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2019年5月

2019/05/31

タラフ・ドゥ・ハイドゥークスをちょっとだけ

515jib2xjpl_sy400_https://open.spotify.com/album/79UAXRPpn0omj7tmcoO7JW?si=NsUCoJohR2mwnhlmGpeXGw

 

はじめて買ったタラフ・ドゥ・ハイドゥークスの CD がこの『バンド・オヴ・ジプシーズ』(2001)。どこかのお店で見て、ジャケットの雰囲気がとても気に入ったからだった。ジプシーズとあるので、東欧のどこかのバンドなのかなとボンヤリ想像した。ジャケットもそんな感じだしね。持って帰って、聴いて、すごい!とビックリし、この集団のアルバムを集めはじめたのだった。

 

ところで『バンド・オヴ・ジプシーズ』はタラフ・ドゥ・ハイドゥークスのアルバムのなかでいまでもいちばん好きだけど、最初に聴いて思ったのは、渋さ知らズみたいだなということだった。これはもちろん順序が逆で、渋さが東欧のジプシー・ミュージックを参照しているわけだけど、ぼくのばあい本格的には渋さのほうを先に聴いていたからなあ。でもそんなことでタラフ・ドゥ・ハイドゥークスについてはわりととっつきやすかった。渋さの不破大輔は間違いなくこういったジプシー・ミュージックをとりいれているよね。

 

ライヴ録音集の『バンド・オヴ・ジプシーズ』だと、テンポの速いビートの効いた数曲が大好きで、これはいまでもそう。なんだか幻惑的で、めくるめくようにマジカルでもある。しかも(ここは渋さも参照したかもだけど)合奏はすべてユニゾンだ。いやあ、聴いていてかなりの快感だよなあ、たとえば4、6曲目とか。2、13曲目もそうか。

 

それらアップ・テンポの速い曲を聴くとわかるけど、リズムはかなり複雑だよね。変拍子の連続で、しかもそれを一糸乱れず演奏する。聴いているこっちはクラクラめまいがしそう。圧倒されちゃう。それがぼくにとってのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスを聴く快感なんだよね。スウィング感、ドライヴ感がものすごいってこと。

 

そんなところが、『バンド・オヴ・ジプシーズ』をいま聴いても変わらず感じるこのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスのぼくにとっての魅力で、その変拍子をビシバシきめながら全員が高速で突っ走るところに胸踊る気がするから、そうでもないテンポのゆるい曲は実はぼくにはイマイチだったりする。でも、本当はそういったゆったりめの曲にある哀感なんかもちゃんと聴かなくちゃいけないんだよねえ。

 

またそのうちほかのアルバムもふくめ、じっくり聴きかえしてみようっと。次に聴くのは秋だな。

2019/05/30

これがサリフの到達点だった 〜『ムベンバ』

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サリフ・ケイタの最高作はデビュー作の『ソロ』(1987)だと長年考えていて、この意見を譲る気はちっともなかったのだが、最近、2005年の『ムベンバ』のほうがいいかもと思いはじめている。迫力を持って力づくでねじ伏せてしまうような激烈さに代わって、ゆっくりじっくりと語りかけ余裕をもって説得していくような、そんなサリフの境地に強く共感するようになったのは、やはり自分自身が高齢化しつつあるからだろうか?

 

ともかく『ムベンバ』がいま心地いい。サリフの声の迫力は、やはり『ソロ』のころと比較すれば落ち着いたかなと思うんだけど、円熟のうまみがくわわって極上のものとなっているし、あまり暴れないこんなヴォーカルもいいんじゃないだろうか。しかもアルバムのトータル・サウンドともよく合致していて、サリフ自身、クリエイトしたい音楽の総合体としてサウンドと自身のヴォーカルを一体化できていたと思う。

 

アルバムのサウンドは、これの前作『モフー』(2002)から続くアクースティック路線。エレキ楽器はたぶんベースだけじゃないのかな(ベースではミシェル・アリボがいると、いま発見。2005年当時はだれなのか知らなかった)。それ以外はぜんぶアクースティック・ギターやンゴニを中心とするオーガニック・サウンドで構成されている。エレベはごくごく控えめで目立たないし、入っていない曲も多い。

 

ギターはサリフ自身やカンテ・マンフィーラをふくむ四人程度のアンサンブル。それ+ンゴニ+ヴォーカル・コーラスが、アルバム『ムベンバ』を支配するサリフのバック・サウンドだ。パーカッション(ミノ・シネル)が入ることがあってもドラム・セットはなし。電子・電気鍵盤楽器もホーン・アンサンブルもなし。派手なエレキ・ギターも聴こえない。

 

だから地味で渋く落ち着いているといえばそうなんだけど、『ムベンバ』で聴ける音楽はきわめて躍動的だ。地に足をつけたしっかりしたそれを感じるよね。個人的には、コラが大きくフィーチャーされている(ぼくはどうしてこうまでコラの音色が好きなのか)9曲目「ムベンバ」と、続く10曲目「モリバ」が大のお気に入りで、ぼく的にはアルバムの白眉。サリフのヴォーカルの安定感は終始一貫しているけれど、バックのサウンド(ふくむヴォーカル・コーラス)がすごく好きなんだ。

 

快活な3曲目「カルキュレ」のグルーヴもいいし、アルバム『ムベンバ』はたんに熟したサリフの境地を示すというだけでなく、音楽家として一段とスケール感を増した深みを感じる作品だよなあ。それでもときどきはやっぱり『ソロ』の咆哮を聴きかえすけれど、いまは『ムベンバ』のしっとり感のほうがフィットする。

2019/05/29

ハンナ・ラリティの声がいい

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これも以前 bunboni さんに教えていただいた一枚です。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

 

スコットランドの若手歌手ハンナ・ラリティ。昨2018年の『ニース・ザ・グローミング・スター』がとてもいい。昨年春に知っていまだにすっかりゾッコン中のアイオナ・ファイフといい、まだ書いていないが愛聴中のクレア・ヘイスティングスといい、なんだか最近のスコットランドのトラッド歌手界は充実してきているのだろうか。そのへんの事情というかシーンのことはいつもながらよくわからないが、ハンナ・ラリティもこれまたすばらしい。

 

ハンナのばあい、なにがいいって、その声だね。声質がとてもいい。透き通った声、透明感のある、しかし同時に芯のある強い声をハンナは持っている。クリアで、まるでクリスタルのようなんだけど、同時にしっかりとした存在感がある、そんな声だよねえ。本当にすばらしい。

 

こういった声は、トレーニングでつくりあげることのできない天賦の才だと思うから、やっぱりハンナもすごいなあ。個人的にはスコットランドのトラッド歌手ではアイオナ・ファイフというイチオシの存在がいるけれど、アイオナの声にある孤高感、屹立する厳しさみたいなものは、ハンナには感じない。逆にフレンドリーな雰囲気、あたたかみがあると思うんだけどね。

 

録音時のエンジニアリングのことなのかミキシングか、『ニース・ザ・グローミング・スター』ではエコーのかかりかたも絶妙にすばらしい。そのおかげでフレーズおわり、コーラスおわりでハンナがスーッと伸ばす声がきれいに聴こえ、デクレッシェンドしていく瞬間も実に自然でキラキラと美しい。

 

必要最小限の伴奏楽器とヴォーカルとのミキシング・バランスもいいね。アップ・ビートの曲ではドラム・セットも使われていて、それもちょうどいい聴こえかた。ハンナの『ニース・ザ・グローミング・スター』に四つあるそんな曲(2、4、8、10)が特にぼくは好きなんだ。特に「アリソン・クロス」だなあ、実にいい。

 

ゆっくりしたテンポ、テンポ・ルパートで歌われるバラッドもいいけれど、「アリソン・クロス」みたいにスウィンギーにやる伝承曲で特にハンナのヴォーカルのダイナミズムが際立っているように聴こえるんだけどね。ギターのカッティング(イネス・ワイト)とピアノとフィドルを中心とするサウンド・メイクも見事だ。「アリソン・クロス」では、開始一分目あたりまでギターのみの伴奏で歌いこなすハンナのヴォーカルに惚れ惚れしちゃう。

 

アクの強い黒人歌手もいいけれど、最近、こういったケルト圏のトラッド・シンガーも好みになってきているかもしれないなあと思ったり。

2019/05/28

ライヴ盤の少ないパット・マシーニーだけど

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ほんと、パット・マシーニーはキャリアの長さと充実度からしたら異常とも言えるほどのライヴ・アルバムの少なさだ。2019年現在で二枚だっけ?たしかそれくらいだよね。そのうちでも、1993年のゲフィン盤『ザ・ロード・トゥ・ユー』がかなりいい。この時点でのパット・マシーニー・グループのベスト盤的な聴きかたもできる選曲だし、中身も充実している。パット入門にもうってつけ。

 

ライヴ盤ながら『ザ・ロード・トゥ・ユー』には録音年月日場所の詳細は記載なし。表ジャケットにヨーロッパでのライヴ録音とあるのでそうなんだろうとしかわからない。1993年リリースだからそのすこし前の収録なんだろうと推測できる。メンバーはアーマンド・マーサル、ペドロ・アズナールのいるレギュラー・グループ。たぶん、最強期だね。

 

パット・マシーニー・グループのばあい、やっぱりヴォーカルが入る曲のほうが楽しいし、美しく、そして切なく胸に迫る。だから『ザ・ロード・トゥ・ユー』でもそういった数々の曲がぼくはやっぱり好きだ。1「ハヴ・ユー・ハード」、2「ファースト・サークル」、5「ラスト・トレイン・ホーム」、8「ビート 70」、10「サード・ウィンド」。

 

爽快にかっ飛ばしているし、スウィング感も見事。二名のヒューマン・ヴォイスもいいし、歌いながら同時に演奏するパーカッションも見事に効果的。出だしの1、2曲目でたぶんリスナーは心をつかまれてしまうと思う。その後、やや前衛的なギター・ピースなどもはさみながら、長尺な4曲目を経て、おなじみの5「ラスト・トレイン・ホーム」で泣く。

 

アーマンド、ペドロの二名の(楽器と同時にユニゾンで進んだりもする)ヴォーカル・ラインは、もちろんあらかじめアレンジされてあるものだから、スタジオ・オリジナルとなにも違わない。パットやライルのソロはアド・リブだなとわかるし、またヴォーカルも即興的に歌っているなと思う部分もありはするものの、だいたいどの曲もスタジオ・オリジナルと大きくは違わない。

 

それならオリジナルを聴いていればいいか、とはならないんだなあ。やはりライヴ・パフォーマンス、一発同時演奏ならではのグルーヴがここにはある。あきらかに空気が違っているんだよね。あまりにもちゃんとしているというか整然としているので、『ザ・ロード・トゥ・ユー』を聴いていて、ライヴなんだということを忘れてしまいそうだ。

 

ヴォーカルの二名が参加しない、カルテット演奏ピースは、パットのジャズ・ギタリストとしてのハイ・レヴェルな腕前がよくわかるもので、彼自身、そういったショウケースにしたい、ライヴでそれをアピールしてみようというものだったんじゃないかと思う。印象がなめらかだからうっかり聴き逃しそうになるけれど、どこをとっても超一流のギターリストだ。

 

しかしやっぱりね、ライヴのメイン・アクト最後の曲「サード・ウィンド」の演奏が終了してもなお、客席からの大合唱がやまないっていう、それはヴォーカリスト二名の歌うラインを観客も歌っている、バンドがやめてもなお、しばらくお客さんが歌っているという事実だけもってしても、パット・マシーニー・グループの魅力、真骨頂が奈辺にあるかを如実に物語っていると思うんだ。

2019/05/27

手拍子で幕開け、岩佐美咲の「初酒」「鯖街道」

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https://www.youtube.com/watch?v=K7s0f58PHNo

 

2017年春にはじめて岩佐美咲を知ったころはまだ CD でしか聴いていなかったし、その後も2018年2月にコンサートを初体験したとはいえ歌唱イヴェントのことは知らなかった。昨2018年11月以来どんどん美咲の歌唱イヴェントに出かけるようになって以後(だってすんごく楽しく癒しになると知ったから)彼女の持ち歌のなかでも特に「初酒」と「鯖街道」が大の好みになってきている。

 

以前からしたら考えられない嗜好なんだけど、美咲の歌唱イヴェントをどんどん体験なさっているかたならばある程度わかっていただけるんじゃないだろうか。そう、一回四曲のイヴェントのオープニングにこの二曲はピッタリなのだ。実際そうなっているのを現地でなんども体験し痛感している。威勢がいい、元気がいい曲調だもんね。

 

特にリズムがそう。ノリのいいズンドコ調でずんずん歩いていくような、そんな元気よさがあるよね。あんなにズンドコ調きらいだった人間の発言とは思えないが、ぼくも変わりました。変えてくれたのが美咲の歌と笑顔とあの姿と、この二曲だってこと。美咲の歌唱イヴェントがどんなに楽しいか、どれほどの癒しか、まあ体験しておられないかたに納得していただけるように説明するのはなかなかむずかしいと思う。

 

東京や大阪や岡山や四国など各地で体験した美咲の歌唱イヴェント。MC 担当のかた(たぶん徳間ジャパンのかただと思う)が、それじゃあお願いします、岩佐美咲!と言ってカラオケのイントロが流れ、あの着物姿の美咲が脇から、あるいは後方(ばあいによっては前方)から、にこやかにほほえみながら登場し、その瞬間、「初酒」や「鯖街道」のリズムだと心がウキウキする。

 

ぼくらは客席から「わっさみ〜ん!」コールの大合唱。「初酒」や「鯖街道」のばあい、美咲は左手に持ったハンド・マイクを右手で叩き、曲にあわせての手拍子をうながす。それでぼくらもリズムに乗っての手拍子をはじめるんだよね。イントロが終わって美咲が歌いはじめたらすっかりいい気分。手拍子しながら美咲の歌を聴き、味わって、それがほんと〜に楽しいんだ。

 

こんなこと諸々、美咲の歌唱イヴェントにどんどんでかけていくようになるまでちっともわかっていなかった。一回四曲のイヴェントの幕開けに「初酒」か「鯖街道」が来たら、もうそれだけでノリがよくってうれしくて楽しい気分なんだよねえ。もちろん、美咲の歌がリズミカルでノリがいいっていうことなんだけど、どうやら小規模な歌唱イヴェント独特の感情みたいだ。

 

そんなわけだから、今後もまた可能な範囲で美咲の歌唱イヴェントを体験すべく全国に…、はムリだから西日本エリア中心に、でかけていきますよ〜!待っててね、わさみん!当面は6/8、9の大阪と6/30の広島ですね!

