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2015年10月

2015/10/31

スティーヴィーのサルサ・ナンバー

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「イージー・ゴーイン・イヴニング」というスティーヴィー・ワンダーのインスト・ナンバーが大好きなんだけど、大学生の頃に持っていたスティーヴィーのレコードは、これがEP盤に入っていた『キー・オヴ・ライフ』だけ。このあいだまでのような暑い夏の日には今でも聴く。

 

 

大学生の頃、スティーヴィーのアルバムの中で、どうして『キー・オヴ・ライフ』だけ買っていたのか分らない。以前書いたように、僕はアナログ時代は二枚組偏愛で、だからおそらくレコード屋で見て、二枚組だからなんとなくお買得というか、いろいろ聴けて楽しそうと思ったのかも。

 

 

そもそも『キー・オヴ・ライフ』はLP二枚組というばかりか、それに四曲入りのEP盤が付いているというものだった。買った日本盤LPのライナーを読むと、このアルバムをレコーディング時のスティーヴィーは創造の絶頂にあって、物凄く多くの曲をレコーディングし、選びに選んだ挙句そうなったらしい。

 

 

実際聴いてみたら、当時(今もだが)ソウル・ミュージックについて全くなにも理解していない僕ですら、大変に楽しめる分りやすい音楽だった。一発でスティーヴィーのファンになったんだけど、それで彼の他のアルバムを買おうとならなかったのは、大学生の頃はジャズばかり買っていたからなあ。

 

 

ジャズと『キー・オヴ・ライフ』といえば、一枚目A面のラストに「サー・デューク」という曲があって、曲名通りデューク・エリントンはじめ、様々なジャズの先人達に対するオマージュ・ナンバーだったのが印象に残っている。歌詞にベイシー、グレン・ミラー、サッチモなどが出てくるし。

 

 

でも大学生当時『キー・オヴ・ライフ』の中で好きだったのは、「サー・デューク」とかよりも、一曲目の「ラヴズ・イン・ニード・オヴ・ラヴ・トゥデイ」はじめ、「ヴィレッジ・ゲットー・ランド」とか「ブラック・マン」とか、EP収録の「サターン」とかだった。

 

 

感心したのは、そういった曲の歌詞はかなりヘヴィーな内容だったんだけど、聴いた感じの曲調が全然そんな感じがせず、非常に軽快で分りやすいポップ・ナンバーだったことだった。とっつきやすくノリやすい曲調で重い内容のメッセージが届けられる、これは当時のニュー・ソウルに共通した特徴。

 

 

1970年代のスティーヴィーを<ニュー・ソウル>に含めてもいいのかどうかよく分らないけど、同じ頃のマーヴィン・ゲイやカーティス・メイフィールドなど、ほぼどのアルバムもそんな感じだから、やはり明らかに共通したものがあったんだろう。

 

 

大学生の頃にマーヴィン・ゲイのアルバムで一番好きだった『ワッツ・ゴーイン・オン』だって、アルバム全体を通して、あんなに深刻でヘヴィーな内容の歌詞を持つソウル・アルバムはないと思うくらいだけど、音楽は実にノリやすいファンク・ミュージックで、エンターテイメントになっているもん。

 

 

マーヴィンの『ワッツ・ゴーイン・オン』と比べたら、スティーヴィーの『キー・オヴ・ライフ』は、二枚組+EPということで、多様な曲が入っているので、全部が深刻な歌詞内容だというわけではない。ラヴ・ソングもたくさんある。「サー・デューク」みたいな曲もあるわけだし。

 

 

また一枚目A面には「コントゥージョン」というインストルメンタル・ナンバーがあって(バックにコーラスは入るけど)、これなんか大学生の頃、ジャズやジャズ系のインスト音楽を中心に聴いていた僕には、親しみやすかった。最初に書いたようにEP盤収録の「イージー・ゴーイン・イヴニング」もインスト。

 

 

その「コントゥージョン」にしても、その他のインストルメンタルじゃない歌入りの曲もそうだけど、この頃のスティーヴィーのリズムとサウンドは、大学生の頃から現在でも大好きな1970年代電化マイルスに近いものを感じていた。当時はなんとなく似ていると感じていただけだったけど。

 

 

今となっては、1970年代のソウル〜ファンク・ミュージックと、70年代電化マイルスが、かなり意識して同じ道を歩んでいたと、僕は理解している。「意識して」というのは少し違うかもしれない。ブラック・ミュージックとしての「時代の必然」だったというべきか。スライだってPファンクだってそうだ。

 

 

そんなことを、大学生の頃は、何の知識も持たず時代背景も知らず、ただ音だけ聴いてなんとなく感じ取っていたのだった。当時全く分ってなかったといえば、LPでは二枚目B面ラストだった「アナザー・スター」。これなんか、今聴くとサルサだとしか思えないんだけど、当時はラテン風味だなと思っていただけ。

 

 

大学生の頃はサルサとか知らなかったからなあ。スティーヴィーの『キー・オヴ・ライフ』は1976年のアルバム。ちょうどサルサが大流行し全米に拡大済の頃だった。「アナザー・スター」も、歌詞内容は深刻でヘヴィーなんだけど、サウンドはノリがいい。

 

 

2015年の今、振返って考えたら、1976年のスティーヴィー・ワンダーは、『キー・オヴ・ライフ』の「アナザー・スター」その他を、当時大流行していたサルサ(ニューヨーク・ラテン)を強く意識して作ったものだとしか思えないんだなあ。ティンバレスの使い方なんかそのまんまだしね。

 

 

 

今では、『キー・オヴ・ライフ』の中で一番好きで繰返し聴くのが、その「アナザー・スター」。オリジナル・アナログLPでは、この「アナザー・スター」がラストだった。やはりこのアルバムはこの曲で終ってほしいよねえ。現行CDでは、この後にEP盤収録だった四曲が続くからなあ。

 

 

今でも大好きな『キー・オヴ・ライフ』なんだけど、どうも玄人筋の評価はイマイチみたいだ。この二枚組より、これの前の三部作『トーキング・ブック』『インナーヴィジョンズ』『ファースト・フィナーレ』がベストだということになっている。僕だって今では<傑作>という意味では、同意見。

 

 

音楽的完成度という点では、確かにその三部作、特に『インナーヴィジョンズ』か『ファースト・フィナーレ』が一番だということになるだろう。『キー・オヴ・ライフ』は二枚組+EPという構成だから、少し完成度が低くなるというかゴッタ煮になってしまうのは、仕方がない。

 

 

ただ、さっきも書いた完全にサルサな「アナザー・スター」や、それ以外にも『キー・オヴ・ライフ』には、結構ラテン・テイストな曲があって、その辺りがラテン好きな僕に一番フィットする部分なんじゃないかと思ったりする。それ以前のいわゆる三部作には、そういうのは少ない。

 

 

「パスタイム・パラダイス」も「サマー・ソフト」もラテン調だし、「イズント・シー・ラヴリー」だってそうじゃないか。黒人賛歌である「ブラック・マン」もホーン・リフが微かにサルサ風、「アイ・アム・シンギング」も南国風だし。そう見ると、『キー・オヴ・ライフ』には、サルサとかラテン風味がたくさんある。

 

 

いわゆる三部作にもコンガなどがたくさん入っているけど、1960年代末以後の米国産ポピュラー音楽は、別にラテン調でなくても、ラテンやアフロなパーカッションを導入するのが普通だったからなあ。「アナザー・スター」みたいなモロなサルサ・ナンバーは、いわゆる三部作にはない。

 

 

ラテンなフィーリングは、ちょうど1973〜75年頃の電化マイルスにもあって、例えば『アガルタ』や『ゲット・アップ・ウィズ・イット』でやっている「マイーシャ」や、後者や当時の多くのライヴ・ブートに入っている「カリプソ・フレリモ」などがそう。そういう辺りとも共振するんだよね。

 

 

そうなると、1970年代のサルサの大流行と、それとほぼ同時代のアフリカン・アメリカン・ミュージックとの関係性を、サンタナやロス・ロボスといったラテン(チカーノ)・ロックも視野に入れながら、考えてみたら面白い文章になりそうだけど、その話は少しデカくなりすぎるから、僕なんかの手には負えない。

 

 

 

(追記)この記事をアップした後に、『インナーヴィジョンズ』ラスト前の「ドント・ユー・ウォリー・バウト・ア・シング」が、かなりサルサ風であることに気が付きました。失礼しました。

2015/10/30

マイルス、東京、1973

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YouTubeに上げたマイルス・デイヴィス1973年東京公演(6/19)、楽しいよねえ。セカンド・セットも上げたけど、まあそっちは個人的にはイマイチという感じだ。やっぱりファースト・セットが断然いいと思うなあ。

 

 

 

1970年代マイルス・デイヴィスの日本でのライヴといえば、75年の『アガルタ』『パンゲア』で決り、というか公式盤がその二つしかないから当然そうなるし、音楽的内容からしても、その時点までの米ブラック・ミュージック集大成のようなその二つが決定盤なんだけど、個人的な好みでいえば、実は73年の方が好き。

 

 

スタジオ録音についても言えることなんだけど、1973年のマイルス・ファンクには、それ以前にもそれ以後にも聴かれない、一種の爽快な軽みがあって、彼以外のブラック・ミュージック界を探してみても、そういう爽やかなファンク・ミュージックというのは、他には68/69年頃のスライぐらいしか見当らない。ファンクって、だいたい暑苦しいもんだ。

 

 

そういう軽みが、1973/6/19東京公演一曲目の「ターナラウンドフレイズ」に典型的に表れているわけだけど、同じ73年のいろんなライヴ音源をブート盤やYouTubeでいろいろ聴くと、一曲目は全部「ターナラウンドフレイズ」。同年日本のライヴでも、翌20日のがNHKでテレビ中継された。

 

 

「ターナラウンドフレイズ」は、1974年カーネギー・ホールでのライヴ『ダーク・メイガス』でも一曲目だけど、そこではかなりヘヴィーになっている(それがこのライヴの魅力なんだけど)。また75年の『パンゲア』でも一曲目で、しかしそこでは、今度は走りすぎていて軽すぎる感じだ。

 

 

テレビ放送された1973/6/20、これ→ https://www.youtube.com/watch?v=QiArn_8RA4Y 他にも何種類か上がっている。来日当時にNHKで録画中継されたものだけど、数年前にもリバイバル放送された。こういうのが公式に残っているんだから、音だけでなく映像も含め、公式にDVDで出せばいいのに。

 

 

1973/6/19の音源は、かなり前からブートCDで出回っているもので、僕は最初『ブラック・サテン』という二枚組CDになっていた(それが最初だと思う)のを、御茶ノ水のディスクユニオンで買った。確か91年頃の話。音質がかなりモコモコだったけど、当時は73年の東京公演を聴けた感動で一杯だった。

 

 

中山康樹さんのマイルス・ブート紹介本『マイルスを聴け!』でも、初版ではその『ブラック・サテン』が紹介されていたはず。その後しばらく経って、名古屋のブート・ショップ、サイバーシーカーズから『アンリーチャブル・ステイション』というタイトルで出て、それでは音質が劇的に向上していた。

 

 

直後の『マイルスを聴け!』第何版かでも、すぐに『アンリーチャブル・ステイション』が代って載るようになった。しかしながら、この二枚組、一枚目にセカンド・セットが、二枚目にファースト・セットが収録されていて、最初はなんじゃこりゃ?と思ったんだよね。すぐに修正されたけど。

 

 

そして、2007年に同じ音源が『730619 Tokyo Definitive Edition』というタイトルでリイシューされ、渋谷のマザーズで売られるようになり、リマスターによる大幅な音質向上を謳ってはいたけど、リマスターといっても、ブートだから、大した違いはなかった。

 

 

ただし、その『730619 Tokyo』は、『アンリーチャブル・ステイション』にちょっとだけあった、ほんの一瞬の音飛びとかクリップノイズとかが完全になくなってはいたので、嬉しかったのは事実。もっとも、中山康樹さんのマイルス本では相変らず『アンリーチャブル』が載っているけど。

 

 

ところで、この1973/6/19音源、昔から現在に至るまで、どのブートCDでも、マイケル・ヘンダースンのエレベとアル・フォスターのバスドラが全く聞えないというのが、最大の欠陥。ファンク・ミュージックでそういう低音部が欠けているというのは、ちょっとイカンよなあ。会場ではちゃんと鳴っていたんだろう。

 

 

オープニングの「ターナラウンドフレイズ」でも、出だしのマイルスの吹く電気トランペットの音がかなり小さいというかオフ気味で残念。すぐに聞えるようになるけど、やっぱり一音目からしっかり聴きたかったなあ。そういういくつかの欠点を差引いても、やっぱり聴いていて凄く楽しいよねえ。

 

 

ピート・コージーの弾くギターの音は、この1973年公演時点では、まだまだ細いというか、クリーン・トーンに近くて、これが最初から会場でもこんな音で鳴っていたのか、はたまた録音の問題なのか、その辺が判然としないんだけど、世界中の他の73年音源を聴いても殆どは似た感じだから、こういうもんなんだろう。

 

 

1975年の『アガルタ』『パンゲア』でのピート・コージーの、あのファズを限界まで目一杯深くかけたようなギター・ソロの音が僕は大好きで、ジャズもロックもファンクもなにもかも含めての全ギター演奏の中でも、一番好きだと思ってしまうくらいなんだけど、ああいうサウンドは、75年でも他では聴けない。

 

 

ということは、『アガルタ』『パンゲア』におけるピート・コージーのグギャゴゲ・ギターは、1975年大阪公演だけの特別なサウンドだったのだろうか?ちょっと不思議だなあ。でもマディ・ウォーターズの『エレクトリック・マッド』(68年)でも、ピート・コージーは同じ音を出しているんだけど。

 

 

だいたい、あんなに深くファズをかけたら、もうどんなギターを弾いているのかは全く分らない。ステージ写真とかでは、その時その時によって映っているギターの種類が違うし。それにピート・コージーは、実は、マイルスのスタジオ作品にはあまり参加していない。聴けるものは少ないのだ。

 

 

マイルスのスタジオ作品でピート・コージーがソロを弾いているので、僕がすぐに思い付くのは、1973年録音の「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード[テイク3]」だけだ。ここでもクリーン・トーンに近い音色。しかも、当時発売されたのは、ここから編集されたシングル盤で、彼のソロはカットされている。

 

 

というわけなので、僕もブートCDで聴くまで、1973年来日時のピート・コージーのギター・ソロを聴いたことがなかったわけだけど、聴いてみたら、案外ショボい。73年は、ブート盤の『コンプリート・ベルリン 1973』を除いては、彼のギターを聴く音源じゃないね。75年はほぼそれ目当で聴いているけど。

 

 

『コンプリート・ベルリン1973』は、73/11/1の快演で、今年七月リリースの四枚組で公式化した音源。音質的にはブートも公式も全く同一。それにしても「ターナラウンドフレイズ」とか「チューン・イン・5」とか、元はブート盤で使われはじめた曲名のはずだけど、公式盤でも同じだなあ。それなら『ダーク・メイガス』『アガルタ』『パンゲア』も、トラック切って曲名も付けて、出し直してくれよな。

 

 

ちなみに、故中山康樹さんは、マイルス・ライヴ初体験が、その1973年だったらしい。羨ましい限り。彼は僕よりちょうど10年早く生まれているので、73年時点では21歳だったはず。彼自身もどこかで言っていたけど、これが64年だったり75年だったりしたら、その後のマイルス遍歴も違っていたはずだ。

2015/10/29

ひばりは十代の頃に限る

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以前ある友人が、美空ひばりの「上海」というのを上岡龍太郎司会のテレビ番組で聴いて、それが最高だったんだけど、CDになっていないのかと聞くので、『ジャズ&スタンダード』に入っているよと教えたら、あっ、それは持っているぞ!と答えるという、コメディみたいなやり取りがあった。

 

 

上岡龍太郎は2000年に芸能界を引退しているので、それ以前の話。友人がテレビ番組で聴いたのはSP盤だったらしい。その友人は『ジャズ&スタンダード』を持っているけど、買ってからおそらく一度も聴いていなかったんだろうと笑っていた。僕もそういうCDたくさんあるからなあ。

 

 

ひばりの歌う「上海」は1952年録音で、彼女15歳の時。僕の持っているCDとは音が違うけど貼っておこう。 どうだろう?最高にチャーミングじゃないだろうか?その友人だって、買ったCDを聴いていれば、当然忘れるはずがないと思うほど素晴しい。

 

 

 

お聴きになれば分る通り、これは完全なるジャズ・ナンバー。国民的大歌手になった「柔」以後の演歌路線のひばりしかご存知ない(という方が多いだろうと思う)と、かなり意外に聞えるかもしれないが、デビュー当時のひばりはこういう軽快でスウィンギーなポップ・ナンバーをたくさん歌っている。

 

 

「上海」というジャズ・ナンバーは、ひばりが録音する前年1951年に、アメリカのジャズ系ポップ歌手ドリス・デイが歌ったもの。 お聴きになれば分るけど、ひばりのヴァージョンは、このドリス・デイのオリジナル・ヴァージョンの完コピ。

 

 

 

ひばりのヴァージョンは一部日本語詞でも歌っているけど、英語の部分も完璧だ。彼女は英語は全くできなかった、というか1937年生まれだから、ちゃんとした英語教育を受けていない。だから完全に耳での聴取りだけでコピーしているわけだ。

 

 

英語歌詞の意味も全く理解していなかったはずで、それなのに耳からの聴取りだけで、あそこまで完璧な発音でコピーして歌いこなせるひばりの耳のとんでもない良さには、感嘆の溜息しか出ないね。ポピュラー音楽では、歌詞の意味を理解しているかどうかは、歌手の表現や聴き手の聴取には、関係ないんだ。

 

 

「上海」が入っているCD『ジャズ&スタンダード』には、ジャズやジャズ系のポップなスタンダード・ナンバーばかり入っていて、これ、僕が持っているひばりのCDの中でもよく聴くものなんだけど、「柔」「悲しい酒」「愛燦燦」「川の流れのように」などしか知らない人には、縁のないものだろう。

 

 

10曲目の「アゲイン」は、「上海」同様モノラル録音でスクラッチ・ノイズがが入るので、これもやはり1950年代前半の録音だね。この頃は本当にスウィンギーでポップで、ジャズ・シンガーとしてもひばりは最高にチャーミングだ。こういうのがもっと聴かれないかなあ。

 

 

その他、「オーヴァー・ザ・レインボウ」「ラヴ・レター」「恋人よ我に帰れ」「スターダスト」「A列車で行こう」、あるいはシャンソン・ナンバーの「バラ色の人生」など。モノラルの「上海「アゲイン」以外は、全部ステレオ録音だから、もっと後年の録音だろう。絶品の「上海」以外はイマイチだ。

 

 

というのも、新しめの録音だと「上海」で聴けるような軽快なスウィング感が若干失われていて、悪い意味での演歌的な節回しが散見されて、ジャズやジャズ系のポップ・ナンバーの歌い方としては、少し胃にもたれるような感じがするのだ。各曲が何年の録音なのか書いてないんだけど、だいたいの想像は付く。

 

 

「上海」「アゲイン」の二曲は違うと思うけど、それ以外のジャズ系ナンバーでの伴奏は、全部、原信夫とシャープス&フラッツが務めているはずだ。どう聴いてもそういうサウンドだし、ある時期以後のひばりはシャープス&フラッツに絶大なる信用を置いていて、ジャズ以外も全部彼らの伴奏だったから。

 

 

ジャズ・ナンバーに限らず、全ての録音で、ひばりが本当によかったのは、私見では甘く見ても1957年の「港町十三番地」まで。つまり二十歳までだ。歌手として魅力的だったのは十代の頃だけという、この僕の見解は厳しすぎるだろうか。

 

 

ひばりのレコード・デビューは1949年12歳の時の「河童ブギウギ」だけど、タイトル通りブギウギ系のスウィング・ナンバーなのだ。劇場デビューはその二年前10歳の時で、その頃のひばりは、主に笠置シヅ子のブギウギ・ナンバーなどをカヴァーして歌っていたらしい。全く録音は残っていないけど。

 

 

笠置シヅ子の曲を書いていたのが服部良一で、服部は同時代のアメリカのポピュラー音楽をよく吸収し、軽快でスウィンギーなポップ・ナンバーをたくさん書き、笠置シヅ子に提供していた。笠置の歌い方は、僕にはあまりスウィングしていないように聞えるので、ひばりが歌えれば最高だったんだけどね。

 

 

でもそれは笠置もひばりが服部の書いた自分のレパートリーを歌うのを厳しく禁じたらしいので、レコーディングするなどはもってのほかだった。ひばりにとっても服部にとっても昭和歌謡音楽にとっても、これは史上最大の悲劇だったろうと思う。もしひばりが服部の曲を録音できていたら、その後全く違う歌手人生を歩んだはずだ。

 

 

現在、その初期のひばりの劇場での姿を聴けるCDがたった一枚だけあって、ほんの二年前に発掘・発売された『ひばり & 川田 in アメリカ 1950』だ。タイトル通り、ひばり13歳の時の、師匠だった川田晴久とのアメリカ公演を録音したもの。これには数多くの軽快なポップ・ナンバーがある。

 

 

このCDで、デビュー当時は劇場で歌っていたらしい服部の「東京ブギウギ」が聴ければ最高だったんだけど、それは入っていない代りに、同じ服部が書いた笠置シヅ子ナンバーの「ヘイヘイブギー」が聴けるし、それ以外にもいくつもブギウギ・ナンバーが聞けて、ひばり本来の持味がどういうものか、よく分る。

 

 

デビュー曲1949年の「河童ブギウギ」も入っている。これはひばりのための曲なので、当然正規にレコーディングされていて、『特選オリジナル・ベストヒット曲集 Vol.1 / 1949~1957』というCDに収録されているのを愛聴している。この三枚組、ラストが「港町十三番地」なのだ。

 

 

つまりデビューから「港町十三番地」までという、先にも書いた彼女の一番良かった時期だけを集めた三枚組なので、これと『ジャズ&スタンダード』と『ひばり & 川田 in アメリカ 1950』の三つがあれば、それだけでひばりは充分。これ以後はダメだ。スウィンギーでポップなのがひばり本来の味。

 

 

「柔」以後、演歌路線になってからは、ひばりが本来持っていた才能が完全に消え失せている。誤解しないでいただきたいのは、演歌そのものがダメということではない。僕は演歌だって大好きで、演歌こそが持味の歌手も多いわけだから。さらに、ひばりもその時代の方がはるかにヒットして国民的大歌手になったのではあるし。

 

 

だけど、はっきり言って駄曲が多いというといささか失礼だけど、曲に恵まれていないように思う。唯一グループ・サウンズのジャッキー吉川とブルーコメッツとやった「真赤な太陽」があるけど、あれはひばりとしてもグループ・サウンズとしても、いい出来とは言えない。やはりひばりは十代の頃に限るね。

 

 

そういうわけで、ひばりの最高傑作は、私見では「上海」なんだけど、オリジナル曲では1952年の「お祭りマンボ」が一番いい。この曲は後年も繰返し歌ってはいるけど、くどいけど後年の録音はほぼダメ。ノリが全然違っている。そして、「お祭りマンボ」を書いた原六朗とは、服部良一の弟子なのだ。

 

 

 

これを聴くと、僕はいつもブラジルの大歌手カルメン・ミランダを思い起す。短い小節数の中に詰込まれた数多くの言葉を速射砲のように繰出して、苦しい感じが全くなく、抜群のリズム感で余裕綽々で極めて自然に歌いこなしているあたり、よく似ている。この頃のひばりなら、カルメン同様、世界に通用する歌手だったね。

2015/10/28

初めて買ったピアノ・トリオ・アルバム

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僕が最初に買ったジャズのピアノ・トリオ作品は、トミー・フラナガンの『オーヴァーシーズ』だったけど、これは大正解だった。ピアノ・トリオと言わず、人生で初めて買ったジャズ・レコード二枚のうちの一つ。もう一つはMJQの『ジャンゴ』。どっちも店頭で見たら凄くジャケットが気に入った。

 

 

ジャケットが気に入ったと言っても、僕が買った『オーヴァーシーズ』は、上掲左のプレスティッジ盤ジャケットだった。アメリカでは(日本でも?)、メトロノーム盤でも出ていて、ジャケットは上掲右。どっちがオリジナルなんだろう?

