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2016/04/03

三分間のダンス・ミュージック

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SP時代の約三分間というこれはどうにもならない物理的制約だったわけだけど、LPメディア出現後も多くのジャンルでほぼ同じ長さのシングル曲を発売したり、LP収録曲でも一曲がその程度の長さだったりするのは、ポップ・ミュージックのある真実を表しているような気がする。

 

 

もちろんこれはクラシック音楽の世界のことは全く考慮に入れていない。その世界で約三分間なんて曲は例外的小品であってまあ少ないよね。あくまでポピュラー・ミュージックの世界の話だ。後者の世界では磁気テープによる長時間録音が可能になった1950年代以後もやはり三分程度の曲が多い。

 

 

そんなことはないモダン・ジャズがあるじゃないかプログレッシヴ・ロックがあるじゃないかと言われそうだ。僕もかつては主にモダン・ジャズなど(プログレは正直に言うと面白さがよく分らないものが多い)での長尺曲がかなり好きだった。LP片面で一曲、つまり20〜30分程度のものがたくさんある。

 

 

ときにはLP片面の枠すら越えて両面続けて一曲とか、場合によっては二枚組四面全部通して一曲とか、そういうものもあるわけだ。こういうのはLP時代に入ってはじめられたことでもなく、実は戦前のSP時代から同種の「実験」をする人はいた。誰あろうデューク・エリントンその人だ。

 

 

エリントンもSP時代は殆どの曲がSPフォーマットに沿って約三分間にまとめられていたわけだけど、彼はジャズも単なるダンス音楽というだけでなく、純粋な聴取に値する一種の「芸術作品」になるべきだという考えの持主で、彼のそういう指向がモダン・ジャズ以後の上昇指向に大きな影響を与えた。

 

 

中村とうようさんが『大衆音楽の真実』のなかで、1920年代のルイ・アームストロングとデューク・エリントンの姿勢を比較して、どっちも立派だがその後のジャズはどっちかというとエリントン的な方向に進んだのだと書いたことがあった。まさにビバップ以後の芸術指向という点では当っている。

 

 

鑑賞音楽を目指すエリントンは、従って当然ながらSPの約三分間という制約に我慢できず、SP両面にわたって一曲という作品をいくつか発表している。一番早い例が1931年ヴィクター録音の「クリオール・ラプソディ」で、SP両面で一曲だった。同曲は同年ブランズウィックにも同形式で録音・発売している。

 

 

もっと極端なのが1935年オーケー録音の「リミニッシング・イン・テンポ」。SP四枚の計八面にわたって一曲という作品だった。これはエリントンの母の死に際しそれを悼む曲として創られたもの。発売当時は非難囂々だったらしい。今聴いても正直言ってあんまり面白くはないとしか思えない。

 

 

ところでオーケー・レーベルの親会社コロンビアは、この時期(1932〜40年)のエリントン録音をいまだにコンプリート集としてまとめては発売していない。したがって「リミニッシング・イン・テンポ」だってCDでは正規には聴けないのだ。僕はややブートっぽい全40枚組の脱レーベルの戦前エリントン完全集で聴いている。

 

 

1930年代エリントン音源全集をリリースしないコロンビアというかその再発担当であるレガシーはなにを考えているのか。もう2016年なんだけどなあ。まあそれをグチグチ言ってもしょうがない。とにかくエリントンという人はそういった人だったので三分間なんて枠は大嫌いだったわけだ。

 

 

従ってエリントンはLPメディアの出現と同時にLP用の長時間録音を開始する。彼はジャズ界初のLP作品をリリースした音楽家なのだ。まあしかしこういうエリントンみたいのは例外というか、今考えると果してポップ・ミュージックの音楽家として相応しい姿勢だったのかどうか判断が難しいように思う。

 

 

ジャズの世界ではLP出現後はほぼ全員が三分とか四分なんて枠を越えた長時間の曲を創り録音するようになったけれど、ジャズ以外のポップ・ミュージックの世界では、1950年代以後もみんながみんなそんな10分とか15分とかいった曲はやらない。やってはいるが少ない。LP収録曲でもだいたいそんな感じだ。

