惚れるのは音にだ、データにじゃない
僕は本格的にはジャズを熱心に聴くことからポピュラー・ミュージックの世界にドップリはまり込んだ人間なので、ジャズは言うまでもなくそれ以外の音楽作品でも何年何月の録音であるとか、参加メンバーのパーソネルであるとか、そういう録音データに非常にこだわる傾向がかなり強い。
ジャズのレコードでは解明できない場合を除き必ず録音年月日、録音場所、パーソネルが記載されている。それらは中身の音楽を楽しむ際にも必要不可欠な情報としてジャズ研究家・批評家はもちろん一般のリスナーにとっても重宝されているものだ。ジャズの場合そういう情報がないとダメだとされる。
ジャズ以外のいろんな音楽をたくさん聴くようになり、しかも1980年代末からワールド・ミュージックをたくさん聴くようになると、そういう録音データが記載されていない場合がかなりあることに気が付いて、最初はどうしてこういう重要な情報をLPやCDに載せないのかとイラついていた。
録音年月日が分らないと時代や社会背景や同時代の他の様々な音楽との関係が分りにくい。パーソネルが分らないとある楽器のソロがいいなと思っても、その人の他の演奏を探して芋蔓式にレコードを漁ってどんどん趣味が拡大するチャンスが減ってしまう。
実際ジャズばかり聴いていた頃はそうやっていろんな新しいレコードに辿り着いたり探求していったものだった。例えばマイルス・デイヴィス・マニアの僕は、彼のバンドでいい演奏をやっているサイドメンの独立後のリーダー・アルバムを実にたくさん買って聴いて好きになったものが多い。
ところが例えばレバノン人歌手フェイルーズのアルバムを聴いても、主役のヴォーカリストがフェイルーズであるということしか分らない場合があって、これはいい演奏だなと思った伴奏者でもそれが一体誰なのかサッパリ分らず芋蔓式に探していくことができないのだ。何年の録音であることすらはっきりしない場合もある。
チュニジア出身の在仏歌手ドルサフ・ハムダーニの『バルバラ・フェイルーズ』でも、一応ジャケット裏に四人の伴奏者の名前と担当楽器が記載されているものの、中身を聴くとそれ以外の楽器も聞える。例えば二曲目のフェイルーズ・ナンバー「私に笛をください」のハーモニカ・ソロは凄くいいから誰なのか知りたいんだけどなあ。
こういうのはほんの一例で、しかもワールド・ミュージックだけではなくブルーズでもロックでもソウルでもファンクでもジャズ以外の一般のポピュラー・ミュージックで重要なのは主役であって、参加している伴奏者の名前なんか書かれていない場合が結構ある。ということはジャズの方が例外なのか?
もちろんジャズ以外のポピュラー・ミュージックだって研究家・批評家の方々が調べて、録音年月日や録音場所やパーソネルが記載されている場合は多い。特にリリースされてから年月が経って評価が定っているものの場合はそうだ。そういうのが分ると僕なんかは凄く助かるんだよねえ。
そういう録音データを知りたいというのはジャズ・リスナーだけのものではないようで、やはり好きになってハマり込んだものについては詳しく調べて発表する人がどんな世界にも必ず存在している。最近はインターネットの普及でより一層それが調べやすくなった。いい時代になったよね。
僕の場合ジャズから本格的に音楽の世界にはまり込んだのでこれが当り前の感覚のように思っているけど、しかし思い出してみれば、子供の頃にいろいろと全く自覚せずに好きだった音楽やレコードについては、主役の歌手名と曲名しか知らず、それ以外のことについては完全に無頓着だったのだ。
僕のハジレコである山本リンダの「どうにもとまらない」。大好きでシングル盤を聴きまくり、テレビで彼女が歌いながら激しく踊っている振りを憶えて、学校の休み時間や放課後に教室で披露したりした(恥)けれど伴奏者とか録音年とか知りたい気持なんか毛頭ないというか、そもそもそういう概念すら持っていなかった。
中学生になって大好きになった沢田研二や山口百恵についてだって全く同じことで、主役の歌手名と曲名しか知らないというかそれ以外なにが必要なのかその発想すら全くなかったのだった。これは今でも多くの一般の音楽ファンはそうなんじゃないかなあ。歌がイイネと思っているだけだ。
