音楽は曲単位の文化だ
僕も熱心に音楽を聴くようになったのは、基本的にLPレコードによってだったので、音楽というものはアルバム単位の存在で、アルバムで聴くべきものだと確信していた。音楽メディアの主流がCDになっても依然そのままで、音楽アルバム作品といわば対峙するような気持で、舐めるように聴き込んでいた。
LPという製品が実用化されたのは、おおよそ1950年頃のこと(コロンビアから最初のLPレコードが発売されたのが1948年)で、それ以前の録音はほぼ全てが(一部例外を除き)SP盤で発売されていた。その時代は当然ながら一曲単位で音楽を売買していたわけで、リスナー側だって録音作品については、一曲単位で聴いていた。それが19世紀末から50年以上続いた。
録音技術が発明されたのが19世紀末で、だから録音音楽の歴史はまだ100年と少し程度。そのうち約50年というSP時代はかなり長いと言えるはず。LPは1980年代末のCD普及までしか(主流メディアとしては)続かなかったので、40年間もない。CD時代だってもはや終りつつあるしね。
現在主流になりつつあるインターネット配信によるデジタル・データで音楽を聴く方法が、一体いつ頃まで続くのか分らないし、それが終るかもしれない頃には、もう僕は生きていないだろうから、あまり関心もない。そう考えると、音楽録音史で一番長くトップの座にあったのは、結局SP盤だったんだろう。
しつこく何度も書くけど、ジャズに夢中になってしばらくして、モダン・ジャズよりそれ以前の戦前ジャズの方が好きになり、ブルーズ等でもそうだし、その後ワールド・ミュージックをいろいろ聴くようになっても、やはり古いSP時代の音楽の方が好きな僕だけど、SP盤自体は一度しか聴いたことがない。
いつ頃のことだったか、東京在住時代に「SP盤でロバート・ジョンスンを聴く会」というのが、確か鈴木啓志さんだったか主催で開催されて、それに出掛けていって一枚か二枚聴いただけだった。この時以外は、いくら戦前のSP音源が好きといっても、全部LPリイシューかCDリイシューでしか聴いていない。
だからSP盤をたくさん聴いて、そこから自分の鑑識眼を頼りにいいものをピックアップし、LPリイシュー用に選曲・編集した、油井正一さんはじめ大勢の大先輩方には、足を向けて寝られないわけだし、現在でもそうやって日本の戦前音楽を発掘・CDリイシューしている保利透さんなどには、感謝するしかない。
もちろんLPやCDでリイシューされるSP音源は、後世に残すべきと判断されたものだけだから、当時発売されていた(膨大なクズ作品も含めた)SP盤総数からしたら、氷山の一角に過ぎない。当時のことを本当に知りたいと思ったら、やはり現在保利透さんがやっているようにSP盤蒐集するしかない。
今でも世界中でいろいろと発掘・リイシューされている、ジャズだけでなくワールド・ミュージックなど、古いSP音源を収録したCDは、例えばアフリカものの『オピカ・ペンデ』や、東南アジアものの『ロンギング・フォー・ザ・パスト』など、どっちも素晴しかったけど、SP盤コレクターの仕事だった。
本当の音楽ファンの仕事というのは、そういうものだろう。僕みたいにSP盤蒐集なんて経済的にも気力的にも体力的にも、全くやる気がなく、かつてはLPリイシュー、現在はCDリイシューでしか聴いていないのに、古い戦前録音音楽こそ最高だとかあれこれえらそうに言っている人間は、まあおかしいね。
でも本当に大好きなんだということだけは分ってほしい。そして僕が一番言いたいことは、音楽というものは、古いものも新しいものも、これ全て「曲単位」で存在し聴かれるものであって、決して「アルバム単位」の文化じゃないだろうということだ。SP音源を中心に聴いているファンならみんな知っている。
この「音楽は一曲単位の文化」という考えは、LPアルバムを聴くことで音楽に深く接してきたリスナーの方々には、なかなか心の底からは納得していただけないみたい。僕だってそうだったんだけどね。モダン・ジャズのアルバムや、1960年代以後のロック・アルバムなど、それら以外も大抵全部そうだ。
古いSP時代の録音集だって、LPリイシュー名盤のようなものがたくさんあって、ある一定のテーマというかポリシーの下に選曲・編集され、LP用に並べられて発売されていて、アルバム・ジャケットも含め、素晴しいものがいろいろとあって、僕もそういうもので長年親しんできてはいるんだけどね。
