2019/04/25

暖かくなってきたのでズーク快作を 〜 タニヤ・サン・ヴァル

Tanyasaintval_voyage1https://open.spotify.com/album/1ij07EUG3qUR3JR4NLK7XU?si=yHQVW2hRQr6HEVg3bRbP3Q

 

本題と関係ない話から入りますが、アルファベットの人名でハイフンが入るのをカタカナ表記する際、それをダブル・ハイフンで置き換える表記には大反対です。みなさんやっていらっしゃいますけれども、ダブル・ハイフンは数学等号と区別できません。等号ですよ等号、みなさんがお使いになっているのは。左と右が同じ、っていう意味ですよ。ガブリエル・ガルシア・マルケスみたいに原語でハイフンないのにカナでは等号入ったりして、ワケわかりません。三語の名前だと自動的に入るのでしょうか?

 

まあいい。そんなわけでタニヤ・サン・ヴァル。グアドループのズーク歌手で、2016年の『ヴォワイヤージュ』二枚組が快作だったよねえ。これは一枚それぞれ約30分程度なんで、長さだけなら CD 一枚に収録することもできた。それをせず、CD1を「ソレイユ」、CD2を「ルーヌ」と題し、ジャケットも表と裏で変えて、あえて分けているという音楽性の違いはたしかにあるなあ。

 

Spotify アプリで見るジャケットは、その表と裏を合体させたもので、これじゃあちょっと…、と思うんだけど、まあしょうがないんだろうね。CD1の太陽篇はわりとストレートなズークで、ダンス・ミュージックとしてのこの音楽にそのまま焦点を当てたような一直線。これはもちろん楽しい。わりとアッパーなズークが続く印象で、CD1ラストの「Sans Rides」だけがやや落ち着いたしっとり路線かなと思う。

 

どうしてマーティン・ルーサー・キングの有名な演説を挿入してあるのかぼくにはわからない3曲目を含め、タニヤのこの CD1の太陽篇でもわかるけれど、ぼくにとってズークのダンス・ミュージックとしての魅力はタイコにある。タニヤのこれのばあい、打ち込みと生演奏ドラミングを混ぜてあるかなと思うんだけど、特にベース・ドラムのずんずんお腹に来るビート感、これが大好き。

 

いっぽう月篇の CD2はもっとぐっと落ち着いたフィーリングで、ダンスというより歌と演奏を聴かせるような、そんなジャジーな歌謡性をも帯びている。それでも1曲目はやっぱりダンス・ズークかなと思うけど、2曲目「Assis Dans Le Noir」で雰囲気がチェンジするよねえ。曲題どおりというべきか、夜の暗さを感じさせるジャジーさで、しっとりと落ち着いている。タニヤもそんな歌いかたをしている。背後でパーカッション群はかなり細かく刻んでいるけどね。

 

ちょっと驚くのは4曲目「Vini Fou」と5曲目「Mwen Sé Taw」だ。コンテンポラリー R&B みたいなジャズ・ナンバーで、前者ではいきなりハーマン・ミュート・トランペットの音でイントロが創られているし、その後サックスとの合奏になって、次いで本編の歌が出るという具合。そうなってからのリズムも、まるで『アマンドラ』のころのマイルズ・デイヴィスの音楽みたいだ。

 

それはブラック・ジャズ・フュージョンみたいな5曲目でもそうで、これは完璧なバラード。夜の雰囲気で、どこもダンサブルでないズーク。深夜の都会のクラブかどっかでしっぽり決めてくつろいでいるみたいな、そんな雰囲気横溢だよなあ。でもドラマー&パーカッショニストはやっぱりポリリズミックに刻んでいる。シンセサイザーもギターもベースもジャジーだ。これはいいなあ。

 

6曲目「Papillion Ka」なんか、まるでジャコ・パストリアスがやっているみたいな曲だし(出だしのエレベ)、このタニヤ・サン・ヴァルの2016年作『ヴォワイヤージュ』CD2の「ルーヌ」、けっこうなお気に入りなのだ。陽気な CD1とあわせ、暖かくなってきたいまの時期の春とこれからの夏にかけて、またどんどん聴こうっと。

2019/04/24

CD を持っていたって、あなたは音楽を持っているんじゃない

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ぼくも書籍や洋服などと同じようにレコードや CD を買って持っていると、あたかも音楽を「所有して」いるかのような気持ちになっている人間で、ああ、この(CD で聴ける)音楽はいいな、ぼくはそれを自分のものとして持っているんだなと感じていい気分にひたっているから、それをどんどん増やしたいという、そんな傾向があるのは間違いない。

 

でもレコードや CD を持っていて聴けているというのは、はたして音楽を所有しているということになるのだろうか?っていうのは、そもそも音楽って「持つ」ことのできるものなのだろうか?という根源的疑問がぼくにはある。音楽を持つ、所有するって、いったいなんのことだろう?ディスクという物体を持つ持たないならわかる。でも、音楽=ディスクじゃないんだからねえ。

 

