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2018/08/12

ソングライター、シンド・ガライ 〜 夏向き

この CD でシンド・ガライ本人の歌はついこないだはじめて聴いたばかりなので、なにか言えるような人間ではありませんが、それでも本当にこれはいい!と、ほかの歌手たちがカヴァーした曲もいい!と、感じているのは間違いのないことだから、自分用のメモとしてチョチョっと書いておこう。そして、これまた bunboni さんに教えていただいたものだ。感謝します。この記事がなかったら、エル・スールへの入荷に気づくのが遅れて、買い逃した可能性がある。
キューバでヌエーバ・トローバという流行があったよね。だからもちろん旧っていうか大元のトローバがあって、19世紀終わり〜20世紀はじめごろ、ちょうど独立期のキューバ(や周辺のカリブ諸国でも?)におけるシンガー・ソングライターたちのことを、中世の吟遊詩人になぞらえてトロバドールと呼び、そんなひとたちの自作自演をトローバと言った。

CD アルバム『デ・ラ・トローバ・ウン・カンタール...』附属リーフレットの解説文1ページ目には、サンティアーゴ・デ・クーバを中心に活動したトロバドールたちの名前がたくさん並んでいるが、なかでもペペ(ホセ)・サンチェスとシンド・ガライの二名あたりは、特別すぐれた存在で知名度もあるんじゃないだろうか。

その解説文によれば、シンドは舞台俳優でありかつ、歌手兼作曲家だったそうで、音楽関係のことはともかく、俳優でもあったとはぼくは知らなかった。がしかしさもありなんと思う。世界のいたるところで、ポピュラー・ミュージックの発生はライヴ・ステージでの演劇や芸能と密接な関係があったのだとは、みなさんご存知のとおり。北米合衆国の音楽だってそうなんだ。キューバでもブラジルでも、インドネシアでも、そしてもちろん日本でも。

ちょっと脱線するようなしないようなこと。日本テレビ日曜夕方の番組『笑点』。おなじみのとおり落語家、お笑い芸人、マジシャン、楽器をやりながら歌う芸人(音楽家?)など、ごたまぜで登場する…、でもなくて前半部の演芸コーナーと後半部の大喜利コーナーに二分されているけれど、小屋での寄席演芸ライヴのやりかたをコピーしているものなんだよね。音楽好きのお芝居好きで落語好きっていうのは、理解しやすい至極まっとうなありようだ。

キューバのトロバドールとシンド・ガライ。彼らも19世紀後半の舞台演劇と結び付いたかたちで曲を書き、そして歌ったはず。トロバドールという以上はもちろん自作自演のシンガー・ソングライターで、しかしたぶん、書いて歌った曲がほかの歌手にカヴァーされるなんてことは、その当時から頻繁にあったことなんだろうと推測できる。

レコード商品が人気流通品になって以後はもちろんそうなった。CD『デ・ラ・トローバ・ウン・カンタール...』収録の全14曲のうち、シンド自身が歌うのは四曲だけ(1、12、13、14)で、ほかはカヴァーなんだよね。シンドが1968年に亡くなって以後のトリビュート・アルバムから収録したもののよう。

アルバム収録曲はすべてシンドの自作だけど、ひとつ、10曲目の「トルメントス・フィエロス」だけ、曲はシンドだけど詞を別なひとが書いている。しかし雰囲気に差はない。さらにぼくにとっての驚きは、シンドの自演曲(といっても全部デュオなんだけど)と他演曲とのあいだに差異が聴きとれない。一貫したフィーリン(グ)がアルバム全体にある。

といっても、曲「ラ・バラソエーサ」。6曲目にマノロ・ムレット・ヴァージョンがあり、13曲目にプライヴェイト録音からというシンドとマリガリータ(孫)とのデュオ・ヴァージョンがあり、この二つはムードが違っている。6曲目のマノロ・ムレットのは、フィーリンっぽい、というよりこれはまさにフィーリンだ。ホセ・アントニオ・メンデスのギター弾き語り音源をみなさんお聴きでしょう、それとソックリだ。

