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2015年11月

2015/11/30

ショーターのソプラノ・サックス

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ウェイン・ショーターが、録音史上初めてソプラノ・サックスを吹いたのは、マイルス・バンド時代、1968年11月27日の「ディレクションズ」(2ヴァージョン)だったはず。でもこれは、1981年までリリースされなかったから、リアルタイムでは三ヶ月後の録音『イン・ア・サイレント・ウェイ』が初だった。

 

 

シドニー・ベシェがいるから、ショーターをジャズ史上最高のソプラノ・サックス奏者とは言えないけれど、僕の中では、ベシェに次ぐNo.2の存在なんだなあ、ソプラノでは。少なくともジョン・コルトレーンよりはいいと思う。コルトレーンのソプラノはテナー奏者の余技みたいなものだったもんなあ。

 

 

1950年代から活躍したスティーヴ・レイシーがいるじゃないかと思うんだけど、レイシーはソプラノに専念した人だ。だからマルチ・リード奏者としては、ソプラノを久々に取りあげたのがコルトレーンなわけで、その後多くの人が吹くようになり、ショーターだってその影響だろう。

 

 

だけど、コルトレーンの場合は、テナーとソプラノの使い分けがはっきりしていないし、この曲(この部分)はテナーで、ここはソプラノで、という必然性が感じられない。その証拠に同じ曲を、違うライヴによってテナーで吹いたりソプラノで吹いたりしているものがある。フレイジングもテナーのままだ。

 

 

コルトレーンが初めてソプラノを吹いたのは1960年のスタジオ録音「マイ・フェイヴァリット・シングズ」だけど、これもその後のライヴではテナーだったりソプラノだったり。コルトレーンによるこの曲の最高のヴァージョンと確信している63年のライヴ録音『セルフレスネス』のものは、最初テナーで出たと思った次の瞬間にソプラノになっている。演奏は最高だけど、テナーかソプラノかはどっちでもいいような感じだ。

 

 

もちろんウェイン・ショーターも、1968年まではテナー一本。68年末にソプラノを手にしたのは、やはりバンドのエレクトリック・サウンドに対応できるサックス・サウンドを求めてのことだったんだろう。この辺りが、バンド・サウンドの変化が殆どないのに、ソプラノを吹いたコルトレーンとは違う。

 

 

つまりショーターのソプラノは、ソプラノでしか表現できない音楽性を求めてのことだった。これは、テナーやアルトを中心にやってきたサックス奏者にしては、おそらく初めてのことだったんじゃないかと僕は思う。その後、マイルスのスタジオ録音ではソプラノしか吹かず、ライヴではテナーを吹いている。

 

 

当時発表されたマイルスのスタジオ・アルバムでショーターがソプラノを吹いているのは、『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』の二つだけで、1969/70年のマイルス・バンドでのライヴでは殆どテナーに専念しているので、その辺はまだまだ使い分けがはっきりしていないとも言える。

 

 

ほぼ同時期に録音されたショーターのリーダー作『スーパー・ノヴァ』では、ソプラノだけに専念していて、これを聴くと、マイルスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』同様、ソプラノでなければならない必然性が強く感じられる。次作『オデッセイ・オヴ・イスカ』でもほぼソプラノ。

 

 

ソプラノによる『スーパー・ノヴァ』での三曲「スウィー・ピー」「ウォーター・ベイビーズ」「カプリコーン」の三曲を、1967年マイルス時代の録音(『ウォーター・ベイビーズ』)ではテナーで吹いているので、聴き比べると面白い。1969年録音の前者では、ソプラノじゃないとイケない理由が分る。

 

 

その三曲も、ストレートにメロディを吹いているマイルス・ヴァージョンの方が、テーマの持つ美しさが分りやすくて、ジャズとしてはそっちの方がむしろ好き。だけど、1969年という大きな変換期を迎えていた時代のサウンドに適応できているのは、ソプラノで吹く『スーパー・ノヴァ』のヴァージョンだ。

 

 

編成が全然違うしね。その三曲、1967年のマイルス録音では、普通のジャズ・クインテットだけど、69年の『スーパー・ノヴァ』では、ギター二本+ヴァイブ(またはエレピ)+ベース+ドラムス+パーカッションで、ジャズ系の音楽では、完全に当時の最先端なサウンドになっているもん。テナーでは合わない。

 

 

ソプラノしか吹いていない『スーパー・ノヴァ』に続く1970年録音の『オデッセイ・オヴ・イスカ』や『モト・グロッソ・フェイオ』では、ソプラノだけではなく、一部テナーも吹いているけど、それらの曲は、やはりテナーの方が似合うという判断がある。

 

 

これら三作は、1969〜70年という、マイルス・バンド在籍末期〜脱退と、その後のウェザー・リポート結成までと言う、非常に短い時期、しかもマイルスやショーターの音楽が一番大きく変化しつつあった時期の録音で、しかもマイルスよりもショーターの方が抽象的で前衛的だ。今聴くと、相当面白い音楽だ。

 

 

もっとも当時リアルタイムで発表されたのは『スーパー・ノヴァ』と『オデッセイ・オヴ・イスカ』だけで、『モト・グロッソ・フェイオ』のリリースは、ウェザー・リポート結成後で、このバンドのアルバムも数枚出ていた1974年、しかもショーターのソロによる次作『ネイティヴ・ダンサー』のリリースの後だった。理解できにくい。

 

 

さらに、CDリリースは『オデッセイ・オヴ・イスカ』『モト・グロッソ・フェイオ』の二つはかなり遅れ、<幻の名盤>扱いみたいになっていた。僕に言わせれば、この三枚こそ、ショーターのソロ・アルバムの最高傑作三部作にして、1969/70年という時代の激変を記録した貴重な証言であるにも関わらずだ。

 

 

しかしながら、この三作、非常に難解ではある。僕も最初は『ネイティヴ・ダンサー』や、ウェザー・リポートの諸作でのプレイの方が断然好きで、この三枚は何回か聴いて全く理解できず、長年放置したままだった。本当にいいと思うようになったのは、CDリイシューされてからのことだ。

 

 

なお、アルバム全部を通してショーターがソプラノだけに専念しているものは、僕の聴いた範囲では、『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』のマイルス二作と、ショーターのソロの『スーパー・ノヴァ』の三つだけ。その後は、ソロでもウェザー・リポートでも、ソプラノとテナーの両方を吹分けている。

 

 

さらにウェザー・リポートでは、例えば『ナイト・パッセージ』の「ドリーム・クロック」のように、テナーとソプラノの両方を吹いている曲もある。そういうのを聴くと、一曲の中でも、音域はもちろん曲調の変化に伴って柔軟に持替えていることがよく分る。ひょっとしたらザヴィヌルの指示もあったかも。

 

 

その最初テナーで出て、中盤からソプラノにチェンジする「ドリーム・クロック」は、ウェザー・リポート時代のショーターでは、名演の一つだろう。テナーだけなら『ヘヴィー・ウェザー』の「ア・リマーク・ユー・メイド」が一番いい。ソプラノだけなら『スポーティン・ライフ』の「フェイス・オン・ザ・バールーム・フロア」が最高だ。

 

 

ウェザー・リポート時代は、もちろん言うまでもなく<支配者>ザヴィヌルの指示があっただろうとは思うけど、先に書いたその前のソロ三部作でも、ソプラノとテナーを曲調やサウンドの変化によって吹分けているのを聴くと、ウェザー・リポート時代もショーター自身の意思もかなりあったと思っている。

 

 

こういう、曲調やサウンドの変化で、テナーとソプラノを使い分けるというのは、僕の知る限りではウェイン・ショーターが初めてのはず。多くのサックス奏者がソプラノも吹くようになったのは、コルトレーンの影響だけど、マルチ・リード奏者で、ソプラノにしかできない表現を確立したのはショーターだ。

2015/11/29

同一パターン反復の快感〜ラテン篇

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昨晩、マイルス・ミュージックでの同一パターン反復の話をしたけど、僕が知っている範囲内で、アメリカ音楽でそういうものの一番早い例は、反復リフ中心の1930年代カンザス・シティ・ジャズだ。一番有名なのはもちろんカウント・ベイシー楽団だけど、それ以外のカンザスのバンドも、大抵全部同じ。

 

 

1930年代ベイシー楽団の録音で一番有名なのは、間違いなく「ワン・オクロック・ジャンプ」だろうけど、この曲、普通にテーマ・メロディから始ったりはしない。まずベイシーのピアノ・ソロから始って、次々にサイドメンがソロを取り、最終盤になって、ようやくテーマ・メロディらしきものが出てくる。

 

 

だけど、その最終盤で出てくるテーマも、普通に言うメロディではなく、シンプルなリフ・パターンみたいなものなのだ。これ以外のベイシー・ナンバーもほぼ全部そう。演奏されるテーマは、全然メロディックではなく、リズミックでシンプルな反復リフなのだ。1930年代デッカ録音集はそんなのばっかり。

 

 

前にも一度書いたはずだけど、1930年代に一時期ベイシー楽団の専属歌手だったビリー・ホリデイの述懐によれば、当時のベイシー楽団は全く一枚も譜面を使わなかったらしい。ビッグ・バンドでそれはちょっと考えられないことなのだが、当時の録音を注意深く聴直すと、それがありうるかもと思えてしまう。

 

 

つまり、1930年代のベイシー楽団は、合奏部分でも、譜面なしで演奏できてしまうくらい、実にシンプルなリフ・パターンしかやっていないのだ。当時のジャズ系ビッグ・バンドで、こんな具合なのはカンザス・シティのバンドだけだ。譜面があったかなかったかは、他のバンドについては知らないが。

 

 

みなさん言っているように、こういう1930年代のカンザスのビッグ・バンドは「準ジャンプ」または「プリ・ジャンプ」ともいうべき存在で、そのまま直接40年代のジャンプ・ミュージックそのものになったわけだから、やや遠いとはいえ、60年代末からのファンク・ミュージックの祖先だ。

 

 

その後、1980年代末から、アフリカ音楽をいろいろ聴くようになると、ファンク・ミュージックの同一パターン反復が、元来はアフリカ音楽にあるもので、キューバのソン(のモントゥーノ)などラテン音楽も、その強い影響下で成立しているものだから、そうなっているのだということが分ってきたのだ。

 

 

1920〜30年代が全盛期のキューバのソンは、基本的に前半部分のギアと後半部分のモントゥーノで構成されている。ギアとは、旧宗主国のスペインからの影響が強い歌曲形式で、メロディアス。いかにも西洋的な部分だ。後半のモントゥーノは、アフリカ由来のもので、一定のパターンを掛合いで反復するもの。

 

 

全盛期のソンは、西洋的な歌曲形式の部分とアフリカ的な反復形式の部分の絶妙なバランスの上に成立っているという、実に理想的な混血大衆音楽だった。後半部分の反復的コール&リスポンスを強調したものを「ソン・モントゥーノ」と呼ぶことがある。その後のソンは、これを強調する方向に向った。

 

 

アフリカからの強制移民を中心にした音楽文化は、アメリカなどにおいても、昔は白人中心社会に合わせるようにかなり西洋的な要素が強かったのが、時代を経るに連れ、徐々にルーツとも言えるアフリカ的な要素を強めていき、結果的にファンクなどを生んだわけだけど、キューバも事情は似ているんだろう。

 

 

もちろんこれは社会的にアフリカ系の人々の発言権や地位が向上したのと深く関係しているわけだ。キューバ音楽では、ソンの後半のアフリカ的な部分モントゥーノだけ独立させて発展させたようなスタイルが広まっていき、1940年代以後のアルセニオ・ロドリゲスなども、そういうスタイルの持主だった。

 

 

同じ1950年代に世界中で一世を風靡したマンボは、もちろんキューバ発祥の音楽だけど、これは元々ソンのモントゥーノ部分だけを取りだして強く強調したような音楽。一定の同一パターン反復で成立している。マンボの王者といわれるペレス・プラードがメキシコに移住して活躍し始めるのが1948年。

 

 

同じ1940年代末頃、プエルトリコ系でニューヨーク育ちのティンバレス奏者ティト・プエンテも、自身の楽団で活動を始める。ティトの音楽も、出自はプエルトリコ系だけど、完全に同時代のマンボと軌を一にするキューバ音楽の強い影響下に成立している。ティトは、ニューヨーク・ラテンの代表格だ。

 

 

1950年代から90年代まで活躍したティト・プエンテの音楽は、実質的にその後大流行するサルサの直接の祖先だ。サルサの大流行は1970年代だけど、サルサの象徴的存在であるファニア・レコードが誕生したのが1964年だから、その頃には大まかな形ができていたはず。

 

 

当然ながら、キューバ音楽の強い影響下で成立したサルサも、同じリズム・パターンの反復手法を多用するから、アフリカ要素の強い音楽。日本にもファンの多いサルサだけど、僕は長年サルサの良さがよく分らなかった。ティト・プエンテなどの大ファンであったにも関わらずだ。

 

 

この辺は、どうも昨晩書いたPファンクの音楽の面白さがなかなか分らず、1990年代以後のCDリイシューで聴いて初めて分ったというのと、似たようなことかもしれないなあ。ジャズ系のビッグ・バンド音楽を除けば、大人数でゴチャゴチャと賑やかにやっているものの楽しさが、若い頃は分らなかった。

 

 

しかしファニア・オール・スターズの『ライヴ・アット・ザ・チーター』二枚をCDで聴直して、なんてカッコイイんだと惚れちゃったんだなあ。評判の高いサルサの記念碑的なこのライヴ盤も、昔はなかなか親しめなかったのに、今ではこれが最高に楽しい。

 

 

1970年代のサルサは、本当に大爆発したから、様々な方面に影響を与えていて、ロックやソウルなどにもその跡を見ることができる。スティーヴン・スティルスのマナサスにもそういう曲があるし、以前書いたようにスティーヴィー・ワンダーの『キー・オヴ・ライフ』にも、サルサそのものみたいな曲がある。

 

 

1970年代に、米ブラック・ミュージックであるファンクが大きく開花したのと、サルサが大流行したのが、これが全くの偶然だったとは、僕には到底思えない。強い相互影響関係があったというより、この二つは昨日・今日と書いているように、同じようなアフリカ的同一パターン反復形式の音楽なんだから。

 

 

そして1960年代半ばから70年代にかけて、アメリカでは公民権運動をはじめとするアフリカ系などマイノリティの社会的地位や意識の向上といった事情が、アメリカにおけるマイノリティであるアフリカ系やラテン系民族の音楽であるファンクやサルサの勃興と完全に連動していたことは間違いない。

 

 

昨晩書いたマイルス・デイヴィスのアルバムにだって、1945年から活動している人だけど、70年代には70年の『ジャック・ジョンスン』(黒人初のヘヴィー級ボクシング王者へのトリビュート)とか、74年の『ゲット・アップ・ウィズ・イット』とかいった、黒人意識高揚のタイトルのものがあるくらいだもんなあ。

 

 

1970年代にあれほど大流行したサルサも、80年代に入ると急速に流行がしぼんでしまい、メロディアスでスウィートなサルサ・ロマンティカなどへと形を変えてしまうけど、その後もハウスやテクノなど様々な音楽とクロスオーヴァーしているようだ。でもサルサ自体には、もう一時期のような勢いはない。

 

 

ファンクでも、JBは死ぬまで第一線だったけど、スライは生きてはいても死んでいるような状態だし、Pファンクなどは1980年代には急速に収束した。けれどその後プリンスはじめ多くのブラック・ミュージシャンに大きな影響を与え続け、現在でも脈々とそのDNAは継承され続けている。ヒップホップの人達にも、数多くサンプリングされているしね。

2015/11/28

同一パターン反復の快感〜マイルス篇

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何度も書いているけど、中村とうようさんの「美は単調にあり」「シンプル・イズ・ビューティフル」という大衆音楽の真実を言当てた言葉、例えばファンク・ミュージックなどでも、同じパターンを延々と反復するような構造の上に成立っている作り方の音楽で、これも同じことなんだろうね。

 

 

大学生の頃は、ファンクでもジェイムズ・ブラウンは大好きでよく聴いていたんだけど、Pファンクとかは、特にライヴ盤では、延々と同じことを繰返していて、ちょっと退屈というか、集中して聴き通せないような気分で、あまり好きではなかった。

 

 

はっきり言えば、その頃はファンクのことが全く分っていなかった。それでもジェイムズ・ブラウンは、昔からライヴ盤なども大好きだったのは、なぜだったのかよく分らないけども。Pファンクみたいなのが大好きになったのは、1990年代になってCDリイシューで聴直してからのことだなあ。

 

 

ジャズ畑出身の音楽家で、1970年代に一番ファンク・ミュージックに接近した一人であるマイルス・デイヴィスは、大学生の頃から好きでたまらなかったわけだけど、マイルスが、ファンクのこの同一パターン反復という手法を取入れたのは、69年2月録音の『イン・ア・サイレント・ウェイ』からだね。

 

 

同年8月録音の次作『ビッチズ・ブルー』で、それが一層拡充される。この二作は、かなりアフリカ音楽的なミニマル・ミュージックで、ショナ族のムビラなどを聴くと、同じだということがよく分る。そういうミニマル的な音楽手法がマイルスにおいて最高潮に達するのが、1972年の『オン・ザ・コーナー』。

 

 

誰の文章だったのか完全に忘れてしまったけど、『ビッチズ・ブルー』は、アフリカのムビラ演奏と同じなんだというのを読んだことがあって、それで慌ててショナ族のムビラ(これが昔から一番有名盤だった)のレコードを買って聴いたんだけど、最初はどこが「同じ」なのか、サッパリ分らなかったんだ。

 

 

それは大学院生の頃の話だ。アフリカ音楽をまだ聴始めていなかったし、ファンクの同一パターン反復手法が、アフリカ音楽にルーツがあるということも、随分後になってから分り始めた。マイルスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』などのクールさなどもアフリカ的だと気付いたのは、もっと後。

 

 

『イン・ア・サイレント・ウェイ』も『ビッチズ・ブルー』も、その後のマイルス・ミュージックと比べたら、まだまだ相当にアクースティックな質感というか、ギターが入っているけど全然クリーン・トーンだし、鍵盤がエレピなだけで、『サイレント・ウェイ』の方はベースもウッド・ベース一個だけだし。

 

 

だから派手にもろファンクな1972年『オン・ザ・コーナー』や74年『ゲット・アップ・ウィズ・イット』などと比べると、『イン・ア・サイレント・ウェイ』や『ビッチズ・ブルー』は、ちょっと聴いた表面的な印象では、そんなにファンクな感じがしないだろう。僕だって1990年代くらいまではそうだった。

 

 

ところが例えば『イン・ア・サイレント・ウェイ』B面の最高にカッコイイ「イッツ・アバウト・ザット・タイム」。ここでは、ベースとエレピがユニゾンで短い同一フレーズを反復するパターンの上に成立している。その反復される短い同一フレーズは三つあって、それが誰のソロの背後でも順番に出てくる。

 

 

その反復フレーズが、これまたカッコイイというかファンキーで、多分これはオルガンで参加しているジョー・ザヴィヌルが書いたというか、彼の発案に間違いない。ザヴィヌルは(特にウェザー・リポート時代は)アンチな人も多いけど、ファンキーなベース・リフを書かせたら、彼の右に出る白人はいない。

 

 

「イッツ・アバウト・ザット・タイム」で、作曲されていたというか、あらかじめ譜面で用意されていたのは、その三つのリフ・パターンだけのようだということが、聴くと分る。いわゆる普通のテーマ・メロディのようなものは全く存在しない。一応マイルスが作曲者となってはいるけど、ザヴィヌルのものに違いない。

 

 

翌年1970年6月のフィルモア完全盤などライヴを聴くと、「イッツ・アバウト・ザット・タイム」に入る時、そのベース・リフの最初の奴をマイルスがトランペットで吹いてキューにしているから、やはりこれがこの曲の根幹だろう。テーマがなく、ベース・リフだけで組立てるのは、完全にファンクの手法だ。

 

 

マイルスのアルバムでも、『イン・ア・サイレント・ウェイ』の前作1968年の『キリマンジャロの娘』までは、聴いてはっきり分るテーマ・メロディがあった。『サイレント・ウェイ』以後は、そういうテーマがあるものがどんどん少なくなっていき、ほぼ完全にリフだけで組立てている。

 

 

またこれの六ヶ月後の録音である『ビッチズ・ブルー』(これにも多くの曲でザヴィヌルが参加している)も、例えば一枚目B面のタイトル・ナンバーでは、これも短い同一フレーズを延々と反復している。オリジナル・セッション・テープを聴くと、最初の演奏時からそうなっているけど、録音後の編集でかなり手が加えられて、それが強調されている。

 

 

『ビッチズ・ブルー』では、前作には参加していないエレクトリック・ベース奏者(ハーヴィー・ブルックス)と、バス・クラリネット奏者(ベニー・モウピン)が入っていて、特にこの二人がそういう同一フレーズの反復という役目を担っている。そのせいで、音のテクスチャーが前作とは随分と異なっている。

 

 

『ビッチズ・ブルー』では、鍵盤奏者が三人なのは『イン・ア・サイレント・ウェイ』と同じだけど、ベースがウッド・ベースとエレベの二人、ドラムスが二人にパーカッションも参加で、大幅にリズム隊が強化されている。そのせいで、この音楽の本質がリズムの革新にあるということは、昔から言われてきた。

 

 

それに比べたら前作の『イン・ア・サイレント・ウェイ』は、まだまだスパイスが足らず、発展途上の過渡期的作品、『ビッチズ・ブルー』へのステップアップ的作品とされてきた。油井正一さんがそういう意見だった。しかし、今まで書いてきたように、音楽の創り方の根本システムは全く同じなのだ。

 

 

同じであるどころか、反復されるベース・パターンのファンキーさという意味では、『イン・ア・サイレント・ウェイ』の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」の方がカッコイイ。僕は昔からそう思ってきたので、1990年代以後の再評価気運は嬉しかった。もっともアンビエント音楽的な評価ではあったけど。

 

 

アンビエント・ミュージックだというのはまあそうなんだけど、僕はファンク・ミュージックとして評価しているんだよね。書いてきたように『イン・ア・サイレント・ウェイ』も『ビッチズ・ブルー』も、三年後の『オン・ザ・コーナー』で派手に展開されるファンク手法が、既に大胆に取入れられている。

 

 

マイルスは、主に当時の恋人(後に妻)だったベティ・メイブリーの薦めで、ジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなど、同時代のファンク・ミュージックを、1968年頃から盛んに聴きまくっていたらしい。その成果は『オン・ザ・コーナー』で開花したことになっているけれども。

 

 

しかし、アクースティック楽器が多くて音のテクスチャーが全く異なるから、一聴音楽の感じが全然違うけど、1969年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチズ・ブルー』で、かなり抽象化された形でではあるけど、そういうJBやスライなどを聴きまくった成果が、既に具現化されている。

 

 

というわけで、かつてのジャズ・ファンからは過渡期的作品として軽視され、1990年代以後再評価するジャズ・ファン以外のリスナーからは、主にアンビエントとして聴かれる『イン・ア・サイレント・ウェイ』だけど、僕はマイルス・ファンク第一作として面白いと思うので、そういう評価もほしいところ。

 

 

『イン・ア・サイレント・ウェイ』は、アフリカ音楽ファンには、ショナ族のムビラ演奏にも通じるクールさが大いにウケると思うし、そういうアフリカ的なクールネスとファンクな側面が分ってくると、次作『ビッチズ・ブルー』の聞え方もだいぶ違ってくるんだよね。少なくとも僕はそうだった。

 

 

『ビッチズ・ブルー』は、アルバムのジャケット・デザインが、これはもうもろ「アフリカ性」の表現だし、ミニマル手法的な同一パターンの反復といい、クールネスといい、完全にアフリカ音楽にルーツを持つファンク・ミュージックだね。先も書いたようにリズム隊が強化されているので、分りやすい。

2015/11/27

渡米後だって悪くないカルメン・ミランダ

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ブラジルのサンバ歌手、カルメン・ミランダの名前を初めて知ったのは、これもやはり中村とうようさんの『大衆音楽の真実』でだったと思う。それを読んだ時、物凄くチャーミングな歌手であるように書いてあったから、すぐにでも聴きたくなったんだけど、当時は探してもちゃんとしたアルバムがなかった。

 

 

でもカエターノ・ヴェローゾの『粋な男ライヴ』に、カルメン・ミランダの歌った「サンバとタンゴ」が入っていたので、その一曲だけ彼女のレパートリーを知っていたのだった。あのカエターノのヴァージョンはなかなかいい。ちなみに、あのライヴ盤、特にDVDの方は、カエターノの最高作と思っている。

 

 

「サンバとタンゴ」は、『粋な男ライヴ』CDでもDVDでもオープニング・ナンバーで、同じ演奏なのにDVD版がいいように聞えるのは、映像があるせいなのか。随分後で聴いたカルメン・ミランダ・ヴァージョンにある、タンゴ部分のリズムの面白さは消えているけどね。

 

 

 

話が逸れるけど、カエターノの『粋な男ライヴ』DVD二曲目には、CDにはない「ペカード」が入っている(スタジオ録音の『粋な男』には入っている)。 これがもう最高に官能的で、僕はこれでカエターノのセクシーさにやられてしまった。この眼差しには、どんな性別だろうとみんな惚れちゃうよねえ。

 

 

 

リズム・チェンジが面白いカルメン・ミランダのオリジナル・ヴァージョンも貼っておこう。 今聴くと、カエターノのカヴァーより、カルメンのオリジナルの方が面白いね。タンゴになる部分でバンドネオンも入るというタンゴ・アレンジだ。

 

 

 

カエターノの『粋な男ライヴ』CDは、1996年のリリースだから、とうようさんの『大衆音楽の真実』を読んでからかなり経過している。DVDの方はもう少し遅かったはず。どっちにしても、その頃は、僕の探し方が悪かったんだろうけど、肝心のカルメン・ミランダのCDは、どう探しても見つからず。

 

 

21世紀になってから、渋谷にあるエル・スールというワールド・ミュージック・ショップの存在を知り、そこに行ってみたら、いくつかカルメン・ミランダのCDが見つかったんだけど、ちょっと見た感じではあんまり面白くなさそう(って、どこで判断したんだ?)な気がして、買わなかった。

 

 

とうようさんの『大衆音楽の真実』では、カルメン・ミランダは渡米前の1930年代の録音が最高だと読んだので、やはりそういうのを聴きたかったんだよなあ。でもって、ブラジル時代のカルメンのCDを初めて入手したのが、いきなりブラジルEMIが出した五枚組ボックス全集だったという、なんかもう。

 

 

そのブラジルEMIが出したカルメン渡米前の1930年代録音全集、いつ頃出たもので、僕がそれをいつ頃どこで買ったのか、もうサッパリ憶えていない。ひょっとしたら、カエターノの『粋な男ライヴ』より前だったかもだけど、もう分らない。これはどうやらすぐに入手困難になったらしく、日本では持っている人にあまり会わない。

 

 

ブラジルEMIの五枚組付属のブックレットには、ポルトガル語で非常に詳しい解説が載っている。ポルトガル語がよく分らないなりに必死で読んだんだけど、その解説の最初のパラグラフに「カルメン・ミランダとペレは、ブラジル最大のイコンだ」という意味のことが書いてある。へえ、カルメン・ミランダってそんなに凄いのかと。

 

 

熱心な音楽ファンになる前の12歳の時、サッカーW杯西ドイツ大会でのヨハン・クライフとオランダ代表に衝撃を受けて以来の熱心なサッカー・ファンである僕は、ペレがブラジルのイコンであることは、非常によく理解していたわけだけど、カルメン・ミランダについては、まだとうようさんの『大衆音楽の真実』でいろいろと読んだだけで、そんなに偉大な歌手だという実感が全然なかったからなあ。

 

 

聴いたらすぐにカルメンの歌の虜になってしまった。とにかく声がチャーミングというか凄くカワイイし、しかも技術がとんでもなくハイ・レベルだ。カルメンのレパートリーの多くは、短い小節数の中に、多くの言葉を詰込んだもので、それを機関銃のように繰出すのだが、不自然な感じが全くしない。

 

 

不自然な感じがしないどころか、余裕綽々で細かいフレーズを歌いこなし、それがあまりにスムースに聞えるものだから、簡単な歌であるかのように聞えてしまうほどだ。ディクションも正確無比。まあ、こんな歌手はそれまで殆ど聴いたことがないと言ってもいいくらいだった。本当に驚いてしまった。

 

 

カルメン・ミランダ全盛期1930年代ブラジル録音は、今では日本のライス・レコードが2002年に出した一枚物CD『サンバの女王』(http://www.amazon.co.jp/dp/B000060N0S/)があって、これに代表曲は殆ど入っているから、是非聴いてほしい。YouTubeにもいろいろと上がっているようだし。

 

 

1930年代カルメン・ミランダの歌の中で、個人的に一番気に入っているのが「サンバの帝王」。 凄くチャーミングだし、お聴きになれば分る通り、これこそサンバという典型的なリズムに乗って、カルメンが飛翔する上に、それに一種の「哀感」がある。

 

 

 