 

 

さらにLP収録曲でもそうでなくても、三分程度のシングル曲を発売したり長めの曲は短く編集してシングル盤にしていたりするから、やはりジャズ以外のポップ・ミュージックの世界での録音作品というのは、どうやらこの数分程度の長さというのが最もピッタリ来るものなんじゃないかな。

 

 

おそらくロック界最初にして最大のジャイアント、エルヴィス・プレスリーはレコード・デビューが1954年だから既にLPメディアは存在していた。しかし当初サン・レーベルにはシングル曲しか残していない。『サンライズ』というサン時代の完全集CD二枚組には当時のライヴ録音もあるが、やはり三分程度。

 

 

そしてエルヴィスは1956年にメジャーのRCAに移籍して大成功して以後も、やはり殆どの曲がその程度の長さだし、オリジナルLP収録曲もほぼ全部そうだ。死ぬまでそうだった。僕が一番好きなエルヴィスのライヴ盤は1970年の『エルヴィス・オン・ステージ』だけど、ライヴなのにほぼ全部同じなんだよね。

 

 

『エルヴィス・オン・ステージ』収録曲で一番長いのがトニー・ジョー・ホワイトのカヴァー「ポーク・サラダ・アニー」だけど、これが5分24秒。その次が「サスピシャス・マインド」の5分04秒。エルヴィスはライヴ録音ですらこの程度なのだ。この二曲以外は全て三分もない。

 

 

ロック・ミュージシャンでもエルヴィス以後の人達はライヴではかなり長い演奏をする人もいる。今ではロック界最古参のバンドになってしまっているローリング・ストーンズも、初のちゃんとしたライヴ盤1970年の『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』でも「ミッドナイト・ランブラー」が約九分ある。

 

 

約九分というのはその後のストーンズのライヴを考えたらまだ短い方で、1973年頃からの「無情の世界」はいつも常に10分から20分くらいあるし、LPやCDでは短めに編集してあるけどライヴ現場では「サティスファクション」や「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」など代表曲は延々とやっている。

 

 

だけれどもそういうストーンズだって、スタジオ作品では現在でもやはり五分もない曲ばかりなんだよね。さらにストーンズはシングル曲もよく発売する(現在では四曲程度入ったCDシングル)し、そういうシングル盤ではさらに短くなっていたりするからね。他のロッカーも多くは似たようなもんだろう。

 

 

もちろん何度も触れているように、ロック系の音楽家でもスタジオ/ライヴともに長尺曲こそ命みたいな人達も大勢いたりはするし、あるいはスタジオでもライヴでも常に長いモダン・ジャズやその他似たような傾向の音楽家達もいるんだけど、そういうのはどうもポップ・ミュージックの本質からやや離れているのかもと最近では思う。

 

 

三分以上の長さの曲を創り録音したりするのは、エリントンが端緒をつけたようにやはり一種の芸術指向だ。ダンス音楽ではなく鑑賞音楽だという考え。僕は最近この考えには賛成しかねるような気分なのだ。ポップ・ミュージックはやっぱりダンス音楽なんじゃないの?

 

 

最初は聴きながらその場で人達が体を揺すったり踊ったりするものだったポップ・ミュージック。それが結果的に鑑賞(この言葉、「アーティスト」という言葉と並び大嫌いなので、こういう場合以外では使わない)に値するものだと見做されるようになっただけで、本質はやはりダンス・ビートだ。

 

 

ロックンロールが出てきた頃に、あのカウント・ベイシーは嫌うどころかその逆に「ロックンロールは凄くいい音楽だと思うよ、その証拠に若者達がまた踊り始めているじゃないか」と言ったことがある。ジャズも鑑賞音楽になってしまう前は完全にダンス音楽だったんだよね。これを忘れちゃイカンよね。

 

 