 

 

このメトロノーム盤ジャケットを、当時日本で知っていた人は多くなかったんじゃないかなあ。少なくとも僕は全く知らなかった。『オーヴァーシーズ』は1957年ストックホルム録音で、最初はスウェーデンで10インチ盤が出たらしいけど、それは当然知らない。でもプレスティッジからの12インチLPでみんな知っていた。

 

 

僕がさっき貼ったメトロノーム盤ジャケットを見たのは、CDリイシューされた時が初めて。『オーヴァーシーズ』は、プレスティッジ盤ジャケットより、メトロノーム盤ジャケットの方で先にCDリイシューされたのだった。早くCDにならないかなと思っていたから、僕は速攻で飛びついた。

 

 

プレスティッジ盤ジャケットでOJCからリイシューされたのは、それよりやや遅れてのことだったと思う。やっぱり僕や日本の多くのファンにとっては、ジャケットも曲順もこっちなんだよなあ。メトロノーム盤では、オリジナル収録曲とボーナス収録の別テイクが混在していたけど、OJC盤ではボーナス・トラックは最後にまとまっている。

 

 

メトロノーム盤ジャケットは見たことなかったし、曲順もだいぶ違っていたので、違和感が強かった。アメリカのジャズ・ファンの多くも、ひょっとしたらそうかも。以前の日本では、ある時期『スイングジャーナル』誌主導の<幻の名盤>とかなんとか、そんな名前の復刻LPシリーズで、プレスティッジ盤LPが出たのだ。

 

 

何年頃のことか知らないが、多分1970年代だろうと思う。ということは、それまで『オーヴァーシーズ』は、日本では入手困難なレア盤だったんだろうなあ。僕が買ったその復刻シリーズの日本盤LPのライナーノーツは、これもまた油井正一さんが書いていた。内容はかなり忘れてしまったけど。

 

 

一曲目が「リラクシン・アット・カマリロ」で、僕はこれでチャーリー・パーカーの名前と彼が書いた曲を知ったわけだ。初めて買ったジャズ・レコードだったんだから当然。 カッコイイんだよねえ。これで一発KOされちゃったんだなあ。疾走感がいい。

 

 

 

当然ながらトミー・フラナガンというピアニストを聴いた最初だったんだから、彼はこういう激しいプレイが真骨頂のジャズマンなのかと思ったのだった。この当時はリーダー・アルバムがこれしかなくて、サイドマンで光っている名脇役だということは、後になって知ったこと。エルヴィン・ジョーンズだって初めて聴いた。

 

 

そのエルヴィンも凄いよねえ。ブラシを使って、こんな急速調でドライヴできるドラマーは、しばらく経ってバド・パウエルのバックで叩くマックス・ローチもいることを知った。その後いろんなジャズ・ドラマーを聴いたけど、おそらくこの二人だけだろう。『オーヴァーシーズ』でのエルヴィンも全曲ブラシ。

 

 

バド・パウエルのバックでマックス・ローチがブラシしか使っていないのは、バドの指示だったらしいけど、このトミー・フラナガンのバックで、どうしてエルヴィンが全曲ブラシなのかは、今でもよく分らない。当時通っていたジャズ喫茶でも話題のプレイだった。

 

 

また二曲目が「チェルシー・ブリッジ」で、これももちろん初めて聴いたわけだから、エリントン(というかストレイホーンだけど)のこの名曲を初めて知ったわけだった。https://www.youtube.com/watch?v=9I4dLLA2lk8 これら二曲と、ラストの「柳よ泣いておくれ」以外は、全部トミー・フラナガンのオリジナル曲。

 

 

オリジナル・ナンバーの中では、B面一曲目の「リトル・ロック」を、ライナーの油井さんがえらく誉めていたことだけは憶えている。 ブルーズ・ナンバーなんだけど、一瞬ブルーズ・フォーマットだと分りにくい曲で、最初は僕もよく分っていなかった。

 

 

 

トミー・フラナガンってブルーズの上手いピアニスト(だということを、少し経って知った)なんだけど、「リトル・ロック」は曲調もフラナガンのプレイも、あまりブルージーじゃないよねえ。同じアルバムなら、ラストの「柳よ泣いておくれ」の方が断然ブルージーだしなあ。あっちの方が当時は好きだった。

 

 

 

YouTubeに上がっているもののうち、お馴染みのプレスティッジ盤ジャケットの画像を使って上げている方は、なんだろう?同じフラナガンの「柳」なんだけど、マスター・テイクでもなければ、現行CDにボーナス・トラックとして収録されているテイク1でもない。聴いたことがない。

 

 

トミー・フラナガンの弾くブルーズで、妙に印象に残っているのが、ソニー・ロリンズ『サクソフォン・コロッサス』のラスト・ナンバー「ブルー・7」。ブルーズだけど、全くブルージーじゃない曲調で、ロリンズも淡々と黒くないソロを吹くんだけど、フラナガンは構わず、真っ黒けでブルージーなプレイ。

 

 

もちろんその『サクソフォン・コロッサス』も、コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』も、カーティス・フラーの『ブルースエット』もすぐに聴いて、<名盤の脇にトミフラあり>とまで言われる、彼のサイドメンとして光る名脇役ぶりを知ることになる。当時はむしろそういうのが彼の本領だったようだ。

 

 

今では僕の一番好きなフラナガンの脇役ぶりは、マイルス・デイヴィスの隠れたB面名盤『コレクターズ・アイテムズ』でのプレイだ。A面の1953年録音は、テナーで参加しているパーカーがパッとしないし、マイルスもイマイチなんだけど、ソニー・ロリンズが参加しているB面の56年録音は、本当にいい。三曲しかないけどね。

 

 

フラナガンが印象的なイントロを弾く「イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ」は、同年の『ワーキン』収録ヴァージョンより断然いいし、以前書いたように、同じアルバムに「トレーンズ・ブルーズ」として再演されている「ヴィアード・ブルーズ」でのプレイも、ブルーズ好きのフラナガンらしい弾きっぷりでいいんだ。

 

 

フラナガンは、『オーヴァーシーズ』の日本盤が出たらしい1970年代に、日本でもかなり人気が出て、亡くなるまでリーダー・アルバムも数多く制作されるようになった。そういうのも買って聴いたんだけど、エルヴィンとの再共演もありはするものの、いいと思ったものは殆どない。コルトレーンの伴奏でやったオリジナルでは惨敗だった「ジャイアント・ステップス」も再演して健闘してはいるけどさ。

2015/10/27

ジャズとロックは同じような音楽だ

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ジャズ・ファンもロック・ファンも、「ジャズとロックは全然違う音楽だ」って言うんだけど、僕に言わせれば、どっちも同じような音楽だ。僕もジャズのレコードばかり買っていた頃は、ロックも多少聴いてはいたものの、やはりジャズとロックその他の英米音楽はかなり違うよねと思っていた。

 

 

その頃はあまり深く考えず、また実際の音源で確かめることもせず、ただ書物等で読む「ジャズは、アメリカ南部において、ヨーロッパ的要素とアフリカ的要素との融合によって誕生した」というのをナイーヴに信じていたし、ロックはブルーズ、ブギウギ、リズム&ブルーズなどの黒人音楽を土台に成立したものと思っていた。

 

 

ジャズにおけるアフリカ的要素とは、すなわちリズムのシンコペイションのことをみんな言っていたと思うんだけど、ジャズのような比較的平板でシンプルなリズムは、アフリカ由来ではないように思う。ジャズのリズムが平板でシンプルとか言うと、熱心なジャズ・ファンはみんな怒り出すだろうと思うけど。

 

 

20代半ばでアフロ・ポップに出逢い、その後大衆音楽も伝統音楽もアフリカものをたくさん聴いてみた率直な感想としては、アフリカ音楽(と一概に括るのもおかしいんだけど)に聴けるリズムは、もっと複雑でポリリズミック。ジャズのようなシンプルな2ビートや4ビートは、かなり少ないんだよねえ。

 

 

ジャズがアフリカ音楽的なポリリズムを使うようになったのは、もっと時代が下って1970年代以後のジャズ・ファンクが盛んになってからだろう。マイルス・デイヴィスだって、1969/70年頃の音楽は、まだそんなに複雑なリズムではない。マイルスの場合は72年の『オン・ザ・コーナー』からだ。

 

 

誕生期から1960年代末までのジャズの殆どは、かなりシンプリファイされた平板な(と今の僕の耳には聞える)リズムであって、それにアフリカ的リズムの要素を見出すことは、僕には難しい。60年代のトニー・ウィリアムズとかエルヴィン・ジョーンズとか、凄いドラマーだけど、まあ普通のジャズだ。

 

 

だから、今ではジャズのリズム、というかリズム含め全ての要素は、ヨーロッパ由来の白人ルーツだったんだろうと思っている。ブログでは初めて書くけれど、ジャズは元々19世紀の(ヨーロッパ起源の)管楽器アンサンブル、すなわちブラス・バンドが起源となって変化していったのであって、完全に白人由来。

 

 

アイリッシュ・ミュージックをいろいろ聴くようになると、そこにあるリールなどのダンス・ミュージックのリズムが、ジャズのリズムにかなり酷似していることに気が付いた。リールは全部2ビートか4ビート。ご存知の通り、アイルランド移民がある時期アメリカに大量に流入したので、その文化はいろいろと継承されている。

 

 

アイルランドのダンス・ミュージック以外にも、19世紀後半にヨーロッパ大陸で流行したダンス・ミュージックであるポルカも、速い2ビート系のリズムが多く、こういうのもおそらくアイルランド文化とともに新大陸に流入して、ジャズ発生に寄与したに違いない。ポルカには管楽器使用のものも多いしね。

 

 

(ジャズではなく)ロックでは、アイリッシュ・ミュージックやポルカなどの欧州白人音楽やマウンテン・ミュージックなどが、重要な音楽的起源であるという意見が最近かなり増えているというか、定説になりつつあるかも。僕がこういう意見に初めて触れたのは、中村とうようさん編纂の1996年『ロックへの道』CDでだった。

 

 

従来のロック起源観というのは、ブルーズ、ブギウギ、リズム&ブルーズといったブラック・ミュージックを土台にして成立したものというものが支配的で、当のロック・ミュージシャン自身もそう発言しているし、実際ロックには、12小節3コードのブルーズ形式の曲もかなり多いし。ジャズにも多いけど。

 

 

実際ロック界のファースト・ジャイアントであろうエルヴィス・プレスリーのレパートリーは、ブルーズ・ナンバーばっかり。エルヴィスが出現した時、リズム&ブルーズを(黒人風に)歌える白人歌手が出てくれば大人気になるはずという声のなかで出てきたブラック・フィーリングを湛えた白人シンガーだった。

 

 

とはいえ、例えば今ではエルヴィスの全録音のなかで一番魅力的と(おそらく多くの人が)思っているメンフィスのサン・レーベル時代の音源を聴くと、ブルーズなどの黒人音楽ばかりではなく、ヒルビリーなどの白人音楽もかなり色濃く反映されているというのは、誰だって分るはずだし、そこが魅力的だ。

 

 

まあそれでもやはり、ロックのベースはブルーズ等黒人音楽という考えが圧倒的に支配していたはずだ。中村とうようさんの『ロックへの道』は、それを根底から覆す目から鱗の一枚だった。あのCDの一曲目はマイクル・コールマンというアイリッシュ・フィドラーの音源で、それ以後も主に白人音楽が続く。

 

 

あのCDを編んだとうようさんの主旨というのは、ロックは1950年代に出現したものというより、それ以前の「ジャズ時代」から既に、活気のあるビートに乗って力一杯歌うパワフルでポジティヴな音楽は、庶民の音楽の中にたくさん存在していて、そういうものがロックを産む底流にあったというものだ。

 

 

その主旨のもと、CDの最後に収録されている1954年ビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で見事に華開く終着点に辿り着くまで、白人・黒人の区別なく、54年までの実に様々なアメリカ大衆音楽の音源が並べられている。マウンテン・ミュージック等も収録されている。

 

 

ロック・ビートの直系の祖先はブギウギかもしれないが、白人音楽でも七曲目に収録されているハリー・リーサー楽団の「ロック・アンド・ロール」というタイトルの曲があって、1934年の録音なんだけど、このセックスの暗喩である言葉が、身体のリズム感覚を表現するものとして、既に存在した。

 

 

元々この1934年の曲は、ティン・パン・アリーのソングライターが書いて、ボズウェル・シスターズが初演の曲。このCDには、もう一曲、同じ「ロック・アンド・ロール」というタイトルの49年ドールズ・ディキンズの録音も入っているし、その他ロックという言葉が入る曲がいろいろ収録されている。

 

 

「ロック+ロール」というワンセットのフレーズが曲名(の一部)になっているものが、1950年代以前からたくさんあって、それらはどれも快活で強いビート感覚を伴った大衆音楽。しかもそれは白人音楽・黒人音楽の垣根を越えて存在している。そう見てくると、ロック起源観も変ってくるね。

 

 

セックスの暗喩である身体運動を表す言葉が音楽のジャンル名になったというのは、ジャズだってそうなのだ。ジャズという言葉だって、元々はセックスのこと。だから、この名称を嫌う人は結構いた。ロックという言葉を忌嫌うロック・ミュージシャンやロック・リスナーがいるのかどうかは知らないが。

 

 

つまりジャズとロックは、ジャンル名の起源も元々同じようなものだし、音楽的内実のルーツを見ても、アイルランドやヨーロッパ大陸の白人音楽を大きなベースとして成立しているし、しかも20世紀前半のジャズ時代から既にロック的な萌芽がかなり見られるし、2/4/8拍子系といったリズムの根幹も同じ。

 

 

というわけで、最初に戻るけど、ジャズもロックもだいたい同じような音楽なんじゃないかという僕の意見になってしまうわけなんだ。まあ世界中のポピュラー・ミュージックをたくさん聴くようになってからは、特にそういう考えが僕の中では強くなっている。同じアメリカ音楽じゃないかと思ってしまう。

 

 

こういう僕の今日の発言、ジャズしか聴かないとかロックしか聴かないとか、あるいはそれらのルーツについては無関心で、現在存在する音楽が聴ければそれで満足という方々には、絶対に納得してはいただけないだろうものだね。でも様々に探っていると、いろんなことが芋蔓式に繋がっていて、面白いんだ。

 

 

それにしても、ロックの方は、中村とうようさんが『ロックへの道』を編んでくれたから大いに助かっているけど、ジャズの方は『ジャズへの道』的なCDってないよねえ。ジャズ誕生以前の19世紀の音源というものが、当然ながら殆ど存在しないわけだから、そういうアンソロジーは不可能だ。だけど、誰かまとまった文章にしてくれると有難いんだけどなあ。

2015/10/26

レスター・ヤングとホンク・テナー

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1930年代後半のレスター・ヤングが、イリノイ・ジャケーに始り、ビッグ・ジェイ・マクニーリーに至る、多くの黒人ホンク・テナーの源流の一人であるという説を昔読んだことがあるのだが、今でも僕はその説が完全には納得できていない。レスターとホンカー達とでは、もう音色が全く違うもんなあ。

 

 

イリノイ・ジャケーもアーネット・コブもエディ・ロックジョウ・デイヴィスもジーン・アモンズもビッグ・ジェイ・マクニーリーも、み〜んな大好きな僕だけど、音色というかソノリティは、完全にコールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、チュー・ベリー系の朗々としたものだよなあ。太くて丸い。

 

 

レスター・ヤングが、ホンク・テナー奏者達のルーツと言われるのは、そのサックスを構える格好と、独特のフレイジングと、時々レスターが出していたブワッとかブヘッというあの妙な音色によるものが大きいんだろう。ファースト・ホンカーのイリノイ・ジャケーが吹く「フライング・ホーム」でも、それは聴ける。

 

 

イリノイ・ジャケーの名演で知られる1942年ライオネル・ハンプトン楽団の「フライング・ホーム」。 ジャケーのソロの出だしのフレイジングなどは、レスター・ヤングの影響丸出しだ。42年だから、レスターからの影響例としては、かなり早い。

 

 

 

ちょっと脱線だけど、「フライング・ホーム」は、このハンプトン楽団のが有名になったけど、元々彼が所属していたベニー・グッドマン・セクステットの曲。作曲はグッドマンとハンプトンの共作名義で、初演が1939年。 ハンプトン楽団のとは、ノリが全然違う。

 

 

 

こういう曲を、1942年に自分の楽団であんな風にしちゃったのが、40年代ジャンプ時代のハンプトン楽団とジャケーの面白さなんだけど、それ以後この曲はすっかりそのテナー・ブロウのイメージがついてしまい、ライオネル・ハンプトン楽団での再演でも、常にテナー奏者のソロがフィーチャーされることになった。

 

 

共作名義になってはいるものの、これは当時の慣例でボスがいっちょ噛みしているだけ。ハンプトンが独立後自楽団で頻繁に取りあげたところを見ても、実質的にはハンプトン一人のアイデアに間違いない。AABA形式で32小節の曲だけど、ハンプトン楽団のヴァージョンを聴くと、明らかにブルーズのフィーリングがある曲だ。これもジャンプの聖典。

 

 

1942年ハンプトン楽団の「フライング・ホーム」は、<最初のロックンロール・レコード>と呼ばれることがあるらしい。まあそれは象徴的にというか系譜というか源流ということだろうけど、今、音を聴くと普通のジャズに聞えるよねえ。それは中村とうようさんも言っていた(「アフター・アワーズ」も)。

 

 

さて、そもそもジャズでレスター・ヤングの影響が顕著になってくるのは、ビバップ以後のことで、チャーリー・パーカーのフレイジングがレスターそのまんまだしなあ。大学生の頃、レスターが吹く33回転のLPを45回転でかけるとパーカーになるという話をなにかで読んで、試してみたら、その通りだった。

 

 

その後、ソニー・ロリンズもジョン・コルトレーンも、フレイジングはまさにレスター系(『モダン・ジャズの歴史』の中で粟村政昭さんが、ロリンズへのレスターの影響を詳細に分析していた)だ。ただし音色はホーキンス系の太くて丸いものだけどね。モダン・ジャズの黒人サックスではそういうのが多い。

 

 

フレイジングがレスター系といっても、直接的にはパーカーの影響なんだろうけど。パーカーを通じて、レスターが広くモダン・ジャズのサックス奏者に影響を与えているということになる。かつて油井正一さんが、パーカーにはレスターという模範がいたけど、レスターにはいなかったのだと書いたことがある。

 

 

ジャンプ〜R&B系のホンカーに話を戻すと、ホンカーってテナーばっかりでアルトはいないわけだけど、どうしてなんだろうと考えてみたことがある。でも結局よく分らない。テナーの方が男性的(ホーキンス系の場合)で力強く、ハードにブロウするには向いているのだとか、それくらいしか思い付かない。

 

 

以前書いたかもしれないけど、パソコン通信時代に少し仲のよかったかつての音楽仲間が、そういう黒人系ホンク・テナーが大好きで、大好きすぎて、白人ジャズのソフトでスカスカなサックス・サウンドを毛嫌いしていた。そういうのの元祖はレスター・ヤングなんだけど、レスターは大好きだと言っていたなあ。

 

 

その友人は、ジャンプ〜R&B系ホンカーのフレイジングに、レスターの面影を聴いていたんだろうと思う。確かに、ホンカーが多用するブワッとかボヘッとか鳴るちょっとヘンな音は、最初にやったのはレスターだし。だけど、レスターの音色は、相当か細いんだけどなあ。その辺はどう考えていたのだろう?

 

 

なにしろレスター・ヤングは、コールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダースン楽団に加入したものの、あまりにもサウンドが違うため、厳しい批判を浴びてすぐに辞めて、カウント・ベイシー楽団に舞戻ったくらいだからなあ。フレイジングはともかく、音色では主に白人サックスに継承されたんだもん。

 

 

油井正一さんが、レスター・ヤングの音色が、モダン・ジャズでサックスを含め黒人奏者の音色に継承された例が一つだけあるとして、それはマイルス・デイヴィスだと書いていた。確かにビブラートなし、ソフトで軽い音色等、マイルスのトランペット・サウンドは、レスター系だよなあ。

 

 

ビブラートなしと言えば、ビリー・ホリデイの歌い方もそうなんだよなあ。レスター・ヤングとビリー・ホリデイは、息の合った共演を多く残しているだけでなく、かつては恋人関係にもあったわけだけど、音楽的に同じものを感じていたんだろう。マイルス含め、三人とも黒人だけど、野太いサッチモ系ではない。

 

 

いずれにしても、もし1942年の「フライング・ホーム」が最初のロックンロールだとしたら、そこでのテナー・フレイジングに大きな影響を与えたのがレスター・ヤングだから、間接的・系譜的には、レスターはR&Bやロックンロールの誕生に寄与したと言えるのか?彼はある意味ビバップの元祖とも言えるんだけど。

 

 

また1940年代のピート・ブラウン・セクステットには、ディジー・ガレスピーがいて、そういうのを聴くと、やっぱりビバップはジャンプ・ブルーズ発祥だと実感するね。

 

 

 

 

チャーリー・パーカーだって、カンザスのジャンプ・バンド、ジェイ・マクシャン楽団の出身だし、ガレスピー、パーカーという、ビバップの中心人物二名ともがジャンプ・バンドから出てきたということは、その方面の方々には周知の事実だけど、改めてビバップとR&Bの共通性を感じてしまう。

2015/10/25

オリエンタルな詩情と哀感〜マリア・シモグルー・アンサンブル

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当ブログでは、マイルス・デイヴィスか古いジャズの話ばかりの僕が、今夜は珍しく今年の新作の話。とはいえやっぱり、中身の音楽のスタイルは古いものではあるけれど。数日前にエル・スールさんから届いたばかりのMaría Simoglou Ensembleというバンドの『Minóre Manés』。

 

 

このバンド、マリア・シモグルー・アンサンブルという読み方でいいのかよく分らないけれど、とにかく現代ギリシア人による古いスミルナ派レンベーティカ音楽のアルバムで、副題に『Rebétika songs of Smyrna』とあるので、もうそれだけでだいたいの内容は想像できてしまう。

 

 

なお、みなさんご存知の通り、「レンベーティカ(rembetika、rembetiko)」も「レベーティカ(rebetika、rebetiko)」も、ギリシア語からラテン文字アルファベットに転写する際に発生するだけの違いで、同じもの。rebetiko表記が多いみたいだけど。

 

 

コレ→ http://elsurrecords.com/2015/07/30/maria-simoglou-ensemble-minore-manes-rebetika-songs-of-smyrna/ もうこれ、一度聴いた瞬間に、傑作に間違いないと惚れ込んでしまい、まさにこういうのこそ今の僕にとって最高の音楽なので、毎日二回・三回と繰返して聴いているんだよねえ。まだ数日しか経ってないけど、もう完全にこのアルバムの虜なのだ。

 

 

ギリシアのスミルナ派レンベーティカが、元々オスマン帝国時代のアナトリアで華開いた音楽で、トルコ音楽やアラブ音楽の趣が強いことは、以前も書いたけど(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2686.html)、この『ミノーレ・マネス』は、もうそれすら忘れてしまうほど、完全にトルコ古典歌謡なのだ。

 

 

上記記事の冒頭では、TAKIMというギリシア人バンドがやるトルコ古典音楽『TAKIM』について触れたんだけど、数日前に届いて聴いたマリア・シモグルー・アンサンブルは、それをさらに一歩進めたような完全なるトルコ古典歌謡で、ギリシア語で歌っていなかったら、ギリシア音楽だとは気付かないほど。

 

 

このバンド、六人編成のようで、中心になっている女性ヴォーカリストが、バンド名にもなっているマリア・シモグルー。彼女、僕は初耳の人だけど、調べてみたら、地中海アンサンブル・バンドらしい、オネイラ(ONEIRA)のメンバーとして活動しているそうだ。そのバンドも全くの初耳だからなあ。

 

 

マリア・シモグルーのヴォーカル以外には、リラ、ネイ、カノンナキ、ラフタ、パーカッション程度で、全ての曲が少人数の完全アクースティック編成で演奏されているのも、最近のギリシア〜トルコ古典歌謡についての僕の趣味と完全に一致する。CD付属のブックレットは英語でも書いてあるので、助かる。

 

 

ブックレットには、各曲ごとにその曲が作られた年代も書いてあって、全部1930年代になっているから、これはスミルナ派レンベーティカにしては、かなり新しい部類に入るだろう。ギリシアとトルコが既に完全に分離された後のことだ。それでも、ギリシアの港町等で、スミルナ派も生きてはいた。

 

 

年代だけでなく、作詞・作曲者の名前も書かれてあるのだが、まだまだ入門したばかりの初心者である僕には、知らない名前ばかりだ。でもラテン文字アルファベットによる綴りだけからも、全てギリシア人だろうという判断はできる。ということは1930年代にトルコ風な曲を書く人がまだいたんだなあ。

 

 

またブックレットには、ギリシア語の曲名と歌詞に、仏訳・英訳も併記されていて、英訳はともかく仏訳は、主役のヴォーカリスト、マリア・シモグルーが現在マルセイユ在住で、このアルバムもフランスのレーベルBUDAから出ていることによるものだろう。アルバムの録音は全部アテネで行われたものだけど。

 

 

このアルバム、全部で13曲なんだけど、13曲目が終った後の長いポーズのあとに隠しトラックが仕込まれていて、SP音源のようなノイズ混じりのかなり古くさい録音仕立になっているトルコ歌謡で、ちょっと面白い趣向。ピアノとヴァイオリンだけの伴奏で、しかもSPの音だけど、歌声はマリアのものだ。

 

 

中身は書いたようにスミルナ派レンベーティカというよりも、完全にトルコ古典歌謡そのものだとしか僕の耳には聞えない。楽器編成やその音のテクスチャー、女性ヴォーカル(多少男性も歌う)の質感など、全てそうだ。去年出て今でも愛聴盤のトルコ古典歌謡二枚組『Girizgâh』の音楽に似ている。

 

 

『Girizgâh』に似ているというより、僕なんかのヘボ耳にはほぼソックリというかそのまんまだとしか聞えないんだよね。実際、最初に『ミノーレ・マネス』を聴いた直後に『Girizgâh』を聴き返したくなって、そうしたくらいなのだ。去年のこの二枚組が好きになった方には、大推薦。

 

 

秀逸なジャケット・デザインが中身の音楽もよく表現していた『Girizgâh』とは違って、この『ミノーレ・マネス』のアルバム・ジャケットは、現代風で若者風なポップなイラスト(上掲)。だけど中身の音楽はこれ以上ないほど激渋。

 

 

二つとも非常に短いけれど、エル・スールさんが貼っていた、YouTubeに上がっているティーザーがある。聴いてもらえば、僕の言っている意味が少しお分りいただけるのではないだろうか。

 

 

 

 

またアルバムから12曲目だけがフルで上がっていたので、これも貼っておこう。ちょっと聴いてほしい。もっといい感じの曲がアルバムにはあるし、そういうのが上がっているといいんだけど、探してもないみたいだ。自分で上げるしかないかな。

 

2015/10/24

ポップ・マイルスはサーカス・ミュージック?

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1986年頃からマイルス・デイヴィスがやっていた音楽について、かつて油井正一さんは「サーカス・ミュージック」という表現で、はっきりと貶していたことがある。日本ではマイルスの最大の理解者の一人であった油井さんの言葉だけに、僕などには少しショックがあった。

 

 

だって、復帰後のマイルスについては、特にライヴでは、1988年頃のバンドが僕は一番好きだったから。特に同年八月に、昭和女子大学人見記念講堂で体験したマイルス・バンドの演奏は、僕が観たマイルスのライヴでは最高に素晴しかった。油井さんは同年六月に亡くなっている。

 

 

マイルスは長年在籍したコロンビアを離れ、1986年にワーナーに移籍した頃から、音楽含めライヴ・ステージでの演出なども明らかに変化した。同時期同じワーナーに所属していたプリンスの影響をかなり受けるようになっていた。プリンスとは共演音源もあるし、ライヴでも共演したことがある。

 

 

つまり、良くも悪しくもそれまでの(油井さんなどが称揚し続けた)、いわゆる「ジャズ」のミュージシャンというより、かなりポップ寄りになっていって、自身のファッションも含むライヴでの演出も、スタジオでの音楽も、そういう方向へ変化していった。油井さんなどには我慢できなかったのだろう。

 

 

しかし、元々ジャズはポップ・ミュージックであり、エンターテイメントであることを忘れてはいけない。ルイ・アームストロングがいい例だ。一流のエンターテイナーであり、芸人でもあった。観客を喜ばせることが自分の役目だと信じて、それに徹していた。粟村政昭さんはそういうサッチモを批判したけど。

 

 

だから、1986年ワーナー移籍後のポップ・マイルスは、そういうジャズが元々持っていたエンターテイメント性を取戻しただけに過ぎないとも言えるはず。シンディー・ローパーの「タイム・アフター・タイム」や、マイケル・ジャクスンの「ヒューマン・ネイチャー」なども、ライヴでも好んで演奏した。

 

 

そういうポップ・ナンバーを取りあげることには、賛否両論あった(今でもある?)けど、ちょっと振返ってみよう。1950年代のファースト・クインテットでのプレスティッジにおけるマラソン・セッション四部作など、殆ど同時代のポップ・ナンバーばかりじゃないか。なにが違うんだ?

