カッコイイのは音だ、生き方じゃない
チャーリー・パーカーという人は、日常生活というか音楽以外の面では、みなさんご存知の通りとんでもなくメチャクチャな人で、彼のコンボでデビューしたマイルス・デイヴィスも、「バードのことは人間としてより音楽家として尊敬していた」と言っている。パーカーをアイドル視していたマイルスだけど。
パーカーが1945年に自分のコンボに雇ってデビューさせた頃のマイルスのトランペット演奏は、まあはっきり言ってなんの魅力もない。サヴォイ録音でもダイアル録音でも、ディジー・ガレスピーとかファッツ・ナヴァロなどに比べたら、聴きようがないとしか思えないもんなあ。
それなのにどうしてマイルスをレギュラー・メンバーに雇っていたのかということについて、パーカーは、自分の饒舌なアルトと抑制の効いたマイルスとが、音楽的に絶妙なコントラストを形成するからだと言っていたけど、実は違うんじゃないかなあ。本当の理由はもっと別のところにあったような気がする。
マイルスの実家はイースト・セントルイスにあって、父親は歯科医で母親は教師という、当時の黒人にしてはかなり裕福な家庭に育った、いわばボンボンなのだ。ジュリアード入学とパーカーを頼ってニューヨークに出てきてからも、親からの仕送りが結構な金額続いていたようだし、生活には困らなかった。
パーカーは、そんなマイルスの住むアパートに転がり込んで、家賃からなにから全部マイルスに面倒を見てもらっていた。そういうわけだから、そのまま世話になるばかりでなんにもしないというのは、さすがのパーカーでもちょっと悪いと思ったんじゃないかなあ。それでマイルスを雇ったんだと僕は思っている。
そう考えないと、例えばディジー・ガレスピーが吹くナンバーがスリル満点の火花散らすようなもので、最高に素晴しいと誰の耳にも明らかなのに、技量が数段どころかはるかに劣るマイルスをレギュラー・メンバーにしたというのは、理解しにくいんだなあ。音楽的な根拠は、完全なる後付けの言い訳だ。
もっともパーカーは、マイルスはじめサイドメンに殆ど給料を支払わず、ギャラは全部シャブ代に消えてしまったようだから、彼を尊敬するマイルスもさすがに我慢できず、首根っこを掴んで「ギャラを支払うのか、死にたいのか?」と迫ったことすらあるらしい。だから、実生活で世話になっているお礼にはならなかったんだけど。
昔から思っているんだけど、パーカーのサヴォイやダイアルの録音に、マイルスさえ入っていなければいいのに、というかもっと言えば、それらが全部パーカーのワン・ホーン・カルテットだったらどれほど良かったかと、それが正直な気持なんだよね。現在残っているものでも、僕はパーカーしか聴かない。
しかし、最初に書いたようにパーカーという人を、録音物以外の面で知れば知るほど、およそこの人とはお友達にはなりたくない、というか一切関わり合いたくないとしか思えない、とんでもない人物だよねえ。音楽作品を聴く限りでは、ジャズ界にこれ以上素晴しいインプロヴァイザーはいないと思うのに。
そういうことがあるから、音楽家とは残した録音作品でのみ評価すべき種類の人達で、音楽と無関係ではないにしても、ちょっとそこから離れたところでの、人物像とか性格とか精神とか生き方とか、そういうものは音楽を楽しむ上では、一切なんの関係もないと僕は考えるようになって、それが現在まで続いている。
もちろん、音楽家の生き方とか精神・魂といったものは、それが全て音楽に反映されるのだという言い方は可能だろうし、僕もまあその通りなんだろうとは思っている。音楽家とはそういう人達なんだろう。しかし音楽作品がどんなに素晴しくても、その人が人間的にも素晴しいなんてことは全然ないんだなあ。
皮肉なことに、パーカー自身が、ジャズマンの生き方は全て音に反映されるのだ、だから立派な音楽を創りたいと思ったら、立派な人生を送らなくちゃダメなんだと、何度か発言している。これには笑っちゃうよねえ。パーカーにそんなことを言う資格はゼロだ。ヤク中・アル中で破滅街道まっしぐらだったのに。
でも僕ら音楽作品を創り出すことなどできない凡人には、およそ計り知れないものがあるんだろうなあ、特にパーカーみたいな空前絶後の超天才みたいな音楽家の場合には。20年来の僕の知合いにほぼ同年代の日本人女性歌手がいて、その人も過食・過度の飲酒・過度の喫煙癖で不健康な人だ。
