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2016年2月

2016/02/29

古典復興?〜デヴィナ&ザ・ヴァガボンズ

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デヴィナ&ザ・ヴァガボンズというバンドがあって、僕は2011年の『ブラック・クラウド』と2014年の『サンシャイン』しか聴いていないんだけど(マトモなCDはまだこの二枚だけのはず)、これがなかなかいいんだよね。2011年の『ブラック・クラウド』リリースが知ったきっかけだった。

 

 

全然名前を聞いたことすらなかった人(バンド)だったんだけど、ある人にオススメされて買って聴いてみたら、これが完全なる僕好みの音楽。簡単に言えば、20世紀初頭の初期ニューオーリンズ・ジャズとブルーズその他をルーツにした古い音楽を、21世紀の新感覚で蘇らせたような雰囲気なんだよね。

 

 

リーダーであるデヴィナ・ソワーズがピアノかフェンダー・ローズを弾きながらヴォーカルも担当(ウクレレも弾く曲がある)。それ以外は基本的にアップライト・ベース、ドラムス、トランペット、トロンボーンという編成。二枚目の『サンシャイン』には、クラリネットとヴァイブラフォンもゲスト参加している曲がある。

 

 

ドクター・ジョンのニューオーリンズ・クラシックス集『ガンボ』などのファンの方々なら、間違いなく気に入っていただける内容なんだよね、二枚とも。デヴィナの弾くピアノはコロコロ転がって跳ねていて、まさにニューオーリンズ・ピアノだし、ホーン・アンサンブルもニューオーリンズ・ジャズ風だし。

 

 

とにかく2011年の『ブラック・クラウド』が出た時は、大好きになって聴きまくり、しかもその年の新作部門第二位に選んだほどの高評価をした僕。その年はサカキマンゴーさんの『オイ!リンバ』が出た年だったから、絶対に一位にはできなかったけれど、個人的な好みだけならデヴィナの方だった。

 

 

一枚目の『ブラック・クラウド』は、最初と最後にイントロとアウトロみたいな、一分程度のバンドのインストルメンタル演奏が入っている。その二つのトラックはどう聴いてもニューオーリンズ・ジャズだ。本編中でも四曲目の「スタート・ラニン」中盤で突然快活なニューオーリンズ・ジャズに移行する。

 

 

その「スタート・ラニン」中盤以後は、完全にそのまんまな4ビートのニューオーリンズ・ジャズなんだけど、こういう露骨なのはこれだけ。でもそれ以外も、二曲を除いてそんな音楽のエッセンスが詰っていて、僕みたいな20世紀初頭のアメリカ南部音楽が大好きなファンにはたまらない。

 

 

デヴィナの弾くピアノにもヴォーカルにも、なんというか一種猥雑なとでもいうかホンキー・トンクな味わいがあって、21世紀の現代にこんな人は探してもなかなかいないんじゃないかなあ。ブログでも以前書いたジャネット・クラインもいるけれど、彼女よりデヴィナの方が米南部風で、しかもブルーズ寄りで僕好み。

 

 

「二曲を除いて」と書いたのは、八曲目の「リヴァー」と13曲目の「キャリー・ヒム・ウィズ・ユー」だけが、ニューオーリンズ風ではなく、どこからどう聴いても完全なサザン・ソウル・ナンバーだ。6/8拍子でピアノで三連符を弾きながら歌うし、ホーン・アンサンブルもまるでメンフィス・ホーンズ。

 

 

しかも「リヴァー」の方では三連の完全なサザン・ソウル・ナンバーでホーン・アンサンブルもメンフィス・ホーンズみたいなのに、途中でトロンボーンがワーワー・ミュートを付けてソロを吹いていて、なんだかトリッキー・サム・ナントンがマスル・ショールズのスタジオでやっているみたいだ。

 

 

ニューオーリンズ風なのとサザン・ソウル風なのと、どっちがデヴィナの本領なのかちょっと分りにくいくらいだ。2011年に『ブラック・クラウド』で知って、これ一枚しかなかったからYouTubeで探してみると、こんなサザン・ソウルの名曲もやっているんだよね。

 

 

 

この「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」は、エタ・ジェイムズやスペンサー・ウィギンズなどで有名なサザン・ソウル・スタンダードだし、YouTubeで探すと他にも同趣向のものがいろいろと見つかるし、ニューオーリンズ風の人だと思ったデヴィナは、ひょっとしてこっちの方が本領なのか?

 

 

一作目の『ブラック・クラウド』には二曲あるサザン・ソウルは二作目『サンシャイン』では殆ど聴けない。6/8拍子で三連符を弾くというのは四曲目の「オールウィズ・フロム・ミー」だけだし、それだってサザン・ソウルともやや言いにくい感じだし、やはり僕の先の見立は間違っているんだろうね。

 

 

一作目『ブラック・クラウド』にはもう一曲、四曲目の「シュガー・ムーン」も6/8拍子の三連ナンバーだけど、これはサザン・ソウルではないね。ニューオーリンズ風でもないけれど普通の米南部風バラードだ。それら以外はほぼ完全にニューオーリンズ・クラシックスをやる時のドクター・ジョンによく似ている。

 

 

『ブラック・クラウド』で一番ドクター・ジョン風だろうと思うのは、七曲目の「リップスティック・アンド・クローム」。これは『ガンボ』に入っていても全然おかしくないと思うくらいソックリだ。特にピアノの弾き方なんかそのまんまじゃないかなあ。

 

 

 

YouTubeで探すと、同曲のこういうライヴ・ヴァージョンも複数見つかる。最高に楽しいよねえ。アルバム『ブラック・クラウド』のなかでも、この曲が一番猥雑で面白いような気がするなあ。

 

 

 

 

『ブラック・クラウド』では、九曲目「ポケット」でだけデヴィナがフェンダー・ローズを弾いていて、この曲のリズム感覚はアルバム中一番面白い感じだから、アクースティック・ピアノでやったらどうなっていただろうなあと思ってしまう。なお、この曲でのトランペット・ソロは短いけどかなりいい。

 

 

リズムの感じといえば、2014年の二作目『サンシャイン』では、五曲目の「アイ・トライ・トゥ・ビー・グッド」がややラテン風というかアフロ・キューバンなフィーリングで、今までの二枚を通してそういう感じなのはこの曲だけだから、これまた面白い。ニューオーリンズ音楽だからラテン風は当然だけどね。

 

 

二作目『サンシャイン』の方は、一作目『ブラック・クラウド』にあった2〜4ビート系ニューオーリンズ・ジャズな感覚をもっと拡大して適用したようなアルバムで、ホーンの使い方なんか本当にかなりジャジーだ。アルバムの出来は一作目の方がいいんじゃないかとは思うんだけど、二作目も大変楽しい。

 

 

調べてみたら、デヴィナ&ザ・ヴァガボンズの結成は2006年のことらしく、拠点はミネソタのツイン・シティーズ(ミネアポリス・セント・ポール)に置いていて、アメリカとイギリスとヨーロッパでライヴ活動をしているらしい。YouTubeで探しても、その当時のライヴ音源がいくつか見つかる。

 

 

なお、そういうことが書いてあるWikipediaの記述でも、今までリリースされたアルバムは『ブラック・クラウド』と『サンシャイン』の二枚だ。アマゾンで探すと、他にもいろいろ出てくるのはなんなんだろう?そして(その記述にはないが)今年2016年3月25日に三作目『ニコレット・アンド・テンス』のリリースが予定されているらしい。楽しみだよなあ。

 

 

デヴィナ&ザ・ヴァガボンズの公式サイトで見てみたら、その三作目はライヴ・アルバムのようだから、ますます楽しみだ。曲目を見てみたら、二枚の既存のアルバム収録曲やそれ以前のシングル曲や、あるいはスタンダード曲もある。

 

 

 

それにしても2011年に、どうしてこういうデヴィナ&ザ・ヴァガボンズみたいなバンドが出現したんだろうなあ。21世紀、しかも10年代に、こんな音楽は時代の流行に特別即してもいないし、新しい感覚が多少聴けるような気はするけれど、基本的にはだいたい百年くらい前の音楽をほぼそのまま蘇らせたものだし。

 

 

デヴィナだけでなく、以前触れたジャネット・クライン(なんだかんだと言ったけれど、結局CD買っちゃった)とか、あるいは日本での保利透さんなどのぐらもくらぶとか、ひょっとしてそういう古典復興の流れができつつあるのだろうか?う〜ん、ちょっとそのあたりは鈍感な僕には全然分らなくて、ただ単に賑やかで面白くて聴いて楽しいから聴いているだけなんだけど、どうなんだろうなあ?

2016/02/28

アート・ブレイキーは緻密かつ繊細なドラマー

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ジャズ・メッセンジャーズでの活動が一番有名で、しかも「チュニジアの夜」みたいな曲での打楽器全開な演奏ぶりが目立つから、イマイチ理解されていないようにも思うのだが、アート・ブレイキーは非常に緻密かつ繊細なドラマーだ。一般的には豪放磊落のイメージだろうけど。

 

 

僕がそれに最初に気が付いたのは、キャノンボール・アダレイ名義(実質的にはマイルス・デイヴィス)の『サムシン・エルス』(1958)を聴いた時だった。一曲目の「枯葉」、あそこでのブレイキーのドラミングを聴いて、こんなに繊細に気を遣うドラマーはいないだろうと思ったのだった。

 

 

 

あの「枯葉」では、ブレイキーは最初スティックを持ってプレイしているけど、ハーマン・ミュートによるマイルスのテーマ吹奏が始るとブラシに持替えている。ブレイキーのブラシ・プレイというのはあれで初めて聴いたのだった。あの細やかなトランペット吹奏にピッタリ合わせたフィーリングだね。

 

 

そしてテーマ吹奏が終って、キャノンボールのアルト・ソロになると、また再びスティックを持って、若干派手気味なプレイになるけど、これだってキャノンボールの豪快な吹きっぷりに合わせたもの。まあハイハットの音が一番目立ってはいるけど、スネアも叩いてはいる。これもソロの雰囲気にピッタリ。

 

 

キャノンボールのソロが終ってマイルスのソロになると、再び派手目のドラミングは影を潜め、かなり控目なプレイに徹していて、ハーマン・ミュートで極端に音数の少ない繊細なマイルスのソロをしっかり支えているわけだ。その次のハンク・ジョーンズのピアノ・ソロのバックでもそんな雰囲気だ。

 

 

ハンクのピアノ・ソロが終って、マイルスのテーマ吹奏に戻ると、ブレイキーも最初のテーマ吹奏の時と同じくブラシを使っている。その直後にピアノによるインタールードを経て、スロー・テンポな終盤部になるのだが、このゆっくりして落着いたムードの部分の背後では、ブレイキーもかなり控目なプレイ。

 

 

最初にこの「枯葉」でのドラミングを聴いた時は、これが、あのナイアガラ瀑布に喩えて<ナイアガラ・ロール>と呼ばれる豪快なロールに象徴され、ジャケット写真やその他ジャズ雑誌等にいろいろと載っていたガハハッと大口開けた姿で映っているドラマーの演奏とは、ちょっと信じられない思いだった。

 

 

それが分って、他のいろんなレコードでブレイキーのドラミングを注意深く聴直してみると、この人、一聴豪快そうに聞えるプレイでも、実によく計算され、フロントで演奏するホーン奏者やピアニストのスタイルに巧妙に合わせて叩いていることが分ってきたのだった。ジャズ・メッセンジャーズでもそう。

 

 

ブレイキーが豪快に聞えるのは、フロントで吹くトランペッターやサックス奏者を故意に煽っていいソロを引出そうとしているだけに過ぎない。それが一番よく分るのが、1958年ジャズ・メッセンジャーズでのパリ、サンジェルマンでのライヴでの「モーニン・ウィズ・ヘイゼル」だね。聴直してみてほしい。

 

 

 

 

リー・モーガンのトランペット・ソロの時はそうでもないのだが、ベニー・ゴルスンのテナー・サックス・ソロとボビー・ティモンズのピアノ・ソロのバックでは、2コーラス目が終って3コーラス目に入る直前に派手にシンバルを叩いている。

 

 

そして、そのブレイキーの煽りを受けて、ゴルスンとティモンズのソロが一気に盛上がる。ゴルスンは高音部での演奏になり、ティモンズはブロック・コード弾きでゴスペル風でアーシーなプレイに移行し、感極まった客席のスコット・ヘイゼルの「オ〜、ロード・ハヴ・マーシー!」という叫び声を引出している。

 

 

ブレイキーが豪快そうに見えて、実は緻密で繊細なドラマーで、ソロを取るプレイヤーの演奏を実によく聴いて、彼らの最高のプレイを引出すべく努めているのだということは、前から分っている人は口にしてきていることだ。でもそういう人は一部で、イメージがあまり変っていないかもしれない。

 

 

ブレイキーは自分のジャズ・メッセンジャーズでは、特にトランペッターにはうるさかった。実質的にこのバンドの前身である1954年『バードランドの夜』のバンドではクリフォード・ブラウン、正式にジャズ・メッセンジャーズになってからも、リー・モーガン、フレディ・ハバード等、超一流どころばかり。

 

 

これは、デビューが1980年のジャズ・メッセンジャーズだったウィントン・マルサリスも言っていて、ブレイキーはホンモノのジャズ・トランペットの音を知り尽していて、そのバックで叩いてきた人だから、そういう人のバンドでトランペットを吹くのは、かなりのプレッシャーだったらしい。

 

 

そういうプレッシャーもあってか、ジャズ・メッセンジャーズ時代のウィントンは、なかなか溌剌とした吹奏ぶりで、好感が持てる(聴けるCDが少ししかないけど)。この時ウィントンは19歳だった。同じバンドの大先輩リー・モーガンも、メッセンジャーズに参加した時それくらいの年齢だった。

 

 

ウィントンについては、何度か言っているけれど、今となっては評価できるリーダー・アルバムはデビュー作の『ウィントン・マルサリスの肖像』くらいで、あとはハービー・ハンコックがリーダー名義のワン・ホーン・アルバム『カルテット』(二枚組LP、CDでは一枚)くらいしかないような気がするけどねえ。

 

 

マイルス・デイヴィスが言っていたことなんだけど、トランペッターのバックにはいいドラマーがいないとダメなんだそうだ。思えばマイルスが自分のバンドでレギュラーで雇ったドラマーも、ブレイキー型のやかましい煽り型が多い。フィリー・ジョー・ジョーンズ、トニー・ウィリアムズ、ジャック・ディジョネット、アル・フォスターなどなど。

 

 

それはトランペッターに限った話じゃないんだろう。いいドラマーがいないとバンドは死んだも同然だ。マイルスの場合は、そんなことを言っているわりには、1959年『カインド・オヴ・ブルー』や69年『イン・ア・サイレント・ウェイ』等、時代の節目にかなり静的な内容の作品を作ってはいるけどさ。

 

 

そういう静的な作品はともかく、ライヴではマイルスもバックのドラマーの猛烈なプッシュで、素晴しい演奏を繰広げているものが多い。ジャズ・メッセンジャーズでトランペッターがあんなに輝いているのも、アート・ブレイキーというドラマーの、時に豪快に時に繊細な計算されたプッシュぶりによる。

 

 

それでも大学生の時はあんなに夢中になってレコードを買って聴きまくっていたそのジャズ・メッセンジャーズも、今では殆ど聴かなくなり、現在CDで持っているのは、前述の1958年のパリ、サンジェルマンでのライヴ盤二枚組と、60年のウェイン・ショーター在籍時の『チュニジアの夜』の二つだけ。後者のタイトル曲では、前奏と間奏のドラムス・ソロの背後で、誰かがクラベスではっきりと3−2クラーベを刻んでいるのが好きなんだよね。

2016/02/27

ブラジル・サッカーなショーロの名曲

 

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本日2/27、FIFA(国際サッカー連盟)の新会長も決ったし、なによりいよいよ2016年のサッカー・Jリーグが開幕しましたね。

 

 

ブラジル音楽である古典ショーロのなかでも、特にピシンギーニャの名曲「1×0」(Um A Zero)を聴いていると、熱心なサッカー・ファンでもある僕は、ブラジル代表チームがピッチの上で躍動する様子がはっきりと浮んでくる。南米スタイルのサッカー、特にブラジルのそれが好きというショーロ・ファンの方なら、みなさん同様だと思う。

 

 

というのも、ショーロ・ファンのみなさんならご存知の通り、「1×0」は1919年のサッカー・コパ・アメリカ(南米選手権)ブラジル大会の決勝戦で、地元ブラジルがウルグアイを破って優勝した時の感動にインスパイアされてピシンギーニャが書いた曲。1対0というのは、その決勝戦のスコアだ(サッカーの世界には<1対0の美学>というものがある)。

 

 

コパ・アメリカは、第一回が1916年に開催されていて、30年開始のW杯、60年開始のEURO(欧州選手権)よりも歴史が古い、世界で最も伝統あるサッカー国別対抗大会なのだ。ちなみにその1919年ブラジル大会決勝で貴重な決勝点を挙げたのが、英雄アルトゥール・フレイデンレイク。

 

 

しかしながら1919年のコパ・アメリカ決勝戦でのブラジル代表に感銘を受けて同年にピシンギーニャが書いたというのにもかかわらず、彼とベネジート・ラセルダによる「1×0」のオリジナル録音は1946年6月と、相当に遅い。僕が知らないだけで、これ以前の録音があったりするのだろうか?

 

 

なお「1×0」も、その他いろんな曲も、コンポーザー・クレジットがピシンギーニャ&ベネジート・ラセルダ名義になっているけれど、実質的にはピシンギーニャ一人の作曲。この二人のコンビは、言ってみれば後のビートルズにおけるレノン・マッカートニー名義みたいなもんだったようだ。

 

 

「1×0」については、超有名曲のわりにはいろいろ調べても詳しい情報が書いてあるものがなく、どれも非常に簡素で、そのなかではこれがまあまあマシなんじゃないかと思う。 当然ながらポルトガル語だけど、なんとか読んでいただきたい。

 

 

 

肝心のピシンギーニャ&ベネジート・ラセルダによるオリジナル「1×0」の音源を貼っておかなくちゃ。これを聴くと、軽快で変幻自在なブラジル・サッカーの動きがよく表現されている。ベネジートのフルートはフォワード、ピシンギーニャのテナーはそれを支えてパスを出すミッドフィルダーだね。

 

 

 

「1×0」も超名曲だから、実に数多くのカヴァー・ヴァージョンが存在し、従ってそのなかにはさほどサッカー・ブラジル代表のスタイルを連想させないというか、あまりリズミカルに躍動していないものだってある。ミディアム〜スローなテンポでしっとりした「1×0」だってあるんだよね。

 

 

貼ったように、オリジナル録音がテナー&フルートによるものだから、その後の「1×0」のカヴァー・ヴァージョンもフルートが軽快に躍動する感じのものか、カヴァキーニョとかバンドリンみたいなブラジル特有の小型弦楽器をフィーチャーするものが多いけれど、ソロ・ピアノとか管楽器アンサンブルとか打楽器だけのアンサンブルとかもある。

 

 

少しだけヴォーカル入りのものもあって、何年頃誰が歌詞を付けたのかは僕は全く知らない。そういうものも悪くはないんだけど、やはりこの曲は器楽曲のイメージだなあ。ショーロのなかにはもちろん最初から歌入りのものだってあるんだけど、僕にはインストルメンタル音楽のイメージが強いもんなあ。

 

 

「1×0」の場合はサッカー・ソングだという側面もあるから、僕の場合はそれもあって余計にこの曲ばかりのいろんなヴァージョンを聴き飽きずに楽しめる。書いたように全部が全部サッカー・ブラジル代表のプレイ・スタイルを連想させるわけではないけれど。

 

 

サッカーに限らずスポーツと音楽って、近いというか同じようなものなんじゃないかと昔から思っているんだよね。どちらもリズム感覚が一番重要だし、なによりどちらも自らの肉体を駆使する身体行為だいう意味では共通するものがある。一流スポーツ選手に歌が上手い人が多いのは納得なのだ。

 

 

まあこんな比喩的表現は、サッカーに興味がない、または南米スタイルよりも欧州スタイルのサッカー(と言っても、今は南米出身の実力選手はほぼ全員欧州のクラブでプレイしているから、クラブ・レベルでの違いはもう無い)が好きだというショーロ・ファンの方々には、全くピンと来ないものだろうし、「1×0」やその他のピシンギーニャの音楽そのものには関係のない話だから、このあたりまでにしておく。

 

 

ピシンギーニャ&ベネジート・ラセルダの「1×0」含め共演音源は、いろんな形でCDリリースされているけれど、日本ではライスから『ショーロの聖典』という一枚物になってリリースされたのが、一番いいものだと思う。 今は入手困難となっているけど。

 

 

 

2002年にこのライス盤がリリースされた時に即買い、当時ネットの音楽仲間の間でも話題になっていた。もっともそのなかで一人、何度か触れている熱心な米黒人音楽ファンで野太いサックスの音色が好きすぎる人は、ピシンギーニャは曲は最高だけど、スカスカなサックスの音色は我慢できないと言っていたなあ。

 

 

確かにピシンギーニャのテナー・サックスはまあスカスカすぎるというか、北米合衆国西海岸の白人ジャズ・サックスの軽くてソフトな音色も嫌いじゃない僕ですら、これではアカンと感じてしまうくらいだ。クラシック音楽のサックス奏者の音色(はっきり言って聴けたもんじゃない)みたいで、ちょっとどうもなあ。

 

 

そう思いはするものの、ショーロみたいな音楽にはこれくらいのサックスの音色じゃないと似合わないんだろうなとも思う。これがコールマン・ホーキンスやベン・ウェブスターみたいなテナー・サウンドだったら、とてもあんな軽快なノリは表現できないもんねえ(笑)。だからあれでちょうどいいんだろう。

 

 

もちろんピシンギーニャには「1×0」だけでなく、他にも「ラメント」とか「カリニョーゾ」とか、多くの名曲があるのは、みなさんご存知の通り。僕も「ラメント」なんかの方が「1×0」よりも曲としては優れているんじゃないかと思うんだけど、好みだけなら間違いなく「1×0」だなあ。

 

 

何年頃だったか忘れたけれどおそらく21世紀に入ってから、『カフェ・ブラジル』というCDアルバムが出て、現代のブラジル・ショーロ演奏家達による古典ショーロ名曲再演集だったんだけど、その中にも「1×0」があった。それもフルート・フィーチャー。ジャコー・ド・バンドリンの「リオの夜」とかもあったね。

 

 

何度も書いているから既にみなさんお分りのはずだけど、いろんなものがあるブラジル音楽のなかでも、トラディショナルなスタイルのショーロ・カリオカやショーロ・パウリスタこそ、僕の最も愛するもの。古い録音も好きだし、現代の演奏家が新しい録音で再演したり新曲をやったりしたものもよく聴く。

 

 

北米合衆国の音楽でも、あるいはトルコ歌謡でもアラブ歌謡でも、ルーツ・ミュージック好きだというか、新しいものもさることながら古い伝統的なスタイルの音楽が大好きだという僕の嗜好が、ブラジル音楽についても当てはまっているんだろう。ショーロこそ後のブラジル音楽の屋台骨だしね。

 

 

そしてさらにサッカー大好き人間でもあるという(以前カルメン・ミランダ関係の記事で触れた通り、僕のサッカー・ファン歴は音楽ファン歴よりも数年長い)僕の趣味も手伝って、ピシンギーニャのショーロの名曲「1×0」を、最大のフェイヴァリットにしているんだろう。ゴキゲンなフィーリングとはまさにこの曲のことだよ。

 

 

なお音楽とはなんの関係もない話だが、この競技を広く一般にサッカー(soccer)と呼ぶのは、この競技が根付いていないアメリカと日本くらいだろう。他のフットボール系スポーツと特に区別する必要のない時は、この競技の母国イングランドではもちろんそれ以外の実力国でも、ほぼ全てフットボール(英football、西fútbol、独fußball、葡futebol、仏footballなど)だ。イタリアでカルチョ(calcio)と言われるのが例外な程度。アソシエイション・フットボールが正式な公式名称。

2016/02/26

マイルスの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『フォア&モア』

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マイルス・デイヴィスの1960年代一連のライヴ・アルバムのなかでは、64年、ニューヨークはフィルハーモニック・ホール(後のエイヴリー・フィッシャー・ホール、現在名はデイヴィッド・ゲフェン・ホール)での録音『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を一番よく聴く。同日のライヴ録音である『フォア&モア』(正確には『「フォア」&モア』と書くべきなんだけど)は、以前はそんなに好きでもなかった。今では愛聴盤。

 

 

ご存知の通り、『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『フォア&モア』は、1964/2/12の同じライヴ録音から、前者は主にバラード曲、後者はアップテンポでハードな曲と、二つに分けて収録・発売したもの。60年代のマイルスのライヴ・アルバムでは録音状態も一番いいし、人気も高いよね。

 

 

『フォア&モア』の方は、なぜ最初あまり好きでなかったのか、今聴くと全く理解できない。多くのファンの方々から、このアルバムこそ、アクースティック時代のマイルスの作品の中では、一番ドライヴしていてジャズ的なスリルに満ちた傑作だという評価を受けているのに、僕は買うのすらためらっていた。

 

 

買うのすらためらったというのはオカシイよなあ。アルバム・タイトルとジャケット・デザインのせいだったのかもしれない。それに比べたら『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』の方はかなり早くに買って愛聴盤だった。特にA面一曲目のタイトル曲とB面一曲目の「ステラ・バイ・スターライト」が最高。

 

 

A面一曲目の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、これこそアクースティック時代のマイルスによるバラード演奏では、断然ナンバーワンだと思っていた。実際今でもそういう評価が主流だよね。テーマとは無関係そうなハービー・ハンコックのイントロに続く、オープン・ホーンでの出だしだけでもうたまらん。

 

 

最初に聴いた時は、1956年プレスティッジへの初録音(『クッキン』)で聴けるようなリリカルなバラード・メロディが断片的にしか聴けないというか解体されているような感じなので、一瞬なんだか分らなかったような憶えがある。それでもフリューゲル・ホーンと間違えそうな丸い音色には参った。

 

 

実際、大学生の頃買った日本盤LPのライナーを担当した方は、これはフリューゲル・ホーンだろうと書いていたくらいだった。この「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」(と「ステラ・バイ・スターライト」)でのマイルスのオープン・ホーン・トランペットは、アクースティック時代では一番美しい。

 

 

アクースティック時代では、と断るのは、1969/70年頃のチック・コリアのフェンダー・ローズ伴奏で吹くオープン・ホーン、特にスタジオ録音やライヴ録音での「サンクチュアリ」などでの音色の方がもっと美しいと思っているからだ。そういう意見のファンはあまり多くはないみたいだけどね。

 

 

1964年「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」でのマイルスのソロについては、同じジャズ・トランペッターのイアン・カーが書いたマイルス本のなかで、このソロの素晴しさを詳細に分析していた。サビ部分のリズム・チェンジとか、(下の音源では)6:29過ぎの高音ヒットから下ってくる部分での一気のカタルシスとか。

 

 

 

イアン・カーは、マイルスによる同曲の1956年プレスティッジ録音とも比較していて、その初演のバラード表現は深いけれど、64年ライヴ版の表現はより深くかつ広がりを見せていると書いていた。どっちも嫌になるほど繰返し聴いた今では、実を言うとプレスティッジへの初演の方が好きになってきていたりするけどね。

 

 

 

それは何度も書いているけど、複雑で高度な表現よりもシンプルで分りやすい表現の方が、あらゆるポピュラー・ミュージックで好きになってきているという僕個人の嗜好の変化によるものだ。中村とうようさんの「大衆音楽では美は単調にあり」の名言を目にする少し前から、そういう具合に傾きつつあった。

 

 

そうではあるけれど、1964年の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」や「ステラ・バイ・スターライト」(後者も最近では58年初演の方が好きだ)などでのマイルスのソロは、マイルスはテクニックのないトランペッターだという意見に対する反証として、ウィントン・マルサリスがいつも挙げている。

 

 

この1964/2/12録音の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『フォア&モア』、前者が<静>、後者が<動>だと言われていて、一聴した印象はそうだけど、僕の意見はちょっと違う。前者のバラード表現におけるダイナミズムは、まさに動的なものだろう。リズムの動きだけ聴いてもそれが分る。

 

 

「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」一曲だけとってみても、マイルスやジョージ・コールマンのソロの背後のハービー+ロン+トニーを聴けば、実に緊密に連携し合っていて動的だ。ハービーとロンの動きに対して、トニーは出たり引っ込んだりしているけど、それはソロ表現の動きをよく聴いてのことだ。

