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2016/03/18

アドリブ・ソロという幻想〜マイルスの「ソー・ワット」

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『カインド・オヴ・ブルー』一曲目「ソー・ワット」におけるマイルス・デイヴィスのソロにはあらかじめ譜面があって、その通りに吹いているんじゃないかと前々から思っているんだけど、ある時『レコード・コレクターズ』誌にそういう意味の原稿を書いたら、掲載はされたけれど、それまで約二年間毎月のように来ていた執筆依頼がピタリと来なくなった。

 

 

しかしこの『カインド・オヴ・ブルー』での「ソー・ワット」のマイルスのソロ=譜面通り説は、僕はその原稿を書くだいぶ前からかなり本気で考えていて、しかもその譜面を書いたのが他ならぬギル・エヴァンスだったに違いないと踏んでいる。あまりに完璧な構築美をしているからだ。

 

 

マイルスという人は、これに限らずスタジオ録音では、自分のソロでもサイドメンのソロも含めた演奏全体でも、破綻一歩手前みたいなスリリングで火花を散らすアドリブのやり取りという普通一般にはジャスの魅力だと考えられているものより、むしろ全体の統一感や均整との取れた構成を大切にしている。

 

 

もちろんライヴ演奏ではこの限りではないものもかなり多い。特に1960年代のハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズのリズム・セクション時代のライヴ、なかでも65年シカゴでのライヴ録音『プラグド・ニッケル』などでは、フリー・ジャズ一歩手前みたいな逸脱しまくるソロをサイドメンに許している。

 

 

もっともその『プラグド・ニッケル』でも、特にウェイン・ショーターとトニー・ウィリアムズがムチャクチャに暴走しまくるものの、こと御大のソロに関してだけはさほど逸脱した感じでもなく美しく均整の取れたソロを心掛けているのが分る。それでもスタジオ録音に比べたらかなり崩れてはいるけれど。

 

 

マイルスはいろんなインタヴューで、スタジオでの音楽はクソなんだ、いつも終らせることばかり考えているし、同じことを何度も繰返し言わなくちゃいけないし、スタジオでの音楽は「死んで」いるんだ、ライヴ録音こそ自分に限らず音楽家の真に優れた姿を捉えたものなんだと繰返し発言している。

 

 

ある時期のマイルスのライヴ録音、特に1975年の『アガルタ』『パンゲア』などを聴くと、このマイルスの発言にある程度納得するのだが、しかしそれでもやはりマイルスという人は、スタジオでこそ真価を発揮した音楽家だったんだろうと僕は考えている。ライヴで先進的だったのは70年代だけなんだよね。

 

 

スタジオでのマイルスの方が生涯の殆どにおいて先進的で、時代を先取する気概を示しているものが多いというのは、昔からよく言われていることだ。そしてスタジオ録音でのマイルスは、パーカーのコンボから独立した初作品1949/50年録音『クールの誕生』から既に全体の構築美を重視している。

 

 

マイルスはそもそも最初からそういう指向の音楽家だった。だからサイドメンのソロもそうだけど特に自分のソロについては、スリリングで火花を散らすようなものより、よく練り込まれ美しく聞える均整の取れたものを目指している。演奏全体も統一的なグループ表現や練り込まれたアレンジを重視する傾向が強い。

 

 

しかしそういうことを大いに考慮に入れても、1959年『カインド・オヴ・ブルー』の「ソー・ワット」は整いすぎだ。ちょっとこれはオカシイというかこんなにバランスの取れたアドリブ・ソロは彼の場合でもあまりない。だからあらかじめ譜面があったんだろうと考えるのも、ジャズマンの実力を軽視しすぎかもしれないが。

 

 

しかし『カインド・オヴ・ブルー』のセッションにはギル・エヴァンスが立会っていたという、ギルの最初の妻の証言が残っているのだ。しかも、一曲目「ソー・ワット」における、あの幽玄なピアノとベースによるイントロを書いたのがギル本人に他ならないということも、彼女ははっきりと語っている。

 

 