その「哀感」を、ブラジルでは「サウダージ」と呼ぶらしい。このフィーリングは、サンバの母胎になったショーロにもあり、サンバ以後のサンバ・カンソーンを経て、その後のボサ・ノーヴァから、現代のMPBにまで脈々と流れているブラジル音楽の特徴らしい。これにハマるとなかなか抜けられない。

 

 

ショーロがサンバの母胎となったと書いたけど、正確に言うと、サンバ歌手の伴奏がほぼショーロの演奏家達なのだ。音楽の本質において、ショーロとサンバに(さらには、その後のサンバ・カンソーンとボサ・ノーヴァにも)違いはない。ショーロは19世紀後半に成立したインスト音楽で、サンバより(そして米国ジャズより)古い。

 

 

カルメン・ミランダも、ショーロの大家ピシンギーニャの書いた曲を歌ったりもしているし、1930年代ブラジル録音のカルメンの伴奏は、多くがショーロ演奏家なのだ。サンバより数十年前にブラジルで成立したショーロが、サンバ始めその後のブラジル音楽の礎になって、そのフィーリングは今でも流れている。

 

 

カルメン・ミランダはといえば、ブラジルで活躍した後、1939年に渡米してハリウッドで活動する。主に女優としてだけど、歌手としても録音している。今は廃盤のとうようさん編纂による『ブラジル最高の歌姫〜カルメン・ミランダ 1939-1950』が、そういう録音の中ではいいものを集めている。

 

 

アメリカ時代のカルメン・ミランダに、僕は偏見を持っていて、はっきり言って食わず嫌いだったんだけど、そのとうようさん編纂のMCAジェムズの一枚を買って聴くと、なかなかいいので、それまでの偏見と食わず嫌いを大いに反省した。 一番有名なのはこれかも。

 

 

 

だけど、この「チカ・チカ・ブン・チック」は、僕はそんなにいいとは思わない。ギターもアメリカ時代にしばしば伴奏を務めたガロートじゃないし、カルメンも少し音程を外している。それよりこの「ティコ・ティコ」がいいね。 これがおそらく渡米後の最高作だ。

 

 

 

この「ティコ・ティコ」のYouTube画像にもあるように、渡米後ハリウッド時代のカルメンは、派手な格好で、頭にパイナップルかなんかを乗せて、そこから果物とかがポンポン飛出してきたり、そういう中で陽気に歌うキャラクターだったみたいで、そういう写真を見て、僕も偏見を持っていた。イロモノというか。でも悪くないよね。

 

 

しかしそれでも、先の『ブラジル最高の歌姫〜カルメン・ミランダ 1939-1950』でも、全盛期1930年代ブラジル時代の歌唱に及ばない録音が多いのは事実。渡米後一旦ブラジルに帰国した時の反応も、微妙なものがあったようだ。米ハリウッドでの価値はよく分らない僕だけど、サンバ歌手としてはやはり1930年代だよね。

2015/11/26

サンタナと渡辺貞夫

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僕はあんまりサンタナの熱心なリスナーとは言えない。現在CDで持っているのは、カルロス・サンタナ名義が一枚、カルロス・サンタナ&ジョン・マクラフリン名義が一枚、そしてバンドのサンタナ名義のがたったの六枚だけだもん。

 

 

サンタナで初めて聴いたアルバムは、ご多分に漏れず1970年の『天の守護神』(Abraxas)だった。でも大学生の頃、最初に聴いた時は、中身の音楽には特にこれといった強い印象も受けず、ただマティ・クラワインによるアルバム・ジャケットだけに感銘を受けた。

 

 

というのも、マティ・クラワインはマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』や『ライヴ・イーヴル』のアルバム・ジャケットも手がけており、熱心なマイルス・ファンの僕はそれらの異様なジャケットに非常に惹かれていたから、同じデザイナーによる『天の守護神』のジャケットも好きになったのだった。

 

 

でもそれくらいのことで、音楽自体にはさほどの感銘も受けなかったのだ。大学生の頃、サンタナの演奏で一番強い感銘を受けて繰返し聴いていたのは、何年の録音かサッパリ分らないけど、FM放送でエアチェックした来日公演の模様で、なぜかというと渡辺貞夫さんが客演していたから。

 

 

大学生の頃、FM東京に『マイ・ディア・ライフ』という渡辺貞夫さんを主にフィーチャーした、毎週土曜日深夜の番組があって、僕は愛媛県松山市在住だったんだけど、系列局のFM愛媛でも流れていたのを、毎週聴いて録音してもいた。ある時、サンタナの来日公演に飛入りした日の録音が流れたのだった。

 

 

僕の目当はサンタナではなく渡辺貞夫さんだったんだけど、いざ聴いてみると、サンタナの演奏も凄くよかった。録音年もなにも記録していなかったんだけど、僕が大学生だったのは1980〜83年だから、その中のいつかの時期の来日公演だったはず。その時エアチェックしたカセットを繰返し聴いた。

 

 

そのエアチェック・カセットも今はどこかに行ってしまい見つからないから、曲目なども確認できないけど、記憶では番組は、渡辺貞夫さんが入ってくる直前の「オイエ・コモ・ヴァ」から流していた。そしてカルロス・サンタナの紹介で渡辺貞夫さんが登場すると、「ネシャブールの出来事」がはじまった。

 

 

その「ネシャブールの出来事」が素晴しかったんだなあ。『天の守護神』で聴いていたはずの曲なのに、様子が全然違っていて、『天の守護神』ヴァージョンでは五分程度の曲だけど、その時のライヴでは渡辺貞夫さんの長いアドリブ・ソロもあって、15分くらいの長さになっていた。

 

 

カルロス・サンタナのギター・ソロもよかったし、誰だったのか憶えていないけどエレピやオルガンのソロ(オルガンだけだったかも?)もよかった。「ネシャブールの出来事」という曲にこれで惚れた。元々テンポ・チェンジと転調が印象的な曲だけど、その時のライヴでも、渡辺貞夫さんがテンポが変る度に違ったソロを吹いていたなあ。

 

 

他の曲は殆ど憶えていないんだけど(ああ〜〜、あのエアチェック・テープ、早くデジタル化しておけばよかった!)、「アクアマリン」とかもあったかなあ。「ネシャブールの出来事」以外で唯一憶えているのが、アンコールでやったスタンダードの「スターダスト」。カルロス・サンタナが歌った。

 

 

要するに、渡辺貞夫さんはこの時のサンタナ公演の最終盤に登場し、アンコールまで付合った。その時の番組のMC(小林克也)によれば、渡辺貞夫さんのライヴの楽屋をカルロス・サンタナが訪問した返礼として、貞夫さんもサンタナの楽屋を訪れて、それで急遽その日のライヴで吹かないかとなったらしい。

 

 

まあそんなわけで、とにかく45分程度(一時間番組だから、正味はその程度のはず)のそのエアチェック・カセットだけをサンタナの公式アルバムよりも愛聴していて、それで最初聴いた時はあまりピンと来なかったサンタナのこともかなり考え直して、改めてアルバムを聴いたり、別のレコードも買ったり。

 

 

それでいろいろと聴いてみて、本当にサンタナ(やその他カルロス・サンタナ個人のアルバムも)を好きになったのは、CDで買い直してからなんだけど、一番好きになったのが1971年の『サンタナIII』だった。ラテンなリズムが賑やかで楽しいし、ニール・ショーンとのツイン・ギターもいいよねえ。

 

 

いつもいつもマイルス・デイヴィスに話を絡めて恐縮だけど、カルロス・サンタナは、マイルスからバンドのレギュラー・ギタリストにならないかと二回誘われて二回とも断っている。一度目はジョン・マクラフリンの後任(といっても、マクラフリンはレギュラー・メンバーではなかったが)として1971年頃。

 

 

二度目は、1981年のマイルスのカム・バック・バンドにと誘われたらしい。カルロス・サンタナ自身の回顧によれば、一回目の71年の時は、まだマイルスのバンドで弾く自信がなく、二回目の81年の時は、聴衆は自分ではなくマイルスを求めているわけだからと断ったとのことだ。

 

 

一度でいいからマイルスとカルロス・サンタナとの共演を聴いてみたかった気はするなあ。マイルスもラテン・リズムが大好き、というかそもそもジャズやジャズ系の音楽はラテン音楽との相性が非常にいいし、カルロス・サンタナのギターも、マイルスの音楽によく似合うんじゃないかと思うんだよなあ。

 

 

僕は熱心なジャズ・ファンだから、カルロス・サンタナも、ジョン・マクラフリンと共演してジョン・コルトレーン・ナンバーなどをやった1973年の『魂の兄弟たち』が好きなんじゃないかと思われそうだけど、実はああいうアルバムよりも、サンタナ名義のラテン・ロック作品の方がはるかに好きなんだ。

 

 

ラテン音楽が大好きだということは、以前から何回も書いていることだけど、それならサンタナだって最初から良さが分ってもよさそうなものだったのに、ちょっと時間がかかってしまったのはなぜだったんだろうなあ。ちょっと分らないけど、とにかく一番ラテンな感じが(僕には)する『サンタナIII』が最高。

 

 

『サンタナIII』の中にはニューヨーク・ラテンの雄ティト・プエンテの曲(「パラ・ロス・ ルンベロス」)がある。『天の守護神』にも同じくティト・プエンテの名曲「オイエ・コモ・ヴァ」がある。ティトはこの頃にはすっかり米国ラテン音楽界のドンだから、サンタナだってリスペクトしていたはず。

 

 

僕もサンタナの「オイエ・コモ・ヴァ」でティト・プエンテを知って、その後ティト自身のヴァージョンを聴いたら、サンタナ・ヴァージョンはほぼそのまんまなので、な〜んだと思ったのだった。そしてティトの録音をいろいろ聴くようになって、大好きになった。こういう経路を辿ったファンは多いはず。

 

 

サンタナには歌のないインストルメンタル・ナンバーが結構ある、というかむしろそっちの方がメインだから、基本的にインスト音楽であるジャズが好きな僕は、その意味でも好きになる要素があった。さっき渡辺貞夫さんが飛入り参加したライヴ録音がよかったと書いた「ネシャブールの出来事」もそうだ。

 

 

もっともサンタナのインスト・ナンバーでも、有名な1976年の「哀愁のヨーロッパ」とかは、実はあまり好きじゃない。日本人の大好きな泣きのメロディだけど、なんかストリップ・ショーのBGMみたいで、実際よく使われていたと聞く。別にそれでもいいんだけど、サンタナはやっぱりラテン調がいいなあ。

 

 

ラテン調じゃないサンタナのアルバムで一番好きなのは、カルロス・サンタナ単独名義の1987年『ブルーズ・フォー・サルヴァドール』だなあ。ラストのアルバム・タイトル曲とか、もう本当に大好きでよく聴く。このアルバムは一部を除きギター・インストばっかりで、カルロス・サンタナのヴァチュオーゾぶりが味わえる。

 

 

最近のサンタナのアルバムは全く買わなくなったし、殆ど興味もない。聴けばまあいいのかもしれないが。最近よく聴くようになったのは、1973年の大阪公演を収録した三枚組ライヴ盤の『ロータス』だなあ。代表曲はほぼ全部入っているし、大好きな「ネシャブールの出来事」も16分たっぷり聴けるしね。

 

 

『ロータス』の「ネシャブールの出来事」では、カルロス・サンタナがソロの途中で、「マイ・フェイヴァリット・シングズ」のメロディを少し弾いている。FMで聴いた渡辺貞夫さん客演のライヴ・ヴァージョンでも確かそうだった。これは『天の守護神』のオリジナルにはないけど、お決りだったんだろう。

 

 

なお、『ロータス』のジャケット・デザインも、これまたマイルスの『アガルタ』と同じ横尾忠則。だからリアルタイムで買ったファンの方々は、この二つの印象が重なっているらしい。正22面体というとんでない代物で、2006年のCDリイシューで再現された。だけどやっぱりオリジナルを見てみたいなあ。

 

2015/11/25

28年のサッチモとドン・レッドマンと録音状態

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ルイ・アームストロングの『Complete Hot Five And Hot Seven』という四枚組がしばらく前に届いたので、絶頂期1928年の録音を中心にいろいろと聴いていた。20年代後半のサッチモ音源は、同じようなものをもう何セットも持っているのに、見つけたらついつい買ってしまう。

 

 

1920年代のサッチモ音源で一番好きなのは、27年(「ウェアリー・ブルーズ」や「ポテト・ヘッド・ブルーズ」など)なんだけれど、絶頂期と衆目の一致する28年録音が最高であることには、全くなんの異論もない。縦横無尽・天衣無縫、まさに天翔る馬の如く自由奔放に吹きまくるサッチモ。

 

 

この1928年のサッチモほど自在に吹きまくれたジャズ・トランペッターというのは、僕の知る限りでは、他には、亡くなる直前の56年のクリフォード・ブラウンだけじゃないかなあ。そのブラウニーにしてからが、その丸くて太い音色のルーツはサッチモにあるわけだから。

 

 

1928年のサッチモでは「ウェスト・エンド・ブルーズ」が一番評価が高いけれど(ウィントン君もサッチモそっくりにカヴァーしたことがある)、日本では昔から「タイト・ライク・ディス」が人気があって、この曲の3コーラスにわたるソロが最高というのは、油井正一さんも中村とうようさんも意見が一致していた。

 

 

そして僕がその「タイト・ライク・ディス」より好きなのが、実は「セント・ジェームズ病院」。キャブ・キャロウェイのヴァージョンが有名だけど、僕はキャブの1933年のより、28年のサッチモのヴァージョンの方が好きなのだ。

 

 

 

サッチモの「セント・ジェームズ病院」では、フレッチャー・ヘンダースン楽団で腕をふるった名アレンジャー(兼サックス奏者)のドン・レッドマンのアレンジが冴えている。サッチモの1928年録音で、彼がアレンジしているのは四曲。その中ではやはり「セント・ジェームズ病院」が一番素晴しい。

 

 

ジャズ界最初のホットなビッグ・バンドと言われるフレッチャー・ヘンダースン楽団の初期スタイルを作ったのは、他ならぬ1923年に加入したドン・レッドマンだった。彼は27年まで在籍して同楽団の殆どの曲のアレンジを書いた。サッチモも24年に同楽団に在籍し録音したから、その縁だったんだろうね。

 

 

さらに言えば、1935年以後スウィング・スタイルで一世を風靡したベニー・グッドマン楽団も、初期はアレンジが足りず、フレッチャー・ヘンダースンからアレンジ譜面を買取って演奏していたわけだから、スウィング時代を創造したのは、間接的にはドン・レッドマンだったのかも?

 

 

あまりアレンジされていないものより、こういうアレンジの効いたナンバーの方が好きなのは、いかにも僕らしいと自分でも思う。ところで、この「セント・ジェームズ病院」の歌詞を書いているのはジョー・プリムローズということになっているけど、これは実はアーヴィング・ミルズの変名。

 

 

そう、デューク・エリントン楽団のマネイジャーだったアーヴィング・ミルズ。彼とエリントンとの関係については、油井正一さんの『ジャズの歴史物語』に詳しく書いてあるから、繰返さないけれど、この古い伝承曲の作詞・作曲とも、登録したのはアーヴィング・ミルズのようだ。エリントン楽団の録音もある。

 

 

1928年のサッチモの録音は、サイドメンも全員いいんだけれど、唯一残念なのがズティ・シングルトンのドラムス。当時まだ未発達だった録音技術のせいで、フル・セットを持込めなかったばかりか、許されたパーツでも大変残念な音でしか録音されていない。この名手の初期スタイルを録音で知ることは絶望的。

 

 

もっとも同じ1928年の録音でも、6月の録音ではもうどうしようもないほどチャチな音でしかズティのプレイは聴けないけれど、12月の録音(「ノー、パパ、ノー」から)では、突然音質が向上する。何曲かでブラシを使っているのもよく分る。ちなみに、僕の知る限り、ブラシを使った最も早い録音だろう。

 

 

でもやっぱり12月録音でも、ズティ・シングルトンの上手さはイマイチ分らない。1938年のピー・ウィー・ラッセル名義のこの録音では、バンドをグイグイ引っ張るズティの素晴しい推進力がよく分る。こういう音でサッチモの全盛期も聴きたかった。
https://www.youtube.com/watch?v=MC03XjrzlZc

 

 

しかしながら、同じ1928年頃でも、デューク・エリントン楽団などのヴィクター録音では、そんなに悪い音ではなく、まあまあの音で録音されているから(ドラムスの音はショボいけど)、この頃は(というか戦前は)、録音技術だけに限れば、コロンビアよりヴィクターの方が進んでいたんだろう。

 

 

サッチモの録音では、まだ1928年はマシな方で、25年頃の録音では、使っている炭素マイクが、朝が一番調子よくて、時間が経つと湿ってだんだん調子が悪くなったようだから、サッチモのバンドの録音も朝に行われることが多かったらしい。これに関連して、『ジャズの歴史』の中で油井正一さんが卑猥な川柳を詠んでいた。

 

 

だって1925〜27年のサッチモのバンドのピアニスト、リル・ハーディン(アームストロング)は、当時はサッチモと結婚していたもん。油井さんの川柳、今でもはっきり憶えているけど、かなり卑猥だったから、ここで書くのはやめておく。早朝録音だったという事実から、だいたい想像できるだろう。

 

 

 

1928年録音では「ノー、パパ、ノー」と「セイヴ・イット、プリティ・ママ」の二曲で、無調というのではないけれど、サッチモのソロの途中で、アウトしているように聞える瞬間がある。僕の気のせいだろうか?わざとなのか、ミスしただけなのか?

 

 

ところで、1928年の録音は今のどんなCD集も、録音順に「ファイアーワークス」から収録されているんだけど、アナログ盤『ルイ・アームストロングの肖像 1928』で親しんできた身としては、違和感がある。あのLPの一曲目は「ウェスト・エンド・ブルーズ」だった。それ以外はだいたい録音順だったけど。

 

 

曲順を考えたのは、おそらく企画段階から関わってライナーノーツも書いていた油井正一さんだろうけど、1928年の最高傑作とされる「ウェスト・エンド・ブルーズ」で始めるというのは、素晴しい曲順だった。だから、今でも僕は、インポートしてから、そのLPの曲順通りに並べ直し、CDRに焼いて聴いているのだ。

 

 

『ルイ・アームストロングの肖像 1928』の曲順は、コレ→ http://www.amazon.co.jp/dp/B000064RYO で知ることができる。これはCD時代初期に最も早く出たサッチモの1928年録音全集で、日本盤アナログLPをそのままCD化したもの。僕もすぐに買ったけど、今ではどうにも音がショボすぎて、聴くと相当ガッカリする。

2015/11/24

CDリイシューで聴くようになったサザン・ソウル

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前にも書いたことがあるけど、僕は昔からソウル・ミュージック、特にサザン・ソウルをあまり聴いてこなかった音楽リスナーで、積極的に聴始めたのもCD時代になってどんどんリイシューされるようになってから。アナログ盤時代に聴いていたサザン・ソウル歌手は、オーティス・レディングくらいだ。

 

 

ジャズも黒人音楽として考えていて、ジャンプやジャイヴの古いものや、1960年代末からのソウル・ジャズやジャズ・ファンクなど、全部真っ黒けなものばかりが好きなんだし、ブルーズだって大学生の頃から大好きでよく聴いてきたのに、どうして黒さの象徴みたいなソウル・ミュージックをあまり聴いていないんだろう?

 

 

もっとも、ソウルの一変種みたいなファンク・ミュージックは大好きで、大学生の頃からジェイムズ・ブラウンなどはアナログ盤で愛聴していたし、マイルス・デイヴィスやハービー・ハンコックやジミー・スミスなど、ジャズ畑出身の音楽家のやるファンクも、たまらなく大好き。

 

 

しかも、ソウル・ミュージックの大きな屋台骨である黒人ゴスペルも、昔から大好きで、実を言うと、今でもソウルよりゴスペルの方が好きなくらい。そういえば以前書いた大阪在住の熱心なソウル・コレクターの方が、ソウルなど黒人音楽が大好きなのに、なぜかゴスペルが苦手だという人だった。

 

 

ソウルのことを分っているとは言えないから、えらそうなことは言わない方がいいんだけど、ゴスペルを聴かないソウル・リスナーって、ちょっともったいないような気がしてしまう。まあ人の嗜好というものは、本当に十人十色だなあ。ソウルの創始者サム・クックはゴスペル出身というだけでなく、多くの歌手がソウルとゴスペルを行き来しているけど。

 

 

米国黒人音楽では、僕の場合ソウルはかなり聴き方が足りないけど、他のジャンルはまあまあそれなりに聴いている。しかも書いたようにファンクは大好きで聴きまくっているから、それ以前の普通のというか、デトロイト、フィリー、ノーザン、サザン(ディープ)などのソウルを、イマイチ聴いてこなかった。

 

 

ドゥー・ワップをソウルに分類することもあるみたいだけど、それはどうもちょっと違うような気もするなあ。ドゥー・ワップは、僕は大好きでまあまあ聴いている。きっかけはフランク・ザッパだったりしたけど。ザッパは熱心なドゥー・ワップのシングル盤コレクター。彼の音楽にもそれが活かされている。

 

 

オーティス・レディングだって、少しだけアナログ盤を聴きはしたものの、あまり好きにもなれず、たくさんレコードを買う気にはなれなかった。CD時代になって、これではイカンと思って、いろいろ他の人のソウル・アルバムも買って聴くんだけど、どうもピンと来ない場合もあった。

 

 

生理的なものなのだろうか。暑苦しいというか。もちろん大好きなものもたくさんあるけど。例えば一連のモータウン作品などは、1960年代のヴォーカル・グループも好き。また、スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイなどの、70年代のセルフ・プロデュース作品以前のモータウン作品にも好きなものが結構ある。あまりアクが強くないせい?

 

 

同じような傾向で、そんなにアクが強すぎないフィリー・ソウルやノーザン・ソウルは、多少聴くようにはなった。問題はサザン(ディープ)・ソウルだよなあ。サザン・ソウルこそソウル・ミュージックの神髄ともいうべきものだという人もいて、日本にだってファンが多いもんなあ。

 

 

アナログ盤ではオーティス・レディングしか聴いていなかったサザン・ソウルも、CDリイシューでは、いろんなアルバムを結構たくさん買って聴いてはいる。特に最近は、シングル盤中心だったサザン・ソウルの世界で、主にシングル盤しか残していない歌手の音源も、結構リイシューされているし。

 

 

ゴールドワックス・シングル盤音源全集とかももちろん買って聴いたし、ソウル・ミュージックに関しては全く他人任せのリスナーである僕なんかは、シングル盤まで追掛ける熱意はないから、主に英国のリイシュー・レーベルであるケント/エイスの仕事で、そういうリイシューCDをたくさん買った。

 

 

ジェイムズ・カーのゴールドワックス・シングル音源全集とか、数年前に出たばかりのスペンサー・ウィギンズのフェイム録音全集とか、もちろん全部買っている。それらは今ではかなりの愛聴盤。前にも強調したけど、特にスペンサー・ウィギンズのフェイム録音はたまらなく好きなんだ。

 

 

男性歌手ではそうなんだけど、女性のソウル歌手では、長年アリサ・フランクリンが一番好きだった。彼女は1967年のアトランティック移籍後すぐにマッスル・ショールズのフェイム・スタジオで録音したのが、名盤として名声を上げたわけだから、一応サザン・ソウルの歌手に入れてもいいんだろうか?

 

 

もちろんアリサの歌うサザン・ソウルは最高に胸に沁みてくるんだけど、前にも書いたように、僕は実をいうとアリサに関しては、ソウル歌手になる前の、1961年のデビューから66年までのコロンビア時代が大好きで、そこではジャズやブルーズをたくさん歌っていて、それがとてもチャーミング。

 

 

だからまあ、アリサに関しては、サザン・ソウルを歌うアトランティック時代より、ジャズを歌うコロンビア時代の方が好きだというような僕は、あまりいいリスナーとは言えないんだろうなあ。アリサ同様フェイムで録音した女性歌手では、一時期エタ・ジェイムズの『テル・ママ』が好きでよく聴いていた。

 

 

そういうのを聴くと、エタもサザン・ソウル歌手なのかと思ってしまうし、現にそう分類してある文章も見掛けるんだけど、エタはどう考えてもソウル歌手ではないような気がするなあ。僕なんかには、エタはどっちかというとブルーズ歌手だなあ。百歩譲ってもR&B歌手だね。

 

 

そして、サザン・ソウルに分類されている女性歌手で、僕が今一番気に入っていて愛聴しているのは、実をいうとキャンディ・ステイトンなのだ。もっとも彼女はゴスペルもたくさん歌っているけど、やっぱりなんたってサザン・ソウルを歌ったフェイム録音集が最高だよねえ。1970年代前半のもの。

 

 

はっきり言って僕はあまり熱心なキャンディ・ステイトンのリスナーではなかった。長年にわたって、一番有名な『スタンド・バイ・ユア・マン』一枚しか聴いたことがなく、それもその元は南部のカントリー・ナンバーだったタイトル曲がいいなと思っていただけだった。

 

 

それがコロッと変ったのが、2011年に出た『エヴィデンス:コンプリート・フェイム・レコーズ・マスターズ』二枚組だった。タイトル通りキャンディのフェイム録音全集ということで、もちろんリリースされて即買ったんだけど、これでまとめて聴いてみて、なんてチャーミングな歌手なんだと惚れ直した。

 

 

その『エヴィデンス』二枚組は、それはもう何度も繰返し聴いて、今でもよく聴く愛聴盤なんだよねえ。最大のヒット曲である「スタンド・バイ・ユア・マン」はもちろん入っているし、「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラヴ・イズ」といったサザン・ソウル・スタンダードもある。最高なんだよね。

 

 

「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラヴ・イズ」は、数多くのヴァージョンがあって、オーティス・レディングのが一番有名だろう。僕は、最初に歌ったO.V. ライトの1964年シングル盤(ゴールドワックス)ヴァージョンが一番好き。でも、キャンディ・ステイトンのもなかなか魅力的だよ。

 

 

 

 

それにしても、キャンディ・ステイトンのサザン・ソウル代表曲「スタンド・バイ・ユア・マン」が、元はカントリー・ナンバーだったり、サザン・ソウルの代表的なスタジオであるフェイムのミュージシャンが全員白人だったり、特に南部における黒人音楽と白人音楽との関係は面白いがあるなあ。

2015/11/23

ライ・クーダーのオルターナティヴ・ジャズ

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ライ・クーダーの『ジャズ』がどっか行って見つからないと思っていたら、こないだ、サム・クックのCDを探しているときに(同じC列だから)一緒に見つかったので、今日はこれを(昨晩書いたエディ・コンドンの戦前録音集に続けて)聴直した。これをエディ・コンドンと並べて聴くのは、無意味なことじゃない。

 

 

分っている人には説明不要だけど、ライの『ジャズ』には、ビックス・バイダーベックの曲が三曲ある。生前のビックスはエディ・コンドンと親交があったばかりでなく、長生きしたエディ・コンドンはビックスへの敬愛を隠さず、しばしばビックスに言及していたし、戦後はビックス集アルバムも録音した。

 

 

そもそもライの『ジャズ』というアルバム、モダン・ジャズや最近の新しめのジャズばかり聴いているファンには、理解不能の作品だろう。戦前のジャズもたくさん聴いていた大学生時代の僕だって、前も書いたけど、全く面白さが分らなかった。ただタイトルに惹かれて唯一持っていたライのLPだったけど。

 

 

ライの『ジャズ』は、ジャズという音楽の成立ちから見直し、再構築して、ジャズがとりえたかもしれないもう一つの姿(可能性)、いってみれば「オルターナティヴ・ジャズ」とでも言うべきものを、実際の音で具現化した作品だった。だからこのアルバムは、本流ジャズだけ聴いていてもなかなか分らない。

 

 

大学生の頃、ライの『ジャズ』が理解できなかったもう一つの理由として、ライのアクースティック・ギターが中心になっているアルバムだったということがある。戦前ジャズもたくさん聴いていた僕だけど、戦前のジャズでは(というかそれ以後現在に至るまでも)、ギターがメイン楽器になったことはない。

 

 

ギターでソロを取る人がいなかったわけじゃないけど、相当に珍しい例外のように言われたりするぐらいで、殆どいなかった。ギターはあくまでリズム楽器の一つとして、黙々とコード弾きでリズムを刻むというのが、もっぱらの役目だった。戦前のビッグ・バンドは、大抵そういうギタリスト(かその前はバンジョー奏者)を雇っていた。

 

 

そういうリズム・ギタリストの代表格にして最高の名手が、カウント・ベイシー楽団のフレディ・グリーン。もっとも戦前の録音では、彼のギターの音は殆ど聞えない。これは仕方がない。彼の名手ぶりが一番よく分るのは、戦後の、しかもコンボ録音の『カウント・ベイシー&カンザス・シティ・セヴン』だ。

 

 

そういうわけだから、誕生前〜誕生期〜1920年代のジャズを中心に据えたライの『ジャズ』で、アクースティック・ギターが主に活躍するというのは、大学生の頃の僕にとっては、相当に違和感の強いものだった。ギターがメインの音楽なら、ブルーズやロックの方が好きだったもんなあ。

 

 