2019/05/26

フィルモアのマディ1966

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マディ・ウォーターズの『オーソライズド・ブートレグ』(2009)。1966年11月にサン・フランシスコのフィルモア・オーディトリアムに出演した三日間の記録から抜粋編集されたライヴ盤だ。ところで、このジャケットで「オーソライズド・ブートレグ」と題するライヴ・アルバムがたくさんいろんな音楽家ので出ているのは、すべてウォルフガングズ・ヴォールトの音源ってことだよね。このブログでもいままでにネヴィル・ブラザーズのとか、いくつか書いた。

 

1966年フィルモア・ライヴでのマディはギターはまったく弾かずヴォーカルに専念。ギターが二名にリズムと、あとはやっぱりシカゴ・ブルーズらしくハーモニカが大々的にフィーチャーされている。この『オーソライズド・ブートレグ』でマディの次に目立っているのが電化アンプリファイド・ハープのジョージ・スミスだ。ソロは彼がほぼひとりで吹きまくる。

 

ギターの二名では、マディのメンバー紹介によればジョージア・ボーイ(ルーサー・ジョンスン)がセカンド・リードでサミュエル・ロングホーンがリードということだけど、音だけ聴いてどっちがどっちと判別できる耳はぼくにはなし。ギター二本がからみあっていたりする部分はまったく区別できない。スライドでソロをとったりするのはどっち?もわからず。

 

このアルバムは、11月4〜6日の記録だけど、4日から四曲、5日から六曲、6日から5曲を収録し、日付順には並べていないよね。テープは三日間のすべてを記録してあるんだろうと思うんだけど、でもぜんぶ出してほしいとは思わない。このアルバムを聴けば三日間とも大同小異だったとよくわかるからだ。レパートリーも、抜粋編集したこのアルバムですらかなり重なっているし内容もほぼ変わらず。だから三日間トータルの内容をフル・リリースしたところで冗長になってしまうだけだろう。

 

だから『オーソライズド・ブートレグ』は、これでよく編集された好アルバムと言えるんだね。さて、このアルバムを聴いて感じるのは、大きく言って二点。歌手マディの存在感のデカさ、ブルーズがロックとどう違うのかという決定的なポイント、のふたつだ。前者についてはあまり言を重ねなくていいだろうと思う。マディのヴォーカル・パフォーマンスの見事さを聴いてほしい。声もよく通るハリのあるトーンが伸びやかによく出ていて、しかもナチュラルでスムース、さらに大きな余裕も感じるゆったりさ。

 

たとえば5日分のラスト「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」。最終盤でストップ・タイムが入りバンドがパッと止まった時間に、マディはひと呼吸おいてから「フ〜ン!」と言う。それに続いて「ジャスト・ドント・ワーク・オン・ユー」を歌う。それでバンドがエンディングを演奏するわけだけど、その「フ〜ン!」の余裕綽々の憎たらしさったらないね。こんなパフォーマンスは1950年代のマディでは聴けなかった。ギターを弾かずともヴォーカルだけで自己の存在の大きさを見せつけられるようになっているじゃないか。

 

二点目。ブルーズが(ブルーズ・)ロックとどう違うのか?という決定的な音源に、このマディの『オーソライズド・ブートレグ』はなっていると思うんだよね。マディ・バンドのこの粘りつくような、後ずさりしながら前進するような(おかしい?)、決して軽快ではないブルーズ・ビートを聴いてほしい。こういったトリモチを敷きつめた部屋を歩いているかのようなノリはブルーズ特有、というかアメリカ黒人音楽特有のものなんだよね。

 

こういったブルーズ・ビートの感覚は呼吸みたいなもんだから、学習して身につけることはむずかしい面もあると思う。ロック界にいる白人フォロワーたちがどんなにがんばっても到達できない独特の粘り気と重さ、ノリがこの1966年フィルモアのマディ・バンドにはある。こういった音楽は、一聴、とっつきにくいものだ。ロック化されたブルーズのほうがわかりやすく聴きやすい。しかし、一度ヤミツキになれば逃れられない魅力が米黒人ブルーズにあるんだというのもまた事実。いったん聴くツボをつかんでしまえば、あとはひたすら気持ちいい。1966年フィルモア・ライヴでのマディ・バンドもまたそうなんだ。

2019/05/25

ここ三年の頻聴 9

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というものを今後定期的に書いていきたい。年間ベストテンは書くものの、三年スパンくらいで愛聴、頻聴しているものこそ、自分にとって大切な音楽のはずだ。その後、五年、十年と伸ばして考え書いていけば、音楽人生記録ができあがる。でもいまはそこまで考えていない。当面(今2019年を除く)ここ三年ほどよく聴く九つを記しておこう。

 

以下、その九つのリスト。よく聴く順に一位から並べただけの単純さ。しかし、ちょっと例外がある。それは岩佐美咲。いちばん頻繁に聴くのが美咲なんだけど、今日は外した。実力を反映したこれっていうアルバムがないからだ。CD にかんしては演歌歌手の御多分に洩れずシングル盤こそが活動のメインだから、泣く泣くあきらめるしかない。ふだん聴いている美咲は、シングル盤音源を集め自分でつくったプレイリストなのだ。

 

1) Nina Wirtti / Joana de Tal
2) Iona Fyfe / Away From My Window
3) Irineu de Almeida e o Officleide 100 Anos Depois
4) Paulo Flores / O País Que Nasceu Meu Pai
5) 原田知世 / 恋愛小説 2 ~ 若葉のころ
6) Van Morrison / Roll With The Punches
7) Ella Fitzgerald, Louis Armstrong / Cheek To Cheek: The Complete Duet Recordings
8) Hiba Tawaji 30
9) Prince 30

 

ニーナ・ヴィルチの『ジョアナ・ジ・タル』は2012年作だけど、出会ったのは2018年だったから。30分ないというアルバムの短さも頻聴するのにもってこい。二位のアイオナ・ファイフとともに、ヒマさえあれば、ちょっとしたスキマ時間でも見つけては、自宅でも出先でもどこででも、本当によく聴いている。

 

イリニウ・ジ・アルメイダ曲集は、このベストナインで唯一のインストルメンタル音楽。ここ三年といわず20年、30年単位で考えてもなかなか出現しない大傑作じゃないかと思う。それなのにとっつきにくさがなくファミリアーでフレンドリー。ずっと流しっぱなしにしたい音楽の筆頭だね。

 

パウロ・フローレスにはセンバ(アンゴラ)を教えてもらった。いつ聴いてもどんなに聴いても、楽しいしうれしく、同時に哀しく切ない。ところでセンバはポルトガル系クレオール・ダンス・ミュージックだけど、世界のいろんなダンス・ミュージックって相通ずるものがあると思いませんか。コンガ、サンバ、タンボレーラ、ファンク、ダブケ、バトゥーケなどなど。

 

知世ちゃんのことが好きなのはいまさら説明不要だと思うけど、このアルバムではさらに往年の懐かしい歌謡曲ばかりカヴァーしているのが頻聴盤になる大きな理由だ。伊藤ゴローさんのアレンジ、プロデュースも実にいい。サウンド・メイクに知世ちゃんの声がよくはまっているというか、活かすべくゴローさんが練っている。

 

ヴァンのこのアルバムには人生肯定感というか、苦しいことやつらいことを踏まえた上でしっかり前を向いて歩いていこうという、そんなゴスペル的なフィーリングがあるのがいいね。なんども聴いて、はげまされている。そのほかの個人的な意味でも、絶対に忘れられない一枚となっている。

 

エラ&ルイのボックスを聴くと幸せだからというのは説明不要だけど、ヒバ・タワジ(リリース当時30歳)の30曲とかも大好きだ。濃厚なアラブ歌謡節が多いなか、軽めのジャズ〜ポップス〜ボサ・ノーヴァみたいなものだってあるし、二枚組トータルで完成度が高い、良質なポップ・アルバムとして、軽い気分でよく聴く。

 

9位の『プリンス 30』だけが今日の例外で、音楽家やレーベルが発売した作品じゃない。ぼくがつくった私的プレイリストだ。公開してあるのでどなたでも聴けるこのプレイリストこそ、実はぼくの頻聴真の一位なのだ。間違いない。自画自賛だけど、よくできていると思う。昨2018年にこれをつくって以来、これを聴かない日はないとすら言いたい。

2019/05/24

ファッツをやる1955年のサッチモとその時代

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(オリジナル・アルバムは9曲目まで)

 

ルイ・アームストロングのコロンビア盤『サッチ・プレイズ・ファッツ』(1955)。以前書いた『プレイズ W. C. ハンディ』と同時期のアルバムでメンバーも同じ。ところで、サッチモとファッツ・ウォーラーは同時代人だけど、ファッツは1943年に亡くなってしまっている。それでトリビュート盤みたいなものをコロンビアが企画したってことなんだろうね。

 

内容的にも『プレイズ W. C. ハンディ』と『サッチ・プレイズ・ファッツ』は重なるところが多い、というか本質的に同一で、だれか特定のひとりの作家のソングブックをとりあげて、それを1950年代なかばのサッチモのレギュラー・バンドなりのやりかたでこなしてみせたという、そういったものだよね。ハンディをやるかファッツをやるかだけ。ファッツはシンガー、プレイヤーでもあったという大きな違いはあるけどね。

 

『サッチ・プレイズ・ファッツ』収録の九曲は、過去にサッチモ自身がやっていたものが多い。「スクイーズ・ミー」(1928)「エイント・ミスビヘイヴン」(29)、「ブラック・アンド・ブルー」(29)、「ブルー、ターニング・グレイ・オーヴァー・ユー」(30)、「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」(32)と、すべてオーケー(コロンビア系)録音があって、当時レコード発売もされている。

 

ってことは、1955年に『サッチ・プレイズ・ファッツ』を企画したコロンビアとしても、レパートリーの約半分が同社系原盤ですでにレコードもあるんだということは織り込み済みだったはず。いま2019年に聴くぼくらだってどうしても比較してしまうってもんだよね。それで実際そうしてみたけれど、いくつか発見があった。

 

まずサッチモのトランペット(というかこのひとはコルネットなんだけど)のサウンドは、やはりオーケー時代のほうがブリリアントだ。時代が古いせいの録音状態なんかまったく問題にしない輝きは、1955年にはやはりちょっとだけ鈍っていると言わざるをえない。しかし戦前のオーケー録音ほどは日常的に聴いていない『サッチ・プレイズ・ファッツ』を今回久々に聴きかえし、おりょ?あんがいかなり見事じゃないかと惚れなおしてしまったのも事実。

 

だからサッチモは1920年代後半こそがピークで、第二次世界大戦後なんてお話にならないよなどという世間の一部で流布している言説は真っ赤なウソだなと、今回確信するに至った。歳をとってトランペット吹奏を医者に禁止されるまで、サッチモの音の衰え、鈍りはあまりなかったというのが事実だったろうと思う。それに『サッチ・プレイズ・ファッツ』は1955年だからね、まだまだ立派だ。

 

ヴォーカルの味はといえば、こっちは断然戦後録音のほうが魅力を増している。これもあまり歳をとると声の質じたいが衰えてしまうもんだけど、それほどでもない年齢ならばキャリアを重ねた結果味わいに深みとコクを増すというものだろう。サッチモがファッツを歌っているのだって、戦前のオーケー録音ヴァージョンと同じ曲を『サッチ・プレイズ・ファッツ』とで比較すれば、歌の魅力は後者のほうがずっと上だ。間違いない。

 

年輪を重ねムダな肩の力の抜けた余裕も感じられる1955年のサッチモ版ファッツ。ゆったりくつろいでいるようなフィーリングで、昨日も書いたがもとからのんびりのどかなフィーリングを持っているファッツの曲のそんな魅力を中年サッチモがさらにいっそう増幅しているとでも言ったらいいか、そんなリラクシングな感じがあって、『サッチ・プレイズ・ファッツ』は極上の良質さ、心地よさだ。

 

しかし年輪とかキャリアを重ねたからとか、そんなことだけではないものがこのアルバムにはある。それはところどころロックっぽい8ビートになっている箇所が聴きとれるということだ。特にドラマーのバレット・ディームズが、ことにスネアをバンバン!と大きく強く叩くことで表現しているもの。基本、2か4ビートを基調としながら8ビートっぽさを加味しているんだよね。

 

このことにかんしては二点考慮しないといけない。一つは、8ビート・シャッフルはむかしからジャズの世界でもわりとふつうにあって、そんなものめずらしいものじゃなかったということ。特にブルーズをやるときはジャズ・メンもシャッフルになりやすいし、そうでなくとも1930年代からデューク・エリントン楽団も8ビート・シャッフルは使っている。『サッチ・プレイズ・ファッツ』の、特にトラミー・ヤング(トロンボーン)の背後でバレット・ディームズが叩いているのも同じパターンだ。

 

もう一点。やはり、1955年という時代だったんだなとぼくは思う。ちょうどロックンロールが台頭しはじめていた時期じゃないか。もちろんファッツ曲集をやるサッチモとそのバンドがロック・ミュージックを「意図的に」意識したとは思わない。だけど、音楽でもなんでも、文化って同時代的共振ってものがあるんだよね。それは本人たちだってコントロールできないものだ。同じ時代の空気を吸っているというのはそういうことじゃないかな。

