)であるダニエル・ジョビン、さらにジャキスの妻パウラ・モレレエンバウムもくわえ、自分との計四名でカルテート・ジョビン・モレレンバウムを立ち上げて、しばらく活動していた。

だからジャキスは、カエターノ・ヴェローゾとの仕事でたぶん有名になっているアレンジャー兼チェロ奏者かもしれないが、まずはジョビン一家と関わりの深いボサ・ノーヴァ側の人間だと言うのが正しいのかもしれないんだよね。あるいは『粋な男』の前からジャキスと連携していたカエターノも、ジャキスのそんなボサ・ノーヴァ的資質のなかにフィーリン的な要素を感じ取って、というか元々この二つは似たような音楽だからというので、やはりタッグで『粋な男』を制作したのかもしれないね。

ボサ・ノーヴァがブラジルにおけるフィーリン・ムーヴメントみたいなものだというのは、いまさら僕が説明しなくてもいいはずだ。ボサ・ノーヴァ勃興前のサンバ・カンソーンから引き継いで、それをフワッと軽くて柔らかい調子の力まない歌い方でやってみたのがボサ・ノーヴァ。だからボサ・ノーヴァは、ジャンル名というよりも、ある種のスタイルでしかない。

その意味ではボサ・ノーヴァは、北米合衆国のジャズと少し似ている。ジャズもまた特定の曲の様式を指すものやジャンル名ではなく、どんな曲でもとりあげてやってみせる演奏の「方法論」でしかないのだ。だからこそあんなにコロコロとスタイルが変遷してきたわけで、全ては「どうやるか」という一点にのみ力点がある。ルイ・アームストロングもチャーリー・パーカーもマイルズ・デイヴィスもその他も、みんな特定のジャズ楽曲ではなく、ちまたの流行歌、すなわちポップ・ソングをやって、その結果ジャズになった。なんでも演奏できる、全てはジャズ流儀でやる、それがジャズの強みであり弱みでもある。

ジャズはどうでもいい。ボサ・ノーヴァもこの名称通り新しいやり方ということでしかない。サンバ・カンソーンや、その前のサンバなどと本質的には違いがないような「新感覚」というだけだ。その新しい感性は、ボサ・ノーヴァよりほんのちょっと前からキューバで流行していたフィーリンと同じものだと僕は思うんだよね。僕は、というかたぶん全員そう思っているんじゃないかなあ。

キューバのフィーリンも軽くてフワッとした新しい感覚での歌い方、感じ方のことであって、とりあげる曲に特定のしばりはない。キューバやラテン・アメリカ諸国の歌曲であればなんでも歌って、それをソフトで甘い感じでやって、それが結果的にフィーリンとして流行して、この名前で認知されるようになった。

ただボサ・ノーヴァとフィーリンのあいだには違いもある。僕の感じるところ、最大の違いは甘美さ、いや、もっと言えば官能美だ。それがフィーリンにはあるけれど、ボサ・ノーヴァには薄い。ボサ・ノーヴァは露骨にセクシャルな感じは強調しない。むしろそんなものをサラリとうまくかわすというか流してしまう。

一方フィーリンには、やはりキューバの、というかラテン歌曲らしい甘い官能美がある。例えば、またカエターノ・ヴェローゾの『粋な男』に言及するけれど、あのアルバムには二曲のタンゴ歌曲がある。タンゴなんてのは官能の極地みたいな音楽美であって、男女間のそういう行為をはっきり音(とダンス)で表現する。

カエターノ・ヴェローゾも『粋な男』でやっている二曲のタンゴ・ナンバーでは、思い切りセクシーさを振りまいているじゃないか。そんな歌い方だよね。そしてそれら二曲ともジャキス・モレレンバウムが、これまたセクシーなことこの上ないチェロ・ソロを弾く。そんな要素がフィーリンにはある。そしてボサ・ノーヴァにはほぼない。

ここまでお読みになってくれば 、『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を聴いて僕がなにを感じたのか、もはや言葉を重ねる必要もないだろう。一曲目の「ア・フェリシダージ」ではもっぱら歌伴のオブリガートのみだけど、次の二曲目でジャキスの官能チェロがソロを弾くんだよね。その後も同じようなチェロ・ソロが頻繁に顔を出す。

カルミーニョの歌い方も、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲をボサ・ノーヴァとして歌っていると考えようとすると、やはりファド歌手っぽい力み、粘っこいコブシ廻しがあってあれだし、しかしファドとして聴くにはタメもダイナミクスもなく深みを欠いている。ボサ・ノーヴァでもないファドでもないし、なんじゃこりゃ?となってしまうだろう。

ところがしかし、ジャキス・モレレンバウムのやや官能色のあるチェロ・ソロ(まあチェロの音は誰が弾いてもいつもそうじゃないかと突っ込まれそうだが)に導かれ、カエターノ・ヴェローゾの『粋な男』みたいじゃないかと連想した次の瞬間から、僕はこれはいいアルバムだ、聴ける、それもフィーリン作として、となったんだよね。

ファド歌手としては深みが足りないカルミーニョだけど(萩原さんは「ペケを付けてた」と明言)、そこは一応ファドの分野でプロとしてやっているというだけの色気はある。深みが足りないその足りなさ加減が、ジョビンを歌ってフィーリンとして聴かせるにはちょうどいい感じの適度な色っぽさなんだよね。ボサ・ノーヴァだと思うとやや粘っこすぎるんだけど。

なお『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』の伴奏バンドは、ジャキス以外、上述のギターのパウロ・ジョビン、ピアノのダニエル・ジョビンと、ドラムスがパウロ・ブラーガ。つまりこれはアントニオ・カルロス・ジョビン晩年のバンドであるバンダ・ノーヴァ(とブックレットに明記されている)なんだよね。またマリーザ・モンチなどゲスト・シンガーが計三名参加して、 一曲ずつカルミーニョとからんでいる。マリーザ・モンチとやっている三曲目は、ニーナ・ベケールもドローレス・ドゥラン集でカヴァーしていた。

2017/02/24

マイルズによるアクースティック・ジャズの極北

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マイルズ・デイヴィスが、ハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズという最強リズム・セクションにくわえ、この三人を初起用した1963年には既に注目していたサックス奏者ウェイン・ショーターをようやく正規メンバーに迎えて初めてスタジオ録音したのが、1965年1月の20〜22日。この三日間で録音された七曲が『E.S.P.』になった。

レギュラー・コンボでのスタジオ新作録音は、それがなんと四年ぶり。ようやくこのセカンド・クインテットの活動が本格化する…、はずだったのだが、そうはならなかった。理由はボスであるマイルズの健康状態の悪化。股関節痛で手術を受け人工関節につけかえたりなどして、入退院を繰返すことになってしまったため、1965年は年頭に『E.S.P.』一枚分を録音しただけで、一年間実質的にマイルズ・バンドは解散状態だった。

サイド・メンの四人は若く健康に問題もなく、音楽意欲にも満ち溢れていたので、この状況はなんとも歯がゆいものだったはず。それでこの1965年に、ウェイン、ハービー、ロン、トニーの四人が、他のジャズ・メンと様々なかたちでブルー・ノート・レーベルで展開・録音したものが、いわゆる新主流派と呼ばれるものになったのだ。

つまり1965年にマイルズの健康状態が悪化しなかったら、ブルー・ノートのあの一連の新主流派ジャズは誕生しなかったかもしれないんだよね。病床にあったボスのマイルズもああいった録音のことは知っていたんじゃないかなあ。一部、聴いてもいたはずだ。聴いて、俺も早く戻りたい、この四人をフル活用したいぞと思っていたに違いない。

マイルズの復帰が実現したのが1965年の11月中旬あたりだったらしい。ジャズ・クラブなどでのライヴ活動がその頃再開されたらしいのだが、65年11月のライヴ録音は、公式でもブートレグでも存在しない。65年末の復帰後初録音が12月22日と23日、シカゴのプラグド・ニッケルでやったライヴだ。しかしこれがなぜだか当時はお蔵入り。

1975年の来日時に受けたインタヴューでも、「65年にシカゴでやった凄いのがあるんだよ、全部お蔵入りしたままなんだ、ティオ(・マセロ)に聞いてくれ、彼が全部知っているから」とマイルズは発言している。そんなプラグド・ニッケルのライヴ音源がこの世で初めてリリースされたのは1976年。しかもそれはまず日本でだけだった。二枚バラ売りの LPレコードで『アット・プラグド・ニッケル、シカゴ』の Vol.1(写真左)と Vol.2(写真右)。

僕がジャズ・ファンになったのは1979年なので、その CBS ソニーによる76年のレコード発売はリアルタイムでは知らない。しかしマイルズ狂になってすぐにレコード・ショップ店頭でこの二枚を見つけ、その近未来的(?)ジャケット・デザインに強く惹かれて即買い。でも中身がマイルズの言う「シカゴでやった凄いやつ」だとは露知らず。ところであのジャケット・デザインは二枚とも IC チップだよね。79年か80年頃の僕は、雑誌などで写真を見たことがあるだけだったが、IC チップだろうなと分っていた。

LP 二枚のプラグド・ニッケル・ライヴ。しかしこれがなかなか CD リイシューされなかった。僕の記憶ではまず最初に出たのが日本のソニーによる『ザ・コンプリート・ライヴ・アット・プラグド・ニッケル 1965』で、1992年の発売。CD で六枚組。これぞ長年待ち望んでいたもので、僕も喜んで即買いし聴きまくっていたら、三年後の95年にアメリカのレガシーが同じタイトルのボックスをリリースし、しかもそれは CD 七枚組(Discogs の「八枚組」との記載は間違い) だったのだ。

あれれっ?と思って調べてみると、日本盤ボックスの六枚組には短めに編集されているトラックが複数あって、米レガシー盤ボックスは、それを全て演奏時の元通りのコンプリート状態に戻したので七枚組になっていると判明。じゃあそっちも買わなくちゃと、お財布事情的には涙しながら僕も買った。というわけでマイルズのプラグド・ニッケル完全盤ボックス、僕の手許には六枚組日本盤と七枚組米盤の両方がつい昨年まであったのだ。

真の意味でのコンプリート盤であるレガシー盤七枚組の方だけでいいなと思っていたら、昨2016年、このライヴの完全盤ボックスが中古でも高値で入手が難しいと嘆くジャズ・ファンの方が Twitter 上にいらっしゃったので、じゃあ本当は不完全だけど、日本盤六枚組の方でよければさしあげますよと僕は言った。

するとその男性ジャズ・ファンの方は「えぇ〜、本当ですか!うれしいです、でもとしまさんに悪いなあ、もらっちゃっていいのかなぁ、どうしよう…」などといつまでも態度を決めず、いくら待ってもはっきりした返事がもらえなかったので、僕は諦めて他の方にお譲りしたのだった。

その態度を決めなかったジャズ・ファンの方はそれが初めてじゃなかった。ビル・エヴァンス・トリオによる例の1961年ヴィレッジ・ヴァンガード・ライヴ完全盤ボックス CD 三枚組にかんしても、これはもう入手できないと嘆くので、じゃあ僕はそれを持っているけれど、もはや死ぬまで聴くことはありえないと思うので(エヴァンスがもはやどうでもいいので)さしあげますと言ったら、やはり態度を決めなかった。

いつまでもウジウジ・グダグダしている態度の人間が、女性だろうと男性だろうとなんだろうと僕は一番大嫌い。ほしい気持があるなら二つ返事で「是非ください」、いらないなら「必要ありません」と即決即断で言ってくれる人が好きなんだよね。煮え切らない態度が相手をイライラさせ違う結果を招くのは、恋愛だけじゃないよね。

そんなわけで、別のある(特別ジャズ・ファンではない)音楽リスナーのところへ行った、僕の持っていた日本盤六枚組のマイルズによるプラグド・ニッケル・ライヴ完全箱。だから現在、僕の手許には米レガシー盤完全箱七枚組と、あとは抜粋的ベスト盤みたいなものが三種類ある。ベスト盤三つのうち二つはほとんど聴いた記憶がない。

一つは1990年にアメリカでリリースされた『クッキン・アット・ザ・プラグド・ニッケル』。これは87年にオランダで CD になっていたものらしいが、その時、僕は気付いていなかった。この一枚ははっきり言ってどうしようもない内容で、テオ・マセロ本人がプロデュースしたとなっているのが信じられないほどだ。僕は買ってから一度も聴いていない可能性がある。

もう一つは1995年に米レガシーが七枚組完全ボックスをリリースしたのと同じ年に、その抜粋的一枚物として出た『ハイライツ・フロム・ザ・プラグド・ニッケル』。これはなかなかよくできた内容だ。重要で優れた演奏はほぼ漏らさず収録され、全部で六曲、計73分以上あって、七枚組完全盤なんてとおっしゃる向きにはオススメできる…、かもしれない、普通の意味では。

しかしここにもっとオススメできるものがあるのだ。マイルズの1965年プラグド・ニッケル・ライヴを、いまや入手が困難な完全箱ではなく抜粋的ベスト盤で入手したい、手っ取り早く、しかし重要で優れた演奏を外さず、この時のライヴの様子を知りたい、そしてさらに僕なんかにとってはこれが一番大きな理由だが、1976年リリースのアナログ二枚で聴いていたその記憶を蘇らせてもう一度味わいたいという、そんななんでもかんでも叶えてくれる夢のようなものがあるんだなあ。

それは日本のソニーが2014年にリリースした CD 二枚組『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』。この二枚組のジャケット・デザインは、アナログ時代二枚のうち Vol.1のものをそのまま採用。封入されている紙を開くと、Vo1.2のジャケットも、そして二枚ともの裏ジャケットも掲載されている。中山康樹さんの書いた解説文が載っているけれど、それはどうでもいいようなものでしかない。だいたいあの程度の字数ではクリティカルなことはなにも書けないだろう。

せっかくのアナログ盤二枚の再発的意味合いの二枚組 CD なのに、どうして中山さんにもっと字数を与えてしっかり書かせてあげなかったんだ?と思わないでもないが、これは仕方がないのだ。2014年の『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』は、<ジャズコレクション1000>という廉価盤シリーズの一環としてリリースされたもので、だからライナーなんかにお金はかけられない。
しかし内容的は『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』、今まで出たマイルズの1965年プラグド・ニッケル・ライヴのベスト盤では最も優れている。上記一枚物『ハイライツ・フロム・ザ・プラグド・ニッケル』が全六曲で約73分だったのに対し、『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』は全十曲で計107分。しかも『ハイライツ・フロム・ザ・プラグド・ニッケル』にある曲は、「マイルストーンズ」一曲を除き全て『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』にもあるのだ。

しかも『ハイライツ・フロム・ザ・プラグド・ニッケル』での収録曲は、繋がり具合と収録時間を考えてのことなのか、どの曲も最終盤で微妙にフェイド・アウトする。これがちょっとね。それさえなければこっちも推薦対象になりうるのになあ。特に後述する23日の「ソー・ワット」はプラグド・ニッケルのマイルズで一番凄いものなのに、やはり尻尾がなぁ。音がかなり小さくなっていて、これはイカン。

さらに、1976年のアナログ盤二枚のリイシュー的 CD だみたいなことを書いてきているが、ジャケット・デザイン、収録曲、曲順など全てアナログ盤通りでありながら、しかし一部内容が異なっている。アナログ盤ではやや短めに編集されていた曲が、演奏時そのままのコンプリート・ヴァージョンに差し替えられて収録されているんだよね。CD だからこそのメリットだ。

そんなわけで、マイルズの1965年プラグド・ニッケル・ライヴにかんしては、完全箱七枚組を買うのでなければ、日本盤 CD 二枚組の『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』以外に推薦できる選択肢がない。これこそ最高のベスト盤なのだ。僕みたいな人間だって七枚組をそういつもは聴いていない。というかほぼ不可能だ、そんなサイズは。計七時間以上、部屋のなかで流し聞きにする BGM として心地良いような音楽でもないからね。

だから僕だって普段集中して聴くマイルズのプラグド・ニッケルはこの CD 二枚組『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』だけだもんね。さて CD でも二枚であるこのライヴ。一枚目と二枚目とで明快な編集ポリシーの違いがあるようだ。それはアナログ時代から僕も感じていた。

『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』の一枚目はアップ・テンポのハードで壮絶なものが中心であるのに対し、二枚目はゆったりとしたバラード演奏が中心。ってことはつまり、1964年2月12日のニュー・ヨークはリンカーン・センターでのライヴが、『”フォー”&モア』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』に分割収録されたのと同じ編纂ポリシーだ。

二枚とも素晴らしい『”フォー”&モア』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と比べると、『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』では、一枚目が壮絶に素晴らしいのに対し、二枚目のバラード・サイドはイマイチだ。どうもダラダラしていて締まりがない、はやや言いすぎかもしれないが、緊張感やメリハリが薄いように僕は感じる。

それに対し『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』一枚目のアップ・テンポなハード・ナンバーは本当に凄い!これは掛け値なしにそう断言できる。これほど猛烈なドライヴ感があって、しかも崩壊寸前のギリギリの線で踏みとどまっていながらも、しかし一部フリー・ジャズ的アヴァンギャルドさにまで入り込もうとしているアクースティックなマイルズ・ミュージックは他には存在しない(つまりエレクトリックでなら他にいくつもあるという意味ではあるが)。

『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』一枚目収録の五曲のうち、一曲目の「ウォーキン」、二曲目の「アジテイション」、四曲目の「ソー・ワット」がそんなようなものだけど、一番とんでもないのが「ソー・ワット」だ。アナログ盤時代は Vol.1の B 面二曲目だった。それを大学生の時に聴いて、なんじゃこれ!と口あんぐりで絶句した僕。ホント凄いんだよね。
これをお聴きいただければ、僕がなにも説明する必要はないと思う。ボスのトランペット・ソロはやや激しいとはいえ、まだ通常のモーダル・ジャズだ。しかし二番手で出るウェインのテナー・サックス・ソロ、その後半部から爆発しはじめているドラムスのトニーが、三番手で出るハービーのピアノ・ソロを無理矢理制して自分のドラムス・ソロへなだれ込むあたりのスリルと緊張感は満点だ。

トニーはウェインのテナー・サックス・ソロの過激さに刺激されて盛り上がってしまったのが、聴いているとよく分る。ウェインのソロも決してフリーではなくモーダルだけど、アヴァンギャルドな短いパッセージを繰返し畳み込むように何度も吹き重ねることによって、実質的にはフリー・ジャズ一歩手前みたいに聴こえるソロになっている。トニーは自らのリーダー作では『スプリング』みたいなのを録音済だった人物だから、ああなってしまうのは当然なのだ。

音楽生涯を通し、先端的で時代を形作ってきた音楽家であるように考えれられているマイルズだけど、実はかなり保守的だったというのが実態で、特にアクースティックなジャズをやっていた時期で、なおかつライヴ公演時には従来路線を踏襲することがほとんどだった。そんなマイルズの唯一の例外がこのプラグド・ニッケル・ライヴ。これはもはやアクースティック・ジャズの極北だ。『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』を是非買ってほしい。1500円もしないんだから。

2017/02/23

ロック・ファンのみなさんにオススメするジミー・リード

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なんでもかんでもローリング・ストーンズに話をからめるのもどうかとは思うけれど、なんたって大人気ロック・バンドだからね。しかも現役活動中。だからとっかかりとして上手く利用すれば、アメリカ黒人ブルーズの世界への格好の入口になって、聴く人が増えるかもしれないじゃないか。

というわけで、これまた昨2016年暮れリリースのストーンズの最新作『ブルー &ロンサム』。これのなかには一曲だけジミー・リードのカヴァー「リトル・レイン」がある(10曲目)。だからあのストーンズのアルバムが快作だったと感じた(方が多かったみたいだ)ロック・ファンのみなさん、ジミー・リードもちょっと聴いてもらえませんか?ジミー・リードの「リトル・レイン」はこれ。
ストーンズがジミー・リードに注目したのは、なにも昨年はじまったことなんかじゃないよ。ストーンズはそもそものスタートからジミー・リードの強い影響下にあって、初期からカヴァーもしている。そのあたりはおそらくみなさんご存知のはずなので、詳しく書く必要もないのかなあ。

それにしては熱心なストーンズ・ファンでルーツまで追いかけているのではない、ごくごく普通のストーンズ・ファンやロック・リスナーの方が、ジミー・リードの名前を出して熱心に話をしているところに遭遇することは少ない。ストーンズだけでなく多くの1960年代 UK ビート・バンドには大きな影響力を持っていた黒人ブルーズ・マンなんだけどね。

やっぱりストーンズに限りちょっと書いておこう。デビュー当時からライヴ・ステージではジミー・リード・ナンバーをたくさんやっていたらしいストーンズ。現在確認されているだけでも、「エイント・ザット・ラヴィン・ユー・ベイビー」「 ザ・サン・イズ・シャイニング」(これは1969年のオルタモントでもやっている)「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」「シェイム、シェイム、シェイム」がある。

これらのうち、最後の「シェイム、シェイム、シェイム」は「リトル・バイ・リトル」と改題されて、1964年2月発売のシングル盤「ナット・フェイド・アウェイ」の B 面曲となった。つまりパスティーシュなんだよね。それがそのまま一番最初のアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』(英)or『イングランズ・ニューウェスト・ヒット・メイカーズ』(米)にも収録されたのだ。

しかもこのストーンズのファースト・アルバムには、英米盤ともにもう一曲ジミー・リード・ナンバーがある。それは「オネスト・アイ・ドゥー」。こっちは「リトル・バイ・リトル」と違って、そのままの曲題でジミー・リードの名前もクレジットしている。ジミー・リードの模倣スタイルでやったストーンズのオリジナル楽曲となると多すぎて、とても話題にすることなんてできない。

そんな具合なので、初期ストーンズのルーツとなったアメリカ黒人ブルーズでは、マディ・ウォーターズとハウリン・ウルフあたりは非常に頻繁に話題にあがるけれども、それと同じくらい、あるいはむしろジミー・リードから受けた影響の方が大きかったのでは?と言いたいくらいなんだよね。でもあまり話題になっていないなあ。ストーンズの連中はそんなルーツ・リスペクトと情熱を全く失っていないことが、昨2016年暮れの『ブルー&ロンサム』でジミー・リードをカヴァーしたことでも証明されたってわけ。

さて、ジミー・リード本人の話を書かちゃくちゃいけないが、それにしてもジミー・リードってワン・パターンではある。二つ・三つ、スタイルがあると書いている文章も見るけれど、僕の聴く限り、およそ全部歩くようなゆったりしたテンポでのブギ・ウギ・パターンで、それしかない。じゃあ CD で一枚全部とか二枚とか続けて聴いて飽きるのかというと、そんなことはなく楽しめるという不思議なブルーズ・マンだ。

ジミー・リードの重要な録音歴はヴィー・ジェイ・レーベルのみと断定して差し支えない。まず最初チェス・レーベルと契約しようとしたらしいのだが果たせなかったので、もっとずっと新興のヴィー・ジェイに録音することになった。ヴィー・ジェイは1953年設立の会社で、直後からジミー・リードは録音し、レコードを出している。

ヴィー・ジェイがリリースするジミー・リードのブルーズ・レコードはかなり売れて、1950年代後半では最大の黒人ヒット・メイカーの一人になったので、契約しなかったレナード・チェスは悔しがったんじゃないかなあ。ビートルズと契約しなかった英国のどこかのレコード会社同様に。それほどジミー・リードのレコードは売れた。

ヴィー・ジェイはジャズのレコード・アルバムもたくさん出しているし、またこれは一種の暗黒史としてビートルズ・ファン、特にアメリカの関係者は闇に葬り去りたいかもしれないが、ビートルズのレコードをアメリカでまず最初にリリースしたのはヴィー・ジェイだよね。キャピトルが出さなかったためだ。

1966年にヴィー・ジェイは倒産してしまう。ジミー・リードはそうなるまでずっとこのレーベルに録音し続けた。倒産によって他社に移ったのだが、ヴィー・ジェイ時代のようなヒットを放つことはできず、その後、例のアメリカン・フォーク・ブルーズ・フェスティヴァルでヨーロッパ巡業などもやってはいるが、もはや輝きは失われていた。

そんなわけでジミー・リードとはすなわちヴィー・ジェイ。これが全てだ。全部で何曲あるのか僕は知らない。持っていないと思う。僕が普段よく聴くジミー・リードの録音集は、アメリカ黒人音楽ばかり復刻している英国のレーベル Charly が出した(リリース年はどこにも明記がない)CD 二枚組『ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ・ジミー・リード』。

チャーリー盤『ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ・ジミー・リード』は、1953〜65年のヴィー・ジェイ(原盤だとのクレジットはないが分っている)録音が全部で40曲。このブルーズ・マンの代表作、ヒット作は全て揃う。パーソネルや録音年月日などのクレジットが一切ないが、いまの僕にはこれで充分。

この二枚組『ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ・ジミー・リード』を通して聴くと、やはりジミー・リードはワン・パターンなブルーズ・マンなのだ。上で書いたようにのんびり歩くようなテンポでのブギ・ウギばかり。かな〜り緩い、というか気怠いような雰囲気の曲調で、エレキ・ギターがゆったりブギ・ウギ・リフを弾く上に、ジミー・リードの決して激しくないヴォーカルとハーモニカが乗っかっている。

特にハーモニカは個性的だ。ブルーズ界で10穴ハーモニカ、いわゆるブルーズ・ハープ(は元はホーナー社の10穴ハーモニカの商品名だが、要は普通名詞化した「ホッチキス」みたいなもの)を使う際は、セカンド・ポジションというものを使う。曲のキーが E なら A のブルーズ・ハープ、すなわち四度上のものを使うのだ。そうするとブルージーな吹き方がやりやすい、というかブルー・ノート・スケールがやりやすい。

あっ、10穴ハーモニカの世界をご存知ない方がいらっしゃるかもしれないので、これも説明しておかなくちゃいけないのかな。10穴ハーモニカ、いわゆるブルーズ・ハープは一個一個キーが決まっている。ギターやピアノみたいに(平均律での)転調が容易な楽器ではないのだ。ピアノはそもそも平均律でどんなキーの曲も簡単に、つまり別の(純正律チューニングの)鍵盤に移動しなくても弾ける楽器として発展したもの。

ブルーズ・ハープはそれができないので、曲のキーに合わせ楽器もそのキーに合わせたものに持ち替えなくちゃいけない。普通はキーが C なら C のハープという選択(ファースト・ポジション) になるけれど、ブルーズの世界でのハーピストは、上述のようなセカンド・ポジションを頻用するのだ。その他マイナー(短調)の曲をやる際のサード・ポジション(キーの二度下の楽器を使う)もある。

ジミー・リードのブルーズに、少なくとも僕の知る限りマイナー・ブルーズはない。ってことは彼もまたセカンド・ポジションなのかというと違うのだ。ジミー・リードはファースト・ポジションを選択し、曲のキーと同じキーのブルーズ・ハープを使っているように僕の耳には聴こえる。

ファースト・ポジションだとブルージーな吹き方ができないということはないけれど、セカンド・ポジションでやった時のような雰囲気は出しにくい。ファースト・ポジションがどんな感じかというと、例えばストーンズの『メイン・ストリートのならず者』にある「スウィート・ヴァージニア」。あれでミック・ジャガーが吹くハープはファースト・ポジション(キーは A) だ。少なくとも僕はそうじゃないとコピーできなかった。
お聴きになれば分るように、これはカントリー・ナンバーだ。ファースト・ポジションで吹くブルーズ・ハープはこんな感じになるんだよね。ブルーズ・ナンバーでどうして曲のキーの四度上のセカンド・ポジションを使うのかというと、ファースト・ポジションではブルー・ノート・スケールが極めて吹きにくいからだ。セカンド・ポジションにしただけでそれが吹きやすくなる。というか吹くより吸う方がメインになる。

ところがジミー・リードは自分のブルーズ・ナンバーでファースト・ポジションのブルーズ・ハープを使っている。だから強烈に泥臭いフィーリングにはなっていないんだよね。同じキーのハープではブルーズ・スケールが(ほぼ)吹けないから当然だ。ブルージーな感じに代って、ジミー・リードの場合、高音部でベンドしながら、飄々としてのんびりのどかな雰囲気を出している。

そんな曲がいっぱいあるけれど、一つご紹介しよう。ジミー・リードの曲のなかで、あるいはこれが最も有名で一番たくさんカヴァーもされているんじゃないかと思う1959年の「ベイビー、ワット・ユー・ワント・ミー・トゥ・ドゥ」。やはりこれもミディアム・テンポでのブギ・ウギで 、相棒ギタリスト、エディ・テイラーも弾き、またクレジットされなかった女性サイド・ヴォーカリストは、ジミー・リードの奥さん。
お聴きになれば分るように、この曲でもブルーズ・ハープのサウンドに典型的に泥臭い感じのブルージーさはない。基本的に全体は南部的なイナタさに満ちたブルーズであるにもかかわらず、ドロドロな雰囲気は全くなく、緩くてホンワカとしていて、シリアスなものは聴き取れない。ブルーズってしばしばシリアスというか、なんだか苦悩・悲哀の表現だとか思われているんじゃない?

ブルーズが苦悩・悲哀を表現するシリアス・ミュージックだというのは、「ある意味では」その通りなのかもしれない。確かにそんな録音がたくさんあるし、そうじゃなかったら”blues”という言葉でこの音楽が表現されることもなかったかもしれないから。でもアメリカ黒人ブルーズをたくさん聴いていると、そうとは限らないもの、あるいは正反対に楽しく軽快に騒いだり遊んでいるようなブルーズだってたくさんあるのが分るよね。

ジミー・リードは、悲しくなく悩みもしない楽しくリラックスできるブルーズの代表格ブルーズ・マンだ。曲題だけ見ても歌詞だけ聴いてもそうだし、CD などで実際のサウンドを聴いたら、ますますこの人の、適温のお風呂につかっているような(とスリム・ハーポの時も形容したが 、ハーポはジミー・リードの強い影響下にある)心地良くリラックスできる楽しさが実感できるはず。

今日ここまで音源をご紹介したジミー・リードは「リトル・レイン」と「ベイビー、ワット・ユー・ワント・ミー・トゥ・ドゥ」だけ。でもヒット曲はたくさんある。全部 YouTube に上がっていると思うから、検索してちょっと聴いてみてほしい。特にストーンズやロック・ファンのみなさん、「Honest I Do」とか「Shame, Shame, Shame」とか「Bright Lights, Big City」とかを是非聴いてみて。

2017/02/22

熱帯に咲く妖しい花〜ベニー・モウピンのバス・クラリネット

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かなり季節外れだし、既に一度軽く触れているような気もするけれど、ちょっと思い出したのでしっかり書いておく。ベニー・モウピンのバス・クラリネット吹奏最高傑作は、ハービー・ハンコックの1973年のアルバム『ヘッド・ハンターズ』ラストの「ヴェイン・メルター」だ。

バス・クラリネットという楽器。エリック・ドルフィーが頻用するようになる以前は、ジャズ界では滅多に使われない管楽器だった。僕が知るのは、デューク・エリントン楽団のハリー・カーニーだけ。カーニーは1930年代からバリトン・サックス+通常のクラリネット以外に、持替えでバス・クラリネットも使っているが、ドルフィー以前にはかなり珍しい例だ。管楽器が花形のジャズ界だけど、カーニーの他にバスクラを吹く人がいたのかなあ?

