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2017/03/05

歌手は歌の容れ物(その2)〜岩佐美咲の魅力

日本人若手演歌歌手、岩佐美咲にはカヴァー曲が多い。彼女のために用意されたオリジナル楽曲が、いままでのところ、今年一月リリースの「鯖街道」を含めてもまだ六つなのに対し、カヴァー・ソングは何曲あるのか数えるのも面倒くさいほど多い。再生時間にして全部でたぶん二時間はあるなあ。

演歌歌手と書いた。岩佐美咲自身もそこにこだわりがあるのかもしれないし、AKB48メンバー初の演歌歌手ソロ・デビューという売り出し方にしてもそうだ。しかし、岩佐のオリジナル曲は確かに六つ全部が演歌だけど、カヴァー曲のなかには演歌じゃないものもたくさんある。そういうことからしても、このブログで僕も前々から繰返すように、演歌もそうじゃない歌謡曲も全部「同じ」であって、現代に成立した日本の同じモダン・ポップスなんだよね。

岩佐美咲自身が演歌にこだわっているのであれば、僕もその気持に沿って話を進めた方がいいような気もするので、今日はカヴァー曲に限定して、まず演歌の話からして、その後、演歌じゃないポップ・ソングの話へ持っていきたい。さて、岩佐がいままでにカヴァーした演歌のなかでも、これが特に出色の出来栄えだと僕が思うものを発売済の CD から抜き出すと三曲。「北の螢」「なみだの桟橋」「石狩挽歌」だ。

「北の螢」と「なみだの桟橋」は、昨2016年11月リリースのセカンド・アルバム『美咲めぐり 〜第1章〜』に収録されている。通常盤にも限定盤にもある。「石狩挽歌」は今年一月リリースの新曲「鯖街道」の通常盤の方にだけ収録されている。これら三曲は録音がかなり最近なんだろうから、岩佐美咲の表現力がかなり向上していて、それまでに CD で出ていた演歌カヴァーと比較しても格段に素晴らしい。

「北の螢」は森進一、「なみだの桟橋」は森昌子のために書かれた曲で、彼らが初演歌手。「石狩挽歌」は北原ミレイのヴァージョンが最もよく知られているはずで、実際彼女の最大の代表曲だが、これは実に多くの歌手がカヴァーしていて、そのなかには僕の大好きな八代亜紀もいるし、演歌歌手ではない中森明菜や憂歌団も歌っている。

三曲ともおそらく YouTube に初演ヴァージョンがあると思うので、ひょっとしてご存知ない方はちょっと聴いていただきたい。三つとも素晴らしい曲だ。曲そのものがいい。しかもこれら三つは、少し似たようなテーマの曲だ。「石狩挽歌」はなかにし礼の書いた最高傑作詞だと僕は考えているのだが、ニシン漁を題材に、漁に出る男に寄り添う女の気持を歌うもの。つまり舞台は北の海。

「北の螢」も舞台は北。海ではないかもしれないが、離れている男のところへ気持が届いてほしいと蛍に託すような内容。「なみだの桟橋」の舞台は北である必要はなく、日本中どこの港でもいいが、しかし「寒さ真近の波しぶき」と出てくるので、夏の南海では具合が悪いよなあ。とにかく桟橋を舞台に、今まさに出航せんとする去る男に未練を残し、行かないでくれと泣く女。

そんな具合で歌詞内容のテーマも似ている三曲だが、もっと重要なのは曲調や旋律の流れが似通っているということだろう。マイナー調の演歌で、極めてドラマティックに展開し盛り上がり、女の情念をこれでもかというほどぶつけるような、そんな曲なんだよね。つまり歌詞・曲ともに、これら三つは共通性がある。

森進一、森昌子によるそれら二曲のオリジナル歌唱は、やはりそんな情感をたっぷり込めてコブシを廻すような歌い方で、だからこそ一般的には人気が出ているものなんだろう。僕も決して嫌いなんかじゃない。彼ら二人でなくとも他のカヴァー歌手たちも、だいたいみんなそんなドロドロした歌い方だ。北原ミレイの「石狩挽歌」初演だけは実に淡々とした無表情な歌い方で、ちょっと聴いた感じ、あたかも感情を込めていないかのように聴こえるかもしれない。

特に森進一の「北の螢」は、ご存知のあの声で、例によっての効かせすぎヴィブラートでコネクリ廻し、あまりもタメすぎた歌い方で、良くも悪しくも<森進一の歌>になっている。「なみだの桟橋」の森昌子も大なり小なり同じだ。特に「溢れる泪でなんにも見えない」という部分で本当に泣いているような節廻しでの歌い方。「石狩挽歌」の北原ミレイによる初演ヴァージョン(1975年)の無表情さは、いまならかなり好感が持てる。