 

 

これは別にこの録音に限ったことではなく、マイルスによる全てのバラード、いや、マイルスに限らずあらゆるバラード表現について言えることだ。バラード演唱は別に静的な表現ではないどころか、ある意味アップテンポな曲よりも活発なダイナミズムを必要とされるはず。僕は最近ようやく分るようになった。

 

 

マイルスによる1974年エリントン追悼曲の「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」。新しいリマスター盤に買替えたので、それまで持っていた『ゲット・アップ・ウィズ・イット』を、以前あるソウル〜ファンク・ファンに譲ったんだけど、「一曲目が・・・」という感想が返ってきて、少しガッカリした。

 

 

でもその友人は、(別の方宅で聴いた)『フォア&モア』『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』について、サックスだけが白っぽく聞えるという感想を漏していて、これはさすがの耳だと感心した。確かにこのライヴ録音、サックスのジョージ・コールマンだけが、ボスやリズム・セクションにややついて行けてないもん。

 

 

まあでも1964年当時のコールマンにしては大健闘の部類に入るはずではある。僕もその友人の言葉のように白っぽいというかダサいようには思うけれど、それでも案外好きなんだよなあ。特に「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」でのソロはいいんじゃないかなあ。同意見のファンは結構いるらしい。

 

 

この1962/2/12のライヴ録音、2004年リリースの『セヴン・ステップス:コンプリート・コロンビア・レコーディングス 1963-1964』で、同日の現場での曲順通りに再現・復刻された。名盤を解体してどうするんだという意見もあったけど、現場そのままに再現されたのは個人的には嬉しかった。

 

 

この時に初めて分ったのは、この時のライヴでは「オール・オヴ・ユー」と「オール・ブルーズ」以外ではオープン・ホーンのトランペットでしか吹いていないと思っていたマイルスが、一曲目の「枯葉」でハーマン・ミュートを付けて吹いていたことだ。これは完全なる未発表曲。これと冒頭のMC以外は全部既発。

 

 

ハービー・ハンコックの述懐では、この時のステージでは大失態をやらかしたと思い、新しいカーネギー・ホールがフィルハーモニック・ホールなわけだから気合が入っていたのに、ステージを降りる時はしょげていた、でもレコードになったものを聴くと凄くいいからビックリしたんだとあったなあ。

2016/02/25

ファンクに向いつつあったジミヘン

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ジミ・ヘンドリクスを初めて知ったのは、1980年のギル・エヴァンス『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』に収録されていた「アップ・フロム・ザ・スカイズ」で、コンポーザーとしてだったということは、以前書いた。ジミヘン自身のレコードを買ったのは、その二年後か三年後くらいだったはず。

 

 

最初に買ったジミヘンのレコードが『ザ・クライ・オヴ・ラヴ』と『ザ・ジミ・ヘンドリクス・コンサーツ』だったとことだけはよく憶えている。どっちもジャケ買いだったんだろう。どうしてそれらを買おうと思ったのかは憶えていないけど、知識が殆どなかったので、ジャケ買いしかなかったはず。

 

 

その二つ、タイトルも朦になっていたけれど、ジャケットははっきり憶えていたので、画像検索してようやくなんというアルバムだったのか判明したという次第。『ザ・クライ・オヴ・ラヴ』は1971年、『ザ・ジミ・ヘンドリクス・コンサーツ』の方は82年リリースになっている。

 

 

つまり、どっちもジミヘン没後のリリース。『ザ・クライ・オヴ・ラヴ』はスタジオ録音の最後の方のもので、こっちは内容はあまり印象に残っていない。ジミヘン最後期のスタジオ録音は、当時はバラバラにいろんな形で出ていたらしく、このアルバムも印象が薄かったのは仕方がないみたい。

 

 

このアルバムの収録曲は、1997年に『ファースト・レイズ・オヴ・ザ・ニュー・ライジング・サン』CDにきちんとまとめられたわけで、おそらくこのCDアルバムが、ジミヘン最後のスタジオ・アルバム(として取組んでいた録音群)を、初めてちゃんとした形でリリースしたものだったんだろう。

 

 

ただ、『ザ・クライ・オヴ・ラヴ』でも憶えているものもあって、曲名は忘れたんだけど(今調べたら、多分「マイ・フレンド」だなあ、とにかくA面ラストの曲)、曲の最後にフェイド・アウトする直前に、ボブ・ディランの「ブロウイン・イン・ザ・ウィンド」を誰かが口ずさんでいるのが、妙に印象に残っている。

 

 

というのも、ジミヘンの歌い方を聴いていると、これはまるでボブ・ディランそっくりじゃないかと思ったからだった。後年、ジミヘンがディランからの影響をはっきりと告白しているインタヴューかなんかを読んだけど、当時は歌だけ聴いてそう思っていたわけだった。みんな同じように思っていたはずだ。

 

 

その頃は、ジミヘンがディランの「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」をカヴァーしているのは知らなかった。 数年後にこの『エレクトリック・レディランド』二枚組LPも買って聴いて、この曲というより、アルバム全体に衝撃を受けたのだった。

 

 

 

ディラン風の歌い方といえば、ジミヘンだけでなく、その二年後に初めて聴いたプリンスのレコードである『パープル・レイン』ラストのタイトル・ナンバーでも、そんな風な歌い方が出てくるよねえ。プリンスが直接ディランを意識したのか、それともジミヘン経由だったのかは、今でもよく分らないけど。

 

 

その翌年、例の「ウィ・アー・ザ・ワールド」にディランが参加していて、ディラン風歌唱法という意味では、あれのメイキング・ヴィデオが面白かった。というのも、ディランはどう歌ったらいいのか分らず、スティーヴィー・ワンダーがディラン本人に、ディラン風の歌い方をやって聴かせ教えるという場面があるのだ。

 

 

だいたいボブ・ディランという人は、自分の曲じゃないと、どう歌ったらいいのか分らなくなる人らしい。いや、自分の曲だって、1994/95年にローリング・ストーンズが「ライク・ア・ローリング・ストーン」をカヴァーしていた頃、この曲をライヴ共演したディランは歌い方が分らず、ミックやキースに聞いたらしいよ。キースは「知るかそんなの、アンタの曲だぞ」と言ったとか。

 

 

そういうエピソードはともかく、ジミヘンの歌い方がディランに大きな影響を受けたものだということは、本人の言葉を借りなくても、聴けば誰でも分ることだ。影響というよりジミヘンは最初からああいった歌い方だったらしく、それに自信がなかったけど、ディランを聴いてこれでいいんだと思ったようだ。

 

 

余談だけど、ディランの歌い方は、一昨年83歳で死んだ僕の父親もなぜだか知っていて、テレビの歌番組でぶっきらぼうで投げやりな歌い方をする日本人歌手が出てくると、「ディランみたいだな」と言っていたことがあった。父親は自分ではディランのレコードなんか買ったことはなかったはずなのに。

 

 

そういう風なことを当時考えさせてくれたり、今でもいろいろと思い出させてくれたりはするけど、それ以外は『ザ・クライ・オヴ・ラヴ』のことはサッパリ憶えていない。それに比べると、二枚組ライヴ盤の『ザ・ジミ・ヘンドリクス・コンサーツ』の方は内容も良かった。

 

 

CD化されているのかもチェックしていないんだけど、この二枚組ライヴ盤は、いろんな場所・時期のライヴ音源を寄せ集めたものだったようだ。このアルバムでは、ジミヘンの歌い方より、ギター演奏の方に耳が行った。その中でも、「レッド・ハウス」と「ヴードゥー・チャイル」が良かったような記憶がある。

 

 

「ヴードゥー・チャイル」の方は、ギル・エヴァンスのスタジオ録音によるジミヘン集で聴いていた曲だったけど、それはチューバがメロディを吹くというとんでもないアレンジだったし、曲の面白さはイマイチ分りにくかった。その二枚組ライヴ盤での「ヴードゥー・チャイル」で、ワウを初めて聴いたかもしれない。

 

 

いや、待てよ、ロック好きの弟が買ってきていたクリームの『ウィールズ・オヴ・ファイア』に入っていた「ホワイト・ルーム」を聴いた方が先だったか。あれもワウの使い方が印象的な曲。ジミヘンとどっちを先に聴いたのか、分らなくなっちゃったなあ。ファズについては、レッド・ツェッペリンその他で馴染んでいた。

 

 

ツェッペリンの方を先に聴いていたから、僕はエレキ・ギターの音とはこういうものかと思っていたわけだなあ。だからジミヘンのファズには、特になんの感想もなかった。それにマイルスの『アガルタ』『パンゲア』で弾くピート・コージーが大好きで、あれではファズを目一杯深くかけて弾いていたからねえ。

 

 

今考えたら、『アガルタ』や『パンゲア』などは、ある意味ジミヘン・ミュージックの延長線上に成立したようなものだったわけだ。でも僕はマイルスの方を先に聴いていたわけだから、その辺の影響関係というか系譜というか順番がグチャグチャに混乱していて、整理されてきたのはだいぶ後になってのこと。

 

 

ただ、ピート・コージーとジミヘンに関しては、ジミヘンの方がコージーの尻を追いかけ回していたという、マイルスの言葉もあるけど、本当のところは全く知らない。生れはジミヘンの方が一年だけ早いんだけど。

 

 

Pファンク関連で一番好きなアルバムである『マゴット・ブレイン』も、エディ・ヘイゼルはもろジミヘン系統のギタリストだったわけだし、彼の弾くギターだけでなく、そもそもPファンクだって、ジミヘン路線から拡大したようなファンク・ミュージックだった。そしてまたジミヘン自身もファンクに向いつつあった。

 

 

ファンクへ向いつつあったとかそういうことを、ジミヘン最後期のスタジオ録音をまとめた『ファースト・レイズ・オヴ・ザ・ニュー・ライジング・サン』とか、ラスト付近のライヴ音源を聴いていると感じるわけだけど、結局彼自身はそれを明確には示さずに死んでしまった。

 

 

それがちょっと残念なんだけど、その方向性はPファンクやマイルスなどがしっかりと理解して受継いで、1970年代アメリカン・ブラック・ミュージックの成果として示してくれた。ジミヘンの遺伝子は確かに継承されたわけだね。80年代からのプリンスも、その同じ方向性の上にあるわけだしね。

2016/02/24

スティーヴィーのスタンダード曲集

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ほんの一時期だけ、スティーヴィー・ワンダーのアルバムでは『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』をよく聴いていたことがある。スティーヴィーのファンで、そういう人はおそらく殆どいないんじゃないかと思うけど。これはタムラ(モータウン)への1963年のスティーヴィーの三作目。

 

 

確かその頃のスティーヴィーは、<リトル・スティーヴィー>という愛称が取れたか取れないかの頃で、まだ13歳。この『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』というアルバムは、そのアルバム・タイトルでも分る通り、ジャズ系のスタンダード・ナンバーばかり採り上げて、オーケストラをバックに歌っている。

 

 

大学生の頃は、スティーヴィーのアルバムでは、以前書いた通り二枚組LP+EPの『キー・オヴ・ライフ』しか持ってなくて、『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』も、おそらく東京に出てきてから、タワーレコードかどこかの大手輸入盤ショップで買ったんだった。

 

 

これを買った理由は、もちろん僕が熱心なジャズ・ファンだったからで、ジャズ系のスタンダード・ナンバーばかり歌っているスティーヴィー・ワンダーって、どんな具合なんだろうと凄く興味があったわけだ。入っているのもスタンダード曲の中でも好きな曲ばかりだったしね。ジャケットも気に入った。

 

 

特に二曲目に入っている「星に願いを」。ネッド・ワシントン〜リー・ハーライン・コンビのディズニー映画ナンバーであるこの曲は、あらゆるポップ・ナンバーの中で、僕が最も好きな曲(の中の一つ、ではない)だったことは、以前書いた。ジャズマンによる無数のカヴァーがあって、特にルイ・アームストロングのが大好き。

 

 

こういうアルバムを企画したのは、タムラ(モータウン)の社長、ベリー・ゴーディーだったらしい。彼の発案で、ジャンル・クロスオーヴァーな作品を、しかもフル・オーケストラをバックにスティーヴィーに歌わせたわけだね。しかし売れなかったらしい。今でも殆ど人気はないはず。

 

 

でも『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』を聴いてみたら、なかなか悪くなかった。もちろんジャズ系歌手のような上手さはなかったんだけど、13歳という若い声の初々しさが微笑ましくて、まあ押し引きというか緩急というか、そういうものはまだ全く分ってないんだけど、これはこれで楽しかった。

 

 

どの曲も声を張上げていて一本調子なんだけど、若くて伸びやかな声には好感が持てたんだよなあ。まあしかし、スティーヴィー等ソウル系のファンにも、もちろんこういうスタンダード曲をよく聴くジャズ系のファンにも、これは全くアピールしない内容のアルバムではあるだろうなあ。

 

 

マルチ楽器奏者のスティーヴィーだけど、『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』では、ほぼヴォーカルに徹している。この頃のアルバムはこれ以外もそうなんだろうか?僕が熱心に聴いているのは、1963年のこのアルバムを除けば、66年の『アップ・タイト』からなので、知らないだけなのだ。

 

 

僕の知る限り、1970年代以後はほぼどんな楽器でもこなすようになり、それで一人多重録音でスタジオで創り上げたような曲も結構出てくるようになる。一番好きなのが『キー・オヴ・ライフ』付属EPに入っていたインスト・ナンバーの「イージー・ゴーイン・イヴニング」で、全部の楽器をやっている。

 

 

『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』収録曲で僕が一番気に入っていたのが、有名な「明るい表通りで(On the Sunny Side of the Street)」だ。これは歌物もインスト物も含め、もう無数にジャズマンによるカヴァーが存在する。歌物ではこれもやはりサッチモのが一番有名かも。

 

 

インストルメンタル物なら、エリントン楽団のジョニー・ホッジズの吹くヴァージョンが一番有名だろう。そういった無数のジャズ・カヴァーで親しんできた曲で、それだけにリトル・スティーヴィーのヴァージョンを楽しみに聴いた。なかなかいいよ、ここでは。しかもこの曲だけ彼のハーモニカ・ソロが入っている。

 

 

また三曲目で、チャールズ・チャップリンの有名な「スマイル」も歌っていて、それもなかなかいいフィーリングだ。実はこの有名曲、有名なのに、僕はこのアルバムのリトル・スティーヴィーのヴァージョンで初めて聴いて、それで好きになった曲だった。当時はチャップリン映画は映画館ではあまり観られなかった。

 

 

このアルバム収録曲は、八曲目の「ゲット・ハッピー」以外は、全部バラード・ナンバー。その辺もバラード好きの僕にはピッタリの内容だった。アップ・テンポの「ゲット・ハッピー」では、ジャジーな楽器ソロも入る(スティーヴィーではない)。これも無数のヴァージョンがあるよね。

 

 

もちろん無数のカヴァーがあるなんて言出したら、このアルバム収録曲は全部超有名なスタンダード・ナンバーばかりなんだから、全部の曲について言えることではある。歌物でもインスト物でも、主にジャズ系の人達によって、このアルバムのスティーヴィーをはるかに超えるヴァージョンが存在する。

 

 

そして書いたように、このアルバムで知ったチャップリンの「スマイル」以外の曲は、全ての曲についてそういうジャズマンたちによる優れたヴァージョンをいろいろと既に聴いていたにも関わらず、このリトル・スティーヴィーのアルバムを気に入って一時期愛聴していたのは、いったいどうしてなんだろう?

 

 

肝心のスティーヴィーのヴォーカルだって、大学生の時に『キー・オヴ・ライフ』を聴いていて、どう考えてもそういうものの方がはるかに優れていると思うのになあ。その頃、あまりスタンダード曲などのジャズ・ヴォーカルとは縁のなさそうソウル歌手だと思っていたから、単に少し新鮮に感じただけなのか?

 

 

もちろんそういう側面は否定できない。熱心なジャズ・ファンだった僕は、普通はジャズとはあまり関係なさそうな歌手やミュージシャンがジャズ・スタンダードをやったりしているアルバムを発見すると、どんな風になっているんだろうと興味津々だった。昔はそういうアルバムをいろいろ買って聴いた。

 

 

でもそういう興味本位だけで買ったアルバムは、一度聴くと大抵あまり面白く感じず、殆どはそのままお蔵入りしてしまっていた。ところがスティーヴィーの『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』だけは大変気に入って、しばらく繰返し何度も聴いていたもんなあ。なにかあったんだろうなあ。

 

 

このアルバムのなにがそんなに気に入ったのか、今CDで聴直しても、イマイチよく思い出せない。今聴き返すと、バックのオーケストラのアレンジとサウンドはいいとは思うけど、先に書いたようにスティーヴィーの歌はかなり一本調子で、あまりピンと来ないんだよなあ。

 

 

つらつらと考えてみるに、やはり13歳という若さでのスティーヴィーの初々しい歌声で綴られるスタンダード・ナンバーを、微笑ましくて親しみやすく感じていたんだろうなあ。聴く側の僕は既にこういうスタンダード曲はほぼ全部知り尽していたから、まだ20代だったけど、まるで子供を見守る親のような?

 

 

つまり『キー・オヴ・ライフ』とかの70年代のアルバムは、正対してじっくり対峙するような聴き方だったけど、『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』は、余裕を持ってゆっくりと見守るような、そしてその初々しい歌を好ましく感じるような、そんな気持だったんだろうなあおそらく。

 

 

スティーヴィーは1960年代初頭からレコーディング活動を開始しているから、既に相当なヴェテランのように感じているけど、1950年生れのまだ65歳なんだよね。70年代以後の傑作群を始め、それ以後は完全に功成り名を遂げた一流ソウル・ミュージシャンになっているけど、まだまだ若い。

 

 

エスタブリッシュメントとなった今のスティーヴィーが、13歳の頃に歌った『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』のようなスタンダード・ナンバーを歌ったら、果してどんな感じになるのか、凄く興味があるんだよね。ひょっとしたらライヴ・ステージなどでは歌っているのかなあ?

 

 

とまあそんなことを少し考えながら、今日また『ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート』を聴直していた。わずか33分程度しかないアルバムだけど、これはこれで悪くはないよね。でもまあこれ、一般のジャズ・ファンも一般のソウル・リスナーも、かなり退屈に感じちゃうよねえ。

2016/02/23

ウェザー・リポートのヴォーカル・ナンバー

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以前書いた通り、ウェザー・リポートの最高傑作曲は『ドミノ・セオリー』一曲目「キャン・イット・ビー・ダン」(https://www.youtube.com/watch?v=KNnPks3CQWM)だと思っているけれど、その次にいいと思うのが次作の『スポーティン・ライフ』四曲目(A面ラスト)の「コンフィアンス」だ。『スポーティン・ライフ』は、このバンドが最もヴォーカルを多用したアルバム。

 

 

『スポーティン・ライフ』というタイトルは、例のジョージ・ガーシュウィンのオペラ『ポーギー・アンド・ベス』の登場人物の名前だけど、どうしてこの名前がアルバム・タイトルなのかは、当時も今も僕には全く分らない。どなたかお分りになる方がいらっしゃったら、教えていただきたい。

 

 

ウェザー・リポートがヴォーカルを使った曲というのは、全アルバムを通して全部で14曲しかない。ヴォーカル曲だけのプレイリストをiTunesで作っているので分るだけ。デビュー・アルバムでアイアート・モレイラが歌ったり、その後ジャコ・パストリアスがハミングしているものは入れていないけれど。

 

 

デビュー・アルバムでアイアート・モレイラが少し歌うというか声を出しているものを除けば、ウェザー・リポートが初めてヴォーカルを使ったのは、次作1972年『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』一曲目の「アンノウン・ソルジャー」だ。もっともやはり控目な味付け程度のものだ。

 

 

その後、1974年の『ミステリアス・トラヴェラー』に「ジャングル・ブック」が、75年の『幻想夜話』に「バディア」が、78年『ミスター・ゴーン』に「アンド・ゼン」が、79年のライヴ盤『8:30』に「ジ・オーファン」があるけれど、やはりどれもヴォーカルの使い方はスパイス程度のものでしかないもんね。

 

 

そういうわけなので、ウェザー・リポートが本格的な<歌>といえるものを歌うヴォーカリストを起用したのは、やはり以前も書いた通り、1983年『プロセッション』の「ウェア・ザ・ムーン・ゴーズ」が初だ。起用したのはマンハッタン・トランスファー。あんまり面白いとも思えないけれどね。

 

 

そしてその後は専門のヴォーカリストをたくさん使うようになり、そういうヴォーカル曲でのウェザー・リポートの最高傑作が1984年『ドミノ・セオリー』の「キャン・イット・ビー・ダン」ということになる。その次の85年『スポーティン・ライフ』には四曲もヴォーカル曲がある。

 

 

『スポーティン・ライフ』でも、前作で使って成功したカール・アンダースンを引続き起用し、またボビー・マクファーリン、ディー・ディー・ベルスン、アルフィー・サイラスなども参加していて、派手なヴォーカル・アルバムと言ってもいいくらいの内容。世評は全然高くないけれど、僕は大好きなアルバム。

 

 

その『スポーティン・ライフ』の四曲目「コンフィアンス」は、1981年マイルス・デイヴィスのカム・バック・バンドのパーカッショニストとして名をあげたミノ・シネルが書いたオリジナル曲で、ミノがパーカッションだけではなくアクースティック・ギターを弾きながら、本格的に歌っている大好きな一曲。

 

 

 

どうです?いいでしょう?ここでミノ・シネルが歌っているのは、英語とフランス語のピジン(混交語)だ。ミノはフランス出身だけど、父親がマルティニーク出身なので当地をよく訪れていたらしい。まあ歌詞の意味は僕には殆ど分らないけれどね。

 

 

1981年にマイルス・デイヴィス・バンドでデビューした時は、パーカッションしか担当していなかった(その姿を81年、83年の来日公演でも観た)ので、ギターもこれだけ弾き、なによりヴォーカルがこんなに味のある人だとは、全く想像すらしていなかった。初めて聴いた時はかなり驚いたんだよね。

 

 

解散後に知ったことだけど、ミノ・シネルは1984〜86年にウェザー・リポートに参加していた頃に、同バンドのライヴ・ステージでは結構歌っていたらしい。でもそれは全く知らなかったから、『スポーティン・ライフ』の「コンフィアンス」がミノのヴォーカルを聴いた最初だったんだよね。

 

 

でも1985年のリリース当時に聴いた時は、「コンフィアンス」や他のヴォーカル曲を、たいしていいとも思っておらず、やはりインストルメンタル・ナンバーの方が好きだった。「インディスクレションズ」やマーヴィン・ゲイの「ワッツ・ゴーイン・オン」のカヴァーや「フェイス・オン・ザ・バールーム・フロア」だね。

 

 

今の僕の耳で聴くと、『スポーティン・ライフ』のそういうインスト曲は、どこがいいのやらサッパリ分らない。唯一、ザヴィヌルのキーボードとショーターのソプラノ・サックスとのデュオ演奏「フェイス・オン・ザ・バールーム・フロア」だけが美しいなあと今でも感じる程度だ。あの曲のソプラノは絶品。

 

 

マーヴィン・ゲイの最有名曲「ワッツ・ゴーイン・オン」のインスト・カヴァーだって、サッパリダメだもんなあ。マーヴィンのオリジナルに倣って冒頭に人声の会話が入り、それは様々な言語によるもので、日本語だって聞えたりするけれど、シンセサイザーがメロディを弾く演奏は全然面白くもなんともない。

 

 

それに比べて、例えばB面一曲目の「パール・オン・ザ・ハーフ・シェル」などは、ボビー・マクファーリンの超絶技巧ヴォーカルをフィーチャーしていて、今聴いてもなかなか面白い。最初ショーターがテナーとソプラノを多重録音しているのかと思ったら、テナーに絡むソプラノみたいな音はマクファーリンの声だ。

 

 

「パール・オン・ザ・ハーフ・シェル」でヴォーカルを担当しているのはボビー・マクファーリンだけ。「コンフィアンス」もミノ・シネルだけだけど、その他のヴォーカル曲は全てコーラスだ。『プロセッション』でマンハッタン・トランスファーを起用して以来、ザヴィヌルはコーラスの方をよく使う。

 

 

そのマンハッタン・トランスファーを使った「ウェザ・ザ・ムーン・ゴーズ」は、ライヴ盤『ライヴ・アンド・アンリリースト』にも収録されていて、そこではザヴィヌル自身がヴォコーダーを使って歌っている。公式ライヴ盤に収録されているヴォーカル曲はこれだけ。他にもやってはいたみたいだけど。

 

 

昔はヴォーカル物よりインスト物の方が好きだったから、ウェザー・リポートでもそうだったけれど、最近は圧倒的にヴォーカルの入る音楽の方が好きだから、ウェザー・リポートでも『ドミノ・セオリー』とか『スポーティン・ライフ』といったアルバムが、昔よりもっと好きになってきているんだよね。

 

 

以前も書いた通り、1983年からのザヴィヌルがどうしてこんなにヴォーカルを多用するようになったのか、分るような分らないような、イマイチはっきりしないんだけれど、ウェザー・リポート解散後のソロ・プロジェクトでもヴォーカル・ナンバーが凄く多いし、最初からそういうポップな指向性の人なんだろう。

 

 

マイルス・デイヴィスのために書いた曲や、それを彼とともに録音したアルバムとか、その後の前期ウェザー・リポートで一躍有名人になったザヴィヌルで、僕もその時期にザヴィヌルを知ったんだけど、ヴォーカルの多用は、ポピュラー音楽としてのジャズのあり方を考え直すようになったということだろう。

 

 

ウェザー・リポートでも「キャン・イット・ビー・ダン」や「コンフィアンス」が最高だし、その後のソロ活動なんかヴォーカル曲ばかりだし、サリフ・ケイタと一緒にやったりと、そういう方がザヴィヌル本来の持味だったんだろう。ヴォーカル曲の方が好きだなんていうウェザー・リポート・ファンは、絶対に僕だけだよなあと思っていたら、以前四ッ谷いーぐるの後藤雅洋さんが、ザヴィヌルは「分っている」と言ったことがあったなあ。

2016/02/22

ディスクを全部ビニール袋に入れなくても・・・

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ほしくてたまらないけど、定価が四万円以上もするから絶対に買えなかったPヴァイン盤のB.B. キングのRPM〜ケント時代(ほぼ)全集18枚組。これが最近中古(といっても未開封の新品状態だけど)で約三分の一程度の値段まで下がってきたので、なんとか買うことができて、大変に嬉しい。

 

 

それで聴いて楽しくてたまらないのはいいんだけど、問題はパッケージングだ。商品自体が厳重にシールドされているのはいいとしても、それを破って箱を開けたら、それがさらにラッピングされていて、それ破って中身を出してみると、CDを入れた17個の紙ジャケットが、これまた全部ビニール・シールドされていた。

 

 

18枚組と書いたけど、それは一枚LPレコードがあるせいで、CDは17枚。それがご丁寧にも一個一個ぜ〜〜んぶピッタリとビニール・シールドされているという不可解仕様で、カッターで切込みを入れないと破れないようになっていたんだなあ。これはいくらなんでもやりすぎだろう、Pヴァインさん。

 

 

その一個一個のCDパッケージのビニール・シールドを破って開けると、紙ジャケットの中に入っているCD本体がさらに不織布でできた容れ物に入っていた。なんなんだこれは?40年近くもお世話になりまくっているレーベルだからあまり言いたくないが、全部開けるのに手間がかかり、ゴミが出るだけだった。

 

 

17枚全部ぴっちりとしたビニール・シールドがされているなんてのは初体験で、これはどう考えてもやりすぎだろうと思うんだけど、ジャケットの中のCD本体が不織布とかビニールでできたケースに入っているというのは、日本盤だとごく当り前の普通のことだ。だけど、僕はこれが嫌いなんだよなあ。

 

 

僕はレコードでもCDでも、ディスクをビニールなどの袋に入れず、そのまま裸でジャケットの中に入っていてほしいと思う人間で、だから大抵の場合、ディスクがビニールなどの袋に入っている日本盤は取出す際の手間が二重になって嫌だから、それもあって昔から輸入盤があればそっちを買うんだよね。

 

 

輸入盤を買う理由としては、そんなのはもちろん副次的なもので、輸入盤の方が安いとか、国内盤なんかないものがあるとか、同じジャケットでも色味が違うとか、音質も違うとか、それらが主たる理由なんだけど、CDなら最近はデジパックも増えてはきたものの、紙ジャケットだと裸で入っているのもいい。

