2019/05/26

フィルモアのマディ1966

R198265414699953196008jpeghttps://open.spotify.com/album/5iqm2sbb7sbEA1R0F2XlEj?si=PJTakx05Tbi3K5tzPED8gg

 

マディ・ウォーターズの『オーソライズド・ブートレグ』(2009)。1966年11月にサン・フランシスコのフィルモア・オーディトリアムに出演した三日間の記録から抜粋編集されたライヴ盤だ。ところで、このジャケットで「オーソライズド・ブートレグ」と題するライヴ・アルバムがたくさんいろんな音楽家ので出ているのは、すべてウォルフガングズ・ヴォールトの音源ってことだよね。このブログでもいままでにネヴィル・ブラザーズのとか、いくつか書いた。

 

1966年フィルモア・ライヴでのマディはギターはまったく弾かずヴォーカルに専念。ギターが二名にリズムと、あとはやっぱりシカゴ・ブルーズらしくハーモニカが大々的にフィーチャーされている。この『オーソライズド・ブートレグ』でマディの次に目立っているのが電化アンプリファイド・ハープのジョージ・スミスだ。ソロは彼がほぼひとりで吹きまくる。

 

ギターの二名では、マディのメンバー紹介によればジョージア・ボーイ(ルーサー・ジョンスン)がセカンド・リードでサミュエル・ロングホーンがリードということだけど、音だけ聴いてどっちがどっちと判別できる耳はぼくにはなし。ギター二本がからみあっていたりする部分はまったく区別できない。スライドでソロをとったりするのはどっち?もわからず。

 

このアルバムは、11月4〜6日の記録だけど、4日から四曲、5日から六曲、6日から5曲を収録し、日付順には並べていないよね。テープは三日間のすべてを記録してあるんだろうと思うんだけど、でもぜんぶ出してほしいとは思わない。このアルバムを聴けば三日間とも大同小異だったとよくわかるからだ。レパートリーも、抜粋編集したこのアルバムですらかなり重なっているし内容もほぼ変わらず。だから三日間トータルの内容をフル・リリースしたところで冗長になってしまうだけだろう。

 

だから『オーソライズド・ブートレグ』は、これでよく編集された好アルバムと言えるんだね。さて、このアルバムを聴いて感じるのは、大きく言って二点。歌手マディの存在感のデカさ、ブルーズがロックとどう違うのかという決定的なポイント、のふたつだ。前者についてはあまり言を重ねなくていいだろうと思う。マディのヴォーカル・パフォーマンスの見事さを聴いてほしい。声もよく通るハリのあるトーンが伸びやかによく出ていて、しかもナチュラルでスムース、さらに大きな余裕も感じるゆったりさ。

 

たとえば5日分のラスト「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」。最終盤でストップ・タイムが入りバンドがパッと止まった時間に、マディはひと呼吸おいてから「フ〜ン!」と言う。それに続いて「ジャスト・ドント・ワーク・オン・ユー」を歌う。それでバンドがエンディングを演奏するわけだけど、その「フ〜ン!」の余裕綽々の憎たらしさったらないね。こんなパフォーマンスは1950年代のマディでは聴けなかった。ギターを弾かずともヴォーカルだけで自己の存在の大きさを見せつけられるようになっているじゃないか。

 

二点目。ブルーズが(ブルーズ・)ロックとどう違うのか?という決定的な音源に、このマディの『オーソライズド・ブートレグ』はなっていると思うんだよね。マディ・バンドのこの粘りつくような、後ずさりしながら前進するような(おかしい?)、決して軽快ではないブルーズ・ビートを聴いてほしい。こういったトリモチを敷きつめた部屋を歩いているかのようなノリはブルーズ特有、というかアメリカ黒人音楽特有のものなんだよね。

 

こういったブルーズ・ビートの感覚は呼吸みたいなもんだから、学習して身につけることはむずかしい面もあると思う。ロック界にいる白人フォロワーたちがどんなにがんばっても到達できない独特の粘り気と重さ、ノリがこの1966年フィルモアのマディ・バンドにはある。こういった音楽は、一聴、とっつきにくいものだ。ロック化されたブルーズのほうがわかりやすく聴きやすい。しかし、一度ヤミツキになれば逃れられない魅力が米黒人ブルーズにあるんだというのもまた事実。いったん聴くツボをつかんでしまえば、あとはひたすら気持ちいい。1966年フィルモア・ライヴでのマディ・バンドもまたそうなんだ。

2019/05/25

ここ三年の頻聴 9

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というものを今後定期的に書いていきたい。年間ベストテンは書くものの、三年スパンくらいで愛聴、頻聴しているものこそ、自分にとって大切な音楽のはずだ。その後、五年、十年と伸ばして考え書いていけば、音楽人生記録ができあがる。でもいまはそこまで考えていない。当面(今2019年を除く)ここ三年ほどよく聴く九つを記しておこう。

 