ライの『ジャズ』が面白く感じるようになったのは、ブルーズやロック以外のアクースティック・ギター音楽をたくさん聴くようになったことと、ジャズ発生期のルーツ音楽やジャズ周辺の様々な音楽をいろいろと聴くようになって以後のことだ。そうなってみると、あのアルバムでの彼のやりたかったことが分ってきた。

 

 

油井正一さんが、「ジャズはラテン音楽の一種」と言ったのは有名だ。ライの『ジャズ』を聴いても、この言葉の意味がよく分る。二曲目「フェイス・トゥ・フェイス・ザット・アイ・シャル・ミート・ヒム」は、ライの敬愛するバハマのギタリスト、ホセ・スペンセのアレンジに基づくもの。

 

 

『ジャズ』の中ではホセ・スペンセを三つ取上げているけど、どれも、ジャズのルーツになったそれ以前のカリブ海音楽、19世紀後半のシンコペイティッド・ミュージックを想起させるものだ。ライは間違いなくそういう19世紀後半のシンコペイションを伴うギター音楽に、ジャズの匂いを嗅ぎ取っている。

 

 

また三曲目の「ザ・パール / ティア・フアナ」は、ご存知初期ジャズの巨人、ニューオーリンズのジェリー・ロール・モートンのナンバー。モートンはこれをピアノ・ソロでも録音していて、それはある時期からの僕の愛聴曲だけど、モートンが”Spanish tinge”と呼んだ曲調だ。

 

 

“Spanish tinge”とは「スペイン風味」くらいの意味だけど、実際にはスペイン語圏のカリブ海音楽、特にキューバ由来のハバネラの跳ねるリズムを、主にピアノの左手で表現した演奏だった。これをライはギターとマンドリン等の多重録音でやっていて、それもまた強烈にカリブ風音楽の趣だ。

 

 

モートンがニューオーリンズのジャズマンだと書いたけど、ジャズ以前〜ジャズ発生期の当地には、土地柄、たくさんのカリブ海文化が流入していた。音楽だってそうだ。そういうカリブ音楽が、ジャズの重要な形成要因になっている。ホセ・スペンセも、モートンのスペイン風味も。

 

 

ジャズ・ピアノ界最高の巨人アール・ハインズが参加している四曲目「ザ・ドリーム」でも、マリンバがやや南国的な雰囲気を醸し出しているし、この曲は元々1880年頃のニューオーリンズの売春宿で演奏されていたという曲だ。ちょっといかがわしい雰囲気だけど、その上をライのスライドが滑る。

 

 

アナログ盤時代のB面に入ると、最初に書いたようにビックス・バイダーベックの曲が三曲続く。このアルバムの中核を形成しているものだ。ビックスの「イン・ア・ミスト」「フラッシズ」と、もう一曲「ダヴェンポート・ブルーズ」。

 

 

ビックスの曲がヴァイブ中心のこういうアレンジになっているのも面白いけど、一番面白いのは二曲目の「フラッシズ」。ここでは、ライのアクースティック・ギター一本での演奏になっていて、ライのヴァーチュオーゾぶりがよく分る。他の二曲含め、ビックスの原曲からは想像できない変貌ぶりだ。

 

 

そういうアレンジの面白さが、大学生の頃、ビックスだけ聴いていた時には全く分らなかった。ジャズだけでなく、その源になったラグタイムや19世紀アメリカ音楽などが渾然一体となっていて、今では凄く面白い。ビックスの原曲にそれがあることを、ライのヴァージョンを通して、初めて理解できた。

 

 

「イン・ア・ミスト」などはビックスの原曲はピアノ・ソロ演奏(ビックスはピアノも上手い)だから、彼のコルネットこそが大好きだった僕は、昔はビックスのLPの中でもそんなに好きではなく、あまり進んで聴かなかった。ビックスの元演奏を今聴くと、クラシック音楽の素養もあることがよく分る。

 

 

余談だけど、ビックスの「イン・ア・ミスト」は、油井正一さんが編纂・解説したコロンビア音源のLPに収録されていて(ヴィクター音源はビッグ・バンドもので、ビックスのソロはほんの数小節)、昔から普通に聴けたけど、同じビックスのピアノ・ソロ曲「フラッシズ」は、ビックス自身の演奏は残っていないはず。おそらくジェス・ステイシーの1935年録音が初だろう。

 

 

ジャズというと、インプロヴィゼイションが中心のシリアスな音楽と思われているけど、ルーツを辿ればライの『ジャズ』一曲目・九曲目・十曲目で聴かれるように、ヴォードヴィル・ショウなどの道化芝居と密接に結びついていたり、今まで述べてきたようにカリブ海音楽の下世話な楽しさが反映されていた。

 

 

ライの『ジャズ』は、そういう「定型化」する以前の、発生以前〜初期〜1920年代までのジャズの姿を集めて、それをライ独自のアクースティック・ギター中心の演奏で表現して、現代にジャズが持っていたかもしれない「もう一つの可能性」をはっきりと示している。こんなに面白い「ジャズ」はない。

 

 

ライ・クーダーが『ジャズ』を発表したのは1978年。50年代のモダン・ジャズ以後、長くて複雑なソロ・インプロヴィゼイションがメインになっている時代に、そういうスタイルだけじゃなく、もっと楽しくて面白いジャズの可能性もあるんだよと教えてくれたのが、ライだ。こういう音楽こそ最高だ。

 

 

なお、僕がこうして知ったかぶりにいろいろと書いた内容は、全部『ジャズ』のライナーノーツとしてライ自身が詳しく解説してくれているから、英語が読める方は是非ご一読いただきたい。僕には、ギター音楽の可能性を探究したという意味でも、『チキン・スキン・ミュージック』の続編のようにも思える。

2015/11/22

シカゴ派の大物エディ・コンドン

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YouTubeに三曲アップしたエディ・コンドンの音源、しばらくは再生回数が1のまま伸びなかったけど、僕は数あるジャズの中でもこういうシカゴ派のディキシーランド・ジャズがかなり好き。ジャンプやジャイヴなどの芸能色の強い楽しいジャズ以外では、マイルス・デイヴィスを除けば、ひょっとしたら一番好きかも。

 

 

いや、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンがいるから、「一番好き」ではないかな。マイルスや彼らに次いで好きという感じか。カウント・ベイシーもいるけど、1930年代の全盛期ベイシーは、僕の中ではジャンプ系ビッグ・バンドだ。正確には、小出斉さんの言うように、準ジャンプというかプリ・ジャンプ。

 

 

そういう細かいことはともかく、いまどきシカゴ派のディキシーなんか聴くジャズ・リスナーは、殆どいないだろうなあ。エディ・コンドンに代表されるシカゴ派は、ジャズ・ファンでもよっぽどの人じゃないと好きにならない種類の音楽だし。

 

 

もっとも僕がYouTubeに上げたのは、『ジャム・セッション・コースト・コースト』というアルバムからで、一番好きなコンドンのアルバムだけど、これは1954年なので、シカゴ派の全盛期録音ではない。スタイルはそのままだけどね。シカゴ派は、1920年代後半〜40年代が主たる活躍時期。

 

 

そもそも「シカゴ派」(”Chicago school”)なる名称を、いまだに憶えているジャズ・ファンはいったいどれくらいいるんだろう?シカゴ派とは、1920年代後半〜40年代半ばまでの、バド・フリーマンやワイルド・ビル・デヴィスン等、エディ・コンドン一派を中心にした白人ジャズ。

 

 

もちろん、シカゴが主な活動場所だったから、この名称がある。シカゴは、ブルーズの聖地でもあるけど、ニューオーリンズ、カンザス・シティ、ニューヨーク等と並ぶジャズのメッカでもあった。しかも、ニューオーリンズでストーリーヴィルが閉鎖された1917年以後は、そこからジャズマンがかなりシカゴに流入した。

 

 

言うまでもなく、ニューオーリンズから北上してシカゴに辿り着いたジャズマンの殆どは黒人であって、シカゴ派の白人ジャズマンではない。キング・オリヴァーや、彼に誘われてシカゴに来たルイ・アームストロング、あるいはジェリー・ロール・モートン(彼は黒人というよりクリオール)なども、主にシカゴで活躍した。

 

 

そして、シカゴ(主にウェスト・サイド)で活動した1920年代の黒人ジャズマンが演奏したニューオーリンズ・ジャズに憧れ、それを手本にして白人達がやりはじめたのが、ディキシーランド・ジャズだ。だから、僕の中では、ディキシーランド・ジャズは、シカゴ派ジャズとほぼイコールなのだ。

 

 

そういうわけだから、エディ・コンドン一派の展開するシカゴ派ジャズは、サッチモらのニューオーリンズ・ジャズによく似ている。ちょっと音色やノリが違うけど、戦前の古いジャズをかなり聴き慣れていないと、普通のジャズ・ファンは区別しにくいはず。僕だって最初は同じように聞えた。

 

 

何の世界でも、模倣する側の方が、お手本の特徴をよく捉えしばしばそれを誇張するように、シカゴ派ジャズも、ニューオーリンズ・ジャズをよく表現していた。油井正一さんも、サッチモなどをオリジネイターとして最高に評価する一方で、本音では白人ディキシー等が大好きだったようだ。

 

 

もっとも油井さんが一番好きだったビックス・バイダーベックは、白人だけどオリジネイターだ。ビックス以前にああいうコルネットの吹き方をしたのは、エメット・ハーディー以外いないらしい。そのエメット・ハーディーは録音が全くない上に、文献でも僕は油井さんの本でしか名前を見たことがないからなあ。

 

 

つまり、エメット・ハーディーは、いわば謎の人物であり実態を確かめようがないから、ビックス・バイダーベックをオリジネイターと認定しても差支えないだろう。ビックス以後は、マイルス・デイヴィスやチェット・ベイカーなど、同じようなスタイルでトランペットを吹くジャズマンが出てくるようになったし。

 

 

僕が大学生の頃、エディ・コンドンなどを聴くようになったのは、これまた油井正一さんの『ジャズの歴史』(東京創元社)を読んだのがきっかけ。その本の中に、エディ・コンドンについて書いた一章があり、凄く興味を持った。そこで油井さんは、コンドンはギターの腕自体は大したことないと書いていた。

 

 

大したことないばかりか、彼のギターはレコードを聴いてもよく聞えないのだと、油井さんは書いていた。いざレコードを買って聴いてみると、そんなこともなく、確かにコンドンは全くソロというものを弾かない(というか弾くだけの腕がない)ギタリストだけど、リズムを刻む音は聞えるけどなあ。

 

 

エディ・コンドンがシカゴ派最大の大物と言われているのは、そのギター演奏によって仲間をグイグイ惹き付けるようなタイプだったからではなく(そんな演奏技術はコンドンにはない)、親分肌のリーダーシップ、マネイジメント能力など、バンド・リーダーとしての手腕によってだった。

 

 

先に書いた1954年録音の『ジャム・セッション・コースト・トゥ・コースト』では、戦後の録音なので音質もいいから、演奏前や演奏中のエディ・コンドンによるメンバーへの指示の声がよく聞えて、演奏内容自体もいいんだけど、スタジオ・セッションでのコンドンのリーダーシップもよく分る。

 

 

それを聴くと、ソロ廻しの順番や、各人何コーラスのソロを取れとか、ソロ廻しが終った後の合奏の指示とか、結構詳しくいろいろとエディ・コンドンが指示している。僕がアップしたYouTube音源でもしっかり聴ける。おそらくシカゴ派全盛期の1920〜40年代録音でも、同じような感じだったはずだ。

 

 

ついこないだ全盛期1920年代後半〜40年代までのエディ・コンドンの録音集四枚組を買って聴いているんだけど、その『クラシック・セッションズ 1927-1949』が、2014年末に出ていたことに、先日気付いたばかり。今までバラバラにいくつか持っていた音源集だ。

 

 

これをアマゾンで見つけた時は嬉しかった。1920〜40年代のエディ・コンドン名義の録音だけでなく、彼が参加している他人名義の録音も集めているし、それらをたくさん収録したボックスは、アナログ時代にも存在しなかったはず。四枚とも75分以上たっぷり入っていて、僕などは聴くと忘我の境地だ。もちろん、これで全部ではないが。

 

 

後にニューヨークに出て、スウィングの王様として大成功するベニー・グッドマン(こっちの知名度は高いだろう)なども、元はシカゴ出身で、最初は当地でセッションを繰返していたクラリネット奏者。もちろん、エディ・コンドンとの共演音源もある。またコンドンは黒人ジャズマンとも多く共演している。

 

 

その中には、他ならぬサッチモもいるし、ファッツ・ウォーラーなどもいる(どちらも先に書いた四枚組に入っている)。なにしろ、エディ・コンドンはシカゴの大物だったわけだから、当地に住んでいたり訪れたりした黒人ジャズマンだって、共演したかったはずだ。

 

 

エディ・コンドンがシカゴで活躍した時代は、主に禁酒法のあった時代(1920〜33)で、密造酒の製造・販売が地下で横行し、つまりシカゴではマフィアが暗躍していた。シカゴを活動場所にしていたその時代のジャズマンも、マフィアとの関わりがあったらしい。コンドンの手腕もそのあたりで発揮されたようだ。

 

 

要するに、先に書いたように一種のマネイジメント能力ということだけど、昔も今も、夜にジャズマンが演奏するのは、多くは酒を出すような場所だから、当時のシカゴでそれを仕切っていたマフィア連中と、当然ながら、折合いを付けていく必要があった。エリントンなどもそれで苦労したという話がある。

 

 

エリントンの場合は、マネイジャーのアーヴィング・ミルズが辣腕だったから(ある時期以後決裂するけど)、彼がなんとかしたみたいだ。シカゴのエディ・コンドンの場合は、彼自身が交渉したらしい。コンドンが親分肌で、多くのジャズマンが彼についていったのは、そういうのも理由だったんだろうね。

 

 

とまあ、自身の演奏内容そのものには一切触れようがないエディ・コンドンだけど、実際に先に書いた四枚組録音集を聴くと、コンドンを慕って集ってくるジャズマンが、彼の庇護下で、実に伸び伸びと実力を発揮しているのがよく分って、聴いていて楽しくてたまらない。でもこういうのは、もう今は流行らないね。

2015/11/21

マイルスのスペイン風

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昨晩、1983年大阪公演における「ジャン・ピエール」でのマイルスのソロが、スパニッシュ・スケールを駆使して素晴しかったと書いた。この曲、81年の来日公演でも演奏されたけど、その時(東京での演奏が『ウィ・ウォント・マイルス』に収録)は、全くスペイン風ではない。

 

 

その1981年の東京公演では、復帰第一作の『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』収録の「ファット・タイム」もやっていて(1993年に出た『マイルス!マイルス!マイルス!』に収録されている)、そこでは若干スパニッシュなソロを吹いていた。これもスパニッシュ・スケールを使った曲だしね。

 

 

「ジャン・ピエール」は、いつ頃出来た曲なのか、ちょっと分らない。初出が1981年8月のシカゴ公演で、当時のスタジオ録音はない。マイルスのお気に入りで、数年間ライヴでの定番だったし、コロンビアでの最終作、85年の『ユア・アンダー・アレスト』でも再演している(全くスペイン風ではないが)。

 

 

今年亡くなった中山康樹さんが、かつてこの曲の由来を調べたことがあって、何ヶ所かで書いているけど、1960年オランダでの「ウォーキン」や68年録音の「リトル・スタッフ」(『キリマンジャロの娘』)の中で、断片的にそのメロディーが出てくる。また、元はフランスの童謡というマイルスの言葉もある。

 

 

マイルスがスパニッシュなソロを吹く「ジャン・ピエール」は、僕の知る限り、ブートCDでもYouTubeでも音源化されていない。あの時の感動を追体験できなくて、ちょっと残念だよなあ。1983年の大阪でそれを聴いた僕は、松山に帰ってきてからも、その感動を興奮気味に友人に話しまくっていた。

 

 

マイルスがスペイン風の旋律を吹いたのは、1957年録音の『マイルス・アヘッド』収録「カディスの乙女」(ドリーブ作曲)が最初。これは、2009年に出た『スケッチズ・オヴ・スペイン』二枚組レガシー・エディションにも収録されたくらいだった。スペイン風の最初のものという意味だったんだろう。

 

 

しかしその後しばらくスペイン風の曲はなく、彼がスペイン風旋律に強い関心を示し始めるのは、1959年の『カインド・オヴ・ブルー』ラストの「フラメンコ・スケッチズ」からだ。この曲は五つのスケール(モード)で構成された曲で、その四つ目がスパニッシュ・スケール(フリジアン・ドミナント・モード)だ。

 

 

そして、その翌年の『スケッチズ・オヴ・スペイン』で、それが一気に開花するわけで、その後は、アクースティック・ジャズ時代、電化ファンク時代を問わず、殆どのアルバムにスパニッシュ・ナンバーがあるんじゃないかと思うほど、マイルスのスパニッシュ・スケールへのこだわりは強かった。

 

 

例えば『スケッチズ・オヴ・スペイン』の翌年の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』にも、スパニッシュ・スケールを使った「テオ」があって、マイルスと、ゲスト参加のコルトレーンが見事なソロを吹く。新クインテットによる1965年の第一作『E.S.P.』のラストにも「ムード」があるね。

 

 

電化以後も、1969年録音の『ビッチズ・ブルー』にも、そのまんまのタイトルの「スパニッシュ・キー」があるし、81年復帰後も、最初に書いた「ジャン・ピエール」「ファット・タイム」だけでなく、86年の『TUTU』に「ポーシア」があり、またその次作の『シエスタ』は全面的にスペイン風だった。

 

 

特に「ポーシア」は、その後のライヴ・ステージでも頻繁に演奏されていた曲で、僕が聴いた1988年の人見記念講堂でのライヴでも、二曲やったアンコールの二曲目が「ポーシア」だった(一曲目は「トマース」で、どっちも『TUTU』収録ナンバー)。そこでも、マイルスは完全にスパニッシュなソロを吹いた。

 

 

『TUTU』も、『シエスタ』も、ほぼ全て作編曲はマーカス・ミラーで、彼は『スケッチズ・オヴ・スペイン』のギル・エヴァンスのアレンジを強く意識したと語っている。実際『シエスタ』の方には「マスター:ギル・エヴァンスに捧ぐ」というクレジットが入っていたくらいだった。

 

 

マーカスは、マイルスがスパニッシュを好きなのを知っていたから、そういうのを書いたんだと語っていたけど、それにしても、マイルスはなぜここまでスペイン風味にこだわったんだろう?一説によると、彼がそれに深い関心を持ったのは、1958年頃からのフランシスとの交際がきっかけだったとか。

 

 

マイルスのアルバム・ジャケットにもしばしば登場する、1960年にマイルスと結婚するフランシス・テイラーはフラメンコ・ダンサー。マイルスは彼女のステージを見て、彼女に惹かれたばかりでなく、スペイン風の旋律にも興味を持ったのだという説がある。確か、マイルスの自叙伝にもそんなことが書いてあったはず。

 

 

その辺は真偽のほどが分らないというか、検証のしようもないと思うけど、とにかくフランシスと付き合い始めたのと、スパニッシュ・スケールを追求するようになった時期が同じ頃なのは確かなことだ。しかしネットで調べても、そういうフランシスとの交際とスペイン風旋律追求の関連については、一切情報がない。

 

 

一般にマイルスとスペイン風味というと、1960年のギルとのコラボ『スケッチズ・オヴ・スペイン』を思い浮べる人が多いはずだけど、今では個人的にはあのアルバムは全く聴かなくなった。大学生の頃は大好きだったんだけど。有名になった「アランフェス協奏曲」は、はっきり言ってダサいと感じてしまう。以前も書いた。

 

 

あのアルバムの中では「アランフェス協奏曲」より、ラストの「ソレア」(これもフリジアン・ドミナント・モード)が一番素晴しい。 イアン・カーも、マイルス本の中でこれを一番誉めていた。独り荒野を行くような哀愁のソロがグッと胸に迫ってくる。

 

 

 

でも、アクースティック・ジャズ時代のスペイン風で一番好きなのは、実は『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」の「テオ」だ。https://www.youtube.com/watch?v=fz_3N1V9ujU ここではソロを取らせてもらえなかったハンク・モブリーも、同年のブラックホークでのライヴ盤では健闘している。

 

 

そしてエレクトリック時代では、さっきも書いた1986年の『TUTU』収録の「ポーシア」が一番好き。https://www.youtube.com/watch?v=eiIdeHm5Xnc 曲を書いたのもアレンジしたのも、マイルスの吹くトランペット以外、ほぼ全ての楽器を多重録音したのも、全部マーカス・ミラーなのはご存知の通り。

 

 

「ソレア」と「ポーシア」を聴き比べると、マーカス・ミラーのギルのアレンジ勉強具合が非常によく分る。マーカス自身もインタヴューなどで、そのことを素直に認めていた。マイルスが吹くソロの背後でのリフ・アンサンブル(「ソレア」ではホーン、「ポーシア」ではシンセ)の入れ方などは、もうソックリだ。

 

 

『TUTU』の次作『シエスタ』は、スペイン映画のサントラ盤だったこともあってか、全面的にスペイン風なアルバムだった。でもあれは今聴くとどうにもつまらない。映画本編も壮絶に退屈だった。かつて寺島靖国があのサントラ盤を誉めたことがあって、メロディが美しいというのがその理由だったらしいけど。

 

 

最初に書いたように、生で体験した1983年大阪公演での「ジャン・ピエール」が、マイルスの吹いたスペイン風ソロでは一番感動したもので、それをきっかけに、それ以前のマイルスのスペイン趣味を本気で聴くようになった。その時のライヴは音源化されていない(ブートCDになっているかも)けど、僕の頭の中では、いつもそれが鳴っている。

2015/11/20

不可解だったギルのバンド操縦法

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二日続けてギル・エヴァンスの話題で申し訳ないけど、僕は一度だけギルのバンドを生で聴いたことがある。1983年5月の大阪フェスティバル・ホール。一部がマイルス・デイヴィス・バンド、二部がギルのバンドという構成で、二晩続けてコンサートがあった。その時、僕は大学四年生だった。

 

 

当時僕は松山に住んでいたけど、マイルスのライヴを目当に大阪まで行ったというわけ。ギルのライヴは、まあ言ってみれば、マイルスのついででしかなかった。でも1983年当時には、マイルスとギルが音楽的に双子関係にあることは分っていたから、ついでとはいえ、ギルのライヴもまあまあ楽しみにしていた。

 

 

1983年5月のマイルスといえば、『スター・ピープル』をリリースした直後で、ライヴもそのアルバムからのレパートリーが中心だった。ギターがマイク・スターンとジョン・スコフィールドの二人体制で、ライヴを見た限りでは、マイルスはどっちかというと、マイク・スターンの方を信頼している感じだった。

 

 

ライヴの中身も素晴しかった。特に、二日ともラスト・ナンバーだった「ジャン・ピエール」におけるマイルスのソロが、1981年の来日公演(そこでもラスト・ナンバー)とは全く違って、スパニッシュ・スケールを駆使した、まさに『スケッチズ・オヴ・スペイン』の世界を地で行くみたいな、素晴しいものだったのをよく憶えている。

 

 

しかし、僕にとっての収穫は、どっちかというと「ついで」のつもりのギルのバンドのライヴの方だった。ギルも何度も来日しているけど、生で聴いたのは僕はこの1983年だけ。この時のバンドには、常連のルー・ソロフやピート・レヴィンをはじめ、半ば常連のビリー・コブハムや、その他ハイラム・ブロックなど。

 

 

見事な完成品だった一部のマイルス・バンドに比べて、二部のギルのバンドは、言ってみれば「音の実験室」を目の当りにするといった趣で、だから当然ながら多くの観客にとっては退屈だったようだ。現にマイルスの時は満員だった客席も、ギルになってしばらくすると、途中でどんどん帰り始めた。

 

 

もちろん、ギルのバンドを楽しんで聴く客もいて、特にギターのハイラム・ブロックは大阪生れ。そのことを観客も知っているようで、呼応するようにハイラムも客席を練歩きながら弾きまくり、大いに湧かせたのだった。まあでも一般の多くの観客への見せ場はそれくらいで、あとはほぼ退屈だっただろう。

 

 

しかし、僕にとってはステージの様子を見ながら音を聴いていると、ギルのバンドがライヴでどうやって音を創っていくのかが少し分って面白かったのだ。例えば最初と最後のテーマ吹奏なども、始めるタイミングが決っておらず、それすら自然発生に任せていた。ビッグ・バンドでそれはちょっと考えられない。

 

 

それを知って、改めてギルのライヴ盤を聴直してみると、確かにこれはキューもなにも出ていないんだなということが分る。だから、一人先走って音を出してしまい、すぐに引っ込めるトランペッターがいたりするのが聞える。しかし、ビッグ・バンド(といっても10人ちょっとくらいだけど)なのに、不思議だった。

 

 

また、誰かがソロを取っている時に、そのバックでホーン・リフが聞えることがレコードでもあるけど、それもあらかじめ決められているものではなく、演奏途中で誰かがフレーズを思い付いたら、それを周囲の仲間に音で吹いて知らせて、それでせ〜の!でやり始めるという具合だった。ではギルはなにを書いていたのか?

 

 

また、これはレコードだけ聴いていてもよく分ることだったけど、ソロの途中だろうとどんな時だろうと、メンバー全員がギルがピアノで弾くフレーズを非常によく聴いていて、いつでもそれに即応していた。前述の伴奏のホーン・リフも、ギルがピアノで弾いた音から思い付くということが多かった。

 

 

アドリブ・ソロのフレーズだって、ギルが弾いたフレーズをきっかけに変化していく。ギターのハイラム・ブロックみたいに観客席を練歩きながら弾いていても、そうだった。そんな風に見ていくと、ギルのアレンジ譜面というのがどういうものなのか、リハーサルでどんな指示をしているのか、よく分らない。

 

 

一応、バンド・スタンドに座っているメンバーの前には譜面台があって、譜面が置かれているようではあったけれど、ちょっと見た感じでは、譜面を見ながら演奏しているメンバーはいなかった。また、ピアノの前に座って弾いているギル当人の前には、一切譜面が置かれていなかった。一体、どうなっていたんだ?

