スタジオ音楽のライヴ感
ライヴ・ミュージックこそ最高だとは思うものの、スタジオでの密室作業で多重録音を繰返して創り込まれたアルバムというのも結構好きなのだ。1966年以後のビートルズとか、『エイジャ』以後のスティーリー・ダンとか、多くの場合のプリンスとかね。結構そういうファン多いんじゃないかな。
当然のことながらこういうことが可能になったのはスタジオ録音技術の進歩(?)によってであって、僕の知る限り多くなってくるのは1960年代半ば以後だ。だいたい一つの楽器しかできないという人の方が案外少なくて、大抵いろんな楽器をこなせるもんね。
僕の知る限り、米英ポピュラー音楽で使われるほぼ全ての楽器をこなせるというのはポール・マッカートニーが走りじゃないかなあ。ベーシストとして出発したポールだけど、それはいわばじゃんけんに負けてそうなったようなもんで、元はギタリスト。本格的にじゃなければアマチュアだってみんな両方できる。普通の四弦エレベはレギュラー・チューニングのギターの低音四弦のそのままオクターブ下だからね。
ビートルズ時代の初期からクレジットされることは少なかったけどかなりギターも弾いている(しかも最初は四人のなかでは一番上手い)し、ファンもみんな昔からそれを知っていた。ピアノを弾く曲も多いのも全員知っているし、さらにドラムスを担当したものもある。サックスなどができるかどうかは知らない。
ヴォーカル、ギター、ベース、ピアノ(など鍵盤)、ドラムス、これら全部一人でできちゃうわけだから、ポール一人でロック系音楽は大抵なんでも録音できちゃうことになる。実際ビートルズ解散後の初ソロ作である1970年の『マッカートニー』は彼の一人多重録音で全ての楽器を演奏し歌って仕上げたアルバム。
ビートルズの場合1966年にライヴ・ツアーを辞めることを宣言し、その後は一部を除き完全にスタジオ・ワークによるアルバム発表のみということになって以後、そういった多重録音を駆使するようになる。ポピュラー音楽の世界ではかなり早い例だろう。
1968年の二枚組『ホワイト・アルバム』はそのようなスタジオ密室作業での多重録音が最も活用されているアルバムじゃないかなあ。この頃既に四人のメンバーがバラバラになりつつあったせいもあって、スタジオで顔を合せて同時に音を出す機会がかなり減ってしまったせいもあるんだろう。
録音中に一時的なリンゴ脱退騒動もあったため、冒頭の「バック・イン・ジ・USSR」と「ディア・プルーデンス」でドラムスを叩いているのはやはりポールだ。続く三曲目の「グラス・オニオン」でのリンゴのドラムスと比較すると違いがはっきりしているので、予備知識なしで聴いて分る人も多いはず。
ファンからはイマイチな評価らしいその二曲でのポールのドラムスだけど、僕は案外好きなんだよなあ。上手いよねえ。ビートルズ解散後のリンゴもこれら二曲でのポールのドラムスを褒めていた。それでも「グラス・オニオン」冒頭でのスネアがバンバンと鳴るのを聴くと安心するのも事実ではあるけれど。
『ホワイト・アルバム』ではこれはほんの一例で、メンバーが同時に音を出して録音することが少なくて、例えば「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」でもジョンのヴォーカルはリズム・トラックが(それも多重録音の末)完成した後にオーヴァー・ダビングされているため、一瞬間が空く部分がある。以前も書いたね。
『ホワイト・アルバム』の場合僕がやや不思議に思うのは、そんな具合でメンバー四人がバラバラの状態で製作されたアルバムであるにもかかわらず、仕上った作品を聴くと奇妙な一体感というかバンドとしての統一的なグルーヴがはっきり存在しているのが聞取れることだ。デビュー当時の作品に近い質感なんだよなあ。
そのあたりがやはり一流のビートルズ・マジックだったんだろうなあ。リリースはラストになったけど録音順なら『ホワイト・アルバム』の次になる『レット・イット・ビー』の方が、スタジオでもあるいはルーフ・トップ・コンサートでも同時に演奏している部分が多いのに逆の印象だもんなあ。
