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2017/04/23

歌手は歌の容れ物(その4)〜 ジャズ楽器奏者篇

一切誰にも頼まれていないのに、僕が勝手に自分でシリーズ化して自分だけが得意満面のいままで三回は全てヴォーカリストの話だった。今日はジャズ楽器奏者について似たようなことを書いてみたいと思う。しかしこう言うと、<歌の容れ物>みたいになれるのはポップ・シンガーの場合であって、ジャズ楽器奏者は原曲のメロディを崩しまくるどころか、自在なアド・リブを展開するのこそが命の人たちなんだからありえないというのが普通の感覚だろう。

最近の僕は、というよりも実はわりと早く大学生の頃から、ジャズについてだけ、似たような発想があった。それはジャズ・メンがやりたがるウィズ・ストリングスもののことだ。ああいったものはシリアスなジャズ・ファンや専門家のあいだでは「極めて」評価が低かった。極めて低いなんてもんじゃない、ほとんどとりあげられすらもしないような具合だった。大学生の頃からこりゃオカシイぞと僕は感じてきたんだよね。

ジャズ・メンがやったウィズ・ストリングスもので最も有名なのは、チャーリー・パーカーのものとクリフォード・ブラウンのものだろう。前者は1947〜52年のヴァーヴ録音、後者は55年のエマーシー録音で、どっちも『〜〜・ウィズ・ストリングス』のアルバム名でリリースされている。僕はどっちも素晴らしいとむかしから思っているのだが、その頃までのほとんどのジャズ専門家はクソミソに貶すだけ。

それでも一般のジャズ・リスナーまで同じだったかというとそんなこともなく、弦楽器アンサンブルのサウンドが好きで、流麗なその響きに乗ってバードやブラウニーがスタンダード・バラードを美しく吹くそれらのアルバムの愛好家は、僕だけじゃなく、かなりたくさんいたという実感がある。しかしながら、あれらは全て<駄盤>だとする専門家の言説が流布していて影響力を持っていたので、好きだとおおっぴらに言いにくかっただけだ。だから愛好家はみんな地下に潜伏して話をしていた。

さすがに専門のジャズ・ライターさんで、いまでもそういう故粟村政昭さんみたいなことを言う人は、一部例外を除き残っていないように見えるのだが、厄介なのはそういった過去の文章はいまでも、特に比較的お若い方で、1940〜60年代のジャズを最近聴きはじめた人たちのあいだでこそ読み継がれていて、結構信じられているみたいなんだよね。

僕たちの世代は以前からそんな文章をたくさん目にしてきて、おおやけには言えないものの内心は、これほど美しい音楽を<駄盤>の一言で切り捨てる(のは実は粟村さんだけだったが)ことのできる神経なんて、これっぽっちも理解できないぞ、本当はあなたの音楽的感受性になにかが決定的に欠けているんじゃないでしょうか?という気分で(が、それを粟村さんに向かって言えないだろう?)ウンザリだったのだが、モダン・ジャズを最近聴きはじめた人たちにそんな気分はないはずだから、そのまま鵜呑みにしちゃうんじゃないかな。

それにはっきり言うがいまだって、専門のジャズ・ライターさんたちが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を激賞し、どこがどういいのか詳細に書いている文章にはお目にかかれない。極端にひどい悪口も言われなくなったかわりに、なかなか褒められもしないので、やっぱりああいうウィズ・ストリングス・アルバムの真価が(一部を除く)ジャズ・リスナーのあいだに伝わっていないかもしれない。

そこで今日僕が…、なんて大それたことのできる能力も気持もないが、少し書いておきたいのだ。それらのジャズ・メンがやったウィズ・ストリングス・アルバムがどれほど素晴らしいものなのかということをね。影響力ゼロの僕みたいな素人がいくら賞賛の言葉を重ねようと、ファンが増えるなんてわけないだろうけれど、長年の鬱憤を吐き出してウサ晴らしをしておきたい気持ちもあってさ。