 

 

それに、そもそも「ピュア・ジャズ」のミュージシャンやリスナーが聖典のように崇めるいわゆるジャズ・スタンダードだって、ジャズマンによるオリジナルがスタンダード化したものを除けば、ほぼ全てがティン・パン・アリーのものであり、流行のソングライターによる当時の流行歌だったに過ぎない。

 

 

マイルスも1959年頃からのスタジオ録音では、当時のジャズの傾向に沿って、作品用にオリジナル・ナンバーを作り録音することが多くなっていったし、それは70年代から、復帰後の80年代初期まで変らなかったけど、どっちかというと、そっちの方が異色な方向性だったとも言える。

 

 

だから1986年頃から「タイム・アフター・タイム」や「ヒューマン・ネイチャー」や、スクリッティ・ポリッティの「パーフェクト・ウェイ」を取りあげ、この三曲を死ぬまでライヴでは演奏し続けたのも、考えてみれば、50年代中頃の自分自身に戻っただけ、またはかつてのジャズマンのやり方に沿っただけだ。

 

 

大勢の普通のジャズ・リスナーが、ジャズの持つそういう芸能的側面をあまりに無視するもんだから、ジャイヴやジャンプなどがジャズとは切離された別個のジャンルの音楽として扱われたりするし、1969年以後のマイルスは「ジャズ」ではないと僕が強調したりすることになってしまうのだ。

 

 

そんなわけで、晩年のポップ・マイルスは、ジャズがかつてその本質として持っていたポップ性を取戻しただけで、油井正一さん他のように、それを批判するのは的を射ていないと思うのだが、実はスタジオ録音だけでは、その様子は本当は良く分らない。81年復帰後の来日公演に全部行った僕はそう言える。

 

 

1960年代も70年代も多くのライヴ作品を残している(特に70年代はほぼ毎年ライヴ・アルバムがある)マイルスだけど、81年復帰後のライヴ・アルバムは、ブート盤を除く正規盤では、そのカムバック・バンドを録音した『ウィ・ウォント・マイルス』しかない状態が、長年続いていた。

 

 

もっとも、一般にスタジオ作品とされるアルバムにも、多くのライヴ音源(を加工したもの)が使われていて、特に1983年の『スター・ピープル』や84年の『デコイ』などがそうなのだが、それは近年分ってきたことで、当時はそんなことには気付いていなかったし、まだそんなにポップでもなかった。

 

 

だから1987年以後の来日公演で、ポップ・マイルスのステージを体験したファンは、それを追体験しようとブート漁りを始めるわけだけど、その喉の渇きがようやく癒されたのが、死後の1996年にリリースされた『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』。これは88年〜91年の晩年のライヴ録音集。

 

 

1988〜91年といえば、復帰後ではおそらく最も充実していたであろう、フォーリー〜リッキー・ウェルマン時代のライヴを捉えたものだし、収録曲も晩年の重要なレパートリーがほぼ全て含まれているし、晩年のポップ・マイルスの姿をこれから知りたいという人には、まずこれをオススメする次第。

 

 

あと、サイズと価格が大きすぎるけど、復帰後、亡くなるまでのマイルスのライヴの変遷がよく分るのが、2002年に出た『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー 1973-1991』。一枚目が73年のライヴである以外は、全て84年〜91年のモントルーでのライヴ音源。

 

 

このモントルー箱は20枚組というバカでかいものだけど、84、85、86、88、89、90、91年と、復帰後のほぼ毎年のマイルス・バンドのライヴが聴ける。マイルス・バンドでのロベン・フォードや、客演したジョージ・デュークやデイヴィッド・サンボーンなどは、公式盤ではこれでしか聴けない。

 

 

1988年6月に亡くなった油井正一さんも、こういう『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』やモントルー箱のような充実作を聴いたら、ちょっとだけ晩年のマイルスについての感想が変っていたかもしれないなあと、僕は思うのだ。いや、やっぱりサーカス・ミュージックだとおっしゃったかもしれないけど。

2015/10/23

『ザ・デュークス・メン』

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エピック盤の『ザ・デュークス・メン』というアルバムのことを以前少しだけ書いたけど、デューク・エリントン楽団の花形サイドメンを中心にしたスモール・コンボ録音は、戦前では1936年から1940年にかけて、コロンビア系レーベルを中心に、CDにすると全部でおよそ七枚分くらいあるようだ。

 

 

それら戦前のスモール・コンボ録音は、『ザ・デュークス・メン』に収録されている音源も含め、ジャズ系復刻専門レーベルのMosaicが、まとめてボックス・セットにしてリリースしていたけど、僕は持っていない。いつか買おうと思いながら躊躇している間に、売切れてしまったみたい。

 

 

『ザ・デュークス・メン』は、僕は大学生の頃、いきつけのジャズ喫茶で聴かせてもらって、凄くいいと思って、自分でLPがほしいと思ったけど、入手できなかった。あの<エピック・イン・ジャズ>のシリーズは、当時アナログ盤は既に入手困難なものが多かったはず。殆ど買えなかった。

 

 

というわけなので、僕が<エピック・イン・ジャズ>のシリーズを全部買揃えたのは、CDリイシューされてからだ。『ザ・デュークス・メン』もそう。CDリイシューされる前は、そのいきつけのジャズ喫茶のマスターに頼んでLPを貸してもらって、自分でカセット・テープにダビングしたのを、聴いていた。

 

 

『ザ・デュークス・メン』、全部で16曲入っているのだが、その中で大学生当時に聴いて一番いいと思ったのが、バーニー・ビガード名義録音の「キャラヴァン」だった。 作曲者のファン・ティゾルのトロンボーンが、かなりいい感じ。バックのリフもいい。

 

 

 

僕より上の世代は「キャラヴァン」は、ヴェンチャーズで知っているという人が多かったらしいけど、僕はその世代ではない。まあそのヴェンチャーズ・ヴァージョンを子供の頃に聴いていたのかもしれないが、全く憶えていない。ジャズを聴くようになって、おそらく『マニー・ジャングル』で知ったはず。

 

 

エリントン+チャールズ・ミンガス+マックス・ローチのトリオ編成でのその「キャラヴァン」は、初めて聴いたら、どこがいいのかさっぱり分らず(というか『マニー・ジャングル』というアルバム全体が、当時はなんだかよく分らなかった)、曲の構造もよく掴めなかった。

 

 

 

初めていいと思った「キャラヴァン」は、『ザ・ポピュラー・エリントン』に入っていたもの。 3-2でクラベスが入るリズムも分りやすいアフロ・キューバン調だし、これでこの曲を好きになって、エリントン自身による他のいろんなヴァージョンも楽しめるようになった。

 

 

 

それでも『ザ・デュークス・メン』のヴァージョンを聴いた時は、これぞ決定版だ、こういう「キャラヴァン」を聴きたかったんだと感動したものだった。これが初演であるということを知ったのは、だいぶ後のことだったけど。作曲はファン・ティゾル一人のものだろう。例によってボスがいっちょ噛みしてるけど。

 

 

ファン・ティゾルはプエルトリコ出身。二十歳までプエルトリコに住んでいたので、「キャラヴァン」みたいな曲調も得意だったはず。ご存知の通り、この頃は楽団員の書いた曲は、登録の際ボスも参加しておくというのが通例だった。コンボ中心のモダン・ジャズの時代になっても、少しそんな感じがあったけど。

 

 

『ザ・デュークス・メン』に入っている曲のうち、「ブルー・レヴァリー」は、もっと前に、ベニー・グッドマンの例の1938年カーネギー・ホール・コンサートのライヴ盤(LP二枚組)に入っていたのを聴いていた。あの演奏には御大エリントンの他、クーティー・ウィリアムズも参加している。

 

 

そのベニー・グッドマン1938年カーネギー・ホール・コンサートでの「ブルー・レヴァリー」には、  エリントンとクーティーが入っているとはいえ、クラリネットを吹いているのはベニー・グッドマン。なかなかやるじゃん。この頃までの彼はよかったんだ。

 

 

 

というわけなので、「ブルー・レヴァリー」だけは、『ザ・デュークス・メン』を聴いた時に、改めて追体験するような気持だった。1938年ベニー・グッドマン・カーネギー・ホール・ヴァージョンも、クーティー・ウィリアムズによるワーワーミュートを中心とした、あの独特のエリントン・サウンドをまあまあ表現していると思う。

 

 

『ザ・デュークス・メン』収録の、エリントン楽団員によるオリジナルの「ブルー・レヴァリー」はこちら。 ブラスのワーワー・ミュートを使った、いわゆるエリントン・ジャングル・サウンドは、やっぱりこっちの方がよく分るなあ。

 

 

 

ベニー・グッドマン1938年カーネギー・ヴァージョンの方は、ブラスがクーティー・ウィリアムズ一人なんだけど、『ザ・デュークス・メン』の方は、クーティーに加え、トロンボーンのトリッキー・サム・ナントンも入っているからねえ。それにしても、『ザ・デュークス・メン』CDには、パーソネル等のデータがちゃんと記載されていないなあ。

 

 

ついでに言うと、その『ザ・デュークス・メン』収録の1936年「キャラヴァン」で、CDになっているもののうち、一番音がいいのは、『ザ・デュークス・メン』のものではなくこの三枚組→ http://www.amazon.co.jp/dp/B000620N40/ どうしてこんなに?と思うほど違うね。しかし、米コロンビアは、いつになったら戦前エリントン全集を出すんだ?ヴィクターもデッカも、とうの昔に出しているぞ。

2015/10/22

ニューオーリンズの跳ねるピアノ

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昨晩ドクター・ジョンとプロフェッサー・ロングヘアのことを書いたけど、ニューオーリンズの音楽を知ったのは、彼の地が発祥だったニューオーリンズ・ジャズを除けば、大学生の頃に買ったフェスのLP『ニュー・オーリンズ・ピアノ』が最初だった。直後にドクター・ジョンの『ガンボ』も買った。

 

 

もっともフェスの『ニュー・オーリンズ・ピアノ』は、買って何回か聴いたものの、当時は全く面白さが分らず、そのまま何年も放置したままにしていた。あのLPは1970年代になってから出たものらしいけど、中身は49年と53年の録音集。

 

 

プロフェッサー・ロングヘアという人が誰なのかは全く知らなかったはず。タイトルに「ニュー・オーリンズ」とあったから、おそらくそれだけで買ってみたんだろう。ジャズ発祥の地だから、やはり興味はあったんだよなあ。

 

 

大学生の頃に買ったフェスは、二枚組ライヴLP『ザ・ラスト・マルディ・グラ』、こっちの方が大好きで、繰返し聴いたなあ。今調べてみたら1982年リリースになっているから、僕が二十歳の時のアルバムだ。これは最晩年の録音(ひょっとしてラスト?)。

 

 

でも大学生の頃は、フェスで好きだったのはその二枚組くらいで、フェスを聴いてニューオーリンズ音楽を好きになったというのは違うだろう。やはりドクター・ジョンの『ガンボ』に大いに感銘を受けて、それでニューオーリンズ好きになったというのが正直なところ。あれこそ入門盤だった。

 

 

特に『ガンボ』一曲目の「アイコ・アイコ」、あれにショックを受けたんだなあ。https://www.youtube.com/watch?v=S_UYPu5RFXI こんなに跳ねているピアノの弾き方はそれまであまり聴いたことがなかったもんなあ。くどいようだけど、フェスの『ニュー・オーリンズ・ピアノ』を先に聴いてはいたが。

 

 

「アイコ・アイコ」がニューオーリンズ・クラシックだということすら知らず、ただただカッコイイと思って夢中になっていただけだった。『ガンボ』には、ドクター・ジョン自身による一曲毎の詳しい解説があるんだけど、当時それを読まなかったのかなあ?全く憶えていないから、読まなかったのかもなあ。

 

 

『ガンボ』三曲目の「ビッグ・チーフ」は、さっきも書いたフェスの『ザ・ラスト・マルディ・グラ』の一曲目だったし、フェスの曲だということも知っていた。でも『ガンボ』のヴァージョンでは、あのリフをロニー・バロンがオルガンで弾いているから、イマイチ跳ねていない印象ではあったなあ。

 

 

『ガンボ』にはもう一曲フェスの曲で「ティピティーナ」も入っていたけど、スローなアレンジになっていたから、それはあまりグッと来なかった。何度も言うけど、この曲もフェスの『ニュー・オーリンズ・ピアノ』に入っているから聴いていたはずだけど、全然記憶がなかったんだよなあ。

 

 

その『ニュー・オーリンズ・ピアノ』の「ティピティーナ」→ https://www.youtube.com/watch?v=p-zXkB4FW-A 今聴くとカッコいいと思うけど、このアトランティック盤の良さが分るようになったのは、CDで聴いてからだった。昔は『ザ・ラスト・マルディ・グラ』のヴァージョンの方が好きだった。

 

 

そんな具合で、『ガンボ』が好きというより、その一曲目の「アイコ・アイコ」が大好きだったと言った方が正しいかもしれない。20年ほど前に現地ニューオーリンズのライヴ・ハウスでドクター・ジョンの生を聴いた時も、一曲目が「アイコ・アイコ」だった。(ラストが「サッチ・ア・ナイト」)。

 

 

その時は、僕よりも一緒に行った元妻が、その「アイコ・アイコ」に感銘を受けたらしく、その後しばらくそれを口ずさんでいた。同じ頃、東京ドームのローリング・ストーンズ1995年のライヴにも一緒に行って、その一曲目が同じボ・ディドリー・ビートの「ナット・フェイド・アウェイ」だったので、そのせいもあったらしい。

 

 

そんなわけだから、元妻に頼まれて、そういうボ・ディドリー・ビート(3−2クラーベ)の曲ばかり集めたコンピレイション・カセットを作ったこともあった。その一曲目も『ガンボ』の「アイコ・アイコ」にした。ニューオーリンズで生で聴いた時は、もっと重心の低いディープなファンクになっていた。

 

 

ちなみに、その時のドクター・ジョンのライヴでは、ギターがボビー・ブルーム(一瞬だけマイルス・バンド在籍経験あり)、そして当時まだ存命だったテナー・サックスのアルヴィン・レッド・タイラーも参加していたなあ。前座のステージが、知らないブラス・バンドで、やたらと元気のいい金管アンサンブルだったけど、それはイマイチだった。

 

 

CD時代になってからは、もちろんすぐに『ガンボ』や『イン・ザ・ライト・プレイス』なども買い直したけど、CD時代になってからのドクター・ジョンのアルバムで一番いいと思ったのは、1999年のエリントン集『デューク・エレガント』だった。あれは素晴しかったよねえ。

 

 

その当時はパソコン通信をやっていて、あのアルバムの話題では盛上がった。あれでデューク・エリントンという作曲家を知り、興味を持った人も多かったけど、肝心のエリントン自身のヴァージョンを聴かせてもピンと来ないということもあった。やはりドクター・ジョンの解釈の巧妙さだったんだろう。

 

 

プロフェッサー・ロングヘアもだいたいCDで買い直して、やはり個人的な思い入れのある『ザ・ラスト・マルディ・グラ』が一番好きなんだけど、今では『ニュー・オーリンズ・ピアノ』が最高だと心からそう確信するようになっている。やはりニューオーリンズらしいラテン・テイストが最高だ。

 

 

ブルーズにラテン風味を強く加味したフェスのピアノ・スタイルは、まさにワン・アンド・オンリーなもので、ドクター・ジョンのピアノも完全にその影響下にあるというか、そのまんまだということもよく分る。『ガンボ』の「アイコ・アイコ」のピアノも、フェス・スタイルだしね。

 

 

個人的に思い入れがより強いのはドクター・ジョンの方なんだけど、どっちが偉大かと言われたら、そりゃもう誰に聞いたって圧倒的にプロフェッサー・ロングヘアだと言うはず。フェスがいなかったら、ドクター・ジョンもいない。

 

 

ところで、”New Orleans”を「ニューオリンズ」と表記する人が物凄く多いというか、その表記の方を圧倒的に多く見掛ける。発音を知らないだけなんだろうけど、あまりにも多すぎて、もう今更どうにもならない感じだ。ニューオーリンズか、もっと正確には(ニュー・ヨーク同様)ニュー・オーリンズだよねえ。

2015/10/21

「メス・アラウンド」とブギウギ・ピアノ

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ノラ・リー・キングが歌うピート・ブラウン・セクステットの「キャノンボール」(1942年)の演奏パターンは、ドクター・ジョン『ガンボ』の「メス・アラウンド」で憶えた。ドクター・ジョン『ガンボ』の「メス・アラウンド」はコレ。

 

 

 

「メス・アラウンド」という曲は、アトランティックのアーメット・アーティガンが作曲(ということになっている)して、レイ・チャールズが1953年に録音したR&Bクラシック。https://www.youtube.com/watch?v=iNe5npkid-s  ニューオーリンズでは、プロフェッサー・ロングヘアもやっている。

 

 

この「メス・アラウンド」のパターンは、誰がどう聴いても、ブギウギ・ピアニスト、カウ・カウ・ダヴェンポートの1928年録音「カウ・カウ・ブルーズ」のパターンだね→ https://www.youtube.com/watch?v=-1G9eZcsS14 ドクター・ジョンも『ガンボ』の解説で、そう言っているしね。

 

 

ドクター・ジョンが「メス・アラウンド」のルーツについて、ピアノを弾きながら解説しているヴィデオかなにかがあった気がするけど、なんだったのか忘れちゃったし、今はもうそれを持っていない。だけどYouTubeで探してみると、彼は結構いろいろとこの曲を弾いているねえ。しかも喋りながら。

 

 

ドクター・ジョンもプロフェッサー・ロングヘアも、僕は大学生の頃、同時期にLP買って聴いてたんだけど、「メス・アラウンド」については、『ガンボ』でしか知らなくて、フェスがやったのは、『ロックンロール・ガンボ』を買って初めて知ったのだった。レイ・チャールズのも知らなかった。

 

 

ブギウギ・ピアノも、大学生の頃に一枚物LPアンソロジーを買って聴いていたんだけど、「カウ・カウ・ブルーズ」が入っていたかどうかは、全く記憶がない。そもそもそのLPのタイトルすら憶えていないし、どんなブギウギ・ピアニストが入っていたのかも分らないから、あまり聴かなかったんだろう。

 

 

Googleで画像検索したら出てきた!これだ↓

 

 

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しかし、ホント、どんな内容だったのかはサッパリ憶えていないんだよなあ。何回か聴きはしたけど、あまりピンと来なかったんだろうなあ。誰のどんな曲が入っていたのか、知りたいところだ。

 

 

脱線になるけど、僕がブギウギ・ピアニストを強く意識するようになったのは、以前も書いた通り、あの『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』コンサートのことを知ってからだった。アルフレッド・ライオンじゃないけど、アルバート・アモンズやミード・ルクス・ルイスに興味を持って、少しずつ聴始めたのだった。

 

 

すぐ後に中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統』LP上下巻も買って、それにもブギウギ・ピアノが入っていて、しかも他のブラック・ミュージックとの繋がりが分りやすくなっていたから、それで断然面白くなったのだった。ジャンプ〜R&Bの土台にブギ・パターンがあることも知った。

 

 

これからブギウギ・ピアノを知りたい人には、MCAジェムズ・シリーズの一つとして出た、やはりとうようさん編纂・解説の『伝説のブギ・ウギ・ピアノ』(http://www.amazon.co.jp/dp/B0006GAWVK/)が一番いいと思うけど、これも今は中古しかないんだ。「カウ・カウ・ブルーズ」も入っているんだけど。

 

 

アーメット・アーティガンは、レイ・チャールズに「メス・アラウンド」を書いた時、主なインスピレイション源はピート・ジョンスン(ブギウギ・ピアニスト)だったと語っているらしい。ピート・ジョンスンの何を聴いてインスパイアされたのか分らないけど、あのピアノ・パターンは古くからあるものだ。

 

 

録音で残っているのは、上で貼った1928年の「カウ・カウ・ブルーズ」が最初だと思うけど、元々19世紀末に、ラグタイム・ピアノから発展してブギウギ・ピアノが発生した頃から、既に存在したパターンであったことは、おそらく間違いない。多分、ニューオーリンズでも盛んに演奏されていたはず。

 

 

ブギウギ・ピアノというスタイル自体は、今書いたように19世紀末頃か20世紀初めには存在したと思うんだけど、一般に流行り始めるのは、やはり録音が始った1920年代後半からで、その後30年代末にかけて大流行した。その後、ピアノだけでなくギターや、コンボ、ビッグ・バンドなどでも取入れられるようになった。

 

 

多分アーメット・アーティガンも、多くの黒人ブギウギ・ピアノを聴き(元々彼は米黒人音楽マニアでイスタンブル生れのトルコ人)、その中に「カウ・カウ・ブルーズ」で聴ける典型的パターンを知り、直接はどこから知ったのか分らないけど、それに影響されて「メス・アラウンド」を書いたんだろうね。

 

 

という具合なので、最初に書いたピート・ブラウン・セクステットの「キャノンボール」(https://www.youtube.com/watch?v=xxT4ftNQ5FI)で聴ける典型的な演奏パターンも、1942年録音だし、「カウ・カウ・ブルーズ」でも聴ける、多くのブギウギ・ピアノのパターンから派生してきているんだろう。

 

 

1940年代のジャンプ・ブルーズや、その後のR&Bの土台になったのがブギウギのパターンだった(「なんちゃらブギ」という種類の曲名も実に多い)から、42年のピート・ブラウンの演奏に典型的なそれが聴けても、特にどうってことはない。1953年の「メス・アラウンド」もその一つというわけ。

 

 

しかしプロフェッサー・ロングヘアやドクター・ジョンがやる「メス・アラウンド」は、個人的にはレイ・チャールズのオリジナルより面白く感じる。フェスのはインストばかりだけどね。ブギウギのパターンがニューオーリンズのR&Bピアノと実に相性がいい。というかそもそもブギウギ・ルーツなわけだけど。

 

 

ドクター・ジョン『ガンボ』一曲目の「アイコ・アイコ」だって、ブギウギのパターンに、ニューオーリンズらしく3−2クラーベのリズムが合体したみたいな感じだしなあ。フェスだって、多くの曲がそんな具合。「ビッグ・チーフ」だってそうじゃないか。

 

 

 

ニューオーリンズ・クラシック「アイコ・アイコ」のオリジナルはシュガー・ボーイ・クロフォードのコレ→ https://www.youtube.com/watch?v=PgOrIar_qGk ドクター・ジョンのも基本このパターンだけど、あの転がるようなピアノを(フェスの感じを出すように)付けたのは、彼独自のアイデアだね。

 

 

「メス・アラウンド」だって、フェスのやドクター・ジョンのを聴いていると、これはまるでニューオーリンズ・クラシックかと思ってしまうほど、ハマっている。実際、最初の頃は、僕もそう勘違いしていた。というかそれは「勘違い」ではないのかもしれないよねえ、そもそものルーツを考えたら。

2015/10/20

ギル・エヴァンスの最高傑作

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ギル・エヴァンスの『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』CD二枚組(元はバラ売りのLP二枚)は、聴くと分るけど、一曲毎にぶつ切りで編集されているのだが、いつの日か、これをライヴ・ステージでの様子そのままでコンプリート盤にして出してくれる日は来るのだろうか?

