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2016年6月

2016/06/30

グラウンド・ビートはレゲエ・ルーツ?

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僕も一時期ハマっていたソウル II ソウル。今ではもう忘れられた存在になっているかもしれないけれど、おそらく1990年代後半あたりまでは日本でもかなり人気があった英国のグループというかユニット。ご存知ない方にどういう音楽か説明するのはちょっと難しく、まあクラブ系のダンス・ミュージックかなあ。

 

 

日本でだけだということなんだけど、ソウル II ソウルの音楽は<グラウンド・ビート>と呼ばれていた。この名称の意味するところは当時も今も僕にはよく分らないんだけど、とにかく大ヒットした「キープ・オン・ムーヴィン」がこのビートの代表作。

 

 

 

言葉で説明するよりこの音源を聴いてもらえばソウル II ソウルの音楽の特徴がよく分ると思う。リズムはドラム・マシーンで創っていて、クローズド・ハイハット音の16分三連音符こそが肝だ。そしてその16ビートのノリに独特のタメがあって、R&Bともヒップホップともつかないものだ。

 

 

元々 “Soul II Soul” という名称はロンドンでジャジー・B がやっていたサウンド・システムの名称だ。サウンド・システムってことはつまりレゲエだよなあ。実際ジャジー・B はロンドンのジャマイカ系移民コミュニティの人間で、そこでこの名称のサウンド・システムを運営していた。

 

 

そのジャジー・B のサウンド・システムに、ブリストル出身でマッシヴ・アタックの前身バンドでもやっていたネリー・フーパーとヴォーカルのキャロン・ウィーラーが参加して、これら三人がソウル II ソウルのファウンダーとなった。だからレゲエの要素が聞取れても不思議じゃないのに、なぜだか僕は感じない。

 

 

ソウル II ソウルにおけるレゲエの要素はいろんな人が指摘していて、ジャマイカ音楽が専門の藤川毅さんが強い興味を示すユニットだし、元々ジャマイカ系移民コミュニティのサウンド・システムなんだから、レゲエがありはするんだろう。それを感じないのは僕がレゲエ不感症でこの種の音楽にかなり疎いせいだなあ。

 

 

レゲエよりも僕はR&B、ファンク、ハウス、ヒップホップなどの要素の方がソウル II ソウルには強く溶け込んでいるように聞えてしまう。上で音源を貼った「キープ・オン・ムーヴィン」こそ彼らの最大の代表曲だけど、これ、レゲエがあるだろうか?むしろハウス〜ヒップホップ系が強いんじゃない?

 

 

この約六分の「キープ・オン・ムーヴィン」はファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』(1989)収録のヴァージョン。ここから彼らの第二弾の7インチ・シングル盤用に短縮・編集されて発売され、それが英米で大ヒットした。

 

 

 

この7インチ・シングル・ヴァージョンの「キープ・オン・ムーヴィン」は1993年リリースのベスト盤『ヴォリューム IV:ザ・クラシック・シングルズ 88-93』に収録されていて、このアルバムには同曲の別ミックスもある。このベスト盤CDはソウル II ソウルの全アルバム中最も売れたものらしい。

 

 

「キープ・オン・ムーヴィン」はアメリカでは六曲入りマキシ・シングルでもリリースされていて、それにはオリジナルのアルバム・ヴァージョンや7インチ・シングル・ヴァージョンの他にも様々なミックス違いや、あるいはテディ・ライリーが手がけたミックスも二種類入っているが、僕は聴いていない。

 

 

「キープ・オン・ムーヴィン」はソウル II ソウルのファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』の一曲目だからとても印象に残る。そしてこのファースト・アルバムはアメリカでは『キープ・オン・ムーヴィン』のタイトルで出ていた。一番の代表曲だからそれを持ってきたんだろう。

 

 

一説に拠るとこの「キープ・オン・ムーヴィン」に代表されるいわゆるグラウンド・ビートは、当時英国で活動していた日本人ドラマー屋敷豪太が創り出したものらしい。そのあたりの詳しいことは僕は全く知らないし、屋敷豪太というドラマーのこともよく知らないが、ソウル II ソウルのメンバーだったようだ。

 

 

メンバーというのはちょっと違うのか、とにかくファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』には屋敷豪太がプログラミングをやったと記載されているものが ”Gota” 名で二曲あり、一つが一曲目の「キープ・オン・ムーヴィン」。もう一つがラストの「ジャジーズ・グルーヴ」。

 

 

これら二曲のうちアルバム・ラストの「ジャジーズ・グルーヴ」はその前九曲目の「バック・トゥ・ライフ」から切れ目なく繋がっているから、ぼんやり聴いていると気が付きにくい。「バック・トゥ・ライフ」も「キープ・オン・ムーヴィン」同様シングル・カットされてヒットしたけれど、僕にはイマイチ。

 

 

なぜかというと「バック・トゥ・ライフ」は前半ずっとアカペラのコーラスが続いて、しかもそれはテンポ・ルパートで、なかなかあの印象的な三連16分音符のデジタル・ビートが出てこず、だからソウル II ソウルの楽曲としては僕にはちょっと退屈なんだなあ。終盤ようやくビートが効はじめるけどね。

 

 

ファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』でその「バック・トゥ・ライフ」から切れ目なく繋がっているラストの「ジャジーズ・グルーヴ」は、確かに「キープ・オン・ムーヴィン」同様のビート・スタイルで、だからどっちも屋敷豪太がプログラミングしたというのは納得だ。

 

 

余談だけど音楽アルバムで曲が切れ目なく繋がっているとか、そうでなくても曲間のギャップが非常に短くなるというのは、間違いなくクラブ・ミュージック系の流行からだ。1980年代後半からじゃないかなあ、そういうアルバムが増え始めるのは。特にクラブ系でなくても出てくるようになる。

 

 

一例を挙げれば2003年リリースのビートルズの『レット・イット・ビー...ネイキッド』がやはり曲間の空白が極端に短かった。ビートルズなんて1960年代の音楽家なんだけどねえ。しかしあの『ネイキッド』はどうにも聴きようがないというか、あれと『ラヴ』の二つだけはどこが面白いのやらサッパリ分らなかった。

 

 

ある時期以後のCDではそんな曲間の空白が短いものが、別にクラブ・ミュージック系でなくても増えたというかそんなのばっかりになったので、古いLPレコードをそのままにCDリイシューしたもので曲間が少し空いているものを聴くと、最近は一瞬アレッ?止った?と思ってしまうほど。そっちが普通だったんだけどね。

 

 

話を戻してソウル II ソウルのファースト・アルバムの印象的な二曲「キープ・オン・ムーヴィン」でも「バック・トゥ・ライフ」でも歌っているのはキャロン・ウィーラー。いろんな人のバックでやってはいたものの、この二曲が事実上の彼女のソロ・デビューで、これで一躍トップ・スターになった。

 

 

というか当時僕は全く知らなかったが、キャロン・ウィーラーは前述の通りジャジー・B らとともに1988年にソウル II ソウルを創設したオリジナル・メンバーだということだ。当時このユニットは僕にはジャジー・B 主導のイメージしかなかったもんなあ。キャロンはアルバム一枚だけでソウル II ソウルを離れたし。

 

 

僕にはとにかくファースト・アルバム冒頭の「キープ・オン・ムーヴィン」こそが大きな驚きで素晴しいと思ってこればっかり繰返して聴いたから、他の曲はろくすっぽ聴いておらず全然憶えていないくらいなんだなあ。だからこのユニットは16分音符のハイハットとキャロン・ウィーラーの歌の印象しかなかった。

 

 

でも大好きになったので、続く二作目『ヴォリューム II:ア・ニュー・ディケイド』、三作目『ヴォリューム III:ジャスト・ライト』と続けて買い、どっちもそれぞれ一曲目の「ゲット・ア・ライフ」と「ジョイ」はなかなか良かった。だけどいわゆるグラウンド・ビートの特徴は薄くなっているんだなあ。

 

 

その次に前述のベスト盤『ヴォリューム IV:ザ・クラシック・シングルズ 88-93』が出て、これで初めて彼らの最初の頃のシングル曲を、大ヒットした「キープ・オン・ムーヴィン」含めて聴き、これは面白かったけど、その次の1995年『ヴォリューム V:ビリーヴ』は凄くつまらなかった。

 

 

だからもうそれでソウル II ソウルを買うのはやめて、といってもこの後一つしかアルバムはないけど、興味も急速にしぼんだ。今でもたまに聴くのは1989年のファースト・アルバム『クラブ・クラシックス Vol. 1』だけ。昔は一曲目の「キープ・オン・ムーヴィン」しか聴いていなかったけれどね。

 

 

だけど今聴き返すと『クラブ・クラシックス Vol. 1』には「キープ・オン・ムーヴィン」以外にもいろいろと面白い曲があるなあ。なかでも六曲目の「アフリカン・ダンス」がいい。ジャジーなフルートをフィーチャーしたインストルメンタル・ナンバー。

 

 

 

これだったらソウル II ソウルそのものには関心がなくても、1990年代以後増えたらしいクラブ・ミュージック風のジャズが好きなリスナーの方でも好きになってもらえそう。フルート以外にはかすかにアクースティック・ピアノの音が聞えるだけで、それ以外は全部打込みで創っている。

 

 

どの曲も曲を書きアレンジもしているのは全部ジャジー・B だけど、打込みのプログラミングは、前述の通り一部で屋敷豪太がやっている他は全てネリー・フーパーだ。僕はビョークの最初の二枚『デビュー』と『ポスト』で初めてその名前と仕事を知り聴いた人で、それで大好きになった人だ。

 

 

「アフリカン・ダンス」に続く「ダンス」は「アフリカン・ダンス」と全く同じリズム・パターンでフルートを使っていて、ジャジー・B のヴォーカルが入るという違いだけ。というかこれは同じトラックを使っているんじゃないの?つまりいわゆるヴァージョンって奴だ。ってことはやっぱりレゲエ系だよなあ。う〜ん。

2016/06/29

マディの1950年パークウェイ・セッション

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以前書いた通り(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-786c.html)マディ・ウォーターズの残した録音で一番好きなのがシカゴに出てくる前のデルタ時代のアクースティック・ギター弾き語りで、その次が1968年のサイケデリック路線『エレクトリック・マッド』だという全くダメなマディ・ファンの僕。

 

 

ただしこれは完全なる個人的趣味でのチョイスであって、それらがマディの作品で一番優れているなどとは露ほども思わない。僕がマディの録音で一番凄いんじゃないかと思っているのは、しかし実は彼名義のリーダー録音ではなく、盟友リトル・ウォルター名義の1950年パークウェイ・セッションだ。

 

 

パークウェイというシカゴの新興レーベルにリトル・ウォルター&ベイビー・フェイス・リロイ名義で1950年1月に録音されたのは全八曲。リトル・ウォルター(ヴォーカル&ハーモニカ)、ベイビー・フェイス・リロイ・フォスター(ヴォーカル&ドラムス)、マディ・ウォーターズ(ギター)のトリオ編成。

 

 

二曲でだけジミー・ロジャーズもギターで参加しているという情報もあるんだけど、正確なことは僕は知らない。とにかくそれら八曲を米デルマークが他のものと併せアルバムにしてリリースしている。Pヴァインから日本盤もリリースされているから買いやすいはず。それのライナーノーツは小出斉さんらしい。

 

 

そのデルマーク盤は『ザ・ブルーズ・ワールド・オヴ・リトル・ウォルター』というタイトル。リトル・ウォルター+ベイビー・フェイス・リロイ+マディ・ウォーターズの八曲以外にも、J.B. ルノアーのJOB録音三曲、サニーランド・スリムのリーガル録音二曲が収録されていて、なかなか面白い一枚。

 

 

さて、全八曲のパークウェイ・セッションが行われた1950年1月というと、マディはチェス・レーベルと専属契約していて、だからリトル・ウォルター&ベイビー・フェイス・リロイ名義でリリースされただけで、バンド自体は当時37歳のマディのバンドに他ならない。つまり事実上マディのリーダー録音なのだ。

 

 

マディがアリストクラット(チェス)と契約したのが1947年。最初に録音・リリースしたのが「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」「アイ・フィール・ライク・ゴーイング・ホーム」がA面B面のシングル盤で、これがヒットしたせいで当時はそういうウッド・ベースだけが伴奏の録音が中心。

 

 

1948〜50年頃にチェス(系)・レーベルに録音しリリースしたのはぼぼそんなのばかりで、デルタ出身であるマディのそのダウン・ホーム感覚を活かしたいわばモダンなカントリー・ブルーズっぽいのが中心。これはレナード・チェスの意向だったようだ。しかしマディの気持は違っていたらしい。

 

 

その頃マディは既にバンドを率いてシカゴのクラブなどでは演奏していて人気もあった。だからレコーディングもバンドでやりたかったらしいのだが、レナード・チェスにその意向は退けられていた。そのマディが率いていたバンドが前述のリトル・ウォルター+ベイビー・フェイス・リロイとのトリオ。

 

 

というわけで1950年1月のパークウェイ・セッションは、当時のマディのレギュラー・バンドによる初録音だ。書いたように契約上マディの名前をリーダーとして出せず歌えなかっただけで、事実上マディのリーダー・セッションなのだ。これが凄いのでレナード・チェスも認めざるをえなかったという代物。

 

 

パークウェイ・セッションの全八曲どれも全部凄いんだけど、特にビックリするのが「ローリン・アンド・タンブリン」2パートだろうなあ。これはブルーズ・ファンや専門家の間で意見が一致している。もちろんあのご存知デルタ地帯伝承の古いスタンダード・ナンバーなんだけど、これがとんでもない迫力なんだ。

 

 

「ローリン・アンド・タンブリン」自体はマディはアリストクラットにも同1950年2月に前述の通りビッグ・ボーイ・クロウフォードのウッド・ベース一本の伴奏で録音している。それも2パートあって、ベース伴奏とエレキ・ギターなだけで、当時の例に漏れないカントリー・スタイルなんだよね。

 

 

ところでマディのアリストクラット録音の「ローリン・アンド・タンブリン」2パートは、小出斉さん編纂のMCA日本盤『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』に収録されているのが一番聴きやすいんじゃないかなあ。神をも恐れぬアルバム名だけど(笑)、それは小出さんも心苦しいと断っている。

 

 

なぜかといえば『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』にはマディのアリストクラット録音「ローリン・アンド・タンブリン」2パートがそのまま連続収録されているからだ。バラけた状態で収録・発売されていることがあるから、一続きで聴けるのはありがたい。それ以外でもいろいろと面白いアルバムだ。

 

 

マディのアリストクラット録音「ローリン・アンド・タンブリン」2パートが連続収録されているCDは、僕はこれ以外では英 Charly によるマディのチェス録音完全集九枚組しか持っていない。その九枚組完全集は、同じく英 Charly のハウリン・ウルフのチェス録音完全集七枚組とともに渋谷サムズで買った。

 

 

話が完全に逸れちゃうけれど、それら英 Charly がリリースしたマディとウルフのチェス録音完全集。買ってからひょとして一度も聴いていないかもしれないぞ(苦笑)。黒人音楽が専門の渋谷サムズで見つけた時は小躍りして喜び勇んで大枚はたいたものの、どうにも聴きにくいもんねえ。発売元もちょっと怪しいしなあ。

 

 

古いブルーズ系音源などの復刻が専門の英 Charly は、同じく復刻専門のオーストリアの Document やフランスの Classics と同様に、版権の切れた古い音源を年代順にリリースしているだけだから、別に違法行為なんかじゃないけれど、僕はなんだかちょっと後ろめたい気分があるんだなあ。

 

 

でもそういうリイシュー専門レーベルの出すCDでしか聴けない、オリジナルのSP盤を入手でもしない限りそれしか存在しないというものだって結構あるから、凄く助かっていることは確か。本当は本家レーベルがちゃんとした形で復刻しなきゃいけないんだぞ。一体全体どうしてやらないんだ?だいたいこういう仕事をしてくれるのはいつもヨーロッパ人じゃないか。アメリカ人は自国の音楽なのになにやってるんだ?!

 

 

話が逸れちゃったね。1950年のマディ・バンドによるパークウェイ・セッション。これの「ローリン・アンド・タンブリン」が物凄いと書いた。元がデルタ・スタンダードなわけだからカントリー・スタイルなダウン・ホーム感覚を活かしたようなものかと思いきや、これが完全なるモダン・バンド・ブルーズのサウンドになっているんだよ。

 

 

パークウェイ録音の「ローリン・アンド・タンブリン」でメイン・ヴォーカルを取るのは(ドラムスも叩きながらの)ベイビー・フェイス・リロイで、それにリトル・ウォルターのハーモニカとマディのスライド・ギターが絡む。そして全員唸っている。

 

 

 

特にマディの唸りが大きく聞えて存在感抜群だ。メイン・ヴォーカルやハーモニカの音を凌駕せんばかりの迫力だよねえ。しかもスライド・ギターだってダイナミックで素晴しい。上掲YouTube音源で充分分ると思う。たった三人のバンド編成であるにも関わらず、このグルーヴ感は凄まじい。

 

 

このパークウェイ録音の「ローリン・アンド・タンブリン」2パートこそ、デルタ・ブルーズをシカゴのエレキ・バンド・サウンドに移し替えてモダン化した第一号録音で、これが前述マディ名義のアリストクラット録音の同曲よりも先にシングル盤で発売されたため、レナード・チェスも驚いたんだそうだ。

 

 

ビビったレナード・チェスはほぼ同時期に収録されていたアリストクラット録音の「ローリン・アンド・タンブリン」を慌ててシングル盤で急遽リリースしたものの、それは書いたようにオールド・タイミーなサウンドだからもはや時代遅れ(個人的にはそっちもかなり好きではある)だったのだ。

 

 

 

それで結果レナード・チェスもマディに自分のバンドでのモダン・シカゴ・サウンドをやることを認めるようになり、それでマディのチェス時代黄金期が到来するわけだ。これが1950年の話。マディ・バンドによるパークウェイ録音はまさにそういう時代を形作ったレジェンダリーなものだったんだよね。

 

 

前述の英 Charly のマディ完全集ボックス附属のディスコグラフィーで辿ると、チェス(系)におけるマディのバンド編成での初録音は1951年10月の「ルイジアナ・ブルーズ」になっている。これはマディ以外にリトル・ウォルターとビッグ・ボーイ・クロウフォードとエルガ・エドモンズの三人という編成。

 

 

その「ルイジアナ・ブルーズ」は『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』収録だからお馴染みのもの。オーティス・スパンのピアノも入りもっとグッとモダンなバンド・サウンドになるのが1953年9月録音の「ブロウ・ウィンド・ブロウ」から。翌年に「フーチー・クーチー・マン」も録音する。

 

 

「フーチー・クーチー・マン」は『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』に収録されているお馴染みマディのトレード・マークみたいな一曲。エリック・クラプトンも1981年の『アナザー・チケット』でカヴァーした「ブロウ・ウィンド・ブロウ」も前述小出さん編纂の日本盤『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』に収録されている。

 

 

ロック・バンドのローリング・ストーンズがバンド名を取った1950年の「ローリン・ストーン」はウッド・ベース一本だけの伴奏によるエレキ・ギター弾き語りで、書いている通りの初期チェス(系)時代のカントリー・スタイルだけど、1953年頃にはすっかりバンド編成での録音が行われるようになったわけだ。

 

 

レナード・チェスにそんなバンド編成でのレコーディングを有無を言わせず実力で認めさせたのが1950年のパークウェイ録音、特に「ローリン・アンド・タンブリン」だったわけで、その後のマディの快進撃とブルーズ界やロック界に与えた影響の大きさを考えると、やはり聴き逃せないものなんだよね。

