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2018/04/10

ラテン・アメリカを歌うアメリカ

ザヴィア・クガート楽団、アンドルー・シスターズ、マチート(とディジー・ガレスピー、 チャーリー・パーカー)などを持ち出すまでもなく、ジャズでもなんでもアメリカ音楽(と今日はあえてこう呼ぶ)にはラテン・アメリカン・アクセントが濃厚にある。それどころか、そもそもラテン・アメリカ音楽、ことにアフロ・クレオール文化なくしてアメリカ音楽が誕生したかどうか疑わしいくらいだ。キューバなどカリブ音楽、メキシコなど中米音楽、ブラジルなど南米大陸音楽がなければ。

しかしながらそれでも、1950年代に入って、突如、ラテンの波が大流入したかのようになっているのをどう見たらいいのだろう?とにかく50年代にラテン・ベースのアメリカ音楽のアルバムが突然多く出現した。アメリカ音楽におけるラテン・アメリカの突然の爆発。ナット・キング・コール、メル・トーメ、コニー・フランシス、ジュリー・ロンドン、ローズマリー・クルーニー、ロバート・ミッチャム…。

これらとあわせ、その1950年代当時のラテン世界からのアメリカへのニュー・カマーたち、すなわちハリー・ベラフォンテ、ティト・プエンテ、ペレス・プラード、ボビー・カポ、ティト・ロドリゲスなどなどがどう関係していたのか?こっちのほうは(も)1960年代末ごろからのカルロス・サンタナ、ウィリー・コローン、フラーコ・ヒメネスらへつながる系譜であるようにも見える。じゃあライ・クーダーらとの関わりは?

だいたいいつもアメリカの空をキューバやカリブやラテン・アメリカ大陸の鳩が飛んでいるわけだけど、ことに1950年代にはそれがはなはだしかった。まるでラティーナな鳩の大軍が大挙してアメリカ上空に侵入したかのようになっていた。あの1950年代のラテン・インヴェイジョンの背後には、いったいなにがあったのだろうか?それともアメリカは全面的にラテン・アメリカを抱擁していたということなのか?

1960年代末からのサンタナなどラテン・ロックや、サルサの爆発などは、こういったあたりからの流れを踏まえて考えないといけないように思う。さて、アメリカの1950年代における突如のラテン勃興の前にも、そもそもジャズ初期の巨人ジェリー・ロール・モートン、の特にソロ・ピアノ録音や、サッチモことルイ・アームストロングの1930年代オーケー録音などのなかにも、当然強いラテン・アクセントがある。

それはつまりアメリカ国内におけるアフロ・クリオールなラテン・キャピタルたるニュー・オーリンズの国際性ということだ。その後しばらく経った時期以後は西海岸にも目を向けないといけない。西海岸にはメキシコ系とスペイン語の影響がそもそも濃厚だったから(のちのフラーコ・ヒメネスやライ・クーダーらにつながったと)いうこともあるし、さらにまた、僕はあんがい重要だと思っているハリウッドへのカルメン・ミランダの侵入もあった。

ってことはニュー・オーリンズを含むルイジアナなどの南部はキューバ、カリブ音楽を愛で、西海岸はチカーノやブラジル系ってことかなあ?いやいや、そんな単純なものじゃない。とにかくアメリカ音楽史を見渡すと、第二次世界大戦の終了あたりからヴェトナム戦争あたりまでのあいだの時期にラテン要素が強く出現しているのは間違いない。しかもそういったアメリカ人音楽家のなかには黒人も多かった。時期的にはちょうど公民権運動と合致するじゃないか。

それとキューバにおけるフィデル・カストロらによる革命完遂も時期的にほぼ一致する。あのキューバ革命までは、キューバはアメリカの庭みたいなもんで、観光地として賑わっていた(それじたいの良し悪しは抜きにして)。キューバだけじゃなくプエルト・リコもバミューダもその他も、つまりスペイン語、フランス語、英語が使われる(南米大陸ではポルトガル語も)ラテン・アメリカ地域、特にカリブ海諸島はアメリカと密接な関係があって、人的、文化的交流も盛んだったことはご存知のとおり。

アメリカ人音楽家が、その19世紀末から2018年の現在まで、ある意味、ずっと絶えずラテン・アメリカを吸収し続けてきていて、まあ言ってしまえば<アメリカ音楽とはラテン・アメリカ音楽である>との命題を立てることだって可能なほどだというのは、ラテン・ミュージックにあるリズムとメロディのおもしろさと(死と隣り合わせの)甘美な官能性、ラヴ・ソングにおけるパソスとエロクワンスなどに惹かれ取り入れたというだけなのかもしれないが。

そこにはスパニッシュ・スケールがあり、それにもとづくあのメロディ構成、旋律の動きがあり、またアフロ・クレオール由来のあのリズムがある。三拍子を内在しながら二拍子で跳ねる、あの細かく刻みながら大きくゆったりとノるあれが。(アフリカ由来である)カリンダをベースとするアバネーラもカリプソもタンゴも。ソンもボレーロもマンボも。またサンバもボサ・ノーヴァも。