ところが「北の螢」「なみだの桟橋」「石狩挽歌」を歌う岩佐美咲は、そんなにひどく情感を込めすぎていない。わりとサラッと歌っているのだ。まあ曲が元からドロドロな情念ソングなので、いくらアッサリ歌ってみても、それなりに濃い味には仕上がっているのだが、岩佐の歌うそれら三曲から伝わってくるのは、岩佐自身の込めた情感ではない。曲そのものが元から持っている情緒なのだ。

昨日も書いたけれど、岩佐美咲はどうやらそういうのが特質であり持味であるような歌手みたいだ。歌手その人しか持っていない独自の個性的歌唱法を押し付けるのではなく、素直にストレートに歌って、まるで個性がないかのような歌い方なんだけど、「個性がない」とはこの場合悪い意味ではない。正反対に最高級の褒め言葉として、いま僕は使っている。

今日最初に貼った僕の過去記事のタイトルは「歌手は歌の容れ物」。そう、ポピュラー・ミュージックで本当に素晴らしい歌手とは容れ物なんじゃないかと、最近僕は考えるようになりはじめている。優れた歌の、その優れたところをフェイクせずそのまま素直に歌って、曲自体の持つ魅力をストレートに聴かせてくれる ー そういうのこそが真の意味での「良い歌手」なんじゃないのかな。リンク先の記事で言及しているパティ・ペイジ、鄧麗君(テレサ・テン)、由紀さおりらがそうであるように。

岩佐美咲は、どうやらそんな歌手たちの系統にあるように聴こえる。だからつまらない曲もお化粧を施さずそのまま素直に歌うので、曲がいかにつまらないかが白日のもとにさらされしまうという、ある意味かなり怖ろしい歌手でもあるのだ。優れた面白い楽曲なら、岩佐美咲という<無色透明容器>に入っているせいで、その優秀性、魅力が、聴き手によりよく伝わってくる。

テレサ・テンの名前を出したけれど、岩佐美咲はテレサの持ち歌も歌っている。2013年の『リクエスト・カバーズ』にある「つぐない」「時の流れに身をまかせ」の二曲。台湾出身の鄧麗君が日本の歌謡界で日本語で歌った代表作(のちに中国語でも歌われた)。これらはテレサの歌があまりに素晴らしすぎるので、岩佐美咲のヴァージョンも太刀打ちできていない。

がしかしそれらテレサの二曲以外は、ファースト・アルバムである2013年の『リクエスト・カバーズ』収録時点で、既に岩佐美咲のヴァージョンの方がオリジナルの上を行っているように聴こえるなあ。どの曲もそうだけど、僕が特に気に入っているのが四曲目の「ブルー・ライト・ヨコハマ」(「ブルーライト・ヨコハマ」表記だが)と十曲目の「ラヴ・イズ・オーヴァー」。それぞれいしだあゆみ、欧陽菲菲の持ち歌で最大の代表作。

それら二曲、岩佐美咲のヴァージョンがかなりチャーミングに聴こえるので、いしだあゆみと欧陽菲菲のオリジナル・ヴァージョンを改めて聴き直してみたら、あれれっ?こんな感じだったっけ?と少し意外だった。はっきり言ってしまうとちょっぴりガッカリしてしまった。特にいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は面白くない。

YouTube にあるだろうから、ご存知ない方は聴いてほしいのだが、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は発音がモッタリしていて、歯切れが悪く、リズム感も良くない。昔聴いていた頃はもっとノリのいい佳曲だと思っていた。あんな歌い方では「ブルー・ライト・ヨコハマ」という曲の持つチャーミングさが伝わらない。

ところが『リクエスト・カバーズ』にある岩佐美咲の「ブルーライト・ヨコハマ」は抜群に良い曲に聴こえるんだよね。全体的な伴奏アレンジは、ある時期のいしだあゆみヴァージョンそのままだけど、上に乗っている歌手の歌い方が全然違うんだ。岩佐の方が断然魅力的だよ。

岩佐美咲の「ブルーライト・ヨコハマ」は、歌い方のリズム感もいいし、一言一言歯切れよく歌うし、しかも声質がキュートで、この曲がこの上なく素晴らしい魅力的な曲に聴こえるもんね。特に「ヨ・コ・ハ・マ」部分とか「あなたと二人幸せよ」部分の「しあわせ、よ」の「よ」。そこがハキハキしていて、しかも最高にキュートで可愛い。しあわせ・よ、なんてあんな歌い方をされたら、オジサン、たまりません。

しかしこれは岩佐美咲がなにか特別な独自の創意工夫を凝らしてそうなっているのではないだろう。岩佐は原曲をそのまま素直に歌っているだけのはず。だからこれが曲自体が元から良いんだってことだよね。元からそう歌うべくして創られた曲だってことだ。岩佐によって「ブルー・ライト・ヨコハマ」は命を吹き込まれた。

岩佐美咲の歌は、そんな曲自体の持つ良さ・魅力(あるいは逆につまらなさ)をそのまま引き出してくれる。そんな歌い方なんだよね。「ラヴ・イズ・オーヴァー」だって、欧陽菲菲のヴァージョンは、こちらは悪くないけれど、それでも男と別れようとしている女の気持が、かなり濃い目に表現されている。