あの幽玄なイントロは、1961年のカーネギー・ホールでのライヴ録音でも、ギルのアレンジ・指揮のオーケストラが完全にソックリそのまま再現している。僕も昔は、これは59年のスタジオ・オリジナル・ヴァージョンを、その通りにギルがオーケストラ用に拡大・編曲したのだろうと思っていたのだが。

 

 

基本的にはその通りなんだと今でも思っているが、そもそもその1959年スタジオ・オリジナルが、ギルの書いた譜面通りにビル・エヴァンスとポール・チェンバースが弾いたものだったらしい。そんな具合にギルがあの「ソー・ワット」に関わって現場にも立会っていたのなら、いろんな可能性がある。

 

 

僕はそのギルの最初の妻(ギルは二回結婚している)の証言を1998年頃に読んで、それでそれ以前から持っていた、どうもあの「ソー・ワット」のマイルスのソロにあらかじめ譜面があったのではないかという考えに、ある種の根拠を得たとまではいかないまでも、ちょっとしたヒントを得たような気分になったのは確か。

 

 

『ザ・メイキング・オヴ・カインド・オヴ・ブルー』という二枚組ブートCDがあって、タイトル通りこのアルバムのメイキング模様であるスタジオ・セッションを収録したもの。最初は一枚物で出ていたものだが、内容を拡充して二枚物になってリリースされている。これにいろんな別テイクが収録されている。

 

 

『カインド・オヴ・ブルー』について「えっ?別テイク?」と驚かれる方がまだ少し残っているかもしれない。というのも最初にこのレコードが出た際、ジャケット裏にビル・エヴァンスが解説を寄せていて、その中でエヴァンスは「この作品は東洋の墨絵の如く、やり直しの利かない一回テイクで収録されたものだ」と書いていた。

 

 

そのせいで『カインド・オヴ・ブルー』は全五曲が一発録り、ファースト・テイクで完成し収録されたものだと長年信じられてきた。いまだにこれを信じているジャズ・ファンはまずいないと思うけど、まだ一部に残っているかも。僕はといえば、最初に読んだ時からウソだろうと思っていた。

 

 

このビル・エヴァンスの言葉が真実ではないことが明白になった最初は、アルバム・ラスト「フラメンコ・スケッチズ」の別テイクが公式リリースされた時だった。1999年に『ザ・コンプリート・コロンビア・レコーディングズ 1955-1961』ボックスが出た時だったっけなあ。

 

 

その後は『カインド・オヴ・ブルー』単独盤にも収録されるようになっている「フラメンコ・スケッチズ」の別テイク、先に書いた二枚組ブート盤を聴くとテイク1であることが分る。最初にリリースされたマスター・テイクは、最後のテイク6なのだ。つまり六回テイクを繰返していたということになる。

 

 

一度のテイクで収録されたのは、セッションの最後に録音された「オール・ブルーズ」だけ。その他は録音順に「フレディ・フリーローダー」が4テイク、「ソー・ワット」が3テイク、「ブルー・イン・グリーン」が5テイク、「フラメンコ・スケッチズ」が6テイクとなっている。

 

 

もっとも「フラメンコ・スケッチズ」が完成型で2テイク存在するのに対し、その他の曲は複数回テイクを繰返してはいるものの、マスター・テイク以外は全て未完成で、演奏途中で破綻してストップしている断片ばかり。それでも「東洋の墨絵の如く全曲ファースト・テイク」という伝説は否定できる。

 

 

しかしながら、公式盤で聴ける完成品を含め三つのテイクがある「ソー・ワット」は、完成品以外の二つのテイクでも、あのピアノとベースによる幽玄なイントロは完成品と全く同じで完璧な演奏をしているんだよね。ということは、あのイントロは単なる思い付きの即興ではないことの明白な証拠だろう。

 

 

これであの幽玄なイントロはギル・エヴァンスが書いたものだというギルの(最初の)妻の証言が裏付けられる。問題は最初から僕が書いているマイルスのソロだ。メイキング模様を収録した二枚組ブートCDでも、完成テイク以外の別テイクではあのソロは聴けない、というかマイルスは全くソロを一音も吹いていない。

 

 

