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2018/03/24

オクシタン(&アラビアン)・スリル

“Sirventés” は古オック語で「シルヴェンテス」という音になるらしいので、オック語のことがぜんぜんわからない僕だけど、ネット情報にしたがって以下そのように表記したい。だからこのアルバム名は『シルヴェンテス』と書く。曲名もフランス語の綴りじゃないし、オック語なんだろうと思うけれど、そこまでぜんぶ発音を調べられないから、それらは原表記のままとする。

そのシルヴェンテスとは、いまのフランス南部、中世オクシタニアおける吟遊詩人(トゥルバドゥール)が古オック語で詠んだ抒情詩のいちジャンル名だ。南フランスはマルセイユの音楽シーンにおける大物マニュ・テロンは、そんなシルヴェンテスをとりあげて、現代ふうにアレンジし、自らの歌&ウード&パーカッションのトリオ編成で聴かせてくれた。

それがフランスのレーベル、アコール・クロワゼから2014年にリリースされたアルバム『シルヴェンテス』だ。名義は三人の共作というか、三名が連記されている。ヴォーカルのマニュ・テロン、ウードのグレゴリー・ダルジェント(Dargent)、パーカッションのユセフ・ビシッチ(Hbesich)。グレゴリーはアルジェリア、ユセフはパレスティナの出身らしいので、姓のカタカナ表記がこれでいいのかどうか、よくわからない。どなたか、ご指摘ください。

シルヴェンテスという中世オクシタニアにおける抒情詩がどんなものなのか?それはマニュ・テロン本人が書いた解説文に詳しくあるので、僕が説明などする必要はない。英訳も付いている。また『シルヴェンテス』は日本盤があるようなので(アコール・クロワゼ盤はぜんぶあるよね?)、日本語でも解説が読めるのかもしれない。

端的に言えば、古オック語で詠むオクシタニアにおけるトゥルバドゥールたちは、当初、恋愛関係などをあつかっていたらしいのだが、やがて政治的、社会的抑圧に対する反抗の歌を詠むようになったらしい。マニュ・テロンは後者、すなわちプロテスト・ソングの数々を、古オック語のままで歌っているそうだ。

「そうだ」というのは、聴いても古オック語の歌詞が僕には理解できない。CD 附属のブックレットに、古オック語、フランス語、英語の三ヶ国語で歌詞が掲載されているので、今回は英語とフランス語分をササッと読んでみた。それで、ああそうだなと納得できただけで、マニュの歌を聴いて理解できているわけじゃないから、歌詞を理解したとは言えない。

でもそれはアルバム『シルヴェンテス』を聴く世界の多くの音楽好きにとっても同じなんじゃないかなあ。歌詞の意味内容だけに寄りかかって音楽の意味を見出そうとすると、世界を狭めてしまう。言葉の意味を聴解できる音楽しか扱えないことになってしまうからだ。それじゃあさびしいよね。

だから僕は今日も歌声のトーンや、楽器の音色や、サウンドやリズムや、そういったものを聴いて考えて、アルバム『シルヴェンテス』の魅力を書いておきたい。そうなると、僕にとってのこのアルバムの美点とは、3ピース・バンドでのタイトかつソリッドでスピーディで鮮烈なグルーヴ感ということになる。

3ピース・バンドといっても、うち一つはヴォーカルなので、楽器はウードとパーカッションの二つだけ。どっちも多重録音されている可能性がある。少なくともパーカッション・サウンドはオーヴァー・ダブされて複数楽器が同時に鳴っている。あるいはもう一名パーカッショニストが参加しているのかもしれないが?(エティエンヌ・グルエル?)。

ウードは多重録音なしのグレゴリーの一発演奏かもしれない。でもときどき、低音部でまるでベースのようにリフを弾くと同時に中高音域でちょろっと聴こえるような気がするような…。勘違いかもしれない。そしてグレゴリーは、アルバム『シルヴェンテス』の音楽的中心となっているような気がするんだよね。

古オック語のシルヴェンテスをアダプトしたのはあくまでマニュ・テロンだけど、それを現代的な音楽としてアレンジした音楽監督的役割をグレゴリーが果たしているのかもしれない。できあがりのアルバム全体のサウンドを聴くと、そんな気がするんだけどね。どう聴いても演奏のリーダーシップをグレゴリーのウードが握って進行しているしね。

アルバム『シルヴェンテス』のなかには、ミドル・テンポでゆっくり進む、あるいはよどむかのようなリズムで演奏されるものもある。四曲目「Farai un vers de dreit nien」、五曲目「S'anc fui bela ni prezada」、六曲目「Non m'agrada inverns ni pascors」、九曲目「Per espassar l'ira e la dolor」はそうだ。

このアルバムは全十曲とはいえ、そのうち二つは次の曲への導入、前奏なので、実質的には八曲。だからゆったりしたミドル・テンポのものと、疾走感にあふれるスピーディなものとがちょうど半分づつ混じっていることになる。上の段落で書いたゆったりナンバー四曲のうち、六曲目の「Non m'agrada inverns ni pascors」はかなりの聴きものだ。

マニュの(ほぼ)ア・カペラ歌唱がしばらく続き、そこは、まあアルバム全体でそうだけど、強い張りのある堂々とした発声で、まるでヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)やアリム・ガスモフ(アゼルバイジャン)を彷彿とさせる見事なもの。かなり強靭、強烈なんだよね。

そして徐々にグレゴリーのウードが目立ちはじめ、だんだんと主導感を握り、中盤の四分半すぎあたりからウードとパーカッションの即興デュオ演奏になる。そうなってからのグレゴリーのウード演奏が本当に素晴らしい。陰影が深く、厳しいリリカルさがある。アルバム『シルヴェンテス』の音楽としての真のハードさを、こんなところにも僕は感じる。

これら以外の四曲は疾走感あふれるアップ・テンポのソリッド・グルーヴ・ナンバーだ。それらで聴けるドライヴ感はものすごい。トリオ編成の3ピース・サウンドということもあってか、僕はジミ・ヘンドリクスのバンドなどを思い浮かべるんだよね。マニュら三名の『シルヴェンテス』でジミヘンやクリームなどのハード・ロックを連想するのはヘンかもしれないが、ちょっと似ているような気がするんだなあ。

なんど聴いてもすごいと僕がシビレるのが、アルバム・ラスト十曲目「Un sirventés novel vuelh comensar」だ。冒頭からウードがロックにおけるエレベのように低音リフをぶんぶん演奏し、同時にパーカッションが刻んで、二人で超絶グルーヴィ!0:13 におけるパーカッションのおかずが、まるでロック・ドラマーの演奏するフィル・インそっくりで、そのフィル・インが入ったと同時にマニュが歌いはじめる。

その瞬間のスリルたるや!本当に鳥肌が立つんだよね。カッコイイ〜!音楽を聴いてこんなにゾクゾクする体験も、僕のばあい、そんなにたくさんはない。しかも間奏のウード・ソロは、なにかエレクトリック(or エレクトロニック)なエフェクトを使って音を歪めてある。ウードでのそんなエフェクトは聴いたことがない。最高に気持ちいいよなあ。

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