もちろんドルフィーが(どうしてなのか知らないが)バス・クラリネットとフルートを多用するようになって以後は、どっちもマルチ・リード奏者の必須楽器みたいになっている。ジョン・コルトレーンがソプラノ・サックスを同様の必須リード楽器にしたのとちょっと似ているように見える。1960年代後半以後はアルトやテナーのサックス奏者で、ソプラノとバス・クラリネットとフルートをやらないリード奏者はいないんじゃないかと思うほどだよね。

こういうことは1960年代以後初めて一般化したかのような現象ではない。戦前の古典ジャズ界では、リード楽器の持ち替えはわりと当たり前みたいなことだった。1920〜30年代のジャズ系ビッグ・バンドに在籍するリード奏者は、大抵全員通常のサックスの他にクラリネットもやるのが一般的。なお、各種サックスと各種クラリネットは運指が異なるんだそうだ。

ベニー・モウピンのデビューが何年なのか正確なことは調べてみないと言えないが、おそらくは1960年代半ばだ。初録音がアンドリュー・ヒルの『ワン・フォー・ワン』に含まれている1965年録音の数曲で、そこではテナー・サックスとフルート。しかしヒルのこのアルバムは未発表曲集として1975年に初めてリリースされたものだ。

だからリアルタイムでのベニー・モウピン初登場は、ジミー・オウウェンズ&ケニー・バロン・クインテットの1967年リリース作『ユー・ハッド・ベター・リスン』になる。がしかしここでもやはりモウピンはテナー・サックスとフルートのみ。その後いろんな人のレコーディングに参加しているが、バス・クラリネットは吹いていない。

じゃあどれがベニー・モウピンのバス・クラリネット初録音かというと、やはりマイルズ・デイヴィスの1969年8月録音作『ビッチズ・ブルー』になる。僕の知る限りではこれが最も早く、これ以前にモウピンのバス・クラリネット録音はないはずだから、これはボスであるマイルズの指示だったのだろうか?

マイルズの『ビッチズ・ブルー』におけるサウンド・テクスチャーとカラーリング、そしてそれのために本来はテナー・サックス&フルート奏者のベニー・モウピンにバス・クラリネットを吹かせた結果どうなっているか?あるいはそもそもマイルズはどこでモウピンを知ったのか?あるいはバス・クラリネットなんて、どこで聴いて面白いから使ってみようと思ったのか?というような話は機会を改めたい。

とにかく僕の耳にはイマイチに聴こえる『ビッチズ・ブルー』でのバス・クラリネット吹奏だけど、このアルバムでベニー・モウピンはこの楽器だというイメージが強くなったのは間違いない。この二枚組 LP が翌1970年3月に発売された直後から、いろんなミュージシャンのいろんな作品でモウピンはバス・クラリネットを多用するようになっている。あの『ビッチズ・ブルー』で聴けるあのサウンドをくれ、と要求されるようになっていたのは疑えない。

リー・モーガンの1970年7月録音の(実質的にはジャズ・ファンクへの予告みたいな)ライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』でも、ベニー・モウピンはテナー・サックス、フルート、バス・クラリネット三本持替え。その他、いろんな(ジャズ系)音楽家のアルバムのほぼ全てでこれら三管を吹くようになった。

だがしかしやはりベニー・モウピンのマルチ・リード奏者としての名を高からしめたのは、ハービー・ハンコックのファンク・アルバムだよなあ。モウピンのハービーとの初共演は1971年の『ムワンディシ』。この時の六人がいわゆる”ムワンディシ・セクステット”となって、同じメンバーでワーナーへもう一枚録音・発売。『ムワンディシ』以前の一枚とあわせ計三枚が、現在では CD 二枚組の『ムワンディシ:ザ・コンプリート・ワーナー・ブロ・レコーディングズ』 となって1994年にリリースされている。

ワーナー時代三作のハービー(1970〜72)の音楽は、完全に1969年のマイルズの二作『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』の支配下にあって、それらをそっくり真似たようなものがお好きなジャズ・ファンであれば楽しめるだろうが、その後のコロンビア時代のファンク・ハービーを知っている僕としてはやや退屈だ。ポップさが全然ないもんね。シリアスで長尺の即興演奏好きリスナー向けだ。

だから僕もかつてはワーナー時代のハービーも好きだったのだが、今やシリアスなものよりもポップでとっつきやすい音楽の方が好みになってしまった身には、ハービーも1972年の『セクスタント』以後のコロンビア時代の方が好きだ。ただし『セクスタント』というアルバム・タイトルで推察できるように、このコロンビア第一作はまだワーナー時代からのいわゆるムワンディシ・セクステットでの演奏で、パーソネル表記も同じくやはりスワヒリ語。

その次の1973年作『ヘッド・ハンターズ』でガラリと変貌しちゃったんだなあ、ハービー・ファンクは。スワヒリ語表記が消えて、メンツもボスとベニー・モウピン以外は全員違うミュージシャンを起用。前作『セクスタント』まではなんとまだアクースティク・ベースも使っていたのをやめて、エレベのポール・ジャクスン、ドラムスのハーヴィー・メイスン。この二名は、完全にリズム&ブルーズ〜ファンクのビートを弾き出す。

ハービーの鍵盤楽器の弾き方も変化して、クラヴィネットを多用するようになり、クラヴィネットとはそもそもあんな音色の楽器だから独特の粘っこさがあると同時に、スタッカート的にビャ、ビャと細かく歯切れのいいサウンドを出す。スティーヴィー・ワンダーの特色の一つでもある鍵盤楽器だし、あるいはレッド・ツェッペリンの「トランプルド・アンダー・フット」(『フィジカル・グラフィティ』)でジョン・ポール・ジョーンズが弾いたりで、ご存知の方も多いはず。

クラヴィネットだけでなくフェンダー・ローズやシンセサイザーの弾き方も、『ヘッド・ハンターズ』以後のハービーは変化していて、やはりビャ、ビャとスタッカート気味に飛ぶようなサウンドを出している。アクースティックなジャズをやる時は、わりと流れるような綺麗なラインを右手で弾くことも多い人なんだけどね。

つまりリズム隊といいボスの鍵盤楽器といい『ヘッド・ハンターズ』で様変わりして、音楽的にもポップになったハービー・ファンク。そんななかでマルチ・リード奏者のベニー・モウピンだけは以前と変わらず重用されているんだよね。モウピンはそんなハービーのポップ・ファンクのなかでも、やはりジャジーなフィーリングのあるソロを吹く。

バス・クラリネットは、ベニー・モウピンもワーナー時代のムワンディシ・セクステット時代から吹いている。だが、まあちょっと長いんだ、演奏時間が。さらにバスクラ一本だけに特化してフィーチャーしたような曲はほぼなかった。曲の途中でテナー・サックスやフルートにチェンジしている場合が多い。

大々的にベニー・モウピンのバス・クラリネット一本をフィーチャーするようになるのが、コロンビア第一作の1972年『セクスタント』からで、「ヒドゥン・シャドウズ」がそれ。でもやっぱりまだまだ曲想自体がジャジーだ。お聴きになれば分るはずだが、やはりマイルズの『ビッチズ・ブルー』的なバスクラの使い方だ。
ところが、次作1973年の『ヘッド・ハンターズ』B 面ラストの「ヴェイン・メルター」でのベニー・モウピンのバス・クラリネットは、なんだか全然違った吹き方に聴こえる。というか曲の創り自体がガラリと変化している。まずバスドラの音(のはずだが、まるでデジタル・ビートのように聴こえる)による低音連打に続き、エレベ、次いでモウピンのバスクラが同じフレーズをなぞるまでは、やはり『ビッチズ・ブルー』でのアルバム・タイトル曲とやや似た使い方。
だがその後、ハービーのシンセサイザーがビョッと出てきて以後のベニー・モウピンは、バス・クラリネットでもって、まるで快感に身をよじるかのようなフレーズのサウンドを吹きはじめ、その音色も妖しく魅惑的。セクシーだよなあ。ひとしきり吹いたあと、ストリングスのサウンドが華麗に入ってくる。それはシンセサイザーで出しているものだと思うけれど、まるで生の弦楽器隊による演奏みたいに生々しい。

生のバスドラ・サウンドがまるでデジタル・ビートみたいで、シンセ・ストリングス(はまだアナログ時代だが)のサウンドがまるでリアルな生弦楽器セクションみたいだなんてちょっと妙だよなあ。しかし主役はあくまでベニー・モウピンのセクシーなバス・クラリネット。まるで熱帯に咲く花のごとき妖しさじゃないだろうか。

ストリングス・サウンドが突如フワ〜ッと入ってくる瞬間のスリルと快感と、それに乗ってベニー・モウピンが吹くバス・クラリネット・ソロの艶やかさはたまらない。モウピンのバスクラ・ソロが終ると、そのトロピカル・セクシーなムードをそのまま引き継いだようなハービーのフェンダー・ローズ・ソロになる。深いリヴァーヴその他エフェクトがかかっていることもあって、やはり普段より一層エロい感じに聴こえてしまう。

フェンダー・ローズ・パート後半部では、ハービーはシンセサイザーでも同時に音を出している。これは同時演奏なのか多重録音なのか、僕にはちょっと分らない。同時生演奏でも可能なような弾き方に聴こえるけれど、どうなんだろう?その後、もう一度ベニー・モウピンのバス・クラリネットが出てきて、冒頭部と同じ低音でのモチーフを演奏し、最後は出だしと同じバスドラ連打音だけになって、この熱帯の深夜に咲く花「ヴェイン・メルター」は終る。

こんな曲がラストに入った1973年の『ヘッド・ハンターズ』以後も、ベニー・モウピンは長いあいだハービーのバンドで各種リード楽器を担当しているが、ここまでのバス・クラリネット演奏はその後も存在しないし、ボスのハービーも同系統の曲は書けなかった。

ハービーのファンク・バンドのレギュラー・メンバーとしては、1976年の『シークレッツ』までベニー・モウピンは在籍。その後も一曲だけソロを吹くというかたちでなら、1980年の『ミスター・ハンズ』まで関わった。ハービーがその後ビル・ラズウェルとの全面コラボ作を83年と84年に出して大ヒットして以後の、94年作『ディス・イズ・ダ・ドラム』(このアルバム、大好きだ)には、モウピンがちょっとだけ参加してテナー・サックスを吹いている。

2017/02/21

穏健保守化した怒れる若者

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どんなに評価が高く人気があっても、個人的にどうしても好きになれない音楽家っているよね。僕にとってのそういう音楽家の代表がエルヴィス・コステロ。はっきり言って嫌いだ。生理的に無理。どうしてなんだかさっぱり分らないが、いくら聴いてもあの声と歌い方を受け入れることができない。だからある時期以後は買って聴くのをやめてしまった。僕はただのアマチュア音楽好きなんだから、無理することもないだろう。

ところでどうでもいいがエルヴィス・コステロというこの名前。姓名ともにステージ・ネームだけど、ファースト・ネームの方がプレスリーの方のエルヴィスと同じだから、紛らわしいことこの上ない。わざとやっているんだろう。エルヴィス・プレスリーがコステロのアイドルだったかもしれないからね。

しかし大のコステロ嫌いで、なおかつ大のプレスリー好きの僕にとっては、「エルヴィス」とだけ言えばプレスリー以外ありえない。普段から僕はエルヴィス、エルヴィスとだけ書くけれど、説明不要だろう。このロッカーをプレスリーと書く人も多いけれど、僕はあまり好きじゃなく、一度ある音楽ライターの方に理由を聞いたことがある。

するとコステロの方と紛らわしいのでという返答だったが、これは絶対に本音じゃないね。だってコステロの方を「エルヴィス」と表記してあるものなんか僕は今まで一度も見たことがないし、混同する可能性なんてゼロだとしか思えない。だから「プレスリー」表記は、日本である時期以後に定着したものだからというだけなんじゃないかなあ。

僕の場合世代的に若く、プレスリーという呼び方は吉幾三のヒット曲「俺はぜったい!プレスリー」くらいでしか実感がなかった。その後、音楽について書いてあるいろんな文章を熱心に読むようになって初めて頻繁に見るようになった表現だ。しかもそんななかでも熱心な愛好家や一定以上のリアルタイム世代は、みんなエルヴィスって言うことにも気が付いた。湯川れい子さんもエルヴィス表記だ。僕も思い入れが強いのでエルヴィスと書く。それをコステロみたいなどこが面白いんだかさっぱり分らない音楽家に使ってほしくないんだよね。

だがしかしそんな(エルヴィス・)コステロでも、一枚だけこれは最高に素晴らしいという愛聴盤がある。バート・バカラックとのコラボでやった1998年の『ペインティッド・フロム・メモリー』だ。これはもんのすごく美しいことこの上ない音楽作品だ。といっても僕はこれをなっかなか買わなかった。

1998年だとバカラックの方は既に大好きだった僕。だけど書いているようにコステロの方に生理的嫌悪感があるから、買う気にはなれなかったんだよね。それにこのコラボの組合せもすぐには理解できなかった。1998年時点のバカラックに対しては、かなり保守的なイメージを一般の音楽リスナーは抱いていたんじゃないかなあ。コステロはその正反対だしな。

僕も前々から言うように、音楽が穏健的・保守的であるか、あるいは革新的・反逆的であるかは、音楽の美しさ、楽しさに全くなんの関係もない。バカラックは1960年代には既にアメリカ音楽産業の真っ只中で活躍していたコンポーザーで、作風も時代への反逆みたいなものは1ミリも聴き取れないのだが、彼の書くメロディやアレンジが美しいことに変わりはない。

そんなバカラックがブリル・ビルディングで活躍していた時期、すなわち1960年代においては、ロックはやはり時代や体制への反逆音楽だというイメージを、聴く側だけでなくやる側も持っていたのは間違いないはず。社会全体がそうだった。日本でもエレキ・ギターを弾くのは不良だとかなんとか言われた時期があったらしいじゃないか。

コステロは1970年デビューだから、まだそんな時代の空気が残っていた時代のロッカーなんだろうし、またどうも自分自身でそんな格好というか振る舞いというか、反逆児的なポーズをとっていたんじゃないかという気がする。ある時期まではね。これも僕がコステロを好きになれない理由の一つかもしれない。

つまりバカラックとコステロの二人は真逆のイメージを持った音楽家で、それでもコステロはわりと早くからバカラック・ソングをとりあげて歌っているけれど、それは素材としてということだったから、そうじゃなく全面的にタッグを組んで曲創りからはじめるなんてありえないよなあ、どんな風に仕上がっているのか想像できないとか、まあそんな気分だった。

いやあ愚かだったよね、僕は。だからなかなか買わない『ペインティド・フロム・メモリー』を、買えと僕に言ってくれたのは、やはり当時のネット上で親密だった音楽仲間、特にるーべん(佐野ひろし)さんだ。もう一人熱心に薦める方がいた。それで重い腰をあげて僕も21世紀に入ってからようやく『ペインティッド・フロム・メモリー』 CD を買ってみた。

アマゾンのサイトに残っている購入履歴を見ると、僕が『ペインティド・フロム・メモリー』を買ったのは2004年と出てくる。なんて遅いんだ。しかも僕が買ったのは最初にリリースされた一枚物 CD で、それを買ったとるーべんさんに言うと、な〜んだ、ライヴ録音を収録した二枚組との両方を持っているから、言ってくれれば一枚物の方はあげたのにと言われちゃって、それでようやくその二枚組なるものの存在も知ったというような具合。

2017年現在の僕の手許には二枚組の方しか残っていないバカラック&コステロの『ペインティド・フロム・メモリー』。それを見ると1999年のリリースとなっている。前年98年リリースの一枚物の方は昨2016年に友人にあげた。不要だという理由と、やっぱりこんな美しいポップ・ミュージックは一人でも多くの人に聴いてほしい、そんな気持で。

とはいえ二枚目のライヴ音源の方はたった五曲で、しかもどうってことないような内容に聴こえるね。全部ピアノ一台の伴奏だけでコステロが歌っているが、ピアニストが誰なのか明記がない。がやはりバカラックが弾いているんだろう。そうじゃないとわざわざそれを収録したボーナス・ディスクを付けて二枚組で出し直す意味がないからだ。

意義はあるのかもしれないが、音楽内容的にはどうでもいいような二枚目は放っておいて、一枚目の『ペインティド・フロム・メモリー』本編が素晴らしいのだ。特に一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」。これの官能的な美しさは筆舌に尽くしがたい極上さ。もうこれ一発でコステロっていい歌手だなと完全に見直した。
どうこれ?バカラックの書いた(メロディだけでなく)アレンジも百点満点でどこにも欠点がない美しさ。まずフルートの音が入ってくるだけで僕は降参。ジム・ケルトナーがクローズド・ハイハットを叩き、コステロが歌いはじめるとスネアのリム・ショットも入ってくる。その時点まで来ると僕はもう完全に溶けている。

バカラックとコステロのどっちがメロディでどっちが歌詞を書いたかはどこにも記載がないし、ネットでどう調べても情報は出てこないが、この官能的旋律はどこからどう聴いてもバカラックのペンによるものだとしか考えられないね。1960年代から「ザ・ルック・オヴ・ラヴ」みたいな曲を書いていたソングライターなんだから、間違いない。

「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」。歌詞はコステロが書いたものかもしれないが、それはなんでもないような失恋歌で、君が去ったあとの僕はまるで真っ暗闇でさまよっているみたいだよというもの。だから真剣に聴いても聴かなくてもいいいような歌詞内容で、そんなものよりメロディのセクシーな美しさ、それを際立たせるためのアレンジの絶妙さこそが重要なのだ。

それを歌うコステロのヴォーカルも、いつもはなんだこいつ?みたいな感想しか出てこない僕だけど、「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」でだけは素晴らしい歌手に聴こえる(なんて言うと、世のコステロ・ファンから猛攻撃されそうだが…)。コステロのあの声質と歌い方が、バカラックの書いた官能旋律美の魅力を一層強くしているのは間違いない。

正直に言うと、アルバム『ペインティド・フロム・メモリー』では、一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」しか聴いていないんじゃないかと思うほどの僕。残りの11曲は、上質だけどなんでもないような普通のポップ・ソングじゃないだろうか。バカラックが書いたに違いないスタイルのメロディとアレンジが聴けて楽しいけれど、一曲目が美しすぎるのだ。だからオマケにしか聴こえない。

ラスト12曲目の「ガッド・ギヴ・ミー・ストレングス」は、そもそもこの二名の全面コラボ・アルバムが実現するきっかけになったものらしく、これだけ録音が他の曲よりも数年早い。それは映画『グレイス・オヴ・マイ・ハート』のためのもので、この映画は米ニュー・ヨークのブリル・ビルディングが舞台で、女性主人公はキャロル・キングをモデルにしているから、つまりそれでゆかりの深いバカラックに依頼して、一曲だけコステロとタッグでやってくれとなったのかもしれない。

その「ガッド・ギヴ・ミー・ストレンングス」や、アルバム二曲目の「トレド」などでは、ヴォーカルの背後で、例によってのブラス(金管)群が柔らかい音色でスタッカート気味のリフを吹き入れるという、バカラックのお馴染定番アレンジが聴ける。だから目新しさなんかは全くどこにもない完全コンサヴァティヴ・サウンド。そんなアレンジであのコステロが歌っているわけだ。コンサヴァ・イメージとは正反対だったコステロがね。

日本にも多いコステロ・ファンは『ペインティド・フロム・メモリー』や、その一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」をどう聴いているんだろうなあ?そのあたりはよく知らない。でもるーべんさんともうお一方は昔からの熱心なコステロ・リスナーで、かつての<怒れる若者>的イメージだった時代のコステロからお好きなようだから、そんな方々が『ペインティド・フロム・メモリー』がいいぞ、としま、お前、喰わず嫌いしてないで買って聴けと言ってくれたってことは、やっぱりこのアルバムは従来からのコステロ・ファンも高く評価しているんだろうね。

コステロ&バカラックの『ペインティド・フロム・メモリー』。どこにも過激さや時代の革新性みたいなものはなく、その正反対の音楽だけど、音楽美ってそういう部分とは無関係だからさ。確かにこのアルバムは時代を形作ってなどいない。むしろ時代を遡ったようなレトロ・ミュージックだ。けれども音楽をそんな「時代を形作る」というような視点でしか捉えれらないと、最も重要な部分を聴き逃してしまうと思うけどね。なんだか今の日本にはそんな人たちがいっぱいいるんじゃない?僕の一番好きなマイルズ・デイヴィスもそんな聴き方しかされないんだけど、不幸だよな。

2017/02/20

ザ・ファンキエスト・オヴ・ファンキー・ドラマーズ〜クライド・スタブルフィールド

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間違いなくジェイムズ・ブラウンのバンドでの活動で世界中に名が知られているクライド・スタブルフィールド。このファンキー・ドラマーがつい昨日2月19日に亡くなったというので、なにか書いてみようと思ってジェイムズ・ブラウンの CD をいくつか取り出した僕。まず真っ先に思い浮かべたのは『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』だったが、今となってはこれはあまり面白くない。

ドラマーの方や、あるいはヒップホップ・ビート・メイカーの方、あるいは一般のリスナーでもそんな方面に非常に強い関心のある方ならば、少し違う感想になるかもしれない。僕だって『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』が二枚組 LP で発売された1986年(あれ?そんな遅かったっけなあ?)には夢中で聴きまくった。

けれども『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』は要するにブレイクビーツ集なんだよね。1986年当時たくさんサンプリングされていたジェイムズ・ブラウンのファンク・チューンのなかでも、特にグルーヴィーで最も頻繁にサンプリングされている元ネタ集であって、楽曲として聴いて普通に楽しいかというと、今ではちょっと違うような気がする。

『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』のなかには「ファンキー・ドラマー」という曲があるよね。1969年にシングル盤で発売されたこの一曲が、1986年当時最も多くサンプリングされていた JB ナンバーで、曲題通りドラマーをフィーチャーした内容。そしてそのドラマーが誰あろうクライド・スタブルフィールドだ。しかも『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』は「ファンキー・ドラマー」を初めてアルバム収録したものでもあった。

こんな曲題だし、そしてその通りクライド・スタブルフィールドのファンキー極まりないビートをフィーチャーしたものだしで、この一曲こそがクライドの名声がここまで高い最大の要因であるには違いない。だがはっきり言ってしまうが、僕はこの「ファンキー・ドラマー」という一曲があまり好きじゃないんだよね。どうしてかというと、あのフワ〜ッとした柔らかいホーン群のリフのせいだ。あのソフトな感触が嫌い。
ファンク・ミュージックにもいろんなのがあるけれど、ジェイムズ・ブラウンにはもっとゴリゴリのハードなものを求めてしまうのが僕。「ファンキー・ドラマー」みたいなあんなフワリとした(のはホーン・リフとギター・カッティングだけだが)もので、小洒落たように聴こえないでもないようなものじゃなく、泥臭い、汗臭い(=ファンキーな)ゴリゴリのハード・ファンクがいいんだよ、僕は。

というわけでクライド・スタブルフィールドの訃報に接し、やはり僕もまず『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』を聴きはじめてみたものの途中で放棄して、CD 四枚組ベスト盤『スター・タイム』からクライド参加のものと、クライドが叩くジェイムズ・ブラウンのライヴ・アルバム三種、『ライヴ・アット・ジ・アポロ Vol.II』『セイ・イット・ライヴ・アンド・ラウド:ライヴ・イン・ダラス 08.26.68』『セックス・マシン』を全部まとめて iTunes で一つのプレイリストにぶち込んで聴きはじめたのだった。

スタジオ録音はベスト盤『スター・タイム』に収録されていないものもある。アルバム『コールド・スウェット』『アイ・ガット・ザ・フィーリン』など何枚かあるが、ジェイムズ・ブラウンもやはり基本的にはシングル盤リリースが中心のソウル〜ファンク・マンで、ある時期までのアルバムはそれらの寄せ集めである場合が多い。 数も多いし、四枚組『スター・タイム』からピックアップするだけで代表曲は全て揃う。

四時間以上あるそのクライドが叩くジェイムズ・ブラウンのプレイリストで聴いていると、いろんな楽しいことが頭に浮かんでくる。クライド・スタブルフィールドは1965年に JB のバンドに加入して、その後71年まで、全部の録音に参加しているわけではないが、先輩のジョン・ジャボ・スタークスとのツイン・ドラムス体制(ライヴでは多くがそう)で、JB 最重要期のファンク・ビートを支えた。

なんたって1965〜71年といえば、ジェイムズ・ブラウンが、リズム&ブルーズ、ソウルから展開してファンク・ミュージックを創始した時期じゃないか。そして60年代末〜70年代頭にはファンクは確固たるものとして姿かたちをすっかり完成させていた。クライド・スタブルフィールドはそんな時期のドラマーだったんだから、その重要性たるや、いくら強調してもしすぎることはない。

ジェイムズ・ブラウンのところでクライド・スタブルフィールドが叩いた重要録音で、時期的に最も早いものは1967年キング録音の「コールド・スウェット」だろうと思う。しかもこの一曲こそがファンクがファンクとしてこの世で初めてその姿を現したものなんじゃないかと僕は思うのだ。
ここでクライド・スタブルフィールドは二拍、四拍で叩くスネアのバック・ビートをずらすことで、ファンク・ドラミングの基礎ともいうべきスリップ・ビートを産み出した。このファンク・チューンでは、エレベもホーン・セクションも全てクライドのドラミングを中心に組立てられているのがお分りいただけるはずだ。つまり!ファンクとはクライドのドラミング・スタイルのこと!だ。

上で貼った「コールド・スウェット」では後半部でクライド・スタブルフィールドのドラムス・ソロがある。そこへ入る前にボスのジェイムズ・ブラウンが「ドラマーに少しやらせようじゃないか」(Can I give the drummer some? Let’s get the drummer some!)と繰返し叫んでいるもんね。それでもってソロになるクライド・スタブルフィールドのビートのカッコイイことったらない。

さらにもっと凄いことになるのが、翌1868年のキング盤シングル「アイ・ガット・ザ・フィーリン」だ。僕は「ファンキー・ドラマー」ではなく、「アイ・ガット・ザ・フィーリン」こそがクライド・スタブルフィールドの最高傑作だと考えている。ここでのドラマーもクライド一人だけなのだが、それが信じられない複雑さ。しかも超ファンキー。
スネアのパターンにご注目いただきたい。これは今ではいわゆるゴースト・ノートと呼ばれている叩き方だ。グレイス・ノートとも言う(ゴースト・ノートは日本だけでの表現で、アメリカでは grace notes と言うんだぞという文章も見つかったが、それは大嘘)。ゴースト・ノートと言われてもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれないが、上で貼った「アイ・ガット・ザ・フィーリン」を聴くと、スネア(とハイハット)で実に細かい音をハタハタと連打しているのがお分りいただけるはず。

本来はスネアやハイハットで、8ビートなら八分音符、16ビートなら十六分音符を入れるのが王道の常套ドラミング・スタイル。しかしそれでは出せないグルーヴ感があるんだよね。1960年代後半からのジェイムズ・ブラウンやクライド・スタブルフィールドも、そんな未知のファンク・グルーヴを探り求めていたはず。

そこで別にクライド・スタブルフィールドの発明したものなんかじゃないのだが、定型ビートを刻むスネアの音の合間合間に、細かいフィル・イン(オカズ)を、それも定型ビート部分よりもかなり小さい音で、存在がまるでないかのようなもの(すなわちゴースト)で入れるというのを活用しはじめて、その典型的結実が上の「アイ・ガット・ザ・フィーリン」なんだよね。上掲「アイ・ガット・ザ・フィーリン」では左手のスティックでゴースト・ノートを叩きながら、なおかつシンコペイションのアクセントを入れている。離れ業だ。

音だけでは分りにくいぞと思われるかもしれないね。僕もそうかもと思ってなにかないかな?と YouTube で探したら、こんな動画がアップロードされていた。クライド・スタブルフィールド自身が解説しながら(「ghost notes」とはっきり言っているね)ゴースト・ノーツを模範演奏するというもの。2008年となっている。
この動画では、上で僕も書いた(ゴースト・ノートを入れない)普通のカッチリした従来の常套ドラミングをやり、それにゴースト・ノートを入れてみるとどうなるか、スムースに移行して聴かせてくれる瞬間があるので、これがあるかないかでいかにグルーヴ感が大きく変化するか、めちゃめちゃ分りやすい。定型ビートのあいだに細かくて小さな音をスネアで叩き出し、独特の跳ねる16ビートのグルーヴを創り出している。それがファンク・ビート。

こんな風なクライド・スタブルフィールドのドラミング・スタイルは、その後ジェイムズ・ブラウンの録音でクライド自身が継続実践して極上のファンク・ビートを作りだしていたのみならず、のちに続く西東のドラマーに非常に大きな影響を与え…、なんていう言い方ではとても表現できないほどの絶大なる影響源となり、ある時期以後は影響云々なんて誰も意識すらもしないスタンダードなドラミング・スタイルになった。

ジェイムズ・ブラウンの「コールド・スウェット」や「アイ・ガット・ザ・フィーリン」、そしてその後の「セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」「マザー・ポップコーン」 、「ファンキー・ドラマー」を経ての「ゲット・アップ、ゲット・イントゥ・イット・アンド・ゲット・インヴォルヴド」などで聴ける、これら全てドラマーはクライド・スタブルフィールド一人なんだが、それらでのファンク・ビートを、文字通り<全員>が真似したんだよね。

あぁ、我慢できん。やっぱり「マザー・ポップコーン」と「ゲット・アップ、ゲット・イントゥ・イット・アンド・ゲット・インヴォルヴド」 は音源を貼っておこう。だぁ〜って、スーパー・ファンキーだもんね。どっちもドラマーはクライド・スタブルフィールド一人だぜ。
こんなのが1969/70年にリリースされなかったら、世のドラマーは全員どうやってプレイしたらいいのか、分らなかったわけですよ。叩き方そのものが分らなかったんです。アル・フォスターもスティーヴ・ガッドもジェフ・ポーカロもピーター・アースキンもデニス・チェンバーズも、その他全員あんな叩き方は存在しなかったんですよ。全てはクライド・スタブルフィールドのおかげなんですよ!