 

 

検索すると、「完全版」と銘打ったものが売られているけど、それは従来の二枚組CDの末尾に未発表曲を一曲追加しただけのもので、それ以外は曲順も従来のまま。当時のステージを完全再現・収録したものではない。「完全版」という言葉はちょっとどうなんだろう。現行二枚組CDを聴いても、ライヴ現場での曲順は分らない。

 

 

『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』のプロデューサーは、シンセサイザーで演奏に参加して重要な役割を果している菊地雅章なので、彼に聞けば、元のライヴを収録したオリジナル・テープの在処などが分るのではないかと思っていたが、その菊地も亡くなってしまった。僕はライヴ・ステージそのままを再現した曲順で聴きたいんだがなあ。

 

 

アルバムになったものを聴くと、一枚目一曲目の「アニタズ・ダンス」が、現場でもオープニング・ナンバーだったとしか思えないけど、これも確証はなにもない。聴いた感じの僕のヤマカンでしかない。また、殆どの曲の終りで、次の曲に繋がるフレーズをギルがエレピで弾いている途中で、フェイド・アウトしてしまう。

 

 

『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』は、最初は一枚物LPとして1980年に出たもの。一聴、大傑作と確信したし、『スイングジャーナル』誌でも、その年のディスク大賞金賞を、チック・コリア&ゲイリー・バートンのチューリッヒ・ライヴ二枚組と分け合った記憶がある。最初から評価はかなり高かった。

 

 

今ではCD二枚組になっているけど、LPでは二枚目の方は一年か二年遅れて、続編としてリリースされた。調べてみたら82年のリリースになっている。これも素晴しかった。特にB面のジミヘン・ナンバー「ストーン・フリー」と、続くミンガスの「オレンジ色のドレス」は、最高だとしか言いようがない。

 

 

僕はミンガスの「オレンジ色のドレス」がたまらなく大好きで、この曲はギルのビッグ・バンドがやる時は、いつもテナー・サックスのジョージ・アダムズをフィーチャーしてたけど、『パブリック・シアター』では、ロフト系のフリー・ジャズ・トロンボーン奏者ジョージ・ルイスをフィーチャーしている。

 

 

そのジョージ・ルイスのフリーなソロが素晴しく、彼に惚れてしまっただけでなく、そのヴァージョンではギルのリズム・アレンジが絶妙で(ミンガスの元のオリジナルが少しそんな感じ)、途中で急速調になったり、その1/2のテンポになったり、なかなか面白い。この曲の最高のヴァージョンだろうと思う。

 

 

ギルのバンドがやった「オレンジ色のドレス」といえば、普通はジョージ・アダムズ・フィーチャーのヴァージョンを思い浮べる人が多いはずだし、YouTubeにもそういうのしかなかった。例えばこのRCA盤、昔は愛聴していたけど、僕の知る限りCDにはなっていない。

 

 

 

CDになっているものでは、数ヶ月前に村井康司さんのライナー付きで再リイシューされた『プリースティス』(1977年録音)に、やはりジョージ・アダムズをフィーチャーした「オレンジ色のドレス」が入っている。貼ったRCA盤は78年録音で、78年から既にリズムのアレンジは、『パブリック・シアター』ヴァージョンと似た感じになっている。

 

 

パブリック・シアターでの1980年録音でも、ジョージ・アダムズがいれば、彼がソロを取っていたんだろう。ギルのバンドは、バンドといってもレギュラー・メンバーはおらず、スタジオでもライヴでも、その都度都合の付く有志が集るという感じだった。いつも来る常連は数名いたけど、レギュラーというわけではなかった。

 

 

だから、1980年のパブリック・シアターでは、やむを得ずジョージ・ルイスが吹いたんだろうけど、そのソロが、テンポ・チェンジと相俟って素晴しいし、ホーン・アンサンブルの色彩感などを含めても、RCA盤をはるかに凌ぐ出来だ。

 

 

 

このライヴ盤でのジョージ・ルイスといえば、一枚目の「ゴーン・ゴーン・ゴーン」も素晴しい。これ、マイルス・デイヴィスとやった1958年の『ポーギー&ベス』で、ギルの書いたオリジナル曲の「ゴーン」と同曲。プロデューサーの菊地雅章の強い意向で、この曲名表記になったらしい。

 

 

 

その他、『プリースティス』のタイトル曲でも素晴しいソロを吹くアルト・サックスのアーサー・ブライスが、まるで口寄せの儀式みたいな見事なソロを聴かせる「ヴァリエイションズ・オン・ザ・ミズリー」も見事だ。

 

 

 

というわけで、既にお分りの通り、これらの『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』からの音源は、全て僕がYouTubeにアップしたもの。全くアップされていなかったのでねえ。「ゴーン・ゴーン・ゴーン」だけ、既にあったけど、パーソネル等の録音データが一切書いてなかったし。

 

 

やっぱりどう考えても、『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』が、ギル・エヴァンスの最高傑作だとしか、僕には考えられないんだよなあ。だからこそ、現行の編集済みのものではなく、現場でのライヴ模様を完全再現した、真の意味でのコンプリート盤が出ないかと熱望しているんだけどなあ。

2015/10/19

ジャズ歌手アリサ・フランクリン

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僕はあまりいいアリサ・フランクリン・リスナーとは言えない。だって、ソウル歌手として成功したアトランティック時代より、その前の主にジャズを歌っていたコロンビア時代の方が断然好きでよく聴くくらいだからなあ。それに対して、アリサの全盛期アトランティック時代のアルバムは五・六枚しか持っていない。

 

 

それなのに、それ以前のコロンビア時代のアルバムは、CDでは全部持っている。こんなアリサ・リスナーはいないだろう。コロンビア時代のアリサに関しては、2011年にレガシーから12枚組の全集『テイク・ア・ルック:コンプリート・オン・コロンビア』が出て、揃えやすかったということもある。

 

 

僕の知る限りでは、1967〜79年のアトランティック時代に関しては、そういう全集のような形ではリリースされていないと思うのだが、僕が知らないだけだろうか?そういうものがもし出れば、それだってもちろん買うだろうけどね。是非リリースしてほしいという気持があるんだけど。

 

 

1967年までのコロンビア時代のアリサは、主にジャズやブルーズを歌っている。前述の2011年のCD全集が出るまでは、僕は『ジャズ・トゥ・ソウル』というCD二枚組で聴いていた。「スカイラーク」「縁は異なもの」「アンフォーゲッタブル」「ラヴ・フォー・セール」など、スタンダード曲も多い。

 

 

恥ずかしながら僕がアリサを聴始めたのはかなり遅かったので、アナログ盤では一つも聴いたことがなく、だから、コロンビア時代でも、そのCD二枚組『ジャズ・トゥ・ソウル』でしか知らなかった。でもこれで充分な感じだった。僕みたいな根っからのジャズ・ファンには、断然こっちの方が好みなのだ。

 

 

そのコロンビア時代のセレクト集『ジャズ・トゥ・ソウル』を買う前に、名盤としていろんなところで名前があがるアトランティック時代の、例えば『貴方だけを愛して』とか『アット・フィルモア・ウェスト』とかは、一応買って聴きはしたものの、どうもあんまりピンと来ていなかったのだった。不思議だ。

 

 

『ジャズ・トゥ・ソウル』は、単にジャズという言葉がタイトルに入っているのと、店頭で曲目を見たらジャズ・スタンダードが多いというのと、ジャケット写真がなかなかいいという、それだけの理由だけで買ってみたものだ。まだコロンビア時代のことは分っていなかった。でも聴いてみたら、これがよかった。

 

 

ちょっと普通のジャズ歌手とは声の張り方が違うような感じで、純粋なジャス・シンガーより、大好きなブルーズ寄りのダイナ・ワシントンによく似ているような印象を受けたのだった。その後知ったことだったが、アリサはダイナをかなり敬愛していたらしく、コロンビア時代にはダイナ曲集も作っている。

 

 

ダイナ・ワシントンはベシー・スミスを敬愛していて、ベシー曲集のアルバムもあるけど、実はそれは僕はあまり好きではなく、評価もできない感じなのに対し、アリサのダイナ曲集『アンフォーゲッタブル』(これもアルバム丸ごと聴いたのは、前述の全集が初)は、かなり出来がいいように思うんだなあ。

 

 

ダイナ・ワシントン曲集といっても、ブルーズ・ナンバーはあまりなくて、ジャズ・ナンバーがメインだ。キーノートからシングルで出たダイナの代表的ブルーズ曲「イーヴル・ギャル・ブルーズ」もやっていて、ブルーズ・ハープなども入っているアレンジだけど、これにはあんまり感心しないんだよなあ。

 

 

どう聴いても「アンフォーゲッタブル」とか「縁は異なもの」などのジャズ・ナンバーの方が、ストリングスも入る伴奏のアレンジも、アリサの歌も、はるかに出来がいい。そもそも、ブルーズ・ナンバーにストリングスが入るのは似合わないだろう。ジャズ曲でのアリサの声の張り方はダイナによく似ている。

 

 

コロンビアからデビューする前に、一枚ゴスペルを歌ったアルバムが1956年にあるみたいだけど、僕はそれはいまだに聴いたことがない。アリサは父親が牧師なので、小さい頃から教会でゴスペルを歌っていたらしいが、僕が聴いているアリサのゴスペルは、例の1972年の『アメイジング・グレイス』だけ。

 

 

その二枚組『アメイジング・グレイス』は、どっちかというとソウルよりゴスペルが好きな僕は、大好きなライヴ・アルバムなのだ。でも最初に聴いた時は、歌の部分が少ないというか全部ではないので、なかなか歌が出てこないのに、ややイライラしたりしたけど、教会でのゴスペルの現場とはこういうものだろう。

 

 

それはともかく、いわば「幻の」1956年のゴスペル・デビュー・アルバムを除くと、コロンビアから1961年にアリサがデビューした第一作目『アリサ』は、副題に『ウィズ・レイ・ブライアント・コンボ』とあるように、ピアニストのレイ・ブライアントが伴奏を務めている。レイは歌伴も上手い人だ。

 

 

そのデビュー作『アリサ』などは、アルバム丸ごと全部完全にジャズ・アルバムだね。以前も何度か書いているように、レイ・ブライアントはジャズ・ピアニストにして、ブルーズがかなり上手い人だから、このアリサのデビュー・アルバムでもブルージーな持味を存分に発揮していて、聴いていて気持がいい。

 

 

1965年の『ヤー!!!:イン・パースン・ウィズ・ハー・カルテット』は、タイトルに「イン・パースン」とあるし、音を聴いても観客の拍手が聞えるから、ライヴ・アルバムなんだろうと、2011年の全集で買って以来ずっとそう思ってきたけど、調べたら、後から拍手をかぶせただけのスタジオ作だ。

 

 

しかし、バンドの演奏などを聴いても、クラブかどこかでの生演奏っぽいスポンティニアスな雰囲気だし、それに乗って歌うアリサの歌い方もそんな感じだし、これが疑似ライヴだったとは、やや意外な感じがする。この手の疑似ライヴ・アルバムは、ジャズなどでも昔はたくさんあったけど。

 

 

ジャズ歌手としてのコロンビア時代と、ソウル歌手としてのアトランティック時代を聴き比べると、まあ曲が違うから、それに応じて多少の違いはありはするものの、アリサ自身の歌い方は、そんなに変っていないようにも思う。コロンビア時代から、ジャズ歌手にしては、声の張り方が異質な感じがするしね。

 

 

アトランティック第一作の『貴方だけを愛して』のタイトル曲を聴いても、別にコロンビア時代の歌唱法との本質的な違いは、僕にはあまり感じられない。熱心なアリサ・ファン以外は、ソウル歌手として成功する前のコロンビア時代なんて軽視しているだろうから、このことはどうも気付かれてない気がする。

 

 

書いたように、牧師の家に育ったので元々はゴスペルを歌っていたアリサだから、歌唱法はゴスペルの影響を強く受けていて、それはコロンビア時代でも実は一貫しているのが、よく聴くと分るのだ。声の張り方が、ジャズ歌手としては異質という僕が言う理由だ。普通のジャズ歌手はもっとソフトだ。

 

 

だから、ジャズ好きの僕が大好きなアリサのコロンビア時代のジャズ・アルバムは、ソウル・ファンはもちろん、ジャズ・ファンだって、イマイチ好きになれない人が多いように思う。というか普通のジャズ・ファンは、アリサなんて聴かないだろう。ジャズ歌手時代があったことを知っている人が少ないかも。僕だって割と最近まで知らなかったんだから、えらそうなことは言えない。

 

 

そう考えると、コロンビア時代のアリサを、一体どういう層が好んで聴いているのか、やや分りにくいんだけど、それでも2011年にレガシーが全集をリリースしたということは、それなりに需要があるってことなんだろう。もっとずっと需要が大きいはずのアトランティック時代も、早く全集を出せばいいのに。

 

 

まあそんな具合で、コロンビア時代が好きでよく聴く、全くダメなアリサ・リスナーの僕だけど、それでも時々、例えば1971年の『アット・フィルモア・ウェスト』などを聴くと、やっぱりこういうのが最高だよなあとは思ってしまう。ライヴ盤好きということもあるだろうけどさ。カッコイイよねえ。

 

 

もう一つ案外好きでよく聴くのが、2007年にリリースされた『レア&アンリリースト・レコーディングズ』二枚組。タイトル通りアトランティック時代初期の未発表曲集なんだけど、ビートルズの『アンソロジー』などとは違って、残り物の感じが全然しない。未発表集にして初心者にも推薦できる傑作集だね。

 

 

などとこの文章を書き終って、ボンヤリとアマゾンを眺めていたら、なんと来たる11月6日に、アトランティック時代のアリサ全集ボックスがリリースされる模様。これは是非欲しいが、一万円以上もするなあ。当然ポチってしまいましたけど。http://www.amazon.co.jp/dp/B014QHQRW2/

2015/10/18

アクースティック・マイルスで一番好きなアルバム

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ブルーズ・ライターの陶守さんと話をしていて、オリジナル・ジャケットだと30年以上思っていたB.B. キングの『ライヴ・アット・ザ・リーガル』の白地の文字ジャケがオリジナルではなく、現行CDのカラー・ジャケットが実はオリジナルであったという、「衝撃の事実」を初めて知るということがあった。

 

 

マイルス・デイヴィスの『ジャック・ジョンスン』も、ある時期以後、なぜだかジャケット・デザインが変更になっている。オリジナル・ジャケットはコレ↓


 

 

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そして現行米盤CDがコレ↓


 

 

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どうしてこういうことをするのか、よく分らないなあ。『ジャック・ジョンスン』のジャケットが変更になったのは、1977年の米国盤リイシューLPかららしい。その後の米国盤は全てそれ。同じくジャケットが変更になっている『マイルス・アヘッド』の方は、マイルス自身のクレームによるものだった。

 

 

『マイルス・アヘッド』、1957年リリースのオリジナル・ジャケットは上掲画像左。そして1963年に変更になったジャケット上掲画像右。オレのアルバム・ジャケットに白人女とはナニゴトだというだということらしかった。

 

 

とはいえ、米国盤はともかく、オリジナル・ジャケット重視主義の日本では、1963年以後も現在に至るまで、ヨットに白人女性のオリジナル・ジャケットでリリースされている。僕が最初に買ったLPも、その後買い直して現在も聴いている、SMEからの紙ジャケCDも、全部そう。米国盤は変更されたままだけど。

 

 

もちろん『ジャック・ジョンスン』だって、CDリイシューも米国盤は全部さっき貼った別ジャケットだけど、日本盤LPやCDは、全部オリジナル・ジャケット通りになっているもんね。『マイルス・アヘッド』も『ジャック・ジョンスン』も変更後のは、米国コロンビア(レガシー)盤でしか僕は持っていない。

 

 

『マイルス・アヘッド』の場合、ジャケット変更だけなら問題は容易いのだが、このアルバムはモノラル盤とステレオ盤があって、しかもかつて流通していたステレオ盤は、中身の半分程度、モノラル盤とは違う別テイクが収録されているという、ややこしいことになっていた。あまり知られていないことかもしれない。

 

 

『マイルス・アヘッド』のオリジナル米盤LPはもちろんモノラルで、その後もずっと各国盤ともモノラルだったはず。モノラル・マスターしか作っていなかったはずだ。僕が80年に最初に買った日本盤LPもモノラル盤だった。一体いつ頃別テイク収録のステレオ盤になったのかは、記憶がない。

 

 

ネットで調べると、『マイルス・アヘッド』をモノラル盤からステレオ盤に差し替えたのは、1987年のテオ・マセロらしい。そのCD化の際、なぜだか知らないが別テイクを収録したようだ。その後しばらくはこのステレオ盤が流通していた。一曲目の「スプリングズヴィル」の頭から全然違うので、すぐに分った。

 

 

その「スプリングズヴィル」も、現在YouTubeではオリジナル(現行)・ヴァージョンしか上がってないみたいだから、聴き比べてもらうことができない。そして、僕が持っているものも含め現行CDでは、同じくステレオ盤ながら、全曲オリジナル・モノラル・マスターと同内容のものに修正されている。

 

 

そうなったのがいつなのかということは、こっちははっきりしていて、1996年にマイルス&ギル・エヴァンスのスタジオ録音全集ボックスが出た時に、フィル・シャープが、オリジナル・モノラル・マスター通りにステレオ・マスターを新たに制作し直して、収録したのがきっかけ。その箱には従来版と両方収録されている。

 

 

その箱には、オリジナルのモノラル・ヴァージョンは収録されていないという欠陥があって、現行CDで『マイルス・アヘッド』のモノラルが聴けるのは、2013年に出た『The Original Mono Recordings』九枚組だけ。米国では1993年に単独のモノラルCDも出たけど、それは廃盤。

 

 

まあそれでもそのボックスには、『マイルス・アヘッド』の制作過程を詳らかにする、メイキング盤が入っていて、リハーサル・テイクや、オーヴァーダビングされる前のヴァージョンとか別テイクとか、そのオーヴァーダブされたマイルスのソロだけ抜出して聴けるとか、いろいろと面白かったのは確か。

 

 

あのマイルス&ギル箱は、全六枚のうち、約二枚半が『マイルス・アヘッド』とその関連音源で占められていて、『マイルス・アヘッド』(と、前から話だけあって実物を聴けなかった1968年録音の「タイム・オヴ・ザ・バラクーダ」)こそが、あの箱の目玉だったと言っても過言ではないだろう。

 

 

どうしてそんなに『マイルス・アヘッド』にこだわるかというと、マイルスに関してはエレクトリック時代の方が圧倒的に好きな僕だけど、アクースティック時代なら、クインシー・ジョーンズがこれを無人島アルバムの一枚に選んでいるのと同じく、スモール・コンボ物もなにもかも全て含めて、僕もこれが一番好きなアルバムなのだ。普通のジャズっぽくなく、イージー・リスニングみたいだけどね。

2015/10/17

アラブ色濃厚なオスマン帝国時代のギリシア歌謡

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だいぶ前にエル・スールさんがツイートしていたこの音源→ https://www.youtube.com/watch?v=zBCn-CUugtE ギリシア人によるものなんだけど、トルコ古典歌謡に非常によく似ている。というかソックリだ。しかしそれもまた当然だろう。

 

 

上で貼ったのは、TAKIMというギリシア人バンドの音楽だけど、このバンドは全員ギリシア人ながら、アルバム丸ごと全部トルコ古典歌謡をやっているので、似ているとかソックリとかいうより、そのまんまなわけだけどね。これがアルバム『TAKIM』の一曲目。

 

 

 

ギリシアとトルコは、隣国同士であるというだけでなく、現在ギリシアになっている地域もトルコになっている地域も、オスマン帝国の支配下にあった。もっと前には、トルコもギリシアもローマ帝国の領土だった。トルコの最大都市イスタンブル(コンスタンティノープル)は、ローマ帝国(分割統治時代)、ビザンツ帝国、オスマン帝国と、三つの時代にわたって長年首都で、ギリシアも支配下に置いていた。

 

 

つまり、ギリシア文化もトルコ文化も、長年にわたって、同一領土内で育まれていたもの。もちろん、ローマ帝国もビザンツ帝国もオスマン帝国も多文化国家で、同一領土内に多様な異文化の共存を認めていたわけで、それだから、人間や文化の移動・交流が活発であっただろうことは容易に想像できる。

 

 

例えば、ギリシアのよく知られている伝統音楽レンベーティカにしても、そのオスマン帝国時代の文化的モザイクの下に育まれてきた音楽。異文化・異教徒に寛容だったオスマン帝国下にあったからこそ、それが可能だった。レンベーティカ、特にスミルナ派のそれを聴くと、そのことを強く感じる。

 

 

ギリシア大衆歌謡のルーツでもあるレンベーティカ、そもそも20世紀初頭のオスマン帝国時代、イスタンブルやイズミールなどのギリシア人移民と、アテネやピレウスなどのギリシア人が産み出した音楽だが、ギリシア人コミュニティの音楽だったとだけ考えると、それはちょっと違うだろう。

 

 

レンベーティカは、同じアナトリア半島(現在のトルコのアジア部分)の住民だったイスラム教徒のトルコ人やユダヤ教徒のセファルディ、他にもアラブ人やアルメニア人など、様々な民族が共生していたからこそ花開いた音楽だった。多文化共存の下で産まれた音楽だったのは、他のいろんな大衆音楽と似ている。

 

 

そういうオスマン帝国下時代のアナトリアのイズミールで開花した時代の流れを汲むレンベーティカは、イズミールのギリシア名でスミルナ派と呼ばれている。いわゆるスミルナ派のレンベーティカを聴くと、結構アラブ臭を感じるのも、上記のような事情のせいなんだろう。実に魅力的だと思う。

 

 

そしてその後の希土戦争(1919〜1922)の結果、ギリシアに住んでいたトルコ人とアナトリアに住んでいたギリシア人を、それぞれ強制送還する住民交換が行われ、トルコ人とギリシア人が分断されたせいで、レンベーティカは変質する。アテネなどギリシアの都市の居酒屋の音楽となっていく。

 

 

そうした希土戦争後の住民交換を経て、ギリシアの港町で成立したレンベーティカをピレウス派と呼ぶが、スミルナ派との決定的な違いは、トルコ音楽やユダヤ音楽といったアラブ系音楽の後ろ盾を失ってしまったこと。僕がピレウス派のマルコス・ヴァンヴァカーリスなどにあまり惹かれないのも、そのせい。

 

 

トルコはともかくユダヤ音楽がアラブ系と言うと、え〜っ?と思う人もいるかもしれないが、いわゆるアラブ・アンダルース音楽も、かつてイベリア半島でアラブ人とユダヤ人が共生していた時代に産まれた音楽。たくさんのユダヤ人歌手が、その後マグリブ地域(モロッコ、アルジェリア、チュニジア等)で活躍した。

 

 

その後も、マグリブ地域のアラブ・アンダルース音楽だけでなく、エジプトやアラビア半島など、広くアラブ圏一帯でユダヤ人音楽家が活躍していたようだ。そして、そういう状況は、まさにアナトリアで花開いたレンベーティカ全盛期の多民族が共生した社会文化状況と見事にオーヴァーラップするのだ。

 

 

スミルナ派レンベーティカ代表する一人、ローザ・エスケナージ(上掲写真左)→  https://www.youtube.com/watch?v=QxDfgms6UC8 一方、ピレウス派の代表マルコス・ヴァンヴァーカリス(上掲写真右)はこういう感じ→ https://www.youtube.com/watch?v=vHHQdE56PS0 後者も魅力的だけれどね。

 

 

以前、イギリスの復刻レーベルJSPからたくさん出ていた初期レンベーティカのボックス・シリーズを聴きまくっていたことがあって、その時に感じたのも、そういうスミルナ派とピレウス派の違い。書いたように僕は圧倒的にスミルナ派にシンパシーを感じるんだけど、アラブ好きの僕としては当然だった。

 

 

ピレウス派レンベーティカだってファンが多いし、その後のギリシア大衆音楽に多大な影響を与えたので、軽視できないけど、個人的にはどっちかというと、アナトリアの多文化モザイクを聴くような、イスタンブルやイズミール由来のスミルナ派レンベーティカの方に、より大きな魅力を感じちゃうなあ。

 

 

つまり、ギリシア音楽であるレンベーティカも、スミルナ派のアラブ、トルコ、ユダヤなど多民族共存時代の混血音楽だったものの方が断然面白いし、そもそも大衆音楽とはそういうものの方が魅力的ではないかということ。最初に書いたように、ギリシア歌謡にトルコ古典歌謡の趣を感じるのも当然なのだ。

 

 

ピレウス派のレンベーティカも1950年代には衰退してしまうけど、ギリシア移民の多いアメリカで生延びたり、またギリシア本国でも70年代にリバイバルしただけでなく、その後のギリシア大衆音楽に連綿と受継がれていて、今でもギリシア音楽にトルコ色を感じたりするのもそのせいだ。

 

 

例えば、2012年の作品だけど、現代ギリシアのライカ歌手ヤニス・コツィーラスが、スミルナ派レンベーティカをカヴァーした企画物アルバムの一曲→ https://www.youtube.com/watch?t=12&v=Unorh1_FrS0 トルコ古典歌謡色濃厚で、哀感に満ちている。現代ギリシアにこれ以上魅力的な音楽はないと思うのは、トルコやアラブ盲信ゆえなのだろうか?

 

 

また、こちらも2012年の録音だけど、イスタンブルを舞台にトルコ人とギリシア人が共同で、古いアナトリア歌謡〜スミルナ派レンベーティカを復興させたもの→ https://www.youtube.com/watch?v=Y-CqlJtRVlE こういうのを聴くと、日韓以上に仲の悪い両国だけど、音楽的には不可分一体だと分るね。

2015/10/16

ファンキー感覚

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音楽における「ファンキー」って言葉、僕は長年、1950年代末頃のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」(ボビー・ティモンズ作曲)に代表されるいわゆるファンキー・ジャズや、その後のキャノンボール・アダレイの「マーシー、マーシー、マーシー」(ジョー・ザヴィヌル作曲)などに当てはまる言葉だと捉えていた。

 

 

ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズは、ジャズを聴始めてすぐに好きになったバンドで、特にクラブ・サン・ジェルマンでのライヴ盤(「モーニン」はこれのヴァージョンが最高)を聴き狂っていたし、最初の一年くらいはファンキー・ジャズこそモダン・ジャズでは一番好きだった。

 

 

その頃、油井正一さんの『ジャズの歴史』を読み、その中に「ファンキー考」という一章があったのにも、大いに影響された。今手許にその本がないから詳細は確かめられないけど、大橋巨泉がファンキー・ジャズについて書いた文章を批判しながら、ファンキーを定義することに主眼が置かれていたのだった。

 

 

それによれば、確か大橋巨泉は、ファンキーなジャズには「ユーモラス」な要素があるのだと言っていたらしく、具体的にどんな曲のことを指してそう言ったのかは書かれていなかったけど、油井さんはこれを批判して、ジャズにおけるファンキーさに、ユーモラスな要素はないと書いていた。

 

 

僕が大好きで聴いていた1950年代末頃のファンキー・ジャズは、主にゴスペル・ベースのアーシーさが特徴で(と言っても、当時、ゴスペル音楽は全く知らなかったわけだが)、それこそがファンキーらしさの源泉になっているように感じていたので、ユーモラスな要素が必要という巨泉の主張には頷けなかった。

 

 

「モーニン」や「ディス・ヒア」(後者もボビー・ティモンズの曲)などのファンキー・ナンバーに、ユーモラスな要素などは微塵も感じなかったので、僕が聴いていた実感からも、やっぱり油井さんの言っていることを、その頃は全面的に支持していたのだった。

 

 

その考えが変ったのは、中村とうようさんの『大衆音楽としてのジャズ』(2000年)を読んでからだった。その中でとうようさんは、マイルス・デイヴィス『バグズ・グルーヴ』収録の「ドキシー」を取りあげて、こういうのこそ「ファンキー」というのだと言っていた(これも詳しいことは忘れたけど)。

 

 

このとうようさんの『大衆音楽としてのジャズ』という2000年に出た本、後から知ったけど、1978年に出た『ブラック・ミュージックとしてのジャズ』を再録・改訂したものだったようだ。僕がジャズ聴始めた前年なので、その頃はまだとうようさんを知ってすらいなかった。

 

 

「ドキシー」はソニー・ロリンズの曲で、ゆったりとしたミドル・テンポで、ひょこひょことユーモラスに上下するメロディが特徴の曲。そういう軽妙な感じこそが、黒人感覚に根ざした真のファンキーさなのだと、とうようさんは強調していたように思う。

 

 

 

そう考えると、この「ドキシー」を含む『バグズ・グルーヴ』B面でピアノを弾いているホレス・シルヴァーの初リーダー・アルバムにある「ドゥードゥリン」なんかも、似たような感じだ。確か、とうようさんはこの曲にも言及していた。

 

 

 

随分後になって知ったけど、ジャズ評論家時代の大橋巨泉が、ファンキーなジャズの代表として一番誉めていたのが、そのホレス・シルヴァーだったらしい。「モーニン」など黒人教会風のアーシーさよりも、そういう軽妙でユーモラスな感じが真のファンキーとは、これに関しては、油井さんより巨泉の方が慧眼だったのか?