2016/06/28

レイ・チャールズのジャズ・ピアノ

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リズム&ブルーズ歌手兼ピアニストのレイ・チャールズ。彼にはジャズ・インストルメンタルをやった録音が結構あって、何枚かアルバムにもなっている。僕も長年リズム&ブルーズだけの人だと思い込んでいたので、全く気が付いていなかった。というかそもそもレイをあまり熱心に聴いてこなかったというのが事実。

 

 

アナログ盤ではアトランティック時代初期のリズム&ブルーズ録音のベスト盤コンピレイションをなにか一枚持っていただけで、それで超有名な「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」とか「アイ・ガット・ア・ウーマン」とか「ワッド・アイ・セイ」とかその他いくつか聴いていた程度だった。

 

 

大学生の頃にテレビでレイ・チャールズのライヴ・コンサートが流れたことがあって、名前だけは知っていたので観てみたら、それはカッコよかったなあ。詳しいことは全く憶えていないんだけど、確かその時レイはアクースティック・ピアノとフェンダー・ローズを行き来しながら弾いていたような。

 

 

そして実を言うとそのテレビで観た時にレイが盲目の人だということを初めて知ったくらい無知だった僕。当時の僕はリズム&ブルーズなんかほぼ全く聴いていなかったのに、その時テレビで観たレイのライヴは凄くいいなあと感じたのだった。記憶ではビッグ・バンドを従えていたような気がする。

 

 

それでも前述の通りベスト盤一枚しか買わず、CDリイシューがはじまってからも同じようなもんで、ベスト盤CDを買っただけだった。こりゃオカシイね。僕がレイ・チャールズをちゃんと掘下げるようになったのは2005年の八枚組ボックス『ピュア・ジーニアス:コンプリート・アトランティック・レコーディングズ 1952-1959』を買ってから。

 

 

『ピュア・ジーニアス:コンプリート・アトランティック・レコーディングズ 1952-1959』。タイトル通りアトラティック時代のレイの録音全集で、このCD八枚組でレイ・チャールズを初めてちゃんと聴いてみて、その音楽の素晴しさ・楽しさ・魅力をおそらく初めて理解したのだった。遅いよなあ。

 

 

八枚組の『ピュア・ジーニアス』。CDで八枚とは大きいなと買った時は思ったんだけど、でもアトランティック録音完全集にしてはちょっと少ないのかもしれない。でも合計九時間以上あるからそんなもんなのか。もちろんリズム&ブルーズが中心だけど、かなりジャズ録音があることをその時ほぼ初めて知った。

 

 

今聴直すとレイ・チャールズのリズム&ブルーズの録音にもかなりジャズの要素が混じり込んでいるし、あるいはカントリー・ミュージックの要素もあったりして、1930年生まれという世代を考えるとこりゃ当然だよなあ。30〜40年代ならジャズとブルーズはまだ分離していない。

 

 

レイ・チャールズのジャズ録音アルバムは1957年の『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』が初らしい。しかもこれは代表作「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」や「アイ・ガット・ア・ウーマン」「メス・アラウンド」が入ったレイの初LPアルバム『レイ・チャールズ』に続くアトランティック第二弾。

 

 

ってことはアトランティック時代の最初からジャズをやっていたってことだよねえ。そしてやはり『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』はアーメット・アーティガンではなく、アトランティックのジャズ部門統括者ネスヒ・アーティガンのプロデュースだ。この点ネット上の情報は一部間違っているものがある。

 

 

『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』のオリジナルLPレコードは全八曲。僕の持っているリイシューCDではそれ以外に九曲のボーナス・トラックが入っていて、1961年の『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』から六曲、同年のインパルス盤『ジーニアス+ソウル=ジャズ』から三曲という具合。

 

 

そのうち『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』と『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』は全く同じセッション音源なので、これをドッキングさせるのは納得できる。メンバーもほぼ同じだし、アレンジだってどっちもクインシー・ジョーンズだし。しかしインパルス盤からどうして入っているんだろう?

 

 

しかも僕の持っている『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』に入っているインパルス盤『ジーニアス+ソウル=ジャズ』からの三曲「モーニン」「ストライク・アップ・ザ・バンド」「バース・オヴ・ザ・ブルース」は、全部ピアノではなくハモンド B-3 オルガンを弾いているので、聴いた感じもやや違和感があるんだなあ。

 

 

『ジーニアス+ソウル=ジャズ』にはビッグ・バンドが入っていて、これのアレンジもやはりクインシー・ジョーンズ。しかしこのアルバム、僕はあまり好きじゃないんだなあ。クインシーの仕事にしては最も魅力が薄いものの一つなんじゃないかなあ。アレンジがやや大袈裟でケバケバしいし。

 

 

レイ・チャールズがオルガンを弾くのはゴスペル要素の強い音楽家なので当然なんだけど、そのオルガンもハモンド B-3 とクレジットされてはいるものの、何種類かあるこのオルガンの音色には聞えにくい。本当にハモンド B-3 なのだろうか?と疑ってしまう。ちょっとヘンな音だよなあ。

 

 

そういうわけだから『ジーニアス+ソウル=ジャズ』からの三曲を『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』のボーナス・トラックとして聴くのは違和感が強いんだなあ。この三曲がラストなので、僕はいつもその前で再生を止めちゃうもんね。そんなのよりミルト・ジャクスンとやったのを入れたら良かったのになあ。

 

 

レイ・チャールズがジャズ・ヴァイブラフォン奏者ミルト・ジャススンとやったのは1958年の『ソウル・ブラザーズ』。同じ時のセッションからの未発表曲集61年盤『ソウル・ミーティング』と2in1で今ではCDリイシューされている。これのドラマーが同じMJQのコニー・ケイでいい感じ。

 

 

MJQは音楽的リーダーのジョン・ルイスが西洋クラシック音楽趣味の持主で、バロック音楽の手法をジャズに持込んだりしたので今では殆ど聴かなくなっているんだけど、もしMJQにブルージー極まりないミルト・ジャクスンがいなかったら、クラシック・ファン以外には魅力のないジャズ・バンドになっていたかもしれないなあ。

 

 

そしてミルト・ジャクスン同様にMJQの(二代目)ドラマー、コニー・ケイも、MJQの録音ではイマイチ分りにくいけれど結構ブラック・フィーリングのあるドラマーで、だから僕は結構好き。しかもレイとやった『ソウル・ブラザーズ』『ソウル・ミーティング』にはブルージーなギターも入っている。

 

 

僕の知っているレイ・チャールズのジャズ・アルバムは以上で全部だ。きっともっとあるんだろう。僕が知っているなかでは『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』と『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』の二枚が一番好き。ジャズ・ファンはあまり知らないかもしれないが、レイのジャズ・ピアノはかなり上手いよ。

 

 

一番凄いと思うのが『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』収録の「チャールズヴィル」。この猛烈なドライヴ感はどうだ。専門のモダン・ジャズ・ピアニストでもここまで弾ける人はそう多くはない。ジャズ・シーンでも活躍できたことは間違いない。

 

 

 

同じ『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』から一曲目のアルバム・タイトル・ナンバー。お聴きになれば分るようにブルーズ・ナンバーだから、得意中の得意だ。ファンキーでブルージーでいいね。まるでレイ・ブライアントみたい、いやもっといいかも。

 

 

 

レイ・チャールズのジャズ録音ではこういうファンキー・ブルーズが多くて、彼の専門を考えたら当然のように上手くて魅力的。『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』にも「ザ・レイ」「スウィート・シックスティーン・バーズ」がある。後者をどうぞ。

 

 

 

ペギー・リーで有名な「ブラック・コーヒー」もあって、これもまるで生粋のブルーズ・ナンバーにしか聞えないもんなあ。僕も長年ペギー・リーやサラ・ヴォーンで親しんできたものなので、最初に聴いた時は同じ曲だと分りにくかったくらいだ。

 

 

 

以前書いた通りホレス・シルヴァーの代表的ファンキー・ナンバーの一つ「ドゥードゥリン」もやっている。これもホーン群のアレンジはクインシー・ジョーンズでいい仕事ぶりだなあ。ホレスが自分のバンドでやったオリジナルよりいいかもしれないと思うほどだね。

 

 

 

こんな具合で同じ時の録音セッションからのアトランティック盤二枚『ザ・グレイト・レイ・チャールズ』と『ザ・ジーニアス・アフター・アワーズ』はレイ・チャールズによる最高のジャズ・アルバムなんだよね。普通の多くのモダン・ジャズ・ファンはレイにこんなのがあるなんて知らないんじゃないかなあ。

2016/06/27

ディラン一座の賑やかで楽しい興行

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以前書いたように、ボブ・ディランの一連のブートレグ・シリーズで出たライヴ音源で一番壮絶なのは1966年の『ロイヤル・アルバート・ホール』だろうけど、一番楽しくてよく聴くのは75年録音の『ザ・ローリング・サンダー・レヴュー』だ。これはまるでおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさ。

 

 

<ローリング・サンダー・レヴュー>と呼ばれる1975年と76年のボブ・ディラン一座(まさに「一座」という言葉がピッタリ)によるライヴ・ツアーは昔からよく知られていて、かつてはそのライヴ・ツアーの76年セカンド・レグから、一枚物の『ハード・レイン』だけがリリースされていた。

 

 

『ハード・レイン』も楽しくて好きなんだけど、ローリング・サンダー・レヴューは伝説のようになっていて、いろんなミュージシャンがツアーに帯同し、バンドというより先に書いたようにまさに一座とでも呼ぶべき雰囲気の集団が賑やかな演奏を繰広げていたらしいと聞いていたからなあ。

 

 

なにかブートレグでは聴けたのかもしれないが、ボブ・ディラン関係のブートというのはザ・バンドとやった例の1967年の一連の地下室セッションと、その前年のやはりザ・バンド(ドラマーだけ違うけど)を従えての『ロイヤル・アルバート・ホール』しか興味がなくて僕は持っていなかった。

 

 

それら『ベースメント・テープス』も『ロイヤル・アルバート・ホール』も、今ではディランのブートレグ・シリーズの一環として公式リリースされているので、ブートは用無しになっている。そしてブート(があったのかどうか知らないが)では聴いていないローリング・サンダー・レビューも公式に出たというわけだ。

 

 

『ライヴ 1975:ザ・ローリング・サンダー・レヴュー』がブートレグ・シリーズの第五弾としてCD二枚組で公式リリースされたのは2002年のこと。これは本当に賑やかで楽しかった。一曲目「トゥナイト・アイル・ビー・ステイング・ウィズ・ユー」の出だしのいきなりのディランの声の張りが素晴しい。

 

 

このライヴ盤でのディランは本当によく声が出ている。僕は彼の公式ライヴ盤で聴いていないものもあるんだけど、僕が聴いたなかでは彼の声に一番張りと伸びがあると思うのが『ローリング・サンダー・レヴュー』だなあ。ああいう歌い方の人だからそんなに朗々とコブシを廻すことはしないんだけどね。

 

 

二曲目の「イット・エイント・ミー、ベイブ」では、リズムがちょっと面白い。ドラマーはハウウィー・ワイエスなんだけど、チャカチャカとなんだかちょっとラテン風のドラミングで、これ、1964年の『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』の収録曲が同じ曲かと思うほどの変貌ぶりだ。

 

 

どう聴いても断然1975年ヴァージョンの方が楽しくていいよね。出だしのちょっとチャーミングなフレイジングのエレキ・ギターを弾いているのは誰なんだろう?複数のエレキ・ギタリストが参加しているし、現に「イット・エイント・ミー、ベイブ」でも何本か聞えるし、僕の耳では判断できないんだなあ。

 

 

複数のエレキ・ギターの絡みも『ローリング・サンダー・レヴュー』の聴き所の一つだよね。クレジットされているのはT・ボーン・バーネット、ロジャー・マッギン、ミック・ロンスンの三人。三人ともいまだに僕はそれほどしっかりとは聴いていないからなあ。さらにスティール・ギター奏者もいる。

 

 

デイヴィッド・マンスフィールドの弾くそのペダル・スティール・ギターもなかなか面白い(彼はドブロ・リゾネイター・ギターやマンドリンも弾く)。ディランの音楽にペダル・スティールが入る時は必ずカントリー・テイストだ。アルバム中一番印象的なのが「アイ・シャル・ビー・リリースト」。

 

 

一枚目ラストの「アイ・シャル・ビー・リリースト」はディランとジョーン・バエズのデュエットで、二人がアクースティック・ギターで弾き語るだけでなく、それにベースとドラムスが付き、さらに誰だか分らないエレキ・ギターと、さらにデイヴィッド・マンスフィールドのペダル・スティールが入る。

 

 

そのペダル・スティールが絡む「アイ・シャル・ビー・リリースト」がチャーミングなんだよね。完全にカントリー・ナンバーになっていて、ザ・バンドの『ビッグ・ピンク』で聴けるような重たい感じ(あれも好きだが)ではなく一種の爽快な軽みがあっていい。歌詞内容は重い曲なんだけどね。

 

 

関係ないかもしれないが、いろいろある「アイ・シャル・ビー・リリースト」のなかで僕が一番好きなのが、例のボブ・ディラン30周年記念コンサート収録盤にあるクリッシー・ハインドがやったヴァージョン。カッコイイんだよなあ。

 

 

 

「アイ・シャル・ビー・リリースト」に至るまでに、一枚目終盤でアクースティック・セクションがあって、七曲目の「ミスター・タンブリン・マン」「シンプル・トゥウィスト・オヴ・フェイト」「ブロウイン・イン・ザ・ウィンド」「ママ、ユー・ビーン・オン・マイ・マインド」。どれもほぼ古い曲ばかり。

 

 

「シンプル・トゥウィスト・オヴ・フェイト」だけ1975年の『血の轍』からの曲だけど、それ以外は全部10年以上前のいわゆるフォーク時代の曲ばかり。このうち「ママ、ユー・ビーン・オン・マイ・マインド」は91年リリースの『ブートレグ・シリーズ Vo.1-3』で初めて世に出た曲だね。

 

 

その「ママ・ユー・ビーン・オン・マイ・マインド」も「アイ・シャル・ビー・リリースト」同様リズム・セクション+ペダル・スティールの伴奏付きで、ジョーン・バエズとのデュエット。これもカントリー・テイストで楽しくていいなあ。「ブロウイン・イン・ザ・ウィンド」以後の三曲は全部二人のデュエット。

 

 

それらリズム・セクションとペダル・スティールの伴奏が付いてカントリー風で楽しい、完全に変貌した過去曲二曲のバエズとのデュエット再演が、僕にとっては一枚目のクライマックスだなあ。そのアクースティック・セクションの前にスカーレット・リヴェラのヴァイオリンが入る二曲があるけどね。

 

 

スカーレット・リヴェラのヴァイオリンは二枚目でも入り、その二枚目の「オー・シスター」「ハリケーン」「コーヒーをもう一杯」「セイラ」の四曲の方がもっといいし、それら四曲こそが二枚目と言わずこの『ローリング・サンダー・レヴュー』二枚組では最大のクライマックスに間違いない。

 

 

それら四曲に入る前に二枚目でもアクースティック・セクションがあって、古い曲を弾き語りで披露している。そのなかではやはり『血の轍』からの曲である「タングルド・アップ・イン・ブルー」が新しい曲だけど、これもリズム・セクション付きだったのを、ディラン一人の弾き語りでやっている。

 

 

 

再びジョーン・バエズが登場し彼女とのデュエットで、しかもやはりペダル・スティールの伴奏が入る「ザ・ウォーター・イズ・ワイド」。これはスコットランド由来の古い伝承フォーク・ナンバー。いろんな人がやっているけれど、ここではペダル・スティールがやはりいいフィーリングを出している。

 

 

いよいよクライマックスである「オー・シスター」ではじまるセクションに入る前に、「プロテスト・ソングをやってくれ!」というヤジが聞える。ディランは「じゃあ君向けの曲じゃないね」と言って「オー・シスター」をはじめちゃうんだなあ。しかし1975年のアメリカでもまだこんなヤジが飛ぶんだねえ。

 

 

「オー・シスター」からの「セイラ」までの四曲は全部『欲望』からのレパートリー。『ローリング・サンダー・レヴュー』収録の1975年11月のライヴの前に既にスタジオ録音は終えていたらしいが、リリースはその翌年76年のセカンド・レグとの間だったということになる。『欲望』も大好きなアルバム。

 

 

1970年代ディランのスタジオ作では、熱心なディラン・ファンはみんな75年の『血の轍』を最高傑作に推すし、僕もその評価には全くなんの異論もないんだけど、僕にとっては次作76年の『欲望』の方が楽しいんだなあ。スカーレット・リヴェラが弾くヴァイオリンがなんとも魅惑的だしねえ。

 

 

『ローリング・サンダー・レビュー』でも、『欲望』からの数曲ではスカーレット・リヴェラがディランのヴォーカルと並んで主役級の大活躍。聴いていて楽しくてたまらない。特に七曲目の「ハリケーン」と続く「コーヒーをもう一杯」はいいなあ。『欲望』のスタジオ・ヴァージョンよりもいいんじゃないかなあ。

 

 

 

スカーレット・リヴェラが弾く『欲望』セクションが終ると、『ローリング・サンダー・レヴュー』は再び過去曲二つ「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」「天国の扉」で幕引きとなる。後者ではやはりペダル・スティールも入ってそれがいい雰囲気だ。ディラン一座の賑やかな興行を締め括るには相応しい雰囲気だね。

2016/06/26

コルトレーンのモンク・コンボ修業時代

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ユニークなオリジナル・ナンバーをたくさん書いたセロニアス・モンク。そのなかで僕が一番好きなのは「ルビー、マイ・ディア」と「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」の二曲。前者は以前も書いたように初期ブルーノート録音に既にあるもので1947年に初録音。その後も繰返し録音している。

 

 

「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」(ネリーとはモンクの妻の名)の方はいつ頃できた曲なのか分らない。ネリーとは1949年に結婚しているのでその前後なんだろうとしか推測できない。この曲の初録音は1957年6月で、同年にリリースされたリヴァーサイド盤『モンクス・ミュージック』に収録されている。

 

 

『モンクス・ミュージック』には「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」だけでなく「ルビー、マイ・ディア」も入っているからかなり好きなアルバムなんだよね。コールマン・ホーキンス、ジョン・コルトレーンという二人のテナー・サックス奏者も参加しているし、ジジ・グライスのアルトも入る。

 

 

『モンクス・ミュージック』の「ルビー、マイ・ディア」ではコールマン・ホーキンスのテナーがフィーチャーされている。大好きなテナー奏者だもんなあ。ジャズ・テナー奏者としてジャズ初期から活躍する最古参の一人であるホークは、ビバップ以後のモダン時代にも対応した稀な一人だった。

 

 

ちなみにモンクのプロ活動の第一歩は1940年代半ばのコールマン・ホーキンス・コンボでのものだった。だからモンクにとってのホークは恩人であって、『モンクス・ミュージック』でホークを使ったのは、モダン時代にも対応しているという理由以外に恩返しの意味もあったのかもしれない。

 

 

「ルビー、マイ・ディア」は美しいバラードでトラディショナルな雰囲気だから、ホークが吹くのにはピッタリな一曲だ。音源を貼って紹介したいんだけどYouTubeで探してもそのヴァージョンは上がっていないみたいだなあ。残念。モンクがやった他のヴァージョンならいくつも上がってはいるんだけど。

 

 

