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2019年4月

2019/04/30

ブラジルのギター・ミュージック三題(2)〜 マオガーニ

1007865129https://open.spotify.com/album/0kgiqc3eiE8WVdLFg7q3gh?si=7DkrvUEWR4-NCbkbP2384Q

 

(クアルテート・)マオガーニの新作『アルバム・ダ・カリフォルニア』(2019)。表ジャケットにはセルジオ・メンデスがプロデューサーだと明記してあるね。縁が深いことはわりと知られているんじゃないかな。それにしてもブラジル盤ってデジパックばっかりだ。あ、いや、ときたま薄い紙ジャケットもあるな。でも大半がデジパック。歓迎したい。紙ジャケだらけならもっといいぞ。

 

マオガーニはブラジルのギター四人組(七弦、六弦、レキント&八弦、八弦)だけど、新作にカリフォルニアとあるのは、どうやらこれはアメリカ合衆国はロス・アンジェルスのスタジオで録音されはじめたものらしいね。そういうことでアルバム題になっているんだろうか、たぶん。それもセルジオ・メンデスゆかりの事情なんだそうだ。

 

ロス録音だからなのか関係ないのか、『アルバム・ダ・カリフォルニア』には(ジャズ・メンなどもよくやる)アメリカ合衆国のスタンダードが三つ含まれている。なんたって1曲目がガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」だもんね。そのほか、このアルバムは名曲選みたいな趣があって、アメリカ合衆国のもの(ヘンリー・マンシーニとコール・ポーターもあり)だけでなく、ミルトン・ナシメント、シコ・ブアルキ、ジルベルト・ジル、ラダメス・ニャターリ、トム・ジョビン、アリ・バローゾ、ジョアン・ドナート、バーデン・パウエル、ルイス・ボンファ、と錚々たるメンツの曲をやっているんだよね。アルバム題の「カリフォルニア」とはそういった(宝の山みたいな)意味合いもあるのかな。

 

ギターの四人だけで演奏する曲もあるものの、ゲスト参加ナンバーも多い。いちばんたくさん参加しているのがパーカッションのマルコス・スザーノ。マルコスと4曲目のフレーヴォで共演しているのがバンドリンのアミルトン・ジ・オランダ。ヴォーカルのモニカ・サウマーゾ&レナート・ブラスが7曲目で。9曲目には木管奏者。11曲目にはアイアート(アイルト)・モレイラ。

 

まあはっきり言って雰囲気一発みたいな音楽かなとは思うんだけど、ギターの四人がやっていることは相当テクニックが高度だ。でも聴いた感じそんな印象がなく、あくまでやわらかくやさしく耳あたりのいい音楽に聴こえる BGM 風情がいいんだとぼくなら思うなあ。いちばんむずかしいことだし、一聴して難解そうに思える音楽なんて、いまではあんまり…、っていう気分。

 

それでも4曲目の高速フレーヴォなんかはなかなかものすごいとわかるもので、疾走するアミルトンもすごいがマオガーニの四人も爆進している。さらにマルコス・スザーノのパーカッションがまるでドラム・セットの音みたいに聴こえるけれど、これはあくまでドラムスじゃないんだよね?スネアの音みたいに聴こえるのはたぶん小太鼓みたいなものを叩いているんだろう。しかしこの曲での六人の疾走感はすごいぞ。

 

アイアートが参加の11曲目もスピーディでテクニカル。マルコスと違ってアイアートは大きくフィーチャーされていて、ストップ・タイムを使ってバンドが止まったブレイクにアイアートのソロがなんどもはさまっている。演奏もかなりいい。ベテランならではの円熟味など感じさせない若くてハツラツとした打楽器演奏ぶりに頬もゆるむってもの。

 

ヴォーカリスト参加の7曲目はミナス系みたいでそれもいいけれど、しっとりとした泣きのショーロ系みたいな3、8あたりもいい感じ。アメリカ合衆国産の曲三つはぼくにはイマイチかな。でもトム・ジョビンの「サーフボード」とメドレーになっている「アイ・ガット・リズム」は好きだ。移行の瞬間も楽しい。アルバム・ラスト「カーニヴァルの朝」は短くアッサリとしていて、ちょっとしたコーダみたいなもんかな。もともとだいたいがそんな曲だしね。

2019/04/29

ブラジルのギター・ミュージック三題(1)〜 グアンデュオ

1007876217https://diskunion.net/portal/ct/detail/1007876217

 

こないだ三枚買ったブラジル盤のなかでいちばんよかったのがグアンデュオ(Guanduo)のセカンド『Música Disfarçada de Gente』(2019)。これしかし Spotify にも Apple Music にもないのかよ。いまどきの新作で珍しいな。ないものはしょうがない。かなりいい一枚なんだよね。グアンデュオはブラジルのギター・デュオ・ユニットで、ジュリアーノ・カマーラとエドゥアルド・ピニェイラ。どっちも七弦。

 

ギター・デュオ・ユニットのアルバムながら、『Música Disfarçada de Gente』の中核を占めるのは、全13曲中6〜9曲目と中盤に置かれた四つのムーヴメントから成るビリンバウ組曲かもしれない。グアンデュオの二名にくわえ、ビリンバウ演奏隊三名が参加している。ビリンバウのあの音色が大好きなぼくだから、これはたいへんに楽しめるものだ。実際、このアルバムで最も力が入っているセクションかもしれない。

 

ビリンバウの音色が単純に好きなだけだからそれでいいんだけど、この組曲はこのアルバムでの音楽的な聴きどころとは言えないのかもしれない。ビリンバウ組曲以外だと、おおざっぱに3タイプに分別できるかなと思う。元エルメート・パスコアールのバンドのドラマーをむかえて(ややハードめに)スウィングしているもの、ショーロっぽい泣きのしっとり系、ストリング・アンサンブルといっしょにやる、クラシック音楽と区別できない室内楽。

 

なかでも、元エルメート・グルーポのマルシオ・バイーアが叩く三曲(1、3、13)がかなり充実していると思う。3「Samba noturno」はマルシオ以外にはグアンデュオの二名だけで、激しくスウィングし、曲想は3パートに分かれチェンジし、中盤はしっとりおとなしめ。
https://www.youtube.com/watch?v=W8pFIo6A3ak

 

これ以外の二曲はいずれもマルシオのほかにもペドロ・フランコが参加している。1「Francamente」ではエレキ・ギター&エレキ・ベースをこなし、ちょっとジャズっぽくてこれもいいし、また13「Tarde de carnaval」(「カーニヴァルの朝」のもじり?)ではバンドリンを弾き、そのせいじゃないけれどショーロみたいに聴こえたりもするのがグッド。
https://www.youtube.com/watch?v=IlU12AFNmLo

 

ペドロがバンドリンで参加してショーロっぽいといえば、アルバム10曲目。最初この CD を聴いていて、ありゃ、これは知っている曲だぞと思ったら、ジャコー・ド・バンドリンの「Vibraçōes」なんだよねえ。しかもフルート・トリオも参加している。フルート・トリオ(アレシャンドリ・アンドレス)はソロをとらずアンサンブルだけ。そのアレンジはエドゥアルドが(フラヴィオ・フォンテネッリに捧げて)書いている。かなりいいんだけど、ネットに音源がないなあ。

 

グアンデュオの『Música Disfarçada de Gente』、アルバム全体の音楽性が多彩で、華やかだし、古典的ショーロとかクラシック音楽みたいだなと思うと現代ジャズみたいに聴こえたりもして、ブラジルのインストルメンタル・ミュージック好きだったらかなり楽しめる一枚だと思う。

2019/04/28

ぼくの推しはマイルズだった

Maxresdefault_1 https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7LsmRPFHeet4jJufqUIsgv?si=jgA5bel-Rj-G5ssGejEMiw

 

この歌手、音楽家が好きだ、最愛のひとだ、と気づいたとき、その相手がもうこの世にいないとわかったら、どんな気分だろう?ぼくはいま、熱狂的サム・クック愛好家おふたりのことを頭においている。自分の最愛のひとが、最愛となった最初からもはやこの世のひとではないと知ったときのやるせなさは、さぞや深刻なものじゃないだろうか。

 

サム・クック。いまの日本にも熱狂的愛好家が多い歌手だが、とうのむかしに死んでいる。そこいくと、絶頂期を過ぎていたとはいえ、それでも亡くなる前の10年間を、遠く離れた日本においてであっても、ともに同じ時代を感じながら過ごすことのできた、マイルズ・デイヴィスとぼくとの関係は、しあわせだったと言えるのだろう。

 

この点、1991年9月のマイルズの死後にこのひとのことを愛するようになったファンのみなさんは、やはり届かないとか、もどかしいとか、悔しいとか、そういった思いを味わっていらっしゃるのだろうか。うん、やっぱりそうかもなあという気がする。どんな音楽家でもアイドルでも芸能人でも、愛するひとと同じ時代を生きられなかったというのはつらいもんだよねえ。

 

その悔しさ、つらさゆえに、いっそう愛好活動に熱が入るという面だってあるのかも。いや、関係ないのか。ぼくはマイルズの最後の10年間、同じ時代の空気を呼吸しながらともに過ごしてファンをやったけれど、それでもこれで充分と満足して、死後、愛好活動の熱がおさまったりはしていないもんなあ。

 

それでもやはり、自分の愛する対象とともに同じ時代を生き、ともに歩みながらファンをやっていくということができるかできなかったかは、大きなことだ。この点でぼくのマイルズ愛好は恵まれていたと言っていい。1975年の一時引退までのマイルズを(同時代的には)知らないとはいえ、それでも「間に合った」、ギリギリで。そう言えると思う。

 

そうやって接していた最後の10年間のマイルズは、一時引退までとはかなり人間も変わったような部分があって、まず音楽関係のことでも日常生活のことでも、接しやすくフランクにさらけだすようになっていた。だからぼくたち一般のファンのところにもさまざまな情報が入ってきていたのだ。ぼくにとってマイルズはアイドルで推しだったから(つまりぼくはマイルズ・オタク)、そんな人物に親近感が増すというのはありがたかった面がある。

 

それでふりかえって、冷静に音楽のことだけ考えればやはりこっちの時代のほうがすごかったなとわかる1975年までのマイルズ・ミュージックのことをとらえるにもヒントになる部分が増えた。これもありがたいことだった。さらに、オタクにとってはメディアに写真がどんどん掲載されるようになったということと、来日公演が頻繁になってライヴ・コンサートに行きやすくなったという、この二点もかなりデカい。

 

写真がどんどん増えたというのがありがたいのは言うまでもない。愛しているんだからさ、マイルズのことを。レコードや CD を聴きながら眺める材料が多くなって、うれしかったなあ。ライヴ・コンサートも1981年の復帰後はほぼ毎年のように来日するようになって、ひとによってはありがたみが減ったなどとツマラヌことを言うこともあったが、だれかを好きになったことがないのだろうと思う。ぼくらにとってはうれしいのひとことだったよ。

 

だから、1981年と83年の来日はぼくがまだ松山で大学生をやっていた時期だったので都会へ出かけていって聴いたんだけど、85年の来日以後はぜんぶ東京でフル体験した。フル体験、つまり東京開催分は一日も一回も欠かさず「ぜんぶ」足を運んだという意味だ。最後のジョン・レノン・トリビュートへの出演(東京ドーム)を除き、文字どおり、ぜんぶ、行った。

 

全通するというのは、いわば愛の証みたいなもんなんだよね。ぼくからのマイルズに対する愛の表現。もちろん相思相愛なんかじゃない。マイルズはぼくのことなんか知るわけもない。それでオッケー。ぼくはぼくなりの気持ちを表現できればそれで充分満たされた思いだった。

 

1991年にマイルズが亡くなってもこの熱が冷めることはなく、むしろもっとどんどんヒートアップしていくような実感があったけれど、このブログをはじめて約三年半、マイルズについて書きまくり、もうこれでもかというほどさんざん書いて書いて書きまくって、なんだかすこしだけ落ち着いたような気分にひたっていることはたしかだ。

 

それでも、ぼくの音楽愛好の芯の部分にマイルズがいて、ぼくなりにとことんマイルズを愛しぬくことが、その体験が、音楽リスナー生活の根底にあって土台をかたちづくっているのは間違いないことだ。マイルズの音楽について、具体的にも今後またときどき書いていくつもり。

2019/04/27

懐かしのスウィート・エマ

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あぁ、スウィート・エマ・バレット。なんて書いたって、いまやだれが憶えているだろう?一部の超好事家以外は、みんな忘れてしまったんじゃないかな。っていうかむかしもハナからそもそも関心を寄せられていない?わからないが、1940年代のニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルでその地の古老たちがどんどん復活してレコードを出したなかのひとりなのだ。

 

そのむかし、そういったニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルを契機に録音されるようになったニュー・オーリンズのおばあちゃん、おじいちゃんのジャズ・ミュージシャンのレコードがたくさんあったよねえ。ぼくはけっこう好きでどんどん買っては聴いて、わりと気に入っていたんだ。でも、CD リイシューなんてされるのはごく一部。

 

かのニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルの意味みたいなことはまた筆を改めるとして、ぼくは1940〜60年代あたりにたくさん録音されレコード商品化されたそれらのことが、かなり好きだったのだ。ぼくがそれらのレコードを買ったのは1980年代前半だけど、まだまだたくさんあった。でもたぶんもはやブームは過ぎていた。いつも遅れているぼく…。その後はジャズ・ファン、ジャズ評論からも相手にされなくなり、みんなの記憶の彼方へと消し飛んだ。

 