だけど、当の音楽家本人は、SP録音時代は言うに及ばず、LPアルバムが一般的になった時代以後も、録音時は殆どの場合、当然ながら一曲単位で演奏・録音しているわけで、コンセプト・アルバム、トータル・アルバムと言われるものだって、そういう一曲単位の録音集からチョイスしているだけなのだ。
実際、LPメディアが主流になって以後のどんな音楽家でも、たくさんの曲をアルバム用に録音し、最初からこういう曲をこういう曲順で、と考えて録音しているような人は、例外的だろう。なかには一時期のスティーヴィー・ワンダーみたいに、一つのアルバム用にとんでもなく多い曲を録音した人もいる。
だからスティーヴィーの『キー・オヴ・ライフ』なんか、LP二枚組にさらに四曲入りのEP盤が付いていたし、しかもそれは元々とんでもない曲数を録音して選びまくった結果なんだから、言ってみればあのアルバムは「ベスト盤」みたいなもんだろう。そしてどんなアルバムも、本質的には同じだと思う。
たまに発売予定の新作アルバムに収録する曲数きっちりそれだけしか演奏・録音しないような音楽家もいるらしいんだけど、まあ例外だよね。大抵全員、それ以上の曲数を録音し、そこからチョイスするわけだ。これは「新作アルバム用」にと準備して、それ用にレコーディングするような音楽家の場合だ。
というのは、そうでない音楽家も結構いるからだ。例えば1967〜75年までのマイルス・デイヴィス。なかでも特に70年頃からのマイルスは、新作アルバム制作予定のあるなしに全く関係なく、というかそんなことはおそらく全く頭の片隅にもなく、ただ気の趣くままに頻繁にスタジオ入りし録音を繰返していた。
1970〜75年のマイルスのアルバムで、当時リアルタイムで発表されていた作品は、ぜ〜〜んぶアルバム用にとレコーディングされたものではなく、そうやって録りだめた膨大な録音群から、プロデューサーのテオ・マセロ(とマイルス本人も立会っていたらしいのだが)が選曲して並べただけのものだ。
ということは、『ジャック・ジョンスン』も『オン・ザ・コーナー』も『ゲット・アップ・ウィズ・イット』も、スタジオ作品は全部一種のベスト盤みたいなもんで、これらを生真面目にアルバム・コンセプトとか、アルバム通して集中して対峙するように聴かなくちゃとか思うのは、実はちょっとおかしい。
元々のコンセプトなどということを言出したら、そういう1970年代マイルスのアルバム群は、その後CDボックス・セットでリリースされた未発表曲集、例えば『コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』や『コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』といったものと、全く同じだ。
そういうボックス・セットは未発表曲集じゃないかと言われそうだが、『ジャック・ジョンスン』『オン・ザ・コーナー』『ビッグ・ファン』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(1970年代にリアルタイムで発売されたスタジオ作品はこれだけ)だって、全部リリース当時の未発表曲集だったんだぞ。
それらは四つとも、曲によって録音時期やパーソネルがバラバラに異なっているし、テオ・マセロによる巧妙な編集作業によって、一応アルバムとしての統一感というかまとまりのようなものが感じられるかもしれないが、長年聴き込んできた僕なんかの耳には、やはり一種の未発表曲集だよなとしか聞えない。
だってさあ、『コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』を聴くと、こっちの方がいいだろう、どうしてこっちを最初に出さなかったんだ?と思う曲が結構あって、そうして振返ると、『オン・ザ・コーナー』や『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の方が、残り物・未発表集のように思えてくるもんなあ。
マイルス当人だって、プロデューサーのテオ・マセロだって、一曲単位で考え録音し編集していたはずだ。結果LPアルバムになったというだけのことであって、1967〜75年までの言ってみれば全盛期マイルスのスタジオ作品は、全部そんな具合のベスト盤みたいなもんなんだから、あまり気張らずに聴こうよ。
『コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』ボックス六枚組なんか、1972〜75年という、僕の意見ではマイルスが一番カッコよく尖っていた時代の録音集で、しかもさらに当時シングル盤でしか出なかった「ビッグ・ファン」「ホーリー・ウード」の二曲が聴ける公式CDはこれだけなのだ。
以前書いた通り、1973年のシングル盤A面「ビッグ・ファン」とB面の「ホーリー・ウード」の二曲こそ、1945〜91年のマイルス全録音人生で残した全曲のなかで、僕が最も素晴しいと信じ最も愛する録音なのだ。公式に聴けるのがこのボックスだけという理由で買ってもいいとすら思っている。
アルバム中心の音楽家だった1970年代のマイルスにおいてすら、一番素晴しかったのがシングル盤だったという事実は、なにかやはり音楽というものの本質を物語っているような気がしてならないんだよね。マイルスがシングル盤用に録音したのではなく、テオ・マセロが編集で短くしただけだけどさ。
こういう1970年代マイルスとか、『キー・オヴ・ライフ』録音時のスティーヴィーとかは、例外だとして考慮に入れないのは、僕は違うと思うんだ。音楽というものは、どんなものもアルバムでというより曲単位で存在し、演奏され聴かれるものなんだろう。それこそが音楽という文化の本質じゃないかな。
僕の大好きなレッド・ツェッペリン。アルバム単位でこそ聴かれるべき音楽家だと思われているけど、当のジミー・ペイジ自身が、1990年に全オリジナル・アルバムをバラバラに解体して再構築したリマスター・ボックスを出したもんね。しかもあれはCDでは初めてマトモな音質で出たものだったしね。
音楽の聴き方なんてのは人それぞれなんだから、それ自体は放っておけばいいんだけけど、聴き方がというのではなく、全く聴こうとすらしないというのは、ちょっとどうなんだろうと思うんだよなあ。
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聴こうとしないんじゃなくて聴けないんですよ。主に経済的な理由で。
目の前にレー・クエンと「オン・ザ・コーナー・セッションズ」がある。両方購入したいけどそれは無理。家のCD棚には「アガルタ」「パンゲア」「オン・ザ・コーナー」など重要作と呼ばれるものはあらかた揃っている。レー・クエンは一枚もない。であればどちらかひとつを取らなければならないのなら、どちらを取るか自明でしょう。
もし僕が今月何の迷いもなく、ディランやスプリングスティーンのボックスを買う音楽ファンであれば、ここでとしまさんと会話することもなかったでしょう。僕がこのブログを読むのを毎日楽しみにしているのも、あなたがジャズ・プロパーの音楽ファンでなくワールド・ミュージック的視点をお持ちだからです。だから熱心なジャズ・ファンでない僕でも面白く読めるんですよ。マイルスのトランペットの音色を語るのにマハラティーニや広沢虎造を持ち出す人を僕は知りませんから。
しかしマイルスの記事が多いのですっかりマイルス熱が上がってしまいましたよ。そんな風に知った気になっている音楽にもまた興味を再燃してCD購入リストを前に煩悶することになるんですよね。たぶんこのブログを読んでいる方々はみんなそうだと思いますよ。
投稿: Astral | 2015/12/03 19:45
Astralさん
まあ僕もえらそうにいろいろ言いましたが、結局経済的な理由で結構見送っているものが多いです。いまさっきも、エル・スールに、シリア出身歌手の新作をオーダーしてしまいましたし、アラブ圏とトルコものを買うので精一杯で、面白そうなものでもサハラ以南のブラック・アフリカものは、かなり見送ったままです。
蔵出しのリイシュー物でも、ボブ・ディランの『カッティング・エッジ』などは、一番大好きな時期の録音集だから、絶対にほしいんですけど、値段の低い輸入盤でも一万円以上しますので、いまだに買えず、いつ買えるのか、さっぱりメドが立ちません。
おそらく僕を含めてアマチュア・リスナーのみなさんは、全員そんな具合なんでしょうね。
投稿: としま | 2015/12/03 20:15
物心ついた頃からクラシック音楽に親しんでいたのでレコードはLP。ポピュラー音楽を聴くようになってからもLPしか買わなかった。そして学生時代にジャズ喫茶に通い詰めたお陰でLPは片面ずつに馴染んでもいました。
だから、CDが出た頃は正直戸惑いました。LPだと山場は針を下ろした瞬間に耳に飛び込んでくるオープニングの曲で、チャンスはA面とB面の2回訪れる。とくにB面の1曲目はミュージシャンのホンネが出るという評価もあったくらいで、気に入った曲もB面のトップバッターが多い。