『モンクス・ミュージック』の「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」の方はしばらくモンクのピアノ演奏が続いた後ホーン群のアンサンブルが出る。ホーン奏者はアレンジされたアンサンブルを奏でるだけでソロは吹かず、もっぱらモンクのピアノだけがソロを弾く。ホーン奏者が入ったモンクのコンボ録音にはそういうのがかなりある。

 

 

『モンクス・ミュージック』の現行CDには「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」の別テイクも入っている。それは「テイク 4/5」と記されていて、アナログ・オリジナル盤から収録されているマスター・テイクが「テイク 6」となっている。大好きな曲だから二つ聴けて楽しいけれど、どっちもあまり変らないなあ。

 

 

『モンクス・ミュージック』に参加しているジョン・コルトレーンは、1957年にマイルス・デイヴィスがファースト・クインテットを解散した後58年に再び参加するまで、モンクのコンボにレギュラー参加していた。この当時のライヴ録音は聴けるアルバムが少ない。僕の知る限りでは二つしかない。

 

 

一つは従来からあった『コンプリート・ライヴ・アット・ザ・ファイヴ・スポット・1958 ・ウィズ・ジョン・コルトレーン』。もう一つは2005年に出た『ウィズ・ジョン・コルトレーン・アット・カーネギー・ホール』。前者はほぼ同タイトルのもので別内容のものがあるから紛らわしいんだなあ。

 

 

それら二つのうち、前者ファイヴ・スポットでのものは1958年録音だからコルトレーンがモンク・コンボにレギュラー参加していた時期の録音ではない。大好きな「ルビー、マイ・ディア」も「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」もやっているし音楽内容はなかなかいいけれど、録音状態はあまり良くない。

 

 

そしてカーネギー・ホールでのライヴ盤の方は長年存在することすら知られていなかった。そもそもコルトレーンがモンク・コンボにレギュラー参加していたまさにその時期のライヴ録音は存在しないんじゃないかと思われていたから、2005年のリリース当時は驚きでジャズ・ファンの間ではかなり話題になっていた。

 

 

カーネギー・ホールでのそのライヴ音源はアメリカ議会図書館に長年録音テープが保管されていたものらしく、これが発見されマイケル・カスクーナが修復してブルーノートからリリースされた時は僕も本当に嬉しかった。だって1957年のモンクとコルトレーンのライヴは、1957年当時生で聴いたファンの間では語り草だったもんね。

 

 

特に同年にファイヴ・スポットで連日繰広げたというモンクとコルトレーンのライヴ・セッションは伝説になっていて、当時生で体験したリスナーは凄かったと言っていたもんねえ。前述1958年のファイヴ・スポットでの録音盤はその当時の録音じゃなくて翌年だからちょっと残念だったんだよね。

 

 

だから1957年のモンク・レギュラー・コンボでのライヴ録音は、2005年リリースのカーネギー・ライヴ盤しか今でも存在しない。これは録音もなかなか良くて中身の音楽内容も素晴しい。当時のことをリアルタイムで知らない多くのジャズ・ファンにとっては、伝説のファイヴ・スポットを垣間見るようなそんな特別な感慨があった。

 

 

そのカーネギー・ライヴ盤に収録されているのはもちろんモンクのオリジナル・ナンバーばかり。大好きな「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」もあるのが嬉しいし、その他「モンクス・ムード」とか「エヴィデンス」とか「エピストロフィー」とか「ナッティ」とか「ブルー・モンク」とか有名曲ばかり。

 

 

コルトレーンが1955年にマイルス・デイヴィスのコンボに参加した頃の演奏はまあ下手くそだったし、以前も書いたようにマイルスのファースト・チョイスはソニー・ロリンズで、ロリンズに断られたので仕方なくコルトレーンになったというだけだった。

 

 

それが1958年に再びマイルス・コンボに参加してからのコルトレーンはまるで別人みたいな目覚ましい吹きっぷりで、最初モンク・コンボ時代のことを知らずマイルスのレコードだけ聴いていた頃の僕は、どうしてこんなに違うのか?なにがあったんだ?と不思議な思いだったんだよね。

 

 

すぐに1957年のモンク・コンボでの「修行」時代が、コルトレーンにとって一種の覚醒というか大きな契機になったといろんな文章で読むことになる。でも当時のモンクのレギュラー・コンボはライヴ録音がなく、スタジオ録音盤ばかりだったので、そのあたりがイマイチ実際の音では実感できなかったのだ。

 

 

それがようやく実感できたのがなんと2005年だったということになる。しかしこれ1957年11月29日のライヴ録音で、前年56年10月にマイルスのファースト・クインテットでの録音があるんだけど、コルトレーンはもう全然違う。短期間でモンクがどう指導したのか知らないが、変る時ってのはこんなに変るもんなんだね。

 

 

この1957年のコルトレーンが参加したモンク・コンボのライヴ録音もっとたくさん聴けたら嬉しいんだけど、録音はこのカーネギー・ライヴしかないんだろう。一説に拠ればコルトレーンのいわゆる<シーツ・オヴ・サウンド>は、モンクの「サックスだって和音を吹けるんだぜ」という言葉がきっかけで誕生したらしい。

 

 

そのカーネギー・ライヴで既に音をびっしりと敷詰めるかのようなそういうシーツ・オヴ・サウンド風のサックス・スタイルが聴ける。典型的には「ナッティ」や「エピストロフィー」でのソロなんかがそうだ。「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」みたいなバラードではしっとりと吹上げている。

 

 

このカーネギー・ライヴ盤でのコルトレーンを聴くと、翌年のマイルス・コンボによる『マイルストーンズ』や自身のプレスティッジへのリーダー・アルバム『ソウルトレイン』なんかとほぼ変らない演奏ぶりなんだよね。モンク・コンボ時代はたったの一年間だけだったけど、目覚ましい進歩ぶりだ。

 

 

僕は音をたくさん吹きまくる・弾きまくるというスタイルの演奏家はどんな音楽ジャンルでも楽器でもイマイチ好みではなく、ピアニストやギタリストでそういうスタイルの人は指が高速・正確に動くという技巧面は素晴しいと感心はするものの、そんなにたくさんの音を費やさなくちゃ物が言えないなんてと思ってしまう人間。

 

 

だけど1958年頃からのコルトレーンだけが、サックス奏者だけど例外的に大好きで、大学生の頃からファンなんだよね。コルトレーンについてよく言われるいわゆる思想性というかスピリチュアルなんちゃらみたいなのははっきり言ってどうでもいいというか、なんのことやら分りもしないんだよね。

 

 

そんなコルトレーンの饒舌なスタイルを、自身のピアノは木訥で寡黙なスタイルの持主だったモンクが開眼させたというのはなんとも面白い事実だよねえ。なおライヴ録音ではなく1957年にモンクのスタジオ録音で吹くコルトレーンは、前述の『モンクス・ミュージック』以外にもう一枚、『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』というジャズランド(リヴァーサイドの傍系レーベル)盤がある。

2016/06/25

ユッスーの1987年アテネ・ライヴが素晴しい

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ちょっと前(だいぶ前?)の『レコード・コレクターズ』誌輸入盤紹介コーナーで荻原和也さんが紹介されていて、僕はそれで出ているのを初めて知ったユッスー・ンドゥールの1987年アテネでのライヴ録音盤『ファテリク』。これが素晴しい。荻原和也さんに感謝します。ありがとうございます。

 

 

これが『レコード・コレクターズ』輸入盤紹介のコーナーに載っていたわけだから、『レコード・コレクターズ』といい『ミュージック・マガジン』といいその他といい、やっぱり海外盤紹介のページしか役に立たんよなあ。まあこれは前も言ったけれど。日本盤が出るものなんて本当にごく一部だもんね。ヴェトナム人女性歌手レー・クエンなんか見たことないよ。

 

 

ユッスーの『ファテリク』だって僕はその荻原さんの記事しかいまだに見たことないんだけど、他に話題にしている人っているのかなあ?レー・クエンだって荻原さんしか話題にしないじゃないか、紙メディア上では。ネット上にはブログなどで少しいるけれど。いや、別にそんなグチを書きたいわけじゃない。

 

 

僕が今日書きたいのはそのユッスー1987年アテネ・ライヴが最高に素晴しいってことだ。『レコード・コレクターズ』で荻原さんがどういう紹介をされていたのか忘れてしまったけれど(読直せばいいんだけどさ)、僕が買った紙ジャケCD附属のブックレットにそこそこ詳しい英語の文章が載っている。

 

 

『ファテリク』は正確にはユッスー・ンドゥール・エ・レ・シュペール・エトワール・ドゥ・ダカール名義で、全六曲約50分。この時のユッスーは、どっちがメイン・アクトだったかは分らないが、ピーター・ゲイブリエルとライヴ・ステージを分け合ったようだ。

 

 

ご存知の通りピーター・ゲイブリエルはユッスーをある意味「見出して」世界に紹介した立役者みたいな人で、ゲイブリエルが最初にユッスーを観たのは1980年のパリでのことだったとブックレット解説に書いてある。ユッスーの本格デビュー前のことだ。

 

 

と言ってもユッスーの「本格デビュー」を何年としたらいいのかは僕にはよく分らない。彼がエトワール・ドゥ・ダカールに加入したのが1979年らしく、当時ユッスー18歳。エトワール・ドゥ・ダカールは79年結成との情報があるけれど、それが本当ならユッスーの加入はその直後だったことになる。

 

 

しかしエトワール・ドゥ・ダカールの結成が1979年というそのネット上の情報はオカシイんじゃないだろうか。いやホント正確な情報が探しても見つからないからちゃんとしたことは言えないんだけど、エトワール・ドゥ・ダカールは、名前は違うのかもしれないが1970年代初めには活動をはじめていたんじゃないかなあ。ユッスー加入時の79年には既に人気バンドだったはず。

 

 

それでも1979年に加入してすぐにユッスーが実力を発揮しはじめ、80年代初期には独立してバンド名をシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールに変更して事実上ユッスーがリーダーのバンドになる。タマ(トーキング・ドラム)のアッサ・チャムはその頃からの盟友にして欠かせない重要人物。

 

 

そしてユッスーの本格デビューは1984年の『イミグレ』で、ここからがユッスーの世界的快進撃のはじまりということになるんだろう。ってことはピーター・ゲイブリエルがパリで1980年に初めて観たというユッスーのステージはやはりまだ本格デビュー前ってことだなあ。その頃の音源もある。

 

 

『ユッスー・ンドゥール・エ・レ・シュペール・エトワール』というタイトルの四枚バラ売りのCDシリーズがあって僕も持っているのだが、これらが1980年代初期の音源集らしい。しかし84年の『イミグレ』以前にCDにして四枚分も録音があったのだろうか?う〜ん、あるってことなんだろうね。

 

 

その四枚シリーズのシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールの音源集ではヴォーカルがユッスーじゃない曲もある。しかしこりゃもうどう聴いてもユッスーに聴き劣りする。それら四枚は1984年『イミグレ』以前の1981〜83年あたりの録音集だと思うんだけど、既にユッスーの存在感が抜群だ。

 

 

だから1980年のパリでのユッスーのライヴを聴いてピーター・ゲイブリエルが魅了され、その後セネガルのダカールに通うようになったという話も納得なのだ。そんなゲイブリエルの87年アテネでのライヴに招かれたのかどうか知らないが、ユッスーのその時のライヴ録音『ファテリク』。

 

 

1987年のユッスーというとアルバム『ザ・ライオン』くらいまではリリースされていたんじゃないかなあ。だって87年アテネ・ライヴの『ファテリク』では『ザ・ライオン』収録曲の「コック・バルマ」を歌っている。一曲目がお馴染み「イミグレ」だし、それ以外にもいろいろと既存曲を歌っている。

 

 

1985年リリースのアルバム『ネルソン・マンデラ』からもアルバム・ラストのタイトル曲の「ネルソン・マンデラ」と一曲目の「ンドビネ」を採り上げて、『ファテリク』になった87年アテネ・ライヴで歌っているもんね。『ファテリク』五曲目の「サマ・ドム」は『ザ・ライオン』八曲目の「サマ・ドゥーム」と同じ曲だ。

 

 

『ファテリク』ラストの「イン・ユア・アイズ」はピーター・ゲイブリエルと一緒に歌う。というよりもこれはゲイブリエルのバンドにユッスーがゲスト参加した曲で、ゲイブリエルがユッスーを発掘して名を広めた功績には敬意を表するものの、はっきり言って1987年のゲイブリエルのバンドとヴォーカルは聴いても聴かなくてもいいような。

 

 

だから『ファテリク』ではゲイブリエルとのジョイントになるラスト六曲目の「イン・ユア・アイズ」より前の五曲、ユッスーとシュペール・エトワール・ドゥ・ダカール単独の演唱が素晴しいのだ。これはもう本当に聴いていてユッスーの伸びやかで張りのある声といいバンドの躍動感といい文句なしなんだなあ。

 

 

ユッスーの最高傑作アルバムは1990年の『セット』だということになっていて、それには僕も全く異論はないし、個人的好みだけならそのちょっと後くらいが好き。だけれどもそのちょっと前、80年代後半のものがかなりいいよなあ。ユッスーが20代後半という年齢でヴォーカリストとして若くて一番ピチピチ・キラキラ輝いていた時期だから。

 

 

その1980年代後半のアルバムのなかでは89年リリース(ということになっているが?)の『ザ・ライオン』が個人的には一番好きだ。その頃に近いユッスーとシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールのライヴ録音が残っていたなんてね。しかも良い録音状態だし、嬉しい。

 

 

1987年アテネ・ライヴの『ファテリク』では書いているように単独では五曲やっているのだが、どれもこれもユッスーやバンドのサウンドが跳ねていて魅力的。先行する(はずの)スタジオ録音ヴァージョンも持っているから聴き比べてみると、どれもアテネ・ライヴの方が活き活きとしている。

 

 

『ファテリク』の時のバンドはユッスーを除き演奏者は八人で、それ以外にダンサーが一人いるから全部で十人編成。ハビブ・フェイエ(ベース&キーボード)やアッサ・チャム(タマ)などお馴染みの主要メンバーももちろんいるし、それ以外の面々もユッスーのバンド常連の人達による熟練の演奏。

 

 

ユッスーが自分のバンドでやる音楽を「ンバラ」と名付けたのがいつ頃なのか知らないが、そのンバラの最高傑作である1990年の『セット』で聴ける音楽スタイルは、この87年アテネ・ライヴで既に完成している。そして僕はやっぱりライヴ・アルバム好きなんだよなあ。

 

 

ライヴ録音にはスタジオ録音ではどうやっても出せない生のグルーヴ感があって、それが1970年代アメリカ産ファンク・ミュージックでもそうなんだけど、この80年代後半のユッスーのバンドによるンバラでもやはり同じなんだなあ。当時28歳だったユッスーの声も伸びやかで文句なしに素晴しいよ。

 

 

だいたいユッスーってライヴ・アルバムが少ないというか殆どないんじゃないのかなあ。今まで僕がCDで持っているのはやはりシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールの名前が出ている『ル・グラン・バル Vol.1 & 2』の一枚だけだった。何年のライヴかどこにも書かれていないのが残念だけど。

 

 

でも収録曲のレパートリーと、これは明記されてあるバンド・メンバーの顔ぶれと、出てくる音とユッスーの声から推測して、『ル・グラン・バル Vol.1 & 2』もやはり1980年代後半かもなあ。このライヴ・アルバムCDはおそらくオリジナルはカセットテープで発売されたものをCD化したもの。

 

 

それ以外には『ライヴ・アット・ユニオン・チャペル』という2002年のロンドン・ライヴを収録したDVDを持っていただけだ、僕の場合は。それら二つのライヴCDとDVD以外で、今までユッスーのライヴ・アルバムって出ているのだろうか?僕が知らないだけか?セネガル現地でなら売っているのか?

 

 

う〜ん、まあそのへんはセネガルの、といううかアフリカ・ポピュラー・ミュージックのマーケットのことについて全く無知な僕にはどうにも分らないし、現地リリースとワールド・リリースとの食違いが今でもあるみたいだし、どうにもならんよなあ。僕は完全に他力本願の甘ったれリスナーだから日本で買いにくいものはほぼ買う気がない。

 

 

それでも『レコード・コレクターズ』誌で荻原和也さんが紹介して下さって、それでアマゾン・ジャパンで探したら簡単に買えて(そこはピーター・ゲイブリエルのおかげか?)、もう何ヶ月も楽しんでいるので嬉しい。ユッスーは今年三月に新作もリリースしたらしく、それも入ってくれば買うだろうけれど、それよりも1980年代後半〜90年代前半の録音がもっとあるのなら、そっちをもっと聴きたいなあ。

2016/06/24

アンチな人が多いマイルスの『ビッチズ・ブルー』で聴けるジガブー風ドラミング

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僕が一番好きな音楽家マイルス・デイヴィス。彼のことはあまり好きじゃないとか、あるいはかなり積極的に嫌いだとかアンチだとか、そういう音楽ファンは結構たくさんいて、僕も昔からそういう人に大勢出会ってきたので、そういうことを面と向ってはっきり言われても今では別になんとも思わない。

 

 

音楽の好みなんてのは本当に十人十色、人それぞれバラバラなんだから、自分がどんなに愛している音楽家についてだって嫌いだ、アンチだという人はいるわけで、その逆にこんなものどこがいいんだ?と自分では思うような音楽についてだって大好きだというファンは必ず存在する。そんなの当り前のことじゃないか。

 

 

僕のマイルス愛は異常なわけだけど、みんな人それぞれ他人から見たら狂っているだろうというような愛好具合の音楽家がいるはずだ。マイルスの場合はジャズだけではなくアメリカ・ポピュラー音楽界での存在の大きさゆえに、アンチなファンも無視はできず、それがかえって一層苛立ちのもとになっているはず。

 

 

1990年代後半にネット上で頻繁にやり取りしていた小川真一さんもマイルスはどこがいいんだか分らない、好きなのは『マイルス・イン・ザ・スカイ』と『ドゥー・バップ』だけだとか、椿正雄さんははっきり言ってかなり嫌いだけどこの評価の高さ具合からしてきっとなにかあるんだろうとか言っていたもんね。

 

 

これが同じモダン・ジャズ・トランペッターでもクリフォード・ブラウンとかになると嫌いだとかアンチだとかいう人はいないはずだ。そうなりようがないジャズマンだね、ブラウニーは。ブラウニーが嫌いだという人がもし仮にいるんだとすれば、それは単に音楽嫌いだというだけの話だろう。

 

 

マイルスの場合は、嫌いだとかアンチだとかいう人の多くはきっと1969〜75年までの電化ロック〜ファンク路線のあの時代がかなり積極的に嫌いなんじゃないかという気がする。それは僕もなんとなく分る気がするのだ。そういえば以前菊地成孔が「マイルスは69〜75年の間狂ってただけの人です」と言っていたなあ。

 

 

普段は頷けるマトモな発言が少ない菊地成孔だけど、この発言には僕も全面同意。菊地の言う「狂ってた」というのはもちろん褒め言葉で、それは彼の音楽作品を聴けばよく分る。菊地の一部の作品、特にデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンなんかは電化マイルスそのまんまだもんね。

 

 

以前の繰返しになるけれど菊地成孔は音楽作品はいいものがあるんだ。デートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンもいいよね。僕も菊地成孔も大の電化マイルス・ファンで、菊地は1969〜75年のマイルスに私淑しているような音楽家なんだから、そのせいもあって僕には一層悪くないように聞えるんだなあ。

 

 