 

 

ホレス・シルヴァーのソロ第一作『&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』は、メッセンジャーズの実質的初代ピアニストのアルバムだったし、そのメッセンジャーズの名前がアルバム・タイトルに入っていたから買ったんだけど、「ザ・プリーチャー」も「ドゥードゥリン」も他の曲も、どこがいいのかさっぱり分らなかったんだよなあ。

 

 

どうして独立後のホレスのファースト・アルバムに「ジャズ・メッセンジャーズ」という名前が付いているのか、最初はなんだかワケが分らず、その後、このバンド名を巡ってホレスとブレイキーとの間で、かなりややこしい問題があったらしいことを知ったわけだが、それはこの際全く関係ないので省略する。

 

 

僕も今でこそホレス・シルヴァーは、モダン・ジャズ界最高の作編曲家の一人だと考えているけど、大学生の頃は、『ブローイン・ザ・ブルーズ・アウェイ』とか『ソング・フォー・マイ・ファーザー』など、分りやすくファンキーなアルバム以外は、そんなに好きじゃなかった。ピアニストとしてもそうだった。

 

 

そして、ホレス・シルヴァーなどの軽妙洒脱でユーモラスなファンキーさを辿ると、例えば、『スタンド!』くらいまでの、スライ&ザ・ファミリー・ストーンによく聴かれる、ちょっとスカした感じのクールなユーモア感覚も、同じ感覚だと気付いたりもした。

 

 

例えばこの「エヴリデイ・ピープル」 なんか、メロディー・ラインがわらべ歌みたいだし、ウ〜シャッウ〜シャと軽くスカしているかと思うと、急に強くシャウトしたりする。1960年代後半のスライのファンキーなナンバーにはこういうのが多い。

 

 

 

スライの代表的なファンク・ナンバーの一つ「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」も、リズミカルに始ったかと思うと、突然無伴奏になってハミングしだしたりして、その後もギターのファンキーなカッティング中心に進んで、急にストップしたりする。

 

 

 

以前は「スタンド!」の、特にその後半、パッと転調してリズムも変り、ディープな感じになる辺りとか、あるいはファンクの聖典「サンキュー」とかが大好きで(もっとも、スライの全録音で一番いいと思うのは、1969年ウッドストックでのライヴ音源だけど)、「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」も「マ・レディ」も「エヴリデイ・ピープル」も、最初に聴いた時は、カッコイイというより、かなりヘンな感じがするというか、珍奇なものに聞えた。

 

 

ファンク・ミュージックでも、昔はジェイムズ・ブラウンみたいな、ハードにドライヴしまくるホットなのが圧倒的に大好きだったけど(むろん今でも大好き)、最近はスライみたいに、さっき書いたような、ちょっとスカしたクールで軽妙な感じの方が好きになってきている。

 

 

時代を遡ると、そういうクールでスカしたブラック・フィーリングは、例えばルイ・ジョーダンの数々のナンバーなどにも感じられる感覚で、そう考えると、かなり以前から現代に至るまで、いろんな時代のいろんなジャンルで、黒人音楽ではそういう「ファンキー感覚」が一貫して存在していることに気付く。

 

 

言うまでもなく、ジャンプ・ミュージックに分類される音楽でも、ビッグ・バンド系は、ライオネル・ハンプトン楽団やラッキー・ミリンダー楽団みたいに、ハードでホットにドライヴしまくるのが身上みたいなのが多く、そういうのも大好きではあるけどね。それもまたブラック・フィーリングだ。

 

 

もちろん最初に書いた「ファンキー・ジャズ」というのは、1950年代末〜60年代前半の、黒人教会由来のアーシーな感覚を持つ特定の種類のモダン・ジャズを指して言う言葉として定着しているし、またそれはその後のソウル・ジャズや、70年代以後のジャズ・ファンクに繋がっていたりするので、それはそれで今でもたまには聴く。

 

 

だから、今でもクラブ・サン・ジェルマンでの「モーニン・ウィズ・ヘイゼル」におけるボビー・ティモンズのソロを聴くと興奮するんだけど、そんな狭い範囲に「ファンキー」という言葉を限定してはイカンということだなあ。英語も堪能なフラッシュ・ディスク・ランチの椿正雄さんが「ツェッペリンは一枚目の頃からファンキーだったよ」と言うのを、以前直接聞いたこともあるしね。

2015/10/15

ブルーズ三大キングで一番好きだったアルバート・キング

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大学生の頃に買ったブルーズマンで、一番好きだったのがアルバート・キング。といっても、その頃は『ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン』の一枚しか持っていなかったけど、これが最高だった。35分程度だけど、昔のLPはこんなもんだった。今は新譜でも平気で60分とか70分のとかがあるけど。

 

 

大学生の頃から、「ブルーズ界の三大キング」というのがいるのだということだけは一応知識として持っていて、そのうち、B.B.キングは『ライヴ・アット・ザ・リーガル』が名盤としてあがっているので、買って聴いてみたら凄くいいので大ファンになって、特にA面二曲目からのスロー三曲メドレーが最高だった。他にも何枚かレコードを買って聴いていた。

 

 

もっとも、僕が買っていたのは、その1965年の『ライヴ・アット・ザ・リーガル』以外は、全部70年代のアルバムで、『ザ・ジャングル』など、50年代から60年代初頭録音のクラウン/ケント時代が最高だと言われているということは、当時は全く知らなかった。

 

 

また、フレディ・キングについては、名前しか知らず、レコードは一枚も買っていなかったのはなぜだったんだろう?僕がフレディ・キングを聴くようになったのは、CD時代になってからのことだ。エリック・クラプトンが、影響源の一つとしてフレディ・キングの名前を出していたことを知っていただけ。

 

 

そしてアルバート・キングは、なぜか『ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン』だけ買って愛聴していたのだった。これ、どうして買ったんだろうなあ?B.B. キングを買ってから、その後初めて三大キングの名前を知ったんだったから、なんとなく興味を持ってレコード屋で探してみただけなんだろう。

 

 

ただ、あのアルバムには、店頭で見ると「ザ・ヴェリー・ソート・オヴ・ユー」があって、これ、ジャズ歌手がよく歌う古いポップ・スタンダードで、ビリー・ホリデイやフランク・シナトラやナット・キング・コールなどのヴァージョンで馴染のある曲名。それらと同じ曲なのかどうかは、聴くまで確信が持てなかったけど。

 

 

だって、「ザ・ヴェリー・ソート・オヴ・ユー」はブルーズ曲でもなんでもない普通のバラードで、ジャズ歌手やジャズ系のポップ歌手が歌うのなら分るけど、ブルーズ歌手がこれを取りあげるというのは、当時の僕はちょっと想像できなかったんだなあ。だから買って聴いてみるまで半信半疑だったのだ。

 

 

また、クリームの『ホイールズ・オヴ・ファイア』に「ボーン・アンダー・ザ・バッド・サイン」が入っていて、この二枚組レコードは僕が買ったのではなく、ロック好きの弟が買ってきたものを僕も聴いていたんだけど、それでこの曲は知っていたので、それもあのアルバムを買った理由だったはずだ。

 

 

またあのアルバムには「カンザス・シティ」もあって、ビートルズ(『ビートルズ・フォー・セール』)のヴァージョンとか、それも自分でレコードを買ったわけじゃないけど知っていて、あるいはジェイムズ・ブラウンの1968年アポロ・ライヴにも入っていて、それは自分でレコードを買って知っていた。

 

 

そういうわけで三曲は聴く前から知っている曲があったことも、アルバート・キングの『ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン』を買った大きな理由だったんだろうね。「クロスカット・ソー」をクラプトンが1983年の『マニー・アンド・シガレッツ』でカヴァーするけど、これはそっちの方を後で知った。

 

 

いざ買って聴いてみると、もう一曲、六曲目の「ザ・ハンター」も聴き憶えがあった。というのも、レッド・ツェッペリンがファースト・アルバムのラスト「ハウ・メニー・モア・タイムズ」の中で、これをやっているのだった。全然どこにも書いてはいないんだけど(このバンドはそんなのばっかりだね、今からでも遅くないからなんとかしてくれ、ジミー・ペイジさん)。

 

 

さらにもう一曲、どこかで聴いたようなメロディがあって、それは10曲目の「アズ・ティアーズ・ゴー・パッシング・バイ」。でもそれがなんなのかしばらく分らなかったんだけど、よくよく考えるとこの歌のメロディが、デレク&ザ・ドミノスの「レイラ」冒頭のギター・リフによく似ていた。クラプトンがここから借用したと認めていることを、後になって知った。

 

 

そんなわけで、聴いてみたら同曲と分ったポップ・スタンダードの「ザ・ヴェリー・ソート・オヴ・ユー」以外は、多くの曲がブルーズ系のロック・ミュージシャンにカヴァーされたり借用されたりしている、アルバート・キングの『ボーン・アンダー・ザ・バッド・サイン』。アルバム自体も大好きになった。

 

 

音がくぐもったようなというかモコモコしているというか、アルバート・キングのヴォーカルがそもそもそんな明瞭な歌い方じゃないし、声量も小さくて、これは録音に失敗しているんじゃないの?とすら思ったものだった。彼の弾くギターのサウンドもこもっているし。でも今CDで聴直すとそうでもないから、当時のこの印象はなんだったんだろう?

 

 

だから最初の頃は音質だけにはちょっと我慢しながら聴いていたけど、何度も聴くうちに、ヴォーカルもギターもバックバンドも、どんどんヤミツキになってくる魅力があったのだ。特にシングル・トーンしか弾かないギターの、チョーキングを多用するプレイが大好きで、ロック・ギタリストが影響を受けたのも分る。

 

 

大学生の頃は、あまり聴いてはいなかったブルーズ・ギタリストの中では、B.B.キングと並び、いやそれ以上にアルバート・キングのギターが大好きになった。ヴォーカルも凄いBBに比べたら、アルバートの方のヴォーカルは、なんというか、味があるとしか言いようがないけど。

 

 

それでも「アイ・オールモスト・ロスト・マイ・マインド」などは、曲のメロディと歌詞の良さと、フルートが入っているいうアレンジの良さも手伝って、アルバート・キングのヴォーカルもなかなかいいんじゃないかと思える。また名唱の多いスタンダードの「ザ・ヴェリー・ソート・オヴ・ユー」もいいね。

 

 

スタンダード曲だから数多くの名唱ヴァージョンが既にあって、アルバート・キングも当然聴いていたはずだから、それでも敢てこれを取りあげて歌ったというだけあって、「ザ・ヴェリー・ソート・オヴ・ユー」での歌は、アルバム中で一番いいように思う。1978年のアラン・トゥーサン・プロデュース作『ニュー・オーリンズ・ヒート』でも再演しているから、お気に入りなんだろう。

 

 

この1967年のアルバム、買った当初は全く分ってなかったことだけど、スタックス・レーベルの作品だ。スタックス最大のスター、オーティス・レディングのレコードは少しだけ持っていたけど、このレーベルのことは全く意識していなかった。スタックスに強い興味を持つのはCD時代になってからだ。

 

 

ただ、『ボーン・アンダー・ザ・バッド・サイン』には、バック・ミュージシャンの名前が書いてあったように思う。ブッカー・T&ザ・MGズとかメンフィス・ホーンズとかいう名前は一応分ってはいたし、個々のメンバー名も、スティーヴ・クロッパーとかドナルド・ダック・ダンなど、名前だけ見ていた。

 

 

そして、スタックス・サウンドということは全く分らずに、ただなんかカッコイイバンドだなと思いながら聴いていたのだった。タイトなリズムもホーン・セクションのサウンドも大好きだった。CD時代になってスタックスに強い興味を持ち始めると、これがサザン・ソウルの名バンドだということも分った。

 

 

今では全244曲のCD九枚組『ザ・コンプリート・スタックス/ヴォルト・シングルズ』なども愛聴している僕。これにはアルバート・キングも二曲だけ入っている。こういうのを通して聴くと、スタックスのリズム・セクションの素晴しさを強く実感する。この九枚組は面白いものばかりで、聴き飽きない。

 

 

それでもアルバート・キングの『ボーン・アンダー・ザ・バンド・サイン』では、米南部サウンドが大好きな僕が今聴いても、あまり南部臭がしないような気がする。サザン・ソウル歌手のレコーディングではないというのが理由なんだろう。でも熟練の腕前で、スタンダード曲も見事にこなしているね。

2015/10/14

音楽雑誌は海外盤をもっと積極的に取上げてほしい

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海外盤紹介のページがあったりはするけど、各種音楽雑誌など、日本の音楽ジャーナリズムは、基本的には日本盤があるものを中心に、あるいはそれらしか取りあげないものが多いよねえ。しかし、これは現在の海外音楽リスナーの現状を無視しているというか、業界寄りで、あまり読者寄りの姿勢じゃないね。

 

 

僕が現在毎月買って読んでいる音楽雑誌は、『ミュージック・マガジン』『レコード・コレクターズ』『ラティーナ』の三誌だけ。以前はもっといろいろと読んでいたけど、五年くらい前からこの三誌だけになった。三誌とも海外盤(輸入盤)を取りあげて紹介し、レヴューするコーナーは一応ありはする。

 

 

まあ日本のジャーナリズムなんだからということなんだろうし、日本盤が出るものについてはサンプル盤が送られてきたりするらしいし(ということは海外盤紹介のコーナーは、全部評者の自前で買って聴いたCDってことかな?)、その他いろいろ事情のあることは推察できるんだけどねえ。

 

 

でもそういう事情は、全て業界寄りの姿勢であって、読者の方は向いていないよねえ。今やアマゾンなどのCD通販もあるから、日本中どこにいても、国内盤・海外盤の区別なく自由に買えるし、実際輸入盤の方が安いケースが殆どだから、CDをたくさん買う人は、輸入盤中心に買っている人が多いはず。

 

 

海外盤紹介のコーナーがあると言っても、それはあくまでマイナーな扱いだし、メインはやっぱり国内盤の方だよなあ。雑誌での扱いは、もう全然規模が違うもん。ところが、海外の音楽を聴く多くのリスナーは、輸入盤メインで買っていると思うし、そもそも国内盤なんか出ないアルバムも多いもんなあ。

 

 

その昔、輸入盤LPの方が国内盤より高かった時代があったらしい。先達から伝え聞く話で知っている程度だけど。でも僕が洋楽のレコードをどんどん買うようになった1979年頃には、既に輸入盤LPの方が安かった。松山のレコード屋でも、どんどん買えた。当時は日本盤LPもたくさん買ってたけど。

 

 

その後東京に出てきた頃からは、輸入盤で買えるものは全部輸入盤で買うようになっていった。そっちの方が断然安かったので、たくさん買うにはそうするしかなかったということもあるし、ジャケットの色味とかも日本盤とは違っていたとか、さっきも書いたように国内盤なんか出ないものもあったわけだし。

 

 

国内盤は日本語のライナーノーツが付いているというのは、最初の頃はわりと助けになっていたもんだったし、米国人ジャズマンの国内盤LPのライナーで随分勉強させてもらった(拍子抜けするほどアホみたいなのも多かったけど)。でもその後は、他に情報獲得の手段も増えたので、それは必要なくなった。

 

 

そもそも音楽雑誌などの音楽ジャーナリズムは、国内盤ライナーでは知り得ないようなそういう様々な情報や分析を載せて、(輸入盤でしか買わないような)リスナーの一助となるというのも、大きな役目の一つなんじゃないの?それがお茶を濁す程度の海外盤紹介だけで終っていて、それで本当にいいの?

 

 

僕なんかに言わせれば、輸入盤だけを取りあげて、紹介しレヴューして、解説・分析するような音楽雑誌があってもいいんじゃないかとすら思ったりするんだけどなあ。だいたい僕が普段中心に買っている種類の音楽では、国内盤なんて殆ど出ていないよ。そういうものを詳しく取りあげてもいいんじゃないの?

 

 

そういう情報が紙媒体ではあまりないから、いきおい情報収集はネット中心にならざるを得ない。ネット上にはかなり情報がある。僕が最近主に買っている音楽では、いろんな方々のブログ、エル・スールさんのサイト、TwitterやFacebookで発信されている様々な情報源などだね。

 

 

だけど、ネットなんか普及し始める前は、みんなどうしてたんだろうなあ?僕もネット以前に音楽に熱中するようになった世代だけど、昔はどうしてたのかというのは、もうあまり憶えていないんだよなあ。紙媒体による数少ない情報や、物知りの友人・知人や、レコードショップの店頭や、ジャズに関してはジャズ喫茶などだったんだろうなあ。

 

 

ネットが普及してからは、まあ国内盤中心の音楽雑誌などは頼りにできないとみんな思うから、その意味でも音楽雑誌の売上げが伸びないんじゃないのかなあ。いまやネットでは輸入盤/国内盤の区別なんかどこにもないよ。英語ができれば世界中に情報がある。輸入盤/国内盤の区別の意味が、業界の人間ではない僕にはもう分らない。

 

 

今年買った良作であるレー・クエンもゴチャグ・アスカロフもファーダ・フレディもムハンマド・アッサーフもアゼルバイジャン古典ムガーム二枚組も、国内盤なんかない。ドルサフ・ハムダーニやマニュ・テロンやニーナ・ベケールやE.T.メンサーなど、国内盤があるものも、全部ライスから出ている。

 

 

というわけなので、最初に書いた僕が読んでいる三つの音楽雑誌でも、僕が一番熱心に見ているのは、海外盤紹介のページだったりする。それがもっと拡充すればいいのになあ。まあ、今はTwitterやFacebookなどで、海外の音楽家本人やレーベルから直接情報が得られる時代だったりはするけどさ。

2015/10/13

クラプトンのブルーズ

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エリック・クラプトンの『461・オーシャン・ブルヴァード』を初めて聴いた頃に気に入っていたのは「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」だったことを書いたけど、B面トップのエルモア・ジェイムズ・ナンバー「アイ・キャント・ホールド・アウト」も大好きだった。

 

 

クラプトンのアルバムで最初に聴いたのは、デレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』で、これはロック好きの弟が買ってきたものだった。その中にもブルーズ・ナンバーがあったわけだけど、クラプトンのやるブルーズ・ナンバーで最初に好きになったのが、その「アイ・キャント・ホールド・アウト」。

 

 

あのちょっとエッチな内容のブルーズ・ナンバー、その歌詞の様子をそのまま表現したようなクラプトンの歌い方とスライド・ギターも大好きだった。でもそれですぐにエルモア・ジェイムズのオリジナルを聴いてみようとはならなかったんだよなあ。むしろ、クラプトンのやる他のブルーズを聴きたくなった。

 

 

「アイ・キャント・ホールド・アウト」のエルモアによるオリジナル「トーク・トゥ・ミー・ベイビー」は、三連のいわゆるエルモア節。

 

 

 

これをレイド・バックした感じに解釈し直したクラプトン・ヴァージョンだって、今聴いてもいい感じだ。

 

 

 

クラプトンに、ブルーズに半端じゃない思い入れがあることを知るのはもうちょっと先のことだったけど、だいたい彼のどんなアルバムにもブルーズ・ナンバーがあったから、そういうのを楽しんで聴いていた。大学生の頃に買った『E.C.・ワズ・ ヒア』(邦題ダメ)の一曲目なんか、ホント凄かったもん。 

 

 

 

すなわち、「ハヴ・ユー・エヴァー・ラヴド・ア・ウーマン」。このブルーズ・ナンバーは『レイラ』にも入っていたので、それで初めて知った曲だったけど、僕には『E.C.・ワズ・ヒア』のライヴ・ヴァージョンの方がよく聞えたのだった。

 

 

 

このフレディ・キング・ナンバー、クラプトンは2006年のデラックス・エディションで初めて出た1966年のブルーズ・ブレイカーズでの録音(歌はボスのジョン・メイオール)以来現在に至るまで、それはもう何度もやっていて、録音されてアルバムに収録されたものだけでも何種類もあるけど、『E.C.・ワズ・ヒア』のライヴ・ヴァージョンを超えるものはないだろう。

 

 

同じライヴ・ヴァージョンでも、1991年の『24・ナイツ』に収録されているものは、あまりにも小綺麗にまとまりすぎていて、なんのエモーションも感じないし、こういう感じでブルーズが継承されるのに危惧を感じたりしてしまうものだけど(『アンプラグド』に数曲あるブルーズ・ナンバーも同様)、『E.C.・ワズ・ヒア』のは、歌もギターも、まさに溢れ出る激情を抑えきれないという感じ。クラプトンによるあらゆるブルーズ演唱で、生涯No.1じゃないだろうか。

 

 

全曲ブルーズ・カヴァー・アルバムである1994年の『フロム・ザ・クレイドル』には、この曲は入っていないけど、一曲目のリロイ・カーの「ブルーズ・ビフォー・サンライズ」では、まるでエルモア・ヴァージョンそのまんまの三連スライドに、思わず笑ってしまうくらいの、ギター完コピぶりだった。敬愛の情は感じる。

 

 

『フロム・ザ・クレイドル』は、僕みたいに単なる遊びでブルーズをやるようなアマチュア向けの教科書としては、格好のアルバムなんだろうとは思う。1995年に始めたパソコン通信で知合った仲間と、あの中から何曲かコピーして、スタジオで音出してよく遊んだものだった。

 

 

だって「フーチー・クーチー・マン」にしたって、マディ・ウォーターズのヴァージョンは、あのフィーリングはとてもコピーできるもんじゃないと観念していたからなあ。その点、『フロム・ザ・クレイドル』収録のなら、まだなんとかなるんじゃないかと思ったのだ。

 

 

もちろんクラプトンの『フロム・ザ・クレイドル』ヴァージョン(「フーチー・クーチー・マン」以外も)だって、なんとかなるんじゃないかと思ったのが、途轍もなく甘すぎたわけだけど(恥)。でも、マディのヴァージョンなんかをお手本にしようとしたら、もうなんにもできないからなあ。

 

 

マディ・ウォーターズ(『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』)→ https://www.youtube.com/watch?v=U5QKpsVzndc

 

クラプトン(『フロム・ザ・クレイドル』)→ https://www.youtube.com/watch?v=dpXeJSdW1xg

 

音の表面上は似ているけど。

 

 

「ファイヴ・ロング・イヤーズ」も。

 

 

B.B. キング(『ザ・ジャングル』)→ https://www.youtube.com/watch?v=0ep9dvTIVMM

 

クラプトン(『フロム・ザ・クレイドル』)→ https://www.youtube.com/watch?v=JKTdd7awuMU

 

前者を聴いた直後に後者を聴くと、なんかガッカリしてしまう。

 

 

2004年にもブルーズ・アルバムであるロバート・ジョンスン集『ミー・アンド・ミスター・ジョンスン』を出しているけど、あれはもう全然ダメだった。特にリズム隊がダメ。スティーヴ・ガッドはジャズ〜フュージョン・ドラマーとしてはいいけれど、ブルーズはちょっとねえ。でもガッドの責任じゃない。使っているボスが悪いんだ。

 

 

クラプトンのやるブルーズは、1990年代に入った頃から、歌の方は技術的には向上しているものの、エモーショナルではなくなっているし、ギターに至っては完全に手癖のみのオンパレード。上手くなっているというファンもいるんだけど、それは技術的円熟とマンネリを勘違いしているだけだろう。

 

 

結局、クラプトンのブルーズは、ギターも歌も1960/70年代が一番よかった。ブルーズに限らず、クラプトンは70年代までという人も多いけど、僕はギリギリ83年の『マニー・アンド・シガレッツ』までは聴ける。あれはドナルド・ダック・ダンのいるリズム隊もいいし、ライ・クーダーも入っているし。

 

 

そしてブルーズに限定しなければ、僕が一番好きで最高と思うクラプトンは、やはりデレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』(1970年)。米スワンプ風がたまらなく好きな僕だから、あの二枚組(現行CDでは一枚)に米南部風味を感じるんだなあ。リズム隊がLAスワンプ勢だし、デュエイン・オールマンも入っているから、当然だ。ファンファーレみたいなイントロが嫌いな「リトル・ウィング」だけは飛ばして聴くけど。

 

 

米スワンプ風なら、それより三ヶ月前にリリースされたファースト・ソロ『エリック・クラプトン』がいいんじゃないかと言われそうだ。もちろんあれも好きなんだけど、デレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』の方がもっと好きなのは、やっぱりデュエインが入っているせいなのか、収録曲に好きなのが多いせいなのか。

 

 

クラプトンのそういう路線(やジョージ・ハリスンの『オール・シングズ・マスト・パス』)の元々の由来になった、デラニー&ボニーの『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』も、もちろん好きだ。特に2010年リリースの四枚組デラックス版では、変名で参加していたジョージのスライドもちょっと聴けるし。

 

 

ライヴ盤では、やっぱり『E.C.・ワズ・ヒア』が一番好きで、書いたように「ハヴ・ユー・エヴァー・ラヴド・ア・ウーマン」が最高だし、イヴォンヌ・エリマンとヴォーカルを分け合う「プレゼンス・オヴ・ザ・ロード」だって大変ドラマティックで、ブラインド・フェイスのオリジナルより断然いい。続く「ドリフティン・ブルーズ」も、クラプトンのアコギがいい。これ、アナログ盤では、ジョージ・テリーのエレキ・ギター・ソロが始ってワン・コーラスでフェイド・アウトしていたんだけど、CDではフル・ヴァージョン収録になっている。でも、アナログ盤通り、フェイド・アウトでよかったような感じだなあ。

2015/10/12

マイルス〜ちょっとおかしなリイシュー事情

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昨日、マイルス・デイヴィスの『アガルタ』『パンゲア』は、完全フル収録のものとそうでないものがあると書いたけど、事情が異なるとはいえ、似たような違いがあるのは、それだけではない。マイルスの他の作品でも、ものによっては、収録されていなかったものが収録されるようになっている。

 

 

誰が聴いても分るのは、コルトレーンやレッド・ガーランド等を擁したファースト・クインテットによる、プレスティッジへのいわゆるマラソン・セッション四部作。そのうち、オリジナル・アナログ盤では、『リラクシン』の一部にだけ、演奏前のやり取り等が収録されていたが、最近ではそれだけじゃない。

 

 

『リラクシン』一曲目の「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」と二曲目の「ユア・マイ・エヴリシング」にだけ、演奏前のやり取りをする声や、レッド・ガーランドによるピアノ・イントロ弾き直しが収録されているというのが、従来盤LP。ある時期からのCDリイシューでは、「オレオ」にもそれが入っている。

 

 

『リラクシン」だけじゃない。『クッキン』二曲目の「ブルーズ・バイ・ファイヴ」も、LPと従来盤CDでは単に本演奏が入っているだけだったのが、最近のリイシューCDでは、本演奏前に会話や楽器のウォーミング・アップをしたりする様子が、少し収録されるようになっている。

 

 

プレスティッジのマラソン・セッション四部作では、その二つだけしか違わないのだが、これがいつ頃からそうなったのかは、僕もよく分らない。CDリイシューでも最初の頃はそれらはなく、アナログ盤と同じだったはず。ホントいつ頃からそれらが入るようになったんだろう?

