2019/01/17

ひとり書き For No One

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音楽をどんどん聴くのは、もちろんだれのためでもない自分のため、というかためでもなく、ただたんに聴きたいからだ。しかしまあ、ためというか自分にとっての効用みたいなことはあるように感じている。なんだか気分がダウンなとき、肉体的になんらかのつらい状況にあるときなどなど、好きな音楽に聴き入ることで、ある種の救い、とまで言わないまでも強い癒しになっているのは間違いない実感。むろん、べつになにもない平穏で楽しい時間にだってどんどん聴いている。つまり、いつでも音楽といっしょ。

そうやってどんどん聴いて、それについて毎日どんどん文章を書き、公開するというのは、しかしいったいぼくはなんのため or だれのためにやっているのだろうか?まあこれも露出狂趣味のナルシストであるぼくだから、書いて見せるという行為が快感なだけだからっていうのが最大の理由だろうなあ。たんに、楽しいんだ。

最初ぼくはブログをはじめるつもりはなかった。はじめたのは2015年9月3日だけど、その約半年ほど前から音楽について書いてはツイートする、ほぼ毎晩のように、ということを続けていた。あれはいったいどうしてはじまったのか?などという問いを立ててみることも無意味だろう。音楽好き&おしゃべり好き人間だから、どんどん聴いている音楽についてたくさんしゃべりたい、ぼくにとってそのための場は Twitter しかなかったというだけだ。

Twilog というウェブ・サーヴィスがあって、ツイートをぜんぶ記録してくれる。検索も容易だから、ずいぶんと助かっている。2015年の春先あたりから音楽投稿をどんどんやるようになり、しかし Twitter はひとつのツイートが140文字までという制限があるから連続ツイートになる。タイムラインだと次々と流れていってしまうので、あとからさがして読みなおそうと思ったら Twilog が便利なのだ。

それで Twilog で自分の音楽ツイート連投を拾い、一つの話題についてのものを一個のテキスト・ファイルにまとめていた。最初は Twitter に投げっぱなしであとから Twilog で拾うというやりかただったんだけど、そのうち、たくさんのツイートじたいを保存しておいて、そのままテキスト・エディタにまとめて貼り付けてまとめるということをやりだした。ドラッグ&ドロップで。

そうしてできあがり保存してある音楽文章のテキスト・ファイルが、ぜんぶで150個ほど(だったと思う)たまってきて、これをこのまま死蔵したままでいいのだろうか?もったいないんじゃないだろうか?いや、べつにどなたに見せるとかいうんじゃなく、自分自身のために、ブログみたいな、別のなにかでもよかったんだけど、なんらかのものにして公開していけば楽しいかも?と考えるようになった。

これがこのブログをはじめた動機。だから文章を書きはじめてからブログをはじめる2015年9月3日までにすこし時間が経過していた。貯金が150個近くもあって、その上さらに休まず毎日連続ツイートしているんだから心配ないと思い、毎日更新するということを決めた。これにかんしては現在テキスト・ファイルの貯金が28個になっているので、ちょっとがんばらないといけないのかも。

ブログに毎日上げるようになってしばらく経ってからは、そもそもの書きかたが変化して、連続ツイートというより最初からブログ用にと考えて書くようになったけれど、しかしそうなってもやっぱり書くのは Twitter アプリ(Mac用でサード・パーティ製のやつ)のテキスト入力フィールドを使ってだったというありさま(笑)。140字という字数制限があるので、それくらい書いてはエディタに保存し、続きをまた Twitter アプリの文字入力欄で書くっていう、なにやってたんだぼくは(苦笑)?

これをやめ、もちろんいまでは最初からテキスト・エディタ(Jedit Ω)で書いているんだけど、それをもとに、やはり Twitter での連続投稿はやっている。ツイートしたものをそのとき一個一個見ながらが最終校正になるんだよね。これはちょっと不思議なようなそうでもないのか分からないが、エディタ画面で見てわからない細かな書きミスに、ネット投稿済みのものを見れば気づくっていう、ホントこれ、なんで?

そんな連続ツイートに反応があったり、完成品をブログに上げたお知らせをツイートしたものに反応があったりと、なにか目に見えるものや、そうでなくともひそかに感じられるちょっとしたものでもあれば、もちろんうれしく励みになる。この nifty のココログには<いいね>ボタンみたいなものがないんだもんなあ。はじめる際にそこまではまったく思いがおよんでいなかった。

だからつまりこれ、このブログ内に限れば、コメントが付く以外の反応はいっさいわからない仕組みになっている。<いいね>ボタンでもあるようなブログ・サーヴィスを選べばよかったのだろうか?

でもしかし、一時期そんなふうに感じていたものの、最近、そう、ここ半年くらいかな、これはいっさいなにもないほうがぼくにはいいのであるとわかるようになった。Twitter や Facebook にブログ更新のお知らせを書き、それに反応があるときは、もちろんすごくうれしく幸せだ。でも、なにもなくたってかまわない。

つまり、反応がないばかりか、どなたが読んでくださっているだとか、そもそもどんな層が読者であるとか、あるいはそういったもの、つまり読者を想定しながら書くことだとか、そんなこと諸々、ぼくには、いっさい、関係ない。やっていないし、考えすらもしなくなった。読者はまったく想定せずに書いている。

ぼくはだれのためにも書いていない。For No One。だれにも見られていないと自覚するようになっている。それに、そう思えばなんだって書けるし、筆が乗らない日にこんなつまらないものしか書けなかったなと思っても、躊躇なくブログで公開できる。それも正直な記録なんだしね。