「ソー・ワット」以外の曲は、完成品に至る別テイクでも全てマイルスも試行錯誤しながらソロを試みているのに、「ソー・ワット」の未完成品2テイクでだけ一音たりともマイルスが吹いていないというのは、逆にオカシイんじゃないか。あらかじめ譜面が用意されていたのなら、予行練習の必要性も小さいだろう。

 

 

そして先に書いたようにイントロを書いたのがギル・エヴァンスで録音にも立会っていたのであれば、そのマイルスのソロの譜面を書いたのがギルであった可能性は高いように思える。あの均整の取れすぎた完璧な構築美に聞える「ソー・ワット」のマイルスのソロ、やはりそうなんじゃないかなあ。

 

 

なお、ブート盤『ザ・メイキング・オヴ・カインド・オヴ・ブルー』に収録されている「ソー・ワット」の完成品は、当然ながら公式盤のものと同一内容だけど、フェイド・アウトせず、演奏が完全に終了するまで聴ける。しかしながらやや締りのない終り方で、だからコロンビアもフェイド・アウトしたんだろう。

 

 

マイルスのスタジオ録音でのソロにあらかじめ譜面があったらしいものはこれだけではない。僕の知る限りではもう一つ、1969年録音『ビッチズ・ブルー』一曲目「ファラオズ・ダンス」の終盤でマイルスが吹くソロにも譜面があって、こっちはギルではなくジョー・ザヴィヌルが書いたもの。

 

 

あの「ファラオズ・ダンス」終盤で、似たようなフレーズをワン・コーラスごとに少しずつノリをディープなものに変えながら繰返して吹くマイルスのソロ(というかテーマ・メロディだと言う人が昔はいたが)も完璧な構成だし、こちらは作曲者のザヴィヌル自身があれは自分が書いたと述べている。

 

 

僕がはっきり確信しある程度根拠も見つかるのは、以上「ソー・ワット」「ファラオズ・ダンス」の二つだけだが、マイルスのスタジオ録音で彼のソロに譜面が用意されていたものは、他にもあるかも。書いたようにスタジオ録音では、なにより全体の構成と均整美に心を配っていた音楽家だからね。

 

 

譜面があるなら、それは「アドリブ」じゃないじゃないかと言われそうだけど、僕はそれはどうもジャズマンのアドリブ・ソロにというものについての盲信だと思うのだ。問題は本当に即興でその場で思い付いたまま演奏したかどうかではなく、アドリブ的、すなわち自然発生的に聞えるかどうかということだろう。

 

 

そもそもテイクを重ねるごとに毎回かなり異なる内容のソロを演奏したジャズマンは、百年以上にわたるジャズの歴史の中でも、僕の知る限りではチャーリー・パーカーただ一人。そんなパーカーは分裂症気味なのかちょっとオカシイような気もする。他のジャズメンはテイクを重ねてもほぼ同内容のソロを繰返す。

 

 

そうやって完成テイクに近づけていくというのが、ほぼ全てのジャズメンのスタジオ録音での姿だ。テイクを重ねても同内容のソロ演奏を繰返すのも、僕は「アドリブ」と呼んでいいと思うんだよね。ジャズはアドリブ音楽だということをみんな強調しすぎだろう。それは単なる思い付きとか瞬間的な閃きとか、そういうものでもないんじゃないかなあ。

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コメント

この論考、とても刺激的でした。
あのソロがギル・エヴァンスの譜面に書かれていたという説は、とても説得力があります。
イントロを書いているのなら、ソロを書いていても不思議はないし、
あの整合感の強い演奏の理由にもつながります。

としまさんがその説を書かれたレココレ誌、何年何月号ですか。
ぜひ読みたいので、教えてください。

bunboniさん、『レココレ』の何年何月号で書いたのかは、現物をもう持っていないので忘れてしまいましたし、その原稿はある『カインド・オヴ・ブルー』関係の研究本についての、非常に短いブック・レビューのなかでホンのちょっとだけ触れただけです。今日のこの記事はそのかすかな記憶をもとにを大幅に拡充したものですから、お読みになっても面白くもないはずです。

そうですか。それは残念。
09年5月号で『カインド・オヴ・ブルー』を特集した時に、この論考をどーんと載せたら、良かったのになあ。健太氏の解説より、としまさんのを読みたかった気がします。

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