そういうのはジャズやロックやブルーズやソウルやファンクなどアメリカ産ポップ・ミュージックだけの話じゃないのかと言われるかもしれないが、そんなこともないんだよね。以前マレウレウのライヴで踊る客がいたし、去年のアラトゥルカ・レコーズの方々によるトルコ古典歌謡のライヴでも踊っている子供がいたもんね。

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コメント

ジェイムス・ブラウンの60~70年代のシングルは長い曲をAB面に分けて収録していました。CD化の際にはそれが続けて収録されていますよね。あれも芸術指向だと思われますか?JBってちょっと異質ですよね。同時期のマイルスもリズムがファンキーになるにしたがって長くなるでしょう?曲自体がそれだけの長さを必要としてるのか。それはポップ・ミュージックの本質から離れていってるんですかね?

ちょっと話はそれますけど、黒人音楽ってメドレーで演奏することが多いでしょう?最近のR&Bでもライブになるとヒット曲を繋げて演奏したり、JBもそうですけど、アフリカ~ラテン音楽にも多い気がしますが、黒人起源の音楽特有のものなんでしょうかね。
なんてことを考えていたらアイリッシュ・トラッドもリールやジグをつなげて演奏しますね。ジャズなんかでもメドレーで昔から演奏することって多かったんでしょうか。録音として残っている一番古いメドレーって誰なんだろうなんてちょっと前から思ってたんです。

ちなみに私もミュージシャンをアーティストと呼ぶのが大嫌いです。
長々失礼しました。

Astralさんは以前ご自身のブログで「ファンクは長ければ長いほどいいと思っている」とおっしゃってましたよね。僕にはちょっとそのへんの判断は難しいです。ただJBも、例えば67年録音のアポロ・ライヴではかなり長い「ゼア・ワズ・ア・タイム」を、翌年発売のスタジオ・アルバム『アイ・キャント・スタンド・マイセルフ』に、短く三分程度に編集して収録しているとか、そういう例もあります。

ジャズの世界では、例えばデューク・エリントン楽団の1940年のライヴ録音『アット・ファーゴ』は、SPではなくテープに録音が残ってて、後年発見されて発売されたんですが、やはりどの曲も全部三分程度です。これは編集ではなくライヴ現場でそうだったという。

ベニー・グッドマン楽団の1938年カーネギー・ライヴも例外的にSPではないものに録音が残っていて発売されたんですが、やはり同様です。ただこっちの方には「シング、シング、シング」だけ12分という長さのものがありますけどね。

マイルス・ファンクもまあだいたいどれも長いんですけど、何度か繰返し書いているように、僕が一番素晴しいと思うマイルス・ファンク作品は、1973年のシングル盤A面「ビッグ・ファン」とB面「ホーリー・ウード」でして、当時のシングルですからやはり三分程度なんですよねえ。まあ元の演奏自体は七分以上あって、それをテオ・マセロが編集で短くしただけですけど、出来上りを聴いたら、その元演奏より完成品のシングル曲の方がはるかにいいです。公式CDでは『オン・ザ・コーナー』ボックスでしか聴けませんので、僕は二曲ともYouTubeにアップしています。

僕も「3分間のポップ・ミュージック」が一番だと思ってます。最近は無駄に長いイントロやアウトロばかりの曲が多いですから。
グルーヴが長く続くと単純に気持ちいいからという理由でファンクは長い方がいいってだけなんですけど、ポップ・ミュージックとしては3分くらいが正しいんでしょうね。
ライブでは長くなるというのはライブの現場が一種祭事的な場だからなのかもしれないとも思えてきました。
ご教示ありがとうございます。

現場で踊るとなると、グルーヴが長く続くと確かに気持はいいですが、ダンスしているとちょっとしんどいという面もありますよ。以前下北沢のライヴ・ハウスでブルーズ・ライターの妹尾みえさんと一緒にビッグ・ジェイ・マクニーリーを観たんですが、どの曲も延々とやっていて、踊れるから踊ったんですけど、ちょっとしんどくて後半は疲れてきて、少し休んだりしていました。音楽家の側もそれを理解して、あんまり極端には長くしないんじゃないかと思うんです。

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