2019/05/23

元祖シンガー・ソングライター 〜 楽しくのどかなファッツ・ウォーラーの世界

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『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』という CD 二枚組がある。この『ジ・エッセンシャル・コレクション』シリーズは英国のウェストエンドというところが展開している、戦前の古典ジャズ・メンのアンソロジー。どれも二枚組で、ベスト盤みたいなもんだね。ファッツ・ウォーラーも全体数が膨大になるため、聴きかえすのはたいへん。ふだん聴きには二枚組程度でじゅうぶん。

 

『ジ・エッセンシャル・ファッツ・ウォーラー』には1927年から42年までの(ファッツは43年没)計52曲を収録。だいたいこんなもんで概観だけならオッケーなんじゃないかな。代表曲はほぼぜんぶ入っている。そう、代表曲と言ったが、ファッツのばあいはこのことばがよく似合う。自作ナンバーの多いひとだから。

 

有名他作曲もやるけれど、自分で書いた曲が多く、それを自分で演奏しながら歌うっていう、そんなファッツは、いわば(アメリカ大衆音楽界における)シンガー・ソングライター第一号と言える。元祖 SSW、そんな存在だよね。むろん、アメリカ南部でギター弾き語りをやるフォークロア的世界のことはいま外して考えている。ちょっと音楽の種類も違うんだし、それらは「自作」とも言いにくい。

 

ポピュラー・ミュージックの世界で SSW というか、自分で歌うものは自分で書くのだという発想が一般化するのは、たぶん1960年代のビートルズ以後じゃないかと思う。ロックでも、それ以前の、たとえばエルヴィス・プレスリーなんかは他作曲ばかり歌っていた。しかしだいたいみんなギターだよね。ロック界でピアノを弾く SSW っていうと、ビリー・ジョエル、エルトン・ジョンあたり?あ、いや、もっと前にリトル・リチャードがいるか。

 

まあでもすくないよね。それにピアノで弾き語る SSW というと、女性のほうが多いように思う。ジャズとその周辺に限定すればクリオ・ブラウン、ネリー・ラッチャー、ローズ・マーフィーとか、そのへんかな。そしてここまで書いた全員の総先輩格にあたるのがファッツ・ウォーラーなんだよね。

 

だから、ピアノやオルガンの腕とかなんとかいうよりも、音楽史全体におけるファッツの重要性、意義とは、<自作自演>をはじめてやって世界を確立した第一人者っていうところにあるんじゃないかとぼくは見ている。それにファッツの自作曲はチャーミングなのが多い。「ハニーサックル・ローズ」「エイント・ミスビヘイヴン」「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」「手紙でも書こう」「嘘は罪」などは有名どころ。これも有名な「ブラック・アンド・ブルー」は、ファッツ自身の録音がない。

 

「ブラック・アンド・ブルー」を未演であることと関係あるかどうかわからないが、ファッツの録音集を聴いていると、ずいぶん楽しいフィーリングでやっているよねえ。例外なくぜんぶそうだ。しかものんびりのどかで、ほがらかな感じだ。心がけてそうやっていたんじゃないかと思える。愉快でふざけるような感じ、すなわちジャイヴ感覚もたっぷりある。

 

この点、つまりファッツをジャイヴ・ミュージックと結びつけて言っているひとがあまりいないんじゃないかと思うんで、ぼくは強調しておきたい。ファッツの音楽にはジャイヴ感覚が横溢しているってこと。だからクールだ。うん、間違いない。愉快で楽しくふざける、まさに音「楽」、それがファッツの世界だね。だから、肌が黒いのが悪いんだろうと泣くような(ホットな)曲は、書きはしてもやらなかったのかもしれない。

 

ぼくは長年そういった世界が苦手だった。シビアなハードさ、切り口鋭いエッジの尖った感じの熱い音楽が好きだったんだよね。のどかで厳しさなんかなさそうなファッツの音楽は、だから主にピアニストとしての腕前に耳を傾けるというような接しかたをしていたわけ。愚かだったなあ、ぼくは。ファッツの世界を理解できていなかった。

 

自分も歳とって、それでようやくファッツのこんななごやかで落ち着いた世界が本当にすばらしいと心から実感できるようになったのかもしれない。それで今日こんな文章を書いている。

 

※ 参考アルバム(ぼくの持つ『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』はこれじゃないけど)。
https://open.spotify.com/album/5fsLHfEdum0RWT4NhCcLjz?si=5RvcduYFTBujm_w6J7pwRA

2019/05/22

ボッサってな〜に?

41pz5unrxyl_sl500_https://www.amazon.co.jp//dp/B00005IW0G

 

世界で最も知られているブラジル音楽がボサ・ノーヴァだけど、ボサ・ノーヴァってなに?このことばはどういう意味?と聞かれたら右往左往してしまうぼく。ノーヴァのほうは、英語なんかでもスーパー・ノーヴァ、すなわち超新星と言ったりするので「新しい」という意味なんだな、つまりは音楽の新潮流みたいなことを言おうとしているのか、と推測がつくけれど(ウェイン・ショーターに同題のアルバムあり)、ボサ、またはボッサがわからないよねえ。

 

そんなとき、1999年のオフィス・サンビーニャ盤アンソロジー『サンビスタス・ジ・ボッサ』がかなり参考になる。アルバム題どおり、ボッサ感覚を持つサンバ歌手たちの録音をどんどん並べて、ボッサがなんなのか、解説文の田中勝則さんも特にこういうことと明言されていないけれども音源で実感してもらおうという一枚じゃないかな。

 

だから収録されているのは24曲すべてサンバだけど、ボッサ感覚を持つものってなんだろうと、ぼくは最初わかっていなかったが、だんだんこういうことかな?とぼんやり感じるようになった。それを今日ぼくは明記しておきたい。ボッサ感覚とは、サンバのなかでも特に都会的で粋なセンスのオシャレでファンキーなもの、そんなフィーリングを指していると思う。

 

サンバといっても実にいろいろあって、もとがカーニヴァル用の音楽だからダンサブルで泥臭いものもあったりするのだが、『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されているサンバにそういったものはない。ちょっとあえていえばヤワな、華奢な、おしゃれなやさおとこ的なというか(女性カルメン・ミランダが収録されているが)、そんなサンバばかりどんどん並んでいるとしていいんじゃないかな。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されている歌手は、だいたいがルイス・バルボーザ、シロ・モンテイロのふたりだと言ってもいいくらいで、ソングライターでいえばウィルソン・バチスタとジェラルド・ペレイラにしぼられるとしたいほど。年代で言えば、たとえばサンバ・ジ・ボッサの最盛期は1940年代前半と言っていい。

 

そのころ、サンバとショーロが再合体し、サンバに小粋なスウィング感が聴かれるようになり、同時にファンキーなユーモア感覚もあわせ持ち、軽妙にノリよい曲をスッと軽く歌うことが時代の潮流だった。そんなことを<ボッサ感覚>と呼んでもいいんじゃないかなと思う。最初はサンバのなかに出てきた(新しい)感じといった程度の使われかただったのかもしれないんだけど、ノエール・ローザやカルメン・ミランダの歌詞のなかにも歌い込まれるようになって徐々にサンバ音楽になかに定着し、1940年代になってサンバ・ジ・ボッサなどと呼ぶようになったのだろう。それがボサ・ノーヴァという命名の起源となった。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』のなかにある、たとえばシロ・モンテイロの歌のなかには、ほぼボサ・ノーヴァに近づいている、あるいはボサ・ノーヴァそのものであると言いたいくらいのものだってあるんだ。だから、サンバからサンバ・ジ・ボッサを経てボサ・ノーヴァへいたる道のりはひとつながりだったんだなと実感できる。

2019/05/21

ショーロ・ルネサンス?〜 トリオ・ジュリオ『ミーニャ・フェリシダージ』

1007812325https://open.spotify.com/album/6E882EOacKWLz5OH0MyHgo?si=kTZvvkVxSZqxtJ6QuBQAyA

 

これも bunboni さんに教わったものです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-21

 

オーソドックスな古典ショーロをやるトリオ・ジュリオの2017年デビュー作『ミーニャ・フェリシダージ』がとてもいい。曲もアルバム全体も(いい意味で)古くさい音楽。このことは、たとえば曲間の空白時間でもわかる。ある時期以後の音楽アルバムではあまり間合いをおかずどんどん次の曲が流れてくるけれど、『ミーニャ・フェリシダージ』では曲と曲のあいだにたっぷりポーズがおかれている。むかしの音楽レコードみたいで、最近の傾向にすっかり慣れちゃっているから、最初は一瞬オリョ?止まった?と感じたほど。

 

トリオ・ジュリオの『ミーニャ・フェリシダージ』は、兄弟三人によるバンドリン、ギター、パンデイロのトリオ編成を基本に置きつつ、三人での演奏曲もあるけれど、多くのばあいゲストを曲によって変えながらどんどん迎えて、自作曲をやっているという感じかな。そんな自作曲も、どこも現代ふうでない古典的意匠で、ぼくなんかは好感を抱く。いかにも伝統と現代がひとつながりで接合しているブラジル音楽界ならではだね。

 

アルバムの最大の目玉は、やはり管楽器奏者を複数迎えてやっている8、10曲目かな。そのメインはアキレス、エヴェルソンのモラエス兄弟なんだ。ね、憶えているでしょ、例のイリニウ・ジ・アルメイダ曲集の中心だったふたりだ。そのときフィーチャーされていたオフィクレイドをエヴェルソンは10曲目で吹いている。8曲目ではトロンボーン。

 

オフィクレイドなんて、そのイリニウ曲集まで完全に忘れ去られた楽器になっていたものだし、イリニウの得意楽器だったからエヴェルソンは復活させたんだけど、それをトリオ・ジュリオに客演しても演奏しているのは、あるいはひょっとしたらエヴェルソンのほうからもちかけたアイデアだったかも。トリオ・ジュリオの三人がオフィクレイドを提案できるかどうかわからないし。

 

実際その10曲目ではアレンジ担当がエヴェルソンとクレジットされている。作曲はほかの曲同様マルロン・ジュリオだけど、アレンジだけエヴェルソンがやって、しかもグルーポ・オス・マトゥトスがまるごと参加していて、エヴェルソンがオフィクレイドを吹くんだから、トリオ・ジュリオとオス・マトゥトスの共同作業によるワン・トラックと言っていいかも。実際、おもしろい仕上がりになっている。

 

(オス・マトゥトスじゃないものの)同じくアキレスとエヴェルソンが参加した8曲目も楽しいし、管楽器のいないシンプルなトリオ編成のトリオ・ジュリオにして、なんだか実はこのアルバム『ミーニャ・フェリシダージ』はなかなかヴァラエティに富んでいる一枚と言えるかも。いろいろ流れてきて楽しいし。それに10曲ぜんぶがメンバーの自作だけど、それもきわめて古典的でオーソドックスなショーロ曲の創り。それをストレートにやって、過去の楽器オフィクレイドも使ったりする。

 

つまりは、ある種のルネサンス的な意味合いすら感じるこの『ミーニャ・フェリシダージ』だけど、当のトリオ・ジュリオの三人はそんなことをあまり考えすぎず、ただやりたい音楽を自由にのびのびとやっているなと感じられる素直さも好感度大。古典ショーロ好きじゃないと楽しめない作品だけどもね〜。

2019/05/20

定型のない軽妙なロバート・ウィルキンス

Fullsizeoutput_1eeahttps://open.spotify.com/album/6WVlNEjuEWQtzx5uiT0KxT?si=cQ5UJRyWTyWtPCxJqyKRkg

 

ローリング・ストーンズが下敷きにした戦後録音もありはするものの、やはり第二次世界大戦前のメンフィス・ブルーズ・シーンでこそ重要人物だったロバート・ウィルキンスが、その大都会に移住してきたのは1915年のこと。すでにギターで弾き語っていたらしい。ウィルキンスの戦前録音のすべてを、ぼくは1990年の P ヴァイン盤 CD『プロディガル・サン〜放蕩息子』で愛聴している。曲順は違えど上の Spotify リンクは同じ中身のアルバム。全17トラック。これ以外には1964年のゴスペル・アルバム一枚があるのみのひとだ。

 

ヴィンテージ録音(1928〜35年)に話を限定すると、ロバート・ウィルキンスのブルーズにはほぼ定型がない。ほとんどがひとりでの弾き語りであるカントリー・ブルーズの世界ではそれがあたりまえだけど、それにしてもウィルキンスの融通無碍さはなかなかすごい。推測するにたぶんまず歌があって、それに合わせてギター演奏もついていっているだけだから、そしてその歌とは(だらっと続く)バラッド的なお話だから、ということなんだろうなあ。

 

とはいえ、計17トラックのうち三つ「ダーティ・ディール・ブルーズ」「ブラック・ラット・ブルーズ」「ニュー・ストック・ヤード・ブルーズ」は定型の AAB 12小節3コード形式。これには理由がある。このときのセッションでだけ二名の伴奏者がいるからだ。実にカチッと定型化しているよねえ。それにしてもスプーンが付くなんて(カチャカチャという音がしている)、いかにもメンフィスらしい土地柄だ。

 

とにかくバンドというか複数名でやると定型化するというのはわかりやすい話だ。戦後もひとりで弾き語ったカントリー・ブルーズ・マン、たとえばライトニン・ホプキンスなんかはやっぱり小節数が伸び縮みしているんだもんね。しかしだいたいが一小節単位でのことで、ロバート・ウィルキンスのばあいは、半拍伸びたりしてワン・コーラス(という概念もたぶんないのだが)13小節半だとか、あるいは15小節だとか、そんなのだってある。

 

上でも書いたけど、伝承的な物語歌、すなわちバラッドの世界では、まあ詩として世に出るばあいはある程度フォーマットがあるだろうけれど、それでも現場で歌って聴かせるのにかたちはいらない。その場その場で観客の反応も見ながら自在に端折ったり延長したりくりかえしたりするわけで、それもちょっとだけとか大幅にとか、よくあることじゃないか。

 