だから、この「ラ・バラソエーサ」は曲そのものがフィーリンの先取りだったのか?とか思って13曲目のマルガリータとデュオでシンドがギターを弾きながら歌うものを聴くと、あんがい?そんなふうではない。ふつうのカンシオーンだなあ。何年ごろの録音か推測できないが、やはりひとりでギターで弾き語るとフィーリンに近づくということなのか?それもシンガー・ソングライター然とすれば?
このことはフィーリンの本質にかかわりそうで、ホセ・アントニオ・メンデスの弾き語り音源集とあわせて考えてみたいテーマなので、今日は掘り下げないことにする。また、たとえば7曲目「ネウローシス」(ドゥオ・カブリサス・ファルチ)、10曲目「トルメントス・フィエロス」(アドリアーノ・ロドリゲスとドミニカ・ベルヘス)、11曲目「ジャ・エス・タルデ」(ドゥオ・アルメナーレス・マルケス)といったビート・ナンバー(これら以外はフリー・リズム)は、ボレーロやソンのリズム感覚に通じるものがある。

ってことは、トローバというかシンド・ガライらのカンシオーンは、キューバ歌謡のおおもと、大源流ということになって、そんな大きなテーマは、到底ぼくなんかの手に負えるものじゃないから、夢想だけしておいて、これらについてはこのへんですごすごとケツまくるしかない。

ところで CD アルバム『デ・ラ・トローバ・ウン・カンタール...』全体をひとつの空気感が貫いていると上で書いたのが間違いないぼくの実感で、シンド自演も他演も、商業録音も私家録音も関係なく、スーッとひとつのトータリティでもって一枚聴き終えることができると感じている。

それがなんなのか、ぼくがなにを感じとっているのか、よくわからないというか言葉になりにくいんだけど、今年の日本のあまりにひどい猛暑下で聴くのにちょうどいいヒンヤリした涼感みたいなものがあるなあ、と思うんだ。おかしな感想かなあ。

なんというか、熱くないんだよね、シンド自演も他演もぜんぶの14曲が。クールな感触がある。このへんも、退散するといいながらまたちょろっと書いちゃうが、シンドの曲のなかに、フィーリンの持つあんなクールネスに通じるものがあったのかも。しかし(後年の)ソンなんかは熱い音楽だよなあ。シンドの曲はビート・ナンバーでもヒヤ〜ッとしている。おかしい。がしかし、これが、ぼくの実感。

アルバムの14曲、どの演唱も伴奏がおおげさではなく、バンド形式はひとつもなく、すべてがシンプルなギター弾き語りばかりで、このへんは、シンド自身の録音はもちろん、カヴァーしたひとたちもトロバドールのスタイルを尊重して継承したということなのだろうか?

14曲がすべてシンドの自作曲であることが最大の共通項であるのは、もちろんそうだ。だから、トロバドールは、基本、みずからの弾き語りシンガー・ソングライターというのが本質だという見方に、すこし疑問を投げかけないといけないのかもしれない。他演でも同様のものが仕上がるわけだから、コンポーザーという面で最も秀でていたと言えるかも?

SP から起こしたシンドの自演は、二曲とも息子のグアリオネクスとのデュオ歌唱で、ギターはシンド自身だけど、そのデュオ歌唱のなんだかフワ〜っとしたハーモニーでもないようなというか、ハモっているのかいないのかよくわからないようなポリフォニーがひろがりを感じさせるものだけど、2〜11曲目のカヴァー集も、多くが似たような自由二重唱であるのも、アルバム全体でのトータリティを感じさせる一因かもしれない。

はたしてシンド自演の SP が(ひょっとしてぜんぶ?)「シンドとグアリオネクス」で発売されたからカヴァーする歌手たちもそれにならったのか、あるいはそもそもそういうものとして書かれた曲だったのか、そこまではぜんぜんわからない。

ともかく、シンド・ガライというトロバドールは、そうだから自作自演こそ真骨頂なんだろうという脳みそ先行のぼくの頭でっかちは、アルバム『デ・ラ・トローバ・ウン・カンタール...』を聴いてみて、大きな部分が消し飛んだ。ソングライターとしてこそ、再評価したい。

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