つまり、音楽とは得体の知れないものだ。そこにあるとかどこにあるかもわからない。ディスクをプレイヤーに入れて再生ボタンを押しても、必ず流れくるとは限らないのが音楽。物体などなにもなくともしっかり聴こえて強い忘れえぬ印象を心に刻み込んだりもするのが音楽。

 

じゃあぼくたちが音楽と呼んでいるものは、物体形式で可視化できて所有できるものなのか否か、わからなくなってくるよねえ。根本的に、音楽は空気の振動だから、目には見えない。所有することなどもできない。ただ、なにかのきっかけで耳に入り鼓膜を震わせるだけだ。だけといっても、それが鮮烈なものなんだけど。

 

声は喉の振動で、楽器音もなんらかの振動かな、それが空気中に出ても(エレキ・ギターやシンセサイザーなどのように)出なくても電気信号化されたものを拾って記録する。レコードだと物理的な溝の形態で、CD なら光学信号として。それをふたたび電気装置を用いて再生し、最終的にはやはりスピーカーなりヘッドフォンなりで振動化して、耳に聴こえるものとなる。

 

こんなプロセスだからさ、音楽って。それら一切合切ひっくるめて音楽だから、「所有する、している」って、やっぱりなんのことだかわかんないよね。レコードや CD はあくまで販売される商品に音楽を収納しているだけで、それを買って自宅に持っていても、「音楽を持っている」とは言えないんじゃないかな。

 

ディスク形態で持っていても音楽を持っているわけじゃない、と言うと、じゃあネットで聴く、ダウンローディッド・ファイルで聴くのも同じことじゃんね、CD にこだわることはないじゃんね、という意味のことを言いたいんだなと思われそうだけど、ぼくの本意は違う。ぼくは CD がほしい。買って持っていたいんだ。

 

でも、CD を買って持っていてちゃんと聴けていても、だからそれで音楽の所有権を買ったのだ、持っているのだ、自分のものだ、とは決して思わないことにしている。音楽に限らずどんな芸能・芸術だって、創り手をも超えていく。いったん世に出たら、それは製作者、創造者のものですらない。というか、音楽の創造とは個人や集団の手になるものだと言えるのか。

 

そんなようなものを、ましてや音楽のパフォーマー自身でもないぼくが「持っている」「所有している」などとは、おそろしくて到底言えないわけなんだよね。ぼくは音楽の所有権じゃなく、この世にいるあいだだけのいっときの利用権にお金を払っているだけだ。音楽は永遠に生き続ける。ぼくはそのうち死ぬ。

2019/04/23

屈折した究極のナット・キング・コール

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2019年3月17日の誕生日に故ナット・キング・コールの生誕100周年を記念して発売されたアルバムが、もう一枚ある。キャピトルの『アルティミット・ナット・キング・コール』。必要がないから CD は買わなかったが、これはオール・タイム・ベストみたいなもんかな。きっちり一時間でナットのキャリア全体を概観しようという入門向けの内容だろうと思う。

 

1940年代のトリオ時代から、グレゴリー・ポーターがヴァーチャル共演した「イパネマの娘」まで全21曲、まんべんなくヒット曲、代表曲が収録されていると思える内容で、昨日書いたラテン・アルバムからも二曲、「キサス、キサス、キサス」と「ペルフィディア」が入っている。ナット・キング・コールがどういう歌手だったのか、2019年にはじめてちょっと覗いてみたいというみなさんには格好のアルバムかも。

 

しかしナット・キング・コールがどういう歌手だったのかということは、実はあんがい複雑なのだ。それはこのアルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』でもはっきり表れている、というかそういった側面をあぶりださんとして編纂された一枚かもしれないとすら思うほど。もっと言えば、ナットとはだいたいがそんな歌手だったので、ベスト盤を編めば必然的にそうなるということか。

 

それはなにかというと、ナット・キング・コールの歌には、失った愛、手に入らない愛を想い、しかし決して悲嘆にくれるばかりではなく、前向きに(?)がんばって妄想してみよう、そのつもりになってみよう、そうすれば楽しく幸せな気分になれるじゃないか、つらいときこそ笑って!というものが実に多いということだ。もうホントそればかりと言いたいくらい。

 

歌詞のわかるかたは『アルティミット・ナット・キング・コール』をお聴きになって、あるいはトラックリストを一瞥して、このことを理解なさるはず。たとえば「スターダスト」や「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」といった超有名スタンダードも、メロディがあまりにも美しいがために忘れられがちだけど、失恋や未恋を歌った内容なんだよね。それをきれいにきれいに、昇華しているような歌だ。

 

ナット・キング・コールはそういった内容の、ちょっとストレートなラヴ・ソングではないような心模様をあつかって、スムースでナチュラルな、ノン・ヴィヴラートのナチュラル発声で、あくまでどこまでもきれいにきれいに歌いこんでいるじゃないか。肌(耳)ざわりがまるでサテンをまとうかのごとき心地いいサラリ感だから、なかに秘めた悲哀はなかなか伝わりにくい。あたかもおだやかに微笑んでいるかのようだ。