かのように思えていたのだが、つい三日ほど前、2019年の四月頭に Spotify をブラブラしていてスウィート・エマのアルバムを三枚ほど発見したのだ。ぼくが一番好きだったレコードがいちばん上で写真を掲げた『スウィート・エマ・アンド・ハー・ディキシーランド・ボーイズ』で、印象的な馬車のジャケット。Spotify のだとジャケットもアルバム題も違っているけれど、上でリンクしたのが同じもの。

 

このジャケットの印象そのまんまの楽しく、にぎやかで、しかも清廉なジャズ・サウンドが漂っているし、ぼくはホ〜ント大好きだったなあ、このレコード。Spotify にあったから、と思って CD を探したら、見つかったんだよね。2 in 1の二枚組、だから 4 in 2 か、オリジナル・アルバムの計四枚が二枚組でくっついているという好かない仕様だけど、ないよりは百倍マシだ。それがこれ。

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スウィート・エマは、もちろんニュー・オーリンズの、ピアニスト&ヴォーカリストで、このレコードが1961年のものということは、1897年生まれだから64歳…、って、あれっ、あんがいまだ若かったんじゃないか。古老ということばが似合わない歳だなあ。

 

そして実際、スウィート・エマのピアノも声も若いんだ。やっぱりおばあちゃん声だねと言われたらたしかにそうなんだけど、味があっていいよ〜。けっこう卑猥な歌もやっているしね。大学生のころ、そんなエッチな部分についてはまったくわかっていなかった。だいたい「わたしのジェリー・ロールはだれにもちっともあげないわ」なんて、なんのことやら「?」マークだったもんなあ〜。

 

音楽のスタイルは完璧なニュー・オーリンズ・フォームで、19世紀から20世紀への転換点ごろに当地で盛んだったであろうジャズ・ミュージックの姿を、ニュー・オーリンズ・リヴァイヴァルで録音したひとたちはわりとよく再現している。というか、彼らのレコードでしか当時のジャズの姿を音ではわからない。ジェリー・ロール・モートンでもキング・オリヴァーでもルイ・アームストロングでもわからないんだよね。

 

スウィート・エマは、大学生のころにどれかのライナーノーツで読んだ文章の記憶が正しければ、身体にジャラジャラいっぱい鳴り物をくっつけて、ピアノを弾いて歌うとき身体をゆすってそれらを鳴らしながらやるんだそうだ。レコード(や CD、配信)で聴いてもそのへんは判然としない。

 

ともあれ、大好きだった馬車ジャケのスウィート・エマのレコードに、CD や配信でだけど再会できて、ぼくはとってもうれしく、いい気分。流れてくる音楽のこの雰囲気にしばらくひたって、1980年代前半当時の大学生としても相当珍奇で物好きなジャズ・レコード買い青年だったろう自身の回顧に身をゆだねておこう。

 

いやあ、うれしかった。スウィート・エマ、なつかしかった。

2019/04/26

サウロ・ドゥアルチとの出会い

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これは2019年版ジルベルト・ジルみたいなもんかな(って、ジルも現役だけど)、ブラジルのサウロ・ドゥアルチの新作『アヴァンチ・デリーリオ』。ファンキーなサンバ・ソウルとか、そんなようなもんだと思うんだけどね。CD の裏ジャケットには2019の文字があるけれど、2018年発表作なのかもしれない。それはでもたいしたことじゃない。

 

サウロ・ドゥアルチってぼくはぜんぜん知らなかったんだけど、MPB のシンガー・ソングライターみたいな存在とされているらしい。そんでもって出身がブラジル北部のパラ州とのことで、そう言われたらたしかに『アヴァンチ・デリーリオ』でもリズム・アプローチが多彩で、しかも深い。そんでもってそれをこれみよがしに前面に出さないのも好感度大だ。

 

リズムというと『アヴァンチ・デリーリオ』には(主に)ドラムスでクルミンがゲスト参加している。ドラムスを叩くだけでなく曲のプロデュースをしたりサウロと共同で曲を書いたりもしていて、貢献度は高いみたいだね。ドラムス担当じゃない、たとえば9曲目「Tropa de Meninxs」なんかでも大活躍。これは実験的先端前衛ナンバーみたいなもんかな。

 

でもそういったものは『アヴァンチ・デリーリオ』では唯一の例外で、ほかはわかりやすくノリやすいダンサブルなサンバ・ソウル、サンバ・ファンクが並んでいる。やわらかい質感でおだやかであたたかい音楽なんだなあ。こりゃあいいよ。アルバム中随所でクラリネットがフィーチャーされているのも、伝統的なようでいてモダンにも響く(たとえば、アルバムの白眉である7曲目「Estrela D'Água」)。ジャズ・フュージョンっぽいのもある(ラスト11曲目の「Avante Delílio」)。

 

ソングライティング(全曲サウロ自作)やメロディ・ラインもメロウだし、耳あたりがよく心地いい。聴いていて障るものがなにもないんだよねえ。トータルで37分間という長さもちょうどいいし、オーセンティックなサンバ・フィールを持ちつつ最先端 MPB でもあるっていう、オススメですね、サウロ・ドゥアルチの『アヴァンチ・デリーリオ』。これも今年のベスト作候補になりそうで、2019年もやっぱりブラジルは充実しているね。

2019/04/25

暖かくなってきたのでズーク快作を 〜 タニヤ・サン・ヴァル

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本題と関係ない話から入りますが、アルファベットの人名でハイフンが入るのをカタカナ表記する際、それをダブル・ハイフンで置き換える表記には大反対です。みなさんやっていらっしゃいますけれども、ダブル・ハイフンは数学等号と区別できません。等号ですよ等号、みなさんがお使いになっているのは。左と右が同じ、っていう意味ですよ。ガブリエル・ガルシア・マルケスみたいに原語でハイフンないのにカナでは等号入ったりして、ワケわかりません。三語の名前だと自動的に入るのでしょうか?

 

まあいい。そんなわけでタニヤ・サン・ヴァル。グアドループのズーク歌手で、2016年の『ヴォワイヤージュ』二枚組が快作だったよねえ。これは一枚それぞれ約30分程度なんで、長さだけなら CD 一枚に収録することもできた。それをせず、CD1を「ソレイユ」、CD2を「ルーヌ」と題し、ジャケットも表と裏で変えて、あえて分けているという音楽性の違いはたしかにあるなあ。

 

Spotify アプリで見るジャケットは、その表と裏を合体させたもので、これじゃあちょっと…、と思うんだけど、まあしょうがないんだろうね。CD1の太陽篇はわりとストレートなズークで、ダンス・ミュージックとしてのこの音楽にそのまま焦点を当てたような一直線。これはもちろん楽しい。わりとアッパーなズークが続く印象で、CD1ラストの「Sans Rides」だけがやや落ち着いたしっとり路線かなと思う。

 

どうしてマーティン・ルーサー・キングの有名な演説を挿入してあるのかぼくにはわからない3曲目を含め、タニヤのこの CD1の太陽篇でもわかるけれど、ぼくにとってズークのダンス・ミュージックとしての魅力はタイコにある。タニヤのこれのばあい、打ち込みと生演奏ドラミングを混ぜてあるかなと思うんだけど、特にベース・ドラムのずんずんお腹に来るビート感、これが大好き。

 

いっぽう月篇の CD2はもっとぐっと落ち着いたフィーリングで、ダンスというより歌と演奏を聴かせるような、そんなジャジーな歌謡性をも帯びている。それでも1曲目はやっぱりダンス・ズークかなと思うけど、2曲目「Assis Dans Le Noir」で雰囲気がチェンジするよねえ。曲題どおりというべきか、夜の暗さを感じさせるジャジーさで、しっとりと落ち着いている。タニヤもそんな歌いかたをしている。背後でパーカッション群はかなり細かく刻んでいるけどね。

 

ちょっと驚くのは4曲目「Vini Fou」と5曲目「Mwen Sé Taw」だ。コンテンポラリー R&B みたいなジャズ・ナンバーで、前者ではいきなりハーマン・ミュート・トランペットの音でイントロが創られているし、その後サックスとの合奏になって、次いで本編の歌が出るという具合。そうなってからのリズムも、まるで『アマンドラ』のころのマイルズ・デイヴィスの音楽みたいだ。

 

それはブラック・ジャズ・フュージョンみたいな5曲目でもそうで、これは完璧なバラード。夜の雰囲気で、どこもダンサブルでないズーク。深夜の都会のクラブかどっかでしっぽり決めてくつろいでいるみたいな、そんな雰囲気横溢だよなあ。でもドラマー&パーカッショニストはやっぱりポリリズミックに刻んでいる。シンセサイザーもギターもベースもジャジーだ。これはいいなあ。

 

6曲目「Papillion Ka」なんか、まるでジャコ・パストリアスがやっているみたいな曲だし(出だしのエレベ)、このタニヤ・サン・ヴァルの2016年作『ヴォワイヤージュ』CD2の「ルーヌ」、けっこうなお気に入りなのだ。陽気な CD1とあわせ、暖かくなってきたいまの時期の春とこれからの夏にかけて、またどんどん聴こうっと。

2019/04/24

CD を持っていたって、あなたは音楽を持っているんじゃない

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ぼくも書籍や洋服などと同じようにレコードや CD を買って持っていると、あたかも音楽を「所有して」いるかのような気持ちになっている人間で、ああ、この(CD で聴ける)音楽はいいな、ぼくはそれを自分のものとして持っているんだなと感じていい気分にひたっているから、それをどんどん増やしたいという、そんな傾向があるのは間違いない。

 

でもレコードや CD を持っていて聴けているというのは、はたして音楽を所有しているということになるのだろうか?っていうのは、そもそも音楽って「持つ」ことのできるものなのだろうか?という根源的疑問がぼくにはある。音楽を持つ、所有するって、いったいなんのことだろう?ディスクという物体を持つ持たないならわかる。でも、音楽=ディスクじゃないんだからねえ。

 

つまり、音楽とは得体の知れないものだ。そこにあるとかどこにあるかもわからない。ディスクをプレイヤーに入れて再生ボタンを押しても、必ず流れくるとは限らないのが音楽。物体などなにもなくともしっかり聴こえて強い忘れえぬ印象を心に刻み込んだりもするのが音楽。

 

じゃあぼくたちが音楽と呼んでいるものは、物体形式で可視化できて所有できるものなのか否か、わからなくなってくるよねえ。根本的に、音楽は空気の振動だから、目には見えない。所有することなどもできない。ただ、なにかのきっかけで耳に入り鼓膜を震わせるだけだ。だけといっても、それが鮮烈なものなんだけど。

 

声は喉の振動で、楽器音もなんらかの振動かな、それが空気中に出ても(エレキ・ギターやシンセサイザーなどのように)出なくても電気信号化されたものを拾って記録する。レコードだと物理的な溝の形態で、CD なら光学信号として。それをふたたび電気装置を用いて再生し、最終的にはやはりスピーカーなりヘッドフォンなりで振動化して、耳に聴こえるものとなる。

 

こんなプロセスだからさ、音楽って。それら一切合切ひっくるめて音楽だから、「所有する、している」って、やっぱりなんのことだかわかんないよね。レコードや CD はあくまで販売される商品に音楽を収納しているだけで、それを買って自宅に持っていても、「音楽を持っている」とは言えないんじゃないかな。

 

ディスク形態で持っていても音楽を持っているわけじゃない、と言うと、じゃあネットで聴く、ダウンローディッド・ファイルで聴くのも同じことじゃんね、CD にこだわることはないじゃんね、という意味のことを言いたいんだなと思われそうだけど、ぼくの本意は違う。ぼくは CD がほしい。買って持っていたいんだ。

 

でも、CD を買って持っていてちゃんと聴けていても、だからそれで音楽の所有権を買ったのだ、持っているのだ、自分のものだ、とは決して思わないことにしている。音楽に限らずどんな芸能・芸術だって、創り手をも超えていく。いったん世に出たら、それは製作者、創造者のものですらない。というか、音楽の創造とは個人や集団の手になるものだと言えるのか。

 

そんなようなものを、ましてや音楽のパフォーマー自身でもないぼくが「持っている」「所有している」などとは、おそろしくて到底言えないわけなんだよね。ぼくは音楽の所有権じゃなく、この世にいるあいだだけのいっときの利用権にお金を払っているだけだ。音楽は永遠に生き続ける。ぼくはそのうち死ぬ。

2019/04/23

屈折した究極のナット・キング・コール

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2019年3月17日の誕生日に故ナット・キング・コールの生誕100周年を記念して発売されたアルバムが、もう一枚ある。キャピトルの『アルティミット・ナット・キング・コール』。必要がないから CD は買わなかったが、これはオール・タイム・ベストみたいなもんかな。きっちり一時間でナットのキャリア全体を概観しようという入門向けの内容だろうと思う。

 

1940年代のトリオ時代から、グレゴリー・ポーターがヴァーチャル共演した「イパネマの娘」まで全21曲、まんべんなくヒット曲、代表曲が収録されていると思える内容で、昨日書いたラテン・アルバムからも二曲、「キサス、キサス、キサス」と「ペルフィディア」が入っている。ナット・キング・コールがどういう歌手だったのか、2019年にはじめてちょっと覗いてみたいというみなさんには格好のアルバムかも。

 

しかしナット・キング・コールがどういう歌手だったのかということは、実はあんがい複雑なのだ。それはこのアルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』でもはっきり表れている、というかそういった側面をあぶりださんとして編纂された一枚かもしれないとすら思うほど。もっと言えば、ナットとはだいたいがそんな歌手だったので、ベスト盤を編めば必然的にそうなるということか。

 

それはなにかというと、ナット・キング・コールの歌には、失った愛、手に入らない愛を想い、しかし決して悲嘆にくれるばかりではなく、前向きに(?)がんばって妄想してみよう、そのつもりになってみよう、そうすれば楽しく幸せな気分になれるじゃないか、つらいときこそ笑って!というものが実に多いということだ。もうホントそればかりと言いたいくらい。