 

 

しかも『リラクシン』の場合は、村井康司さんの紹介で知って買った、2013年リリースのプラチナSHM盤では、「オレオ」の前のそういうやり取りは入っておらず、アナログ盤と全く同様の内容になっている。SACDでも出ているけど、それは聴いていない。

 

 

そして、そういうちょっとした違いが、実はコロンビア移籍後のアルバムのCDリイシューでも少しだけあって、例えば『カインド・オヴ・ブルー』一曲目の「ソー・ホワット」、最近のCDではラストのフェイド・アウトのタイミングが少し遅い。つまり収録時間が若干長い。嫌になるほど聴いてきたので、即座に分った。

 

 

そういう曲終了時のフェイド・アウトが遅い(長く収録されている)のは、『ビッチズ・ブルー』一曲目の「ファラオズ・ダンス」でもそうだ。「ソー・ホワット」にしろ「ファラオズ・ダンス」にしろ、どっちも繰返し繰返し聴いてきている熱心なファンじゃないと、すぐには気が付かないような違いではあるけどね。

 

 

僕もマイルスの全作品を飽きるほど繰返し聴いてきていたというのでもなく、あまりそう何度もは聴いていないアルバムもあるので、探せば他にもこういうことが見つかるかもしれない。ギル・エヴァンスとやった『マイルス・アヘッド』では、モノラル盤と昔のステレオ盤で、一時期はテイクが違っていた(現在は統一されている)。

 

 

『ビッチズ・ブルー』の場合、ちょっと聞捨てならない話を小耳に挟んだことがある。それは、従来のマスター・テープが著しく劣化してしまったので、ある時期のリイシューCD発売時に、オリジナル・セッション・テープから、もう一度同じように新たに編集し直して、マスターを作り直したらしいというもの。

 

 

特に『ビッチズ・ブルー』一枚目の「ファラオズ・ダンス」と「ビッチズ・ブルー」は、テオ・マセロが跡形なく編集しまくっている(僕はブート盤でオリジナル・セッションを聴いているけど、そうでなくても分るはず)ので、マスター再作成は相当苦労するはず。音の質感も変ってしまうだろう。

 

 

僕はある時その噂を読んで、信じられない思いがすると同時に、「ああ〜、道理で音の質感が違うと思った」と得心もいった。僕の感触では、1998年に『コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』ボックスが出て、その後単独でリリースされるようになった、「フェイオ」入り『ビッチズ・ブルー』から変った。

 

 

だいたい、『カインド・オヴ・ブルー』や『ビッチズ・ブルー』みたいな、完璧な形をしている作品に、それぞれ一曲ずつボーナス・トラックを入れて再発してしまうということ自体が許せないのだが、それはもう大勢の方々に言尽くされていることなので、繰返さない。しかし、マスター作り直しというのは、どうなんだ?

 

 

オリジナル・セッション・テープから、CDリイシュー用にマスターをイチから作り直すということは、あの複雑な編集作業もミキシングも、イチからやり直すということだし、いくらオリジナル・マスターが劣化しているとはいえ、ちょっと信じられない話なのだが、僕が聴く限りでは、音が変ったのも確か。

 

 

『ビッチズ・ブルー』同様に跡形なく編集されている『イン・ア・サイレント・ウェイ』の両面(こっちは、公式にオリジナル・セッションがリリースされているので、誰でも編集模様を確認できる)や他のアルバムでは、どんなCDリイシューを聴いても、そのような音の質感の違いは、僕の耳には感じられない。むろん、アナログとデジタルの音の違いとか、CDでも高音質化による違いとか、それは別の話。

 

 

マイルスのコロンビアでの音源は、ある時期にほぼ全ての音源がいろんな形のボックスで(「コンプリート」と称して)リリースされ、その際に同じセッションからの未発表テイクや未発表曲も収録・発売され、その後に出るようになった単独CD再発からは、いろいろと変っているものがある。ボーナス・トラック収録もその一つ。

 

 

ボーナス・トラックだけなら、CDだと聴かないことも簡単だから、あまり問題ではないような気もする(さっき書いたように許せないのではあるが)。がしかし、従来から収録されている曲の音の質感が変化したり、フェイド・アウトのタイミングが変って、長く収録されていたりするのは、やっぱりちょっとおかしいよなあ。

 

 

繰返さないと言ったけど、本当はボーナス・トラックにだって言いたいことはあるよ。最近は「『ビッチズ・ブルー』にビリー・コブハムが参加している」という文章をネット上で見掛け始めるようになった。しかしこれ、ビリー・コブハムが入っているのは、ボーナス・トラックの「フェイオ」のこと。大変にミスリーディングじゃないか。

 

 

もちろん『ビッチズ・ブルー』を録音した69年8月の三日間にビリー・コブハムは参加していない(彼が参加した「フェイオ」は、1970年1月録音)。そういう文章を書く人が、分って書いているのかどうか、判断しがたいことがあるんだけど、いずれにしてもそういう文章を書かせるようになった根本原因は、ボーナス・トラック入りで再発するレガシーにあるんじゃないの?

 

 

こんな些細なことは、普通の一般のリスナーにはあまり関係ないことかもしれない。こだわっているのは、故中山康樹さんや僕みたいな、一部の熱烈なマイルス・ファンだけかもしれない。しかし、逆に言えば、詳しい事情をあまり知らない一般のリスナーにこそ、ちゃんとしたものを届けるべきじゃないの?

 

 

だって、僕ら熱心なファンは、見たり聴いたりしたら、「おかしい」「違う」って分るからね。そういう違いが分らない普通のリスナーのみんなは、いわば「騙されている」ままなのだ。それこそ問題なんじゃないのかなあ。そのあたり、マイルスの再発を担当しているレガシーの関係者はどう考えているんだろう。

 

 

そんなにこだわるのなら、オリジナル通りのアナログ盤で聴けばいいじゃないかと言う声が聞えてきそうだ。そう言われたら、全くその通りで返す言葉もない。しかしまあ人それぞれ事情というものがあるのさ。それに僕のこういう発言は、21世紀になってから、リイシューCDでマイルスを聴始めた方々向けのものなのだ。

2015/10/11

ノーカット・完全収録を謳う『アガルタ』『パンゲア』も・・・

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積極的にジャズを聴始めたのが1979年だったから、すぐにマイルス・デイヴィスを知って大好きになった(きっかけはキャノンボール名義の『サムシン・エルス』一曲目の「枯葉」)ものの、マイルスは1975年に一時引退状態に入っていたので、当時はライヴを聴くことはできなかった。

 

 

だから僕がマイルスのライヴを初めて聴いたのは、1981年の復帰後初来日公演。聴いたのは福岡公演だった。当時愛媛大学に通っていて松山に住んでいた僕は、大阪公演とどっちに行くか迷って、調べて交通費が少し安い福岡にしたのだった。当時ジャズ仲間だった二人と一緒に三人で行った。

 

 

その1981年の福岡公演は、僕が三人分チケットをまとめて手配していて、当日会場に着いたら渡す予定になっていた。大分までフェリーで渡り、次いで電車で福岡まで行った。会場の福岡サンパレスに近づいて「チケットを渡してくれ」と言われて探したら、どこを探しても見つからないので、真っ青になった。

 

 

どこでなくしたのか全く分らなかった。自宅を出る時は確かに持っていたし、行きのフェリーの中で期待感に胸を膨らませながらチケットを取りだして眺めていたくらいだったのに。会場で顔面蒼白、冷汗ダラダラの僕は、一緒の友人にとにかく受付で聞いてみろと言われて、そうしてみた。

 

 

受付で聞いたら、電話でチケットを買い郵送した人の分は記録があるのでと言われて調べてもらい、確かに三人分購入した記録があって、座席も分っているので、案内しますと言われて大いに安堵した。ただし、そのチケットを拾いでもした人がその席に座っていたら、その人との交渉になりますと言われた。

 

 

その席に座る人は開演時間になっても現れなかったので、無事三人ともマイルスのライヴを聴くことができたというわけ。いやあ、今でもその時の話をその友人達とすることがあって、今では笑い話だけど、その時はコイツなにやってくれているんだという気分だったらしい。そりゃそうだよねえ。

 

 

だから、マイルスの1881年福岡公演を聴きに行った時は、まあ珍道中というか、珍道中にしたのは完全に僕一人の責任だったわけで、だから肝心のライヴ・ステージの内容は殆ど憶えていないんだなあ。憧れのマイルスを初めて生で観たという、ただそれだけで胸が一杯だったということもある。ドラムスのアル・フォスターが怪物だったということくらいしか、音楽内容は憶えていない。

 

 

ただ、当時から憶えていたのは、一部が45分くらい、二部がわずか30分くらいだったこと。これは同じ年の東京公演をフル収録した『マイルス!マイルス!マイルス!』でもほぼ同様であることが確認できるから、この年の来日公演は全部そうだったんだろう。御大マイルスが著しく体調を崩していた(肺炎を起していたようだ)ことは、後で知った。

 

 

『マイルス!マイルス!マイルス!』を聴いても分るように、この1981年来日公演でのマイルスはボロボロで、マイルスはもう終ったんだと思ったファンも多かったらしい。ところが、翌年出た復帰第二作の『ウィ・ウォント・マイルス』に収録された東京音源を聴くと、そんなに悪くもないので、やや驚いた。

 

 

といっても、『ウィ・ウォント・マイルス』は来日公演の翌年1982年にリアルタイムで出たけど、『マイルス!マイルス!マイルス!』が出たのは1993年のことだから、上記の印象は後付けなのだ。当時は『ウィ・ウォント・マイルス』しかなかったから、悪くないじゃないかとしか思っていなかった。

 

 

こういうのは、やはりライヴ・テープを編集したテオ・マセロの手腕だったんだろうなあ。東京で収録された、一枚目の「ジャン・ピエール」も「ファスト・トラック」(「アイーダ」)も、かなり編集のハサミが入っている。もっとも、あの『ウィ・ウォント・マイルス』で一番いいのは、二枚目A面の「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」だけど。

 

 

現場で生を聴いた印象と、作品化された録音盤を聴いた印象が、同じソースでも異なるというのはよくあることだ。その1981年福岡公演に一緒に行った友人二人のうち一人は、『アガルタ』『パンゲア』になった1975年の大阪公演も生で体験した人という人なんだけど、それだってアルバムになったものは印象が違うと言っていた。

 

 

念のために言っておくと、かなり編集されている『ウィ・ウォント・マイルス』はもちろん、他の殆どのマイルスのライヴ盤と違って、『アガルタ』『パンゲア』は、1975年大阪でのライヴ・ステージそのまんまを無編集で収録したもの。バンド本体の演奏終了後の様子を若干カットしてはいたけど。

 

 

ちなみに『アガルタ』『パンゲア』が、当日のコンサートそのまんまで本当にフル収録されて発売されているCDは、特に『アガルタ』に関しては、多くない。日本でだけ、それも一回だけで、その後はまた従来盤と同じに戻っている。今聴くと、LP(や殆どのCDリイシュー)でカットされている部分もなかなか面白い。

 

 

カットといっても、バンドの本演奏には一切ハサミは入っていないし、編集もされていない。カットされていたのは本演奏が終ってから、二・三人のメンバーがステージに残って、シュトックハウゼンみたいな電子音楽をやっている、ほんの二・三分の部分。なかなか面白いんだよねえ。

 

 

バンドの本演奏とは本質的に無関係な部分だからカットしてあったんだろう。でも1975年の『アガルタ』日本盤LPに付いている児山紀芳さんのインタヴューで、児山さんがその部分について質問していてマイルスも答えている箇所があり、しかしLPを聴いても存在しないので、なんのことだろうと思っていた。

 

 

そのインタヴューではマイルス自身が「シュトックハウゼンのやっているような音楽みたいなもんだ」「自分は(本演奏が終って)袖に引っ込んでも、それをコントロールしているんだ」と語っていて、聴きたいと思ってたんだけど、聴けたのは、何十年も後になってからのこと。

 

 

バンド本体の演奏終了後の模様が収録されていたのは、LPでは、『パンゲア』一枚目だけ。それ以外は全部、本演奏終了後の様子はカットされていた。また、『アガルタ』のLPでは二枚とも、本演奏終了後だけでなく、本演奏自体の冒頭も少しだけカットされていた。それが収録されているものを聴いても、演奏全体の印象には全く無関係だけど。

 

 

出だしといい、尻尾といい、カットされているのも収録されているのもどっちも何度も聴いた僕に言わせれば、はっきり言ってどっちでもいい。音楽の本質は全く同じだ。こんな細部にこだわっているのは、僕を含め一部のマイルス・マニアだけだろう。

 

 

なお、『アガルタ』の場合は、バンドの本演奏終了後のカット部分はもちろん、LPではカットされていた二枚目冒頭は、ある時期以後のCDリイシューでは全て収録されているけれど、一枚目冒頭のマイルスのオルガンが少しカットされていたのが再現されて完全収録されてたのは、CDリイシューでも一回だけ。今売っている現行CD含め、他の全てのCDリイシューでも、カットされているままなのだ。

 

 

面倒くさいけど確かめてみたら、日本で1996年にリリースされたマスターサウンド盤CD、『アガルタ』SRCS 9128~9。これだけだ、真の意味で全てが完全にフル収録されているのは。音質はその後の、これも日本盤のDSDリマスター盤が最高(『アガルタ』『パンゲア』の二つだけは、最初のLPから現行CDに至るまで全て、日本盤の方が音がいい)だから、いつもどっちを聴くか迷ってしまう。『アガルタ』はマイルスのアルバムでは一番好きなものだから、余計そうだ。

 

 

しかしソニーは完全収録盤CDをどうして1996年の一回だけしか出さなかったんだろう?ほんのちょっとのことなのに。どうせ一回出したんだから、その後もそのままのフル・ヴァージョンでDSDマスタリングして音質向上して出してくれたらよかったのになあ。解せない。なにか出せない理由があるんだろうか?

2015/10/10

マグリブ音楽に導いてくれた大恩人

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オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス(ONB)のデビュー・ライヴ・アルバムから、冒頭三曲のメドレーをYouTubeにアップした。一続きになっているのに、三曲続いている状態でアップされているものが一つもなかったから。

 

 

 

ついでに、そのONBのヴィデオ(静止画だけど)、録音年月日、録音場所、パーソネル等の録音データも、全部ちゃんと書いておいた。これらは、まとめてどこかに記載されてはいないので、全部知るのにちょっとだけ時間が掛った。CDアルバムは元々フランス盤なのだが、それに付いている紙の小さな字を老眼鏡をかけて読直した。

 

 

そのONBのデビュー・ライヴ・アルバム、1998年リリースだと思っていたけど、調べてみたら1997年のリリースだった。もっともそれは、フランス原盤のリリース。日本盤が出たのはその翌年のはずだ。僕が当時やっていたパソコン通信の音楽フォーラムでの知合いに勧められて買ったのも、同年。その友人と一緒に渋谷HMVへ行き、ワールド・ミュージック・コーナーで勧められて買ったのだった。彼は、独力で見つけて買ったと言っていたなあ。そのONBのデビュー・アルバムで、マグリブ音楽にはまってしまった。

 

 

特に、僕がアップした冒頭三曲のメドレーにやられてしまったんだよなあ。一曲目の出だし、聴いたことのないカシャカシャという金属音(それがカルカベという鉄製カスタネットであることを、直後に知った)に導かれ、歌が始り、しばらく経ってバンド全体が加わる辺りのスリルはたまらない。

 

 

もう無数に繰返し聴いたので、今では聴き返してもさほどのスリルは感じないのだが、最初に聴いていた頃の、特にベースとドラムスが入ってきてグルーヴし始める瞬間の、背筋がゾクゾクする感じは、今でもよく憶えている。あの瞬間に、このアルバムは大傑作だと確信できるものだった。

 

 

1998年に、そのONBのアルバムを初めて聴いた時は、恥ずかしながらまだ「マグリブ」という言葉すら知らなかった。そのアルバムの日本盤ライナーに書いてあって、それで初めて知ったのだった。僕が渋谷HMVで買ったのはフランス盤で、日本盤を買った先の友人が日本語ライナーノーツをコピーしてくれたのだった。

 

 

前にも一度書いた気がするけど、一応シェブ・ハレドくらいは聴いてはいた。シェブ・ハレドはアルジェリア(つまり、いわゆるマグリブ地域)出身のライ歌手。ONBのデビュー・アルバムでもライ・ナンバーがあって、最初に書いた三曲メドレーの三曲目「ハグダ」が、まさにライ。でも違って聞えたんだなあ。

 

 

シェブ・ハレドはいいとはおもっても、そんなにハマらなかったのに、なぜONBのデビュー・アルバムで聴けるライ・ナンバーにはハマってしまったのか、その辺は自分でも分らない。ONBのデビュー・アルバムには、ライだけでなく、グナーワやシャアビなど、まさに汎マグリブ音楽という趣があった。

 

 

念のために書くと、マグリブ(Maghreb)地域とは、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラといった北アフリカの旧フランス領(西サハラは旧スペイン領)のアラブ・アフリカ諸国を指す言葉。リビアを含めることもある。それらの地域の歌手やミュージシャンで腕に覚えのある者は、フランスに渡って活躍する人も多い。

 

 

ONBもフランスで1995年に結成されたバンド。中心人物は、やはりアルジェリア出身のベーシストであるユセフ・ブーケラ。ユセフはアルジェリアのライ歌手、シェブ・マミの伴奏を務めていた経験がある、腕利きベーシストにしてコンポーザー。その他、初期はアジズ・サハマウイもいた。

 

 

ONBのデビュー・アルバムには、ライ(アルジェリア)、シャアビ(アルジェリア)、グナーワ(モロッコ)などのマグリブ音楽が息づいているだけでなく、それらが現代ポピュラー・ミュージックのバンド編成によって、ジャズやロックなどと渾然一体となって溶け込んでいて、門外漢にも聴きやすかった。

 

 

それで僕の興味は、そうしたミクスチャー系サウンドには向わず、ルーツであるアルジェリアやモロッコのマグリブ音楽を探究する方向へ向った。だから、それ以後一層ミクスチャー度を強めていくことになった三作目『エリク』以後のONBのアルバムは、あまり好きではない。大恩人だし惚れた弱みで、全部買い続けてはいるけど。

 

 

今では初期ONBの重要人物で、デビュー・アルバムにも参加しているアジズ・サハマウイも、バンドを去っている。ONBはアルバムを作り続けているし、ライヴ活動などはフランスを中心に今でも活発に行っているようだけど、現在のONBにはあまり興味はない。1997〜99年頃ならライヴも凄く観たかったけど。

 

 

だから、シェバ・ジャミラ&リベルテの2007年のライヴ・アルバム『Enregistrement Public Au Festival Les Escales 2005』には、凄く狂喜した。アルジェリアのライ歌手のフランスでのライヴ盤なんだけど、バック・バンドがほぼONBらしかった。

 

 

あのシェバ・ジャミラのライヴ・アルバムには、ONBにはいないヴァイオリン奏者が参加しているけど、他はバック・バンドのリベルテとは、ほぼONBのようだ。さすがは経験を積んだ熟練バンドらしい手腕で、ライヴで本領を発揮しているのがよく分る、コクのある演奏だった。インスト曲もある。

 

 

だけど、その後に出た、2013年のONBの二枚組ライヴ盤は、ちょっと試聴したらいいと思って買いはしたものの、じっくり聴いたらそうでもなくて、やはりガッカリしてしまったんだよなあ。その他のスタジオ盤もそうだった。今後、このバンドがどうなっていくのかは、僕には分らないけど。

 

 

あのONBのデビュー・ライヴ・アルバムは、全部通して78分以上もあるので、最後まで集中力を保ったまま聴き通すというのは、ちょっとしんどいことではある。僕も最初の頃は通して繰返し聴いたけど、最近は特定の曲(群)だけを抜出して聴くとかいうことが多い。

 

 

僕のMacのiTunesには、ONBは一作目の『アン・コンセール』だけでなく、二枚目のスタジオ作『プリナ』までは入れてある。『プリナ』は、マグリブ色が強くてまだそんなにミクスチャー風ではなく、一作目に似ている感じで、かなりいいよね。ノイジーな打楽器がブンブン鳴るレゲエ風のタイトル・トラックとか、ゲンブリと手拍子と歌だけ(カルカベが入ればもっといいのに)のグナーワ・ナンバー「マリアマ」とか、最高だ。

 

 

ついでに書くと、バンド名に入っている「バルベス」というのは、パリ18区のアラブ人地区のこと。オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベスとは、バルベス国立楽団という意味だけど、別にそういう国があるわけではない。でも架空のというか、バルベス地区に象徴されるアラブ音楽のバンドというわけ。

 

 

余談だけど、ONBのデビュー作を買って聴いた1998年には、ハレド+ラシード・タハ+フォーデルによるフランスでのライヴ盤『アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ』もあって、あれには大いに感銘を受けて、タハ、フォーデルという二人を知っただけでなく、ライを本格的に掘下げるきっかけにもなったのだった。

 

 

 

なお、ONB関連でネット検索すると、ライのページに行着くのは当然としても、そのライのなかにグナワ・ディフュジオンを含めている文章がある。これはちょっとどうだろうか?グナワ・ディフュジオンはライをやったことは全くないはず。初期の頃は、フランスでも、この誤解を解くのに苦労したらしいが・・・。

2015/10/09

一番繰返し聴いたレコード

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昨日の記事後半で触れた、1930年代後半のテディ・ウィルスンによるブランズウィック録音のことを思い出していた。特にその中で、ナン・ウィンが歌った一曲「イフ・アイ・ワー・ユー」のことを、なんとなく考えていたのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=7YFqqGo7_U8

 

 

なかなかいいよねえ。僕がこの曲を聴くと思い出すのが、油井正一さんのエピソード。油井さんは若い頃、この1938年録音のSP盤が大のお気に入りで、特にナン・ウィンのヴォーカルが大好き。あまりに好きすぎてナン・ウィンに恋焦がれ、友人から「イフ・アイ・ワー・ユイ」とからかわれたとか。

 

 

そのエピソードを読んだのも、記憶が確かなら、二枚組LP『ザ・テディ・ウィルソン』のライナーノーツの中でだったはず。CSBソニーから昔出ていたこの『ザ・テディ・ウィルソン』、全くCD化される気配すらないけど、名盤だった。そのうちCDになるだろうと、アナログを手放したのは失敗だった。

 

 

昔、CBSソニーに伊藤潔さんというプロデューサーがいて、コロンビア系の戦前古典ジャズのLP復刻をたくさんリリースしていた。『ザ・テディ・ウィルソン』もそういう伊藤潔さんが手がけたものの一つ。テディ・ウィルスンの1930年代ブランズウィック音源をまとめた(といっても厳選集だけど)のは、おそらく世界でこれだけ。

 

 

テディ・ウィルスンの1930年代ブランズウィック・セッションは、ほぼ同時期のライオネル・ハンプトンによるヴィクター・セッションと並んで、少なくとも日本では、スウィング時代のスモール・コンボによる、二大名セッションと言われていた。ハンプのヴィクター録音も大好きだったけど、本家ヴィクターではCD化されていない。

 

 

テディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションの方は、伊藤潔さんの発案で企画に参加したのが油井正一さん、粟村政昭さん、大和明さんの三名だったらしい。全部で135曲あるテディ・ウィルスンのブランズウィック録音から、LP二枚用に33曲を厳選したのが、そのお三方だったそうだ。

 

 

このブランズウィック録音のLP化に際しては、かなりの苦労があったようで、本家米コロンビアも戦時中に原盤を供出してしまっていたので、提供を受けたのはSP盤をスタンパーにして作成されたアセテート盤。中には聴くに堪えないものもあったので、国内の蒐集家からSP盤を借受けたりもしたらしい。

 

 

そうやって発案・企画からLP発売まで約一年以上もかかったらしい。こういう事情は全てその『ザ・テディ・ウィルソン』のライナーノーツに書いてあったことなのだ。この二枚組LPは、戦前の古典ジャズに興味を持つ日本人で、持っていない人はいなかったのではないかと思うほどのものだった。

 

 

もちろん僕も買って、狂ったように繰返し繰返し聴いた。あらゆるアナログ盤のなかで一番回数多く聴いたのは、間違いなくこの二枚組だ。さっきも書いたように、同じく名演の誉れ高いライオネル・ハンプトンのヴィクター・セッション一枚物LPも、参加メンバーがかなり重なっていて、そっちもかなりよく聴いたけど。

 

 

『ザ・テディ・ウィルソン』二枚組で一番好きだったのが、冒頭に入っていた「ブルーズ・イン・C・シャープ・マイナー」。 これは僕が自分で上げたもの。既にいくつか上がっていたけど、録音データ等の記載がないものばかりだから。

 

 

 

録音順を多少無視しても、この曲を冒頭に持ってきたのは、大正解だった。その曲順を考えたのが油井さん、粟村さん、大和さんのお三方のうちどなたなのかは知らないけど。テディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションを代表する名演だし、曲名はアレだけど、演奏内容は素晴しい。

 

 

18歳の頃、この「ブルーズ・イン・C・シャープ・マイナー」を初めて聴いた時は、衝撃ですらあった。こんな世界があったんだと、まるで初めて異性を知った時のように、それ以後は完全に生きている世界が一変してしまうほどの驚きだった。クラリネットを吹くバスター・ベイリーの叙情などはもうねえ。

 

 

たちまち、バスター・ベイリーの大ファンになり、彼の参加しているジョン・カービーのバンドなども聴いた。ロイ・エルドリッジもチュー・ベリー(コールマン・ホーキンス系のジャズ・テナー奏者では一番好き)も、これで初めて知った名前。チュー・ベリーのエピック盤(猫ジャケ!)も大好きだった。

 

 

ちなみに、猫ジャケであるチュー・ベリーのエピック盤はコレ↓

 

 

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<エピック・イン・ジャズ>のシリーズは、全部こういう猫ジャケ。チューは、間違いなくキャブ・キャロウェイ楽団での活躍が一番有名だけど、僕には、まず第一にテディやハンプのセッションの人だった。