 

でも、最近、57歳のぼくは思う。人生ってそんなもんだなあってさ。つらいこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、それで落ち込んでばかりいるわけじゃない。好きな彼女がぼくに恋しているようなつもりになって、つまりブルーなときもプリテンド、夢想・妄想して、それで楽しくハッピーになれるじゃないか、つらいときも笑って生きていけるっていうもんだ 〜〜 こんなようなことをナット・キング・コールは語りかけてくれているようだ。

 

まずピアノ・トリオ編成で音楽活動をはじめたナット・コール。1930年代末だったからちょうどビッグ・バンド全盛期だ。そんなシーンに一矢放たんとしてのちょっと違った感じのレギュラー・トリオ編成意図だったとまでは言えないかもしれないが、当時新鮮なサウンドだったことは間違いない。当初、ナットは歌う気はなく、リクエストされてもノーだった。あくまでピアニストとしてやっていくつもりだった。

 

それがひょんなきっかけで歌ってみたら大評判。歌手として大成功し、次第にトリオの名義はそのままに大規模管弦楽を伴奏にスタンド・マイクで歌うようになり、しかし時代は徐々にビッグ・バンドから離れていった時代だったけれど、このへんの交差するいきさつを考えると、これまたなかなか興味深いものがあるよねえ。

 

しかし、アルバム『アルティミット・ナット・キング・コール』で聴いてもわかることだけど、初期のトリオ録音でのちょっぴりジャイヴ感覚を残したヴォーカルと、その後のオーケストラ伴奏でのポップ・ヴォーカルとで、さほどの違いはないじゃないか。キャピトル盤だから収録できないその前のデッカ時代から実はそうなんだけど、ナットのヴォーカルはなにも変わっていない。スムースでナチュラルで、上品でエレガント。ちょっとストレートじゃない屈折した恋愛歌の内容だって同じなんだよね。

 

ここにも収録されているが、「スターダスト」はメタ・ソング、「モナ・リーサ」もメタ・アートだという内容を書く余裕がなくなっちゃったな。

2019/04/22

ナット・キング・コールのラテン集はフィーリン・アルバム?

4589605035069http://elsurrecords.com/2019/03/17/nat-king-cole-latin-american-tour-with-king-cole/

 

https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/7GlR8e592Xomud4vjHrN9h?si=fvh4P46ORDGYulbEq80yOw

 

今2019年はナット・キング・コール生誕100周年にあたる。それで誕生日の3月17日にテイクオフ/オフィス・サンビーニャから一枚リリースされた。『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』。大のナット・コール好きでラテン・ソングズも好きというぼくみたいな人間にとってはもってこいの企画盤だ。ナットのラテン曲集アルバム三枚については、以前詳述した。
http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-be41.html

 

それで、ずっと前、デッカ時代とかキャピトル初期とか、ナット・キング・コールといえばそのへんのピアノ・トリオ作品で決まりだという趣旨の記事をアップロードしたらコメントがついて、「えっ?そうなのですか?ぼくたちにとっては雑音混じりのラジオから聴こえてくる 'カチート' であり…」とおっしゃるかたがいらした。ある世代以上の洋楽ファンのみなさんにとって、ナット・キング・コールのイメージとはそういったものなんだそう。

 

そう言われれば、たしかに「ネイチャー・ボーイ」や「モナ・リーサ」「トゥー・ヤング」「枯葉」などが歌手としてのナット・キング・コールを象徴する大ヒットだし、そんなスーパー・スターであるナットが歌ったラテン・ナンバーを耳にして、特に「カチート」あたりかな、そういうのでラテン音楽ファンになったという年配の洋楽好きのかたがたがいらっしゃるのは当然と思う。

 

だから、そんな「カチート」がテイクオフ/オフィス・サンビーニャ盤『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』で幕開けに置かれているのは当然かな。それ以後も三枚のラテン集からまんべんなく選ばれていて、選曲と並び順は解説をお書きのラテン専門家、竹村淳さんかな?と思うんだけど、全35曲あるうちからオミットした五曲はそれなりの理由のあるものだし、一枚通してとてもよくできているし、『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』はナットのラテンを聴くのにこれ以上ない格好盤だなあ。

 

このアルバムには一曲だけ歌のないインストルメンタル演奏が含まれていて(ナットはもちろんピアノ)、11曲目の「わが情熱のあなた」(Tú, Mi Delirio)。これはセサール・ポルティージョ・デ・ラ・ルスの書いたフィーリン楽曲なんだよね。ナットのは1958年のレコードだけど、キューバ本国ではもちろんとっくにフィーリン・ブームだったとはいえ、アメリカ合衆国でその時点でフィーリンをやったというのはかなり興味深い。

 

むろん、選曲はナット自身というよりもマネイジャー含めキャピトルのスタッフがやったに違いないわけで(そもそもラテン・アルバムを創ろうというのだって、マネイジャーの持ち込んだアイデアだった)、ナットはそれにしたがって演唱しただけとはいえ、それでも結果として、1958年にナットがフィーリンをやっているというのは考えさせられるところがある。