すべては自分のためだ。自分ひとりで音楽を聴き、自分が読むために文章を書き、自己満足のために公開する。今日のこの記事だってそうなんだよ。

2019/01/16

ルー・ドナルドスン with レイ・バレット

いま部屋にあるルー・ドナルドスンのアルバムのうち、コンガでレイ・バレットが参加しているものだけ拾ってみたら、『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚だったので並べてみた。どっちも当然ブルー・ノート盤で、1958年録音で、編成も同じワン・ホーン・クインテット。なんだか似たような傾向の作品だね。しかもレイ・バレットが参加していないアルバムとは、やはり違いがあるよ。

レイ・バレットとは、つまり例のコンガ奏者なんで、自身はニュー・ヨークで生まれ育ったとはいえ両親がプエルト・リカン。ファニア・オール・スターズにも参加し、かのチーター・ライヴでも演奏している。そのころがレイの音楽人生最大の成功期かなあ。ルー・ドナルドスンとやったのは1950年代末だからまだまだどうってことないけれど、それでもこのストレートなモダン・ジャズ・コンボに色彩感を与えていると言えるのかもしれない?

『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚では、疑いなく前者のほうが評価が高い。そもそもストレート・ジャズをやっているルーの代表作とみなされているよね。たぶんビ・パップ・ルーツがまだ鮮明だからじゃないかと思う。個人的な好みを言わせていただければ『ライト・フット』に軍配をあげたい。なぜなら、より泥臭く、ブルーズ/リズム&ブルーズ寄りで、しかもラテン・タッチもちょっとだけあらわになりつつあるからだ。

そんなわけで、あたかもレイ・バレット参加のちょっぴりラテン寄りモダン・ジャズの話をするかのように見せかけながら、その実、以下では特にそれにこだわらず(なぜかって、さほどのことにはなっていないような)、ふつうのストレート・アヘッドなジャズ・アルバムとして『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』についての個人的感想メモを書いておこう。

『ブルーズ・ウォーク』のほうがまだビ・バップ的っていうのは、何点かに見受けられることだ。選曲でもデンジル・ベストの「ムーヴ」があったりするし、それ以上に主役アルト・サックス奏者のスタイルが、まだまだ直接的にチャーリー・パーカー的そのままじゃないか。引用句までそっくりだしね。それでも「オータム・ノクターン」みたいな曲ではしっとりとした艶を聴かせ、1曲目のアルバム・タイトル・チューンでは、レイ・バレットのおかげかそうでないのか、ちょっぴりふだんとは雰囲気の異なるブルーズ演奏に聴こえなくもない?

ブルーズ演奏といえば、やっぱりこの点こそ『ライト・フット』で大きく変化している部分で、この二枚の特徴を分かつところ。つまり2曲目の「ホグ・モウ」。これしかし、Spotify のではなぜだか存在を抹消されているがマスター・テイクの前に「フォールス・スタート」があるのがいままでのフィジカル・アルバム。なかなかいい雰囲気のスタジオ・トークだから、ストリーミングで聴けないのは不可解だ。

それはいい。「ホグ・モウ」。これはもうドロドロに泥臭いという意味でのファンキー・チューンまっしぐらで、いくらブルーズが得意なルーでもここまでのものはやったことがなかったはず。1958年だと、同じモダン・ジャズ・アルト奏者でもキャノンボール・アダリーですらやったことがあるかないかといったあたり。実にクッサァ〜!大好きだこういうの!ヾ(๑╹◡╹)ノ

こんなスローでクッサいファンキーなストレート・ブルーズ「ホグ・モウ」では、ルーもいいがピアノのハーマン・フォスターがさすがの水を得た魚。バッキングにソロにと、特にブロック・コードでぐいぐい攻めるあたりのクッサいブルージーさが、ブルーズ大好き人間にはこらえられない旨味なんだよね。ちょっぴり「アフター・アワーズ」のエイヴリー・パリッシュ系だね。個人的にはこういった跳ねるジャズ・ブルーズこそ、最高の大好物。

アルバム『ライト・フット』には、まだまだ(ブルー・ノート・)ブーガルーには遠いけれど、ほんのかすかにラテン・ジャズのタッチを感じるものが二曲ある。3曲目「メアリー・アン」と4曲目「グリーン・アイズ」。前者はレイ・チャールズのラテン R&B ソング。後者はジミー・ドーシー楽団のもの(1941年)だけど、曲はキューバ出身のニロ・メネンデスが1929年にスペイン語題で書いたもの。

ちょっぴりアフロ・キューバンを香らせたかと思えば、演奏の大半はラテン・タッチを捨てストレート・ジャズになってしまっているとはいえ、こういった二曲に目をつけるということじたいが、ルー自身が変わりはじめていたか、レイ・バレットの助言でもあったのか、あるいはそもそもそんな時代だったということか、よくわからないが、おもしろいところじゃないだろうか。期せずして、これら二曲ではアルバムのほかの曲よりもバレットのコンガが目立っているような?そうでもない?

まぁこのあたりは、むかしもそうだし、たぶんいまでも、真っ正直なストレート・ジャズ愛好家は評価してくれないところなんだ。残念きわまりない。もっと時代がくだってルーが『アリゲイター・ブーガルー』を録音・発表したり、そもそもその周辺の、つまり昨年来繰り返している #BlueNoteBoogaloo の動きとか、ってことは要するにハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」(1962)、リー・モーガン「ザ・サイドワインダー」(1963)につながっているわけだから、するってぇ〜と1970年代のジャズ・ファンクに流れ込んでいるだとか…。サルサ勃興の動きとも同時代で共振していただとか……。

あんまりこんなことまでルー・ドナルドスン with レイ・バレットの話で書くのはやりすぎかもしれないんだけど、でもたまにはさ、フツーのジャズ・ファンのみんなにも考えて聴きなおしてみてほしいと思うんだよ。ジャズのなかのラテンがいったいなんだったのか?それがどういうことで、結果どんなものを生み、なにとつながっていったのかをね。