 

歌詞のわかるかたは『アルティミット・ナット・キング・コール』をお聴きになって、あるいはトラックリストを一瞥して、このことを理解なさるはず。たとえば「スターダスト」や「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」といった超有名スタンダードも、メロディがあまりにも美しいがために忘れられがちだけど、失恋や未恋を歌った内容なんだよね。それをきれいにきれいに、昇華しているような歌だ。

 

ナット・キング・コールはそういった内容の、ちょっとストレートなラヴ・ソングではないような心模様をあつかって、スムースでナチュラルな、ノン・ヴィヴラートのナチュラル発声で、あくまでどこまでもきれいにきれいに歌いこんでいるじゃないか。肌(耳)ざわりがまるでサテンをまとうかのごとき心地いいサラリ感だから、なかに秘めた悲哀はなかなか伝わりにくい。あたかもおだやかに微笑んでいるかのようだ。

 

でも、最近、57歳のぼくは思う。人生ってそんなもんだなあってさ。つらいこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、それで落ち込んでばかりいるわけじゃない。好きな彼女がぼくに恋しているようなつもりになって、つまりブルーなときもプリテンド、夢想・妄想して、それで楽しくハッピーになれるじゃないか、つらいときも笑って生きていけるっていうもんだ 〜〜 こんなようなことをナット・キング・コールは語りかけてくれているようだ。

 

まずピアノ・トリオ編成で音楽活動をはじめたナット・コール。1930年代末だったからちょうどビッグ・バンド全盛期だ。そんなシーンに一矢放たんとしてのちょっと違った感じのレギュラー・トリオ編成意図だったとまでは言えないかもしれないが、当時新鮮なサウンドだったことは間違いない。当初、ナットは歌う気はなく、リクエストされてもノーだった。あくまでピアニストとしてやっていくつもりだった。

 

それがひょんなきっかけで歌ってみたら大評判。歌手として大成功し、次第にトリオの名義はそのままに大規模管弦楽を伴奏にスタンド・マイクで歌うようになり、しかし時代は徐々にビッグ・バンドから離れていった時代だったけれど、このへんの交差するいきさつを考えると、これまたなかなか興味深いものがあるよねえ。

 

しかし、アルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』で聴いてもわかることだけど、初期のトリオ録音でのちょっぴりジャイヴ感覚を残したヴォーカルと、その後のオーケストラ伴奏でのポップ・ヴォーカルとで、さほどの違いはないじゃないか。キャピトル盤だから収録できないその前のデッカ時代から実はそうなんだけど、ナットのヴォーカルはなにも変わっていない。スムースでナチュラルで、上品でエレガント。ちょっとストレートじゃない屈折した恋愛歌の内容だって同じなんだよね。

 

ここにも収録されているが、「スターダスト」はメタ・ソング、「モナ・リーサ」もメタ・アートだという内容を書く余裕がなくなっちゃったな。

2019/04/22

ナット・キング・コールのラテン集はフィーリン・アルバム?

4589605035069http://elsurrecords.com/2019/03/17/nat-king-cole-latin-american-tour-with-king-cole/

 

https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7GlR8e592Xomud4vjHrN9h?si=fvh4P46ORDGYulbEq80yOw

 

今2019年はナット・キング・コール生誕100周年にあたる。それで誕生日の3月17日にテイクオフ/オフィス・サンビーニャから一枚リリースされた。『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』。大のナット・コール好きでラテン・ソングズも好きというぼくみたいな人間にとってはもってこいの企画盤だ。ナットのラテン曲集アルバム三枚については、以前詳述した。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-be41.html

 

それで、ずっと前、デッカ時代とかキャピトル初期とか、ナット・キング・コールといえばそのへんのピアノ・トリオ作品で決まりだという趣旨の記事をアップロードしたらコメントがついて、「えっ?そうなのですか?ぼくたちにとっては雑音混じりのラジオから聴こえてくる 'カチート' であり…」とおっしゃるかたがいらした。ある世代以上の洋楽ファンのみなさんにとって、ナット・キング・コールのイメージとはそういったものなんだそう。

 

そう言われれば、たしかに「ネイチャー・ボーイ」や「モナ・リーサ」「トゥー・ヤング」「枯葉」などが歌手としてのナット・キング・コールを象徴する大ヒットだし、そんなスーパー・スターであるナットが歌ったラテン・ナンバーを耳にして、特に「カチート」あたりかな、そういうのでラテン音楽ファンになったという年配の洋楽好きのかたがたがいらっしゃるのは当然と思う。

 

だから、そんな「カチート」がテイクオフ/オフィス・サンビーニャ盤『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』で幕開けに置かれているのは当然かな。それ以後も三枚のラテン集からまんべんなく選ばれていて、選曲と並び順は解説をお書きのラテン専門家、竹村淳さんかな?と思うんだけど、全35曲あるうちからオミットした五曲はそれなりの理由のあるものだし、一枚通してとてもよくできているし、『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』はナットのラテンを聴くのにこれ以上ない格好盤だなあ。

 

このアルバムには一曲だけ歌のないインストルメンタル演奏が含まれていて(ナットはもちろんピアノ)、11曲目の「わが情熱のあなた」(Tú, Mi Delirio)。これはセサール・ポルティージョ・デ・ラ・ルスの書いたフィーリン楽曲なんだよね。ナットのは1958年のレコードだけど、キューバ本国ではもちろんとっくにフィーリン・ブームだったとはいえ、アメリカ合衆国でその時点でフィーリンをやったというのはかなり興味深い。

 

むろん、選曲はナット自身というよりもマネイジャー含めキャピトルのスタッフがやったに違いないわけで(そもそもラテン・アルバムを創ろうというのだって、マネイジャーの持ち込んだアイデアだった)、ナットはそれにしたがって演唱しただけとはいえ、それでも結果として、1958年にナットがフィーリンをやっているというのは考えさせられるところがある。

 

っていうのはさ、ナット・キング・コールってあんなやわらかくソフトで軽くそっとささやくように置くようにていねいに歌うクルーナー・タイプでしょ。キューバでフィーリンの第一人者とされるホセ・アントニオ・メンデスはそもそもナットの大ファンで、ナットみたいに歌いたいと思って、結果、フィーリン・ヴォーカルを編み出した。

 

そんなナットがメキシコやキューバ(その他中南米各国の)のラテン楽曲をとりあげて、ホセ・アントニオもあこがれたようなフィーリン先駆けヴォイスでやわらかくやさしく歌ったわけだから、ナット・キング・コールのラテン・アルバムというのは、ある意味フィーリン集とも言える側面があるなあとぼくだったら思うわけ。

 

そういえば、今日話題にしている『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』には、エル・スール原田さんがフィーリン・アンソロジー『フィーリンを感じて』のなかに選び入れた「ペルフィディア」が22曲目にある。それだけじゃない。20曲目に「アレリのつぼみ」(Capullito De Alhelí、プエルト・リコ)、28曲目に「ラ・ゴロンドリーナ」(La Golondrina、メキシコ)がある。二曲ともカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』で歌ったものだ。

 

ナット・キング・コールからホセ・アントニオを経てカエターノへ、そんなフィーリン人脈というか系譜まで想像できてしまうのは、ぼくの妄想が過ぎるという面もあるだろうけれども、ナット・キング・コールのこんな声質と歌いかたでこういったラテン・ソング集を聴くならば、あながち外しすぎとも言いにくいのかもよ。

2019/04/21

どうしてこんなにカッコイイんだぁ!ソナ・ジョバーテ!(二回目)

600x600bfhttps://open.spotify.com/album/7h7MgG54nO4RvaPj01CEX6?si=PESdrNZNQzi4ub8-6dejfg

 

一回目はこれ http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-bed0.html

 

大切なことだから、二回言う。ソナ・ジョバーテがカッコイイ。カッコよすぎるだろう。このグリオの末裔らしいガンビア系ロンドナー、コラを弾きながら歌うのだが、そしてソロ・アルバム『ファジーヤ』ではギターやベースなど各種弦楽器も多重録音でこなしているが、すべてがカッコイイ。さわやかで、しかもあったかい。こんな音楽、なかなかないんだよ。

 

しかし一回目に書いた際の反応が皆無だった。日本でソナ・ジョバーテに最も注目されているのは D さん(@Desert_Jazz さん)で、たとえばこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23506233/

 

あるいはこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23767854/

 

だけど、ぼくの目にとまった範囲でソナのことを書いているのは、CD を売っているエル・スールの原田さんと D さんとぼくだけ(あと一人か二人いるらしい)。こ〜んなにすばらしい音楽はないっていうのに!だから、一度強調したけれど、大切なことだからもう一回、中身は同じだけど書いとこうって思うわけ。みんな〜、ソナ・ジョバーテに耳を傾けてくれないか。カ〜ッコイイんだぜ〜!

 

2011年の『ファジーヤ』がいまのところ唯一のソロ・アルバムだけど、ぼくが気づいて買って聴いたのは昨2018年のことだった。そして、考えられないことにその年のベストテン新作篇に選ばなかった。これはいま考えたらありえないことだった。しかしソナの『ファジーヤ』は一回聴いていいぞと思えるものの、時間とともにどんどん熟成度を増し、作品のすばらしさ、特にコラ演奏のものすごさが徐々に身に沁みてわかってくる、そしてとうとうソナのことを忘れられなくなるっていう、そんなアルバムじゃないかと思うんだ。だから許してください。現時点で2018年のベストテンを選ぶならば、ソナの『ファジーヤ』は上位です。

 

コラ演奏の技術がものすごいと書いたけれど、『ファジーヤ』でもアップ・ビートの効いたグルーヴァーである、たとえば1、4、5、7曲目でもそれは本当によくわかると思う。コラでここまでのスピーディで爽快な疾走感を持つグルーヴを表現できる人物って、ソナのほかにいるんだろうか?コラ・ソロも随所で入るが、カッコよすぎて呆然としてしまう。あっけにとられて、しばし我を見失うほど、颯爽でカッコイイ。しかもめくるめくように幻惑的。でありかつ猛烈にグルーヴィ。そんなコラ演奏だ。

 

ソナのコラ演奏は、ゆったりめの曲でもすばらしくて、たとえば2、8、9曲目など。ホント、こんなふうにコラを弾ける人物がほかにいるのかよ?いないだろう、ソナが世界ナンバー・ワンじゃないか。しかもコラと聞いて多くのアフリカ音楽ファンのみなさんが想像するかもしれない世界じゃない。ソナのコラ演奏は高度に洗練されていて、アフロ・ブリティッシュな都会派ポップ・ミュージックのなかで最大の有機体として機能している。

 

ガンビア系ロンドナー、ソナ・ジョバーテの『ファジーヤ』。2011年作だけど、近年稀に見るアフロ・ポップの傑作だと思うんだ。だから、二回目だけど、やはり強調しておいた。お時間とお気持ちがおありのかたは、ぜひどうぞ!

2019/04/20

bunboni さんのおかげで、すっかり Spotify 漬けになっています

Fullsizeoutput_1e86https://open.spotify.com/album/7F0sWIdJ5ePAGrHskpLcte?si=Bd5bUx2kSm-r-fu31n0zBw

 

今日は2019年4月19日ですけど、今日付で更新された bunboni さんのブログでとりあげられているデデ・サン・プリ(マルチニーク)の新作も CD は見つかりません。速攻で Spotify で探したらありましたのでそのまま save。そしていま聴いています。楽しいですねえ。たしかに傑作だとぼくも確信できる内容です。が、しかし CD は買えないんです、すぐにはね。Spotify でならすぐに見つかってそのままぜんぶ聴けます。

 

実にこんなことばかりなもんで(最近ならミジコペイもピポ・ジェルトルードもエムドゥ・モクタールも)、だからぼくは bunboni さんのブログのおかげですっかり Spotify 人間になりました。bunboni さんがブログで書く→ぼく、CD さがすけど、ない→Spotify で瞬時に見つかる→そのまま Spotify でくりかえし聴く、このパターンのなんと多いことでしょう。というかこればっかり。after you を読んでいれば必然的に Spotify 人間になるでしょうよ、そりゃあ。

 

bunboni さんがブログでとりあげられる音楽アルバムは、ものによっては探せば瞬時に CD が見つかるばあいもわりとあるんです。bunboni さんご自身、日本の街の CD ショップ(など)でお買いになったものだから、ということなのかもしれないですね。そう推測できます。がしかし、大半はすぐには買えないんです。日本で通販商売をしている CD ショップのどこにもないというもののほうが多いんですね。

 

Spotify とか Apple Music とかこの手のサーヴィスがはじまる前なら、みなさんもぼくも after you の読者は悔しい思いをしてそのままチキショ〜!と心で叫びその場はあきらめて、どこかのお店(セレクト・ショップ?)が入れてくれるのをひたすら待つ、ということしかできなかったと思います。10年も続けていらっしゃるブログだそうですから、読者にとってはそんな時代が長かったのかもしれませんね。

 

ですが!もう時代は変わりました。ぼくの嫌いなことばを使えば「進化」したんです。ストリーミング・サーヴィスが開始され、ネットで定額制で聴き放題できるということになり、しかも、ぼくは Spotify メインだからその話になりますが、この世で流通している音楽商品のほぼだいたいぜんぶが Spotify で聴けるというような、うれしい時代になりました。

 

この時代の変化を得て、bunboni ブログ after you の読みかた、利用方法も「進化」したと思います。上で書いたように、CD は見つからずとも Spotify でそのまま聴ける、after you で読んだ次の瞬間にそのまま速攻でアルバムのすべてが Spotify で聴ける、ということになっているんです。

 

