マイルスとプリンスの知られざる関係
1986年ワーナー移籍後のマイルス・デイヴィスが、同社所属だったプリンスとの音楽的交流を深めていくことになったのは有名なことだけど、あまり知られていないと思うのはマイルスのワーナー移籍第一作が、プロデューサー、トミー・リピューマの当初の構想ではプリンスとの合作だったらしいということだ。
トミー・リピューマが一体どんな具合のアルバム企画を練っていたのか、今となっては全然分るわけもないんだけど、この話が本当ならば1986年のマイルスのワーナー移籍は、そもそも最初からプリンスと共演するのが目的だったということになる。僕もこれを知ったのはかなり最近のことなのだ。
1986年のプリンスといえばアルバム『パレード』をリリースした時期で、これと次作87年の『サイン・オ・ザ・タイムズ』こそプリンスのスタジオ・アルバムではいまだに最高作だろうと僕は考えているので、一番脂が乗っていた時期だ。マイルスとの共作が創れれば最高だったんだけどなあ。
マイルスはその前からプリンスに注目していていろいろと聴いてはいたようだ。例えば1984年の『パープル・レイン』ラストのタイトル曲をえらく褒めていて、自分でも演奏してみたいと当時のインタヴューで語っていたくらいだった。僕の知る限りではそれがマイルスがプリンスに言及した最初。
1985年のコロンビア最終作『ユア・アンダー・アレスト』にはマイケル・ジャクスンの「ヒューマン・ネイチャー」とシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」があり、この二曲はその後91年に死ぬまでずっとライヴでは欠かせないレパートリーだったから、既にポップ化の兆しがあった。
しかもいまだに未発表のままだけど、同じコロンビア時代末期に、ティナ・ターナーの復帰作『プライヴェイト・ダンサー』からの一曲「ワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥー・ウィズ・イット」(愛の魔力)もスタジオ録音している。ライヴでも演奏していて聴けるブートCDが一枚だけある。
プリンスの「パープル・レイン」関連のマイルス発言はその一年くらい前のことだったし、1986年には同じワーナーに移籍したんだし、当時も今もプリンスは現役バリバリで活動中なんだから、正式共演が一度も実現しなかったのがどうしてだったのか、むしろかなり不思議に思えてくるくらい。
同じように1969年頃にジミ・ヘンドリクスとの交流がマイルスにはあって、共演が実現しなかったのはジミヘンが70年に死んでしまったからなんだけど、それとは全然事情が違うもんなあプリンスとの場合は。まあ超大物同士の共演というのは、僕ら素人が望むように簡単には実現しないものなんだろう。
正式共演こそ実現しなかったものの、ワーナー移籍後のマイルスとプリンスの交流はかなり活発で、テープで音源のやり取りなども盛んに行っていたようだ。その頃もマイルスはテープで送られてきたプリンスの音源を聴いて、ギターもキーボードも最高に上手いぞとインタヴューで発言している。
マイルスの方から一体どんな音源をプリンスの方に送っていたのかは全く想像が付かないというか、送らなかったんじゃないかなあ。当時からはるかに売れていてビッグ・スターなのはプリンスの方だけど、アメリカ音楽業界ではマイルスの方が随分と先輩だから、プリンスからしたら仰ぎ見るような心持だったかもしれないから。
だから自分の音源をマイルスが聴いてもしそれをマイルスが気に入ってひょっとして正式録音でもしてアルバム収録してくれるようなことがあったならば、プリンスとしては望外の喜びというものだったんだろう。マイルスの方が自分の曲をプリンスに演奏してほしいなんてことは思わなかったかもしれない。
マイルスのワーナー移籍第一作『TUTU』(というタイトルも、全レコーディングが終了してから付いたものだけど)が、当初の構想とは違って結局プリンスとの合作とはならず、同じマルチ楽器奏者マーカス・ミラーとの全面的共作になったのは、できあがったアルバムを聴くと成功したんだろうね。
『TUTU』こそ1981年復帰後のマイルスのスタジオ作品では僕が一番高く評価するものだ。確か発売当時にピーター・バラカンさんも同じ意見をラジオで述べていた。一時期のプリンス的なスタジオ密室作業でのマーカス・ミラーによる一人多重録音に、マイルスがトランペットをかぶせたもの。