 

 

武満徹が、大ファンのデューク・エリントン楽団を生で見聴きしても、御大がどうやってバンドを操縦しているのかサッパリ分らず不思議でたまらなかったと言ったらしいけど、武満ですらそうなんだから、僕みたいなど素人リスナーに、ギルのバンド操縦法が分るわけもないんだけどね。

 

 

ギルは、レコードによっては「コンダクター」と書いてあるものもあるけど、少なくとも僕が見た1983年のステージでは、仕草でバンドを指揮する様子は一切なかった。なにかを指示したい時は、全てピアノを弾いて音で知らせていた。アルバムによっては、指揮でもしているような写真が載っているけど。

 

 

そんな感じで、生で見て初めて分ったことも多かったギルのライヴだけど、ますます分らなくなることも多かったのだった。でもそんな感じのライヴが一般の観客ウケするわけはない。ギルもジャコ・パストリアスと一緒に来日した1984年には、もっと分りやすい音楽をやっていた。生では聴いていないけど。

 

 

そういうところは、本人の発言とは裏腹に一流のエンターテイナーでもあったマイルスとは大違いだったなあ。ギルには、客を楽しませるとかそんな気持はさらさらないようにしか見えなかったもん。だから客は途中でどんどん帰って行った。僕はギルの音の秘密の一端を垣間見た気がして、凄く楽しかったけど。

 

 

ついでに書くと、その大阪でのマイルスとギルの二日連続のコンサート、二日目がマイルスの誕生日(5/26)で、開演前のアナウンスで、終演後にバンドが「ハッピー・バースデイ」を演奏することになっているから、みなさんも一緒に歌って下さいとあった。それはマイルス本人には内緒にしてあると言っていた。

 

 

いざその時になると、バンドが演奏したのはこれまた実にファンクな「ハッピー・バースデイ」だったから、大半の客は合わせて歌うことなどできなかった(苦笑)。舞台袖からケーキも運ばれてきて、マイルスも照れた笑顔でペロッと舐めて見せた。二部の出番を待っていたギルや旧友のビリー・コブハムらも袖から出てきてマイルスとハグし合い、客席も大いに盛上がったのだった。

 

 

マイルスの方が興行的にはビッグな存在だから、彼のバンドが二部の方がギルにとってもよかったはずなのに、どうして逆だったのかというと、マイルスは出番を待つのが大嫌いで、現場に到着したらそのままステージに直行したいという人なので、この要望が通る時はどんなコンサートでも一番手だったのだ。これは1983年当時は全く知らなかった。

2015/11/19

ギルで知ったジミヘン

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以前、ギル・エヴァンスの『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』のことを書いたけど、実を言うと、ジミ・ヘンドリクスの名前を知ったのも、このアルバムでだった。1980年に出た一枚目のLPを、出てすぐに買ったけど、それの最後に「アップ・フロム・ザ・スカイズ」が入っていたのだった。

 

 

僕はその『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』で、マイルス・デイヴィスとのコラボ作品以外の、ギルのバンドも初めて聴いたので、彼が(マイルスとともに)生前のジミヘンと交流があったとか、共演を目論むもジミの死で果せず、その後ジミヘン曲集を吹込んだとか、そういうことはもっと後になってから知った。

 

 

とにかく『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』のラストにあった「アップ・フロム・ザ・スカイズ」がカッコよくて、それでその曲のコンポーザーがジミ・ヘンドリクスになっていたから、まずはコンポーザーとしての彼に興味を持ったのだった。

 

 

 

なかなかいいよねえ。ホーン・アンサンブルが主体のアレンジだけど、なにげに菊地雅章とピート・レヴィンのシンセサイザーが効いている。その後、ギルのLPアルバムをいろいろと買ってみると、たいていのアルバムにジミヘン・ナンバーが入っていて、ギルがジミヘンの曲を気に入っていることが分った。

 

 

例えば以前「オレンジ色のドレス」を貼った1978年ロンドン録音のRCA盤には、デイヴィッド・サンボーンのアルトをフィーチャーした「エンジェル」が入っていて、これもかなり気に入ったのだった。

 

 

 

「オレンジ色のドレス」が、ほぼ常にジョージ・アダムズのテナーがソロを吹くナンバーだったように、ギルのバンドでは「エンジェル」は1974年の初演を含め、常にデイヴィッド・サンボーンのアルトをフィーチャーしていた。サンボーンがいない時はやらなかったようだ。エリントンの姿勢とちょっと似ている。

 

 

ギルの1974年録音の『プレイズ・ザ・ミュージック・オヴ・ジミ・ヘンドリクス』には、その「アップ・フロム・ザ・スカイズ」も「エンジェル」も入っていたけど、それらもその他の曲も含め、あのスタジオ・アルバムは、実はあまり好きにはなれなかった。正直に言うと、今でもそんなに好きではない。なぜなんだろうなあ。

 

 

でもとにかく、そのジミヘン集以後、ギルはライヴでいつもジミヘン・ナンバーをやるようになり、そのうち、録音されたものだけでもかなりある。ジミヘンは1970年に死んでいるけど、ギルも(マイルスも)その頃から、電気楽器を多用したロック〜ファンク路線に転向していく。

 

 

マイルスとジミヘンの相互関係については、いろんな人が語っているし、主にマイルス側からのアプローチとしては、中山康樹さんの本に詳しく書いてあったりするけど、ギルとジミヘンとの関係については、僕の知る限り、まとまった文章はいまだにない。待っていれば、そのうち誰かが書きそうだけどね。

 

 

そのマイルスに比べたら、同じ頃にロック〜ファンク路線に転向したとはいっても、ギルの場合はまだかなり保守的に聞えてしまうけど、それは彼が常にビッグ・バンドのアレンジャーとして活動していたからだろう。エレキ・ギターやエレベ、シンセを多用しても、基本はホーン陣がメインだし。

 

 

それでも、このジミヘン・ナンバー「ヴードゥー・チャイル」のアレンジなんかは、かなりぶっ飛んでるね。https://www.youtube.com/watch?v=Pl4YtyXubn4 ジャズのビッグ・バンドとしては考えられないサウンドだ。この曲、1974年のジミヘン集でもハワード・ジョンスンのチューバがメロを吹いている。

 

 

話を『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』に戻すと、1982年リリースの第二集には「ストーン・フリー」が入っていて、これもカッコよかった。これも、この時のギルのヴァージョンで知った曲だった。 ドラムスのビリー・コブハムも効いている。

 

 

 

これらのジミヘン・ナンバー、本当にジミヘン・ナンバーだと分っていたわけでない。ジミ・ヘンドリクスがロック・ミュージシャンだという知識だけはあったものの、音源は全く聴いていなかった。ギルのレコードにそう書いてあるので、そうなんだろうと思っていただけなのだ。

 

 

しばらくして、ようやくジミ・ヘンドリクス本人のレコードを買って聴くようになった。そうしたら、かえってギルのアレンジのかっとび具合がよく分った。もっとも主にライヴ・ヴァージョンで知ったギルのバンドの演奏には、綻びもある。それは以前書いた通り、ギルのバンドにはレギュラーがおらず、常に臨時招集だったから。

 

 

マイルスとやった1958年の『ポーギー・アンド・ベス』でも、もう一回コロンビアにリハーサルの時間を要求していれば、レコードで聴けるようなアンサンブルの乱れはなくすことができたと、ギルは述懐してたけど、その後の自身のライヴでも、いつも当日集ったメンバーと少しリハをやって本番に臨んでいたらしい。

 

 

だからライヴ録音などでは、アンサンブルが少し乱れていたり、リズム隊とホーン陣がやや噛合ってなかったりするところが散見される。しかもギルのアレンジ譜面は、リハーサルの最中にもどんどん変っていったらしいから、参加ミュージシャンにとっては、本番はほぼ一発勝負みたいなものだったようだ。

 

 

しかも、ギルのバンドはいつも薄給、ギャラが出ないことすらあったらしいから、集ってくるミュージシャンも、全員ギルの音楽に惹かれて来る人だったようだ。だからリハーサルなどで、あまり拘束できなかったはず。音楽的には双子関係だったマイルスとは全く違って、ギルは生涯、商業的成功とは無縁の人だった。

 

 

それはともかく、ジミ・ヘンドリクスは、僕の場合、最初はロック・ミュージシャンというよりも、コンポーザーとして知っていたわけだ。いろんな入り方があるとは思うけど、こんなジミヘン入門をしたというのも、ちょっと珍しいかもしれないなあ。今でもジミヘンを聴くと、ギルを連想してしまうんだよね。

2015/11/18

ブルーズはフォーマットじゃない、フィーリングだ

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八代亜紀の新作ブルーズ・アルバムが少し話題になっている。テレビでも頻繁に取上げられているし、そうでなくても、中学生の時に「なみだ恋」をテレビで歌うのを聴いて以来彼女のファンなのだ。大学生の頃に出た「舟歌」や「雨の慕情」は、今でも愛聴曲。

 

 

僕も大学生の頃は、12小節(あるいは24小節など)で、3コードのブルーズ進行のものが「ブルーズ」なんだと信じていて、だから淡谷のり子の「別れのブルース」とか美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」とかは、全然そうなっていないから、こういうのはブルーズなんかじゃないだろうと思っていた。

 

 

その頃は、そういう形式というかフォーマット(12小節で3コード等のブルーズ進行)によらないと、ブルーズというもののアイデンティティを理解することができなかったわけだ。もっとも大学生の頃から、ベシー・スミスとかのクラシック・ブルーズが好きで、それには12小節じゃないのも結構あるけど。

 

 

そういうベシー・スミスの8小節ブルーズなどもブルーズだと認識できていたのは、コード進行が12小節形式のブルーズ進行と似通っていたからだろうなあ。でもそういうものは、いわば例外作品なんだと思っていて、当時から大好きだったB.B. キングなどは、形式通りのものが殆どだったような。

 

 

ブルーズ進行といっても、大学生の頃に聴きまくっていたジャズマンによるブルーズ演奏では、結構いろんな代理コードを使っている。当時はブルーズマンによるプリミティヴな3コードのブルーズより、ジャズマンのやるそういうちょっと洗練された(と感じていた)ブルーズの方が好きだった。

 

 

ブルーズ進行の代理コードでちょっと思い出したけど、これも大学生の頃に二枚組LPを買って聴いて大好きだったオールマン・ブラザーズの例のフィルモア・ライヴ。あれに「ストーミー・マンデイ」があって、ブルーズ曲なんだけど、コード進行が途中ちょっと変っている。いわゆるストマン進行。

 

 

そういう、洗練された都会風のブルーズが好きだった。だから、その「ストーミー・マンデイ」のオリジネイターであるT-ボーン・ウォーカーなんかも、ブルーズを本格的に聴始めてすぐに大好きになった。カヴァーしているオールマン・ブラザーズは、どっちかというと泥臭いブルーズ・ロックだと思うんだけどね。

 

 

なお、オールマン・ブラザーズの例のフィルモア・ライヴ二枚組を聴いた人全員がいきなりノックアウトされる、一曲目の「ステイツボロ・ブルーズ」。これはブライド・ウィリー・マクテルの1928年録音がオリジナルの古いブルーズ曲。でも、みんなオールマン・ブラザーズのヴァージョンで知っていた。あれでみんなデュエインのスライドに惚れる。

 

 

まあジャズにもロックにもブルーズ形式の曲は物凄く多くて、プレイヤーならもちろん、ブルーズが分らないジャズ・リスナー、ロック・リスナーってのは存在しないんじゃないかと思うくらい、ジャズやロックの土台になっている。そういうわけだから、当然僕も高校生の頃からブルーズ曲は大好きだった。

 

 

だから、最初に書いたように、日本の歌謡曲に古くからある「なんちゃらブルース」という曲名のものの殆どが、形式はブルーズでもなんでないから、どうしてブルースという言葉が曲名に入っているのも分らなかったし、はっきり言って鼻で笑っていたのだった。この考えが変るようになったのは、結構最近。

 

 

本格的にアメリカ黒人のブルーズ・ミュージックを聴始めると、そこでは12小節3コードのブルーズ形式というのが、スタンダードでもなんでもないことが、徐々に分り始めてくる。ブルーズの権化というか神様的存在であるマディ・ウォーターズに「マニッシュ・ボーイ」という曲がある。

 

 

これ→ https://www.youtube.com/watch?v=x8LesTvNuaw 聴くと分るけど、これはコードが全く変らないワン・コード・ブルーズなのだ。マディの最も有名なブルーズ・ナンバーの一つなのに、3コードではない。これはローリング・ストーンズのカヴァー→ https://www.youtube.com/watch?v=XyHYE4G7Rhw

 

 

そして、いろいろ聴くようになると、特にギター弾き語りのカントリー・ブルーズに、こういうワン・コードのブルーズが結構あることを知り、あるいはツー・コードとか、また小節数も、バンドではなく自分一人で弾き語っているのだから実に融通無碍で、伸びたり縮んだりしているものが結構あるんだなあ。

 

 

マディ・ウォーターズのやるブルーズが、シカゴ・ブルーズのバンド・スタイルのものが多いのに、それでも結構柔軟なのは、マディが元々デルタ地域出身のギター弾き語りによるカントリー・ブルーズマンとして出発した人だったのが、大きな要因だったんだろう。

 

 

テキサス州ヒューストン出身で、第二次大戦後に活躍したギター弾き語りのブルーズマン、ライトニン・ホプキンスなんかも、その辺が相当柔軟というか融通無碍で、12小節3コードのブルーズ進行というフォーマットにこだわっていると、はっきり言ってむちゃくちゃな感じにしか聞えないだろう。

 

 

ジョン・リー・フッカーなども、どれもワン・コード・ブギばっかりで、小節数もないような感じだ。マイルス・デイヴィスと「共演」したサントラ盤『ホット・スポット』について、中山康樹さんが、ギター鳴らして唸っているだけだから僕でもできそうと書いたことがあって、それで中山さんはブルーズのことが分っていないとバレてしまった。あのアルバム、マイルスなんかより、ジョン・リー・フッカーの方が黒々としていて、はるかに魅力的なのに。

 

 

だんだんブルーズというものはフォーマットで認識されるものではなく、ブルーズ・フィーリングとでも言うしかない一種の感覚でしか把握できないものなのではないかと思い始めるようになった。この「ブルーズ・フィーリング」というものを言葉で具体的に説明することは、かなり難しい。

 

 

マイルス・デイヴィスも、ブルーズというものはフィーリングなんだ、感じて、ただ演奏するだけなんだ、とよく語っている。大学生の頃に初めてこのマイルスの言葉を読んだ時は、まあはっきり言ってなんのことやらサッパリ分らなかった。今では、まさにこの言葉の通りと心の底から納得している。

 

 

僕もいつ頃からだったか、ブルーズ・フィーリングというものが少しずつ分り始めてくると、ブルーズ形式の曲だけでなく、実にいろんな音楽にこのブルーズ・フィーリングを感じることができるようになってきた。フォーマットとしてはブルーズが少ないソウルやファンクなどもそうだ。

 

 

ジャズ系の音楽家が創った音楽でも、例えばさっき名前を出したマイルスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」や、『ビッチズ・ブルー』一枚目B面のタイトル・ナンバーや、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」などもブルーズだね。

 

 

「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」に強いブルーズ・フィーリングを感じるというか、これはブルーズそのものじゃないのかというのは、"blues" というこの言葉本来の意味に沿った解釈であるはずだ。憂鬱(ブルー)な気分を表現するものがブルーズなんだから、このエリントン追悼曲がブルーズなのは当然。

 

 

そうなってくると、憂鬱な感じを表現したような曲は、これ、全部ブルーズだろう(というのも解釈をちょっと広げすぎかもしれないが)と考えると、淡谷のり子の「別れのブルース」も美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」も、当然ながら広義のブルーズなのだ。全然間違いなんかじゃないしおかしくもないんだ。

 

 

ロックでも、ジェフ・ベック・グループのファーストや、レッド・ツェッペリンのファーストみたいな露骨なブルーズ・ロックよりも、ストーンズでも、もろブルーズ・トリビュート・アルバムな『ベガーズ・バンケット』よりも、『メイン・ストリートのならず者』が、最高のブルーズ・アルバムだと思うようになった。

 

 

エリック・クラプトンだって、近年の『フロム・ザ・クレイドル』やロバート・ジョンスン集みたいなものよりも、形式としてのブルーズ曲は少ないデレク&ザ・ドミノスの『レイラ』なんかの方が、はるかに言葉本来の意味でのブルーズ・アルバムだろう。その意味では近年のクラプトンにはブルーズを感じないんだよね。

2015/11/17

「キャンディ」で繋ぐリー・モーガンとマンハッタン・トランスファー

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アレックス・クレイマー作曲、マック・デイヴィッドとジョーン・ウィットニー作詞の1944年発表のポップ・ソング「キャンディ」。大好きなスタンダード・ナンバー(と呼んでいいのだろうか?)なんだけど、ジャズマンがこの曲を演奏したものではリー・モーガンの1958年ヴァージョンが一番好き。

 

 

リー・モーガンの「キャンディ」は、そのまま『キャンディ』というブルーノートのアルバムになっている。ヴォーカル入りのヴァージョンなら数多い「キャンディ」だから、僕も何種類か持っているけど、インスト演奏の「キャンディ」って、そんなに多くなく、僕はこのリー・モーガンのしか持っていない。

 

 

リー・モーガンの『キャンディ』というアルバムは、ピアノ・トリオをバックにしたリー・モーガンのワン・ホーン・カルテット編成なので、彼のトランペットをたっぷり楽しめて、「アイ・リメンバー・クリフォード」があるせいで非常に高名な『ヴォリューム 3』とかより、僕はこっちの方が好きなのだ。

 

 

ワン・ホーン・カルテット編成の『キャンディ』で伴奏を務めているピアニストが、ブルーノート専属のソニー・クラークなのも、僕には嬉しい。大好きなモダン・ジャズ・ピアニストで、たくさんアルバムを買って聴くようになった最初のジャズ・ピアニストだったので、そのせいもある。

 

 

もっともアルバム一曲目の「キャンディ」では、ソニー・クラークはあまり活躍せず、一応ピアノ・ソロはあるけれど、むしろドラムスのアート・テイラーのブラシ・プレイとの掛合いでリー・モーガンが吹いているようなアレンジなのだ。いきなりブラシの音で曲がはじまるし、その後もかなり目立っている。

 

 

『キャンディ』(の半分)を録音した1958年には、リー・モーガンはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの一員だった。そのバンドでも名演をいろいろと残しているし、大好きなんだけど、自己名義のリーダー・アルバムも結構あるよね。個人的には57〜63年頃のモーガンが一番よかった。

 

 

もちろんその後の、例えば1970年のライヴ録音『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』(CDでは三枚)もかなり好きではある。ベニー・モウピンがテナー・サックスやバス・クラリネットで参加しているし、それ以上にピアノのハロルド・メイバーンが真っ黒けで、僕は大好きなピアニストなんだよね。

 

 

LPリリースが1971年だった『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』は、リー・モーガンの最後から二つ目の作品で、翌年にモーガンはニューヨークのジャズ・クラブで演奏中に射殺されてしまうという非業の死を遂げている。その時33歳だったから、もっともっと活躍できたはずで、今でも現役だったはず。

 

 

こういう『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』みたいな素晴しい作品がありはするものの、個人的好みだけを言わせてもらえば、リー・モーガンは1958〜61年のジャズ・メッセンジャーズ時代に、そのバンドと彼名義で残した録音がやっぱりいいなあ。『ザ・サイドワインダー』は63年の作品だけど。

 

 

ちなみにその1963年の『ザ・サイドワインダー』一曲目のタイトル曲は、ジャズ界における初のジャズ・ロック作品と言われることがあるらしい。でも63年だったらもっと早くに似たようなジャズ作品があったはずだ。例えばハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」は62年だし、他にもありそう。

 

 

ハービーの「ウォーターメロン・マン」が、1962年の時点で既に後のファンク路線を予告しているような作品で、実際70年代にファンク化して再演していることは前も書いた。だからリー・モーガンだって、あとほんの三年くらい生きていれば、似たような路線を辿ったんじゃないかと、僕は思うのだ。

 

 

実際、「ザ・サイドワインダー」という曲は、前述の1970年録音『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』で再演している。かなり黒いフィーリングだけど、でもまだファンクっぽい感じにはなっていない。だから、せめてあと三年だけでいいからリー・モーガンが生きていればよかったのに。惜しいことをした。

 

 

ちなみに1970年ライヴ再演の「ザ・サイドワインダー」では、テナーが、この後ハービー・ハンコックの一連のファンク・アルバムで活躍することになるベニー・モウピンだから、かなりファンキーに吹いているし、ピアノのハロルド・メイバーンだってブラック・フィーリング横溢なソロを弾いている。

 

 

ハロルド・メイバーンはピアノ・ソロの途中で、あのウィルスン・ピケット最大のヒット曲「ダンス天国」(Land of 1000 Dances)のフレーズを引用して弾いているくらいだもん。1963年の初演から相当にファンキーな曲だったけど、70年ヴァージョンはそれがもっと拡大している。

 

 

こういうのを聴くと、リー・モーガンのファンク路線への転向は、もうすぐそこまで来ていたように思うんだなあ。1972年に死んでしまったから、今では58〜61年の作品が一番好きだと思うようになっていて、「ジャズ」のトランペッターとしてのピークは、おそらくそのあたりだったと思うのだが。

 

 

最初に書いたスタンダード・ナンバーの「キャンディ」。インスト演奏はリー・モーガンのしか持っていないんだけど、ヴォーカル入りのならいくつか持っていて、一番好きなのがマンハッタン・トランスファーの1975年ヴァージョン。ジョー・スタフォードのオリジナルもダイナ・ショアのも好きだけど。

 

 

マンハッタン・トランスファーは、一般的にはジャズ・ヴォーカル・グループに分類されているけど、アメリカン・コーラスの歴史を実にタダシク引継いでいて、あの『ドゥー・ワップ・ボックス』の三巻目にも一曲収録されているくらいなのだ。ジャズ・ファンは、あんなボックスは聴かないだろうけどさ。

 

 

『ドゥー・ワップ・ボックス III』に収録されているのは、マンハッタン・トランスファー1984年の『バップ・ドゥー・ワップ』の「ベイビー・カム・バック・トゥ・ミー」。タイトル通り古いヴォーカル・ナンバーばかりカヴァーしたアルバムで、「ルート 66」や「サフロニア B」もあるんだ。

 

 

「ルート 66」は、みなさんご存知の有名スタンダード・ナンバーだけど、僕は、ルイ・ジョーダン系歌手カルヴィン・ボウズの1950年ヴァージョンが初演のジャンプ・ナンバー「サフロニア B」の方が好き。『ジャンピン・ライク・マッド』という1997年リリースの、ジャンプ・ブルーズばかり集めたCD二枚組アンソロジーで初めて知って以来、かなりの愛聴曲なのだ。

 

 

こういう曲がいろいろと入っているマンハッタン・トランスファーの『バップ・ドゥー・ワップ』を聴けば、彼らが古くからのアメリカン・コーラスの伝統に連なっていることがよく分る。1970年代の作品から、それは聴けば分ることだけど、彼らのリスナー層の中心であろうポップ系ジャズ・ファンは、どう思っているんだろうなあ?

 

 

リー・モーガンを聴く硬派なジャズ・ファンは、「トワイライト・ゾーン」やウェザー・リポート・ナンバーの「バードランド」が一番有名だから、マンハッタン・トランスファーなんかとバカにして聴かないだろうけど、ゴスペル・カルテットやドゥー・ワップなど古くからのアメリカン・コーラスが大好きな、僕みたいな音楽ファンには、大変楽しいグループなんだよね。

2015/11/16

ライのギターと映画音楽

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昨晩、ライ・クーダーの『チキン・スキン・ミュージック』のことを書いた。1995年にパソコン通信を始めた頃、誰か凄いロック・ギタリストを教えてくれと質問する人がいたので、僕がライの『チキン・スキン・ミュージック』を推薦したことがある。その頃には、僕はもう既にすっかりライの虜だった。

 

 

ライくらい上手いロック・ギタリストはいないと思うようになっていたし、その彼の最高傑作が『チキン・スキン・ミュージック』なんだから。でも返ってきた感想は、なんかホワ〜ンとして掴所がなかったというものだった。その人は、多分ジミ・ヘンドリクスみたいにギンギンに弾きまくる人を聴きたかったんだろう。

 

 

その20年くらい前は、質問してくる相手の嗜好や要求を汲ながら、それに沿うように的確にオススメを選ぶということがまだできていなかった。ただ、自分が素晴しいと信じるものを聴いてほしいと思うばかりだったんだなあ。まあ今でも似たようなもんだけど。

 

 

もちろん、その人のその回答には、るーべん(佐野ひろし)さんはじめ、みなさんから一斉にツッコミが入り、『チキン・スキン・ミュージック』でのライ・クーダーのギターがどれほど素晴しいものなのか、大勢の方々が言葉を尽して説明していた。その時は、的確に説明する言葉を僕は持っていなかった。

 

 

しかしながら、みなさんも説明になかなか苦労していたのも事実だった。実際、ライ・クーダーのギターの上手さは、音源を聴いてもらっても、言葉で説明しても、ちょっと分りにくいものだよねえ。華麗に弾くまくる人じゃないし、いつもだいたい地味で、玄人受けするようなギタリストだもんなあ。

 

 

今でも、僕はライのギターの上手さを言葉でちゃんと説明できる自信が全くない。ただ単に素晴しいと思って聴惚れているだけなんで、他の人にも音源を聴いてもらって、例えば昨日も書いた「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」のギター演奏の、この世のものとは思えない美しさにウットリしてもらうしかない気がする。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=nYo3byPgC5o こういうの(特に「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」になる間奏部)を聴いて、美しいと思わない人には、言葉でいくら説明しても無理な気がする。僕だって最初に聴いた時は、どこがいいのかイマイチピンと来なかったんだから、偉そうなことはなにも言えない。

 

 

昨晩書いたように、大学生の頃に聴いた時には良さが分らなかった『ジャズ』も、その後1990年代に聴き返してみたら、凄く面白くて、まあその頃にはジャズの周辺音楽や、ジャズのルーツになった音楽もいろいろと聴いていたので、ライがあのアルバムでなにをしたかったのか、よく理解できた。

 

 

ジャズだけでなく、アメリカ音楽のルーツを広く探求するようになっていたから、『チキン・スキン・ミュージック』や『ジャズ』などでの、ライ・クーダーの博識・慧眼ぶりには驚嘆するばかりだった。ライは米ルーツ音楽に詳しいなんてもんじゃないし、それを1970年代の自分の作品に上手く活かしている。

 

 

ストーンズからのピック・アップ・メンバー等とやった『ジャミング・ウィズ・エドワード』は、1990年代にCDになったのを聴いたんだけど、あれも凄く興味深いアルバムだった。あれを聴くと『レット・イット・ブリード』におけるライの貢献ぶりが、より一層よく分る。ライナーがストーンズ・フリークの寺田正典さんだったはず。

 

 

あの『ジャミング・ウィズ・エドワード』日本盤CDライナーについては、当時寺田さんも、僕が参加していたパソコン通信の音楽部屋に出入りしていて、寺田さんが『レコード・コレクターズ』編集長時代だけど、あの音源に関してるーべん(佐野ひろし)さんが寺田さんになにか教示する場面があった。

 

 

そのことが、寺田さんの書いたライナーの末尾にも書かれてあったはず。そして、そのやり取りが、おそらく、るーべん(佐野ひろし)さんの『レコード・コレクターズ』デビューのきっかけになったようだ。僕なんかは当時なんのことやらサッパリ分らず、ただ傍観してただけだったけど。寺田さんと僕は同い年なんだけど。

 

 

その1990年代半ばは、僕が一番ライ・クーダーの音楽に夢中になって、過去作もいろいろ買って聴きまくっていた頃だった。でもライはいつ頃からか映画音楽の人になっていて、それでも『パリ、テキサス』のサントラ盤は凄く気に入って、繰返し聴いた。あれは映画本編も後から観て好きになった。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンの二枚組CD完全集がいつ頃出たのか忘れたけど、彼のナイフ・スライド(ではないらしいのだが、実際は)としゃわがれ声と、その二つで繰出す背筋の凍るようなゴスペル世界に痺れていた僕としては、ライのブラインド・ウィリー傾倒ぶりがそのまま出ている『パリ、テキサス』はたまらなかったんだなあ。

 

 

『パリ、テキサス』でのライのスライドを聴いていると、まるでブラインド・ウィリー・ジョンスンが蘇ったみたいに聞えるよねえ。というか、まあそのまんまだ。

 

 

 

ブラインド・ウィリー→ https://www.youtube.com/watch?v=DB7C7BgxEWw 

 

 

こんな具合で、ブラインド・ウィリー・ジョンスンのスライド・ギターが大好きだった僕は、ライの『パリ、テキサス』は大好きなサントラ盤だったんだけど、それ以後は、これはと思うものがない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が、ライの手がけたサントラ盤では一番有名だろうけど、あれはちょっとねえ。

 

 

『ブエナ・ビスタ』は、キューバ音楽としては、おそらく史上最も売れたものだけど、あそこでのライ・クーダーはいただけないので、ちょっと好きにもなれないんだなあ。はっきり言って、ライの入れるスライド・ギターだけが邪魔だ。

 

 

これは『ブエナ・ビスタ』の悪口ではないつもり。ライが台無しにしてはいるものの、キューバの古老達の演奏自体はかなりいい。元々『ブエナ・ビスタ』とは関係なく活動していた歌手のオマーラ・ポルトゥオンドも、その後どんどんとアルバムを出せるようになったわけだし。

 

 

『ブエナ・ビスタ』本編の数年後に出た『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ・プリゼンツ・イブラヒム・フェレール 』にもオマーラは参加していて、「シレンシオ」で、主役のイブラヒムと絶品のデュエットを聴かせている。あの「シレンシオ」は本当に美しい。

 

 

映画本編は、ハバナの海岸通りをはじめ、キューバの風景がたくさん見られて愉しかったけど、最後のカーネギー・ホールでのコンサート・シーンでは、ライ・クーダーが出てくるのに、やはり感心しなかった。あの映画(音楽)で、ライのことがちょっとイヤになってしまった。北米ルーツ音楽にはあれだけ深い理解を示すライのに。

 

 

サントラ盤じゃないライ・クーダーのアルバムは、その後も買って聴くものの、一時期ほど夢中にはなれないままだ。僕の移り気なせいもあるんだろうけど、どう聴いても1970年代のライの面白さは、減じている気がしてならない。最近では、70年代の発掘ライヴもの以外は、買わなくなってしまったなあ。

2015/11/15

『チキン・スキン・ミュージック』とギター音楽

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以前、ライ・クーダーの「オールウィズ・リフト・ヒム・アップ」(〜「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」)のことをツイートしていた人がいたけど、僕がハワイのギター音楽を初めて知ったのは、これが入った『チキン・スキン・ミュージック』だった。きっかけは中村とうようさんの『大衆音楽の真実』で読んだから。

 

 

そのとうようさんの『大衆音楽の真実』には、ライ・クーダーとギター音楽について割いた一章があって、その中で、とうようさんは、『チキン・スキン・ミュージック』こそがライの最高傑作だと書いていた。それを読んだ僕は、すぐに『チキン・スキン・ミュージック』を買って聴いてみたのだった。

 

 

『大衆音楽の真実』が出た後だから、1980年代末頃だ。かなり遅いよねえ。大学生の頃、ジャズばかり買っていた僕は、一部例外を除き、ロック・ミュージシャンを本格的に聴始めるのが遅かったんだけど、ライ・クーダーは『ジャズ』というレコードだけ当時買っていた。

 

 

もちろんそれはタイトルに惹かれただけ。聴いてみたら普通のジャズではなかったし、ビックス・バイダーベックの曲もあったりしたけど、それも想像していた演奏とは違ったし、イマイチな感じしかしなかった。この『ジャズ』というアルバムの真価が分るようになったのは、他のいろんな音楽を聴いてから。

 

 

『ジャズ』は、本流ジャズだけ聴いていては面白さが分らないアルバムだと思う。大学生の頃の僕が、まさにそうだった。アルバム・タイトルもどうして『ジャズ』なのか、その意味もよく分ってなかったもんなあ。間違っているんじゃないかとすら思ったもん。今ではあんな面白いアルバムもないと感じる。

 

 

それはともかく、『チキン・スキン・ミュージック』。最初に聴いた時に一番いいなと思ったのは、B面一曲目の「スマック・ダブ・イン・ザ・ミドル」だった。なんかえらくカッコいいなあって。ライの弾くスライド・ギターもカッコいいし、ジム・ケルトナーのドラムスもストンと決って気持良かった。

 

 

ごく普通のロック的な意味合いでは、今でもその「スマック・ダブ・イン・ザ・ミドル」が、アルバムの中で一番カッコイイような気がしている。まあ分りやすかったよねえ。それに続く「スタンド・バイ・ミー」とかは、ジョン・レノンのヴァージョンで親しんでいたので、ちょっと良さが分らなかった。

 

 

『大衆音楽の真実』でとうようさんは、A面三曲目の「オールウィズ・リフト・ヒム・アップ」〜「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」をえらく誉めていたんだけど、それもなんかホワ〜ンとした緩い雰囲気なので、最初の頃はイマイチだった。最初は、A面では一曲目の「ブルジョワ・ブルーズ」が好きだったなあ。

 

 

最初の頃にもう一つ好きだったのが、B面の「クロエ」。1920年代からある古い曲、ということは後から知ったのであって、当時はデューク・エリントン楽団1940年ヴィクター録音で知っていた曲だった。 ライのヴァージョンとは全然違う。

 

 

 

エリントンの方には「ソング・オヴ・ザ・スワンプ」という副題が付いているんだけど、トリッキー・サム・ナントンのワーワー・ミュートによるトロンボーンが、沼地というか、完全にお馴染みのジャングル・スタイル。これも好きだったんだけど、これに関しては、ライのヴァージョンの方が好きになった。

 

 

しばらく聴続けるうちに、「オールウィズ・リフト・ヒム・アップ」〜「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」や「イエロー・ロージズ」や「クロエ」でのギターの絡みが凄く面白くなってきて、虜になってしまった。「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」はハワイの伝承曲。

 

 

 

これを聴くと、歌のラインをライはギターで弾いていることが分る。もっとも、ギャビー・パヒヌイとアッタ・アイザックスが参加しているのは、「イエロー・ロージズ」と「クロエ」の二曲で、この曲の演奏にはハワイ人ギタリストは参加していない。でもライは自分でスラック・キー・ギターも弾いている。

 

 

『チキン・スキン・ミュージック』での「カナカ・ヴァイ・ヴァイ」は、米本土のマウンテン・ミュージック「オールウィズ・リフト・ヒム・アップ」の間奏部として、凄く自然に繋がっているから、ボーッと聴いていると気付きにくい。僕は最初、全く分っていなかった。他の人はそんなことないのかなあ?