その女性歌手に言わせれば、確かに酒と煙草のやりすぎは、歌手の命である喉には毒だけれど、それでもそれらなしでは今みたいな歌は絶対に歌えていないはずだという。そういえば、同じようなことを言っていた和田アキ子は、数年前に煙草やめたよね。でも長年の喫煙癖で失った声は戻らないみたいだけど。
ドラッグ中毒はパーカーの代名詞みたいなもんだったけれど、これは別にパーカーだけではなく、最近のウィントン・マルサリス以後のクリーンなジャズメン時代になる前は、僕に分っている範囲では、ディジー・ガレスピーとクリフォード・ブラウンの二人を除き、全員ドラッグ使用経験があるはずだ。
それはパーカーがヤク中だったのにあんなに素晴しい音楽を創り出した人だったから、みんなその真似をするようになったということじゃないのかと言われるかもしれないが、そうではない。ジャズ界最初の巨人ルイ・アームストロングも、マリファナを手始めに、いろんなドラッグに手を出してるんだよね。
ルイ・アームストロングの1928年録音に「マグルズ」(Muggles)という曲があるけれど、この曲名のマグルズとはマリファナのスラングなのだ。もちろんサッチモ以後の全てのジャズマンがドラッグに手を染めている。前述の二人以外本当に全員だから、相当に魅力的なものだったんだろうなあ。
もちろんウィントン・マルサリスの言うように、健康体じゃなければ楽器をきちんと鳴らすことはできないという意見はごもっともだと思う。まさしくその通りだろう。以前テレビ番組で観た誰だったか忘れたがアメリカのヴォーカル・グループの一人が、喉に悪いので冷たい飲物は一切飲まないという人だった。水もなにもかも全て常温にしてから飲むのだという。
しかし、ウィントン・マルサリスはじめ、そういう新時代の音楽家の創り出す音楽作品はどうなのかと言うと、これはまあ全然面白くもなんともないんだよね。ドラッグはもちろん酒も煙草も一切やらない完全クリーンな健康体だから、楽器や声はいい音で鳴っているけれど、中身はおよそつまらないものでしかない。
もちろん先に触れたように、一切ドラッグをやらずかつ最高の音楽を創り出した、ディジー・ガレスピーとクリフォード・ブラウンという二人の好例があるので、クリーンかクリーンでないかは、音楽の創造力にはなんの関係もないものなんだろう。それにパーカーはヤクやらなくてもメチャクチャな人だったしなあ。
そんな具合だから、崇高な精神が崇高な音楽を産み出すというようなものじゃないことだけは確かなことだろう。似たような理由で、僕は音楽の人生・生き方・精神みたいなものは、音楽を聴く際にはなんの参考にもならないと思っている。音楽家の伝記・自伝やそれに類する文章を読むけれど、あくまで音楽を聴く補助でしかない。
なんども繰返しているように、音楽家の「真実」とは音にしかないんだ。それなのに、音と切離すような形で、素晴しい人間だった、カッコよかったなどと言ったりするのは、ちゃんちゃらオカシイ。昨日もデイヴィッド・ボウイが亡くなった際、やはりその種の弔い言葉が並んだけれど、アホらしかった。
デイヴッド・ボウイがカッコよかった、ヒーローだったというのは、音楽作品がそうだったのであって、マーク・ボラン死去後の遺族の生活を支えてあげたとか、落ちぶれたイギー・ポップを救ってあげたとか、その種のエピソードで、ボウイがヒーローだったと書いてあるのを読むと、もうウンザリ。
いわく「生き方(「生き様」と書いてあるのが多かったけれど、この言葉は嫌いだ)がロックだった」とかなんとか。そんなの、「生き方がマンボだった」「生き方がレンベーティカだった」「生き方がンバラだった」とか、その種の言葉は一個も見掛けたことがないけどなあ。ロックだけ特別なのだろうか?
ボウイは「真の不良だった」と言う人もいたりして、ローリング・ストーンズの連中が「永遠の不良」とか言われるのと同様、僕には全く意味が分らない。こと音楽に対する姿勢は、ボウイも、ブライアン以外まだ誰も死んでいないストーンズの連中も極めて真面目だ。それは音を聴けば分るはずなんだけど、音とは離れた部分でのことなんだろうか?それが音楽家に対する弔いの言葉になるのだろうか?