ウィズ・ストリングスものをやったジャズ・メンは、もちろんバードとブラウニーだけでない。ディジー・ガレスピーのもの(1952年『ディジー・ガレスピー&ヒズ・オペラティック・ストリングス・オーケストラ』その他)や、スタン・ゲッツのもの(61年ヴァーヴ盤『フォーカス』)も有名だし、あるいは比較的最近なら、復帰後1980年のアート・ペッパー『ウィンター・ムーン』や、84年ウィントン・マルサリス『ホット・ハウス・フラワーズ』もあって、全て悪くないと思う僕は、単にストリングス・サウンドが好きなだけってことなんだろう。

だが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』と『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』、特に後者ブラウニーのものが一番傑出していると僕が考えている最大の理由は、このトランペッターがまさに<歌の容れ物>になっているという部分にあるんだよね。このアルバムでのブラウニーは全く一切アド・リブ・ソロを吹いていない。収録の12曲全てがスタンダード・バラードだが、その原曲の美しいメロディをそのままストレートに歌い上げる(吹き上げる)だけなのだ。

一切アド・リブ・ソロを吹かないというこの点も、ストリングス・サウンドは甘ったるく、安易で不必要なコマーシャリズムに堕すものだという勘違いと一緒になって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』が駄盤扱いされてきた大きな理由に違いない。そりゃそうだろう、だってソロを吹かないジャズ楽器奏者の作品なんてねえ、評判が悪いに決まっている。

全人類共通の認識だが、ブラウニーは自由自在で奔放なインプロヴィゼイションを駆使できまくる才能が最高級だったジャズ・トランペッターだ。ジャズ・トランペット全録音史上、彼を上廻っていると判断できるのは、1920年代後半のルイ・アームストロングだけ。それほど20年代後半のサッチモ(がナンバー・ワン)と50年代半ばのブラウニーはものすごかった。そりゃもうなんでも自在に即興演奏できて、しかもその即興メロディが、あたかもあらかじめ作曲されていたかのような完璧な構築美に聴こえるもんなあ。

そんなジャズ・マンだったブラウニーが一切アド・リブ・ソロを吹かず、美しいストリングスの流れるような響きに乗せて、スタンダード・バラード原曲のメロディをフェイクせず、ただひたすらその原曲の美しさをそのまま表現しているだけだっていう、そんなアルバムを創ったのだっていう、この事実の意味を一度真剣に考えてみてほしい。

いや、別になんらかの深い意味なんか考えなくたって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を一度でも虚心坦懐に聴いてみれば、<普通の>音楽愛好家であれば、そのサウンドの美しさに降参するはず。こりゃもうたまりませんとなってしまうはずだ。それほどの美しさを、このアルバムのブラウニーのトランペットは表現している。

もしまだお聴きでない方のために、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』からちょっとだけ参考音源を貼っておこう。書いているようにアルバムの全12曲がことごとくスタンダード・バラードなんだけど、なかでも特にブラウニーのトランペット・サウンドが絶品の音楽美を表現していると僕が思っている二曲を。

「ポートレイト・オヴ・ジェニー」https://www.youtube.com/watch?v=-_CEARXm9-U

これら二曲を、予備知識なしで誰か(面倒くさいことを言わない)音楽好きに聴かせれば、全員がノック・アウトされ、なんて美しい吹き方ができるトランペッターなんだと感動するはずだ。実はわりと最近、三週間ほど前かな、ジャズ・メンがストリングスと共演したものがダメだという評価はオカシイとツイートするサム・クック狂(本当にキチガイなのだ ^^)の方と話をしていて、しかしブラウニーのはまだ聴いていないと言うので、上掲二つの音源を貼ってご紹介した。そうしたらその方は涙を流さんばかりに猛感動し(は大袈裟だが)、その日のうちに速攻で『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を買ってくれた。