2019/01/15

カッコイイなあ、エルヴィス『オン・ステージ』

超カッコいいエルヴィス・プレスリーのライヴ・アルバム『オン・ステージ』(1970、RCA)。しかしこれ、エルヴィスの名がジャケットのどこにもないよね。1970年だとそれほどのイコンと化していたってことだね。いまぼくが持っていて聴いているのは1999年リリースの拡大盤で、全16曲。しかし上でリンクを貼った Spotify のはオリジナルどおりの10曲でたったの30分間。 内容がいいから、いくらなんでも短すぎるんじゃないかと思うんだけど。でも疾風のように吹き去って、それもいい。

拡大盤のトラックリストは以下のとおり。

01. See See Rider
02. Release Me
03. Sweet Caroline
04. Runaway
05. The Wonder Of You
06. Polk Salad Annie
07. Yesterday / Hey Jude
08. Proud Mary
09. Walk A Mile In My Shoes
10. In The Ghetto
11. Don't Cry Daddy
12. Kentucky Rain
13. I Can't Stop Loving You
14. Suspicious Minds
15. Long Tall Sally
16. Let It Be Me

ぼくにとってのエルヴィス『オン・ステージ』は、まず一発目の「シー・シー・ライダー」(伝承ブルーズ)で爽快かつ軽快にかっ飛ばすクールさにやられてしまうっていうのが正直なところ。それから6曲目の「ポーク・サラッド・アニー」(トニー・ジョー・ワイト)だなあ。ふたつともカッコよすぎる。ロックはレベル・ミュージックだなんて勘違いしている向きには、このへんの時期のこんなエルヴィスは絶対に受け入れられないだろうなあ。わっはっは。

1970年のオリジナル・リリースのレコード10曲だと、当時エルヴィスのイメージがついていない曲ばかり収録したという側面もあったようだ。Spotify にあるやつで追体験してほしい。ぼくもそうしている。現行の拡大盤 CD だと「イン・ザ・ゲトー」「ケンタッキー・レイン」「サスピシャス・マインド」などもあるので、この印象は弱くなっている。だから1970年のレコード発売時の会社の目論見はややわかりにくくなっているかも。

それでも、チョ〜カッコいいと思う「シー・シー・ライダー」「ポーク・サラッド・アニー」(やっぱりこの二曲がぼく的には『オン・ステージ』の白眉)なんかはやはり新鮮。後者はコンテンポラリー・ソングだったけど、前者の伝承ブルーズ・ソングはだれの提案・選曲だったんだろう?ホ〜ント古い歌なんだよね。レコードでの初演は1924年の女性歌手マ・レイニー。以前、記事にしたことがある。
つまり、自分のパートナーの浮気癖で悩み悶々とし問い詰め嘆き苦しむという歌なのに、『オン・ステージ』幕開けのエルヴィス・ヴァージョンの爽快さったらないね。ホント選曲者を知りたいが、アレンジャーがだれだったのかはもっと知りたいぞ。バンドの演奏もいいが、もっといいのがエルヴィスのさっぱりした歌い口だ。どこにも浮気性な女を問い詰める苦悶なんか感じられない、爽やかロックンロールだ。こうしたガラリの変貌も、音楽のおもしろさだね。

アダプト、アレンジがいいっていうのは『オン・ステージ』全体について言えること。エルヴィス本人がどこまでこのラス・ヴェガスでのショウの構成にかかわっていたのかわからないが、想像するに音楽監督みたいな役割の人物がいたに違いない。ショウのプロデューサーってことかな。それで、それまでエルヴィスが録音したことのない、エルヴィス色のついていない曲を選ぶことになったのだろう。それをこんなふうにやってみようとアレンジ&プロデュースした人間の実力がかなり高かったんだと思う。

しかしエルヴィスはたんに上に乗っかっているだけの人形なんかじゃない。それまで自身が歌い込んだことのない数々の曲を、『オン・ステージ』を聴けばあたかもむかしからのおなじみレパートリーであるかのように楽々、軽々と(と聴こえるのがすごい)歌いこなしているじゃないか。凡百の歌手には不可能なことなんだよ。

つまり、裏方で音楽をプロデュースする人間の力、フロントに立つスター歌手の実力、そしてひるがえって曲そのものの魅力、それを書いたソングライターの真価までも、手に取るようにわかってしまう 〜 それがエルヴィスの『オン・ステージ』なんだよね。いやあ、すばらしいアルバムじゃないだろうか。たんに一発目の「シー・シー・ライダー」があまりにカッコよくて快感なだけでぼくはハマった一枚だけど、考えてみればすごいことをみんなやっている。

ラス・ヴェガスなんかでやっているこういった種類の音楽エンターテイメント・ショウのことは、わりかし鼻で笑ってバカにしているシリアスな音楽リスナーが多そうな気がしているけれど、とんでもない話だよ。(当時の)現役トップ・プロたちの一流のエンターテイメントは、最高におもしろく楽しくすばらしい。

2019/01/14

あなたはいずこ?(4分19秒の宝石)

聴いてほしい、このクリスチャン・マクブライド(ジャズ・ベーシスト)のアルバム『カインド・オヴ・ブラウン』ラストの「ウェア・アー・ユー?」を。なんて美しいことか。こんなにも美しいジャズ・ベース演奏、特に弓弾きでのそれは聴いたことがない。あぁ、美しい…。

クリスチャン・マクブライドの『カインド・オヴ・ブラウン』(2009)というアルバムは、全体的にはどうってことない凡庸な一枚だ。退屈だと言ってしまってもいいくらい。「ウェア・アー・ユー?」を除いては。ぼくとマクブライドとの出会いのこと(トーニックでのライヴ盤三枚組)や、このベース奏者の非凡さをどう考えているかなど、諸々、今日はいっさい省略。「ウェア・アー・ユー?」の、この世のものとは思えない美しさに酔えば、それでいいのではないだろうか?

