辺境音楽??
14年ほど前、ネット上でるーべん(佐野ひろし)さんが、ブラジルやアフリカの音楽を「辺境音楽の面白さ」と表現し、僕はそれにかなりカチンと来て、音楽大国ブラジルを辺境とはおかしいだろうとか、中心か辺境かは視点の置き方次第で自在に変るのであって、見方次第でセネガルだって「中心」になると反論した。
そうしたら、るーべんさんからは「出た!とうよう節!」と言われ、僕の場合、これは大学生の時にレヴィ・ストロースや山口昌男やそれを転用した大江健三郎の小説『同時代ゲーム』などから学んだもので、それを思い出して音楽論に応用しただけで、中村とうようさんはなんの関係なかったのだった。
だから僕は一層頭に来て、るーべんさんと大喧嘩になり、ネット上の他のメンバーからは呆れられ、るーべんさんとも(僕のなかでは)これが遠因になって仲が悪くなり仲違いし、結局1995年のパソコン通信<ロック・クラシックス会議室>以来続いていた音楽仲間集団も、霧散してしまうことになった。
『レコード・コレクターズ』では、その当時も現在も、アメリカ黒人音楽と、それがベースになっている米英ロックの記事オンリーのるーべんさんだけど、それ以外の音楽、なかでもワールド・ミュージックを聴いていないとか、面白さが分っていないとかいうわけでは全然ない。かなり話題にしていたし。
僕などがワールド・ミュージック関連の話題を持出すと、時々絡んでくれていたし、自分からも、アフリカものだと、マヌ・ディバンゴが最高だとか、ショナ族のムビラの話題とか、ブラジルものだと、ピシンギーニャやジャコー・ド・バンドリンなどの古いショーロの話題も、盛んに取上げて面白いと言っていた。
ただ、やはりアメリカ合衆国こそがマーケット的には世界最大の音楽の「中心地」であるという意識がるーべんさんからは抜けなかったようで、マーケット的な意味合いだけならこれは非常に正しいんだろう。しかし中身の音楽の本質を「中心/辺境」という二項対立で考えるのには、僕は大反対だったのだ。
るーべんさんはビョークの大ファンでもあって、当時いろんな人に彼女のアルバムを薦めていたんだけど、彼女の出身地であるアイスランドを「氷と火山の国」と表現していて、そういうステレオタイプに凝り固まった表現はよした方がいいのでは?と僕が言うと、いや、一般の多くのファンにはそうなんだと。
アフリカ音楽なんかでも、「一般の」多くの音楽ファンが抱くイメージは、太鼓がドンドンと鳴って人が叫ぶようなものだろうと発言していた。『ショナ族のムビラ』なども愛聴盤だったらしいから、るーべんさん自身の考えではなく、世論を代弁したということだったんだろうけど、それでもちょっとなあ。「未開」「野蛮」「土人」といった、かつての欧州列強による植民地主義根性そのものじゃないかと思うんだけど。
もちろんアフリカの音楽には、打楽器が派手に鳴り響くものが結構あるけど、僕に言わせたら、米英ロックやジャズ系音楽のドラムセットの出す音の方が、はるかに派手でうるさいような気がするけどなあ。そもそもドラムセットは19世紀末の発明で、これを使っている大衆音楽の方が伝統的に見たら少ない。
ラテン音楽でも、割と最近までドラムセットは使っていなかった。後半のモントゥーノ部分がアフリカ的なキューバのソンでも、ボンゴくらいしか打楽器はないし、その他の中南米音楽でも1970年代くらいまでドラムセットを使っているものはかなり少ない。使うようになったのは米国音楽の影響だ。
米国音楽の影響という意味では、アフリカ音楽でも、あるいはその他世界中の大衆音楽でドラムセットが入り始めるのも、これは全部アメリカ大衆音楽の拡散力によるものだろう。今ではトラディショナルなスタイルでやるような音楽以外は、だいたいみんな使っている。ここ最近は打込みの場合が多いけど。
それほどアメリカ大衆音楽(と西洋近代音楽の和声体系)の影響力は絶大だから、るーべんさんだけじゃなくいろんな方々が、アメリカ合衆国を視点の中心に据えて、他国のものの面白さを「辺境音楽」だから面白いと発言するのには、全く根拠のないことではないし、僕も理解できないわけではないのだが。