菊地成孔の話はおいといてマイルスの、特に1969年8月録音翌70年3月リリースの二枚組『ビッチズ・ブルー』。あれなんかはアンチ・マイルス・ファンを産み出す最大の原因となっているアルバムじゃないかなあ。全体的にどうも大上段に構えすぎみたいな大袈裟なところがあるし、嫌いな人が多いはず。

 

 

音を聴けば嫌いなのに評価があまりにも高すぎて、しかも当時かなり売れた(ビルボードのジャズ・チャート一位、ポップ・チャートですら二位)から、そのせいで無視して通り過ぎることもできず、目障りで目障りで仕方がないだろう。その気持は分るんだ、僕にとってのキング・クリムズンがそうだから。

 

 

キング・クリムズンは僕はかなり積極的に嫌いで、特に記念碑的作品とされる『クリムゾン・キングの宮殿』が大嫌い。どこがいいんだかサッパリ分らない。『太陽と戦慄』とか『レッド』とかライヴ盤の『USA』とかの方がまだマシなように思う。でもあれらもやっぱりイマイチだなあ。いや、キング・クリムズンの話をするつもりはない。

 

 

マイルスの『ビッチズ・ブルー』。日本のジャズ・マスコミの間でも「ジャズの世界を大きく変革した超大傑作」で、ジャズだけでなくその後のポピュラー音楽全般に甚大な影響を与えた時代を超える普遍的作品とされてきている。僕が熱心に音楽を聴きはじめた1979年にはこの評価は定着していた。

 

 

でもいろんな方のいろんな文章を読んでも、どうも『ビッチズ・ブルー』はちゃんと理解されていないのではないかと思えてならなかった。それはこの二枚組を最高に高く評価していた油井正一さんの書くものですらそういう印象があった。特に『ジャズの歴史物語』のなかでの文章はオカシイね。

 

 

同書での油井さんいわく、このアルバムのリズムはロックのリズムではない、トニー・ウィリアムズ時代にビートというより一種のパルス感覚にまで行着いたマイルスがロックなんかに手を出すはずがない、マイルスはそんな野暮天(という言葉を油井さんは使っている)じゃないんだと強調しているよね。

 

 

そして油井さんは『ビッチズ・ブルー』のリズムはロックではなく、二枚目B面一曲目のタイトルにあるように、寄せては返すヴードゥーのリズムなんだと『ジャズの歴史物語』のなかで書いているんだけど、いくら敬愛する油井さんの言葉でもこりゃちょっと受入れがたいものがあるなあ。

 

 

同じ本のなかで油井さんは「ビバップとR&Bには共通項がある」とまで書いている慧眼なのに、どうしてロックやファンクが理解できなかったんだろう?ちょっと不思議だ。『ビッチズ・ブルー』はどう聴いたって1969年8月という<あの時代>の、同時代的共振の産物なんだとしか思えないんだなあ、僕には。

 

 

それに比べたら言っている中身は全然共感できないんだけど、「電化サウンドに対する生理的嫌悪感を越えてあまりある説得力は『ビッチズ・ブルー』にもないと思いたい」と『ジャズ・レコード・ブック』のなかで書いていた粟村政昭さんの方がまだ素直で正直で理解しやすいような気がしちゃう。

 

 

その粟村さんも「思いたい」ってことは、『ビッチズ・ブルー』の評価の高さや存在の大きさを無視し切れないという意味ではあるんだろう。そして油井さんや粟村さんのこの種のメンタリティは、表現のスタイルを変えてもその後ずっと続いているんだよね。あの中山康樹さんだってそうなんだなあ。

 

 

中山さんも著書『マイルスを聴け!』の『ビッチズ・ブルー』の項でわざわざ「怖がることはない」などと書いてあるところを見ると、中山さんのなかに畏怖の念みたいなものがあるか、あるいはそれがないとしても、一般のファンがいまだにその種の気持をあのアルバムに対して抱いているのを意識したってことに他ならない。

 

 

しかし中山さんよりちょうど十歳年下の僕にだって似たような気分はある。僕が1979年に熱心にジャズを聴きはじめた頃には、まだ1960〜70年代前半あたりの日本のジャズ・ファンやジャズ・ジャーナリズムの残滓が強く残っていて、僕も好むと好まざるにかかわらずその衣をまとっってきたのは間違いない。

 

 

その証拠に1998年に『ザ・コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』ボックスのリリースに伴って『レコード・コレクターズ』誌が特集を組んだ際、編集部の方に『ビッチズ・ブルー』について書いてくれないかと依頼された僕は、ちょっとそれだけは勘弁してくれと断ってしまったんだよね。

 

 

『ビッチズ・ブルー』について公の雑誌に載る文章を書くのを怖がるってことは、あのアルバムについてちゃんと語れるような人間はいまだに日本にはいないはずだというような畏怖の念を間違いなく僕も持っているってことだ。少なくとも1998年頃までそうだったことは疑いえない事実だ。

 

 

しかしながらこれは『ビッチズ・ブルー』が難解で恐ろしく全く楽しめないアルバムだと思っている(いた)という意味ではない。「理解している人間は日本にはまだいないんだ」というようなことを書いたけれど、僕は僕なりに理解して楽しんでいるつもりなんだよね。大学四年生の終りの三月お彼岸の頃からそうなんだ。

 

 

三月お彼岸ってえらい具体的だなと思われるだろうけど、ある種の目覚めみたいなものがあったのを今でも鮮明に憶えているからなんだよね。先祖の墓参りを済ませたよく晴れた三月の午後、自宅に戻ってきてなぜだか『ビッチズ・ブルー』が聴きたくなって二枚目をかけてみて、突然その瞬間がやってきた。

 

 

『ビッチズ・ブルー』二枚目A面一曲目の「スパニッシュ・キー」。その時あれを聴いて、こりゃいいね!凄くファンキーでグルーヴィーでカッコイイじゃないか!と激しく感動したんだよね。なんだか曲全体が好きになったし、特にそのなかでマイルスが吹くオープン・ホーンのトランペットが素晴しいと。

 

 

「スパニッシュ・キー」はスパニッシュ・スケールを使った曲で、だからこの曲名なんだけど、しかし聴いた感じは特にスペイン風な感触はない。『スケッチズ・オヴ・スペイン』以来のマイルスお得意のスペイン風味は薄くしか感じないなあ。ボス同様にスパニッシュ好きなチック・コリアの弾くエレピが若干そうかなと思う程度。

 

 

しかしなんだかホント突然だったんだなあ、お彼岸のお墓参りを終えた後の自宅で突然。それでなんだかピンと来てみたら、二枚目B面の「マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」もこりゃ最高のファンク・ナンバーじゃんと聞えるようになった。今ではこの曲こそが『ビッチズ・ブルー』のクライマックスだと思うね。

 

 

「マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」では、アルバム中この曲でだけドン・アライアスがドラムスの主導権を握っている。アルバムの全曲で右チャンネルがジャック・ディジョネット、左チャンネルがアライアスなので判別は容易。「ヴードゥー・ダウン」では左チャンネルのドラムスから曲の演奏がはじまって、その後も最後までリードしているもんね。

 

 

アライアスの回想では「マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」でだけなぜだかディジョネットがマイルスのほしいフィーリングが出せず、それでお前が叩いてみろと言われたんだそうだ。ブート盤でオリジナル・セッション音源を聴くとそれはよく分る。ディジョネットが主導権を握って叩く未完成テイクでは全然ノリが違う。

 

 

「マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」は1969年8月のスタジオ録音前からいわゆるロスト・クインテットのライヴで頻繁に演奏されてきた曲。もちろんドラムスは全部ディジョネット一人。聴き慣れない人がボーッと聴いていると『ビッチズ・ブルー』収録のと同じ曲だと分らないかも。特にリズム・パターンとノリのグルーヴィーさ加減がガラリと違う。例えばこういうの。

 

 

 

『ビッチズ・ブルー』ヴァージョンの「マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン」の方も貼っておこう。 冒頭のドン・アライアスのドラミングを聴いてくれ。同じ1969年頃のミーターズのジガブー・モデリステによく似ているじゃないか。

 

 

 

ジガブーみたいな間の多いスカスカな独特のグルーヴ感で、実際マイルスは「ニューオーリンズ的フィーリングがほしかったんだけど、ディジョネットにはそれが出せなかったからアライアスにしてみた」と語っている。この曲ならファンク・ファンにもウケそうじゃないか。

 

 

というわけで中山康樹さんの真似をして言うと、みなさん怖がらずに『ビッチズ・ブルー』(『ビッチェズ・ブリュー』じゃないよ!ソニーの関係者さん、そろそろちゃんとしてください!)を、特に二枚目を聴いてほしい。一枚目がまだ従来のジャズ風な面影を引きずっているのに比べ、二枚目は明快にロック〜ファンクな音楽になっているもんね。

2016/06/23

ソウル・シスター和田アキ子

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最近はすっかり歌が下手になったように思う和田アキ子。かつては僕も大ファンだった歌手なんけど、もうファンはやめちゃった。だってテレビの歌番組で聴いてみても、声が出ていないし音程もフラフラして不安定だし全体的に表現力もなくなって、どうにも聴けないよなあ。大晦日にもあの鐘を鳴らしてばかり。関係ないけど、津軽海峡を渡るか天城を越えてばかりの人もいるよね。

 

 

これはもうやめたらしいけれど長年の喫煙癖のせいと、今でもで続けているらしいへヴーな飲酒などの夜遊びなどのせいで喉が荒れちゃったってこともあるんだろうなあ。それに加えて近年はどうも歌手業よりテレビのバラエティ番組出演などを中心にやっていて、歌の方は精進しないせいなんだろうなあ。

 

 

どんなに素晴しい才能があって輝いている人でも節制せず精進を怠って年月が経つとダメになってしまうといういい例だろうなあ。これは音楽家だけでなくどんな仕事でも同じだ。僕もそうならないように気を付けてはいるつもりなんだけどいささか怪しい。これが芸が勝負の世界となればなおさらだろう。

 

 

僕は別に和田アキ子の悪口を書きたいわけではない。彼女はかつては本当に素晴しい歌手だった。特に1968年(昭和43年)にデビューした頃の和田アキ子は<待望の和製R&B女性歌手>のように言われていて、実際歌にパンチがあって迫力満点でソウルフルで文句なしのレディ・ソウルだった。

 

 

デビュー前の和田アキ子は中学生の頃からアメリカ黒人R&B〜ソウル歌手ばかり聴きまくっていて、レイ・チャールズ、オーティス・レディング、アリサ・フランクリンなどのレコードを聴いてコピーしていたらしい。リトル・リチャードや、白人だけどエルヴィス・プレスリーなども好きだったようだ。

 

 

ジミ・ヘンドリクスも好きだったという話もあるんだけど、これは作り話じゃないかなあ。だってジミヘンのデビュー・アルバム『アー・ユー・エクスピアエリエンスト』は英国で1967年にリリースされたものだからだ。代表作である二枚組LP『エレクトリック・レディランド』なんか翌68年リリースの作品だもんね。

 

 

しかもその1967年とか68年とかいうジミヘンのレコード・リリースは英国や米国での話であって、その頃は現在と違って洋楽のレコードが日本に入ってくるまで少し時間差があったもんね。和田アキ子のデビューが68年であることからして、デビュー前からジミヘン・ファンだったとはちょっと考えにくい。

 

 

和田アキ子の歌い方を聴いても、レイ・チャールズとかオーティス・レディングとかアリサ・フランクリンとか、あるいは彼女自身はあまり名前をあげないがはっきりと分るジェイムズ・ブラウンなどからの影響は鮮明に聞取れるけれど、ジミヘンのあの乱暴に喋って投げつけるような歌い方は聴けないもんね。

 

 

だから初期和田アキ子への最大の影響源はやっぱりアメリカ黒人R&B〜ソウル歌手だ。そして上手かった頃の彼女のそういったソウルフルな歌がコンパクトに一枚にまとまっているコンピレイション盤がある。ワーナー・ジャパンがリリースした『Dynamite Soul Wada Akiko』というアルバムだ。

 

 

『Dynamite Soul Wada Akiko』はどこにも全く書かれていないのだが、コモエスタ八重樫の選曲・編集で1996年にリリースされたもの。アルバム・ジャケットを見ただけでニンマリしちゃうんだよね。上掲画像をご覧になれば分る通りアトランティックのロゴをそのままもじっているんだなあ。

 

 

アトランティックのロゴは左にAの文字、右に風車のようなものが描かれて二つに分れているのを長方形で囲み、その下に “ATLANTIC” の文字をあしらったもの。『Dynamite Soul Wada Akiko』には、そのロゴをそのままAとWの文字に置換えただけのものが描かれている。

 

 

さらにその下に “ATLANTIC” の代りに “DYNAMITE” と書かれてあって笑える。そのAとWで作ったアトランティック風ロゴがジャケット表だけでなくジャケット裏にも、そして入っているブックレットの裏にも大きく描かれているという具合なんだよね。アメリカ黒人音楽ファンならニンマリだ。

 

 

そんなジャケット・デザインでのアメリカ黒人音楽トリビュート的な遊び心だけじゃないよ。『Dynamite Soul Wada Akiko』の中身の音楽が凄いんだ。収録曲は一番古いのが1968年のシングル曲「バイ・バイ・アダム」で一番新しいのが75年の「見えない世界」まで全14曲。

 

 

これら全14曲がどれもこれもソウルフルでパンチの効いた歌ばっかりで、最近のテレビ・バラエティやあるいは歌番組ですら、そういう和田アキ子の姿と声しか知らなかったら間違いなく腰を抜かすね。こんなに凄い歌手だったんだって見直すに違いない。ホント1970年代前半までの和田アキ子はいい。

 

 

『Dynamite Soul Wada Akiko』。中心になっているのはやはり和田アキ子に提供されたオリジナル曲で、有名な「どしゃ降りの雨の中で」は1969年のオリジナル・シングル・ヴァージョンと70年12月のライヴ・ヴァージョン(『和田アキ子オンステージ』)の両方を収録。

 

 

オリジナル・ヴァージョンの「どしゃ降りの雨の中で」は『Dynamite Soul Wada Akiko』ラストに収録されているのだが、三曲目にある70年のライヴ・ヴァージョンはもっと凄い。オリジナルではオルガンの音からはじまるけれど、ライヴ・ヴァージョンではソウルフルなホーン・アンサンブルではじまり、それに乗って和田アキ子が歌う。

 

 

テンポというかリズムのノリもオリジナルとライヴでは違っていて、オリジナルではややゆったりとしたノリなのに対し、1970年のライヴ・ヴァージョンはテンポも少し変えグッと重心を落したグルーヴィーなブラック・ミュージックのノリになっている。誰がアレンジしたのか「不明」となってているのが残念だなあ。

 

 

そのライヴ・ヴァージョンの「どしゃ降りの雨の中で」はたったの1分45秒しかなくて、本当に瞬く間に終ってしまうんだなあ。三分とか五分とかあればもっと楽しかった。最高にグルーヴィーだから何分間続けて聴いたって気持いいよ。ライヴ盤から収録されているものでは「夏の夜のサンバ」も凄い。

 

 

アルバム九曲目の「夏の夜のサンバ」は1973年12月の『和田アキ子リサイタル』からのもの。聴いているとサウンドやリズムもグルーヴィーでカッコいいけど、歌詞もヤバイ。「ぎらぎら太陽が沈んだら、男と女はハッシッシ」って歌っている(ようにしか聞えない)んだけど、ハッシッシって(笑)。

 

 

「夏の夜のサンバ」の歌詞を書いたのは阿久悠なんだけど、ハッシッシって言っちゃっていいのか?あるいはあのハッシッシのことじゃないのか?まあエリック・クラプトンなんかも「コケイン、コケイン」とリピートしていたりするからいいのかな。まあ歌詞の意味の中身なんかどうでもいいけれどさぁ。

 

 

『Dynamite Soul Wada Akiko』に収録されているのはオリジナル曲ばかりでない。アルバム中盤にあるライヴ・セクションみたいなもののなかにカヴァー曲が三つ立て続けに収録されている。「スピニング・ウィール」「黒い炎」「パパのニュー・バッグ」の三曲。

 

 

三曲とも洋楽ファンならよく知っているものばかりだよね。「スピニング・ウィール」はブラッド、スエット&ティアーズが、「黒い炎」はチェイスが、「パパのニュー・バッグ」はジェイムズ・ブラウンが、それぞれ創って歌ったものだ。それらを英詩のまま歌う和田アキ子がこれまた最高にカッコイイんだなあ。

 

 

以前誰だったか(プロの方ではない)が、和田アキコの歌う英語の歌は発音がどうにも下手くそで聴いていられないと言っていたことがあった。全然そんなことないよ。まあ上手いとも言いにくい英語だけど、決して下手ではない。少なくとも以前酷評した阿川泰子その他よりは断然上手だぞ。

 

 

それに英語が下手なだけでなく歌い方やサウンドがカッタルイ阿川泰子その他とは違って、和田アキ子の歌うそれら三曲の洋楽カヴァーは完全なるファンキー・ソウルで、バンドの演奏もグルーヴィーなら和田アキ子の歌もノリが良くて、少々英語の発音がおかしくたってなんの問題もないぞ。

 

 

いわゆるブラス・ロックに分類されるブラッド、スウェット&ティアーズの「スピニング・ホイール」(とパッケージに書いてあるけれど、本当の音は「ウィール」)とチェイスの「黒い炎」のカヴァーは僕も前から知っていたんだけど、ジェイムズ・ブラウンを歌っているのは知らなかった。

 

 

以前これも誰だったか(これはプロの方)忘れちゃったけど、ジェイムズ・ブラウンの歌は「ハッ!」と「アッ!」と「ウッ!」の三つだけでできていると笑っていたんだけど、もちろんそんなことはなくてJBもちゃんと歌っているのだ。そしてこれはむしろ和田アキ子に当てはまる言い方だよねえ。

 

 

だってテレビでモノマネ芸人がよくやるじゃないか。和田アキ子の真似をして「ハッ!ハッ!」としか言わないじゃん(笑)。彼女ももちろんちゃんと歌っているけれど、本当にこの種の合の手の気合の叫びみたいなのが多い歌手だよね。『Dynamite Soul Wada Akiko』でも頻繁に出てくる。

 

 

『Dynamite Soul Wada Akiko』のなかで一番グルーヴィーでソウルフルでカッコイイと感心するのは10曲目の「古い日記」だなあ。収録されているのは1974年のオリジナル・シングル・ヴァージョン。ドラムスがファンキーな叩き方で、コンガがポンポンと鳴って気持良いグルーヴ。

 

 

まあしかしアレだ、1996年にコモエスタ八重樫が『Dynamite Soul Wada Akiko』みたいなのをコンパイルしてワーナーがリリースしたのは、間違いなく例のレア・グルーヴ・ムーヴメントの一環だよなあ。以前も書いたようにこの種のものにはあまりハマらなかった僕の少数の例外だなあ。このアルバムはなかなかいい編集盤だし、黒いものが好きな洋楽ファンにもオススメ。

2016/06/22

サッチモのリズム&ブルーズ

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以前ルイ・アームストロングにリズム&ブルーズ・アルバムがあるようなことを書いた。シリアスなジャズ芸術というものを信じている多くのサッチモ・ファン(例えば戦後のエンターテイナー的サッチモをクソミソに貶した生前の粟村政昭さんなど)には、到底受入れがたい事実だろうけどね。

 

 

それが1970年にフライング・ダッチマンに録音、同社から同年にリリースされた『ルイ・アームストング・アンド・ヒズ・フレンズ』。このタイトルはやや混乱を招きやすい。というのもしばらくして米RCAから同内容のアルバムが『ワット・ア・ワンダフル・ワールド』のタイトルで出たからだ。

 

 

このアルバムにはオリジナルは1967年録音の「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」の再演があり、晩年のサッチモ最大のヒット曲なので、それで米RCAはこれをアルバム・タイトルに持ってきたんだろう。僕が現在持っているフライング・ダッチマン盤をそのままリイシューした英バプリシティ盤CDは『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』のタイトルだ(上掲写真左)。

 

 

それと同内容の前述のRCA盤『ワット・ア・ワンダフル・ワールド』(曲順が違うだけ)のリイシューCDは上掲写真中。しかもこのタイトルは、「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」オリジナル1967年ABCヴァージョンを収録したデッカ盤にもあって(上掲写真右)、これは全然関係ない別内容のアルバムなんだよね。サッチモの「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」といえば普通はそのデッカ盤だけど、かなり紛らわしいことになっているなあ。

 

 

ともかく1970年の『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』。一曲目がピート・シーガーでお馴染みの古い伝承ゴスペルの「ウィ・シャル・オーヴァーカム」。これこそがこのアルバムの聴き所だから、米RCA盤は曲順が違っていてこれが一曲目じゃないので、ちょっとイカンなあ。

 

 

このアルバムの録音は1970/5/26〜29。サッチモは翌年七月に亡くなっていて、これは彼の最後から二番目のアルバムだ。といっても次作で最後のアルバムであるカントリー・ソング集『ルイ・アームストロング・アンド・ザ・ナッシュヴィル・キャッツ』はいまだにCDリイシューされていないはず。

 

 

実を言うと僕はそのカントリー・ソング集『ルイ・アームストロング・アンド・ザ・ナッシュヴィル・キャッツ』は一度も聴いたことがないまま現在に至っている。ナッシュヴィルという言葉がタイトルに入っているし、だからカントリー・ソング集らしいし是非聴いてみたいんだが、どこかCD化してくれ!