以前から書いていますように、ぼくはなんだかんだ言ってまだまだ CD 買いたい派なんで、すぐには見つからなくとも根気強く待ち、探し続けて、結局は買っています。今日知って聴いたデデ・サン・プリの『Mi Bagay La』もマジでいいので、いまは見つけられないけれど、日本に入ってくれば間違いなく買うと思います。

 

多くのみなさんのばあい、そうやって待って、after you で紹介されていてすぐには買えなくても待つ、ということなのかもしれないですね。ぼくはそのへんがダメ人間でこらえ性がないというか、読んでオモシロソ〜〜っ!と思ったらその場で即聴きたいんですね。すくなくともその日のうちに CD 購入のボタンをクリックしたい。そうじゃないとイヤ。

 

でも CD はない。そういう場合が多いです、after you で紹介されているアルバムはですね。待てない人間であるぼくは、だから Spotify で検索して、すると九割がたは見つかりますからね。で、そのまま聴くんですよ。さいわいというかさすがというか、bunboni さんの紹介なさっている音楽は、ほぼどれもおもしろく楽しいです。

 

おもしろく楽しいと感じる、そんな体験を、after you を読んで即そのまま Spotify でぼくはしているわけなんですね。すぐに CD は買えないけれどすぐに Spotify で聴けるという状況ですから、九割がた以上はですね。皮肉なことです、bunboni さんはあそこまでフィジカルのあるなしにこだわっていらっしゃる音楽愛好家なのに、おかげで、すっかりぼくは Spotify 愛用者になりました。

 

それはそうと、デデ・サン・プリの『Mi Bagay La』、マジですんごくいいですよ。楽しいです。日本は、というかこちら愛媛県地方は完全に春になり、もはや夏も予見できるほどの日差しがふりそそぐ暑さになってきましたから、ちょうどいまピッタリの音楽で、文句なしです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19

2019/04/19

現役ジャズ・メンはやはりすごい 〜 Dr. ロニー・スミス篇

Mi0004362149_1https://open.spotify.com/album/0anjMU3ensntiJOq3SCjij?si=5pKElF1jRoyouGnnq5ADWw

 

完全に見逃していたドクター・ロニー・スミスの2018年新作『オール・イン・マイ・マインド』。今年三月、気が付いたのは、ブルー・ノート・レーベル公式配信プレイリスト「Dr. ロニー・スミス:ザ・ファイネスト」を聴いたから。ロニー・スミスのベスト盤みたいなもの。ふつうにカッコイイよねと思いながらお風呂で流していたら、ラストに来て耳慣れないのが聴こえてきた。ポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」だったのだ。

 

そ〜れがすんばらしくて!、この曲をロニー・スミスやってんだ、どのアルバム?と思ってクリックしたら2018年リリースの最新作『オール・イン・マイ・マインド』が出てきたというわけ。あわてて CD 買いましたよ〜。これはライヴ・アルバムで、ニュー・ヨーク・シティでの収録。パフォーマンスの年月日は記載なし。いやあ、こりゃあなかなかの快作だ。現役ミュージシャンのことは常にチェックしておかないといけないなあと反省。

 

Dr. ロニー・スミスの『オール・イン・マイ・マインド』アルバム全体では、書いたようにポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」が異様にすごいし、ブルー・ノート公式だってこれをベスト盤的プレイリストに選んでいるんだからやはり同様の考えなんだろう。そのほか、なんでもないメインストリームなオルガン・ジャズも混じっているが、そうじゃない1曲目「ジュジュ」、5「アルハンブラ」、6「オール・イン・マイ・マインド」あたりが聴きものだ。

 

パーソネルは、ロニー・スミス(キーボードのほうが先に書いてある)、ジョナサン・クライスバーグのギター、ジョナサン・ブレイクのドラムスという典型的オルガン・トリオ。ロニーはヴォーカルもこなし、また3曲目でだけドラマーがジョー・ダイスンに交代。6曲目でゲスト参加の女性歌手、アリシア・オラトゥージャ。

 

1「ジュジュ」は、かのウェイン・ショーター・ナンバー。ロニー・スミスはポリリズミックなアレンジを施してあって、ドラマーの叩きかたがおもしろいのでかなり聴ける。実際、この曲での主役はジョナサン・ブレイクだね。オルガンのあとドラムス・ソロも出るのが聴きものだけど、ギターやオルガンの背後でも大活躍している。ソロのあとで、スネアのリム・ショットにダブふうなエコー処理が施してあるのもいい。おもしろいけど、ひょっとしたらスタジオでの音加工とかじゃなかった可能性があるかも?

 

3「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」をどうしてロニー・スミスが選曲したのかわからないが、アレンジは全曲ロニー本人との記載はあれど、この曲にかんしてはポール・サイモンの1974年オリジナルにほぼ忠実。それはスティーヴ・ガッドのドラミングをフィーチャーしていたが、そのパターンをジョー・ダイスンもそのまま踏襲している。

 

がしかし大きく異なるのがギター・ソロだ。このロニー・スミス・ヴァージョンでの最大の聴きどころがジョナサン・クライスバーグの饒舌なギター・ソロなんだよね。うまいのひとこと。しかもソロ後半でパッとエフェクターのフット・スウィッチを踏んで音色を飾り、まるでスティール・パンみたいな音色で弾きまくるパートなんか、サブイボ出そうなほどすばらしい。

 

5「アルハンブラ」(ロニー自作)は、曲題に反しアンダルシアふうなところはまったくないジャズ・ファンク。でもカッコイイぞ。疑問なのは冒頭でハーマン・ミュートをつけたトランペットの音(に間違いない)がしばらくプレリュードふうに聴こえるんだけど、トランペッターが参加している様子はないので、サンプリングしたものをロニーが弾いているのかなあ、たぶん。

 

女性ヴォーカリストをフィーチャーした6「オール・イン・マイ・マインド」(ロニー自作)は、ちょうどコンテンポラリー R&B みたいで、ダウナーでブルー。エラ・メイとか、あのへんのサウンドと歌にとても近い。歌っているアリシア・オラトゥージャってぼくは知らないんだけど、アレンジとサウンド・メイクをやったのは Dr. ロニー・スミスなんだろうからね〜。

2019/04/18

バラディアーとしてのアンガーム2019は完璧なる宝石

Fullsizeoutput_1e77https://open.spotify.com/album/05enmrBRGHjSeAzjSvh64M?si=TBvK3Y5VReG1m_ua06_RAQ

 

はぁ〜、なんだこれは。エジプトの歌手アンガームの2019年(2月20日リリース)作『Hala Khasa Gedan』がとんでもない大傑作じゃないか。あまりにもすばらしすぎる。これはポップ・バラード・アルバムなんだけど、9、10曲目なんか、どこからどう聴いてもなにからなにまで100%完璧だとしか思えない美しさ。ため息しか出ず、ことばがない。アラブ伝統色も濃いという点では2018年作と同傾向だけど、でありながら同時に2019年作は全世界で通用する普遍のポップネスをも獲得。そして、生の人力楽器演奏の比率はさらに上がっているはず。ひょっとしたらぜんぶ人力かも。

 

いやあ〜、しかしこんなにも美しいアラブ・ポップスがいままでにあっただろうか。いや、アラブと限定することはない、あらゆる音楽のなかでも、こうまですばらしい作品にはなかなか出逢えるもんじゃないと思うよ。完璧なる玉じゃないか。アンガームの最高の円熟、絶頂をここに聴く思いで、ホ〜ントため息しか出ないんだ。ホント、ホント〜に、この2019年作はきれいだ。特に9〜14曲目の六曲の流れは、いや、全体が、はぁ〜、なにこれ!こんな綺麗な音楽、聴いたことないよ。

 

9曲目が個人的にはこの2019年作の白眉なんだけど、このちょっと軽いラテン・リズムの効いたバラードは、プロデュース、曲創り、伴奏アレンジとその演奏、主役歌手のヴォーカル・パフォーマンスのどれをとっても100%完璧だ。適切な湿度のこもった情緒とリリカルさを持っていて、しかも重たくなりすぎず軽快なふんわりさをもまとっている。特にこのリズムだなあ、それとそれに乗せてアンガームがたたみかける歌いまわしの切なさにゾッコン参ってしまう。もう、とろけそうだ。コーラスで進む部分はアンガームのひとり多重録音の可能性があると思う。

 

しかもこの9曲目は、アラブ・ローカル色がちょうどいい感じでユニヴァーサルなポップネスに昇華されていて、楽器はウードなども使うものの、楽想は普遍的なものだ。アンガーム自身もアラブ古典歌謡のコブシまわしを駆使しつつ世界に通用するチャーミングさをふりまいているじゃないか。さらに、キュートさよりも大人の女性の落ち着き、しっとりさ、切なさを聴かせているよなあ。

 

9曲目以前も以後も、たまらない美しさ。どうしてここまで美しいのか。曲もオーケストラも歌手も、みんながあまりにもきれいすぎて、ウットリ聴き惚れて、聴いているあいだ、ほかのことができない。ただただ Spotify アプリで表示されるジャケ写とトラックリストをジッと見つめたまま身じろぎもせず指一本動かせず、ただボ〜ッとしながら耳はアンガームの音楽だけに集中しているんだ。

 

こんな体験は滅多にないことなんだよなあ。アンガームの2019年作『Hala Khasa Gedan』が見事に完璧な宝石すぎて、ここまでの美しさを放っている音楽なんてこの世にほかにはないだろうと思うと、うれしいけれど気持ちが平常や冷静を保てず、このまま、アンガームのこのアルバムを聴きながらそのまま、いっそ死んでしまいたいとすら思う。

 

いま円熟の極致にあるエジプト人歌手アンガームの至高の完成美、それが2019年作『Hala Khasa Gedan』だ。ぼくの人生57年、ここまで美しい音楽には出逢ったことがない。このまま溶けてしまいたい。

 


حالة خاصة جدا

2019/04/17

円熟のアンガーム2018がいいね 〜 特にリズム

Fullsizeoutput_1e78https://open.spotify.com/album/2TjMUXHMejsedEFVoKXuX2?si=fkSk9VjFQMGpIIRkEk-MZw

 

エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 は、ずばり、ハリージ・アルバムだね。ハリージとは近年の(クウェートなど)ペルシャ湾岸地域で盛んなダンス・ミュージックのこと。パーカッション類をがちゃがちゃと多用し、リズムがヨレて突っかかり引っかかるような独特のノリを持っているところが特徴。アンガームはそんな音楽に挑戦した。

 

だから2018年作はローカルもローカル、全面的にアラブの一色に染まっているわけ。国籍不問のユニヴァーサル・ポップスを歌っていたアンガームの姿はここにないが、しかしこの歌手が本来的に持っているアラブ古典歌謡の素養がフルに発揮され(ここまでアラブ色の濃い作品は、いままでのアンガームになかったのでは?)、結果、見事な結果につながっているとぼくは聴く。すばらしいアルバムじゃないかな。

 

出だしの1曲目からパーカッション類の独特の使いかたやそのリズムで、これはハリージだなとわかる。サウンドやリズムをプロデュース、アレンジしたのがだれなのか、とても知りたい気持ちだが、2018年のアンガーム(といっても録音はたぶん2017年内に行われたはず)なら、みずからの意思もかなり反映されていただろうとも推測できる。

 

ハリージを歌うんだというアンガーム自身の強い意思は、なによりその声の美しさ、張り、艶、伸び伸びとしたフレイジングなど、歌唱全体に聴きとることができる。歌手として完璧に円熟期に入ったことを確信できる見事な歌いっぷりで、乗りにくいんじゃないかと素人なら思うハリージのバック・トラックの上で自在に飛翔して破綻なく、立派な歌を聴かせてくれているよね。

 

ラテンだってある。「ワン、トゥー!」の掛け声ではじまる4曲目がそう。これはサルサなんだよね。この曲はアルバム中異質な感じもちょっぴりあるので、プロデューサーなどが異なっている可能性があるように思う。わからないけれども。しかしラテン/サルサなこの一曲のなかでも、後半部からはガチャガチャしたハリージっぽいパーカッション・リズムになって、やっぱりアルバムの全体像は損なわれていない。

 

このラテン・ナンバーが終わったら、アルバムは完璧にハリージまっしぐら。エジプト人なりの、というかアンガームなりのハリージ解釈だろうから、ダンスというよりも歌謡、またリズムのヨレかたもそこそこスムースなほうに流れているようには思うけれども、それでもまごうかたなきハリージ・ミュージックの展開だ。バラードっぽい曲でも、やはり背後で複雑なリズムをパーカッション類が刻み込んで、つんのめる。

 

それなもんで、激しいダンス・ナンバーである、たとえば6曲目(はちょっぴりだけフラメンコっぽくもある)とか、8曲目(はロック的でもある)とかなどでのリズムの強いネジレとヨレ、つんのめりと突っかかりかたは本格ハリージと呼んでもいいほど。また、ハンド・クラップも多くの曲で頻用されているし、生の人力演奏の割合もかなり増しているはずだ。

 

どっちかというとダンスというよりは聴かせるバラードのほうが多いのかなと思うアンガームの2018年作だけど、そんなバラディアー傾向は、次の今2019年作につながっていく部分でもある。2018年リリース作で、どうして突如こんなハリージ傾倒を見せているのかはわからないが、結果としては歌手としての円熟を見せつける結果となっていて大成功。実際、アンガームのヴォーカルは大人らしい落ち着きを増すと同時に飛翔力をも高めている。すばらしい熟しかただ。

2019/04/16

愛しのアンガーム(2)〜 2015年作はアラブ色が濃いめ?