ロバート・ウィルキンスも最初のレコードである SP 両面の「ローリン・ストーン」2パートがそこそこのローカル・ヒットになって、ラジオ出演した際この曲にリクエストの電話がじゃんじゃんかかってくるためやめられず、ついに番組の一時間ずっと「ローリン・ストーン」だけ歌っていたという(ウソかホントかの)エピソードまで残っている。お話とはそういうもんだね。

 

アメリカの黒人ブルーズが(発祥時に?プリ・ブルーズ的な部分で?)けっこうバラッドと関係があったとは、ぼくも以前から書いていることで、それは戦後のマディ・ウォーターズの弾き語りなんかにも姿を現している要素。ましてやミシシッピのど田舎ハーナンドー生まれで戦前のメンフィスで活動した弾き語りのロバート・ウィルキンスなら理解しやすいことなんだよね。

 

ローリング・ストーンズがとりあげた「ザッツ・ノー・ウェイ・トゥ・ゲット・アロング」(プローディガル・サン)も見事に変型で、というか変型とか定型とかいう概念でくくれないのがロバート・ウィルキンスで、歌がまずあって、歌いながらそれにあわせて拍数がかなり半端になっている。それでここまで結果的に構成がちゃんとなっているように聴こえる組み立て能力はすごいね。歌もギターも軽妙洒脱だ。

 

また、「ゲット・アウェイ・ブルーズ」も傑作で、出身地であるミシシッピのブルーズっぽい感覚の一曲。ヴォーカルも力強いが、ギターのパターンに注目。フリーなワン・コードに近い展開で、その上、ジョン・リー・フッカー的な二拍三連に近い弾きかたもあるかと思えば、低音弦でブギ・ウギ・ピアノの左手みたいに動いたりもする。

2019/05/19

ジョエル・ロス登場

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ブルー・ノートからデビューしたばかりのジャズ・ヴァイブラフォンの新人ジョエル・ロス。そのプレイぶりは、ハーモニー面でもリズム面でもチャレンジングだ。ジャズ的なスリルに満ちたデビュー・アルバム『キングメイカー』(2019)は、ヴァイブラフォン+アルト・サックス+ピアノ・トリオのクインテット編成だけど、めくるめくようなエモーショナルな演奏で聴き手をグイグイと世界に引きずり込むパワーを持っている。

 

ジョエル・ロスのことをブルー・ノートは前々からプロモートしていて、まだデビューもしておらず一曲も聴けない状態の新人としては異例の大きな扱いだった。デビュー作『キングメイカー』のリリース予定日が決まると会社の推しっぷりにも一層熱が入り、ぼくも毎晩(のように、ではなく文字どおり毎晩)ツイートを読んでいたから、もうすっかり聴く気、買う気満々で、実際リリース日に Spotify で聴いて、たしかにこりゃすごいとうなって、速攻で CD も買った。

 

『キングメイカー』をお聴きいただければわかるように、ジョエルのマレットさばきは超高速。しかも寸分の狂いもなく極めて正確だ。さらにかなり熱情的な演奏ぶりで、気持ちが入るとグングン高揚し、同じくエモーショナルなアルト・サックス(イマニュエル・ウィルキンス)と一体化してクインテットの演奏全体がかなりの熱量を帯びる。かと思うと、同時にどこか醒めたクールなアティテュードも感じるよね。

 

ヴァイブラフォンのジョエルと一体化した演奏ぶりという意味では、ドラマーのジェレミー・ダットンもかなりすごい。複雑なポリリズムをひとりで難なく叩き出していて、多彩なドラミングで演奏に躍動感を与えているのだが、リズムの変化においてジョエルと一体化しつつどんどんチェンジしているのがわかる。

 

アルバム『キングメイカー』のぼくにとっての快感の肝は、この三位一体、ヴァイブラフォン、サックス、ドラムスの重なり合いにある。必ずしも一体化せず、異なったまま重ねたりもして、特にジョエルがひとりでバンドの演奏にぶつけるように異リズムで演奏していると思うんだ。それでいてジョエルもバンドも違和感なくスムースにこなしているよねえ。すごいことじゃないかな。バンドの演奏に対しジョエルひとりが異をレイヤーしていくというのはハーモニー面でもそう。

 

デビューしたての新人でありながらヴァイブ・ヴァーチューゾでもあるっていうのは、たとえば5曲目「イズ・イット・ラヴ・ザット・インスパイアズ・ユー?」でもよくわかる。ここではサックスとピアノを抜いたヴァイブラフォン・トリオでの演奏だから、もっぱらジョエルの超絶技巧に焦点が当たっている。聴きながら、なんてすごいんだ、しかも爽快だ、とうなっちゃうなあ。ジェレミーのドラミングにも要注目。ふたりで突っ走っている。

 

クインテットの演奏も、ジョエルひとりの演奏をとりだしても、多彩でチャレンジングな『キングメイカー』。ぼくがことに注目するのはリズム面での斬新さ、おもしろさだけど、和声面でもユニークで、収録曲もほとんどがジョエルの自作でありかつ、なんとプロデュースまでやっている。ヴァイビストとしてスケールが大きいというだけじゃない、トータルな音楽家としてのデカさを感じるね。

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2019/05/18

グナーワ大学 2019

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ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)での活動で名を知ってすっかりファンになったアジズ・サハマウイ。彼のユニヴァーシティ・オヴ・グナーワ三作目が、今2019年にリリースされたばかりの『ポエティック・トランス』だ。これはかなりいい内容のアルバムだよね。グナーワ大学、一作目も充実していたが(このブログでもくわしくとりあげた)、この三作目はそれを上回っているかもしれない。

 

『ポエティック・トランス』で個人的にことさら気に入っているのは、ルーツ・グナーワ色を土台に置きつつ大衆音楽化しているもので、具体的には5曲目「Gang Sound of Mbirika」、7曲目「Soudani ya yémma」、9曲目「Sotanbi」だ。なかでも9曲目はポップ化もしていない生のグナーワといった趣で、これがいちばん好き。ディープでいいんだよね。

 

このあたりはモロッコの儀式グナーワが好きだという趣味嗜好からくるものだから、みなさんには共感していただきにくいかもしれない。それでも「ソタンビ」でカルカベ(金属製カスタネット)よりもドラム・セットの音を前に出し、エレベやエレキ・ギターも入れたりして、腐心してわかりやすくしようとしている。リード・ヴォーカルとバック・コーラスのコール&レスポンスは伝統マナーそのままだ。

 

もし『ポエティック・トランス』ではじめてグナーワっていうようなものに触れるという向きがおありならば、この9曲目でゲンブリとヴォーカルだけにして、ドラムス、エレベ、ギターを抜き、そこにカルカベをもっと大きく入れたら、それがだいたいディープなルーツ・グナーワの音楽像なのだと考えていただきたい。ぼくはそういった音楽が大好きなんだ。アジズだって、演奏終了後に思わず叫び声をあげているんだから、やはりこういったものこそが本領なんだと思う。

 

そんなアルバム・ラストの「ソタンビ」にはグナーウィとしてのアジズの心意気みたいなものが表現されていて、このアルバム『ポエティック・トランス』ラストに置かれた白眉のワン・トラックとなっているんじゃないかな。そのほか、5曲目、7曲目もグナーワ・ベースのポップ・ミュージックで、これらは比較的聴きやすいかも。

 

5曲目「ギャング・サウンド・オヴ・ムビリカ」でゲンブリ演奏がはじまってしばらくして、お腹に来る地を這うようなエレベが聴こえてきた瞬間に背筋がゾクゾクするし、アジズのヴォーカルもコール&レスポンスのコーラス隊も充実している。ここでもドラム・セット入り。途中からンゴニとトランシーなエレキ・ギターがからんで間奏をつくるあたり、このバンド、グナーワ大学のありようを発揮したものと言えるだろう。おもしろい。

 

ンゴニは、グナーワ大学において以前から頻用されていて、バンド名に反し音楽に西アフリカ色をもたらすことになっているのだが、アジズのユニヴァーサルな音楽企図が見えて、ぼくは好感を抱いている。それとエレキ・ギターをからめるなど、全体的に(プロデューサーのマルタン・メソニエのおかげもあるけど)種々音楽要素のフュージョン色が強いのも、結果的には大成功だ。

 

7曲目「スダニ・ヤ・イェマ」では、まずゲンブリ独奏が出て、それにヴォーカルのコール&レスポンスだけがからんでいくから、最初思わず「オオ〜〜ッ!」と喜んでいたら、ポップなドラムス演奏が入り、エレベ、エレキ・ギターと入ってきて大衆音楽化する。特にこの曲ではドラムスの音が大きく、演奏も派手だ。

 

すると、途中から派手でやや長尺なエレキ・ギター・ソロも出て、そこはまるでハード・ロックさながらだから、この7曲目を最初から聴いているとグナーワ・ロックみたいな感じにも聴こえるね。聴きやすくていいと思う。最初ディープなルーツ・グナーワふうにはじまって、瞬時にポップ・ミュージック化して、どんどん高揚していくさまを聴かせる構成は、アジズもさることながらマルタンの貢献を感じる具合だ。

2019/05/17

ロベルタ・サーの新作が心地いい

7898324317545coverzoomhttps://open.spotify.com/album/16ACI5slW2WX9SP895SwRC?si=2_Xa1ok6TsKt60YthAYkpw

 

リリースされたばかりのロベルタ・サーの最新作『Giro』(2019)。とてもいいよね。目玉はやっぱりジルベルト・ジルとジョルジ・ベン・ジョールが参加した4曲目かな。もちろんすばらしい出来だ。この曲だけ、アルバム中ほかの曲とはグルーヴ・タイプが異なっているのも注目点。なんというかビートがタイトでシャープ。鋭角的な切り込みも聴かせているよね。とても好きだ。バイーアふうサンバだしね。

 

でもこれはアルバム全体の色調からしたらやや異色と言えるはず。全体的には、やわらかく丸いソフト・タッチな音楽をロベルタはこころがけているのがわかる。それは4曲目「Ela diz que me ama」に続き流れてくる5曲目「Nem」でもわかる。こののどかさ。これですよ、心地いいのは。決して肩肘張らないリラクシングなムード、それがいいと思うんだよね。ほんわりあたたかくて。

 

そう考えると、そんなあったかやわらかいロベルタふう新サンバは、アルバム中ほかでもいっぱい聴ける。1曲目「Giro」はサンバかどうかわからないが、シンガー・ソングライターとしてのロベルタの世界を端的に表現したもの。続く2曲目「O Lenço e o Lençol」はややシャープかなと思わないでもないがソフト・サンバで、こういうのがいいと思うんだよね。ロベルタの声も女性ならではのやわらかさがあって、聴いていて癒される気分。

 

心地よく癒されながら、アルバムのトータル41分間を聴き終えるというのが正直なところ。全体的にとがっていたりハードだったりタイトだったりすることがほぼなくて、サンバ・ミュージックの持つ人間味、あたたかみだけを取りだしたような音楽なのがいいよ。6曲目「Fogo de Palha」の、エコーがやや深めにかかったロベルタの声とこのバックのサウンドのあったかやわらかさとか、これもサンバな8曲目「A Vida de um Casal」の弾き語りの親密なムードとか(後半のフリューゲル・ホーンも実にいい)。

 

9曲目「Xote Da Modernidade」ではハーモニカが活きているし、ヒューマンなぬくもりを感じるサウンドだよねえ。サンバとはいえないが、現代ブラジル音楽の持つ人間らしさをよく表現できていて、音楽的姿勢としてはサンバのそれに相通ずるものがあると言えるかも。ハーモニカを入れようというのはロベルタのアイデアだったのかなあ。

 

アルバム・ラストの「Afogamento」がこれまたよくて、この新作『Giro』でロベルタがとっている姿勢というか音楽性、つまりヒューマンなあったかみ、ソフトで丸いぬくもりといったものを典型的に表現したような、まるでそばに座って彼女がギターで語りかけてくれているかのような親密さも感じる、そんな音楽で、フリューゲル・ホーンとテナー・サックス二管の入りかたもうまいし、ホッとするねえ。

 

41分間という長さも適切で、なんどもなんどもくりかえし聴くロベルタ・サーの新作『Giro』。聴いても聴いても飽かず、あったかさにほだされて、こっちのメンタルまで適温になっていくような、そんないい音楽だなあ。実はかなりの深みと凄みをも同時に帯びた作品だしね。いやあ、実にいいですよ。

2019/05/16

最新型キューバ・ジャズ 〜 エル・コミテ

1007871589https://open.spotify.com/album/1SRDcKEvs6Hg6f2bwD8lJP?si=z5egbtHuSFOJTyuSFNHmHQ

 

一作目『Y qué !? (So What)』(2019)を出したエル・コミテ(El Comité)はデビューしたばかりのキューバのジャズ・グループ。といっても新人で構成されているわけじゃないみたい。ピアノ(鍵盤)二名、トランペット、テナー・サックス、ベース、ドラムス、パーカッションの七人編成だけど、リーダー格の鍵盤奏者アロルド・ロペス・ヌサ、もうひとりの鍵盤ロランドー・ルナ、ドラムスのロドネイ・バレットあたりは知名度のあるところ。ほかもキャリアのある演奏家が混じっている模様。

 

そんなエル・コミテの一作目『イ・ケ!?』はソー・ワットとタイトルにあるように、ひょっとしてマイルズ・デイヴィスのあれをやっているんじゃないか?そうじゃないかもしれないが、もしそうだったならマイルズ・マニアとしては絶対に見逃せないなということで買ってみたというのが正直なところ。しかしアルバムを聴いたらそれよりも全体的におもしろかった。

 

アルバム・ラストにあるのはたしかにマイルズの「ソー・ワット」だ。マイルズ・ヴァージョンでベーシストが弾くテーマ音列を、エル・コミテではピアノ(たぶんアロルド)が演奏している。ホーンズのアーメン合奏は同じ。その後やはりラテン/キューバ/サルサな展開を聴かせているのがこのバンドの特徴だね。こんなラテンな「ソー・ワット」はたぶん世界にふたつとないはず。しかも勢いとかノリっていうよりメロウさを前面に出したようなアレンジと演奏で、いやあ、楽しめました。