2017/02/19

僕の原体験は全て植草甚一さん

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今まで断片的になんどか書いているけれど、今日はちょっとまとめてみよう。僕が高校三年の時にジャズを聴いてみようと思ったきっかけは、植草甚一さんのジャズ・エッセイだった。ジャズ・ファンになる前から、ミステリ小説と映画が好きだった僕は、その関係で植草さんのエッセイをよく読んでいた。

ミステリ(推理小説)は中学生の頃から好きで読んでいたし、映画は高校一年の時に『スター・ウォーズ』の一作目が公開されてすっかりドハマりし映画好きになっていた。植草さんは元々東宝社員だったし、退社後も『キネマ旬報』の同人をやったりしていて、最初は映画評論家だったんだよね。

そして映画評論のかたわらミステリ関係のエッセイも書きはじめるようになり、そっち方面の仕事も随分と増えたようだ。もちろんそういう経歴を僕が知ったのは随分後になってからだけど。僕が英語の原書で(ミステリ)小説を読むようになったのは完全に植草さんの影響だ。最初は僕の英語力がついていかなかったわけだけどね。

高校二年の終り頃からは、お弁当を食べたあと、昼休みに学校を抜出して映画館へ行き、観終ってから喫茶店でコーヒーを飲みながら映画やミステリ関係の植草さんのエッセイを読むのが楽しみだった。午後からの授業はサボるものが増えたせいで職員室に呼出されたり、授業に出ていると「お、今日は戸嶋がいるじゃないか」と珍しがられたり。

その後、僕は英語の小説を読んで研究しては、その結果を講義したり論文にしたりする仕事に就いたわけだけど、その最初のきっかけを作ってくれたのが他ならぬ植草さんだったわけだ。そしてそういう仕事に就いてからでも、ジョゼフ・コンラッドやウィリアム・フォークナーなどミステリ仕立の作品が多い英語小説家が好きだったのも、そういう原体験のせいだったのかもしれない。

そういう植草さんのエッセイのファンだった僕が、晶文社からたくさん出ていた彼のエッセイ本にジャズ関係のものがかなり多いことに気付き(というか知っていたけれど無視していたわけだ)、ちょっと読んでみたら面白くて、大好きな植草さんがそんなに推薦するならと聴いてみたというのが、ジャズにかんするまず最初のとっかかりだったんだよね。

植草さんが推薦するジャズ入門三曲が MJQ の「ジャンゴ」、チャールズ・ミンガスの「ハイチ人の戦闘の歌」、マイルス・デイヴィスの「ラウンド・ミッドナイト」だった。それをメモしてレコード屋に行ったけれど、ミンガス(『道化師』)とマイルス(『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』)はジャケットが怖ろしくて買わなかった。

それでジャケットが大いに気に入った MJQ の『ジャンゴ』と、一枚だけじゃちょっとなあと思っていろいろ棚を漁って、ほぼ完全に同じデザイン・ポリシーのジャケットだったトミー・フラナガンの『オーヴァーシーズ』を買った。後者が超名盤だなんてちっとも知らずに、ジャケットだけで(でも「SJ誌認定なんちゃらかんちゃら」とかいう文句がオビにあったような気もする)。

植草さんがいつ頃からジャズ・エッセイを書はじめたのかは知らないけれど、一般に知られるようになったのは1960年代後半かららしい。当時、植草さんは同時代のいわゆるニュー・ロック、アート・ロックにも関心を示していてフランク・ザッパ関係のエッセイなどもあったけれど、中心はモダン・ジャズだった。

一時期はたくさんジャズ・エッセイを書き、『スイングジャーナル』誌を中心にレコード名盤の選定などにも当っていた植草さんだけど、いつ頃からか全く書かなくなってしまい、しかしそうなってからでも映画とミステリのエッセイは書続けていたから、ジャズは一時期だけの気の迷いみたいなものだったのかもしれないね。

そんな植草さんの洗礼を受けてジャズを聴はじめた僕は、それにすっかりはまって、人生が180度変化して狂ってしまい、大学生の頃にはジャズ喫茶に入浸ってレコードを聴きまくり、自分でもジャズのレコードばかり買うようになった。植草さんがジャズに興味を失ってからも、僕は決してジャズへの興味を失うことなく、現在まで続いている。

だから、ジャズを聴きはじめた一番最初の頃の僕にとってのガイドは油井正一さんでも粟村政昭さんでもなく、植草甚一さんだったのだ。以前一回だけ触れた鍵谷幸信が、ジャズ関係では植草さんの弟子を自認していたのが信じられないほどジャズ評論は(も?)衒学的だったけど、植草さんの文章は軽妙洒脱だった。

そして高校三年〜大学生の頃にジャズにはまって聴きまくったことが、その後の僕の音楽中心、というかそればっかり人生の礎となり2017年現在にまで至るわけで、ジャズにドハマりしなかったら、今みたいにいろんな音楽を聴きまくっていることだってありえないことだったはず。なにもかも全ては植草さんのおかげなのだ。というか植草さんがあらゆる意味で泥沼にはめてくれてしまったのだ。

でも植草甚一さんは1979年に亡くなっているから、今日ここまで書いたいろんなことは全部植草さんが亡くなってから知ったこと。1979年に僕は17歳で、ちょうどジャズを聴はじめたばかり。映画やミステリ関係はともかく、ジャズ・エッセイについては、植草さんが亡くなってから読みはじめたんだよね。

いま振り返って考えてみれば、食べていくための本職の英語小説と熱中している趣味の音楽、その両方の世界とも最初のきっかけを作ったのが植草甚一さんのエッセイだったわけだ。いわば大恩人なわけだけど、植草さんの本は全部実家に置いたままで手許には現在一冊もない。ごくたまに読返したいと思うこともあるけど、いまのところはこのままでいいかなぁ。

2017/02/18

音楽とセックスのエロい関係〜アフリカ音楽とカリンダ、ジャズ、プリンスその他

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ビートルズのヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」。あの「悦ばせてくれ」っていうのは、要はアレしてくれっていうことだよね。歌を聴くと「僕が君を悦ばせているように、君も僕を悦ばせてくれ」となっているじゃないか。いや、今までの経験からするとビートルズの場合、それでもまだ分りたがらない人が残っているはずなので、今日こそははっきり言ってしまうぞ。あれはフェラチオの歌だ。つまりプリンスの「KISS」と同じ。 こんなことは分りっていることだからなのか、誰かが明言しているのを読んだことがない。公開する文章で書いてしまう僕がアホなだけなのか…。

そういえばプリンスを話題にする時は、毎回必ずといっていいほど言及している松山市在住の熱狂的プリンス・マニアの女性。彼女は二児の母で、しかも二人ともまだ小学校低学年なので、子供の耳に入る時はプリンスは聴きにくいものがありすぎやと笑っていたことがあった。「ドゥー・ミー・ベイビー」とか聴きにくいやん、『カム』とか絶対不可能やんとかね。

あっ、たったいま思い出したぞ!僕には子供はいないし、セックスへの言及かどうかも知らんけれども、結婚していた時代に自宅で妻にも聴こえるような大音量でフランク・ザッパの『ザッパ・イン・ニュー・ヨーク』を聴いていて、六曲目の「ザ・イリノイ・エネマ・バンディット」になると、妻が「なにこれ?なんでこんなもの聴いてんのよ?!」と半ば怒られ気味に言われたことがあったなあ。妻も英語は聴けば分る同業者だったからね。エネマだ、エネマ。わっはっは。

そんな話はどうでもいいね。プリンスの音楽にセックスへの言及が多いのは確かだ。これはキャリアの最初からそう。最もひどいのが上でも書いたアルバム『カム』で、これはもうマジ露骨。アルバム・タイトルからしてヤバイし、ラストの「オーガズム」なんてエレキ・ギターの音と女性の喘ぎ声しか入ってないじゃないか。エレキ・ギターのフィード・バック音は、男性器をしごいてイク行為のメタファーだし、女性の喘ぎ声にいたってはメタファーですらなく、そのまんまが収録されている。

だいたいギターのネックがペニスみたいだしな。ギター全体の形状は、特にアクースティックでナイロン弦ギターの場合は女性の体みたいだけど、ネックだけは男根で、それをグルリと握って低音部から高音部へと素早く繰返し移動する動作は、要は男性がマスターベイションする行為とソックリだ。

これはギタリストだからとか、あるいはプリンスが特別エロいとかいうことでは全くない。こんなのは大昔から音楽の世界にはたくさんあった。歌詞が付く音楽の場合は言葉で表現するのが最も直接的だけど、そこにエロさは僕はあまり感じない。音楽とセックスの結び付きをもっと強く感じるのはビート、リズム、つまりグルーヴ感、そしてそれと一体になったダンスだ。

場合によっては管楽器アンサンブルや単独楽器の音色にセックスを感じることもある。それを最も強く感じるアメリカの音楽家がデューク・エリントンなんだけど、しかし熱心なエリントン愛好家もまた、そんなことは言っていない場合が多い。が間違いなくあるのだ。ジョニー・ホッジズのあのアルト・サックスのサウンドを、特にグリッサンドするあたり、セックスを連想せずに聴けという方が無理だろう。だからみんな露骨に言わないだけで感じてはいるんじゃないかな。

エリントン楽団のエロさについては、プリンス同様メチャメチャ具体例が多いので、ずっと前に予告したように改めて単独記事にすることにして今日は遠慮しておく。どうしても今日言いたいことだけ書いておくと、エリントン本人は1930年代から「私の音楽を”ジャズ”と呼ばないでほしい」と繰返し発言している。表面的には狭い一つのジャンルに閉じ込めるなという意味だろうが、心の底では”jazz”という言葉がセックスを意味するものだというのを忌み嫌ったのかもしれない。

もしそういう本音がエリントンにあったとしたら、これはガッカリだなあ。しかしそんな本音があった(のかどうか分らないが)にしては、創る音は相当にエロく、セックスへのメタファー的なものがかなりあるのがエリントン。だからガッカリすることもないのかな。音楽家は創り出した「音」そのものでだけ判断すべき存在だからだ。

マイルス・デイヴィスの「俺の音楽をジャズと呼ぶな」というあの一連の発言も、表面的には自分の音楽はジャズなんていう狭い枠に収まるような音楽じゃないんだぞということと、もう一つには商売上の理由があって、レコード屋やビルボードなどのチャートでジャズに分類されると売れないんだ、やっている音楽はロックみたいなもんなんだから、白人ロッカーのレコードと並べて売れ、そうすれば俺の懐にはもっと金が入ってくるはずだというものだ。

だが、ある時、確か1981年復帰後のなにかのインタヴューでマイルスは、「”ジャズ”という言葉を聞いてなにを連想する?ニュー・オーリンズの売春宿だろう?だから俺はこの言葉で自分の音楽が呼ばれるのが嫌なんだ」と明言していた。その時のインタヴューワーはアメリカ人女性で、すかさず「私は違います、”ジャズ”で連想するのはサックスの音とハドスン川の夕焼けですね」と返していた。

するとマイルスは「君はなにか楽器やってないのか?やっていれば雇うぞ、いや、君そのものがほしいんだ」とスケベ心丸出しの返事をして、ニュー・オーリンズの売春宿を連想する、すなわちセックスへの言及だから嫌なんだと言った舌の根も乾かぬうちにこんな調子なもんだから、その女性インタヴューワーには完全に呆れられていたなあ。

誕生期のジャズとニュー・オーリンズの売春宿といえば、昨年九月に復刊文庫された油井正一さんの『生きているジャズ史』のなかでも言及がある。油井さんはこの関係を肯定的に捉えるのではなく、むしろこの結び付きを否定して、売春宿での行為の際の BGM にジャズは向かない、実際はもっとムーディーなもの、例えばクラシックの弦楽四重奏など室内楽だったんじゃないかと書いているよね。

この油井さんの意見に今の僕は完全に反対したい。ジャズは確かに元々はブラス・バンドでやるマーチなどの音楽がルーツになっているので、賑やかで勇猛果敢なものが多い。その点でだけなら確かに油井さんの書く通り。だがその一方でセックスの BGM にこれ以上ないほどピッタリはまるムード満点なバラード風なものだって、ジャズには誕生期からたくさんあるじゃないか。油井さんがこの事実をご存知なかったはずがないので、だから上で引用した『生きているジャズ史』での記述は、やはりエリントンやマイルスみたいな気分での否定の仕方だったんじゃないかな。

話がジャズ方向へ行ってしまったが、音楽とセックスの結び付きが最も明白に表現されるリズムとダンス。それはすなわちアフリカ音楽由来だ。音楽のグルーヴ感がセックス行為の持続感と非常によく似ていて、アメリカ黒人ブルーズやリズム&ブルーズやファンク・ミュージックなどの継続グルーヴで踊るっていうのは、つまりセックスのグルーヴを感じているのと同じだ。

こういった跳ねていながら、しかし均質なワン・グルーヴが持続するという、セックスと音楽の共通性が北米合衆国音楽、特に同国の黒人音楽で非常に強く表現されているのは、人種のルーツと同じく元々はアフリカ的だと言えるはずだが、直接的にはカリブ音楽由来だと言えるかもしれない。
 
19世紀後半には姿かたちを整えていたカリブ地域のポピュラー・ミュージックの祖先にカリンダ(カレンダ)というものがある。カリンダは19世紀前半までの、まだカリブ地域のどこがどこの(ヨーロッパの)国の支配だという線引が明確ではなかった時代に、一帯に存在した均一なダンス・ミュージック。それはアフリカから労働力として強制移住させられた黒人たちが創り出したものだ。二小節ごとにトンと跳ねる二拍子だったと考えられている。

カリンダで踊る姿を記録した文献によれば、そのダンスはかなり露骨にセックスを表現していたらしい。興奮状態の男女が向き合って激しく腰を揺すり、徐々に接近して太腿が触れ合った瞬間にひるがえって離れていくというものだった。これはその当時のカリンダだけではない。今でもキューバやブラジルや、その他ラテン・アメリカ諸国には強く残っている。なんたってアルゼンチンのタンゴがもろそのまんまじゃないか。

カリンダはカリブ地域全般や北米合衆国のルイジアナにまで伝わっていたようだ。ラフカディオ・ハーンの書いたものにも、ニュー・オーリンズで「カレインダ」という舞踏を見たという記述が出てくる。それにカリンダから発展してキューバのハバネーラが誕生し、それをもとにスペイン人作曲家が「ラ・パローマ」を書いたり、アルゼンチンに渡ってタンゴになったり、その他各種中南米音楽のルーツになり、また北米合衆国南部でジャズを産む一因にもなったんだからかなり重要だ。

跳ねる二拍子系のダンス・ミュージックに合わせてのセックス・ダンス。しかしこれを「卑猥」なものだと見るかどうかは視点次第だろう。卑猥だからタブーだ、隠すべきだと考えるならば、その人は西洋白人的なものの見方にしか立てていないという証拠になる。ある時期以後の西洋白人文化では、露骨な性的描写は表面化しないようになった。

カリブ地域のカリンダと、それで踊る現地の人間の様子を記録した文献も、全てそこを支配した欧州諸国からやってきた白人の記したものなので、やはり卑猥だという表現になっている場合が多く、ある種の驚きだとされている。しかしアフリカ的視点、あるいはさらに言えば日本を含むアジア的な視点に立てば、全く驚きではないし卑猥でもない。

農耕民族が豊穣を祈って行事をやるのは世界中どこでも同じだが、その行事の際の音楽や踊りにはかなりハッキリした性器や性行為のメタファーがあって、いやメタファーではなくそのまんま模倣されている場合もある。これはやはり農耕民族だった日本人であれば納得しやすいはず。各地に今でも残っているので目にするのは容易だ。

農作物の豊作祈願を、音楽的にも踊り的にも、あるいはその他いろんな意味でも性的リアリズムで表現するというのは、アフリカやアジア各地の民族的伝統だ。それを他者(西洋)の視点だけで見て卑猥だとして排除・排撃せんとするのは非常にバカげている。身体行為と精神を不可分なものとして捉えている僕たち日本人(や世界各地の人たち)の考え方や実践行為を、そんなものは二項対立的なもので相容れないものだとするのが日本人のなかにすら多いのは、すなわち近代西洋の偏見に毒されているにすぎない(が西洋でも近代以前であれば…)。

西洋のクラシック音楽は近代に成立したものなので、こういった性的言及、セックス表現をなるべく避ける方向で進んできた。それで高度にシステム化されて機能的・合理的なものになったので世界中に普及して、特に音楽教育分野では絶大なる影響力をいまだに持ち続けているはずだ。

しかし20世紀に大きく花開いた世界のポピュラー・ミュージックは、多くの場合根底的にはそういうものとは違う種類のものじゃないかなあ。クラシック音楽のなかに露骨なセックス描写がほぼ聴けないのに、世界のポピュラー音楽(とそれを伴奏とするダンス)のなかにはこれだけ多いという事実一点のみとってみても、これははっきりしているだろう。

そんな猥雑な、西洋白人的視点からは卑猥だと言われるセックス・メタファーを表現するポピュラー・ミュージックのビート、グルーヴ感、サウンドなどは、その元々の起源を辿れば、やはりアフリカの音楽(を含む諸々の)文化のなかにある。2010年代あたりからどうもまた変わりはじめているのかなという気がしないでもないがが、少なくとも20世紀世界の大衆音楽は、性的リアリズムを隠さないアフロ・アメリカンなものだった。

体の奥から揺さぶってくれるような激しくセクシーなビート、精神と肉体が合一したような高次元で解放してくれる強いリズムとサウンドと旋律(ブルー・ノート・スケール)。そんなものを求めたら、アフリカ由来のダンス・ミュージックに行き着くしかない。それがアメリカで展開して世界中に拡散して、これだけ大人気になった。

ジャズでもロックでもなんでも、こんな人気音楽になったということは、別に人種的にアフリカ系でなくたって、西洋白人だって日本人だって誰だって世界中みんなが、そんなセックスと強く結び付いた肉体派音楽を欲していたっていうことだろう。だから音楽家もみんなそれを表現したんじゃないのかな。

プリンスがあんなにエロいのは、別に彼が特異で突出した一例だとかいうわけではない。彼は単に20世紀ポピュラー音楽の根本的魅力を端的に示しただけのことにすぎない。確かに小学校低学年の子供と一緒には聴きにくいものが多いけれど、<音楽の快感=セックスの快感>という当たり前の事実を、ちょっとはっきり言ってみただけなんなんだ、プリンスはね。

2017/02/17

マイルス・イン・ジャパンの思い出

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1981年のマイルス・デイヴィス復帰後初来日公演を福岡に観に行った時は、以前書いたように僕が大失態を演じてしまったので(http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-bd16.html)、二年後83年の来日公演を大阪に観に行った時は、81年の時と同じ友人のうちの一人とまた一緒に行ったのだが、今度はさすがに松山を出発する前に、あらかじめチケットを渡しておいた。

1983年というと、僕は大学四年生になっていて、大学院に進学することを決意していた。大阪や京都の大学の大学院の過去問題をもらいにいくのを兼ねて、大阪公演を観に行くことにしたのだった。結局、東京都立大の大学院に進学した僕だけど、実を言うと本命は京都大学だった。でも落ちちゃったんだよなあ。

1983年のマイルス大阪公演は、『アガルタ』『パンゲア』をやったのと同じ中之島のフェスティバル・ホールだというのも、大阪にした大きな理由(81年は大阪城ホール)。二日連続で行われ、一部がマイルス・バンド、二部がギル・エヴァンスのバンドという構成だったのは、これまた以前書いた。二日とも観たので、二日目は夜の開演まで暇だったから、昼間は京都に遊びに行った。

京都には高校生の時に修学旅行で行ったことがあったけれど、あまり憶えていなかった。修学旅行なんてそんなに楽しくなかったし、だいたい協調性がない僕は団体行動が超苦手、というか大嫌い。でも83年の大学四年の時に行った時は、主に京都のジャズ喫茶とレコード店巡りが目的だったので楽しかった。一番印象に残っているのは蝶類図鑑というジャズ喫茶。

京都巡りもその友人と一緒だったのだが、ジャズ喫茶、蝶類図鑑に入ると、その日(マイルス公演の二日目)に、京都で面白いジャズ・ライヴがあるというポスターが店内に貼ってあって、友人がマイルスはキャンセルしてそっちへ行きたいと言いだした。それはそれで好きにしたらいいと思って、僕はそれに構わず大阪に戻りマイルスの方へ行った。

お金は既にもらっていた(まとめて二人分チケットを手配した僕が、松山での出発前にチケットと交換でもらっていた)から、その友人も結局やっぱりフェスティバル・ホールのマイルス&ギルの方へ来たのだった。二日目はマイルスの誕生日で、僕はそれを忘れていたんだけど、おかげで最高に楽しかったことも以前書いた。
1981年の来日公演がボロボロだったマイルスだけど(でもバック・バンドは健闘していた)、わずか二年ですっかり回復して、83年のライヴはかなり素晴しいものだったことも上のリンク先に書いてある。その翌年に大学院進学で上京したので、その後85年からの来日公演は全部東京で観ている。

1985年も87年も(86年は来日なし)読売ランド・イーストでのライヴだった。85年の時はギターのジョン・スコフィールドとベースのダリル・ジョーンズ(のちにローリング・ストーンズに加入)が素晴しかったのを憶えている。ドラムス担当が、長年重用したアル・フォスターから甥のヴィンス・ウィルバーンに替っていたが、ヴィンスのドラミングはどうもちょっとね。叔父も苦労して指導はしたようだが。

ギターも1983年の時はマイク・スターンとジョン・スコフィールドとのツイン・ギター体制で、マイルスはどっちかというとマイク・スターンの方を重用していたように見受けられたけんだけど、85年にはスコフィールドが一人で獅子奮迅の活躍。彼はその時演奏された「タイム・アフター・タイム」などは乗り気じゃなかったらしい。

「タイム・アフター・タイム」だけじゃなくマイケル・ジャクスンの「ヒューマン・ネイチャー」も演奏され、そういうのはスコフィールドはボスの指示だから仕方なくやっていたと、後年インタヴューで語っている。しかし、ライヴ二曲目のブルーズ・ナンバーや、「メイズ」「カティーア」「コードMD」などでは素晴しかった。

この1985年、読売ランド・イーストでのマイルス・ライヴは、FM 東京で生中継されたんだけど、僕は現場で観たくて会場にいたので、それは当然聴いておらず録音も自分ではしなかった。だがその FM 放送音源をソースにブート CD 化されたので、それを後年買って持っている。いま聴くと、まあこんなもんかという印象しか持たないけど、当時の現場ではかなり感銘を受けたのだ。

1985年の来日公演時のステージは、マイルスの頭髪が既にほぼ失われていることを日本でカミング・アウトした最初でもあった。81年も83年もステージでは常に帽子を取らなかったし、ジャズ雑誌などに載る写真でも全てそうだったので、なんだかオカシイなあとは思っていたんだよね。振り返っていろんな写真をよく見ると、70年代半ばから既にどうもちょっと妙だよね。ウィグだろう。

同じ読売ランド・イーストでのマイルス公演では、1987年のは強く印象に残っている。突然の雷雨で開始が大幅に遅れ、あとで知ったけれど、ステージ構成も大幅に短縮されたらしい。87年バンドは、既に晩年最良のフォーリー〜リッキー・ウェルマン体制になっていて、演奏内容も素晴しかった。短縮された(のはあとから知ったが)ので、かなり短いセットだった。

1987年では、特に真っ暗な夜空に響く「タイム・アフター・タイム」が涙が出るほど美しくて最高に感動したのだった。YouTubeで探すと映像付きで上がっている。シンセサイザーなどキーボードのアレンジも、マイルスのミュートとオープンを使い分けるドラマティックなトランペット・ソロ展開も見事の一言。
1984年のライヴでの初演(正確に何月何日かは不明)以後、91年に死ぬまでの間に無数にある、マイルスによる「タイム・アフター・タイム」のなかで、この87年ライヴ・アンダー・ザ・スカイでのヴァージョンが最高のものだと僕は信じている。この87年も上述の通り現場で観たが、この年の FM 中継は録音放送だったので自分でエアチェックしたのを、数年前にデジタル化した。

その翌年1988年に三軒茶屋の人見記念講堂で聴いた単独公演は、81年復帰後の全てのマイルスの来日公演のなかでも、いろんな意味で一番楽しいもので、内容も一番充実していたような記憶。この頃になると、ライヴでやる曲の多くはスタジオ録音がないか、あっても当時未発表だったので、なんの曲をやっているのか当時分らないものもあった。

1988年で一番面白かったのが、ギター(リード・ベースのクレジットだが)のフォーリーをフィーチャーした「ヘヴィ・メタル」という曲(曲名は随分後になってから公式に発表されたわけだが)。下の YouTube 音源も、観るとマリリン・マズールがいるからこれも88年だ。まあこの「ヘヴィ・メタル」は88年にしかやっていないから。メルボルンかぁ。
1988年頃になると、マイルスはプリンスのステージを相当意識していたようで、ライヴはかなりショウ・アップされるようになっていた。ステージ衣装も、佐藤孝信のアーストンボラージュを一回のステージで三回くらい着替えていた。佐藤孝信自らがステージ袖に控えていて、次はこれを着てとかいろいろアドヴァイスしていたみたい。

1988年は、CD アルバム『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』でも聴けるように、オープニングにジョー・ザヴィヌルの「イン・ア・サイレント・ウェイ」を使っていて(そういうのはこの年だけ)、といってもマイルスはメロディを吹かず、主にシンセサイザー二台がそのメロディーを弾く上を、マイルスが自由に走るという感じだった。

マイルスの来日公演は、その1988年をピークにどんどんと下降線を辿っていくようになり、ほぼ毎年のようにやっていた来日公演も、最後の方はちょっと聴くのがしんどい気がするほどだった。移転前のブルーノート東京で行われた時も行ったけれど、料金がバカ高かったわりにはそれに見合わない内容だったのを憶えている。

僕が一度だけ行かなかったマイルスの来日公演があって、それは1990年に東京ドームで行われたジョン・レノン・トリビュート・ライヴ。この時はサックスのケニー・ギャレットだけを連れて来日し、あらかじめ録音してあるカラオケ伴奏で「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」をやったらしい。行けばよかったのかもなあ。

とはいえ、それ一曲しかやらないというのが分っていたし、バンドの生演奏でもないし、僕としてはちょっと行く気がしなかったんだよね。行った中山康樹さんが雑誌かなにかでレポートを書いていたけど、ちょっと寒々しい感じがしたと書いていたはず。中山さんは熱心なジョン・レノン・ファンでもあるんだけど。

東京ドームのだだっ広いステージに、マイルスとケニー・ギャレットの二人だけ、そのバックにカラオケ・テープの伴奏が流れるという様子を想像しただけで、僕はちょっと萎えてしまう。でもそれが結局マイルス最後の来日公演になってしまったから、マイルス好きならば、やはり行っておくべきだったんだろうなあ。今は少し後悔している。

2017/02/16

スライ〜ウッドストックの興奮

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スライ&ザ・ファミリー・ストーンが例のウッドストック・フェスティヴァルに出演したのは1969年8月17日だが、それも深夜というより、もはや早朝に近い三時半スタートだったらしい。あんなエキサイティングな音楽をそんな時間にやるという、ステージに立ってやっている側は普通の時間かもしれないが、観客側はどうだったんだろうなあ?

話が逸れるけれど、音楽家とか芸能人とか、それらの関係者とか熱心なファンって、どうしてああも深夜型生活の人が多いんだろうね。深夜型の度が過ぎて、もはや早朝型に近づいている人たちがたくさんいるじゃないか。夜中12時を廻るなんてのは宵の口で、いわゆる丑三つ時に最も活動が活発になって、朝日が昇るのを見てからベッドに入るとかさ。

僕だって長年それに近い生活を続けていた。起きるのがたいてい正午前で、それから準備して午後三時頃からの大学での講義へ向かうとかね。今からしたら考えられないパターンだが、大学の教師は比較的自由に自分の授業時間を決めることが可能(な場合が多い)なので、できることだった。

深夜なにをしているのかというと、多くの同業者は本を読んだりの研究活動をしているのかもしれないが、僕の場合は音楽を聴いていた。まだインターネットをやっていなかった時代には音楽を聴きながら本を読み、ネットが普及して以後は聴きながらネット活動。ホントこれだけ。今は朝から仕事があるのでライフ・スタイルがすっかり変貌し、休日でも朝起きるようになっている。

どうでもいいことだった。スライのウッドストック出演の話。1969年8月という日付の持つ意味は、ジャズばっかり聴いている人間にはピンと来ないかもしれないが(でもマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』はまさに69年8月録音で、それもウッドストック・フェスティヴァルの翌日からの三日間で録音されたという<あの時代>の産物)、ロック〜ポップ〜ファンク・ミュージックのファンにとっては途轍もなく大きなものがある。

あの時代までのスライは、まさにそんなロックとポップとソウルとファンクをゴッタ混ぜにしたような音楽をやっていて、1969年8月とはそんなスライのミュージカル・ピークだったのだ。真の意味でのスライの頂点は、69年12月にシングル盤「サンキュー」をリリースした時かもしれないが、その後は急速にダウナーでヘヴィーなファンクへと向かっていく。

1970/71年以後のスライのそんなダーク・ファンクもまた時代の鏡であって、60年代後半〜末あたりの、それもアメリカ西海岸を中心にした、ある種の多幸感というか夢というか幻想というか、そんなものがもろもろ崩れ去って以後の時代の気分を反映しているわけだ。だけど21世紀になった今聴いてどっちがよりチャーミングに響くかというと、僕にとっては鬱屈する前までのスライ、すなわち「サンキュー」までだ。

そんな楽しく賑やかなアッパー・ファンクをやっていた時代のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの公式ライヴ録音盤は、今では二種類ある。今日最初から書いている1969年8月のウッドストック、そして前年68年10月にフィルモア・イースト(ウェストの方じゃないのがちょっと意外)でやったのを収録した四枚組だ。

1968年のフィルモア・ライヴは、かなり最近、確か2015年にリリースされたばかりで、こちらは二日間で計4セットが最初からフル収録されている。だが一方、翌69年8月のウッドストック・フェスティヴァルでのパフォーマンスは、長年断片的にしか聴けなかった。

それはスライばかりではなく、あの1969年8月のウッドストック・フェスティヴァルに出演した音楽家のライヴ・パフォーマンスは、みんなどれも同じく一部しかリリースされておらず、それは個々のミュージシャン云々というよりも、フェスティヴァル全体を総体として把握させたい、あの祭典自体の持つ意味を記録としてリリースしたいということだったのかもしれない。あるいは単に総時間数が長すぎるから、現実的にほぼ不可能なだけか?

21世紀になって、もはやそんな意義は薄れてしまったのでということかどうか知らないが、2009年にソニー/レガシーが CD10枚組セットで『ザ・ウッドストック・エクスリピアリエンス』というものをリリースした。サンタナ、ジャニス・ジョップリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェファースン・エアプレイン、ジョニー・ウィンターのパフォーマンスがフル・セットが収録されている。

しかし僕はそれを買わなかった。だいたいウッドストック・フェスティヴァル自体を横目でチラチラ眺めているような気分が昔からずっと続いていて、愛と平和とドラッグとヒッピーとなんちゃらとか、そんなもんアホかいなとか、まあそんな感じだったんだなあ。それをいまさらフル・セット聴いてもなあとかね。

それでもライノが同じ2009年にリリースした CD六枚組の『ウッドストック・40・イヤーズ・オン:バック・トゥ・ヤスガーズ・ファーム』は一応買った僕。数えるのも面倒くさいほど多くの(主に)ロック系音楽家の抜粋パフォーマンスが収録されていて、これはこれで聴いたら面白いものではあった。ところで同じ音源から十枚組はソニー、六枚組はライノが出すっていうのは、収録音楽家の権利問題なんだろうか?

