フロントマンもドラマー次第
ドラムセットを使う他の音楽もそうだけど、ジャズでもドラマー次第でフロントマンはどうにでも変る。地味な脇役みたいなのが本領の人が、突然派手な主役に躍出たりする。以前書いた『オーバーシーズ』でのトミー・フラナガン(ドラムスはエルヴィン・ジョーンズ)も、ハードなピアニストに変貌している。
以前書いたように、1970年代にたくさんリーダー・アルバムを録音するようになる前のトミー・フラナガンは完全なる脇役タイプで、いろんな人のリーダー・アルバムに参加して渋いプレイを聴かせるというのが持味の人で、それも別にそんなにキラリと光るような感じでもなく、ほぼ完全に地味な演奏だ。
だからエルヴィンの猛プッシュでハードなピアニストに変貌している、1970年代に入る前の唯一のリーダー・アルバム1957年の『オーヴァーシーズ』でのプレイぶりは、僕は最初にこれで知った人だったので別に意外になんでもなかったけれど、当時の彼からしたら例外中の例外なのだった。
それくらい『オーヴァーシーズ』でのエルヴィンは凄いというかとんでもなくぶっ飛んでいる。そんな具合にドラマーのプッシュ次第でフロントマンがどうにでも変貌できるというのをもっと実感したのが、1970年代のグレイト・ジャズ・トリオだ。名前通りピアノ・トリオで、ハンク・ジョーンズが主役。
ハンク・ジョーンズという人は、トミー・フラナガンに比べたら1950年代からまあまあリーダー・アルバムもある人だけど、それもだいたい全部地味な内容で、やはりハンクもどちらかというと脇役タイプの渋いピアニストだ。僕が最初にハンクを聴いたのは、キャノンボール・アダレイの『サムシン・エルス』でだった。
特に一曲目の「枯葉」。あれがマイルス・デイヴィスというトランペッターを知ったという初体験で、しかもそのハーマン・ミュートでのかなり音数の少ないソロにムチャクチャ感激して、こんな人がいるんだと驚いて、現在まで続くマイルス熱に感染した最初になった一曲だったけど、ハンクのピアノもいい。
特に終盤でマイルスがエンディング・テーマを吹く途中から突然ピアノ演奏によるインタールードになり、グッとテンポが落ちてスローになって、ハンクがソロを弾く。その部分がもうたまならなく沁みてくる内容だった。あれはたまらんよねえ。ミーハーだろうとは思うけど、今聴いても素晴しいと思う。
名義ではリーダーになっているキャノンボール・アダレイには特になにも感じなかったというか、むしろ吹きすぎだろうというか、極端に音数の少ないマイルスのソロと並ぶので饒舌すぎるように思えて、こんなに音数をたくさん吹かないと言いたいことが言えないようではダメだとすら思ったけどね。
そして「枯葉」で惚れたマイルス同様、ハンク・ジョーンズというピアニストにも惚れちゃったわけだ。まあしかしあそこでもハンクは全然派手ではなく相当に渋いプレイぶりだから、そんなものに17歳の高校生が夢中になったというのは、同様に渋いマイルス含め今考えると少し意外な気もするけれど。
1950年代のハンク・ジョーンズはサイドメンで参加したものも自身のリーダー作も、だいたい全部そんな感じで、ハードにスウィングしまくるようなタイプのピアニストではなかった。それが1977年からのグレイト・ジャズ・トリオではかなり様子が違っていて、相当激しい演奏ぶりを聴かせている。
グレイト・ジャズ・トリオのドラマーは、あのトニー・ウィリアムズ。1977年なら元気満々だから、60年代同様ハードに叩きまくっていて、ハンク・ジョーンズみたいな渋い人のバックでこんなに激しく叩きまくってもいいのか?と心配しちゃうほどのドラミング。それに乗せられてハンクもノリノリ。
1977年からと書いたけれど、これはグレイト・ジャズ・トリオが有名になった第一作『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の出た年で、実はその前に実質的デビュー・アルバムが一つある。76年の『ラヴ・フォー・セール』で、ドラムスは同じトニーだけど、ベースがバスター・ウィリアムズだ。