 

メロウさは、このエル・コミテの『イ・ケ!?』全体を貫いているトーンで、あわせてなめらかさとかスムースさも目立っている。このあたり、これはキューバのジャズ・バンドだけど、アメリカ合衆国の現在形ジャズもブラジルのでもそんなのが多いし、これって<アメリカの>先端ジャズに共通する特色なんだろうかなあ?わりとそういうのが目立つなと思うんだけど。

 

でもエル・コミテの『イ・ケ!』は、いかにもラテン・ジャズのバンドというだけのノリのよさや強いグルーヴがやっぱりそこかしこにあって、土地柄とか音楽の地域性は抜きがたいものがあるんだなと思う。静かな水のようにスムースに流れているばあいが多いブラジルなどのジャズとは違う部分だ。エル・コミテのこのアルバム1曲目を聴いただけでもわかると思う。

 

ときどきサルサ・ジャズみたいな激しいノリを聴かせるばあいだってあるエル・コミテ。バンドの肝というか最重要人物にしてぼくのいちばんのお気に入りになったのはドラムスのロドネイ・バレット。複雑なリズムを手数の多い細分化されたドラミングで表現していて、なかでもスネア・ワークがにぎやかで好みだ。シンバルはあまり叩いていないが、もっとシンバル使っていいぞ’。ともあれ、このビート感はぼく大好き。

 

それが典型的に出ているのが4曲目の「トランジシオーネス」。アロルドのピアノにロランドーのエレピがからみ、ホーンズによるテーマ合奏が出たらそのアブストラクトさにのけぞりそうになるけれど、その背後でのロドネイのドラミングの見事さには感心するね。その後のソロ・パートで各人がしのぎを削るが、リズムやビートが好きだ。アロルドのピアノはやっぱりちょっとサルサっぽい。特にブロック・コードで弾くばあいはね。ドラムスとパーカッションの打楽器掛け合いパートも楽しい。この曲はノリが強くていいね。

 

どこまでもメロウ路線をひた走る5曲目「カルリートズ・スウィング」もいいし、ふたたび強力にグルーヴする6曲目「アラマー 23」に聴きほれていると、7曲目「ナダ・マス」でやっぱり甘美の極み。二名同時演奏のピアノとエレピのからみが、5曲目でもそうだけど、本当にきれいだ。8曲目「ソン・ア・エミリアーノ」は、エミリアーノ・サルバドールに捧げてキューバン・ジャズのレジェンド、ガブリエル・エルナンデスが書いた曲。アロルドのピアノがやはり典型的にキューバン〜サルサっぽい。これと続くラスト「ソー・ワット」だけがこのアルバムでの他作曲。

2019/05/15

ベイビー、ハウ・ロング

hFullsizeoutput_1ee9ttps://www.youtube.com/watch?v=2IBG2KNCMOw

 

どうしてこんなに好きなのか、ダン・ピケットのやる「ベイビー・ハウ・ロング」。いやあもうなんどもなんどもくりかえし聴いてしまう。リロイ・カーがオリジナルのこのブルーズ・クラシックの数多あるヴァージョンのなかで、たぶんいちばんの好物がこのダン・ピケットのだな。いや、たぶんじゃなくて間違いない。

 

そもそも1991年の P ヴァイン盤であるダン・ピケットの『ロンサム・スライド・ギター・ブルーズ』を新宿丸井地下のヴァージンメガストアで買うまで、ぼくはこのスタンダード曲を聴いたことがなかったはずだ。この CD だって、ダン・ピケットという名前だって、なにひとつとしてちっとも知らずにこれを買ったのは間違いなくジャケットの雰囲気のおかげ。

 

それで買って帰って自宅で聴いて、1曲目の「ベイビー・ハウ・ロング」で、な〜んて魅力的なブルーズ・マンなんだ、な〜んて魅惑的なブルーズ・ソングなんだろうと感激しちゃったのだ。実際、ダン・ピケットのやる「ハウ・ロング」は群を抜いてすばらしいと、いまでも聴くたびに感じる。むかしと違っていまはたくさんのヴァージョンを知っているけれど、それでもね。

 

ダン・ピケットの「ハウ・ロング」は、リロイ・カーのオリジナルとはずいぶん違う。メロディ・ラインも微妙にユニークだし、歌詞なんて「ハウ・ロング」というリフレイン部以外はまったくのオリジナルと言ってさしつかえないほど独自のものだ。ま、歌詞にかんしてはほかのいろんなブルーズ歌手もリロイのオリジナルにとらわれず独自展開を聴かせているけれど。ほかのブルーズ・ソングでもね。

 

それにダン・ピケットの声、これがまた実にいい。独自の塩辛いトーンが、この、パートナーが去っていったあとの人間のさびしさ、わびしさ、孤独感をいっそう強調しているかのようで、本当に味があるよなあ。またヴォーカル・ラインは長調なんだか短調なんだかわからない具合にさまよっているのもイイネ。出だし二回目の「ハウ・ロ〜ング」を聴いてみて。

 

それにギターがまたいいね。高音弦をスライド・バーですべりラインを奏でながら、中低音弦でザクザクと刻んでいるバランスは絶妙。ダン・ピケットもいかにもカントリー・ブルーズ・マンだというだけの典型的なパターンではあるけれど、この「ハウ・ロング」では実に絶妙だ。リズムの刻みかたは力強くもあって、哀しく切なく泣いているように震える高音弦スライドと好対照。

 

曲の途中のワン・コード部で、スライド・バーを使いビョ〜ン、ビョ〜ンと一音をくりかえしながらモーダルに展開するあたりも見事だ。そのあいだ、上物のヴォーカル・ラインはしっかりメロディアスに動くのだが、モーダルなギター・フレーズ土台は、ブルーズとはスケール・ミュージックなのだということを(たぶん意識せずに)示してくれてもいる。

 

ダン・ピケットは、「ベイビー・ハウ・ロング」を含む1949年8月23日の全18トラックがすべてのブルーズ・マンだけど、リロイ・カーを焼き直したその一曲の、異様に鈍く輝く宝石のおかげで、ぼくのなかでは永遠に忘れられない大きな存在となっていて、ぼく自身の心境をこの「ハウ・ロング」に重ね、あぁ、こんなふうにギターで弾き語れたらなあと思うヒーローのひとりなんだよね。

2019/05/14

チック・コリアの仮想マイルズ・クインテット?〜『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』

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チック・コリアの音楽キャリア最高期はマイルズ・デイヴィス・バンド在籍時の1969年ロスト・クインテットでのライヴ録音にあり、というのが長年の自説なんだけど、チック自身のリーダー名義のスタジオ録音で、それに匹敵する絶頂レヴェルな作品があると知り、とてもうれしい気分。それが、こないだちらっと触れた2002年リイシューの『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』二枚組。二枚組といっても CD は中古が異様な高値で手が出ないので Spotify で聴いている。

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』は1969年5月11〜13日のセッションで録音されたもの。そのマテリアルは、もともと二枚のレコードで分散発売されていたらしい。一枚は「イズ」「ディス」「ジャマラ」「イット」を収録した69年発売のソリッド・ステイト盤『イズ』。そのほかを収録した72年のグルーヴ・マーチャント盤『サンダンス』。

 

分散発売のことや、2002年にブルー・ノートが集大成したいきさつなど、なにかと事情がありそうで、CD 附属解説文をマイクル・カスクーナが書いているそうだから読みたいんだけど、いまのところはしょうがない。正常価格で再リイシューされるまで待つしかないね。音楽だけなら問題なく聴けるので、個人的印象をちょちょっとメモしておこう。

 

まず、自分自身のためにパーソネルを確認しておく。

 

チック・コリア(ピアノ、フェンダー・ローズ)
デイヴ・ホランド(ベース)
ジャック・ディジョネット(ドラムス)
ベニー・モウピン(テナー・サックス)
ヒューバート・ロウズ(フルート、ピッコロ・フルート)
ウディ・ショウ(トランペット)
ホレス・アーノルド(パーカッション、ドラムス)

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』二枚組は、ディスク1と2とで明確な音楽性の差がある。一枚目はストレート・ジャズ、というかこれは新主流派ジャズだね。1965年ごろに、マイルズ・クインテットのサイド・メンを中心に、ブルー・ノート・レーベルで展開された、新感覚ハード・バップ(ポスト・バップ)のこと。二枚目はフリーで無調なコレクティヴ・インプロヴィゼイションの記録だ。

 

さて、録音セッションが行われた1969年5月という時点だと、この『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』のリズム三人は全員マイルズ・クインテットのレギュラー・メンバーだった。そして、ディスク1の新主流派ジャズもディスク2のフリー・インプロヴィゼイションも、当時のマイルズ・バンドを聴き慣れているみなさんなら違和感なく受け止められるはず。

 

チックとしては、ディスク1の、たとえば「ザ・ブレイン」とか「ディス」のような演奏は、ちょうどマイルズ・バンドの前任者ハービー・ハンコックらが展開していたことですっかりおなじみの音楽だったはず。それを次代のマイルズ・バンド・メン三人でもう一回やりたかったということだろうか。実際、とてもよく似ているしねえ。

 

サックスがベニー・モウピンでウェイン・ショーターとは比較できないが、それでもベニーだって大健闘だと思う。トランペットのウディ・ショウやフルートのヒューバート・ロウズはほとんど出てこないので、実質的にカルテット演奏だね。それで、当時かちょっと前のマイルズ・バンドや新主流派を再構築しているもののように聴こえる。演奏のクオリティも高い。

 

ところでここで演奏している「ディス」。これはマイルズ・バンドの演奏で聴いて知っていた曲だ。1969年のロスト・クインテットから70年のバンドまでマイルズのライヴではしばしば演奏されていた。チックの曲だとも知っていたのだが、スタジオ録音を聴いたのは今回が初。かなりいいよなあ。マイルズ・バンドのライヴ・ヴァージョンよりいいぞ。

 

『ザ・コンプリート・”イズ”・セッションズ』ディスク2のフリー・インプロヴィゼイション篇。アルバム題にもなっている「イズ」が29分近くもあって、実質これ一曲を聴くべきサイドと言っていいだろう。しかしここでもおそれることはない。マイルズ・バンドの、たとえば1969年8月録音の曲「ビッチズ・ブルー」では、ノー・テンポのパートなどで同様の展開を聴かせているじゃないか。そこでも主導権はチックが握っていた。

 

マイルズ・バンドにああいったフリーなコレクティヴ・インプロヴィゼイションを持ち込んだのは、こういったチック自身のセッションからの成果だったのかもなあと思わないでもない内容だよね、曲「イズ」は。ここではウディ・ショウもヒューバート・ロウズも活躍している。演奏最終盤で4/4拍子に移行してスウィングしながら終わるんだけど、そこも快感だ。長く強い緊張がとけるかのような心地よさがある。

2019/05/13

エディ・トゥッサの『カセンベレ』はやっぱりいいなあ

R849009314626376287155jpeghttps://open.spotify.com/album/4W1vYdUnAxSxzscrACmcNI?si=BRfkC4k9TUyA9u9pmkeTTg

 

アンゴラのエディ・トゥッサ、2015年盤『カセンベレ』。このへんがモダン・センバの嚆矢、いや、完成形のひとつだったのか、なんともわからないぼくだけど、とにかくカッコイイ。それでいてとっつきやすく親しみやすいファミリアーな音楽だよねえ。すごくいいなあ。エディは決して声がいいとか歌がうまいとか、そういったひとじゃないんだけど、音楽に取り組む姿勢みたいなものがとてもいいね。

 

『カセンベレ』だと、たとえば2、3、4曲目はわりとトラディショナルというかむかしながらの、つまり1970年代っぽいセンバを下敷きにしているよね。エディ・トゥッサは、ドラム・セットを含むモダンな楽器もどんどん使うけれど、音楽の組み立てがこれらの曲ではわりとオールド・ファッションド。エレキ・ギターの使いかたとそれにからむ打楽器群とか、まさにセンバ・オールド・スクール。

 

それで、ここではっきり言っておくけれど、ぼくはそういった古っぽいセンバが大の好物なのだ。現代的な同時代センバよりも好き。この嗜好がどこらへんから来ているのかはわからないが、とにかく古いほうが聴いていて気持ちいい。都会的な夜の雰囲気を漂わせる洗練された現代センバより、土臭い旧世代センバのほうに共感しちゃう。

 

あれかもなあ、いまならさしづめモダンな R&B よりもジェイムズ・ブラウンみたいな古いファンクのほうが好きなんだといったのと似ていることなのかなあ?ちょっと違う?2010年代的現代ジャズもいいけれど、オールド・ファッションドな古典ジャズはもっといいじゃんみたいな?違うか?そういえば、ロックの世界ってむかしもいまもあんまり変わらないよねえ?これも違うのか?

