モダン・ジャズの器楽曲と歌は水と油
ヴォーカリーズというものがある。ヴォーカル曲ではないジャズの楽器奏者によるテーマやアドリブに歌詞を付けて歌うことを指す。意味のある歌詞のない音だけの歌はスキャット、意味のある歌詞のついたものがヴォーカリーズ。そして僕はこのヴォーカリーズがイマイチ好きではないというか苦手なのだ。
以前エラ・フィッツジェラルドについての文章で、スキャット・ヴォーカルが(ルイ・アームストロングなどの一部例外を除き)イマイチ好きではないと書いたけど、スキャットはまだ器楽的唱法だけが目的だから聴ける。それに対してヴォーカリーズとなるとこれはもうどこがいいんだか。
一番有名なヴォーカリーズの人はおそらくランバート、ヘンドリクス&ロスだろう。1957年結成のヴォーカル・トリオ。最初のレコードがカウント・ベイシー曲集で、62年にアーニー・ロスが脱退するまで七枚のレコード・アルバムがある。デイヴ・ランバートが66年に亡くなって完全に終焉した。
ランバート、ヘンドリクス&ロスのレコードは大学生の頃にジャズ喫茶でかなり聴いた。がしかしその当時は、どこがいいのかサッパリ理解できず、耳を塞ぎたくすらなってしまうような気分だった。器楽的でメカニカルな旋律に歌詞を付けて歌い廻すというのがもうどうにも生理的に無理だった。
ランバート、ヘンドリクス&ロスの録音は別に全部が全部そんなメカニカルなヴォーカリーズではない。普通の歌ものもたくさんあってそういうのは好きだった。以前書いたようにある時期以後はコーラスで歌うアメリカン・ヴォーカルが大好きな僕だから、普通の歌ものコーラスは楽しい。
でも元々楽器で演奏するために創られたメロディや楽器によるアドリブ・ラインに意味のある歌詞を付けてコーラスで歌うというのは、どこが面白いんだろう?そういうものなら楽器演奏を聴けばいいんじゃないか?歌手はやはり普通のというか美しいメロディのある歌を歌ってほしいぞとそんな気持だった。
ランバート、ヘンドリクス&ロスにはかなりのジャズ器楽曲があって、先に書いたベイシー曲集以外にも「エアジン」(ソニー・ロリンズ)、「フォー」(マイルス・デイヴィス)、「モーニン」(ボビー・ティモンズ)、「ミスター PC」(ジョン・コルトレーン)、「ナウ・ザ・タイム」(チャーリー・パーカー)などなど。
しかしそれらはどれを聴いても現在でもピンと来ないのだ。唯一感心するのがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ・ナンバー「モーニン」における、テーマのコール&リスポンスのリスポンス部分が「イエス、ロード!」となっていることだけ。この曲はゴスペル・タッチだからこの歌詞でのやり取りは理解できる。
それ以外はどれもちょっとなあ。楽器のアドリブ部分などもメロディを忠実に再現しているけれど、そもそもビバップ以後のモダン・ジャズのメカニカルな楽器フレーズとヴォーカルというのは水と油なんじゃないかと思っている僕だからなあ。非常に細かいフレーズを歌いこなす技巧は最高だと感心はするけどね。
「ナウ・ザ・タイム」なんかもパーカーのサヴォイ録音におけるマイルス・デイヴィスのソロも全くそのまま再現しているけど、ああいうのを聴くならマイルスの1958年『マイルストーンズ』収録の「ストレート、ノー・チェイサー」におけるレッド・ガーランドによるゴマスリを聴く方がまだマシだ。
ひょっとしてご存知ない方がいらっしゃるかもしれないので書いておくと、あのマイルス1958年「ストレート、ノー・チェイサー」でのレッド・ガーランドは、ピアノ・ソロの終盤で、パーカーの45年サヴォイ録音「ナウ・ザ・タイム」におけるマイルスのソロをソックリそのままブロック・コードで再現している。
レッド・ガーランドのそれはボスの目の前でそれを弾いてみせたというのが、僕はちょっとどうにもその神経が理解できないというか、いや理解はできるけれど好きになれないんだよなあ。1958年というとレッド・ガーランドはクビ寸前状態だったので、やっぱりゴマスリだとしか思えないんだよね。
それに比べたらランバート、ヘンドリクス&ロスの「ナウ・ザ・タイム」には、そういったややこしい心情は存在しないのだから素直に聴けるけれど、楽器のアドリブ・パートに歌詞を付けてそのままヴォーカルでやってしまうというのが面白くないと感じてしまう。パーカーのソロもあるいは他の曲でも全部そうだ。
カルメン・ミランダの多くの曲や美空ひばりの「お祭りマンボ」みたいな、楽器で演奏するような細かいフレーズを速射砲のように繰出す歌は大好きなのに、どうしてなんだろうなあ?ヴォーカリーズも似たような感じだとは思うのに。最初からヴォーカル曲として書かれた曲とはやはり違うのか?