 

っていうのはさ、ナット・キング・コールってあんなやわらかくソフトで軽くそっとささやくように置くようにていねいに歌うクルーナー・タイプでしょ。キューバでフィーリンの第一人者とされるホセ・アントニオ・メンデスはそもそもナットの大ファンで、ナットみたいに歌いたいと思って、結果、フィーリン・ヴォーカルを編み出した。

 

そんなナットがメキシコやキューバ(その他中南米各国の)のラテン楽曲をとりあげて、ホセ・アントニオもあこがれたようなフィーリン先駆けヴォイスでやわらかくやさしく歌ったわけだから、ナット・キング・コールのラテン・アルバムというのは、ある意味フィーリン集とも言える側面があるなあとぼくだったら思うわけ。

 

そういえば、今日話題にしている『キング・コールと行くラテンアメリカの旅』には、エル・スール原田さんがフィーリン・アンソロジー『フィーリンを感じて』のなかに選び入れた「ペルフィディア」が22曲目にある。それだけじゃない。20曲目に「アレリのつぼみ」(Capullito De Alhelí、プエルト・リコ)、28曲目に「ラ・ゴロンドリーナ」(La Golondrina、メキシコ)がある。二曲ともカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』で歌ったものだ。

 

ナット・キング・コールからホセ・アントニオを経てカエターノへ、そんなフィーリン人脈というか系譜まで想像できてしまうのは、ぼくの妄想が過ぎるという面もあるだろうけれども、ナット・キング・コールのこんな声質と歌いかたでこういったラテン・ソング集を聴くならば、あながち外しすぎとも言いにくいのかもよ。

2019/04/21

どうしてこんなにカッコイイんだぁ!ソナ・ジョバーテ!(二回目)

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一回目はこれ http://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-bed0.html

 

大切なことだから、二回言う。ソナ・ジョバーテがカッコイイ。カッコよすぎるだろう。このグリオの末裔らしいガンビア系ロンドナー、コラを弾きながら歌うのだが、そしてソロ・アルバム『ファジーヤ』ではギターやベースなど各種弦楽器も多重録音でこなしているが、すべてがカッコイイ。さわやかで、しかもあったかい。こんな音楽、なかなかないんだよ。

 

しかし一回目に書いた際の反応が皆無だった。日本でソナ・ジョバーテに最も注目されているのは D さん(@Desert_Jazz さん)で、たとえばこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23506233/

 

あるいはこれとか
https://desertjazz.exblog.jp/23767854/

 

だけど、ぼくの目にとまった範囲でソナのことを書いているのは、CD を売っているエル・スールの原田さんと D さんとぼくだけ(あと一人か二人いるらしい)。こ〜んなにすばらしい音楽はないっていうのに!だから、一度強調したけれど、大切なことだからもう一回、中身は同じだけど書いとこうって思うわけ。みんな〜、ソナ・ジョバーテに耳を傾けてくれないか。カ〜ッコイイんだぜ〜!

 

2011年の『ファジーヤ』がいまのところ唯一のソロ・アルバムだけど、ぼくが気づいて買って聴いたのは昨2018年のことだった。そして、考えられないことにその年のベストテン新作篇に選ばなかった。これはいま考えたらありえないことだった。しかしソナの『ファジーヤ』は一回聴いていいぞと思えるものの、時間とともにどんどん熟成度を増し、作品のすばらしさ、特にコラ演奏のものすごさが徐々に身に沁みてわかってくる、そしてとうとうソナのことを忘れられなくなるっていう、そんなアルバムじゃないかと思うんだ。だから許してください。現時点で2018年のベストテンを選ぶならば、ソナの『ファジーヤ』は上位です。

 

コラ演奏の技術がものすごいと書いたけれど、『ファジーヤ』でもアップ・ビートの効いたグルーヴァーである、たとえば1、4、5、7曲目でもそれは本当によくわかると思う。コラでここまでのスピーディで爽快な疾走感を持つグルーヴを表現できる人物って、ソナのほかにいるんだろうか?コラ・ソロも随所で入るが、カッコよすぎて呆然としてしまう。あっけにとられて、しばし我を見失うほど、颯爽でカッコイイ。しかもめくるめくように幻惑的。でありかつ猛烈にグルーヴィ。そんなコラ演奏だ。

 

ソナのコラ演奏は、ゆったりめの曲でもすばらしくて、たとえば2、8、9曲目など。ホント、こんなふうにコラを弾ける人物がほかにいるのかよ?いないだろう、ソナが世界ナンバー・ワンじゃないか。しかもコラと聞いて多くのアフリカ音楽ファンのみなさんが想像するかもしれない世界じゃない。ソナのコラ演奏は高度に洗練されていて、アフロ・ブリティッシュな都会派ポップ・ミュージックのなかで最大の有機体として機能している。

 

ガンビア系ロンドナー、ソナ・ジョバーテの『ファジーヤ』。2011年作だけど、近年稀に見るアフロ・ポップの傑作だと思うんだ。だから、二回目だけど、やはり強調しておいた。お時間とお気持ちがおありのかたは、ぜひどうぞ!