 

エディ・トゥッサの『カセンベレ』は、センバ新世代にしては古い伝統的センバ曲やその音楽家たちに積極的にリスペクトを表明したような作品で、それもテーマのひとつになっているような創りで、なんにつけても伝統尊重派のぼくとしてはかなり高い好感度を持つところなのだ。

 

カリブ海音楽方面にも目配せできているし、もろズークみたいなのもあるかと思えば、ちょっぴり現代 R&B っぽいような、あるいはジャジーなような、サウンド・メイクも聴かれ、それでもアルバム全体ではあくまで陽光のもと土の上で楽しくダンスしているみたいな音楽で、エディ・トゥッサの『カセンベレ』、やっぱり大好きですね。

2019/05/12

トニー・アレンのブレイキー・トリビュート、実はかなり好きなのだ

Fullsizeoutput_1e58https://open.spotify.com/album/6Di99uGNb1ITzZVPigCpES?si=hVhi1tvsTxqSn5Gbt_8rhA

 

いままで遠慮したりして言ってこなかったんだけど、2017年に『ザ・ソース』の前振りみたいにしてリリースされたトニー・アレンのミニ・アルバム『ア・トリビュート・トゥ・アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』のことがかなり好きなのだ。なにが好きといって、このリズム。トニー・アレンのドラミングを聴いているだけで気持ちいいもんなあ。

 

たった四曲で24分程度の EP なんだけど、なかなかどうして密度は濃い。そりゃあ傑作『ザ・ソース』とは比較できないけれど、『ア・トリビュート・トゥ・アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』のほうは、おなじみのジャズ・ナンバーばかりカヴァーしているおかげで、この2017年型トニー・アレンの音楽の特異性がかえってわかりやすいかも。

 

一見ふつうのハード・バップをやっていると思うでしょ、違うんだ。トニー・アレンのこのドラミングを聴いてほしい。手数多めで細分化されたビートを叩き出しているし、それを一曲をとおしずっとキープすることで、おなじみの曲が違った容貌を見せているじゃないか。リズム面でね。2曲目「チュニジアの夜」出だしのドラミングなんか、クールでカッコよくて、ゾックゾクするよなあ。

 

リズム面での斬新さは、テーマ・メロディのパラフレイズにも顕著に表れている。「モーニン」でも「チュニジアの夜」でもみんなそのテーマ・メロディはよく知っているものだから、トニー・アレン・ヴァージョンを聴いたらエッ!?と思うんじゃないかな。そのリズム重視でスタッカートを多用するテーマ・メロディの崩しかたに。

 

リズム隊三人(ドラムス、ベース、ピアノ)の奏でる斬新な2010年代後半型最新ジャズ・リズムに乗って、おなじみのスタンダード曲のメロディもリズム重視で姿を変えているし、ホーン五、六管の重ねかたもずっしりくるし、しかもその響きは新しく現代的。このへん、リズム・アレンジもメロディのパラフレイジングもホーン・アレンジも、ぜんぶトニー・アレンがやっているのかなあ。

 

ともあれ、従来的な、つまり保守的で1950年代後半のハード・バップが好きなようなジャズ・ファンが最新ジャズに入っていこうと思ったときの格好のイントロダクションになりうるアルバムじゃないかと思うんだね。そんなこと言わなくたって、たんに聴いていて快感だけどね、このビート(ホーンズのそれを含む)が。

2019/05/11

未知との遭遇

Devilstowerhttps://open.spotify.com/album/5AyQxbu3U3Pdtfvdp2GmjV?si=auco0hXXSM6TONBAP6krxA

(画像は本文と関係ありません)

 

は、まだまだ CD でのほうが多い。ついきのう、チック・コリアの『コンプリート・"イズ”・セッションズ』を Spotify で発見したが、しかしこれはまだ CD で買っていない。Spotify で見つけて聴いているだけ。だって速攻で CD 探したら、アマゾンで6000円以上もするんだよ。2002年に CD リイシューされていたものらしいが、まったく知らなかった。 じゃあどうしてストリーミングで見つかったかというと、ブルー・ノート・レコーズ公式 Twitter アカウントが、ストリーミングで聴けるようになったぞと、きのう4月2日に教えてくれたからだ。

 

つまり、そういったことでもないと、Spotify でも Apple Music でもなかなか未知のものには遭遇できにくいと思うんだよね。(ネットのでも)お店があれば(仮想的にでも)そこをぶらついて、あっ、こりゃなんだ?!みたいな発見があって、手にとったり視聴したりできるよなあと思うんだけど、配信サーヴィスで同じことをやるのはなかなかむずかしい面がある。そんなことない?

 

そんなことないよ、Spotify でどんどん未知の音楽に出逢っているよというかたは、どうなさっているのか、ぜひ一度お話をおうかがいしたいと思っている。CD 時代がもはや終焉しているというのは言うまでもないが、だからといってぼくがサブスクリプションに全面移行できない理由は大きく分けて四つある。(1)パーソネルなど録音データがわからない(2)くわしいいきさつや解説などを簡単に読みたい(3)CD しかない作品もある、そして(4)未知に出逢うのは CD でのほうが容易。

 

これらのうち(1)にかんして、Spotify がそのうちデータ埋め込みサーヴィスをはじめるとのアナウンスが昨年だったか、あったから、これは今後に期待したい。また旧作品などについてはネットで検索すれば比較的ラクチンにこの手の情報は見つかるので困らない。新作についてだけの話だね。

 

(2)についても、ネットで調べればけっこう文章があるよ。だから実はもう困らない段階に来ているとも言える。新作でも旧作でもだいたいはレヴューや感想文や、事情通や音楽サイトなどがくわしいいきさつを記したものがわりと見つかるので、必ずしも CD パッケージ附属の(ばあいによってはチンケな)オフィシャル記事でなくていい。

 

(3)はどうしようもない。CD を買うしかない。問題は(4)点目だ。これがぼくの最大の悩みごとだ。路面店であれネット通販サイトであれ、なんらかのお店で(リアルにでもヴァーチャルにでも)ブラブラして、これはどうだろう?なとど徘徊する以外に、まったく未知の音楽や作品に出逢える可能性は低いと言わざるをえない。Spotify でも Apple Music でも、それと同じことなんて、できにくいんじゃないの?

 

サーヴィス内を検索するにせよ、キー・ワードとなる人名なりアルバム名なり曲名なり、とにかくなにかがないとさがすことすらできないんだもんなあ。たとえばエル・スールのホーム・ページでは、タグで検索できるようになっているでしょ。あれはいい。国名・地名やジャンル名などでさがしてぶらついていて、未知のものに出逢った経験がなんどもある。

 

エル・スールだと、また売り上げランキング10(やその下の欄)が出ているのもいい。そこにはぼくが縁もゆかりもない音楽のアルバムだって並ぶ。ジャケットと紹介文と視聴リンクがあるので、やはりそれでいままでも未開拓の音楽にたくさん出逢った。感謝している。ディスクユニオンや、そのほか音楽 CD 通販サイトはどこも同様だね。

 

それらはすべて「売らんがため」の戦略なんだけど、ぼくらはそれを利用して新規開拓、未知との遭遇のチャンスとしているんだよね。たとえば Spotify サーヴィスというかアプリで、似たようなことができるかというと、まあぜんぜんできないってことはない。オススメの曲とかアルバムとか、新傾向などを見る場所があって、クリック(タップ)すればそのまま聴ける。でもまだまだなんだよなあ。音楽アカウントのツイートなどもいまは頼りにしている。たぶん今後も。

 

ともかくそんなことで、未知の音楽作品や新傾向や、過去のものでもいままで知らなかった音楽などにどんどん掘り進んでいかないと、自分自身、未来がない。そのために、現状では(仮想的にであれ)CD をさがし買うという手段を活用・応用しているけれど、これもそのうち、サブスクリプションでやれるようにならないと、今後の音楽好き人間にとってためにならないんだよねえ。

2019/05/10

なごみのジェフ&マリア・マルダー

Fullsizeoutput_1e3a https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/31jwVG73gbNIOcBLyRSuaF?si=4eXSUFpaTjaXTpkAqLUzWQ

 

去年だったか一昨年だったか、ジェフ&マリア・マルダーの二枚が CD リイシューされたとき Spotify でも聴けるようになって、二枚を一個にしたプレイリストをただなんとなく流しているといい感じ。気分いいね。なごみ、くつろぎ、そんな音楽だよなあ。決してむずかしくもとんがってもいない。やわらかくやさしい音楽。それがいい。

 

だから斬れ味の鋭さやガツンと来るものを音楽に求める向きには決して推薦できない『ポタリー・パイ』と『スウィート・ポテイトズ』だけど、音楽とはそんな楽しみばかりじゃない。二枚とも音域も狭く、高い音、低い音はあまりなくて中音域に全体がおさまっているのも気持ちいい。ちょうど SP 時代のポップ・ミュージックでも聴いているかのような気分にもなれる。

 

マリアが歌うボブ・ディランの「アイル・ビー・ユア・ベイビー・トゥナイト」も親密な雰囲気で、しかもエロさはなく、ただリビングでふたりでゆっくりコーヒーでも飲みながら仲良くおしゃべりしましょ、とでもいった雰囲気。それがいいよ。ゆったりおだやかで、セクシーな過激さはなし。アグレッシヴさなんか微塵もない音楽だよねえ、二枚の全体が。

 

アリ・バローゾを歌ってもサン・ハウスを歌っても、アレンジもおだやかで中庸ななごやかムード。チャック・ベリーの「ハバーナ・ムーン」では、キューバというより中国音楽に寄っていっているみたいな、そんなサウンド展開だよねえ。それも室内楽的なこじんまりとした中国ふうポップ・ロックンロール。出だしのジェフの声で「お〜らっ」というのどかなのが聴こえただけで気分がなごむもんねえ。

 

特に夜遅くなってから、部屋の照明を落とし音量も下げてこれら二枚を流しているとくつろげて、あるいはお風呂の湯船にゆっくり30分くらいつかりながら聴いていてもちょうどいい。そんな音楽だよねえ、ジェフ&マリア・マルダーの二枚。こんなにのんびりのどかで、こころ安まる音楽もなかなかないよ。アルバムを通してショートショートの短編小説集を読んでいるかのような感触もあるしね。

2019/05/09

ジョアナ・ジ・タル

Fullsizeoutput_1e3c https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/5S1RqSvj1jz4GNMbfHX88s?si=SNx_82ZuTbqCv41HHvWa5w

 

ニーナ・ヴィルチのヴァージョンで知ったサンバ・ソング「ノティシア・ジ・ジョルナル」が、もう好きで好きで、大好きで、たまらない。どうしてここまで好きなのかよくわからないのだが、フィジカルではあまり持っていないので、と思って Spotify で曲検索をかけてみた結果が上のプレイリスト。やっぱりちょっとしか出ないなあ。五つ。ニーナのと二番目のエレーナ・ジ・リマのは CD で持っている。

 

ところでエレーナ・ジ・リマをどうして(二枚)持っているかというと、エルザ・ラランジェイラを買おうと思ってディスクユニオン通販で探して出てきた同じページに関連商品として掲載されていたから。ふたりとも似たようなサンバ・カンソーンの歌手だとしていいのかな。聴いてみたらエレーナもなかなかすばらしかった。

 

それはいいとして、曲「ノティシア・ジ・ジョルナル」。たったの五つじゃなくて、もっとどんどんたくさん集めて聴きまくりたいわけ。でも曲で探して買っていくのは根気のいる話だよ。そのうちちょっとづつちょっとづつ集めていこう。いまはネットで曲検索をかけて Spotify とか YouTube で五つほど聴ければ、それで満足するしかない。

 

五つとは、ニーナ・ヴィルチ、エレーナ・ジ・リマ、シコ・ブアルキ、レニータ・ヴィラレス(ってだれだろう?)、エリゼッチ・カルドーゾ。やっぱりサンバ〜サンバ・カンソーンあたりの歌手だよね。これらのうち、エレーナのとエリゼッチのは似たようなムードで、しかもほかの三つとは異なっている音楽性を聴きとれる。

 

ひとことにして小洒落てこじんまりとした小粋なサンバと、サンバ・カンソーンとの違いということじゃないかと思う。エレーナのとエリゼッチのは夜のとばりが降りているのも共通点で、ほかの三つとの違いだ。また歌いまわしがややもっさりとしていて、切れ味がやや鈍みがかっている。しかし伴奏のリズムがキューバ/ラテンふうに跳ねているのはおもしろいところ。

 

この点では、ニーナ、シコ、レニータの三つのヴァージョンではリズムがスムースに流れ、ひっかかったり跳ねたりしていない。ここはなかなか興味深いところだ。特にエリゼッチのヴァージョンで伴奏リズムが跳ねていると思うんだけど、どうしてこうなっているんだろう?そのせいで歌手の歌いくちもややひっかかるもっさり系なのかなあ?わからないが。

 

しかしどのヴァージョンもチャーミングだ。これは曲そのものがいいっていうことなんだろうね。いいっていうか、ぼく向き、好きってこと。こんなに好きなサンバ・ソングはぼくにはない。いちばん好きだ。歌詞はポルトガル語で歌われるのを聴いてそのまま理解するのができないのでなんともいえないけれど、新聞とかニュースとか、そんな卑近な日常を綴ったものなのだろうか。

 

そしてそれよりぼくがチャームを感じているのはメロディ・ラインとその構成だ。基本この曲は AA"形式で、A”にオヒレが付くかたち。それも好き。さらに繰り返されるメロディ・ラインが可愛らしいったらありゃしない。歌詞の音も可愛い。ここまでキュートでコケティッシュで、しかもユーモラスな旋律と歌詞の音の動きって、ほかに知らないなあ。いやあ、可愛いですねえ。大好き、「ノティシア・ジ・ジョルナル」。

2019/05/08

サックスはジャズのイコン・サウンドだ

Bestjazzsaxophonistsfeaturedimageweboptihttps://www.udiscovermusic.com/stories/50-best-jazz-saxophonists/

 

この『The 50 Best Jazz Saxophonists Of All Time』と題する記事、2018年12月付で、だからちょっと前のだけど、つい最近見つけて読んでみた。50人のランキングには異を唱えたくなるところもあるけれど、全体的にはなかなかよくできた内容じゃないかと思うんで、おヒマなかたはちょっとチラ見だけでもどうぞ。

 

それになんたってジャズのヴォイスはサックスであるという、その見方には100%同意したい。まさしくそうだよね。楽器の発明者アドルフ・サックスはお墓のなかでさぞやビックリして、そして喜んでいるに違いない。楽器発明時にまだその姿がなかった新興音楽ジャズでこれだけ重宝される楽器になるとはねと。

 

まさしくサックスはジャズ・ミュージックを象徴する最大の「声」だ。もっとも、ジャズ誕生時のバンド編成にサックスはない。古典的ニュー・オーリンズ・ジャズでは、トランペット(コルネット)、トロンボーン、クラリネットの三管が一般的で、サックスが使われることは少ない。

 

ジャズでサックスが起用されはじめるのは、上掲記事にあるようにビッグ・バンド時代からじゃないかとぼくも思う(記事では「ビッグ・バンド・スウィング」となっているが、スウィングと書くと誤解を産むと思うので要注意だ)。つまり、ジャズにおけるサックスは1920年代前半ごろから存在を確たるものとした。