 

 

だから僕(とおそらく多くのファン)にとっては『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』が実質的にはサッチモの生涯ラスト・アルバムということになる。実際バプリシティ盤の裏ジャケットにも “final album” という言葉があるし、生誕70周年目の録音と書いてある。

 

 

もっともその「生誕70周年目」というのは、今では間違いであることが分っているんだけどね。長年サッチモは1900年生まれとされてきた。20世紀アメリカ音楽界最大のイコンである人物が1900年生まれとはなんと分りやすく象徴的な人なんだと僕も思っていたわけだけど、近年の研究ではこれは間違い。

 

 

1980年代末頃だったかある研究家がサッチモの洗礼記録を調べて、それで彼の誕生日は本当は1901年8月4日であることが判明し、その後はあらゆる記述がそれに修正されている。そうではあるものの、1900年のしかも7月4日生まれ(笑)という長年信じられてきた伝説の方がなんだかいいなあ。

 

 

ちょっと前置が長くなった。そんなサッチモの(事実上の)ラスト・アルバム『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』一曲目の「ウィ・シャル・オーヴァーカム」。これを録音した1970年当時ならやはり公民権運動の名残みたいなものがあって、それでこれをチョイスしたんだろうなあ。

 

 

それに1970年頃はジャズやロックや黒人音楽、なかでもロック系音楽家が「愛と平和と反戦」みたいなメッセージを掲げてそんな歌をいろいろ歌っていた。後で触れるつもりだけどジョン・レノンの「ギヴ・ピース・ア・チャンス」だって『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』にはあるんだよ。

 

 

だから「ウィ・シャル・オーヴァーカム」は(米RCA盤と違って)やはりこのアルバム一曲目じゃなくちゃね。この曲だけでなく殆どの曲で大編成の管弦楽オーケストラが、ポピュラー・ミュージックのリズム・セクションとともに盛大に入っていて、豪華で賑やかな伴奏を聴かせてくれるものいい。

 

 

また「ウィ・シャル・オーヴァーカム」ではこれまた大編成のまるでゴスペル・クワイアみたいなヴォーカル・コーラスが入っている。その中にはボビー・ハケット、ルビー・ブラフ、トニー・ベネット、チコ・ハミルトン、エディ・コンドン、オーネット・コールマン、そしてなんとマイルス・デイヴィスがいる。

 

 

マイルス・デイヴィスの名前には驚くよねえ。以前マイルス関係の記事で1975年の一時隠遁までの彼は他人の音楽作品にゲスト参加したことは滅多になかったと書いた、その「滅多に」というのはこのサッチモの録音があることが念頭にあったからだ。そして僕の知る限りではおそらくこれが唯一。

 

 

しかもトランペットならまだしもバック・コーラスだもんなあ。ご存知の通りマイルスはあのしわがれ声だから、あれで歌うなんて、しかも1970年当時の尖っていたマイルスがいくら敬愛してやまないサッチモの録音にではあるとはいえ、ちょっと考えられないねえ。もちろんマイルスは生れついてのあんな声ではない。

 

 

マイルス・ファンならみんな知っていることだけど、何年頃だったか確か1950年代初頭に声帯ポリープの手術をして入院し、医者から一週間は絶対に声を出してはいけないぞと厳命されていたにもかかわらず、病室を訪れた見舞客にかなり腹の立つことを言われ、それで思わず怒鳴ってしまい喉を潰しちゃったんだよね。

 

 

たった一枚だけ、その声帯ポリープ手術前のキレイな声のマイルスを聴けるレコードがある。タッド・ダメロンのバンドに参加した1949年のライヴ盤『パリ・フェスティヴァエル・インターナショナル 1949』というコロンビア盤。これでしか喉を潰してしまう前のキレイなマイルスの声は聴けない。

 

 

またもや話が逸れちゃった。サッチモの「ウィ・シャル・オーヴァーカム」にはそんなマイルスを含む大編成ヴォーカル・コーラスとゴージェスな管弦楽とともに、リズム・セクションの演奏がかなりファンキーで、これはどう聴いてもリズム&ブルーズだろう。

 

 

 

どうだろうか?いいんじゃないだろうか?これが1923年に初録音した人の音楽なんだからねえ。なお終盤でトランペットの音が聞えるけれど、それはサッチモのものではない。このアルバムではサッチモはヴォーカルだけ。というのもこの最晩年、サッチモは健康上の理由から医者からトランペットの方は控えるように言われていた。

 

 

しかもこの「ウィ・シャル・オーヴァーカム」、特にエレベ(このアルバムでは全曲エレベしか使っていない)のラインがファンキーでカッコイイなあ。それもそのはず、これを弾いているのはチャック・レイニーなんだよね。チャック・レイニーはアルバムの全十曲中四曲で弾いていて、このアルバムの肝になっている。

 

 

「ウィ・シャル・オーヴァーカム」以上にそれがよく分るのが、先に触れたアルバム六曲目のジョン・レノン・ナンバー「ギヴ・ピース・ア・チャンス」。なんなんだ!このチャック・レイニーの弾くベース・ラインのスーパー・ファンキーなカッコよさは!

 

 

 

しかもこの「ギヴ・ピース・ア・チャンス」だけ他の曲よりもエレベの音が大きめにミックスされているもんなあ。これはチャック・レイニーの弾くエレベのラインがあまりにカッコイイので、プロデューサーのボブ・シールがミキシング・エンジニアのボブ・シンプスンにエレベの音を大きくするよう指示したんじゃないかなあ。

 

 

以前も書いたように僕は<名前で音楽を聴く>ということはしない。『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』の音を聴いてみたらエレベがあまりにカッコイイので、それで初めて誰が弾いているんだろうとブックレット記載のクレジットを見てチャック・レイニーだと分り驚いたというわけ。

 

 

リズム&ブルーズ〜ソウル系音楽の熱心なリスナーの方々には説明不要の有名人だけど、ジャズ・ファンには馴染が薄いかもしれないチャック・レイニー。モータウンでだって結構弾いているし、アリサ・フランクリンやキング・カーティスやマーヴィン・ゲイやジャクスン5などなどいろいろなセッションで起用されている。

 

 

そんなチャック・レイニーが最晩年のサッチモのレコーディングに参加していたなんて、僕はちっとも知らなかったもんね。実を言うとバプリシティ盤のリイシューCDで『ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ』を買って聴直しビックリしてクレジットを見るまで気付いていなかった。

 

 

1970年のアルバム発売当時なら「ウィ・シャル・オーヴァカム」も「ギヴ・ピース・ア・チャンス」も間違いなく強烈なメッセージ・ソングと受取られたに違いないんだけど、2016年の今ではその歌詞のメッセージ性は薄くなって、ひたすらサウンドとリズムのファンキーなカッコよさが目立っている。

 

 

それ以外の曲も一曲を除き全て8ビートでリズム&ブルーズ風のアレンジ。有名なエリントン・ナンバーの「ムード・インディゴ」だって8ビートのミドル・テンポで、そんな「ムード・インディゴ」は他にはドクター・ジョンのだけだし、スタンダードの「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」だって同様。

 

 

そういうアレンジをアルバム全曲で施したのがオリヴァー・ネルスン。従って大編成の管弦楽とマス・クワイアがリズム&ブルーズっぽく真っ黒けなサウンドに仕上っているのも納得。しかもそれに乗ってヴォーカルに専念するサッチモだって全く負けていないよねえ。

 

 

音楽はアーティスティックなものなんかじゃなくポップ・エンターテイメントに違いないと心の底から信じて、リスナーを楽しませることだけを念頭に置き、1923年の初録音から71年に死ぬまでそれに徹したサッチモことルイ・アームストロング。ジャズ界ではやはりこの人こそナンバー・ワンだった。

2016/06/21

ジャズの4ビートもアイルランド音楽がルーツ

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中村とうようさんが最初に言出したのかどうかは全然知らないんだけど、少なくとも僕はとうようさんの文章で初めて読んだ「アメリカ音楽のリズムの基本はアイリッシュ・ミュージックにある」という説。今ではまあまあ普及・拡散しているようで、随所で見掛けるようになっている。

 

 

以前も書いたんだけど(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-0096.html)僕はジャズとロックという20世紀のアメリカ音楽のメインストリームだった(前半50年間がジャズ、後半50年間がロック)二つの音楽は、基本的に同じような音楽だと思っているけど、これもアイリッシュ・ミュージックがルーツだという話。

 

 

1950年代前半に大ブレイクしてその後のアメリカ音楽界のみならず世界中のいろんな音楽に大影響を与えてきたロックには、かなり白人音楽の要素が混じり込んでいる。マウンテン・ミュージックとかカントリー・ミュージックなどなど。そしてそれら白人音楽もアイルランド音楽がルーツ。

 

 

カントリー・ミュージック=アイリッシュ・ミュージック起源説を最も明確に裏付ける音資料が、アイルランドのバンド、チーフタンズの1992年作『アナザー・カントリー』だ。言うまでもなくチーフタンズはアイルランドが中心のケルト音楽バンドで、最初はケルト伝承音楽ばかり演奏していた。

 

 

チーフタンズのデビューは1963年の『ザ・チーフタンズ』。この後しばらくはバンド名の後に数字番号が付くだけのアルバム・タイトルが続くので、このデビュー・アルバムは俗に『ザ・チーフタンズ 1』と呼ばれる。この頃はまあホント世の中にこんなに地味な音楽があるのかと思うくらい地味。

 

 

デビュー後しばらくはヴォーカルなしのインストルメンタル演奏ばっかりで、伝統的なジグやリールなどだけ。それを華美な伴奏もなくイーリアン・パイプやティン・ウィッスルで極めて淡々と演奏するといった感じ。無伴奏のものも多いから、1960年代の派手なロック全盛期によくこんな音楽で世に出ようと思えたもんだよなあ。

 

 

そう考えると現在に至るまでチーフタンズが継続的にバンド活動を続けられていることが不思議に思えてくるくらいだ。1990年代以後の人気ぶりしか知らずエエ〜ッ?と思う方は、是非試しに『ザ・チーフタンズ 1』とか『2』とかあたりを買って聴いてみてほしい。ビートルズが大人気の時代だったことを考えるとその地味さに驚くはず。

 

 

その頃は書いたようにヴォーカルなしのインストルメンタル・ケルト音楽なんだけど、チーフタンズがいつ頃からヴォーカルを使うようになったのか、全アルバムを順番に聴直して確かめないと分らないから、それはかなり面倒で時間がかかるし、それに僕は彼らの全アルバムを持っているというわけでもない。

 

 

はっきりしているのは同じアイルランド(と言っても北アイルランドのベルファスト)出身の歌手ヴァン・モリスンと組んだ1988年の『アイリッシュ・ハートビート』が、当然ながらヴァンのヴォーカルを大々的にフィーチャーしていて、これが高く評価されヴァン人気もあって売れたらしい。

 

 

遅くともこの1980年代末頃からはヴォーカルを多用するようになったチーフタンズ(繰返すが僕は全アルバムは聴いていないので、もっと前から使っているんじゃないかと思う)は、1990年代に入ると世界各地のいろんな音楽家との<他流試合>を試みるようになって、その最初が前述の92年『アナザー・カントリー』。

 

 

1992年の『アナザー・カントリー』はチーフタンズがアメリカの様々なカントリー畑の音楽家と全面共演したアルバムで、レコーディングのほぼ全てがやはり92年に米カントリー・ミュージックのメッカであるナッシュヴィルで行われている。チーフタンズは当時のレギュラー・メンバー六人がそのまま参加。

 

 

そしてアメリカ側から参加しているのはドン・ウィリアムズ、リッキー・スキャッグズ、チェット・アトキンス、ウィリー・ネルスン、コリン・ジェイムズ、エミルー・ハリス、ベラ・フレック、ケヴィン・コネル、サム・ブッシュ、ザ・ニッティ・グリッティ・ダート・バンドなどなど錚々たる面々。

 

 

名のある人ばかりだけど、なかでもチェット・アトキンスやエミルー・ハリスなどは超の付く有名人だ。チェット・アトキンスのギター・スタイルは各方面に多大な影響を与えて、そのなかには初期ビートルズのジョージ・ハリスンもいる。「オール・マイ・ラヴィング」間奏のギター・ソロなんかそのまんまだ。

 

 

エミルー・ハリスもグラム・パースンズやボブ・ディラン関連その他でロック・ファンの間にもかなり名前が浸透している人。しかしながら僕個人にとって一番馴染み深い名前はウィリー・ネルスンなんだよね。なぜかと言えば彼には『スターダスト』というアルバムがあるからだ。ジャズ・スタンダード曲集。

 

 

ウィリー・ネルスンの『スターダスト』は1978年のアルバム。アルバム・タイトルになっている超有名曲が一曲目なんだけど、それ以外にも「ジョージア・オン・マイ・マインド」「ブルー・スカイズ」「オン・ザ・サニー・サイド・オヴ・ザ・ストリート」「ムーンライト・イン・ヴァーモント」などなど。

 

 

デューク・エリントンの「ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニイモア」だって歌っているもんね。大学生の頃にこの『スターダスト』をある人からこんなのがあるけどいいから聴いてみてと教えてもらって、買って聴いてみて正解だった。でも当時ウィリー・ネルスンがどういう人かは全然知らず。

 

 

その後リンダ・ロンシュタットが1983〜86年にかけてスタンダード曲集を立て続けに三枚出したり、ロッド・スチュアートが21世紀に入ってからスタンダード曲集ばかり五枚も出すようになったりしているけれど、いくらジャズ系スタンダード好きの僕でもああいうのはどうもイマイチだなあ。

 

 

ウィリー・ネルスンの『スターダスト』は1978年だから、その手のものの先鞭を付けたようなアルバムだったのかもしれないが、あの『スターダスト』だけは大学生の頃の愛聴盤だった(今ではそうでもない)。その後この人が1960年代から活躍するアメリカ・カントリー畑の音楽家であることを知った。

 

 

そういうわけでチーフタンズの『アナザー・カントリー』でも、ウィリー・ネルスンが歌う五曲目の「グッドナイト・アイリーン」はロック歌手も非常によく歌う有名曲だということもあって馴染めるんだけど、しかし今日の文章の本題にはそれはあまり関係がない。問題は4ビート系のズンズン進むビート。

 

 

『アナザー・カントリー』一曲目の「ハッピー・トゥ・ミート」はパディ・モロニーの書いた曲で、ザ・ニッティ・グリッティ・ダート・バンドやベラ・フレック、サム・ブッシュなどが参加して演奏するインストルメンタル。最初6/8のお馴染みのジグなんだけど、すぐに4/4のリールに移行する。

 

 

6/8拍子のジグとか4/4拍子のリールとかはケルト音楽では最もポピュラーなリズム・スタイルで、チーフタンズはデビュー直後からそんなのばっかり演奏しているわけだから、『アナザー・カントリー』でパディ・モロニーがそんな曲を書いてイーリアン・パイプを吹いても全然どうってことはない。

 

 

しかしその「ハッピー・トゥ・ミート」には書いたようにたくさんのアメリカ人カントリー・ミュージシャンが参加してナッシュヴィルで録音された演奏だからなあ。バンジョーの音だってはっきり聞えるし、お聴きなれば分る通り1:57あたりから突然4ビートになる。

 

 

 

この4/4拍子部分のスウィング感。これはまさにアメリカン・ポピュラー・ミュージックの基本中の基本のリズムじゃないか。カントリーは言うに及ばずジャズのフラットな4ビートにソックリそのまんまだもんね。最初にリンクを貼った僕の過去のブログ記事中で僕が強調したジャズのビートはアイルランド音楽ルーツだという証拠。

 

 

しかしこの「ハッピー・トゥ・ミート」におけるフラットにズンズンと進む4ビートのスウィング感を、アメリカ人ミュージシャンが大勢参加しているからそうなっているだろうなんて思っちゃいけないよ。このビート感はケルト伝承音楽に昔からあるものなんだよね。ウソだと思うならチーフタンズの初期録音を聴いてみて。

 

 

この手の快活な4ビートは『アナザー・カントリー』にはたくさんあって、三曲目の「ワバッシュ・キャノンボール」も全く同じ。リッキー・スキャッグズが歌っているんだけど、ビートは完全に4/4拍子。しかしながら曲自体はパディ・モロニーの書いたオリジナルと彼のアレンジしたケルト伝承曲のメドレーなんだよね。

 

 

 

「ワバッシュ・キャノンボール」ではキース・エドワーズがドラムスを叩いていてなかなかスウィンギー。そしてそのスウィング感はジャズの4ビートのそれにソックリだね。その他アルバム中例を挙げていたらキリがないくらいだから、こりゃもうジャズの4ビートがアイルランド音楽由来というのは間違いないだろう。

 

 

ロックの場合中村とうようさんが『ロックへの道』というCDアンソロジーを編み丁寧な解説を寄せてくれているおかげで、ロックのビートがアイルランド音楽ルーツだというのがよく分るようになったんだけど、ジャズのビートだって全く同じだという説はまだ言う人が少ないからなあ。でも間違いないと思う。

 

 

アメリカには18世紀から19世紀にかけてかなり大量のアイルランド移民が流入し、19世紀半ば頃はアメリカの全移民の約半分がアイルランド系だったくらい。現在でもアメリカの総人口のおよそ12%がアイルランド系の出自だ。12%は相当多いぞ。だからアイルランド文化の影響はアメリカにかなり色濃くある。

 

 

20世紀半ばに勃興したロックがブラック・ミュージックだけでなく白人カントリー・ミュージックの影響を非常に強く受けていることは常識だ。そしてそのカントリー・ミュージックのルーツが紛れもなくアイルランド音楽だというのが、チーフタンズの『アナザー・カントリー』を聴くとよく分るし。

 

 