以下、その九つのリスト。よく聴く順に一位から並べただけの単純さ。しかし、ちょっと例外がある。それは岩佐美咲。いちばん頻繁に聴くのが美咲なんだけど、今日は外した。実力を反映したこれっていうアルバムがないからだ。CD にかんしては演歌歌手の御多分に洩れずシングル盤こそが活動のメインだから、泣く泣くあきらめるしかない。ふだん聴いている美咲は、シングル盤音源を集め自分でつくったプレイリストなのだ。

 

1) Nina Wirtti / Joana de Tal
2) Iona Fyfe / Away From My Window
3) Irineu de Almeida e o Officleide 100 Anos Depois
4) Paulo Flores / O País Que Nasceu Meu Pai
5) 原田知世 / 恋愛小説 2 ~ 若葉のころ
6) Van Morrison / Roll With The Punches
7) Ella Fitzgerald, Louis Armstrong / Cheek To Cheek: The Complete Duet Recordings
8) Hiba Tawaji 30
9) Prince 30

 

ニーナ・ヴィルチの『ジョアナ・ジ・タル』は2012年作だけど、出会ったのは2018年だったから。30分ないというアルバムの短さも頻聴するのにもってこい。二位のアイオナ・ファイフとともに、ヒマさえあれば、ちょっとしたスキマ時間でも見つけては、自宅でも出先でもどこででも、本当によく聴いている。

 

イリニウ・ジ・アルメイダ曲集は、このベストナインで唯一のインストルメンタル音楽。ここ三年といわず20年、30年単位で考えてもなかなか出現しない大傑作じゃないかと思う。それなのにとっつきにくさがなくファミリアーでフレンドリー。ずっと流しっぱなしにしたい音楽の筆頭だね。

 

パウロ・フローレスにはセンバ(アンゴラ)を教えてもらった。いつ聴いてもどんなに聴いても、楽しいしうれしく、同時に哀しく切ない。ところでセンバはポルトガル系クレオール・ダンス・ミュージックだけど、世界のいろんなダンス・ミュージックって相通ずるものがあると思いませんか。コンガ、サンバ、タンボレーラ、ファンク、ダブケ、バトゥーケなどなど。

 

知世ちゃんのことが好きなのはいまさら説明不要だと思うけど、このアルバムではさらに往年の懐かしい歌謡曲ばかりカヴァーしているのが頻聴盤になる大きな理由だ。伊藤ゴローさんのアレンジ、プロデュースも実にいい。サウンド・メイクに知世ちゃんの声がよくはまっているというか、活かすべくゴローさんが練っている。

 

ヴァンのこのアルバムには人生肯定感というか、苦しいことやつらいことを踏まえた上でしっかり前を向いて歩いていこうという、そんなゴスペル的なフィーリングがあるのがいいね。なんども聴いて、はげまされている。そのほかの個人的な意味でも、絶対に忘れられない一枚となっている。

 

エラ&ルイのボックスを聴くと幸せだからというのは説明不要だけど、ヒバ・タワジ(リリース当時30歳)の30曲とかも大好きだ。濃厚なアラブ歌謡節が多いなか、軽めのジャズ〜ポップス〜ボサ・ノーヴァみたいなものだってあるし、二枚組トータルで完成度が高い、良質なポップ・アルバムとして、軽い気分でよく聴く。

 

9位の『プリンス 30』だけが今日の例外で、音楽家やレーベルが発売した作品じゃない。ぼくがつくった私的プレイリストだ。公開してあるのでどなたでも聴けるこのプレイリストこそ、実はぼくの頻聴真の一位なのだ。間違いない。自画自賛だけど、よくできていると思う。昨2018年にこれをつくって以来、これを聴かない日はないとすら言いたい。

2019/05/24

ファッツをやる1955年のサッチモとその時代

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(オリジナル・アルバムは9曲目まで)

 

ルイ・アームストロングのコロンビア盤『サッチ・プレイズ・ファッツ』(1955)。以前書いた『プレイズ W. C. ハンディ』と同時期のアルバムでメンバーも同じ。ところで、サッチモとファッツ・ウォーラーは同時代人だけど、ファッツは1943年に亡くなってしまっている。それでトリビュート盤みたいなものをコロンビアが企画したってことなんだろうね。

 

内容的にも『プレイズ W. C. ハンディ』と『サッチ・プレイズ・ファッツ』は重なるところが多い、というか本質的に同一で、だれか特定のひとりの作家のソングブックをとりあげて、それを1950年代なかばのサッチモのレギュラー・バンドなりのやりかたでこなしてみせたという、そういったものだよね。ハンディをやるかファッツをやるかだけ。ファッツはシンガー、プレイヤーでもあったという大きな違いはあるけどね。

 

『サッチ・プレイズ・ファッツ』収録の九曲は、過去にサッチモ自身がやっていたものが多い。「スクイーズ・ミー」(1928)「エイント・ミスビヘイヴン」(29)、「ブラック・アンド・ブルー」(29)、「ブルー、ターニング・グレイ・オーヴァー・ユー」(30)、「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」(32)と、すべてオーケー(コロンビア系)録音があって、当時レコード発売もされている。

 

ってことは、1955年に『サッチ・プレイズ・ファッツ』を企画したコロンビアとしても、レパートリーの約半分が同社系原盤ですでにレコードもあるんだということは織り込み済みだったはず。いま2019年に聴くぼくらだってどうしても比較してしまうってもんだよね。それで実際そうしてみたけれど、いくつか発見があった。