 

 

ハワイアン・スラック・キー・ギター(スラック=緩める、ということで、チューニングを緩めて、ハワイ独特のオープン・チューニングにしたギター)が大好きになって、そういうのを集めたアンソロジー・アルバムも結構買って聴くようになった。ハマるとたまらないんだよねえ、スラック・キー・ギター。

 

 

一曲目の「ブルジョワ・ブルーズ」でも他の多くの曲でも、アルバムのクレジットを見ると、ライがギターの他に”bajo sexto”という楽器(その他いろいろ)を弾いていることになっていて、このバホ・セクストがどういう楽器なのかは、しばらく分らなかった。これはメキシコ由来の12弦6コースのギター族楽器。

 

 

バホ・セクストがどんな楽器なのかとか、その他だいたいなんでも、今はネットで調べればなんでもすぐに分る。”bajo sexto”でググればWikipediaの記述も出てくるから、英語が読めれば困らない。画像も出てくる。


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ライ・クーダーが、ギターやバホ・セクストのみならず、フレットの付いたギターっぽい弦楽器なら、世界中のものをほぼなんでも弾きこなしてしまう達人であることを、すぐに知ったのだった。それも含め、『大衆音楽の真実』のその章の記述に導かれて、世界中のギター系音楽の歴史に興味が湧いたわけだ。

 

 

そうなってくると、『チキン・スキン・ミュージック」で、米本土のギター・ブルーズ等ルーツ音楽とハワイのギター音楽とテキサス音楽(テックス・メックス)が、違和感なく共存しているのが、必然であると分ってくる。最初にハワイにギターを持込んだのは、北米(メキシコ)のカウボーイだったらしい。

 

 

もっとも、ライも語るその定説は、本当にそれだけなのかなと今では少し疑問に思う部分もある。というのも、スペインやポルトガルが世界中の海を席巻していた時代に、彼らが渡った国々にギターを持込んでいて、ポルトガルは日本にも来たんだから、ハワイやミクロネシアにだって来ていてもおかしくない。

 

 

ポルトガル由来ということで言えば、ブラジルのショーロとインドネシアのクロンチョンだって、同じルーツの楽器を使っているわけだし、音楽的にも似通っている部分がある。ハワイにだって、ポルトガルから来たのと北米(それだってスペイン由来だ)から来たとの、両方ありそうじゃないか。

 

 

ハワイのウクレレがポルトガル由来であることははっきりしているんだから、彼らが持込んだのがウクレレ(の原型楽器)だけで、ギターの方は持込まなかったのだという方がおかしいよねえ、どう考えたって。ポルトガル人が、ウクレレと一緒にギターもハワイに持込んだと考える方が自然じゃないかなあ。

2015/11/14

パーカーと芸能ジャズ

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チャーリー・パーカーの残した全音源のなかで、1947年の「エンブレイサブル・ユー」(2テイク)が一番好き。テーマ・メロディが出てこないあの絶品バラード吹奏があるので、もうそれだけでダイアル録音集が好きなのだ。終盤でマイルス・デイヴィスさえ出てこなければ言うことなしなんだけどなあ。

 

 

 

しかし、これを除けば、ブルーズをたくさんやっていて、しかもタイニー・グライムズやスリム・ゲイラードとの共演もあるサヴォイ録音集の方が面白いよね。昔は、そういうタイニー・グライムズやスリム・ゲイラードとの共演曲には、生真面目なジャズ・ファンは眉をひそめて、飛ばして聴いたりしていたらしいと聞いたことがある。僕も最初は全く同じようなものだったので、なにも言えない。どこがいいのか、サッパリ分らなかったんだなあ。

 

 

「タイニーズ・テンポ」「アイル・オールウィズ・ラヴ・ユー・ジャスト・ザ・セイム」「ロマンス・ウィズアウト・ファイナンス」「レッド・クロス」の四曲12テイクが、パーカーとタイニー・グライムズとの共演で、サヴォイ録音完全集の頭に収録されている。パーカーではなく、グライムズ名義の録音。

 

 

タイニー・グライムズ・クインテット名義の録音だから、グライムズのアルバムにももちろん収録されているその四曲で、タイニー・グライムズは四弦ギターを弾いているだけでなく、ヴォーカルもとっている。今聴くとなかなか面白い味だよなあ。でも普通のジャズ・ファンで面白がる人は少ないだろう。

 

 

ジャズ・ファンは、そういうタイニー・グライムズとの共演曲を、ほぼ完全にパーカーの闊達なソロを聴くためだけに聴いてきたらしい。実際、その1944年録音の四曲でのパーカーは、ボスのグライムズを完全に食っているような雰囲気の強烈な存在感を発揮していて、この時点で既に完成している。

 

 

ネットで少し調べてみても、この四曲12テイクについて、もっぱらパーカーのソロの素晴しさを称えるものばかりで、タイニー・グライムズという芸能色の強いR&B寄りのミュージシャンとの共演の意味について説明しているものは、殆どない。若干あるけど、そういうものはパーカーを軽視しすぎだし。

 

 

ある時期以後の僕や多くの音楽リスナーみたいに、シリアスで「芸術的」なジャズと、猥雑で下世話な芸能色の強いジャンプ〜ジャイヴ〜R&B寄りのジャズ系音楽の両方を同じように並べて楽しんでいるファンというのが、案外今でも多くないような気がしているんだなあ。どうもそれらが分離しているよねえ。

 

 

以前も書いたことだけど、日本のジャズ・ファンだって昔は全部同じように楽しんでいたようだ。油井正一さんなどの世代は完全にそうだね。だから油井さんは著作の中でも「ビバップとR&Bには共通項がある」と書いていた。こういう視点は、油井さん以後の例えば粟村政昭さんなどには、全く欠如している。

 

 

ジャズ音楽にも、戦前のものには芸能色が非常に強かったというか、芸術色と芸能色が全く切離せない不可分一体のものとして存在していたわけで、このことは今までも何回か書いた。そしてそんなジャズ音楽が、芸能色を切捨てて、ほぼ芸術一色でやるようになったのが、ビバップ以後のモダン・ジャズだ。

 

 

チャーリー・パーカーは、そのビバップの第一人者なわけで、「芸術音楽」モダン・ジャズの神様的存在なのだから、そういうパーカーの録音集に、タイニー・グライムズみたいな人との共演曲があることは、まあ許しがたいとまでは言わなくても、ちょっと避けて通りたいようなものなんだろう。

 

 

パーカーのサヴォイ録音完全集には、最後に1945年録音のスリム・ゲイラードとの共演曲も収録されていて、「ディジーズ・ブギ」「フラット・フット・フルージー」「パピティ・パップ」「スリムズ・ジャム」の四曲六テイク。それもパーカー名義ではなくゲイラード名義になっている。

 

 

これらも当然ながらスリム・ゲイラードの録音集にも収録されていて、ゲイラードはギターとヴォーカル、そして収録曲のタイトルにあるようにディジー・ガレスピーも参加している。これらも最高に楽しい。特にゲイラードが歌う「フラット・フット・フルージー」なんか、これ以上ないジャイヴな面白さだ。

 

 

黒人芸能史から見て一番面白いのは、サヴォイ録音集の最後にある「スリムズ・ジャム」だと思うんだけど、それについて語り始めると、これまたかなり違う話になってしまい、しかもかなり長くなってしまうので、どういうことか興味のある方はこちらをどうぞ。

 

 

 

タイニー・グライムズもスリム・ゲイラードも、1930年代末〜40年代前半が全盛期だった黒人ジャズ・ミュージシャンで、楽器は主にギターで歌も歌う。ジャズと言っても、かなりR&B寄りのジャイヴな持味の人達だ。こういう人達の楽しい音楽を、真面目なジャズ・ファンは長年蔑視してきた。

 

 

書いたように、そういうものも昔のジャズ・ファンは楽しんでいたようなんだけど、日本で本格的にジャイヴやジャンプなどの芸能ジャズをちゃんと紹介したのは、一般的にはやはり中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統』2LP上下巻が1975年に出てからなんだろう。ジャズ系は上巻。

 

 

『ブラック・ミュージックの伝統』は、1996年のCDリイシューの際、中村とうようさん自身が大幅に中身を改訂し、解説も書直している。それも今は廃盤だけど、中古でなんとか入手できるみたいだから、手に入るうちにお買いになることをオススメする。ジャズ・ファンは<ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇>だけでも。

 

 

LP盤が出たのは1975年だけど、僕が買って聴いたのは大学生の終りの1983年頃だった。それにハマって、それ以後は、ジャズ系音楽に関してもかなり見方が変化した。それ以前から戦前ジャズが大好きだったから、ジャイヴなキャブ・キャロウェイ楽団や、カンザスのジャンプ系バンドとかも好きではあったけど。

 

 

ルイ・アームストロングの1920年代録音にも、相当に芸能色の強い要素を感じてそれを楽しんでいた(つまり、その点では粟村さんなどとは正反対)し、他にもいろんな(後でこの名前を知る)ジャイヴやジャンプ系のジャズも、シリアスなものと並んで、というか区別せずに楽しんでいたんだよなあ。

 

 

しかしながら、ビバップ以後のモダン・ジャズには、当時の僕はそういう芸能要素は殆ど感じなかったので、それの第一人者であるチャーリー・パーカーの音楽も、完全にシリアスなものだとしか考えていなかった。もちろん言うまでもなく、シリアスな芸術音楽としてパーカーはとんでもなくレベルが高い。

 

 

ダイアル録音の「エンブレイサブル・ユー」2テイクなどは、ジャズマンによるバラード演奏では、ジャズ史上一番素晴しいものじゃないかとすら思っているし、同じダイアルの「チュニジアの夜」の失敗テイク「フェイマス・アルト・ブレイク」や、サヴォイの「スライヴィング・オン・ア・リフ」も最高だ。

 

 

しかし、もう一度振返ってみよう。独立前のパーカーは、カンザスのビッグ・バンド、ジェイ・マクシャン楽団に在籍していた。ジェイ・マクシャン楽団は、他のカンザスのバンド同様、いわゆるジャンプ・ブルーズの代表的存在で、パーカーと同時期にR&Bシンガーのウォルター・ブラウンを雇っていた。

 

 

油井正一さんが「ビバップとR&Bには共通項がある」と書いたのは、こういう事実も踏まえてのことだったんだろう。言うまでもなく1940年代のジャンプ・ミュージックは、そのままR&Bを生み、ロックンロール誕生の一つの母体にもなった。なおかつ、ジャンプは最高のビバッパーも生んだわけだ。

 

 

そういう経緯を踏まえると、パーカーのサヴォイ録音にあるタイニー・グライムズやスリム・ゲイラードとの共演曲を、決して看過できないはずだ。看過できないどころか、むしろそっちの方が、シリアスなジャズ録音より面白いんじゃないかとすら思えてくるんだなあ。ある時期からの僕はそうだ。

 

 

そんな芸能的なパーカーの楽しさは、ダイアル録音では殆ど分らない。ダイアル録音はほぼ完全にシリアスな芸術ジャズだ。サヴォイ録音でないと分らない。そしてさらに言えば、サヴォイ録音にたくさんあるブルーズ演奏を聴くと、ジェイ・マクシャン楽団時代に培われたであろうリズム感覚も生きているんだなあ。

 

 

もちろんジャズでもなんでも、芸術と芸能をことさらに区別する必要もないというか、あまりやりすぎるとかえっておかしなことにはなりはするけれど、そうでもしないとなかなか伝わらない部分があるからなあ。

2015/11/13

歪んだ音ほど美しい〜マイルス

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マイルス・デイヴィス自身の言葉を信じるならば、彼に電気トランペットを吹くように勧めたのは、1969年のチック・コリアだったそうだ。なにかのインタヴューで読んだ記憶がある。でも69年には、公式・ブート全部含め、スタジオでもライヴでも、電気トランペットを吹いている音源は存在しない。

 

 

1970年代マイルスのトレード・マークみたいになっている電気トランペットだけど、ジャズ系のトランペッターで同じことをしている人は、結構いる。日本人でも、一時期日野皓正も吹いてたし、愛媛県出身の近藤等則もよく吹いている。楽器は違うけど、67年に死んだジョン・コルトレーンも、晩年は電気サックスに興味を示していたらしい。

 

 

もしコルトレーンが1967年に死なず、そのまま70年代に突入していたら、ひょっとしたら電気サックスを吹いていた可能性がある。またリズムの変革は、間違いなくやっていたはず。そっちは晩年のライヴで、既にそういう兆候が見られる。コルトレーン自身、自分が吹いていない時は、小物打楽器を手にしていたようだ。

 

 

まあ「もし」という話をしても仕方がない。マイルスの場合、電気トランペットを吹いている初音源は、僕の知る限りでは、1970年12月のワシントンDC、セラー・ドアでのライヴということになる。この四日間のライヴ録音から、最終日のものが編集されて、『ライヴ・イーヴル』に収録された。

 

 

1970年4月のフィルモア・ウェストでのライヴ『ブラック・ビューティー』で、既に一部電気トランペットを吹いているという説が昔あった。かつての日本盤LPのライナーにそうあったのだ。そうかもと思う瞬間があるが、僕の耳には電気トランペットには聞えないし、今ではそういう説は見なくなった。

 

 

つまり、リアルタイムでの公式盤発売では、1971年11月にリリースされた『ライヴ・イーヴル』二枚組LPが、マイルスの電気トランペット初お目見えだったことになる。もっとも、この二枚組のライヴ・サイドを聴くと、電気トランペットと併せ、生トランペットもまだ結構吹いている。

 

 

例えば一曲目の「シヴァッド」。 一曲の中でも吹分けている。これは前にも書いたように、元々は「ディレクションズ」なんだけど、最初からずっと電気トランペットを吹き続け、終盤に突然、生トランペットになる。その部分だけが編集されて収録された。

 

 

 

また『ライヴ・イーヴル』一枚目B面トップの「ホワット・アイ・セイ」では、一曲全部通して生トランペットのみ。 しかし二枚目になると、ライヴ音源では、全面的に電気トランペットだ。この頃は、まだどっちも吹いていたんだね。

 

 

 

1970年12月のセラー・ドアではまだそんな感じなんだけど、翌71年になると(現在の公式音源は2015年7月に出た四枚組だけ)、もう電気トランペットしか吹かなくなっている。この71年にはマイルスはスタジオ録音を全く行っておらず、ライヴ音源のみだ。その後は75年に一時隠遁するまで電気トランペットのみ。

 

 

もちろん、1970年代中期も、ライヴ・ステージでときたま生のままトランペットを吹くことがありはしたようだ。75年日本でのライヴ録音盤『パンゲア』でも、二枚目の後半で、ひょっとしたらこれは生トランペットではないかと思える瞬間があるが、僕も自信はない。しかしこういうのは例外的だろう。

 

 

1981年の復帰後は、復帰第一作の『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』(80年録音)B面二曲目のタイトル曲で電気トランペットを吹いているが、それだけで、そのアルバムもその後のスタジオ作もライヴでも、死ぬまで一切電気トランペットを吹かなかった。

 

 

1970年代マイルスの電気トランペットについては、当時も今も、賛否両論いろんな意見があって、多くのマイルス・ファンも、どっちかというと若干批判的というか、トランペットで他にやることがなくなったのではないかという言い方をする人もいる。体調のせいあって、生トランペットで満足な音を出せなくなったせいだという人もいるなあ。

 

 

確かに1969年の『ビッチズ・ブルー』や、70年の『マイルス・アット・フィルモア』などでの生トランペットの音を聴くと、オープン・ホーンの生音という点では、64年と並びひょっとしたらこの頃が一番美しかったのではないかという気が、僕もする。72年頃から、マイルスの体調が優れなかったのも確かだ。

 

 

あんまり好きじゃない人もいることを承知の上だけど、僕はそのマイルスの電気トランペットの歪んだサウンドが、もうなんといったらいいのか、この上もなく大好きでたまらないんだよなあ。『オン・ザ・コーナー』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』とか、『アガルタ』『パンゲア』とか。

 

 

以前もちょっと触れたけど、電気を使っても使わない生楽器でも、僕は歪んで濁った音というのが大好きでたまらず、歪んでいれば歪んでいるほど「美しい」と感じる感性の持主。三味線のサワリなども好きだし、アフリカにはそういう楽器がいろいろあるし、ファズをかけたエレキ・ギターとか、リング・モジュレイターをかませたフェンダー・ローズとか。

 

 

だから、マイルスがワーワー・ペダルを使った電気トランペットで歪んだ音を出し、ピート・コージーが思い切り目一杯ファズを効かせた歪みまくった音でエレキ・ギターを弾きまくる『アガルタ』や『パンゲア』などは、僕なんかにとっては、これはもうまさに大衆音楽の理想型なんだよね。

 

 

そういうのって、ロック好きの人なんかでもあんまり好きじゃない人が時々いるよね。クリーン・トーンこそエレキ・ギター本来のサウンドだとかいう人が、特にブルーズ系リスナーには多い気がする。フェンダー・ローズだって、あんまりエフェクターかけないサウンドの方が、一般ウケしやすいのかもなあ。

 

 

エレキ・ギターの歪んだ音などは、楽器というものの本質への「先祖帰り」だと言っている人がいて、僕も全く同感。クラシック音楽などで使われる西洋楽器が、その成立過程で濁った「雑音」を極力排していき、「キレイな」音だけを出すように工夫されてきた方が、音楽の歴史全体から見たら、むしろ特殊だ。

 

 

ヴォーカルなんかでも、西洋音楽ではキレイな澄んだ声が素晴しいという価値基準だけど、ポピュラー・ミュージックでは、結構ダミ声の大歌手がいるよね。僕はそっちの方が好き。ルイ・アームストロングとかハウリン・ウルフとかドクター・ジョンとかマハラティーニとか広沢虎造(二代目)とか、僕の好きな歌手は多くがそうだ。

 

 

そういう意見に共感し、共感しなくても、ハウリン・ウルフやマハラティーニなどが大好きな音楽リスナーでも、マイルスの歪んだ電気トランペットの音はイマイチ好きじゃないという人がいたりするのは、僕なんかにはちょっと理解できない。同じことじゃないか音楽の本質は。どうしてマイルスだけダメなんだ?

 

 

その上これも以前書いたけど、1970年代マイルスの電気トランペットのサウンドを聴いていると、デューク・エリントン楽団のジャングル・サウンド、なかでもバッバー・マイリーや、彼を継承したクーティー・ウィリアムズのワーワー・ミュートのトランペットを連想するんだよね。

 

 

『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の日本盤LPライナーを読んだ人は知っているはずだけど、エリントン追悼曲の「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」をテオ・マセロがミックス・ダウンしている時、マイルスの吹く電気トランペットの音が、エリントン楽団のトランペット・セクションの音そっくりになってしまったそうだ。

 

 

テオが慌ててマイルスを呼んで立会って聴いてもらったら、マイルスは「これはデュークだ!デュークが降りてきたんだ!」と言ったらしい。どこまで本当の話なのか分らないし、本当だったとしても、その時だけの現象だったようで、できあがったアルバムを聴いても、似てはいるけど「ソックリ」とまでは聞えないけど。

 

 

そうは聞えなくても、このエピソードは、マイルスの電気トランペットの本質をよく表しているものじゃないかと思うんだよね。1970年代マイルスのファンク・ミュージックは、まさにエリントン楽団によるジャングル・サウンドの現代版なのだ。

 

 

要するにクラシック音楽とは違ってポピュラー音楽では、クリーンで澄んだ音・声よりも、むしろ濁って歪んだ音・声の方が魅力的だとする価値観があるはず。そして、ハウリン・ウルフやマハラティーニの声と同じく、1970年代マイルスの電気トランペットの音も、完璧にその価値観に合致しているはずなのだ。

2015/11/12

ヒル・カントリーのド田舎ブルーズ〜ファット・ポッサム

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1990年代後半の僕は、周囲にファット・ポッサム・レーベルのブルーズばかりどんどん薦めまくるので、一部で「ファット・ポッサムの伝道師」などと揶揄されていたことがある。それくらい、当時はファット・ポッサムから出るブルーズに夢中だった。今聴き返すことは殆どないけど。

 

 

僕はもともと、あまりレーベルで買うということをしない音楽リスナーだった。ジャズに夢中だった頃も、周囲がみんなブルーノートだ、アトランティックだ、ECMだといろいろ言っているのを尻目に、僕はそういう見方をしたことが殆どなく、レーベル・カラーというものも意識したことがなかった。

 

 

そもそもレーベル・カラーってのは、インディペンデント・レーベルのもので、コロンビアやヴィクターみたいなメジャーにレーベル・カラーなんてものはなく、実に様々な音楽家の実に多彩な音楽が出ているわけだから。僕はジャズを聴始めてすぐにマイルス・デイヴィスの大ファンになり、彼はコロンビアの専属だった。

 

 

そういうこともあって、昔から「このレーベルのアルバムだからほしい」とか思ったことが全くなく、ただ音楽家個人を追掛けているだけだったのに、1990年代後半からはなぜかファット・ポッサムから出るブルーズにハマってしまい、このレーベルのリリース作品は全部追掛けて買いまくっていた。

 

 

いったいなにがきっかけで、あるいはどのブルーズマンのアルバムから、ファット・ポッサムにハマってしまったのか、全く憶えていない。ただ、1991〜2011年まで、僕のメインの職場が渋谷にあって、渋谷駅を降りて歩いて行く道中に、サムズという米黒人音楽専門のレコード・ショップがあった。

 

 

ある時期以後宇田川町に移転して、そして今では閉店した渋谷サムズだけど、1990年代後半には大きな歩道橋を渡ったところにある渋谷警察署の裏の雑居ビルの二階に店があって、まさに職場に向う道中にあったので、出勤前や出勤後に、ほぼ毎日のように入浸っていた。かなりたくさんのCDをここで買った。

 

 

渋谷サムズでは、ほぼ毎日のように、知らない新しい米黒人音楽のCDもチェックしていたから、おそらくこの店に入荷したファット・ポッサムのブルーズ・アルバムを買うようになったんだろう。渋谷サムズで買っていたのは、もちろんファット・ポッサムだけではなく、いろんな米黒人音楽を買った。

 

 

1990年代後半には一部の米黒人音楽ファンの間でかなり人気があったように思うファット・ポッサムのブルーズだけど、2015年の今ではなんのことやら分らないという新しいリスナーの方々もいるかもしれないので、参考までに一つ音源を貼っておく。

 

 

 

このR.L. バーンサイドというギタリスト兼ヴォーカリストが、おそらくファット・ポッサムでは最も成功し、最も人気のあったブルーズマンだろう。この「ジョージア・ウィミン」は、YouTubeでも書いておいたけど、1997年の『ザ・ベスト・オヴ・ファット・ポッサム』にしか入っていない。

 

 

ファット・ポッサムのブルーズ・ベスト盤は、リリース年を変えて何種類か出ていて、少しずつ内容が違う。このヴァージョンの「ジョージア・ウィミン」は1997年リリースのベスト盤にしか入っていないし、R.L. バーンサイドのどのアルバムにも収録されていないというものなのだ。

 

 

「ジョージア・ウィミン」という曲は、バーンサイド定番の得意曲で、1997年の彼の単独アルバム『ミスター・ウィザード』でもやっているけど、今貼ったベスト盤のとはヴァージョンが違って、演奏の感じもかなり違っている。一番違うのがドラムスで、ベスト盤の方は甥のセドリック・バーンサイドだ。

 

 

セドリック・バーンサイドは1997年のR.L. バーンサイドの来日公演にも同行していたので、パークタワー・ブルース・フェスティヴァルで、僕も生演奏を聴いた。その時にも感じたことだけど、先に音源を貼ったベスト盤収録の「ジョージア・ウィミン」でも、実に心地いいビートを叩出しているよね。

 

 

このベスト盤音源(バーンサイドは、もう一曲「スネイク・ドライヴ」が収録されている)もそうだし、その来日公演もそうだったのだが、R.L. バーンサイドのバンドにはベーシストがおらず、R.L. バーンサイドのギターと歌+ケニー・ブラウン(白人)のスライド・ギター+ドラムスという編成。

 

 

バーンサイドのアルバムは、だいたいどれもそんな感じでベース・レスなのだ。一人でのギター弾き語りではないバンド編成の米国音楽で、ベース・レスというのは少ない。もっともバーンサイドは一人での弾き語りナンバーも多少あるし、元々そういうカントリー・ブルーズの人。

 

 

ファット・ポッサムというレーベルは、ミシシッピ州オックスフォードという田舎町に拠点を置く会社で、ヒル・カントリーのど田舎ブルーズを録音することから出発した会社。今調べてみたら、設立は1991年になっている。初期はロバート・パーマーもプロデューサーを務めていたことがある。

 

 

1991年設立で、おそらくやはり90年代後半がファット・ポッサムの最盛期だったんだろう。当時はかなりの数のブルーズ・アルバムが出ていた。10枚くらいあるはずのR.L.バーンサイドはじめ、ジュニア・キンブロウとかセデル・デイヴィスとかT-モデル・フォード(98年に来日)とか。

 

 

ちなみに1997年のパークタワー・ブルース・フェスティヴァルには、同じファット・ポッサムのブルーズ・バンド、ジェリー・ロール・キングズも出演した。こっちも(名前は忘れたが)ドラマーが実に心地いいビートを叩出す人で、あまりに気持いいから、眠りそうになったくらいだったのを憶えている。

 

 

眠りそうになったといえば、R.L. バーンサイドのステージでも、結構寝ていた客がいた。客が寝るというのは、必ずしも僕は悪いこととは思わない。下手な演奏ではリラックスできない。寝るのは音楽が気持いい証拠なのだから、客が寝たら、ステージ上の音楽家はいい演奏ができていると喜ばなくちゃ。

 

 

その1997年のパークタワーでは、R.L. バーンサイドの持つエレキ・ギターとアンプが目一杯ヴォリュームを上げていて、彼がギターを持直すだけでブ〜ンと音が鳴るので、思わず笑ってしまう客もいた。しかも彼がやった曲は、全部キーがEのブルーズばかりで、それしか弾けんのかと言う人もいたなあ。

 

 

それにしても、僕は1990年代後半当時、どうしてあんなにファット・ポッサムのブルーズにのめり込んでいたのだろう?ファット・ポッサムのブルーズの特徴といえば、会社がミシシッピ州オックスフォードにあることからも分るように、当地のヒル・カントリー・ブルーズのプリミティヴなグルーヴ感だろう。

 

 

ファット・ポッサムにハマるだいぶ前から、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの弾き語りブルーズが大好きだった。ファット・ポッサムではないが、マクダウェルもまたヒル・カントリーのど田舎ブルーズマンだ。シティ・スタイルもさることながら、デルタ・ブルーズなどのカントリー・スタイルが好きな僕。