2019/04/20

bunboni さんのおかげで、すっかり Spotify 漬けになっています

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今日は2019年4月19日ですけど、今日付で更新された bunboni さんのブログでとりあげられているデデ・サン・プリ(マルチニーク)の新作も CD は見つかりません。速攻で Spotify で探したらありましたのでそのまま save。そしていま聴いています。楽しいですねえ。たしかに傑作だとぼくも確信できる内容です。が、しかし CD は買えないんです、すぐにはね。Spotify でならすぐに見つかってそのままぜんぶ聴けます。

 

実にこんなことばかりなもんで(最近ならミジコペイもピポ・ジェルトルードもエムドゥ・モクタールも)、だからぼくは bunboni さんのブログのおかげですっかり Spotify 人間になりました。bunboni さんがブログで書く→ぼく、CD さがすけど、ない→Spotify で瞬時に見つかる→そのまま Spotify でくりかえし聴く、このパターンのなんと多いことでしょう。というかこればっかり。after you を読んでいれば必然的に Spotify 人間になるでしょうよ、そりゃあ。

 

bunboni さんがブログでとりあげられる音楽アルバムは、ものによっては探せば瞬時に CD が見つかるばあいもわりとあるんです。bunboni さんご自身、日本の街の CD ショップ(など)でお買いになったものだから、ということなのかもしれないですね。そう推測できます。がしかし、大半はすぐには買えないんです。日本で通販商売をしている CD ショップのどこにもないというもののほうが多いんですね。

 

Spotify とか Apple Music とかこの手のサーヴィスがはじまる前なら、みなさんもぼくも after you の読者は悔しい思いをしてそのままチキショ〜!と心で叫びその場はあきらめて、どこかのお店(セレクト・ショップ?)が入れてくれるのをひたすら待つ、ということしかできなかったと思います。10年も続けていらっしゃるブログだそうですから、読者にとってはそんな時代が長かったのかもしれませんね。

 

ですが!もう時代は変わりました。ぼくの嫌いなことばを使えば「進化」したんです。ストリーミング・サーヴィスが開始され、ネットで定額制で聴き放題できるということになり、しかも、ぼくは Spotify メインだからその話になりますが、この世で流通している音楽商品のほぼだいたいぜんぶが Spotify で聴けるというような、うれしい時代になりました。

 

この時代の変化を得て、bunboni ブログ after you の読みかた、利用方法も「進化」したと思います。上で書いたように、CD は見つからずとも Spotify でそのまま聴ける、after you で読んだ次の瞬間にそのまま速攻でアルバムのすべてが Spotify で聴ける、ということになっているんです。

 

以前から書いていますように、ぼくはなんだかんだ言ってまだまだ CD 買いたい派なんで、すぐには見つからなくとも根気強く待ち、探し続けて、結局は買っています。今日知って聴いたデデ・サン・プリの『Mi Bagay La』もマジでいいので、いまは見つけられないけれど、日本に入ってくれば間違いなく買うと思います。

 

多くのみなさんのばあい、そうやって待って、after you で紹介されていてすぐには買えなくても待つ、ということなのかもしれないですね。ぼくはそのへんがダメ人間でこらえ性がないというか、読んでオモシロソ〜〜っ!と思ったらその場で即聴きたいんですね。すくなくともその日のうちに CD 購入のボタンをクリックしたい。そうじゃないとイヤ。

 

でも CD はない。そういう場合が多いです、after you で紹介されているアルバムはですね。待てない人間であるぼくは、だから Spotify で検索して、すると九割がたは見つかりますからね。で、そのまま聴くんですよ。さいわいというかさすがというか、bunboni さんの紹介なさっている音楽は、ほぼどれもおもしろく楽しいです。

 

おもしろく楽しいと感じる、そんな体験を、after you を読んで即そのまま Spotify でぼくはしているわけなんですね。すぐに CD は買えないけれどすぐに Spotify で聴けるという状況ですから、九割がた以上はですね。皮肉なことです、bunboni さんはあそこまでフィジカルのあるなしにこだわっていらっしゃる音楽愛好家なのに、おかげで、すっかりぼくは Spotify 愛用者になりました。

 

それはそうと、デデ・サン・プリの『Mi Bagay La』、マジですんごくいいですよ。楽しいです。日本は、というかこちら愛媛県地方は完全に春になり、もはや夏も予見できるほどの日差しがふりそそぐ暑さになってきましたから、ちょうどいまピッタリの音楽で、文句なしです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19

2019/04/19

現役ジャズ・メンはやはりすごい 〜 Dr. ロニー・スミス篇

Mi0004362149_1https://open.spotify.com/album/0anjMU3ensntiJOq3SCjij?si=5pKElF1jRoyouGnnq5ADWw

 