カントリー・ミュージック(従ってそれに影響を受けたロック・ミュージック)だけでなく、ズンズン進むフラットなジャズの4ビートのスウィング感だってそのルーツはアイルランド音楽だという、これは僕の場合1996年にグリーン・リネット・レコーズのアンソロジーで初めてケルト伝統音楽を聴いた時以来抱いていた考えを、『アナザー・カントリー』を聴いて一層強く確信した。

 

 

チーフタンズの『アナザー・カントリー』は、ケルト伝承音楽家とそれをルーツに成立したアメリカのカントリー・ミュージックの音楽家達との全面共演というのが表向きの看板だけど、同じアメリカ大衆音楽であるジャズが無関係だなんて思う方がオカシイだろう。音を聴けば誰だって明確に分ることなんだから。

 

 

繰返す。ジャズはアフリカのリズムとヨーロッパのハーモニーが合体してできた音楽だという話はウソだ。ジャズのビート感覚はアフリカ由来なんかじゃない。アイルランド由来に他ならない。

2016/06/20

ホンキー・トンク

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ローリング・ストーンズの1969年作『レット・イット・ブリード』A面三曲目の「カントリー・ホンク」は、このバンドの最も有名な代表曲の一つ「ホンキー・トンク・ウィミン」の原型というか同じ曲のヴァリエイションだね。

 

 

「カントリー・ホンク」https://www.youtube.com/watch?v=hsEsSB5390I

 

「ホンキー・トンク・ウィミン」https://www.youtube.com/watch?v=pSdrG2Rl77g

 

 

ほぼ同じだ。「カントリー・ホンク」の録音が1969年6/10月。「ホンキー・トンク・ウィミン」は69年6月録音とほぼ同時期。後者のシングル盤は同年7月に発売されて大ヒットした。

 

 

「ホンキー・トンク・ウィミン」はその後ストーンズの各種ベスト盤に収録されるようになり、ライヴの定番レパートリーにもなって、現在に至るまでどんなライヴ・ステージでもほぼ毎回演奏されているので、公式ライヴ盤に収録されているヴァージョンだけでも複数あるのはみなさんご存知の通り。

 

 

ストーンズがライヴでやる「ホンキー・トンク・ウィミン」で個人的に好きだったのが1995年東京ドーム公演のもので、生でも聴いたけれど、その後VHSテープ二巻で発売されたのを繰返し見聴きしていた。キース・リチャーズが間奏のソロ部分以外はピックを使わず、右手指をパッと開いて弾くのが印象的だった。

 

 

その1995年東京公演のVHSはなぜだかいまだにDVD化されておらず、VHS再生機器も手放してしまったので現在は見聴きできないのが残念。YouTubeで探せば誰かが上げてくれているかもしれないけれどね。公式CD化されているものでは『ラヴ・ユー・ライヴ』一曲目のがいいよね。

 

 

いろんな音楽家が「ホンキー・トンク・ウィミン」をカヴァーしているけれど、僕が好きなのはジョー・コッカー1970年のライヴ・アルバム『マッド・ドッグズ・アンド・ジ・イングリッシュメン』一曲目に入っているもの。これには大勢の米LAスワンプ勢が参加しているからね。

 

 

LAスワンプと「ホンキー・トンク・ウィミン」は深い関係があるはずだ。これと同曲だと最初に指摘した「カントリー・ホンク」はロサンジェルスで録音されていて、バイロン・バーリンのフィドルが入っているけれど、このフィドラーは他ならぬグラム・パースンズ人脈なのだ。

 

 

最初に貼った音源をお聴きになれば分るように「カントリー・ホンク」はグラム・パースンズに強く影響を受けたと思しきカントリー・ロック、というかこれはカントリー・ナンバーそのものなんじゃないかというフィーリングだ。ストーンズのレコード録音史上初のカントリー・ナンバーと言えるかもしれない。

 

 

「ホンク」とか「ホンキー・トンク」という言葉はアメリカ音楽界では主に南部音楽で古くからあるスタイルの名称。一説に拠ればホンキー・トンクはラグタイム・ピアノの一スタイルを指す言葉として使われはじめたのが最初らしい。その後ブギウギ・ピアノでもそう言われるものがある。

 

 

しかしホンキー・トンクという言葉がアメリカ音楽界で一般的になるのは、おそらく1950年代のカントリー(ヒルビリー)・ミュージックにおいてだろう。以前ハンク・ウィリアムズについて書いた際にも触れたようにハンクのレパートリーには「ホンキー・トンク」とかそれに類する言葉が入る曲名がかなりある。

 

 

この言葉が曲名に入るもので僕が持っている一番古い音源は、ブギウギ・ピアニスト、ミード・ルクス・ルイスの1927年「ホンキー・トンク・トレイン・ブルーズ」。ミード・ルクス・ルイスは、これを1950年代まで繰返し録音している。

 

 

 

その次がジャズ・ピアニストにして初期ジャズ界の巨人ジェリー・ロール・モートンの1938年「ホンキー・トンク・ミュージック」。 お聴きになれば分るようにブギウギ・ピアノの影響がモロに出ていて、しかもそれがお得意の "spanish tinge" と結合している。

 

 

 

もちろんホンキー・トンクという言葉は元は音楽用語というわけではない。19世紀後半の南部や西部で下品で猥雑な見世物を出す小屋や劇場を指す言葉として使われていた。もちろんその際には音楽を伴うのが普通なので、次第にそういう下品で猥雑な主にピアノで奏でる音楽を指すようになったんだろう。

 

 

ストーンズの連中だってこんなことは当然知っていただろう。「カントリー・ホンク」「ホンキー・トンク・ウィミン」の歌詞にはそんな猥雑というかもっと露骨にセックスに言及する部分がある。ホンキー・トンク・スタイルのピアノ音楽はアメリカ南部が中心だったので、メンフィスが出てくるのも当然だ。

 

 

そんな猥雑というか卑猥なフィーリングは「ホンキー・トンク・ウィミン」の曲調にもはっきり聞取れるけれど、原型(?)である「カントリー・ホンク」の方がもっと強いような気がするんだよね。カントリー風ホンキー・トンク・スタイルのフィドルもそんな感じだし、ちょっと聞えるスライド・ギターもそうだよね。

 

 

ストーンズの「カントリー・ホンク」はエレクトリック・ベースも入っていない完全なカントリー・ミュージック・スタイルのアクースティック・ナンバーで、なんだか古い時代のアメリカ南部を連想させる感じで僕は大好きなんだよね。かなりの数演奏している「ホンキー・トンク・ウィミン」にアクースティック・ヴァージョンってあるのかなあ?

 

 

前述の通り無数のカヴァーがある「ホンキー・トンク・ウィミン」。この言葉を普及させた第一人者であるハンク・ウィリアムズの息子、ハンク・ウィリアムズ・Jr もカヴァーしているという面白さ。 まあ普通のロック・ナンバーって感じで猥雑な感じは薄いけどね。

 

 

 

ブラック・ミュージック・ファンに一番有名なのは、おそらくアイク&ティナ・ターナーの1969年ヴァージョンだろう。 僕もこのヴァージョンは大好き。ティナはこういう卑猥な感じの曲を得意にしていたし、アイクのギターもいいよね。

 

2016/06/19

ジャズ・ピアノ史上最高のテクニシャン

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単に指が高速かつ正確に動くという技巧面だけでなく、多彩で豊かな音楽的表現という点でもジャズ・ピアノ史上最高のテクニシャンだったに違いないアート・テイタム。このブログでも何度か強調しているように、この世界ではアール・ハインズこそがオリジネイターではあるんだけどね。

 

 

アート・テイタムも右手でシングル・トーンを弾くのが中心であるということを考えれば、やはりジャズ・ピアノの父アール・ハインズの影響下にあるわけだけど、テイタムの場合は他のハインズ門下生とは違ってもっとずっと多彩でヴァリエイション豊かな表現方法を早くに確立している。

 

 

テイタムの初録音は1932年。30年代の彼の録音はいろんな形のLPやCDや配信になっていて、どれとどれを買えば「全部」ということになるのか僕も分りきっていないのでそこそこで満足しているわけだけど、その頃のソロ・ピアノ録音はどれもこれもホント凄いよね。

 

 

特に有名なのは「タイガー・ラグ」だろう。テイタムは同曲を戦前には1932年と33年と35年の三回録音している。どれも素晴しく甲乙付けがたいけれど、僕の耳には32年初演がちょっぴりいいように聞える。テイタムの生涯初ソロ・ピアノ録音。

 

 

 

次のYouTube音源の方は1932年ヴァージョンと35年ヴァージョンを並べてあるので比較しやすい。やはり32年録音の方が少しだけいいよね。この生涯初レコーディングの時点で、既に完全に自分のピアノ・スタイルを確立している。

 

 

 

1930年代初頭でこれだけ自由闊達に弾きまくれたジャズ・ピアニストはテイタム以外には存在しなかったはず。次のようなデジタル処理でスピード・ダウンさせたサンプルが上がっているくらいだから、やはりこの「タイガー・ラグ」は衝撃なんだよね。

 

 

 

これは70%スピードのものだけど、同じ音源から60%とか30%とか20%とかのものもYouTubeに上がっているので興味を持った方は聴いてみていただきたい。70%とかのスピードでも並のピアニストには弾くのが困難なはず。それほどテイタムの「タイガー・ラグ」は凄い。

 

 

テイタムの場合本当に凄いと思うのは、単なる高速・正確な指さばきという技巧面をひけらかすようなところではなく、いやもちろんそれだけでも充分凄いんだけど、それが音楽的表現と一体になっていて聴き手の感動を呼ぶところだよなあ。指が速く正確に動くというだけなら僕などはなんとも思わない人間だ。

 

 

テイタムはもちろんソロ・ピアノ録音が一番いい。彼のヴァチュオーゾぶりがよく分るし、そもそもビバップ以前にはピアノ・トリオという概念がまだ存在していなかったので、殆どのジャズ・ピアニストはソロで弾くかバンドのなかの一員としてやるかのどちらかだった。トリオ編成が主流になるのはバド・パウエル以後。

 

 

余談だけどジャズ・ピアノの世界で「トリオ」というと今はほぼ全員ピアノ+ベース+ドラムスだと思っているだろう。しかしかつてピアノ・トリオとはピアノ+ギター+ベースという編成がスタンダードだった。1940年代初頭に録音を開始したナット・キング・コール・トリオが典型的な存在。

 

 

テイタムもそういうギターとベースを伴うトリオ編成での録音もある。だけど彼の場合はやはりリズム・セクションは不要だなあ。第一どんなギタリストやベーシストもテイタムのレベルには到底ついていけないし、それに戦前古典ジャズ・ピアニストの例に漏れずやはり両手のバランスが取れているからだ。

 

 

ましてや管楽器奏者と共演した録音は、入門盤としてよく推薦されたりする(戦後録音だけど)ベン・ウェブスターとやったものなど、僕はあまり評価しないんだなあ。別に嫌いではないというか好きだけど、ああいうのならテイタムじゃなくてもいいだろうと思うんだなあ。

 

 

1930年代のテイタムの録音には、ほんのちょっぴり歌手と共演してバンド形式で歌伴をやっているものがある。僕の知る限りではアデレイド・ホールの歌う1932年の「ストレインジ・アズ・イット・シームズ」と、同じ歌手による同年の「アイル・ネヴァー・ビー・ザ・セイム」がそれ。

 

 

二曲ともスモール・コンボ編成での録音で、チャーリー・ティーガーデンのトランペット、ジミー・ドーシーのクラリネットなどのオブリガートも聞えるが、ソロはテイタムのピアノだけが取っているから彼が中心のバンドなんだろう。32年当時のアデレイド・ホールはテイタムと一緒に活動していたらしい。

 

 

さらにもう二曲、やはりアデレイド・ホールが歌う1932年録音の「ユー・ゲイヴ・ミー・エヴリシング・バット・ラヴ」と「ディス・タイム・イッツ・ラヴ」があって、それらはコンボではなくテイタムのピアノ伴奏だけで歌ったもの。僕の知る限りテイタムと歌手との共演はこれら四曲だけのはず。

 

 

最近の僕はジャズでもインストルメンタル演奏よりもヴォーカルの入る曲の方がどっちかというと好きだから、テイタムの録音でもそれらアデレイド・ホールが歌う四曲も好きなんだよね。でもまあテイタムのピアノを聴く音源ではないなあ。楽しくて好きだけどテイタムである必要はない。

 

 

そういうわけだからやはりテイタムはソロ・ピアノ演奏に限る。戦前のそういう録音集でCDで持っているもののうち僕が一番よく聴くのは『ピアノ・スターツ・ヒア』。戦前のコロンビア系録音を集めた全13曲で、得意曲だった「ユーモレスク」もあり、また半分がライヴ音源なのも僕好みだ。

 

 

でもねえ、前述の通り戦前のテイタムのソロ・ピアノ音源はちゃんとした形で全集みたいなものとしてはリリースされていないんだよなあ。僕が知らないだけなのか?どこか早く集大成してほしいんだけど、全然リリースされる気配がないから、僕も複数のCDや配信でバラバラに持っていて、中身も一部ダブっている。

 

 

その点、戦後ノーマン・グランツのパブロ・レーベルに吹込んだ膨大なソロ・ピアノ録音全124曲は、現在CD七枚組ボックス『ザ・コンプリート・パブロ・ソロ・マスターピーシズ』に集大成されていて、まとめてたっぷり聴けるのが嬉しい。テイタムの技巧も音楽的表現力も殆ど衰えを見せていないしね。

 

 

パブロやヴァーヴといったノーマン・グランツのレーベルには、テイタムもやはり多くのコンボ編成録音があるんだけど(前述のベン・ウェブスターとの共演盤もそう)、それらは多くがノーマン・グランツお得意のオール・スター・セッションで、しかも殆どが全盛期を過ぎたジャズメンとの共演だからイマイチ惹かれない。

 

 

そこいくとテイタムのピアノの腕だけはほぼ衰えていないので、やはりソロ・ピアノ録音集がいいんだよね。パブロへの膨大なソロ・ピアノ録音集はアナログLP時代から全集になっていて、確かLP10枚のバラ売りだったっけなあ、愛聴盤だった。

 

 

それらがCD時代になって、確か1990年代前半に全部まとめてボックス・セットになったのは嬉しかった。まあCD七枚のソロ・ピアノ録音集を全部通して集中して聴くなんてことは全くないわけだけど、部屋の中でなにかをしながら流しっぱなしにしていると、これがなかなかいい雰囲気になる。

 

 

テイタムのパブロへのソロ・ピアノ録音は1953〜56年録音で、最後のハリウッド・ボウルでのライヴ録音四曲を除き全てハリウッドでのスタジオ録音。ほぼ全てが有名スタンダード・ナンバーだから、ソロ・ピアノ演奏によるスタンダード・ソングブックとしてもオススメ。

 

 

以前書いたエラ・フィッツジェラルドの同じヴァーヴへのソングブック集が、歌手によるアメリカン・ソングブックの宝石箱なわけだけど(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-b4fa.html)、似たような規模のボックスでソロ・ピアノ演奏によるこれは、やはり珠玉のアメリカン・ソングブック集だなあ。

 

 

腕は衰えていないとは書いたものの、1930年代の「タイガー・ラグ」などで聴けるような寄らば切るぞみたいな凄みに満ちたスリリングな演奏は戦後パブロのソロ・ピアノ集にはない。そういう緊張感に代ってパブロ録音ではかなりリラックスした雰囲気でゆったりと演奏していて、僕はそういうものもかなり好きなんだよね。

2016/06/18

ポップで楽しいピシンギーニャのオーケストラ・ショーロ

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ブラジル音楽のショーロの世界ではおそらく史上最大の存在だろうと僕は思っているピシンギーニャなんだけど、彼の録音全集みたいなものって僕は見たことがない。ブラジル本国では出ているんだろうか?どんなに調べてもそれらしきものが見つからないから、出ていないんじゃないかなあ?これはやや意外だ。

 

 

ピシンギーニャとベネジート・ラセルダの共演録音なら全集があって、CDは見ないんだけど iTunes Store にはあるから、僕はそれをダウンロード購入して楽しんでいる。全44曲。ライス盤『ショーロの聖典』が全29曲で、普通はそれで充分だろうけれど、僕は大のピシンギーニャ・ファンだからね。

 

 

僕の最愛ショーロ曲「1×0」をはじめとするピシンギーニャとベネジート・ラセルダとの共演録音の数々は、ライス盤のタイトルにあるようにまさに「聖典」と呼べる素晴しい内容だけれど、録音は1946〜50年という時期だからピシンギーニャは既に全盛期を過ぎていた。

 

 

ピシンギーニャが音楽キャリアをスタートさせたのは1911年で、師匠だったイリネウ・ジ・アルメイダの率いるショーロ・カリオカというグループに参加してのもの。イリネウは当時のショーロ界を代表する音楽家で、その対位法的カウンター・メロディの使い方がピシンギーニャの作風にも大きな影響を与えた。

 

 

イリネウに関しては今年2016年5月にエヴェルソン・モラレス、レオナルド・ミランダ、アキレス・モラレスの三人による『イリネウ・ジ・アルメイダ・エ・オ・オフィクレイジ・100・アノス・ジポイス』というトリビュート・アルバムが出ていて、現在エル・スールさんに入荷を依頼中なのだ。

 

 

その『イリネウ・ジ・アルメイダ・エ・オ・オフィクレイジ・100・アノス・ジポイス』は iTunes Store には既にあるので、実を言うと僕は既にダウンロード購入してデータをCD-Rに焼いて聴いて楽しんでいる。これはかなり面白いアルバムなんだよね。ブラジルはやはりこうやって新世代が伝統を継承するからいいなあ。

 

 

もちろん『イリネウ・ジ・アルメイダ・エ・オ・オフィクレイジ・100・アノス・ジポイス』のCDがエル・スールに入荷したらそれも買うから、原田さんお願いしますね!そんなイリネウのグループで1911年にプロ活動を開始したピシンギーニャは、いわばショーロ第三世代くらいに当る。

 

 

だから1860年代頃に成立したらしいショーロの歴史のなかではピシンギーニャは新世代ともいうべき音楽家なんだけど、そうは言っても商業録音開始直後に音楽活動をはじめた人だから、その全盛期はやはり第二次大戦前だ。だから前述のベネジート・ラセルダとの共演戦後録音を聴いてそれで終りというわけにはいかない。

 

 

そういうわけだから、どこかピシンギーニャの戦前録音の全集をリリースしてくれないかと切望する僕なんだけど、僕もあと30年もは生きてはいないだろうからちょっとどうなんだろうなあ。したがって普段日常的に聴いているピシンギーニャの録音集は日本のライスが出した『ブラジル音楽の父』というCDだ。

 

 

ライス盤『ブラジル音楽の父』の編纂はやはりこれまた田中勝則さん。感謝しかない。このアンソロジーはイリネウ率いるシショーロ・カリオカ時代の1915年録音にはじまり、ベネジート・ラセルダとの1947年共演録音まで全24曲。ピシンギーニャの真価がよく分る優れたアンソロジーでオススメ盤。

 

 

例によって田中勝則さんの詳しい日本語解説が附属しているし、選曲も曲順も良くて、ピシンギーニャを知りたいという日本語が読めるショーロ・ファンには『ブラジル音楽の父』こそ最も好適な一枚だろう。とはいえもちろん戦前録音中心だから音が古くて、SPの音が苦手だというリスナーには決してオススメできない。

 

 