 

 

だから、そういったミシシッピ州ヒル・カントリーのプリミティヴなカントリー・ブルーズのグルーヴ感を現代に蘇らせ、しかもただ昔そのまんまではなく、1990年代の現代的な感覚も兼ね備えたファット・ポッサムのブルーズが大好きになったんだろう。当時はヒップホップに通じるものすら感じていた。

 

 

1990年代と2000年代初頭には一世を風靡した(というのは大袈裟か)ように思えるファット・ポッサムのブルーズも、ブームは10年かそこらで急速にしぼんでしまい、僕も新作CDはもう全く買わなくなっている。ファット・ポッサムは今では一部のインディ・ロックなどもリリースしているようだけど。

 

 

今調べたら、ファット・ポッサムは公式Twitterアカウントがあるなあ(@FatPossum)。でももうこれをフォローする気には全くなれない。あれだけ聴いたファット・ポッサムのブルーズも、今ではごくたまにR.L. バーンサイドを聴く程度。それもたいてい先に書いた1997年のファット・ポッサム・ベスト盤と『トゥ−・バッド・ジム』だけだなあ。

2015/11/11

美は単調にあり 其の弐〜グラント・グリーン

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大学生の頃、最初に好きになったジャズ・ギタリストはグラント・グリーンだった。もっともそれは彼のアルバムを買ったのがきっかけではなく、なにかのブルーノート音源のアンソロジーがあって、それに一曲「ジェリコの戦い」が収録されていて、それを聴いて一発で大好きになった。

 

 

すぐにその「ジェリコの戦い」が入った、グラント・グリーンの『フィーリン・ザ・スピリット』を買って聴いて、これが素晴しくて一発でハマってしまった。このアルバムは、タイトル通りいわゆるスピリチュアルズだけを取りあげた、一種の企画物。スピリチュアルズを聴いた最初だったはず。

 

 

その頃は、スピリチュアルズ始め、その他ゴスペルなど黒人宗教音楽そのものは全く聴いてはおらず、全部ジャズマンがジャズ風に料理・演奏したものしか聴いていなかった。だから、グラント・グリーンの『フィーリン・ザ・スピリット』を聴いて、スピリチュアルズとはこういうものかと信じ込んでいた。

 

 

『フィーリン・ザ・スピリット』収録曲のタイトルを見たら、その「ジェリコの戦い」とか「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」とか「ゴー・ダウン・モーゼ」とか、どれもちょっとは分るキリスト教に関係したようなものだったことだけは、最初から理解できたのだった。まあその程度。

 

 

しかしながら『フィーリン・ザ・スピリット』に感動したといっても、それは宗教音楽的な側面に触れて感じたとかいうことでもなく、ただなんとなく感じたブラック・フィーリングと、シングル・トーンで弾きまくるグラント・グリーンのギター・プレイがいいなと思ったわけだった。

 

 

これ以前に知っていたギタリストといえば、ほぼ全員ロック系のギタリストで、例えば以前から聴いていたレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとかが大好きだったから、かなりフィーリングが違うグラント・グリーンが大好きになって、彼の他のレコードも何枚か買って聴いたのだった。

 

 

でも『フィーリン・ザ・スピリット』で僕がグラント・グリーンを知った1980年頃には、彼の一連のブルーノート作品で入手できるものが少なくて、当時買えたのは、辛うじてオルガンのラリー・ヤング+ドラムスのエルヴィン・ジョーンズとのトリオでやった『トーキン・アバウト』くらいしかなかった。

 

 

全然違う話だけど、ラリー・ヤングはマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』にエレピで参加しているのを聴いてはいたが、あのアルバムでは多くの曲にチック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ラリー・ヤングと三人もエレピ奏者がいるから、誰がどれなのか全然聴き分けられなかった。実は今でも、特別な役割を担っているチック以外は、イマイチ判然としないのだ。

 

 

グラント・グリーンでは、最初はその二枚だけを繰返し聴いていたのだったが、それでも彼は、リーダー作だけではなく、他のジャズマンのアルバムにサイドマンとして参加して弾いているものがブルーノートにたくさんあることがしばらくすると分ってきて、そういうものでいろいろと楽しめたりはした。

 

 

いろいろと聴いてみると、どうもグラント・グリーンというギタリストは、全くコードを弾かない、というか弾けないのかどうかよく分らないけど、とにかくシングル・トーン弾き一本槍で押しまくるスタイルの人で、それもどの曲をやっても、ほぼワン・パターンのフレーズを繰返す人なのだった。

 

 

そういうわけだから、しばらく熱心に聴きはしたものの、少し経つとそのワン・パターン・フレーズの繰返しにだんだん飽きてきて、面白くなくなってきて、聴かなくなっていった。そうこうしているうちに、CD時代になって、彼が1970年代にやっていた電化ファンク路線のアルバムが再発された。

 

 

実を言うとLPでは、1972年の『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』などの電気楽器をいろいろ使ってファンク・ミュージックをやったグラント・グリーンのアルバムは、一枚も聴いたことがない。というか当時から普通に買えたのだろうか?LPを見掛けなかったもんなあ。

 

 

1970年代のそういう電化ファンク路線のアルバムを、CDリイシューで買って聴いてみたら、これがもうとんでもなくグルーヴィーでカッコよかったのだ。そういうグリーンのアルバムは、69年の『キャリイン・オン』から72年のラスト『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』まで、八枚。

 

 

1970年代のグラント・グリーンのアルバムは、ベースは全部エレベで、どれもオルガンかエレピかクラヴィネット奏者が参加していて、その上だいたいパーカッションが入っている。だから、普通のジャズ・ファンには評判が悪く、一般的にも殆ど人気がなかったようで、だからレコードを見なかったのかも。

 

 

そういう路線のグラント・グリーンが再評価、というか初めて評価されるようになったのは、どうやら1990年代以後で、それもジャズ・ファンというより、主にクラブ・ミュージック関係の筋からの評価だったらしい。当時僕はそういう事情はあまりよく知らず、ただ再発されたCDを聴いて、カッコイイなと思っていただけ。

 

 

僕が今持っている『フィーリン・ザ・スピリット』日本盤CDのライナーノーツを書いているのが、ブルーノート・コンプリート・コレクターの小川隆夫さんで、その中で彼は「ある時期以後の、ややイージーに流れた路線の作品のせいで、グリーンの評価が下がってしまった」と書いている。

 

 

はっきりとは書いていないけど、これは明らかに1970年代の電化ファンク路線の作品のことだね。そういうもののせいで、それ以前の「純ジャズ」作品まであまり聴かれなくなったらしいのだ。僕にはその辺のことはよく分らないのだが、書いたように80年代には彼のLPがあまり買えなかったのは事実。

 

 

今になってみると、そういう言い方は、ある種ジャズ・ファンの素直な心情ではあるんだろうけど、グラント・グリーンの一番美味しい部分を取り逃してしまう表現だよねえ。個人的には、どう聴いても1970年代電化ファンク路線のアルバムの方が、はるかに面白い。

 

 

だいたい日本のジャズ・ファンは、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズなど、1950年代末〜60年代半ばのファンキー・ジャズは大好きなくせに、それをさらに煮詰めたようなソウル・ジャズやジャズ・ファンクを毛嫌いしたりするのはおかしいというか、僕には理解できない。

 

 

そういうものは、1970年前後のスライとか70年代前半のスティーヴィーやアース・ウィンド&ファイア等と同一基軸で考えるべき音楽で、もちろん同じ頃の電化マイルスもそうなんだけど、そうやって並べて同一地平で聴いてみると、当時のブラック・ミュージックが全部連動し呼応しあっていたことが分る。

 

 

グラント・グリーンの『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』には、スタイリスティックスで有名なフィリー・ソウル・ナンバー「ベチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」のカヴァーもある。これなんか、同年のライヴ録音であるジミー・スミスのファンク名盤『ルート・ダウン』に、アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」があったりするのと、同じことじゃないかな。

 

 

グラント・グリーンだって、最初に書いた『フィーリン・ザ・スピリット』も、スピリチュアルズ路線で真っ黒けだし、1960年代からそういう作品が多く、70年代のさらにドス黒いファンク・アルバムと完全に繋がっているというか、そもそもそういう資質のミュージシャンなんじゃないの?

 

 

『フィーリン・ザ・スピリット』でピアノを弾いているのは、昨晩書いたハービー・ハンコック。1962年の録音だから、マイルス・コンボにレギュラー参加する直前、自身のリーダー作『テイキン・オフ』を録音したのと同じ年。『フィーリン・ザ・スピリット』でも、実に真っ黒けなピアノを弾いている。アクースティック・ジャズでのハービーの演奏では、一番黒いピアノがこのアルバムじゃないかなあ。

 

 

ハービー・ハンコックが、キャリアのスタートからかなり真っ黒けでファンキーな資質を持った音楽家で、だから1970年代以後にファンク・ミュージックを展開したのも当然だったと、昨晩書いた。彼がピアノで参加した『フィーリン・ザ・スピリット』のグラント・グリーンも、かなり似ているんだよね。

 

 

グラント・グリーンの1970年代電化ファンク路線のアルバムを聴くようになる前から、古いジャンプ等黒人音楽もたくさん聴いていたけど、その後中村とうようさんの案内で、いろんなことを知ったのだ。そうすると「アフター・アワーズ」でも「フライング・ホーム」でも、同じパターンの繰返しで盛上げるのが、一種の神髄と知った。グラント・グリーンでも、同一パターンの反復で成立つファンク・ミュージックの方が、それが一層際立っている。

 

 

クリフォード・ブラウンの記事で引用した中村とうようさんの言葉、「美は単調にあり」「シンプル・イズ・ビューティフル」こそ大衆音楽の場合は真実で、それが分ってくると、グラント・グリーンが同じフレーズをリピートして盛上げるのも、大衆音楽の伝統に則ったものだということを悟ったのだ。ワン・パターンではない複雑なインプロヴィゼイションが好きな多くのジャズ・ファンには、これは理解しにくいことかも。

2015/11/10

ハービー・ハンコックとクロード・ソーンヒル

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こんなこと誰も言ってないんだけど、ちょっと考えてみたら、ハービー・ハンコックの1968年作『スピーク・ライク・ア・チャイルド』って、クロード・ソーンヒル楽団の音楽によく似ている。管楽器アンサンブルの中で、ピアノだけがソロを取るところとか。

 

 

あの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』のアレンジに際し、ハービーはマイルス・デイヴィスとのコラボ作品におけるギル・エヴァンスのアレンジを、大変参考にしたらしい。言うまでもなく、ギルは1941〜48年まで、ソーンヒル楽団の主席アレンジャーだった。

 

 

ハービーの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』の編成は、通常のピアノ・トリオに加え、フリューゲル・ホーン+アルト・フルート+バス・トロンボーンという三管。この三管の構成も、通常のモダン・ジャズのコンボとしてはかなり変っている。まるでギル・エヴァンスが編成する時のような感じだね。

 

 

そしてその三本のホーン楽器は、テーマ吹奏や、ハービーのピアノ・ソロの伴奏のみに使われていて、全くソロを取っていない。というか、ハービーのピアノ・ソロも、それだけ単独で抜出して存在するというのでもなく、管楽器のアンサンブルと渾然一体となって演奏全体に溶け込んでいるようなアレンジだ。

 

 

こういう管楽器のアンサンブルとピアノとの一体となったアレンジというのは、少し変った管楽器編成とともに、ハービーの1960年代の他のジャズ・アルバムには見られないばかりか、ハービー以外のモダン・ジャズのアルバムでも、ギル・エヴァンスのバンドくらいしか存在しないのではないか。

 

 

マイルス・バンドではもちろん、自分のリーダー作でも、それまでトランペット+サックス+リズム・セクションなどの通常のコンボ編成で、通常の新主流派的なモダン・ジャズを展開していたハービーが、なぜ突然この1968年の『スピーク・ライク・ア・チャイルド』でこんなことを思い付いたのだろう?

 

 

一番考えられるのは、最初に書いたように、このアルバムの制作に際してハービーの念頭にあったのは、マイルスとやったギル・エヴァンスのアレンジ、特にハービーの言葉を借りれば、三作目の『スケッチズ・オヴ・スペイン』だったらしいから、やはりどうもその辺りからヒントを得ていたんだろうね。

 

 

しかしながら、僕が聴いた感じでは、ハービーの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』は、ギルの仕事でもそういうビッグ・バンド編成での録音よりも、むしろマイルスの49/50年録音の『クールの誕生』の比較的少人数編成のサウンドに似ていて、ギル自身のバンドでもそういう人数での作品に似ている。

 

 

そして、それらよりももっと似ているのが、最初に書いたギル・エヴァンス・アレンジ時代の1941〜48年のクロード・ソーンヒル楽団のサウンドなんだよね。ハービーは、ギルの仕事に強い興味を持っていたらしいから、聴いていたに違いない。

 

 

ジャズではあまり使われない管楽器の選択、その管楽器群の茫洋としたアンサンブル、そしてその合間を縫うように浮び上がり、ふわふわと漂うピアノのソロ・・・これら全て、1941〜48年クロード・ソーンヒル楽団のサウンドと、68年ハービーの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』に共通する。

 

 

こんなことを書いている文章には、僕は今まで一度もお目にかかったことがないので、僕だけが抱いている妄想のようなものかもしれないなあ。でも本当にソックリなんだ。ハービーの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』はリスナーも多いと思うけど、クロード・ソーンヒル楽団なんか今聴く人は少ないだろう。

 

 

本当にソックリだから、これはハービー・ハンコックがこのアルバムの音楽的源泉を、故意に隠しているのではないかとすら疑ってしまう。リスペクトするという意味では、全面的に隠すわけにもいかず、ギル・エヴァンスの名前だけを出して、我々リスナーにちょっとしたヒントを与えているのではないかなあ。

 

 

それにしても、1970年代以後の電化ファンク路線を含めても、こういうギル・エヴァンス的なサウンドは、ハービーの他のアルバムでは、現在に至るまで全く聴かれないので、68年の『スピーク・ライク・ア・チャイルド』だけが特異なアルバムとして異彩を放っている。やや現代音楽風でもあるし。

 

 

現代音楽といえば、ハービー・ハンコックという人は、ジャズ・ピアニストとしてデビューする前は、大学で西洋近代クラシック音楽の教育・訓練を受けた経歴の持主だ。ハービーのあのビル・エヴァンス風な和音の使い方は、もちろんエヴァンスの影響だけど、クラシック音楽からも大いに学んだに違いない。

 

 

黒人ジャズ・ピアニストで、そういう近代的な西洋和声を使ったのは、デューク・エリントンを除けば、1960年代初頭からのハービー・ハンコックが初めてじゃないかなあ。まあ他を僕が知らないだけかもしれないけど。そして、ハービーの場合は、それに加え、黒人独特の粘っこいファンキーな感覚がある。

 

 

だから、1960年代のマイルスが重用したのも納得。マイルスは58年頃モード奏法で新しい和声の可能性を探っていた時期に、同じ方向性を持っていたビル・エヴァンスを雇ったわけだけど、アップ・テンポなハードな曲やブルーズ曲ではスウィング感が足りず、マイルスも物足りなく感じることがあったらしい。

 

 

エヴァンスが弾く1958年録音の「ラヴ・フォー・セール」(『1958マイルス』)を聴くと、それは理解できる。59年録音の『カインド・オヴ・ブルー』では、既に脱退していたエヴァンスを参加させたけど、一曲だけスウィンギーなブルーズの「フレディ・フリーローダー」では、ウィントン・ケリーを使っている。

 

 

しかしながら当時レギュラー・メンバーだったウィントン・ケリーはブルーズの上手いファンキーなピアニストで、和声感覚もレッド・ガーランドよりはモダンだけど、ビル・エヴァンスに比べたらモダンじゃない。そんな具合だったから、1963年に雇ったハービーは、まさに両者を兼ね備えた好適な人材だった。

 

 

ハービーは和声感覚も完全にモダンで、リリカルでもあるし、その上ブルーズも得意でファンキーにドライヴしまくるプレイもできるという、マイルスにとってはこれ以上ない理想的なピアニストだったはずだ。マイルスのバンドで録音したアルバムでも、それら全てをフルに発揮しているのがよく分る。

 

 

ハービー自身のリーダー作では、デビュー作1962年の『テイキン・オフ』一曲目が「ウォーターメロン・マン」で、62年という時代を考えたら、ジャズではこれ以上ないというくらいのファンキーで真っ黒けなナンバーだ。最初からこんな曲を書く人だったから、70年代のファンク路線は必然だった。

 

 

「ウォーターメロン・マン」は、1973年のファンク・アルバム『ヘッド・ハンターズ』で再演し、完全なファンク・チューンに変貌しているけど、元からそんなフィーリングを持った曲だっのだ。62年の初演の方が僕は好きだけど、『テイキン・オフ』現行CD収録の別テイクも、ノリが深くて結構好き。

 

 

ハービーのファンキーなブルーズ・プレイで、僕がいつも思い出すのが、1964年9月録音の『マイルス・イン・ベルリン』収録の「ウォーキン」。1960年代のマイルスのライヴでは、この曲は相当な急速調になって、曲の持つブルーズ本来のファンキーな感覚が薄い。

 

 

ところが『マイルス・イン・ベルリン』での「ウォーキン」でだけ、ハービーのピアノ・ソロの中盤で、いきなりどんどんテンポが落ちてスローになり、突然「アフター・アワーズ」みたいな、グルーヴィーでファンキーなブルーズ演奏に変貌している。しばらくそれで弾いたら、またすぐに戻るけれども。

 

 

でも1960年代マイルス・コンボでのハービーのプレイでは、そういうものは殆ど聴けない。一連のライヴはもちろん、世評の高い『ソーサラー』『ネフェルティティ』等でも、ほぼ完全に抽象的で調性感の薄い演奏に徹していて(この二枚では、左手でコードを弾く瞬間が全くない)、そんなにファンキーではない。

 

 

そうかと思うと、1970年代以後は相当に真っ黒けなファンク路線の作品が多くて、マイルスのアルバムでも70年4月録音の『ジャック・ジョンスン』A面で、ドス黒いオルガン演奏を披露している。そんなファンキーな作風と現代音楽風で抽象的な作風と、相当に振幅の大きな音楽家ではあるなあ。

 

 

しかも1975年の来日公演を収録した『洪水』では、ハービーの新主流派ジャズの代表曲「処女航海」から、切れ目なくそのまま74年『スラスト』収録のファンク・チューン「アクチュアル・プルーフ」に繋がっていたりして、これはもうなんというか、ハービーの多様な音楽性をそのまま詰込んだような感じだ。

 

 

なお、1968年『スピーク・ライク・ア・チャイルド』のハービーのアレンジは、復帰後のマイルス86年『TUTU』と、87年『シエスタ』での、マーカス・ミラーのアレンジに大きな影響を与えている(マーカス自身がそう認めている)から、ギル・エヴァンス以来の伝統が連綿と受継がれているわけだねえ。

2015/11/09

英米大衆音楽におけるクラーベ

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ネヴィル・ブラザーズもやっているミーターズの代表曲にして、ニューオーリンズ・ファンクのアンセム「ヘイ・ポッキー・ア・ウェイ」には、ラテンというか、キューバの3−2クラーベの感覚がある。1974年スタジオ録音のオリジナルが既にそんな感じだ。

 

 

 

もっとよく分るのが、このスタジオ録音の翌年1975年のライヴ・ヴァージョンで、 これはもう誰が聴いても3−2クラーベでしかない。このライヴ・ヴァージョンにはスタジオ・ヴァージョンにあるホーン・セクションが入っておらず、リズムの骨格が露になっているせいかも。

 

 

 

もっともこれがネヴィル・ブラザーズの1981年『フィヨ・オン・ザ・バイユー』収録ヴァージョンだと、そのフィーリングが薄くなっているんだよなあ。 テンポも速くなって、ミーターズのヴァージョンにあるリズムのタメがなくなっている。

 

 

 

やっぱりこういうリズム感覚というかノリの違いが、似たようなメンツとレパートリーでも、最近はネヴィル・ブラザーズよりミーターズの方がいいなと思うようになった理由の一つなんだろう。どっちもニューオーリンズ・ファンクの代表的なバンドだけど、ミーターズのシンコペイションの方が面白いんだよねえ。

 

 

ただ、ミーターズのノリには独特のものがあるので、馴染の薄いリスナーにはネヴィル・ブラザーズのリズム感覚の方が親しみやすいだろう。僕も以前はそうだった。ネヴィル・ブラザーズは、ミーターズのニューオーリンズ・ファンクの本質をほぼそのまま引継いで、それをより一般ウケしやすいように分りやすくしたというイメージ。

 

 

もちろんネヴィル・ブラザーズにだって、3−2クラーベ感覚を活かしたナンバーが結構ある。1984年のライヴ・アルバム『ネヴィライゼイション』にも「モージョー・ハンナ」とか「フィア、ヘイト、エンヴィ、ジェラシー」とか、有名なエリントン・ナンバーの「キャラヴァン」などがそうだ。

 

 

エリントン(というかファン・ティゾル)の「キャラヴァン」は、最初からアフロ・キューバンな曲なので、そのネヴィル・ブラザーズ・ヴァージョン(インストルメンタル)に、3−2クラーベのパターンが入るのは、極めて自然だ。エリントン自身のヴァージョンだって、そうなっている。

 

 

また、このアルバムでは、プロフェッサー・ロングヘアの「ビッグ・チーフ」もやっていて、ここでも完全に3−2クラーベ感覚のリズムだ。この曲だって、フェスがやった最初からラテン感覚を活かした曲、というかフェスのナンバーはどれもこれもそんな感じだ。

 

 

プロフェッサー・ロングヘアもミーターズもネヴィル・ブラザーズもニューオーリンズの音楽家。ニューオーリンズはメキシコ湾に拓けた港町(というわりには、河口からやや距離があるけど)だから、昔から音楽面含め、中米カリブ海文化が多く流入していた。その影響は明々白々。

 

 

同じニューオーリンズの音楽家(といっても、主にロサンジェルスに拠点を置いていたけど)であるドクター・ジョンの、ニューオーリンズ古典集『ガンボ』一曲目の「アイコ・アイコ」なんか、3−2クラーベのパターンがはっきりし過ぎているくらいだということは、以前書いた。

 

 

ニューオーリンズのポピュラー・ミュージックには、この手のラテン感覚のリズムを活かしたものが、それはもう無数にあって、3−2クラーベのパターンは、もはやニューオーリンズ音楽の根幹を成す重大要素だと言えるほど。一般のロック・ファンは、<ボ・ディドリー・ビート>の名前で知っているはず。

 

 

いわゆるボ・ディドリー・ビートは、完全に3−2クラーベのリズム・パターンだ→ https://www.youtube.com/watch?v=8XxGUIbYjmY これ以後のロックに非常に大きな影響を与えたもので、一例を挙げればローリング・ストーンズのバディ・ホリー・カヴァー「ナット・フェイド・アウェイ」もそうだ。

 

 

「ナット・フェイド・アウェイ」は、バディ・ホリーのオリジナルが元々ボ・ディドリー・ビートだけど、ストーンズは最初1964年にカヴァーし、さらに94/95年のワールド・ツアーのオープニング・ナンバーに選ばれて、その際は、ボ・ディドリー・ビートをより強調したアレンジになっていた。

 

 

1964年の最初のカヴァーがコレ→ https://www.youtube.com/watch?v=shQQuLULa7U  そして94年のライヴではこんな感じ→ https://www.youtube.com/watch?v=hztmgUnRdqo  僕が観た95年の東京ドーム公演も、まさにこのままの感じだった。同年録音の『ストリップト』収録ヴァージョンも似ている。

 

 

だいたい、アメリカ大衆音楽においてこのリズム・パターンが最初に有名になったのは、ジョニー・オーティスが1940年代末か50年代初頭に使い始めたせいらしい。51年の「マンボ・ブギ」。 これに既にそんなフィーリングがある。

 

 

 

ジョニー・オーティスがこのリズム・パターンを使ったもので一番有名なのは、おそらく「ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ」だろう。 これはクラプトンもカヴァーしている。もっともこれは1958年だから、既に全米でボ・ディドリー・ビートが流行済の時期だったはず。

 

 

 

ジョニー・オーティスと同じ頃か、あるいはもうちょっと早かったのか、プロフェッサー・ロングヘアが「マルディ・グラ・イン・ニューオーリンズ」で、裏クラーベともいうべき2−3クラーベを使っている。 1948年の録音だから、こっちの方が早いのか?

 

 

 

アメリカ大衆音楽で、最も早くクラーベのパターンを使ったのは、1944年アンドリュー・シスターズの「ラム・アンド・コカ・コーラ」だとする記述もある。僕が聴いた限りでは、かなりラテン(元がトリニダード・トバゴの曲)だけど、クラーベの感覚は弱いように思える。

 

 

 

同じアンドリュー・シスターズによる同じ曲でも、このキャピトル・ヴァージョン再演には、はっきりとクラベスが刻む3−2クラーベが入っているけど、これは1956年録音(もう一回61年にも録音しているが、ヒットしたのは44年ヴァージョン)。

 

 

 

クラーベのパターンには、普通の3−2クラーベと、休符から入る2−3クラーベ(裏クラーベ)があって、僕はリズムがひっくり返ってシンコペイトする2−3クラーベの方が好きなのだ。でもキューバ音楽には多いけど、アメリカ大衆音楽で、この2−3クラーベを使っているものは少ないね。

 

 

もちろんアフロ・キューバン音楽がアメリカで流行したのは、1940年代末が初めてではない。最初の大流行は1930年代初頭のルンバ・ブーム。「南京豆売り」がアメリカだけでなく世界中で大ヒットして、エリントン楽団も31年に録音している。

 

 

 

でもこのエリントン楽団の「南京豆売り」を聴いても、クラーベのリズム・パターンはかなり弱くしか感じられない。ルンバとは、要するに本国キューバでのソンのことに他ならないんだけど、ソンでは、例えばセステート・アバネーロによる1925年初録音から、そのパターンがクッキリ聴けるのになあ。

 

 

これがキューバのソンの代表的なバンド、セステート・アバネーロの初録音(1925年)→ https://www.youtube.com/watch?v=Uf-rf5EqCpc カンカンと乾いた高い音で鳴っている拍子木みたいな音がクラベスで、3−2のパターンを分りやすく刻んでいる。楽器のクラベスにちなんでクラーベと呼ぶ。

 

 

セステート(後に人数を増やしてセプテート)・アバネーロの1925〜31年の完全集CD四枚組を持っているんだけど、これはもうどの曲を聴いても、全てでクラベスがクラーベのリズムをはっきりと刻んでいる。このリズム・パターンは、ソンの最大の特徴の一つで、ソンのバンドには必ず専属のクラベス奏者がいる。

 

 

リズム&ブルーズ等アメリカの大衆音楽で、このリズム・パターンが(クラベスでではなく、ドラムスやピアノやギターのリフなどで)明確に聴けるようになるのが、さっき書いた1940年代末頃のプロフェッサー・ロングヘアやジョニー・オーティスなどだから、その頃までには血肉化されていたんだろう。

 

 

そしてその後、主にボ・ディドリーを経由して、英国のロック・ミュージシャンにもこのビートが大きく広まった。例えば、レッド・ツェッペリンの1975年『フィジカル・グラフィティ』一曲目の「カスタード・パイ」でも、ギターが刻むのが完全に3−2クラーベだ。そんなこと書いてあるの、見たことがないけどね。

 

2015/11/08

美は単調にあり(by 中村とうよう)

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クリフォード・ブラウンのアルバムでは、1953年の例のパリ・セッション三枚を除いた独立後のものでは、『ウィズ・ストリングス』が一番好き。粟村政昭さんは『ジャズ・レコード・ブック』で「駄盤」と切捨てていたけど、その辺りが粟村さんの限界だったんだろう。昔は大変お世話になったから、そういうことはあまり言いたくはないが。

 

 

評判の高いブラウン・ローチ・クインテットは、ことブラウニーのソロだけ取出せば最高だけど、演奏全体は、アレンジがあまり好きになれないものが多く、実はあまり聴かない。世評の高い『スタディ・イン・ブラウン』だって、「A列車で行こう」も「チェロキー」も、イントロでゲンナリする。ブラウニーのソロだけは文句の付けようがないけど。

 

 

マックス・ローチ以外のサイドメンだって、ハロルド・ランドもリッチー・パウエルもちょっとなあ。もちろんソニー・ロリンズは、このバンドでの演奏はあまりよくなくて、テナー奏者としての一般的な力量では到底ロリンズに及ばないハロルド・ランドの方がいいように聞えるくらいだもんなあ。ブラウニーの存在を前に萎縮しているのだろうか?