それがどうやら「ロック精神」「ロック魂」とかいう(僕にとっては)ワケの分らないものと結びついているらしく、もしそういう考え方をしないとロックを理解することができないものなんだとすれば、僕にはロックは永遠に理解できない音楽だ。僕は、単に聞える音が美しい・楽しいから聴くだけだもん。
僕にとってのデイヴィッド・ボウイ最大の音楽的功績は、1983年の『レッツ・ダンス』に、当時無名だったギタリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーンを起用して、彼の名を世に広く知らしめたことなんだけど、まあこんな風に思っているボウイ・リスナーって、殆どいないだろうなあ。
マイルスも繰返し言っているんだけど、「いいか、いい人だとか友情だとかで音楽は創れないんだ」。マイルスの場合は、なんたってあのパーカーのバンドで、彼と文字通り寝食をともにして演奏活動をはじめた人だったから、余計一層こういう考え方になったはず。パーカーは「いい人」からは最も遠い人物。
だからまあ、他の方々がロックでもジャズでもその他でも、音楽家をどう考えるかは自由であって、僕には一切関係のないことだけれど、少なくとも僕は音楽家の生き方とか精神とかいうものは、聞えてくる音を理解するための一助としてしか参照しない。肝心なのは音だ。生き方そのものじゃないはずだ。
« マイルス〜『オン・ザ・コーナー』ボックス再考 | トップページ | レバノンで花開くマライア・キャリーの蒔いた種 »
「音楽(その他)」カテゴリの記事
- とても楽しい曲があるけどアルバムとしてはイマイチみたいなことが多いから、むかしからぼくはよくプレイリストをつくっちゃう習慣がある。いいものだけ集めてまとめて聴こうってわけ(2023.07.11)
- その俳優や音楽家などの人間性清廉潔白を見たいんじゃなくて、芸能芸術の力や技を楽しみたいだけですから(2023.07.04)
- カタルーニャのアレグリア 〜 ジュディット・ネッデルマン(2023.06.26)
- 聴く人が曲を完成させる(2023.06.13)
- ダンス・ミュージックとしてのティナリウェン新作『Amatssou』(2023.06.12)
コメント
« マイルス〜『オン・ザ・コーナー』ボックス再考 | トップページ | レバノンで花開くマライア・キャリーの蒔いた種 »
お気持ちは、よーく、わかります。
ま、音楽を<文学的>に語りたがる人は常に一定数いますよ。
それは仕方のないことなんじゃなのかなあ。
そーゆーのを、チッとか思いながら、横目に見てきたクチですから、ぼくも。
音楽を精神主義で論じたくなるのは、人間のサガなんでしょうねえ。
精神性を尊んだのはけっしてクラシックばかりでなく、
ジャズもロックもソウルも、みんな同じように語られてきたように思いますよ。
だから、精神性で語れない歌謡曲やフュージョンやAORは、
常に一段低い扱いをされてきたってことなんじゃないですかね。
投稿: bunboni | 2016/01/12 22:28
bunboniさん、まあその「精神性」なるもので語られる最大のジャズマンだったジョン・コルトレーンなど、1960〜70年代ほどではないにしろ、いまだにまだ少しそういう考え方をする人が残っているようで、僕なんかコルトレーンの残した音楽作品の「音」のスリリングな面白さでしか理解できない人間だから、そんな崇高な芸術指向は、唾棄すべきものだとしか思えないんですよね。
投稿: としま | 2016/01/12 23:50
残念なことにワールド・ミュージックも僕は同じだと思いますね。
投稿: イワタニ | 2016/01/13 21:42
イワタニさん、僕がワールド・ミュージック関連の言説で、一番唾棄すべきだと思っているのは、「虐げられた第三世界の民衆の魂の叫びだ」的な言い方ですね。その種の言い方で、ちゃんと音の面白さを聴かず、つまらないものがどれほど持上げられてきたことか。
投稿: としま | 2016/01/13 22:01
「第三世界の魂の叫び」なんて、帯や解説でよく見かけましたよね。
第三世界の人たちに叫びなんてありませんよ。みんな謙虚でしたよ。
そんな言葉を利用して使いたがるのはアメリカやヨーロッパ辺りのミュージシャンじゃないですかね。
ミュージシャンの叫びやメッセージなんて聞きたくもないですよね。
若い時はそんなことで熱くなれることもありましたが、でも肝心な「音楽」は何処か遠くに置き去りになってるみたいですよね。
ゴチャゴチャと色んな飾りや立て前ばかりで誤魔化した音楽じゃなく、本当に心のこもった音楽だけが聴きたいですよね。
投稿: イワタニ | 2016/01/14 06:30
イワタニさん、ホント、虚心坦懐に音だけに向合ってほしいです。
投稿: としま | 2016/01/14 08:51