もう終わりにしよう、私のことは早く忘れてなどと歌いながら、欧陽菲菲ヴァージョンの場合、もちろん本音は正反対。絶対に忘れてくれるなよと強く男に迫っているような歌い方だ。「ラヴ・イズ・オーヴァー」とはそういう曲なんだと、僕は長年思いながら聴いていた。欧陽菲菲だけでなく、ほかのどんなカヴァー・ヴァージョンも同じだったしね。

ところが『リクエスト・カバーズ』にある岩佐美咲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」はアッサリ味なのだ。しかもソプラノ・サックスが入るあたり、ちょっぴりジャズ・フュージョンぽいサウンドだったりもするが、そこは置いておこう。岩佐は、この濃厚な別れ歌(だと思っていたんだけど)を、情念を引きずらずサラリと軽く歌っている。

岩佐美咲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」は、本当にアッサリ男に背を向けてさようならと歩いていくような歌なんだよね。未練なんか全く残しておらず、そんな女の歯切れの良い気持をそのまま引き継いでソプラノ・サックスが爽やかでジャジーなソロを吹いているという、こりゃいいね。じゃあ「ラヴ・イズ・オーヴァー」って、本当はこういう曲だったんだと思えてくるから不思議だ。

最後に「20歳のめぐり逢い」のことを少しだけ書いておこう。2015年4月発売の岩佐美咲の四作目シングル「初酒」の初回限定盤の方にだけ収録されているこの曲こそが、いままでのところ岩佐の歌ったカヴァー・ソングのなかの最高傑作なのだ。その素晴しさは、もはや異常だと言いたいくらい。

「20歳のめぐり逢い」のオリジナルはシグナルっていうフォーク・グループなんだけど、僕は知らなかった。メンバーの田村功夫が曲も詞も書き歌って、1975年に発売されたようだ。しかし僕はそれを知らなかった。僕が知っていた「20歳のめぐり逢い」は岩崎宏美の歌でだった。メチャメチャ上手い歌手だよね。

岩崎宏美のヴァージョンによる「20歳のめぐり逢い」がいま手許になく YouTube にもないので、どんな感じだったのか確認できないし、僕も忘れてしまった。がしかし岩佐美咲ヴァージョンの素晴らしさを聴いたら、岩崎宏美のヴァージョンがそれより上だったとは考えられないね。それほど、鳥肌が立つほどいいんだぞ。

切なくて哀しくて、もちろん元からそんな曲だろうけれど、岩佐美咲の持つ素直でストレートな<透明容器>的な歌い方で、「20歳のめぐり逢い」という曲が最初から持っているそんな魅力が際立っていて、聴いていると胸を締め付けられるような思いになってしまってたまらない。

歌手でも演奏家でも、あるいはどんな分野でも、表現者である場合、無色透明容器になる方がはるかに難しいはずだ。無色透明なら、中身がクッキリよく見える。歌手の場合、中身とは歌う曲。曲の本質的魅力が聴き手によりよく分りやすいように表現し伝える自然体 ー それが僕の言いたい岩佐美咲の魅力だ。

その人だけの強い個性を、どんな曲を歌う時でも発揮する歌手の方が一般的で、数も多い。普通はそういう歌手こそが「個性的」と褒められて、愛好されているんだろう。僕だって長年そうだった。日本の歌だけでなく洋楽でも、あるいは歌手ではない楽器奏者でも、僕は長年、独自の個性的な表現スタイルを持つ音楽家こそが素晴らしいんだと、心の底から信じていた。

今日一番上で貼ったリンク先の記事に書いてあるように、ポピュラー・ミュージックは実はそんな面ばかりじゃないだなと、僕もようやく最近実感しつつある。岩佐美咲は、そんな最近の僕の前に出現した、まさに理想的日本人若手歌手だ。AKB48出身と書いただけで遠慮しますと言いたがる人が、特に熱心な音楽マニアのなかに多いように思うけれど、それはとんでもない偏見。岩佐美咲をちょっと聴いてみてほしい。あなたもきっと彼女歌の虜になってしまうはず。

歌手の歌い方自体に独自の強い個性があって、それで表現する場合、曲は「その歌手のもの」になる。聴き手はその歌手がどんな持味なのかは分りやすいが、感情移入はしにくくなってしまうのだ。逆に無個性であるかのような無色透明容器としての歌い方をした場合、その方が大多数の聴き手は感情移入しやすく、曲は「みんなのもの」になる。みんなのものになるっていうのが、大衆音楽の真のありようじゃないのかな。岩佐美咲は、パティ・ペイジや鄧麗君みたいに、それを実現してくれる歌手なんだよね。

なお、今日書いた「北の螢」を歌う森進一の場合、これは女歌。そして今日は書かなかったが、「鯖街道 [初回盤]」に収録されている岩佐美咲が歌う「ふたり酒」(初演は川中美幸)は男歌だ。

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