 

まずサッチモのトランペット(というかこのひとはコルネットなんだけど)のサウンドは、やはりオーケー時代のほうがブリリアントだ。時代が古いせいの録音状態なんかまったく問題にしない輝きは、1955年にはやはりちょっとだけ鈍っていると言わざるをえない。しかし戦前のオーケー録音ほどは日常的に聴いていない『サッチ・プレイズ・ファッツ』を今回久々に聴きかえし、おりょ?あんがいかなり見事じゃないかと惚れなおしてしまったのも事実。

 

だからサッチモは1920年代後半こそがピークで、第二次世界大戦後なんてお話にならないよなどという世間の一部で流布している言説は真っ赤なウソだなと、今回確信するに至った。歳をとってトランペット吹奏を医者に禁止されるまで、サッチモの音の衰え、鈍りはあまりなかったというのが事実だったろうと思う。それに『サッチ・プレイズ・ファッツ』は1955年だからね、まだまだ立派だ。

 

ヴォーカルの味はといえば、こっちは断然戦後録音のほうが魅力を増している。これもあまり歳をとると声の質じたいが衰えてしまうもんだけど、それほどでもない年齢ならばキャリアを重ねた結果味わいに深みとコクを増すというものだろう。サッチモがファッツを歌っているのだって、戦前のオーケー録音ヴァージョンと同じ曲を『サッチ・プレイズ・ファッツ』とで比較すれば、歌の魅力は後者のほうがずっと上だ。間違いない。

 

年輪を重ねムダな肩の力の抜けた余裕も感じられる1955年のサッチモ版ファッツ。ゆったりくつろいでいるようなフィーリングで、昨日も書いたがもとからのんびりのどかなフィーリングを持っているファッツの曲のそんな魅力を中年サッチモがさらにいっそう増幅しているとでも言ったらいいか、そんなリラクシングな感じがあって、『サッチ・プレイズ・ファッツ』は極上の良質さ、心地よさだ。

 

しかし年輪とかキャリアを重ねたからとか、そんなことだけではないものがこのアルバムにはある。それはところどころロックっぽい8ビートになっている箇所が聴きとれるということだ。特にドラマーのバレット・ディームズが、ことにスネアをバンバン!と大きく強く叩くことで表現しているもの。基本、2か4ビートを基調としながら8ビートっぽさを加味しているんだよね。

 

このことにかんしては二点考慮しないといけない。一つは、8ビート・シャッフルはむかしからジャズの世界でもわりとふつうにあって、そんなものめずらしいものじゃなかったということ。特にブルーズをやるときはジャズ・メンもシャッフルになりやすいし、そうでなくとも1930年代からデューク・エリントン楽団も8ビート・シャッフルは使っている。『サッチ・プレイズ・ファッツ』の、特にトラミー・ヤング(トロンボーン)の背後でバレット・ディームズが叩いているのも同じパターンだ。

 

もう一点。やはり、1955年という時代だったんだなとぼくは思う。ちょうどロックンロールが台頭しはじめていた時期じゃないか。もちろんファッツ曲集をやるサッチモとそのバンドがロック・ミュージックを「意図的に」意識したとは思わない。だけど、音楽でもなんでも、文化って同時代的共振ってものがあるんだよね。それは本人たちだってコントロールできないものだ。同じ時代の空気を吸っているというのはそういうことじゃないかな。

2019/05/23

元祖シンガー・ソングライター 〜 楽しくのどかなファッツ・ウォーラーの世界

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『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』という CD 二枚組がある。この『ジ・エッセンシャル・コレクション』シリーズは英国のウェストエンドというところが展開している、戦前の古典ジャズ・メンのアンソロジー。どれも二枚組で、ベスト盤みたいなもんだね。ファッツ・ウォーラーも全体数が膨大になるため、聴きかえすのはたいへん。ふだん聴きには二枚組程度でじゅうぶん。

 

『ジ・エッセンシャル・ファッツ・ウォーラー』には1927年から42年までの(ファッツは43年没)計52曲を収録。だいたいこんなもんで概観だけならオッケーなんじゃないかな。代表曲はほぼぜんぶ入っている。そう、代表曲と言ったが、ファッツのばあいはこのことばがよく似合う。自作ナンバーの多いひとだから。

 

有名他作曲もやるけれど、自分で書いた曲が多く、それを自分で演奏しながら歌うっていう、そんなファッツは、いわば(アメリカ大衆音楽界における)シンガー・ソングライター第一号と言える。元祖 SSW、そんな存在だよね。むろん、アメリカ南部でギター弾き語りをやるフォークロア的世界のことはいま外して考えている。ちょっと音楽の種類も違うんだし、それらは「自作」とも言いにくい。

 

ポピュラー・ミュージックの世界で SSW というか、自分で歌うものは自分で書くのだという発想が一般化するのは、たぶん1960年代のビートルズ以後じゃないかと思う。ロックでも、それ以前の、たとえばエルヴィス・プレスリーなんかは他作曲ばかり歌っていた。しかしだいたいみんなギターだよね。ロック界でピアノを弾く SSW っていうと、ビリー・ジョエル、エルトン・ジョンあたり?あ、いや、もっと前にリトル・リチャードがいるか。