 

 

脱線だけど、全部が猫ジャケのエピック・イン・ジャズのシリーズでは、『デュークス・メン』が一番好きで、「キャラヴァン」の初演はこれに入っていた。他にも「言い出せなくて」の名演が入っているバニー・ベリガンとか、レスター・ヤングとかも、このシリーズにあった。

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ますます脱線だけど、『デュークス・メン』は、30年代後半のバーニー・ビガード、クーティ・ウィリアムズ、レックス・スチュアート、ジョニー・ホッジズのリーダー名義のスモール・コンボ録音だけど、ピアノで参加している御大が、完全にエリントン色に染上げている。間違いなく編曲もしているはず。

 

 

さて、僕がアップした「ブルーズ・イン・C・シャープ・マイナー」の画像に使っているのが、他ならぬ『ザ・テディ・ウィルソン』のジャケ写。同曲のブランズウィック盤SPレーベルの写真だ。物凄く思い入れのあるLPジャケット。ネットで探したら転がっていたので、拝借させていただいた。

 

 

こういう一連のテディ・ウィルスンのブランズウィック録音は、本家コロンビアからはCD化されていないけど、フランスの戦前ジャズ復刻専門レーベルのClassicsから録音順でバラ売りの全集CDが出ているのを持っていることは、昨晩も書いた。YouTubeにアップした音源もそれから取ったもの。

 

 

かつての『ザ・テディ・ウィルソン』LP二枚組の収録曲・曲順も分っているので、その通りにiTunesでプレイリストを作成し、CDRに焼いて、今でもたまに聴いている。CDだと全部が一枚で収る長さ。本家コロンビアからCDリイシューしてほしいんだけど、まあ原盤がないとのことだから、無理なのかもなあ。

 

 

かつて大学生の頃の僕は、こういう音楽が一番好きだった。マイルスよりもサッチモよりもエリントンよりも、『ザ・テディ・ウィルソン』二枚組LPでしか聴けなかった、テディ・ウィルスンのブランズウィック録音が好きだった。今ではたまにしか聴かないけど、今日久々に聴いたら、やっぱりいいね。

2015/10/08

よかった頃のベニー・グッドマン

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1958年のベニー・グッドマン楽団の演奏動画をツイートしていた人がいたけど、僕は今はもちろん昔も、39年以後のグッドマン楽団は殆ど聴いたことがない(チャーリー・クリスチャンが入っているスモール・コンボは例外)。エディ・ソーター・アレンジの奴くらいじゃないかなあ、ちゃんと聴いたのは。

 

 

チャーリー・クリスチャン在籍時のベニー・グッドマン・コンボの演奏は、昔から大好きで、でもアナログ時代はちゃんとまとまった形ではリリースされておらず、散発的に手に入るもので、辛うじて喉の渇きを癒していた程度。CDでは、2002年に『ザ・ジーニアス・オヴ・エレクトリック・ギター』という四枚組に集大成されて、聴きやすくなった。これは愛聴盤。

 

 

ベニー・グッドマン・ファンからも、チャーリー・クリスチャン・ファンからも、どうもこのコンボ録音は、若干看過されてるような気がする。個人的には、チャーリー・クリスチャンでは、例のミントンハウスでのセッションものよりも、グッドマン・コンボでの録音の方が好きなんだけどなあ。クリスチャンのギターについて、グッドマンが、これがビバップという奴なら、ビバップも悪くないなと言ったらしい。

 

 

なお、1939〜41年に在籍したチャーリー・クリスチャンは、テディ・ウィルスン、ライオネル・ハンプトンに続いて、ベニー・グッドマンが雇った三人目の黒人ジャズマン。ブラック・ミュージック・ファンで、グッドマンが好きで聴く人は少ないと思うけど、彼は自分のバンドで黒人を雇った、あの時代では稀(史上四人目)な白人バンド・リーダーなのだ。この事実だけは、憶えておいてほしい。このため、グッドマンは白人客から罵られることもあったらしい。

 

 

クリスチャン入りのコンボ録音以外の、ベニー・グッドマン楽団の演奏で、今でもごくたまに取りだして聴くのは、例の1938年のカーネギー・ホール・コンサートだけ。あれはいい。でもあれには、グッドマン楽団以外にも、エリントン楽団やベイシー楽団から、大勢の黒人ジャズマンが参加しているけどね。

 

 

あっ、チャーリー・クリスチャンとのグッドマン名義のコンボ録音以外にも、例のビリー・ホリデイのコロンビア録音に参加しているものは大好きで、今でも結構聴く。なかでも特に「ミス・ブラウン・トゥ・ユー」の歌の前に出る、イントロのクラリネットは絶品だね。

 

 

 

 

最高にチャーミングだよね、このイントロのクラリネット。油井正一さんがこれにゾッコンで、イントロばっかり繰返して聴いていたというのも納得。自分名義の録音全てを含めても、グッドマン生涯最高のソロだと思う。

 

 

ベニー・グッドマンは、テディ・ウィルスンの一連のブランズウィック録音にも参加してて、そっちでも結構いいソロを吹いているんだよなあ。テディ・ウィルスン名義のブランズウィック録音と、ビリー・ホリデイ名義のコロンビア録音は、実質的には同じセッション。名義を変えて発売しただけ。

 

 

その証拠に、「君微笑めば(When You’re Smiling)」なんかも、ビリー・ホリデイ名義とテディ・ウィルスン名義の両方で発売されたもんね。テイクが違うだけで、同じ日の同じメンツによる同じ録音。ビリー・ホリデイの歌もほぼ同じ。レスター・ヤングのテナー・ソロのフレージングが違うくらい。

 

 

こうしたビリー・ホリデイやテディ・ウィルスンの録音にベニー・グッドマンが参加したのは、これをプロデュースしたジョン・ハモンドの肝いりというか命令だったらしい。ジョン・ハモンドはベニー・グッドマンの恩人だからね。その後、グッドマンはハモンドの姉アリスと結婚してるし(1942年)。

 

 

それにしても、ビリー・ホリデイ名義のコロンビア録音は、CDでも10枚組の全集が出てるのに、テディ・ウィルスン名義のブランズウィック録音の方は、一度もマトモにCDリイシューされていない。本家コロンビアは出す気がないみたいだなあ。仕方がないから、仏Classicsからのリイシューで全部持ってるけど、なんとかならないのかなあ?

2015/10/07

名著『ジャズ・レコード・ブック』

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面白そうと思って買ったLight in Babylonという、イスタンブルを拠点に活動する、イラン系+トルコ系+フランス系三人の多国籍バンドのアルバム、聴いてみたらイマイチだった。でもそういう冒険をしないと、美味しいものには出逢えないもの。昔もたくさんつまらないレコード買ったけど、今、ワールドミュージック・メインで、情報が少ないから尚更だ。

 

 

英米日のロックやジャズとか、あるいはワールド・ミュージックでも、既に評価の定ったものばかり聴いて、それで満足な人は、失敗する確率もグンと低いだろうけど、そんな音楽生活、面白いのかなあ?僕はそれじゃあまったくつまらないと思う人間なので。

 

 

僕もジャズやロック、あるいはその他の英米ブラック・ミュージックなどを中心に聴いていた若い頃は、いろいろガイド本もあったし、そういうのを結構頼りにしてレコード買ってたんだけど、ワールド・ミュージックの世界では、そういうものがやや少ないからなあ。それでも最近は増えているけど。

 

 

今でも新しい分野の音楽に踏込もうとする時には、音盤を買う前に、まずガイド本を買うという人が結構いるみたい。以前mixiで友人だったジャズ・ファンもそうだった。まずガイド本を買ってから、それに沿ってCDを買っていくという。それもいいけど、それだけではある範疇から脱却できないね。

 

 

まあ今はYouTubeなどの動画サイトがあって、いろいろ視聴できるから、失敗をする確率が減っているんだろうけど、それでもライト・イン・バビロンみたいに、YouTube動画は面白いのにCDアルバムはイマイチということがある。これは失敗なんだろうけど、一種の勉強料だね。

 

 

ライト・イン・バビロンの場合は、YouTubeにかなり上がっているストリート・ライヴなどはかなりいいと思うから、スタジオ作よりライヴ・シーンで真価を発揮するタイプなんだろう、今のところは。ヴォーカルの女性の容姿もなかなかチャーミングだし。

 

 

書いたように、ガイドブックに頼るだけの音楽リスナー生活はつまらないだろうとは思うものの、荻原和也さんには、既にあるアフリカ関連だけでなく、世界中のワールド・ミュージックに関するアルバム・ガイドを書いてほしいと思うことは、時々あるんだよなあ。ブログ読んでるとそう思っちゃうんだ、荻原さん!

 

 

とかまあいろいろ言っているけど、僕も昔は粟村政昭さんの『ジャズ・レコード・ブック』(東亜音楽社)に随分とお世話になった。粟村さんの本では、スイングジャーナル社から出た『モダン・ジャズの歴史』もよかったけど、1968年初版、75年、79年改訂の『ジャズ・レコード・ブック』の方が断然面白かったし、タメになった。

 

 

ジャイヴやジャンプなどの「下世話な」黒人芸能ジャズや、ウィズ・ストリングス物や、電気楽器を使って他ジャンルとクロスオーヴァーした60年代末以後については、全く理解を示さない粟村さん(でもなぜか初期ウェザー・リポートだけは好印象だったようだけど)は、まあそれが彼の限界だったんだろうけど、オーソドックスな「本流の」ジャズに関しては、これ以上のガイド本はなかった。

 

 

『ジャズ・レコード・ブック』は、序文を油井正一さんが書いていて、本屋でそれを立読みして、油井さんが大推薦だったのも、これを買った理由。それによれば、粟村さんは油井さんから随分と影響を受けたらしく、一種の師弟関係みたいなもんだったようだ。だから油井さんも序文を引受けたんだろうけど。

 

 

粟村さんは昔は『スイングジャーナル』などに盛んに文章を書いていたけど、ある時鍵谷幸信が、粟村さんに見当外れのつまらないインネンを付けて論争になって、それですっかり嫌気が差してしまって、殆ど書かなくなってしまった。あれは残念だった。僕は、その一件で鍵谷幸信のことが大嫌いになった。

 

 

もっともこれは、『スイングジャーナル』誌上での1977年の出来事で、僕はリアルタイムでは知らない。僕がジャズを聴始めた頃には、既に粟村さんの新しい文章を見掛けることは殆どなくなっていた。後にその一件を知って、鍵谷幸信(と尻馬に乗っかった岩浪洋三)のことを、今でも恨んでいる。僕だけじゃないはずだ。

 

 

鍵谷幸信は本業が英文学者(専門は英詩)だったのも、同じ道に進もうとしていた僕には、一層腹立たしかった。本業の西脇順三郎関連の仕事は評価していたけど、彼のせいで、大好きな粟村さんの文章を、二冊の単行本とジャズ・レコードのライナーノーツ以外では、殆ど読めなくなってしまったんだから。

 

 

粟村さんは本業が医者だったので、ジャズ批評家稼業から引退してもまったく困らなかったから、それもできたことだった。しかし、彼の文章が大好きだった僕やその他大勢のファンには、大変残念なことだったんだよなあ。結局、粟村さんはその後は二回ほどの「奇跡の復活」以外は、全く書かなくなった。

 

 

粟村さんの『ジャズ・レコード・ブック』、僕が買ったのは1979年の最も新しい版(上掲画像右)だったけど、今はもう持っていない。どこか復刻してくれたらいいのになあ。東亜音楽社というか音楽之友社が再版してくれたらいいのに。あれはガイドブックの体裁を取っているけど、それを超えた一流の批評本だった。

 

 

油井正一さんの『ジャズの歴史物語』と粟村政昭さんの『ジャズ・レコード・ブック』、この二冊を超えるジャズ批評本は、日本人によるものでは、2015年の現在でも存在しないと、僕はそう断言したい。油井さんの本の方はアルテスパブリッシングさんが復刻したけど、粟村さんの方はその気配すらない。

 

 

でも『ジャズ・レコード・ブック』の方は、一応ディスク・ガイドだから、今では情報がもう古くなりすぎていて、そのままではちょっと読めないのかもなあ。キング・オリヴァーからアルバート・アイラーくらいまでの「本流」のジャズ・レコードについては、あれ以上の批評本はないんだけど、CDでの復刻情報も載っていないわけだし、誰かがそれを追補しないと、復刻は難しそうだ。

 

 

僕も今では「本流」ではないジャンプやジャイヴや、70年代以後のジャズ・ロックやジャズ・ファンクみたいなものの方が、ストレート・アヘッドなジャズよりも好きになっちゃったし、本流ジャズでも粟村さんとはかなり意見が違ってきているけど。でもだからこそ、逆に粟村さんの凄みは、今かえってよりよく理解できている気がするんだよね。

2015/10/06

マイルス〜『ジャック・ジョンスン』の謎

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ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』の、マイルス・デイヴィスによるサントラ盤が、ラッシュ・フィルムを観ながら即興で演奏されたものという都市伝説は、今や完全盤CDでスタジオでのリハーサルや様々な別テイクの模様が全部聴けることで、完全に否定されているのは、ご存知の通り。

 

 

それでも『死刑台のエレベーター』が、最初から映画音楽として録音されたものであることは間違いない。それに対して、マイルスによるサントラ盤では、同じように有名な『ジャック・ジョンスン』の方は、映画のサウンドトラック用として録音されたものではない。これも今では有名なはず。

 

 

『ジャック・ジョンスン』両面の大半を占める音源は、1970年4月録音。この頃、マイルスは生涯で何回目かの創造のピークにあって、アルバム発売予定のあるなしに関係なく、頻繁にスタジオに入って録音を繰返していた。「ライト・オフ」も「イエスターナウ」も、そういう当時のセッション音源から。

 

 

そういう70年当時の数多くのスタジオ・セッション音源は、『ジャック・ジョンスン』になった音源も含め、今は2003年リリースの『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』五枚組で聴ける。その中には「ライト・オフ」が4テイク、「イエスターナウ」が2テイク収録されている。

 

 

その「ライト・オフ」と「イエスターナウ」を録音したセッションは、ベーシスト、マイケル・ヘンダースンのオーディションも兼ねていたらしい。この時は彼がマイルスの録音に参加した最初の音源。しかし、すぐにはバンドにレギュラー参加とはならず、ライヴ・ステージでは、その後も数ヶ月間デイヴ・ホランドが弾いていた。

 

 

『ジャック・ジョンスン』A面の「ライト・オフ」を聴くと(B面「イエスターナウ」でのベース・ラインは、ジェイムズ・ブラウン「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」のパクリ)、マイケル・ヘンダースンのプレイは素晴しいの一言だから、なぜすぐにバンドのレギュラー・メンバーにしなかったのか、やや理解に苦しむ。マイルス自身がこのアルバムのジャケットに寄せた文章の中でも、かなり彼のベースを誉めているし。

 

 

ちなみにマイルスに興味を持ったロック・ファンには、ほぼ全員にこの『ジャック・ジョンスン』を推薦して、今まではほぼ成功している。マイルスのアルバムの中では、これ以上明快にロックしているものはない。ドラマーがビリー・コブハムなのも、その大きな要因の一つだろう。

 

 

ビリー・コブハムは、ジャズ畑出身の8ビート・ドラマーでは一番好きな人なのだが、彼の叩出す明快なビートに加え、ジョン・マクラフリンのギターも、ほぼ完全にロックしていて素晴しい。『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』でのプレイとは全然違う。こっちこそ彼本来の姿だろう。

 

 

特に、「ライト・オフ」序盤で、マイルスが一通り吹き終えてから、マクラフリンが自分の弾いたある音をきっかけにクリーン・トーンにして、それで軽快なカッティングを始めると、即座にそれにマイルスが反応してソフトな音色で吹き始める辺りは、何度聴いてもゾクゾクしてしまう。即興演奏の素晴しさを実感する瞬間だ。

 

 

また『ジャック・ジョンスン』でのジョン・マクラフリンのプレイで、僕がそれ以上に痺れているのは、A面「ライト・オフ」の残り約一分半くらいのところから聴ける、目一杯ファズを効かせて弾きまくる部分だ。こんなに深くファズが効いているエレキ・ギターは、なかなか聴けない。ほんの一分くらいだけど。

 

 

御大マイルスのプレイが素晴しいのはもちろんだけど、『ジャック・ジョンスン』の(特にA面「ライト・オフ」の)音楽を最高のものにしているのは、ジョン・マクラフリンのギター、マイケル・ヘンダースンのエレベ、ビリー・コブハムのドラムス、の三位一体に他ならない。聴けば誰でも分ることだ。

 

 

そしてアルバムの大部分を占めるその70年4月録音の音源の中に、ほぼ同時期の(当時の)未発表音源がいくつかインサートされていて(特にB面)、それをやったのはもちろんテオ・マセロだけど、その編集ぶりこそが、まさにテオが映画音楽をとの注文を受けてプロデュースした部分。

 

 

インサートされている未発表音源の中では、「ウィリー・ネルスン」に、ソニー・シャーロックが参加していて(『ジャック・ジョンスン』用のオーヴァー・ダビングではなく、オリジナル・セッションから)、いつものフリーキーなギター・サウンドを聴かせている。まあでもアルバムの中での彼の存在意義は、イマイチ分らないけど。

 

 

インサート音源では、その「ウィリー・ネルスン」は、1981年の未発表曲集『ディレクションズ』が初出。もっとも、そこではソニー・シャーロックのギターが完全に削除されているので、『ジャック・ジョンスン』挿入部分と同一音源だとは、気付きにくい。前述のジャック・ジョンスン・ボックスで全6テイクが収録されて、全貌が明らかになった。

 

 

これ以外にも、同じくB面に挿入される「シー/ピースフル」は、『イン・ア・サイレント・ウェイ』からのものだから、これは1970年当時から分ったはず。しかしながら、今でも判明していないものもあって、その最大のものが、B面終盤で出てくる、オーケストラをバックにマイルスがミュートで吹く部分。

 

 

マイルスがオーケストラをバックに吹くというのは、1949年独立後75年に一時引退までの間では、ギル・エヴァンス編曲・指揮のものしか僕は知らない。ギルとのコラボ音源を未発表物も含め集大成したボックス・セットにも、その「イエスターナウ」終盤の音源は入っていない。今でも謎の音源で、いつかはリリースされるのだろうか?

 

 

また、その元音源から、オーケストラ演奏部分だけを取除いて、マイルスのミュート・トランペットだけにしたものを、A面「ライト・オフ」でも、一度使っているのだ。A面でのインサート部分はそれだけ。またB面では、そのトランペット・サウンドを、「シー/ピースフル」からの挿入部分にかぶせていたりするからなあ。もちろん全部テオの編集だけど、オリジナル音源を聴きたいんだよなあ。

 

 

関係ないけど、ジャズ系ミュージシャンが作った映画のサウンドトラックで、個人的に一番好きだったのは、MJQの『大運河(『たそがれのヴェニス』)』。これは『死刑台のエレベーター』『ジャック・ジョンスン』と違って、映画の方は観たことがないけど、音楽が大好きで、LPを何度も聴いていたのだった。

2015/10/05

長年苦手だったレゲエ

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僕は元々あんまりレゲエ・ファンじゃなかった。大学生の頃から少しレコードを聴いてはいたものの、殆どハマらなかった。そもそも昔から(今もだけど)歌詞におけるメッセージ性の強い音楽は、特にジャマイカン・レゲエは英語だから分ってしまうだけに、かえって嫌だった。

 

 

その気持がちょっと変ったのは、24歳の時、深夜のFMで流れてきたボブ・マーリーの「ナチュラル・ミスティック」だった。FM東京の『FM トランスミッション・バリケード』という番組。一切喋りがなく音楽だけ流す番組で、その時は、カリブ〜アフリカン・ルーツ特集みたいだった。

 

 

何回も書いている、僕が最初に聴いたアフロ・ポップであるキング・サニー・アデの『シンクロ・システム』も、その時の番組で、ボブ・マーリーと並んで聴いたのだった。正確には、その中の一曲である「シンクロ・フィーリング〜イラコ」。

 

 

 

その時は、今でも憶えているけど、ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」から始って、ボブ・マーリーの「ナチュラル・ミスティック」〜サニー・アデ「シンクロ・フィーリング〜イラコ」と続いていた。その後の流れは憶えていないんだけど、その三つだけで、当時の僕を刺激するには十分だった。

 

 

サニー・アデの「シンクロ・フィーリング〜イラコ」に大きな衝撃を受けただけでなく、あまり好きでもなかったボブ・マーリーの「ナチュラル・ミスティック」が、その流れの中では、それまでとは全然違って聞えてきて、ジャマイカ音楽を、アメリカとアフリカを繋ぐ流れの中で、考え直したのだった。

 

 

 

あの三曲の流れを考えたのが誰だったのかは全く分らないんだけど、あれがなかったら、レゲエもアフリカ音楽も、今みたいに積極的に聴くようになるには、もっともっと時間が掛っていたはず。もっとも、レゲエの力を本当に実感したのは、もっとはるかに後のグナワ・ディフュジオンを聴いてからだったけど。

 

 

グナワ・ディフュジオンの1999年作『バブ・エル・ウェド・キングストン』を聴き、レゲエのリズムを使ったものが多いことに少し驚き、まあレゲエというかラガマフィンも多いけど、そのパワーに驚いたのだった。バンドのリーダー、アマジーグのアイドルがボブ・マーリーなのも知った。

 

 

その頃から、アフリカ音楽をいろいろ聴くと、その中にボブ・マーリーの影響がかなり強いものが多いことに、遅ればせながら気付き始めて、改めてボブ・マーリーのアルバムをCDで買い直して、聴直したりもした。レゲエやジャマイカ音楽は、普通「ワールド・ミュージック」には含まれないことが多いけど、その影響力は絶大であることを、むちゃくちゃ遅くになって実感したわけだ。

 

 

だから、僕がボブ・マーリーの音楽を本当の意味で無視できなくなったのは、もうこれはとんでもなく遅く、90年代後半になって、マグレブ系現代ミクスチャー音楽をたくさん聴くようになってからであって、それまではレゲエ独特のあの間の空いたスカしたビート感覚に、イマイチ馴染めなかったんだよなあ。スミマセン。

 

 

まあ、マイルス・デイヴィスのアルバムにもレゲエ風なナンバーはあったんだけどね。『ユア・アンダー・アレスト」の中の「ミズ・モリシン」とか『TUTU』の中の「ドント・ルーズ・ユア・マインド」とか。

 

 

 

「ドント・ルーズ・ユア・マインド」https://www.youtube.com/watch?v=GKl1oZ5qRLw

 

 

『ユア・アンダー・アレスト』が1985年、『TUTU』が翌年86年のアルバムで、当時はマイルスの新作が出るのが、一つ一つ待遠しくて、出たら何度も何度も飽きずに繰返し聴いたから、その二つのレゲエ風ナンバーも何度も聴きはしたんだけど。「ミズ・モリシン」は、85年の来日公演でもやったし。

 

 

でも当時はマイルスのアルバムでレゲエ風な曲を聴いても、なんだかイマイチ良さが分ってなかったんだよなあ。ファンク・ナンバーとかの方が圧倒的に好きだった。でも今考えたら、聴いた後で頭の中に残っていたり、夢の中で鳴っていたりするのは、そういうレゲエ風ナンバーだったりしたんだけど。

 

 

ロックでも、クラプトンの例の「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(『461・オーシャン・ブルヴァード』)や、レッド・ツェッペリンの「ジャメイカ」(『聖なる館』)などのレゲエ・ナンバーを聴きはしてたんだけど、どっちもアルバムの中ではちょっと異色で、好きじゃなかった。なお、ツェッペリンの「D'yer Mak'er」を「デジャ・メイク・ハー」とした邦題は間違い。

 

 

初めて聴いたのは、クラプトンのそれは大学生の時、ツェッペリンのは高校生の時だけど、それらを聴いてレゲエにはまるということもなかったんだなあ。特に「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はボブ・マーリーの曲だったんだけど、殆どそれを意識していなかったし、マーリーのオリジナルもその時は買わなかった。

 

 

クラプトンの『461・オーシャン・ブルヴァード』で当時大好きだったのは、ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」ではなく、ジョニー・オーティスの「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」。ジョニー・オーティスの名前も、いわゆるボー・ディドリー・ビートも、あれで初めて意識した。

 

 

そしてツェッペリンの『聖なる館』で一番好きだったのが、A面ラストの「ザ・クランジ」。どういうわけだか、あの変拍子の変態ファンク・ナンバーが、ロバート・プラントの歌う珍妙な英語とともに、凄く気に入って、あればかり何度もリピートしてた。あのアルバムではあれが今でも一番好き。

 

 

要するに、昔からそういう黒人音楽的要素(ファンク)や、ラテン・ビート(ボー・ディドリー、またの名を3・2クラーベ)に強く惹かれていたんだよなあ。一般には「ラテン」でも「ブラック」でもないレゲエにはそんなには惹かれていなかった。レゲエが米黒人音楽に強く影響されていることを知ったのは、もっと後のこと。

 

 

日本でもレゲエ・ファンって、ムチャクチャ多いのに、僕はこんな感じでなかなかその真価やカッコよさが分らなくて、随分と遅れてしまった感じで、なんかちょっと申し訳ない気分。今世紀に入った頃からは、まあまあ聴いているし、『エクソダス』や『キャッチ・ア・ファイア』のデラックス版(2001)とかも、喜んで買って聴いているので、許して下さい。

2015/10/04

大好きなクラシック・ブルーズの女性歌手

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いわゆるクラシック・ブルーズ(この呼称は好きじゃないのだが)は、ベシー・スミスはじめ、大学生の頃から結構聴いていた。当時はブルーズというより、僕の中では完全にジャズだという認識だった。伴奏をしているのも、僕の知る限り、全て同時代のジャズマン達だったしなあ。

 

 

僕が初めて聴いたクラシック・ブルーズの歌手は、おそらくアルバータ・ハンター。もっとも1920年代の録音ではなく、77年復帰後の『アムトラック・ブルーズ』。これは1878年のアルバムだから、僕がジャズを聴始めた79年には日本盤LPも発売されていたはず。松山でも普通に買えた。

 

 

そのアルバータ・ハンターの『アムトラック・ブルーズ』でも伴奏を務めているのは、当時のトラディショナル・スタイルのジャズマン達。もっともヴィク・ディキンスン以外は知らない名前だったけど。今見たら、アーロン・ベル(ベース)、ドク・チーサム(トランペット)、フランク・ウェス(テナー・サックス)は有名どころだけど、知ったのはもうちょっと後のこと。このアルバムの中で一番好きだったのがコレ→ https://www.youtube.com/watch?v=HFADQcGJoL4

 

 

この「ノーバディ・ノウズ・ユー」、まだサム・クックのもデレク&ザ・ドミノスのヴァージョンも知らなかった頃で、アルバータ・ハンターのこのヴァージョンは、しみじみと歌詞の内容が沁みてくるような曲調で、繰返し聴いた。ベシーも歌ったこの古い曲を初めて知ったのは、この時だった。

 

 

またアルバム一曲目の「ダークタウン・ストラッターズ・ボール」も大好きだった→ https://www.youtube.com/watch?v=OP-0geORbvM これなんか、ブルーズじゃなくて、完全にジャズじゃないの?古いスタイルのジャズが好きなファンなら、間違いなく気に入りそうな雰囲気だよねえ。

 

 

CD時代になって、Documentレーベルから復刻された1920年代のアルバータ・ハンター完全集四枚も買って聴いて、やっぱりそっちがいいとは思うものの、78年の『アムトラック・ブルーズ』だって負けてないぞと思うのは、初体験で惚れた弱みなんだろうか?