上で触れたように、特にカリブ地域と最も密接な関係があったのがニュー・オーリンズで、この地の音楽はジャズ誕生期からそもそもラテン・アクセントが強い。なかでもキューバのアバネーラの痕跡は明白で、ジェリー・ロール・モートン(の特にピアノを弾く左手)にもあるし、またアバネーラとはいえないが、ルイ・アームストロングは、かの大ヒット曲「南京豆売り」を、アメリカでの大流行だった1930年に録音、発売している。それが、フレモー&アソシエのアンソロジー『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』では最も古い収録曲だ(一枚目15曲目)。アルバム・タイトルは "1935" となっているけれどね。

その後、1940〜60年代においてニュー・オーリンズでは、ラテン・アメリカ音楽から特に意義深いいただきものはないのだと、解説文のテカ・カラザンス&フィリップ・ルサージュ(と署名があるが、たぶんルサージュの文章だろう)は書いているが、とんでもない話だ。プロフェッサー・ロングヘアなどニュー・オーリンズのラテン調リズム&ブルーズのことが視野に入っていない。このあたり、ジャズとその周辺しか扱わないというのが、このフレモー&アソシエのシリーズの瑕疵だ。

ところで、アメリカ音楽のなかにいかにラテン要素が溶け込んでいるかを証明するものの一つが、その CD 三枚組『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』二枚目13曲目の「縁は異なもの」(What A Difference A Day Made)だ。ここには1947年にサラ・ヴォーンが歌ったヴァージョンが収録されているが、ダイナ・ワシントンのものが超有名だよね。これ、メキシカン・ソングだって、以前も書いたようなまだだったような。忘れました。

「縁は異なもの」はもともと「Cuando vuelva a tu lado」という曲題でメキシコ人ソングライター、マリア・グレベールが1934年に発表したもの。同じ年に即、英詞が付いて歌われている。この三枚組アンソロジーだと、一枚目4曲目のナット・キング・コール「ベサメ・ムーチョ」とか、メル・トーメのとアニタ・オデイのと2ヴァージョン収録の「フレネシ」とか。

一枚目17曲目のメル・トーメ「バイーア」とか(スタン・ゲッツ・ヴァージョンが有名なんだそうです)、これまた2ヴァージョン収録の「ブラジル」(ローズマリー・クルーニー&ビング・クロスビー、フランク・シナトラ)なんかもアメリカン・スタンダードになっているかも。アルバム・オープナーの「スウェイ」(ローズマリー・クルーニー)もそうだね。

「フレネシ」を書いたのはメキシコのアルベルト・ドミンゲスで、この人の書いた曲のなかには僕の大好きな「ペルフィディア」がある。こういったボレーロ(からフィーリン)がだぁ〜〜いすき!な僕。「ペルフィディア」は、この三枚組『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』にも入っている。一枚目6曲目のメル・トーメ・ヴァージョン(1959)。伴奏はビリー・メイ楽団で、ビリー・メイ伴奏のものはこのアンソロジーに多い。

しかしながら、そのメル・トーメ・ヴァージョンは歌詞を英語にし、リズムも4ビートのジャズ・スタイルで、あの魅惑的なボレーロじゃなくなっているのだ。ここはナット・キング・コールのヴァージョンを収録してほしかった。ナットの「ペルフィディア」はスペイン語原詞のままでボレーロ・リズム。それはエル・スール謹製のフィーリン・アンソロジー『フィーリンを感じて』にも収録されている1959年のレコード。出だしの「む〜、へ〜」だけで失神しそうだよ。
ナット・キング・コールは、この『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』に最もたくさん収録されている歌手だ。その次がハリー・ベラフォンテ。出自がカリブにあるベラフォンテと違い、ナットはアラバーマ生まれのふつうのアメリカ黒人だけど、この二名が1950年代のラテン・アメリカズ・イン・アメリカ爆発の中心人物だったと見ることができるだろう。

ソングライターでいうと、上記アルベルト・ドミンゲス、アグスティン・ラーラなどなどキューバ/メキシコのボレーロ〜フィーリンのなかに位置付けられる人たち、アリ・バローゾ、アントニオ・カルロス・ジョビンらブラジルの作曲家なども、1950年代末〜60年代頭のアメリカにおいて大きな存在感を示していた。これらのひとたちだけでなく、ラテン・アメリカ音楽界で書かれ歌われた曲が、アメリカで英詞が付いて歌われたり、ばあいによってはナット・キング・コールその他みたいにスペイン語のまま扱ったりもした。

ハリー・ベラフォンテのばあいは、上で書いたようにマルチニークの父とジャマイカンの母のあいだに生まれ、八歳までジャマイカで育ったので、彼の歌にあんな感じのものが多く、1950年代に大きな影響力を、それもたんに音楽界だけでなく社会一般にも持っていて、あのフォーク・リヴァイヴァルと公民権運動の連動にも関係したというのは理解しやすい。