 

まあでもすくないよね。それにピアノで弾き語る SSW というと、女性のほうが多いように思う。ジャズとその周辺に限定すればクリオ・ブラウン、ネリー・ラッチャー、ローズ・マーフィーとか、そのへんかな。そしてここまで書いた全員の総先輩格にあたるのがファッツ・ウォーラーなんだよね。

 

だから、ピアノやオルガンの腕とかなんとかいうよりも、音楽史全体におけるファッツの重要性、意義とは、<自作自演>をはじめてやって世界を確立した第一人者っていうところにあるんじゃないかとぼくは見ている。それにファッツの自作曲はチャーミングなのが多い。「ハニーサックル・ローズ」「エイント・ミスビヘイヴン」「キーピン・アウト・オヴ・ミスチーフ・ナウ」「手紙でも書こう」「嘘は罪」などは有名どころ。これも有名な「ブラック・アンド・ブルー」は、ファッツ自身の録音がない。

 

「ブラック・アンド・ブルー」を未演であることと関係あるかどうかわからないが、ファッツの録音集を聴いていると、ずいぶん楽しいフィーリングでやっているよねえ。例外なくぜんぶそうだ。しかものんびりのどかで、ほがらかな感じだ。心がけてそうやっていたんじゃないかと思える。愉快でふざけるような感じ、すなわちジャイヴ感覚もたっぷりある。

 

この点、つまりファッツをジャイヴ・ミュージックと結びつけて言っているひとがあまりいないんじゃないかと思うんで、ぼくは強調しておきたい。ファッツの音楽にはジャイヴ感覚が横溢しているってこと。だからクールだ。うん、間違いない。愉快で楽しくふざける、まさに音「楽」、それがファッツの世界だね。だから、肌が黒いのが悪いんだろうと泣くような(ホットな)曲は、書きはしてもやらなかったのかもしれない。

 

ぼくは長年そういった世界が苦手だった。シビアなハードさ、切り口鋭いエッジの尖った感じの熱い音楽が好きだったんだよね。のどかで厳しさなんかなさそうなファッツの音楽は、だから主にピアニストとしての腕前に耳を傾けるというような接しかたをしていたわけ。愚かだったなあ、ぼくは。ファッツの世界を理解できていなかった。

 

自分も歳とって、それでようやくファッツのこんななごやかで落ち着いた世界が本当にすばらしいと心から実感できるようになったのかもしれない。それで今日こんな文章を書いている。

 

※ 参考アルバム(ぼくの持つ『ジ・エッセンシャル・コレクション:ファッツ・ウォーラー』はこれじゃないけど)。
https://open.spotify.com/album/5fsLHfEdum0RWT4NhCcLjz?si=5RvcduYFTBujm_w6J7pwRA

2019/05/22

ボッサってな〜に?

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世界で最も知られているブラジル音楽がボサ・ノーヴァだけど、ボサ・ノーヴァってなに?このことばはどういう意味?と聞かれたら右往左往してしまうぼく。ノーヴァのほうは、英語なんかでもスーパー・ノーヴァ、すなわち超新星と言ったりするので「新しい」という意味なんだな、つまりは音楽の新潮流みたいなことを言おうとしているのか、と推測がつくけれど(ウェイン・ショーターに同題のアルバムあり)、ボサ、またはボッサがわからないよねえ。

 

そんなとき、1999年のオフィス・サンビーニャ盤アンソロジー『サンビスタス・ジ・ボッサ』がかなり参考になる。アルバム題どおり、ボッサ感覚を持つサンバ歌手たちの録音をどんどん並べて、ボッサがなんなのか、解説文の田中勝則さんも特にこういうことと明言されていないけれども音源で実感してもらおうという一枚じゃないかな。

 

だから収録されているのは24曲すべてサンバだけど、ボッサ感覚を持つものってなんだろうと、ぼくは最初わかっていなかったが、だんだんこういうことかな?とぼんやり感じるようになった。それを今日ぼくは明記しておきたい。ボッサ感覚とは、サンバのなかでも特に都会的で粋なセンスのオシャレでファンキーなもの、そんなフィーリングを指していると思う。

 

サンバといっても実にいろいろあって、もとがカーニヴァル用の音楽だからダンサブルで泥臭いものもあったりするのだが、『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されているサンバにそういったものはない。ちょっとあえていえばヤワな、華奢な、おしゃれなやさおとこ的なというか(女性カルメン・ミランダが収録されているが)、そんなサンバばかりどんどん並んでいるとしていいんじゃないかな。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』に収録されている歌手は、だいたいがルイス・バルボーザ、シロ・モンテイロのふたりだと言ってもいいくらいで、ソングライターでいえばウィルソン・バチスタとジェラルド・ペレイラにしぼられるとしたいほど。年代で言えば、たとえばサンバ・ジ・ボッサの最盛期は1940年代前半と言っていい。

 

