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2016/02/04

宗教と音楽

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人生にこれ以上退屈な時間はないと子供の頃は思っていた葬儀での読経だけど、一昨年の父親の葬儀ではこれがもう音楽にしか聞えなくて、楽しくて仕方がなかった。父親の葬儀で楽しい気分になるというのも不謹慎な話かもしれないが、音楽ファンとしてはそれが正直な気持だった。

 

 

仏式の葬儀での読経には、木魚や鐘といった鳴物も入るし、その鳴物の入るタイミングやリズム、お坊さんの読経自体も節が付いていて面白いし、お坊さんの声の張りとか、音楽的な聴き所がたくさんあるよね。子供の頃はそんなこと全然分ってなかったので、なんて退屈なんだと思っていただけだったのだ。

 

 

仏式葬儀での読経の時間が音楽的に楽しい(何度も言うが葬儀が「楽しい」時間だと言ってしまうのも、やや気が引けるけど)ということに気付いたのは、かなり最近のことなのだ。だいたい死ぬほど退屈だという子供の頃の体験が強烈に刷込まれていたから、できる限り参列しないように努めてきたからなあ。

 

 

でも肉親とか近い親戚とかの通夜や葬儀に参列しないというわけにもいかないので、いやいやながら出るわけだけど、それが一昨年の父親の葬儀では、書いたように読経の時間が音楽の時間になって楽しめて、意外な体験だった。歳を経て、僕の耳もだいぶ変ったもんだ。そもそも僕は冠婚葬祭の席が超苦手なのだ。

 

 

冠婚葬祭って、ちゃんとした服装をしないといけないらしいし、普段は仕事でもかなり改まった場でも、ジーンズしか穿かない僕からしたら、Tシャツとジーンズで出席してもいいなら結婚式に出席してもいいぞと思うくらい、TPOをわきまえない人間なんだよなあ。

 

 

音楽って、まあそういう冠婚葬祭というか宗教的儀式と切離せないものだよね。冠婚葬祭はもちろん宗教的なものだ。人類の音楽の発生は、そもそも宗教儀礼での祈りの声というか歌というか、そういうものが起源だったんじゃないかという説もかなり見るし、僕もそれに間違いないだろうと思っているくらい。

 

 

宗教儀式で捧げる祈りの声とは、大変エモーショナルなもので、エモーショナルであるがゆえに、声も張り、節回しというかメロディが付き、音楽的になっていったはずだ。それは今でもあらゆる宗教の(といっても、僕は仏教と神道とキリスト教の現場以外は未体験だが)祈りの声を聴けば、誰でも分るはず。

 

 

特に宗教的なものでなくても、大勢の人間を前にした演説などのスピーチは、感情が入ってくれば、徐々に節回しのようなものが付き始めて、音楽的になっていく。いわゆる語り物なんかでもそうだよね。日本の浪曲なども、歌なのか語りなのか区別できないというか、音楽というものは広いものなんじゃない?

 

 

英国の伝承バラッドなんかも、文学にして音楽であると言えるわけで、世界中で英国の伝承バラッドを研究している人は、英文学者と音楽リスナーの両方面に存在する。バラッドは、伝統的には無伴奏で歌われるもので、だから現代バラッドの歌手がギター伴奏を付けるようになると、革新的で破壊的と言われた。

 

 

演説などや英国伝承バラッドの話は、またちょっと違う内容かもしれないね。話を戻すと、宗教儀式での説教などは、その場で聴いている多くの会衆のハートに訴えかけなくちゃいけないわけだし、天に捧げる祈りの声も、どうか思いが届きますようにと神に訴えるわけだから、どっちもエモーショナルになる。

 

 

おそらく、最初はそういうメロディの付いた祈りの声は、無伴奏のアカペラだったんだろう。それに次第に楽器伴奏が付くようになっていったはず。思うに一番最初は太鼓などの打楽器だったと思う。ギター族の先祖的な弦楽器の伴奏も、その後すぐに伴うようになっただろう。この二つの楽器は歴史が古い。