 

 

ところがディスクが裸で入っているのが許せないというファンが日本には多いらしく、おそらくこんなのは日本だけだ。この手の話を海外の音楽ファンとしたことはないけれど、なぜ分るのかというと、海外盤はほぼ全てパッケージの中に裸で入っているもんね。それが当り前なんだ。日本盤は丁寧すぎるだろう。

 

 

2009年にビートルズの全公式音源が新リマスターで出た時も、僕は当然輸入盤(イギリス盤)を買ったんだけど、ステレオ・ボックスはやはり全て紙でできたパッケージの中に裸のまま入っていた。ところが当時輸入盤のステレオ・ボックスやバラ売りのステレオ盤を買った日本のファンからは、悲鳴めいたものが挙っていた。

 

 

いわく、裸のままCDが入っているなんて絶対無理!とかディスクに傷が付きそう!だとか、その種の悲鳴だった。輸入盤を買うことがなかったんだろうか?だから日本のビートルズ・ファンは、ディスクを入れるビニールの袋(正確な名称は知らない)だけ買っていたらしく、その種の情報が飛交っていた。

 

 

どこでCDを入れる用のビニール袋が買えるか?とかそういう情報交換を盛んに目にしたもんね。で、そういうものを買って、ディスクをそれに入れた上で紙でできたパッケージに入直すらしい。そんなことするなら、最初から日本盤のボックスを買えばいいじゃないか。日本盤がどうなっていたか知らないが。

 

 

知らないけれど、日本盤のステレオ・ボックスやバラ売りステレオ盤は、慣例に従ってやはりディスク本体はビニール袋か不織布袋に入っていたに違いない。というのも、ビートルズの2009年リマスター、モノラル・ボックスの方も僕はイギリス盤で買ったのだが、こっちは製造が日本製で、やはり全部ビニール袋に入っている。

 

 

そんな必要はないと思うんだよね。ステレオ盤と違ってモノラル・ボックスの方は、日本得意のミニチュアLPともいうべきオリジナル・ジャケット完全再現の紙ジャケットで、それに入っているCDは紙製の袋に既に入っているんだから、それで充分。それの内側にさらにビニール袋を付けるとはねえ。

 

 

アナログ盤では、海外盤のディスクは普通紙製の袋に裸で入っていた。記憶が曖昧になってきているんんだけど、大抵全部そう。僕も買始めた最初はしばらく日本盤中心だったので、海外盤LPを買うようになった当初は、なんて乱暴なんだ!と感じたものだったけど、再生できなかったことは一度もない。

 

 

正常に再生できなかったのは、レーベル中央にあるべきスピンドル(穴)が正確に中心に空いてなくて、それで再生できないとか、異常に反りかえっていたりしたとかそんなケースだけで、ディスクが紙の袋に裸で入っていたということが理由で傷が付いていて再生不可だったなんてケースは一度もないね。

 

 

海外盤でしか入手できないものもあったということと、日本盤より比較的安価だったという、二つの理由でアナログでも海外盤をたくさん買ったから、紙製の袋にディスクが裸で入っていることは、全く気にもならなくなり、そうなってくると、日本盤のご丁寧なパッケージングを面倒と感じるようになった。

 

 

CD時代になると、海外の音楽家の作品に関しては、ますます輸入盤(大抵本国盤)しか買わないようになって現在に至るので、増える一方の紙ジャケットにCD本体が裸で入っているのは、ごく当然というかそうじゃない場合にはかなり面倒に感じるんだよなあ。前述のB.B. キングのボックスしかり。

 

 

CDでもごくたまに正常に再生できないものがあり、アナログ盤と違って、再生しながら目で見て分るというようなものじゃないから、どういう理由で再生できないのか分らないんだけど、まあ裸でディスクが入っているとかいう理由によるものではないだろう。Macには正常にインポートできたりするし。

 

 

その逆にMacにはどうやっても正常にインポートできないのに、オーディオ装置ではなんの問題もなく聴けるというCDもあったりして、デジタルの世界はどうなっているのか分らんよなあ。以前エル・スールで買ったナイジェリア盤のフジのCDが傷だらけだったけど、しかしオーディオ装置では問題なく聴けた。

 

 

つまり要するにアナログ盤でもCDでも、ディスクが裸のままパッケージに入っているということだけが理由で正常に再生できなかったという体験は、僕の場合は一度もない。僕の聴いてきた全音楽ディスク総量なんてたかが知れているので、知らないだけかもなという気もするけれど。それとSP盤は知らない。

 

 

Twitterでやり取りすることもある保利透さんや毛利眞人さんなど、現在もたくさん過去の日本のSP盤を蒐集してお聴きの方々に一度そのあたりじっくりお話を聞いてみたい気がするんだけど、僕がわずかに読みかじったり写真で見たりした知識では、SP盤は全てペラペラの紙製の袋の中に裸のまま入っているらしい。

 

 

そうじゃないパッケージングのSP盤もあるのかもしれないけれど、まあそういう裸でディスクが入っているというのが、本来の正常な姿なんだろうと思うんだよね。海外盤LPやCDは、それをそのまま引継いでいるだけで、ディスクの扱いはやや乱暴とでもいうか。しかしまあレコードは(海外では)消耗品だからなあ。

 

 

レコードやCDで音楽を聴くというのは、別に高級志向でもノーブルな趣味でもなんでもなく、ごく一般の貧乏庶民の娯楽であって、たまにそういう考えじゃない芸術指向のリスナーが、特にクラシックとモダン・ジャズの世界にはいるみたいだけど、そんな連中の言うことは放っておこう。音楽は気晴しに過ぎない。

 

 

だからLPでもCDでも、多くの日本盤のように、ご丁寧に高級品でも扱うかのごとくにパッケージングしなくてもいいと思うんだよね。再生できて音が聴ければそれでいいんだからさあ。だから(可能性はゼロだろうけど)もしこの文章を日本のレコード会社の方が読むとしたら、考え直していただきたい。

 

 

なお、今日のこの文章は、言うまでもないけれど、全てフィジカル・ソフトにこだわる古い人間の言い分で、配信やストリーミングでのデータだけで音楽を楽しむファンの方々には、ほぼなんの意味も持っていないということは、一応書添えておこう。僕も最近はまあまあ配信で音源を買うようになっている。

2016/02/21

古典ジャズ・ピアニスト達の競演

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ジャズ系の音楽のうち、ソロ・ピアノで奏でられるものでは、20世紀初頭のストライド・ピアノ(ハーレム・スタイル)が一番好きなもの。大衆音楽におけるソロ・ピアノではブギウギ・ピアノも最高に好きだけど、あれはちょっとジャズとも言いにくいだろう。ジャズにも大きな影響を与えてはいるけど。

 

 

ストライド・ピアノは、ピアノ一台だけで演奏される音楽で、これには当然ベースやドラムスといったリズム・セクションは付かない。そもそもピアノという楽器は、一台でオーケストラのような演奏ができるものだし、もしストライド・ピアノにベースやドラムスが入ったりしたら、邪魔で仕方がないはず。

 

 

ストライド・ピアノにリズム・セクションが付くわけないじゃないか、そんな録音はないだろうと言われそうだ。もちろんその通りだけど、僕の知る限り、ほんのちょっとだけあるんだなあ。そのうちの一つが、1965年ピッツバーグ・ジャズ・フェスティヴァルでの実況録音『ザ・ジャズ・ピアノ』だ。

 

 

この1965年ピッツバーグ・ジャズ・フェスティヴァルでは、目玉企画が<様々なスタイルのジャズ・ピアノを、それを創った人の演奏によって聴く>というもので、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、アール・ハインズ、デューク・エリントン、メアリー・ル−・ウィリアムズなど、大御所が大勢出演しているのだ。

 

 

そのなかでメアリー・ルー・ウィリアムズただ一人が、古典スタイルではない演奏を披露している。特に「ジョイシー」。これは1922年にプロ・キャリアをスタートさせた人の演奏とは到底思えない1965年時点での最新型ジャズ・ロックで、ファンキー!

 

 

 

CDリイシューではLP盤時代には未収録だった音源も収録されて、この時のコンサートの模様がよく分るようになった。このアルバムに収録されているストライド・ピアニストは、ウィリー・ザ・ライオン・スミスだけなんだけど、アール・ハインズもエリントンも、その影響を隠さない演奏を披露している。

 

 

ウィリー・ザ・ライオン・スミスとかジェイムズ・P・ジョンスンなど、主に20世初頭に大活躍したストライド・ピアニストは、ジャズ界における初のオリジナルなピアノ・スタイルの持主だったと言ってもいいくらい。スコット・ジョップリンのラグライム・ピアノを初のジャズとする見方もあるけれどね。

 

 

しかしラグタイム・ピアノは完全記譜音楽だし、ジャズ初のピアノ・スタイルというより、ジャズ前史とでも言った方が正確なのではないだろうか。シンコペイトするリズムは、まあまあジャズ的ではあるけれど、まだまだジャズが本来持つフィーリングには乏しいように、僕の耳には聞える。

 

 

前にも書いたけれど、そもそも誕生直前〜誕生直後のジャズにピアノはなく、完全にブラスバンド由来の管楽器音楽として成立した。ピアノは一箇所に据置いて弾くしかない楽器だから、街中を演奏しながら練歩くニューオーリンズ・ジャズのアンサンブルの中には存在しようがない。

 

 

というわけなので、主に1910〜30年代が一番の流行期だったハーレム・ストライド・ピアノこそが、ジャズ界初のピアノ音楽だったと僕は見ている。録音で残っているのはその頃からだけど、ということはこのピアノ・スタイルは、その少し前から存在していたと考えて間違いないだろう。

 

 

さて、先に書いた1965年のライヴ盤『ザ・ジャズ・ピアノ』で、ウィリー・ザ・ライオン・スミスは、ソロで三曲披露している。どれも完全なるストライド・ピアノ・スタイルで、65年録音なので音質もいいから、彼のピアノ・スタイルが非常によく分って、古い録音は苦手という方にはオススメ。

 

 

一曲は「コントラリー・モーション」で、ウィリー・ザ・ライオンのオリジナル曲。それ以外の二曲はいずれもジャズ・スタンダード(一つは「ブルー・スカイズ」、もう一つはスタンダード数曲のメドレー)なので、ストライド・スタイルだけど、純然たるものではなくそれ以外の要素もかなり入っている。

 

 

というわけなので、ウィリー・ザ・ライオンのストライド・ピアノ・スタイルが一番分りやすい「コントラリー・モーション」をちょっと聴いてほしい。彼らの全盛期1920年代の録音も、ほぼこういう感じの演奏なのだ。こういうのが僕は大好きなんだよね。

 

 

 

そしてもう一曲、アルバム・ラストで、ウィリー・ザ・ライオンはじめ、アール・ハインズなど、ほぼ全員が勢揃いして、ハインズの曲「ロゼッタ」を代る代る弾いている。そして、これにはベースとドラムスが入っているというわけなのだ。ウィリー・ザ・ライオン・スミスがリズム付きで弾くのは珍しいはず。

 

 

その「ロゼッタ」を聴くと分るのだが、ウィリー・ザ・ライオンが弾く箇所(誰がどの順番で弾いているか書かれていないけど、スタイルが一聴瞭然なので、すぐに分る)だけが、やや異質に聞える。他のピアニストがベースとドラムス付きで普通に聞えるのに、ウィリー・ザ・ライオン・スミスの演奏ではそれが邪魔。

 

 

どうしてベースとドラムス、特にベースが邪魔というか不必要かというのは、これはもうはっきりしていて、ウィリー・ザ・ライオン・スミスもその他全員もそうだけど、ストライド・ピアノでは、左手の低音部が非常に強力だからだ。これはストライド・スタイル最大の特徴の一つ。これがあるから、独奏で充分。

 

 

<ジャズ・ピアノの父>との異名を持つアール・ハインズも、またデューク・エリントンも、そもそもジェイムズ・P・ジョンスンやウィリー・ザ・ライオン・スミスなどのストライド・ピアノの模倣から出発した人だった。エリントンなどは、ウィリー・ザ・ライオンが影響源であったことを隠さなかった。

 

 

それは、『ザ・ジャズ・ピアノ』に収録されているエリントンのピアノ独奏「セカンド・ポートレイト・オヴ・ザ・ライオン」にも、はっきりと表れている。 曲名がもちろんトリビュートだし、聴けば分るように露骨にストライド・スタイルだね。

 

 

 

なぜ「セカンド」が曲名に入っているかというと、エリントンは「ポートレイト・オヴ・ザ・ライオン」という曲を、1939年にコロンビアに録音しているからだ。ピアノ・ソロではなくオーケストラでの演奏。それは別にウィリー・ザ・ライオン・スミスの音楽的な影響は聴けないけれども、敬愛を込めての曲名だ。

 

 

またさきほど貼った音源を聴けば分るように、「セカンド・ポートレイト・オヴ・ザ・ライオン」では、ストライド・スタイルから、途中で突然印象派風のピアノに移行する。印象派スタイルも、エリントン・ピアノの大きな特徴の一つだった。二つの大きなスタイルが同居していて、大変面白い音源だよねえ。

 

 

また『ザ・ジャズ・ピアノ』一曲目のアール・ハインズ独奏「サムウェア」。 ここでも、ほぼ全面的にハインズが確立した右手の単音弾きスタイル(トランペット・スタイル)だけど、影響源だったストライド風な残滓が、かすかに聞けるように思う。

 

 

 

アール・ハインズは、その後に続くほぼ全員のジャズ・ピアニストに非常に大きな影響を与えていて、彼の右手単音弾きスタイルを踏襲していないジャズ・ピアニストは、ほぼ存在しないと言ってもいいくらいなんだけど、モダン・ジャズのピアニストとの最大の違いは、左手で弾く低音部の強力さだろう。

 

 

戦前のジャズ・ピアニストは、右手単音弾きスタイルでも、左手がかなりしっかりしていた。やはりハインズから非常に大きな影響を受けている、スウィング期のジャズ・ピアニストで僕が一番好きなテディ・ウィルスンだって、左手の低音部は強力。だから、ベニー・グッドマン・コンボにはベースがいない。

 

 

それもこれも、ぜ〜んぶ元を辿れば、ジェイムズ・P・ジョンスンやウィリー・ザ・ライオン・スミスなのだ。モダン・ジャズでも、セロニアス・モンクみたいに、ストライド・スタイルの継承者のような人もいる。僕はだからモンクのソロ・ピアノが大好き。ビル・エヴァンスのソロ・ピアノより断然いい。

 

 

やっぱりジャズでピアノのソロ演奏を聴くなら、ハーレム・ストライド・スタイルが断然一番いいね。それかあるいは、その強い影響下にある人達の演奏に限る。モダン・ジャズの世界で、僕がソロ・ピアノを聴くのはほぼ唯一セロニアス・モンクだけという、その最大の理由もそこにあるというわけなのだ。

2016/02/20

ラーガなレッド・ツェッペリン〜1972年ボンベイ・セッション

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2014年6月にはじまり2015年7月に完結した、レッド・ツェッペリンの新しいリマスター盤プロジェクト。熱心なツェッペリン・ファンの僕だから全部買ったけれど、従来盤の新リマスターに関しては別にどうってことないというか、確かに音質が違うんだけど、ここ一年くらいの僕は、音質というものがはっきり言ってどうでもよくなってきているし、作品によっては従来盤と左右のミックスが逆だったりして残念。

 

 

だから従来盤に関しては一・二度聴いたきりでその後は全く聴直していない。やはりこのプロジェクトの目玉は、制作側が「コンパニオン・ディスク」と呼ぶボーナス・ディスクだね。しかしそれも、ファースト・アルバムのそれが1969年10月のパリ・ライヴを収録していたこと以外は、面白くないような。

 

 

『II』から『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』までは、ほぼ全部オリジナル・アルバム収録曲のラフ・ミックスだとかオルタネイト・ミックスだとかそんなのばっかりで、そうじゃない完全なる未発表曲は、『II』に一曲、『III』に二曲、『プレゼンス』に一曲と、たったそれだけなんだよね。

 

 

でも1990年にリマスター・ボックス四枚組が出て、これはジミー・ペイジ自らが手がけた、CDとしては初めてマトモな音質で出たものだったんだけど、これに数曲未発表曲が入っていた時のインタヴューで、「もうスタジオ録音では未発表のものは残っていない」と発言していたから、多少はマシなんだろう。

 

 

ところが、これが『コーダ』のコンパニオン・ディスクだけ、かなり様相が異なっているんだよね。特にコンパニオン・ディスク二枚目の最初の二曲が面白すぎる。コンパニオン・ディスクが二枚も付いているのは『コーダ』だけで、しかし一枚目はやはり従来曲のミックス違いとかだから、あまり面白くない。

 

 

それが二枚目冒頭の二曲「フォー・ハンズ」と「フレンズ」だけが、どうしてこんなのがあったんだろうと思うくらい、メチャメチャ面白い。それぞれ「フォー・スティックス」(四枚目)と「フレンズ」(『III』)なんだけど、多分これらにツェッペリンのメンバーはほぼ参加していない。

 

 

どっちも<ボンベイ・オーケストラ>とクレジットされていて、その名の通りインドはボンベイで1972年10月19日に録音されたものとのクレジットがある。でもそれ以外は全くなにも書かれていないし、ネットで調べても詳しい情報が見つからないんだけど、これ、完全なるワールド・ミュージックだ。

 

 

音源を貼っておこう。既にYouTubeに上がってはいたが、それはおそらくブートからだろう、あまりに音質がショボすぎたので、公式盤から自分で上げた。

 

 

 

 

お聴きなれば分る通り、「フォー・ハンズ」は完全にボンベイ・オーケストラだけによるインストルメンタル演奏で、ツェッペリンのメンバーが出す音は全く聞えない。「フレンズ」ではアクースティック・ギターが聞えるから、それはおそらくジミー・ペイジで、ロバート・プラントのヴォーカルもあるよね。

 

 

クレジットされているボンベイ・オーケストラというのが一体どういう存在なのか、誰がどの楽器を担当しているかとか、CDブックレットに全く書かれておらず、ネットで調べてもほぼ何の情報もないので、実際の音しか聴けないわけだけど、これホントなんなんだろうなあ?1972年なら四枚目リリースと『聖なる館』の間。

 

 

ボンベイとはもちろん1972年当時の名称で、現在の公式名称(と言っても極右政党主導によるものだけど)はムンバイ。”Bombay Orchestra” でGoogle検索してみたら、こういうページが見つかった→ http://www.hindustantimes.com/music/when-led-zeppelin-recorded-in-mumbai-and-rocked-a-colaba-nightclub/story-wNMGJXQESp4H0yJzeUi6vN.html これが僕の調べた限りでは、おそらくこの件に関して一番詳しい。

 

 

このページの記述に拠れば、ペイジとプラントは1971〜72年の間に少なくとも四回ムンバイを訪れているらしいが、面白いことになったのは72年の二回、三月と十月のムンバイ訪問らしい。その時は、現地でインド人ミュージシャンとスタジオで共演録音し、現地のクラブで演奏もしたらしい。公式盤クレジットでは十月録音になっているけれど、三月との説もあるようだ。

 

 

『コーダ』コンパニオン・ディスク二枚目に入っている「フレンズ」と「フォー・スティックス」だけだったのか、あるいは他のツェッペリン・ナンバーもやったのか分らないけれど、おそらくその二曲だけだったんじゃないかなあ。だって1972年なら、そういうフィーリングを持っているのはこの二曲くらいしかない。

 

 

前述ページの記述に拠れば、いろいろと録音したらしいそういうインド人ミュージシャンとの共演によるものがブートレグでは出ているらしく、なかには31分にもわたる「フレンズ」のヴァージョンもあるらしいので、ちょっと聴いてみたいなあ。

 

 

と思ってYouTubeで探したら、こういう音源が上がっている→ https://www.youtube.com/watch?v=1-zVB4KdnP8  これを聴くと、やはり「フレンズ」と「フォー・スティックス」のいろんなヴァージョンがあるだけだなあ。これが全貌なんだろうか?しかもこれの記述では三月となっているしなあ。

 

 

『コーダ』のコンパニオン・ディスクに入っている「フォー・ハンズ」も「フレンズ」も、五分ない程度の長さで、凄く面白いからあっと言う間に終ってしまって、もっともっと聴きたいという気分になってしまう。長いものがあるのだとか、他の曲も録音された/されないに関わらず、そういうのを出してくれ、ペイジさん。

 

 

前述ページには、ペイジやプラントと共演録音したインド人ミュージシャンの名前と担当楽器も(一部)記載されていて、しかも録音したスタジオはムンバイのフェロゼシャー・メータ・ロードにあるEMI・レコーディング・スタジオだということだ。どこまで信用できる情報なのか分らないんだけれど。

 

 

そのあたりを公式盤でちゃんと全部書いておいてくれたら助かったんだけどなあ。あるいは将来、いまだ公式には未発表のボンベイ録音(何曲あるのか?)も含め、その辺ちゃんと全部クレジットした上で全曲出してくれたりするんだろうか?ペイジさんも、もうあと20年も生きていないと思うんだけど。

 

 

ご存知の通り、ツェッペリンのワールド・ミュージック指向が本格化するのは1975年の『フィジカル・グラフィティ』からだけど、もちろん69年のファースト・アルバムから「ブラック・マウンテン・サイド」などはっきりとそういう傾向はあったし、70年の『III』には「フレンズ」があったわけで。

 

 

もちろん次作の四枚目にも「フォー・スティックス」があって、それら「フレンズ」と「フォー・スティクス」は、ペイジ&プラント名義による1994年『ノー・クォーター』で、「カシミール」とともに、エジプト人ミュージシャンを本格起用して、明確なワールド指向で再演しているのは、ご存知の通り。

 

 

しかしそういうのは、元からそういうフィーリングを湛えた曲であったとはいえ、やはり1994年のユニットでの新アレンジ、大幅な拡大解釈による新たなる試みなんだと、僕は当時から最近まで思っていたわけだ。ところが72年に既にこんなインド人音楽家との共演があったとはね。

 

 

こうなると、前も書いた通り(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-fc0f.html)、レッド・ツェッペリンというか、ジミー・ペイジとロバート・プラントを、単なるブルーズ・ルーツのハード・ロックの音楽家だとだけ呼ぶのが適切なのか、疑わしくなってくるよね。ワールド指向が強烈にあるじゃないか。

 

 

特にジミー・ペイジは、ツェッペリン結成前のヤードバーズ時代から「ホワイト・サマー」みたいな曲をやっているし(これはツェッペリン結成直後もライヴではやっている)、そもそもジョージ・ハリスンよりも早くシタールを入手して弾いていたという話だし、早くからインド〜アラブ指向のあった音楽家だ。

 

 

それがツェッペリン結成当時は、ジョン・ボーナムの強烈なドラミングとロバート・プラントのメタリックな高音シャウトのおかげでハード・ロック路線で行くと決めて、初期のアルバムやライヴはほぼそれ一本槍(でもないのだが)なわけだけど、どうもこれは考えを改めるべき時期に来ているのかもしれないね。

 

 

そういうわけだから、ツェッペリンの『コーダ』三枚組デラックス・エディションをまだお聴きでない方は、是非買って聴いていただきたい。そしてジミー・ペイジさんには、1972年ボンベイ(ムンバイ)・セッションの全貌を、是非とも一刻も早く公式に詳らかにするように強くお願いする次第だ。

2016/02/19

マイルスの「ウォーターメロン・マン」

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ハービー・ハンコックのファンキー極まりないオリジナル曲「ウォーターメロン・マン」。ハービー自身による1962年のオリジナル以外にも、70年代に彼自身がファンク化して何度も再演しているし、モンゴ・サンタマリアによるカヴァーは有名だろう。

 

 

 

「ウォーターメロン・マン」をカヴァーした数多くのミュージシャンのうち、モンゴ・サンタマリアのヴァージョンは間違いなく一番有名。彼自身お気に入りのナンバーで、上に音源を貼った1962年の初カヴァー以後も、何度も再演している。その他、この曲は一説に拠れば200個以上のカヴァーがあるらしい。

 

 

そして、案外知られていないのではないかと思うのが、1991年のマイルス・デイヴィスによるカヴァーだ。同年7月10日のパリにおけるライヴで、これはマイルスが亡くなる二ヶ月前の、ファンの間では有名な同窓会セッション・ライヴ。

 

 

 

貼った音源をお聴きになれば分る通り、マイルスがテーマ・メロディを吹いているのではなく、ハービー・ハンコック自身がシンセサイザーで参加していて、彼とバンド(マイルスの当時のレギュラー・バック・バンド)がテーマを演奏する上で、マイルスは自由に吹き転がっている。1987年頃からのライヴでは、自分のバンドでもいつもこんな感じだった。

 

 

なんたって、テーマ・メロディに入るキューになっているリッキー・ウェルマンによるスネア三発が心地いいし、テーマ演奏後は、マイルスのハーマン・ミュート・トランペットの音をサンプリングしたハービーによるシンセサイザー演奏が、マイルス本人のハーマン・ミュート・プレイと絡むという面白い内容。

 

 

1991年の時点でのマイルスがやっても、こんな感じで活き活きとしたファンク・ナンバーに仕上るというのが、「ウォーターメロン・マン」という曲の素晴しさだ。マイルスはこの年のはじめに、イージー・モー・ビーとタッグを組んだヒップホップ・アルバム『ドゥー・バップ』(の一部)を録音している。

 

 

『ドゥー・バップ』は、1991年の制作途中でマイルスが死んでしまったために、残っていた過去音源、ファンの間で<ラバー・バンド・セッション>と呼ばれる85年の音源から、イージー・モー・ビーがピックアップして音をかぶせ、91年録音済の音源と併せ、翌92年6月にリリースされた遺作。

 

 

<遺作>といってもマイルスの生前にリリースされたものではなく、生前最後の作品は以前書いた通り、ミッシェル・ルグランと組んだ映画『ディンゴ』のサウンドトラック盤で、僕らマイルス・ファンの間では、こんなものがあのマイルスの遺作になってしまうのかと、相当ガッカリしていたような記憶がある。

 

 

だから翌年に『ドゥー・バップ』が出て、これがマイルスの(スタジオ録音では)ディスコグラフィーのラストを飾るようになったのは、嬉しかったわけだ。このヒップホップ風なアルバムは、なかなか面白い作品だよねえ。マイルスがあと数年生きていたら、本格的なヒップホップをやっていたはずだよ。

 

 

なお、イージー・モー・ビーが素材にした、俗に言う<ラバー・バンド・セッション>。1985年のワーナー録音なのだが、いまだに公式には全貌が明らかになっていないというかリリースされていない。マイルスがバンド形式でやった録音では、ワーナー期のベストじゃないかと思うのに、なぜ出さないんだ?