そのころ、サンバとショーロが再合体し、サンバに小粋なスウィング感が聴かれるようになり、同時にファンキーなユーモア感覚もあわせ持ち、軽妙にノリよい曲をスッと軽く歌うことが時代の潮流だった。そんなことを<ボッサ感覚>と呼んでもいいんじゃないかなと思う。最初はサンバのなかに出てきた(新しい)感じといった程度の使われかただったのかもしれないんだけど、ノエール・ローザやカルメン・ミランダの歌詞のなかにも歌い込まれるようになって徐々にサンバ音楽になかに定着し、1940年代になってサンバ・ジ・ボッサなどと呼ぶようになったのだろう。それがボサ・ノーヴァという命名の起源となった。

 

『サンビスタス・ジ・ボッサ』のなかにある、たとえばシロ・モンテイロの歌のなかには、ほぼボサ・ノーヴァに近づいている、あるいはボサ・ノーヴァそのものであると言いたいくらいのものだってあるんだ。だから、サンバからサンバ・ジ・ボッサを経てボサ・ノーヴァへいたる道のりはひとつながりだったんだなと実感できる。

2019/05/21

ショーロ・ルネサンス?〜 トリオ・ジュリオ『ミーニャ・フェリシダージ』

1007812325https://open.spotify.com/album/6E882EOacKWLz5OH0MyHgo?si=kTZvvkVxSZqxtJ6QuBQAyA

 

これも bunboni さんに教わったものです。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-21

 

オーソドックスな古典ショーロをやるトリオ・ジュリオの2017年デビュー作『ミーニャ・フェリシダージ』がとてもいい。曲もアルバム全体も(いい意味で)古くさい音楽。このことは、たとえば曲間の空白時間でもわかる。ある時期以後の音楽アルバムではあまり間合いをおかずどんどん次の曲が流れてくるけれど、『ミーニャ・フェリシダージ』では曲と曲のあいだにたっぷりポーズがおかれている。むかしの音楽レコードみたいで、最近の傾向にすっかり慣れちゃっているから、最初は一瞬オリョ?止まった?と感じたほど。

 

トリオ・ジュリオの『ミーニャ・フェリシダージ』は、兄弟三人によるバンドリン、ギター、パンデイロのトリオ編成を基本に置きつつ、三人での演奏曲もあるけれど、多くのばあいゲストを曲によって変えながらどんどん迎えて、自作曲をやっているという感じかな。そんな自作曲も、どこも現代ふうでない古典的意匠で、ぼくなんかは好感を抱く。いかにも伝統と現代がひとつながりで接合しているブラジル音楽界ならではだね。

 

アルバムの最大の目玉は、やはり管楽器奏者を複数迎えてやっている8、10曲目かな。そのメインはアキレス、エヴェルソンのモラエス兄弟なんだ。ね、憶えているでしょ、例のイリニウ・ジ・アルメイダ曲集の中心だったふたりだ。そのときフィーチャーされていたオフィクレイドをエヴェルソンは10曲目で吹いている。8曲目ではトロンボーン。

 

オフィクレイドなんて、そのイリニウ曲集まで完全に忘れ去られた楽器になっていたものだし、イリニウの得意楽器だったからエヴェルソンは復活させたんだけど、それをトリオ・ジュリオに客演しても演奏しているのは、あるいはひょっとしたらエヴェルソンのほうからもちかけたアイデアだったかも。トリオ・ジュリオの三人がオフィクレイドを提案できるかどうかわからないし。

 

実際その10曲目ではアレンジ担当がエヴェルソンとクレジットされている。作曲はほかの曲同様マルロン・ジュリオだけど、アレンジだけエヴェルソンがやって、しかもグルーポ・オス・マトゥトスがまるごと参加していて、エヴェルソンがオフィクレイドを吹くんだから、トリオ・ジュリオとオス・マトゥトスの共同作業によるワン・トラックと言っていいかも。実際、おもしろい仕上がりになっている。

 

(オス・マトゥトスじゃないものの)同じくアキレスとエヴェルソンが参加した8曲目も楽しいし、管楽器のいないシンプルなトリオ編成のトリオ・ジュリオにして、なんだか実はこのアルバム『ミーニャ・フェリシダージ』はなかなかヴァラエティに富んでいる一枚と言えるかも。いろいろ流れてきて楽しいし。それに10曲ぜんぶがメンバーの自作だけど、それもきわめて古典的でオーソドックスなショーロ曲の創り。それをストレートにやって、過去の楽器オフィクレイドも使ったりする。

 

つまりは、ある種のルネサンス的な意味合いすら感じるこの『ミーニャ・フェリシダージ』だけど、当のトリオ・ジュリオの三人はそんなことをあまり考えすぎず、ただやりたい音楽を自由にのびのびとやっているなと感じられる素直さも好感度大。古典ショーロ好きじゃないと楽しめない作品だけどもね〜。

2019/05/20

定型のない軽妙なロバート・ウィルキンス

Fullsizeoutput_1eeahttps://open.spotify.com/album/6WVlNEjuEWQtzx5uiT0KxT?si=cQ5UJRyWTyWtPCxJqyKRkg

