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2017/05/18

打ちひしがれて 〜 ベシーの寂しさと悲しみ

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(ロスト・ラヴ・モードの文章は今日で終りです。今日までお目障りだったでしょうが、明日からまた読んでください。)

失恋歌ばっかり(でもないが、本当は、でも多いのは確か)なベシー・スミスの歌うブルーズを聴いている。失恋モードでいままで書いたものは、全部男性の歌手・音楽家だから、なにもせずともそのまま僕自身の立場に沿って気持に寄り添ってくれて、ベシーは女性歌手だから、いったん性別変更を頭のなかでやらないとダメか?というと、僕の場合そんなこともない。

女性歌手ベシーの歌う失恋歌・傷心歌が、男性である僕の心にそのままスッと入ってくるよ。僕だけじゃないはずだ。女性リスナーだって、男性歌手の歌う(失恋でもなんでも)恋愛ソングを聴き、それがそのまま沁みてくるということがあるんじゃないかなあ。僕は女性じゃないので確信は持てないというか気持は分らないけれど、たぶんそうだと思う。

それが音楽に限らず芸能表現の普遍性というものだからだ。だからあんまり歌詞のなかの恋愛対象の性別変更をやりすぎないで、というのは前々から僕は繰返しているので、このことについては今日はもうこれ以上書かないでおく。とにかくいまの時間はベシー・スミスの歌う失恋歌を聴き、それで僕は自分のことを歌ってくれているなと感じて、シンミリしちゃっているのだ。

いまの時間は iTunes で音源だけ聴いていて、だから歌っているのがベシーであることしか分らず、伴奏者や録音年月日などは考えていない。いまはそれで充分なのだ。ただ単に僕はベシーの失恋歌を聴きたいだけだからね。それで落込んでいる気持を少しでも自分で慰めたいだけであって、音楽的になにか客観的なことを書こうという腹づもりなんかサラサラない。

あ、僕の iTunes は AirPlay でアンプに無線でつながっていて、したがって MacBook Pro の内蔵スピーカーではなくオーディオ装置のスピーカーから音が出る。本当は有線ケーブルでつなぐ方が手続きも簡単だし、その他いろいろといいんだけど、ノートブック信者の僕は部屋中持ち歩くので、なにかケーブル類がひっついているのがダメなのだ。見た目の生理的美意識としてもダメ。できうれば充電すらも無線でできる技術を早く開発してもらいたい。それが実現すれば、本当に100%コード・レス Mac ライフが送れる。

そんなわけで、いまは CD 附属のブックレットを見る気すらないので、本当に音源だけ聴いているのみ。僕の持つベシーのコンプリート集は iTunes では一個のプレイリストにしてあるので、全部で154曲と見れば分る。が、CD を手に取っていないので、この曲が何枚目の何曲目かは確認できない、というかする気がない、いまはね」。全集プレイリストの全体の何曲目かを書いても意味が薄いので、今日は曲題だけ書くことにする。

まずベシーの生涯初録音である「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」。これがアルバータ・ハンターのレパートリーで、ベシーが録音する前年にアルバータの歌うレコードが出ていて、ベシーはそれを聴いて感動し自分でも歌ったのだという事実は以前書いた(のを僕は憶えている)。ピアノ一台の伴奏だけど、クラレンス・ウィリアムズだっけなあ?

ただベシーの歌う「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」だけでなく、他のトーチ・ソングもそうなんだけど、ひどく深刻にガックリと落込むような深刻さはヴォーカルにない。泣いていたり悲しんでいたりするようなフィーリングは「直接的には」聴きとれない。ゼロだと言ってしまいたい。このあたりが、例えば先週書いたフランク・シナトラの歌うトーチ・ソング・スタイルとの大きな違いだ。

これはアメリカン・ヴォーカルの歴史を考えると(あれっ?オカシイな、そんなことは今日は考えないってさっき言ったはずなのに、なぜこうなる?)結構重要で大きなことなんじゃないかと僕は思うのだ。単にベシーとシナトラという「個人の」スタイルの問題ではなく、歴史的変遷みたいな部分にかかわってきそう。

これは以前ベシーについて書いた際、油井正一さんの『生きているジャズ史』での記述を引用した際にも言及したことだ。確か油井さんは(いまはその本を読み直すのも嫌だ、だいたい部屋のなかが真っ暗だし)ベシーの場合、それは「古典的歌唱法」というもので、これをもっと分りやすく、というか親しみやすく、まるですぐそばでおしゃべりでもしているかのような歌唱法が主流になるまでに変えた、その歴史的第一号がルイ・アームストロングだったのだと書いていたように記憶している(が、マジで確認しないので、正確には間違っているかも)。