レコード・デビューが1969年だったレッド・ツェッペリンになると、(主に)ギターの多重録音ばっかりで、オーヴァー・ダビングしまくった結果ライヴでは再現不能と当時言われた曲もかなりある。その一例である『プレゼンス』の「アキレス最後の戦い」もなんとかライヴでやってはいるけども。
『聖なる館』一曲目の「永遠の詩」もそうで、ライヴ・ヴァージョンは僕の耳にはやや残念な結果になっているように聞える。それでもなんとかギターの多重録音パートをライヴでギター一本の生演奏で再現できているのは、なにを弾きなにを弾かないかというジミー・ペイジのアレンジ能力の賜物だ。
僕が音楽家ジミー・ペイジを一番高く評価する部分が、そのアレンジ/プロデュース能力で、さらに天才的なリフ・メイカー能力と相俟って、レッド・ツェッペリンを成功に導いた最大の原因だったんじゃないかと思う。ギター演奏能力だけなら一部を除きはっきり言ってあまり面白くは聞えない人だ。
ライヴで再現不能なスタジオ・ワークを後年のライヴで再現しているという点では、スティーリー・ダンなんかもそうだよね。彼らの場合1977年頃にライヴ・ツアーから引退し、その後の『エイジャ』と『ガウチョ』はドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカー二人だけのプロジェクトになっている。
そして様々な(ジャズ系やフュージョン系の)セッション・ミュージシャンを大量に起用して、スタジオでの密室作業で多重録音を繰返し録音後の編集作業にも徹底的にこだわった結果が『エイジャ』と『ガウチョ』になった。そのためこの二作収録曲は当時はライヴ演奏は不可能だと言われていた。
しかしながら以前も書いたけど、1993/94年のツアーで再結成したスティーリー・ダン(といっても、正式メンバーのフェイゲンとベッカー以外は全員セッション・ミュージシャン)が、それら二作の収録曲を見事に再現しているのを95年リリースの『アライヴ・イン・アメリカ』で聴いて驚いた。
スティーリー・ダンの93/94年ツアーの場合は、先に書いたレッド・ツェッペリンの場合とは違って、スタジオ密室作業で完成させた曲群をそのまま完璧以上にライヴ演奏しているのが凄い。ミュージシャンの演奏能力がかなり進歩したことと、大量のミュージシャンをライヴでも起用しているせいだね。
『アライヴ・イン・アメリカ』附属のブックレットのなかで、なぜ再びライヴ・ツアーをやろうと思ったのかという問いに、ドナルド・フェイゲンが「バビロン・シスターズ」がライヴ・ステージでどう響くか聴いてみたかったからだと書いている。聴いてみると『ガウチョ』ヴァージョンに劣らない出来だ。
そしてライヴで自然発生的なナチュラルなグルーヴ感を伴って演奏されている『エイジャ』『ガウチョ』からの曲を聴いて、改めてこのスタジオ・アルバム二作を聴き返すと、同様のグルーヴ感が存在しているのに気付く。それまでスタジオ密室作業で完成させたものという先入観で聴いていたけどね。
全員同時に一斉に音を出す一回性のパフォーマンスにあるようなナチュラルなフィーリングを、多重録音を繰返すスタジオ密室作業で仕上げた作品にも感じられるように創り上げるというのが、現代の秀でたミュージシャンの優れたゆえんなのだろう。一人だけの多重録音で創ったアルバムが多いプリンスも同じだ。
そういったスタジオ録音でライヴ同様の自然発生的なグルーヴ感を出せるといえば、クラシック音楽のグレン・グールドにも似たようなものを僕は感じる。彼の場合ある時期以後かなり積極的に演奏会を嫌ってスタジオ録音に徹するようになるけど、彼が例えばピアノでやるバッハの『平均律クラヴィーア曲集』などにはライヴなグルーヴ感があるもんね。クラシック音楽を形容するのに、グルーヴ感とかノリとかいう表現もどうかとは思うけれども。
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