ブルーズはフォーマットじゃない、フィーリングだ
八代亜紀の新作ブルーズ・アルバムが少し話題になっている。テレビでも頻繁に取上げられているし、そうでなくても、中学生の時に「なみだ恋」をテレビで歌うのを聴いて以来彼女のファンなのだ。大学生の頃に出た「舟歌」や「雨の慕情」は、今でも愛聴曲。
僕も大学生の頃は、12小節(あるいは24小節など)で、3コードのブルーズ進行のものが「ブルーズ」なんだと信じていて、だから淡谷のり子の「別れのブルース」とか美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」とかは、全然そうなっていないから、こういうのはブルーズなんかじゃないだろうと思っていた。
その頃は、そういう形式というかフォーマット(12小節で3コード等のブルーズ進行)によらないと、ブルーズというもののアイデンティティを理解することができなかったわけだ。もっとも大学生の頃から、ベシー・スミスとかのクラシック・ブルーズが好きで、それには12小節じゃないのも結構あるけど。
そういうベシー・スミスの8小節ブルーズなどもブルーズだと認識できていたのは、コード進行が12小節形式のブルーズ進行と似通っていたからだろうなあ。でもそういうものは、いわば例外作品なんだと思っていて、当時から大好きだったB.B. キングなどは、形式通りのものが殆どだったような。
ブルーズ進行といっても、大学生の頃に聴きまくっていたジャズマンによるブルーズ演奏では、結構いろんな代理コードを使っている。当時はブルーズマンによるプリミティヴな3コードのブルーズより、ジャズマンのやるそういうちょっと洗練された(と感じていた)ブルーズの方が好きだった。
ブルーズ進行の代理コードでちょっと思い出したけど、これも大学生の頃に二枚組LPを買って聴いて大好きだったオールマン・ブラザーズの例のフィルモア・ライヴ。あれに「ストーミー・マンデイ」があって、ブルーズ曲なんだけど、コード進行が途中ちょっと変っている。いわゆるストマン進行。
そういう、洗練された都会風のブルーズが好きだった。だから、その「ストーミー・マンデイ」のオリジネイターであるT-ボーン・ウォーカーなんかも、ブルーズを本格的に聴始めてすぐに大好きになった。カヴァーしているオールマン・ブラザーズは、どっちかというと泥臭いブルーズ・ロックだと思うんだけどね。
なお、オールマン・ブラザーズの例のフィルモア・ライヴ二枚組を聴いた人全員がいきなりノックアウトされる、一曲目の「ステイツボロ・ブルーズ」。これはブライド・ウィリー・マクテルの1928年録音がオリジナルの古いブルーズ曲。でも、みんなオールマン・ブラザーズのヴァージョンで知っていた。あれでみんなデュエインのスライドに惚れる。
まあジャズにもロックにもブルーズ形式の曲は物凄く多くて、プレイヤーならもちろん、ブルーズが分らないジャズ・リスナー、ロック・リスナーってのは存在しないんじゃないかと思うくらい、ジャズやロックの土台になっている。そういうわけだから、当然僕も高校生の頃からブルーズ曲は大好きだった。
だから、最初に書いたように、日本の歌謡曲に古くからある「なんちゃらブルース」という曲名のものの殆どが、形式はブルーズでもなんでないから、どうしてブルースという言葉が曲名に入っているのも分らなかったし、はっきり言って鼻で笑っていたのだった。この考えが変るようになったのは、結構最近。
本格的にアメリカ黒人のブルーズ・ミュージックを聴始めると、そこでは12小節3コードのブルーズ形式というのが、スタンダードでもなんでもないことが、徐々に分り始めてくる。ブルーズの権化というか神様的存在であるマディ・ウォーターズに「マニッシュ・ボーイ」という曲がある。
これ→ https://www.youtube.com/watch?v=x8LesTvNuaw 聴くと分るけど、これはコードが全く変らないワン・コード・ブルーズなのだ。マディの最も有名なブルーズ・ナンバーの一つなのに、3コードではない。これはローリング・ストーンズのカヴァー→ https://www.youtube.com/watch?v=XyHYE4G7Rhw