 

ローリング・ストーンズが下敷きにした戦後録音もありはするものの、やはり第二次世界大戦前のメンフィス・ブルーズ・シーンでこそ重要人物だったロバート・ウィルキンスが、その大都会に移住してきたのは1915年のこと。すでにギターで弾き語っていたらしい。ウィルキンスの戦前録音のすべてを、ぼくは1990年の P ヴァイン盤 CD『プロディガル・サン〜放蕩息子』で愛聴している。曲順は違えど上の Spotify リンクは同じ中身のアルバム。全17トラック。これ以外には1964年のゴスペル・アルバム一枚があるのみのひとだ。

 

ヴィンテージ録音(1928〜35年)に話を限定すると、ロバート・ウィルキンスのブルーズにはほぼ定型がない。ほとんどがひとりでの弾き語りであるカントリー・ブルーズの世界ではそれがあたりまえだけど、それにしてもウィルキンスの融通無碍さはなかなかすごい。推測するにたぶんまず歌があって、それに合わせてギター演奏もついていっているだけだから、そしてその歌とは(だらっと続く)バラッド的なお話だから、ということなんだろうなあ。

 

とはいえ、計17トラックのうち三つ「ダーティ・ディール・ブルーズ」「ブラック・ラット・ブルーズ」「ニュー・ストック・ヤード・ブルーズ」は定型の AAB 12小節3コード形式。これには理由がある。このときのセッションでだけ二名の伴奏者がいるからだ。実にカチッと定型化しているよねえ。それにしてもスプーンが付くなんて(カチャカチャという音がしている)、いかにもメンフィスらしい土地柄だ。

 

とにかくバンドというか複数名でやると定型化するというのはわかりやすい話だ。戦後もひとりで弾き語ったカントリー・ブルーズ・マン、たとえばライトニン・ホプキンスなんかはやっぱり小節数が伸び縮みしているんだもんね。しかしだいたいが一小節単位でのことで、ロバート・ウィルキンスのばあいは、半拍伸びたりしてワン・コーラス(という概念もたぶんないのだが)13小節半だとか、あるいは15小節だとか、そんなのだってある。

 

上でも書いたけど、伝承的な物語歌、すなわちバラッドの世界では、まあ詩として世に出るばあいはある程度フォーマットがあるだろうけれど、それでも現場で歌って聴かせるのにかたちはいらない。その場その場で観客の反応も見ながら自在に端折ったり延長したりくりかえしたりするわけで、それもちょっとだけとか大幅にとか、よくあることじゃないか。

 

ロバート・ウィルキンスも最初のレコードである SP 両面の「ローリン・ストーン」2パートがそこそこのローカル・ヒットになって、ラジオ出演した際この曲にリクエストの電話がじゃんじゃんかかってくるためやめられず、ついに番組の一時間ずっと「ローリン・ストーン」だけ歌っていたという(ウソかホントかの)エピソードまで残っている。お話とはそういうもんだね。

 

アメリカの黒人ブルーズが(発祥時に?プリ・ブルーズ的な部分で?)けっこうバラッドと関係があったとは、ぼくも以前から書いていることで、それは戦後のマディ・ウォーターズの弾き語りなんかにも姿を現している要素。ましてやミシシッピのど田舎ハーナンドー生まれで戦前のメンフィスで活動した弾き語りのロバート・ウィルキンスなら理解しやすいことなんだよね。

 

ローリング・ストーンズがとりあげた「ザッツ・ノー・ウェイ・トゥ・ゲット・アロング」(プローディガル・サン)も見事に変型で、というか変型とか定型とかいう概念でくくれないのがロバート・ウィルキンスで、歌がまずあって、歌いながらそれにあわせて拍数がかなり半端になっている。それでここまで結果的に構成がちゃんとなっているように聴こえる組み立て能力はすごいね。歌もギターも軽妙洒脱だ。

 

また、「ゲット・アウェイ・ブルーズ」も傑作で、出身地であるミシシッピのブルーズっぽい感覚の一曲。ヴォーカルも力強いが、ギターのパターンに注目。フリーなワン・コードに近い展開で、その上、ジョン・リー・フッカー的な二拍三連に近い弾きかたもあるかと思えば、低音弦でブギ・ウギ・ピアノの左手みたいに動いたりもする。

2019/05/19

ジョエル・ロス登場

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ブルー・ノートからデビューしたばかりのジャズ・ヴァイブラフォンの新人ジョエル・ロス。そのプレイぶりは、ハーモニー面でもリズム面でもチャレンジングだ。ジャズ的なスリルに満ちたデビュー・アルバム『キングメイカー』(2019)は、ヴァイブラフォン+アルト・サックス+ピアノ・トリオのクインテット編成だけど、めくるめくようなエモーショナルな演奏で聴き手をグイグイと世界に引きずり込むパワーを持っている。

 

ジョエル・ロスのことをブルー・ノートは前々からプロモートしていて、まだデビューもしておらず一曲も聴けない状態の新人としては異例の大きな扱いだった。デビュー作『キングメイカー』のリリース予定日が決まると会社の推しっぷりにも一層熱が入り、ぼくも毎晩(のように、ではなく文字どおり毎晩)ツイートを読んでいたから、もうすっかり聴く気、買う気満々で、実際リリース日に Spotify で聴いて、たしかにこりゃすごいとうなって、速攻で CD も買った。