ライス盤『ブラジル音楽の父』の一番いいところは選曲だなあ。「ラメント」や「カリニョーゾ」(や「1×0」)といった数々の美しくて楽しい名曲があるピシンギーニャだけど、彼はそういう楽聖的側面だけの音楽家でもない。田中勝則さんの日本語解説文にあるようにポップな味も持つ人なんだよね。

 

 

ピシンギーニャのポップな持味が最も発揮されたのが1920〜30年代のオーケストラ作品で、ライス盤『ブラジル音楽の父』は「ラメント」「カリニョーゾ」などと並んで、そういう録音がたくさん収録されているのが最大の特徴。そのあたりのピシンギーニャの録音は本国ブラジルでもあまり聴かれていないんだそうだ。

 

 

本国ブラジルでも世界中でもよく聴かれ評価が高いピシンギーニャは、やはりさきほど書いたように楽聖的側面であって、頻繁にカヴァーされるのも「ラメント」や「カリニョーゾ」「ローザ」(「バラ」)「1×0」などであって、1920〜30年代のオーケストラ作品は本国ブラジルでも復刻されていないものがある。

 

 

本国ブラジルですらリイシューされていないというのはどういうことなんだ?!と怒りすら感じ、そして溜息をつくわけだけど、少なくとも日本には田中勝則さん編纂の『ブラジル音楽の父』がある。これで聴く以外に方法がない。そしてピシンギーニャにはポップで面白くていい曲がいっぱいあるんだ。

 

 

ライス盤『ブラジル音楽の父』に収録されているオーケストラ作品は、九曲目の1928年録音「ラメント」が一番早いもの。名曲なんだけど、まだアレンジがちょっと生硬だよね。この曲に限っては後世のショーロ演奏家が解釈し直して録音したものの方が出来がいいように僕は思う。続く10曲目「絶望」からグッと良くなる。

 

 

 

「絶望」も「ラメント」と同じオルケストラ・チピカ・ピシンギーニャ・ドンガの演奏だけど、大真面目な「ラメント」「カリニョーゾ」(後者は『ブラジル音楽の父』には1937年のオルランド・シルヴァ・ヴァージョンが収録されているが、ピシンギーニャの初演は30年)とは違ってリラックスしている。

 

 

同じオルケストラ・チピカ・ピシンギーニャ・ドンガによる続く11曲目「ガヴィオーン・カルスード」になるとかなり楽しくリラックスできるダンス・ミュージックになっていて、これも1929年録音だけど既にサンバ伴奏の演奏スタイルを確立しているのが分る。音楽としてのサンバは30年代に入って開花するもの。

 

 

 

つまりこれはみなさんが言っていることだけど、サンバの伴奏はダンサブルでポップなショーロに他ならず、実際サンバ歌手の伴奏の多くはショーロ・バンド。サンバだけじゃなくて、その後のサンバ・カンソーンもバイオーンも初期ボサ・ノーヴァも、全てリズム感覚など音楽的な土台はショーロに他ならない。

 

 

ピシンギーニャはその後1930年から32年あたりまで自身の創り上げたジャズ・スタイルでポップなオーケストラ・ショーロに意欲的に取組んでいる。この時期がピシンギーニャの全盛期だったと見ていいだろう。ライス盤『ブラジル音楽の父』だと(少人数編成録音も含むけれど)12〜19曲目がその時期。

 

 

このあたりの1930年代のピシンギーニャの作曲と演奏は見事の一言。「カリニョーゾ」「ラメント」あたりではまだ少し硬さが残っていた(が名曲であるには違いない)のがなくなって、ジャズの影響を完全に消化吸収したピシンギーニャにしかできないポップなショーロがたくさんあって楽しい。

 

 

特に15曲目「黒人の会話」(コンヴェルサ・ジ・クリオウロ)はめちゃめちゃポップでダンサブルな無国籍インストルメンタル・ショーロで、一種カリブ音楽風なニュアンスも感じるもんね。1931年録音だからキューバ音楽の影響もあったに違いないと僕は思う。ルンバが流行していたしね。この曲がアルバム中一番楽しい。

 

 

 

こういった「黒人の会話」みたいなポップでダンサブルなショーロは、ブラジル本国でも継承されていないんじゃないかなあ。復刻すらされていないらしいから間違いない。僕が知る唯一の例はエンリッキ・カゼスその他らがやった2003年の『エレトロ・ピシンギーニャ』で「黒人の会話」が一曲目だったことくらいだ。

 

 

 

そのエンリッキらによる『エレトロ・ピシンギーニャ』もかなり面白かった。ピシンギーニャの1930年代のポップなオーケストラ・ショーロの数々を現代風ダンス・ミュージックに仕立て上げたアルバムで、収録曲は復刻されていないものばかりだから、エンリッキらはSP盤を聴いて参照したに違いない。

 

 

エンリッキらの『エレトロ・ピシンギーニャ』の面白さについてはまた別記事でまとめてしっかり書きたいと思っている。まあそういったエンリッキらがカヴァーしたピシンギーニャ全盛期のポップでダンサブルなオーケストラ・ショーロを含め、早く彼の戦前全録音をちゃんとした形でリイシューしてほしいんだけどなあ。どこか早く出してくれ!

 

 

書いたようにショーロはサンバの土台にして、サンバ歌手の伴奏は多くの場合ショーロ・バンドだったんだから、サンバがポップなダンス・ミュージックであるようにショーロだってそうなんだよね。それこそがポピュラー・ミュージックの本質に他ならず、クラシック音楽に近いようなものがあるショーロだって例外なんかじゃないね。

2016/06/17

1970年代にはガレスピーも教えを乞うたマイルスのトランペット

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マイルス・デイヴィスが本当に魅力的なトランペッターになるのは1956年からだ。もちろんそれ以前にも優れた演奏はある。例えば54年録音の『ウォーキン』もそう。素晴しい吹奏ぶりで僕も愛聴しているんだけど、マイルスにしかできえない表現はまだ確立していないように思う。

 

 

実は僕がアクースティック・マイルスのコンボ録音で一番好きなのが翌1955年録音の『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』。熱心なファンの間でも全く話題に上らないアルバムなんだけど、個人的には隠れた名盤だと思っている。

 

 

僕が『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』が大好きな最大の理由はヴァイブラフォンのミルト・ジャクソンとピアノのレイ・ブライアントというブルーズの上手い二人が参加しているということであって、マイルス自身のトランペットについてはまあこんなもんかという感じ。

 

 

この頃のマイルスのブルーズ演奏といえば最初に書いた1954年の『ウォーキン』のアルバム・タイトル曲でのプレイは大変に評判が高い。僕も大学生の頃は大好きでアルバム・ジャケットも好きな愛聴盤だった。三連符を頻用したルイ・アームストロング以来のジャズ・トランペットでのブルーズ吹奏の伝統に則ったものだ。

 

 

「ウォーキン」という曲のマイルスによる演奏では、中山康樹さんはこの初演時はまだ大したことはない、凄くなるのは1960年代の一連のライヴだと書いていた。これはブルーズ・フィーリングというものを理解しない発言だね。中山さんはマイルスも参加したサントラ盤『ホット・スポット』でのジョン・リー・フッカーについても・・・(以下略)。

 

 

かつて油井正一さんは、この1954年の『ウォーキン』をマイルスが自分のトランペット・スタイルを確立した最初のアルバムだと書いたことがある。これはヘロイン常習癖から脱却してからの初レコーディングで、その意味でもマイルスにとっての記念碑的作品だという意味でもあったんだろう。

 

 

その『ウォーキン』と『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』(後者は常にミルト・ジャクスンを聴くわけだけど)は大好きな個人的愛聴盤ではあるものの、油井さんの言うような評価は僕にはちょっとできにくい。良い演奏だけどマイルスじゃないとできないようなものじゃない。

 

 

やはり1955年にジョン・コルトレーン+レッド・ガーランド+ポール・チェンバーズ+フィリー・ジョー・ジョーンズのファースト・クインテットを結成してからだなあ、マイルスがトランペッターとして魅力的になるのは。このバンドの初録音は当時所属していたプレスティッジではなく、コロンビアへの55年10月年録音。

 

 

その1955年10月のコロンビア録音では「トゥー・ベース・ヒット」「アー・リュー・チャ」「リトル・メロニー」「バドゥー」の四曲を吹込んでいるけど、もちろん秘密裏に行われたもの。そのなかから「アー・リュー・チャ」だけがコロンビア移籍後の57年に『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』に収録され、残りはお蔵入り。

 

 

同じ1955年に当時所属していたプレスティッジにもアルバム一枚分録音している(『マイルス』)。これが56年にリリースされこのファースト・クインテットのリアルタイムでの初リリース作品になった。しかしながらコロンビアでもプレスティッジでも、55年録音には僕はイマイチ魅力を感じないんだよなあ。なにかが足りない。

 

 

このファースト・クインテット、そしてボスのマイルス自身のトランペットが本当に面白くなるのは、1956年5月と10月のプレスティッジでのいわゆるマラソン・セッションからだね。この頃には既に当時のトレード・マークだったハーマン・ミュートを使っての繊細なトランペット・プレイを聴かせる。

 

 

マイルスがハーマン・ミュートを初めて使ったのは、先に書いた1955年録音の『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』ラストの「チェンジズ」だったはず。これ以前はミュートを使っていても全てカップ・ミュートだ。カップ・ミュートはチャーリー・パーカー・コンボ時代から時々使っている。

 

 

カップ・ミュートといえば『ウォーキン』B面の三曲が全部それを使って吹いたもので、それはそれでなかなか魅力的なのだ。昔はオープン・ホーンで吹いたA面のブルーズ二曲ばかり聴いていた僕も、ある時期以後はB面の方がチャーミングだと思うようになっている。

 

 

カップ・ミュートとハーマン・ミュートの違い。マイルスによる分りやすい例が「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」だね。1954年ブルーノート録音(カップ)→ https://www.youtube.com/watch?v=1VRC48dEh_c  56年プレスティッジ録音(ハーマン)→ https://www.youtube.com/watch?v=-Np8PJDGq_A

 

 

僕はカップ・ミュートを使った1954年ブルーノート録音の方もなかなか好きなんだけど、普通はどう聴いてもハーマン・ミュートでの56年プレスティッジ録音(『ワーキン』)の方が出来は上だろう。この頃のマイルスのハーマン・ミュートを使ったバラード吹奏はまさに玉に露。素晴しいの一言だ。

 

 

そしてこういうのがマイルスが自分のトランペット・スタイルを彼自身だけの独自のものとして確立したものだったんだろうと思う。最初に書いたようにマイルスのトランペットは1956年からだと僕が述べた最大の理由だ。どういう理由でその前後からハーマン・ミュートを頻用するようになったのかはイマイチ判然としない。

 

 

バラード・ナンバーだけでなく、例えばマラソン・セッションから誕生したなかの一枚『リラクシン』では一曲を除いて全曲ハーマン・ミュートで吹いていて、アップ・テンポでもミドル・テンポでもそれが実にチャーミングに響く。個人的には『リラクシン』がこの四部作では一番好きな作品だ。

 

 

マイルス=ハーマン・ミュートのイメージを決定づけたのはコロンビア移籍第一作の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』のタイトル曲だと言われているが、あの曲のレコーディングはプレスティッジでのマラソン・セッション第一回目の四ヶ月後。しかしながらあのプレスティッジ四部作はコロンビア移籍後にリリースされたものだから、「ラウンド・ミッドナイト」が記念碑のように考えられたわけだ。

 

 

オープン・ホーンでのトーンもこの頃明らかに向上している。同じプレスティッジの四部作でも例えば『クッキン』の「ブルーズ・バイ・ファイヴ」とか『ワーキン』の「フォー」とか音色がブリリアントだよね。もっとも個人的な見解ではマイルスのオープン・ホーンの音色は1958年に格段に向上する。

 

 

良い例がギル・エヴァンスと組んだ1958年の『ポーギー・アンド・ベス』だ。このアルバムでのマイルスのオープン・ホーンの音色は素晴しい。そして次作である59年の『カインド・オヴ・ブルー』での「ソー・ホワット」や「フレディ・フリーローダー」などでのオープンは文句の付けようがない。

 

 

オープン・ホーンに関してはその後も向上を続け、例えば1964年のライヴ盤『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』もほぼ全てオープン・ホーンのトランペットなんだけど、音色が非常に丸くて柔らかでまろやかなため、日本盤LPライナーノーツを担当した方がフリューゲル・ホーンだろうと書いたほどで、アクースティック時代ではこのアルバムの音色が一番美しい。

 

 

そしてマイルスのオープン・ホーンの音色が頂点に達するのが私見では1969/70年だ。特に69年8月録音の『ビッチズ・ブルー』、70年2月録音の『ジャック・ジョンスン』、70年6月ライヴ録音の『マイルス・アット・フィルモア』、この三つのアルバムは全部オープン・ホーンだけど、マイルスの生涯で最高の音色だろう。特に『フィルモア』が美しい。

 

 

アクースティック時代もエレクトリック時代も、マイルスのオープン・ホーンの音色が一番美しく聞えるのがどっちもライヴ・アルバムだというのはなんだかちょっと興味深い。『マイルス・アット・フィルモア』は四日間の完全盤が公式盤でも出ているけれど、あの公式盤四枚組は<完全>ではない欠陥商品だからちょっとオススメしにくい。

 

 

その『マイルス・アット・フィルモア』を録音した1970年頃、なんとディジー・ガレスピーが「トランペットのトーンを向上させる方法を教えてくれ」とマイルスに電話してきたらしい。マイルスの自叙伝に書いてあった。これには笑ってしまうよねえ。だってディジーはマイルスの憧れの存在だったんだぜ。これにはさすがのマイルスもビックリしてしまったようだ。

 

 

若い頃一体どれだけアンタから学んだと思っているんだとマイルスはディジーの電話に内心呆れたらしいが、「とにかくその膨らんだほっぺたの空気を送込まないと音は良くならないぞ」とかまあ適当に返事したらしい。でもディジーがそういう相談をしたくなるほど1970年頃のマイルスの音色は美しいものだ。

 

 

『ビッチズ・ブルー』や『ジャック・ジョンスン』(特に「ライト・オフ」)はYouTubeに上がっているし、1970年6月のフィルモア四日間については、真の完全ヴァージョンを僕が上げておいたので、是非聴いてほしい。フィルモア四日間の完全版はブート盤からだけど公式盤以上の音質だからね。

 

 

 

 

2016/06/16

ファンクこそがエリントンの本質だ

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ドクター・ジョンの最高傑作は1972年のニューオーリンズ・クラシックス集『ガンボ』か、次作73年のファンク・アルバム『イン・ザ・ライト・プレイス』(アラン・トゥーサンのプロデュースで、ミーターズがバック・バンド)だろう。あるいは92年の『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオーリンズ』とかだなあ。

 

 

それら三つとももちろん素晴しい。ドクター・ジョンの声が出ていないと悪口を言う人もいる『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオーリンズ』は大変にスケールが大きくて、ニューオーリンズの音楽家を中心に大勢のゲスト・ミュージシャンを加え当地の音楽史を集大成したような傑作で僕は大好き。

 

 

しかし個人的な好みだけで言わせてもらえば、ドクター・ジョンの全スタジオ・アルバムのなかでは1999年の『デューク・エレガント』が一番のフェイヴァリットで、しかも僕のなかでは一番評価も高い。もちろんジャズマンであるデューク・エリントンのソングブックであるという理由も個人的には大きい。

 

 

ドクター・ジョンの解釈・展開力はもちろんのこと、デューク・エリントンというコンポーザーの偉大さ、書いた曲が本来持つ幅の広さ・奥深さを強く実感し直したのがその『デューク・エレガント』だった。これは紛う方なきファンク・アルバムなんだよね。エリントン・ナンバーがファンク・チューンに変貌しているのだ。

 

 

エリントンの曲を全部ファンクにしてしまうというのはもちろんドクター・ジョンという人ならでは。『デューク・エレガント』以外にそんな風にエリントンの曲が化けているのは僕は知らない。まあでも僕が知らないだけなんだろうな。これでエリントンの奥深さが分ったので、他にもあるに違いないと思うようになった。

 

 

ドクター・ジョンの『デューク・エレガント』が1999年にリリースされた時は、エリントンとドクター・ジョン双方の熱心なファンである僕は狂喜乱舞、速攻で飛びついて買った。僕が買ったのは日本盤。なぜだかアメリカ盤より発売が早かった(はず)のと、日本盤は一曲多く収録されているからだった。

 

 

聴いてみたら最高だったね。一曲目の「オン・ザ・ロング・サイド・オヴ・ザ・レイルロード・トラックス」から完全なファンク・チューンだ。ドラムスのハーマン・アーネスト III とベースのデイヴィッド・バラードの出すファンク・グルーヴが気持いい。この二人のリズムはこれで初めて聴いた。

 

 

 

この一曲目やあるいは他の曲でも、ドクター・ジョンの弾くピアノとハモンド B3オルガンの音が同時に聞えるので、オーヴァー・ダビングしているに違いない。ヴォーカルもベーシック・トラックを録り終えた後にかぶせているだろう。そうとしか聞えないもんね。

 

 

ドクター・ジョンの声が出ていないと『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオーリンズ』を酷評する向きも『デューク・エレガント』なら納得していただけるはず。声に張りがあって伸びがある。またボビー・ブルームというギタリストの演奏を僕はこのアルバムで初めてちゃんと聴いたのだったはず。

 

 

ボビー・ブルームはほんのちょっとだけマイルス・デイヴィス・バンドで弾いていた時期があって、それで名前だけは知っていたんだけど、ライヴで少しやっているだけで公式録音は皆無。ブートでほんの一枚か二枚聴けるものがあるけれど、それだって1999年の『デューク・エレガント』より後に出た。

 

 

ただし1995年前後だったかニューオーリンズ現地で観たドクター・ジョンのライヴではやはりボビー・ブルームが弾いていて、その時初めて彼の演奏を聴いたはずだけど、メンバー紹介で初めて彼だと知っただけで、ああこれがマイルス・バンドにいたというボビー・ブルームかと思った程度のことだった。

 

 

その時はドラマーもベーシストも『デューク・エレガント』と同じハーマン・アーネストIII とデイヴィッド・バラードだったはずだけど、彼らの名前は初耳、演奏も初めて聴いたのでよく憶えていないんだなあ。2005年に出たドクター・ジョンの1995年モントルー・ライヴが全く同一メンバーだよね。

 

 

ちょっと横道に逸れたけれど、『デューク・エレガント』一曲目の「オン・ザ・ロング・サイド・オヴ・レイルロード・トラックス」でいきなりノックアウトされてしまった僕は、一時間九分のこのアルバムを聴終えるのは実にあっと言う間だった。それはそうとこの一曲目は本当にエリントンの曲なのか?