完全に見逃していたドクター・ロニー・スミスの2018年新作『オール・イン・マイ・マインド』。今年三月、気が付いたのは、ブルー・ノート・レーベル公式配信プレイリスト「Dr. ロニー・スミス:ザ・ファイネスト」を聴いたから。ロニー・スミスのベスト盤みたいなもの。ふつうにカッコイイよねと思いながらお風呂で流していたら、ラストに来て耳慣れないのが聴こえてきた。ポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」だったのだ。

 

そ〜れがすんばらしくて!、この曲をロニー・スミスやってんだ、どのアルバム?と思ってクリックしたら2018年リリースの最新作『オール・イン・マイ・マインド』が出てきたというわけ。あわてて CD 買いましたよ〜。これはライヴ・アルバムで、ニュー・ヨーク・シティでの収録。パフォーマンスの年月日は記載なし。いやあ、こりゃあなかなかの快作だ。現役ミュージシャンのことは常にチェックしておかないといけないなあと反省。

 

Dr. ロニー・スミスの『オール・イン・マイ・マインド』アルバム全体では、書いたようにポール・サイモンの「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」が異様にすごいし、ブルー・ノート公式だってこれをベスト盤的プレイリストに選んでいるんだからやはり同様の考えなんだろう。そのほか、なんでもないメインストリームなオルガン・ジャズも混じっているが、そうじゃない1曲目「ジュジュ」、5「アルハンブラ」、6「オール・イン・マイ・マインド」あたりが聴きものだ。

 

パーソネルは、ロニー・スミス(キーボードのほうが先に書いてある)、ジョナサン・クライスバーグのギター、ジョナサン・ブレイクのドラムスという典型的オルガン・トリオ。ロニーはヴォーカルもこなし、また3曲目でだけドラマーがジョー・ダイスンに交代。6曲目でゲスト参加の女性歌手、アリシア・オラトゥージャ。

 

1「ジュジュ」は、かのウェイン・ショーター・ナンバー。ロニー・スミスはポリリズミックなアレンジを施してあって、ドラマーの叩きかたがおもしろいのでかなり聴ける。実際、この曲での主役はジョナサン・ブレイクだね。オルガンのあとドラムス・ソロも出るのが聴きものだけど、ギターやオルガンの背後でも大活躍している。ソロのあとで、スネアのリム・ショットにダブふうなエコー処理が施してあるのもいい。おもしろいけど、ひょっとしたらスタジオでの音加工とかじゃなかった可能性があるかも?

 

3「50 ウェイズ・トゥ・リーヴ・ユア・ラヴァー」をどうしてロニー・スミスが選曲したのかわからないが、アレンジは全曲ロニー本人との記載はあれど、この曲にかんしてはポール・サイモンの1974年オリジナルにほぼ忠実。それはスティーヴ・ガッドのドラミングをフィーチャーしていたが、そのパターンをジョー・ダイスンもそのまま踏襲している。

 

がしかし大きく異なるのがギター・ソロだ。このロニー・スミス・ヴァージョンでの最大の聴きどころがジョナサン・クライスバーグの饒舌なギター・ソロなんだよね。うまいのひとこと。しかもソロ後半でパッとエフェクターのフット・スウィッチを踏んで音色を飾り、まるでスティール・パンみたいな音色で弾きまくるパートなんか、サブイボ出そうなほどすばらしい。

 

5「アルハンブラ」(ロニー自作)は、曲題に反しアンダルシアふうなところはまったくないジャズ・ファンク。でもカッコイイぞ。疑問なのは冒頭でハーマン・ミュートをつけたトランペットの音(に間違いない)がしばらくプレリュードふうに聴こえるんだけど、トランペッターが参加している様子はないので、サンプリングしたものをロニーが弾いているのかなあ、たぶん。

 

女性ヴォーカリストをフィーチャーした6「オール・イン・マイ・マインド」(ロニー自作)は、ちょうどコンテンポラリー R&B みたいで、ダウナーでブルー。エラ・メイとか、あのへんのサウンドと歌にとても近い。歌っているアリシア・オラトゥージャってぼくは知らないんだけど、アレンジとサウンド・メイクをやったのは Dr. ロニー・スミスなんだろうからね〜。

2019/04/18

バラディアーとしてのアンガーム2019は完璧なる宝石

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はぁ〜、なんだこれは。エジプトの歌手アンガームの2019年(2月20日リリース)作『Hala Khasa Gedan』がとんでもない大傑作じゃないか。あまりにもすばらしすぎる。これはポップ・バラード・アルバムなんだけど、9、10曲目なんか、どこからどう聴いてもなにからなにまで100%完璧だとしか思えない美しさ。ため息しか出ず、ことばがない。アラブ伝統色も濃いという点では2018年作と同傾向だけど、でありながら同時に2019年作は全世界で通用する普遍のポップネスをも獲得。そして、生の人力楽器演奏の比率はさらに上がっているはず。ひょっとしたらぜんぶ人力かも。

 