でもCDだと、そのチャンスは1回に減るし、2イン1なんか最悪。たぶん、過渡期だった80年代の音楽製作現場では、LPかCDかのどちらに重きを置いてアルバムをプロデュースするかで混乱があったと思います。
LPのCD化にも疑問を感じるものが多かった。収録時間が伸びたからとやたらボーナストラックを入れたり、別テイクを並べてみたり。オリジナルコンセプトに愛着を持つ人間には耐えられないことばかりが起こる。「アルバム殺すに刃物はいらん。出来損ないトラックの1つでも加えればいい」なんてね。A面とB面が繋がってよかったと感じたのは『マイルス・アヘッド』くらいかな。
しかし、SPの復刻を集めた廉価のCDボックスセットが大量に出回るようになってから考え方が変わりました。70分くらい音が流れ続けても、元来独立した曲が並んでいるので前後は気にせずに聴ける。なるほど、3分間芸術とはよく言ったものだなと。20~40年代のジャズにのめり込めたのも、そんな意識改革があったからだと思います。
クラシック音楽はまだしばらくCDの時代が続くでしょうが、音楽全般で言えばCDの時代が終わりつつあるというのは同感です。よくよく考えてみると、ネットでは曲単位で音楽が聴けるようになっていますね。何だか大昔のSPの時代に戻ったみたいだねって同年代の人に話したら激しく同意されてしまいました。
投稿: recio y romantico | 2016/02/16 23:54
recio y romanticoさん、ポピュラーよりもクラシック音楽こそが、一曲単位の文化ですよ。例えば、A面に「ピアノ協奏曲20番」が、B面に「24番」が収録されていたりして、別にそれらは関係なく作曲されたもので、そういうのはLPでもCDでも<寄せ集め>なんですから。LPやCD一枚に、交響曲一つだけ収録しているものも多いですが、それは全体で<一曲>なんで。でもこの真実、なかなか理解してもらえないんですよね。
なお、僕がCDになってA面B面繋がって心の底から良かったと思っているのは、マイルスの『アガルタ』『パンゲア』ですね。だってこの二つは元々ノン・ストップの一続きの演奏が、両面に分断されていましたから。だからCDになって、ようやく本来の姿になりました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/lp-a42b.html
『マイルス・アヘッド』は、A面とB面で雰囲気が違うし、A面の構成と終り方が絶妙すぎて、五曲目の「マイルス・アヘッド」が終ると、そのままそっとしておいてくれという気分で、繋がらない方がいいです。
投稿: としま | 2016/02/17 09:36
そうですね。何枚にも分かれたSPを纏めて1枚にしたいという強い願望からLPが生まれ、ベートーヴェンの第9を1枚に収めたいがためにCDの収録時間が74分(当初)に決まった経緯がありますから。
もし、CD誕生当時にマーラーやブルックナーがブームになっていたら収録時間は90分になったと思います。1曲がLP2枚で4つの楽章が4面に分かれているから、レコードで1曲通して聴くのはけっこう手間のかかる作業。仕方ないので90分のカセットにダビングして聴いていました。
エリントンもLPを渇望したひとりだったとか。LPができる前も、なぜクラシックみたいに1曲を分けて作らせてもらえないんだろかと考えたことは、無理は承知でも分かる気がします。曲を聴いていても、曲想が発展しつつあるところであえなく時間切れのものがあり、残念に思うことがあります。
『マイルス・アヘッド』はB面2曲目の「ニュー・ルンバ」がとにかく大好きなので、A面からそこに至るまでのプロセスも愛している。だから繋がってくれた方が嬉しいのです。
投稿: recio y romantico | 2016/02/17 13:03
エリントンの場合は、1931年ヴィクター録音の「クリオール・ラプソディ」で、SP両面で一曲(同年ブランズウィックにも同形式で録音・発売)というのと、もっと極端なのでは、1935年オーケー録音の「リミニッシング・イン・テンポ」で、SP四枚の計八面にわたって一曲として発売したという前例があります。だから、エリントンこそLPメディアの登場を大歓迎した人物で、実際、ジャズ界初のLP作品はエリントンによるものです。
投稿: としま | 2016/02/17 13:51