Fullsizeoutput_1e75https://open.spotify.com/album/0FewYz1YT2i2npZiS8QOw2?si=4dHJYKkqRRyO0J-gOKdbBA

 

エジプトの歌手アンガーム。昨日書いた2003年作『あなたと生きる』と比べ、(ここまではぼくも CD で持っている)2015年作『Ahlam Barya』ではバックのリズム・トラックも生演奏の比率が上がっているのかなと思うんだけど、この聴感上の印象は間違っていないだろうか?それからアラブのローカル色がやや濃いめに出ているようにも思う。それとユニヴァーサル・ポップスのカラーがちょうどいい感じにブレンドしていて、こりゃあいいねえ。

 

アルバム幕開けの1曲目は、カフェ?レストラン?クラブ?みたいな場所でのサウンド・エフェクトから入って雰囲気をつくったかと思うと、カーヌーンが奏でるアラブ伝統音楽の伴奏みたいなものが出て、ここだけでもオッ!こりゃいままでとは違うぞ、と思わせる。その後アンガームのヴォーカルが入ってからはユニヴァーサルなポップスにもやや近いかなと思う内容で、しかしその背後の伴奏はアラブふうだ。

 

こんなブレンド具合が、この2015年作では全編をとおし聴けると思うんだよね。ローカルすぎずユニヴァーサルすぎもしない適切な折衷の中庸具合がとてもいい。アンガームの歌いかたは、根底にアラブ古典歌謡の節まわしを持ちつつ、やはり表面的には濃ゆすぎない軽みを聴かせていて、それがこのひとのいいところだね。

 

それでも2003年作などと比較すれば、アンガームの歌もややアラブ伝統寄りかな?と思わせる部分もある。たとえば完璧な米欧ポップスみたいでフォーキーですらある2曲目でも、バック・トラックはそうでも、上に乗る歌手のフレイジングにはやや粘り気もあるように思うんだ。でもやりすぎていない適切さ、それがアンガームの美点だ。

 

アラブ・ローカル色をちょっとだけ濃いめに持つ曲と国籍不問のポップスみたいなのが、その後も交互に出てくるように思うこのアルバム、最初に書いたように、伴奏陣に生人力演奏人員の比率が上がっていると思うんだけど(楽器のチョイスもアラブ伝統にやや傾いているね)、そのせいか関係ないのか、アンガームの歌まで有機的に生き生きとしているように聴こえるのがイイネ。

 

途中ジャジーなバラードなどもはさみながら、アルバム・タイトルにもなっている7曲目は、なんと完璧なるボサ・ノーヴァ・ナンバー。伴奏はかなりな部分人力演奏だな。アンガームもさらりと軽く乗せて置くように歌っていて、ちょっぴりコブシをまわすものの大人のアッサリ感を漂わせ、こりゃあいいねえ。これ、だれが曲を書きアレンジしたんだろうなあ?プロデューサーも知りたい。いい一曲だ。アルバム・タイトルに持ってくるのはわかる。サルサっぽいラテン・テイストすらもある。

 

8曲目もリズムがラテンだし(といっても、以前からアラブ歌謡のなかにあるおなじみのパターンだけど)、そうかと思うと10曲目はこれまたアラブ伝統色がモダンな感じで活かされている。2003年作『あなたと生きる』でたっぷり聴けた打ち込みのずんずんビートを使った11曲目を経て、アルバム・ラストはしっとりバラードで、しかもちょっぴりだけジャズ・フュージョンっぽい。そこにアラブ色はないが、細やかに歌い上げるアンガームのしなやかさは絶品だ。

2019/04/15

愛しのアンガーム(1)〜 けっこうモダン R&B っぽい2003年作

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エジプトの歌手アンガーム。フィジカルが入手できないけれど、2018、19年と順調に新作が発売されていて問題なく聴けるから、それらもそのうち書くつもり。CD なくても書かずにいられないっていう充実度。アンガームはいまキャリアの絶頂期にあるんだもんね。今日は2003年の『あなたと生きる』(Omry Maak)の話。ぼくもかねてより愛聴している。ホ〜ントいい歌手だよねえ。しかも美人だ。それもぼく好み。

 

『あなたと生きる』は日本でいちばん聴かれているアンガームなんじゃないかと思う。なぜなら日本盤が出ていて、その解説文をわれらが bunboni こと荻原和也さんがお書きになっているからだ。実際、ぼくもおおいにお世話になっている。このアルバムは、モダンなエジプト/アラブ・ポップのアンガームによるひとつのブレイクスルーだったとみなしていいんだろうか。

 

『あなたと生きる』のバックトラックはかなりの部分がコンピューターで創られている。すくなくともリズム・トラックは間違いなくほぼ100%近く打ち込みで、ベースとドラムスの音が強調され、その上に乗るストリングスは生演奏なのかシンセサイザーなのか、ぼくの耳では判断できないが、やっぱちょっぴりシンセ音くさいような…。

 

アクースティック・ピアノやギターなどの音は人力の演奏者がいるんだろうね。ともかくバック・トラックが完成してからアンガームがヴォーカルを重ねるという手法で製作されたことは間違いない。リズムとサウンドには、ややラテン・ポップスやラテンふう(の影響を受けた)R&B の色が濃く、そこだけ取り出すと、エジプト/アラブのローカル色はほぼなし(7曲目を除く)。

 

アンガームの歌にしても、わりとサラリとこなしている様子に一聴すると受けとれて、そこに濃厚なあのアラブ古典歌謡のコブシまわしは聴かれない。わりと普遍的な国籍不問のポップ・シンガー然としたヴォーカル・パフォーマンスだよね。軽く声を出してアッサリ乗せているような感じがする。

 

アンガームの経歴を知ると、若い時分にアラブ古典歌謡の歌唱を学んだそうで、素養はあるんだそうだ。そう言われたら、この『あなたと生きる』でも聴けるこの軽めの歌い口のなかにも、そんな古典素養が下敷きになっているとうかがえる部分はあるね。ただ軽いだけの(アラブ・)ポップ・シンガーじゃない技術力を漂わせているとわかる。

 

ただし、できあがりだけで判断すると、打ち込みメインのモダン(でラテンな)R&B っぽい音楽に仕上げようというプロデュース意図にアンガームも沿って、あまり粘りつかずしつくこなく、濃厚さを薄めてアッサリ味の繊細さにして歌っていると言えるんじゃないかな。それがこんなバック・トラックにうまくフィットして人気を獲得できていると思う。

 

なんだかんだいってアラブ古典歌謡がやっぱり(日本で)イマイチな人気なのは、あの正攻法な濃ゆすぎる重厚なコブシまわしが敬遠されているせいじゃないかと思うから、新世代のアンガームがこんな方向性を取っていたのは大正解だったんじゃないかと思うんだ。

 

アルバム『あなたと生きる』では、また、たとえば6曲目はしっとりバラード(コントラバスの音から出る)で、軽くジャジーなボサ・ノーヴァの香りすら漂っていたりもするし、8曲目もちょっぴりだけジャズ R&B・バラードふうで、11曲目はワルツ。どれにしても完璧にアンガームはこなしている。

2019/04/14

お気に入り CD の山

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というのがぼくの部屋の CD プレイヤーの上にある。基本、CD 収納はいっさいの事情を考慮せず音楽家の名前の ABC 順に並べてあるんだけど、そうじゃない例外がいくつかあって、たとえばサイズの大きなボックス・セットなどはもちろん分けてそれなりの場所に置くしかない。それとは別に、聴いて、書いて、そしてそのなかでもことさら大好き!というアルバムだけ特別視して分けて置いてあるのだ。それが CD プレイヤーの上。写真だと左の山がそう。右は未聴 CD という意味の山だ。

 

左のお気に入り CD 山は、現在、いちばん上がドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』で、その下がマルモータの『a margem』。それ以下ここ数年で特別好き!というものだけ積んでいるんだよね。ヴァン・モリスン、ソナ・ジョバーテ、パウロ・フローレス、メディ・ジェルヴィル、HK の脱走兵、『牛深ハイヤ節』、ライ・クーダー、スリム・ゲイラード、などなど。

 

もっとずっと前に買って聴いたものでも、ここ数年で聴きかえしブログ記事にして、愛好度が一層増したというものは、やはり積んである。サローマ、ファニア・オール・スターズ、ナンシー・ヴィエイラ、サラ・タヴァレス、クーティ・ウィリアムズ、『カフェ・ブラジル』、などなど。

 

そうそう、『カフェ・ブラジル』と書いて思い出した。ここ二、三年のブラジル音楽は本当に充実しているので、そのなかでも特別気に入っているものはこれまた分けて、それだけ数枚、スピーカーの上に平積みしてある。イリニウ・ジ・アルメイダ曲集がなかでも格別なものだけど、ほかにもモナルコとかマルチーニョ・ダ・ヴィラだとか、傑作が多いよねえ。あ、でもブラジリアン・ジャズはここに置いてないなあ。どうしてだろう?

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ともあれ、すぐ手に取って、いつでもパッと聴きたいっていう、そんなお気に入りの音楽 CD はそうなっているわけ。座ったまま手を伸ばせばすぐ届くという範囲内に置いておきたい。それにそれを平積みしてある風景をただ眺めているだけで気分いいもんね。心が落ち着く。この山のなかから一枚かけながらこの山を眺めていれば、平和でおだやかな心地がする。

 

と言ってもですね、ぼくが特にこの四人は!と神聖視している四人の女性歌手の CD だけは、こういった山々とはまた別に、もっと取りやすい場所に置いてあるんだ。岩佐美咲、原田知世、ニーナ・ヴィルチ、アイオナ・ファイフの四歌姫。彼女たちの CD は、まあぜんぶあわせても数がまだたいしたことないのもあって、CD プレイヤーの下になっているプリメイン・アンプの真ん前にあるんだよね。いつでも速攻でかけられる。

2019/04/13

興奮のフィルモア 2 days 1968 〜 スライ

B3c06718https://open.spotify.com/album/53hdS0o6mAxAzAPeclha5i?si=NtHmvOe3S1yac9BIMwr1pg

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『ライヴ・アト・ザ・フィルモア・イースト、オクトーバー 4th & 5th、1968』(2015)。CD 四枚組だけど、一枚目(10/4、アーリー・ショウ)ではまだたいしたことはない。まだまだ盛り上がりかたがイマイチな感じがする。スライやバンド連中にとっても、また客席にとってもそうだったのではないか。

 

興奮がマックスに達するのは CD2(10/4、レイト・ショウ)の、それも後半に入ってからだ。8トラック目の「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」からかな。そこからは雪崩のような一気の勢いで思い切り振り切れる。「ミュージック・ラヴァー」だってとてもいい。最高度の興奮だ。また二枚目は幕開けが「マ・レイディ」なのもグッド。これもアッパーなあげあげダンス・ファンクだ。これだけでこのステージの楽しさは保証されたみたいなもの。

 

CD3、CD4とほぼ同様の展開が続く。曲で言えば「マ・レイディ」「ミュージック・ラヴァー」「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」、この三つに集約される1968年秋のアッパー・スライ。それを中心に10/5の二回のショウとも興奮できる演奏になっているよね。

 

特に CD3(10/5、アーリー・ショウ)の終盤なんか、その三曲がメドレーのノン・ストップ状態で流れてくるんだからこたえられない。最高度の興奮と快楽がここにある。1968年秋のライヴということでアルバム『スタンド!』はまだ。シングル「サンキュー」もまだで、でもすでにあんな路線はここに明確に聴きとることができるんだ。

 

『暴動』や、それに続く『フレッシュ』も人気で、評価だって高いけれども、個人的にはやっぱりこの1968/69年ごろの、西海岸サン・フランシスコで "Don't hate the black, don't hate the white" とくりかえし叫びながらユートピアを楽しそうに疾走していた、気分上々のスライたちがなんたって大好きだ。ぼくという人間のことを考えても、やっぱりこういった気分にこそ共感できるんだしね。

2019/04/12

信ずるは耳のみ

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どなたか信用させていただいているかたがこの音楽はいいぞと言っていても、自分で聴いたらそうでもなかったとか、世間の評判がダメでも、とってもすばらしいと感じて愛聴するとか、そんなことはいくらでもある。自分の耳で聴くしかない。それでもって判断するしかないんだ。文書を書くためにとりあげるにせよ、なにをどう扱うかで頼りになるのは自分の耳だけ。他人の耳で音楽聴くことほどバカらしいことはないぞ。

 

一般に信用されていて人気も高い紹介者・評論家のみなさん(など)の推薦盤はやはりこぞって聴かれるけれど、どうもぼくだけなのか、実際聴いてみたらおもしろくなかったということも多い。逆にこんなにすばらしい音楽作品はないぞと自分で感じても、いっこうに話題にならなかったり低評価、ダメ評価だったりする。

 

そんなとき、やっぱり自信がなくなっちゃうんだよね。自分の鑑識眼が実にいい加減なものだとわかっているから、やっぱりこっちの見立てが狂っているのか、外れているのか、と気になってしまう。でも結局のところ、音楽を聴くとは個人的享楽体験だから、自分にとってどうなのか、ということにだけ比重を置くしかない。世間でのとらえられかたと一致してもしなくても関係ない。と思うしかない。

 

このブログの文章にしても、こんな音楽をとりあげていいのかな?恥ずかしくないかな?この文章内容は外しているんじゃないかな?とか、気にしはじめたらキリなくて、まあ要するに自分に自信がないわけなのだ。ふだんこんなにふんぞりかえっているのにもかかわらず、というかそうだからこそそれは虚勢であると、まあもはや見抜かれているだろうなあ。

 

だから、いつもいつも、この音楽は、ぼくはいいと思うけどみんなはどうかな?とか、この感想でいいのかな?妙な妄想を書き連ねていないかな?などと気にしているのが事実だけど、ちょっとづつそんなことに、本当にちょっとづつ、自信じゃないけれど、結局自分を信じるしかないんだから思ったものをとりあげて思ったことを書けばいいと、それでオッケーと、 すこしは余裕が持てるようになってきたかもしれない。ちょっとだけ。