いやあ〜、しかしこんなにも美しいアラブ・ポップスがいままでにあっただろうか。いや、アラブと限定することはない、あらゆる音楽のなかでも、こうまですばらしい作品にはなかなか出逢えるもんじゃないと思うよ。完璧なる玉じゃないか。アンガームの最高の円熟、絶頂をここに聴く思いで、ホ〜ントため息しか出ないんだ。ホント、ホント〜に、この2019年作はきれいだ。特に9〜14曲目の六曲の流れは、いや、全体が、はぁ〜、なにこれ!こんな綺麗な音楽、聴いたことないよ。

 

9曲目が個人的にはこの2019年作の白眉なんだけど、このちょっと軽いラテン・リズムの効いたバラードは、プロデュース、曲創り、伴奏アレンジとその演奏、主役歌手のヴォーカル・パフォーマンスのどれをとっても100%完璧だ。適切な湿度のこもった情緒とリリカルさを持っていて、しかも重たくなりすぎず軽快なふんわりさをもまとっている。特にこのリズムだなあ、それとそれに乗せてアンガームがたたみかける歌いまわしの切なさにゾッコン参ってしまう。もう、とろけそうだ。コーラスで進む部分はアンガームのひとり多重録音の可能性があると思う。

 

しかもこの9曲目は、アラブ・ローカル色がちょうどいい感じでユニヴァーサルなポップネスに昇華されていて、楽器はウードなども使うものの、楽想は普遍的なものだ。アンガーム自身もアラブ古典歌謡のコブシまわしを駆使しつつ世界に通用するチャーミングさをふりまいているじゃないか。さらに、キュートさよりも大人の女性の落ち着き、しっとりさ、切なさを聴かせているよなあ。

 

9曲目以前も以後も、たまらない美しさ。どうしてここまで美しいのか。曲もオーケストラも歌手も、みんながあまりにもきれいすぎて、ウットリ聴き惚れて、聴いているあいだ、ほかのことができない。ただただ Spotify アプリで表示されるジャケ写とトラックリストをジッと見つめたまま身じろぎもせず指一本動かせず、ただボ〜ッとしながら耳はアンガームの音楽だけに集中しているんだ。

 

こんな体験は滅多にないことなんだよなあ。アンガームの2019年作『Hala Khasa Gedan』が見事に完璧な宝石すぎて、ここまでの美しさを放っている音楽なんてこの世にほかにはないだろうと思うと、うれしいけれど気持ちが平常や冷静を保てず、このまま、アンガームのこのアルバムを聴きながらそのまま、いっそ死んでしまいたいとすら思う。

 

いま円熟の極致にあるエジプト人歌手アンガームの至高の完成美、それが2019年作『Hala Khasa Gedan』だ。ぼくの人生57年、ここまで美しい音楽には出逢ったことがない。このまま溶けてしまいたい。

 


حالة خاصة جدا

2019/04/17

円熟のアンガーム2018がいいね 〜 特にリズム

Fullsizeoutput_1e78https://open.spotify.com/album/2TjMUXHMejsedEFVoKXuX2?si=fkSk9VjFQMGpIIRkEk-MZw

 

エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 は、ずばり、ハリージ・アルバムだね。ハリージとは近年の(クウェートなど)ペルシャ湾岸地域で盛んなダンス・ミュージックのこと。パーカッション類をがちゃがちゃと多用し、リズムがヨレて突っかかり引っかかるような独特のノリを持っているところが特徴。アンガームはそんな音楽に挑戦した。

 

だから2018年作はローカルもローカル、全面的にアラブの一色に染まっているわけ。国籍不問のユニヴァーサル・ポップスを歌っていたアンガームの姿はここにないが、しかしこの歌手が本来的に持っているアラブ古典歌謡の素養がフルに発揮され(ここまでアラブ色の濃い作品は、いままでのアンガームになかったのでは?)、結果、見事な結果につながっているとぼくは聴く。すばらしいアルバムじゃないかな。

 

出だしの1曲目からパーカッション類の独特の使いかたやそのリズムで、これはハリージだなとわかる。サウンドやリズムをプロデュース、アレンジしたのがだれなのか、とても知りたい気持ちだが、2018年のアンガーム(といっても録音はたぶん2017年内に行われたはず)なら、みずからの意思もかなり反映されていただろうとも推測できる。

 

ハリージを歌うんだというアンガーム自身の強い意思は、なによりその声の美しさ、張り、艶、伸び伸びとしたフレイジングなど、歌唱全体に聴きとることができる。歌手として完璧に円熟期に入ったことを確信できる見事な歌いっぷりで、乗りにくいんじゃないかと素人なら思うハリージのバック・トラックの上で自在に飛翔して破綻なく、立派な歌を聴かせてくれているよね。

 

ラテンだってある。「ワン、トゥー!」の掛け声ではじまる4曲目がそう。これはサルサなんだよね。この曲はアルバム中異質な感じもちょっぴりあるので、プロデューサーなどが異なっている可能性があるように思う。わからないけれども。しかしラテン/サルサなこの一曲のなかでも、後半部からはガチャガチャしたハリージっぽいパーカッション・リズムになって、やっぱりアルバムの全体像は損なわれていない。