 

そしてその後のジャズの歴史は、しばしばサックス奏者が変えてきたし、支えてもきたのだ。ジャズにおける最初の偉大なサックス奏者、インヴェンターといえるのは、実はコールマン・ホーキンスじゃなくてシドニー・ベシェじゃないかと思うんだけど、ソプラノ奏者だったので影響のおよびかたがストレートじゃなかった。のちのジョニー・ホッジズなんか、あきらかにベシェの系譜下にあるとはいえ、抽象化された影響だ。

 

だからそういった点も考えあわせると、やはりホークこそが第一人者だったと見てもいい。ちょうどジャズ・トランペット界におけるルイ・アームストロングみたいなもんで、影響をこうむっていない人物を見つけるほうがむずかしく、またサックスをジャズのメイン・ヴォイスにしたという点でも史上最大の貢献をはたしたと言える。

 

ルイ・アームストロング/ビックス・バイダーベックの対比がサックス界にもあって、ホークに対比されるのがもちろんレスター・ヤング。レスターのばあい、たんにいちスウィング・テナー奏者というにとどまらず、モダンなハーモニー感覚と、コード分解も用いる斬新なフレイジングで、チャーリー・パーカーをはじめ多くのモダン・ジャズ・サックス奏者の範となった功績も絶大。

 

モダン・ジャズ界のコンボ編成では、サックス入りのワン・ホーン・カルテットか、トランペッターをくわえた二管クインテットの演奏が最も一般的だし、(あまりジャズをご存知ない一般のみなさん、すなわち世間一般的に)ジャズってどんな感じの音楽?っていうおおざっぱなイメージもそんな編成でのモダン・ジャズでできあがっているように思う。

 

だからサックスの占める比率や持つ意義はかなり大きいと言えるし、さらに大切なことは、ジャズ(やそこから流れたリズム&ブルーズ系でも)ではサックスの発音が特異だ。これはほぼジャズとその流れを汲む音楽にしかないといってさしつかえないサウンドというか音色で、シドニー・ベシェ、コールマン・ホーキンス、ジョニー・ホッジズなどがつくりあげた、あの太く丸いゴッツイ音、あれこそジャズの声なのだ。ほかの音楽におけるサックスはあんな音じゃないですよね〜。

 

だから、同じ系統の音色を持つモダン・ジャズ・サックスのチャーリー・パーカーもソニー・ロリンズもジョン・コルトレインも、ハーモニー感覚とフレーズの組み立てはレスターから来るものを学びながらでありつつ、サウンド・イメージとしては丸く太い方向性を維持した。

 

そんなサックス(だいたい世間的にはアルトとテナーだろう)の音で、ジャズという音楽のイメージができあがっていると言っていいんじゃないかと思う。たとえばマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」でも、ソニー・クラークの「クール・ストラティン」でも、ジョン・コルトレインの「セイ・イット」でも、これぞジャズだ!と言える象徴的サウンドの中心にああいったサックスがあるんだということになるね。

2019/05/07

サム・クックを聴くとたいていのいやなことは忘れますね

Sam_cooke_soul_stirrershttps://open.spotify.com/album/036rZJAktkqAletSx5moF4?si=J0HAFM88ShSWPAZyRZ0AOA
(アルバムはなんでもいいから、じゃあ適当にこれを)

 

ソウル・スターラーズ時代のサム・クックの歌が好き。間違いない。もう、愛している。聴いているだけでたいていのつらいことも薄らいでいくもんなあ。これはサム・クックが好きなのか、ソウル・スターラーズが好きなのか、ゴスペル・ミュージック(ことにカルテット)が好きなのか、自分ではよくわからない。でも、もう、たまらなく好きなんだ。強い癒しを得ることができている。

 

サムのゴスペル時代については、以前書いたことがあるのだが、この時期のこんなつたない文章ではなあ。でもこれはこれでこのまま置いておこう。今日は今日で書きたいことを書く。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d73a.html

 

サムのソウル・スターラーズ時代の歌は、スペシャリティが CD 三枚組のコンプリート集にまとめてリリースしている。もちろん愛聴盤なんだけど、今日の話にはとりあえずどんなアルバムでもいいんだ、サムがゴスペルを歌うものであれば、多少の代表曲が入っていれば、それでおっけー。それくらいどれもこれもサム with ソウル・スターラーズはレヴェルが高い。

 

サムの声のトーンというか声質がたまらなく心地よく強い癒しになるものなんだけど、ホントこの歌手はどうしてこんな声が出せるのだろう?なめらかでやわらかく、しかし張りがあって力強く、若干の濁りみ成分も混じり、グイグイ迫ってくるかのようでいて、やさしく聴き手の心情を愛撫する。こんな声と歌を持つ歌手は、まさしく不世出、サム以外だれもいない、世界中を見渡しても、と思う。

 

ソウル・スターラーズ時代のサムがことさら好きというのは、このカルテット・スタイルのゴスペル・リズムがたまらなく心地いいということでもある。上のアルバムで聴いていただいてもわかることだけど、たとえば「ジーザス・ゲイヴ・ミー・ウォーター」でもア・カペラでしょ。伴奏楽器はまったくなしの、声だけ。

 

その声というかヴォーカル・コーラスとサムのリードだけでリズムを形成しているわけだけど、そのリズムが最高に心地いいじゃないか。このへんはたんにぼくがヴォーカル・コーラス(・グループ)が好きというだけの嗜好かもしれない。ドゥー・ワップなんかも大好きだから。でも、ゴスペル・カルテットのばあいは、それにしかない独自のリズムがあると思うんだよね。

 

グイグイ進む、まるで生命力そのものといったゴスペル・カルテットのリズム。生きるという意味そのものだと言いたいサムのリード・ヴォイスと歌いまわし。伴奏楽器が入るばあいも最小限で、本当に五人のヒューマン・ヴォイスだけで「世界」を、「生」を、表現できている。コーラスのリズムとサムのリード、このふたつがあって、サム・クックのいるソウル・スターラーズが、この世にこれ以上のものはないというヴォーカル・ミュージックになっているなあ。

 

もう一度言う。ソウル・スターラーズでサム・クックが歌うのを聴くと、世のいやなことやつらいことも、たいていは忘れてしまう。ひとりぼっちの孤独も癒されて、人生を楽しくうれしく、満たされて、前向きに進んでいこうという気持ちになれる。それがサムの声、サムの音楽だ。

2019/05/06

泣きたいほどの淋しさだ

Fullsizeoutput_1e48 https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/07NylV08v16m8vsrAl3uLH?si=Rn0fY2rOTWOJjmrIwnXhLQ

 

Hear that lonesome whippoorwill
He sounds too blue to fly
The midnight train is whining low
I'm so lonesome I could cry

Did you ever see a robin weep
When leaves begin to die?
Like me, he's lost the will to live
I'm so lonesome I could cry

The silence of a falling star
Lights up a purple sky
And as I wonder where you are
I'm so lonesome I could cry

 

ひとりぼっちである、とても淋しい、ということに自分で気づいたのはいつごろだっただろう、ともかくいまはそうだとわかっている。ハンク・ウィリアムズやエルヴィス・プレスリーが歌うロンサムとは、そのまま死のイメージに隣接しているけれど、ぼくのばあいはそうじゃない。ただただ、孤独である、人生に自分ひとりしかいないという、とても強い実感があるだけだ。それは淋しいことなのか。うん、そうでもないような気がちょっとするけれど、ときどき、たまらない気分になってしまうこともあるんだ。

 

ともあれ、ぼくはひとりだ。だれもいない、なにもない。ただ音楽だけを友としパートナーとしてずっと生きてきたし、今後もずっとそうしていくだろう。ふだんはそれで楽しくやっているから心配いらないんだけど、ま、やっぱりたまには泣きたい気分のときだってあるんだ。自分の人生、結局ぼくひとりだけだったなあって思うとさ。今後もずっとひとりなんだと思うときはさ。

 

ハンク・ウィリアムズやエルヴィスのヴァージョンが死のイメージに直結しているといっても、表面的にはそれを感じさせないおやだやかさだよね。のんびりのどかなカントリー・ソングで、でもだからこそ一層この男性主人公の孤独感が極まってしまうという、そんな歌だ。ハンクはどうしてこんな歌を書いたんだろう?ハンクが書いて歌わなかったら、エルヴィスも「私の知っているなかで最もかなしい歌だ」と言ってやらなかったと思うしねえ。

 

ハンクのやエルヴィスのヴァージョンは、人生の、人間の、現実というか本質をえぐりだして、しかしナマナマしくないおだやかさで、それはリアリティの持つ柔和さということだと思うけどそんな衣にくるんで、生と死の本質をぼくたちに聴かせてくれているよね。そんな歌を聴いて、そうだよなあと思いながら、ぼくも自分の孤独を味方につけるべくロンリネスとつきあっていこう。そう、泣きたいほどに淋しいけれどね。

2019/05/05

リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』はコルトレインへのオマージュ?

71npxwafpkl_sl1067_https://open.spotify.com/album/4ozinSGbhmJecdqOhomRjD?si=cv6rXujuTFKeB_oW4qWMew

 

リー・モーガンのブルー・ノート盤『ザ・ジゴロ』(1965年録音66年発売)。4曲目のタイトル・ナンバーは、ずばり、ジョン・コルトレインへのオマージュだよね。それがなんでジゴロなのかはわからないが、この音楽のスタイル、まごうかたなきコルトレイン・ジャズだ。ピアノのハロルド・メイバーンもまるでマッコイ・タイナーみたい。1965年だし、リーにとってもトレインは大きな存在だったのだろう。トランペッターはトレインのレギュラー・バンドにいないけれども。

 

また2曲目「トラップト」、3「スピードボール」はなんてことないふつうのハード・バップ・ナンバーのように聴こえるから、今日の話題の外においてかまわないかなと思う。いや、決して内容が悪いってことじゃない。じゅうぶん楽しめる立派な出来だけど、最近、モダン・ジャズでは、ストレートなメインストリームじゃないものに興味が傾いているから。

 

すると、リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』では1曲目「イエス・アイ・キャン、ノー・ユー・キャント」、5「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」がおもしろいということになる。要するに、昨年来のブルー・ノート・ブーガルー #BlueNoteBoogaloo 的視点からはさ。だってあのレーベル公式プレイリストのシグネチャー・ソングは、リーの「ザ・サイドワインダー」だったんだから。

 

リー・モーガンの『ザ・ジゴロ』でもドラマーがまたまたビリー・ヒギンズなんだけど、ホ〜ント多いよなあ、このひとがブーガルー・ジャズのビートを叩き出しているのが。ひょっとしてぜんぶヒギンズなんじゃないかと思うほどだ。そんなヒギンズの出す音で、1曲目「イエス・アイ・キャン、ノー・ユー・キャント」がはじまる。8ビート・ナンバーで、リズムにラテン・シンコペイションが効いていて、しかもブルーズ。

 

ってことはこのリー・モーガンの自作は、数年前の「ザ・サイドワインダー」の系譜に乗ったものということになるよ。いやあ、カッコイイ。二番手で出るリー自身のソロもブリリアントで聴きごたえがあるし、ハロルド・メイバーンもファンキーに鍵盤を叩いている。マッコイ・タイナーっぽくない。ソロだけでなく、ホーンズのソロ背後でのハロルドのバッキングもいいぞ。それはハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」以来の同じやりかたなんだけどね。

 

アルバム・ラスト5曲目の「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」も、ラテンな8ビート・ブーガルー・ジャズだけど、これはご存知のとおりスタンダード・ナンバーだ。かなりたくさんのジャズ・ヴァージョンが(歌入り、インストルメンタルともに)あるけれど、どれもぜんぶふつうのジャズであって、8ビートのラテン・リズムを使ってあるものなんて、一個もないはず。このリー・モーガンのだけだと思う。

 

そのラテン・アレンジがこりゃまたいいよねと思う。曲じたいは「あなたのことが忘れられない」という未練タラタラの重い曲想なんだけど、リズムに軽いブーガルー風香を効かせ、またモーダルな演奏解釈を施したことで、結果的にさわやか感が漂い、原曲の持つ未練味なんかどっかに消し飛んでいる。クールな清涼感があって、まるで炭酸飲料みたいな「ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド」。

 

あれれ〜っ?ってことは、やっぱりジョン・コルトレインのジャズっぽい感じなのかなあ、曲「ザ・ジゴロ」だけじゃなくて、このアルバム全体がさ。なんかそんなふうに思えてきちゃった。トレインはモーダルな作曲・演奏はやっても、ここで聴けるリー・モーガンのみたいに鮮明なラテン・ビートを(直截的には)使わなかったと思う。だけど、この漂う雰囲気がコルトレイン・ジャズっぽく思えないでもない。そんな気もしてきた。どうなんだろう?