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」はピアノ(エリック・リード)とのデュオ演奏。曲はジミー・マクヒュー&ハロルド・アダムスンの手になるもので、1937年の映画挿入歌。その後多くの音楽家がやってスタンダード・ソング化している。アリーサ・フランクリンの、それからなんとボブ・ディランの、ヴァージョンもあるんだよ。

曲題で察せられるとおり、好きな相手が自分のもとを去っていってしまい、あなたはいまどこにいるのですか?わたしをおいてひとりぼっちにしてどこへ行ってしまったのですか?と悲痛な嘆きを歌ったもの。という歌詞なんだけど、メロディの動きはひたすら美しく、失くしてしまった愛を、いまだ傷癒えぬとはいえ、きれいな想い出に昇華しつつあるような、そんな旋律だよね。っていうかね、こんな端正なメロディだからこそ、この失恋の痛みがいっそう強く聴き手に沁みてくるのかもしれない。

クリスチャン・マクブライドのヴァージョンはかなりテンポを落とし、リリカルすぎるピアノ・イントロに続きマクブライドが弓弾きで入ってきた瞬間、その音色のあまりの美しさに涙がこぼれそうになってしまう。ロスト・ラヴ・ソングだという歌詞のこの内容をこれ以上ない耽美さで表現できているアルコ弾きサウンドじゃないかな。

3:15〜3:18 において、音をぐいぐい折り重ねるあたりで、ぼくは感極まってしまって、いまだになんかい聴いても涙腺がウルウルってなっちゃうんだよね。しかもその折り重なった次の瞬間にサッと転調しちゃうもんだから、もうダメだ涙腺崩壊。こんな展開、ずるいよ〜。あまりにもきれいすぎる。弓弾きでここまできれいに聴こえるっていうのは、クリスチャン・マクブライドの最高級の技巧ゆえだけどね。特に音程が正確きわまりない。コントラバスではむずかしいんだ。

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」。一曲をとおし、伴奏のピアニストも主役ベーシストも、この失愛の歌を、ひたすらていねいにていねいに、やさしくやさしく、そっとそっと撫でるように、そんな心持ちで、まるで大切なものを両手で胸にそっと抱え持つように、心をくだいて演奏しているなとわかるので、とってもいいよねえ。

いやあ、こんなにも美しいジャズ・べース演奏は、ぼくは、聴いたことがないよ。この「あなたはいずこ?」、折に触れて聴いて、感嘆のためいきをもらしている。

2019/01/13

ここはいまどこ? 〜 どうして iTunes や Spotify で聴くか

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Spotify に同じものがある CD は、最近 iTunes にインポートしなくなった。昨年末に書いたブラジル三題だってぜんぶ CD を買ったけれど、Mac には入れず、CD で聴くか Spotify で聴くかだったんだよね。マライア・キャリーとマイルズ・デイヴィスの関係を書いたあたりからそうなったし、そのほか、どんどん増えている。 CD で聴けるんだから Spotify で聴かなくたって…(あるいはその逆)、と思われるかもしれないが、これにはぼくなりの理由がある。

それで、最近は CD で聴いてこりゃあいいね〜となった音楽をMacの iTunes に取り込まず、まず Spotify で探して、あればそのまま save する。あるいは Apple Music でもいい、どうしてもストリーミング・サーヴィスで見つけられないばあいだけ CD を Mac にインポートするということになった。上段と同じことを書いているけれども、一面、MacBook Pro の内蔵ストレージの空き残量が激減しているせいでもある。

要するにブログで記事にしたいとか、そうじゃなくともちゃんと聴いて考えたいとかって思ったものは、iTunes で聴けるか Spotify で聴けるかのどっちかにはするっていう意味なんで、これがいまのところはぼくにとって必須なのだ。画面上でトラックリスト、プレイリストを見ながら再生中の場所を把握しながら聴けること、いま耳に入っているのは何曲目の何分何秒目か、など、こういったことがわかるのが個人的には不可欠。

また一定部分だけを反復再生したり、違う(ひとの)アルバムに収録されている同じ曲を抜き出して一堂に集めて聴きたいとか、一個のアルバムやプレイリストで三曲あとのものを連続再生したいとか、別な音楽家の別な曲へ次はそのまま飛びたいとかなどなど、まあこういった自在な聴きかたが iTunes や Spotify では簡単にできちゃうのだ。それらをやることが、毎日書いている文章の土台になっている。

CD (や配信)で聴けるアルバムをそのままとらえてストレートに聴いて考えることができたらいいなと、本心からそう思うんだけど、たとえばはじめて聴く作品など収録曲がわからないし、どんな順番でどんな曲が流れてくるか頭に入っていないわけだから、そんなばあい、CD プレイヤーのディスプレイ部表示だけでは情報不足なんだよね、ぼく的には。

たぶんみなさんは CD ジャケット裏とか附属リーフレット or ブックレットなどに記載のある曲目表などを眺めながらそれをおやりなんだろうと思う。ぼくだって長年ずっとそうだったし、いまから20年以上前に音楽誌に原稿を書いていたころはそうしていたはずなのに、iTunes の便利さに慣れたら戻れなくなっちゃった。当面は。あっ、iTunes って元来 iPod に音楽を入れるためのアプリだったんだっけ?

ネット配信で音楽が聴けるようになって、まあ Apple Music その他でもいいんだけど Spoify でも画面上にトラックリスト、プレイリストが表示されるので眺めながら聴けば、まったく未知のアルバムでもいま何曲目のなんというものを再生中なのか、いま自分はどこらへんあたりを聴いているのかが瞭然とするのがいい。これがなかったらぼくの文章もないんだ。

こんなこと、むかしから耳タコになるまで繰り返し聴いていてよく知っているアルバムだったなら問題ないわけなんだよね。CD をプレイヤーのトレイに乗せてそのまま再生すれば、いま自分がどこを聴いているかだって、その瞬間瞬間にぜんぶわかる(はずだけど、たまにボーッとしていて見失う)。はじめて聴く、まだ繰り返し聴いていないものだと、そのへんがただ CD で聴くだけだとわかんないでしょ〜?違う?みんなどうしてんの〜?