 

 

極めて個人的な見解で申し訳ないけど、あのバンドのアルバムで一番いいと思うのは、初めの頃の1954年録音『ブラウン・アンド・ローチ・インコーポレイティッド』だなあ。あのアルバム収録曲は、そんなにアレンジもヘンじゃないし、ブラウニーがかなりストレートに吹いているので。

 

 

一曲目の急速調「スウィート・クリフォード」からエンジン全開で吹きまくるし、二曲目の「ゴースト・オヴ・ア・チャンス」などは、おそらくこのバンドでのブラウニーのバラード吹奏最高傑作じゃないかと思っているほど素晴しい。続くミドル・テンポの「ストンピン・アット・ザ・サヴォイ」も心地よい。ここまでA面で、B面はやっぱりちょっとヘンだから、あまり聴かない。

 

 

そういうわけなので、僕は大学生の頃から、ブラウン・ローチ・クインテットの一連のアルバムでは『インコーポレイティッド』を一番よく聴いていて、それ以外はどうもピンと来ない。あのバンドは、世評は著しく高いわけだから、こんな風に感じているのは、おそらく僕だけなんだろう。

 

 

その点、1955年録音の『ウィズ・ストリングス』は、ヘンなアレンジもイマイチなサイドメンのソロもなく、美しく流れるストリングスの上で、ブラウニーのトランペット演奏だけを集中してたっぷり堪能できるのでイイネ。あのアルバムも、ストリングス以外のサイドメンは、ほぼレギュラー・バンドだけど。

 

 

『ウィズ・ストリングス』は、全曲バラードなのも嬉しい。コンボで急速調で飛ばしまくるブラウニーも、そりゃもうもちろん物凄いんだけど、彼の素晴しさはバラードを吹いた時の方が分りやい気がするんだよなあ。まあそれはブラウニーに限った話じゃなく、ジャズメン全員に言えることなんだろう。

 

 

有名曲ばかりなんだけど、特に有名な「スターダスト」とか「煙が目にしみる」とか「ワッツ・ニュー」(ヘレン・メリルとの共演盤のよりはるかにいい出来)などもいいけど、僕が一番好きなのは「ポートレイト・オヴ・ジェニー」と「ローラ」の二曲。美しすぎて聴惚れるね。

 

 

「ポートレイト・オヴ・ジェニー」https://www.youtube.com/watch?v=U-yrnpQlXyU

 

 

 

『ウィズ・ストリングス』でソロを取っているのはブラウニーだけで、しかもテーマ・メロディ以外のいわゆる普通のアドリブ・ソロは全く吹かず、ただ淡々とメロディを美しく吹上げているだけ。まあその辺も、一般の硬派なジャス・リスナーにはウケが悪い理由の一つなんだろう。

 

 

なんの変化もなく、ただひたすらテーマ・メロディだけをストレートに演唱して、それで聴く人間を感動させられるというのは、ジャズの世界に限らずあらゆる音楽家の真の力量というものじゃないのかな。ブラウニーは、間違いなくそういう真の実力を持つジャズマンだった。

 

 

一般的に硬派なジャズ・リスナーはストリングス入りの作品を蔑視する傾向があったけど、それ、どうにかならないのかな。今ではさすがに昔の粟村さんみたいなことを言う人さんは減っているみたいで、ブラウニーの『ウィズ・ストリングス』も推薦盤として挙げられることもあるようだ。

 

 

いい傾向だと思う。チャーリー・パーカーのヴァーヴ録音『ウィズ・ストリングス』も、昔は散々な評判だったけど、最近はかなり名誉回復しているみたいで、嬉しい限り。あれなんか、会社から押しつけられた企画じゃなく、パーカー自身が望んだものなんだ。

 

 

これは、僕がストリングスの響きが大好きだというのも大きな理由なんだろう。もっとも、そんな僕でも、リンダ・ロンシュタットやロッド・スチュアートのスタンダード曲集などは、全く感心しない。ある時期以後に彼らのファンになった人は、ああいう音楽の歌手だと思う人もいるらしいから、困るよね。

 

 

もちろんリンダ・ロンシュタットやロッド・スチュアートの場合は、ストリングス・サウンドがダメとかいうのでは全然なく、ロックで一時代を築いた歌手が、挑戦的に新しい方向性を試すのではなく、やや安直に保守的な流れに乗ってしまったということに、違和感を感じるわけだ。

 

 

ロッド・スチュアートに関しては、『リード・ヴォーカリスト』という1993年のベスト盤。あれの後半五曲が当時の最近録音で、全部カヴァー曲。スティーヴィー・ニックスの「スタンド・バック」とかストーンズの「ルビー・チューズデイ」とかトム・ウェイツの「トム・トラバーツ・ブルーズ」とか。

 

 

ロッドの『リード・ヴォーカリスト』は、前半はただのベスト盤で必要ないんだけど、その後半五曲のカヴァー曲最新録音のためだけに買って、正解だった。五曲ともフル・ストリングス入りで、素晴しい出来だ。特にラストのトム・ウェイツ・ナンバーが筆舌に尽しがたい美しさで、オリジナルよりいいくらい。

 

 

 

トム・ウェイツの「トム・トラバーツ・ブルーズ」は、ロッド自身お気に入りらしく、同じ1993年に録音された次作の『アンプラグド』でも、ライヴ再演しているくらい。その『アンプラグド』も一部ストリングス入りだし、ロッドのやった1970年代のロック・ナンバーもたくさんやっていて、僕は好きな一枚。

 

 

そういうロッドの『リード・ヴォーカリスト』や『アンプラグド』を聴いて、ストリングスが入っているから評価しないなどと言いだすロック・ファンはいないだろう。クラシック・ファンならもちろんだ。なぜだかジャズ・リスナーやジャズ・ライターだけが、ストリングス物を毛嫌いするんだよなあ。

 

 

そういうわけで、昔の「ストリングス物はダメ」というおかしな言説のせいで、まだ一部では偏見で見られている気がするクリフォード・ブラウンのやチャーリー・パーカーの『ウィズ・ストリングス』アルバムだけど、真の演奏力とは、複雑なインプロヴィゼイションを吹きこなすことだけじゃないんだ。

 

 

なにかで中村とうようさんが書いていたけど、ポピュラー・ミュージックの場合は、美は単調にあり、シンプル・イズ・ビューティフルだというのが、僕もいろいろ聴いてきての最近の実感。モダン・ジャズや、1970年前後からの一部のロックなど、複雑で高度な演奏が有難がられて、僕も以前はそうだったけど、実は逆だよなあ。

2015/11/07

レー・クエンの歌うヴー・タイン・アンはバート・バカラック?

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2015年の私的年間ベストテン新作部門第一位がほぼ確定的な、ヴェトナム人歌手レー・クエンの2014年作『Vùng Tóc Nhớ』(スミマセン、ヴェトナム語の読みが分りません)。今まで散発的に書きはしていたものの、まだまとまった文章にしてなかったので。いやもうこれ、何度聴いてもウットリ聴惚れる。

 

 

 

『Vùng Tóc Nhớ』は2014年11月に本国でリリースされたものらしい。エル・スールに入荷して日本でも買えるようになったのが2015年4月末。エル・スールのサイトに掲載されているアルバム・ジャケット写真を見た瞬間に傑作だと確信し、貼ってある音源を試聴して一発で惚れた。

 

 

それ以前の二月に荻側和也さんがブログで紹介していた。ヴェトナム現地から直接買付けているらしい。その記事を読んで、かなりよさそうだと思ったものの、まだ普通には買えなかったんだよなあ。だから早くエル・スールに入荷しないかなと心待ちにしていた。エル・スールさんにはお世話になりっぱなしだ。

 

 

『Vùng Tóc Nhớ』には、ヴェトナム民俗色は殆どなく、むしろアメリカン・ポップスの感触が強い。戦前の南ヴェトナムで活躍した作曲家ヴー・タイン・アンの曲を取上げた企画物アルバムで、この作曲家がどういう人なのか知らないが、曲を聴くとかなりアメリカン・ポッポスを聴き込んでいるはず。

 

 

伴奏もヴェトナム色を殆ど感じない欧米ポップス風オーケストレイションで、だから従来からのレー・クエン・ファンの方々は、これより2015年作『Khúc tình xưa III』の方が少しいい出来だと感じるらしく、僕も聴き込むうちに、そうなのかもしれないと思うようにはなったけれど。

 

 

でもやはり僕にとってのレー・クエンは、2014年作『Vùng Tóc Nhớ』だなあ。好みだけならどう聴いても断然こっちだ。書いたようにヴェトナム色がかなり薄いというのも、ヴェトナムや東南アジアの音楽にイマイチ馴染が薄い僕には聴きやすいし、多くの英米ポップス・ファンにも薦めやすい。

 

 

英米ポップスと言えば、この『Vùng Tóc Nhớ』が、最初に聴いた時からなにかに似ているなあと思いながら、それがなんなのかなかなか分らずもどかしい思いをしていたのだが、しばらく経ってようやく分ったのは、大好きなバート・バカラックの官能的なナンバーにソックリだということだった。

 

 

バカラック・ファンでレー・クエンを聴く人がどれくらいいるのか分らないし、逆にこの『Vùng Tóc Nhớ』について書いてある文章でバカラックに言及しているものも、僕の知る限りでは全くないので、バカラックの官能ナンバーにソックリというこの感想は、僕だけのおかしな妄想かもしれない。

 

 

だけどいくつかあるバカラックの官能ナンバー、例えば「ルック・オヴ・ラヴ」などを、『Vùng Tóc Nhớ』の直後に続けて聴くと、あまりに似ているもんだから、このアルバムの曲を書いたヴー・タイン・アンという人は、似たような資質のコンポーザーなのか、バカラックを意識しているのか。

 

 

ヴー・タイン・アンがいつ頃このアルバム収録曲を書いたのか分らないんだけど、戦前の南ヴェトナムで活躍ということは、1945〜76年の間ということになるし、南ヴェトナムは親米国家だったし、ヴー・タイン・アンは今アメリカに住んでいるらしいし、バカラックを意識した可能性は十分ありうる。

 

 

だってバカラックは1928年生れで、50年代から活動をはじめた人。バカラックで一番官能的な曲だと思う「ルック・オヴ・ラヴ」は67年の曲だもん。世界中に名前と曲が知られているコンポーザーなんだから、南ヴェトナムのヴー・タイン・アンが知っていても、全然不思議じゃない。

 

 

もっとも僕がレー・クエンの『Vùng Tóc Nhớ』に一番近いと思うバカラックの作品は、そういう彼の過去のナンバーより、エルヴィス・コステロと組んだ1998年の『ペインティッド・フロム・メモリー』だ。特に一曲目「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」が、はっきり言ってそのまんまだ。

 

 

「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」→ https://www.youtube.com/watch?v=bfnzT-vkshw もうこれ、どう聴いても『Vùng Tóc Nhớ』そのまんまだね。前者は1998年、後者は2014年の作品だけど、後者の中の曲をヴー・タイン・アンが何年に書いたのかが分らないので、なんとも言えないけど。

 

 

どこでも誰からも反応のない、この『Vùng Tóc Nhớ』というかヴー・タイン・アン=バート・バカラック説、ホント僕だけの妄想である可能性があるけど、ちょっと聴き比べてほしい。きっと納得していただけるはずだ。そして官能性はレー・クエンの方が強くて、今はこっちの方が僕のお気に入り。

 

 

バカラックよりレー・クエン(というかヴー・タイン・アン)が官能性が強いというより、『Vùng Tóc Nhớ』以上に官能的な音楽作品を、53年の人生で僕は聴いたような記憶がないんだなあ。伴奏のサウンドも見事だけど、なんといってもレー・クエンのハスキーなアルト・ヴォイスがたまらん。

 

 

レー・クエンのハスキーなアルト・ヴォイスは間違いなく好みが分れるはず。ネットでいろいろ見ていても、重たい感じが好きじゃない(けど『Vùng Tóc Nhớ』はいい)という意見が割とあるからね。情感が深すぎて、感情を凝縮して一気に吐出すみたいな低音のコブシ廻しなんかは、まさにそう。

 

 

僕はこういう低音で歌い廻すハスキー・ヴォイスが、ジャズ歌手などでも昔から大好きだからねえ。レー・クエンとジャズといえば、この『Vùng Tóc Nhớ』にジャジーな雰囲気が少しある(やはりバカラックがそうだ)し、特に八曲目はほぼジャズ・ナンバーだと言っても差支えないくらいだ。

 

 

八曲目とか、そういう書き方しかできないのは、僕がヴェトナム語ができないせいもあるけど、それ以上にこのアルバム収録曲には、ラスト10曲目を除き曲名が付いていない。ヴー・タイン・アンという作曲家はそういう人らしく作品は番号で呼ばれていて、『Vùng Tóc Nhớ』でもそういう表記。

 

 

まあ普通の曲名がついていたところで、ヴェトナム語ができない僕には暗号みたいなものでしかないけど、やはりなんとなくアイデンティファイしにくいようなところが、ちょっともどかしい。とにかく、リスナーの心のヒダに深く情感を染込ませてくるようなレー・クエンの歌には、いまだに蕩けまくりだ。

 

 

特にいいのが一曲目と九曲目。ハスキー・ヴォイスで歌の語尾をかすれそうな感じでひきずるところとか、もう溶けてしまいそう。レー・クエンの声が消え入る瞬間に、なんとも言えない切ない感情に襲われて、後ろ髪を引かれてしまう。

 

 

『Vùng Tóc Nhớ』、ヴェトナム人作曲家の歌をヴェトナム人歌手が歌った正真正銘のヴェトナム音楽だけど、書いたように民俗色が殆どなく(その辺、ファンには物足りないんだろうけど)、ほぼ完全にアメリカン・ポップス風な官能作だから、全ての音楽ファンにオススメできる大傑作。

 

 

敢てこのアルバムの難点を探せば、47分の収録時間があっと言う間に終ってしまって未練が残ることと、聴き終った直後は、他のどんな音楽も魅力的に響かなくなってしまうこと、この二つだけ。なお、ブックレット内写真の大半は、確かにホテルの部屋に見えるけれど、表ジャケット写真(とブックレット内写真のうち二枚)は図書館だと思います。

2015/11/06

マイルス&ギルのコラボ・アルバム

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マイルス・デイヴィスがギル・エヴァンスのアレンジ・指揮のオーケストラと共演した一連のアルバムでは、『マイルス・アヘッド』が一番好きで、これが最高傑作だと思っている。これは、コンボ物を含めても、アクースティック・マイルスのアルバムで一番好きだということは、以前も書いた。

 

 

大学生の頃は『ポーギー・アンド・ベス』と『スケッチズ・オヴ・スペイン』の方が断然好きで、『マイルス・アヘッド』はなんかちょっと軽薄というか、イージー・リスニングみたいな印象で、本格ジャズな感覚ではあまり面白くないと感じていたのだった。

 

 

相当後になって、中山康樹さんが『マイルスを聴け!』の中で、ひょっとしてコロンビアは、移籍第一作の『マイルス・アヘッド』をイージー・リスニング風な体裁で売ろうとしたのではないかと書いたことがあった。第一、あのヨット+白人女性のジャケがそんな感じだし。

 

 

そんなオリジナル・ジャケットの印象と、かなりスムースに流れすぎる音楽のせいもあって、濃厚で硬派な印象の『ポーギー・アンド・ベス』『スケッチズ・オヴ・スペイン』に、大学生の頃は軍配を上げていた。

 

 

特に『スケッチズ・オヴ・スペイン』が大好きで、一曲目の「アランフェス協奏曲」に感動して、繰返し聴いていたのだった。四ッ谷いーぐるの後藤雅洋さんによれば、かつてのジャズ喫茶リクエストで、1964年の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と並んで、一番人気のあったマイルス盤だったらしい。

 

 

ということだから、僕だけじゃなく、やはり一般的に『スケッチズ・オヴ・スペイン』は人気があって、好きな人が多かったわけだね。そしてもちろん今でもそうらしい。やはり一曲目の「アランフェス協奏曲」が、いわゆる<クラシック・ミーツ・ジャズ>の分野での金字塔と見做されているのも、確かだ。

 

 

僕も大学生の頃は数え切れないほど聴いた『スケッチズ・オヴ・スペイン』だったけど、ある時期以後苦手になってしまい、特に一曲目の「アランフェス協奏曲」は、ダサくすら感じるようになってきた。他の曲も含めて、アルバム全体の雰囲気がやや重すぎて、もう七年に一回くらいしか聴かない。

 

 

「アランフェス協奏曲」は、もう全く聴く気がせず、それよりもB面の方がいいように思えてきた。特にラストの「ソレア」、これは名演だろう。これはスパニッシュ・スケールを使ったギル・エヴァンスのオリジナル。ひたすらマイルスが独り荒野を行くようなソロを吹く。

 

 

「ソレア」でのマイルスの長尺ソロは、スパニッシュ・スケールで吹いた数多いマイルスのソロの中では、(次作『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』の「テオ」でのソロと並び)多分最高傑作じゃないかと思っている。同じことを、イアン・カーがマイルス本の中で述べていた。「アランフェス」じゃなく、こっちがハイライトだ。

 

 

今ではその「ソレア」のマイルスの情熱的なソロくらいしか聴き所がないと思う『スケッチズ・オヴ・スペイン』に比べたら、その前の1958年『ポーギー・アンド・ベス』は、大学生の頃から現在に至るまで、まだまだ好きなアルバムだ。実を言うと、ジャズマンがやった『ポーギー・アンド・ベス』は、これしか聴いたことがない。

 

 

ただ『ポーギー・アンド・ベス』には、スタジオ使用の時間的制約によるリハーサル不足のせいか、アンサンブルが乱れる箇所が散見されるのが、やや残念。ギル自身も後年、今となってはコロンビアにもう少し時間をくれと言えばよかったと述懐している。

 

 

そこいくと、コロンビアでのマイルス&ギルの第一作『マイルス・アヘッド』には、そんなアンサンブルの乱れは一切存在せず完璧だから、これは移籍後初録音ということで、マイルスとギルとコロンビアも気合が入っていたというか、たっぷり時間をかけたということなんだろうかなあ。

 

 

なお、『ポーギー・アンド・ベス』でのマイルスは、トランペットとフリューゲルホーンを吹分けているようだ。曲によって、トーンが違うので、おそらくそのはず。ギルとの一連のコラボ作では、それ以外では『マイルス・アヘッド』が全面的にフリューゲルホーン、それ以外は全部トランペットだけのはず。

 

 

『ポーギー・アンド・ベス』と『スケッチズ・オヴ・スペイン』は、大学生の頃は、特に真夏の昼間によく聴いていた。まさにピッタリって雰囲気だよねえ。「サマータイム」だけは夜のムードが似合うけど。B面一曲目の「祈り」が、スローなゴスペル風の曲で、アンサンブルもマイルスも素晴しすぎる。

 

 

同じくA面の「ゴーン、ゴーン、ゴーン」も同じ風な祈りを捧げるようなスローなゴスペル風な曲調で、これも大好きなナンバーだった。この曲の前に「ゴーン」というギルのオリジナル・ナンバーが入っていて、聴く限りでは「ゴーン、ゴーン、ゴーン」にインスパイアされて作った曲のように聞える。

 

 

この二曲、タイトルも作風もソックリだから、時々どっちがどっちだったか、分らなくなる。その上、ギル自身のバンドの1980年のNYライヴ『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』では、その「ゴーン」を再演して、「ゴーン、ゴーン、ゴーン」の曲名でで記載されているので、余計に紛らわしい。

 

 

「祈り」でも「ゴーン」でも「ゴーン、ゴーン、ゴーン」でも、誰でも即座に分る露骨なアンサンブルの乱れが聴かれて、ギルの述懐通り、スタジオ使用時間制限のリハーサル不足による準備不足による乱れは、一連のマイルスとのコラボ作の中でも、この『ポーギー・アンド・ベス』が一番ひどい。やや気になる。

 

 

さて、大学生の頃によく聴いた『スケッチズ・オヴ・スペイン』と『ポーギー&ベス』よりも、最近は『マイルス・アヘッド』の方が断然いいと感じるようになり、こっちを頻繁に聴くようになった。一種の軽快さというか、爽快な感じがする。これは僕も歳取ったせいなのかなあ?

 

 

もっともその大好きになった『マイルス・アヘッド』も、「ブルーズ・フォー・パブロ」で始るB面はそれほどでもないような気がする。大好きでたまらないのはA面だね。A面は編集によって一続きのメドレーのようになっていて、組曲みたいな感じで聴けるのもいい。マイルスかギルの意図なのかどうか知らないけど。

 

 

特にたまらなく好きなのが二曲目のレオ・ドリーブ作曲の「カディスの乙女」、四曲目のクルト・ワイル作曲の「マイ・シップ」という二つのスロー・バラード。もうこの上なく美しいよね。1950年代にマイルスが吹いたバラード・ナンバーでは最高の出来だ。ギルのアレンジも見事だというしかない。

 

 

はっきり言ってしまえば、その「カディスの乙女」「マイ・シップ」という二曲の極上のバラードがあるおかげで、僕は『マイルス・アヘッド』が、電化前のアクースティック時代のマイルスでは一番好きなアルバムだと思っているくらい。ハーマン・ミュートで吹くコンボでのバラード作品よりいいと思う。

 

 

コロンビア移籍後の一連のマイルス+ギルのコラボ作品では、これら三作の後に、ライヴ盤の『アット・カーネギー・ホール』と、スタジオ作の『クワイエット・ナイト』があるけど、この二つは個人的にはまあオマケみたいなもんだ。前者のライヴ盤は、一連のコラボ物では一番好きだという人もいるけど。

 

 

『アット・カーネギー・ホール』が一番いいという人は、おそらく全員、「ソー・ホワット」とか「ノー・ブルーズ」とかでのコンボ演奏の素晴しさを指摘しているんだろう。それらは確かに猛烈に素晴しいと僕も思う。だけど、それはあくまでコンボとしていいのであって、ギルとの共演という側面は薄い。

 

 

マイルスとギルとの正式共演は、1968年の「タイム・オヴ・ザ・バラクーダー」「フォーリング・ウォーター」が最後だけど、その後も時々ギル個人はマイルスの録音に関係していて、同じ68年の『キリマンジャロの娘』や83年の『スター・ピープル』や84年の『デコイ』でも、一部でアレンジを書いている。

2015/11/05

日本のロック第一号はザ・スパイダースだ

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日本語ロックの草分ははっぴいえんどだということになっているらしい。昔も今もそういう意見をよく見掛けるし、これはもう一種の「定説」みたいなものになっているみたいだ。しかし、これはどう考えても間違っているとかしか思えない。はっぴいえんど以前に日本語ロックがなかったとでも言うのか?

 

 

誰が言いだしたのか、かなり遅れてきたファンの僕には分らない、この「はっぴいえんど=日本語ロック第一号」説、完全なる誤謬だよね。僕の、そして熱心なファンの考えでは、日本語ロックをはじめたのは、1960年代のグループ・サウンズだ。特に65年のザ・スパイダースこそ、日本語ロック第一号。

 

 

僕は1962年生れなので、60年代後半のグループ・サウンズに同時代的な記憶や思い入れはあまりない。かすかに小学生の頃、親戚の家に遊びに行くと、年上の従兄弟や従姉妹がグループ・サウンズのドーナッツ盤をかけてそれに合わせて歌っていた程度。「ブルー・シャトウ」の替歌はよく憶えている。

 

 

「ブルー・シャトウ」でネットで調べてみると、そのウィキペディア記事に「替え歌」の項まであるくらいだから、相当流行っていたんだろうなあ。これは小学生の頃、親戚の子と一緒に僕もよく歌っていた。でもそれくらいだなあ、同時代的に憶えているのは。ザ・スパイダース等は、なんにも憶えていない。

 

 

でも堺正章とか井上順とかは、その後テレビで大活躍するようになって、そういう姿をよく見ていて、特に井上順はフジテレビの『夜のヒットスタジオ』の司会をやっていて、それに沢田研二がよく出演していて、そうすると井上順は妙に馴れ馴れしいような仲良さげな雰囲気だから、なんだろうなあと思っていた。

 

 

しばらくして井上順や堺正章はザ・スパイダース、沢田研二はザ・タイガース出身で、同時代にグループ・サウンズで活躍した、いわば「同志」のようなものだったということを知った。また、沢田研二のバック・バンドを一時期井上堯之バンドが務めていて、テレビでもそのテロップが出ていたので知っていた。

 

 

井上堯之がザ・スパイダース出身で、PYGで沢田研二と一緒に活動していたことも、後になって知った。そんな具合で僕がテレビの歌謡番組でいろいろ見聴きするようになる1970年代になっても、グループ・サウンズの残滓みたいなものがあったけど、肝心のその音源は全く聴いたがなかったんだなあ。

 

 

グループ・サウンズについてちゃんとした興味を持ち始めるのは、これまた1995年にパソコン通信を始めてから。僕が棲息していたのはNiftyのFROCKL内「ロック・クラシックス会議室」なので、古いロックの話題中心だったけど、アクティヴだったメンバーのなかに、グループ・サウンズや古い日本のロックに詳しい女性がいた。

 

 

その女性がよくグループ・サウンズのことを話題ににするので、それでかなり興味を持ち始め、聴きたいと思うようになったのだった。彼女は日本の古いロックばかりでなく、英米の古いロックにも詳しくて、「前身バンド専門家」などと言っていたけど、シャドウズ・オヴ・ザ・ナイトなども、彼女のおかげで知った。

 

 

その女性のおかげでグループ・サウンズやシャドウズ・オヴ・ザ・ナイトばかりでなく、様々な古い日英米のロックCDを聴くようになって、彼女が常々「日本のロックはグループ・サウンズからはじまったのだ」と口にしていて、いわば僕はその洗脳を受けた(笑)。でもそれが正しいと分ってきたんだなあ。

 

 

もっとも僕は、1995年に新しいマンションに引越した時にアナログ・レコード・プレイヤーを処分してしまっていたので、聴けるのはCDかMDかカセットテープ、というかまあ殆どCDだった。グループ・サウンズの音源はまだまだCD化が進んでいなかったような記憶があるけれど。

 

 

その後いつ頃か忘れたけど、ある時期にザ・スパイダースの全音源が公式にちゃんとした形でCDリイシューされたので、それで一気に全部揃えて、これを聴きまくったんだなあ。それで、ザ・スパイダースこそ日本語ロック第一号だということを強く実感した。

 

 

田邊昭知がザ・スパイダースの前身バンドを結成したのは1961年のことらしいが、堺正章やかまやつひろしが参加したのが63年、井上孝之(堯之)が参加したのが64年だから、その頃にGS期のメンバーが揃って、リヴァプール・サウンドの洗礼も受けて、現在聴けるロック・サウンドになったようだ。

 

 

デビュー・シングルが1965年5月の「フリフリ」。まだ田辺昭知とザ・スパイダース名義だけどね。こんな感じ→ https://www.youtube.com/watch?v=IwuE7VS5x68  これが日本語ロックでなくてなんだと言うのだ?はっぴいえんどがデビューする四年前だぞ。素晴しくカッコイイと思うけどなあ。

 

 

この「フリフリ」は、二枚組CD『ザ・スパイダース・コンプリート・シングルズ』の一曲目だ。同じ1965年発売の三曲目「越楽天ゴー・ゴー」など、雅楽と合体したサイケデリック・サウンドのインストルメンタル・ナンバー→ https://www.youtube.com/watch?v=GJ3KarJn4jQ 65年だからねこれ。

 

 

僕が一番好きなザ・スパイダース・ナンバーが、『コンプリート・シングルズ』26曲目の「バン・バン・バン」で、1967年10月発売(「バン!バン!」表記で『風が泣いている/ザ・スパイダース・アルバムNo.4』に収録されたものが、発売は一ヶ月早いけど)。https://www.youtube.com/watch?v=9l5sPPkUWh8  この曲なんか、僕はもう好きでたまらず、今でも日本語ロックの最高峰の一つだろうと思っているくらいだもん。

 

 

「バン・バン・バン」や、その他多くのロック・ナンバーを書いたのがかまやつひろしで、1965〜70年頃のかまやつの音楽的感性は、日本では図抜けてたようだ。ザ・スパイダースが世間的に大ヒットしたのは、66年発売の浜口庫之助が書いた「夕陽が泣いている」だけど、僕は嫌いではないがあまり好きでもない。

 

 

最近のテレビ番組で、堺正章が、僕は元ザ・スパイダースですよ!代表曲は「夕陽が泣いている」ですよ!と発言していて、まああの曲は(というか浜口庫之助ナンバーは)堺の担当だったし、最大のヒット曲だからそうなるだろうけど、僕はちょっとガッカリした。「バン・バン・バン」こそ代表曲だと僕は思っている。

 

 

「バン・バン・バン」といえば、1990年代のことだと思うけど、『タモリの音楽は世界だ』というテレビ東京の番組にかまやつひろしが出演して、番組のハウス・バンドと一緒にこれを歌ったのが最高にカッコよかったのをよく憶えている。やはりかまやつにとっては、この曲なんだろうなあ。

 

 

大野克夫や井上堯之は、ザ・スパイダース解散後も音楽活動を続けたけど、田邊昭知は芸能事務所の社長になったし、堺正章や井上順は芸能活動を続けているけど、歌手オンリーではない。特に堺正章はなにをやらせても一流にこなす多才な人だから、実に多方面で活躍しているけど、もっと歌ってほしいなあ。

 

 

だって僕の認識では、かまやつひろしが日本初のロック・ライターであるのと同時に、堺正章こそ日本初のロック・シンガーに他ならないと思っているんだけどね。でも御本人にその認識は薄いみたいで、解散後は歌手活動に専念するということにはなっていないので、個人的はちょっぴり残念なんだよね。

