不可解だったギルのバンド操縦法
二日続けてギル・エヴァンスの話題で申し訳ないけど、僕は一度だけギルのバンドを生で聴いたことがある。1983年5月の大阪フェスティバル・ホール。一部がマイルス・デイヴィス・バンド、二部がギルのバンドという構成で、二晩続けてコンサートがあった。その時、僕は大学四年生だった。
当時僕は松山に住んでいたけど、マイルスのライヴを目当に大阪まで行ったというわけ。ギルのライヴは、まあ言ってみれば、マイルスのついででしかなかった。でも1983年当時には、マイルスとギルが音楽的に双子関係にあることは分っていたから、ついでとはいえ、ギルのライヴもまあまあ楽しみにしていた。
1983年5月のマイルスといえば、『スター・ピープル』をリリースした直後で、ライヴもそのアルバムからのレパートリーが中心だった。ギターがマイク・スターンとジョン・スコフィールドの二人体制で、ライヴを見た限りでは、マイルスはどっちかというと、マイク・スターンの方を信頼している感じだった。
ライヴの中身も素晴しかった。特に、二日ともラスト・ナンバーだった「ジャン・ピエール」におけるマイルスのソロが、1981年の来日公演(そこでもラスト・ナンバー)とは全く違って、スパニッシュ・スケールを駆使した、まさに『スケッチズ・オヴ・スペイン』の世界を地で行くみたいな、素晴しいものだったのをよく憶えている。
しかし、僕にとっての収穫は、どっちかというと「ついで」のつもりのギルのバンドのライヴの方だった。ギルも何度も来日しているけど、生で聴いたのは僕はこの1983年だけ。この時のバンドには、常連のルー・ソロフやピート・レヴィンをはじめ、半ば常連のビリー・コブハムや、その他ハイラム・ブロックなど。
見事な完成品だった一部のマイルス・バンドに比べて、二部のギルのバンドは、言ってみれば「音の実験室」を目の当りにするといった趣で、だから当然ながら多くの観客にとっては退屈だったようだ。現にマイルスの時は満員だった客席も、ギルになってしばらくすると、途中でどんどん帰り始めた。
もちろん、ギルのバンドを楽しんで聴く客もいて、特にギターのハイラム・ブロックは大阪生れ。そのことを観客も知っているようで、呼応するようにハイラムも客席を練歩きながら弾きまくり、大いに湧かせたのだった。まあでも一般の多くの観客への見せ場はそれくらいで、あとはほぼ退屈だっただろう。
しかし、僕にとってはステージの様子を見ながら音を聴いていると、ギルのバンドがライヴでどうやって音を創っていくのかが少し分って面白かったのだ。例えば最初と最後のテーマ吹奏なども、始めるタイミングが決っておらず、それすら自然発生に任せていた。ビッグ・バンドでそれはちょっと考えられない。
それを知って、改めてギルのライヴ盤を聴直してみると、確かにこれはキューもなにも出ていないんだなということが分る。だから、一人先走って音を出してしまい、すぐに引っ込めるトランペッターがいたりするのが聞える。しかし、ビッグ・バンド(といっても10人ちょっとくらいだけど)なのに、不思議だった。
また、誰かがソロを取っている時に、そのバックでホーン・リフが聞えることがレコードでもあるけど、それもあらかじめ決められているものではなく、演奏途中で誰かがフレーズを思い付いたら、それを周囲の仲間に音で吹いて知らせて、それでせ〜の!でやり始めるという具合だった。ではギルはなにを書いていたのか?
また、これはレコードだけ聴いていてもよく分ることだったけど、ソロの途中だろうとどんな時だろうと、メンバー全員がギルがピアノで弾くフレーズを非常によく聴いていて、いつでもそれに即応していた。前述の伴奏のホーン・リフも、ギルがピアノで弾いた音から思い付くということが多かった。
アドリブ・ソロのフレーズだって、ギルが弾いたフレーズをきっかけに変化していく。ギターのハイラム・ブロックみたいに観客席を練歩きながら弾いていても、そうだった。そんな風に見ていくと、ギルのアレンジ譜面というのがどういうものなのか、リハーサルでどんな指示をしているのか、よく分らない。
一応、バンド・スタンドに座っているメンバーの前には譜面台があって、譜面が置かれているようではあったけれど、ちょっと見た感じでは、譜面を見ながら演奏しているメンバーはいなかった。また、ピアノの前に座って弾いているギル当人の前には、一切譜面が置かれていなかった。一体、どうなっていたんだ?
武満徹が、大ファンのデューク・エリントン楽団を生で見聴きしても、御大がどうやってバンドを操縦しているのかサッパリ分らず不思議でたまらなかったと言ったらしいけど、武満ですらそうなんだから、僕みたいなど素人リスナーに、ギルのバンド操縦法が分るわけもないんだけどね。
ギルは、レコードによっては「コンダクター」と書いてあるものもあるけど、少なくとも僕が見た1983年のステージでは、仕草でバンドを指揮する様子は一切なかった。なにかを指示したい時は、全てピアノを弾いて音で知らせていた。アルバムによっては、指揮でもしているような写真が載っているけど。
そんな感じで、生で見て初めて分ったことも多かったギルのライヴだけど、ますます分らなくなることも多かったのだった。でもそんな感じのライヴが一般の観客ウケするわけはない。ギルもジャコ・パストリアスと一緒に来日した1984年には、もっと分りやすい音楽をやっていた。生では聴いていないけど。
そういうところは、本人の発言とは裏腹に一流のエンターテイナーでもあったマイルスとは大違いだったなあ。ギルには、客を楽しませるとかそんな気持はさらさらないようにしか見えなかったもん。だから客は途中でどんどん帰って行った。僕はギルの音の秘密の一端を垣間見た気がして、凄く楽しかったけど。
ついでに書くと、その大阪でのマイルスとギルの二日連続のコンサート、二日目がマイルスの誕生日(5/26)で、開演前のアナウンスで、終演後にバンドが「ハッピー・バースデイ」を演奏することになっているから、みなさんも一緒に歌って下さいとあった。それはマイルス本人には内緒にしてあると言っていた。
いざその時になると、バンドが演奏したのはこれまた実にファンクな「ハッピー・バースデイ」だったから、大半の客は合わせて歌うことなどできなかった(苦笑)。舞台袖からケーキも運ばれてきて、マイルスも照れた笑顔でペロッと舐めて見せた。二部の出番を待っていたギルや旧友のビリー・コブハムらも袖から出てきてマイルスとハグし合い、客席も大いに盛上がったのだった。
マイルスの方が興行的にはビッグな存在だから、彼のバンドが二部の方がギルにとってもよかったはずなのに、どうして逆だったのかというと、マイルスは出番を待つのが大嫌いで、現場に到着したらそのままステージに直行したいという人なので、この要望が通る時はどんなコンサートでも一番手だったのだ。これは1983年当時は全く知らなかった。
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