 

 

ともかく1991年7月10日のパリでの同窓会セッション・ライヴは、そんな最晩年の録音で、しかも「オレは絶対に過去を振返らない」などと前々からしばしば口にしていた(が前々から実はそんなことはない)マイルスが、死の二ヶ月前に、過去に共演したサイドメンを大勢呼んで、過去の曲を再演したもの。

 

 

だから、このライヴは当時かなりの話題になっていた。音源がブートでリリースされる前から、雑誌等で取りあげられていた。なんたってジャッキー・マクリーン参加の「ディグ」や、チック・コリアとデイヴ・ホランド参加の「オール・ブルーズ」や、ウェイン・ショーター参加の「フットプリンツ」とか。

 

 

マイルス自身も1981年の復帰後は、完全に生トランペットだし、そういう過去曲で共演の過去のサイドメン達も、ほぼ全員アクースティック・サウンドだし。正直言うと、そういう「ディグ」「イン・ア・サイレント・ウェイ」「オール・ブルーズ」「フットプリンツ」などは、あまり面白いとは思えない。

 

 

あのマイルスが過去の(特に「ディグ」なんか1951年)曲を過去のサイドメンを大勢呼んで再演したという、その事実そのもの以外に、これといった意義は見出せないような気がする。演奏自体も大したことはないし、マイルス自身が過去に録音した名ヴァージョンとは比べることすらできないだろう。

 

 

しかし、僕が聴く限りでは、先に音源を貼ったハービー・ハンコック客演の「ウォーターメロン・マン」だけは、ちょっと面白いように思うんだなあ。この曲は再演ではなく、僕の知る限りではマイルスは初演のはず。マイルスだって、もちろんハービーのオリジナルも、モンゴ・サンタマリアのも聴いてはいたはずだけど。

 

 

特にモンゴ・サンタマリアには、マイルスは注目していたらしく、このバンドで演奏するいろんなジャズ系ミュージシャンの演奏も、なかには気に入った人もいたようだ。1974年にマイルス・バンドにレギュラー参加するサックス&フルートのソニー・フォーチュンも、モンゴ・サンタマリアのバンドから引抜いた人だった。

 

 

さらに1970年代にハービーがやっていたファンク・ヴァージョンの「ウォーターメロン・マン」もマイルスは聴いていて、ハービー以外にも、チック・コリアとかウェザー・リポートとか、インタヴューなどでしばしば名前が挙っている。特に独立後のチックの音楽が気に入っていると発言したこともある。

 

 

だから、1991年7月にハービー参加で「ウォーターメロン・マン」をやるのは、別に不思議でもなんでもないだろう。でも当のマイルス本人が演奏するヴァージョンは全く存在しなかったので、僕などには新鮮だった。ハーマン・ミュートの音をサンプリングしているハービーは遊んでいるんだろうけど。

 

 

まあ遊んでいるというかふざけているというか。でもハービーは、アクースティックなジャズをやる時もいいけれど、どう聴いても電気・電子楽器でファンクを演奏する時の方が、僕ははるかに好きだし魅力的だと思うんだよね。だから1970年代のマイルスがチックが一番好きと言ったのは、僕にはやや意外だった。

 

 

「ウォーターメロン・マン」以外で、過去曲を過去のサイドメン客演でやったものでは、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターのゲスト参加でやる「イン・ア・サイレント・ウェイ」〜「イッツ・アバウト・タイム」がまあまあじゃないかなあ。前者ではマイルスは全く吹いていないけれどね。

 

 

それら以外は、「パーフェクト・ウェイ」「ニュー・ブルーズ」「ヒューマン・ネイチャー」「リンクル」など、当時のマイルスのレギュラー・バンドによるレパートリーで、それらは可もなく不可もなくといった出来だ。唯一、プリンスがマイルスに提供した「ペネトレイション」が面白いけど、それはまた別の機会に、プリンスとの関係を含め詳しく書くつもり。

 

 

この1991/7/10、パリでの同窓会セッション・ライヴ。『ブラック・デヴィル』という二枚組ブートCDになっていて、またブートDVDも出ている。音も映像もワーナーが公式収録したのだが、現在に至るまで公式には全くリリースされていない。

2016/02/18

二枚組LP偏愛主義

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最近は『アビー・ロード』の方が好きかもなと思い始めているんだけど、長い間僕の中でのビートルズは『ホワイト・アルバム』が一番だった。何回か書いているように、アナログ時代の僕は二枚組LP偏愛主義で、理由はイマイチ思い出せないけど、ゴチャゴチャたくさん聴けて楽しそうと思ったのかも。

 

 

スッキリまとまった一枚物LPアルバムの統一感とかトータリティなんてものを、最初から殆ど意識も重視もしない音楽リスナーだった僕。今でもそれはあまり変っていないので、聴けば聴いたでアルバムの曲順とか流れとかよく分るし素晴しいと感心したりするんだけど、さほど大切にも思っていないのだ。

 

 

とはいうもののビートルズの『ホワイト・アルバム』の曲順というか流れは、非常によく考えられ練り込まれたものだろうと、聴く度に実感する。例えば一枚目A面の「ディア・プルーデンス」が終って、バンバンとリンゴのスネアが二発鳴って「グラス・オニオン」がはじまる瞬間なんか、たまらんよねえ。

 

 

これはほんの一例で、『ホワイト・アルバム』には、他にもたくさん同じような唸ってしまう曲の流れが存在し、二枚組ではあるけれど、バラバラなゴッタ煮のような感じが全くしないのは、さすがと言うしかない。バラバラだというならバンドのラスト・アルバム『レット・イット・ビー』の方がそんな感じ。

 

 

『レット・イット・ビー』の方は、バンドの実質的解散後に、プロデュースを依頼され膨大なセッション・テープを任されたフィル・スペクターがなんとかまとめ上げたというもので、元々のセッション自体が一部を除きだらしないものなんだから、良く出来ていると言うべきなんだろう。

 

 

そういう『レット・イット・ビー』(と『マジカル・ミステリー・ツアー』)を除けば、それ以外はやはり二枚組の『ホワイト・アルバム』より、他の一枚物アルバムの方がはるかにまとまりはいいよね。特に1967年の『サージェント・ペパーズ』以後は、そういうアルバムの創り方をするようになったし。

 

 

なかでも録音順ではバンドのラスト・アルバム『アビー・ロード』の統一感は群を抜いて素晴しい。特にみなさん強調するようにB面のメドレーは、おそらくロック・アルバム史上最も完璧な片面なんだろうと僕も強く実感する。それでもやっぱり僕はいろいろたくさん聴ける二枚組の方が好きなんだよね。

 

 

理由の一つに、1970年代マイルス・デイヴィスのアルバムが、どれもこれも二枚組ばっかりだったというのもあったと思う。69年8月録音で、翌年3月にリリースされた『ビッチズ・ブルー』以後は、スタジオ作もライヴ作も、『ジャック・ジョンスン』と『オン・ザ・コーナー』を除き、全部二枚組。

 

 

以前どなただったかロック・ファンの方が、1970年代マイルスは、当時買って聴いて凄い凄いと思いはしたものの、どれもこれも二枚組ばかりだから、いつも聴き返すのがしんどくて、だから普段から聴き込んでいるマイルス・マニア以外には、なかなか普段聴き返す人は少ないだろうと言っていた。

 

 

おそらくそういうのも理由の一つで、ある時期に『レコード・コレクターズ』誌のマイルス特集号の記事執筆のお鉢が僕に廻ってきたというわけだった。1998年頃のことだったと記憶している。昔もその頃も、普段からマイルスの1970年代二枚組も頻繁に聴いていたし、そのことをよく話題にしていたから。

 

 

エリック・クラプトンだって、最初に聴いたのがデレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』で、もちろんLP二枚組。もっともこれはCDでは一枚になっている。こういうの、実に多いよね。ジミ・ヘンドリクスの『エレクトリック・レディランド』も、ローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』も。

 

 

スティーヴン・スティルスの『マナサス』だって、今はCD一枚だけど、元はLP二枚組だった。ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』なんか、片面聴き終ってひっくり返すこと三回、それが楽しかったんだけど、今はそういうことはなくなった。いいのかよくないのかイマイチ分りにくいねえ。

 

 

明らかによくないのは、LP二枚組で出ていたアルバムをCDリイシューする際に、一枚に収録できないという理由で一部カットしてあったりするものだ。マジック・サムの『ライヴ』だって、デルマークの米盤CDはそうだ。これはPヴァインの国内盤CDは、二枚組で全曲収録してあるから、まだいいよ。

 

 

なかには全曲収録ではない一枚物リイシューCDしかこの世に存在しないものがあるからね。以前も触れたけど、チック・コリアとゲイリー・バートンの1979年チューリッヒ・ライヴ『イン・コンサート』もその一つ。どうしてECMはちゃんと二枚組で全曲収録したのを出さないのか、理解できないね。

 

 

あのライヴ音源に関しては、『ジ・ECM・レコーディングズ 1972-79』というチック・コリアとゲイリー・バートンの全共演を収録した四枚組に、全曲収録されてはいるけど、一枚物CDからはオミットされている二曲以外は、全部CDでも既発だからなあ。ECMもあくどい商売の仕方するよねえ。

 

 

そういうわけで僕も含め熱心なファンは、その二曲だけのためにその四枚組を買っているわけだけど、こういうことは勘弁してもらいたい。二枚組LPで出ていたのもので、約78分というCD一枚の収録時間に入らないものは、ちゃんと元通り二枚組CDでリリースしてほしい。他にもいろいろあるよね。

 

 

LP時代から三枚組とか四枚組とかそれ以上とか、そういうものもあったわけだけど、そういうのはだいたい大抵過去音源のリイシュー物ボックスで、新作アルバムで三枚組とかいうのものは珍しかった。僕はサンタナの『ロータス』(LP三枚組)くらいしか知らない。きっと他にもいくつかありはしたんだろう。

 

 

そのサンタナの『ロータス』は、僕はCDでしか聴いておらず、しかも最初CDでは二枚組で出た(現在はオリジナル通り三枚組CD)ので、なんだか実感がなかったんだよなあ。だからアナログ時代の新作アルバムで三枚組というのは体験したことがないのだ。音楽を熱心に聴始めて約十年でCD時代になったし。

 

 

マイルス関連で触れたように、普段から二枚組ばかり聴くという人は珍しいらしいんだけど、それが本当なら僕はやや例外的な音楽リスナーかもしれないなあ。以前書いたようにジャズのレコードばかり買っていた大学生の頃は、LPを片面ずつ一枚聴いては取替えるという聴き方だったんだけど、例外もあった。

 

 

二枚組というものは、特別に配慮しない限り雑多なゴッタ煮状態になるのが普通だと思うし、アルバムのトータリティというものを重視する音楽家やリスナーは、あまり好きではないらしい。僕は早くに戦前のSP音源が大好きになったので、それのLPリイシューはもちろん諸々の詰合わせなんだよね。

 

 

そんな、詰合わせ状態のSP音源のLPリイシューばかり聴いてきたせいで、どうも僕はまとまりのあるアルバムのコンセプトとか統一感とかそういうものより、ゴチャゴチャいろいろとたくさん聴けるものの方が好きになっちゃったんだろうなあ。それで一曲単位で取りだして聴くのも、別になんの抵抗もなく普通にやる。

 

 

そしてそういう聴き方をするリスナーにとっては、一枚物より二枚組の方が楽しいんだ。書いたように現在のCDリイシューでは全曲が一枚に収録されているものもたくさんあるから、ちょっと長いなと思うだけで、賑やかな楽しさは少し減じてしまっているような気がする。

 

 

ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』もスティーヴン・スティルスの『マナサス』も、二枚組で聴いた方が面白さが伝わりやすいような気がするんだよねえ。各面そういう創り方をしてあったし。こういう言い方は、若いリスナーにはただのレトロ趣味、オヤジの世迷言に聞えるかもしれないけどさ。

 

 

そんなことを言う僕も、今はアナログ・レコード・プレイヤーが自室にないので、CDしか聴いていない。かつてのLP二枚組でCDリイシューでは一枚になっているものは、当然それを聴くわけだ。それでもかつての記憶が残っているから、ストップせずそのまま通して聴いても、頭の中では自動的に二枚組的処理がされているんだよね。

2016/02/17

アメリカン・ミュージックの宝石箱〜エラのソングブック・シリーズ

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エラ・フィツジェラルドの残した全録音を振返って、1950年代後半〜60年代前半の一連のソングブック・シリーズが一番素晴しいと思っているのだが、そういうものがあることを僕が知ったのは、実を言うと90年代に入ってCDリイシューされてからなのだった。全部まとめてボックスになっている。

 

 

 

CD16枚組というデカさで、値段は高騰している現在の中古価格よりは安かったけど、それでもまあまあ値が張ったと思う。でも最初からこれで知ったのだったし、一つ一つバラバラに全部買っていくのは面倒な気がして、一気にこれで揃えてしまった。

 

 

そしてそれは大正解だった。この16枚組はもう一生の宝だ。それまでいろいろと聴いていたエラのどのレコードよりよかった。それまで一番好きだったエラの作品は、エリス・ラーキンスのピアノ伴奏だけで歌った1954年の『ソングズ・イン・ア・メロウ・ムード』だったけど、これがかすんでしまった。

 

 

一般にエラの代表作のようによく言われ、名盤選などでも頻繁に取上げられる1960年のライヴ盤『エラ・イン・ベルリン』などは、僕は大学生の頃にレコードで聴いた時から、どこがいいのかよく分らなかった。特に激賞されている「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」でのスキャットなどは、あまり好きじゃない。

 

 

ルイ・アームストロングの1920年代録音とか、サラ・ヴォーンの82年「枯葉」(『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』)とか、例外的に大好きなものはあるけど、僕はスキャット唱法がイマイチ好きじゃない。普通に歌を歌ってほしいというのも、ジャズ・ファンとしてはヘンかもしれないけど。

 

 

だいたい頻繁にスキャットするサッチモの場合は、ヴォーカルとトランペットのスタイルが完璧に一致していて、彼のヴォーカルはスキャットしていても歌詞入りの普通の歌でも、トランペットで吹いているフレイジングそのまんまなのだ。ヴォーカルとトランペットのどっちが先なのか分らないくらいだし。

 

 

だからサッチモのスキャットは、彼のトランペットを聴いているのとリスナー側のフィーリングも全く同じで楽しめるわけだ。サラ・ヴォーンの「枯葉」の場合は、あれはもう例外中の例外みたいなもんで、あそこまで徹底して楽器的にやれば、聴いていてもスッキリするというか、これでいいよと思える。

 

 

その点、エラのスキャットは、技巧的には凄いと思うんだけど、この歌手はもっと普通にメロディを歌った方が素晴しいのにという気持になってしまうんだなあ。そういうわけだから、『エラ・イン・ベルリン』の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は、著しく高い世評とは裏腹に、僕はあまり評価する気になれない。

 

 

実は、一連のソングブック・シリーズでもエラはよくスキャットしている。特にエリントン曲集では多い。おそらくこれは、他のソングライターの作品集と違ってエリントン曲集の場合、歌詞がまだ付いてない曲も結構取上げているからで、例えば一曲目の「ロッキン・イン・リズム」からスキャット全開だ。

 

 

そしてはっきり言うと、そういう「ロッキン・イン・リズム」みたいなスキャット・オンリーな曲は、やはりあまり好きじゃないのだ。それでもエリントン曲集では、あまり気にもならないのはなぜだろう?おそらくエラのスキャット技巧とエリントン・ナンバーの特徴がピッタリ合致しているからなんだろうなあ。

 

 

エラのヴォーカルの上手さが一番よく分るのも、そのエリントン曲集なんじゃないかと思う。これは一連のソングブック・シリーズ中だけというのではなく、エラの残した全録音を含めても、一番エラの技巧の素晴しさが表れているものじゃないかなあ。しかも、そこではエリントン楽団自体と共演しているしねえ。

 

 

自分の声一本で、あのエリントンのオーケストラと互角に渡り合うエラのヴォーカルを聴いていると、凄まじさを感じるもん。エリントン楽団といえば、そのサウンドの濃密さでは、コンボといわずビッグ・バンドといわず、全てのジャズ・バンド中ナンバー・ワンの存在なのに、こんな歌手は他にはいない。

 

 

スキャット唱法があまり好きじゃないと書いたけど、エリントン曲集でのエラのスキャットを聴いていると、間違いなくこれが彼女の残したスキャット録音では最高峰だと思える。どう聴いても『エラ・イン・ベルリン』の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」なんかよりこっちの方が凄いぞ。

 

 

エラのエリントン曲集は1957年録音。LPでは四枚組だったらしいが、書いたように僕はCDでしか聴いていないので、それは知らない。CDだと三枚。エラのソングブック・シリーズは、これ以外は全部いわゆるティン・パン・アリーのソングライター曲集なので、作曲家自身が演奏しているのはこれだけ。

 

 

CD三枚にわたって、元々歌手が歌うために創られたものではない(多分歌手にとっては)極めて難しいエリントン・メロディを正確無比な音程コントロールと、完璧なディクションで歌いこなすエラのヴォーカルに並び、1957年当時のエリントン楽団のゴージャスなサウンドとサイドメンのソロが聴けるからたまらない。

 

 

エリントン曲集ばかり褒めているけど、他のも全部いいんだ。CD三枚という規模は、他にはガーシュウィン・ソングブックがある。それにはネルスン・リドルのアレンジによるストリングス伴奏が付いていて、他のエリントン曲集以外のソングブックも全てストリングスが入っているんだよね。僕には嬉しい。

 

 

エリントン曲集以外のティン・パン・アリーのソングライター曲集では、僕の個人的な好みだけなら、コール・ポーターが一番好きな作曲家。好きな曲ばかり入っているけど、特に大学生の頃から「ナイト・アンド・デイ」という曲が一番好き。「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オヴ・ユー」もかなり大好き。

 

 

エリントン、ガーシュウィン、コール・ポーター、ロジャーズ&ハート、アーヴィング・バーリン、ハロルド・アーレン、ジェローム・カーン、ジョニー・マーサー。これらが全部エラの素晴しい歌とオーケストラ伴奏で聴けるソングブック集は、20世紀アメリカ音楽の最高のコーナーストーンだろうなあ。

 

 

ジャズとしてと言っているんじゃないんだ。エラはジャズ歌手だけど、このソングブック集は、もはやジャズとかなんとかいう枠に収るような音楽じゃない。20世紀から現在に至るまでの最高のアメリカン・ソングブック、いわゆる<キャノン>だろうと思う。これをアナログ時代に知らなかったのは、痛恨の極みだ。

 

 

だから、アナログ盤しかなかった時代には、エラはイマイチ好きな歌手じゃなかった。みなさんが薦めるいわゆる名盤の類も、どこがいいのか分らないものが多かった。CD時代になってこのソングブック集を知り聴いてみて、エラ・フィツジェラルドはアメリカが産んだ最高の女性歌手の一人だと確信するようになっている。

 

 

エラのヴァーヴ録音ソングブック集、完全盤ボックスだと現在アマゾンでの中古価格が、一番安いので一万二千円程度だけど、16枚組としては安いだろうし、なにより中身の音楽のあまりの素晴しさを考えたら、これを持っていないアメリカ音楽ファンというのは、ちょっと考えられないね。

2016/02/16

ブギウギなデルタ・ブルーズ〜ルイーズ・ジョンスン

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サン・ハウスの「マイ・ブラック・ママ」(2ヴァージョン)が物凄くて、何度聴いてもそれにKOされる、Pヴァイン盤『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』。サン・ハウスの六曲、チャーリー・パットンの四曲、ウィリー・ブラウンの二曲と並び、異彩を放つのがルイーズ・ジョンスンだ。

 

 

名前から分る通り、ルイーズ・ジョンスンは女性でピアノ弾き語り。『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』には四曲入っているが、これが他の三人のブルーズマンのギター弾き語りによるデルタ・スタイルのカントリー・ブルーズとはちょっと違うというか、ややモダンなスタイルなのだ。

 

 

モダンというと、ちょっと語弊があるかもしれない。正確に言えば、ブギウギ・ピアノのスタイルなんだよね。ブギウギ・ピアノはご存知の通り都会のスタイルであって、田舎のミシシッピ・デルタ・ブルーズのセッションに、そういうピアノ・ブルーズをやっているのが、最初に聴いた時からやや意外だった。

 

 

特に「オン・ザ・ウォール」という曲(https://www.youtube.com/watch?v=Ur7Rro1Vda0)、これはどう聴いてもカウ・カウ・ダヴェンポートの「カウ・カウ・ブルーズ」(https://www.youtube.com/watch?v=-1G9eZcsS14)のパターンそのまんまだよねえ。「カウ・カウ・ブルーズ」は1928年の録音。

 

 

だからルイーズ・ジョンスンの「オン・ザ・ウォール」は、そのわずか二年後で、影響例としてはかなり早い。しかしこれ、よく考えたらそうでもないのかも。というのも「カウ・カウ・ブルーズ」で聴ける典型的ブギウギ・ピアノ・スタイルは、おそらくもっと早くから存在していたに違いないからだ。

 

 

カウ・カウ・ダヴェンポートも、そういう以前から存在して、ブルーズ・ピアニストの間ではポピュラーだったパターンを、1928年に「カウ・カウ・ブルーズ」のタイトルで録音・発売しただけだろう。だから別に彼がオリジネイターということでもないはずだ。古いブルーズなんてのはだいたいそうだ。

 

 

デルタのルイーズ・ジョンスンも、「カウ・カウ・ブルーズ」は聴いていただろうけど、そしてそこからの直接的な影響もあっただろうけど、それ以外にももっと前からこのパターンのブギウギ・ピアノを、レコードでではなく、酒場などでの生演奏で聴いていたんじゃないかなあ。そう考えるのが自然だ。

 

 

以前も書いたけれど、ブギウギ・ピアノの初録音が1928年の「カウ・カウ・ブルーズ」で、その後30年代になって、主にピアノで大流行することになるスタイルだけど、このピアノ・スタイルは、ラグライム・ピアノから派生する形で、もっと早くから存在していたはず。おそらく20世紀初頭からか、あるいはもっと前か。

 

 

それにしても、自由に持運びが可能で、どこででも弾き語りを披露できるギター・ブルーズと違って、ピアノは一箇所に据置きして演奏するしかない楽器だから、酒場など人が集る場所で披露するしかない。そういうピアノ・ブルーズが、1930年のカントリー・ブルーズのセッションに入っているとはねえ。

 

 

『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』というCDアルバムを何度聴いても、やはりルイーズ・ジョンスンのブギウギ・スタイルのピアノ・ブルーズ弾き語りだけが、ちょっと浮いているというか、ギターのイメージが強い古いデルタ・ブルーズ録音集にあるというのが、今聴き返すと面白いね。

 

 

ルイーズ・ジョンスンという女性がどういう人なのか、僕はよく知らない。CD解説の日暮泰文さんも、「オン・ザ・ウォール」が「カウ・カウ・ブルーズ」であること以外には、当時チャーリー・パットンのガールフレンドだったらしいということしか書いてない。背後で歌っている声がパットンらしい。

 

 

『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』は、1930年5月28日、ウィスコンシン州グラフトンで行われたパラマウントへのレコーディング・セッションを収録したもので、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ウィリー・ブラウン、ルイーズ・ジョンスンは連れ立ってデルタから出てきたらしい。

 

 

しかし、いろんな情報が今では分っている他の三人に比べ、ルイーズ・ジョンスンのことは、ネットで調べてもあまり情報がない。僕が探した限りで一番詳しいのがこれ→ http://www.allmusic.com/artist/louise-johnson-mn0000311238/biography  たったこれだけしか分らない。全録音もこの時の四曲だけのようだ。

 

 

正直に言うと、ルイーズ・ジョンスンのピアノ弾き語り四曲は、『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』のなかでは、僕は長年看過というか無視していて、時には飛ばして聴くことすらあったもんなあ。デルタ・ブルーズならやはりギター弾き語りを聴きたかったし、それこそが最高と思っていた。

 

 

戦前のギター・ブルーズと戦前のピアノ・ブルーズとでは、僕は前者の方を先に好きになり、ピアノ自体はジャズでもメイン楽器だから、ジャズ・ピアニストが弾くブルーズは大好きだったけれど、古いブギウギ・ピアノとかは、以前も書いたように、レコードを一枚買って聴いたけど、そのまま放置していた。

 

 

僕がブギウギ・ピアノを聴くようになったのは、アルフレッド・ライオンが現場で聴いて大感激したというブギウギ・ピアニストも入っている例の『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』LP二枚組と、中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統』LPセットからだったからなあ。

 

 

それらだって、ほんのちょっっとしたきっかけにしか過ぎず、本格的にいろんなブギウギ・ピアノをディグするようになったのはCDリイシューがはじまってからの話で、そうなってみるとある時期から面白くてたまらなくなって、しかも以前から大好きだったジャンプ・ミュージックの土台になっていたし。

 

 

だからまあその、遅すぎたのだ(恥)。だってジャンプ・ミュージックの大半はブギウギのパターンが完全なる母胎になっていて、実際ピアノがそのまんまなパターンを弾くものも多いし、ロックのビートだって、ルーツはブギウギだよねえ。それなのに、どうして古いブギウギ・ピアノをなかなか聴かなかったのだろう?

 

 

大学生の時から大好きなストライド・ピアノだってブギウギ・ピアノと関係があって、例えばカウント・ベイシーの弾くピアノは、両方の痕跡がはっきり聴き取れる。彼はストライド・スタイルから出発した人だけど、ジャンプ・バンドの先駆的存在で、すなわちブギウギをも自家薬籠中のものとしていた。

 

 

そういういろんなことが分ってくるのが、僕の場合、前々からジャンプ系音楽も大好きで聴きまくっていたにもかかわらずかなり遅くのことで、意識しなくても音で感じ取っていたのかもしれないけど、明確に自覚的に分ってくるのがCD時代になってからだった。あまりにも遅すぎて恥ずかしい限り。

 

 

そういうことになってくると、『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』に入っているルイーズ・ジョンスンの四曲も、かなり面白く聴けるようになってきて、それでも相変らずサン・ハウスの「マイ・ブラック・ママ」が凄いなあとは思うものの、以前のように飛ばして聴くことはなく、面白くなった。

 

 

僕みたいな偏狭な素人リスナーが思うほど、当時のデルタ・ブルーズは狭いものではなかったというか、いろんなスタイルの音楽が田舎のジューク・ジョイントなどでは演奏されていたんだろうね。録音されているものはごく一部で、しかもCDリイシューとなると、SPで発売された全録音総数のこれまた氷山の一角だからなあ。

 

 

だから『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』に、ギター弾き語りの典型的なデルタ・ブルーズマンが収録されていると同時に、ブギウギというかバレレハウス・スタイルのピアノ弾き語りが四曲あっても、これは別に不思議なことでもなんでもなく、当時の現場での有り様そのままなんだろうね。

2016/02/15

忘れじのジャコ・パストリアス

Jaco

 

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マーカス・ミラーが、同じベーシストの先輩の作品である『ジャコ・パストリアスの肖像』が大好きでたまらず、ターンテーブルに常に載せたままで、他のレコードをかける時はそのままそのレコードの上に載せて聴いていたと、以前なにかで語っていたことがある。マーカスの世代ならそうだろう。

 

 

『ジャコ・パストリアスの肖像』は1976年なので、僕はリアルタイムでは知らない。僕がジャコを知ったのは、ウェザー・リポートの二枚組ライヴ・アルバム『8:30』でだった。以前も書いた通り、これが初めて買ったウェザー・リポートだった。このバンドはジャコ必須のバンドだろうと思っていた。

 

 

僕より上の世代にとっては、ウェザー・リポートのベーシストはミロスラフ・ヴィトウスのイメージが強いらしい。僕よりちょうど十年早く生まれた中山康樹さんも、以前そんなことを書いていた気がする。中山さんは1960年代中頃にジャズ系音楽を聴始めたらしいから当然だ。その世代はみんなそうだろうね。

 

 

『8:30』から聴始め、次作の『ナイト・パッセージ』やその次作の『ウェザー・リポート 82』を、リリースされる度に待遠しくて期待して買った僕などには、当然このバンドのベーシストはジャコしか考えられなかった。だから、その後のメンバー・チェンジでジャコが辞めた時はかなりガッカリした。

 

 

正確には、ヴィクター・ベイリー+オマー・ハキムの新リズム・セクションが発表される前に、『スイングジャーナル』誌に載ったザヴィヌルのインタヴューで、実はもうジャコとピーター・アースキンはバンドを脱退していて、今新しい人材を探しているんだとあって、それを読んでエエ〜〜ッと思ったのだ。

 

 

実際新リズム・セクションを起用した第一作の『プロセッション』が、何度聴いてもつまらない内容だとしか思えなかったから、その思いは一層強かった。しかしながら、この編成による二作目の『ドミノ・セオリー』と三作目の『スポーティン・ライフ』は、大変面白くて大好きだったけどね。

 

 

それはさておき『ジャコ・パストリアスの肖像』。もう散々褒め尽されている作品なので、今更僕が付け加えることはないだろうけど、ひとしきりウェザー・リポート時代を聴いた後にこのソロ・デビュー作を聴いて、一番感心したのは、実は冒頭の「ドナー・リー」や「トレイシーの肖像」とかではなかった。

 

 

一番感心したというか驚いたのが、二曲目のソウル・ナンバー「カム・オン、カム・オーヴァー」だった。この曲は、ご存知サム&デイヴが歌う完全なるブラック・ミュージック・ナンバーだ。チャーリー・パーカー(実はマイルス・デイヴィス)作曲の「ドナ・リー」の次にこういうのが来るというのがいいよね。

 

 

 

以前ネット上で仲のよかったブラック・ミュージック・ファンも、このアルバムはサム&デイヴが歌う「カム・オン、カム・オーヴァー」があるから聴くんだと言っていたことがある。僕はジャズ寄りの耳なので、「スピーク・ライク・ア・チャイルド」とか「コンティニューム」とかも大好き。

 

 

「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は言うまでもなくハービー・ハンコックの曲だけど、ハービー自身がピアノやフェンダー・ローズで、このアルバムの多くの曲に参加して重要な役割を果している。「オーパス・ポーカス」のソプラノ・サックスは、一聴即ウェイン・ショーターだと分るサウンドだ。

 

 