 

 

「俺たちのやったことがなかったことにされている」と常々口にしている人もいるけど、ホント、はっぴいえんど=日本初のロック・バンドという都市伝説のような誤謬がはびこって、それ以前に明確に存在していたグループ・サウンズという日本語ロックのパイオニアが評価されないのは、残念極まりない。

2015/11/04

分りやすかったアルバート・アイラー

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大学生の頃大変お世話になったジャズ喫茶のマスター。店をやめてからも、よく自宅に遊びに行っては、レコードをかけながら話をしていたんだけど、ある時彼が、アルバート・アイラーの『スピリチュアル・ユニティ』が理解できなくて、しかしこれが分らないとダメなんだと思って何度も必死で聴いたと告白してくれたことがある。

 

 

店では戦前のSP音源(のLPリイシュー)しか絶対にかけなかった人だから、アルバート・アイラーでそんなに苦労した経験があるというのは、イマイチ想像できていなかった。その人は、僕よりちょうど一廻り上の世代で、だからおそらく1960年代半ば頃にジャズを聴始めたんだろう。

 

 

その頃は、フリー・ジャズもさることながらロックだって流行していたはずだし、実際彼と同世代の方々からは、その頃聴いたいろんなロックの話を聞いたりしたんだけど、その元ジャズ喫茶のマスターからは、ロックの話は聞いたことが一度もない。まあそういう人もいたんだろう。

 

 

ジャズ・ファンだったわけだから、その世代は1960年代のフリー・ジャズがドンピシャなわけで、いろいろと夢中で聴いたんだろう。僕がジャズ喫茶に通い始めた1979年にも、まだその時代の伝説がいろいろと残っていて、特にアイラーやオーネット・コールマンのリスナーに関しては、様々な武勇伝を耳にした。

 

 

そのマスターがやっていたケリーという名前のジャズ喫茶、僕が通い始める少し前に常連だった若い女性のジャズ・ファンで「オーネットとドルフィーこそがジャズなんだ」と常日頃から口にする人もいたらしい。若い女性のドルフィーやオーネット・ファンって少ないね。

 

 

僕はといえば、1979年になってようやくジャズに夢中になったから、60年代のフリー・ジャズ全盛期は当然リアルタイムではなんにも肌で感じているわけがない。時代や社会などとの連動ということも殆ど分ってなくて、ただ単純にレコードから出てくる「音」だけを楽しんでいた。

 

 

そういうわけだから、1960年代のフリー・ジャズに格別な思い入れもなく(僕が同時代的に思い入れのあるのは、70年代半ば〜末のフュージョン)、50年代のハード・バップやその少し後のモード・ジャズなどと、普通に並べて違和感なく聴いていた。もちろん戦前の古いSP音源も大好きだった。

 

 

要するに、1979年にジャズを聴始めた僕にとっては、1920年代のルイ・アームストロングやデューク・エリントンやジェリー・ロール・モートンも、40年代のビバップも、50年代のハード・バップも、60年代のフリー・ジャズも、ぜ〜んぶ同じような種類の音楽としてしか聞えていなかった。

 

 

だから、そのジャズ喫茶マスター(や彼の世代のジャズ・ファンの多く)のように、アルバート・アイラーを、特別な気持で必死になって聴くということもなかったのだ。はっきり言って『スピリチュアル・ユニティ』だって、僕にとっては全然難しくもなんともなかった。むしろかなり分りやすかった。

 

 

書いたように、そのジャズ喫茶マスターが、『スピリチュアル・ユニティ』が難解に聞えて仕方がなかったと告白してくれたもんだから、このアルバムはかなり分りやすかったという僕個人の印象を、彼の前では遠慮して直接言ったことは、今まで一度もない。

 

 

『スピリチュアル・ユニティ』に限らず、他のアイラーの作品も、またそれら以外の1960年代の多くのフリー・ジャズ・アルバムも、1979年にジャズをいろいろと聴始めた僕にとっては、難解に聞えたものはあまりない。ジョン・コルトレーンの『アセンション』だけが、昔はよく分らず、聴き通すのが苦痛だった。

 

 

1965年録音の『アセンション』、似たような趣向のオーネット・コールマン60年録音の『フリー・ジャズ』にインスパイアされたものらしいのだが、後者が最初から心地よく聞えたのに、どうして前者はダメだったんだろうなあ。今ではかなり楽しめるようになって、ジョン・マクラフリンの言うことも少し分る。

 

 

それはともかく、アルバート・アイラーの『スピリチュアル・ユニティ』には、はっきりと聴いて分るカリブ音楽の香りがある。その辺が僕が最初から親しみやすかった原因の一つなのかも。中南米音楽を聴く方なら、納得していただけるはずだけど、なぜか僕は大学生の頃から、それを感じていた。

 

 

『スピリチュアル・ユニティ』の代表曲「ゴースト」(2ヴァージョン)を聴くと、特にアイラーが吹くテーマ・メロディは、これはもうほぼ完全にカリブ音楽だとしか思えないくらいだ。これを(聴く人によっては)難解にしている最大の原因は、おそらくゲイリー・ピーコックのベースなんじゃないかなあ。

 

 

アイラー自身のサックスには、テーマ部分もアドリブ部分も、先祖帰り的なプリミティヴな魅力があって、しかもそれはカリブ風なニュアンスすら帯びていて、大変とっつきやすいものだと僕には聞えるのだが、ゲイリー・ピーコックのベースにはそういう部分が全くなく、抽象的だもん。

 

 

カリブ音楽的なニュアンスといえば、僕はオーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』の合奏部分にも、それをかすかに感じる。これは『スピリチュアル・ユニティ』とは違って、最初大学生の時には全く感じなかったもので、ワールド・ミュージック・リスナーになって以後のことだ。

 

 

オーネットのアルトにもアイラーのテナーにも、ニューオーリンズ音楽的というか、もっと遡ってその先祖たるカリブ音楽的な風味を感じる。実はこれ、大昔から油井正一さんが指摘していて、1960年代のフリー・ジャズのムーヴメント全体が、ニューオーリンズ・ジャズへの先祖帰りだと書いていた。

 

 

このことを、1970年代から理解して指摘していた油井正一さんの耳の鋭さというか慧眼ぶりには、改めて溜息しか出ない。さすがは「ジャズはラテン音楽の一種」と書いた人だ。僕がこのことをはっきりそうだと自覚できるようになったのは、80年代末にワールド・ミュージック・ファンになって、カリブ音楽も少し聴くようになってからだった。

 

 

というわけだから、僕個人の感覚では、1960年代のフリー・ジャズのなかには、ジャズだけを聴いていてもイマイチ理解しきれない部分があるような気がする。オーネットやドン・チェリーなどが、その後、ワールド・ミュージックとの融合的作品で大きな成果を残しているのも、至極当然の成行きなんだよね。

 

 

2015年の今の耳で聴くと、1960年代のオーネットの『ジャズ来たるべきもの』(59年だけど)も『フリー・ジャズ』も『ゴールデン・サークル』も、全然前衛的でもなんでもなく、むしろかなり保守的にすら聞えてくる。発表当時は大きな衝撃だったらしいけどね。

 

 

オーネットの場合は、さっきも書いたように1970年代にワールド・ミュージックに接近した76年の『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』と同年の『ボディ・メタ』、この二つが今の僕にとっては全てだなあ。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアと共演した88年の『ヴァージン・ビューティ』も少し好き。もっとも、一番好きなのは、ジェリー・ガルシアとの共演曲ではなく、アルバム・ラスト曲の無伴奏アルト・ソロだけど。

 

 

チャールズ・ミンガスが、いわゆるフリー・ジャズは新しくもなんともない、チャーリー・パーカーの方が今でもはるかに革新的だと言ったことがあって、これはミンガスがパーカー信者だったせいだろうけど、ある意味、1960年代フリー・ジャズの真実を言当ててはいるよねえ。ミンガスはドルフィーも重用したし。

 

 

そのエリック・ドルフィー。彼は時代も主に1960年代の人だし、コルトレーンやオーネットなどとの共演もいろいろあって、彼らと一緒に並べて、前衛的なジャズマンとされることが多いような気がするけど、ミンガスが重用したことでも分るように、ドルフィーはパーカーをデフォルメしたようなビバップ系の守旧派だ。

2015/11/03

スペンサー・ウィギンズ〜フェイム録音の衝撃

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スペンサー・ウィギンズというソウル歌手を知ったのは、1995年にパソコン通信を始めてからのこと。僕はだいたいソウル・ミュージックについてはかなり疎かったし、今でも特にサザン・ソウルについては疎い。それは基本的にシングル盤の世界だということもあるんだろう。

 

 

大学生の頃にレコードを持っていたサザン・ソウルの歌手はオーティス・レディングだけ。なぜオーティスだけ買っていたのかよく分らないけど、超有名人だから、おそらくなにかで凄い歌手だという文章を見ただけだろう。とはいえ、持っていたのはエンジ色ジャケットの二枚組ベスト盤と、ビートルズ・ナンバーとかも歌っている欧州でのライヴ盤だけだった。

 

 

パソコン通信〜メーリング・リスト時代の知合いに、大阪に住むソウル・コレクターの方がいて、7インチのシングル盤なども非常にたくさん蒐集していた。その方が、フェイム・レーベルのシングル集コンピレイションCDRを焼いて送ってくれたことがあった。まだYouTubeとかはなかった時代。そうでもするしかなかった。

 

 

そのフェイム・シングル集CDRの一曲目がスペンサー・ウィギンズの「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」で、聴いた瞬間に、もうこれ一発で完全にやられてしまったのだった。衝撃だった。今はYouTubeに上がっているから誰でも簡単に聴ける。

 

 

 

「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」は、エタ・ジェイムズのヴァージョン(『テル・ママ』収録)で知っていた曲だったけど、スペンサー・ウィギンズのを聴いたら、そっちの方が圧倒的に好きになってしまった。今でもエタのヴァージョンの方が有名なはず。だってオリジナル録音だから。

 

 

エタのヴァージョンも一応貼っておこう。 エタの方には、さっき貼ったスペンサー・ウィギンズのようなド迫力はない。恋人を失う悲しみをしっとりと歌い上げる感じだ。歌詞の内容からしたら、どっちかというとエタのヴァージョンの方が相応しい歌い方なのかも。

 

 

 

スペンサー・ウィギンズの方は、とにかく出だしの "Something told me it was over" だけで、完全にKOされてしまう。されない人はいないはずだ。心臓を鷲掴みにされてしまう。恋人を眼前で失う悲しみを歌う内容だから、こんなド迫力もどうかという感じではあるけど。

 

 

スペンサー・ウィギンズ・ヴァージョンを最初に聴いた瞬間に、こんな強靱な声の持主は、男性歌手ではサリフ・ケイタとヌスラット・ファテ・アリ・ハーンくらいしか聴いたことがないと思ったくらいだった。それまで僕が聴いていた男性ソウル歌手の中では、圧倒的にナンバーワンだった。

 

 

僕の記憶では、そのスペンサー・ウィギンズの「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」入りフェイム・シングル集CDRを、大阪在住のソウル・コレクターの方が作って送ってくれたのが、1998年か99年だった。瞬間的にノックアウトされ、この歌手の虜になった僕は、CDアルバムがないか探してみた。

 

 

頼りにしたのは、鈴木啓志さん編纂の『US・ブラック・ディスク・ガイド』で、なにかスペンサー・ウィギンズのアルバムが載っていた。今その本が手許にないから、なにが載っていたのか分らないけど、とにかく当時は全く見つからなかったのは確かだ。あの本にはLPも載っていたから、LPだったのだろうか?

 

 

というわけで、CDショップでいくら探してもスペンサー・ウィギンズのアルバムは見つからないので、しばらくは、そのコンピレイションCDRだけが頼りというか、それに入っている「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」だけ聴いていたのだった。はっきり言ってそれ一曲で充分お腹いっぱいになるくらいだったし。

 

 

初めてスペンサー・ウィギンズのCDを買ったのは、2006年に英ケントがリリースした『ザ・ゴールドワックス・イヤーズ』だった。ケントにはそれまでも相当お世話になっていたけど、このCDリリースは嬉しかった。僕はゴールドワックスはジェイムズ・カーのイメージが強かったけど。

 

 

ジェイムズ・カーは、それまでに二枚ほど出ていたCDを買ってよく聴いていた。やはりゴールドワックスの『ユー・ガット・マイ・マインド・メスド・アップ 』とか、同じ頃にやっぱりケントからリイシューされたゴールドワックスのシングル集とか。大変素晴しい内容だった。

 

 

もちろん、そのジェイムズ・カーの二枚のCDアルバムも、ケントのCDリイシューは21世紀になってからだったから、僕みたいにソウル・ミュージック、特にサザン・ソウルを相当遅れて聴始めたリスナーにとっても、待ちに待ったというか、ようやくという感じだった。

 

 

スペンサー・ウィギンズの方は、その『ザ・ゴールドワックス・イヤーズ』が2006年に出たのをすぐに買って愛聴したわけだけど、僕の大好きなフェイムの音源はやっぱりCDリイシューされないから、悔しいというか残念というか、まあしょうがないんだろうなと、半ば諦め気分だった。

 

 

その頃には、サザン・ソウルが基本的にシングル盤中心の世界だということが分っていたし、一部の有名歌手以外は、なかなかそういうシングル曲をまとめてCDリイシューされていないことも知っていた。フェイムとかゴールドワックスとかのシングル盤蒐集というのも、僕みたいな他人頼みの甘ったれたソウル・リスナーには、しんどい。

 

 

スペンサー・ウィギンズのフェイム録音集は、ちゃんとしたCDリイシューを殆ど諦めていたんだけど、それだけに、そのスペンサー・ウィギンズのフェイム集が、これまたケントからまとめてCDリイシューされるというニュースを耳にした時は、跳上がるほど喜んだ。もうこれ以上の喜びはなかったね。狂喜乱舞とはあの時のこと。

 

 

それがわずか五年前の2010年のこと。『フィード・ザ・フレイム:フェイム&XL・レコーディングズ』。一度聴いて以来大好きでたまらない「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」も当然入っていて、ソウル系のCDリイシューで、これほど待望み、嬉しかったものはない。

 

 

「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」も、今まではシングル盤起しのCDRで聴いていたから、当然ながらスクラッチ・ノイズが入っていた。僕は古いSP盤起しのジャズやブルーズも好んでたくさん聴くから、それは全然気にはならなかったんだけど、ケントのリイシューCDは、もちろんオリジナル通りの迫力ある音だ。

 

 

それで、個人的な意見では、サザン・ソウル最高の男性歌手だと思い始めていたスペンサー・ウィギンズの全盛期録音シングル集を、ゴールドワックスとフェイムの二つ、どっちも揃って英ケントから、ちゃんとした形でしっかりとCDリイシューされて、大満足。本当にケント様々だね。

 

 

スペンサー・ウィギンズの音源って、上記のどっちも英ケントからのリイシュー『ザ・ゴールドワックス・イヤーズ』と『フィード・ザ・フレイム』の二枚のCDで全部なのだろうか?どなたか詳しい方、教えてください!

2015/11/02

最初に買った洋楽レコード〜ビリー・ジョエル

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僕が自覚的にレコードを買って聴いて、好きになった最初の洋楽歌手は、何を隠そうビリー・ジョエル(とレッド・ツェッペリン)だった。高校一年か二年の頃。以前ツェッペリンのことは少し書いたけど、実はビリー・ジョエルの方が少しだけ早かった。

 

 

高一か高二というのはかなり遅いよね。それ以前の小・中学生の頃は、主にテレビの歌謡番組で見聴きした歌手、山本リンダの「どうにもとまらない」が小六の時の僕のハジレコだったことは以前も書いたけど、沢田研二や山口百恵やキャンディーズとか、テレビでよく見て好きで、ドーナッツ盤も買ってはいた。

 

 

洋楽では、ビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』を最初に買って、それで大好きになったんだけど、あのアルバム、当時は分っていなかったけど、結構ジャジーだ。だいたいアルバム・タイトルがジャズの街のことだし、ゲストで一曲フレディ・ハバードが吹いていたりするしなあ。

 

 

あの『ニューヨーク52番街』がレコーディング/リリースされた1978年というのは、フュージョン全盛期だったから。フレディ・ハバードも、もっと前からCTIなどにフュージョン系のアルバムをいろいろと吹込んでいた。ヴァイブのマイク・マイニエリが入っている曲もあるし。

 

 

生粋のニューヨーカー(であることは、もうしばらく後になって知ったことだったけど)のビリー・ジョエルも、1970年代半ばの、ニューヨークなどでも吹き荒れていたフュージョン・ブームに乗っかって、という言い方が悪いならば、インスパイアされて、おそらくああいうアルバムを作ったんじゃないかなあ。

 

 

もっとも、その頃僕はまだジャズやフュージョンを全く聴いていない。それらを熱心に聴始めるのは、その二年後くらいで、高一か高二の時にビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』を聴いた時も、当時好きだったのは、ジャズ〜フュージョン風の曲ではない。好きだったのは「オネスティ」や「マイ・ライフ」。

 

 

最初レコードを買う前に、ラジオの洋楽番組、多分ヒット・パレードみたいな流行の曲を流すような番組で、「オネスティ」や「マイ・ライフ」を聴いて好きになって、それでレコードがほしいと思って、レコード屋に行ったんだろうなあ。その頃は試し聴きというのは、そういうやり方しかなかった。

 

 

その頃は、サウンドよりも、なにより「オネスティ」や「マイ・ライフ」の歌詞の内容に共感していたのだった。今考えたら、なんでもないというかどうってことないアホみたいな歌詞だけど、当時はかなり真剣に受止めていたんだよなあ。

 

 

だから、歌詞内容よりサウンドが断然面白いB面は、高校生の頃はイマイチ好きじゃなかった。今聴くと、B面の「スティレット」や「ロザリンダの瞳」などの、ちょっとラテンな雰囲気の曲調が、断然面白い。特に「ロザリンダの瞳」は、マイク・マイニエリのヴァイヴやラテン・パーカッションも入っているし、ナイロン弦ギターも聞える。

 

 

さらにB面ラストのアルバム・タイトル曲では、ジャズの街という曲名そのままに、微かにだけどディキシーランド・ジャズの香りがして、実際クラリネットなども入っているし、三分もない短い曲だけど、今ではなかなかのお気に入りになっている。このアルバムの締め括りに相応しいナンバーだ。

 

 

ジャズを聴始めた頃に好きで繰返し聴いていた、A面ラストの「ザンジバル」。なぜ好きかというとフレディ・ハバードのトランペット・ソロが入っているせいなんだけど、今ではこれはあまり面白いとは感じなくなった。ハバード本人にしても、当時たくさんこなしていたセッションの一つに過ぎなかったんだろう。

 

 

そういうわけで、今たまに取りだして聴くといろんな感想があるビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』だけど、高校生の時にとにかく大好きにはなったので、その後、それ以前のレコードも買って聴くようになった。前作『ストレンジャー』で大成功した歌手だということも知った。

 

 

余談だけど、ボクサー・グローブが映っている『ストレンジャー』のジャケットは、当時観て好きだった映画『ロッキー』のイメージと完全に重なっている。『ロッキー』が1976年で、『ストレンジャー』が1977年だから、ビリー・ジョエルと彼の制作スタッフ側が、間違いなく意識したんだろう。

 

 

『ストレンジャー』からは、アルバム・タイトル曲と「素顔のままで」があまりにも有名で、特に後者には、僕も好きなジャズ・アルト・サックス奏者のフィル・ウッズのソロが入っていて、お気に入りだ。多分ジャズ・ファン以外の一般の音楽リスナーにとっては、一番有名なフィル・ウッズの演奏。

 

 

だけど、僕はあのアルバムで一番好きなのは、「素顔のままで」よりも、むしろA面ラストのやや長め(約七分)の「イタリアン・レストランにて」だったりする。まあこっちにもジャズっぽいサックスやクラリネットの演奏が入っているけど、それよりテンポ・チェンジのあるドラマティックな曲展開が好き。

 

 

もちろん『ストレンジャー』や『ニューヨーク52番街』といった、成功後のビリー・ジョエルだけではなく、それ以前の不遇を託っていた頃のレコードもほぼ全部買って聴いていたけど、第一作目の『コールド・スプリング・ハーバー』だけが廃盤で入手できず。これは大学四年生の時に復刻LPが出た。

 

 

1971年作の『コールド・スプリング・ハーバー』は、ファミリー・プロダクションズという会社から出たもので、全く売れずすぐに廃盤になって、幻の作品のように言われていた。このアルバムの権利を、成功後のビリー・ジョエルの所属会社だったコロンビアが買取って復刻したのが1983年。

 

 

だからその次の、大手コロンビアでの1973年第一作『ピアノ・マン』が、実質的にはビリー・ジョエルのデビュー・アルバムのように扱われていた。これは昔から普通にレコードが買えた。その次の74年『ストリートライフ・セレナーデ』(この頃はニューヨークではなくロサンジェルス時代)とかも。

 

 

そのロサンジェルス時代の『ストリートライフ・セレナーデ』は、案外好きなアルバムで、アルバム・ジャケットもいいし、それに特に九曲目の「スーヴニア」が、これはもうたまらなく美しいバラードで、二分ほどの短い曲だけど、彼の書いたバラードでは今でも一番好きで、よく聴くんだなあ。

 

 

 

切なく美しいよねえ。この曲、ビリー・ジョエル自身もお気に入りの曲で、成功してからも一時期ずっとライヴのエンディング曲として演奏していたらしい。僕は彼のライヴに行ったことも、ライヴ盤を聴いたこともないんだけど、ピッタリだよね。

 

 

売れる前でも、ニューヨークに戻ってからの次作『ニューヨーク物語(Turnstiles)』は、素晴しい作品。これに入っている名曲「ニューヨークの想い」は、おそらくビリー・ジョエルのオリジナル・ナンバーの中で、最も多くカヴァーされている曲じゃないかと思う。

 

 

この次の『ストレンジャー』で、初めてプロデューサーのフィル・ラモーンと組んで大ブレイクして人気歌手になるわけだけど、それ以後のアルバムも、1983年の『イノセント・マン』までは、1981年のライヴ盤『ソングズ・イン・ジ・アティック』を除き、全部買って聴いていた。

 

 

その間、1980年の『グラス・ハウス』とか82年の『ナイロン・カーテン』とかは、レコードが出た当初は繰返し聴いていたけど、その後はあまり聴かなくなった。だけどその次の83年『イノセント・マン』、これがドゥーワップやR&B等、黒人音楽へのオマージュ・アルバムで、今でも大好きで聴くアルバムだ。

 

 

『イノセント・マン』が出た1983年(大学四年)には、既にいろんな米国ブラック・ミュージックを聴いていたから、あのアルバムの面白さも一回聴いて即座に理解できた。今でもアルバム丸ごと聴くビリー・ジョエルのCDは、これだけ。この「ディス・ナイト」が一番いい。

 

 

 

この曲の歌詞、特に "How many nights have I been thinking about you" という部分には、僕の当時の個人的経験が重なっていて、涙が出た。今でもこの曲を聴いてこの部分になると、それが蘇ってなんとも言えない気分になるんだけど、これは記事の本題には関係ない(恥)。

 

 

『イノセント・マン』には、ビリー・ジョエル自身が書いた解説が付いていて、このアルバムを作る際に意識し、収録曲に影響を与えた歌手として、ジェイムズ・ブラウン、ベン・E・キング、シュープリームス、マーサ&ザ・ヴァンデラス、フォー・シーズンズ、サム・クックなどの名前を挙げているんだよね。

2015/11/01

世界中にあるモーダル・ミュージック

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僕より数歳年上のあるロック・ファンが、大学生の頃にジャズ・ファンから「ジャズにはモード奏法とかいろいろあってさぁ」みたいなことを言われたらしく、それ以来ジャズ(・ファン)にはちょっと引け目を感じているんだと話してくれたことがあった。

 

 

その話を聞いたのは15年くらい前だったから、おかしなことを言うジャズ・ファンがいたもんだと思ったけど、僕もその人のことをあまり笑えない。ジャズのレコードばかり買っていた大学生の頃は、僕も少し似たような考えを持っていたからだ。ジャズはロックなどより上等とまで言わなくても、なんかちょっとした優越感みたいなものに浸っていたことは確かなことなのだ。

 

 

その頃は、モードについても全く分っていなかった。もちろん今でもよく理解しているとは言えないけれど、ちょっとだけ勉強した。モードに基づく音楽作りは、別にモダン・ジャズの専売特許でもなんでもない。ロックにだってモーダルなものはたくさんあるし、そもそもモードとはスケールのことだ。

 

 

スケールによる音作りだと言えば、ブルーズだってスケール・ミュージックだ。ブルーズ・スケールって、だいたいメジャー・スケール(長調)でも短調みたいな響きがするというか、どっちなのか分りにくくなることがあるけど、そもそも長調/短調という区別が西洋和声のものだから、当然だね。

 

 

ジャズにおけるモード奏法を確立したということになっているマイルス・デイヴィスの1959年『カインド・オヴ・ブルー』は、全五曲のうち、モード・ナンバーが二曲、ブルーズ・ナンバーが二曲なのも、今となっては大変分りやすいというか、モード(スケール)のなんたるかを明確に示しているような気がする。

 

 

モード(スケール、旋法)を使った音楽というのは、もちろん世界中にあって、世界の民俗音楽と、それに基づく大衆音楽の世界を見渡すと、コーダルな音楽よりモーダルな音楽の方が支配的なんじゃないだろうか。僕が大好きでよく聴いているアラブ音楽もそうで、それにはマカームという旋法体系がある。

 

 

一概に「アラブ音楽におけるマカーム」と言っても、地域によってかなり違うようだ。東アラブ音楽と西アラブ音楽(アラブ・アンダルース音楽)では、旋法体系が異なるし、またその中で国によっても多少システムが異なるらしい。普段はあまりそういうことを意識しながら聴いているわけでもないけど。

 

 

それでも同じような調性感が存在するのは確かで、それだから、アラブ音楽というアイデンティティを、素人リスナーの僕でも感じることができるわけだ。そして同じようなものがトルコ音楽にもあって、トルコ古典音楽における旋法体系もマカームと呼ぶようだ。アラブのマカームと似ているみたい。

 

 

トルコ古典音楽を聴くと、アラブ古典音楽と似たような感触を感じるのも、旋法体系が似通っているせいなんだろう。長らく同一帝国領内の地域として、アラブもトルコも存在したため、おそらく音楽を含め、文化の交流がかなり活発だっただろうことは、想像に難くない。ほぼ同一音楽文化圏と言ってもいいはず。

 

 

そしてイラン古典音楽や、その影響下のアゼルバイジャン古典音楽にも、アラブやトルコのマカームと共通する旋法体系があって、イランではラディーフ、アゼルバイジャンではムガームと呼ばれる。どれも「マカーム」の異称に他ならない。さらにそれらは、インド音楽のラーガとも繋がっているらしい。

 

 

そう考えると、こと旋法体系だけで見たら(他の面でもそうだけど)、北アフリカからアラブ〜トルコ〜イラン〜アゼルバイジャン〜インドなど、その辺は全部ズルズルと繋がっているよねえ。だからどんどん芋蔓式に興味が湧いて、一ヶ国だけ聴いていて満足するということにならない。

 

 

そんな具合にいろいろと聴くようになった最近になってようやく、僕は大学生時代のジャズ優越思想から脱却できた気がするんだなあ。「ジャズはモード奏法とかあって(高級?)」と発言した件の人物を笑えない過去の自分ではあるけど、それがどう間違っているかは、最近になってやっとちょっぴり分ってきた。

 

 

そして、最近ジャズを聴始めたリスナーやこれから入門するリスナーには、モード(スケール)について、理解を深めてもらって、どうかロックや世界中の大衆音楽を見下したりすることのないようにと願うばかり。今ではモードによる音作りがモダン・ジャズだけのものだと思ってる人は、殆どいないとは思うけど。

 

 

ところで、一説によると、クラシック音楽でモード(スケール)を使った曲作りは、クロード・ドビュッシー(1862〜1918)が初めてらしいけど、本当なのだろうか?大衆音楽で頻用される、ペンタトニック・スケール(五音音階)を使ったのも、彼が初めてだとかいう話だけど、どうなんだろう?

 

 

また、これも大衆音楽でも多用される7thコードなどは、かなり前から既に聴ける(非和声音だけど)けど、9th、11th、13thといった、いわゆるテンション・ノートと言われる和声を初めて使ったのも、ドビュッシーだとか。そういった和声拡張の一端として、モードの探求もあったのか?

 

 

7thのコードなんかは、これを使わないと、大衆音楽でも、曲作りも演奏もできないけれど、テンション・ノートでも、9thとかは、ドビュッシーよりももっとだいぶ前から普通に聴ける気がするんだけどなあ。どうなんだろうなあ?

 

 

いずれにしても、ドビュッシーなど印象派作曲家の和声使用法が、ジャズ、特にモダン・ジャズのコードやモードに強い影響を与えたのは、どうやら確かなことらしいけど、僕はクラシック音楽については全く分っていないので、はっきりしたことは言えない。どなたか詳しい方、教えて下さい!

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