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2018/01/01

岩佐美咲の歌ぢから

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来たる2月27日の新曲リリースが公式発表されている岩佐美咲。ってことは DVD を除き、どこでも買えるパッケージ商品化されている、すなわち CD でリリースされている美咲の曲としては41トラック目になる。曲じゃなくてトラックというのは、同じ曲の別ヴァージョンもあるからだ。

そう、いままでに CD 商品化されている岩佐美咲のソング・トラックはぜんぶで40個(のはず)。iTunes で美咲全曲集のプレイリストを作成してあるので、一瞬でわかる。トータルの再生時間が2時間46分。たったこれだけなのか…。美咲の歌がいいから、二時間ちょいなんてあっという間なんだよね。もっとほしい。もっともっとくれ。

ないものをねだってもしょうがないので、あるものを繰返し聴くわけだけど、昨年二月来、僕の音楽ライフはすっかり岩佐美咲一色に染まってしまったと言っても過言ではない。いや、ちょっと言い過ぎかな。原田知世も昨年はじめてちゃんと出会って、やっぱり美しくてゾッコン骨抜きにされてしまった僕。そのほか、いろいろと聴いていることは聴いているが。それで書いているのだが、僕のなかで最重要音楽家となっているのが(最近、僕は「わさみさん」と呼んでいる)岩佐美咲ちゃんと知世ちゃん。

本当に毎日聴く岩佐美咲なんだけど、聴いていて素晴らしいと感心、感動している自分が、美咲のあのヴォーカル表現があるからこそそうなっているのか、それとも歌本来の魅力が大きいがゆえそうなっているのか、わからなくなってくることが多い。これは悪い意味ではない。美咲はそういう歌手なんだよね。

もうたったこれだけで、熱心な岩佐美咲ファンでありかつ僕の文章を読んでくださっているみなさんは、ま〜たまた同じことを今日も書くのか、もうよくわかっているんだからそれ以上言わなくていいぞ、と思われるだろうなあ。新作リリースが、昨年10月の三枚目 DVD 以来まだなくて、そして書いたように CDだとぜんぶで40個のソング・トラックしかないので、やっぱり同じことを書く以外ないんだよね。それにたいへん重要なことだから、何度でも繰返しておかなくちゃいけない。

岩佐美咲のばあい、その歌唱法は、表面的には無個性なものだと言える。強く激しく自己主張し、これが私の歌なのよ!と訴えかけるような部分がない。だれにも真似できない強烈な表現法というか、一度聴いたら耳に焼き付いて離れないというような部分は、美咲の歌にはない。しかしこれは、あとのほうで書くつもりだが、そんな美咲の歌唱法こそ、本当はだれにとっても不可能な、真似のできない、すごいものなんだけどね。

中村とうようさんは『ポピュラー音楽の世紀』(岩波文庫)のなかでテレサ・テンの素晴らしさを説明する際、中国大陸での「テレサには個性がない」という評価に真っ向から反論し、「テレサの歌は個性などというケチくさいアメリカ的基準を超えて、もっと大きな水準に達していた。それは、聞き手を慰撫する仏の境地だったと、ぼくは思っている。」(p. 139)と書いた。

かなり重要なことだし、そっくりそのまま岩佐美咲の歌のやりかたにもあてはまる褒め言葉なので、やや長くなるがとうようさんの『ポピュラー音楽の世紀』からしっかり引用しておこう。