2019/05/04

いろんな状況で聴けるようにしておくと、いいことがある

3000https://open.spotify.com/album/1S3OMDT7dKcvU2ApYQP6Tp?si=7mqp4KpnSPirT2G-SG8Z4A

 

大のアンジェリーク・キジョー嫌いのぼく。嫌いというより、正確には苦手ってことなんだけど。ともあれ、あのみなぎりほとばしる満々のエネルギーがダメなんだ。女声でも男声でも、バリバリ硬質なハガネの声のほうがどっちかというと好きで来たんだからアンジェリークだって好きになりそうなもんなのに、不思議だ。なにか癇に障るところがあるんだろうなあ、あの声に。勇ましすぎて中折れしちゃうのかも。

 

そんなわけだから、前作『リメイン・イン・ライト』もダメだった。いまだに一度も聴きとおせていない。生理的に無理なんだ。トーキング・ヘッズのオリジナルは大の愛聴盤で、こんなに楽しく美しい音楽もなかなかないと思うのにねえ。2019年新作『セリア』はセリア・クルース・トリビュートだから…と気を取りなおして聴きはじめ、45秒で止めた。セリアも声の強い歌手だけど、根本的になにかが違うよねえ。

 

そんなダメなぼくだけど、でもいろんな状況で音楽を聴けるようにしておくと、というか実際なにも考えず一日中どこへ行っても聴いているんだけど、必然的に部屋のなかでオーディオ装置とスピーカーの前に座って、というばかりじゃなくなって、そうすると、意外といいことがあるんだな。シチュエイションを変えて聴くと、同じ音楽が違ってくる。

 

文字どおり一日中音楽を聴いていて、どこにでも携帯しているから、部屋のなかでお料理しながら、またトイレに入ったりお風呂のなかでとか、さまざまな状況で聴いているし、またお買い物や病院へでかけたりしても聴き、夜のウォーキングのおともにしたりもする。

 

アンジェリークの『セリア』のばあいは、自室のスピーカーでしっかり鳴らしたら45秒でイヤになって再生を止めたけれど、でも悪くないはずだからと思いなおして同じ日の夜のウォーキングでイヤフォンで聴いたんだ。アルバムの長さも36分間とちょうど手頃だしね。

 

するとこれが、おりょ、これいいじゃん、って思ったんだ。不思議なもんだ。同じ音楽だよ。同じアンジェリークのあの野太く厚かましい声だよ。それが夜のウォーキングの BGM としたらいい感じに聴こえてきたんだ。イヤフォンで聴いたから音圧・音量が低くて、そのおかげで声の厚かましさが減じてちょうどよくなったというだけかもしんないけどね。

 

まあ厚かましいというか声も、そしてブラスバンドを中心とする伴奏サウンドも、分厚い響きの音楽であるのは間違いない。ドラムスも、これたぶん、トニー・アレンでしょ、未確認だけど。だれが聴いてももはや疑いえないこのドラミング・スタイル。それらぜんぶがトータルでガ〜ン!と来るもんで、だから音圧上げて聴くと、ぼくのばあい、第一印象がよくなかっただけかも。

 

夜のウォーキング BGM でアンジェリークの『セリア』がいいんだっていうことに気が付いたら、今度は翌日以後部屋のオーディオ装置で音量と音圧・音量をガンと上げてしっかり聴いてもファースト・インプレッションみたいなことはなくなって、これ傑作じゃん!と思えているから、われながら不思議というか、いい加減な耳というか。

 

こういったこと、つまり同じ音楽でも再生装置や聴く環境・状況を変えれば違って聴こえるので新発見があったりする、ということを前々から実感・熟知しているから、だから今回、最初は45秒しか聴けなかったアンジェリークの『セリア』もそうかも?と思って試してみてビンゴだったということ。

 

さあ、今日は4月22日だけど、アンジェリークの『セリア』、CD はいつ届くんだろうなあ。

2019/05/03

ケンドリック・スコットとの初邂逅はいい感じ

Kso_awbab_cover_final_bbe08b1b45cd4018b6https://open.spotify.com/album/6x36FYMhcxlEjJB97ikwA3?si=QAMPnUw7SJClJNFgHrd05Q

 

ケンドリック・スコット(Kendrick Scott) はアメリカ合衆国のジャズ・ドラマー。しかしぼくはちっとも知らなかった。今年の三月だっけな(いや、四月頭?)、ブルー・ノート・レーベルの公式 Twitter アカウントが、彼のグループ、オラクル(Oracle)の 新作『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』(2019)の発売をアナウンスしていたのを見て、そこに写っているジャケットがいいなあ〜と思って、それではじめてちょっと聴いてみようと思っただけだった。

 

ケンドリック・スコットのオラクルは、プロデューサーがデリック・ホッジ。バンドはみずからのドラムス以下、マイク・モレーノ(ギター)、ジョン・エリス(リード)、テイラー・アイグスティ(鍵盤)、ジョー・サンダーズ(ベース)、DJ ジャヒ・サンダンス(ターンテーブル)。

 

新作『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』もこのメンツでこなしているが、ぼくの持った最大の印象は、なんてなめらかでスムースなんだということ。耳あたりがとてもいい。やわらかく聴き心地がいいんだよね。このへん、以前ブラジルのマルモータを聴いても同じことを感じたが、ケンドリック・スコットのオラクルもそうだし、このへんの聴きやすさは現在進行形のジャズに共通するものだろうか??
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-5c4e.html

 

それから従来のジャズ(/フュージョン)に相通ずるものも感じるのだが、最大の要素がジョー・ザヴィヌルのウェザー・リポートとパット・マシーニー(・グループ)だ。このふたつは間違いなくオラクルのなかにある基調。パットがあるということはブラジル音楽テイストもあるということで、これも疑いえないほど強く感じられる。ヒューマン・ヴォイスの活かしかたなどはそっくりだ。

 

ケンドリック・スコットのドラミングに特に強くなめらかさを感じるんだけど、でも彼はアルバム中ときどきかなり激しくパッショネイトに叩きまくっている。しかしそれがトータルな音楽性のなかに有機体として溶け込んでいるので浮きあがらず背景にあって、だからさほどには目立たないんだよね。フロントで吹いたり弾いたりしているひとたちのリズムと折り重なったりズレたりもしてポリリズミックになっているが、しかし曲全体がよく構成されている。だから異質感がない。

 

よく構成されているといえば、アルバム『ア・ウォール・ビカムズ・ア・ブリッジ』全体もそうで、曲間の空白がなくどんどん流れてくるせいもあるけれど、この曲の次にこれが来るという流れが実にいい。だから53分間で<一曲>を聴いているような印象があるね。サックスを吹くときのジョン・エリスもときおりエモーショナルに高揚するが、しかしどこかクールだ。

 

ともかくこのオラクルのアルバム、ジャケットがいいでしょ。ぼくも Twitter でそれが流れてきて一瞥しただけで「あ、いいね、カッコイイ、これ、だれ?」って思って気になったし、それで結局 CD まで買うことになった。イラストとレーベル・ロゴだけっていうシンプルさだけど、眺めていて心地いい。中身の音楽も聴いていて気持ちいいんだよ。爽やかで清涼感があってベタつかないし。

2019/05/02

ノラに夢中

Norahjonesbeginagainhttps://open.spotify.com/album/0iDASlJ6faB4ZDVkKlqbHj?si=YMPY3HfLSMiMMMI7VKBpqA

 

もうノラ・ジョーンズの新作のことしか頭にない。『ビギン・アゲン』(2019)。ぼくはそもそもノラのリスナーじゃなかった。『カム・アウェイ・ウィズ・ミー』をいまだ一度も聴いたことがなく、それ以後もほとんど聴いてこなかったというのが事実。それがどうだ、『ビギン・アゲン』のばあいは、リリース当日 Spotify で聴けるようになったら速攻で聴き、そのファースト・インプレッションも極上だったのでリピートし、CD を買い、きれいなジャケットに見惚れながら、なんどもなんども聴いている。トータル 29分という短さもとてもいい。

 

それだから今日の文章はいままでのノラのすべてをまったく知らない人間が書くということになるんで、的外れだったりすることも多いと思うけど、どうかご容赦を。とにかく新作『ビギン・アゲン』の肌触りがとても心地いい、心地よすぎるくらいだ、と感じているから書かずにおられないだけなんで、ぼくは特別ノラのファンだとかいうわけじゃありません。でも『ビギン・アゲン』はマジすんごくいいね。

 

『ビギン・アゲン』で一貫しているなとぼくが感じる最大のものは、ノラのこの声質だ。ザラついている。ザラリとした砂のような質感の、なんともいえない(悪い意味じゃなく)雑なトーンだ。それがとっても心地いいんだよね。しかもことばをわざと丁寧に発音せず、わりと適当に乱暴に、聴きとりにくいような崩した感じで発音しているのがいいね。

 

この二点、ノラのザラリとした声質と歌詞を投げやりに乱暴に発音するというこのふたつは、アルバム『ビギン・アゲン』を貫く基調だ。そしてそれがいまのぼくにはたいへん心地いいんだなあ。どうしてだろう?やっぱりジャズ・シンガー的なということになる発音かもしれないが、ちょっと違うような気もする。ちょっと街角のブルーズ・シンガー的な、そんな肌触りをノラのヴォーカル・トーンに感じる。

 

もともと『ビギン・アゲン』の多くは仲間との即興セッションからはじまったとのことで、だからこんなラフなタッチなのかなあ。っていうかいままでのノラを知らないので、このひとがいつもこんな発音と歌いかたなのかどうか、わからない。ただ『ビギン・アゲン』で聴けるような、いつもそんなヴォーカル・タッチのひとなら、ぼく、好きだなあ。

 

たとえば2曲目のアルバム・タイトル曲。「can we begin again?」とリフレインするのでそこが目立つんだけど、聴けば実に乱暴な、こういうことばだとわかりにくいくらい雑にザラッと発音しているよね。ヨタっているというか、まるで酔っ払いがロレツまわらないみたいな、そんな「キャン・ウィ・ビギン・アゲン?」じゃないか。そんなところにいまのぼくは好感を抱いている。親近感というか、ノラの日常性?

 

アルバムに収録の七曲は、大半が2018年にシングル・ナンバーとして配信されていたものらしく、だから結果的にはコレクションのような意味合いも持っているらしい。七曲のうち、エレクトロニカが二曲(1、5)あって、それもかなりの好印象。ピアノ弾き語りのジャズ(?)・シンガーだとはジャーナリズム情報でデビュー期から読んでいたが、こういったデジタルな質感のノラもいいなあ。

 

デジタルな感触といえば、残りの五曲は人力演唱によるものだけど、それらにもデジタル質感があるかのように聴こえるのがおもしろい。正確に言えば、1、5曲目のエレクトロニカとほかの五曲には思ったほどの差はなくて、聴感上一貫したトーンやクオリティがあるように思うんだ。だから、デジタルがヒューマンで、ヒューマンがデジタル。

 

トーマス・バートレットと組んでふたりでやった打ち込みナンバー二曲はどっちも好きだけど、それ以外なら、まず2「ビギン・アゲン」、そしてウィルコのジェフ・トゥイーディーとのデュオでやったギター・ピース(ノラもギターを弾く)4「ア・ソング・ウィズ・ノー・ネーム」がことさらお気に入り。サウンド・トータルで大好きだし、ノラのヴォーカルも(アルバムぜんぶそうだけど)全体のなかに溶け込んでいて、主張が強くなく、あくまで1ピースなのがいい。

 

そして4「ア・ソング・ウィズ・ノー・ネーム」でもちょっと感じるんだけど、7曲目「ジャスト・ア・リトル・ビット」のエキゾティカ、これがいいんだなあ。(アメリカから見た)異国趣味といっても、いったいどこらへんの感じ?というのがなかなかわからない。だけど、間違いなくエキゾティックなフィーリングがあるでしょ。特にトランペットとサックスの二管のリフなんか。しかもこの7曲目には(そうじゃないのに)打ち込み系みたいなデジタルな感触もある。

 

ノラのアルバム『ビギン・アゲン』は、トータル・サウンドと主役の声でまざりあってザラッとしていて、心地よく、まるでオーガニック・コットン100%のシャツを身につけているみたいな快感で、ちょっぴりのエキゾティカがスパイスとして全体を貫き、デジタルもヒューマンも差がなくてあったかい。人間の肌のぬくもりみたいな、そんな体温が気持ちいいみたいな、そんな作品だなあ。

2019/05/01

ブラジルのギター・ミュージック三題(3)〜 夜のギンガ

1007839944https://open.spotify.com/album/7lH46lGhT8O9BZV7j2wRDg?si=MB-WOx9CQ5Wp-4DlOT8AXA

 

ギターリスト大国ブラジル。そのうちのひとりギンガは、今2019年春に(モニカ・サウマーゾとともに)来日公演をやった。その記念盤ということだったのか、今日話題にしたい2014年盤『ロエンドピーニョ』のアナログ盤が今年発売されたよねえ。ぼくの Twitter タイムラインでもにぎやかに話題になっていた。恥ずかしながらギンガってだれのことだかそれまで知らなかったぼくは、それでレコードじゃなく CD でそのアルバムを買ってみたのだ。2014年4月初旬にね。

 

だからぼく、ギンガのことはいまだまったくなにも知らないので、『ロエンドピーニョ』についてだけ雑駁な聴感上の印象を記しておくことにする。ギンガ・ファンのみなさん、どうか見逃してください。それで『ロエンドピーニョ』しかまだ聴いていないんだけど、これだけ聴くぶんにはかなりいい BGM だよねえ。そう、なんというか一種のムード・ミュージックだな、ぼくには。

 

お風呂も終わった夜中、ベッドに向かう前に部屋の照明も暗くして入眠準備をしているような、そんな静かな時間に、ギンガの『ロエンドピーニョ』は実によく似合う。雰囲気があって、暗い部屋とか、真夜中に、これ以上ないピッタリ感だねえ。ほぼ全編ギター・ソロで、たまに弾きながらのハミングや口笛が入るだけだというのも、入眠 BGM としては最適だ。

 

作曲とか、それを弾きこなすギター・テクだのといったことはよくわからないのでおいておきたい。たしかになかなかすごいなと思うけれど、いちばん肝心なのはできあがりの音楽がどう聴こえるか、だ。ギンガのばあい最高級のテクを駆使して最高に耳あたりのいい、まったくなにも障らない、極上のやわらか質感のムード・ミュージック、BGM をやってくれているとぼくは思う。

 

実際、ぼくの『ロエンドピーニョ』の聴きかたはそうだ。深夜も23時をまわってからじゃないと聴かないし、聴くときは必ず部屋を暗くする。ひとりぼっちの真夜中で、あ、いや、カップルや家族なんかで聴いてもいい雰囲気なのかもしれないがそれは縁がないのでひとりで聴くけど、真夜中にこれ以上のリラックス感を演出してくれる音楽って、なかなかないねえ。

 

ビリー・ホリデイ(12曲目)、デューク・エリントン(15曲目)と、曲題にジャズ音楽家の人名があるけれど、聴いた感じ、特にどうってことはなさそうだ。

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