そして、いろいろ聴くようになると、特にギター弾き語りのカントリー・ブルーズに、こういうワン・コードのブルーズが結構あることを知り、あるいはツー・コードとか、また小節数も、バンドではなく自分一人で弾き語っているのだから実に融通無碍で、伸びたり縮んだりしているものが結構あるんだなあ。
マディ・ウォーターズのやるブルーズが、シカゴ・ブルーズのバンド・スタイルのものが多いのに、それでも結構柔軟なのは、マディが元々デルタ地域出身のギター弾き語りによるカントリー・ブルーズマンとして出発した人だったのが、大きな要因だったんだろう。
テキサス州ヒューストン出身で、第二次大戦後に活躍したギター弾き語りのブルーズマン、ライトニン・ホプキンスなんかも、その辺が相当柔軟というか融通無碍で、12小節3コードのブルーズ進行というフォーマットにこだわっていると、はっきり言ってむちゃくちゃな感じにしか聞えないだろう。
ジョン・リー・フッカーなども、どれもワン・コード・ブギばっかりで、小節数もないような感じだ。マイルス・デイヴィスと「共演」したサントラ盤『ホット・スポット』について、中山康樹さんが、ギター鳴らして唸っているだけだから僕でもできそうと書いたことがあって、それで中山さんはブルーズのことが分っていないとバレてしまった。あのアルバム、マイルスなんかより、ジョン・リー・フッカーの方が黒々としていて、はるかに魅力的なのに。
だんだんブルーズというものはフォーマットで認識されるものではなく、ブルーズ・フィーリングとでも言うしかない一種の感覚でしか把握できないものなのではないかと思い始めるようになった。この「ブルーズ・フィーリング」というものを言葉で具体的に説明することは、かなり難しい。
マイルス・デイヴィスも、ブルーズというものはフィーリングなんだ、感じて、ただ演奏するだけなんだ、とよく語っている。大学生の頃に初めてこのマイルスの言葉を読んだ時は、まあはっきり言ってなんのことやらサッパリ分らなかった。今では、まさにこの言葉の通りと心の底から納得している。
僕もいつ頃からだったか、ブルーズ・フィーリングというものが少しずつ分り始めてくると、ブルーズ形式の曲だけでなく、実にいろんな音楽にこのブルーズ・フィーリングを感じることができるようになってきた。フォーマットとしてはブルーズが少ないソウルやファンクなどもそうだ。
ジャズ系の音楽家が創った音楽でも、例えばさっき名前を出したマイルスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」や、『ビッチズ・ブルー』一枚目B面のタイトル・ナンバーや、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」などもブルーズだね。
「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」に強いブルーズ・フィーリングを感じるというか、これはブルーズそのものじゃないのかというのは、"blues" というこの言葉本来の意味に沿った解釈であるはずだ。憂鬱(ブルー)な気分を表現するものがブルーズなんだから、このエリントン追悼曲がブルーズなのは当然。
そうなってくると、憂鬱な感じを表現したような曲は、これ、全部ブルーズだろう(というのも解釈をちょっと広げすぎかもしれないが)と考えると、淡谷のり子の「別れのブルース」も美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」も、当然ながら広義のブルーズなのだ。全然間違いなんかじゃないしおかしくもないんだ。
ロックでも、ジェフ・ベック・グループのファーストや、レッド・ツェッペリンのファーストみたいな露骨なブルーズ・ロックよりも、ストーンズでも、もろブルーズ・トリビュート・アルバムな『ベガーズ・バンケット』よりも、『メイン・ストリートのならず者』が、最高のブルーズ・アルバムだと思うようになった。
エリック・クラプトンだって、近年の『フロム・ザ・クレイドル』やロバート・ジョンスン集みたいなものよりも、形式としてのブルーズ曲は少ないデレク&ザ・ドミノスの『レイラ』なんかの方が、はるかに言葉本来の意味でのブルーズ・アルバムだろう。その意味では近年のクラプトンにはブルーズを感じないんだよね。
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