 

 

さて、大学生の時、油井正一さんの第一著書『ジャズの歴史』(東京創元社)を読み、その中にベシー・スミスを取りあげて詳しく解説した一章があって、それに大いに感銘を受けて、ベシー・スミスを買おうとレコード屋に行ったら、これがあった↓

 

 

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ちょっと脱線するけど、その油井正一さんの『ジャズの歴史』。東京創元社から1957年に初版が出た古い本だけど、僕が大学生の頃は、まだ松山の普通の新刊書店でも買えた。実を言うと、アルテスから復刊もされた高名な『ジャズの歴史物語』より、こっちの方が僕は影響を受けた本だったのだ。

 

 

『ジャズの歴史』は、ベシー・スミスに一章を割いていただけでなく、やはり一章を割いてルイ・アームストロングの1920年代の年代別スタイルの変遷分析とか、ビックス・バイダーベックに影響を与えた唯一の存在とされるエメット・ハーディの解説など、古いジャズについては、こっちの方が詳しい。

 

 

さて、『ベッシー・スミスの肖像 1925〜1933』。前にも書いた、当時CBSソニーからたくさん出ていた、戦前古典ジャズ復刻の<肖像>シリーズの一つ。このことからも、このベシー・スミスの音源が、ジャズ扱いだったことが分る。このLPのライナーを書いていたのも油井正一さんだった。

 

 

そのベシーのレコードを聴いて、19歳の僕が一番感動したのが1925年の「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」。この曲は『ジャズの歴史』の中で、油井さんが一番誉めていた曲だった。そのせいでもないんだろうが、今でもベシーでは一番好き。https://www.youtube.com/watch?v=JVL24i38F2s

 

 

ベシー・スミスの伴奏を務めたのは、当時のフレッチャー・ヘンダースン楽団の面々。1920年代半ばにはルイ・アームストロングも同楽団に在籍していたから、彼もベシーの録音に参加している曲がある。ベシーはそのサッチモの伴奏があまり好きではなかったらしい。

 

 

サッチモが伴奏しているベシーの録音を聴くと、それはなんとなく分る。伴奏者であるはずのサッチモがあまりにも雄弁で、主役のベシーを食わんばかりの存在感だからだ。例えばこの1925年の「セント・ルイス・ブルーズ」なんかがそうだ→ https://www.youtube.com/watch?v=jNWs0LsimFs

 

 

アマゾンで見たら、現在、2012年に出たベシー・スミスの完全集がCD10枚組で5000円台と破格の安値。http://www.amazon.co.jp//dp/B008AJ4GSK/いい時代になったなあ。僕は、1990年代前半にCD二枚組×5で出てた最初の完全集で持っている。日本盤も出ていたかもしれない。

 

 

それにしても『ジャズの歴史』の中で、油井さんがベシー・スミスは最も聴かれていない歌手だと書いていたけど、今でもジャズ・ファンからもブルーズ・ファンからも苦手だと敬遠されて、あんまり聴かれてないよねえ。なんか可哀想だよなあ。ベシー以上に広範囲に影響を与えた女性歌手は、米国にはいないのに。

 

 

まあ古いスタイルのジャズに馴染がないと、ベシー・スミス始め、クラシック・ブルーズの女性歌手はなかなか好きになれないだろうというのは、分らないでもない。ロックからブルーズに入ったリスナーは、そのルーツであるシカゴ・ブルーズや、さらにそのルーツのデルタ・ブルーズは好きだろうけど。

 

 

最初の方で書いたアルバータ・ハンターの『アムトラック・ブルーズ』にしても、『ベッシー・スミスの肖像 1925〜1933』にしても、当時のレコード屋ではジャズの棚に置いてあったしなあ。今でこそ彼女たちの1920年代の録音集CDは、ブルーズの棚に分類されているけど。

 

 

ところで、最初に書いた通り、僕は「クラシック・ブルーズ」という呼称があまり好きではない。ブルーズの歌手としては、最も早くレコード吹込みをした人達だからそう呼ばれているだけで、特にブルーズの古典スタイルというわけでもないから、誤解を招きやすいと思うのだ。今更どうにもならんけどさ。

2015/10/03

きっかけは『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』

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『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』というLP二枚組(現在はCD三枚組)のことを、以前ちょっとだけ触れたけど、この1938/39年のライヴ・イヴェントを企画したジョン・ハモンドの元々の目的は、「伝説の」ブルーズマン、ロバート・ジョンスンを探し出し、出演させることにあったらしい。

 

 

そのロバート・ジョンスンは既に死んでいたので、当初のハモンドの目的は果せず、その代りに様々な黒人ルーツ・ミュージックの音楽家を出演させて、ジャズに至る米国音楽の道筋を示そうというものになった。ということを油井正一さんのライナーで知った僕の興味が、戦前黒人音楽に向ったのも当然。

 

 

ジャズ的な視点からは、この1938年のライヴ・イヴェントで、ブギウギ・ピアニストを聴いて痛く感銘を受けたドイツ系移民のアルフレッド・ライオンが、それを録音しようとしてブルーノート・レコードを設立したということに重点が置かれたりするけど、当時の僕はもうそういうことには強い興味はなくなっていた。

 

 

あのアルバムには、カウント・ベイシー楽団からのピック・アップ・メンバーや、ベニー・グッドマン・セクステット(どっちもジョン・ハモンド関連)といったジャズ・ミュージシャンも入っているけれど、それよりもブギウギ・ピアニストやブルーズ歌手やゴスペル歌手など、米ブラック・ミュージックの音楽家がたくさん入っている。

 

 

もっとも、ブギウギ・ピアニストに関しては、ジャズ・ピアノとの関係があるとの文章を読みかじり、それで、完全に手探り状態で、確か『ブギ・ウギ・ピアノ』(このタイトルの記憶も怪しいが)とかいうアンソロジーLPを買ってはいた。でも聴いても当時はどこがいいのか分らず、一度か二度聴いて、そのまま放置していたということはあった。

 

 

だから、やっぱり『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』が大きなきっかけで、古い黒人霊歌(スピリチュアル)や、弾き語りブルーズ、ブギウギ・ピアノなど、黒人音楽のルーツに深い関心を示すようになっていったわけだ。元々それ以前からモダン・ジャズより、戦前のニューオーリンズや黒人スウィングなどの方が好きだったから、そういう方向へ向うのは時間の問題ではあったけれども。

 

 

そしてロバート・ジョンスンやサン・ハウスやチャーリー・パットンなど、戦前のギター弾き語りのデルタ・ブルーズを聴くようになると、そのあまりのディープな世界に頭がクラクラするような思いで、モダン・ブルーズより、断然そっちが好きになった。僕の米南部音楽趣味は、その頃決定的になっていた。

 

 

マディ・ウォーターズにしても、それまでは戦後のシカゴ時代(チェス等)ばっかり聴いていたけど、そのだいぶ後に出た国会図書館用の41/42年南部プランテーション録音(アコギ弾き語りのデルタ・スタイル)の方が好きだと公言するようになり、そのせいで、他のブルーズ・ファンからはかなり珍しがられたりした。

 

 

もちろん、マディに関しては、その後聴直した『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』などの本当の凄みが分るようになり、やっぱりそっちが大好きだと思い直すようにはなった。もっとも僕が今、マディの録音で一番好きなのは、1950年パークウェイでのリトル・ウォルター名義の録音だったりするけど。

 

 

そういう南部趣味が決定的になったのは、だいたい1990年代に入った頃からで、カントリー・ブルーズ、サザン・ソウル、サザン・ロックやLAスワンプなど、米南部由来の音楽が好きになっていって、米LAスワンプ勢が大挙して参加している、ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』や、ジョー・コッカーの『マッドドッグズ&イングリッシュメン』などが、UKロックでは最高だと思うようになった。

2015/10/02

ツェッペリンのワールド路線

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だいぶ前のジョン・ボーナムの誕生日に、少しレッド・ツェッペリンのことを考えていた。後期ツェッペリンの方が好きというツイートも見掛けたけど、これは僕も完全に同意見。最初に聴いたツェッペリンが『フィジカル・グラフィティ』だったせいもあるんだろう。高校一年生の時だった。

 

 

僕はかつて二枚組LP偏愛主義者だったんだけど、原体験は、この『フィジカル・グラフィティ』にあったような気がする。それに当時はヴォーカルのロバート・プラントの高音が出づらくなっていたことなど、全く知らず(デビュー当時をまだ知らなかったから)、こういうバンドだと思っていた。

 

 

好きになって、そのうちすぐに全てのアルバム(高三の時に出た、解散前のラスト・アルバム『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』を除く)を買って聴くようになった。どのアルバムも全部好きだったけど、全部聴いた上で、やっぱり僕は『フィジカル・グラフィティ』や『プレゼンス』が好きなのだった。

 

 

『プレゼンス』といえば、一曲目の「アキレス最後の戦い」。オーヴァー・ダビングしまくったギター・サウンドも大好きだったけど、ことジョン・ボーナムのドラムスに関しては、この曲が凄さが一番分るような気がする。凄まじいとしか言いようがない。鬼気迫るというか、とんでもない迫力だ。

 

 

『プレゼンス』は、ラストの「一人でお茶を」を除けば(あんな曲がなぜ入っているのか、今でもよく分らない)、どの曲もリズム・アレンジが面白くて、そういうところも好きだった。「俺の罪」といい「フォー・ユア・ライフ」といい、ロカビリー風の「キャンディ・ストア・ロック」といい、全部そうだ。

 

 

『フィジカル・グラフィティ』にしても、当時はよく分ってなかったけど、一枚目一曲目の「カスタード・パイ」は、ギター・リフが完全なボ・ディドリー・ビート、別名3−2クラーベのリズムだし。ちょっと聴いた分には分りにくいんだけど。「死にかけて」も「カシミール」もリズムが凄いもんねえ。

 

 

『フィジカル・グラフィティ』は、少しの新録を除けば、過去のアルバムの録音で録りだめた音源を使っていることは、随分後になってから知ったのだ。まあでも高校生当時から、これの前のアルバムが『聖なる館』という名前なのに、どうして「聖なる館」という曲が次の二枚組にあるんだろうとは思っていた。

 

 

そして『フィジカル・グラフィティ』でも「カシミール」や「イン・ザ・ライト」などが好きだったので、ツェッペリンとは、そういう(後に言うワールド・ミュージック)指向のバンドかと思っていて、そのつもりでファーストやセカンドを聴くと、一部を除き全然違うので、最初は初期には馴染めなかった。

 

 

初期のツェッペリンは、ほぼ完全にブルーズ・ロックのバンドで、それも別に嫌いではなかったけど、ファーストなんかでも「ユー・シュック・ミー」(ジェフ・ベック・グループのファーストとモロかぶり)とか「君から離れられない」とか「ハウ・メニー・モア・タイムズ」とかより、B面の「時が来たりて」とか「ブラック・マウンテン・サイド」が好きだった。

 

 

だから今考えたら、あんまり典型的なツェッペリンの理解者ではなかった。初期ツェッペリンのブルーズ・ロック路線や、英トラッド趣味とかを本当に理解できるようになったのは、もっと後になってのことで、シカゴ・ブルーズをたくさん聴いたり、フェアポート・コンヴェンションなども聴いてからだった。

 

 

1995年にパソコン通信を始めて、僕が主に棲息していたのは、音楽フォーラム内のロック・クラシックス部屋だったから、ツェッペリンもよく話題にあがったけど、ほぼ全員がブルーズ・ベースのハード・ロック路線を評価していて、『聖なる館』以後のワールド路線は、あまり好きな人がいなかった。

 

 

ツェッペリンの本領は、初期のロバート・プラントの高音を生かしたメタリックなハード路線にあるのであって、中期以後様々な音楽的実験を行うようになったのは、プラントの高音が出なくなって、従来の路線が取りづらくなったので、仕方なく転向したのだという意見を表明する人も、複数いたなあ。

 

 

確かに映画『狂熱のライヴ』での「ブラック・ドッグ」(ソースは73年録音)などでは、プラントの声が全く出ていなくて、大変残念な感じだし、レコードになった『永遠の詩』一曲目の「ロックンロール」でも、スタジオ版とは歌い方がかなり違う。メタリックな高音シャウターとしては、プラントは71年頃までだろう。

 

 

だから2003年に『ハウ・ザ・ウェスト・ワズ・ウォン』と『DVD』が出た時は、みんな喜んだわけだ。前者三枚組CDは1972年のライヴ音源だけど、まだまだいいし、また後者二枚組DVDの一枚目、70年ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴと69年のライヴなどは、長年の喉の渇きを癒すものだったはず。

 

 

中・後期ツェッペリンが大好きな僕だって、『DVD』収録の最初の70年ロイヤル・アルバート・ホールを聴いたら、この頃がロバート・プラントの絶頂期だったことは、認めざるをえなかった。それを認めつつも、あの中にペイジのギター独奏による「ホワイト・サマー」があることを見逃さなかったけどね。

 

 

今よくよく初期からのツェッペリンを聴直すと、結構中期以後のワールド路線に繋がっていく萌芽が聴かれたりするんだけど、僕もパソコン通信を始めたころは、ハード・ロック路線こそ本領という多数派の意見がもっともで、僕みたいな趣味の持主は、ちょっと変っているだけなんだと思っていた。でも違うんだよなあ。

 

 

1990年に出たリマスター四枚組の一枚目のラストにも、ペイジ・フィーチャーの「ホワイト・サマー〜ブラック・マウンテン・サイド」が入っていたけど、あれを聴いた時に、アッ!って思ったんだよなあ。「ホワイト・サマー」はヤードバーズ時代からの曲だけど、ツェッペリン結成後もやっていたんだなあって。

 

 

しかもその「ホワイト・サマー」がツェッペリンの一枚目収録の「ブラック・マウンテン・サイド」と一続きで演奏されていたんだもん。こういうDADGADチューニングによるエキゾティックなナンバーは、ツェッペリンの初期からライヴでもやっていた。書いたように『DVD』にもライヴの模様が収録されていた。

 

 

「ホワイト・サマー〜ブラック・マウンテン・サイド」は、ちょっとヴァリエイションを変えれば、そのまま「カシミール」のリフになっちゃうよねえ。いつだったかジミー・ペイジも、「カシミール」はそういうDADGADチューニングのギター演奏の中から生まれ出たものだったと語っていた気がする。

 

 

でも、ツェッペリン解散後は、ジミー・ペイジの作品にはそういう路線は全くなくて、むしろロバート・プラントの方がワールド系のサウンドを追求しているけど、1994年のペイジ〜プラント名義の『ノー・クォーター』では、本格的にエジプト人ミュージシャンを加えて、ツェッペリン時代の曲を再演している。

 

 

あれが出た時は、『ミュージック・マガジン』だったか『レコード・コレクターズ』だったか忘れたけど、中村とうようさんが、大英帝国植民地主義根性の表れみたいなもんだと酷評していて、もっともだとは思ったものの、僕は案外好きで、繰返し聴いていた。ツェッペリン時代のワールド路線の曲を、その路線で大幅に拡大したもので、彼らの本質の一端を表していたと思うんだなあ。

 

 

でもまあ『ノー・クォーター』の中に三・四曲含まれているモロッコ録音の曲は、彼らの心意気は買うものの、全く面白いとは思わないけど。それよりスタジオ・ライヴでの「限りなき戦い」や「フレンズ」「フォー・スティックス」「カシミール」がよかったなあ。特にDVDヴァージョンが面白い。

 

 

とはいうものの、ツェッペリンのそういうワールド指向を掘下げた文章って、今でもあまり多くないよねえ。やっぱりハード・ロック路線のルーツであるブルーズ方面からの分析ばかりで。だから、今年初めの『フィジカル・グラフィティ』リマスター盤発売に際し、『レコード・コレクターズ』に松山晋也さんが書かれた記事は面白かった。

 

 

『レコード・コレクターズ』といえば、以前、前編集長の寺田正典さんが、声が暴れなくなってからの(と表現していた)ロバート・プラントの歌が結構好きと言っていて、寺田さんと僕は同い年なんだけど、この世代の音楽ファンには、結構そういう人がいるんじゃないかという気がするんだよねえ。デビュー当時から聴いている人はまた違うんだろうけどね。

2015/10/01

『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』はLA録音の三曲がいい

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マイルス・デイヴィスの1963年作『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』は、普通は、ハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズという黄金のリズム・セクションが初参加したものとして有名だろう。一般的にはその三曲で評価されているアルバムだ。その後大活躍するわけだから。

 

 

『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』は、三曲ずつ、二つの異なるセッションから収録されている。サイドメンも録音月日も録音場所も違う。ハービー+ロン+トニーが参加した三曲(「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」「ソー・ニア、ソー・ファー」「ジョシュア」)が63/5/14、ニューヨーク録音。

 

 

残り三曲(「ベイズン・ストリート・ブルーズ」「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」「ベイビー、ウォンチュー・プリーズ・カム・ホーム」)が、ピアノのヴィクター・フェルドマン、ドラムスのフランク・バトラー、ベースは同じロンで、63/4/16〜17、ロサンジェルス録音なのだ。

 

 

またニューヨーク録音の三曲には、これも新加入のテナー・サックス奏者ジョージ・コールマンが入っているけど、ロサンジェルス録音の三曲にはサックスは入らず、マイルスのトランペットのみのワン・ホーン・セッション。アルバムを聴くと分るけど、この二つのセッションではサウンドが全然違う。

 

 

最初に書いたように、その後の60年代に大活躍することになる新しいリズム・セクションを起用した、ニューヨーク録音の三曲こそ、マイルスの新時代到来を告げるもので、高く評価されているものだ。確かに前作までのウィントン・ケリー+ポール・チェンバース+ジミー・コブのサウンドよりも、相当新鮮だ。

 

 

63年5月の時点で、この新リズム・セクションの出すビートは斬新でシャープ、かつ、なんというか定常ビートというより、一種の「パルス感覚」とでも言ったらいいのか、瞬発力のあるリズムで、特にトニーのドラミングにそれを感じる。この翌年からの数多くのライヴ録音で、それがもっと凄いことになる。

 

 

テナーのジョージ・コールマンだけが、唯一ややモタっているような、あんまり新しくない感じがするし、実際、この翌年からの一連のライヴ録音でも、ボスのマイルスやリズム・セクションの斬新な演奏に比べたら、コールマンのテナーだけが、言葉は悪いが、ややイモっぽく聞えてしまうのは僕だけだろうか。

 

 

まあそれでも、前任者のハンク・モブリーよりは新しい時代にフィットできているテナー・サウンドのような気もするし、マイルスの本命は、既にこの頃から、三年後に雇うことになるウェイン・ショーターだったらしいのだが、コールマンだって、彼なりに健闘しているだろう。彼の精一杯のプレイぶりだ。

 

 

そういうことを認めつつも、実を言うと大学生の頃から『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』で好きなのは、どっちかというとロサンジェルス録音のワン・ホーン・カルテット編成の三曲の方だったりするのだ。さきほど書いたように、その三曲は、いずれもかなり古いスタンダード・ナンバーばかりだ。

 

 

一曲目の「ベイズン・ストリート・ブルーズ」はルイ・アームストロングの1928年録音が初演だけど、僕はこのマイルスのヴァージョンで知った曲だった。この曲、後年にグレン・ミラーとジャック・ティガーデンがヴァースを付加して、それが付いているヴァージョンの方が有名になってしまった。

 

 

マイルスの演奏も、その有名なヴァース入りヴァージョンだから(というか、それが付いてからは、ほぼ全員それで演奏したり歌ったりしている)、最初こういう曲なんだろうと思っていて、だからしばらく経ってサッチモのオリジナル・ヴァージョンを聴いたら、なんか物足りなく感じてしまったくらい。

 

 

「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」は、1945年のフランク・シナトラ・ヴァージョンがオリジナルだから、そんなに古い曲でもない(さっき、全部かなり古い曲と書いてしまった)。余談だけど、マイルスはシナトラが大好きだったらしく、シナトラが歌った曲をいくつか取りあげている。

 

 

例えば、今ではマイルス・ヴァージョンの方がジャズ・ファンには有名になっているであろう「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」だって、マイルスが取りあげたのは、シナトラが1954年の『ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』で歌ってからだった。マイルスによるこの曲の初録音は1956年(『クッキン』)。

 

 

ブルーノートにもプレスティッジにも録音があるバラード曲「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」だって、シナトラが1949年の『フランクリー・センティメンタル』で歌っている。マイルスがブルーノートにこれを初録音したのは1954年。プレスティッジへの56年録音の方(『ワーキン』)が有名だけど。

 

 

そういうバラード曲でのマイルスのテーマ・メロディの節回しは、シナトラ・ヴァージョンの歌い方からかなり影響を受けているね。マイルスとシナトラの両方を聴き込んでいるファンなら分っていることだけど、そういう人があまり多くはないみたいだからなあ。マイルスはシナトラが好きだったと知っているファンでも、キャピトル移籍(1952)前のコロンビア時代なんて、殆ど聴かないだろう。

 

 

話が逸れた。『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』ロサンジェルス録音三曲の残り一曲「ベイビー、ウォンチュー・プリーズ・カム・ホーム」。これは1919年発表の正真正銘古い曲で、23年のベシー・スミスの歌唱で有名になったもの。それにしても、こういう古めのバラードを、なぜマイルスは取りあげたのだろう?

 

 

「ベイズン・ストリート・ブルーズ」は、もちろんマイルスも敬愛するサッチモの曲だし(といっても、さっき言ったようにサッチモのオリジナル・ヴァージョンには即していないが)、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」は、これもさっき書いたようにシナトラが歌っていたからだけど。

 

 

ワン・ホーン・カルテットでこういう古いバラードを1963年にやったマイルスの真意は、まあ分らないんだけど、どうしてだか、僕はこの三曲のバラード演奏が大好きで、大学生の頃から『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』を聴くのは、いつもそれらを聴くため。ニューヨーク録音の三曲は、はっきり言って熱心に聴いていなかった。

 

 

ある時期以後、戦前ジャズの虜になって、主にジャズ系の歌手や演奏家が取りあげる古いポップ・チューンが大好きな僕だけど、このアルバムを聴いたのはもっと前のことで、古い有名曲だということすら知らなかったのに、それでも大好きになってしまっていた。なにか琴線に触れるものがあったんだろう。

 

 

今でも『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』を聴くのは、その三曲の古いバラードを吹くマイルス(全てハーマン・ミュートを付けている)を聴くためで、それらを聴くと、なんか懐かしいような切ないような、なんともいえない気分になって、シンミリしてしまう。そのシンミリ感が嫌いではないのだ。

 

 

もちろん、ハービー+ロン+トニーの新しいリズム・セクションによるニューヨーク録音三曲の瑞々しい感覚も好きだけど、このリズム・セクションは、この後もっともっと物凄いことになっていくのであって、それが分っているから、この63年時点では、まだちょっと物足りなく感じてしまう。

 

 

それにロサンジェルス録音の三曲でも、リズム・セクションの三人の演奏は、かなりいいように僕の耳には聞える。ベースはこっちも既にロンだからいいんだけど、ヴィクター・フェルドマンのピアノもいいし、ドラムスのフランク・バトラーも好きだ。特にスネアのリム・ショットを多用しているのが僕好み。

 

 

なお、ヴィクター・フェルドマンは、ロック・ファンには、フランク・ザッパの一部の作品に(パーカッショニストとして)参加していたり、あるいはスティーリー・ダンの全作品に参加していたりするのが、有名だろう。スティーリー・ダンで、全アルバムに参加しているというのは、フェイゲンとベッカーの二人以外では、フェルドマンだけ。

 

 

また、ニューヨーク録音の方が採用されているタイトル曲の「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」は、ヴィクター・フェルドマンの作曲で、ロサンジェルスで先に録音されていたのが、後年リリースされている。リズムは前述のロス組三人で、テナー・サックスのジョージ・コールマンも入っている。

 

 

2004年にレガシーから『セヴン・ステップス:ザ・コンプリート・コロンビア・レコーディングズ 1963-1964』という七枚組が出て、それにそのロサンジェルス・セッションが全て収録されている。それを見ると、ニューヨーク録音の三曲は、「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」も含め三曲とも全部、その前にロス録音がある。

 

 

しかし聴くと、ロサンジェルス録音のそれら三曲は、曲自体は新感覚なのに、リズム・セクションのサウンドがやや古くて、これはもう断然新しいリズム・セクションでのニューヨーク録音の方が正解だ。やはりこのリズム隊だと古いバラード三曲の方が圧倒的に素晴しい。そして、書いたように、僕はそれら三曲がたまらなく好きなのだ。

 

 

どんな文章を読んでも、このロサンジェルス録音三曲は、ダラダラと締りがないという評ばかりで、評価する人に出会ったことがない。僕も評価しているというよりも、ただ単に個人的になんとなく好きで聴いているというだけのことなんだ。

 

 

なお、そのバラード三曲のうち、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」だけは、その後のライヴでの定番レパートリーとなって、60年代半ばはもちろん、電化後の70年まで取りあげている。70年6月のフィルモア・ヴァージョンも、短いけど美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=T7-fH1LgdoU

 

 

お聴きになれば分るように、これは「サンクチュアリ」への導入部として演奏されている。スタジオ録音の『ビッチズ・ブルー』収録の同曲でも、中間部でちょっとだけ「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージーリー」のメロディを吹いている。気付いている人は少ないみたいだけど。

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