 

ひとの言ったことを、高評価も低評価も、そのまま鵜呑みにせず、自分の耳だけを信じて、自分の耳にこれはイイ!と聴こえるものはマジでいいんだと、そう信じて、感じたことを書いておけばいい。自分の耳におもしろくないものは、どんなに信頼しているかたが褒めていようとも、それはつまらないんだから、そういったものは書かないでおこう。

 

自分の耳で聴こう。それしか頼るものはないんだから。他人のものさしで自分の体験を測らないようにしなくっちゃね。ことに音楽とかの趣味のことや(コーヒーでも料理でもそうだけど)なんかにかんしては、自分の耳と感性を信じて、それでもってだけ聴いていけばいい。

 

自分のことなんだから、頼れるのは自分の耳だけ。それだけ。

2019/04/11

さすがのブルー・ノート、大好き

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といってもスケールじゃなくて音楽レーベルのほうだけど。Spotify や Apple Music など音楽ストリーミング・サーヴィスが一般的になって以後、最も活気付いているアメリカのレコード会社がブルー・ノートにほかならない。ぼくのばあい主に Spotify を使っているのでそっちでしか見ていないけれど、ブルー・ノートの作品は「ぜんぶ」ストリーミングで聴けるんじゃないかと思う。

 

カタログがぜんぶ聴けるだけじゃない、以前もソニー・クラーク関連で言ったけれども、レーベル公式のプレイリストをどんどん作成・公開しているのがブルー・ノートで、これにかんしてはたぶん全世界ナンバー・ワンだ。そのおかげで、いままで気づいていなかったことを発見してモダン・ジャズを聴く楽しみが増しているよ、事実。

 

昨年は公式プレイリスト『ブルー・ノート・ブーガルー』にとても大きくお世話になって、結局これを2018年のリイシュー部門第一位に選んだほどだけど、実際それくらい意義深いことだった。これだけじゃない、ブルー・ノートは実におもしろい公式プレイリストをたくさん公開しているんだよね。そのおかげでずいぶんと楽しませていただいている。

 

しかもブルー・ノートのばあいは、プレイリストを作成・公開したら、必ず公式 Twitter アカウントでお知らせしてくれる。これがいいんだよね。毎夜のようにぼくの楽しみになっている。そんなレーベル公式ツイートは、だいたい(日本時間の)毎晩深夜23時台前後なので、プレイリストをフォローしておいて翌日の楽しみとして、幸せな気分で眠りにつく。

 

ブルー・ノートはいったいどれだけの公式プレイリストを公開しているのか。かなりな数があるよなあ。ひとりのジャズ・マンに焦点を絞ったり、テーマを設定してレーベル全体を横断して多数のジャズ・メン作品から拾ったり、などなど、数も種類も多い。なかにはかなり興味深く意義も大きなプレイリストだってあるんだよ。

 

ブルー・ノートはフィジカル商売だってまだまだやっているだろうけれど、いまのストリーミング時代に、1939年創業の老舗ジャズ・レーベルとは思えないほど完璧に対応している。新しい時代に合わせて商売方法を更新していくのは、健全なビジネスの姿じゃないだろうか。音楽会社のある種の理想を、ぼくはいまのブルー・ノート・レーベルに見る思いがする。

2019/04/10

ボレーロみたいな(ボサ・ノーヴァ?)〜 ローザ・パソス

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ブラジルの歌手ローザ・パソスの最新作『Amanhã Vai Ser Verão』(2019)。でもこれ、どうして買ったんだろう?なんとなくの直感みたいなもんかな。ジャケ買いであるようなそうでもないような、こういった南洋リゾートの風景をイラストにしたみたいなお洒落ジャケットは一般的には人気あるだろうけれど、中身がイマイチだったりすることもあるので、ちょっぴりの警戒心も働いたかも。

 

でも聴いてみたら中身の音楽はおもしろかったよ。結論から端的に言っとくと、このローザの『Amanhã Vai Ser Verão』は、ブラジルのボサ・ノーヴァ歌手のやるボレーロ/フィーリン系の音楽なんだよね。ん〜、どっちかというとボレーロを意識したのかなという内容だね。しかしキューバ/メキシコの歌手がやるようなしっかりしたボレーロではなく、フワ〜ッ、ボワ〜ッとしたつかみどころのない超ソフトでおだやかすぎるボレーロ(っぽいボサ・ノーヴァ?)なんだ。

 

なかにはジャジーな、というかたぶんジャズ・ナンバーと呼んでさしつかえない8曲目「Inocente Blues」もあるし、またやっぱり全体的にいかにもブラジルの音楽家がやりそうな雰囲気横溢の BGM っぽい軽い音楽なんだけど、それでもここまでラテン性というかボレーロ系を強く意識した音楽をローザ・パソスはいままでやってこなかったはずだ。

 

収録の全13曲はどれもローザの自作(というか共作)だけど、1曲目のタイトルが「Alma de Bolero」だしね。それで多くの曲でドラマーが軽くボレーロっぽいあのちゃかちゃかっていう8ビートを表現しているのが特徴的。アコーディオンもアルバム全編で頻用されていて、サウンドの色調を支配している。ギターも印象的だが、そのギターリスト、ルーラ・ガルヴァンがほとんどの曲でアレンジも担当。

 

サウンド・カラーはどっちかというとフィーリンっぽいふんわりソフト加減で、それらの上にローザのあのやさしくやわらかい声が乗っかっているっていう、そんなアルバムなんだよね。全体的に、やっぱりムード重視の南洋リゾート砂浜 BGM みたいな、う〜ん、やっぱそうだよなあ、そんな音楽になっているよなあ。悪い意味じゃなく、ときどきはこういった軽〜い音楽もいいんじゃないだろうか。ガツンと来ないけどれど、悪くないというか、かなりいい、印象というかあたりが。

 

アルバム中おしりの二曲だけがローザのナイロン弦ギター弾き語りで、それらふたつだけはジャンル不問のブラジリアン弾き語りミュージックだ。昨年来、ブラジルのギター弾き語り音楽にいいアルバムが頻出していると書いているけれど、もともとそんな音楽も得意なこのローザ・パソスの『Amanhã Vai Ser Verão』でもラスト二曲はそんな音楽で、これらは文句なし。自作自演のギター弾き語りでボレーロ/フィーリンというと、ホセ・アントニオ・メンデスを想起させるしね。

2019/04/09

カッコよさとなめらかさ 〜 マルモータ

R1275144515412627827636jpeghttps://open.spotify.com/album/0EBrBrrIfTH7VZQ8HfKygD?si=NiQaBGxNTOy2qXfHCmplkQ

 

bunboni さんに教えていただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-02-28

 

ブラジルの四人組ジャズ・ユニット、マルモータ(Marmota)。メンバー構成はギター、ピアノ、ベース、ドラムス。その最新作『a margem』(2017)がかなりいいぞ。傑作と呼びたいくらいなできばえで、なんたってこのジャケット・デザインがいいでしょ、これで中身を直感して買っても決して損はしない上質なジャズ・アルバムに仕上がっていること請け合い。

 

ぼくにとってアルバム『a margem』の最大の魅力は全体的にとてもなめらかでスムースだってこと。そして爽快にカッコイイ。これに尽きるんだけど、しかしこのことは決してイージーに響くとか、イージーな音楽だとかいうことではない。その逆で相当むずかしいことをやっているんだけど、できあがりが聴きやすくなっているのは、真の腕利きである証拠。

 

アルバムの多くの曲、たとえばいちばん長尺なオープニング・ナンバー「Ar」なんかでも、メロディとリズムはころころチェンジする。しかも変わるときリズムとメロディの変化が同一のものとして合体しているんだよね。約10分間これだけめまぐるしく変わるのに、一糸の乱れも聴かれないのは、コンポジション/アレンジとリハーサルのたまものか。結果、なめらかなスムースさに到達しているんだよね。

 

いちばんのお気に入りは3曲目の「Hades」。エレキ・ギターのエフェクト・サウンドからはじまってしばらくのあいだは音響系みたいなサウンドが漂っているが、ドラマーがかなり強くスネアをバンバン!とやってからが本番だ。使っている音階がちょっとしたアンダルシア〜中近東系のそれに近いように聴こえ、スペインふう&アラブふうというかそんなところが大好き。ブラジルからしたらかなりエキゾティックなサウンドなんじゃないのかな。最後までドラマーがドラマティックに叩くのもいい。ぼくにとってはど真ん中ストレートな大好物の一曲。

 

ここのところのジャズ・ミュージックではアレンジの比率が上がっていて、用意周到な複雑アレンジのなかを縫うように短めなソロが効果的に入るというような、そんな構成になっているものが増えているんじゃないかと感じているんだけど、マルモータの『a margem』でもそれは同じ。整然とした練り上げられた音楽のほうが(一発勝負みたいなものより)断然好きなぼく。だからマイルズ・デイヴィス好きなわけだけど、近年のジャズはぼくにとっては好ましい方向へ流れてきている部分もあるようで、うれしいかぎり。

 

bunboni さんもおっしゃっていることだけど、ここのところブラジルの最新ジャズ・シーンがかなり充実してきている、ブラジルのジャズが、いま、きている、というのが事実のよう。シーンを把握できない質のぼくでも気づくくらいだから間違いない。昨年もイチベレ・ズバルギの超傑作などがあったけれど、マルモータの『a margem』は、個人的な好みだけなら近年ナンバー・ワンの心地よさ。流してよし聴き込んでよしの傑作。もうすでに何回聴いたかわからないほど聴いている。いやあ、好きですね。

 

(注)6曲目「Indução」の最終盤で挿入されている英語のしゃべりは、どうやらビル・エヴァンズのものらしい。しかしそれがここにどうして使われているのか、ぼくにはわからない。

2019/04/08

ぼくはどう書き、どう推敲しているか

Fullsizeoutput_1dc9 Fullsizeoutput_1dcb https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/16CwqmoXgaQY1OQDgW1M72?si=FwARWQmvR0mQRXerbSdx1w
(BGM はこのへんで)

 

今日は特に音楽の話をせず、ふだんこのブログ用にどうやって文章を書いたり推敲したりしているか、ちょちょっと個人的にメモしておきたい。Apple 社製の各種機器をお使いのみなさんにはすこしの参考になるかもしれないし。

 

まず最初に書くときはスマホやタブレットではまだムリで、やっぱり Mac でテキスト・エディタに向かって物理的キーボードを叩いているんだけど、いったん完成したらそれを推敲するのは iPhone や iPad でのほうが細かなことに気付きやすいという面があって、そのほうが便利だと思うことも。どうやらぼくだけじゃないようで、ほかの複数のかたから同種のお話をうかがったことがある。

 

Mac でブログ記事執筆用にと使っているテキスト・エディタは Jedit Ω。各種の文字装飾が必要となる仕事用に使っているのが LightWayText。この二種のエディタは初登場がどっちも1995年。その後ヴァージョン・アップを重ね現在でも存続している現役選手で、ぼくはこの二本使いでずっと2019年まで来ている。ワープロ・ソフトなんていうものはいまだかつて使ったこともない。今日の話には Jedit Ωだね。

 

Jedit Ω は Mac 専用エディタで、それは Windows 版がないとかっていう意味じゃなくて、 iPad や iPhone で動く iOS 用のヴァージョンがないという話。これはちょっとした悩みなんだよね。それでも Mac でこれ以上使いやすいエディタはないので Jedit 系でずっと来ている。ところで、ブログに上げるぼくの音楽文章は、だいたいどれも一回性一方向性のインプロヴィゼイションなんだよね。最初に書くときはね。

 

それをアップロードする前に読みなおして加筆訂正したりなど推敲するわけだけど、音楽で言えば録音後の編集作業みたいなもんかな。ちょっとしたミスを修正したり音を足したり減らしたり微調整したりなど、みなさんなさるでしょ。SP 時代のあと、テープに録音するようになって以後はさ。ぼくも Jedit Ω で当該ファイルをもう一度、二度と開きなおし読みかえし、推敲していた(と過去形)。

 

ところが、モバイル・ディヴァイスを使うようになってやや様子が違ってきているんだよね。偶然の発見みたいなもんなんだけど、自分で書いてブログにアップロードした文章を iPhone で読んでいて、Mac だと気づかない細かな書きミスに iPhone(や iPad)だと鮮明に気づきやすいということがわかってきた。これはあれかなあ、画面サイズが小さいため、かえって発見しやすいということなのか?わからないが、間違いない事実だ。

 

これはブログにアップロード後にそれを読んで、ということだったのだが、それをアップロード前の推敲でやるようになったのが2018年10月に最初の iPad を買ってから。しかし問題がある。上でも書いたが常用必須の Jedit Ωに iOS ヴァージョンが存在しないってことだ。最近のメイジャー・アプリは macOS 用、iOS 用の両方ともリリースするのがふつうになってきているんだけど、Jedit 系は Mac アプリしかない。

 

だから iPhone や iPad でアクセスし書き終えてある文章を読み込んで(そう、テキスト・ファイルもローカル・ディスクにはいっさい置いていない、ぜんぶクラウド上にある)、それで読みかえして推敲などしようとすれば、違うアプリを使わざるをえないのだ。そのためのほぼ唯一の選択肢が LightWayText 開発者である山下道明さん作成の iText Pad。これは iOS 専用のテキスト・アプリだけど、同じ山下さんの Mac 用のエディタ iText のモバイル版みたいな位置付けなのだろう。

 

iPhone や iPadの、っていうかだいたいのばあい iPad でだけど iText Pad でクラウドにあるぼくのテキスト・ファイルにアクセスし読み込んで表示、それをじっくり読みかえしながら細かな書きミスを訂正したり表現をあたらめたりする。これがケアレス・ミスにいちばん気付きやすい最好適なやりかたなのだ、ぼくのばあいは。そうやって推敲したものを iText Pad で保存するとそのままクラウドにあるので、次に Mac の Jedit Ω でアクセスしたら同じ推敲済みの同ファイルが立ち上がる。

 

な〜んて便利なんだ!

