« このころのサラ・タヴァレスほど魅力的な音楽家がこの世にいるものか(2)〜 『シンティ』 | トップページ | 神様、サラのものはサラのものです、返してあげてください »

2018/01/08

サラ・タヴァレスの絶望と希望と、この時代

2009年の『シンティ』以来八年ぶりに、昨2017年にリリースされたサラ・タヴァレスの新作『フィーチャドゥ』(でいいんだろうか?)。聴けば、前からのサラ好きだったらビックリするはず。その音楽のあまりのダウナーさぶりに。暗く落ち込んでいてあまりにも重く、『バランセ』『シンティ』で聴けたような華やかな明るさ、ヒラヒラと蝶のように軽く舞い、しかもそっと聴き手の心情にやさしく降り立つソフト・タッチがどこにもない。消えてしまっている。

僕にはこれがサラ・タヴァレス版『暴動』に聴こえたのだった。もちろんアメリカのファンク音楽家スライ&ファミリー・ストーンのあれだ。共通点は多い。書いたような暗さ、落ち込み、重さなどはもちろんそうだ。だがそれだけじゃない。中音域がなく、妙に低域を強調したヘヴィ・サウンドの質感もかなり似ている。主役ヴォーカリトは軽く舞うことなんて、もちろんないが、叫んだりもせず、下に落とすのようにボソボソとつぶやくだけ。

これがあのサラ・タヴァレスなのか?だれだって戸惑うはずだ。八年のブランクはキャリア初だし、なにがあったんだろう?と思うと、2009年の『シンティ』発表後サラは脳腫瘍をわずらって、いっときは歌手生命を断念せざるをえないようなところに置かれたそうだ。歌手生命どころか人間としての生命すら危うかったのかもしれない。少なくともその覚悟はしたのかもしれない。

サラ・タヴァレスが脳腫瘍の除去手術を受けたのが2010年2月初旬。人生を深く考え込まざるをえない病におかされたんだから、新作『フィーチャドゥ』でこんな姿に変貌するのは当然だったんだろう。例にあげたスライ・ストーンのばあいは病ではなく、1960年代のアメリカ西海岸のあんな毎夜の陽気なパーティみたいな空気を完全に打ち破られてしまった、それも黒人としてアメリカで生きるという意味を深刻に考え込まざるをえなかったという挫折感が、あの『暴動』のダウナーさにつながっていると思うんだけど、サラのばあいは生物学的な絶望に直面していた。

スライのばあいも1960年代は、というか70年のシングル曲「サンキュー」までは、あんなにアッパーな気分で陽気に楽しく跳ねまわっていたのが一変したわけだけど、サラ・タヴァレスの変貌はもっと深刻なものだったんだろう。それを知ってからは、新作『フィーチャドゥ』で聴けるあんなダウナー・ミュージックもサラの正直な表現なのだと戸惑いは消えて、これを僕たちも受け止めなくちゃと心から納得できるようになった。

ただ、いつもいつも僕は言っていることだけど、(音楽だけでなく)作品と作家の実生活とをあまりにも深く結びつけすぎてしまう傾向には、僕はちょっと反対なんだよね。そんなこと言ったってサラ・タヴァレスの脳腫瘍と新作とを結びつけずに聴けますかって〜の!というのが僕も偽らざる心境なんだけど、それでも少し落ち着いて自分を取り戻しいつもの僕に戻って、自律美としての音楽作品としてサラの『フィーチャドゥ』を考えてみたい。

アルバムの全12トラックのうち(12個目は4曲目「コイザス・ブニタス」のリミックス)、 オープニングから7トラック目の「テル・ペイト・イ・エスパソ」までは本当に暗い音楽だ。かなりダウナーに沈み込む。昨日だったか一昨日だったか、サラ・タヴァレスのばあい低域はあまりズッシリ来ないと僕は書いたんだけど、この新作では真逆のサウンドだ。ベース・ドラムとエレベの低音がかなり強調され、音楽全体に重い重い空気が漂っている。

シンセサイザーだろうか、スーッと幕が降りるかのごときサウンドも、そんな重たい空気感に拍車をかけている。まるで闇のなかを歩んでいるかのような黒いサウンドで、その暗さは、強調されているボトムスと幕のようなシンセ音と、それからサラ・タヴァレス自身の弾くアクースティック・ギターが決して跳ねず、ヘヴィなリフを反復するようなところからも来ている。主役の歌いかたもコケティッシュでキュートな部分が100%消え失せて、ボソッとつぶやくような、あるいはつらそうにしぼりだすような、そんな歌いかた。ヴォーカル・コーラスも背後で聴こえるが、それはファーダ・フレディのあの『ゴスペル・ジャーニー』で聴けるものにとてもよく似た響きのダウナーさじゃないか。