そしてジャズ・ファンみたいに録音データを強く意識するような音楽リスナーが、そういうものの存在を意識すらしないで聴いている普通の一般の音楽リスナーよりも深く音楽を聴き込んでいる、分っているなんてことは絶対にない。有り得ない。研究家・批評家は別だけど一般のファンにとってはそんなものは副次的なものだろう。
音楽の楽しみ、聴いて楽しい、美しい、カッコイイ、痺れる、感動できる、そういったこととその音楽の録音年だとか伴奏者のパーソネルであるとかはなんの関係もない。僕だってドルサフ・ハムダーニの「私に笛をください」のハーモニカ奏者が誰なのか分らないけれど、感動できることになにも変りはない。
僕が生れて初めて買って大感動したジャズのレコードであるMJQの『ジャンゴ』一曲目のタイトル・ナンバー。あれだってソロを取るヴァイブラフォン奏者やピアノ奏者の名前を知って感動が深まったわけでは全くない。そんなものを知らない第一回目に音だけ聴いて「こんな素晴しい音楽が世の中にあるのか!」と感動し、人生がガラリと変ってしまったわけだ。
直後に詳細な録音データを知り(LPに詳しく書いてあったから)、その後たくさん買いまくるジャズのレコードではほぼ全部に記載されていたので、だんだんとそれが音楽を聴くのに必要不可欠なものだと勘違いするようになってしまっただけなんだろうと今振返ればそう思う。音楽の本質とは無関係なことだ。
しつこく何度も書いて申し訳ないけど、その後24歳の時に寮の一室で深夜のFMラジオから流れてきたキング・サニー・アデの「シンクロ・フィーリング〜イラコ」。あれで久々に背中に電流が走るような大感動を覚えたわけだけど、その番組では歌手名も曲名も番組の最後にまとめて列挙されるだけだった。
だから「シンクロ・フィーリング〜イラコ」を聴いて大感動を覚えたその瞬間には、曲名も歌手名すらも全く何一つ知らない状態だった。すなわち完全に音だけでそれで痺れまくったわけだったから、音楽の感動にもはや主役の歌手名すらも必要ではない。
こうやっていろいろと考えてくると、ジャズ・ファンのようにあまりに録音データやパーソネルにこだわりすぎて聴くのも果してどうなんだろうと思えてくるね。もちろん大きな感動を覚え大好きになればそれらを詳しく知りたいと思うのは当然の心理。ジャズ・ファンに限らず誰だってみんなそうだろう。
だから20世紀初頭からそれを詳しく調べて研究・発表する方々がいるわけで、ディスコグラフィーの類が必要とされて、それで僕たちは大変助かっているわけだけど、だからといってデータが分らないと発狂せんばかりの状態になり、まるで音楽を楽しめないみたいな感じになってしまうのはちょっとどうかと思うんだなあ。
ジャズ・ファンだけでもないんだろうけど、特にジャズ・ファンは「誰々が演奏しているのならきっといい演奏に違いない」とか「誰々の演奏だからダメだろう」とか音より演奏家の名前だけで決め付けてしまうことがある。実は昔は僕も少しそうだった。でもこれ相当オカシイよね。
何度も書くけどドルサフ・ハムダーニの「私に笛をください」でのハーモニカ・ソロは誰が吹いているのか全く分らないしネットでいくら調べてもなんの情報もない。だけどそれでも聴く度に感動できる。音楽の感動ってそういうものじゃないのかな。
それでも分らないよりは分った方がいいに決っていると思っていたけれど、最近は分らなくてもどうでもいいんじゃないかという気すらしはじめている。自室にいる時はオーディオ装置でなくても、寝ている時間以外はMacで音楽を流しっぱなしなんだけど、CDで聴くのと違って音以外のなんの情報も自覚できず、しかしやはり感動は寸分たりとも違わないね。
このブログでも録音年やリリース年だとか誰の歌だ演奏だとか分る範囲で必ず書いてきているけれど、僕らは音にこそ惚れるのであって、名前やデータに惚れるんじゃないはずだよね。
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