とにかく1969年8月のウッドストック・フェスティヴァルでのパフォーマンスをフル・セットで聴きたいと僕が思ってきた音楽家の最右翼がスライ&ザ・ファミリー・ストーンで、その次がジミ・ヘンドリクス。たぶんこの二者だけだなあ。そんでもってジミヘンのウッドストック・パフォーマンスは、1999年にフル・セットが『ライヴ・アット・ウッドストック』CD 二枚組でリリースされていたので、比較的早くに渇望は癒されていた。

ってことはつまりスライだけだったのだ、僕の場合、長年「このバンドのウッドストック・パフォーマンスをフル・セットで聴きたい」と熱望してきたのは。だってさぁ、断片的にリリースされていたそれを長年聴いてきていて、こりゃタダゴトじゃないぞと感じていたんだよね。

その夢がようやく実現したのが、前述2009年のソニー盤10枚組で、そこから単独でスライ&ザ・ファミリー・ストーンの分だけが(おそらく他の音楽家のもそれぞれ単独で)CD 二枚組『ザ・ウッドストック・エクスピアリエンス』として同じ2009年にリリースされ、僕は狂喜乱舞して即買い。しかし本音を言うとスタジオ・アルバム『スタンド!』との抱き合わせ二枚組じゃなく、ウッドストック・ライヴだけ一枚物でリリースしてほしかった。これしかないから仕方ないが。

スライの『ザ・ウッドストック・エクスピアリエンス』は約51分のパフォーマンス。これがもう興奮するなんてもんじゃないくらい凄いのだ。CD で聴いて、しかも時代的にも地理的にも遠く離れた僕が聴いてもひっくり返るほどエキサイティングに響くんだから、1969年8月の生演奏を体験した観客はどんなだっただろう?

1969年8月のライヴなので、スタジオ盤『スタンド!』までは既にリリースされていた。実際そこまでの四枚のうち、第一作の『ア・ホール・ニュー・シング』を除く三作品からヒット曲を満遍なく選んで、ウッドストックでは演奏されている。つまり『ザ・ウッドストック・エクスピアリエンス』は、「サンキュー」を除くライヴ版『ザ・グレイテスト・ヒッツ』みたいなものだ。

そんなヒット・パレード的選曲で、しかもそれらが全部ズルズル繋がって約51分間ほぼ途切れなく演奏され(まあそこはソウル〜ファンク・ライヴの定番マナーだが)、スタジオ・オリジナルよりノリもヘヴィーになって、しかもディープさを増しているような部分もあり、踊りやすいような近寄りがたいような、よく分らないが、異常な興奮のるつぼに放り込まれる。

『ザ・ウッドストック・エクスピアリエンス』で聴けるスライの演奏のノリと興奮具合は、なんというかアメリカ大衆音楽界にごく一般的に存在するようなものとは若干違っているかもしれないように僕には聴こえる。はっきり言えば黒人キリスト教会におけるゴスペル・ライヴ・パフォーマンスで聴けるそれに近いかもしれない。

収録曲のどれも全部そうだが、最もはっきりそれを感じるのが6トラック目のメドレー「ミュージック・ラヴァー/ハイアー」と続く7曲目の「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」だ。 これら二つのトラックでは、リーダーのスライが牧師、バンドがゴスペル合唱・演奏隊、観客が教会の会衆みたいだなあ。

ことに6トラック目のメドレーでは後半部の「ハイアー」、そしてスタジオ・オリジナルもそれをもとに拡大した7曲目の「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」が、いろんな意味で黒人教会のゴスペル・ライヴにかなり近い。スライがよく喋って、「ハイアー!ハイアー!」と叫ぶと、バンドの連中と観客が一体となって「ハイアー!」と返す。それは牧師と会衆とのやり取りと同じだ。

言葉の意味も「もっと高く!」というものだから、直接的にはいかにも1960年代後半的な「より興奮を!」(含むドラッグ体験)という意味だろうけれど、ちょっと見方を変えれば、教会内で「魂をより高いところまで上げるのです!「高次元(神)に近づくのです!」とやり取りするのと近い意味に聴こえなくもない。

そして最も重要なのがリズムとサウンドのノリだなあ。「ミュージック・ラヴァー/ハイアー」と続く「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」では、バンドの演奏するリズムが完全に縦ノリのディープでなもので、まるで教会で会衆がピョンピョン跳ねているかのよう。サウンドもスライの弾くオルガンがよく聴こえるが、キリスト教会でのそれに近いように聴こえる。

「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」の後半部で、バンドの演奏がグレッグ・エリコのドラムス以外全部ストップして、ドラムス・サウンドと声だけになる箇所がある。スライはスタジオ録音曲でも、曲の途中でよくパッと演奏を止めてハミングだけになったりするけれど、ウッドストックでのこれはそんなスカしたクールさではなく、完全に違うホットなフィーリングだ。

ウッドストックの「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」では、5:33 でグレッグ・エリコのドラムスによる激しいビートだけになり、それに乗ってスライが「ウォント・テイク・ユー・ハイアー!」と叫ぶと、聴衆も「ハイアー!と応えるというコール&リスポンスが繰り広げられる。アメリカ黒人教会を通り越して、まるでアフリカ音楽における打楽器アンサンブルに乗ってのリード・ヴォーカル&チャントの応酬を聴いているみたいだ。

そんな「ミュージック・ラヴァー/ハイアー」と「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」が、少なくとも僕にとっては、スライ&ザ・ファミリー・ストーンによる『ザ・ウッドストック・エクスピアリエンス』約51分間のハイライトでエクスタシーだ。これ以上に興奮できるスライの音楽は他にはないね。

2017/02/15

フォスターのミンストレル・ソングとパーラー・バラード

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音楽の新作品を「新譜」、旧作品を「旧譜」と呼ぶよね。21世紀の今でもこれが日常的であるのは、もちろん録音技術が普及してレコード商品が一般化する前は、楽譜出版が音楽新作品のリリースと同じ意味だった時代の名残だ。だから実を言うと僕はあまり使っていない(はず)。アメリカでは19世紀半ばあたりのことじゃないかなあ、楽譜出版が産業として一般的になったのは。

その時代のアメリカで、職業音楽家として身を立てようとした第一号がスティーヴン・フォスターだ。だからこの人が音楽産業界初のプロフェッショナルだったということになる。お前はなにを言っているんだ?ヨーロッパのクラシック音楽界には、もっとずっと前から職業作曲家がいたじゃないか!と思われるだろうが、ある時期までのクラシック音楽界を「産業」と呼んでいいのかどうかは微妙だ。

曲創り(と場合によっては演奏)一本で生計を立てていたという意味でだけなら、そりゃ J・S・バッハ以後、 モーツァルトだってベートーヴェンだってみんなプロフェッショナルだけど、あの時代までにはレコードがないなんてことは言うまでもないが、楽譜出版だってまだ産業として成立していたかどうか疑わしい。疑わしいというか、まあ成立していない。

楽譜が機械印刷されるようになったのは、もちろんグーテンベルクによる活版印刷技術の発明以後だから、はっきりしないがおそらく15世紀後半か16世紀前半あたりだろう。楽譜の印刷って、主に文字だけの書籍の印刷と違って、五線・記号・文字などいろんなものがあり厄介だから、最初は苦労したんじゃないかな。

それ以前は楽譜も、それから文字(と絵など)だけの本も、全て筆写による流通(と言えるのか?)だったことになる。楽譜の世界には疎い僕だけど、写本の世界はほんのちょっぴり知っている。一般の方で写本の姿やどうやって筆写していたかご存知ない方でも、現在でも趣味として存在するカリグラフィーとか、あるいは映画『薔薇の名前』はご覧になったことがあるんじゃないかなあ。

元はイタリアの文芸批評家ウンベルト・エーコが書いた同名小説を映画化したもので、あれの舞台は中世のキリスト教会だから、当然印刷技術などまだ存在しない。小説でも映画でもいいが、映画の方が(DVD にもなっているだろう)具体的な姿かたちが見えるのでオススメ(僕は小説の方が楽しかった)。ショーン・コネリーが主役で、最後は『007』シリーズ顔負けの展開になるしね。あの映画では筆写室が登場し、筆写担当の僧侶たちが写本作成に励むシーンが出てくるもんね。そもそも『薔薇の名前』では写本と図書館が非常に重要な役割を果たしている。エーコはたぶんホルヘ・ルイス・ボルヘスからあんなイメージを思い付いたんじゃないかと思う。

とにかく流通したとは言えないだろうが、筆写によって本も楽譜もコピーされていた。それが印刷されるようになって、それが一般庶民にまで流通するような産業として成立したのが、僕の認識だと本も楽譜も19世紀半ばだ。大衆社会の成立ってことで、それはすなわち、本でも楽譜でも出版物を買って自宅で楽しむ余裕のある階層が社会に登場していたという意味になる。

様々な文献で読むと、そんな言わば中流階級の成立が、ヨーロッパやアメリカでは19世紀半ばだったということらしい。そういう人たちのライフ・スタイル、すなわち仕事を終えた夕方や夜、あるいはお休みの週末などに自宅の居間で読書を楽しんだり、部屋にピアノがあって(ということはある程度の経済力が必要)、買った楽譜を弾いたり、合わせて歌ったりして家族や親戚や近所の友人などと娯楽のひと時を持つ、そんな階層の成立が楽譜産業=音楽産業の登場には不可欠だったはず。

そういえば誰だっっけなあ、楽譜を買って、自宅のリヴィングのみならず旅先にまで持ち運び、それを読んで頭のなかで音楽を鳴らして楽しむという趣味があったドイツ人作家の話を読んだことがある。ホント誰だっけ?ゲーテだったっけなあ?忘れた。僕みたいにそんな読譜能力のない人間には想像できない話だ。今なら携帯音楽再生装置が一般的に普及しているので容易に持ち運べるようになったけれど、19世紀あたりまでだと、楽譜を携帯する以外に「音楽」を旅先に持ち運ぶ手段はない。

というわけなので、19世紀半ばより前のクラシック音楽の作曲家は、いくら一流の腕前でも、「音楽産業」のなかで働いていたとはまだ言いがたい面があるんじゃないかと思うんだよね。生演奏会だって、一般大衆が出かけられるようになるまでは、ごく一部の階層だけのものだった。 そういうわけで、まあクラシック音楽の世界には首を突っ込まないことにして、ポピュラー・ミュージックの世界では、アメリカにおけるスティーヴン・フォスターが初の職業音楽家だったと言える可能性がある。

フォスターは、まず最初はミンストレル・ショウのために曲を書いた。ミンストレル・ショウはみなさんご存知のものだから説明不要だ。およそ1830年前後にはじまって、南北戦争後は姿が変わりヴォードヴィル・ショウの方が人気が出て、職業的エンターテイメントとしてのミンストレル・ショウは、1910年代あたりでほぼ消滅した(がその後もアマチュア間では細々と存続したらしい)。

つまりミンストレル・ショウは19世紀半ばのものであって、その時代にフォスターはそのエンターテイメントの生舞台で歌ってもらうために曲を書いた。しかしミンストレル・ショウのために曲を書いても大した収入にはならなかったらしく、だから作曲家として楽譜出版会社と契約して曲を出版し、それで身を立てることを考えたようだ。

それが1853年にニュー・ヨークのファース、パウンド&Co と契約したあたりのことらしく、その前後にたくさんの佳曲を書いている。フォスターが最初に書いた佳曲は「オー!スザナ」だと思うんだけど、これはもっとずっと前の1840年代末あたりの作曲。1850年代に入ると「オールド・フォークス・アット・ホーム」(スワニー・リヴァー、1851)「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」(1853)「ジニー・ウィズ・ライト・ブラウン・ヘア」(金髪の「ジェニー」との邦題だが、歌を聴くと「ジニー」だね、1854)などなど、日本でも昔からお馴染の曲がある。

それらのうち、もっと前に書いたらしい「カンプトン・レイシズ」(草競馬)や、あるいは前述の「オー!スザナ」「オールド・フォークス・アット・ホーム」「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」、また後年の「オールド・ブラック・ジョー」(1853)などは、実際ミンストレル・ショウで演じられたり、またそうでなくともそんな背景を持ったような曲だ。

しかしミンストレル・ソングとは、すなわち貧乏人の労働者階級のためのものであって、そもそもミンストレル・ショウ自体、白人(新移民)労働者階級のための娯楽で、その好みに合わせるように書いた曲を、そのまま社会一般に楽譜で出版しても売れたかどうかは疑わしい。プアー・ホワイト階層と、部屋にピアノがあるような中流層とでは、音楽の好みも違っていたはずだからだ。

現在 CD でフォスターの書いたそれらのミンストレル・ソングの数々を聴くと、なかなか面白いものがあるかもしれないと感じる。僕が最もよく聴くフォスターのソングブックは、歌手ネルスン・エディが歌ったものだけど、このネルスン・エディは基本的にはクラシックの声楽家であったとはいえ、ポップ・フィールドでも売れたというクロス・オーヴァー・シンガーで、僕みたいな人間でも聴きやすい。

それにジャズ歌手やジャズ系のポップ歌手などが歌うフォスター(は大学生の頃にイヤというほど聴いた)は、やはりフェイクしていたり、独自の味付けがしてあって、原曲の持つ旋律の流れがイマイチ分りにくい場合があるんだよね。アル・ジョルスンが歌う「オールド・フォークス・アット・ホーム」「オールド・ブラック・ジョー」など、なかなか良いと思うけれど、曲そのものを味わいたいという気分の時は、ネルスン・エディを僕は聴く。リズムの面白さみたいな部分はないけれど、フォスターの書いた旋律は一番分りやすいんだ。

そうやって聴くと、ミンストレル・ショウとは無関係で、最初から出版物としての楽譜を書いた晩年の専業作曲家時代の「ジニー・ウィズ・ライト・ブラウン・ヘア」や「ビューティフル・ドリーマー」(夢見る人、1862)などは、どうも魅力が薄い。ただのセンティメンタル・バラードであって、要するに英国由来のパーラー・バラードの系統なんだよね。

パーラー、すなわち居間でピアノでも弾きながら歌って感傷を味わうようなもので、最初から書くようにこういうのが19世紀半ばのポピュラー・ソングとしては中流階級に需要があったものだったんだろう。しかしもし仮にフォスターが、キャリアの最初からこういう曲ばかり書いていたら、20世紀以後の人気はなかったかもしれない。

楽譜出版会社と契約して楽譜出版をはじめる前の、ミンストレル・ショウのための曲や、あるいは少なくともそれを頭のなかに思い浮かべるようにして楽譜を書いたもの、つまりひっくるめて大きな意味でのミンストレル・ソングの数々の方が、いま聴くと面白い。これはなかなか興味深い事実だなあ。

アメリカで成立した種類のポピュラー・ミュージックですら、やはり低層労働者、もっといえば一般庶民の意識・感覚に根ざしたようなポップ・チューンこそが、フォスターの名前を現在でも高からしめているものであって、やっぱり大衆音楽は、そういう猥雑な大衆パワーのフィード・バックを失って、中流の居間、応接間で鑑賞だけするようなものになるとつまらないものに堕してしまう。ミンストレル・ショウ自体は俗悪極まりないものだけどね。

2017/02/14

僕の楽しいヴァレンタイン

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フランク・シナトラその他も歌っているように「毎日がヴァレンタイン・デイだよ」というわけで、プレゼントされなくたって自分で買って年がら年中チョコレートを食べているチョコ好きの僕だけど、今日はまた日本では特別チョコが飛び交う(らしいが、実体験はゼロ)日なので、曲「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」の話をしたい。

そもそもヴォーカル・ヴァージョンをお聴きになればお分りのように、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」という曲はヴァレンタインという名の相手へ賞賛・愛を歌う内容で、容貌が劣っていようと、頭脳明晰でなくとも、そのままでいいんだ、君は大の僕好みだ、そばにいてくれ、だから毎日がヴァレンタイン・デイだよという、まあ普通のラヴ・ソングだ。この場合の funny はもちろん褒め言葉。ビリー・ホリデイも歌った「ヒーズ・ファニー・ザット・ウェイ」とかも同じ。

ヴァレンタイン・デイの発祥とされるキリスト教西方教会の聖ウァレンティヌスは男性だけど、その後、英語圏(のことしか分らないので)では Valentine というファースト・ネームは女性にも男性にも付けることができるもの。だから歌詞内容を書き換えずに男性歌手でも女性歌手でもそのまま歌いうるし、実際歌っている。

ジャズ・ファンに「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」と言えば、普通チェット・ベイカーのヴァージョンを思い浮かべる人が多いんじゃないかなあ。まず1953年にジェリー・マリガン・カルテットの一員としてインストルメンタル演奏で、次いで54年の『チェット・ベイカー・シングズ』で、今度はヴォーカル・オンリーでやっている。

日本でもチェット・ベイカーは大人気だよね。しかしながら僕はどうもあの人はイマイチ好きになれない。どうしてなんだか自分でも全く分らないが、トランペットもヴォーカルもちょっと気持悪い。楽器も歌もノン・ヴィブラートでストレートなサウンドは僕好みのはずなのに、おっかしいなあ。なにかこう、芯がなく健康的でない、退廃的なイメージが嫌いなのかなあ?いやあ、全く分らない。

というわけで僕にとっての「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、歌手がやったものならフランク・シナトラかエラ・フィッツジェラルド、楽器奏者ならマイルス・デイヴィスがやったものと決まっている。特にマイルスは1956年にプレスティジに初録音(『クッキン』収録)して以後、完全なる十八番(オハコ)だったので、録音数もかなりある。

マイルスの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」初演は、完全に1954年の『ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』収録のフランク・シナトラ・ヴァージョンを下敷きにしている。全体的な解釈がそうだけど、一番モロ分りなのが途中でリズム・パターンが変化するアレンジだ。

まずフランク・シナトラ・ヴァージョンの方をご紹介しよう。聴いてすぐ分るように、ワン・コーラス歌い終わったツー・コーラス目はいきなりサビからはじめるのだが、そこの出だしが三拍子になっている。それ以外は全部二拍子だ。これはひょっとしてアレンジャー、ジョージ・シヴァーロ(指揮だけネルスン・リドル)のアイデアだったのかなあ?
『クッキン』収録のマイルス・ヴァージョンでは、このリズムが変化するパターンをそのまま踏襲。といってもマイルスの場合は、2コーラス目をサビからはじめてその頭だけ三拍子というのではなく、全体的には緩いテンポのバラード演奏の途中で、何度か繰返しリズムがちょっとだけ快活な感じになるという具合。特にベースのポール・チェンバースがそれをやる。
これはマイルスが普段から言っているように「誰かがやっているのをそのまま使うな、一つ足したり二つ引いたりして使うんだ」というそのやり方で、シナトラ・ヴァージョンにおけるリズム・チェンジのアレンジを自己流に再解釈したということなんだろうなあ。このやり方がもっとより効果的に発揮されているのが、1964年のニュー・ヨークはリンカーン・センターでのライヴ・ヴァージョン。
コロンビア盤『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』の A 面一曲目に収録されているこのヴァージョン。アルバム・タイトルに持ってきているんだから、この日のバラード演奏ではやはりこれが出色の出来だったと、プロデューサーのテオ・マセロも判断したんだろう。

お聴きになればお分りの通り、ハービー・ハンコックの弾くピアノ・イントロに続き、まず最初はぼぼ無伴奏かつテンポなし状態でマイルスが吹きはじめる。素晴らしい音色だよね。マイルスとしてはオープン・ホーンでここまで美しい音色を出したことはほとんどないんじゃないかと思うほどだ。

ハービーのピアノだけでなく、すぐにロン・カーターのベースも入ってきて、2:45 からテンポ・インするので、そこからはトニー・ウィリアムズのシンプルなドラミングも聴こえはじめる。このリズム・セクション三人は、非常に緊密に連絡しあって演奏しているのがよく分る。

問題の箇所は 4:07〜4:38 まで。そこは曲全体のサビにあたる部分なのだが、リズム・パターンが全く違うものにパッと一瞬でチェンジして、トニー・ウィリアムズがシンバルで細かいパターン、それもほんのちょっぴりラテン風かなと思わないでもないようなものを叩いているよね。

トニーは同じシンバル・パターンを、マイルスのソロ終盤における高音ヒットから下ってくるというカタルシス直後の最終盤 5:15〜5:20 でも使っている。その部分はその直前でスネアの小さい音で連打をしてからシンバルのパターンへ行く。

これはかなり面白いよねえ。1956年のプレスティジ録音ヴァージョンで聴けるリズム・チェンジを大幅に拡大解釈したような演奏だ。マイルスによる「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」演奏の最高傑作であると同時に、ジャズ・マンがこの曲をインストルメンタル演奏するもののなかでは一番面白く、一番深い解釈を示したものじゃないかなあ。

この1964年リンカーン・センターでの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」でこんなリズム変化が聴けるのは、マイルスのソロのあいだだけで、その後のジョージ・コールマンのテナー・サックス・ソロ、ハービー・ハンコックのピアノ・ソロのあいだには存在しない。

ってことは、あれはボスの指示だったのか?あるいはリズム・セクションによるその場の即興的思い付きだったのか?僕は後者の可能性の方が高いかもと思う。なぜならばこのハービー+ロン+トニー三人のリズム隊が伴奏をやったマイルス・ライヴでの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、これ以外に公式盤収録だけなら四つあるのだが、こんなリズム変化は一つも聴けないからだ。

もしボスのマイルスが「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」はこうやりたいんだ、だからこの部分だけこんなリズムでやってくれと指示していたならば、録音年月日が近い他のライヴ・ヴァージョンでも聴けてよさそうなものじゃない?僕はそう思うんだけどね。それに『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『”フォー”&モア』になった1964年2月12日のニュー・ヨークのリンカーン・センターはフィルハーモニック・ホールでのコンサートは、非常にスペシャルなものだった。

1964年ならボスのマイルスはそんなのとっくに場慣れしていただろうが、リズム・セクションの三人はまだ若く、さらにフィルハーモニック・ホール(は当時の名称で、今はネイミング・ライツ売買で変わっている)は1962年オープンという、まだできて間もない「新しいカーネギー・ホール」みたいなものだったのだ。

ニュー・ヨーク管弦楽団のホーム・グラウンドとして建設されたフィルハーモニック・ホールで、しかもオープン後まだ二年しか経っていない大舞台に立つハービー、ロン、トニーの三人は相当に緊張していたようだ。それは彼ら自身が後年のインタヴューで明言している。よ〜し、やってやるぞ!と気合が入ったものの、いざ開演となるとガチガチで、ステージを降りる時は大失態をやらかしたとしょげていたんだそうだ。

サックスのジョージ・コールマンの発言は読んだことがないのだが(あんまり好きな人でもないから追いかけていない)、彼もまた同じだったんじゃないかなあ。つまりトランペッターのボス以外の四人は相当緊張していたはずなのだ。ところがハービーは大失態だったとしょげた(がレコードで聴いたらかなりいいと驚いたらしい)と言うが、 その緊張感が結果的にはいい方向へ出たんじゃないかなあ。

だからあの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」でのトランペット・ソロで聴ける風変わりなリズム・チェンジも、そんな極度の緊張がもたらすその場限りの瞬時の即興だった可能性もあると僕は考えている。もちろんボスによる1956年プレスティジ・ヴァージョン初演で少し似たようなリズム変化が聴けるのを、新クインテットのメンバーも繰返し聴き込んで参考にしたのは明白だけど、1964年ヴァージョンはそこから考えられないほどの大きな拡大解釈になっているからね。

ジャズ・メンがやる「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」はたくさんあるのでキリがなくって、ビル・エヴァンス&ジム・ホールの『アンダーカレント』一曲目にあるのはバラード調ではないリズムになっていて、ちょっと面白いね。でもジャズ・ヴァージョンではなく、ラテン音楽家によるものをほんのちょっとだけ書いておく。

それはプエリト・リコ系ニュー・ヨーク人であるティト・プエンテの1955年ヴァージョン。『ザ・コンプリート・78s』の第四集に収録されているんだから、当時は当然 SP 盤でリリースされたものなんだろう。このシリーズは二枚組が四つあって、1949〜55年の Tico 盤音源集。全部で136曲あって、このなかにはジャズ・ナンバーもたくさんあるんだよね。

その「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」では、クレジットはないがティトはヴァイブラフォンを担当している。インストルメンタル演奏でヴォーカルはなし。フル・バンドでの演奏で、リズム・パターンはやっぱりラテン音楽家だけあるなという感じ。パーカッションの使い方もいかにもキューバン〜プエルト・リカンといったものだ。
しかしこの YouTube 音源、映像部分に「1959」の文字が踊っているし、同じ音源をアップしている他のものでも「1959」とあるんだが、いま僕の手許にあるティトの録音集『ザ・コンプリート・78s』を見ると、1955年と判断できるんだ(が明記なし)けどなあ。どうなってんの?どなたか教えてください。

2017/02/13

フィリー・ソウルな黒人ロッカー

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デビューが1989年だから、僕の感覚だとかなり最近の音楽家であるレニー・クラヴィッツ。そんな最近の人であるとはいえ、クラシック・ロック、というかヴィンテージ・ロックのファンであればかなり好きな方が多いはず。実際クラヴィッツの音楽はモロそのまんまヴィンテージ・ロック風だ。

クラヴィッツは黒人なんだけど、それにしてはやはりロッカーだと言いたいような音楽性の人だよね。リリースされるアルバムをリアルタイムで買って聴いていた人であれば、これは誰でも納得できるはず。ジョン・レノン(を中心とするビートルズ)、ジミ・ヘンドリクス、レッド・ツェッペリンなどの要素が非常に濃厚にあるからだ。

といっても僕の場合は、デビュー・アルバム『レット・ラヴ・ルール』(というタイトル自体がジョン・レノン的)から全てリアルタイムで買っていたわけではない。デビュー後しばらくは気が付いていなかった。買ったのは1993年の三作目『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』から。オープニングのアルバム・タイトル曲が完全にレッド・ツェッペリンだったからだ。
このミュージック・ヴィデオが、当時テレビの音楽番組でバンバン流れていて、コイツ誰だ?ツェッペリンみたいじゃないか!と思って、そうか、レニー・クラヴィッツっていうのか、CD 買おうとなって CD ショップに足を運んだのだった。それで買ったアルバム『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』は本当によく聴いた。

クラヴィッツはヴォーカリスト兼マルチ楽器プレイヤー。買ったアメリカ盤 CD 附属ブックレットに一曲ごとの歌詞と演奏者名・担当楽器が明記されているのだが、『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』では、どの曲も若干のゲスト参加ミュージシャンを除き、全ての楽器をクラヴィッツ一人で多重録音している。

ってことは、同じ黒人の先輩で、やはり一人多重録音の密室作業でアルバムを製作する、そしてやはりポップなロッカーだという面もかつては強かったプリンスと同じだってことだなあ。音楽的にはプリンスからの影響があるのかどうかちょっと分りにくい。あるように思うけれど、でもそれはやや抽象化されている。

『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』でちょっと驚いたのは、そのヴィンテージ・ロック風サウンドだけでなく、実際の使用楽器とスタジオ機材もヴィンテージものにこだわっていることだった。CD 附属ブックレットにそれらの写真がずらずらと並んでいるのだが、1993年にしてはありえないかもと思うほどのヴィンテージ・マニアぶり。

1993年というと、既にプロ用 DAW(デジタル・オーディオ・ワークステイション)ソフトの Pro Tools がリリースされていたはずだけど、クラヴィッツはコンピューターは一切使わない(ある時期以後このポリシーは変更したようだが)。アナログ楽器とアナログ機材にこだわっていた。

『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』では一曲だけメロトロンも使われている。1993年だと、もうこの楽器を使うのはよっぽどの好き者かヴィンテージ愛好家だけだったんじゃないかなあ。同じサウンドをデジタル・シンセサイザーで出せるわけだから使う意味がない。それなのにクラヴィッツはメロトロンにこだわっていた。

こんなやつ、いないよねえ。とにかく使用楽器、スタジオ機材、コンソール、そしてアナログ・テープまで使って録音するというこだわり方のクラヴィッツで、実際の音楽性もそういう部分に象徴されるような1960年代後半〜70年代頭頃のロック風サウンドだった。

『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』以後、僕は新作を買う方向へなぜだか向かわず、その前に二枚あると分ったアルバムを買って聴いていた。1989年の『レット・ラヴ・ルール』と二作目1991年の『ママ・セッド』。聴いてみたら、『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』よりもそれら二作の方が断然よかった。少なくとも僕好みだった。

しかしデビュー作『レット・ラヴ・ルール』の売れ行きはどうもイマイチだったらしい。ビルボード200で40位に届かなかったようだ。 二作目『ママ・セッド』はもう少しだけ売れて39位だけど、やっぱり大ヒット作になったとは言いがたい。クラヴィッツがブレイクしたのは、やはり三作目の『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』でだ。

それで日本でもどんどん聴こえてきていて、バンバン流れるのが上で書いたように僕の耳にも入ってきてクラヴィッツを知ることになった。前作の二枚もひるがえって売れるようになって、二枚とも結果的には RIAA のゴールドディスク、プラチナディスクに輝いているが、それを獲得したのは、二枚とも1995年のことだからね。

今聴き返すと、僕のなかでは好みや評価の順番が完全に逆転している。最初の二枚『レット・ラヴ・ルール』『ママ・セッド』の方が断然いいもんなあ。特に1991年の二作目『ママ・セッド』が最高に素晴らしい。これは今聴いてもかなり楽しめるアルバムなんだよね。それに比べたらブレイクのきっかけになった『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』は色褪せて聴こえる。

『ママ・セッド』は1991年の作品ながら、まるで1971/72年あたりにリリースされたようなアルバムなんだよね。特にいいのが一曲目「フィールズ・オヴ・ジョイ」、二曲目の「オールウィズ・オン・ザ・ラン」、四曲目の「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」の三つだ。この三つは今でも輝いている。

誤解がないように書いておくが、僕が持っている『ママ・セッド』はアメリカ盤 CD。ところが日本盤 CD は曲順が違っていたようだ。日本盤なんかに目もくれなかった当時は全く気付いていなかったが、いまネット情報で読むと、日本盤では「フィールズ・オヴ・ジョイ」は」二曲目、「オールウィズ・オン・ザ・ラン」は八曲目らしい。