 

このラテン・ナンバーが終わったら、アルバムは完璧にハリージまっしぐら。エジプト人なりの、というかアンガームなりのハリージ解釈だろうから、ダンスというよりも歌謡、またリズムのヨレかたもそこそこスムースなほうに流れているようには思うけれども、それでもまごうかたなきハリージ・ミュージックの展開だ。バラードっぽい曲でも、やはり背後で複雑なリズムをパーカッション類が刻み込んで、つんのめる。

 

それなもんで、激しいダンス・ナンバーである、たとえば6曲目(はちょっぴりだけフラメンコっぽくもある)とか、8曲目(はロック的でもある)とかなどでのリズムの強いネジレとヨレ、つんのめりと突っかかりかたは本格ハリージと呼んでもいいほど。また、ハンド・クラップも多くの曲で頻用されているし、生の人力演奏の割合もかなり増しているはずだ。

 

どっちかというとダンスというよりは聴かせるバラードのほうが多いのかなと思うアンガームの2018年作だけど、そんなバラディアー傾向は、次の今2019年作につながっていく部分でもある。2018年リリース作で、どうして突如こんなハリージ傾倒を見せているのかはわからないが、結果としては歌手としての円熟を見せつける結果となっていて大成功。実際、アンガームのヴォーカルは大人らしい落ち着きを増すと同時に飛翔力をも高めている。すばらしい熟しかただ。

2019/04/16

愛しのアンガーム(2)〜 2015年作はアラブ色が濃いめ?

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エジプトの歌手アンガーム。昨日書いた2003年作『あなたと生きる』と比べ、(ここまではぼくも CD で持っている)2015年作『Ahlam Barya』ではバックのリズム・トラックも生演奏の比率が上がっているのかなと思うんだけど、この聴感上の印象は間違っていないだろうか?それからアラブのローカル色がやや濃いめに出ているようにも思う。それとユニヴァーサル・ポップスのカラーがちょうどいい感じにブレンドしていて、こりゃあいいねえ。

 

アルバム幕開けの1曲目は、カフェ?レストラン?クラブ?みたいな場所でのサウンド・エフェクトから入って雰囲気をつくったかと思うと、カーヌーンが奏でるアラブ伝統音楽の伴奏みたいなものが出て、ここだけでもオッ!こりゃいままでとは違うぞ、と思わせる。その後アンガームのヴォーカルが入ってからはユニヴァーサルなポップスにもやや近いかなと思う内容で、しかしその背後の伴奏はアラブふうだ。

 

こんなブレンド具合が、この2015年作では全編をとおし聴けると思うんだよね。ローカルすぎずユニヴァーサルすぎもしない適切な折衷の中庸具合がとてもいい。アンガームの歌いかたは、根底にアラブ古典歌謡の節まわしを持ちつつ、やはり表面的には濃ゆすぎない軽みを聴かせていて、それがこのひとのいいところだね。

 

それでも2003年作などと比較すれば、アンガームの歌もややアラブ伝統寄りかな?と思わせる部分もある。たとえば完璧な米欧ポップスみたいでフォーキーですらある2曲目でも、バック・トラックはそうでも、上に乗る歌手のフレイジングにはやや粘り気もあるように思うんだ。でもやりすぎていない適切さ、それがアンガームの美点だ。

 

アラブ・ローカル色をちょっとだけ濃いめに持つ曲と国籍不問のポップスみたいなのが、その後も交互に出てくるように思うこのアルバム、最初に書いたように、伴奏陣に生人力演奏人員の比率が上がっていると思うんだけど(楽器のチョイスもアラブ伝統にやや傾いているね)、そのせいか関係ないのか、アンガームの歌まで有機的に生き生きとしているように聴こえるのがイイネ。

 

途中ジャジーなバラードなどもはさみながら、アルバム・タイトルにもなっている7曲目は、なんと完璧なるボサ・ノーヴァ・ナンバー。伴奏はかなりな部分人力演奏だな。アンガームもさらりと軽く乗せて置くように歌っていて、ちょっぴりコブシをまわすものの大人のアッサリ感を漂わせ、こりゃあいいねえ。これ、だれが曲を書きアレンジしたんだろうなあ?プロデューサーも知りたい。いい一曲だ。アルバム・タイトルに持ってくるのはわかる。サルサっぽいラテン・テイストすらもある。

 

8曲目もリズムがラテンだし(といっても、以前からアラブ歌謡のなかにあるおなじみのパターンだけど)、そうかと思うと10曲目はこれまたアラブ伝統色がモダンな感じで活かされている。2003年作『あなたと生きる』でたっぷり聴けた打ち込みのずんずんビートを使った11曲目を経て、アルバム・ラストはしっとりバラードで、しかもちょっぴりだけジャズ・フュージョンっぽい。そこにアラブ色はないが、細やかに歌い上げるアンガームのしなやかさは絶品だ。

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