ところがナット・キング・コールの出自や成長に、ラテン・アメリカ(音楽)との関係は見出せない。社会運動とも直接的には関係なさそうで(それでもナットも黒人だけど)、頭のてっぺんからつま先まで、骨の髄まで、音楽家というような人間だった。だから『コール・エスパニョール』(1958)『ア・ミス・アミーゴス』(1959)『モア・コール・エスパニョール』(1962)と、三枚もスペイン語で歌う(のにナットは苦労した)ラテン・ソング集を発売したのはなぜか?彼自身の音楽的内面性から来るものではないのだろう。

ナット・キング・コールは西海岸の会社キャピトルの専属だった。アメリカにはスペイン語話者(だけで英語はできない)がかなりいる。ましてや西海岸には多い。だから、たぶんキャピトル側からの、まあ圧力というと言葉があれだけど、ヒスパニック・オーディエンスにアピールできるようなアルバムを創ってほしいとナットに話を持ちかけたに違いないと僕は見ている。

1950年代末というと、すでにナット・キング・コールはビッグすぎるほどのスターだった。そんなナットがラテン・ソング集を、それもスペイン語でやれば…、という西海岸の会社キャピトルの目論見だったんだろう。今日話題にしているアンソロジー『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』にいちばんたくさん曲数があるナットだけど(13曲)、はたして結果は、まあスペイン語の発音がイマイチかもしれないが、うまくボレーロの官能性を表現できていると僕は聴くけれどね。これがトップ歌手の実力じゃないかな。

少なくともナット・キング・コールの持つあのクルーナー・タイプの声と歌いかたがボレーロ/フィーリンみたいなラテン・ラヴ・ソングにうまくはまっているのは、だれも否定できないはずだ。ソフトで軽くふわりと漂うような発声とフレイジング。声を張りすぎず、ややハスキー気味でスッと置くようにやさしく語りかけるようなナットと、あのボレーロ・スタイルのリズムやサウンドが、ニーロ・メネンデス、オズヴァルド・ファレース、マリア・テレーサ・ラーラ(アグスティンの妹)、マリア・グレベールに、よく似合っている。

いっぽう『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』にもすこし収録されているが、ナット・キング・コールがスペイン語で歌ったラテン・ソング全41曲のなかには、快活なものだってもちろんある。日本人でも僕より世代が上のかたがたなら、三枚目6曲目「カチート」(コンスエーロ・ベラスケス)がいちばん有名なんじゃないかな。

しかしここでは二枚目6曲目の、プエルト・リコの大作曲家ラファエル・エルナンデスが書いた「カプジート・デ・アレリ(アレリのつぼみ)」に着目したい。これはチャチャチャみたいなもんかな。でもちょっとボレーロ/フィーリンっぽいニュアンスもあるような。この曲は有名作曲家が書いたスタンダードみたいなもんだけど、かのカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』(フィーナ・エスタンパ)でとりあげているよね。

カエターノは続く『粋な男ライヴ』で、メキシコのトマス・メンデスが1954年に書いた「ククルクク・パローマ」を歌っている。はかなく哀れで切ない男性のセンチメンタリズムの極地みたいな恋愛歌だけど、この同じ曲をハリー・ベラフォンテがライヴで歌っている(1960年『アット・カーネギー・ホール Vol. 2』)のが、今日話題にしている『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』に収録されているんだよね。

さて、書ける余裕がもうないが、『アメリカンズ・シング・ラテン・アメリカ 1935 - 1961』にはブラジル人作家が書いた曲もたくさん歌われている。かの「ティコ・ティコ」をカルメンといっしょにやるアンドルー・シスターズ(1949)や、上述のアリ・バローゾは複数あるし、アントニオ・カルロス・ジョビンも「デザフィナード」をやるジュリー・ロンドン(1962)、英題「ワンス・アゲン」「クワイエット・ナイツ」のジョン・ヘンドリクス(1961)、同じくジョン・ヘンドリクスがやるドリヴァル・カイミの、英題「ロンギング・フォー・バイーア」(1961)…、などなど。

メインストリームのアメリカン・ポップス・シーンでは嚆矢だったかもしれない1944年のアンドルー・シスターズ「ラム・アンド・コカ・コーラ」(1944)はもちろん三枚目17曲目にあり、また僕のだ〜いすきなエルネスト・レクオーナの「シボネイ」をコニー・フランシスがスペイン語で歌っているの(1960)も三枚目に収録されているのが、なんともいえず嬉しい。

冒頭で大上段にふりかぶりすぎたけれど、1960年代末ごろからのラテン・ロックやサルサなどへつなげる流れは、もう今日はちっとも書けないな。ライ・クーダーら西海岸のテックスメックス勢も一行も言及なしだ。このあたりの、ロック・ファンにもおなじみな部分や、またこちらもおなじみプロフェッサー・ロングヘアらや、西海岸のジョニー・オーティス楽団にもあるラテン R&B などなど、そのほかアメリカ音楽にキリなく存在するラテン・アメリカへの連絡は、またの機会にじっくり考えたい。

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