ジャコとハービーとショーターと言えば、ジョニ・ミッチェルの『ミンガス』にも揃って参加している。ドン・アライアスもそうだ。実を言うとジャコに関して、ウェザー・リポートよりもジャコのソロ・アルバムよりもいいと思っているのが、一連のジョニとのコラボなんだよなあ。

 

 

ジョニとジャコとのコラボは全部好きだけど、個人的に一番好きで一番よく聴くのが、1980年のライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』だ。二枚(二枚組ではない)あるのもいいね。パット・メセニーも参加しているし。メセニーは、このアルバムが初体験だったことは以前書いた。

 

 

ジャコのエレベ(これは「フレットレス」ではなく「フレット抜き」なのだ、普通のフェンダー・ジャズ・ベースのフレットを取除いたものをジャコは弾いていた)に関しては、ウェザー・リポートでのプレイより、『シャドウズ・アンド・ライト』などでの方が、伸び伸びとしているような気がする。

 

 

何度か書いたけど、ウェザー・リポートのスタジオ作品では、ジャコの弾くベース・ラインすら、全てザヴィヌルがあらかじめ譜面化していて、ジャコはその通りに弾いていたようだ。それにしてはスポンティニアスに聞えるじゃないかという意見がもしあれば、それは作曲家の実力を侮っている証拠だろう。

 

 

ウェザー・リポートでも、ライヴ・ステージではまあまあ自由にジャコも弾いているけど、このバンドに関してはライヴよりスタジオ作品の方がだいぶいいからなあ。ジャコのプレイに関して一番いいのは、僕の聴いた感じでは『ヘヴィー・ウェザー』ラストの「ハヴォナ」。「ティーン・タウン」ではなく。

 

 

 

ウェザー・リポートでの活躍で世界的にブレイクしたジャコで、僕もそれで好きになったけど、今聴き返すと、それよりも、先程書いたジョニ・ミッチェルのアルバムとか、ジャコ自身のソロ作とかの方がいい。ジャコのソロ作では、1981年『ワード・オヴ・マウス』を高く評価する人も多いらしい。

 

 

『ワード・オヴ・マウス』には、「スリー・ヴューズ・オヴ・ア・シークレット」もあって、トゥーツ・シールマンスのハーモニカがいい雰囲気ではあるけど、『ナイト・パッセージ』収録のウェザー・リポート・ヴァージョンと比較すると、ザヴィヌルとのアレンジ/プロデュース能力の違いが分ってしまう。

 

 

それよりは次の「リバティ・シティ」のファンキーな感じの方がいいね。その後ウェザー・リポートを脱退したジャコが率いたビッグ・バンドでもこういう作風の曲が多かったし、そういう指向の人なんだろう。書いたようにソロ・デビュー作にソウル・ナンバーがあったくらいだ。

 

 

個人的には『ワード・オヴ・マウス』やその後のビッグ・バンドなどは、やや一本調子に聞えて、通して繰返し聴くとすぐに飽きてしまう。さらにその後の凋落後の活動については、なにも言いたくない。やはり僕にとって、ジャコ自身のリーダー・アルバムでは一作目『ジャコ・パストリアスの肖像』こそ全てだった。

 

 

『ジャコ・パストリアスの肖像』ラストの三分もないストリングス・ナンバー「フォーガットゥン・ラヴ」。ジャコは作曲だけで(ストリングス・アレンジは別の人だけど)ベースを弾いておらず、ハービー・ハンコックがストリングスに乗ってピアノを弾く美しい曲。これを聴くといつも切ない気分になってしまう。

 

2016/02/14

フュージョン・アルバムとしてのアリサのフィルモア・ライヴ四枚組

 

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アリサ・フランクリンに関する記事のタイトルがこんなのばかりで申し訳ない。こういうタイトルだと、コイツまたいつもの調子でおかしなことを言うなと思われるに違いないんだけど、アリサの例の1971年フィルモア・ウェストでのライヴ・アルバム。2005年にライノがリリースしたCD四枚組完全盤は、ある意味<フュージョン・アルバム>としても面白いように思う。

 

 

もちろんアトランティックが1971年にリリースしたオリジナルLPにそんな側面はない。現行二枚組CDにもない。だってそれらはどっちも全てアリサの歌入りナンバーしか収録していないからね。最高の名盤だけど、普通の、いや普通ではないが、ソウル・ライヴ・アルバムだ。

 

 

フュージョン的側面があると僕が思うのは、やはり2005年ライノ・リリースの四枚組『ドント・ファイト・ザ・フィーリング:ザ・コンプリート・アリサ・フランクリン&キング・カーティス・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』だ。これにはバンドのインストルメンタル演奏が実にたくさん入っている。

 

 

この四枚組完全盤、2005年にライノがリリースした時は、ライノの公式サイトからの直販しかなかったはず。僕も絶対にほしかったから、買おうとしたものの、当時のライノの通販ページが僕には分りにくくて、特にカード決済の場面でどうしても決済できず、買えなくて最高に悔しかったのだ。

 

 

周囲のブラック・ミュージック・ファンはみんな買っていたようだから、僕の側の問題だったんだろう。その時に諦めて以後、しばらくは忘れていたのだが、最近中古でかなり安くしかもアマゾンで簡単に買えたので、この四枚組を約十年経ってようやく買って聴いてみた。そうしたらこれが最高なんだ。

 

 

アリサが歌う曲は聴いていたので、さほどの強い感慨はなかったんだけど、それまで単独盤では出ていた伴奏のキング・カーティスのバンドとメンフィス・ホーンズによるインストルメンタル演奏が、それには入っていなかった未発表曲も含め、全部抜出してプレイリストを作ってみると、優に一時間四十分以上もあるんだよね。

 

 

バンドのインストルメンタル演奏部分だけ全部抜出して作ったプレイリストを聴くというのも邪道とは言えないだろう。だって1971年当時から抜出した単独盤がリリースされていたんだから。どれもこれもファンキーで超カッコよくてしょんべんチビリそうなのだ(笑)。

 

 

レッド・ツェッペリン・ナンバー「胸いっぱいの愛を」なんかは、キング・カーティスの単独盤で曲目だけ見ていた頃は、この曲ってエレキ・ギターのイメージしかないから、キング・カーティスってサックスだろう、サックスなんかでこの曲をインストルメンタル演奏するのなんか、全然聴きたくもないぞとしか思っていなかったもんなあ。

 

 

それがいざキング・カーティスのバンドがインストルメンタルでやる「胸一杯の愛を」を実際に聴いてみたら、カッコいいんだなあ。完全に予想をいい意味で裏切られてしまった。特にディスク2に入っている二回目の演奏は、「ワナホラララ〜ヴ」というリフ部分をトロンボーンが吹いていて、なかなかいい。

 

 

<本編>とも言うべきアリサが歌う部分でも、多くのロック・ナンバーを採り上げていて、それも大好きなんだけど、それはまた違う話で言いたいことがあるので、別の機会に改めて書くことにしよう。キング・カーティス・バンドとメンフィス・ホーンズがインストルメンタルでやるロック・ナンバーは他にもいくつかある。

 

 

プロコル・ハルムの「青い影」(A Whiter Shade of Pale)もそうだね。これもカヴァーの多い名曲だし、元々若干黒い感じがあるような気が僕はしていたから、インストルメンタル・ソウルになっても違和感は個人的にはない。まあツェッペリンの「胸一杯の愛を」だってそうだけど。

 

 

ツェッペリンの「胸一杯の愛を」は、マディ・ウォーターズが歌った「ユー・ニード・ラヴ」(https://www.youtube.com/watch?v=V-VCiYLX9ts)のパクリだからね。ツェッペリンはこんなのばっかりだよね。最近のCDクレジットでは、申し訳程度にウィリー・ディクスンの名前も添えられるようにはなっているけどさ。

 

 

あるいはソウル・ナンバーのインストルメンタル・カヴァーもある。僕の大好きなスティーヴィー・ワンダーの「サインド、シールド、デリヴァード・アイム・ユアーズ」がそれ。もっともこれは歌がいい曲だからアリサが歌ってくれても良かったんじゃないかという気もするけれど、バンド演奏もファンキーだ。

 

 

四枚組完全盤で何度もやっている「ノック・オン・ウッド」とか「メンフィス・ソウル・シチュー」とか「ゼム・チェンジズ」とか、もうたまらん。最高だ。こんなにファンキーでカッコイイ演奏を、キング・カーティス名義の単独盤があったのに、それを無視して聴いてこなかったなんて、僕はなんというアホなんだろう。

 

 

バンドのメンツが最高なんだよね。コーネル・デュプリーのギター、ビリー・プレストンのオルガン、ジェリー・ジェモットのベース、バーナード・パーディーのドラムス(とメンフィス・ホーンズ)。1971年という時点ならこれ以上ないというグルーヴ感を出せる面々だよね。特にドラムスのバーナード・パーディーは凄すぎる。

 

 

そしてここからがようやくこの文章の本題なんだけど、こういうキング・カーティス・バンドの演奏を聴いていると、この数年後の1970年代中頃から盛んになる(ジャズ系)フュージョン・ミュージックとの違いが、僕には全く分らないんだよね。単にグルーヴィーなインストルメンタル演奏というだけじゃない。

 

 

そもそもジャズ系でもなんでもフュージョンってのは、元々インストルメンタルR&B/ソウルという側面があったはずだ。もちろんそうじゃないフュージョン・アルバムもたくさんあったんだけど、フュージョン・バンドの代表格のように言われていたあのスタッフなんかは、完全にインストR&Bだよね。

 

 

1970年代終り頃にスタッフを聴始めた頃から、どうもこのバンドはジャズ系というよりソウル系であって、フュージョンじゃなくインストルメンタルR&Bと呼んだ方が、演奏内容に相応しいんじゃないかと思っていた。そういうことを当時言う人がいたかどうかは知らないが、僕個人の間違いない実感だった。

 

 

だって1976年に第一作をリリースしたスタッフには、エリック・ゲイルとともに、前述のアリサ&キング・カーティスの71年フィルモア・ライヴで弾いていたコーネル・デュプリーがいるし、バンドの音も黒くてファンキーだし、実際ソウル・ナンバーのインストルメンタル・カヴァーがあったりする。

 

 

当時は知らなかったことなんだけど、スタッフは元々ジョー・コッカーの1976年作『スティングレイ』のバック・バンドとして集められたのが出発点だったらしい。もっともあのジョー・コッカーのアルバムには、その後のスタッフになる面々以外にも大勢のミュージシャンが参加してはいるけれどね。

 

 

スタッフ結成後も黒人女性歌手サリーナ・ジョーンズのサポート・バンドになったりもしているし、やはりこのバンドは歌抜きソウル・バンドだと言った方が分りやすい。第一作に大好きなキャロル・キングの「アップ・オン・ザ・ルーフ」もある。これだってR&Bナンバーだよ。

 

 

またスティーヴィー・ワンダーが好きだったのか、第二作『モア・スタッフ』に「アズ」が、第三作『スタッフ・イット』に「ラヴ・ハヴィング・ユー・アラウンド」が、『ライヴ・スタッフ』に「サインド、シールド、デリヴァード・アイム・ユアーズ」があって、モントルー・ライヴでもやっている。「ブギ・オン・レゲエ・ウーマン」もある。

 

 

そう、「サインド、シールド、デリヴァード・アイム・ユアーズ」は、前述の通りアリサのフィルモア・ライヴでも、キング・カーティスのバンドがインストルメンタル演奏していたわけで、スタッフ・ヴァージョンとの本質的な違いなんて、僕の耳には全く分らない。フュージョンってそういうもんじゃないの?

 

 

スタッフは人気はあったけれど、玄人筋からの評価は低くて、一般のジャズ・ファンでも硬派な人達は完全にバカにして聴かなかった。今でもスタッフをちゃんと聴いて音楽的に評価する人なんてほぼ皆無だろう。だけど、アリサのフィルモア・ライヴ四枚組完全盤での、バンドのインストルメンタル演奏を聴いたら、みんな考えを改めるんじゃないかなあ。

2016/02/13

一番好きなポピュラー・ソング「シボネイ」

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僕が一番好き(なものの一つではない)な個人的ポピュラー・ソング No.1は、長年リー・ハーライン作曲、ネッド・ワシントン作詞のディズニー・ソング「星に願いを」(When You Wish Upon A Star)で、これが入っているレコードを見つけては、全部買っていた。

 

 

一番好きだったのが、ルイ・アームストロングがディズニー・ソングばかりやった1968年の『ディズニー・ソングズ・ザ・サッチモ・ウェイ』収録ヴァージョン。この曲は映画『ピノキオ』の挿入歌で、あの映画でこの曲が出てくるのは泣ける感動的な場面だったから、それで好きになったのだった。

 

 

しかし、この一番好きな私的ポピュラー・ソング No.1は、21世紀に入った頃からは、完全にキューバのエルネスト・レクオーナが1929年に書いた「シボネイ」になっている。これがこの十年ほどは大好きでたまらず、そうなったのがネット時代になってからだったので、探してダウンロードしまくっている。

 

 

「星に願いを」だった時代は、レコードやCDを買って集めるしかなかったんだけど、「シボネイ」の場合は、ネット時代だし、また2011年に転職してからは給料が減ったので、CDを買いまくるというわけにもいかず、iTunes StoreやYouTubeで検索してこの曲ばかりダウンロードしているんだよね。

 

 

そこから厳選して、iTunesで「シボネイ」ばかりの一時間半くらいのプレイリストを作って楽しんでいる。Allmusicというサイトで "Siboney" で検索すると、一万七千以上ヒットするので、これもセバスチャン・イラディエールの「ラ・パローマ」同様、ムチャクチャ多いよね。

 

 

ちなみに "La Paloma" でAllmusicで検索すると、三万四千以上出る。この曲の場合は、ドイツのレーベルから、「ラ・パローマ」ばかりの様々な歌・演奏を集めたCDが、今のところ第六集まで出ているので、僕も全部買って楽しんでいるけど、「シボネイ」にはそういうCDはない。

 

 

どこかのレーベルが「ラ・パローマ」集みたいに「シボネイ」集を出してくれると有難いんだけど、僕の探した範囲では発見できないので、自分で集めてプレイリストを作っているというわけ。同じ曲ばかり一時間半も続けて聴いてどうするんだ?と言われそうだけど、実に多様なヴァージョンがあるからね。

 

 

僕が「シボネイ」を知ったのはかなり遅くて、2001年のロス・スーパー・セヴンの『カント』一曲目にあるのを聴いたのが初。ロス・スーパー・セヴンは、イースト・ロサンジェルスのチカーノ・ロック・バンド、ロス・ロボスのいくつかある別働隊の一つで、他にもラテン・プレイボーイズが僕は大好き。

 

 

ロス・ロボスは元々ラテン風味が強く、曲調もそうだし、よくスペイン語でも歌うし、別働隊もそういう趣のものが多い。ロス・スーパー・セヴンの2001年『カント』も、スペイン語の有名曲は「シボネイ」のみだけど、他のオリジナル曲も全部スペイン風味。

 

 

『カント』には、同じチカーノのリック・トレヴィーノやルベーン・ラモス、ペルーのスサーナ・バカ、ブラジルのカエターノ・ヴェローゾなども参加していて、「シボネイ」以外の曲もタイトルも歌詞も全部スペイン語(ラストのカエターノによる「ベイビー」だけ英語タイトルだけど、歌詞はスペイン語)。

 

 

他の曲はともかくとして、僕は『カント』一曲目のラウル・マロが歌う「シボネイ」に痺れちゃったのだ。ラウル・マロは主にカントリー畑で活躍する人だ(がよく知らない)けど、調べてみたらマイアミでキューバ人の両親のもとに生まれた人だ。マイアミだけど、亡命キューバ人ではないみたいだ。

 

 

ラウル・マロの歌う「シボネイ」は、彼のヴォーカル+ドラムス+ピアノの三人だけというシンプルな編成。シンプルすぎてスカスカな音だけど、そのスカスカな感じがかえって曲の持つハバネーラ風なリズムとメロディの美しさを際立たせていて、いい感じ。

 

 

 

これですっかり「シボネイ」という曲に惚れてしまった僕は、その後この曲をいろいろと探しまくることになった。当然元はスペイン語詞なんだけど、1942年に英語詞も付いたようだ。英語詞はスペイン語詞とは全く無関係な内容だから、あまり好きではない。ビング・クロスビーも歌っているけどね。

 

 

僕の作った「シボネイ」集も、全部スペイン語の原詞で歌っているものか、インストルメンタル演奏のものばかり。唯一アメリカ人歌手コニー・フランシスのヴァージョンを入れてあるけど、彼女はスペイン語詞で歌っているので。それ以外は全部キューバ人かラテン・アメリカ人かスペイン人のものばかり。

 

 

あ、小野リサのボサ・ノーヴァ・ヴァージョンも入れてある。でも彼女もナイロン弦ギターを弾きながらボサ・ノーヴァ風にやっているけど、歌詞はやはりスペイン語で歌っているし。インストルメンタルもので少し変ったところでは、スペインのフラメンコ・ギタリスト、パコ・デ・ルシアの独奏ヴァージョンとか。

 

 

インストルメンタルものでは、プレイリストのラストに、キューバ人ピアニスト、ルベーン・ゴンサーレスが、ベースとボンゴの伴奏でやるライヴ・ヴァージョンも入れてある。 ルベーンは、例の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』で有名になった人。

 

 

 

貼った音源をお聴きになれば分る通り、歳のせいなのか若干指がもたつくような瞬間もあるし、大した演奏じゃないかもしれないけれど、ハバネーラ風リズムの骨格がクッキリとしているし、旋律も美しく際立っていて、案外好きなのだ。ルベーンは『ブエナ・ビスタ』でもこの曲をやっているし、単独アルバムにもある。

 

 

同様に古くから活動しながら『ブエナ・ビスタ』でブレイクしたキューバ人では、オマーラ・ポルトゥオンドの歌う「シボネイ」も入れてある。まあオマーラの場合も『ブエナ・ビスタ』とは関係なく一貫して活躍を続けている大歌手だけどね。

 

 

そっちの方が好きだからトラディショナルなスタイルでの演唱が多い僕の「シボネイ」プレイリストだけど、ラテン・アメリカン・オーケストラ&リコ・デ・アルメンダによる、現代ラテン・ロック風なアレンジのものも入れてある。小野リサのボサ・ノーヴァ・ヴァージョンも若干現代風だけどね。

 

 

まあしかし、「ラ・パローマ」集CD六枚をインポートしてある以外で、こういう単独曲だけのいろんなヴァージョンを自分で集めて作ってあるプレイリストは、「シボネイ」集以外には、ダフマーン・エル・ハラシの「ヤ・ラーヤ」集と、フィリー・ソウル・ナンバー「ベチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」集の三つだけなんだよね。それくらいこの三曲は好きなのだ。

2016/02/12

マイルス・バンドにおける鍵盤奏者とギター奏者

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マイルス・デイヴィスは、コードを鳴らせる楽器としては、ピアノやシンセサイザーなどの鍵盤楽器奏者を重用したミュージシャンで、キャリア全体から見たら、ギタリストにはそんなに重きを置いていなかったように思える。だから基本的にマイルス以外の鍵盤奏者がいない1973〜83年のバンドは例外的。

 

 

ただ、僕はその「例外」である1973〜75年のマイルス・ミュージックこそが、彼の生涯で一番好きだというファンだから、これをどう考えたらいいのか、長年考え込んできた。本格的には69年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』でジョン・マクラフリンを起用して以後は、いつもギタリストが参加している。

 

 

いつもと言っても、継続的にギタリストがレギュラー・バンドに常時在籍するようになるのは1972年以後。それ以前は、ジョン・マクラフリンをよく使ってはいたけど、彼はバンドのレギュラー・メンバーではないし、実際にライヴ録音では、69/70年の作品にギタリストは基本的には存在しない。

 

 

それに、マクラフリンが全面参加している最初の二作『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』には、鍵盤奏者が三人もいて、彼らが折重なって作り出す重厚で複層的なサウンドがメインだから、まだまだ鍵盤重視だね。1970年のスタジオでもライヴでも、大抵鍵盤奏者が二人以上いるもん。

 

 

つまり1969/70年の録音でマクラフリンがいるのは、スタジオだけのこと(71年にスタジオ録音はない)。例外的に『ライヴ・イーヴル』になった70年12月のライヴ録音にマクラフリンがいるけど、この時彼は飛入りで、レギュラー・メンバーだったキース・ジャレットによれば、彼は特別ゲストだった。

 

 

マイルスが自分の録音でギターを使ったのは、1967年12月のセッションでジョー・ベックを使ったのが初。その時二曲録音しているけど、それは79年まで未発表のままだった。しかしその後さほど継続してギタリストを使うことはなく、ジョージ・ベンスンを一回起用した以外は、69年2月のマクラフリンまで呼ばなかった。

 

 

ライヴではギタリストを使わず、スタジオ録音では使ったというのは、少し前に書いた、ライヴでは保守的/スタジオでは実験的という、いつものマイルスの姿勢とも一致する。すなわち、1969年のスタジオ録音からギタリストを本格的に起用するのは、時代の要請にマイルスが敏感だった証拠だ。

 

 

そして『オン・ザ・コーナー』その他になった1972年のセッション終了後、73年から75年の一時隠遁までは、スタジオ録音でもライヴ・ステージでも、マイルス自身が時々オルガンを弾く以外は、専門の鍵盤奏者をほぼ全く起用していない。すなわち73年以後は、ほぼ完全にギター・バンドになっている。

 

 

1974年に発表された『ゲット・アップ・ウィズ・イット』に、数曲でマイルス以外の鍵盤奏者が参加しているのは、それは72年の録音だからだ。なお、このアルバムではマイルス自身もたくさんオルガンを弾いている。特に「レイティッド X」が過激で、マイルスのベスト鍵盤演奏だね。

 

 

その「レイティッド X」ではトランペットを全く吹かず、オルガンに専念している。昔これを聴いた誰か有名ミュージシャンが、マイルスはトランペットよりオルガンの方がいいとインタヴューで語っていたことがある。それはもちろん悪口だったんだけど、そう言いたくなるくらい、あのオルガンは凄い。

 

 

その他「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」でも「マイーシャ」でも「カリプソ・フレリモ」でも、印象的なオルガンをマイルスは弾いていて、この『ゲット・アップ・ウィズ・イット』というアルバムは、ある種オルガン奏者としてのマイルスを聴くべき側面もある作品だなあ。

 

 

1975年の『アガルタ』『パンゲア』でのオルガンも面白い。まあYAMAHA・コンボ・オルガンのチープな音だけどね。『アガルタ』のLPライナーに付いていた児山紀芳さんによるインタヴューでも、マイルス自身がそのオルガン演奏についていろいろと語っていた。音を聴くと、オルガンでキューを出しているのが分る。

 

 

そういう側面があったりはするけれど、取り敢ずの話はギターだ。1973〜75年のマイルス・ミュージックは基本的にギター音楽だったからね。彼が69年から本格的にギタリストを使い始めるのは、どう考えてもジミ・ヘンドリクスからの影響だとしか思えない。それには当時の恋人、後の妻のベティに触発された面もある。

 

 

いろんな証言から、マイルスにジミヘンをはじめ同時代のロックやファンクを聴くように勧めたのが、他ならぬそのベティだったことがはっきりしている。1968年のアルバム『キリマンジャロの娘』や70年のライヴ・アルバム『マイルス・アット・フィルモア』のジャケットにベティは映っているよね。

 

 

とはいえ、マイルスのアルバムでジミヘン的なギター・プレイが聴けるのは、1970年録音の『ジャック・ジョンスン』でのジョン・マクラフリンが初めてで、彼を初めて起用した『イン・ア・サイレント・ウェイ』のタイトル曲では、「ギターの弾き方が分らないといった風に弾け」と指示したらしいからなあ。

 

 

マクラフリンの回想によれば、その指示に面食らったけど、ちょっとそんな風に弾き始めたら、そうだその調子だとマイルスが言っているような表情に見えたから、そのまま弾いて、それであのタイトル曲でのギター初心者みたいな演奏ができあがった。それがあの曲の雰囲気を決定づけている。

 

 

次の『ビッチズ・ブルー』でのマクラフリンは、それに比べたら自由で荒々しい彼本来のギター・プレイにちょっとだけ戻っているけど、『ジャック・ジョンスン』での壮絶なギター演奏に痺れている身としては、あれもまだまだだ。ピーター・バラカンさんは、『ビッチズ・ブルー』の荒々しさが苦手らしいけどね。

 

 

そして、マイルス・バンドで一番ジミヘン的なギンギンのギター・プレイを聴かせているのは、以前も言ったように『アガルタ』『パンゲア』でのピート・コージー。あそこでは、もうこれ以上は無理というほど深く目一杯にファズをかけて弾きまくっていて、それが僕などにはたまらないんだなあ。

 

 

一時隠遁の後、1981年に復帰した直後も、マイルス・バンドはしばらくギター・バンドで、マイク・スターンやジョン・スコフィールドが活躍していた。それが終るのが84年から。シカゴ出身のロバート・アーヴィングIIIをシンセサイザーで起用して、その後はまた鍵盤楽器中心のサウンド作りに戻る。

 

 

1987年頃からは、レギュラー・バンドに再び同時に二人のキーボード(シンセサイザー)奏者を起用して、ライヴに臨むようになる。僕が87年と88年に東京で観たマイルスのライヴでも、アダム・ホルツマンとロバート・アーヴィングIIIの二人がいて、シンセで重厚なオーケストレイションを作り出していたもんなあ。

 

 

1973〜75年は、専門の鍵盤奏者がおらずギタリストが二人だった編成だったのが、87年以後はギタリストはフォーリー(リード・ベースだけど)一人で、鍵盤奏者が二人となったわけだ。89年に日本人のケイ赤城が在籍したことがあり、録音もあって発表もされている。彼が面白いことを言っていた。

 

 

ケイ赤城によれば、マイルスが求める鍵盤楽器のハーモニーは、いつも1958年にマイルス・バンドに在籍したビル・エヴァンスの弾くような和音だったということだった。ケイ赤城が在籍した89年頃には、ビル・エヴァンスの和音システムは、既にバークリー・メソッドで教えられてもいた。

 

 

そう言われたら、ビル・エヴァンス以後のマイルス・バンドのピアニスト、ハービー・ハンコックもチック・コリアも、基本的に和音の創り方はエヴァンス的だった。それはマイルスが指示したものなのか、あるいはその頃には既に一般的にエヴァンスの影響力がそれだけ強くなっていたということでもあったのか。

 

 

マイルス・バンドのレギュラー・メンバーとしては、1958年の数ヶ月しか在籍せず(バンド唯一の白人だったから、逆人種偏見に遭って、居心地が悪かったせいらしい)、59年の『カインド・オヴ・ブルー』録音に例外的に呼ばれたりはしたけど、ほんの少ししかマイルスと共演しなかったエヴァンスだけどね。

 

 

それでもマイルスは終生エヴァンス・ハーモニーの虜だった。1970年代中期のギター・バンド時代でも、コード弾き担当のレジー・ルーカスに、ハチャトゥリアンやラフマニノフ等を聴かせて、ハーモナイズの勉強をさせていた。彼らとラヴェル、ドビュッシー等は、エヴァンス・ハーモニーの主たる源。

 

 

つまりマイルスは、鍵盤奏者にはもちろん、ギタリストにもビル・エヴァンス的なハーモナイズ/オーケストレイションを要求したということで、エヴァンスの影響はそれほど強かった。1981年のカム・バック・バンドで「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」をやっていたのは、エヴァンス追悼(80年没)だったという説がある。

2016/02/11

ドルフィーはパーカー直系の守旧派だ

 

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ジャズの世界で普通のクラリネットならともかく、バス・クラリネットという楽器を、サックス奏者の持替え楽器として一般的なものにしたのが、エリック・ドルフィーであることは間違いないんだろう。ジャズの世界でドルフィー以前にバス・クラリネットを吹いている人って、エリントン楽団のハリー・カーニー以外にいるんだろうか?