 

『キングメイカー』をお聴きいただければわかるように、ジョエルのマレットさばきは超高速。しかも寸分の狂いもなく極めて正確だ。さらにかなり熱情的な演奏ぶりで、気持ちが入るとグングン高揚し、同じくエモーショナルなアルト・サックス(イマニュエル・ウィルキンス)と一体化してクインテットの演奏全体がかなりの熱量を帯びる。かと思うと、同時にどこか醒めたクールなアティテュードも感じるよね。

 

ヴァイブラフォンのジョエルと一体化した演奏ぶりという意味では、ドラマーのジェレミー・ダットンもかなりすごい。複雑なポリリズムをひとりで難なく叩き出していて、多彩なドラミングで演奏に躍動感を与えているのだが、リズムの変化においてジョエルと一体化しつつどんどんチェンジしているのがわかる。

 

アルバム『キングメイカー』のぼくにとっての快感の肝は、この三位一体、ヴァイブラフォン、サックス、ドラムスの重なり合いにある。必ずしも一体化せず、異なったまま重ねたりもして、特にジョエルがひとりでバンドの演奏にぶつけるように異リズムで演奏していると思うんだ。それでいてジョエルもバンドも違和感なくスムースにこなしているよねえ。すごいことじゃないかな。バンドの演奏に対しジョエルひとりが異をレイヤーしていくというのはハーモニー面でもそう。

 

デビューしたての新人でありながらヴァイブ・ヴァーチューゾでもあるっていうのは、たとえば5曲目「イズ・イット・ラヴ・ザット・インスパイアズ・ユー?」でもよくわかる。ここではサックスとピアノを抜いたヴァイブラフォン・トリオでの演奏だから、もっぱらジョエルの超絶技巧に焦点が当たっている。聴きながら、なんてすごいんだ、しかも爽快だ、とうなっちゃうなあ。ジェレミーのドラミングにも要注目。ふたりで突っ走っている。

 

クインテットの演奏も、ジョエルひとりの演奏をとりだしても、多彩でチャレンジングな『キングメイカー』。ぼくがことに注目するのはリズム面での斬新さ、おもしろさだけど、和声面でもユニークで、収録曲もほとんどがジョエルの自作でありかつ、なんとプロデュースまでやっている。ヴァイビストとしてスケールが大きいというだけじゃない、トータルな音楽家としてのデカさを感じるね。

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2019/05/18

グナーワ大学 2019

500x500https://open.spotify.com/album/1HXDn48Et8A47wiWpKSSeG?si=Lk0EHdAvTuKDSIW-lJopCg

 

ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)での活動で名を知ってすっかりファンになったアジズ・サハマウイ。彼のユニヴァーシティ・オヴ・グナーワ三作目が、今2019年にリリースされたばかりの『ポエティック・トランス』だ。これはかなりいい内容のアルバムだよね。グナーワ大学、一作目も充実していたが(このブログでもくわしくとりあげた)、この三作目はそれを上回っているかもしれない。

 

『ポエティック・トランス』で個人的にことさら気に入っているのは、ルーツ・グナーワ色を土台に置きつつ大衆音楽化しているもので、具体的には5曲目「Gang Sound of Mbirika」、7曲目「Soudani ya yémma」、9曲目「Sotanbi」だ。なかでも9曲目はポップ化もしていない生のグナーワといった趣で、これがいちばん好き。ディープでいいんだよね。

 

このあたりはモロッコの儀式グナーワが好きだという趣味嗜好からくるものだから、みなさんには共感していただきにくいかもしれない。それでも「ソタンビ」でカルカベ(金属製カスタネット)よりもドラム・セットの音を前に出し、エレベやエレキ・ギターも入れたりして、腐心してわかりやすくしようとしている。リード・ヴォーカルとバック・コーラスのコール&レスポンスは伝統マナーそのままだ。

 

もし『ポエティック・トランス』ではじめてグナーワっていうようなものに触れるという向きがおありならば、この9曲目でゲンブリとヴォーカルだけにして、ドラムス、エレベ、ギターを抜き、そこにカルカベをもっと大きく入れたら、それがだいたいディープなルーツ・グナーワの音楽像なのだと考えていただきたい。ぼくはそういった音楽が大好きなんだ。アジズだって、演奏終了後に思わず叫び声をあげているんだから、やはりこういったものこそが本領なんだと思う。

 

そんなアルバム・ラストの「ソタンビ」にはグナーウィとしてのアジズの心意気みたいなものが表現されていて、このアルバム『ポエティック・トランス』ラストに置かれた白眉のワン・トラックとなっているんじゃないかな。そのほか、5曲目、7曲目もグナーワ・ベースのポップ・ミュージックで、これらは比較的聴きやすいかも。

 