べつに分析的な聴きかたをしたいとか、それができているとか、そんな意味じゃないんだよ。いま、自分が、どこにいるか?:これを常に確認しながら進みたいだけなんだ。ふつうに聴いてさ。未知の世界だとそれがわかりにくなるばあいも、ある、ぼくは。だから CD よりも現状確認が容易な iTunes や Spotify で聴く。それだけ。CD で同じことができるなら、そっちのほうがいいんだけど。だれかやりかたを教えてください。

あと、かなり重要な一点がある。CD そのままでは素人にはまず不可能なことが iTunes や Spotify では簡単にできる。それはマイ・ベスト的なプレイリストを作って聴けるということ。この、自家製セレクションがあっけないほど簡単にだれでもできるというのは、本当に楽しいことなんですよ。

2019/01/12

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(2)〜 ゴスペル篇

2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』二枚目のゴスペル篇もビル・フェリスみずからの採取で、録音時期は CD1のブルーズ篇とほぼ同じ1966〜78年。

収録されているゴスペル・ソングは、教会での合唱(マス・クワイア)もあれば、教会のサーヴィス現場での音楽を録音したのかと思えたりするものもあり、また少人数編成(しばしば家族グループなど)による、いわゆるカルテット・スタイルにやや近いようなものもあり、さらにひとり(かごく少人数)での弾き語りブルーズと区別しにくいような、すなわちギター・エヴァンジェリスト的スタイルでやっているものもある。

実際、かなり大きな歓声と拍手が飛んだりするトラックも多いし、そうでなくとも音響があきらかに教会でのそれだとわかるものだってあるので、そういったものはやはり教会やどこかの集会場みたいなところでのゴスペルの現場録音なんだろうね。と思ってからブックレットを読んでみたら、やはりそうだった。ぜんぶ録音場所や教会名が記載されてあるじゃないか。最初から見ておけばよかった。

『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録のゴスペル録音も全体的に大いに楽しめるものだけど、ものがものだけに、うんまあ CD1のブルーズだって日常生活での現実的効用があったと思うんだけど、CD2のゴスペル篇だとそれがより一層顕著だと、聴けばわかる。

まったく救われないだとか陽がささないだとかあなたの罪だとか、そういった歌もたくさんあるが、そう歌うことにより、ある種のカタルシスを得るものなんだろうし、もっと違った種類の、前向きの肯定感、生きる意味を強く再確認して喜びを歌いあげているようなものは、激しいビートをともなっていてもいなくても、強く高揚する。そういった直截的にポジティヴなゴスペル・ソングが、ぼくは本当に好きなんだ。

南部ミシシッピの黒人民俗共同体内部でも、やはり同じような高揚があって効用が働いていたはずだ。『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録の、教会や集会場、公民館みたいな場所での現場録音ものなどだと、それがクッキリと伝わってくる。それに、そんな<ゴスペル>の意義なんか抜いても、たんに、純に、ビートの効いた音楽として、聴いて踊れば快感だ。そう、実にダンサブルなんだよね。

この一枚のなかで、ぼくにとって特に高揚するやつが、以下の五曲。

・You Don't Know Like I Know
・So Glad I Got Good Religion
・I Know The Lord Will Make A Way (Yes He Will)
・We're So Glad To Be Here
・Glory, Glory (Lay My Burden Down)

なかでも二曲、「ユー・ドント・ノウ・ライク・アイ・ノウ」「グローリー、グローリー(重荷をおろす)」だなあ、カッコイイのは。なんなんだこの昂まりは。実際、このふたつを聴くと、自室のなかでぼくはどんどん激しく腰や膝や肘、腕、指を動かしてダンスしている。こうやって(アメリカ南部黒人も)日常の辛苦を忘れていくのだな。

いずれも伴奏楽器は必要最小限しかなく、だいたいがヒューマン・ヴォイスとハンド・クラップで構成されているサウンドも、素朴なようでいて、実は21世紀的にも卑近なアピール力を持っているかのように聴こえる。「グローリー、グローリー」のほうなんか、現場会衆はもちろん CD(や配信)で聴くだけの聴衆をも、有無を言わさず納得させるだけのものがあるなあ。

ものすごいのひとことだけど、南部黒人フォーク・ライフのなかにある説得力が普遍性を持つということなんだろうなあ。すなわち、生きるということ。それが持つパワー。

2019/01/11

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(1)〜 ブルーズ篇

ジャケット写真にいるドクロを持った人物は、ブルーズ・マン、ジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。この2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』の録音編纂者の長年の友人で、地元ミシシッピのブルーズ・マンにしてスカルプター。

ウィリアム・フォークナーとボビー・ラッシュが仲良くすわっているようなそんな世界の住人だったウィリアム・フェリス。ミシシッピはヴィックスバーグに1942年に生まれ、人生のすべてをアメリカ南部のフォークロア採取・研究に捧げてきた。フォークロア・リサーチ、オーディオ・レコーディング、文献記録、写真撮影、フィルム・メイクなど、ひたすら南部の声を記録し続けてきたのだった。

このディケイドで三冊の本も出しているボブ・フェリスだけど、ダスト・トゥ・デジタルからディスク四枚と大部のブックレットで出版された『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』は、主に音楽などオーディオ面における彼のサザン・フォークロア採取の集大成と言えるはず。いくら生まれ育った土地と環境であったとはいえ、相当な愛情熱がないと、ここまでのものにはならないはず。すごい、のひとことだ。

ダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』のディスク3はストーリーテリングで、ディスク4はドキュメンタリー・フィルム。それらもおもしろいんだけど、こんなボックス・セットのすべてを扱うのはぼくの能力を超えている。ブックレットの文字情報も写真類も考慮外に置くしかない。だから一枚目のブルーズ篇と二枚目のゴスペル篇の、わかりやすく音楽的な部分だけに絞って、今日、明日の二日で二枚をそれぞれ短く簡単にメモしておきたい。

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD1のブルーズ篇は、おおよそ1960年代末〜70年代半ばの録音で、フレッド・マクダウェルみたいな超有名人もいるにはいるが、アノニマスに近いような存在だって多い。あるいはブルーズ・マン、ウーマンなどと呼ぶのもおかしいのかもしれない。つまり、ミシシッピの黒人のふだんの日常生活にそれがあって、そこいらへんのおっちゃん、おばちゃんがちょろっと(たぶん毎日の生活でそうしているように)ブルーズをやってみただけのものを、ビル・フェリスは録ったのだろう。

だからまさにフォークロアっていうかフォーク・ブルーズなわけだけど、CD でお持ちでないかたも上のアルバムでちょっと聴いていただきたい。アメリカ黒人ブルーズ、それも商業化されたポピュラー・ブルーズのファンなみなさんなら聴き憶えのあるものがかなり混じっているはずだ。「ブギ・チルン」だったり「スタッカリー」だったり「アイサイト・トゥ・ザ・ブラインド」だったり「ダスト・マイ・ブルーム」だったり「リトル・レッド・ルースター」「ミステリー・トレイン」だったり、まだまだあるが省略。

それらは必ずしもそういった曲題が記載されていない。そもそもこの CD1に収録されているブルーズ録音が、いったいどういったもので構成されているかをちょっと考えて整理してみたのが、以下のとおり。

1)過去から受け継がれた南部ミシシッピの口承伝統、それを演者個人がパーソナライズしブルーズとして歌ったもの

2)同じような伝承レパートリーから、過去に先人ブルーズ・マンが商業録音し、スタンダード化したばあいもあり

3)過去何十年にもわたりなんども商業録音されていたポピュラー・ブルーズが、ここでひとつのフォーク・ヴァージョンとなっている

4)ここに収録されている演者のオリジナル・コンポジション

だいたいこれくらいかな。何曲目がどれみたいな指摘はむずかしいばあいもある。たとえば「スタッカリー」なんかはもちろん口承伝統のお話で、実にさまざまなヴァージョンがあるとみなさんご存知のとおり。ひょっとして「リル・ライザ・ジェイン」も、かのヒューイ・スミスがやったものは、ここに収録されているフォーク・トラディションが土台だったのかも。

いっぽう「ミステリー・トレイン」として知られているここでの曲名「トレイン・アイ・ライド」なんかは、ぼくの考えでは、もともとポップ・ソングというかポピュラー・ブルーズだったんじゃないだろうか。かなりの有名曲なので、南部のフォークロアのなかにも入り込んだのだと見るべきかと思う。違うかもしれないが、わからない。そのほか、似たような事情かなと推察できるトラックがあり。

しかしながらロバート・ジョンスン/エルモア・ジェイムズで有名な「ダスト・マイ・ブルーム」とかジョン・リー・フッカーで有名な「ブギ・チルン」であるここでの曲名「アイ・フィール・ソー・グッド」なんかは、どういう経緯でこのボックスにあるのか、ぼくにはよくわからない。「ダスト・マイ・ブルーム」は南部フォークロアからロバート・ジョンスンがピック・アップしたもので、「ブギ・チルン」はポピュラー・ブルーズのフォークロア化かなあ?いやあ、わからない。

がしかし「トレイン・アイ・ライド」も「アイ・フィール・ソー・グッド」も、演者はどちらもラヴィ・ウィリアムズとなっている。商業的なブルーズ界でも活躍するかの人物とは別人じゃないだろうか?う〜ん、まあそれだけじゃあなんだかわからないよなあ。どうなんだろう?「ブギ・チルン」はやっぱりジョン・リー・フッカーのがオリジナルのポップ・ブルーズで、それをここでラヴィ・ウィリアムズがこんな感じに仕立てているってことかなあ?

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』一枚目に最もたくさん収録されているブルーズ・マンは、やはりジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。ボブ・フェリスの親友だからなのか、あるいはサン・トーマスの、ここにも収録されているブルーズ演唱が、きわめて南部的にディープで、まさにミシシッピの声、黒人の民俗生活に即したようなできあがりになっているからなのか。まあ両方かな。

サン・トーマスのブルーズは、「44 ブルーズ」「ケイロ」「ダスト・マイ・ブルーム」「アイ・キャナット・トゥ・ステイ・ヒア」と四曲収録されているが、なんど聴いてもすばらしいと感銘を受けるのが「ケイロ」(カイロ)だ。ここではエレキ・ギターで弾き語っている。声も見事だが、なんたってギター演奏がすばらしいクサさ(褒めことば)。実にディープにブルージーだ。こんなブルーズをいつもそばにおいておきたい、聴いていたいと思わせる日常的な親密さもあり、しかし同時に冷たく突き放されているような近寄りがたいオーラもあり。文句なしだ。

2019/01/10

メロウ・ステフォン・ハリス 〜『ソニック・クリード』

このアルバム、ぼくのこの記事への bunboni さんのコメントで教えていただきました。まさにぼく好み。
ジャズ・ヴァイビスト、ステフォン・ハリスは、メロウ R&B みたいなのが最大の持ち味なんだろうか。今回はじめて聴くので、そのへんはつかみきれないけれど、ステフォン・ハリス+ブラックアウト『ソニック・クリード』(2018)で聴くかぎりでは、極上のメロウネスをふりまいていて、それがなんともいえず心地いい。だから、ホレス・シルヴァーきっかけで教えていただけたとはいえ、ぼくにとってのステフォンとは甘さのひと。メロウ R&B みたいなジャズのヴァイビストって感じ。