 

 

ドルフィーは、ジャズの世界では殆ど使われていなかったバス・クラリネットを、どうして取上げて吹いてみようと思ったんだろうなあ。普通のクラリネットなら、ジャズ誕生当初から専門奏者も多いし、サックス奏者の持替え楽器としても、ジャズ初期からビバップまでは花形楽器だったんだけど。

 

 

ドルフィーがバス・クラリネットを吹くようになったのほぼ同じ頃、ジョン・コルトレーンが、それまで吹く人が少なかったソプラノ・サックスを使うようになって、表現の幅を広げた(とはいえ、僕がコルトレーンのソプラノはあまり評価していないことは、以前書いた)のと、似たような動機だったのかも。

 

 

ドルフィーのバス・クラリネット演奏で僕が一番最初に好きになったのは、ライヴ盤『イン・ヨーロッパ』収録の「ガッド・ブレス・ザ・チャイルド」だった。  お聴きになれば分る通り、ドルフィーの無伴奏バスクラ独奏。これで惚れちゃったんだよね。

 

 

 

「ガッド・ブレス・ザ・チャイルド」は、ビリー・ホリデイが書き、1941年にオーケーに吹込んだのが初演の曲。ビリー・ホリデイのオリジナル・ナンバーというのは多くないけど、これが一番有名かも。ドルフィーだけでなく、実に様々なカヴァーがあるけど、僕は貼ったドルフィーのが一番好きだ。

 

 

話が逸れるけど、「ガッド・ブレス・ザ・チャイルド」のカヴァーで、ドルフィーのバスクラ独奏の次に好きなのが、意外に思われるかもしれないが、キース・ジャレットの1983年スタンダーズ第一作のラストに入っているもの。

 

 

 

このキース・ジャレット・トリオの「ガッド・ブレス・ザ・チャイルド」、8ビートだし、キースの弾くピアノのフレーズにはゴスペル風なアーシーさも感じられて、なかなか気に入っているんだよね。1970年頃のマイルス・デイヴィス・バンドで聴けるエレピでのファンキーさに通じるものがある。

 

 

キース・ジャレットのスタンダーズ、1987年の三作目『スタンダーズ・ライヴ』(邦題『星影のステラ』)までは、まあまあ悪くないと思っている。その後の乱発されるアルバム群には、どうにも付いていけないというか、どこがいいのかよく分らないものばかりだけどね。

 

 

話を戻してドルフィーのバス・クラリネット。いろんなアルバムでたくさん聴けるけど、彼が吹くアルト・サックスやフルートも全部含めて、フレイジングなどは全部同じだ。以前ドルフィーは、前衛的なジャズマンではなく、チャーリー・パーカーをデフォルメしたビバップ系の守旧派だと書いたよね。

 

 

アルトもフルートもバスクラも、ドルフィーは全然フリーでもなんでもない(ましてや無調なんかでは全然ない)し、モーダルですらなく、普通のコード分解に基づくインプロヴィゼイション手法を採っていて、やはりビバップ系統のジャズマンなのだ。しばしばフリーキーな音色を出すので、それで誤解されているだけ。

 

 

バス・クラリネットに関しては、ジャズ界では多分ドルフィーが普及させた楽器で、その後多くのサックス奏者が持替えで吹くようになった。僕が一番最初に聴いたバスクラは、マイルス・デイヴィス『ビッチズ・ブルー』におけるベニー・モウピン。おどろおどろしい感じで、最初はあまり好きじゃなかった。

 

 

ベニー・モウピンのバス・クラリネットに関しては、一番好きなのが、ハービー・ハンコック1973年のファンク・アルバム『ヘッド・ハンターズ』ラストの「ヴェイン・メルター」。 熱帯に咲く花の如く夜に妖しく光るような雰囲気でたまらないよね。

 

 

 

この「ヴェイン・メルター」でのソロこそ、バックのサウンドとも相俟って、ベニー・モウピン生涯最高のバス・クラリネット演奏に間違いない。『ヘッド・ハンターズ』というアルバムでは、A面の「カメレオン」や、続く「ウォーターメロン・マン」のファンクな再演ヴァージョンより、断然これが好きなのだ。

 

 

またドルフィーから話が逸れた。個人的には彼のリーダー作品より、チャールズ・ミンガスのバンドで吹いている時の演奏の方が好きで、特に『チャールズ・ミンガス・プリゼンツ・チャールズ・ミンガス』B面での演奏が、ドルフィーの全ての演奏のなかで一番好き。「ワット・ラヴ」なんか最高じゃないか。

 

 

 

「ワット・ラヴ」でも、ドルフィーはバス・クラリネットを吹く。そのバス・クラリネット・ソロの後半、ミンガスのベースとのデュオによる対話形式の部分など昔から大好きで、<政治的なミンガス>などと言われるA面より、断然こっちの方がいいだろう。

 

 

ミンガスがエリントンやマイルス同様、サイドメンの持味を十二分以上に引出して活かせる人だったというのも一因だけど、『プリゼンツ・チャールズ・ミンガス』以外にも、ミンガス・バンドでのドルフィーはホントいいね。そしてドルフィーのリーダー作で僕が一番好きなのは、1962年リリースの『ファー・クライ』だ。

 

 

『ファー・クライ』は、一般にはドルフィーの代表作とは見做されていないみたいだ。ブルーノートの『アウト・トゥ・ランチ』やライヴ盤の『アット・ザ・ファイヴ・スポット』などが最高傑作とされている。異論はないんだけど、個人的な好みだけでいうと、また違うことになってくるんだなあ。

 

 

乾いた硬質な感触がイマイチ好きではない『アウト・トゥ・ランチ』や、ブッカー・リトルやエド・ブラックウェルなどとの熱い掛合いが見事だけど、ちょっと暑苦しい感じもする『アット・ザ・ファイヴ・スポット』とかより、僕は『ファー・クライ』のリラックスした演奏ぶりが気に入っている。少数派だろうか?

 

 

『ファー・クライ』には、マル・ウォルドロンの曲で、ジャッキー・マクリーンのアルトで有名すぎるほど有名な「レフト・アローン」がある。マクリーンが吹くヴァージョンは、あれでモダン・ジャズのステレオタイプなイメージが普及していると言われるほどのものだけど、僕はドルフィー・ヴァージョンの方が好き。

 

 

 

ドルフィーは「レフト・アローン」を、アルトではなくフルートで吹いていて、それがいい感じなんだよなあ。ドルフィーのフルートというと『ラスト・デイト』の「ユー・ドント・ノウ・ワット・ラヴ・イズ」が有名だけど、あれは現地のジャズメンを起用した急造リズム・セクションが、イマイチな感じ。

 

 

そこいくと、『ファー・クライ』の「レフト・アローン」は、ジャッキー・バイアード+ロン・カーター+ロイ・ヘインズという名手三人のリズム・セクションによる味のある伴奏。ロン・カーターだけはこの録音当時(1960年12月)まだ新人だったけど、既にしっかりしたサポートぶりで好感が持てる。

 

 

そして「レフト・アローン」に続く「テンダリー」が、ドルフィーによる無伴奏アルト・ソロで、これが絶品なんだよね。私見では、ドルフィーの残した全録音のなかで、この「テンダリー」がベスト・パフォーマンスだ。無伴奏サックス・ソロで成功しているものって少ないけど、これは例外的名演。

 

 

 

「レフト・アローン」も「テンダリー」も『ファー・クライ』のB面だけど、A面はほぼ全面的にチャーリー・パーカーへのトリビュート・サイドのような構成になっていて、期せずしてドルフィーの拠って来たる演奏スタイルの起源を示すことになっているのもいいね。やはりドルフィーはパーカー直系。だからミンガスが重用したんだよね。

2016/02/10

スティーヴン・スティルスのラテン風味

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現役時代のアルバムが二つしかないスティーヴン・スティルスのマナサス(『マナサス』『ダウン・ザ・ロード』)。やたらとカッコよくて昔から大好きなんだけど、普通のロック・バンドだとしか思っていなかった。だから殆ど気付いていなかったんだけど、今聴くと、二つとも相当にラテンなフィーリングがあるよね。

 

 

以前しぎょうさんが二作目『ダウン・ザ・ロード』の三曲目「ペンザミエント」は、今聴くとサルサそのものだとしか思えないとツイートしていた→ https://www.youtube.com/watch?v=FlkMyu-MA8M このライヴ・ヴァージョンなども完全にサルサだ→ https://www.youtube.com/watch?v=b1VlTSZtxxg

 

 

「ペンザミエント」は、サウンドがサルサなばかりか、歌詞も全部スペイン語だし、今貼った1973年ウィンターランドでのライヴでは、スティーヴン・スティルスがスペイン語で喋っているもんねえ。最近知ったことだけど、スティルスは父親の仕事の関係か、子供時分に中米に住んでいた時期があるようだ。

 

 

おそらくはそういう中米滞在時分に、かなりラテン音楽に親しんだんだろう。アメリカ合衆国でもフロリダ等ラテン系住民の多い地域に住んでいたようだし、そういう音楽環境があったんだろう。そのまんまサルサなナンバーは「ペンザミエント」だけだけど、それ以外にもラテン風味な曲は相当ある。

 

 

マナサスの二つのアルバムで、そういうラテン・フィーリング横溢のナンバーをあげていたらキリがないと思うくらい多いんだよなあ。マナサスにはブルーズ・ロック風、カントリー風など、実に様々な音楽性が混在しているけど、二枚組LPだった『マナサス』は各面ごとにテーマみたいな言葉がついていた。

 

 

マナサスでのラテン風味には、二つのアルバムともに主に打楽器で参加しているジョー・ラーラの貢献も大きいようだ。そのジョー・ラーラとの共作ナンバーなんかが、完全にラテン・テイストなんだよね。例えば一作目二曲目「ロックンロール・クレイジー/キューバン・ブルーグラス」の後半などもそうだ。

 

 

タイトルに「キューバン」と入っているだけでなく、サウンドもティンバレス等のラテン・パーカッションをジョー・ラーラが担当して、サルサ風なラテン・テイストを強く加味している。一枚目B面「ザ・ウィルダネス」サイドは完全な米田舎町風のカントリー・サイドで、ここではラテン風な曲はないけど。

 

 

二枚目A面の「コンシダー」サイド一曲目の「イット・ダズント・マター」や六曲目の「ラヴ・ギャングスター」になると、再びラテン・パーカッションが入ってくる。後者はスティルスとビル・ワイマン(ローリング・ストーンズ)との共作名義になっているけど、二人の関係の詳しいことは全く知らない。

 

 

だけど、ビル・ワイマンがゲスト参加して弾いているようだ。彼のベースは、イマイチ好きじゃないというか、ストーンズでもそうだけど、よく聞えないような気がするんだよね。だからどうも特徴がなんだか掴みにくい。ストーンズでもオッ!と思うベース・ラインは、キース・リチャーズだったりロニー・ウッドだったりするからなあ。

 

 

二枚目B面「ロックンロール・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」サイドは、その名の通り、ロック・ジャイアンツ・トリビュートなテーマのようだから、ラテン・テイストはあまり聴かれないけど、それでもラテン・パーカッションはまあまあ派手に入っているからなあ。結局ラテンじゃないのは一枚目B面だけだ。

 

 

特に、約八分とアルバム中一番長い曲の二枚目B面三曲目の「ザ・トレジャー」も、サルサっぽいラテン・ナンバーだ。そして、前半でファズの効いたエレキ・ギターのソロが入るという、僕なんかにはもうたまらない展開の曲。そのギター・ソロはアル・パーキンスなのかスティルスなのか?

 

 

と思って聴いていると、途中からリズムが変ってシャッフル・ビートになり、スライド・ギターのソロが出てくるから、このスライドはおそらくアル・パーキンスだろう。アルはアルバム中でペダル・スティール・ギターも弾いているみたいだし。アルはアルバム中実にたくさんスライド・ギターを弾く。

 

 

昔この二枚組を聴いた時に一番グッと来ていたのが、アルバム中実に頻繁に出てくるそのスライド・ギターのサウンドだった。昔からスライド・ギターの大ファンなんだよね。一番最初に聴いたのは、おそらくオールマン・ブラザーズ・バンドの例のフィルモア・ライヴ一曲目のデュエインだったはず。

 

 

オールマン・ブラザーズ・バンドの方はスライドを弾いているのがデュエインであることが分っていたけど、『マナサス』では、スティルスはじめ複数のギタリストがクレジットされているので、昔は誰が弾いているのか、よく分らなかったんだよねえ。実を言うと、今でもイマイチ分っていないのだ。

 

 

二枚目『ダウン・ザ・ロード』でも一曲目からいきなりスライド・ギターが炸裂するし。二枚目の方にはジョー・ウォルシュがスライド・ギターでクレジットされていて、確かにジョー・ウォルシュっぽいサウンドというかフレイジングだから、間違いなく彼なんだろう。彼はイーグルズで聴き慣れていたから。

 

 

脱線だけど、イーグルズとジョー・ウォルシュというと、僕は、解散前のリアルタイムでは彼が参加してからの二枚(『ホテル・カリフォルニア』『ザ・ロング・ラン』)しか知らなかったから、彼のギターが必須みたいな感じだったけど、今ではどう聴いても、もっと前のバーニー・リードン在籍時がいいよね。

 

 

そして三曲目「ペンザミエント」。昔からラテン・テイストが(ジャズなどでも)大好きな僕だけど、サルサを知ったのは相当遅かったから、最初に聴いた時はただのラテン・テイストの強い曲だなあと思っていただけ。ラテン・ナンバーらしくフルートも入るけど、マナサスでフルートが入るのはこれだけ。

 

 

次の「ソー・メニー・タイムズ」は、アクースティックな完全なるカントリー・ナンバーだ。こういう振幅の大きさというか多彩な音楽性がマナサスの魅力だよねえ。ブルーズ系やラテン風味が大好きな僕だけど、同時にロックにおけるカントリー風味でそこにペダル・スティールが入ったりするのも好きなんだ。

 

 

八曲目「グァグァンコー・デ・ヴェロ」は、スペイン語の曲名通り、これも完全なるラテン・ナンバーで、ジョー・ラーラのパーカッションが派手に活躍する。この曲もスティルスとジョー・ラーラとの共作名義になっている。こうやって見てくると、マナサスは二つのアルバムともラテン・ナンバーが多い。

 

 

スティルスはバッファロー・スプリングフィールド時代からラテン・ナンバーがあったりするし、やはり最初に書いたように幼少時の中米滞在経験から、その音楽性は最初からそういう指向が強い人なんだろう。昔は全く分っておらず、マナサスでも、ブルーズ・フィーリングに惹かれていただけだったけどね。

 

 

前から何度か書いているように、1970年代の米国音楽には、ロックでもソウルでもファンクでもジャズでも、同時代に大流行したサルサやラテン音楽の影響が随所に見られるというか、一種の同時代的共振のようなものがあったと思うんだけど、72/73年のマナサスも例外ではないってことだね。

2016/02/09

ジャズにおける多重録音

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マイルス・デイヴィスがスタジオ・アルバムでオーヴァー・ダビングを駆使して作品創りを行うようになったのは、一般的には、マーカス・ミラーがほぼ全部の楽器を多重録音してベーシック・トラックを作り、その上にマイルスがトランペットをかぶせた、1986年の『TUTU』からということになっている。

一般的にはそれで間違っていないんだろうけど、ことトランペットの音だけに関して言えば、もっと前からオーヴァー・ダビングしているものがある。例えば、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録の1972年録音「レッド・チャイナ・ブルーズ」。どう聴いても、トランペットはオーヴァー・ダビングだ。

僕の知る限りでは、マイルスでは、その1972年録音が、ベーシック・トラックだけ先に創ってその上にトランペットの音をオーヴァー・ダビングした、一番早い例だ。僕が気付いていないだけで、もっと前からあるかもしれない。マイルスは特に67年頃から、スタジオでは様々な実験をやっているし。

ジャズやジャズ系の音楽家が、オーヴァー・ダビングという手法を用いてスタジオ・アルバムを制作したのは、レニー・トリスターノの1955年作『鬼才トリスターノ』が一番最初だということになっていて、ネットでいろいろ調べてみても、全部そういう記述になっている。アルバム単位では、そうなんだろう。

しかし、アルバムということでなければ、その前年1954年録音のルイ・アームストロング『プレイズ・W・C・ハンディ』ラストの「アトランタ・ブルーズ」で、サッチモのヴォーカルに自身のトランペットをかぶせているのが、アルバム中この一曲だけだけど、僕の知っている範囲内では一番早いはずだ。

もっともそれ、リイシューCDでは、オーヴァー・ダビングした(はずの)トランペットの音が存在せず、サッチモのヴォーカルだけになっているから、元のLPレコードを入手して聴く以外に確認手段がないというのが、なんとも残念。僕も今はレコードを手放しているので、記憶だけで書いている。

だから証拠がないので、確認できない以上、強く言わない方がいいかも。間違っていないはずなんだけど、ひょっとして間違っていたらゴメンナサイ。後年取除けたということは、1954年録音にして、最初からそういう形でマスター・テープが保存されてたのか?

なんとも真相が分らないんだけど、それはともかくとして、サッチモのその『プレイズ・W・C・ハンディ』という1954年のアルバムは、戦後のサッチモの録音では個人的に一番好きなもので、昔はレコードを繰返し愛聴していた。ポップじゃないジャズ的な意味では、戦後一番優れた作品じゃないかなあ。

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(2016/2/12 追記)『ルイ・アームストロング・プレイズ・W・C・ハンディ』のリイシューCD。1997年リリースのものが<オリジナル・レコーディング>と銘打っているので、ひょっとしてと思い買って聴いてみたら、ラストの「アトランタ・ブルーズ」における、サッチモのヴォーカルとトランペットのオーヴァー・ダブ部 分が、ちゃんとオリジナル通りに再現されていました。忘れていましたが、普通の歌にスキャットをオーヴァー・ダブしている部分もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=gsm_N0uvWQY
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また、レニー・トリスターノが多重録音を駆使して創った『鬼才トリスターノ』は、1955年当時はなかなか理解されず、評価されるようになったのは、随分後のことだったらしい。一般的にジャズでは、ビル・エヴァンスの1963年作『自己との対話』が、リアルタイムで評価された初の多重録音作品だ。

オーヴァー・ダビングという録音手法は、一般的には当然ながら磁気テープとマルチ・トラック・レコーダーを用いたレコーディングが始った1950年代以後に可能になったもので、それ以前のSP録音は、全てやり直しの利かない一発勝負で、多重録音なんてもちろんできない。大がかりな手段を用いれば、完全に不可能でもなかったらしく、少数の例があるけれど。

これはオーヴァー・ダビングということだけでなく、演奏しながら同時にカッティングしていくわけだから、演奏家はかなりの緊張を強いられたらしい。テープレコーダーの出現以後は、何度でもやり直しが利くし、現在では、場合によってはピッチすら修正できるから、音程の悪い歌手もなんとかなる(笑)。

ジャズなど戦前日本のSP音源が専門のぐらもくらぶ主宰の保利透さんが、以前ラジオでショコタンこと中川翔子と対談して、こういうSP時代の録音手法の話をした際、ショコタンは「ええ〜、ウソだ〜〜、信じられない、絶対無理無理!」と絶叫していた。自由にやり直しが利く時代には考えられないだろうね。

1950年代以後は、スタジオにこもってリハーサルを繰返しながら徐々に曲の形を仕上げていくとか、少しずつ録音を重ねながら、最終的な完成型に持って行くとか、そういうやり方が一般的になって、マイルスだって1968年の『ネフェルティティ』以後は、ほぼ全てのスタジオ・セッションが録音されている。

しかし、SP時代に録音した音楽家達は、やり直しの利かない一発勝負の録音の前に、おそらくかなり何度も練習を繰返し、本番では絶対にミスのないように注意の上に注意を払っていたはずだ。それでも場合によってはいくつものテイクが残っていたりするから、やはりなかなか難しかったんだろう。

例えば、チャーリー・パーカーのダイアル録音で有名な「フェイマス・アルト・ブレイク」。1946年3月録音で、当然SP時代だけど、これは「チュニジアの夜」の失敗テイクから、テーマ演奏が終った直後のブレイク部分のパーカーのアルト演奏部分だけを取りだしたものだ。演奏全体は破綻したもの。

だから、曲全体の演奏は残っていないというか破棄されたものだけど、そのブレイク部分のアルト演奏があまりに素晴しく、パーカー自身が「二度とやらないよ」と言って、実際にテイク5(マスター)やテイク4では違う演奏になっているため、ダイアルももったいないと思って、そこだけ発売したわけだ。

今なら、さしずめ、成功テイクのブレイク部分にだけ、そのパーカーの素晴しいアルト・ブレイク部分だけを差込むという作業だってできるところ。だけど1946年時点ではどうしようもなかったので、現在のような状態になっている次第。SP時代というのは、こういうものだった。

さて、ようやく最初のマイルスの話に戻るけど、1972年以後は、一時隠遁の75年まででも、ベーシック・トラックを先に録っておいて、後からトランペットの音だけかぶせたものが、今聴くと結構あるように思う。特にそれが多いと僕が判断しているのが74年発売の『ゲット・アップ・ウィズ・イット』だ。

『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の中の1972年録音「レッド・チャイナ・ブルーズ」がそうだろうというのは最初に書いたけど、これ以外にも、一枚目B面一曲目の74年録音「マイーシャ」と、二枚目A面の「カリプソ・フレリモ」は、どう聴いてもトランペットだけオーヴァー・ダビングしている。

あるいは一枚目A面のエリントン追悼曲「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」もそうかもしれない。これら三曲では、マイルスはオルガンも演奏しているけど、オルガンの方はおそらくバンドとの同時演奏だったはずだ。完成品を聴いてそう感じるという僕のヤマカンと、今はブートCDでセッション音源が流出している。

「マイーシャ」のセッション音源は僕は聴いたことがないんだけど、「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」と「カリプソ・フレリモ」に関しては、それぞれその曲だけの繰返しのテイク録音の様子を収録した一枚物ブートCDがある。それを聴くと、やはりベーシック・トラックではオルガンだけ。

「マイーシャ」は『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録の完成品しか聴いていないけど、オルガンはリズム・セクションとの息がピッタリ合っているのに対して、トランペットの方は、ほんのちょっとだけタイミングがズレていると聞える部分がある。特にリズムがパッと止って再開する瞬間への入り方がそうなのだ。

ビートルズの「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」(『ホワイト・アルバム』)の最終部もそうなんだけど、リズムが止ったブレイク部分で、再開するタイミングに完全にピッタリ合わせて、後から音を重ねるというのは、かなり難しいはず。ビートルズのそれだって、ジョンが歌い終った後一瞬間が空くもんね。

そう思って聴くと、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』では、二枚目B面の1974年録音「エムトゥーメ」も、続く72年録音の「ビリー・プレストン」も、トランペットの音だけ後からオーヴァー・ダビングしているかもしれない。これらはセッション音源などの証拠はないので、完全なる僕のヤマカンだけ。

ジャズやジャズ系の音楽は、一回性の再現不能なアドリブ勝負だと、一般的にはそう思われているし、ジャズ・ファンはほぼ全員それこそが魅力だと考えているはず。ジャズマンだって、『ススト』の菊地雅章みたいに、複雑な音楽でも一発録りしかしないという人もいる。でもねえ、僕の考えはちょっとだけ違うんだなあ。

2016/02/08

凄すぎる60年代末のJBライヴ

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ジェイムズ・ブラウンの1968年ダラス・ライヴ『セイ・イット・ライヴ・アンド・ラウド』が、何度聴いても凄すぎる。これ、ひょっとしたらJBのライヴ・アルバムでは一番凄いんじゃないだろうか?初めて聴くわけじゃないし、1998年だったかな、初めてリリースされた時に聴いて衝撃だったんだけど。

 

 

大学生の頃に最初に買ったジェイムズ・ブラウンのレコードは『ライヴ・アット・ジ・アポロ Vol.II』。これは当時LPでバラ売り二枚だった。二枚組ではない。冒頭のMCが最高で、間髪置かず「シンク」が始った瞬間にKOされてしまった。マーヴァ・ウィットニーとのデュオ。

 

 

大学生の頃はジャズのレコードばかり買っていて、他の音楽を買っていいと思っても、あまり追求しなかったんだけど、ジェイムズ・ブラウンだけはいろいろとレコードを買っていた。それくらい、あのアポロ・ライヴのファンク・ミュージックはショックだった。特にギターとドラムスが最高に好きだった。

 

 

初期の『プリーズ・プリーズ・プリーズ』や『トライ・ミー』とか、1960年代末期の『コールド・スウェット』や『セイ・イット・ラウド〜アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド』とか、71年のアポロ・ライヴ盤『リヴォルーション・オヴ・ザ・マインド』(これも凄かった)とかも買って聴いた。

 

 

また東京に出てきてからも、1986年リリースの二枚組コンピレイション・アルバム『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』を買って、これも愛聴していた。このアルバムは、リリース当時のヒップ・ホップ・シーンでのJBサンプリング人気を受けて、その元ネタ集みたいなものとしてリリースされたものらしい。

 

 

さて、あの1967年録音のアポロ・ライヴの中でも、特に凄いと思って繰返し聴き、今でも愛聴しているのが、オリジナルLPでは一枚目B面だった「ゼア・ワズ・ア・タイム」〜「アイ・フィール・オール・ライト」〜「コールド・スウェット」のメドレー。この時のバンドは、ギターが二本でドラマーも二人。

 

 

その二本のギターの絡み(一人がコード・カッティング、もう一人がシングル・トーン弾き)が、もうたまらなく最高だ。バンド全体も一糸乱れず渾然一体となって盛上げている(なにしろJBのバンド訓練は厳しかったらしく、ライヴでもミスをしたらギロリと睨まれ、しかも罰金だったようだ)。

 

 

「ゼア・ワズ・ア・タイム」〜「アイ・フィール・オール・ライト」の猛烈なグルーヴ感も物凄く、完全に虜になってしまったわけだけど、JBが ”Cold Sweat, Hit It!” と叫んだ瞬間にパッとバンド演奏がチェンジしてしまう辺りの劇的な展開にも、大いに感心した。

 

 

1970年代電化マイルス・デイヴィスのライヴで、ワン・ステージが全曲繋がって、マイルスのキュー一つでバンドの演奏がパッと瞬間的かつ劇的にチェンジするのは、どう考えても、この頃からのJBのライヴ盤を聴いて、ヒントを得ていたに間違いないと思う。

 

 

同じ1960年代末頃のファンク・ミュージックでは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのライヴでも、ワン・ステージがほぼ全曲繋がっているのが、去年出たフィルモア四枚組で確認できるけど、当時はスライの単独ライヴ盤はなかったからなあ。マイルスはスライのライヴにも足を運んでいたかもしれないけどね。

 

 

JBの1967年アポロ・ライヴでの「ゼア・ワズ・ア・タイム」は、これだけ取りだして編集されて、1968年のスタジオ・アルバム『アイ・キャント・スタンド・マイセルフ』に収録されている。これも大学生の頃に買って聴いていたレコードの一枚。

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このアポロ・ライヴ二枚、CDになった時(それは二枚組だったはず)にもすぐに買って愛聴していたけど、2001年にこれのデラックス・エディションが出て、当時のライヴがほぼ完全に再現され、リマスターもされていい音でリリースされた時は、そりゃもう嬉しかった。

 

 

ただ、あのデラックス・エディションでちょっと残念だったのが、元のLP(と最初のリイシューCD)では、MC「イントロダクション・トゥ・スタータイム」から間髪入れず「シンク」だったんだけど、デラックス・エディションでは、「シンク」が一枚目一曲目で、MC「イントロダクション・トゥ・スタータイム」が二枚目冒頭だった。

 

 

これが当日のライヴそのままを再現したものなんだろう。「シンク」がファースト・セットで、MC「イントロダクション・トゥ・スタータイム」がセカンド・セット。ということは元のオリジナルLPは、かなり編集されていたことが分ったわけだ。考えたらそれは当然だっただろうけどね。

 

 

とはいえ、昔の(確か1987年リリースの)CDは、もう音がショボく聞えるので、今更あれを聴く気にもなれず、悩んだ僕は、結局そのデラックス・エディション音源から、Audacityというアプリを使って自分で編集し、オリジナルLP通りに作り直して、それをCDRに焼いていつも聴いているんだよねえ。

 

 

余談だけど、Audacity、Windows版もあるオーディオ・ファイル編集ソフトで、フリーウェアなのに高機能で重宝している。トラックが切れているものを一個ずつ抜出すなら、iTunesでピックアップすれば済むけど、スタジオ・アルバムでもライヴ・アルバムでも、一繋がりの部分から切取ったりするのには、これを使っている。

 

 

さて、ジェイムズ・ブラウンのLP、CDをたくさん買って聴いてきたけど、JBも多くのソウル歌手の例に漏れず、やはりシングル盤中心の人なので、1991年に出たCD四枚組ボックス『スター・タイム』は重宝した。僕みたいなヤワなソウル・ファンは、こういうのでもないとなかなか。

 

 

しかしながら、その『スター・タイム』も既に持っていた音源と結構ダブるし、この四枚組CDボックスを一度は全部通して聴きはしたものの、その後は全曲通して聴くということは殆どなく、この曲・あの曲と一つ一つピックアップして聴くだけなんだよなあ。

