歌手は歌の容れ物〜鄧麗君、パティ・ペイジ、由紀さおり
昨2015年3月に鄧麗君(テレサ・テン)のレコードを台湾や香港の会社が紙ジャケットでCDリイシューしたもの全83枚を一挙にまとめてエル・スールで買った(その際はエル・スール店主原田さんに無理を言って面倒をかけました)。当然一度に全部は聴けないので、少しずつ聴いてようやく先日全部聴終えた。
その鄧麗君の紙ジャケ・リイシューCDシリーズ、出るたびにかなり気になってはいたのをなんとなく見逃したままだったのが、2014年暮れにどうしようもなく猛烈にほしくなって、それで全部まとめて売ってくれとエル・スールさんに言ってしまうというアホな買い方をしたわけだ。
出るたびにちょっとずつ買っていけばいろんな意味で楽だったのに、そうしなかった僕がバカだった。そして原田さんは香港・台湾に発注し、何ヶ月かかかって「本日税関を通過しました」なんていうメールが来た時は、嬉しい反面、一体金額はいくらになるのか恐ろしくて震えていたという。我ながらアホだとしか言いようがない。
もちろん日本の歌謡界で日本語で歌ったもの以外でも『淡淡幽情』など評価の高いものは既に持っていて聴いていたんだけど、『淡淡幽情』含め面倒くさいのでダブるのを承知で全部買ってしまった。紙ジャケ好きだしね(それまで持っていた『淡淡幽情』他はプラスティック・ケース入り)。
それら83枚を一年以上かかってようやく全部聴いて、それで僕は初めて分ってきたことなんだけど、ポピュラー・ミュージックの真に優れた歌手ってのは「歌の容れ物」なんじゃないかなあ。これはこないだ僕の夢のなかでの自分の発言に出てきて、それで初めてはっきりと自覚したことなんだよね。
僕は見た夢の内容をはっきりと憶えていることがあるんだけど、そのつい一週間ほど前の夢のなかで僕は「歌手というのは歌の容れ物なんだぞ、そういうのこそ大衆音楽の真の姿なんだぞ」と、なぜだか母校の高校での教育実習中の学校の廊下か教室で生徒に向って力説していた。「歌の容れ物」というのはその夢のなかで初めて出てきた表現。
その夢はちょっとオカシイんだ(夢ってそういうもんだけど)。なぜかと言えば教育実習をした大学生の頃の僕はジャズのレコードばかり買っていて、複雑・難解で個性の強い音楽表現こそが最高に素晴しいものだと信じて疑っていなかったもんね。1ミリたりとも疑っていなかった。そしてそれはジャズだけでなくブルーズでもロックでもあらゆる音楽について全く同様に考えていた。
上京して20代後半頃からワールド・ミュージックをどんどん聴くようになってからもこの考えは全く変らず、サリフ・ケイタとかユッスー・ンドゥールとか(最初はアフロ・ポップ中心だったから)も、なんて素晴しい個性の持主なんだ、こんな声を持ちこういう歌い方ができるって凄い個性だなと思っていたわけだ。
だから中学生か高校生の初めの頃まではテレビの歌番組などでよく見聴きし、なかにはドーナツ盤を買ったりしていた日本の歌謡曲の歌手はバカにするようになってしまい、テレサ・テンも時々出演して歌っていた「つぐない」や「時の流れに身をまかせ」などもフ〜ン上手いねと思っていただけ。
テレサは言うまでもなく台湾出身の歌手だから中国語(台湾語)で歌うのが本領だけど、1974年に日本の歌謡界に来たのは、日本のレコード会社関係者がアジアでは既に大スターだった鄧麗君の人気に目を付けて、台湾や香港に通って日本でやらないかと彼女を説得したからだったしい。当時テレサ21歳。
しかしホント僕はある時期以後わりと最近まで歌謡曲の世界を軽んじていたわけだから、日本のテレビ歌謡番組で歌うテレサについても歌の上手い女性歌手だなとしか思ってなくて、中国語で歌った歌の魅力やアジアでの大スターぶりなんてちっとも知らなかったんだよなあ。台湾出身の先例、欧陽菲菲と似たようなもんだと思っていた。
鄧麗君がどれほど素晴しい歌手かってのを初めて意識したのは、やはりこれまた中村とうようさんの文章を読んだからだった。どの文章・本で読んだのか、どんな内容だったかもすっかり忘れてしまったけれど、なんだか本当に絶賛してあったよね。それにとうようさんは『俗楽礼賛』のなかでもパティ・ペイジを褒めている。
『俗楽礼賛』(含め仕事関係以外の全ての書籍)は即座に手に取るのが面倒くさいところに置いてあるから、ひょっとして鄧麗君について一章を割いていたかどうか確かめられないんだけど、あの本はポピュラー音楽とは<通俗的>であることにこそ真の価値があるのだという主張で貫かれていて、最初(1995年頃かな?)に読んだ時にはあまり好きじゃない歌手も含まれていた。
あまり好きじゃない歌手とは僕の場合パティ・ペイジのこと。『俗楽礼賛』に出てくる他の歌手、例えばエルヴィス・プレスリーや美空ひばりやボブ・ディランやキャブ・キャロウェイもあったっけ、そういう人達は既に大好きだった。唯一カルメン・ミランダ(もあったと思う)は、僕は当時まだブラジル録音を聴いていなかったはず。