アルバム『ソニック・クリード』にあるメロウ・サウンドは四曲。どれもすばらしい。そしてすんごく心地いい。3「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」、7「スロー・イット・アウェイ」、8「ナウ」。9「ゴーン・トゥー・スーン」。3と8には女性ヴォーカリスト、ジーン・ベイラーが参加。それもまたたまらない甘美さだし、全体のサウンドの組み立ても見事にスウィート。

ステフォン・ハリスのメロウさは、こういった曲群に限った話じゃなく、ビートが強くテンポも速いものでもきわだっている。くだんのホレス・シルヴァー「ザ・ケープ・ヴァーディアン・ブルーズ」なんかでも、ノリよく、しかも曲内での複雑なリズムの変化をなんなく自在にこなしながら、しかし同時にハードすぎず乾かない。わりとしっかりした湿り気があるよね。サウンド全体に甘いシュガー粉をふりかけたようなというか、そんな幕が間違いなく垂れ込めている。特にケイシー・ベンジャミンのアルト・サックス・ソロ部でそれが顕著だ。

ステフォン・ハリスのヴァイブラフォン演奏にもスウィートさ、メロウさがあって、こんな弾きかたはジャズ演奏家のものでもないような気がしてしまう…、のはぼくの感覚が古くさいせいだね、きっと。マリンバを叩いている曲や、あるいはヴァイブでもモーターの回転を抑えてヴィブラートを控えている曲もあるけれど、それでも感じるステフォンのメロウ体質。

ハードで硬い曲でモーターを回さないものですらそうなんだから、上で触れた四曲、3、7、8、9ではも〜うモーターぐいんぐいん回しまくり、ホントすばらしくやわらかいヴァイブをもたらしている。ステフォン・ハリスは自身のヴァイブ演奏だけでなく、サウンド全体の組み立ての隅の隅まで細やかに気を配り、ていねいにていねいに、やさしくやさしく、まるで愛する女性を愛撫するかのごときデリケート・タッチで、やっているんだよね。うん、そういった行為の BGM としてもよく似合いそう。大好き。

3曲目「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」出だしでは、いきなりモーターの回転全開で、グワングワンとヴィブラートを思い切り効かせたエコーまみれのヴァイブ・サウンドで幕開け。このイントロ部だけでもうこの音楽がなんなのか、理解できようというもの。こんな甘美さは、アルバム終盤のスーパー・メロウ・セクションである7〜9曲目で一層きわだっている。

モーターを回してヴィブラート効かせすぎなんじゃないかとすら思う瞬間すらあるメロウなステフォン・ハリスだけど、アビー・リンカーンの7「スロー・イット・アウェイ」も、ボビー・ハッチャースンの8「ナウ」も極上。でも、このアルバムで最も大きな感動を得たのは、ラストのマイケル・ジャクスン・ナンバー、9「ゴーン・トゥー・スーン」だ。これはヴァイブとマリンバの、ステフォンひとりデュオ多重録音作品。

「ゴーン・トゥー・スーン」は、メロウというのとはちょっと違う雰囲気かもだけど、このあまりにも切ない一曲をステフォンひとりでの多重録音デュオで、この上ない美しさに仕立て上げているじゃないか。マリンバが伴奏でヴァイブが主旋律を弾く。このひとりデュオ演奏を聴いていると、ぼくなんか、やっぱりたまらない気持ちになって、きわまってしまうなあ。泣いちゃいそう。名演ですね。

2019/01/09

ンビーラとは楽器であり音楽であり、生きかたである 〜 ステーラ・チウェーシェの初期シングル集

現在ドイツで活動しているジンバブウェの女性ンビーラ奏者&歌手ステーラ・チウェーシェ。彼女の1974〜83年の7インチ・レコード音源八曲(でぜんぶではないんだろう)を、ドイツのグリッタービート・レーベルが CD リイシューしてくれたのが昨2018年にリリースされた『カサーワ:アーリー・シングルズ』。オフィス・サンビーニャ盤をぼくは買った。収録の音源は、いままでまったくリイシューされたことがなかったはずだ。

整理しておくと、CD アルバム『カサーワ:アーリー・シングルズ』収録の音源はぜんぶで8トラックだけど、それのもとになった7インチ・シングルでは9トラック8曲。CD6トラック目の「マヤヤ」がパート1と2のシングル・レコードでは両面だったものを一個にしたものだから。CD で1曲目の「不可能なこと」(Ratidzo)だけはどこのレーベルのものか不明だが、そのほかは二つのローカル・レーベル Shungu と Zimbabwe から発売されたものがオリジナル。

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ンビーラ(親指ピアノの名称でありかつ音楽のジャンル名でもあり)のこともステーラ・チウェーシェのこともそこそこ知られていると思うので、そのあたりの紹介はいっさい省略する。それでもしかし、彼女のジンバブウェ時代のこんなキャリア初期シングル集がまとめられ、国外というか世界的マーケットで販売されるのは、もちろん初の事態だろう。うれしかったなあ。大歓迎。

『カサーワ:アーリー・シングルズ』では、1曲目「不可能なこと」でだけ、左右のチャンネルに一台づつ、計二台のンビーラが聴こえる(ように思うのだが)。インストルメンタル・ナンバーであるこれ、もし二名の合奏だったとしたらステーラのほかはだれなのか、ぼくにはまったくわからない。マラカスのようなパーカッション・サウンドも聴こえる。