 

 

iTunesができて、それに『スター・タイム』をインポートしてからは、そうやって一曲単位でピックアップして聴くということがしやすくなったので、それでまた最近はあの四枚組を聴直すことも多くなった。それにしてもジェイムズ・ブラウンのカタログは整理されていないよね。

 

 

ジェイムズ・ブラウンくらいの大物になれば、そのうち待っていればコンプリート集が出そうな気がしないでもないけど、JBもマイルス・デイヴィスやフランク・ザッパみたいにアルバム数がむちゃくちゃに多い人だし、またその二人と違ってJBは、録音レーベルも多いから、なかなか難しいのかなあ。

 

 

そしてジェイムス・ブラウンもまたライヴで本領を発揮して、スタジオ・アルバムよりライヴ・アルバムの方がはるかに凄い人だよねえ。書いたように僕もその1967年アポロ・ライヴ二枚でノックアウトされて、JBに惚れちゃったわけだから。

 

 

一番最初に買って聴いて惚れたものだから、やはり一番思い入れがあって大好きなのは、1967年録音の『ライヴ・アット・ジ・アポロ Vol.II』なんだけど、最初に書いたように98年に出た68年ダラス・ライヴ『セイ・イット・ライヴ・アンド・ラウド』が、今では一番凄いライヴ盤のように聞える。

 

 

こんなに凄いライヴ盤が、録音から30年間もリリースされていなかったのは、前年1967年録音のアポロ・ライヴLP二枚を68年にリリースしていたばかりだったというのと、もう一つ、このライヴの四ヶ月前にマーティン・ルーサー・キングが暗殺されたばかりだったという事情も考慮したんだろうね。

 

 

ジェイムズ・ブラウンは、恒例のアポロ・ライヴを1990年代にも一枚残しているけど、もうあの辺はちょっとなあ。やっぱり67〜71年頃のライヴが、脂が乗りきっていて最高に凄い。71年アポロ・ライヴの『リヴォルーション・オヴ・ザ・マインド』も壮絶だったもんねえ。

2016/02/07

ラジオ番組『渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ』

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大学生の頃に一番たくさんライヴ・コンサートに行っていたミュージシャンは、渡辺貞夫さんなのだ。一番たくさんと言っても、毎年一回松山に来るので、計四回だけど、それでもかなり多いと思う。他の人は大抵一回か、多くても二回程度だったもん。貞夫さんは毎年全国ツアーをやっていた。

 

 

肝心のレコード・アルバムに関しては、実は当時から殆ど買っていない。持っていたのは、一番有名な『カリフォルニア・シャワー』とその次作の『モーニング・アイランド』だけで、それ以後のものは全く買っておらず、それ以前のものをほんの三枚程度持っていただけ。今はCDでは一枚も持っていない。

 

 

だが大学生当時、毎週土曜日深夜12時からFM東京系で流していた『渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ』という一時間番組があって(以前もサンタナ関連で書いたけれど)、司会が小林克也、スポンサーが資生堂ブラバスの一ブランド提供だった。この番組で貞夫さんの演奏を実にたくさん聴いたのだ。

 

 

このFMラジオ番組は、メインはあくまで渡辺貞夫さんで、流すのは大抵当時の貞夫さんのグループのライヴ・ツアーの録音とか、あるいは企画物のスタジオ・セッションとか、以前書いたようにサンタナとか他のミュージシャンのライヴに貞夫さんが参加した様子とか、そういうものが中心だった。

 

 

ただごくたまに、渡辺貞夫さんが全く参加していない、他のジャズマンのライヴ録音が流れることもあって、エアチェックしたテープをデジタル化してCDRに焼いて今でもよく聴くものの一つに、ピアニスト山下洋輔の企画物ライヴがある。何年のものか忘れたんだけど、渡辺香津美や坂田明が参加している。

 

 

一曲目が山下洋輔のピアノ・ソロで「仙波山」。二曲目がテナー・サックスの松本英彦をフィーチャーし、ドラムスが村上ポンタ秀一で、エリントン・ナンバーの「コットン・テイル」。三曲目が渡辺香津美の曲で、彼や山下や坂田がソロを取る「師走はさすがに忙しい」。ラストが山下と香津美のデュオで「つるかめヒナタンゴ」。

 

 

このうち、三曲目の渡辺香津美の曲「師走はさすがに忙しい」での坂田のソロがとんでもなくぶっ飛んでいて素晴しかった。この曲もドラムスは村上ポンタ秀一で、演奏が終って山下洋輔が「坂田明!」と称賛の叫び声を挙げると、ポンタがスティックを鳴らして呼応している。何度聴いても目玉が飛出る。

 

 

「師走はさすがに忙しい」は、この時まだレコーディングされていない渡辺香津美のオリジナルで、確か翌年だったかに、彼のリーダー・アルバムで、同じアルトのデイヴィッド・サンボーンをフィーチャーして録音している。それをラジオで聴いたんだけど、これはもう坂田明の方が断然凄すぎたのでねえ。

 

 

そういうものがたまに流れはしたものの、それらは例外的で、『渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ』はあくまで貞夫さんの演奏が中心。非常に多くの(レコードなどにはならない)ライヴ音源が放送されたので、必ずエアチェックした。その中でこれはと思うめぼしいものはデジタル化して、今でも聴いている。

 

 

それらはどれも録音年月日と録音場所が書いていないので、今では検索してもどうにも分らないのが残念だ。パーソネルに関しては、だいたいいつも貞夫さんがで全員紹介する様子が入っているので、分るんだけど。いつもアメリカの、それも大抵西海岸のフュージョン系ミュージシャン。

 

 

松山に来た時のライヴを観に行った時も、いつもそうだった。もちろん西海岸系の人しか使わなかったわけではない。1981年のコンサートでは、ベースがトム・バーニーだった。メンバー紹介で貞夫さんが言うには、実は別のベーシストを予定していたんだけど、急遽別の人のバンドに参加することになったのでと。

 

 

誰のバンドに参加するどのベーシストなのか、貞夫さんは明言しなかったけど、しばらく経って、それはマイルス・デイヴィスのカム・バック・バンドに参加することになったマーカス・ミラーだと判明したのだった。そして彼の代役で来たトム・バーニーも1983年にマイルス・バンドに参加する。

 

 

つまり渡辺貞夫さんは、先物買いというか先見の明というか、鼻の利く人だった。マイルスのカム・バック・バンドで一躍有名になったマーカス・ミラーも、それ以前は実力はあるが、知る人ぞ知るという感じのベーシストでしかなかったもん。代役のトム・バーニーだって、1981年には名前すら知らなかった。

 

 

トム・バーニーも1983年に大阪で聴いたマイルス・バンドのライヴで生を観たし、またその後、以前も書いたスティーリー・ダンの再結成ライヴ・アルバム95年の『アライヴ・イン・アメリカ』でも弾いているよね。

 

 

当時の貞夫さんの音楽は、完全なるアメリカ西海岸系のフュージョンで、悪口を言う人もたくさんいたし、今では評価する人なんてまずいないだろう。僕は青春時代にライヴでは一番夢中になった人だから、忘れられないし、今でもデジタル化したエアチェック音源を聴き返すと、凄く楽しいと思っちゃうなあ。

 

 

当時エアチェックした音源を、その後デジタル化したもので、忘れられず今でもよく聴くものの一つに、これも何年だか分らないんだけど、ブラジルの歌手兼ギタリストのトッキーニョとの共演がある。トッキーニョというミュージシャンは、これで初めて知ったのだった。

 

 

共演といっても、それは二週にわたって流れたライヴの後半二週目でのことで、一週目はトッキーニョのバンドだけの演奏だったんだけど、これがまた大変に素晴しく、トッキーニョという人に惚れちゃったんだなあ。ナイロン弦ギターも凄く上手いし、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲なども演奏した。

 

 

トッキーニョは歌も歌うけど、歌ははっきり言ってそんなに上手くはない。バックの女性コーラスに助けられているという感じなんだけど、それでもなかなかいい味があって好きなんだなあ。曲名もバンド・メンバーのパーソネルも、一切メモしていなかったのだけが悔まれる。

 

 

後半の渡辺貞夫さんとの共演では、ブラジルの曲、特に貞夫さんの得意なボサ・ノーヴァ・ナンバーが多いんだけど、一曲だけ貞夫さんのオリジナル曲をやっていて、曲名はメモしていないけど、聴けば「コール・ミー」だと分る。ここでの貞夫さんのアルトがしっとりと濡れていて、なんとも言えず素晴しい。

 

 

この「コール・ミー」という曲、渡辺貞夫さんのどれかのアルバムに入ってはいるんだろうけど、最初に書いたように僕は『カリフォルニア・シャワー』と『モーニング・アイランド』しか彼のフュージョン・アルバムは知らないので分らない。でも件のFM番組で頻繁に聴いたので、判別できる曲だった。

 

 

それらたくさん(多分全部ライヴ音源)聴いた「コール・ミー」の中では、そのトッキーニョのバンドとの共演でやったヴァージョンが、最高に素晴しく、断然ナンバー・ワンだね。この二人の共演は、別の日のかもしれないが、後にレコードなのかCDなのか、発売されたらしい。でも「コール・ミー」は入っていないみたいだ。

 

 

以前書いたように、サンタナのバンドに飛入りで参加してアルトを吹いた貞夫さんも大変素晴しかったんだけど、これはなぜかデジタル化しておらず、元のテープも見つからないので、物凄く悔しい。当時の『渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ』では、ホントそんな面白いものがたくさん流れたなあ。発売なんか全くされていないんだけど。

 

 

渡辺貞夫さん自身のバンドの演奏では、なぜかこれだけ録音年と録音場所が書いてある1984年六本木ピット・インでのライヴが一番いい。これまたロサンジェルスに拠点を置くフュージョン・バンド、イエロー・ジャケッツのメンバーが中心のサイドメンで、特にラッセル・フェランテのシンセサイザーが素晴しい。

 

 

この時はラッセル・フェランテの他にドン・グルーシンも鍵盤で参加していて、二人ともソロを取っているんだけど、一番凄いと思うのが「セヴンス・ハイ」後半でのラッセル・フェランテのソロ。竹かなんかでできた楽器を叩くような音で弾いていて、終盤フェンダー・ローズに移行する。鳥肌ものなのだ。

 

 

ラッセル・フェランテの鍵盤ソロは、この曲の一番最後に弾いたもので、約五分くらい。彼のソロが終って、貞夫さんが再びテーマを吹いて曲が終ると、思わずドラムスのアレックス・アクーニャがスネアをドンドンと鳴らして称賛しているし、貞夫さんも感極まって叫び声を挙げているくらいなのだ。

 

 

なおこの時のギタリストは、イエロー・ジャケッツだから当然ロベン・フォード。ブルーズを弾かせたら旨味を発揮するから大好きなギタリストなんだけど、この1984年の貞夫さんのライヴで初めて知った人だった。そしてこの二年後に、やはりロベンもマイルスのバンドに参加することになる。

2016/02/06

最大級の衝撃だったサカキマンゴー『オイ!リンバ』

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ここ十年ほどのあらゆるジャンルの新作CDアルバムで(といっても新作はワールド・ミュージック系以外はあまり買わなくなってしまったが)、なにが衝撃だったかって、そりゃもうサカキマンゴーさんの2011年の新作『オイ!リンバ』以上の衝撃はなかった。

 

 

 

『オイ!リンバ』は、正確にはサカキマンゴー&リンバ・トレイン・サウンド・システムというバンド名義のアルバムだ。この名義のバンド、これ以前にもアルバムがあるけど、それまで全く聴いたことがなかった。サカキマンゴーさんという日本人の親指ピアノ奏者がいるという知識しか持っていなかった。

 

 

『オイ!リンバ』のリリースに先だって、収録曲の「茶碗むしのクンビア」のプロモーション・ヴィデオが公開されていて、それでハマったというリスナーの方が結構いるらしい。僕も何度も繰返し観たけれど、その頃はイマイチな印象だった。アルバムの中で聴いたら最高だから、なぜだったんだろうなあ。

 

 

だから「茶碗むしのクンビア」とか、その他一・二曲先行公開されていた曲を聴いて、『オイ!リンバ』購入を決めたのではない。購入の決め手はTwitter上でしぎょうさんがベタ褒めしていたからだった。それで思い切って買って聴いてみたら、もうこれが最高すぎた。興奮したなんてもんじゃない。

 

 

あまりに興奮しすぎて、「ここ50年くらいの世界中のポピュラー・ミュージック界の最高傑作だ」と発言してしまったくらいだった。今、冷静に考えると、50年に一枚というのは言過ぎだったけど、少なくとも21世紀になってからでは、ティナリウェンの諸作と並んで、最重要作だろうと思っている。

 

 

冒頭の「プロローグ」がラジオ番組ななにかみたいな感じに仕上げていて、それでサカキマンゴー&リンバ・トレイン・サウンド・システムというバンドを紹介し、2トラック目から本編が始るという趣向は、さほど珍しいものではない。僕に馴染の深い分野でも、ウェザー・リポートの『8:30』二枚目B面のスタジオ・サイドもちょっと似た感じだった。

 

 

でもこういう仕掛になぜか極めて弱い性分の僕は、このラジオ番組風の「プロローグ」と、それに続いて即座に出てくる「ロシアの蠅」が始った瞬間に、もう降参してしまった感じだった。僕ってなんてナイーヴなんだろう。親指ピアノが聞えてくると、それがエレベとドラムスの伴奏と三位一体になっていて。

 

 

親指ピアノというか、ムビラやリンバやカリンバなどは、それまでも聴いていて、割と好きな種類の音楽だったんだけど、サカキマンゴーさんの親指ピアノは、それまで聴いたことのない響きをしていたから驚きだった。なにがヒミツなのか分らないけど、指先からなにか出ているだろうという人もいたね。

 

 

チウォニーソが歌う「ネマムササ・ロック」を除いては、全てヴォーカルもサカキマンゴーさんだけど、はっきり言うと彼のヴォーカルは、親指ピアノに比べたら魅力が薄い、というと語弊があるかもしれないが、若干弱いよね。これはほぼ全員そう言っている。『オイ!リンバ』では殆ど気にならないけどね。

 

 

特に先行PVだけを聴いていた頃にはイマイチと思っていた「茶碗むしのクンビア」での歌は、なかなかいい味を出していて、曲調によく似合っていて、ヴォーカルだけならアルバム中一番いいように僕の耳には聞える。もちろん親指ピアノのソロもいいし、エレベとドラムスもいい。

 

 

エレベとドラムス、それまで全く名前すら見たことのないお二人だけど、『オイ!リンバ』での演奏ぶりは素晴しいとしか言いようがない。ベーシストの長谷川晃さんは、このアルバムがリンバ・トレイン・サウンド・システム初参加らしいけど、彼がこのバンドのキー・パースンになっているように聞える。

 

 

サカキマンゴーさんがリンバ・トレイン・サウンド・システムを結成したのは2006年のことらしい。その頃は全く感心すら抱いていなかった。凄い親指ピアニストがいるらしいという噂を知ったのがここ数年のことだ。ドラマーの井戸本勝裕さんは、その頃から叩いているのだろうか?

 

 

サカキマンゴーさんは、殆どの曲で、鹿児島の一部で使われているらしい頴娃語で歌っているから、僕には外国語にしか聞えないし、意味も全く分らない。CDパッケージ付属の紙に共通語訳が書いてあるけど、殆ど読んでいない。音楽家本人の意向をほぼ無視して、僕は歌詞の意味をあまり聞かないリスナーだ。

 

 

しかしながら、頴娃語で歌うということと、親指ピアノというアフリカ由来の楽器をメインに使い、さらにエレベとドラムスという現代ポピュラー・ミュージックのグルーヴ感を出せる編成で演奏することにより、今流行の<グロカール・ビーツ>そのものを体現している。吉本秀純さんなどはどう聴いているのかな?

 

 

ローカルなサウンドとグローバルなサウンドが、これ以上ない最高レベルで結合しているグローカル・ビーツの(僕の聴く範囲での)最高傑作が、サカキマンゴーさんの『オイ!リンバ』だろうと思っているんだけど、どなたもそういうことを言っていないよねえ。

 

 

アルバム中一番謎なのが七曲目の「新しい鍋」。三分もない短い曲だけど、2011年当時から現在に至るまで何度聴いても、僕みたいな素人リスナーには、どういうことになっているのか解明できない複雑なポリリズムで、ホントこれどういう創りになっているんだろう。演奏者当人だって苦労しそうだよね。

 

 

「新しい鍋」とか、ヒップホップ風「IOTOI」とかは、リズムが最高に面白くて、当時も今も繰返し聴くナンバーだ。この二曲でのグルーヴ感は、先にも書いたように、21世紀の世界中のポピュラー・ミュージック全体を見渡しても、匹敵するものが少ない。

 

 

複雑なポリリズムとか最高のグルーヴ感とか、それはもちろんアルバムのほぼ全ての曲がそうなのであって、10曲目「米はのどごし」もポリリズミックだし、先に書いたチウォニーソが歌う「ネマムササ・ロック」だってそうだ。チウォニーソは残念ながら2015年に亡くなってしまったが。

 

 

アフリカの親指ピアノ音楽を聴く方ならみなさんご存知の通り、「ネマムササ・ロック」は、古くからアフリカで演奏されてきている「ネマムササ」が原型のトラディショナル・ナンバー。僕の持っている『ショナ族のムビラ』にも入っているのでお馴染みだったはずなのに、完全に忘れてしまっていた。

 

 

『オイ!リンバ』でチウォニーソの歌う「ネマムササ・ロック」を聴いて、この曲名どっかで見たことあるなあ、でもどこで見たのか思い出せないなあと思って、しばらく探してようやく『ショナ族のムビラ』に入っているのを再発見して聴直したいう次第。

 

 

 

今貼ったのは『ショナ族のムビラ』のものではないが、だいたい似たような感じだね。こちらはチウォニーソ自身による「ネマムササ」のヴァージョン。 ホーン・セクションも派手に入って、伝統的な感じではないけど、これもまた楽しい解釈だよね。

 

 

 

サカキマンゴーさんのバンドにチウォニーソが客演する「ネマムササ・ロック」が、おそらく従来からのアフリカ音楽リスナーには、一番ウケがいいナンバーなんだろう。11分あるから、僕はちょっと長いような気もするけど、確かにアフリカの伝統と現代ポピュラー音楽との融合という点では最高だ。

 

 

個人的には、書いたように「新しい鍋」とか「IOTOI」とかが一番好き。アルバムで聴いたら凄くいいと思う「茶碗むしのクンビア」だって最高だ。ラストの「Small」は、サカキマンゴーさん一人での弾き語りで、しみじみと沁みる曲調で、これが終ると後を引くようななんとも切ない気分になってしまうんだよね。

2016/02/05

ウィントン・ケリー時代のマイルス・ライヴ

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アクースティック・ジャズ時代のマイルス・デイヴィスのライヴ音源では、1960年代中頃のハービー+ロン+トニーがいた頃のものはもちろん凄いと思うんだけど、60年代初頭のウィントン・ケリーがピアノを弾いていた頃のが、僕は案外一番好きだったりするんだよなあ。

 

 

これはリズム・セクションがというんじゃなく、多分ウィントン・ケリーのピアノが大好きだということなのかもしれないなあ。ベースとドラムスは1958年から変っていない(ポール・チェンバース、ジミー・コブ)し、サックスに至っては、個人的にはあまり高く評価していないハンク・モブリーだし。

 

 

ウィントン・ケリーは、マイルス・バンドでの演奏を聴く前から、彼のリーダー・アルバムを聴いて好きになっていたピアニストだった。今ではもう彼のアルバムは一枚もCDでは持っておらず、全く聴き返さない人なんだけど、LPではかなり買っていた。好きなアルバムがいろいろあった。

 

 

特になんだっけなあ、「枯葉」をピアノ・トリオでやっているのがあって、この曲はキャノンボール・アダレイ名義のマイルスの『サムシン・エルス』収録のが至高のヴァージョンだと思い、最初からこれで知って惚れちゃった曲だけど、ピアノ・トリオのでは、ビル・エヴァンスとかのより断然好きだった。

 

 

ウィントン・ケリーの「枯葉」が入っていたのは『フル・ヴュー』だったっけなあ?もう持ってないから確認するにはネットで調べるしかないけど、それも面倒だ。大学生の時、学園祭のジャズ研のライヴに松山在住のプロのピアニストが客演して、ウィントン・ケリーそっくりにこれを弾くのを聴いたっけ。

 

 

そんな具合で大好きなピアニストだったから、これまた大好きなマイルス・デイヴィスのバンドで演奏しているものがあることを知った時は、かなり嬉しかった。ウィントン・ケリーがマイルスの録音に初参加したのは、1959年3月録音の「フレディ・フリーローダー」(『カインド・オヴ・ブルー』)。

 

 

ビル・エヴァンスの後任としてマイルス・バンドのレギュラーになったのが、その二ヶ月ほど前の1959年初頭のこと。エヴァンスが辞めた直後は、ちょっとだけレッド・ガーランドが弾いていた時期があるけれど。ケリー加入後も、ご存知の通り『カインド・オヴ・ブルー』では、エヴァンスが呼ばれている。

 

 

『カインド・オヴ・ブルー』の録音では、ピアノを弾いているのは、さっき書いた「フレディ・フリーローダー」を除き、全部ビル・エヴァンスだけど、ウィントン・ケリーもスタジオには呼ばれていた。だから、自分が正式なレギュラー・メンバーなのに、どうしてエヴァンスが座っているんだろうと思ったらしい。

 

 

ビル・エヴァンスの和音の使い方とモード奏法へのアプローチを非常に高く買っていたマイルスだけど、アップ・テンポのスウィンギーな曲やファンキーにやりたいブルーズ曲ではやや不満があったらしいから、『カインド・オヴ・ブルー』でも、スウィンギーなブルーズ曲の「フレディ・フリーローダー」でケリーを起用しているのは、理解しやすい。

 

 

ビル・エヴァンスの1977年録音(リリースは死後)の名盤『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』現行CDには、ボーナス・トラックとして「フレディー・フリーローダー」が入っているのだが、それを聴くと、マイルスがオリジナルでエヴァンスを使わなかったのは大正解だったとしか思えないもんね。

 

 

ウィントン・ケリーは、これ以前にマイルスが使っていたレッド・ガーランドや、それ以前にセッションで一度使ったことのあるレイ・ブライアント同等、ブルーズで非常に旨味を発揮するピアニストだ。これをみんな黒人ピアニストなんだから当然だろうと思ってはいけない。そういうもんじゃないんだよね。

 

 

『カインド・オヴ・ブルー』では、もう一曲「オール・ブルーズ」もブルーズ曲だけど、ここではビル・エヴァンスだ。ブルーズといっても、この曲は「フレディ・フリーローダー」みたいなファンキーなフィーリングを持った曲ではないから、エヴァンスでよかったんだろう。ケリーだとちょっと違う感じだ。

 

 

そして、僕は実を言うと『カインド・オヴ・ブルー』というアルバムでは、代表曲の「ソー・ワット」でも人気の高い「ブルー・イン・グリーン」でもなく、「フレディ・フリーローダー」が一番好きなのだ。一番手で登場するウィントン・ケリーのソロがなんといってもいいし、マイルスのソロも完璧だ。

 

 

その後、コルトレーン、キャノンボールの順番で出るサックス・ソロもいい。特に、モード曲では若干理解が足りないというか窮屈そうに聞えなくもないキャノンボールが、ブルーズは大得意だから、そのアルト・ソロは水を得た魚の如く、実に活き活きと輝いているよね。あの曲が一番出来がいいと思う。

 

 

その後、ポール・チェンバースのベース・ソロになっていると思うんだが、「思うんだが」というのは、これ、録音に失敗しているんじゃないかと思う。あるいはミキシングの際のミスなのか、ベースの音が前面に出ていない。このことだけが『カインド・オヴ・ブルー』の玉に瑕なんだなあ。

 

 

『カインド・オヴ・ブルー』では一曲しか弾かせてもらえなかったウィントン・ケリーも、その後のスタジオ・アルバム(『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』の一枚しかないけど)や、数枚あるライヴ・アルバムでは、もちろん全面的に任されて大活躍していて、僕はこの時期のアルバムが大好き。

 

 

例えば、ギル・エヴァンス編曲・指揮のビッグ・バンドと一緒にやった『アット・カーネギー・ホール』などは、マイルスとギルのコラボ・アルバムでは一番好きだというファンだっているくらいだ。それはおそらくギルと組んだ部分ではなく、レギュラー・コンボの演奏部分を指して言っているのだと思う。

 

 

特に一曲目「ソー・ワット」は、イントロをビッグ・バンドが演奏するものの(荘厳な雰囲気のイントロは、『カインド・オヴ・ブルー』ヴァージョンと同一だが、実はそのスタジオ録音のもギルが書いたものなのだ)、その後は全面的にコンボだけの演奏になり、そのコンボ演奏でのケリーのソロが最高だ。

 

 

普段はイモにしか聞えないハンク・モブリー(ファンの方々、ゴメンナサイ!)も、なぜかこの1961年5月のカーネギーの「ソー・ワット」では、なかなかいいテナーを吹くし、凄まじくスウィングするウィントン・ケリーといい、このヴァージョンの「ソー・ワット」は本当にいいね。一番好きかも。

 

 

 

「ソー・ワット」も、これの二年後にハービー+ロン+トニーの黄金のリズム・セクションが加入して以後の一連のライヴでは、録音のあるなしに関わらず、ほぼ常に演奏されていて、録音が残っているものだけでも、相当に凄いことになっている。一般的にはそっちの方が評価は高いわけだ。

 

 

特に『フォー&モア』での「ソー・ワット」は、トニーの鬼のようなドラミングのおかげもあって、一番凄いヴァージョンだとの定評があるけど、僕はどっちかというと、ウィントン・ケリーが弾くカーネギー・ヴァージョンのスウィング感の方が好き。『フォー&モア』のは、スウィング感というのとはちょっと違う気がする。

 

 

「ウォーキン」だって、やっぱり『フォー&モア』のをはじめ、その他1960年代半ばのライヴ録音が評価が高いけど、個人的にはこの曲も「ソー・ワット」も、テンポが速くなりすぎているように思うんだ。「ウォーキン」は、61年4月ブラックホークでのライヴ録音が一番好きだ。もちろんピアノはウィントン・ケリー。

 

 

そのブラックホークでのライヴ盤二枚『イン・パーソン:フライデイ(&サタデイ)・ナイト・アット・ブラックホーク』が、アクースティック時代のマイルスのライヴ・アルバムでは、個人的に一番好きなものなのだ。意外に思われるかもしれないけど、それくらいこの時期のウィントン・ケリーが好きなのだ。

 

 

特に『フライデイ』の方に入っている「ウォーキン」は、ブルーズ曲だけあって、もちろんウィントン・ケリーが最高にスウィンギーでファンキーだし、ハンク・モブリーだってかなりいい。御大マイルスのソロも見事だ。マイルスのライヴ録音では一番好きな「ウォーキン」だね。

 

 

 

『サタデイ』の方のスパニッシュ・ナンバー「ネオ」でも、「テオ」という曲名だったスタジオ・ヴァージョン(『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』)では、コルトレーンがソロを吹き、全く吹かせてもらえなかったハンク・モブリーがなかなか健闘しているしね。トレーンとは比較できないけどさ。

 

 

まあでも、このウィントン・ケリー在籍時のマイルス・コンボのライヴ録音で一番好きなのは、まだコルトレーンが在籍していた時代の、1960年欧州公演でのものなのだ。コルトレーン脱退前夜のものだ。コルトレーンのソロがやや長すぎる気はするけど、ケリーもスウィングしているし、マイルスもいいんだよね。

2016/02/04

宗教と音楽

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人生にこれ以上退屈な時間はないと子供の頃は思っていた葬儀での読経だけど、一昨年の父親の葬儀ではこれがもう音楽にしか聞えなくて、楽しくて仕方がなかった。父親の葬儀で楽しい気分になるというのも不謹慎な話かもしれないが、音楽ファンとしてはそれが正直な気持だった。

 

 

仏式の葬儀での読経には、木魚や鐘といった鳴物も入るし、その鳴物の入るタイミングやリズム、お坊さんの読経自体も節が付いていて面白いし、お坊さんの声の張りとか、音楽的な聴き所がたくさんあるよね。子供の頃はそんなこと全然分ってなかったので、なんて退屈なんだと思っていただけだったのだ。

 

 

仏式葬儀での読経の時間が音楽的に楽しい(何度も言うが葬儀が「楽しい」時間だと言ってしまうのも、やや気が引けるけど)ということに気付いたのは、かなり最近のことなのだ。だいたい死ぬほど退屈だという子供の頃の体験が強烈に刷込まれていたから、できる限り参列しないように努めてきたからなあ。

 

 

でも肉親とか近い親戚とかの通夜や葬儀に参列しないというわけにもいかないので、いやいやながら出るわけだけど、それが一昨年の父親の葬儀では、書いたように読経の時間が音楽の時間になって楽しめて、意外な体験だった。歳を経て、僕の耳もだいぶ変ったもんだ。そもそも僕は冠婚葬祭の席が超苦手なのだ。

 

 

冠婚葬祭って、ちゃんとした服装をしないといけないらしいし、普段は仕事でもかなり改まった場でも、ジーンズしか穿かない僕からしたら、Tシャツとジーンズで出席してもいいなら結婚式に出席してもいいぞと思うくらい、TPOをわきまえない人間なんだよなあ。

 

 

音楽って、まあそういう冠婚葬祭というか宗教的儀式と切離せないものだよね。冠婚葬祭はもちろん宗教的なものだ。人類の音楽の発生は、そもそも宗教儀礼での祈りの声というか歌というか、そういうものが起源だったんじゃないかという説もかなり見るし、僕もそれに間違いないだろうと思っているくらい。

 

 

宗教儀式で捧げる祈りの声とは、大変エモーショナルなもので、エモーショナルであるがゆえに、声も張り、節回しというかメロディが付き、音楽的になっていったはずだ。それは今でもあらゆる宗教の(といっても、僕は仏教と神道とキリスト教の現場以外は未体験だが)祈りの声を聴けば、誰でも分るはず。

 

 

特に宗教的なものでなくても、大勢の人間を前にした演説などのスピーチは、感情が入ってくれば、徐々に節回しのようなものが付き始めて、音楽的になっていく。いわゆる語り物なんかでもそうだよね。日本の浪曲なども、歌なのか語りなのか区別できないというか、音楽というものは広いものなんじゃない?