(テレサ・テン以前の中国歌謡は)ぼくの印象では、どうもレコード歌謡に徹することができず、聴衆の目の前で歌うときの感覚から抜けだせなくて、不自然に大きく歌い上げがちな傾向がある。片方に京劇、他方に上海キャバレーの舞台の伝統があまりにも重くて、しかも国内経済の遅れでレコード市場の裾野も広がらず、ラジオなども普及しなかったから、自分の部屋でひとりでレコードに耳を傾ける聞き手をイメージして歌いかける感触が歌手たちによくつかめなかったのかもしれない。ここでも、歌手と聴衆の間合いの取り方の問題をぼくは感じてしまう。
 そんな限界を脱却して本物のレコード歌謡のスタイルを中国世界に確立したのが、七〇年ごろに台湾に登場するテレサ・テンだ。レコード・デビューが十四歳のときだが、初めから素直で伸びやかな歌いぶりに大器の資質を発揮した。台湾から香港、東南アジア、日本と活動の場所を広げ、わが国では日本語の歌謡曲で親しまれたが、本領がチャイニーズ・ソングだったのは言うまでもない。七〇年代後半から八〇年代前半にかけてのそれらの歌は、世界のポピュラー・ソングでも比べるものの少ない高い水準に達していた。繊細な節回しがかもし出すナイーヴな叙情は聞き手をやさしく歌で包み込む。アメリカの歌手たちの押しつけがましさの対極に位置するこういう歌こそ、アジア歌謡ならではの境地だ。
 テレサ急逝後に出た粗雑な追悼本に《個性が歌から伝わってこない》とかいう一中国人(かなり欧米カブレした人物らしい)のテレサ批判が引用されているが、こういうとらえ方がいちばん無意味である。個性をポピュラー歌手の評価の基準にするのは、6章で触れたとおり芸能の本質を見えなくしたアメリカ音楽産業の歪みに汚染された考え方だ。テレサの歌は個性などというケチくさいアメリカ的基準を超えて、もっと大きな水準に達していた。それは、聞き手を慰撫する仏の境地だったと、ぼくは思っている。
(pp. 138 -139)

どうですか?岩佐美咲の歌をちゃんと耳に入れているかたがたであれば、あぁ〜、こりゃまったく美咲のことを言っているじゃないか!と心の底から納得できるはずだ。特に「素直で伸びやかな歌いぶりに大器の資質を発揮」とか、「繊細な節回しがかもし出すナイーヴな叙情は聞き手をやさしく歌で包み込む」とか、「押しつけがましさの対極に位置するこういう歌」とかのくだりは、とうようさん、美咲の登場を予告したんですか?と思いたくなるほどピッタリあてはまる。

言いかたを換えるならば、とうようさんも激賞したテレサや、またやはり高く評価した同資質のアメリカ人女性歌手パティ・ペイジらと、本質的に同じものを岩佐美咲は持っている。同じ表現法をとっているんだよね。すなわち押し付けがましい個性を消して、というかそもそも最初から歌は個性的自己表現だなどとは考えてもおらず、歌の持つ魅力をそのままストレートにリスナーに伝えることこそが唯一の使命だと信じ、それに徹さんとするから、そのためには邪魔になる表現法を排した。

これが岩佐美咲のヴォーカル・スタイルの正体だ。彼女自身このやりかたがいちばん「歌が伝わる」からと、ちゃんとしっかり考えてやっているんだということを、僕は微塵も疑わない。むろん生得的天才資質もあるだろうが、それに磨きをかけんとして考えて訓練して、ああいった歌ができあがっているんだよね。テレサもパティ・ペイジもきっとそうだったはずだ。美咲はこの二人と同じ資質の歌手なんだよね。

そうだから、上のほうで岩佐美咲の歌は無個性だと僕は書いたが、もちろんこういった意味でのことであって、称賛の言葉なのだ。一聴してだれにも真似できなさそうな強く激しい個性的な歌唱は、実は歌の中身が聴き手に染み込まない。歌が、聴き手も含めた「みんなのもの」にならないからだ。逆にだれにでもできそうなスムースで素直な歌で、曲の持つ本質をストレートに表現するやりかたのほうが、本当ははるかに難しいことで、だれにも真似できない唯一無二の<個性>なんじゃないかな。こっちのほうがすごいぞ。

岩佐美咲って、そういう歌手なんだよね。

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コメント

大変素晴らしい研究です。感銘を受けました。ですが岩佐美咲や渡辺麻友はシンガーとしては二線級。トップは河西智美と竹内美宥です。是非御分析下さい。またAKBでNo.1のボーカリスト前田敦子を研究しないのは片手落ちと言えるので御研究をお待ちして居ます。

ちょっとくどいんじゃないでしょうか?

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