一曲だけB面トップの「バックヤード・リチュアル」が、マーカスではなくジョージ・デュークの曲で、エレベとパーカッション以外全部ジョージ・デュークの一人多重録音に、オーヴァー・ダビングしたマイルスのトランペット。他のマーカスによる曲でも、一部でオマー・ハキムやポーリーニョ・ダ・コスタらが参加している。
そういう『TUTU』だって最初からマイルスのアルバムとしてレコーディングがはじまったものではない。最初はマーカス・ミラーが自分の作品用にとスタジオでコツコツと一人多重録音を繰返していたもので、スタジオを訪問したかつて(1981〜83)のボスが気に入ってしまっただけなのだ。
これに自分のトランペットをかぶせたいとマイルスが言出して、マーカス・ミラーもそれならと新たにマイルスの作品用にと曲も創り直したりなどして、アルバム制作がはじまったものだ。1983年1月のスタジオ録音「イット・ゲッツ・ベター」(『スター・ピープル』)を最後にマイルス・バンドを脱退して以後はこれが初の再共演。
そしてこの『TUTU』が音楽的に評価され商業的にも成功したので、その後のワーナーでのスタジオ・アルバムは、イージー・モー・ビーとのコラボによる遺作『ドゥー・バップ』以外は、全部マーカス・ミラーとのコラボ・アルバムになったというわけなのだ。『シエスタ』と『アマンドラ』の二枚しかないけどね。
もっともマーカスとマイルス以外には極少数の例外的ゲストしか参加していない『TUTU』と『シエスタ』に比べたら、1989年の『アマンドラ』には当時のマイルス・レギュラー・バンドの面々をはじめ、結構多くのミュージシャンが参加して、なかにはアル・フォスターがドラムスを叩くものもある。
アル・フォスターがドラムスを担当するのは、アルバム・ラストの「ミスター・パストリアス」だけど、この曲名はそもそも作曲者マーカス・ミラーの敬愛する亡くなった先輩ベーシストの名前なんだし、これ以外もほぼ全部の曲をマーカスが書きアレンジし多くの楽器を多重録音している。
プリンスとの交流の方はどうだったかというと、三曲だけマイルスが採用して演奏したプリンスの曲がある。1988年にプリンスがミネソタのペイズリー・パーク・スタジオで録音した「17」「19」「ア・ガール・アンド・ハー・パピー」。これをプリンスは91年1月にマイルスに提供している。
これら三曲にマイルスがトランペットをかぶせた上で送り返してほしいとプリンスは添えたらしいのだが、マイルスは送り返さず、その三曲を「17」は「ペネトレイション」、「19」は「ジェイルベイト」と改題し、もう一曲と併せ、当時のレギュラー・バンドに教えて同年三月にスタジオ録音している。
三曲ともいまだに未発表のままなので、僕みたいなマイルスとプリンス双方の熱心なファンにしたらどうして早く出さないんだと歯ぎしりするばかりなのだが、ライヴでは演奏していたようなので聴けるブートが一つだけある。それでかろうじて喉の渇きを癒している程度。ワーナーさん、早く出せよ!
一曲だけライヴ録音されているものとは、以前も触れた1991/710のパリ同窓会セッション・ライヴで、当時のレギュラー・バンドが「ペネトレイション」を演奏しているものだ。僕の憶測では他の二曲も演奏されたんじゃないかという気がする。
しかしながら、現在この時のライヴが聴けるブート二枚組『ブラック・デヴィル』にも「ペネトレイション」しか入っていないし、ブートでも他の二曲を聴けるものは存在しない。なおそれら三曲のスタジオ録音は、マイルスの死後に出た遺作『ドゥー・バップ』に、追加録音して収録しないかとワーナーがプリンス側に打診したようだけど、プリンスは断っている。
また時代が戻るけど、マイルスは1987年7月の東京公演一曲目の「ワン・フォーン・コール〜ストリート・シーンズ」の中で、プリンスの『サイン・オ・ザ・タイムズ』二枚目B面の「イッツ・ゴナ・ビー・ア・ビューティフル・ナイト」でのホーン・リフをそのまま借用して使っている。『サイン・オ・ザ・タイムズ』は同年三月リリース。
プリンスは頑迷偏屈なYouTube否定人間だから、「イッツ・ゴナ・ビー・ア・ビューティフル・ナイト」の方はこれまた音源を貼って参照していただけないのが残念だ。それにしても熱心なマイルス・リスナーにして熱心なプリンス・リスナーという人は日本にも結構いるはずだけど、当時も今もこのことに触れてある文章を全く見掛けないのはなぜだろう?
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