確か油井さんはその際に、サッチモはヴォーカル表現のなかに器楽的なものを持込んで変えたのだとか、そんなことも書いていたよなあ。それによって感情表現が聴き手にそのままストレートに伝わりやすい歌唱法を確立して、表現力の幅が広く豊かなやり方だったので、その後のアメリカン・ヴォーカリスト(油井さんは「ジャズ」・ヴォーカリトとしか書いていないはずだが、「アメリカン」と言って差し支えない)は、ほぼ全員がそのスタイルの歌唱法になったのだと。

これを踏まえると、先週書いたフランク・シナトラのあんな感じのトーチ・ソングの歌い方 〜 完全にフラれちゃって僕はこんなに泣いています、落込んでいるのです、どなたか僕に救いの手を差し伸べてください、どなたか女性の方、僕にちょっと優しくしてください 〜 こんながモロそのまんま出ているような歌い方も、やはりサッチモ以来の伝統に連なっているんだよなあ。サッチモとシナトラって時代もかなり重なっているが、共演録音ってあったっけ?

いまの僕にはそんなシナトラみたいな、というかサッチモが確立したような歌い方の方がピッタリ来るというのは疑えない。間違いない。ベシー・スミスが歌うトーチ・ソングを聴いても、そんな感情にストレートには届かない、少なくとも届きにくいのだ。大のベシー愛好家である僕ですらこうなんだから、強い思い入れのないみなさんがベシーを、そして同時代の女性ブルーズ歌手を、苦手だと言って遠ざけるのは当然なのか?(あ、なんか、みなさんのお気持がちょっぴり分ったようなそうでもないような…)。

ただし、ここからが僕という熱烈なベシー愛好家である人間の世界になってしまうのだが、ベシーのそんなストレートな感情表現をやらない古典的歌唱法が、ときには身に沁みて聴こえてきて、(サッチモ以後の)シナトラみたいな歌手のやるトーチ・ソングよりも、一層胸を打つという場合があるのだ。これは単に僕がベシー大好きなだけだからか?油井さんが心配しているような、英語の歌詞内容理解に、僕の場合、大きな問題がないせいなのか?

どうもそういうことだけじゃないような気が、いまさっきから深夜の暗い部屋のなかでベシーのコンプリート集を聴いていると、するんだなあ。じゃあなんなの?と突っ込まれると上手く説明できないはずだから困ってしまうのだが、なんというか、ベシーみたいなああいう発声と歌い方の人間のやる失恋歌には、声に(男性だったらマチスモ的で片付けられるが、女性の場合どう言うんだ?)自信と確信が満ち溢れているがゆえに、かえって一層、悲しみ・苦しみが強くなっているように聴こえる。僕だけ?ブルーズ = 憂鬱・苦悶の表現の、ある意味、最高の極致に聴こえるのだ。僕だけだろうか?

悲しい・苦しい・泣きたい 〜 そんなフィーリングをそっくりそのままのかたちで表現して聴き手に共感してもらうのは(例えば、美空ひばりの「悲しい酒」のように)わりとたやすいんじゃないかな?たやすいなどと言うと怒られるので言い換えないといけないが、感情表現の様式としてはシンプルでストレートで伝わりやすい。だからだいたいみんなこれでやる。その方がウケるもんね。レコードが売れる。

ベシー(たち)はその正反対だ。ボロ泣きしたいような悲しい内容の失恋・傷心の歌を、悲しげ・苦しげには「絶対に」歌わない。言うまでもなく、ひばりみたいにステージ上で実際に目から涙をこぼしながらなんて、絶対にありえないやり方なのがベシーだ。その代わり堂々とした声と歌い方で、表面的にはあたかも感情がこもっていないかのような歌なんだけど、そこにとてつもなく深く刻まれた心の闇が表現されているように響く。

今日もやっぱり文章に客観性がなく、ベシーの歌う具体的な曲や歌い方の話なんか全くせず、もっぱら抽象的な考え方・書き方しかしていないね。

でも、僕にとってのベシー・スミスとは、そんなヴォーカリストなんだ。だから僕は僕のなかでだけ、ベシーを No, 1 アメリカン・フィーメイル・シンガーに位置付けている。

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