ジャズ歌手じゃないけれど、ジョニ・ミッチェルの歌う「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」は別に全然嫌な感じはしない。あれはチャールズ・ミンガスの曲だからやはりモダン・ジャズの器楽曲だけど、元々メカニカルな旋律ではないバラードだからかなあ?あれも一種のヴォーカリーズなんじゃないのかな。
ヴォーカリーズ的唱法はかなり古くからあって、先に書いたように歌詞のあるなしだけでスキャットと本質的には同じようなものだから、スキャットはルイ・アームストロングが初めてやったということになっていて、それは1926年の「ヒービー・ジービーズ」。だから長い歴史があるよね。
また一部のジャイヴ系歌手、例えばキャブ・キャロウェイやスリム・ゲイラードやレオ・ワトスンなどはヴォーカリーズの先駆的存在だったとも言えるだろう。もっとはっきり分っているものでは1930年代末からのエディ・ジェファースンによるものが実質的なヴォーカリーズのはじまり。
またジャズの器楽曲に歌詞がついて歌手が歌うことは昔からかなり一般的で、例えばデューク・エリントンの有名曲にはその後歌詞がついたものが多い。その際に曲名が変更されることもある。「ネヴァー・ノー・ラメント」→「ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニー・モア」など。
また「コンチェルト・フォー・クーティー」が「ドゥー・ナッシング・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー」になったりなどなど。あるいは曲名はそのままで歌詞がついたエリントンの有名曲もかなり多くて、いろんな歌手がそれを歌ってきているのだが、それらはヴォーカリーズとは言われないよね。
ランバート、ヘンドリクス&ロスもエリントンの曲を少しやっていて、「オール・トゥー・スーン」や「キャラヴァン」「イン・ア・メロウ・トーン」「コットン・テイル」など。それらはジョー・ヘンドリクス自身が歌詞を書加えて改訂した「コットン・テイル」を除けばどれも不自然な感じはしない。
だからやはり以前も書いた通りビバップ以前の古いジャズでは、器楽曲のメロディもまださほどメカニカルではなく、ヴォーカル用に転用しやすい明快でメロディアスな旋律を持っていたのが、ビバップ以後は完全に楽器奏法による機械的に上下するようなラインになって歌とは馴染まなくなったということじゃないかなあ。
だから歌に馴染みやすい戦前の古典曲ならともかく、モダン・ジャズの器楽曲に歌詞を付けて歌うというヴォーカリーズはやはり僕には違和感があるというのが正直なところ。まあこれは別にランバート、ヘンドリクス&ロスその他ヴォーカリーズの方々はダメだと言いたいわけではないのでご容赦を。
それでも大学生の頃ははっきり言って嫌いだったそういうヴォーカリーズも、今では聴けば聴いたでそんなに嫌いでもなくというかかなり楽しめるようになったので、少しは僕の耳もマシにはなってきているんだろう。ランバート、ヘンドリクス&ロスだって流し聴きしている分にはそんなに嫌じゃない。
彼ら三人の残した録音で現在一番好きなのは1961年録音の『ザ・リアル・アンバサダーズ』だ。ランバート、ヘンドリクス&ロスのリーダー作ではなく、ルイ・アームストロングとデイヴ・ブルーベックの共作名義作品にカーメン・マクレエとともに参加したもの。ここではメカニカルな唱法はあまりなくて普通の歌ものだ。
ランバート、ヘンドリクス&ロスに混じってカーメン・マクレエの粘っこい歌声や、またやっぱりサッチモの声が聞えてくると心の底から安心する。やっぱり僕は根っからのパップス・ファンなんだよなあ。作曲家としてはかなり好きなブルーベックは、ピアニストとしてはどこがいいのか僕には分らないけどね。
ブルーベックの曲では一番好きな「ザ・デューク」(ここでは「ユー・スウィング・ベイビー」という曲名になっている)と「イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ」や、またブルーベックの曲ではないが彼が関わったものでは一番有名な「テイク・ファイヴ」もやっている。後者二つは本編とは関係ないCD化の際のボーナス・トラックだけど、三曲とも不自然ではない。もっともそれらではランバート、ヘンドリクス&ロスは歌っていない。
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