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2017/11/27

故国レバノンとアラブ世界を思うフェイルーズにいっぱいキスしちゃおう


こないだリリースされたばかりのフェイルーズ(今回は Fayrouz 表記)のニュー・アルバム『Bebalee』について今日僕が言いたいことをいちばん最初にまとめてしまうと、それは<フォーク・ミュージックとしてフェイルーズの新作を聴く>ってことだ。フォーク・ミュージック、すなわち民謡の世界。だれでもよく知っていて馴染深く、鼻歌なんかでよく口ずさむような、ふだんの庶民生活の日常のなかに溶け込んでいる、そんな歌だってことなんだよね。

これはたんにアルバムの全10曲がぜんぶそんなようなスタンダード曲ばかりだということだけを指摘しているということではない。もちろんそれもあるのだが、たんに選曲だけでこんなふうな普段着姿の日常のありよう、81歳の女性にしてメイクもやりすぎずほぼ素顔に近いような、はっきりいうとボロボロの声で老醜をさらし、それをおおやけのリリース物に乗せて届けてしまえるとは僕は思わない。

老醜も老醜、『Bebalee』で聴けるフェイルーズの声はマジでもうダメなんだよね。CD が自宅に届いたその日の夜11時すぎに Instagram に簡単な感想を書いてアップしたけれど、これはあるいはいわゆる白鳥の歌になってしまうんじゃないだろうか?これがフェイルーズの<最後>になってしまうんじゃないだろうか?アルバムを聴いているとそんな予感が強くしてしまう。死の香りがプンプン漂っているもんね。フェイルーズほどの存在の心中を察するなんて大それたことは僕には不可能だが、う〜ん、ひょっとして彼女自身…、いや、やめとこう。

ちょっと見は世界の有名ヒット・ソングをたんにお手軽に並べてみましたっていう、なんの工夫もないお気楽な凡庸選曲に思えてしまうだろう。一曲目「Rah Nerjaa Netla’a」(蛍の光)、二曲目「Yemken」(イマジン)、三曲目「Bebalee」(追憶、バーブラ・ストライザンドのやつ)、四曲目「Ma Tezaal Mennee」(アルゼンチンよ、泣かないで)、六曲目「Ana Weyyak」(ベサメ・ムーチョ)、七曲目「Hkayat Kteer」(フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」としてが最も有名)なんてところは、ふだん音楽を聴かないっていう、しかも日本人でも、たいてい知っているものだ。

しかもそんな超有名曲ばかりを、かなりジャジーな少人数コンボ編成の伴奏でやっている。演奏スタイルは相当安直にも聴こえるモダン・ジャズ・マナー。ラテン・テイストが結構あり、またボサ・ノーヴァもあるけれど、それはジャズのなかにもあたりまえにあるものだから強調しなくてもいいんだろう。アラブ歌謡のなかにもむかしからあるものだけど、フェイルーズの今回の『Bebalee』はアラブ音楽とは呼びにくい。とにかく激渋ではあるけれど、軽〜い、なんの工夫のない(ように聴こえてしまう)ふつうのジャズ伴奏だ。

ここまで(一見安直に)並んでいると、僕なんかはかえってこりゃなんらかの意図が隠されているに違いない、たんにそのへんのジャズ歌手がちょこっとスタンダード集をやりましたっていうようなものじゃないんだからさぁ〜、フェイルーズ(とリーマ・ラハバーニ)がそんな安易な作品を企画するわけないだろうと、警戒しちゃうんだよね。はたして、その警戒心はビンゴだった。これはかなり深い選曲意図と、アレンジ・マナーと、歌いかた 〜 それらぜんぶひっくるめてのアルバム・プロデュース・ワークなんだよね。

アルバム・タイトルにしている「Bebalee」のオリジナルがバーブラ・ストライザンドの「追憶」であることに注目したい。これは1973年のアメリカ映画『追憶』(The Way We Were)の主題歌だった。どんな映画だったか、思い出してほしい。英語の原題は「私たちはこうだった」という意味だけど、いまのフェイルーズがそんな曲をとりあげて、アルバム題にまで持ってくるというのに、もはや死が近いかつての大歌手、一つの世界を代表する偉大な存在だった自分の、81歳での深い思いが垣間見える、なんてもんじゃなくかなりはっきりと見てとれるじゃないか。