そういうのが普通の音楽愛好家の耳、正常な判断と言動だぞ。僕の方はソウル・ミュージックのことをたくさん教えていただいているそのサム・クック狂の男性音楽ファンの方には言わなかったのだが、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』がそんなにも美しく仕上がっている最大の理由は、ブラウニーが<歌の容れ物>と化して、原曲メロディの美しさに手を加えずフェイクせずアド・リブ・ソロもやらず、ただひたすらとりあげているスタンダード・バラードが元から持っている魅力をそのまま伝えてくれているからじゃないかと、僕は思うんだよね。

上で「ローラ」「ポートレイト・オヴ・ジェニー」の二つだけ音源を貼ったけれど、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』は全編がこんな具合なんだよね。甘美なバラード(含むトーチ・ソング)を、フランク・シナトラとの仕事もある名アレンジャー、ニール・ヘフティのアレンジしたストリングス・サウンドに乗せて、ブラウニーがそのまま、ひたすら美しく吹いているだけ、本当にただそれだけの至福の約41分間。

最初にリンクを貼った三つのうち二番目の岩佐美咲の記事でも書いたが、原曲の持つその優れたところをフェイクせずそのまま素直に歌って、曲自体の持つ魅力をストレートに聴かせてくれる 〜 そういうのこそが真の意味での「良い歌手」なんじゃないのかなという、この僕だけじゃない大勢のみなさんの捉え方は、普段はフェイクしまくって自由自在に即興ソロを演奏するジャズ楽器奏者にも当てはまることなのかもしれない。そういうやり方が実は一番難しいからね。ましてや変えないとダメだというようなジャズの世界だったら、なおさら一層難しい。

普通、ジャズ楽器奏者は、そんな<歌の容れ物>的な世界とは正反対の世界で生きている人たちだと思われている。原曲を崩さずそのまま演奏したりしたら、アド・リブ・ソロがなかったりなんかしたら、そうか、できないんだなとたちまち失格の烙印を押される。クリフォード・ブラウンだって普段は奔放なインプロヴィゼイションを展開している。そしてそうする時の、いつものブラウニーは、ジャズ史上一・二を争う最高級の腕前だ。だからこそ、それほど素晴らしい楽器奏者だからこそ、ひるがえってフェイクなし、アド・リブなしのストレート表現、すなわち<歌の容れ物>的表現をした時に、聴き手を激しく感動させられるんじゃないかな。

そしてそういうことができるジャズ・メンこそ真の実力の持主だと言えるんじゃないかと、最近の僕は考えはじめているのだ。パティ・ペイジ、鄧麗君、岩佐美咲のようなヴォーカリストたち同様にね。ジャズ楽器奏者が、ファンならみんな知っているスタンダード・バラードを、みんな知っているそのままのメロディのまま演奏するなんて、真の実力と、そして相当な勇気がないとできない。クリフォード・ブラウンの素晴らしさは、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』みたいな作品でこそ、実はものすごくよく分るのだ。

あぁ、こっちも素晴らしいと思う『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や、案外悪くないと僕は思っているウィントン・マルサリスのウィズ・ストリングス・アルバム『ホット・ハウス・フラワーズ』(僕の愛する「星に願いを」があるし、サッチモの得意曲だったからやったに違いない「アイム・コンフェッシン」もあるし、また「スターダスト」もあるからブラウニーのウィズ・ストリングス・ヴァージョンと比べると面白いし)の話は、ちっともできなかった。

とにかくですね、音楽は出来上がりが美しいかどうか?〜 この一点のみで判断していただきたい。

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コメント

素晴らしい、いい意見だ♪

昔、小さい音でこっそりナベサダのウィズ・ストリングスをデスクで聴いていたら、「どっかでスーパーで流れてるような音楽が聞こえる」と近くにいた人に言われて、ひとり静かに恥ずかしい思いをしたことがあるよ。

ひでぷ〜、やっぱりいいものはいいって、おおっぴらに公言しようぜ。それが気持いい。

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