一曲目「フィールズ・オヴ・ジョイ」はニューヨーク・ロック・アンサンブルの曲のカヴァーだが、レッド・ツェッペリン風。風というかそのまんま。自らが弾くアクースティック・ギター弾き語りではじまって、そこにまたしてもメロトロンのサウンド。そしてドラムス、ベースも全部クラヴィッツ。その後エレキ・ギターの派手目なカッティングが入る。この順番で出てくるのが、もうツェッペリンそのまんまなわけだ。
中間部のエレキ・ギター・ソロはかなりエッジの効いたハード・ロック・サウンドだけど、これはクラヴィッツではなく、ゲスト参加のスラッシュ(ガンズ・ン・ロージズ)が弾いているもの。そのソロの最後の消え入り方といい、消え入った瞬間にアクースティック・サウンドに戻るその戻り方といい、完全にジミー・ペイジへのオマージュだ。

スラッシュは続いて二曲目「オールウィズ・オン・ザ・ラン」でも弾いている。まるでスライ・ストーンとジミ・ヘンドリクスを融合させたようなサウンドだけど、バックで入るホーン・リフはリズム&ブルーズ/ファンクっぽいようなものだよなあ。
四曲目「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」。間違いなくこれこそがアルバム『ママ・セッド』で最も傑出した一曲で、しかも当時はミュージシャン仲間のあいだで激賞され(カヴァーもされた)、現在では一般のファンのあいだでも、クラヴィッツの最高傑作曲だと認識されているものだ。
どうだこれ?文句なしだ。最高じゃないだろうか。スネア・ロールからはじまり、すぐにストリングスが入ってきて、柔らかい感触のエレキ・ギター・カッティングが聴こえはじめたら、そこはもう完全にフィリー・ソウルの世界。ストリングスのアレンジはクラヴィッツ自身がやっているので間違いなく意識しているし、これまた自身の弾くエレキ・ギター・カッティングは、カーティス・メイフィールドに酷似している。

また終盤でホーン・セクションの音が小さく聴こえるが、ブックレット記載ではその演奏をフェニックス・ホーンズが担当している。フェニックス・ホーンズとはアース、ウィンド&ファイアのホーン隊だもんなあ。基本的にはカーティス・メイフィールド〜フィリー・ソウルだけど、モータウンっぽくもあり、EW&Fっぽくもあり。

また中間部の乾いた音のギター・ソロのあとエレクトリック・シタールが入っていたり、あるいは歌詞がヨガイズム的というか、はっきり言えばヨギ・ベラへの言及がはっきりしている(”It Ain't Over 'Til It's Over”はヨギ・ベラの言葉)あたりとか、もろもろ含め全てやっぱり1971/72年だよね。

アルバム全体は大した成功作とはいえなかった『ママ・セッド』だけど、シングル・カットされた「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」だけは当時からかなり売れて、ビルボード・ホット・100で一桁台までランク・アップしたようだ。

クラヴィッツにかんしては、『アー・ユー・ゴナ・ゴー・マイ・ウェイ』の次作である1995年の『サーカス』までは買った僕。がしかしこれがちっとも面白くなくて、急速に魅力を失ったように思えたので、その後は全く買っていない。『サーカス』の次の1998年作『5』からは Pro Tools を使っているんだそうだ。

2017/02/12

濃厚でジャンピーなエリントン楽団のライヴ最高作

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30年以上前の僕の大学生時代に、『ザ・デューク 1940』という二枚組 LP(上掲写真左)があった。これの話は以前もしたのだが、どれくらいの人が憶えてくださっているだろうか?この二枚組レコードは、1940年11月7日、ノース・ダコタのファーゴにあるクリスタル・ボールルームにおけるデューク・エリントン楽団のライヴ演奏を記録したもの。

おそらくエリントン楽団録音史上最も重要でありかつ最も内容が充実しているライヴ・アルバムなのだが、僕がこれを知ったのは、以前も書いたが17歳か18歳の時に読んだ『スイングジャーナル』誌別冊ムック本みたいなもので見たからだ。ジャズの名盤・推薦盤特集みたいなものだった。僕が17/18歳ということは1979/80年だが、その別冊本(かどうかは記憶が曖昧だが)はもっと前の出版だった可能性がある。

その別冊ムック本みたいなジャズ推薦盤特集号に載っていた『ザ・デューク 1940』。その解説文に、エリントン楽団というといつもいつも1940年頃のヴィクター録音ばかり推薦されるので、たまには違うものをとあったのは間違いない記憶。どなたの文章だったかはもう完全に忘れた。しかし僕はそれを読み、そんなにいつも推薦されてばかりなのであれば、むしろその40年あたりのヴィクター録音の方をこそ聴きたいぞと思ったのだった。

このあたりの思い出話は以前詳しく書いたので今日はやめる。それでエリントン楽団のヴィクター録音ボックスは、通常の方法ではもはや入手困難だったが、一枚物 LP のベスト盤は買えた。A 面が1920年代、B 面が40年代のヴィクター音源集。 B 面と同じ40年のライヴ録音盤である『ザ・デューク 1940』もレコード店で簡単に見つかったので、早速それを買って帰って聴いたのが、この1940年11月7日のエリントン楽団生演奏を聴いた最初だった。

間違いなく LP二枚組だった。調べてみたら LP三枚組で出ていたという話もネットで読むが、三枚組というのは僕は現在まで全く知らないものだ。なんだろうそれは?LP の二枚組と三枚組では収録時間の総数がかなり違ってくる。Wikipedia でこのレコーディングのデータを読むと、確かに LP 三枚組があったとなっているが、それに載っている三枚の収録曲目は、『ザ・デューク 1940』二枚組に残さず全てあった。この記憶も間違いない。

内容的に同じものだったのであれば二枚組だろうと三枚組だろうとどっちでもいいが、とにかく僕は二枚組 LP『ザ・デューク 1940』を愛聴していたのだ。1940年11月のエリントン楽団といえば、こりゃもういろんな意味でピークにあったから、そんな時期のライヴ録音が聴けるなんて今でも夢のようだ。

今では CD 二枚組になっている1940年11月7日、ファーゴでのエリントン楽団のライヴ・レコーディング。僕は二種類持っている。発売順に1995年の東芝 EMI 盤『at fargo, live-1940 (complete)』。次いで2000年のストーリーヴィル盤『アット・ファーゴ 1940 スペシャル・60th・アニヴァーサリー・エディション』。この二つは微妙に内容が違う。

結論から先に言えば、熱心なエリントン愛好家であれば、1995年の東芝 EMI 盤と2000年のストーリーヴィル盤の両方を持っておかないといけない。音質的には誰がどう聴いても60周年記念盤であるストーリーヴィル盤の方がはるかに上だけど、東芝 EMI 盤はワン・トラック多いのだ。

それは二枚目ラスト。2000年のストーリーヴィル盤では22曲目の「ガッド・ブレス・アメリカ」で終わっているが、1995年の東芝 EMI 盤は、そのあとにもうワン・トラックある。タイトルは「ザ・コール・オヴ・ザ・キャニオン〜オール・ディス・アンド・ヘヴン・トゥー」。それが 1:32 もあるもんね。しかしそれはちゃんとした曲ではなく、ハーブ・ジュフリーズが歌うかと思うとすぐにプツッと消えてバンドの演奏になったり、と思うとそれもすぐにフェイド・アウトしたりの繰返しで、なんだかよく分らないものではある。あれ、ホントなんだろう?

そんな意味の分らないものがワン・トラック末尾に付随していたところで、なんの違いもないだろう、音質的にはストーリーヴィルの60周年記念盤が劇的に向上しているんだから、そっちでいいだろうと思われる方が大半だろう。しかし音質向上といっても、この1940年11月7日のファーゴでのライヴは、元はアマチュア二名による私家録音で、だからどうリマスターしてもさほどのことはないと僕の耳には聴こえるね。実際オーディオ装置でヴォリュームを上げて聴き比べる(というのを今日やってみた)と、東芝 EMI 盤とストーリーヴィル盤の違いは、音質面では大きくない。

東芝 EMI 盤でだってジミー・ブラントンの弾く(当時としては)驚異的なウッド・ベース技巧は鮮明に聴こえるもんね。2000年のストーリーヴィル盤で聴いて、その音質向上に感動したかというと、僕の場合それはほとんどなくて、大学生の頃にモコモコ音質で聴いていた『ザ・デューク 1940』LP で受けた感動のあまりの大きさとは比較すらできない。

ジミー・ブラントンのベース音といえば、この『アット・ファーゴ 1940』では「セピア・パノラマ」で大きくフィーチャーされている。この曲はこのアルバムで、一枚目四曲目と二枚目二曲目と二回登場するが、演奏時間の長さといい演奏内容といい、二回目のものの方が断然いい。

それを聴くと、1940年時点でのライヴ・レコーディングでここまでクリアにウッド・ベース技巧が聴こえるというのが信じられないほどのものなのだ。アップライト・ベースの前に個別のマイクが立っていたはずがないわけだから、そう考えると、ジミー・ブラントンのピチカート音はバカデカかったんだろうなあ。そんな大きな音で、しかもあんな細かいホーン楽器的メロディ・ラインを弾いているなんてねえ。

エリントン楽団の『アット・ファーゴ 1940』はボールルーム、すなわちダンス会場での演奏であって、決してコンサートでの音楽鑑賞を目的に行われたものではない。だからどの曲も演奏時間が短い。一番長いのが実質的ラスト演目の「セント・ルイス・ブルーズ」の 5:39。あと数曲五分程度のものがあるが、他は全部三分もない。

つまりライヴ演奏なのに当時のスタジオ録音と同じ程度の演奏の長さ。ダンスの伴奏音楽としてのジャズはだいたいいつもこの程度であって、あんまり長いと踊っている客も疲れてしまうわけだ。といってもブルーズ〜リズム&ブルーズ〜ファンクなどのライヴでは延々何十分もやって踊り続けているようだけど、よくやれるもんだなあ。音楽のグルーヴ感の違いなのか、それとも客層の違いなのか、ダンスの種類が違うのか?

そういえば今思い出したけれど、20世紀の終り頃、ブルーズ専門家の妹尾みえさんに誘われて下北沢のライヴ・ハウスでビッグ・ジェイ・マクニーリー(ホンク・テナー・サックス奏者)を聴いたんだけど、もちろんあんなダンサブルなリズム&ブルーズで、しかも会場に椅子はなくオール・スタンディングだったので妹尾さんも僕も含め客はみんな踊った。しかし一曲の演奏時間があまりに長いので途中で疲れちゃって、妹尾さんも僕も他の客も、踊るのをやめてしばらく休んでからまた踊るとか、そんな感じだったもんなあ。

そんな話はいい。エリントン楽団の『アット・ファーゴ 1940』。ジャズがダンスの伴奏音楽だった時代には、あの当時から鑑賞芸術音楽志向があったエリントンですらやはりボールルームで演奏したのだという事実。これはそういう時代だったからエリントンも仕方なく我慢して嫌々やっていたとか、踊るのをやめて自分の音楽に集中して耳を傾けてほしいというのが本音だったとか、そんなことは必ずしも僕は思わないなあ。

むろんエリントンは昔から鑑賞目的のライヴ・コンサートをやっている。アメリカ本国では1940年代から、ヨーロッパではもっと早く30年代からやっているんだよね。そういうのこそエリントンの本領発揮であって、ボールルームなどダンス会場での演奏なんて、いわばお金目的のシノギであって、やむをえずやっていただけだなどと考えると、エリントン楽団の場合ですら、ジャズ音楽の本質を捉えきれない面があるだろうと僕は思う。

スタジオ録音でのエリントン楽団の最高傑作は、間違いなく1940年ヴィクター録音の「コ・コ」だと僕は考えているのだが、この曲は『アット・ファーゴ 1940』でもやっている。スタジオ・ヴァージョンとほぼ同一内容だけど、リズムの躍動感は『アット・ファーゴ 1940』ヴァージョンの方が上だ。かなりジャンピーなんだよね。

『アット・ファーゴ 1940』での「コ・コ」において、そんなジャンピーな躍動感を表現している最大の要因がジミー・ブラントンのベースだ。演奏途中でホーン・セクションが何度かストップするブレイク部分でブラントンが弾くフレーズはスタジオ・オリジナルとはかなり異なっていて、そのフレイジングがもたらすフィーリングがかなり跳ねている。

ソニー・グリーアのドラミングも管楽器隊の吹くリフも、その他アレンジ全般、基本的にはスタジオ・オリジナルと同じなのに、どうしてだかダンサブルな感じが『アット・ファーゴ 1940』ではより一層強く出ている。なんというか歯切れがすごくいい。それでいて同時に粘り気の強いジャングル・グルーヴはしっかりある。これは驚きだね。

こんな粘っこく、しかもスパスパ歯切れもよく(矛盾しているように読めるかもしれないが)、さらにこれはエリントン楽団にしか表現できなかったあの独特のドロドロに濁った音のアンサンブルで強烈に迫ってくるわけだから、これをライヴ現場で生で聴いて踊る客のダンス感覚って、ダンス音痴の僕には想像しにくいくらい。その感覚はジャズというより、もっと濃厚なリズム&ブルーズとかファンク・ミュージックとかのダンス感覚に近い。これは間違いないと思う。

『アット・ファーゴ 1940』では、一枚目の「ハーレム・エアシャフト」とか「ストンピー・ジョーンズ」とか、二枚目にある「ロッキン・イン・リズム」とかも、同様の激しくスウィンギーなナンバーで、ウェザー・リポートもカヴァーした最後の曲なんか、これは前から僕は言っているけれど、オリジナル録音の1931年時点でジャズ楽曲のタイトルに「ロック」という言葉がダンス感覚を表現する意味で使われた、おそらくアメリカ音楽史上初の例。それはそうと、このファーゴ・ライヴでの「ロッキン・イン・リズム」終盤で「南京豆売り」のフレーズを吹いているトランペッターは誰だろう?他にも聴こえる曲がある。

ハードで濁ったスウィング・ナンバーのことばかり書いているが、『アット・ファーゴ 1940』には、もちろんメロウで幻想的で印象派風なバラード・ナンバーもたくさんある。一枚目の「ムード・インディゴ」「ウォーム・ヴァリー」、二枚目の「ソフィスティケイティッド・レイディ」「スターダスト」などなど。

そんななかでは、特にジョニー・ホッジズの官能的なアルト・サックスが聴こえるものが僕は大のお気に入り。つまり「ウォーム・ヴァリー」だなあ。ホッジズのアルト・サックスの音色も後半部のアンサンブルも、なんとも艶やかで美しい。色っぽすぎて、朝の出勤前に聴くにはちょっぴり勇気が必要(笑)。

二枚目にある「スターダスト」は、もちろんエリントンの自作曲ではなく有名すぎるスタンダード・ナンバー。『アット・ファーゴ 1940』ではテナー・サックスのベン・ウェブスターのショウケースとなっている。頭が切れてて途中からはじまっているのだけが残念だけどね。ウェブスターがコールマン・ホーキンスのバラード吹奏スタイルからどれだけ大きな影響を被っているか、聴けば誰でも瞬時に分ってしまうほど似ている。

エリントン楽団の『アット・ファーゴ 1940』。楽団員の構成といい(あぁ、クーティー・ウィリアムズさえまだ抜けていなかったら…)、楽曲の充実度といい、まさに絶頂期にあったこのオーケストラの極めて貴重で重要なライヴ録音だし、また演目が1940年11月時点までの同楽団の総決算的代表曲が揃っている(っていうことはだいたい全部ある)し、エリントン・ファンなら聴いていないのはありえないだろうとまで言いたい大傑作ライヴ・アルバムだ。

2017/02/11

ギリシアの古いレンベーティカを聴こうじゃないか

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以前も書いたけれど、部屋のなかの平積み CD 山脈を発掘していて出てきた、カラン・レーベルの『レンベーティカ』という一枚物アンソロジー。これにたくさん入っているローザ・エスケナージが最高にセクシーで、聴直して惚れ直したわけだけど、彼女はいわゆるスミルナ派レンベーティカを代表する一人。

この『レンベーティカ』というアンソロジー CD がリリースされたのが2007年。この時がギリシアのブルーズとも呼ばれるこの音楽を僕が聴いた最初だったはず。レンベーティカという名前すら知らなかったのに、どうしてこれを買ってみようと思ったのかは全く憶えていないけれど、おそらくジャケ買いだったんだろうなあ。雰囲気あるもんね。

今聴くと最高に面白いと思えるこのアンソロジー CD も、2007年に初めて買って聴いた時は、特に大きな感銘は受けなかった。全く聴いたことのない音楽で、録音は全て戦前の古い録音であることは全く気にならない僕だけど、やはり耳馴染がないせいか、全くピンと来ていなかった。何度聴いてもフ〜ンって感じで。

どうもピンと来なかったので、しばらく放置したままにしていて、レンベーティカについて掘下げることも全くしなかった。そんな僕がこの音楽について本格的に聴きはじめるきっかけになったのが、古い米ブルーズなどを復刻している英 JSP が出した四枚組ボックス『Rembetika』だ。

JSP という英国のレーベルは、もちろん前から知っていた会社だったけど、どうして突然古いギリシア音楽を復刻したのかは分らない。その四枚組の『Rembetika』ボックスを二つ、計八枚を僕が買ったのが2008年。先のトルコのカランのアンソロジーを買って聴いた翌年だったということになるなあ。

どこで知ったのかも憶えていないその JSP の四枚組ボックス二つ。全部で十時間以上もあるんだけど、ジャケット・デザインも素晴しかったし、それに一枚一枚に副題が付いていて、それでいつ頃の録音かということと、レンベーティカの種類の違いも分ったのだった。この計八枚をとにかく聴きまくった。

その副題によって、レンベーティカにスミルナ(イズミール)派とピレウス派があることも初めて知ったのだった。ただし、最初に聴いていた頃は、その二つの流派の味わいの違いはどうもよく分っていなかったというか、まあほぼ理解していなかったわけだ。なんとな〜く肌触りの違いを感じてはいたかもしれないが。

JSP からは、レンベーティカの復刻ボックスがその後も続々とリリースされていて、僕の知る限りでは2013年の第八集まで出ているはず。僕は全部買って聴いたんだけど、最初の二つには夢中になったけど、その後の、例えばマルコス・ヴァンヴァーカリス集などには、そんなに深くはハマらなかった。

マルコス・ヴァンヴァーカリスにどうしてあまりハマらなかったのかは、少し後になって分った。彼はピレウス派レンベーティカの人物なのだ。レンベーティカのスミルナ派とピレウス派の違いが、少しずつ分ってきた。しばらく聴き込むと、同じ古いレンベーティカでもだいぶ違うとはっきり感じるようになった。

スミルナ派とピレウス派とはなにか?ということは、以前も一度書いた。スミルナ派とは、20世紀初頭のオスマン帝国時代に、トルコはアナトリア半島のイズミール(ギリシア名スミルナ)で、当地のギリシア人達が混淆音楽として産み出したもの。それゆえにトルコ歌謡やアラブ音楽の風味が強いのが僕の好み。

その後の希土戦争(〜1922)後の住民交換を経て、ギリシアの港町で成立したのが、その港町の一つの名前を取ってピレウス派。つまりトルコ音楽やアラブ音楽といった養分と後ろ盾を失って、色っぽさが薄くなってしまっている。もちろん、ピレウス派のレンベーティカにも魅力的なものは多いんだけどね。

だいたい20世紀末にアラブ音楽(正確にはマグレブ・ポップ・ミュージック)にドハマりして、その後も現在に至るまでハマり続けている僕みたいなリスナーにとっては、ギリシア系、トルコ系、アラブ系、ユダヤ系などアナトリア半島の多民族・多文化共存という環境の下で生まれ育まれたスミルナ派レンベーティカに惹かれるのは、当然の成行きだ。

今でもすぐれたギリシア音楽にトルコ臭・アラブ臭を強く感じることがあるのは、ひとえにこの地が長年オスマン帝国の支配下にあって、トルコやアラブとユダヤとギリシアの住民・文化交流が盛んであったことの名残に他ならない。大衆音楽って、一国・一民族によって生まれたもの(なんてあるのか?)より、混血ものの方が圧倒的に面白い。

最初に書いたローザ・エスケナージは、まさにそういった混血音楽であるスミルナ派レンベーティカを代表する大物女性歌手で、戦前の1920年代から戦後の70年代にわたって活躍した人だ。 これは先に書いた JSP のボックス第一集に入っているもの。
告白すると、レンベーティカ、特にスミルナ派のそれを本当に理解できるようになったと自覚したのは、2014年のトルコ古典歌謡集『ギリズガ』を聴いてから。あれは19世紀末〜20世紀初頭のトルコ古典歌謡ばかり再現したもので、これで、同時期に育まれたスミルナ派レンベーティカとの共通性を実感できた。

例えばカラン盤『レンベーティカ』の5曲目→ https://www.youtube.com/watch?v=OcPcEEu6v9Y この曲は『ギリズガ』14曲目と全く同じ曲→ https://www.youtube.com/watch?v=i-GQDWnmetU 一聴瞭然だよね。スミルナ派レンベーティカは、こういう古いトルコ歌謡もレパートリーにしていた。

酒や麻薬や売春などいかがわしい場所で演奏され、猥雑な特徴を持つという意味では、レンベーティカも世界中のいろんなポピュラー・ルーツ・ミュージックと似ている。それはサウンドを聴けば分る。下層民の鬱屈した感情を吐出すように歌うという点でも、米ブルーズと似ている。ギリシア語の歌詞は分らない僕だけど。

米ブルーズが、その後のリズム&ブルーズやロックやソウルなど、様々な米国ポピュラー・ミュージックの土台になったように、ギリシアのブルーズと呼ばれるレンベーティカも、その後のギリシア・ポピュラー・ミュージックの礎になっている。ハリス・アレクシーウやヨルゴス・ダラーラスなどにもそれを強く感じる。

以前リリースされたギリシア人シンガー・ソングライター、レオニダス・バラファスの『アピリオティス』。いろんな人が非常に高く評価していたし、僕も去年の新譜ベストテンの第五位にしたんだけど、これが完全に伝統レンベーティカ路線のアルバムで、こんな感じ。
こういうのを、普段はバリバリの現代ロック風音楽をやっているミュージシャンですら作ってしまうところに、やはりレンベーティカ以来のギリシア・ポピュラー・ミュージックの伝統が脈々と息づいているということを実感するね。また最近は先に書いたスミルナ派レンベーティカを復興する試みもある。

ライカ歌手ヤニス・コツィーラスの2012年『愛のスミルナ』。この邦題が示すように、完全にこのアルバムはかつてのアナトリア半島イズミールで育まれたスミルナ派レンベーティカを蘇らせた内容。聴けば分るようにトルコ古典歌謡色濃厚だ。
またスミルナ派レンベーティカ復刻の試みとともに、元々不可分一体だったギリシア音楽とトルコ音楽の一体性を現代に具現化しようという人達もいる。トルコ古典歌謡を演奏し歌うTAKIM。このバンドはギリシア人のバンドなのだ。こういうの。
こういったいろんなギリシア音楽を聴くと、今でもギリシアとトルコは、少なくとも音楽的には密接な関係があるというか不可分一体なのだと分る。この両国、昔から仲が悪く、今でも日本と韓国以上に犬猿の仲らしいんだけどね。それでもポピュラー音楽方面では、関係を取り戻そうという動きがあるようだ。

古いレンベーティカに興味を持った方には、やはり最初に書いたカラン盤アンソロジー CD からオススメしたいのだが、どうやらアマゾンでも品切れ、エル・スールでももう在庫なし状態になっているなあ。ライスの日本盤は日本語解説文も付いているのでいいんだけどなあ。音源的には JSP のボックス・シリーズの方が充実しているけれど、JSP のものはいつもどれも音とデータだけだからね。それだけでいい、サイズが多くても気にしないという方には、JSP 盤をオススメしておく。

※この文章本体は2015年11月に書いたものです(2017年2月11日注)。

2017/02/10

ジミー・コブのリム・ショット名人芸

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どうしてこれほどなのか自分でも分らないが、僕はスネアのリム・ショットの音が大好き。ドラム・セットを使ういろんな音楽で、ドラマーがカツッ、カツッ!とリム・ショットを入れているだけで気持いいもんな。僕だけなんだろうか、こんな嗜好の持主は?

以前からリム・ショット、リム・ショットと繰返してはいるが、スネアのリム・ショットには二種類あって、オープン・リム・ショットとクローズド・リム・ショットと呼ばれている。僕が通常リム・ショットとだけ言う時は、いつもクローズド・リム・ショットのことで、オープン・リム・ショットの音はだいたいそんな頻繁には聴けないし、イマイチ好きでもない。

ひょっとしてあるいはご存知ない方は、ネットで検索すればいくらでもデモ演奏動画が出てくる(はず)なので、調べてご覧いただきたい。リム(rim)とは、スネアの場合、打面の円周部のふちのことで、金属製か木製。金属製が多いんじゃないかなあ。なんの金属を使うかによって、リムではない通常の打面を叩く音も変わってくる。

そんな円周部のふちをスティックで(普通は逆に持って)叩く。といっても離れた場所から叩くのではなく、スネアの上に(逆に持った)スティックを置いて、スティックを持つ手のひらで打面を押さえたままの状態で、押さえた場所を固定して支点にして、スティックをリムに当てて叩く。それがクローズド・リム・ショット。

そんなリム・ショットの音が、なぜだか分らないんだけど、ジャズ・ファンになった17歳の頃から好きで好きでたまらない僕。おそらく通常のドラム・セットで出せる音のなかでは一番好きかもしれないと思うほどのリム・ショット・サウンド愛好家。どんな音楽でもこれが聴こえているあいだは幸せな気分。

そんなわけで、マイルス・デイヴィスが雇った歴代の全レギュラー・ドラマーのうち、僕は案外ジミー・コブが好きなのだ。コブは、これまたどうしてだか僕は分らないがリム・ショットを多用する。多用じゃなくて頻用だな。頻用しすぎじゃないかと思うほどだ。マイルス・バンドの前任者フィリー・ジョー・ジョーンズ、後任者のトニー・ウィリアムズは、あそこまでリム・ショットを多用しない。

マイルス・バンドでは、その後のジャック・ディジョネット、アル・フォスター、リッキー・ウェルマン(以外に短期的繋ぎ役が数名いるが除外して問題ない)も、リム・ショットをさほどは使わない。だいたい1969年以後の電化マイルス時代、特にエレキ・ギター(とその後はシンセサイザー)のサウンドが中心になって以後は、リム・ショットなんか意味ないもんなあ。

だからアクースティックなジャズ時代だけなんだけど、それでもジミー・コブほどマイルス・バンドでリム・ショットを頻用したドラマーはいない。どうしてこんなに使うのか理解できないぞと思うほど使っているのだが、僕はその音が大好きなもんだから、ボーッと聴いているだけで快感だ。

ジミー・コブのマイルス・バンドでの初演は1958年5月3日のニュー・ヨークのカフェ・ボヘミアでのライヴ・ステージでだけど、これは正式なものではなく私家録音で、公式には同年5月26日のスタジオ録音4曲5テイクが、コブのマイルス・バンド参加後初録音。

それはご存知「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」などを含むもので、現在ではアルバム『1958 マイルス』に(「フラン・ダンス」の別テイクを除き)収録されている。このマイルス・バンド参加初録音から、ジミー・コブは既にリム・ショット全開なんだよね。

『1958 マイルス』では、A 面一曲目の「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」、B 面一曲目の「ラヴ・フォー・セール」でリム・ショットを使っている。ところで下掲 YouTube音源、「ラヴ・フォー・セール」の方はどうして『カインド・オヴ・ブルー』のジャケットなんだ?
二曲ともまず一番手で出るボスのトランペット・ソロのあいだは、ジミー・コブもかなり控え目で静かな叩き方だが、二番手でサックスのソロが出てきた瞬間にパッと派手で賑やか目になる。これはマイルス・バンドの伝統みたいなもんで、だいたいボスのトランペットは音量も小さいし、か細い女性的なサウンドだから、その背後では派手にやらず、次いで強い音で雄弁に吹くサックス・ソロになった瞬間に、ドラマーも派手になる。この伝統は、あのやかましいトニー・ウィリアムズですらある時期までは継承していた。

「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」においては、最後のビル・エヴァンスのピアノ・ソロからジミー・コブがリム・ショットを入れているのがお分りいただけるだろう。だいたいコブはこのあとも、マイルス・バンドではスタジオでもライヴでも、管楽器奏者のソロが終わってピアノ・ソロになるとリム・ショットを入れたがる傾向が強い。

とはいえ「ラヴ・フォー・セール」では、三番手のジョン・コルトレーンのテナー・ソロになった瞬間からリム・ショットを定常的に入れ続けている。そもそもリム・ショットとはあくまでアクセント付けであって、定型パターンばかりでは味気なくなりかけた時に使うからこそ効果的なものなのに、こんなに定常的に入れ続けたんじゃあなあ(笑)。僕は大好きな音だから聴き続けられて気持いいけれど、普通はちょっとね。

ジミー・コブ参加のマイルスの次のスタジオ録音が、世に名高い『カインド・オヴ・ブルー』。このアルバム収録曲では、「ソー・ワット」「フレディ・フリーローダー」「オール・ブルーズ」と三曲もリム・ショットを使っているもんね。このアルバムはマイルスの全アルバム中というだけでなく、この世に存在するあらゆるジャズ・アルバム中最も売れ続けているものらしく、つまり<ジャズ=『カインド・オヴ・ブルー』>みたいな認識がひょっとしたらあるんじゃないかと思うほどの一枚だ。あまり入門者向けの作品じゃないと僕は思うんだけどね。

「ソー・ワット」でのジミー・コブは、管楽器三人のソロが終わりビル・エヴァンスのピアノ・ソロの最初の一音が出るか出ないかという刹那に、もう既にリム・ショットを入れていて、それが短いピアノ・ソロのあいだずっと入り続けている。
『カインド・オヴ・ブルー』二曲目の「フレディ・フリーローダー」では、なんと冒頭の三管によるテーマ吹奏の最初からジミー・コブはリム・ショットを入れているからね。しかし一番手のウィントン・ケリーのピアノ・ソロになるとやめてしまい、と思って聴いていると、ケリーのソロ3コーラス目からやっぱりリム・ショットを入れはじめている。上でも書いたがどうもコブはピアノ・ソロでリム・ショットを入れたがる傾向があるんだなあ。
この傾向は『カインド・オヴ・ブルー』 B 面一曲目の「オール・ブルーズ」でもやはり同じ。同じブルーズ形式の楽曲でも、ファンキーにスウィングする「フレディ・フリーローダー」に対し、ピアノがビル・エヴァンスに戻って全くファンキーではなく静的なブルーズである「オール・ブルーズ」でも、三番手のピアノ・ソロのあいだでだけジミー・コブはリム・ショットを入れ続けている。
ジミー・コブのこんなリム・ショット頻用しすぎ傾向の極致ともいうべき曲芸が、この人のマイルス・バンドでのスタジオ作品三作目になる1961年録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』B 面の「テオ」。これはいったいなんなんだ?あまりにもやりすぎなんじゃないのか、このリム・ショットは?
お聴きになってお分りの通り、まだマイルスによるテーマ吹奏(あれは「テーマ」じゃないのだが)もはじまっていないピアノ・イントロから曲芸的リム・ショットの使い方をしているじゃないか。そのちょっと複雑なリム・ショットは、「テオ」一曲を通し、マイルスのソロ、二番手コルトレーンのソロ、三番手で再び出るマイルスのソロと続くあいだ、一瞬たりとも止むことなく入り続けている。