そう思うと、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」だって、もちろん僕だって吐き気がするほど大嫌いな曲だけど、堂々と胸を張って歌い上げるシナトラ(はえらそうで気持悪いのだ、この曲の英語詞を踏まえたら)とは正反対に、フェイルーズはかなり弱々しく、あぁ、 私の人生ってこんなちっぽけなものだったのね、ダメだったのねとでも言いたげな、そんなフィーリングすら伝わってくる。

そんな自信なさげな七曲目「Hkayat Kteer」(マイ・ウェイ)をどう聴いたらいいのか、荻原和也さんの見解(「空想」とご本人はお書きだが)はこうだ。
「傷ついた祖国や、いまだ平和と安定が約束されない、アラブの庶民の苦しみを思う悲しみの深さが、勇ましく堂々と歌うのをよしとせず」という解釈なんだよね。これはこのとおりなんだろう。ただ、僕はここまでの解釈を、フェイルーズ81歳流の「マイ・ウェイ」を聴いて施すことはできなかった。アラブ世界全体を引き受けて、それがいまやどんどん世界から疎ましく思われているかのような、そんな 9.11 以後の時代に対するフェイルーズの深い深い嘆き、悲しみが、こんな歌いかたをもたらしているのだ、と言ってもいいのかもしれないが。それが 間違っているということではなくて、問題が大きいから僕の手に負えないんだ。う〜ん、たしかに「イマジン」も「アルゼンチンよ、泣かないで」もあるから、やっぱりそういうことなんだろうけれど。

僕は音のかたちしか聴けない人間だ。「マイ・ウェイ」の新解釈みたいな「Hkayat Kteer」も、僕の聴きかたは、たんにこの女性歌手自身が年老いて、自分の人生に自信が持てなくなって、歌手としても声が完全に衰えてボロボロだし、あの重厚なヴェルヴェットとまで言われた立派な声は見る影もなく、音程もふらついているし 〜〜 そんなこんなの彼女の老境を「マイ・ウェイ」に託して、弱々しく歌ってみたってだけのことじゃないかと僕は聴いた。

ただですね、そんな老境にあって、もう自信が完全消滅した自らの歌手人生を追憶しているようなフェイルーズの新作だけど、一曲だけ、これはキラキラ輝いていると僕が感じるものがある。六曲目の「Ana Weyyak」(ベサメ・ムーチョ)だ。原曲のスペイン語が「いっぱいキスして」という意味なのはみなさんご存知だろう。そんな歌を老婆に歌われたって気持悪いだけだよとみんな思うかもしれないが、僕は正反対の気分になったのだ。

まあたんに年増好きの戸嶋くんというだけの、つまり年上の女性にこそそんな魅力を感じる人間なだけだからってことかもしれませんけれど(^_^;)、それでも、もう一回 CD で、あるいは今日いちばん上でリンクを貼った Spotify のアルバムでもいいが、六曲目を聴きなおしてみてほしい。ちょっとセクシーなニュアンスが漂っていると思わない?なんというか老成の色気みたいなものを感じない?僕はそれをはっきりと感じたんだけど。

アルバム『Bebalee』のなかでも、その六曲目のアレンジが最も快活なラテン調だ。ウキウキしているようなリズムとサウンドで、フェイルーズも本編を歌いはじめる前に、セクシーな吐息を漏らすみたいに「ンン〜」って言っているじゃないか。本編の歌い出しがいきなり「ハビビ〜」となっているし、その「ハビビ」を繰返す歌詞全体はアラビア語なんだろうが、後半部で一回だけスペイン語で「ベ〜サメ〜、ベサメ・ムーチョ」って歌っているもんね。いいよ、これ、僕にはね。

僕はたまりません。僕はあの歌い出し前の吐息と、「ハビビ」反復と、後半のスペイン語による「いっぱいキスして」で、もうダメになりました。イケナイ気分になったのです。そうか、そんなふうに歌うのでしたら、僕でよければいまのフェイルーズにいっぱいキスしちゃます。だって、フェイルーズが故国レバノンとアラブ世界を思う、その思いの深さと、深く深く傷ついているのだろうということを想像するに、いくらでもキスしてさしあげます(って、僕もずいぶん失礼な男だな)。

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