レー・クエンの2015年作は演歌っぽい?
レー・クエンで一番好きな2014年作は、真夏に聴くは若干暑苦しいから、ここ二ヶ月ほどは2015年作の方をよく聴くんだけど、大好きなバカラック・サウンドの官能に似ている2014年作(こっちの方がバカラックより官能性が強い)に比べると、2015年作は若干日本の演歌っぽいというか、ヴェトナム民俗色が出ている。アルバム・ジャケット(上掲左)を見ただけで、それが分る。右の2014年作のジャケットと比べると、はっきりと違う。もし僕の母親に聴かせたら、絶対に2015年作の方が好きだろうなあ。
まあでも、レー・クエンは、歌っている言葉の意味が分らないから、僕の母親は好きにはならないかな。そういう音楽の聴き方をしている人は結構いるよね。僕なんか、歌詞の意味が分った方が、音楽を楽しむにはかえって邪魔なんじゃないかと思ったりする。アラビア語とかトルコ語とかヴェトナム語とか、意味の分らないものばかり聴いているせいもあるけど。
それらは意味は分らないけど、何語かだけは判別できる(韓国語や中国語が、意味は分らなくても判別できるのと同じで、タモリの四ヶ国語麻雀は、まさにそういうイントネイションによる言語判別を活かした芸)。しかし、意味が分らないばかりか、そもそも何語であるかすら判別できないものだって聴いている。例えば、アゼルバイジャン音楽は、アゼルバイジャン音楽だと書いてあるから、アゼルバイジャン語なんだろうと思っているだけだし、あるいは、なんの言葉かを知るきっかけが全然ないものもある。
それらは意味は分らないけど、何語かだけは判別できる(韓国語や中国語が、意味は分らなくても判別できるのと同じで、タモリの四ヶ国語麻雀は、まさにそういうイントネイションによる言語判別を活かした芸)。しかし、意味が分らないばかりか、そもそも何語であるかすら判別できないものだって聴いている。例えば、アゼルバイジャン音楽は、アゼルバイジャン音楽だと書いてあるから、アゼルバイジャン語なんだろうと思っているだけだし、あるいは、なんの言葉かを知るきっかけが全然ないものもある。
もし僕の母親がレー・クエンを好きになれば、人生で初めて母親と音楽の趣味を共有できることになる。母親はもう30年以上ほぼ演歌ばかり聴いている。というより、カラオケ好きで、カラオケ教室に通っていて、そこで歌うネタとして演歌を聴くという具合。買うのはもっぱらカセットテープ。
僕は高校の時にツェッペリンのコピー・バンドでヴォーカルをやった以外は、その後好きになったジャズのレコードで、英語のヴォーカル物を聴いては、合わせて一緒に歌うくらいだった。それでスタンダード曲の歌詞などは結構憶えた。カラオケは誘われない限り自分から進んで行ったことはない。
だって、カラオケに行ってもジャズ・スタンダードなんてほぼないしね。だからたまに誘われてついていくと、僕が歌うのは、中学生の頃夢中だったジュリー(沢田研二)の曲とか、大学生になってから憶えたスティーヴィー・ワンダーの曲とかだった。山本リンダや山口百恵も大好き(山本リンダの「どうにもとまらない」は、僕のハジレコ)だけど、キーが合わない。昔のカラオケ装置は、キーを変えたりできなかったもん。
なお、父親とは、以前も書いたけど、僕が小学生の頃、カーオーディオでペレス・プラードとかのラテン音楽の8トラをよく聴いていたので、その頃は音楽の趣味が完全に一致していた。また祖父とも、彼が買ってくる三波春男の歌謡浪曲などのレコードをよく一緒に聴いていたから、音楽の趣味を共有していた。
そんな父親も晩年は演歌路線に転向したけど、これは多分、母親のカラオケに付合ううちにだんだん影響されて好きになっていったんじゃないかという気がする。若い頃のラテン音楽好きと晩年の演歌好きには通底するものがあったことは、僕は最近になって分ったけど、父親にその自覚はなかったと思う。
まあでも、祖父の浪曲好き、父親のラテン好き→演歌好き、母親のカラオケ好きと、今になって考えれば、僕の育った家庭環境には、大人になった僕がこんなに音楽に夢中になるのも当然と言えるものがあったわけだよなあ。子供の頃も大学生の時ジャズ好きだった頃も、それには全く無自覚だったけど。
無自覚というより、大のジャズ・ファンだった頃は、そういう家庭環境をむしろ否定してかかってたようなところがあった。ジャズを聴始めた当初は、自分が聴いているのは「芸能」ではなく「芸術」なんだと信じていた。今思えばアホなことだったと思うけど、当時は真剣だったんだよなあ。しばらくして戦前ジャズの虜になって、そういう考えは捨てたけれども。
しかしジャズを「芸術」だとか思ってたわりには、結構ロックやブルーズなんかもレコード買って聴いてたんだけどね。ジェイムズ・ブラウンの1968年アポロ・ライヴ二枚なども大学生の頃自分で買って、カッコイイと思いながら夢中で聴いていたけど、その頃は、ファンク・ミュージックをどう思っていたんだろう?
今思うに、ジャズだけはかなり自覚的に考えながら聴いていたけど、高校生の頃から大好きだったレッド・ツェッペリンとか、大学生になってから聴くようになったB.B. キングとかオーティス・レディングとかジェイムズ・ブラウンとか、そういうものは、なんにも考えずに、ただ単にカッコイイとしか感じなかったんだろう。
ジャズ以外のブラック・ミュージックについて、少しは自覚的に考えるようになったのは、多分中村とうようさん編集・解説の『ブラック・ミュージックの伝統』LPを買って聴いてからじゃなかったかなあ。あの二枚組×2セットが出たのは1975年らしいけど、僕が買ったのは大学四年(1983)の頃だった。
あのとうようさん編纂のLP2セットには、ジャズ編もあって、それでそれまでの僕のジャズ観も少し変ったのだった。だから、それまで仲良くしていたジャズ・リスナーの友人達とは、だんだん話が合わなくなっていった。『フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング』LP二枚組を聴いたのも、そのちょっと前。
ブルーズといえば、シカゴ・ブルーズなどのバンド編成によるモダン・ブルーズしか知らなかった僕が、ロバート・ジョンスンなどの戦前弾き語りブルーズにも強い関心を示すようになったのも、その『フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング』二枚組LPのおかげだった。ブギウギ・ピアノだってそうだ。
しかし、レー・クエンの2015年作が演歌っぽいという話から、どうしてこういう僕の昔話に展開したんだろう・・・(^^;。まあなんにせよ、かなり涼しくなってきたから、また2014年作も聴直したくなってきた。最近は、2015年作の方が若干出来がいいのかもと思い始めてはいるんだけど、やっぱり僕は2014年作の方が好きなんだなあ。
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