こんなリム・ショットの使い方は、ジャンルを問わず他では僕は聴いたことがない。上でも書いたが、リム・ショットとはあくまでアクセント付けであってスパイスだ。いわばうどんにふりかける七味唐辛子なのに、「テオ」におけるジミー・コブは、そんなリム・ショットをうどんの出汁みたいな基本の味として使ってしまっている。

ただしかし、いくらジミー・コブがリム・ショット好きドラマー(だったのかどうかよく知らないが多いのは確かだ)だったといっても、この『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』の「テオ」は異常だから、これはコブ自身の発案ではなく、ボスのマイルスの指示によるものだった可能性もある。そう考えないと、九分以上ある自分の曲で延々リム・ショットが鳴り続けているのは、自分の指示じゃなかったらボスとしてはちょっと遠慮してくれという気分になるんじゃないかなあ。

そんでもってこのスパニッシュ・スケールを使った「テオ」。言ってみれば『スケッチズ・オヴ・スペイン』のクライマックスであるアルバム・ラストの「ソレア」をコンボ編成でやったみたいな名演だと僕は信じているこの「テオ」。ボスの独り荒野を行くみたいなトランペット・ソロも、録音時の1961年なら既に大きな存在になっていたコルトレーンの饒舌なソロも絶品だが、その背後のリム・ショットが実に効果的に響いているように僕は感じる。

「テオ」のリズムは6/8拍子、すなわちハチロクであって、マイルスの録音史上初であるばかりでなく、1961年時点のジャズ作品としては、このリズム・パターンを用いた相当珍しい早い一例だと思うんだけど、ジミー・コブのあの複雑に入り組んだリム・ショットを中心とした組立がこのハチロクのパターンを絶妙に表現し、管楽器二名のスパニッシュ・ソロを強く支えている。ジミー・コブ生涯最高のドラミング作品に違いない。

今日はここまでスタジオ録音作品の話しかしなかった。それだけでもうこの長さだから、ジミー・コブが参加してリム・ショットを叩くマイルスのライヴ・アルバムの話は今日はやめておこう。1958年のニューポート、61年のブラックホーク、同年のカーネギー・ホールと三つあって、やはりリム・ショットが頻繁に顔を出す。出しすぎ。

ただ二つだけ、これは名演だというものの音源を貼るだけにしておく。1961年4月、ブラックホーク金曜日の「ウォーキン」と、同年5月カーネギー・ホールでの一曲目「ソー・ワット」。どっちもやはりウィントン・ケリーのピアノ・ソロになると、ジミー・コブがリム・ショットを入れている。特に後者は猛烈にグルーヴィーなケリーのピアノ・プレイの背後で、リム・ショットこれ以上ないというほど効果的に響く。

2017/02/09

へべれけブルーズ・ピアニスト〜リロイ・カー

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僕にとっては「この人こそが商業ブルーズだ」という存在である、アメリカ戦前ブルーズ界一番の大物リロイ・カー。これまたオーストリアのドキュメントがクロノロジカルに CD で六枚プラス一枚の全七枚で全集にしてリリースしてくれているが、今となってはそんなサイズのものはいつもは聴かない。本家筋がマトモな CD リイシューをしていなかった時期はよく聴いたけれど、まあ録音数も多いわけだしね。

リロイ・カーの1928〜35年という長くはないレコーディング・キャリアで、別テイクなども含め全部で何トラックあるのか、ドキュメントの全七枚で数えるのが面倒くさいのでやっていない。別テイクその他を外せば、たぶん全部で150曲とかそのくらいだと思うんだけど。iTunes に取り込んで一つのプレイリストにしてみれば一瞬で分るし、取り込みさえすれば一つにするのに30秒もかからないんだからやれればいいのに>自分。でも僕は音楽研究家ではない。ただ単に楽しみで聴くだけの音楽ファンだからなあ。

そんなことで現在の僕にとって普段聴きのリロイ・カーは、コロンビア/レガシーが2004年にリリースした CD二枚組『ウィスキー・イズ・マイ・ハビット、グッド・ウィミン・イズ・オール・マイ・クレイヴ:ザ・ベスト・オヴ・リロイ・カー』だ。これが誰にとっても一番好適なリロイ・カーのアンソロジーだろう。コロンビアが出しているので、この二枚組収録曲はもちろん全てヴォキャリオン原盤。

ただしリロイ・カーには晩年(といっても実際の年齢はまだかなり若かったのだが、酒の飲み過ぎ)に、たった八曲だけブルーバード・レーベルに録音したものがあり、そのなかに最も重要な録音の一つである「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」(イン・ジ・イヴニング)があるのが厄介だ。う〜ん、この一曲だけなんとかなりませんか、コロンビア&ヴィクターさん?

ブルーバードということはひょっとして?と思って例の『RCAブルースの古典』CD 二枚組で見てみたら、確かにリロイ・カーはある。この人が収録されないヴィクター系音源の戦前ブルーズ・アンソロジーなんてありえないんだから当然だけど、入っているのは「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」ではなく、「ロックス・イン・マイ・ヘッド」と「シックス・コールド・フィート・イン・ザ・グラウンド」だ。

『RCAブルースの古典』の編纂者は中村とうようさん、日暮泰文さん、鈴木啓志さんのお三方。僕なんかよりはるかに広く深くアメリカ黒人ブルーズの世界を理解している。ってことは「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」がリロイ・カーというブルーズ・マンの生涯最重要曲の一つだとする僕の認識は、単なる個人的嗜好にすぎないということだろうなあ。

まあしょうがない。そんなことなので、僕の Mac の iTunes ではインポートしたコロンビア盤『ウィスキー・イズ・マイ・ハビット、グッド・ウィミン・イズ・オール・マイ・クレイヴ:ザ・ベスト・オヴ・リロイ・カー』の末尾に「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」だけを、他から持ってきてくっつけてあるんだよね。そのプレイリストをいつもよく聴く。2時間7分ピッタリ。

「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」をどこから引っ張ってきているかというと、アメリカの戦前ブルーズや戦前ジャズをどんどんリイシューしている英 JSP が2009年にリリースした CD四枚組の『ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン 1934-1941』からだ。このアンソロジーはちょっと面白いんだよね。

タイトルに「1941」とあるのがミソで、リロイ・カーは1935年に死んでいる。僕もそれを知っているからこそ、この JSP のアンソロジーを買ったのだ。CD四枚組だけど、最初の二枚は1934/35年のヴォキャリオン録音と、上で書いた八曲のブルーバード録音で、これは他で揃うので必要なかった。

ほしかったのは三枚目と四枚目だ。その二枚は他の音楽家がやるリロイ・カー・ナンバーのカヴァー録音集なんだよね。むろんリロイ・カー・ナンバーのカヴァー・ヴァージョンなんて無茶苦茶に数が多いので、戦前だけに限定したとしても CD二枚で済むわけがない。

でもそれらを自分で探していちいち拾っていくのは骨の折れる作業。1941年のものまでという括りがあるとはいえ、しかもそのなかでも氷山の一角であるとはいえ、JSP が CD二枚にいろんなカヴァー・ヴァージョンをまとめてくれているのは大いに助かる。ロバート・ジョンスンみたいな誰でも知っているものも含まれているけれど、なかにはかなりレアなものがあるからね。A ・W ・ニックス師のプリーチ「ハウ・ロング、ハウ・ロング」なんて、それまで僕は全く知らなかった。

ところでリロイ・カーとは全くなんの関係もなくなるけれど、ついでだから書いておく。黒人説教師の A・W・ニックス。全て教会でのプリーチだけど面白い録音があるので、通常の意味でのいわゆる音楽から少し離れるかもしれないが、興味を持って聴いているアメリカ黒人音楽ファンは多いと思う。

僕がこの A ・W ・ニックス師に興味を持ったのは、中村とうようさん編纂の『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』に「地獄行きの急行列車(パート2)」が収録されていたからだ。それのパート1を聴きたいなと思ったら、これまたオーストリアのドキュメントが CDリイシューしていたのだ。そのドキュメント盤『レヴ・A ・W ・ニックス  Vol. 1 1927-1928』を買った。

しかしながらこの『レヴ・A ・W ・ニックス Vol. 1 1927-1928』には、A ・W ・ニックス師がやる「ハウ・ロング、ハウ・ロング」はない。上記 JSP 盤でそれを聴いて面白いと思った僕は、もう一回探してみると、やはりドキュメント盤で『レヴ・A ・W ・ニックス&レヴ・エメット・ディキンスン Vol. 2 (1928-1931)』に収録されていることが判明。しかしもはやフィジカルが入手不可能なのだ。CD で『Vol. 1』を買った時に『Vol. 2』も買っておくべきだったと激しく後悔。

やむをえず iTunes Store でそれを買った僕。その『レヴ・A ・W ・ニックス&レヴ・エメット・ディキンスン Vol. 2 (1928-1931)』では、12曲目の「ハウ・ロング、ハウ・ロング」の前の11曲目が、なんと「イット・ワズ・タイト・ライク・ザット」じゃないか!知らなかったのは僕だけなんだろうなあ(嘆息)。タンパ・レッドのあんな曲を教会でシンギング・プリーチするなんて。

とにかく JSP 盤リロイ・カーの『ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン 1934-1941』の四枚目には、そんな教会での説教にかたちを変えた「ハウ・ロング、ハウ・ロング」(録音年不明)の前に、タンパ・レッドが自分一人のギター・インストルメンタルとしてやる同じ「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルーズ」(1929年録音)が並んでいるしね。こんなアンソロジーはちょっと他では見ない。もっとたくさん、CD で五枚組とか六枚組とかでどこかリロイ・カー・ソングブックをリリースしないかなあ。

そんな面白いものだったので買った JSP の『ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン 1934-1941』。これにも上で書いたようにリロイ・カーの晩年、ブルーバード録音の全八曲が収録されている。その八曲とコロンビア盤二枚組『ウィスキー・イズ・マイ・ハビット、グッド・ウィミン・イズ・オール・マイ・クレイヴ:ザ・ベスト・オヴ・リロイ・カー』の全41曲で、リロイ・カーの姿はおおよそ分る。

コロンビア盤『ウィスキー・イズ・マイ・ハビット、グッド・ウィミン・イズ・オール・マイ・クレイヴ:ザ・ベスト・オヴ・リロイ・カー』のトップに入っている「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルーズ」。1928年6月19日録音で、これがリロイ・カーの生涯初レコーディング…、と言いたいが、実はこの前に一曲だけ録音がある。それは無視してもいいようなものだから、実質的は「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルーズ」が、やはりリロイ・カーの初録音と言いたい。 既に相棒ギタリストのスクラッパー・ブラックウェルがいるが、録音場所はまだインディアナポリス。そもそもこの二人はインディアナポリスで知り合って、同地で活動をはじめていた。

同じギタリストを相棒にして、すぐに半年後録音の二曲目から場所はシカゴになる。やはりリロイ・カーはシカゴとかニュー・ヨークとかの大都会のイメージだなあ、僕にとっては。1930年代に入るあたりから確かにニュー・ヨークが録音場所になるけれど、1934年2月20日録音の「ブルーズ・ビフォー・サンライズ」までは、セント・ルイスでもやっていたりする。その後は全てニュー・ヨーク録音。

さて、収録曲を絞ったベスト盤アンソロジーである『ウィスキー・イズ・マイ・ハビット、グッド・ウィミン・イズ・オール・マイ・クレイヴ:ザ・ベスト・オヴ・リロイ・カー』(に僕が自分でブルーバード録音を足したプレイリスト)であるとはいえ、それでも50曲近くあるわけだから、一度に全部を話題にはできにくい。さらにもっと絞らなくちゃね。

そのプレイリスト全49曲で最重要だと僕が思うのが、「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」(1928)「スロッピー・ドランク・ブルーズ」(1930)「ミッドナイト・アワー・ブルーズ」(1932)「ハリー・ダウン・サンシャイン」(1934)「ブルーズ・ビフォー・サンライズ」(1934)「マディ・ウォーター」(1934)「アイ・ビリーヴ・アイル・メイク・ア・チェンジ」(1934)「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」(1935)だ。

それらのなかでも、リロイ・カーの実質的処女録音である「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」がもちろん一番重要というか、もはやこれはアメリカ黒人ブルーズ録音史上最も重要な一曲なのだ。しかしこれまたリロイ・カーの完全独創ではない。下敷きにしたものがある。

それはアイダ・コックスの「ハウ・ロング・ダディ、ハウ・ロング」だ。1925年録音でヴォキャリオンから同年にレコードが発売されている。アイダ・コックスは有名女性ブルーズ歌手だからご存知の方も多いはず。1920年代にジャズ・バンドなどの伴奏でやった都会派ブルーズ・シンガーのなかの一人。
どうですこれ?リロイ・カーの「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」は完全にこれを踏まえたものだとお分りいただけるはず。しかしこのアイダ・コックスの「ハウ・ロング・ダディ、ハウ・ロング」の伴奏はジャズ・バンドではない。ピアノでもなく、たぶんこれはバンジョーだろうなあ。あの時代の都会派女性ブルーズ歌手としては多くない姿だ。

それを下敷きにしたリロイ・カーの1928年6月19日録音の「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」はこれ。八小節ブルーズで、ヴァースとリフレインが四小節ずつという構成。そういう構成の八小節ブルーズはあの時代のシティ・ブルーズには多かった。ジャズ・バンドやピアノの伴奏で歌う女性ブルーズ歌手はそんなのばっかりだもんなあ。
今までご存知なかった方でも、これをお聴きになれば相当にソフィスティケイトされたフィーリングが聴き取れると思う。1928年でここまでの洗練はなかなか聴けない。もっと早く録音を開始していた女性ブルーズ歌手にも同じような洗練があるけれど、ヴォーカルにかなり強いパンチの効いた粘り気がある場合が多いので、リロイ・カーのこんなソフトでサラリとした歌い口は、おそらくアメリカ黒人ブルーズ録音史上初。

リロイ・カーの「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」は、1928年の録音直後にレコードが発売されるやいなや、そゃもう売れに売れて、本当に売れまくって、という表現は大袈裟じゃないのか?20年代の黒人音楽家だろう?といぶかる方がいらっしゃるかもしれないが、本当に!売れたのだ。ミリオン・セラーになったんだよね。

あの当時そんなに売れたアメリカ黒人音楽家はリロイ・カーがほぼ唯一の存在だったというに近い。ミリオン・セラーになったということは、普段ブルーズ・コミュニティとは縁のない一般の白人音楽リスナーの購買層がかなりたくさん買ったという意味になる。そこまでアピールできた黒人ブルーズだったということだなあ。

その最大の理由は、やはりドロドロしていない都会的洗練があって聴きやすいからじゃないかな。売れたといっても同じ1920年代のジャズ・バンド風(かピアノ)伴奏でやる女性ブルーズ歌手のレコードの数倍売れたわけだから、彼女たちも音楽的にはあまり黒くない洗練があるとはいえ、もっとリロイ・カーの都会的洗練はずば抜けていた。

それを表現している最大のものが、やはりピアノ・ブルーズであるという点と、上でも書いたようにヴォーカルのアッサリ軽い味だ。さらにブルーズ誕生とその後の歩みに不可欠な楽器であるギターも参加しているが、そのスクラッパー・ブラックウェルのギター・スタイルも、彼に先行するロニー・ジョンスン的なジャジー奏法だもんなあ。

ブルーズにおけるギター奏法が、最初ブルーズが誕生したディープ・サウスの黒人コミュニティ内ではリズム重視のザクザク刻むようなものだったのに、それが1920年代の都会派ブルーズでは単音奏法中心でこうなっているという、そのあたりの変遷を書きはじめるとかなりの長さになってしまうので、今日はやめておく。とにかくギターはジャズでは滅多に使われていなかった。ブルーズの楽器だ。

え〜っと「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」の話しか書いていないのに、もうこの長さだ。この自制心のなさ、簡潔にまとめる文章力のなさには、我ながら呆れてしまうが、もうちょっと書いておこう。それはリロイ・カーのピアノ・スタイルだ。

ある時期以後はブギ・ウギも鮮明に聴けるリロイ・カーの録音集を聴いていると、ピアノでは滑らかなシングル・トーンを右手で弾くよりも、ブロック・コードで叩きつけるように三連のリフを弾いている時間が長い。長いというかほぼそればっかりというに近い。あまりに多いので具体例などいちいちあげていられないが、「ハリー・ダウン・サンシャイン」と「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」の二つは典型的なので、音源を貼り付けておく。
こんなのばっかりなわけだ。この三連ブロック・コード連打に、スクラッパー・ブラックウェル(じゃないギタリスト、ジョシュ・ワイトが参加しているものがあるが、ほぼ無視して構わない)のシングル・トーン弾きの洗練されたギターが絡みサウンドを組立てて、その上にリロイ・カー自身の、ちょっと塩辛い味もあるけれどソフトで軽いサラリとしたあっさりヴォーカルが乗っかっている。それがリロイ・カーのブルーズだ。

しかもリロイ・カーのそのヴォーカルのソフトで軽い歌い口には、いかにも「ブルーズ」というメランコリーも、また同時に強く表現されている。彼のブルーズ・メランコリーは、なんだか大酒飲んで酔っ払って笑い飛ばしているかのようで、同時代の女性ブルーズ歌手たちにあるある種の引きずるような重さ・深刻さがない。少なくともかなり味が違ってポップだ。

酒。これはリロイ・カーと切っても切り離せない要素。アルコールの歌ばっかりだもんなあ。かなり若い頃からアル中で、わずか30歳で死んでしまったのも酒の飲み過ぎだったが、そんな私生活を知らなくたって、リロイ・カーの録音集を聴けばアルコール関係が頻出するのは誰でも分る。僕は下戸だからそんな歌詞内容への共感はないが、普通大勢の方はお酒が好きだろうから、その点でもポップな娯楽音楽になりうる。

それがあんなにどんどん売れたわけだから、1920年代末〜30年代前半には相当チャーミングに聴こえていたんだろうなあ。1929年に例の大恐慌が起きて33年まで続くけれど、ヴォキャリオンはリロイ・カーの録音を続け、そのペースもほとんど落ちていないことを考えると、あの時代では稀有な黒人ポップ・ヒット・メイカーだったと言えるんじゃないかなあ。

リロイ・カーが、ピアニストに限らず広く後世のブルーズ〜リズム&ブルーズ、そしてジャズやロック系の音楽家にまで、どれだけ広く深く強く影響を与えているのか、そのせいでリロイ・カーの創出したブルーズが、その後のアメリカ大衆音楽で抜きがたいものになっているのか、そうであるがゆえに、アメリカ戦前ブルーズ界最大の人物であっただけでなく、同国大衆音楽史上最も重要な存在の一人であるとか、そんなことまで書く余裕は全くない。

2017/02/08

ブラック・アメリカが歌うビートルズ

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英エイスがリリースしている「ブラック・アメリカが歌う」シリーズ。ボブ・ ディラン集の話は以前した(http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-ada1.html)。サム・クック集とオーティス・レディング集も出ているようだけど、彼らは自らが黒人歌手なわけだから、ブラック・アメリカが歌うシリーズを作る意味は弱いかもしれない。

またバート・バカラックのソングブックも同じシリーズの一枚として出ているが、白人であるバラックもまた最初から黒人歌手が歌うものとして曲を書いた場合も多いので、いまさらアメリカ黒人歌手ヴァージョン集を作る意味は弱いかも。さらにバカラック集を出すならキャロル・キング集も出すべきだろうが、それはまだない。

そんなわけで白人(シンガー・)ソングライターであるボブ・ディラン集とビートルズ集こそが、英エイスのリリースする「ブラック・アメリカが歌う」シリーズでは面白いものだ。それで今日は二枚のビートルズ・ソングブック『カム・トゥゲザー:ブラック・アメリカ・シングズ・レノン&マッカートニー』『レット・イット・ビー:ブラック・アメリカ・シングズ・レノン、マッカートニー・アンド・ハリスン』の話をしたい。

一枚目『カム・トゥゲザー』は2011年のリリース。これがなかなか評判がよかったんだろう、それで続編の二枚目『レット・イット・ビー』が製作され昨2016年にリリースされることになったんだと思う。もっとも僕は一枚目の方も昨年になって存在に気が付いたばかりだけどね。

これら二枚で歌うアメリカ黒人歌手は全てリズム&ブルーズ〜ソウル〜ファンク歌手ばかりだが、例外が三人いる。ロウエル・フルスン、リトル・リチャード、エラ・フィッツジェラルドだ。前者二名はまあ理解できる。ロウエルはブルーズ・マンであるとはいえ、ソウル〜ファンクっぽい味の人だから。

リトル・リチャードは黒人ロックンローラーだと僕は思うんだけど、でもやはりリズム&ブルーズ色が濃い人だ。だからこの二名はこの「ブラック・アメリカが歌うビートルズ」二枚に収録されるのは全く不思議ではない。不思議なのはエラ・フィッツジェラルドだなあ。ジャズ歌手だもんね。

といってもエラも1960年代以後はジャズ側から越境して新しい他のジャンルの曲をたくさんとりあげてはいた。その点では同じくらいのジャズ歌手サラ・ヴォーンに少し似ている。越境という言葉を使ったけれど、まあしかしジャズもまた混淆ポップ・エンターテイメントであるという本質を外さなければ、別にクロス・オーヴァーと言う必要もないのかもなあ。

「ブラック・アメリカが歌うビートルズ」シリーズでエラが歌っているのは「サヴォイ・トラッフル」だ。つまり二枚目の『レット・イット・ビー』の方に収録されているジョージの曲。そしてこれは個人的にすんごく嬉しい。なぜならジョージのソングブックのなかでの個人的最愛曲だからだ。

そんなビートルズ・ファン、ジョージ・ファンは結構いるんじゃないかなあ。あの「サヴォイ・トラッフル」が一番のお気に入りだという人が。『ホワイト・アルバム』収録のオリジナルではスネア連打ではじまるのが好きで、サックス・セクションの入れるリフも心地良い。

エイス盤『レット・イット・ビー』で聴けるエラの「サヴォイ・トラッフル」は、基本的にはビートルズ・ヴァージョンに忠実だ。特にホーン・セクションの入れるリフはほぼ同じフレーズを使っているし、リズムの感じもテンポもほぼ同じ。違うのはエラ・ヴァージョンではコンガの音が目立つこと。

エラの「サヴォイ・トラッフル」は1969年のものだから、大胆にコンガを使うのはまあ必然だよなあ。しかしこれ、シングル盤でしかリリースされなかったし、今でもどれかエラ単独盤CDアルバムに入っているのを僕は見たことがないんだが、僕が知らないだけだろうか?

エイス盤二枚の「ブラック・アメリカが歌うビートルズ」で何度聴いても一番感動するのが、完璧なゴスペル・ソングになっているアリーサ・フランクリンの歌う「レット・イット・ビー」だというのは、今でもやはり変わらない。最高でいくらでも言葉を重ねたい気分だが、以前一度詳しく書いたので。
さてアメリカ黒人歌手がビートルズ・ナンバーを歌っているものは、さぞや暑苦しくむさ苦しい感じに仕上がっているんだろうと思われるかもしれないが、そんなものばかりではない。二枚のエイス盤でもハードにシャウトするようなファンキーなものが多いのは確かだが、そうじゃないものもある。

例えば一枚目『カム・トゥゲザー』でなら、マキシン・ブラウンが歌う二曲目「ウィ・キャン・ワーク・イット・アウト」とか、二枚目『レット・イット・ビー』でなら、メアリー・ウェルズの歌う四曲目「ドゥー・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」とか、メイシオ&オール・ザ・キングズ・メンの歌う15曲目「フォー・ノー・ワン」ととかは、かなりアッサリした薄味だ。

アメリカ黒人歌手ならグイグイと脂っこく濃厚な味でやってくれた方がいいんじゃないか、それこそ黒人歌手の本領なんじゃないかと思うファンも大勢いらっしゃるとは思うんだけど、アメリカ黒人音楽が全部そんなものじゃあないよなあ。僕もたいがい強靭でファンキーなビートの効いた音楽が好きな人間だけど、あっさり薄味だって聴きたい。

いくら好きでもいつもいつも豚骨ラーメンばっかり続くのではしんどいだろう。たまには醤油ラーメンだって食べたいぞ。だからエイス盤二枚の「ブラック・アメリカが歌うビートルズ」にそんなものが少し混じり込んでいるのは当然だし、通して聴くといいチェンジ・アップになって楽しい。

がしかしあっさり薄味が例外であるのもまた確かなことで、これらエイス盤二枚でも九割は豪速球みたいな豚骨ラーメンだ。それらのなかでこれはイイネと思うものはかなり数が多いというかほぼ全てそうなので、特に気に入ったもの、気になったものだけをかいつまんで以下に書こう。

一枚目『カム・トゥゲザー』のオープニングは、チュビー・チェッカーの歌うファンキーな「バック・イン・ザ・USSR」。これはビートルズ・オリジナルが『ホワイト・アルバム』の冒頭を飾っていたのと同じフィーリングでの疾走感満載なグルーヴ・ナンバーで、意外さはない。

変わり方が最も激しいのは10曲目の「ブラックバード」。やっているのはビリー・プレストン。ビートルズ・オリジナルはポールのアクースティック・ギターのみの弾き語りだったのが、電化バンド編成でのファンク・チューンに仕上がっている。オルガンやチェレスタなど各種鍵盤楽器はビリー自身の弾くものに違いない。

16曲目でリンダ・ジョーンズの歌う「イエスタデイ」も激しく変貌している。ご存知ポールのアクースティック・ギターとストリング・カルテットという伴奏だったのが、これまた電化バンド編成で粘っこく歌われている。一応ストリングスも入ってはいるものの、それは冒頭以外かなり控え目。

18曲目でロウエル・フルスンのやる「ワイ・ドント・ウィ・ドゥー・イット・イン・ザ・ロード?」。元から3コード・ブルーズ・ナンバーなわけだから、ロウエルがとりあげるのは納得だ。歌詞もブルーズの伝統に沿ったエッチな内容で、それをロウエルはギターを弾きながらファンキーに歌う。

19曲目でリトル・リチャードの歌う「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」。リズムの快活な感じはビートルズ・オリジナル通りだが、ヴォーカルのネトネトした節回しがもう全く違った曲に聴こえさせてくれていて、リズム&ブルーズ・マナーでのホーン・セクションも大活躍。こりゃいいなあ。

エイス盤二枚目の『レット・イット・ビー』だと、二曲目でファイヴ・ステアステップスの歌う「ディア・プルーデンス」がこれまた大きく変貌している。ビートルズ・オリジナルはジョンの歌う静かなバラードだったのが、いい意味でやかましいビート・ナンバーになり、コンガも活躍する。

七曲目でニーナ・シモンが歌う「ヒア・カムズ・ザ・サン」も変わり種。ピアノを弾いてるのはニーナ自身に違いないが、そのピアノもその他の伴奏もわりと静かな感じのアレンジで、ニーナが実に淡々と歌う。ビートルズ・オリジナルは『アビイ・ロード』A 面終盤のシンセサイザー・ノイズがプツッと終ったあと盤面をひっくり返し、ジョージの弾くアクースティック・ギターの爽やかな響きが鳴りはじめるのが印象的だったが、ニーナのヴァージョンにそんな爽快感はほぼない。

10曲目でリトル・ジュニア・パーカーがやる「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」も、『リヴォルヴァー』ラストのオリジナルとは相当に違う。ビートルズ・オリジナルではリンゴの叩くスネアがビート感満載で、それに乗ってサイケデリックなサウンド処理とジョンのヴォーカルが走るというものだった。

ところがリトル・ジュニア・パーカーのはほぼテンポがない。エレキ・ギターが実に静かにリフを弾き、それ以外はベースとハイハットと、ほんの少しのエレピのサウンドしか聴こえない。メインはあくまでギターが弾くボ〜ン、ボ〜ンと停滞して漂っているようなふわふわした短いフレーズの繰返しだ。

その上にリトル・ジュニア・パーカーがつぶやくようにヴォーカルを乗せるという、まあこれも一種のサイケデリック・サウンドではある。「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」の歌詞の持つ哲学的というか内省的な意味合いを拡大しようとして、それを噛みしめるようにボソボソ歌っている。

エイス盤二枚目『レット・イット・ビー』での白眉は21曲目のアイザック・ヘイズ「サムシング」だろう。それはなんと約12分間もあって、ジョージの書いたオリジナル楽曲を、まるでソウル・シンフォニーに仕立て上げているような感じだ。大袈裟なんじゃないかと思わないでもないのだが、聴き応えはある。

ジョージの「サムシング」はパティに捧げたプリティだけどシンプルなラヴ・バラードだったのだが、それをアイザック・ヘイズはバラバラに解体し、ラヴ・ソングではない社会派のメッセージ・ソングとして再構築している。ゴージャスでクラシック音楽的な伴奏のアレンジもアイザック自身(ともう一名)。

また13曲目でスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが「ア・ハード・デイズ・ナイト」を歌っているが、あのおどろおどろしい「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」の人がビートルズ・ナンバーをやっていたとは僕は全く知らなかった。しかもこれ、オーティス・レディングのヴァージョンより僕は好きだなあ。

オーティス・レディングもエイス盤一枚目『カム・トゥゲザー』に「デイ・トリッパー」が収録されている。同時代人としてのシンパシーがあったんだろう、彼はビートルズやローリング・ストーンズなどのロック・ナンバーをよく歌ったよね。僕はあまり聴かないんだが。

同時代的共感は個別・特殊なもので、時代や個人が変わると意味が薄くなるものかもしれないが、音楽にしろ他のものにしろ、そうやって個別性・特殊性を突き詰めた結果、普遍性に至るという場合があるよなあ。特殊/普遍というのは必ずしも二項対立的なことではなく、特殊性を持たなかったら普遍性もないのかもしれない。

英エイスがリリースしているブラック・アメリカが歌うボブ・ディラン集やビートルズ集を聴いて、僕が最も強く実感するのが、そういう「時代の歌」だからこそ時代を超えているという、一見矛盾しているように思えるかもしれないが間違いない、音楽の真実なんだよね。

2017/02/07

キューバップ!〜ラテンなバード

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せっかくだから(意味不明)、チャーリー・パーカーのラテン・ジャズ録音について今日は書く。こう言うとだいたいみなさん例のヴァーヴ盤『フィエスタ』のことなんだろうと思うかもしれないが、その前から何曲かあるのだ。それらと『フィエスタ』になった録音をあわせ、全てヴァーヴ・レーベルへの録音で、計14曲23トラックある。

それらをバードのヴァーヴ録音全集 CD 10枚組からピックアップし、一つのプレイリストに録音順に並べて聴いて楽しんでいる僕。長さも78分程度なんだから、ヴァーヴは『フィエスタ:コンプリート・エディション』とでも銘打って、一枚物 CD でリリースしたらどうだろう?面白がる音楽リスナーはたくさんいると思うけどなあ。

だってさぁ、『フィエスタ』なら単独アルバムで CD リイシューもされているけれど、その1951/52年録音より前の”ラテン・バード”とも言うべき録音全4曲5トラックをバードの音源集で入手しようと思ったら、10枚組のヴァーヴ録音全集を買わなくちゃいけないんだよ。マチート(のことはあとでちょっとだけ書く)名義でも入手できるものだけど、それだってなあ。『フィエスタ』に入っていない理由はマチート楽団名義の録音だからなんだろうけれど。だから『フィエスタ:コンプリート・エディション』(でもなんでもいいがタイトルは)一枚物 CD をリリースしてほしい、ヴァーヴさん!