あっ、そうだね、いま僕はどうしてファーダ・フレディという文字を指がタイプしたのか自分でもわからない。なんだか自動的にそう書いてしまったんだけど(そんなことはわりとある)、うん、サラ・ラヴァレスの『フィーチャドゥ』とファーダ・フレディの『ゴスペル・ジャーニー』はたしかに分かち持っているものがあるかもなあ。書いてみて自分でもはじめて気がついた(なんてことも多い)。スライの『暴動』じゃなくて、こっちか。いや、それらが三枚がトライアングルになっているのか。

つまりサラ・タヴァレスの新作『フィーチャドゥ』は、直接的にはもちろん彼女自身の病気体験から来るパーソナルな音楽だけど、アルバムとしてできあがったものは、もはやそんな次元を超えている。リリースされた2017年という時代の閉塞感、絶望感、人類が直面している危機感をもとらえ音楽化してくれているかのように僕には聴こえてくる。その意味でも、やっぱりスライ『暴動』、ファーダ・フレディ『ゴスペル・ジャーニー』と、サラの『フィーチャドゥ』が三位一体になっているよなあ。三枚とも僕にはそんな音楽に響く。

サラ・タヴァレスの『フィーチャドゥ』だと、ダブふうな音処理が施されているのも聴き逃せない。特にドラムスのサウンドにそれがわりとハッキリ聴けるじゃないか。ダブとまでは言えなくても音響が独特で、妙なエコーがかかっていたり、音の空気感、質感がふつうじゃなかったりするもんね。そのほか、電気、電子楽器、コンピューター・プログラミングも多用されているし、ここまで加工されていると<添加物>たっぷりで、サラの持ち味だったオーガニックなテイストは失われていると僕は思う。

オーガニックでなくなっていても、否定的な意味で僕は言っているわけじゃない。プライヴェイトで死の危機に瀕し、結果、できあがった作品としては、社会や世界の闇、人類の落ち込みをも表現したかのようなサラ・タヴァレスの『フィーチャドゥ』では、そんな加工されたサウンドが、かえって聴き手の心を鷲掴みにするリアリティがあると思うんだよね。アンゴラのパウロ・フローレスを迎えてやっている11トラック目「フルトゥアール」がアフロビートにアレンジされているのも、そんな路線を強調することにつながって意義深いように思う。

しかしサラ・タヴァレスの新作『フィーチャドゥ』では、8トラック目の「チクソン・ボム」から明るい光が差し込むんだよね。もちろん音楽的な意味で。「チクソン・ボム」がアッパーで陽気で快活な雰囲気の曲だし、サウンドもサラのヴォーカルも、ちょっとだけかつての軽さを取り戻しているように聴こえるチャーミングなもの。しかもスネアのリム・ショット・サウンドがやっぱりダブふうだ。

続く9トラック目「フィーチャドゥ」、10「パラ・センプレ・アモール」、11「フルトゥアール」と重く暗い雰囲気はありながらも、自分(や世界)の絶望的なありようを受け入れ、それを踏まえて立ち上がって前向きに歩んでいこうという(明るいというのとは違うんだろうが)しっかりした肯定感が聴きとれると僕は思う。

だからアルバム・ラストで、いまのところ CD などフィジカルでは聴けない12トラック目「コイザス・ブニタス(リミックス)」を、4トラック目になっている同じ曲とはかなり違う感じのサウンドに仕上げているのは、ハッキリ狙ったものに違いない。ビート創りの基本は同じだけど、4トラック目の冒頭にあったファーダ・フレディの『ゴスペル・ジャーニー』ふうな教会コーラスを12トラック目では外して、ドラムス・サウンドから入り、全体のグルーヴ感もシンプルさと前向きなジャンピーさをより強調する方向にリミックスしてある。

« このころのサラ・タヴァレスほど魅力的な音楽家がこの世にいるものか(2)〜 『シンティ』 | トップページ | 神様、サラのものはサラのものです、返してあげてください »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/601997/66253273

この記事へのトラックバック一覧です: サラ・タヴァレスの絶望と希望と、この時代:

« このころのサラ・タヴァレスほど魅力的な音楽家がこの世にいるものか(2)〜 『シンティ』 | トップページ | 神様、サラのものはサラのものです、返してあげてください »

フォト
2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

最近のトラックバック