マラカスのようなシャカシャカっていう音の打楽器はホショと呼ぶらしい。アルバム2曲目以後は、すべてステーラひとりのンビーラ弾き語り+ホショという編成。ショナ人であるステーラのンビーラ演奏は、例によってミニマル・ミュージック的に同一パターンを延々と反復しながらちょっとづつズラしているが、そのパターンを取りだしてみると、かなり複雑なリズムを表現しているばあいがある。

裏拍を強調しながら進んだり、ポリリズミックになったりしながら、あたかも二個以上のフラグメンツをすこしずらして合体させ同時進行させているような、そんな難度の高いフレーズというかパターンを延々と反復することで、ぼくたち聴き手は陶酔し、徐々に酔い、日常とは異なる地平に連れていかれるかのような、そんな音楽だね、ステーラのンビーラ。

しかしステーラ本人にとってのンビーラ演奏は、まったきリアルな人生そのものだった。グリッタービート盤の英文解説によれば、10代のころはエルヴィス・プレスリーほかアメリカのロックンローラーたちに夢中だったらしいが、ンビーラの伝統継承者となろうと決心したら、今度は大きな壁が待ち受けていたようだ。そもそも女性がンビーラを演奏することは許されていなかったとのことなので。

だから、だれもステーラにンビーラ演奏の手ほどきもしないばかりか、そもそも楽器を手に入れることすら困難だったとのこと。デビュー・シングルである「ネマムササ/カサーワ」は、人から借りたンビーラで演奏したらしい。演奏法や歌唱なども、独学で苦労しながら身につけたものだったかもしれない。

ンビーラを弾きながらステーラが歌うその声には、そんな困難を経て、まあ言ってみればジンバブウェ内でも "レベル" 的な生きかたをしながら、それを経て獲得したのであろうパワフルさがみなぎっている。オフィス・サンビーニャ盤の日本語解説ではヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの声が引き合いに出されていて、それはちょっと言いすぎでは?と思わないでもないが、ジンバブウェでのデビュー期のステーラの音楽に、苦闘と表裏一体の鋭強さを聴きとることは、どなたにとっても容易なはず。

2019/01/08

みなさん、イマルハンをもっと聴いてくれませんか

一時期70分超もあたりまえだった音楽新作 CD の収録時間が、ここ最近ぐっと短めになってきていると思いませんか。ぼくは鈍感だから、ようやく気がついた。昨年暮れのマライア・キャリー新作もブラジル三題もそうだった。今日話題にしたいイマルハンの2018年作『Temet』も約41分間。やっぱりこれくらいが集中して聴きやすく、気軽になんどでも聴けるし、いいね。レコード時代への回帰?

イマルハンは、サハラのトゥアレグのギター中心の、いわゆる砂漠のブルーズに分類されるバンドだけど、以前書いた一作目からして、ぼくのなかではティナリウェン以上に魅力的だった。二作目になる2018年新作『Temet』で、ますますその感を強くした。ひょっとしたらこの手のあまたあるトゥアレグ・ギター・バンドのなかでの、ぼくの最大の好物かもしれないとすら思う。

いくつか理由をぼくなりに考えてみたので、整理してみよう。

・ドラム・セットが使われている
・ビート感がとても強く、アップ・テンポで激しくグルーヴするものが多い
・リード・ヴォーカリストの発声や歌いかた、というかコブシまわしが浪曲〜演歌的で好み
・っていうかつまりアラブ歌謡ふうだ
・それらの結果、強い高揚感がある

この五点は密接に関連している。四点目までを総合した結果五点目があるわけ。決定的なのが、ぼくにとってはヴォーカルのこと。ティナリウェン他とここが決定的に違っている。ティナリウェンのイブラヒムらは、うつむいてポツポツ落としていくようなフラグメンタリーなことばの発しかたなんだけど、イマルハンのサダム(Iyad Moussa Ben Abderahmane)は強く朗々と声を張るスタイル。ここが好き。いわばアメリカのソウル・ミュージックや、だから浪曲や演歌の歌手にも近い。

それでありかつ、曲のもとからのメロディにアラブ歌謡ふうというか、ムスリム音楽的というべきか、そんな粘っこさがあるんだよね。サダムのフレイジング、コブシまわしにもそれがあるかも。それをドラム・セットなども使いながら強く激しいリズムに乗せてグイグイやるっていう、つまり米ファンク・ミュージックにも通じるような、そんな高揚感だってあるじゃないか。

新作『Temet』にもアクースティック・ギターを使ったフォークっぽいもの(7、10曲目)があったり、またトゥアレグ・ハリージ(ハリージとはペルシャ湾岸ポップスのこと)みたいなというべきか、リズムがヨレてつっかかるような9曲目「Zinizjumegh」 があったりもするけれど、あくまで中心はストレートなハード・グルーヴ・ナンバーだ。

たとえば地を這うような重厚なエレベのリフではじまるトゥアレグ演歌の1曲目「Azzaman」もそう。シングル・トーンのエレキ・ギターの小さめの音で反復リフが入っているのも印象的だ。また3曲目「Ehad wa dagh」、6「Tumast」なんかのビートの強さ、グルーヴの激しさは特筆すべき。しかも聴きやすいポップさだってあるから、米英のポピュラー・ミュージックに最もなじみがあるぼくだってすんなり入っていける。たぶん、多くのみなさんがそうじゃないだろうか。

そうかと思うと、トゥアレグ・グナーワとでも呼びたいような雰囲気のものもあったりして、なかなか多彩なイマルハンの新作『Temet』。ここまで書いたような傾向は、それまでの(いわゆる)砂漠のブルーズのバンドにはなかったものだと思うんだ。ここまで実力が高く、楽しくおもしろく、聴きやすく、しかも CD が簡単に買え配信でだってすぐ聴けるトゥアレグ・ギター・バンド、イマルハンが、どうしてここまで話題にならないのか、不思議でならない。

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