でも僕はそういう既に好きだった歌手はやはり「強く個性的」で「独自」の歌唱表現の持主だからこそ素晴しいんだと長年思って聴続けていたのであって、彼らに混じってパティ・ペイジみたいな独自の個性的なところを感じられない、当時の僕にとっては「普通の」歌手が並んでいるのはどうしてかなあと思ったんだよね。
とはいえパティ・ペイジも僕はまだそんな本格的には聴いていたわけじゃなく、一番有名な「テネシー・ワルツ」は日本でも江利チエミが歌っていたし、その他数曲パティ・ペイジの歌を知っていた程度。だいたい彼女は三拍子のワルツ・ナンバーばっかりなもんだから、あまりワルツが好きじゃない僕にはイマイチだった。
CD時代になってベスト盤リイシューCDを一枚買った程度だったパティ・ペイジをちゃんと聴いたのは、僕の場合田中勝則さん編纂による2014年のディスコロヒア盤『ニッポン人が愛したパティ・ペイジ』というマーキュリー時代初期録音集でだった。なんて遅いんだ!アメリカでは言うに及ばず日本でも昔は一時期大人気だったらしいのにね。
ディスコロヒア盤のパティ・ペイジだって、田中勝則さん編纂のディスコロヒアは信頼していて全部買うと決めているから買っただけで、パティ・ペイジにはさほど期待していなかった。ところが田中さんの解説を読みながらそれを聴いてみたら、この人素晴しいなあと感心しちゃった。こりゃいい歌手だよね。
こういうなんというのかなあ、強い個性のない、というかそもそも個性的表現だとか自己主張だとかのかけらもない、ということは要するにアーティスティックなところが微塵もないポピュラー・ミュージック歌手のその通俗的な輝きを、その魅力を、僕はディスコロヒア盤のパティ・ペイジでおそらく初めて理解した。
そうなるとパティ・ペイジのどんな歌を聴いても素晴しく聞えるようになり、どんどん買って集めるようになった。しかしながら今の僕が一番よく聴くパティ・ペイジは、前述ディスコロヒア盤をエル・スールで買うと付いてくる特典CD-Rなんだよね。1950年代に録音したジャズ・スタンダード曲集。
デューク・エリントンの「アイ・ガット・イット・バッド」にはじまり全12曲計36分ほどのその特典附属CD-Rこそ現在の僕が最も愛するパティ・ペイジだ。ブンチャッチャ・ブンチャッチャというワルツがどうしてだかやっぱり苦手だからこういうものの方がいいっていう完全なる個人的趣味嗜好の話。そして本格的ジャズ歌手が同じ曲を歌ったのよりパティ・ペイジの方がいいかもしれない。
だってパティ・ペイジはどのジャズ・スタンダードでも原曲のメロディを崩さずストレートに歌っているよ。そこがいいんだ。強い個性を出さず歌のメロディの美しさをそのまま表現するってところがいい。本格的ジャズ歌手は個性を出そう、独自の表現をしようとするあまり原曲のメロディをフェイクしすぎてしまうのが、ビリー・ホリデイなど一部を除き、僕はもうイマイチなんだなあ。
強い個性を主張せず歌本来の持味をそのままストレートに活かし伝える。そういうのが僕の言う「歌手は歌の容れ物」だという意味なんだよね。ピンク・マーティーニが「タン・ヤ・タン」を採り上げたことで一躍再ブレイクした由紀さおりもそうだよね。ピンク・マーティーニとの全面共作『1969』なんか最高だよ。
あの『1969』では由紀さおりは全編日本語でしか歌っていないのに世界中でヒットして、なんでも聞いた話ではギリシアの iTunes ではダウンロード売上げ第一位になったんだそうだ。このことからしても、音楽を楽しむということと歌詞の意味の理解とはなんの関係もないってことがよく分るよね。
『1969』でも「タン・ヤ・タン」を由紀さおりが再演してくれていたら(『草原の輝き』収録ヴァージョンではチャイナ・フォーブス)文句の付けようのない最高のポップ・アルバムなんだけどなあ。「♪わたしはギターなの♫」(だから鳴らして)なんて言われると、オジサンはもうタマランのだよ(歌詞の意味なんかどうでもいいと言ったそばからこれだ)。
鄧麗君では最高傑作に推す声が多い『淡淡幽情』はもちろん文句なしだけど、個人的趣味で言えば『一封情書』の方が好き。なぜかというとこのアルバムには「何日君再來」と「夜来香」の二曲があるからだ。前者は周璇が、後者は李香蘭(山口淑子)が歌った有名ヒット曲。僕はやっぱりスタンダード好きなんだなあ。
パティ・ペイジでもジャズ・スタンダード集が好きだとか、鄧麗君でも有名曲が入ったアルバムが好きだとか、由紀さおりでも昔のヒット曲の再演を聴きたいだとか(『1969』には「夜明けのスキャット」があるけれど)、こういうのはクラシックの名曲や古典落語を聴きたいというのと共通した心理なんだろうか?どっちの世界もよく知らないからやっぱりやめておこう。
いずれにしても、強い個性とか自己主張とかアーティスティックな部分のかけらすらもない通俗的でポップで明快なものこそ大衆音楽の真のありよう、真の輝きだと僕は思うね。このことが50歳過ぎてようやく自覚できるようになった僕だけど、シャバコさんみたいに20代から既にお分りの方もたくさんいらっしゃるから、やっぱりダメだなあ僕の耳は。
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