 

最近は iPhone や iPad での文字入力も劇的に速度が向上しタップ・ミスもかなり減ってきた。いまだに QWERTY 配列のソフトウェア・キーボードでローマ字入力なんだけど、Mac の物理キーボードを叩く速度に近づきつつあるんだ。だからそのうち、iPad などでブログ用の文章を書きはじめるかもしれないよ。といっても iOS 上で動く高機能なテキスト・エディタがほとんどないのが難点だけどね。

2019/04/07

ジョアナの爽やかな想いあふれて

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なぜかジョアナ・アメンドエイラのファドが聴きたくなった。どうしてだろう?マリア・テレーザ・デ・ノローニャの完全集なんかも最近あって、それでちょっとファドづいているせいかなあ?わからないが、選び出したのはジャケットの雰囲気が好きな2006年の『ア・フロール・ダ・ペーレ』。これ、いいんだよぉ。いまでもぼくは大好き。

 

聴いていて感じるのは、ファド新世代ということかどうかよくわからないのだが、ジョアナの声は、また伴奏も、軽い。そして明るい。いい意味でね。さっぱりしていて聴きやすいのだ。これは大きなメリットじゃないだろうか。ふつう一般的にファドというと暗く重苦しいイメージがつきまとう。ジョアナのばあいはスウィンギーですらあって、また歌いくちがベタつかず爽やかで心地いい。そんな気がしたんだけどね。

 

『ア・フロール・ダ・ペーレ』のばあい、5曲目まではわりと従来路線っぽいファド・ナンバーが並んでいる。アマリア・ロドリゲスなどと比較したらそれでも相当軽いんだけど、それでもジョアナもファド歌手だけあるという湿った重い質感を表現しているよね。しかしそのなかに、ジョアナにしかない独特の爽やかサウダーデがこもっているのを聴きとることが可能だ。やはり新世代。

 

1〜5曲目までのあいだでも、たとえば4曲目「Plantaei um cravo à janela I」なんかは明るくて聴きやすい。そう、ジョアナのファド歌唱(や伴奏)は聴いていて、気持ちがドンヨリしないのだ。あくまで前向きに進んでいこうっていうそんな明るさが音楽から聴きとれるとぼくは思うけどね。引きずっていない。そんなところもポイント高し。

 

それが6曲目「Amor, o teu nome」でいきなり真っ青な陽光のもとに飛び出たみたいなキラキラさと輝きと軽さ、明るさが全開。伴奏のふたりのギタリストがそんな弾きかたをしているのが大きいんだけど、こんな伴奏をファドで聴いたことないよなあ。そう、ジョアナのばあい、曲もそうだし伴奏のアレンジや演奏も考え抜かれている。ジョアナのどんな味を際だたせるか、徹底して創り込まれているんだね。

 

その後も、伝統的なファドとジョアナらしい軽く明るい新世代ファドとが織り交ぜられて出てくるのだが、全体から受ける総合的なイメージはライトでソフト。そんなファドってあります?ジョアナ独自の持ち味なんじゃないだろうか?もちろんコントラバスもくわえての三人の伴奏陣とそのアレンジ、さらに選曲や曲創りの工夫も大きい。ひとことにすれば、爽やかファド。やはり新世代。

 

9曲目「Barco de sonhos」、13「Lisboa amor e saudade」なんかも聴いてみて。これが果たしてファドなのか?と、イメージをくつがえされるかもしれないよ。伴奏のトリオ演奏も完璧だし、ジョアナは軽く明るいだけでなく、しっかりとした情緒を表現する技巧はすでに最高だし、声にキラキラと同時にしっとりした落ち着きもあって。だから、総合点はかなり高いんだ。

2019/04/06

跳ねる左手 〜 ジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ

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発売年記載のない Retrieval 盤 CD『24 レア・レコーディングズ・オヴ・ピアノ・ソロズ・バイ・ザ・キング・オヴ・ジャズ&ストンプ 1923-1926』。愛聴盤なんだけど、アルバム題どおり、ジェリー・ロール・モートン、1923〜26年のソロ・ピアノ録音を集大成したアルバム。晩年にもソロ演奏のあるモートンだけど、20年代ものはおもしろみが断然上なのだ。

 

晩年の録音では聴けない1920年代のソロ・ピアノ集にあるモートンの特徴とは、いまのぼくにとって<跳ねる左手>、これがすべてだ。こういうと、ライ・クーダーや中村とうようさんも着目した「ザ・パールズ」「ティア・フアナ」の話だろうと思われそう。それは実際そのとおりだ。この二曲(「ザ・パールズ」は1923年、26年と二つヴァージョンがある)は群を抜いておもしろい。

 

端的に言って、それら二曲では、部分的にだけど、モートンの左手がキューバのアバネーラふうにシンコペイトしているのが興味大ということになる。しかしモートンの1920年代ソロ・ピアノ集をじっくり通して聴くと、これら二曲だけじゃないんだよね。モートンの跳ねる左手は、ほかにも随所で聴けるものなのだ。

 

たとえば1923年の「ニュー・オーリンズ・(ブルーズ・)ジョイズ」ふたつ。ここでも部分的にだけど左手が踊るように跳ねるリズムを表現している。踊るというよりこのモートンの20年代録音だとゆるやかに舞うといった優雅な室内楽的フィーリングをかもしだしているよね。いかにも特権階級だったクレオールだけあるというムードかな。

 

そう、モートンの左手が表現するダンサブルなジャンプ感覚は、決して野卑じゃない。優雅だ。上品で繊細でエレガントなのだ。まあキューバのアバネーラだってそういったものだったし、このへんは旧宗主国のスペインやフランス由来といった文化痕跡なのだろうか。モートンのソロ・ピアノ集のなかには欧州系の室内楽ダンス・ミュージックに通じる感覚もあるよなあ。

 

上で触れた「ニュー・オーリンズ・(ブルーズ・)ジョイズ」では、2ヴァージョンとも、1928年のブギ・ウギ・ピアノ録音であるクラレンス・パイントップ・スミスが弾いたパターン(「パイン・トップス・ブギ・ウギ」)がすでに出現している。パイントップがモートンのレコードを聴いて…云々というより、こういったリズム・フィギュアはある種の共有財産だったのだろうと思う。

 

そのほか、モートンの左手はいつもスウィンギーでジャンピー。これは1920年代ソロ録音のだいたいどれでもそうなのだ。スムースにフラットにすーっと進むということがほぼなくて、グルグル回転したり跳ねたり止まったり、とにかくおもしろい。リズム面に最もおもしろみが出ているのがこのひとのソロ・ピアノ録音の魅力なんだよね。

 

ジャズ・ソロ・ピアノ録音史上、たぶん最も早い時期のひとつだったろうモートンの録音集。その後のジャズ・ピアノは、というかジャズ・バンド演奏もだけど、スウィンギーさをもっと平坦にしてずんずん進むようなフラットなビート感に移行したかのような印象がある。

 

じゃあモートンの1923〜26年ソロ・ピアノ録音集みたいな音楽はどこへ行ったのか?というと、上でも触れたがブギ・ウギ・ピアノや、それを源流とするジャンプ(・ブルーズ)・ミュージックに流れ込んでいるように思う。決してぜんぜん泥臭くないモートンの音楽なんだけど、リズムの強靭さと跳ねかたを考えると、そっち方向へ行ったのだとみなすことができよう。またもっと時代が下っての(プロフェッサー・ロングヘアなど)ニュー・オーリンズ R&B にも強い影響を与えているのがわかる。

 

これがぼくの見解。ジャズ・ミュージックという狭い枠だけで見ているとモートンの偉大さに気づかない。

2019/04/05

紙ジャケやデジパックが好き

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これは紙ジャケ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Fullsizeoutput_1de3 これはデジパック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なかにはプラスティック・ケースじゃないと購買意欲が削がれるとかいうオカシナおっさんもいるけれども、だいたいのみなさんは紙ジャケットやデジパック歓迎じゃないだろうか。そして、実際、もうそれらでしか音楽フィジカルの新リリースは出なくなっているとまで言いたいくらい増えている。新発売 CD 全商品の八割九割が、紙ジャケかデジパックのはず。もはやそれしか買っていないとまでの実感があるけれどね。

 

プラスティック・ケースは CD メディアの登場とともに採用されたものだけど、環境問題云々もさることながら、すぐにヒビが入ったり割れたりするし、イヤなんだよね個人的には。本当はデジパックもイマイチで、どうしてかって、ディスクを留める部分にはプラスティックの板と爪が使われているからだ。外は紙だから割れないし手触りもいいけれど、なかの爪がわりとよく折れちゃうんだ。すると、CD が安定しない。

 

紙ジャケはその点も安心だ。紙だけでできたジャケットのなかに CD を入れ込んであるだけだから(日本盤のばあい袋にも入っているが、あれはいらん)安定性も抜群。ぜんぶ紙だから触った感じも最高に心地いいし、あたたかみがあって、しかも割れたり折れたりヒビが入ったりもしない。快適のひとことに尽きる。

 

紙ジャケとは、かつては日本独自の文化だったかもしれない。特にリイシュー盤で LP レコードのそれを再現したミニチュア・レコードともいうべき紙ジャケ CD は、たくさん日本で生産されている。そういうのがいいと感じたり、(プラケで)持っているアルバムでも紙ジャケでリイシューされたら買ってしまうというのは、やっぱり世代的なものかなあ。アナログ・レコード時代へのノスタルジーでミニミニ LP みたいな紙ジャケ CD を買うのかもね。

 

いやいや、しかし、紙ジャケは、いまや日本の文化云々ってことはなくなった。世界の新リリース CD の多くがどんどん紙ジャケやデジパックになっているもんね。ぼくは薄ければ薄いほど、軽ければ軽いほど、好き!という性格の人間だから、こういう時代になって本当にうれしいよ。軽薄礼賛!

 

プラスティック・ケースのものは厚みを取ってしまうのも問題だ。アナログ・レコードをラックに立ててたくさん収納している(経験のある)みなさんはご存知でしょう。どんどん押し込めるんだよね。あまり詰め込むと取り出しにくくなるけれど、ムリにでもグイグイ行けて、スペースのない狭い部屋では必須の技術なんだ。

 

プラケ CD はこれができない。あたりまえだがプラスティックなんてどんなに押したってサイズ縮まないもんなあ。まあデジパックもこの点では同じだけれども〜。紙ジャケは LP レコードと同様の収納技術が使えて省スペースにもなる。ま、だからいまぼくんちのラックにある紙ジャケはキッチキチで取り出しにくいんだぁ〜(苦笑)。

 

どこにも長所のないプラスティック・ジャケット。あ、いや、平積みはしやすいという点があるかな。でも平積みなんて、一品を大量に陳列したいお店じゃないんだから、個人の自宅ではほかにやりようがなくなった人間の窮余の一策でしかない。ふつうはやっちゃいけません(つまりぼくはやってます)。そんなことで、ほかになんのメリットのないプラケなんて撲滅して、今後の(音楽だけじゃない)CD の新リリース・パッケージはぜんぶ紙ジャケ仕様にしちゃってほしいのだ。

 

問題は、ぼくの大好きな岩佐美咲と原田知世がいまのところぜんぶプラケ入りだってことかな。今後もなかなかそれが変わりそうにない。なんとかしてくれ〜。

2019/04/04

いきなりジャズ狂になったわけじゃない 〜 映画サウンドトラックの時代

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https://open.spotify.com/user/thebluebonnet/playlist/6f9tMg31JZFB5Oi6c3Ltbu?si=-cgtSmSMTgWQM9fpm1gGCw
(BGM はこのへんで)

 

ジャズキチになる前はテレビの歌番組に出てくる歌手たちに夢中だったといっても、この移行は飛躍がありすぎてなかなか理解していただけないかもしれない。自分でもそうなんで、そのころのことについて忘れていたのを思い出すと、このあいだに映画のサウンドトラック盤に夢中だった時期がはさまっていたのだ。それも本当に短期間。そう、一年もなかったくらいだったかも。

 

映画好きだった(と過去形で言わないといけないが)ぼくは、1970年代後半当時、松山市内にまだまだたくさんあった映画館で洋画・邦画ともよく観ていたのだが、観終わって映画館を出ると、いい映画だったと思ったばあいはその足でそのままレコード・ショップに立ち寄ってその作品のサウンドトラック盤を買う習慣があった。

 

どの映画を?ってなことはない。いいと思ったものはサントラ盤レコードを買っていた。なんたってぼくが夢中だったのは『007』シリーズ。どうしてジェイムズ・ボンド映画が好きになったのかはわかっている。ミステリー小説好きで、なかでもスパイものが大好物だったからだ。イアン・フレミング原作の小説の翻訳本をよく読んでいた。

 

それではじめて観たのが1977年の『私を愛したスパイ』だったから、ロジャー・ムーア時代だね。おもしろかった。それでレコードを買ったんだ。映画館で聴いた音楽も印象的だったし。帰宅してレコードを聴いて、こりゃあいいな!と思ったのだ。これ以前の映画007シリーズは、テレビ放映で観たり名画座に来るので観たりなど。ジェイムズ・ボンド映画はぜんぶおもしろいと思ったよ。

 

そうこうするうち、映画本編も音楽もショーン・コネリー時代のもののほうが楽しいと思うようになった。ショーン・コネリー時代の007映画シリーズのサントラ盤は、一作づつぜんぶ買ったのではなく、むろん買った作品もあったろうが、ベスト盤みたいなのが出ていたんだよ。それで代表曲をだいたい聴いた。