『ザ・ラテン・バード』という一枚物 CD があったようだけど(中身は分らない)、中古でも7000円を越える値段がアマゾンでは付いてい て、7000円もあればバードのヴァーヴ録音完全集10枚組が買えてお釣りが来ちゃうんだから意味ないじゃん。だからさ、どこかのコレクターズ・レーベルじゃなくって、ヴァーヴさん、お願いしますよ!

バードの初ラテン・ジャズ作品は、ヴァーヴ・レーベルへの1948年12月20日録音の三トラック。それはマチート・アンド・ヒズ・オーケストラ名義のもので、続く翌49年1月にもマチート楽団にバードが客演するかたちで一曲録音している。それらがバード初のアフロ・キューバン・ジャズだが、あくまでマチート楽団への客演作品だ。

そしてやはりマチート楽団名義録音で、1950年12月21日にヴァーヴに録音した「アフロ・キューバン・ジャズ組曲」がかなり本格的。なんたって17分超えの演奏だもんなあ。演奏時間の長さといい、何度も劇的に変化する曲想といい、壮大というかやや大上段に構えすぎのような気がしないでもないが、かなり面白いものだ。
そもそも「アフロ・キューバン(・ジャズ)」という、ある時期以後は全員知っているこの用語を発明したのがマチートに他ならないんだよね。キューバはハヴァナ出身のパーカッショニストであるマチート。彼が1940年にニュー・ヨークで結成した自らの楽団を The Afro-Cubans と命名したところから、この言葉が誕生したのだった。

マチートのことを詳しく書きはじめると、ジャズやビ・バップ関連だけでも相当なことになってしまうのでやめておく。今日はあくまでバードのアフロ・キューバン・ジャズ録音の話だ。いや、アフロ・キューバンというよりもラテン・ジャズと言った方が正確だ。なぜならば一曲だけブラジルのショーロ・ナンバーがあるからだ。キューバ的とはいえスペイン人(系)作曲家の楽曲もあるしね。

マチート楽団に客演するかたちでヴァーヴに録音したものは、先に音源を貼った1950年の「アフロ・キューバン・ジャズ組曲」が最後。ここまでヴァーヴに全4曲5トラック録音している。その流れだろう、今度はバード自身のリーダー名義でラテン・ジャズ作品を、1951年と52年にヴァーヴに録音している。

マチート楽団との共演からの流れであることはいろんな意味ではっきりしている。例えば1951年にも52年にも参加しているボンゴのホセ・マングエルとコンガのルイス・ミランダ。この二名は1948/49年のマチート楽団との共演でも一緒にやっているし、そもそもそうでなくたってマチート楽団のビ・バッパーへの影響はかなり大きい(がその話は壮大になってしまうので今日は省略)。

1951年3月12日のニュー・ヨーク録音では、上記二名のパーカッショニストをくわえ、ピアノ+ベース+ドラムスという編成で「マイ・リトル・スウェード・シューズ」「ウン・ポキート・デ・トゥ・アモール」「ティコ・ティコ」(「チコ・チコ」)「フィエスタ」を1テイクずつ、「ワイ・ドゥ・アイ・ラヴ・ユー?」を3テイク録音していて、全てバード名義の単独アルバム『フィエスタ』に収録された。

「マイ・リトル・スウェード・シューズ」はバード自作曲だが、それ以外は他人の曲。そのうち「ワイ・ドゥ・アイ・ラヴ・ユー?」は普通のジャズ・ファンもみんな知っているスタンダード・ナンバーで、マイルス・デイヴィスも1948年の例の九重奏団による(結果的には『クールの誕生』に繋がった)ロイヤル・ルーストでのライヴ出演時にやっている。

「マイ・リトル・スウェード・シューズ」とか、3テイクある「ワイ・ドゥ・アイ・ラヴ・ユー?」とかは、一応ボンゴとコンガが活躍してはいるものの、まあ普通のジャズだ。まあまあラテン・テイストがあるかなという程度で、後年のルー・ドナルドスンがコンガ奏者レイ・バレットを参加させてハード・バップ・ナンバーをブルー・ノートに録音したりした複数のアルバムの先駆けにはなったものだろう。
ルー・ドナルドスンのそんなアフロ・キューバンなテイストがあるハード・バップは、結果的には1960年代後半のソウル・ジャズ〜ニューヨリカン・ジャズ作品にも繋がったんだから、そのルーツはバードの1951年録音にあったという見方もできる。なんたってルーのアイドルはバードだったのであって、ルーはバードそっくりに真似てアルト・サックスを吹いた人だ。

となると、もちろんルー・ドナルドスンの1967年作『アリゲイター・ブーガルー』だけでなく、あの頃からの一連のソウル・ジャズにあるラテン・テイストは、要はバードが先鞭をつけたものだっていうことになっちゃうなあ。例のレア・グルーヴ・ムーヴメントでたくさん発掘・リイシューされたああいうジャズ・アルバムについて、バードのヴァーヴ録音からの流れを云々している文章ってないよねぇ。

1951年3月12日録音では、しかし「ウン・ポキート・デ・トゥ・アモール」「ティコ・ティコ」の方がもっと面白い。前者は説明不要のザヴィエル・クガート(シャヴィエ・クガ)の曲で、彼はスペインはカタルーニャ出身ながらアメリカ合衆国で活躍した有名人。1931年にはニュー・ヨークに進出しているので、同地を拠点とする40年代のビ・バッパーだってもちろん知っている。この「ウン・ポキート・デ・トゥ・アモール」についてはまあいい。

もっと面白いのは「ティコ・ティコ」だ。上でブラジルのショーロ・ナンバーが一つあると書いたのがこれなんだよね。普通のジャズ・ファンのなかのどれくらいの方がこの事実を知っているんだろう?天下のチャーリー・パーカーがやった曲だぜ。これが元はショーロ・ナンバーだということくらいは知っているはずだと信じたい。

「ティコ・ティコ」は(ブラジル語だと「チコ・チコ」表記になるが)、サン・パウロで19世紀後半〜20世紀前半に活躍したコンポーザー、ゼキーニャ・ジ・アブリウが「チコ・チコ・ノ・フバー」という曲名で1917年に書いた古典ショーロ・ナンバーなんだよね。しかしこの曲はそのまま長いあいだ忘れ去られていた。

それを復活させたのがショーロ・ヴォーカリストのアデミルジ・フォンセーカで、歌詞をつけて1941年に歌ってヒットさせ蘇った曲なのだ。元はインストルメンタル・ショーロだけど、アデミルジ以後はショーロ歌手やサンバ歌手が歌うことも多い。

そんななかでおそらくこれが最も有名に違いないというのがカルメン・ミランダ・ヴァージョンの「チコ・チコ」。それは1945年録音で、だから当然ブラジル時代ではなく渡米後ハリウッドで活躍していた時期の録音なんだよね。北米合衆国時代のカルメンの録音で最も出来がいいのが、その「チコ・チコ」だ。伴奏のギターは例によってガロート。
カルメンはこの「チコ・チコ」を米ハリウッドで何度も歌っている。なかには映画のなかのワン・シーンで例のごとく派手ないでたちで登場し歌う。YouTube で探すといくつもあがっていたので、興味のある方はご覧いただきたいが、歌の出来は上で貼った1945年ヴァージョンが一番いい。

そんなハリウッドで大活躍していた時期のカルメンの得意レパートリーだったので、バードらジャズ・メンもそれでこの「チコ・チコ」を聴き憶えていたに違いないと思う。1930年代のブラジル時代よりヴォーカルの力量は落ちたとはいえ、あの時代のカルメンはかなり人気があったからね。アルバム『フィエスタ』にも収録されているバードの1951年ヴァーヴ録音ヴァージョンもご紹介しておく。
ブラジルのショーロ演奏家によるヴァージョンも一つご紹介しておこう。僕の大好きなピシンギーニャ(テナー・サックス)とベネジート・ラセルダ(フルート)によるヴァージョン。あぁ、最高だこれは。ピシンギーニャのコントラポントの入れ方も絶妙な名演。1946年録音。
ありゃ〜、大のショーロ好きである僕だから「チコ・チコ」に力が入りすぎて、もうこんな長くなってしまった。まだバードの1952年録音の話は全くしていないのに、どうしよう?そっちも言いたいことがたくさんあるのに困ったなあ。52年録音には、やはりピアノ・トリオ+ボンゴ+コンガという編成にくわえ、トランペッターも参加。それで5曲11テイク録音したなかから、『フィエスタ』B 面にワン・テイクずつ収録されている。

ホント言いたいことがいっぱいあるんだけどやめておこう。長くなりすぎてしまう。ただ唯一これだけは看過できないという一点のみ書いておく。ヴァーヴへの1952年1月23日録音では、あの超有名曲「ラ・パローマ」もやっている。え〜っとですね、超有名曲ですよ、これは。それがしかし!どうしてだか『フィエスタ』でもヴァーヴ録音全集でも、作曲者名クレジットが「トラディショナル」となっているんだよね。これだけは許せない。

まあ僕は大の「ラ・パローマ」愛好家で、この曲だけいろんな人のヴァージョンを何百とコレクトしている「ラ・パローマ」蒐集家だという側面もあるがゆえに言っているわけだけど、それを抜きにしても「トラディショナル」とのクレジットはオカシイ。ラテン音楽ファンならどこの国の人間でも全員、「ラ・パローマ」はスペインの作曲家セバスティアン・イラディエールが19世紀後半(正確に何年かは判明していないが、版権登録したのは1859年)に書いた曲で、彼がキューバ滞在時代に触れたであろうハバネーラのパターンを用いたものだと知っているんだけどなあ。あぁ、全員知っているよ。

ジャズ・ファンやジャズ専門家、もうちょっとしっかりしてほしい。

2017/02/06

『地下室』セッションが産んだ?『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』

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ロジャー・ティリスンは、1960年代後半にロス・アンジェルスで例のリオン・ラッセル一派と出会って一緒にセッションしたりしていたらしい。道理でね、あんなサウンドのリーダー・アルバムができあがるわけだ。ロジャー・ティリスンのリーダー・アルバムって、1971年の『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』しか僕は知らないが、他にあるんだろうか?僕は発見できない。

ロス・アンジェルスでリオン・ラッセルと出会って云々と言っても、だからそのままスワンプ・ロック方向へ行ったと言えるのかどうかはよく分らない。だいたい出会ったのがロスだったとしても、リオンもロジャー・ティリスンもオクラホマ出身だし、同州のいわゆる「タルサ・サウンド」スクールの一人だとした方が適切なのかもしれない。そういえばエリック・クラプトンが「タルサ・タイム」という曲をやっているよね。僕はあれ大好き。

それに1971年の『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』を LA スワンプ名盤に入れていいのかどうか、アルバムの中身を聴けば聴くほど、こりゃいわゆる LA スワンプ(系ロック)とは少し違うものなんじゃないかという気もしてくるからだ。でも世間一般的にはスワンプ名盤だとされているし、まあそれでいいと僕も思うんだけどね。

名盤とはいえ『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』はなかなか CDリイシューが叶わなかった。僕みたいな人間がアナログ盤でこれを知っていたわけがなく、随分あとになって存在を知った時には未 CD 化状態だったんだよね。いつ頃これが初めて CD になったのか正確には知らないが、僕が買った最初は2008年のウーンディッド・バード盤だ。

僕はもう一枚同じものを持っていて、それは昨2016年に日本のワーナーが、例の名盤探検隊シリーズの一つとして『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』を二曲のボーナス・トラック入りで CDリイシューしてくれたもの。追加の二曲とは「オールド・クラックト・ルッキング・グラス」と「ゲット・アップ・ジェイク」のモノラル・シングル・ヴァージョン。

それら以外の内容は完全にオリジナル・アナログ盤(では僕は聴いたことがないが)や、先行するリイシュー CD と同じだ。まあでも昨年にまたリイシューされたのを買って何度か聴きなおしたのだ。やっぱりいいなあ、『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』。一応ロック・ミュージックだけど、穏やかなフォーク・カントリー寄りのサウンドだ。

ロジャー・ティリスンのヴォーカルは、はっきり言ってあんまり美味しくない。どっちかというと下手な歌手の部類に入れてしまいたい。だけど味はあって、しかも実に素朴で淡々としているというか朴訥で、フォーク・カントリー(・ロック)なサウンドに乗ると、なかなかいい感じに聴こえてくる。もうちょっと声がしっかりしていて張りがあればよかったんだけど。

『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』は、主役であるはずのロジャーのヴォーカルを聴くべきアルバムじゃないかもしれない。ある意味このアルバムの主役は、頻繁に聴こえるエレキ・ギターのスライド・プレイだ。それを弾いているのがジェシ・エド・デイヴィス。この人もオクラホマ出身で、タルサ・サウンド〜 LA スワンプの重要人物の一人だから、いろんなところに顔を出しているよね。『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』で最もスワンプ臭を出しているのがジェシのエレキ・スライドだ。

その他ラリー・ネクテルのオルガンとか、スタン・セレストのピアノとか、ジム・ケルトナーのドラムスとか、こう書いてきただけでどんなサウンドが聴こえるのか、『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』をお聴きでない方でもだいたい想像できてしまうだろう。はい、そのご期待通りの音が鳴っています。

『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』。黒人音楽要素みたいなものは、僕はあまり、というか表面的には全くと言っていいほど感じ取れない。だから上で書いたようにいわゆる LA スワンプの一枚に入れていいのかどうか分らないという判断になってしまう。LA スワンプには黒人ゴスペル〜ソウル色も濃いもんなあ。

そういう黒人音楽ベースの泥臭さではなく、『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』にある泥臭さはちょっと種類の違うものだろう。アメリカの田舎町で土ぼこりが舞い上がるような、そんなフォーク・カントリー的な土臭さじゃないかと僕には聴こえる。だから有名なところで近いものを探せば、ある時期のボブ・ディラン&ザ・バンド的だ。

これは収録曲でもはっきりしている。『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』の一曲目はボブ・ディランの「ダウン・イン・ザ・フラッド」だし、二曲目はウディ・ガスリーの「オールド・クラックト・ルッキング・グラス」だし、十曲目はロビー・ロバートスンの「ゲット・アップ・ジェイク」だしなあ。

ザ・バンドの「ゲット・アップ・ジェイク」は、1972年のライヴ・アルバム『ロック・オヴ・エイジズ』が初出になるけれど、スタジオ・オリジナルはもっと早くにレコーディングされていて、1969年リリースの二作目『ザ・バンド』用のものだったのがお蔵入りしていたんだよね。だから68年か69年の録音だ。

アルバム『ザ・バンド』の2000年リイシュー CD には、その「ゲット・アップ・ジェイク」のオリジナル録音も追加収録されている。ボブ・ディランの「ダウン・イン・ザ・フラッド」だって、ディラン&ザ・バンドの例の1967年地下室セッションで産まれレコーディングされていた曲。だから当然リアルタイムでは未発表。

ボブ・ディラン&ザ・バンドの地下室セッションで録音された「ダウン・イン・ザ・フラッド」(「クラッシュ・オン・ザ・レヴィ」)について詳しく書いておく必要など全くないはず。1975年の LP 二枚組に既にあったし、現在コンプリート集では2ヴァージョン聴ける。

『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』のレコーディングは1970年10月だから、そのなかにある「ダウン・イン・ザ・フラッド」と「ゲット・アップ・ジェイク」は、誰のヴァージョンもまだ全く未発表だった時期のはず。ロジャー・ティリスンかプロデューサーのジェシ・エド・デイヴィスか分らないが、録音済状態のそれら二曲を入手していたんだろうなあ。

そもそもあの『ベースメント・テープス』音源は、プロ音楽家の仲間内ではかなり流通していたようで、その証拠に同1967年の録音直後から、あのセッションで録音された曲がいろんな他の音楽家のアルバムにどんどん登場するようになっていたじゃないか。だから「ダウン・イン・ザ・フラッド」だって知られていたんだろうし、ザ・バンドの(当時の)未発表曲「ゲット・アップ・ジェイク」も同様だったはず。

『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』には一曲だけ黒人音楽家の曲がある。ボーナス・トラック二曲を除くアルバム・ラストの「ラヴィング・ユー・イズ・スウィーター・ザン・エヴァー」。お馴染のモータウン・ナンバーで、スティーヴィー・ワンダーが書いて、フォー・トップスが初演したもの。フォー・トップスのオリジナルはこれ。
その後いろんな音楽家がカヴァーしているこのモータウン・ナンバー(だからローリング・ストーンズもやっている)を、ロジャー・ティリスンはこんな感じで…、とご紹介しようと思ったら、フル・アルバムで YouTube にアップロードされている『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』のうち、この曲は再生不可じゃないか。残念だ。

『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』の「ラヴィング・ユー・イズ・スウィーター・ザン・エヴァー」は、まずバンジョーのサウンド(ジェシ)からはじまって、その後もバンジョー・メインでの音の組立。それにオルガンやフィドル、ドラムスなどが絡むという、まあカントリー・ロック・スタイル。

実はこの「ラヴィング・ユー・イズ・スウィーター・ザン・エヴァー」は、これまたザ・バンドが結成当時からライヴではよくやっていた定番レパートリーの一つだった。アルバム収録は『ロック・オヴ・エイジズ』の2000年リイシュー CD にボーナス・トラックとして収録されているのみだけど、ロジャー・ティリスンやジェシ・エド・デイヴィスらは初期ザ・バンドのライヴで聴いていて、それでこの曲をとりあげようと考えた可能性が高い。

ってことは、実際サウンドを聴いても『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』の「ラヴィング・ユー・イズ・スウィーター・ザン・エヴァー」は、フォーク・カントリー・・ロックみたいな仕上りなんだけど、そもそもこれをカヴァーしようと思った動機が、初期ザ・バンドだったっていう、つまりやはりアメリカン・ホワイト・ルーツ・ミュージック志向。

書いてきたような具合なので、『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』では、僕の大好きなファンキーなブラック・ミュージック要素は表面化しておらず、ほぼ完全にアメリカ白人音楽的なカントリー・ロック・サウンドだけど、僕は案外そういうものも嫌いではない。どころかかなり好きなものがいくつかある。これは普段から僕の文章をお読みの方には説明不要だね。

2017/02/05

真冬に聴きたいジャズ・スタンダード

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ちょうど今の時期、一月後半〜二月前半って、日本では一年で一番寒い季節だね。そんな厳寒(愛媛県住まいの僕が「厳寒」とは笑われそうだが)の時期になると、毎年必ず聴きたくなるジャズ・スタンダードが「コートにすみれを」(ヴァイオレッツ・フォー・ユア・ファーズ)。

Furs だから「コート」は不正確だけど、雰囲気があっていいじゃないか。僕は好きだなあ。それにこれ以外和訳しようがないと思うよ、この場合の Furs は。「毛皮にすみれを」とか「襟巻きにすみれを」じゃあ全く面白くない。特に「襟巻きにすみれを」なんてやった日には、まるでキツネが花をくわえてそうじゃないか。

「コートにすみれを」はマット・デニスが1941年に書いた曲。歌詞はトム・アデア。マット・デニスっていい曲をたくさん書いていて、スタンダード化しているものが多いよね。でもマットはピアノ弾き語り歌手でもある。ソングライターとしては今でも評価が高く話題にもなるけれど、ピアニスト兼シンガーとしては全く誰も言及しなくなってしまった。

1958年の Kapp 盤である自作自演集『プレイズ・アンド・シングズ・マット・デニス』なんか名盤だと僕は信じていて、大学生の頃から LP で、今は CD でよく聴くものなんだよね。「ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン?」「ザ・ナイト・ウィ・コール・イット・ア・デイ」(「僕たちが別れたあの夜」の意)「エンジェル・アイズ」「エヴリシング・ハプンズ・トゥ・ミー」など有名曲ばかりやっているが、やはり「コートにすみれを」もある。
このマット・デニスの書いたチャーミングなウィンター・ソングを、僕はこのマット・デニス自身のピアノ弾き語りライヴ・ヴァージョンで知ったのではない。これまたフランク・シナトラの歌で初めて知ったのだ。僕がかなりのシナトラ・ファンであることはもはや繰返す必要がないはず。リプリーズ時代のシナトラを全部は持っていないが、トミー・ドーシー楽団時代、独立後のコロンビア時代、キャピトル時代についてはコンプリートに CD で持っていて普段からよく聴く。

シナトラの「コートにすみれを」は1954年のキャピトル盤10インチ LP『ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』に収録されていたが、僕が聴いていたのは同年の、やはりキャピトル盤10インチ LP『スウィング・イージー』との2in1でリリースされていた12インチ LP だった。

シナトラのその『スウィング・イージー/ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』12インチ盤は、そもそも僕が生まれて初めて買ったジャズ・ヴォーカル・アルバムだ。えっ?シナトラはジャズ歌手じゃないって?アホかいな。やはりグレイト・シンガーだったと僕は思うよ。ジャズであるかどうかはどうでもいい。無意味な区別をしてシナトラを軽視しているのは、日本のジャズ・ファンとロック・ファンだけじゃないかなあ。

シナトラのその『スウィング・イージー/ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』に収録されている「コートにすみれを」は ヴァースから歌っている。『レイディ・イン・サテン』のビリー・ホリデイもそうだ。インストルメンタル演奏ならヴァース部分をやる意味はなく、やはり誰もやっていないが、 歌手がこの曲をやる場合、ヴァースから歌わないとリフレイン部分の意味もちょっと分りにくい。シナトラ・ヴァージョン、以下の YouTube 音源は歌詞が文字で表示されるので、理解がたやすいだろう。
こんな内容の歌なので、やっぱり真冬に聴きたくなっちゃうね。真夏の炎天下で「雪がひらひらと舞い落ちて、通り一面が凍りつき、でもそんな時でもちょっとしたことで春が来たような感じじゃないか」なんて歌われたって、ま〜ったく気分が出ない。まあ愛媛県在住だし、しかも僕の外出時の足は50ccバイクなのでコートとは縁がないし、東京時代に大のコート好きだった僕でも、どなたか女性に、コートに付けてとすみれを買ってあげたことなどあるわけがない。だいたい僕は相手がどんな性別だろうと、音楽以外のものをプレゼントしたことがないのだ(苦笑)。

さてこんなチャーミングなバラードなので、当然ジャズ楽器奏者もいろんな人がやっている「コートにすみれを」。たくさんあるけれど、僕が特に気に入っている二つをご紹介しよう。どちらもモダン・ジャズのテナー・サックス奏者によるもので、録音順にズート・シムズとジョン・コルトレーン。

ズート・シムズの「コートにすみれを」は、しかしズート名義のリーダー作品収録のものではない。ドイツ出身の女性ジャズ・ピアニスト、ユタ・ヒップのブルー・ノート盤『ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ』にあるものだ。原題はシンプルに『Jutta Hipp』というだけの1956年録音盤。

しかしこの『ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ』は、こういう邦題になっているのでご存知ない方でも推測できるように、実質的にはユタとズートの双頭クインテット録音だ。しかも下手くそなトランペットのジェリー・ロイドはあまり演奏せず(本当に実に下手だからカルテット編成にしてほしかった)、アルバム一枚全面的にズートのテナー・サックスが活躍する。

その『ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ』の A 面二曲目「コートにすみれを」。これが美しくって、マット・デニスの書いたこのメロディをこんなにも美しく吹くジャズ・テナー演奏って他にはないんじゃないかと、大学生の時にこのアルバムを最初に聴いた時に惚れてしまった。ズートの生涯最高のバラード吹奏だと断言する。
お聴きになってお分りのように、名義上のリーダーであるユタ・ヒップのピアノ演奏はなんでもないようなものだよね。はっきり言って凡庸なピアニストでしかないように聴こえる。ましてや終盤でちょっとだけ出てくるジェリー・ロイドのトランペットなんか邪魔でしかない。アルフレッド・ライオンは、マジでどうしてカルテット編成にしなかったんだろう?

そこいくと、カルテット編成でピアニストも一流というテナー・マンの「コートにすみれを」がジョン・コルトレーンのやったものだ。ズート・シムズ・ヴァージョン録音の翌年1957年録音の、トレーン生涯初リーダー・アルバムであるプレスティジ盤『コルトレーン』の A 面二曲目。
これも美しいなあ。レッド・ガーランドが弾くイントロも絶品で、ユタ・ヒップの数倍いいじゃないか。ジョン・コルトレーンの1957年というと、レギュラー・メンバーだったマイルス・デイヴィスのファースト・クインテットが解散していて、58年に再びマイルス・コンボに参加するまでの端境期。

1956年にマイルスがファースト・クインテットでやったプレスティジへのマラソン・セッションでは、ボスがこの曲は重要!と判断したバラード・ナンバー、例えば「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」(『クッキン』)などでは一音も吹かせてもらえなかったジョン・コルトレーンだけど、翌57年にはグングン上達してきているのが、上掲「コートにすみれを」でも聴き取れる。

1956/57年時点なら、テナー・サックスの腕前はジョン・コルトレーンよりもズート・シムズの方がかなり上であって、「コートにすみれを」もやっぱりズートのヴァージョンの方がだいぶいいぞと僕は思うんだけどね。腕前以前にこのマット・デニスの書いたチャーミングなウィンター・バラードには、コルトレーンの硬くて武骨な音色より、ズートの柔らかめの音色の方が似合っているような気がするんだよね。

まあそのあたり、二つとも音源を貼ってご紹介したので、みなさん聴き比べてみてほしい。そんでもってマット・デニス自身のとシナトラのと、やはりこれも音源を貼ったヴォーカル・ヴァージョンと、それら全部で四つお聴きになって、この日本では一年で一番寒い季節に、歌詞通り、真冬にちょっとだけ春が来たみたいだねという気分を味わって、ほんの少し気持だけでも暖まってください。

2017/02/04

ひたすらコンサヴァ・ロマンティック路線でせめてほしいヴィ・タオ

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ジャケット写真(左)だけで僕はもうメロメロ。だって美人さんだし、そうでなくたって女性が髪をアップにしてうなじを出しているのを斜め後ろから見るというのに極度に弱い僕。そんな姿を見ただけであそこがいけないことになってしまうのだ。だからこのヴィ・タオの2012年作も、ジャケットを見た瞬間に買うと即断だった僕。

最初にこのジャケ写を見たのは、記憶に間違いがなければ、エル・スールのサイトだったか、あるいは Astral さんのブログだったか、どっちが先だったか分らないが、とにかくどっちかだ。エル・スールの場合は CD 販売ということだけど、Astral さんが最初に話題になさったのは Apple Music か Spotify かの定額制配信サーヴィスでお聴きになったという話だったはず。確かめようと思って Astral さんのブログで探してみたけれど、僕の探し方が悪いんだろう、見つけられなかった。

それはそうと Apple Music でも Spotify でもいいが、とにかくあの手の定額制音楽配信サーヴィスについては、批判的な意見も少し読む。そのなかでこれは最もオカシイぞと思ったのは、Twitter でフォローしているかなり熱心な音楽ファンの方。普段は音楽ソフト(含むコンサート)の買いすぎのせいでお金がないお金がない、私は貧乏人だ、庶民の味方だと散々繰り返している。

そこまでは僕を含むほとんどの熱狂的音楽マニアとなんら変わるところがないのだが、その方はある時(まだ Spotify は日本上陸していない時期だった)、定額制音楽配信サーヴィスを激しく批判したのだった。それもサーヴィス自体やその仕組に対するアンチな意見というよりも、それを利用する音楽ファンに対しての批判だった。

あんな定額制音楽配信で聴くような人間は音楽ファンとは言えないとまで断言したのだった。音楽を愛していないんだとなるそうだ。普段は庶民の味方のようなことを言いながらだから、こりゃオカシイよね。庶民感覚ってのはさ、音楽に限らず衣類でも食べ物でもなんでも、「同じものを同じだけ」享受できるのであれば、価格はなるべく安いのがいい、できればタダがいいというものじゃないかなあ。

おそらく音楽などの文化産物に対し受け手は真っ当な対価を支払うべき、それが音楽家の収入になって、今後の新たな音楽創造の元手にもなるのだから、ということなんだと思う。まあマトモな考えだ。これで行けば、YouTube にアップロードされている音源は、音楽家やレーベルなど創り手自身が(宣伝を兼ねて)上げているもの以外は、ほぼ全て第三者が無断でやっているものだから、何万回再生されようと音楽家には一円の収入にもならない。

そのあたりの音楽享受のシステムが、インターネット普及後、特に21世紀に入ったあたりから変わりはじめていて、というかとっくに完全に変わっていて、その結果 Apple Music や Spotify みたいなサーヴィスが登場・普及したんだと思うんだけどね。僕も実を言うとそれらはあまり積極的には活用しておらず、やはり CD で聴きたいなと思うリスナーではあるけれど。

いつものように話が逸れた。ヴェトナム人女性歌手のヴィ・タオ。とにかくエル・スールのホーム・ページか Astral さんのブログでジャケ写を見て買うと即断した僕だったが、あまりの人気にエル・スールでの初回入荷時には瞬時に売り切れてしまい(そういうの多いね)、二回目の入荷で2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』と2015年作『Chuyến Tàu Hoàng Hôn』を同時に買った。

それが自宅に届いたのと同じ日に荻原和也さんがブログでそれら二枚をとりあげていらっしゃって、やっぱりそりゃそうだよなと、まだ荷物を開梱する前から納得してしまった。まだ聴いていなかったのに、どうしてそんな気持になったのだろう?でも音楽ファン歴も長くなると、ある程度は勘が働くっていうことがあるよね。聴く前からこれはいいぞ、あるいはダメだぞと。

そう勘がきいたような気がしても、実際聴いてみたら全く違っていたなんていうことも多いので、やっぱり音楽は「とにかく聴かなくちゃはじまらない、お話にならない」ものではある。がしかしヴィ・タオの場合は、ジャケ写でピンと来たファースト・インプレッションそのまま、中身の音楽も素晴らしかった。

僕の場合、それは二枚のうち上掲写真左の2012年作の方が中身がいいように思える、ジャケ写の印象だとそう思える、右の2015年作よりもいいんじゃないかという、これといった根拠のないこの勘も当たったのだった。聴いてみたら、こりゃもう断然2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』の方がいいね。いいというのは僕の個人的嗜好だから、より僕好みだったと言い換えておこう。