5曲目「ギャング・サウンド・オヴ・ムビリカ」でゲンブリ演奏がはじまってしばらくして、お腹に来る地を這うようなエレベが聴こえてきた瞬間に背筋がゾクゾクするし、アジズのヴォーカルもコール&レスポンスのコーラス隊も充実している。ここでもドラム・セット入り。途中からンゴニとトランシーなエレキ・ギターがからんで間奏をつくるあたり、このバンド、グナーワ大学のありようを発揮したものと言えるだろう。おもしろい。

 

ンゴニは、グナーワ大学において以前から頻用されていて、バンド名に反し音楽に西アフリカ色をもたらすことになっているのだが、アジズのユニヴァーサルな音楽企図が見えて、ぼくは好感を抱いている。それとエレキ・ギターをからめるなど、全体的に(プロデューサーのマルタン・メソニエのおかげもあるけど)種々音楽要素のフュージョン色が強いのも、結果的には大成功だ。

 

7曲目「スダニ・ヤ・イェマ」では、まずゲンブリ独奏が出て、それにヴォーカルのコール&レスポンスだけがからんでいくから、最初思わず「オオ〜〜ッ!」と喜んでいたら、ポップなドラムス演奏が入り、エレベ、エレキ・ギターと入ってきて大衆音楽化する。特にこの曲ではドラムスの音が大きく、演奏も派手だ。

 

すると、途中から派手でやや長尺なエレキ・ギター・ソロも出て、そこはまるでハード・ロックさながらだから、この7曲目を最初から聴いているとグナーワ・ロックみたいな感じにも聴こえるね。聴きやすくていいと思う。最初ディープなルーツ・グナーワふうにはじまって、瞬時にポップ・ミュージック化して、どんどん高揚していくさまを聴かせる構成は、アジズもさることながらマルタンの貢献を感じる具合だ。

2019/05/17

ロベルタ・サーの新作が心地いい

7898324317545coverzoomhttps://open.spotify.com/album/16ACI5slW2WX9SP895SwRC?si=2_Xa1ok6TsKt60YthAYkpw

 

リリースされたばかりのロベルタ・サーの最新作『Giro』(2019)。とてもいいよね。目玉はやっぱりジルベルト・ジルとジョルジ・ベン・ジョールが参加した4曲目かな。もちろんすばらしい出来だ。この曲だけ、アルバム中ほかの曲とはグルーヴ・タイプが異なっているのも注目点。なんというかビートがタイトでシャープ。鋭角的な切り込みも聴かせているよね。とても好きだ。バイーアふうサンバだしね。

 

でもこれはアルバム全体の色調からしたらやや異色と言えるはず。全体的には、やわらかく丸いソフト・タッチな音楽をロベルタはこころがけているのがわかる。それは4曲目「Ela diz que me ama」に続き流れてくる5曲目「Nem」でもわかる。こののどかさ。これですよ、心地いいのは。決して肩肘張らないリラクシングなムード、それがいいと思うんだよね。ほんわりあたたかくて。

 

そう考えると、そんなあったかやわらかいロベルタふう新サンバは、アルバム中ほかでもいっぱい聴ける。1曲目「Giro」はサンバかどうかわからないが、シンガー・ソングライターとしてのロベルタの世界を端的に表現したもの。続く2曲目「O Lenço e o Lençol」はややシャープかなと思わないでもないがソフト・サンバで、こういうのがいいと思うんだよね。ロベルタの声も女性ならではのやわらかさがあって、聴いていて癒される気分。

 

心地よく癒されながら、アルバムのトータル41分間を聴き終えるというのが正直なところ。全体的にとがっていたりハードだったりタイトだったりすることがほぼなくて、サンバ・ミュージックの持つ人間味、あたたかみだけを取りだしたような音楽なのがいいよ。6曲目「Fogo de Palha」の、エコーがやや深めにかかったロベルタの声とこのバックのサウンドのあったかやわらかさとか、これもサンバな8曲目「A Vida de um Casal」の弾き語りの親密なムードとか(後半のフリューゲル・ホーンも実にいい)。

 

9曲目「Xote Da Modernidade」ではハーモニカが活きているし、ヒューマンなぬくもりを感じるサウンドだよねえ。サンバとはいえないが、現代ブラジル音楽の持つ人間らしさをよく表現できていて、音楽的姿勢としてはサンバのそれに相通ずるものがあると言えるかも。ハーモニカを入れようというのはロベルタのアイデアだったのかなあ。

 

アルバム・ラストの「Afogamento」がこれまたよくて、この新作『Giro』でロベルタがとっている姿勢というか音楽性、つまりヒューマンなあったかみ、ソフトで丸いぬくもりといったものを典型的に表現したような、まるでそばに座って彼女がギターで語りかけてくれているかのような親密さも感じる、そんな音楽で、フリューゲル・ホーンとテナー・サックス二管の入りかたもうまいし、ホッとするねえ。

 

41分間という長さも適切で、なんどもなんどもくりかえし聴くロベルタ・サーの新作『Giro』。聴いても聴いても飽かず、あったかさにほだされて、こっちのメンタルまで適温になっていくような、そんないい音楽だなあ。実はかなりの深みと凄みをも同時に帯びた作品だしね。いやあ、実にいいですよ。

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