 

 

今でも殆どの場合、宗教儀式での祈りの声や説教などのスピーチは、だいたいは無伴奏で声だけだろう。伴奏が付いても必要最小限のものだけなはず。大がかりなバンド編成の伴奏が付くのは、多くの場合、産業化され商品になるようなケースだろう。それくらい人間の声が持つ根源的なパワーは大きいものだ。

 

 

実際に世界中の宗教儀礼の場面に赴いて、現場でのそういう祈りや説教などを聴くことは、僕などには不可能な話なので、いつもレコードやCDになったもの、すなわち宗教場面以外で流通する商品を聴いてきているだけなんだけど、それでも、やはり楽器伴奏に大袈裟なものは付いていないのが殆どだもんなあ。

 

 

世界中の宗教音楽で商品化されているもののうち、一番有名なものは、おそらくアメリカ黒人教会のゴスペル・ミュージックだろう。僕は米黒人教会のゴスペルが昔から大好きで、普段からよく聴くけど、実に様々なものがある。「信心深くしないと地獄へ落ちるぞ」という説教などは、とんでもない迫力だ。

 

 

MCAジェムズ・シリーズの一つとして中村とうようさんが編んだアンソロジー『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』の一曲目に、そういう怖ろしい説教の声が入っている。また、これには入っていないが、有名なギター・エヴァンジェリスト、ブラインド・ウィリー・ジョンスンなども、同じような感覚。

 

 

また『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』の四曲目に入っているA.W.ニックス牧師の「地獄行きの急行列車」も、これまた大変な怖ろしさで、こんなに怖いのなら、僕みたいな不信心な人間でも、スミマセン悔い改めますという気分になってしまうようなものだ。この曲は声だけの完全なアカペラ音楽。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンなどは、そのナイフ・スライド(実際にはナイフではないらしいが)と、濁声のド迫力で、やはり地獄へ落ちるぞ!と怖がらせ、悔い改めさせるようなゴスペル音楽で、音楽の内容的には、同時代1920年代のブルーズと区別できないものだ。彼はあくまで宗教家だけど。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンは、宗教音楽の枠を超えて、その後のアメリカン・ミュージックに大きな影響を与えている。映画『パリ、テキサス』のサントラ盤でライ・クーダーが(ギター・インストだけ)カヴァーしたので、それでご存知のロック・ファンも多いはず。

 

 

アメリカのソウル・ミュージックなど、いわゆる世俗音楽の熱心なファンの一部には、ゴスペル音楽というか、教会を敵視している人もいるらしい。話を聞くと、どうやらゴスペルからソウルに転向した歌手が、迫害されたり弾劾されたりしたことがあるという事実などから、そういう考えになっているらしい。

 

 

気持は分らなくもないんだけど、それでゴスペル音楽をやたらと敵視するのは、黒人音楽リスナーの姿勢としては、疑問に感じてしまう。ゴスペル音楽は、ソウル音楽だけでなく、様々な米黒人音楽の旨味として脈々と息づいているもので、好みならともかく、敵視したりするのは、栄養分を取り逃すことになると思うのだ。

 

 

録音技術が発明されて以後の大衆音楽の男性歌手では、史上最高の存在だと僕が信じているパキスタンのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンも、イスラム教神秘主義スーフィズムにおける儀礼音楽カッワーリーの歌手だ。リアル・ワールドから出ているクラブ・ミュージック風のものも嫌いじゃないけれど、伝統的パーティーでの歌はもっともっとはるかに凄まじい。

 

 

もっといろいろと書きたいことがたくさんあるのだが、僕が一番言いたいことは、宗教儀礼場面での歌は、人間の声の迫力とエモーションが最高潮に達する瞬間に発せられるもので、あらゆる音楽のなかでも、最高に心を鷲掴みにされてしまうものだということ。言葉の意味なんか分らなくても、大いに感動できるものなんだよね。

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