 

 

英国の伝承バラッドなんかも、文学にして音楽であると言えるわけで、世界中で英国の伝承バラッドを研究している人は、英文学者と音楽リスナーの両方面に存在する。バラッドは、伝統的には無伴奏で歌われるもので、だから現代バラッドの歌手がギター伴奏を付けるようになると、革新的で破壊的と言われた。

 

 

演説などや英国伝承バラッドの話は、またちょっと違う内容かもしれないね。話を戻すと、宗教儀式での説教などは、その場で聴いている多くの会衆のハートに訴えかけなくちゃいけないわけだし、天に捧げる祈りの声も、どうか思いが届きますようにと神に訴えるわけだから、どっちもエモーショナルになる。

 

 

おそらく、最初はそういうメロディの付いた祈りの声は、無伴奏のアカペラだったんだろう。それに次第に楽器伴奏が付くようになっていったはず。思うに一番最初は太鼓などの打楽器だったと思う。ギター族の先祖的な弦楽器の伴奏も、その後すぐに伴うようになっただろう。この二つの楽器は歴史が古い。

 

 

今でも殆どの場合、宗教儀式での祈りの声や説教などのスピーチは、だいたいは無伴奏で声だけだろう。伴奏が付いても必要最小限のものだけなはず。大がかりなバンド編成の伴奏が付くのは、多くの場合、産業化され商品になるようなケースだろう。それくらい人間の声が持つ根源的なパワーは大きいものだ。

 

 

実際に世界中の宗教儀礼の場面に赴いて、現場でのそういう祈りや説教などを聴くことは、僕などには不可能な話なので、いつもレコードやCDになったもの、すなわち宗教場面以外で流通する商品を聴いてきているだけなんだけど、それでも、やはり楽器伴奏に大袈裟なものは付いていないのが殆どだもんなあ。

 

 

世界中の宗教音楽で商品化されているもののうち、一番有名なものは、おそらくアメリカ黒人教会のゴスペル・ミュージックだろう。僕は米黒人教会のゴスペルが昔から大好きで、普段からよく聴くけど、実に様々なものがある。「信心深くしないと地獄へ落ちるぞ」という説教などは、とんでもない迫力だ。

 

 

MCAジェムズ・シリーズの一つとして中村とうようさんが編んだアンソロジー『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』の一曲目に、そういう怖ろしい説教の声が入っている。また、これには入っていないが、有名なギター・エヴァンジェリスト、ブラインド・ウィリー・ジョンスンなども、同じような感覚。

 

 

また『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』の四曲目に入っているA.W.ニックス牧師の「地獄行きの急行列車」も、これまた大変な怖ろしさで、こんなに怖いのなら、僕みたいな不信心な人間でも、スミマセン悔い改めますという気分になってしまうようなものだ。この曲は声だけの完全なアカペラ音楽。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンなどは、そのナイフ・スライド(実際にはナイフではないらしいが)と、濁声のド迫力で、やはり地獄へ落ちるぞ!と怖がらせ、悔い改めさせるようなゴスペル音楽で、音楽の内容的には、同時代1920年代のブルーズと区別できないものだ。彼はあくまで宗教家だけど。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンは、宗教音楽の枠を超えて、その後のアメリカン・ミュージックに大きな影響を与えている。映画『パリ、テキサス』のサントラ盤でライ・クーダーが(ギター・インストだけ)カヴァーしたので、それでご存知のロック・ファンも多いはず。

 

 

アメリカのソウル・ミュージックなど、いわゆる世俗音楽の熱心なファンの一部には、ゴスペル音楽というか、教会を敵視している人もいるらしい。話を聞くと、どうやらゴスペルからソウルに転向した歌手が、迫害されたり弾劾されたりしたことがあるという事実などから、そういう考えになっているらしい。

 

 

気持は分らなくもないんだけど、それでゴスペル音楽をやたらと敵視するのは、黒人音楽リスナーの姿勢としては、疑問に感じてしまう。ゴスペル音楽は、ソウル音楽だけでなく、様々な米黒人音楽の旨味として脈々と息づいているもので、好みならともかく、敵視したりするのは、栄養分を取り逃すことになると思うのだ。

 

 

録音技術が発明されて以後の大衆音楽の男性歌手では、史上最高の存在だと僕が信じているパキスタンのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンも、イスラム教神秘主義スーフィズムにおける儀礼音楽カッワーリーの歌手だ。リアル・ワールドから出ているクラブ・ミュージック風のものも嫌いじゃないけれど、伝統的パーティーでの歌はもっともっとはるかに凄まじい。

 

 

もっといろいろと書きたいことがたくさんあるのだが、僕が一番言いたいことは、宗教儀礼場面での歌は、人間の声の迫力とエモーションが最高潮に達する瞬間に発せられるもので、あらゆる音楽のなかでも、最高に心を鷲掴みにされてしまうものだということ。言葉の意味なんか分らなくても、大いに感動できるものなんだよね。

2016/02/03

ニューオーリンズ発のブラスバンド音楽

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ダーティ・ダズン・ブラス・バンドの1986年モントルー・ライヴ盤がブレイクしたせいで、本国アメリカだけでなく、日本を含めた世界中で一気に人気が出たような感じのニューオーリンズ発のブラスバンド音楽。僕みたいな熱心なジャズ・ファンにも、とても新鮮で心地いい音楽なのだ。

 

 

一番新鮮だったのは、スーザフォンとかチューバとか、それまであまりポピュラー・ミュージックでは使われない管楽器を低音部担当として使ったことで、しかも単にベース部分担当というだけではなく、ソロを吹きまくったりするのは、それまであまり聴いたことがなかった。多くの人がそうだったと思う。

 

 

もっとも僕の場合は、ジャズの世界でギル・エヴァンスのアレンジしたオーケストラが大好きで、ギルは1940年代のクロード・ソーンヒル楽団時代から、よくチューバを使っていた。70年代にも例のジミヘン集における「ヴードゥー・チャイル」でチューバがメイン・メロディを吹くというアレンジだ。

 

 

もっともあの1974年のジミヘン集でギルがアレンジしているのは「アップ・フロム・ザ・スカイズ」と「リトル・ウィング」の二曲だけで、その他は別の人のアレンジ。チューバがメイン・メロディを吹く「ヴードゥー・チャイル」は、その当のチューバ奏者ハワード・ジョンスンのアレンジなのだ。意外だよね。

 

 

そうであるとはいえ、1940年代からチューバやフレンチ・ホルンを使ってアレンジしてきたのは、ギル・エヴァンスその人に他ならないので、ジミヘン集では他の人の名前がアレンジャーとしてクレジットされてはいるものの、やはり相当な部分でギル本人が関わっていたに違いない。

 

 

そういうギル・エヴァンスのサウンドが大好きで、昔からよく聴いていたから、ダーティ・ダズンなどブラスバンドの低音管楽器へのアプローチは、初めて耳にしたというのではない。でも新鮮に感じたのはなぜだったんだろうなあ。ファンキーなグルーヴ感のせいかなあ。

 

 

ブラスバンド自体は新しくもなんともない。発生期のジャズだって、南軍の軍楽隊が残した管楽器を使ってのブラスバンド音楽が母胎だったわけで、元々はピアノなどは入っていないホーン・アンサンブルだった。その発生当時は低音部分担当だって、ウッド・ベースは持歩けないから、チューバなど管楽器だった。

 

 

1910〜20年代の初期ジャズ録音に、そういう管ベース入りのものがある。あるいはライ・クーダーが1976年の『チキン・スキン・ミュージック』や78年の『ジャズ』で、そういう管ベース入り管楽器アンサンブルを再現している曲があるので、是非一度聴いてみてほしい。大変面白いよ。

 

 

または、ジャズ誕生以前の19世紀のアメリカ音楽、ゴットシャルクやフォスターやスーザなどの音楽も、管楽器アンサンブルで、録音で残っている一番古いものでも1910年頃からだけど、そういうものを聴いても、やはりチューバなどの管楽器がベースというか低音部担当の役割を果しているのが分る。

 

 

だから、1980年代にブレイクしたダーティー・ダズン(このバンドのデビューは1977年らしいけど)などのブラスバンドは、言ってみれば一種の先祖帰りみたいなものだったんだろう。100年近くそういうものが消えていたというか地下に潜っていたから、それを復活させてみると新鮮に聞えたという。

 

 

ダーティ・ダズンなど1970年代末期の彼らだって、全くの「無」からそういう発想を思い付いたはずがない。やはりアメリカの古い管楽器アンサンブルの音楽を研究して、そういうところから発掘して、スーザフォンやチューバを低音担当で使うという手法を復活させたに違いないと、僕はそう考えている。

 

 

ただまあ凄く古い録音を除けば、アメリカ音楽でそういうやり方をした管楽器音楽はあまりないから、それでダーティー・ダズンが登場してきた時に、それで「新しい」と思ってしまったんだろうなあ。今考えたら新しくもなんともない。ダーティ・ダズンやその他も、凄く魅力的な音楽ではあるけれどね。

 

 

ダーティ・ダズンもリバース・ブラス・バンドもそれ以外も、1970年代末以後の「新しい」ブラスバンドが、ほぼ全てニューオーリンズから出てきたというのは、もちろん偶然ではない。ジャズ誕生の地であるニューオーリンズは、それゆえにジャズ以前のブラスバンド音楽のメッカでもあったわけだから。

 

 

そして、例えばダーティー・ダズンの1986年モントルーでのライヴ盤(これで彼らは一気にブレイクした)では、ジャズ以後のニューオーリンズ音楽、例えばプロフェッサー・ロングヘアのナンバーなども取りあげている。もちろん管楽器(+打楽器)のアンサンブルでやっていて、大変に楽しい。

 

 

そういうアルバムで聴けるブレイク当時のダーティー・ダズンは、完全に管楽器と打楽器だけでいろんな音楽を構成していて、それが面白かったんだけど、ブレイク後はそれ以外のいろんな楽器奏者と共演するようになった。例えば1999年の『バック・ジャンプ』は、オルガンのジョン・メデスキとの共演盤。

 

 

僕はその1999年の『バック・ジャンプ』が、実を言うとダーティ・ダズンのアルバムの中では一番好きで、ジョン・メデスキのオルガンだけではなく、ヴォーカルなども入っていて、打楽器もシンプルなものではなく、完全なるフル・セットのドラムス。初期のようなシンプルさは消えてはいる。

 

 

ニューオーリンズのブラスバンドというのは、演奏しながら街中を練歩くというのが特徴だったわけで、だからオルガンなどの鍵盤楽器やほぼ座ってでしか叩けないフル・セットのドラムスなどは入りようがない。最初、ダーティ・ダズンが誕生した時も、そういう音楽の「復権」を目指していたはずだった。

 

 

もちろん、だからといって、『バック・ジャンプ』みたいなアルバムは、彼らがダメになったものだというつもりもは毛頭ない。書いたように、僕はこれが一番好きなダーティ・ダズンのアルバムだしね。ルイ・ジョーダン・ナンバーやマーヴィン・ゲイ・ナンバーも取上げていて、黒人音楽好きにはたまらないんだ。

 

 

しかしながら、一抹の寂しさを禁じ得ないのも事実なんだな。1995年頃にニューオーリンズ旅行した際に現地で聴いたドクター・ジョンのライヴの前座が、全く名前を聞いたことのないブラスバンドで、狭いステージに上がったそのバンドは、管楽器奏者だけで打楽器もなしだった。

 

 

そのブラスバンド、元気満点でやたらと威勢がよく勢いはあったけど、アンサンブルはかなり粗暴というか荒削りで、まあはっきり言って一流半、あるいは二流のブラスバンドとかし聞えなかった。ニューオーリンズにはこういう無名のブラスバンドがそりゃもう無数にあるのだということだけは知っていた。

 

 

そのニューオーリンズ旅行の際には、ストリートでも少人数のブラスバンドをいつくか聴いた。たとえ無名で前座であれ、ライヴハウスに出演できる(そしてお金がもらえる)ようなのは、まだかなりマシな方で氷山の一角なんだろう。ニューオーリンズというのは、そういう土地。

 

 

ダーティー・ダズンやリバースやその他などはCDアルバムも出して、世界中でそれが聴かれて有名になっているけど、CDなんか出せるわけもない無数のブラスバンドの存在などが、ニューオーリンズの音楽文化を支えているんだろうね。

2016/02/02

アメリカの戦中ジャズ録音〜V-ディスク

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V-ディスクというものがあったことを今でも憶えていて、リイシューLPやCDを今でも聴くという人はどれくらいいるんだろう?まあ相当減ってはいるだろうねえ。そもそも「V-ディスク」という言葉がなんのことやら分らないという若いジャズや音楽ファンも、現在ではかなり増えているような気がする。

 

 

V-ディスクとは、第二次大戦中に、世界各地に出征している米軍兵士の慰問用に、米政府の肝煎で製作された音楽ディスクのこと。つまりV-ディスクのVとは “Victory” のことだ。制作・頒布されたのが1943〜49年で、ほぼ全て12インチの78回転グラモフォン。

 

 

78回転だけど12インチなので、やや長時間収録が可能だった。といっても八分程度までだけど、それでも当時主流だった通常のSP盤が三分程度だったのに比べれば、長めの収録時間。1940年代半ばから後半にかけて相当な数のV-ディスクが制作されて、世界中の米軍兵士向けに頒布された。

 

 

V-ディスクが制作された1940年代後半は、ロックやソウルなどの新興ジャンルはまだ誕生していないので、主にジャズやジャズ系のポピュラー・ミュージック、あるいはカントリーなどその他の米国産ポピュラー・ミュージックやクラシック音楽などだったらしい。僕が興味を持ったのはもちろんジャズ。

 

 

ジャズだって、ビバップという新しいスタイルが誕生してはいた時期だけど、僕の知る限りV-ディスクにビバップ系のジャズ録音は存在しない。ジャズ系のV-ディスクは、全部それ以前の古典スタイルのジャズ、特に、古い言葉で恐縮だけど中間派(大橋巨泉の造語らしい)のスウィング・セッションが多い。

 

 

僕はV-ディスクの本物、すなわち12インチの78回転盤現物は写真でしか見たことがない。1945年に第二次大戦は終ったけれど、49年までは駐留米軍のために制作されていたV-ディスク、その後に米軍から流出したのが、日本のマーケットでも流通していたらしく、その頃ジャズ・ファンだった方は現物を知っていたらしい。

 

 

僕が大学生の頃にたくさん買って聴いていたのは、もちろんV-ディスク音源を商業用に33回転LPでリイシューしたものだ。結構な数があったように思う。LPリイシューがいつ頃のことだったのかは全く知らないし、ネットで少し調べてみても分らない。相当な数のジャズ系V-ディスク音源がLP形式で出ていた。

 

 

V-ディスクの現物は曲単位なので、LPリイシューは特定のテーマのもとに元音源をまとめて収録したものだ。書いたようにニューオーリンズ、ディキシー、スウィングばかり、実にいろんなのがあった。こういう古典スタイルが昔から大好きな僕にとっては、しかもそれがやや長めの演奏で聴けるのは嬉しかった。

 

 

1940年代後半は、いわゆるジャンプ・スタイルのジャズも最盛期だったので、ライオネル・ハンプトンなど、結構そういうジャンプ系の音源もあった。もちろん大学生の頃はジャンプなんて言葉は知らなかったが、そういう音楽そのものは大好きで、V-ディスクにあるそういうものも愛聴していた。

 

 

『フライン・オン・ア・V-ディスク』という一枚には、ライオネル・ハンプトンを中心にしたセッションで「フライング・ホーム」も入っている。恒例のテナー・ブロウが入っていないという、ちょっとした変り種。これもそれ以外の多くも米政府の肝煎で企画されたセッションだから、珍しい顔合せがかなりある。

 

 

米政府の肝煎だったわけだから、個々のレコード会社の専属とか意向とは関係なく集められたメンバーによるセッションも多く、はっきり言ってV-ディスクでしか聴けないというセッションが結構あるから、古典スタイルのジャズが大好きなファンには、V-ディスク音源は聴き逃せないものなのだ。

 

 

『フライン・オン・ア・V-ディスク』とか『V-ディスク・キャッツ・パーティー』とか『52nd・ストリート・シーン 1943−47』などは、そういう会社の枠を超えたスウィング・セッションだ。ルイ・アームストロングとかマグシー・スパニアとかレッド・マッケンジーといった中間派以前の人も混ざっている。

 

 

またV-ディスクのジャズ音源には、アート・テイタムやファッツ・ウォラーやテディ・ウィルソンやナット・キング・コールといった名人ピアニストによるソロ演奏もかなりあるし、デューク・エリントン楽団の単独演奏などは、LP(CD)リイシューでもたっぷり二枚分も収録されていて、楽しめる。僕はCDでは買い直していないけど、カウント・ベイシー楽団やグレン・ミラー楽団の単独盤もある。

 

 

非常に重要なことだが、その頃のアメリカ音楽界には、二度にわたるレコーディング・ストライキがあった。一度目は1942年8月〜44年11月、二度目は48年1月〜12月。いずれも著作権料の値上げなどの理由でAFM(アメリカ音楽家連合会)が起したもので、アメリカ音楽の歴史に興味があるファンなら知っている事実。

 

 

このため、レコーディング・ストライキが行われていた時期は、大手レコード会社(メジャー)は公式レコーディングができず、その結果、サヴォイやダイアルやロイヤル・ルーストなどのインディペンデント・レーベルが多く誕生し、この時期に勃興したビバップなどのジャズを録音した。ご存知チャーリー・パーカーもそうだね。

 

 

パーカーやその他ビバップのオリジナル曲に、古いスタンダード・ナンバーのコード進行だけを借りて、それに新しいメロディを乗せたものが多いのは、このレコーディング・ストライキによる著作権問題のせいだったというのが最大の理由だったはず。コード進行に著作権はない。もちろん、新しい音楽には新しいテーマを持ってきたいという音楽的理由もあっただろうが。

 

 

ところがV-ディスクの録音に関してだけは、このレコーディング・ストライキに関係なく、大手レコード会社のジャズマンが、従来からある著作権団体が権利を持つスタンダード・ナンバーをたくさん録音しているのだ。一般の商業目的ではなく、海外の米軍兵士慰問用に米政府肝煎で行われたものだったから可能だったのだ。

 

 

レコーディング・ストライキの時期に、こういう録音が公式に聴けるのは、V-ディスクだけなので、これは非常に貴重で重要なんだよね。新興インディペンデント・レーベルでは不可能だった大物ジャズマンが、1940年代に、古い有名曲をたくさん録音しているセッションの数々、これはV-ディスクの最大の魅力だ。

 

 

V-ディスク音源は、書いたように大学生の頃たくさんLPリイシュー盤を買って愛聴していたが、CDでは徳間ジャパンからかなりリイシューされているようだ。僕もまあまあV-ディスクのCDリイシューを買って、今でも時々聴き返すけど、実に楽しい。これ、ほぼぜ〜んぶ戦中録音なんだよね。戦中日本だって、たまに流れる娯楽禁止だったなんていう説は誤謬で、音楽含めいろいろとあったんだけど、規模が違うよね。負けるわけだ(笑)。

 

 

現在、V-ディスクの現物は、アメリカ議会図書館が全セットを揃えて保管してあるらしい。ジャズじゃない録音もたくさんあるV-ディスクだけど、公式にそうやって全部の現物が保存されているのであれば、かなり商業流通してはいるものだけど、できうるならば公式に全てをCD発売してくれたら嬉しいんだけどなあ。

2016/02/01

60年代サイケへのレトロスペクティヴ

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いつ頃のことだったか『オースティン・パワーズ』という映画があって、古い洋楽ファンにはいろいろとたまらない映画だったんだけど、憶えている人はどれくらいいるのだろうか?『オースティン・パワーズ』、僕はそうでもなかったんだけど、元妻が観たいというので、一緒に映画館に行った。

 

 

元妻は、ただのスパイ映画だという情報しか持っていなかったらしく、楽しいドタバタ・コメディ風だというので、それで観たかっただけらしい。僕はといえば、高校生の頃から007シリーズのファンだったので、そういうことならいいかなと思ったのだった。ところがいざ観てみたら、これが完全に僕好み。

 

 

映画の本筋(というものもあってないような感じだったような)は、007映画のパロディのような内容で、英国の諜報部員である主人公のオースティン・パワーズが、敵役のドクター・イーヴルと戦いを繰広げるとか、そんなもので、スパイ映画としては、はっきり言ってどうってことないようなものだった。

 

 

もちろん『オースティン・パワーズ』の制作者も、ストレートなスパイ映画を目論んだものではない。007シリーズをはじめとする、完全なる1960年代英米文化へのオマージュとパロディで出来上っているような映画で、あらゆるとこころにそういう仕掛が施されていたけど、音楽とあまり関係ない部分は省略。

 

 

映画館で観た時に僕が一番グッと来たのは、『オースティン・パワーズ』で使われている音楽だった。書いたように1960年代英米文化へのオマージュとパロディが主眼の映画だから、その頃の英米ポピュラー音楽がたくさん使われていて、本当に楽しかった。観たいと誘った妻はそうでもないようだった。

 

 

映画本編でどんな風に1960年代英米ポピュラー音楽が使われていたかは大部分忘れてしまった。ただ一つ憶えているのが、オースティン・パワーズ役のマイク・マイヤーズの "Ladies and gentlemen, Mr. Burt Bacharach!" という言葉に導かれて、バカラック本人が登場するところだけ。

 

 

なにか川の上のボートの中みたいな場所(と思ったら、トレイラーの上だったようだ)で、ピアノ?のようなものを弾きながらバート・バカラック本人が一つ自分の曲を歌ったのだった。なにを歌ったかは忘れてしまったけど、今持っているサントラ盤を見ると「ワット・ザ・ワールド・ニード・ナウ・イズ・ラヴ」が入っているから、それだったのかも。

 

 

サウンドトラック盤でその「ワット・ザ・ワールド・ニード・ナウ・イズ・ラヴ」を聴き返すと、なんともいえない懐かしい気分が蘇ってくるから、おそらくこれを映画本編でも歌っていたんだろうね。ハル・デイヴィッドが歌詞を書き、最初ディオンヌ・ワーウィックが1965年に歌った曲だ。

 

 

そのバカラックの登場は、物語の本筋とはなんの関係もない唐突なものだったように憶えているけど、はっきり言って『オースティン・パワーズ』は、そんな脱線ばかりの映画で、しかもそれらはことごとく1960年代英米ポピュラー・カルチャーへの言及だった。だから物語の本筋を憶えていないんだね。

 

 

バカラック登場シーンでの紹介の仕方を見ていると、彼に対するリスペクトの情がヒシヒシと伝わってきて、『オースティン・パワーズ』制作者の並々ならぬバカラックと古い洋楽への愛情がよく理解できて、僕は凄く嬉しかった。あの時映画館で観ていた観客が、それをどれだけ理解していたか知らないが。

 

 

動くバート・バカラックを観たのは、この時が初めてだったように思う。というかそれ以後も動くバカラックは観ていないかもしれない。レー・クエン関係で以前書いたけど、僕はバカラック・サウンドが大好きで、昔は特に映画で使われている曲が好きだった。今はCDをたくさん持っていて愛聴している。

 

 

今調べてみたら、『オースティン・パワーズ』は1997年の映画だ。人気が出たらしく三作目まで制作されているけど、二作目以後は僕は観ていない。一作目を観て面白いと思った僕は、ネット上をはじめいろんなところで、どれほど面白かったか、古い洋楽のファンは観るべき映画か、強調していた。

 

 

観たのも一作目だけだし、音楽が面白かったから即買ったサウンドトラック盤CDも一作目のものしか持っていないけど、それに入っているクインシー・ジョーンズの「ソウル・ボサ・ノーヴァ」は、シリーズ三作品を通しての共通したテーマ・ソングになっていたようだ。サントラ盤も楽しくて、愛聴盤だ。

 

 

そのサントラ盤には、バート・バカラックの曲からもう一つ「ルック・オヴ・ラヴ」が入っている。この曲はバカラック・ナンバーでは、僕が一番好きな官能的な曲なのだ。「ルック・オヴ・ラヴ」がバカラックで最高だというのが僕だけでないことは、実にいろいろとカヴァーされている事実からも分ることだ。

 

 

『オースティン・パワーズ』サントラ盤に入っている「ルック・オヴ・ラヴ」は、ダスティ・スプリングフィールドの歌うヴァージョンではない。権利関係から当然使えないはず。歌っているのはバングルズのスザンナ・ホフスだ。バングルズも、実を言うと、このスザンナ・ホフスを調べていて初めて知った。

 

 

映画本編でどう使われていたか記憶は全くないけど、サントラ盤CDで気に入った曲がいくつもある。ストロベリー・アラーム・クロック(1967-71)の「インセンス・アンド・ペパーミンツ」(67)などがそうだ。セルジオ・メンデスの「マシ・ケ・ナダ」などは既に知っていた曲だったけど。

 

 

『オースティン・パワーズ』も、映画自体は一回しか観なかったし、今もDVDなどは持っていないけど、サントラ盤CDだけは今でも時々聴き返すと楽しい。先に書いたストロベリー・アラーム・クロックというロサンジェルスのサイケデリック・ロック・バンドも、それで知って聴くようになったバンドなのだ。

 

 

もっともストロベリー・アラーム・クロックは、サントラ盤にも入っている「インセンス・アンド・ペパーミンツ」以外は、個人的にはあまりパッとしないようにも思うけど。ロサンジェルスのバンドでこの曲が1967年だから、まさにサイケデリックど真ん中だ。

 

 

 

これもサントラ盤に入っているスウェーデンのロック・バンド、カーディガンズの「カーニヴァル」もいい。このバンドは1990年代のバンドで、「カーニヴァル」も95年の曲だから、映画の直前にリリースされたものだ。でも雰囲気は完全に60年代レトロ調。

 

 

 

 

カーディガンズが1960年代レトロ調だというのは、「カーニヴァル」という曲のサウンド自体がそうだけど、今貼ったオフィシャル・ヴィデオでご覧になれば、バンドのファッションも完全にそうだというのが分るはず。『オースティン・パワーズ』という映画やそのサントラ盤は、こんなのばっかりだ。

 

 

『オースティン・パワーズ』も、今ではDVDでリリースされているはずなので、もし興味をお持ちでご覧になりたいという方は観てほしい。また映画本編にはあまり興味なくても、1960年代の古い洋楽のファンの方なら、間違いなく気に入っていただける内容のはずなので、サントラ盤だけでも是非。

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