グレイト・ジャズ・トリオは、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズの三人ということになっているので、その『ラヴ・フォー・セール』はやや看過されがちだけど、これもいい内容なのだ。大学生の頃はよく聴いた一枚。でもやっぱりヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ盤二枚だなあ。
二枚ある『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』。どっちも一曲目がチャーリー・パーカー・ナンバーで「ムーズ・ザ・ムーチ」と「コンファメイション」。この二曲が際立って素晴しい。アップ・テンポだからやはりトニーが激しく叩きまくって猛プッシュし、ハンクもハードに弾きまくる。
二曲ともトニーのドラムス・ソロもあるけれど、それよりもハンクのピアノ・ソロの背後での猛プッシュぶりにさすがだと唸らざるをえない。ドラマー次第で地味で渋い脇役タイプが派手なスター級に変貌するというのが、ジャズでは一番よく分る好例だ。古いビバップ・ナンバーも現代的になっている。
ジャズ・ピアニストとしてのハンクのデビューは1947年で、一般には翌48年から53年までエラ・フィッツジェラルドの伴奏を務めたことで名を挙げた人。その後様々な人のアルバムに参加するようになるけれど、59年から75年まではCBSスタジオのスタッフ・ミュージシャンとして活動している。
つまりその約20年間、ハンクは表舞台には出ず、もっぱらスタジオ・ワークをこなすようになっていたので、その間のジャズ・ピアニストとしてのライヴ活動はほぼない。スタジオ録音でも普通のいわゆるジャズ録音は少なくて、いろんな音楽で与えられた譜面を黙々と弾きこなす仕事に専念していた。
付記しておくと、その約20年間で一番有名なハンクのピアノ演奏は、おそらくあのマリリン・モンローが、1962年5月19日に当時の米大統領ジョン・F・ケネディに「ハッピー・バースデイ・ミスター・プレジデント」を歌った際の伴奏だろう。あの時のピアノ伴奏がハンクだった。
そんな具合で、普通のジャズ・ピアニストとしての活動が殆どなくなっていた1947年デビューの大先輩ハンク・ジョーンズに対し、トニー・ウィリアムズのデビューは61年にジャッキー・マクリーンのコンボでだった。それを見初めたマイルスが翌年に雇って、その後の快進撃はみなさんご存知の通り。
そして1970年代に入るとジャズ・ロック関係の活動が多くなっていたところに、76年にあのウェイン・ショーター+ハービー・ハンコック+ロン・カーター(+フレディ・ハバード)によるリユニオン企画があって、ちょっぴりストレート・アヘッドなジャズ回帰の気運もあった時期だった。
そんな具合で、1976年、いや本格的には77年からハンク・ジョーンズがロン・カーター、トニー・ウィリアムズと組んでストレート・アヘッドなジャズのピアノ・トリオをやるというのは、当時はかなり意外な気がしていたけれど、今考えれば流れがあったというか必然的なものだったんだろうなあ。
この三人によるアルバムは、1978年の『グレイト・トーキョー・ミーティング』まで計七枚。その間同じ三人で他の人の伴奏をやったものもある。その後ベーシストとドラマーが他の人に交代してからもグレイト・ジャズ・トリオの名前でアルバムを出し続けていたけど、僕は興味がなかった。
だって、やっぱりハンクのハードな演奏を弾き出して俄然派手な主役に仕立て上げていたのは、やっぱりなんといってもトニー・ウィリアムズのドラミングだったもん。それがアル・フォスターだのジミー・コブだのでは、いいドラマーではあるけれど、興味を持てという方が無理。一枚も聴いていない。
グレイト・ジャズ・トリオのアルバムは、ほぼ全て日本のレーベルであるイースト・ウィンドから出ている。これはおそらくこのトリオ結成のきっかけが、同じイースト・ウィンドからの渡辺貞夫さんの1976年作『アイム・オールド・ファッションド』の伴奏だったことが理由だったんだろうね。
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