荻原和也さんは野心的な2015年作『Chuyến Tàu Hoàng Hôn』の方を、どちらかと言うと高く評価し支持したいということをお書きになっている。僕がこのヴィ・タオという、それまで全く聴いたことのなかった歌手の声質や歌い方に接した時、この人は野心的・冒険的な音楽よりも保守的なロマンティック路線の方が似合っていると感じたというのが、素直な気持。

ヴィ・タオの2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』には、副題として「Bolero」と「album vol.2」という言葉が見える。後者の方は、この歌手の二作目にあたるものらしい(デビューは2004年だそう)ので分りやすいが、前者のボレロというのはどういう意味なんだろう?2015年作『Chuyến Tàu Hoàng Hôn』にも「Bolero 2」という副題が載っている。

聴いてみて判断するに、要はバラードばかり歌っている、それもスウィートで懐メロ的な抒情歌謡ばかりとりあげて、それをソフトな甘い歌い口で聴かせているという意味でボレロという言葉を使ったんじゃないかなあ。だからそれにしてはちょっぴり激しいロック風、ブルーズ風があったりする2015年作の方は、僕にはヴィ・タオ的ではないように聴こえてしまうんだよね。

やっぱりさ、このヴィ・タオというバラディアーには、ただひたすらコンサヴァティヴに、ひたすらロマンティックな世界に没入してほしい、そんなサウンドのなかで甘くて美しいメロディを、ただそのままに歌ってほしい、それで僕たち聴き手をウットリさせてほしいっていう、僕はそんな気持でいっぱいなんだよね。

こんな甘くて官能的な抒情的バラディアーは、ヴェトナムだとレー・クエンが最高峰とも言うべき位置に何年か前から立っている。レー・クエンのそんな路線の最高傑作が、僕の嗜好だと2014年作の『Vùng Tóc Nhớ』になるわけだけど、ヴィ・タオの『Tàu Đêm Năm Cũ』はその二年前の作品だったなんてなあ。

もちろんレー・クエンの2014年作や2016年作などと比較すれば、歌の深み、表現力、湿って重たい歌い廻しが好みでないリスナーをもねじ伏せてしまうような強い説得力のあるヴォーカルの力量は断然レー・クエンの方が上で、ヴィ・タオの2012年作では薄い。そもそも温故知新の戦前ヴェトナム歌謡曲集路線は、2012年よりも前にレー・クエンが先鞭をつけたものだろう。

だからヴィ・タオの2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』は、そんなレー・クエンが耕してくれた畑で新たに芽生えた若い才能っていうことなんだろうなあ。既婚者らしいが、ヴィ・タオの年齢のことは僕は全く知らないが僕。CD パッケージ附属のブックレットが写真集になっていて、それを眺める限りではまだ若そうだ。

2015年作のように野心的でコンテンポラリーな方向を試みみるのも、プロの音楽家としては当然ではあるけれど、僕の好みだけでワガママを言わせてもらえば、ヴィ・タオには2012年作のごとく、ただひたすらにロマンティック街道をコンサヴァティヴにひた走ってほしい。そのボレロ的抒情に磨きをかけて、深みを増してほしい。

そしてできれば、そんな全世界的に普遍的なリリカル・バラードの世界に、ほんのちょっぴりヴェトナム民俗色もあれば文句なし。同じ国の先輩レー・クエンの2014年作『Vùng Tóc Nhớ』がローカル色のほぼ全くない黄金のアメリカン・ポップスみたいだったので、ヴェトナム歌謡に馴染のないリスナーでも聴きやすかったけれど、ヴィ・タオの2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』もそれに近い。

しかしよく聴くと、ヴィ・タオの2012年作『Tàu Đêm Năm Cũ』では若干ヴェトナム民俗色も聴こえるようだ。ナイロン弦ギターや瀟洒なストリングスの響きなどサウンド・メイキングはやはり全世界共通の普遍色だけど、ヴィ・タオの節廻しには独特の粘り着くようなネットリした味があって、これはレー・クエンでも聴けるものだから、元々の曲の旋律がヴェトナム的と言えるのか、あるいはヴェトナム語の発音によるものなのか僕には分らないが、とにかくローカルなものではあるには違いない。

また伴奏も、上で全世界共通の普遍色とは書いたけれど、これはヴェトナム歌謡でしか聴けないかもというものもある。なんだか僕は知らない笛の音(二曲目)とか、あるいはどんな楽器だか全く見当がつかない七曲目の(胡弓のような)音とか(だから弦を擦る楽器かなあ?)、まあその二つだけとはいえヴェトナム民俗色もありはする。

それら以外はレー・クエンの2014年作的な普遍的ポップス・サウンド。だからやはり同様にヴェトナム歌謡に縁のない方でも入って行きやすいと思うヴィ・タオの『Tàu Đêm Năm Cũ』。何を隠そう僕がそうだ。ヴェトナムに限らず東南アジアの音楽はほとんど知らない僕。それでもこのヴィ・タオの2012年作には惚れたね。ジャケ写を見て「ええなこれ!」となった方は、その直感を信じて間違いない。

2017/02/03

マイルス73年ファンクの軽やかさ

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「マイルスのベルリンものにハズレなし」というのは、マイルス・デイヴィス・マニアのあいだでは昔から言われてきていること。公式ライヴ盤は1964年のもの(『マイルス・イン・ベルリン』)しかないけれど、その後69年、73年と全てブートレグながら名演揃い。マイルスの75年の一時隠遁前までのベルリンもので僕が知っているのは、以上三つだけ。

1981年復帰後のものを入れたらもっとたくさんになるけれど、それらはいま聴き返すと内容的にイマイチな感じが、僕みたいな人間ですらするので、勘定に入れないでおこう。「マイルスのベルリンもの」、これすなわち1964年、69年、73年で、ある意味全てだ。

公式ライヴ盤が1964年のしかないと書いたけれど、それは二年前までの話。2017年現在では73年のベルリン公演も公式化しているので、誰でも楽に買って聴くことができる。それは2015年リリースの四枚組『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』の三枚目に収録されている11月1日公演。ブート時代は『コンプリート・ベルリン 1973』というものがあった。あらゆる意味で完璧に同じ。だって「公式ライヴ録音のマスターテープから」と裏ジャケットに書いてある。

1973年のマイルス・ライヴ公式収録盤はもう一つあって、それは7月8日のモントルー公演だ。ってことは言うまでもなく『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー 1973-1991』に収録されているもので、ディスク1とディスク2に分割収録されている。

1973年のマイルス・ライヴにかんしては、公式収録は2017年現在でも以上二つだけ。ブートレグでなら6月19日の東京は新宿厚生年金会館におけるライヴが、公式盤を含めても内容的には一番優れているんだけど、まあブートの話をあまり詳しく書いてもなあ。一応僕は自分でそれを YouTube にアップロードしておいたので、是非お聴きいただきたい。
さて二つしかないとはいえ、やはり公式盤で1973年のマイルス・ライヴのことを書いておきたいが、録音順では7月8日のモントルー公演の方が先だ。この時がマイルスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァル初お目見えだった。73年というと、要は公式盤『ダーク・メイガス』バンドだっていうことになる。

サックスとフルートがデイヴ・リーブマンになり、ギターがレジー・ルーカスにくわえピート・コージーが参加してツイン・ギター体制になる(前年まではレジー一人)。それ以外のベース(マイケル・ヘンダスン)、ドラムス(アル・フォスター)、パーカッション(エムトゥーメ)は変わりなし。

この編成は1975年夏の一時隠遁まで、サックス奏者の交代はあるものの、全く変化なし。1973年の前72年のマイルス・ライヴ・バンドのことを考えると、鍵盤奏者(セドリック・ロースン)、エレクトリック・シタール奏者(ハリル・バラクリシュナ)、タブラ奏者(バダル・ロイ)が、全てのライヴでレギュラー参加。バンドのサウンドはかなり印象が異なっている。

だから結果的に1975年の大阪公演『アガルタ』『パンゲア』という最高の果実、あの時点までのアメリカ汎ブラック・ミュージック的な大傑作に繋がったマイルス・バンドの、その発端が73年バンドだったということになるんだよね。なんだかこう書くと、73年バンドはあくまで75年バンドへの足がかりみたいな言い方に聞こえるかもしれないが、そういう意味でもない。

僕はある意味1975年のマイルス・ファンクよりも、73年マイルス・ファンクの方が好きだという部分が少しある。音楽的充実度、成果の出来具合という点ではやはり75年だが、73年バンドのライヴには、翌74年から75年にかけてかなりヘヴィーで暗く、ある意味病的とも言える雰囲気がないんだよね。

ファンク・ミュージックって、だいたいどんなものでもむさ苦しくて暑苦しい、体臭がプンプン匂ってくるようなものだと思う。典型例がジェイムズ・ブラウンだけど、そうじゃない数少ない例外がシングル盤「サンキュー」までの1960年代後半のスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンと、マイルスの1973年ファンクだ。

スライの話はまた別の機会にするとして、1973年マイルスは、スタジオ録音でも軽やかで爽やかなものが少しある。それでも同年に「カリプソ・フレリモ」(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』)みたいな、重たいことこの上ない曲も録音してはいるんだけど、それ以外はわりと真夏に涼しい風が吹き抜けるかのようなフィーリングが聴き取れるんだよね。

1973年マイルスのスタジオ録音については、こりゃまた長くなってしまうのでやめておいてライヴものだけ。7月8日のモントルーでも11月1日のベルリンでも、オープニングは「ターナラウンドフレイズ」。73年ライヴで一曲目がこれじゃなかったことは全くなく、またそれに続いての二曲目が「チューン・イン・5」。このメドレーじゃなかったことも例外がない。

三曲目以後は、録音月日と録音場所によって若干異なっている(がそれらは全部ブート盤だから)。1973年マイルス・ライヴのオープニング二曲「ターナラウンドフレイズ」と「チューン・イン・5」。それらを含め、7月8日のモントルーのも11月1日のベルリンのも、フル・セットが YouTube にあるので、ご紹介しておく。
1974年(『ダーク・メイガス』)とか75年(『アガルタ』『パンゲア』)とは、同じようなファンク・ミュージックであるようで、フィーリングがかなり違っているのが聴き取れるんじゃないかなあ。73年のはどっちもやはり軽やかだよね。爽やかとまですると言いすぎのような気もするけれど、それに近いような感じだ。

ちょっとどうなっているのか分らないぞと思うのは、一曲目「ターナラウンドフレイズ」から二曲目「チューン・イン・5」へのチェンジだ。キーもリズムもパッと変わるので、どなたもどこで二曲目になったなと分っていただけると思うんだけど、その瞬時の変化をボスがどうコントロールしているのか、僕には分らない。

一曲目「ターナラウンドフレイズ」から二曲目「チューン・イン・5」になる瞬間は本当に全く切れ目なく、0.5秒もないような瞬時にチェンジする。しかもリズムなんかも全然違うものなのに、バンド全体が一体となって0.2秒くらいでパッと移行するんだよね。これ、ボスはどう指示してんの?

毎回同じ演奏内容の「ターナラウンドフレイズ」を同じ長さやってからチェンジするのであれば、何度もやれば指示なしでもそういうことが可能だろうが、内容も演奏時間も毎回かなり違うもんなあ。特に長さが違う。モントルーのは16:35 だけど、ベルリンのは10:57だ(東京のブートでは12:44)。 だからステージ上でマイルスが「チューン・イン・5」に行くぞというなんらかの指示を出して二曲目になっているはずなんだけどね。

しかし指示を出して移行するにしては、本当に0.2〜0.5秒ほどで瞬時にパッとチェンジしてしまうので、当時のステージを観たことのない僕には理解不能だ。言葉ではなく(だって電気音の洪水だから生声なんか聞こえっこない)指か手か顎かでボスがなにかやっているんだろう。それにしても不可解だ。

そういえば1975年来日時のインタヴューでマイルスは、「指でバンド・メンに指示を出しているんだが、客席からは分らないだろうな」と発言している。大阪でのステージを生体験した僕の12歳年上のジャズ・ファンの方によれば、マイルスはバンドに指示を出す時には、ステージ上でクルッと廻って客にお尻を向けてしまう。写真なら僕もそんなのをたくさん見る。

だから客席からは分らないだろうという本人の発言になるけれど、そのインタヴューをとった児山紀芳さんは舞台袖で観ていたそうで、そうするとマイルスが実に細かく、しかも頻繁にバンド・メンに指で指示を出しているのが見えたそうだ。特にドラムスのアル・フォスターに対する注文が多かったみたい。

1975年の来日公演では、1月22日の新宿公演(がこの年の来日公演初回)において、ボスのあまりにうるさい指示にイライラしてキレてしまったアル・フォスターが、演奏の真っ只中でとうとう放棄してステージを降りてしまい、急遽ピート・コージーがドラム・セットを叩きはじめ、そのまま終演する。

その模様は同日公演を収録したブート盤『アナザー・ユニティ』でバッチリ聴ける。このブート盤は、正規化したわけじゃないだろうが、タイトルを変えてアマゾンでもある時期以後売っているようだ。音質的にも公式盤『アガルタ』『パンゲア』以上だし、演奏内容はそれらより少し劣るけれども、興味深いドキュメントなんだよね。

ともかくステージ上でマイルスがどう指示してバンド全体がああまで瞬時に音がチェンジするのか、やっぱり僕には不可解なんだよね。レコードで聴いてその瞬時の激変ぶりに「これは録音後に編集されているに違いない」と思い込んでライヴに足を運ぶと、目の前で同じことが起きるので驚いたというアメリカ人リスナーもいたんだそうだ。

マイルスの1973年ライヴで一番いいのは、上で書いたように軽やかで爽やかなフィーリングがあることだけど、それにくわえサックスがデイヴ・リーブマンであることも大きなメリットだなあ。前任者がゲイリー・バーツで後任者がソニー・フォーチュンだけど、リーブマンが一番いい。というか比較にもならない。

ギターにかんしては、リズム担当のレジー・ルーカスのカッティングも、その前1972年当時よりもはるかに刻み方に切れ味が増していて鋭いし、さらに和音構成や、どこでどういう音で刻みを入れてバンド全体のサウンドを創っていくかという、なんというかオーケストレイションみたいな部分は比較にならないほど向上している。最後の部分については75年がもっとずっと上だけどね。

ギター・ソロ担当のピート・コージーの方は、1975年の『アガルタ』『パンゲア』で聴ける、これ以上は不可能というまで目一杯ファズをかけて弾きまくる、あの歪みまくったグチョグチョ・ギター・ソロを聴き慣れているもんだから、73年ライヴでの線の細いサウンドは僕にはイマイチ。さらに、コージーではなくレジー・ルーカスがソロを弾いているのでは?と思える部分もある。

1973年のモントルーでもベルリンでもギター・ソロの全部ではないんだけど、一部でこのソロはレジー・ルーカスだろうと推測できるものがあるんだよね。もちろん CD パッケージ附属のものにも、ネット上で情報を探しても、どこにもそんな記述は全く存在しない。僕の耳判断だけだ。でも間違いなくレジーが弾くソロだと思える部分が少しあるけどなあ。ピート・コージーのスタイルとの違いは明確だから、聴き分けは難しくない。

肝心のボスの電気トランペットは1973〜75年のあいだでなんの変化もない。いつもいつも書いているので繰返しになっちゃうけれど、マイルスはあくまでリズム・セクションあってこそ活きるトランペッターで、そのソロだけ抜き出して聴くと、だいたいいつもそんなに変化はない。リズム・セクションのファンキーさが増すにつれ、トランペットもいい感じに聴こえてくる。

だから1973年バンドの、リズム・セクションの四人(カッティング・ギター、ベース、ドラムス、パーカッション)は、75年バンドと全く同一メンバーであるにもかかわらず、どうしてだか73年は軽やかなフィーリングがある(ように感じるのは僕だけ?)リズムに乗ると、ボスのトランペットのノリも爽やかに聴こえるから、まあ不思議というか当然というか…。吹いているフレイジングなど全く変わらないのにねえ。これもまた音楽の魔法だ。

2017/02/02

アンプリファイド・ハープ第一号?〜スヌーキー・プライアー

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過小評価されているブルーズ・マンの一人にスヌーキー・プライアーがいる。一般にブルーズ・ハープをアンプリファイしたのはリトル・ウォルターだと考えられているかもしれないが、スヌーキーの方がずっと早くにアンプリファイド・ハープを吹いているんだよね。

リトル・ウォルターの有名な「ジューク」。もちろんアンプリファイド・ハープだが、これは1952年録音で、マディ・ウォーターズらが伴奏を務めている。リトル・ウォルター最大の代表作の一つとみなされていて、『ザ・ベスト・オヴ・リトル・ウォルター』に収録されているので、誰でも簡単に聴くことができる傑作インストルメンタル・ブルーズだ。
ところがこのリトル・ウォルターの「ジューク」は、その四年も前の1948年にスヌーキー・プライアーが録音した「ブギ」そのまんまなのだ。これはパクリなのか、引き写しなのか、ともかくそのまんま。スヌーキーの「ブギ」の方はヴォーカル入りで、伴奏はムーディー・ジョーンズのエレキ・ギターのみ。ちょっとご紹介しよう。
ミシシッピ生まれのスヌーキー・プライアー。第二次大戦終了直後の1945年にシカゴのマックスウェル・ストリートでブルーズ・ハープを演奏するようになった。自身の発言によればその頃既にアンプリファイしていたという話だが、まあこれはそのまま額面通りに受け取っていいのかどうか分らない。

がともかく、スヌーキー・プライアーがシカゴの戦後ブルーズ・シーンにおいて、最も早く活動を開始した人物の一人であったことは間違いない。そしてアンプリファイド・ハープを吹いた(おそらく)最も早いなかの一人であったことも疑えない。録音物で辿る限り、スヌーキーによるアンプリファイド・ハープが聴ける最も早いものは、ベイビー・フェイス・リロイ名義の録音「マイ・ハート・キャント・レスト・エニイモア」で、1949年 JOB 録音。
スヌーキー・プライアーの JOB 録音集といえば、小出斉さん編纂・解説で P ヴァインから『ブギ・トウィスト・ザ・JOB・セッションズ 1949 - late50s』という一枚物 CD がリリースされていて、僕の愛聴盤の一つなんだけど、これには「マイ・ハート・キャント・レスト・エニイモア」が収録されていない。ブルーズ・ハープ史における最重要曲なのになあ。スヌーキーのリーダー名義録音ではないからだろうが、もったいない。

同じレーベルの録音なんだし、入れておいてくれてもよかったんじゃないですか、小出さん?ともかくスヌーキー・プライアー自身が「アンプリファイド・ハープは俺が最初にやりだしたんだ、俺の発明なんだ」と豪語しているのは、そのまんま受け取るわけにはいかないが、少なくとも最初のなかの一人で、最重要人物であることに疑いの余地はない。

あぁ、それなのに、例えばリトル・ウォルターの評価の高さと(ブルーズ・ファンのあいだでだけの?)人気の高さに比べたら 、スヌーキー・プライアーを話題にして、その功績を評価する文章って少ないよなあ。録音物で辿る限りでは、遅くとも1949年にはブルーズ・ハープをアンプリファイしていたスヌーキー。リトル・ウォルターの初アンプリファイド・ハープ録音は51年だからね。

JOB 録音で聴くスヌーキー・プライアーは、ヴォーカルの方はどうってことないような感じで、まあでもかすれ声でレイジーに歌うあたりにブルージーな雰囲気はある。でもやっぱりこの人はブルーズ・ハープ・プレイを聴くべき音楽家だなあ。彼のブルーズ・ハープ・スタイルの最大の影響源はライス・ミラー、別名サニー・ボーイ・ウィリアムスン II 世だ。

しかし、ジョン・リー・ウィリアムスンこと サニー・ボーイ・ウィリアムスン I 世の方からの影響も明らかに聴き取れる。上述の P ヴァイン盤『ブギ・トウィスト・ザ・JOB・セッションズ 1949 - late50s』なら、一曲目「ブーギ・フール」、二曲目「レイジン・サンド」という二曲の1949年録音など、それが顕著だ。

四曲目の「アイム・ゲッティング・タイアド」など、まさに曲名通り、引きずるようなレイジーなフィーリングのブルーズ・ハープとヴォーカルと、サイド・ギター(ムーディー・ジョーンズ)で雰囲気満点。南部的でダウン・ホームな1950年代シカゴ・ブルーズという感じで、いいなあこれ。
P ヴァイン盤『ブギ・トウィスト・ザ・JOB・セッションズ 1949 - late50s』には一曲だけインストルメンタル・ブルーズもある。10曲目の「ハープ・インストルメンタル」というなんの芸もないタイトルだが、中身はなかなかいい。スヌーキーのアンプリファイド・ハープだけに集中してたっぷり味わいたい時にはピッタリ。聴こえるピアノはサニーランド・スリム。
ところで P ヴァイン盤『ブギ・トウィスト・ザ・JOB・セッションズ 1949 - late50s』でもそうだし、それ以外のポーラ盤などでもそうなんだけど、スヌーキー・プライアーの録音には「ブギ・なんちゃら」とか「なんちゃら・ブギ」とかいう曲名が多く、また曲題がそうなっていなくてもリズム・パターンがブギ・ウギであるものばかり。もうそれしかないんじゃないかと思うほどだ。

これは当たり前の話ではあって、1940年代末から50年代いっぱいにかけてシカゴで活躍したスヌーキー・プライアーだから、ブギ・ウギのパターンが抜きがたいものになっているのは納得できる。がしかしここまで「ブギ」という言葉とリズム・パターン一本槍だったのは、ブギ・ウギ・ピアニストではないハーピストとしては、彼だけじゃないかなあ。

ハーピストとしてはというか、ブギ・ウギ・ピアニストではない1950年代ブルーズ・マンなら、ここまでブギばっかりという人っているのかなあ?ちょっと僕は思い当たらないんだけど、まあでも JOB 録音集などでスヌーキー・プライアーのブルーズ・ハープを聴いていると、ブギ・ウギ・パターンの上にしゃくり上げるようなフレイジングを吹いていて、聴き応えがある。

そんなスヌーキーのしゃくり上げるようなブギ・ウギ・シャッフル・ブルーズの最高傑作が、P ヴァイン盤『ブギ・トウィスト・ザ・JOB・セッションズ 1949 - late50s』ラストの20曲目「ブギ・トウィスト」。アルバム・タイトルに持ってきているんだから、やはりこれが代表曲なんだろう。
出だしのベンド音からしてたまらないスヌーキー・プライアーのブルーズ・ハープ。そしてヴォーカル。ブギ・ウギ・パターンでシャッフルするリズム・セクション、サウンドの厚みと弾力性などなど、1950年代(としか録音時期が判明していないのが残念極まりない)シカゴ・ブルーズ最高作の一つじゃないかな。

それが証拠に P ヴァイン盤アンソロジー『シカゴ・ブルースの25年』(現行 CD では三枚組)には、スヌーキーではこの「ブギ・トウィスト」だけが選ばれて収録されているもんね(その解説文には1962年録音とあるが?)。粘りつくようなリズムとアンプリファイド・ハープのサウンドとフレイジング。最高じゃないだろうか。

2017/02/01

ヒューイ・ピアノ・スミスで賑やかにパーっとやろうぜ

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10年ほど前だったか?、日本のお酒のテレビ CM で流れていた「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」。僕は完全なる下戸なので、CM の内容そのものに全く興味はなく、だからどの会社のなんというお酒だったか全然憶えていない。単に BGMで流れるそれを聴いて、えっ?この曲が日本のテレビ CM で使われるのか!とちょっぴり驚いたのだった。

「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」はヒューイ・ピアノ・スミスの曲。1950年代後半〜60年代前半に活躍したニュー・オーリンズのリズム&ブルーズ・ピアニストだ。僕がこの人の名前と曲を初めて知ったのは、御多分に洩れずドクター・ジョンのアルバム『ガンボ』でだった。

『ガンボ』のなかには(かつての B 面に)「ヒューイ・スミス・メドレー」があって、三曲やっている。順番に「ハイ・ブラッド・プレッシャー」「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」「ウェル・アイル・ビー・ジョン・ブラウン」。続くアルバム・ラストの「リトル・ライザ・ジェイン」もドクター・ジョンはヒューイの曲としてクレジットしているが、これは伝承ナンバーだ。

ドクター・ジョン自身が『ガンボ』に寄せた一曲ごとの解説文では、「リトル・ライザ・ジェイン」はパブリック・ドメインにある民謡だと分っているが、私はヒューイの曲として扱いたいと書いている。この気持は分りやすい。なぜならば、実際ヒューイのヴァージョンで知られる曲だし、まだドクター・ジョンと名乗る前のマック・レベナック時代に、この人はヒューイのバンドに在籍して薫陶よろしきを得たからだ。

つまりドクター・ジョンにとってヒューイは師匠みたいな人物だから、ニュー・オーリンズ R&B 古典集である『ガンボ』の録音に際し、そのヒューイのナンバーを三曲メドレーでやり、もう一つの伝承曲もヒューイの名前を作曲者としてクレジットして演奏しているわけなんだよね。

そんな事情で知ったヒューイ・ピアノ・スミス。僕が持つこの人の録音集は、たったの CD 一枚。1997年に英国のウェストサイドがリリースした『ハヴィング・ア・グッド・タイム:ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ、Vol. 1』というもので、全23曲24トラック。どうして曲数とトラック数が一致しないかというと、冒頭に、ヒューイの曲では一番有名な「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギ・ウギ・フルー」が2ヴァージョン並んでいるからだ。

邦訳すれば「ロック肺炎とブギ・ウギ・インフルエンザ」となるこの曲は1957年録音。録音の際、最初はインストルメンタル・ナンバーとしてやりはじめたものらしいが、途中から歌詞付きになって、結局そのヴォーカル(ボビー・マーシャン)入りのとインストルメンタルのと両方を、シングル盤のA面B面にしてリリースされたのだった。

この「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギ・ウギ・フルー」がヒットして、なんとミリオン・セラー(ビルボート R&B チャート五位) になったそうだ。このレコードはこの曲の歌詞を書いたジョニー・ヴィンセントが興したエイス・レコーズからリリースされたシングル盤だったのだが、大ヒットになったので、その後ヒューイはエイスにどんどん録音し、続々とレコードが発売されれることになった。

それが1957〜62年(?)あたりのことで、その間エイスと傍系のヴィン・レーベルから出たヒューイのレコードはヒットが続いて、ニュー・オーリンズのリズム&ブルーズ・ミュージシャンとしては最も成功し、最も重要な人物の一人とみなされるようになった。

リズム&ブルーズ・ピアニストといってもニュー・オーリンズの人物だから、当然ジャズ・ピアノの影響も濃い。僕が特に強く感じるのはジェリー・ロール・モートンの影響だ。ジャズ系以外だと、やはりプロフェッサー・ロングヘアの直系とも言うべき弾き方をしているよね。そもそもフェスの活躍以後、ニュー・オーリンズのピアニストでフェスの影響下にない人物を探す方が難しい。

また一連のブギ・ウギ・ピアニストたち、特にピート・ジョンスン、ミード・ラクス・ルイスの痕跡も、ヒューイのピアノ・スタイルのなかにかなりはっきりと聴き取ることができる。あとはやっぱりファッツ・ドミノ・スタイルだなあ。プロ・キャリアのスタートが1950年代初頭にギター・スリムやアール・キングのバンドでのことだったらしいので、そのへんは納得だよね。

ウェストサイド盤『ハヴィング・ア・グッド・タイム:ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ、Vol. 1』にヒューイの代表曲は全て収録されている。この人はやはりエイス(と傍系のヴィン)時代こそが一番美味しかった音楽家で、その後エイスを離れインペリアル・レコーズと契約して以後は、はっきり言って鳴かず飛ばずで、エイス時代の成功の見る影もないような感じだからだ。

『ハヴィング・ア・グッド・タイム:ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ、Vol. 1』では、やはり冒頭に2ヴァージョン収録されている「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギ・ウギ・フルー」、三曲目の「リトル・ライザ・ジェイン」、七曲目の「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」、八曲目の「ハイ・ブラッド・プレッシャー」、十曲目の「ハヴィング・ア・グッド・タイム」、12曲目の「ウェル・アイル・ビー・ジョン・ブラウン」あたりが最も有名だし、聴いていても最も楽しい。

といっても『ハヴィング・ア・グッド・タイム:ザ・ヴェリー・ベスト・オヴ、Vol. 1』全24トラックを通して聴いていると、他の収録曲も同様に楽しいというか、はっきり言って同一パターンなのだ。要するに金太郎飴状態で、曲調もメロディもヴォーカリストの歌い方(ヒューイ自身は歌わない)も、ピアノの弾き方も、なにもかも似ている。どの曲もだいたい全部同じフィーリング。

最大の特徴は相当にコミカルで猥雑で賑やかだってことだなあ。書いてきた曲名でお分りのようにタイトルに病気ネタが複数あるけれど、別に深刻そうなものなんかじゃ全然なくて、笑っちゃうようなものだし、病気ネタ以外でも馬鹿馬鹿しくてコミカルで、歌詞もそうだし、曲調もジャイヴィーでユーモラス。まあニュー・オーリンズの音楽家って、だいたいみんなそうだけどさ。

サザン・ソウルみたいな、どっちかというとわりとシリアスな世界もあるけれど、そんでもってそういう世界も好きな僕だけど、いつもいつもそんなのばかり聴いていると若干息苦しさを感じないでもない。息抜きにというんじゃないけれど、ヒューイ・ピアノ・スミスなどニュー・オーリンズの音楽家のコミカルで馬鹿馬鹿しい作品を聴いて、楽しい時間を過ごすのもいいんじゃないかな。

音楽はシリアス・アートだと信じているリスナーのみなさんであれば、ヒューイみたいな人の音楽の楽しみ方って絶対に分りようがないと思うけれど、アホらしい、馬鹿馬鹿しいようなフィーリングこそが持味だみたいなニュー・オーリンズの音楽が、このルイジアナの大都会で生まれたものこそが、その後のアメリカ大衆音楽の土台、母胎になってきているんだよね。

そんなニュー・オーリンズの黒人リズム&ブルーズが最も美味しかった時代である1950年代後半〜60年代前半まであたりで最も活躍しヒットを飛ばしたのがヒューイ・ピアノ・スミスであって、録音集を聴いていると、ま〜ったく深刻な気持にならないというか、なんでも笑って忘れてしまおうぜみたいな気分になれて、大変楽しい。

聴き手側があまりに落ち込んでいる時はからかわれているような気分になって、かえって一層気分が落ち込みそうなヒューイの音楽だが(カタルシスを得るには同種のものじゃないとダメだからというのがギリシア悲劇以来の伝統)、ワイワイ賑やかにパーっと楽しみたい開放的な気分の時には、これ以上ピッタリ来る音楽もないんじゃないかと思うほどなんだよね。

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