例えば、先に触れたるーべんさんも大好きなビョークは、普通のドラムセットを使っているものは、ごく初期を除けば殆どない。ドラムセットのような音を出しているのは、だいたい全部コンピューターによるもので、しかもそのデジタルなドラムス・サウンドすらそんなに多くは使っていない。ギターだってそうだ。
ビョークはエレキ・ギターが大嫌いらしい。その理由を語っているのをなにか読んだような気がするけど、忘れてしまった。とにかくスタジオ・アルバムでもライヴ・アルバムでも、僕の聴いた限りでは、エレキ・ギターは一瞬たりとも出てこないし、ほんのちょっぴり聞えるのも、ナイロン弦のアクースティック・ギターだ(それもギターで出しているのではないかもしれない)。
ビョークはイヌイットの合唱とほんのちょっとの電子音のみの伴奏でやったライヴDVDもある。大の愛聴盤だったんだけど、最近は音楽DVDを見聴きする機会がめっきり減ってしまったからなあ。現在僕の自宅にあるDVD再生可能機器はMacだけだし。ビョークはまあまあな数のライヴDVDを出していて、よく見聴きしていた。
ビョークのCDについては、2004年の『メダラ』までは今でもまあまあ聴く。それ以後も買って聴いてはいるけど、個人的にはまあいいや。今一番好きなのは本格デビュー第一作1993年の『デビュー』で、なぜかというと一曲目が、その後のライヴでの定番曲「ヒューマン・ビヘイヴィアー」だからだ。
「ヒューマン・ビヘイヴィアー」は、『デビュー』で好きになったのではなく、書いたようにたくさん見聴きしていたライヴDVDのほぼどれにも入っていて、しかもだいたいいつも重要な場面で歌っていて、それで大好きになったのだった。ティンパニーみたいな音が出すリズムや、出だしから少し経って転調する瞬間がたまらん。
『デビュー』には、ハープだけの伴奏で歌うジャズ・スタンダードの「ライク・サムワン・イン・ラヴ」もあって、割と好きなアルバムだ。音楽的にはどう聴いても1997年の『ホモジェニック』とか2001年の『ヴェスパタイン』とかの方が素晴しいだろうと僕も確信しているから、これは個人的な好みだけの話。
ビョークには、Björk Guðmundsdóttir(読み方が分らない)名義でアイスランドのレーベルから1990年に出したアルバム『グリング・グロ』があって、これはジャズのピアノ・トリオ伴奏で歌ったジャズ・アルバムで、ちょっと面白い。しかも15曲目にR&Bナンバーの「ルビー・ベイビー」があったりする。
その「ルビー・ベイビー」も、4ビートの完全なジャズ・ナンバーになっている。まあしかし本格デビュー前のこんな『グリング・グロ』なんかは、ジャズ好きのビョーク・ファンしか聴かないだろう。なお先に書いたように、普通のドラムセットが全編通して入っているビョークのアルバムはこれだけ。
そういう『グリング・グロ』は例外的なメインストリーム・ジャズ作品だけど、1993年の『デビュー』で本格デビュー後のビョークを、アイスランド出身だからといって、「辺境音楽」だから面白いとは言えないだろう。アイスランド音楽は殆ど知らない僕だけど、英米音楽の要素だけでもないことは感じる。
アイスランドのビョークだけでなく、どんなワールド・ミュージックでも全部そうだと思うけど、そういう音楽の面白さは、単にエキゾティックだからというものではないんだろう。ちょっと変っているから惹かれるというのではない。少なくとも僕が1986年にラジオでキング・サニー・アデを聴いた時の衝撃は、そういうものではなかった。
もっと心の奥底に訴えかけてくるなにか、それがなんなのか明確な言葉で表現するのは難しいけど、17歳の時にMJQの「ジャンゴ」を聴いて、なんて素晴しい音楽があるんだ!これこそ僕のための音楽だ!と大感激した時と同種の感動だった。英米日の音楽に比べたら、いろんな情報が少なめだけど、対象の本質に接近したくて聴いているんだよね。
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