 

映画音楽の世界は権利関係がなかなかむずかしいらしく、ベスト盤編纂時もオリジナルではなく、そのとおりにソックリに他人が演奏しなおしたヴァージョンとかがよく収録されているのは当時から同じだったように記憶している。でもテレビや映画館で観て聴いた印象と差がなかったから、あれでよかったんだろう。違和感はなかった。

 

大事なことは、映画のサントラって大半がインストルメンタル・ミュージックでしょ。主題歌や挿入歌があるにせよ、だいたい楽器演奏が中心だ。ミュージカル映画みたいなのは別にしてね。ジャズ音楽にハマる下地がここにあった。それにねえ、007映画で使われているインスト音楽って、カ〜ッコイイんだよ〜。高校生のころからそう感じていたが、いま聴きかえしても同感。

 

007映画の音楽って、バックの管弦楽は西洋クラシック音楽のそれだけど、リズム・セクションはジャズやポップスのそれを使っている。それでインストルメンタル演奏をするわけだよ。だから、高校生のなかごろだったか、映画のサントラ盤レコードをどんどん聴いていた時期が、ぼくのジャズ狂時代への準備になっていたんだね。

 

それだけじゃない。007映画のショーン・コネリー時代は大半が1960年代で、主題歌はあの時代のヒット・ポップスに沿ったような創りになっている。そういうことは高校生のころまったくわかっていなかったが、あの時代のオールド・ポップスが好きになるぼくの趣味をも準備してくれていたんだね。シャーリー・バッシーとかダスティ・スプリングフィールドとか、歌ってたんだよねえ、007映画でさ。

 

音楽で情景をとらえたり想像したりくっつけたりするのがうまくなったのも、映画好き、サントラ好きだったこの青春時代の副産物かもしれないが、この話は今日のところ、関係なさそうだ。ともかく、山口百恵、沢田研二、ピンク・レディーなどなどが好きだった少年が、いきなりある日突然ジャズ愛好家に変貌したわけじゃなかったんだなあ。

2019/04/03

ぼくにとってのデジタル・ディヴァイスは、すべてネット端末兼ジューク・ボックス

Fullsizeoutput_1d9cだというのが1995年以来の変わらぬ実像。ぜんぶインターネットのためなんだ。そもそも95年に Mac を買った動機がそれだから。ネット活動のために文章書いたり写真や音楽ファイルをどうこうするようになったので、結果的にそういった作業もするようになったけれど、もとの動機はすべてネット活動のためだ。

 

だから、まあいまは iPhone や iPad も活用しているけれども、結局それらは最初からネット端末として使うものだというか、ネット回線常時接続環境が整備されてはじめて商品化が可能となったものなので当然だ。そして音楽好きなので、ネット・ユーザー兼音楽愛好家というこの二面が、いまやピッタリ貼りつくようになっている。

 

だから、ネットで音楽を聴けるようになって本当によかったと、心の底から思い、感謝している。べつに Spotify や Apple Music みたいなサブスクリプションじゃなくたって YouTube があるでしょ。ストリーミングで音楽を聴くのはイヤだ(とお思いであるように見える)というかただって、YouTube ファイルはどんどんお聴きのようで、Twitter アカウントにどんどんリンクされ、ツイートされている。

 

ネットにつながっていることはある程度あたりまえのことになったので、そもそも1995年にはじめてパソコンを買った動機がネットをやりたいがためだったぼくにとっては、いまはもう理想郷が実現しているというに近い状況。その上、音楽までそれで聴けて極楽で、もういつ死んでもかまわない(ウソ)。

 

Mac(しかぼくはパソコンを知りませんが)だってハナからノートブック愛好家で、だから可搬性が高いのでどこにでも持ち歩き、iPhone や iPad はもちろんそれしかありえないわけで、しかし部屋のなかでじっと座っていても同じように使えるもので、そういうばあいたいてい Wi-Fi につながっていりことが多くなったし、交通機関、飛行機のなかですらそうなんだから、ネットをやるのに不自由することはなくなった。むかしはこうだったんですよ…、という話はやめておこう。

 

ともかく MacBook と iPad と iPhone。これらのなかにぼくのすべてがある。電話機でもある iPhone は一個の電話番号で個体がアイデンティファイされるので一台持ちだけど(二台持ちだとかいうかたもいらっしゃる模様)、Macと iPad はそれぞれ三台づつ持っているぼく。そんなにあったってメイン・マシンはやっぱり一個なんだから不要じゃないか、とはならない。特に iPad がそうだ。

 

マンションの小さな部屋に住んでいるので、iPad が三台あれば、三つのテーブルにそれぞれ一個づつ置いておいて、ふとしたときにすっと触ってネットでチェックできる。ぼくのばあいだいたいいつも Twitter をやっているけれど、複数ディヴァイスでも同じアプリで未読位置をシンクロできるから、こっちでここまで読んだら別なのでそのまま続きを読めるという便利さ。

 

Spotify だって、Mac アプリと iPhone、iPad アプリを同時起動しておけば、一個が他方を操作するリモート・コントローラーになるんだよね。だからたとえばぼくの Mac の音は AirPlay でそのまま無線接続でアンプ、経由でスピーカーまでつながっている。それでふだん自室のなかでは Spotify で音楽を流しているけれども、キッチンにいてもモバイル・アプリがコントローラーとなって曲やアルバムの再生を操作できちゃう。

 

ネットのおかげだ、すべては。1995年にはじめて Mac コンピューターを買ったしょっぱなからネット端末として扱ってきたぼくだけど、いまや iPad や iPhone も含め、ネットを活用した SNS と音楽ストリーミング・サーヴィスで、24年来の願望がフル実現していて、しあわせだ。

2019/04/02

わりかしラテンなソニー・クラーク

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https://open.spotify.com/user/bluenoterecords/playlist/1bNfRB8uzz2G52DBK4Rs1C?si=ehbsu39eR9Cj-V-owHXlzA

 

2019年3月上旬にブルー・ノート・レーベル公式配信で公開されたプレイリスト "Sonny Clark: The Finest"。この「ザ・ファイネスト」はシリーズみたいなもんで、ブルー・ノートはいろんなジャズ・マンについて同題の「だれそれ:ザ・ファイネスト」公式プレイリストたくさん作成・公開している。ベスト盤みたいなもんだね。いまこれを書いている3月8日時点での最新がソニー・クラーク。

 

計1時間56分のこのプレイリストを聴いて再確認したことは、ソニー・クラークの録音にはわりかしラテン・タッチがあるぞ、ということだった。といってもたいしたことはない、ほんのちょっとのことのことなんだけど、でもそれはある種の本質が垣間見えているということだと判断できるので、すこし書いておきたい。

 

ソニー・クラークの録音で聴けるラテン・タッチはどれもアフロ・キューバン・スタイルで、しかもモダン・ジャズ・メンがよくやる典型的なものだ。ディジー・ガレスピーやアート・ブレイキーなんかで頻繁に聴けるあれね。モダン・ジャズにおける典型ラテンといえばたいていそれになるけれど、もとをたどるとビ・バップ時代にキューバ人ミュージシャンがジャズ・メンと共演して表現したものが直接のルーツなのかなあ。

 

プレイリスト『ソニー・クラーク:ザ・ファイネスト』でのラテン、つまりアフロ・キューバンなタッチは、しかしどれも部分的なもので、アド・リブ部でラテン・リズムが使ってあるのは一個もなく、テーマ演奏パートの一部でだけリズムがそんな感じにアレンジされているというだけだ。ドラマーが、特にスネアで、それをわかりやすく叩き出していることが多い。

 

たとえば「スピーク・ロウ」(『ソニーズ・クリブ』)。スタンダード曲だけど、このリズム・アレンジはもちろんソニー・クラークが施したもの。そのほか、自作ナンバーではもちろん、他作曲でもアレンジはソニーがやっていると言うまでもない。だから、彼はあえてこういったラテンなリズム・フィーリングをわざわざ選んだということになるよねえ。

 

プレイリストでの登場順に、たとえば「ダイアル S フォー・ソニー」(『同』)。これは鮮明なラテン・タッチではないのだが、コントラバスのウィルバー・ウェアがテーマ演奏部の背後で跳ねるビートをはじきだしているように聴こえる。感じすぎだろうか。ドラマーのルイス・ヘイズもリム・ショットを複雑に入れてシンコペイトする瞬間だってあるじゃないか。

 

ケニー・バレル参加の「マイナー・ミーティング」(『マイ・コンセプション』)。これもテーマ演奏の A メロ部でだけドラマーがスネアでラテン・ビートを叩いているし、こころなしかテーマ・メロディじたいもファンキーに上下するユーモラスなラテン・タッチふう?『クール・ストラティン』からの選曲である「ブルー・マイナー」はかなり有名なので多言無用だ。

 

プレイリスト・ラストの「ニューズ・フォー・ルル」(『ソニーズ・クリブ』)。テーマ演奏部でのアート・テイラーのシンバル遣いがなんとも魅惑的じゃないか。もちろん鮮明すぎるほどのラテン・ビートだ。たぶんこのプレイリストで、というよりぼくの思い出せるかぎりでの全ソニー・クラーク音源でも、この曲でラテン・タッチがいちばんクッキリし…、あ、いや、「ミッドナイト・マンボ」(『リーピン・アンド・ローピン』)があったか。

 

ソニー・クラークは最も典型的なハード・バッパーのひとりとして日本では大人気のジャズ・マン。特に奇や異や変や別や特をてらったところのない<ふつうの>モダン・ジャズ・マンなんだよね。そんなソニーの音楽のなかにでもこんなラテンなニュアンスがわりとはっきりと入り込んでいるという事実を、ふつうのジャズ・リスナーのみなさんにもっとしっかり考えてもらいたいと思う。

 

ジャズにおけるラテンというか中南米カリブ音楽は、本当に抜きがたいあたりまえのものなんだってこと。特別視したりすることなく、楽しんで聴いて、そしてジャズ・ミュージック揺籃期の文化混交のありようや、成立後の発展形態などをじっくり考えながらたどってほしいんだ。

 

ソニー・クラークは1963年1月に若くして亡くなってしまったけれど、相前後して、ぼくも昨年初夏来強調しつづけているブルー・ノート・ブーガルー #BlueNoteBoogaloo 、すなわちモダン・ジャズにおけるラテンな8ビート・ブルーズ・ファンクが勃興し流行している。あともうすこし長生きしていたらソニーだってやったかもと思うんだ。それを想像できたレーベル公式プレイリスト『ソニー・クラーク:ザ・ファイネスト』だった。

2019/04/01

プレイリストを作る楽しみ

Fullsizeoutput_1e28Spotify でプレイリストを作成し公開する楽しみの最大のものはもちろん個人的なことで、自分で聴いてこりゃいいねと思えることにあるんだけど、さらにもうひとつ大きなことがある。Spofity プレイリスト、それは私家製だけど公式であるってこと。これはかなり重要なことなんだ。

 

以前から繰り返すように、高校生のころからマイ・ベスト・セレクション作成癖のあるぼくで、もうず〜っと40年間やり続けている。なにかちょっとあるとすぐ作る。でも Spotify サーヴィスが開始するまで、そういったセレクションは、あくまで私的複製であって、他人にあげたりは、まあ無料でさしあげる分には法的に問題ないような気がするからずっとそうしているが、やっぱりどっか後ろめたいわけ。

 

音楽商品の複製は私的利用に限って認められているわけでさ。だから他人にあげるのもあくまでヒミツであって、おおやけになんか絶対にできるわけなかった。ねっ、ぼくの言いたいことがもうおわかりでしょ。Spotify プレイリストは公開できるんだよ。おおやけにできるんだ。世界中のみんながアクセスできるってこと。だからばあいによっては当の音楽家や関係者やレコード会社にだって届いて聴かれる可能性が0%じゃないかも。

 

しかもそれで法的にはなんら問題がない。100%セーフ。というより歓迎されるものなのだ。こ〜れは大きなことだよ。もちろん Spotify のプレイリストは非公開を選ぶこともできる。だから自分だけのひそやかな享楽として作成しているかたも大勢いらっしゃるだろう。個人的には(なんでも)公開しなくちゃおもしろくないという考えだから、ぜんぶおおっぴらにしているけれどもさ。

 

いままで40年間、こんなことはできなかったわけ。ダビングはあくまでプライヴェイトな行為としてだけ認められているわけだから、マイ・ベストを(一部友人などを除き)シェアなんかできっこなかったんだもん。Spotify のプレイリストはダビング、複製じゃない。すべての音源がオフィシャルなままそのまま、マイ・ベストのセレクションにできちゃうのだ。どうこれ?

 

音楽を聴き愛するのはあくまで個人的なことに違いない。だから自分好みに並べたプレイリストを作成しても、おおやけに世の全員にさらすなんてのはどうなのか、というお考えのかたもいらっしゃるかも。またそもそもマイ・ベストなんか作らないぞ、商品として流通しているそのままの形態で聴くんだぞ、ともおっしゃるかもしれないね。

 

ぼく個人の(ひとさまにはいっさい押し付けるつもりのない)考えは、そんなみなさんのお考えからしたら真逆なんだよね。自分が楽しいことはシェアできるのならしたい。それでうれしみが倍増、どころか百倍増くらいするし、自分の人生がいっそう充実していくように実感している。

 

こんなこと、いままで40年間は(私的に)複製したカセットテープや MD や CD-R をどんどんひとにあげることで「ひそやかに」実現していたことなんだ。書いたように、それは天下おおっぴらには決してできない、裏道だった。いまや Spotify プレイリストの作成・公開は、オフィシャルに認められた天下の表通りの正統行為なんですよ。

 

決定的に違っている。どっちが楽しいか、は明白だ。

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