 

 

というのは「オン・ザ・ロング・サイド・オヴ・レイルロード・トラックス」という曲名も曲を聴いた感じも僕は全くの初耳で、あらゆるエリントンの録音で聴いたこともないし、その後インターネットが普及して充実した各種ディスコグラフィーがオンラインで見られるようになってからも全く記載がない。

 

 

1999年に『デューク・エレガント』が出た時に同様の疑問をネット上で漏したら、熱烈なエリントン・ファンにしてコンプリート・コレクターのるーべん(佐野ひろし)さんも「私も全く知りません」と言っていたもんなあ。2016年の現在に至るまで判明していない。ドクター・ジョン本人に聞いてみたい気分だよ。

 

 

二曲目の「アイム・ゴナ・ゴー・フィッシン」だってかなりのエリントン・ファンじゃないと知らない曲だろう。これはペギー・リーが歌詞を書いて1959年に歌った曲。ペギーの得意レパートリーの一つだったけれど、エリントン自身の録音はないはずだから、ペギーのファンじゃないと知らないかもしれない。

 

 

それら冒頭二曲以外は全てよく知られたエリントンの有名曲ばかり。一番感心したのが三曲目の「スウィングしなけりゃ意味ないね」。これを聴いた時に、あぁ、エリントンが1930年代に言った、それがないと意味がないという「スウィング」とは要はファンクのことなんだと納得した。

 

 

 

最高のファンク・チューンになっているじゃないか。これならジャズ・ファンではなくエリントンのこともよく知らないロック〜ソウル〜ファンクのリスナーだって絶対に好きになるはず。実際『デューク・エレガント』が素晴しいので、これでエリントンに興味を持つファンが当時は多かったもんね。

 

 

それで『デューク・エレガント』収録曲のエリントン自身による演奏を聴いてみたいというリスナーが続出し、それでいろんなCDをオススメしたけれど、みなさんだいたいどれもピンと来なかったらしい。そりゃそうだよね、「スウィングしなけりゃ意味ないね」だってとんでもない変貌ぶりだもん。

 

 

エリントン楽団の「スウィングしなけりゃ意味ないね」のオリジナル1932年録音はこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=-FvsgGp8rSE  歌っているのはアイヴィー・アンダースンで、『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィー・アンダースン』というSMEがリリースした二枚組編集盤の一枚目一曲目に収録されている。

 

 

この1932年当時のブランズウィックはコロンビア系レーベルだったので、何度も書いているようにエリントンの30年代コロンビア系録音全集がいまだ正規には存在しない現在、この曲も僕はその『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィー・アンダースン』で普段は聴いている。

 

 

ともかくそんな「スウィングしなけりゃ意味ないね」があんな風になっちゃうわけだからドクター・ジョンの解釈力には舌を巻くよね。そしてよく聴直してみたら、エリントンの書いたオリジナルがそんな風になり得る可能性を最初から秘めていたことにも気が付いて、それにも心の底から感服するしかない。

 

 

もう一曲、アルバム中最もファンクなフィーリングに仕上っていると感心し最も繰返し愛聴しているのが、日本盤では11曲目の「昔はよかったね」(シングス・エイント・ワット・ゼイ・ユースト・トゥ・ビー)。タイトでヘヴィな最高のインストルメンタル・ファンクなんだよね。

 

 

 

「昔はよかったね」は息子マーサー・エリントン名義のコンポーザー・クレジットになっているけれど、まあ父親の書いたものだろうな。これはジョニー・ホッジズ・オーケストラ名義の1941年録音がオリジナルだけど、それにはデューク・エリントンも参加しているので、実質的にはエリントンのリーダー録音に間違いないからだ。

 

 

 

お聴きになれば分る通り、ホッジズのアルト・サックスをフィーチャーした3コードの普通のジャズ・ブルーズなんだよね。ブルーズ形式だからドクター・ジョンがファンク風に料理しやすいのは確かだが、それにしても見事な変貌ぶり。

 

 

あ〜っと、なんだか今日もまた長くなってきたなあ。その他『デューク・エレガント』にはラテン・ファンクな「サテン・ドール」(こんなの他では絶対聴けないぜ)とか、これまたエキゾチック・インスト・ファンクになった「キャラヴァン」とか、滅多に聴けないミドル・テンポでグルーヴィーな「ムード・インディゴ」とか、面白いのばっかり。

 

 

もうやめておくけれど、『デューク・エレガント』については喋りたいことがもっと山ほどあってキリがない。多くが戦前に創られたエリントンの古典ジャズ曲を完全に現代ファンク化したこんなドクター・ジョンのアルバムこそ、デューク・エリントンという音楽家の本質、真の先進性を表現したものだろうね。だからこそマイルスはプリンスのことを「あいつはエリントンなんだ」と言ったに違いない。

2016/06/15

フィル・スペクターは音楽界に復帰できるのか?

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2003年だったか女優ラナ・クラークスンを殺害したということで、いまだに刑務所に収監されたままのフィル・スペクター。最高の音楽家だったんだけど出所できるのは2028年の見込だから、その時スペクターは88歳になる。音楽界に復帰できるかどうかちょっと分らないよなあ。

 

 

素晴しい音楽的才能と人格の素晴しさは全くなんの関係もないと以前も強調した(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-781e.html)。その時はチャーリー・パーカーの話が中心だったけれど、もっとよく分るのがフィル・スペクターだよなあ。最高の音楽家にして極悪人のフィル・スペクター。

 

 

音楽界に復帰できたとしても2028年のフィル・スペクターに仕事があるかどうか分らないような気がする。彼の創るサウンドは既に時代遅れかもしれないから。いやあでもそんなこともないか。あれだけ魅力的な音楽を次々と創り出し今でも聴続けられているから、やはり新作を望む人もいるだろう。

 

 

今の日本にだってフィル・スペクターのファンは多いし、音楽家のなかにも大瀧詠一(はもう死んじゃったけれど)や山下達郎のようにスペクターからの絶大な影響を隠さない人達だっているもんなあ。だからやはり88歳で出所したら音楽界に復帰して新作を創ってほしいと思う人が世界中にいるだろうね。

 

 

そんなどうなるか分らない先の話はおいといて、音楽家フィル・スペクターのやった仕事を手っ取り早く知るにはCD三枚組の『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』というアンソロジーが一番いいと思う。三枚組と言っても、もう一枚例のクリスマス・アルバムが入っているので正確には四枚組だ。

 

 

ただ『バック・トゥ・モノ』部分はCD三枚目までなんだよね。僕はその三枚よりも附属する『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター』の方が好きで、彼のやったアルバム単位での仕事では一番いいんじゃないかと思っているんだけど、これは個人的趣味嗜好だけの話だ。

 

 

フィル・スペクターの『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』は1991年にabkcoがリリースしたボックスだから、スペクターがまだ現役の頃だ。スペクター自身のバンド、テディ・ベアーズの1958年「トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム」にはじまる。これはヒットした曲だ。

 

 

テディ・ベアーズの1958年「トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム」はフィル・スペクターの処女録音。これがビルボードのチャートで一位になって、曲もアレンジも書きドラムス以外の全ての楽器を担当したスペクターの名前を一躍有名にした。このヒットで人気音楽家の仲間入りしたわけだ。

 

 

それでその後どんどんといろんな歌手のレコードで曲を書きアレンジしたりプロデュースしたりと超多忙な音楽家になり、特にロネッツとかクリスタルズなどのいわゆるガール・グループをたくさん手がけてヒットさせた。ロネッツもクリスタルズも『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』に何曲も入っている。

 

 

一番有名なのは間違いなくロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」だ。『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』ボックスでは二枚目の一曲目に収録されている代表的スペクター・サウンド。1963年に自身の所有するハリウッドのゴールド・スター・スタジオでフル・オーケストラを使った録音。

 

 

ウォール・オヴ・サウンドというスペクターの創る音に対する形容も、こういった1960年代前半のヴォーカル・グループでの仕事に対して使われるようになった。「ウォール・オヴ・サウンド」をいまさら説明する必要はないと思うけど、多くの楽器を複数用いてそれを多重録音(したかのように聞える)し、それをエコー処理した。

 

 

あの独特のエコーはもっぱらゴールド・スター・スタジオの独自の音響特性がもたらしたもので、あのスタジオはかなり狭いのに、そこに大勢の、場合によっては20人以上のミュージシャンを集めて一斉に録音させるから音が廻って、マイクが本来拾うべきではない余計な音も拾ってしまって、結果的にエコーになった。

 

 

だからあれは厳密にはエコー処理ではないのだ。スペクター・サウンドのほぼ全てを手がけたエンジニアのラリー・レヴィンも「あれはエコーではないんだ」と語っている。さらに本当は多重録音でもなかったらしい。同じ楽器の奏者を複数用いてユニゾンで演奏させたためにそう聞えるだけなんだとか。

 

 

フィル・スペクターはおそらく充分な音量と音圧がほしいと思って、そういう同じ楽器の複数奏者にユニゾンで演奏させる手法を思い付いたんだろう。多重録音を繰返したみたいなそんな分厚いサウンドと、あの独特のエコーみたいなものとが相俟って「ウォール・オヴ・サウンド」と呼ばれたわけだね。

 

 

ここまではほぼ誰でも知っているスペクター・サウンドの常識だ。僕が例えば彼の代表作品とされる前述のロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」などを聴いて魅力的だなと思うのは、実はそういうスペクターの重厚なサウンド創りとか、コピーされまくったドラムスの音ではじまる例のパターンとかではないんだよね。

 

 

いやもちろんそれも大変魅力的だけれど、もっといいと思うのが曲のメロディーのカワイらしさとロニー・スペクター(ヴェロニカ・ベネット)のチャーミングな歌声だ。歌詞はどこにでも転がっているようなごく普通のラヴ・ソングなんだけど、メロディがいいよね。

 

 

 

それを歌うロニー・スペクターの声のカワイくてチャーミングなことと言ったらないよね。「うぉううぉううぉううぉう」と繰返すあたりなんかタマランのだ。「ビー・マイ・ベイビー」一曲だけでロニー・スペクターは全米を、そして世界中を虜にしてファンを獲得した。それくらい魅力的なヴォーカルだ。

 

 

もちろんそれを引出したのが曲を書いたフィル・スペクターを含む三人と、アレンジャーのジャック・ニッチェと、ゴールド・スター・スタジオのエンジニアだったラリー・レヴィンだったことは言うまでもない。しかしロニーの声がああまでチャーミングじゃなかったら、世界中を虜にはしていないはずだ。

 

 

しかし僕はいつどこでロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」を初めて聴いたんだろう?全く憶えていないのだが、とにかく強く意識しはじめた頃には既によく知っている曲のような気がしていたから、それだけ大ヒットしたのが流れて耳に届いていたんだろう。今ではロネッツの単独盤CDも愛聴している僕。

 

 

『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』ボックスの中にはロネッツもう一つの代表曲「ベイビー、アイ・ラヴ・ユー」も当然入っているし、他に何曲もある。また前述の通り僕の大好きなフィル・スペクターによるクリスマス・アルバムでも数曲歌っている。最高にチャーミングなガール・グループだ。

 

 

『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』にはクリスタルズも数曲入っているし、あるいはやはりフィル・スペクターの代表的な仕事であるライチャス・ブラザーズの「ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン」なども入っている。ちょっと面白いのはアイク&ティナ・ターナーだなあ。

 

 

特にティナ・ターナーが「ラスト・ダンスはわたしに」を歌っているのは僕は『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』で聴くまで知らなかった。しかもそれがフィル・スペクターの仕事だったなんてね。でもこれはドク・ポーマスが書きドリフターズがオリジナルの曲だから、考えたら不思議じゃない。

 

 

というのはそのドリフターズ・ヴァージョンの「ラスト・ダンスはわたしに」をプロデュースしたのは例の高名なリーバー&ストーラーのコンビで、それが1950年代末の話。そしてその録音セッションには当時まだ無名で修業時代のフィル・スペクターが弟子のようにして立会っていたという話だからね。

 

 

そしてドリフターズのシングル盤「ラスト・ダンスはわたしに」でのリード・ヴォーカルはベン・E・キングで、フィル・スペクターは独立後のベン・E・キングの代表曲「スパニッシュ・ハーレム」を1960年に書いているもんね。それも『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』に収録されているよ。

 

 

『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』に入っているフィル・スペクターの仕事で僕が個人的に一番好きなのが、一枚目三曲目にあるそのベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」なのだ。素晴しい曲だよねえ。そしてこれのエンジニアが若き日のフィル・ラモーンなんだよね。

 

 

どうしてフィル・ラモーンの名前を出すかというと、彼は1970年代後半以後にビリー・ジョエルを手がけ成功させたプロデューサーだ。ビリー・ジョエルにはやはりフィル・ラモーンのプロデュースで1983年に『アン・イノセント・マン』というアルバムがあるよね。黒人音楽トリビュート・アルバムだ。

 

 

そのビリー・ジョエルの『アン・イノセント・マン」A面二曲目のアルバム・タイトル・ナンバーがまるでベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」そっくりなんだよね。間違いなくビリー・ジョエルとフィル・ラモーンは意識しているね、これは。

 

 

 

ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」はこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=OGd6CdtOqEE 非常によく似ているじゃないか。ビリー・ジョエルの「アン・イノセント・マン」はこれへのオマージュ曲に間違いない。前者のエンジニアもフィル・ラモーンの仕事で、後者のプロデュースも同じ人なわけだし。

 

 

ってことは『バック・トゥ・モノ(1958-1969)』三枚組(あるいは四枚組)ボックスで非常によく分るフィル・スペクターのやった仕事は、(フィル・ラモーンを通し)1983年のビリー・ジョエルまで繋がっているってことだよ。やっぱり絶大な影響力を持つ音楽家だった(過去形?)よねえ。

2016/06/14

最晩年のコロンビア録音もなかなかいいビリー・ホリデイ

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ビリー・ホリデイの録音は全部持っているつもりなんだけど、彼女の残した一番いいものは有名で名盤選によくあがるコモドア盤とかじゃなくて、間違いなく戦前のブランズウィックなどコロンビア系録音だよね。1933〜44年までのもの。だけど同じコロンビアへの録音では最晩年1958年の『レディ・イン・サテン』も案外悪くない。

 

 

みなさんご存知の通りある時期からのビリー・ホリデイは過度の飲酒・喫煙・麻薬癖で喉が荒れて声が枯れ伸びやかさがなくなってしまい、1930年代〜40年代初頭の録音で聴けた瑞々しい感じは全くなくなっている。だから最晩年のコロンビア録音盤なんか聴けないだろうと思われているかもしれない。

 

 

だけれどもある時油井正一さんが書いていて僕も納得したことなんだけど、最晩年1950年代末のビリー・ホリデイは声があまりにも枯果てた挙句にかえって逆に安定しているように聞える部分があって、それで58年の『レディ・イン・サテン』などは案外悪くないと思えてならないんだよね。

 

 

『レディ・イン・サテン』がいいと思えるもう二つの要因として、選曲が抜群にいいということと、クラウス・オガーマン編曲によるレイ・エリス・バンドのストリングス入りオーケストラ伴奏であるということがあるはずだ。この二つはコロンビアのプロデュースの勝利だ。

 

 

もっともビリー・ホリデイが1957年にコロンビアと(再)契約した際、彼女自身はネルスン・リドルの編曲・指揮によるオーケストラとの共演を希望していたらしく、どうやらそれはフランク・シナトラの一連のキャピトル盤を聴いてそう思ったようだ。彼女もまたシナトラのファンだったらしいから。

 

 

そう言われれば『レディ・イン・サテン』収録曲はシナトラにインスパイアされたようなレパートリーが多い。そのあたりも完全に僕好み。なんたって一曲目の「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」はシナトラのオリジナル・コンポジションで、1951年コロンビア録音で知られている曲。

 

 

シナトラ・オリジナル・ヴァージョンの「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」はシングル盤で発売されたものでアルバムには未収録だったので、僕はなかなか聴けなかった。21世になってコロンビア時代の完全集が出たので、それでようやく聴けたという次第。

 

 

以前書いたようにシナトラの大ファンである僕。これは別にマイルス・デイヴィスがシナトラ好きでシナトラの歌ったバラード曲のその解釈をそのままハーマン・ミュート・トランペットに置換えたような採り上げ方をしていることとは関係ない。単純にシナトラ好きなだけなんだよね。特にコロンビア時代の。

 

 

普通シナトラが好きで聴くというファンの多くは1953年のキャピトル移籍後の同社盤や、その後のリプリーズ時代とかを聴いているという人が中心じゃないかなあ。リプリーズ時代はともかくキャピトル時代は僕も大好きで全音源をコンプリートに持っているけれど、その前のコロンビア時代もかなり好きなのだ。

 

 

コロンビア時代はシナトラの声が若くてピチピチしているし伴奏のオーケストラ・アレンジもいいし、特に「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」や「エンブレイサブル・ユー」や「ジーズ・フーリッシュ・シングズ」や「ステラ・バイ・スターライト」や「ローラ」などバラード歌唱が見事だ。

 

 

ジャズ的なスリリングなスウィング感にはやや乏しい歌手であるシナトラで、実際ジャズ・ファンからはイマイチな評判だけど、ジャズとかポップスとかそういう枠を超えたところにいる人だと思うんだよね。その表現力は確かにキャピトル時代の方が磨きがかかっているけど、コロンビア時代だってかなりいいよ。

 

 

ビリー・ホリデイだってそういうコロンビア時代からシナトラ・ファンだったはず。そうじゃないとコロンビア時代のシングル曲である「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」を自分の『レディ・イン・サテン』で歌おうとは思わないだろう。しかもいきなり一曲目に持ってきているわけだし。

 

 

そのコロンビア時代のシナトラのシングル曲その他ラヴ・ソングの数々を、しかもキャピトル時代の、特にアルバム『イン・ザ・ウィー・スモール・アワーズ』でのネルスン・リドルのアレンジで歌いたいと思ったのが、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』制作の発端になっているという話だ。

 

 

まあ『レディ・イン・サテン』では「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」も「ユー・ドント・ノウ・ワット・ラヴ・イズ」も「フォー・オール・ウィ・ノウ」(これだけはレイ・エリス・バンドの演奏を聴いて気に入ったらしい)も「コートにすみれを」も、全部重くなりすぎているかもしれないけどさ。

 

 

同じコロンビア(系レーベル)時代でもかつて1940年代初頭までの録音で聴ける快活で伸びやかにスウィングする歌声は『レディ・イン・サテン』では全く聴けない。そもそもそういう主旨のアルバムではない。ラヴ・バラード集なんだから。それを考えてもなおやはり重いというか暗いのかもしれないけれどね。

 

 

『レディ・イン・サテン』では油井正一さんが指摘していたようにビリー・ホリデイの声はかえって安定していて、これ以前のヴァーヴ時代のような揺らいだ不安定な感じはしなくなっている。それが油井さんの言うように喉が荒れ果てた挙句のことなのかどうなのかは僕にはよく分らないが。

 

 

声も安定して出ているし(いやまあ出ていないけれども)、ラヴ・バラードでの表現力にはとんでもない深みと凄みを感じるし、クラウス・オガーマンのオーケストラ・アレンジがなんたって冴え渡っているし、『レディ・イン・サテン』はオリジナル・アルバム単位ではある意味ビリー・ホリデイの最高傑作かも。

 

 

世間一般的にどういう評価なのかあまりよく知らないんだけど僕はそう感じる。あくまでLPアルバム単位の時代になってからの作品ではという意味だけどね。ビリー・ホリデイはその歌手人生の大半がSP時代、すなわち一曲単位の時代の歌手だからそっちの方にもっといいものがたくさんある。

 

 

SP時代では書いているようにやはり1933〜44年のコロンビア系レーベルへの録音が最高だよね。これはビリー・ホリデイの生涯通してのベスト時代に間違いない。かつて日本ではCBSソニーから『ビリー・ホリデイの肖像』という一枚物LPで出ていたけれど、現在CDでは10枚組全集にまとめられているし、そんな大きなものでなくたって一枚物や二枚組のベスト盤が何種類もあるので、是非聴いてみてほしい。

 

 

そのCD10枚組コロンビア系録音全集こそがビリー・ホリデイの珠玉の名唱集であって、なんといってもバック・バンド(という言い方は不正確というか間違いなんだけど)の面々が超一流スウィング系ジャズメンばかりで、猛烈にスウィングして楽しいし、歌手自身の声もキラキラと輝いているもんね。

 

 

コロンビア系録音は元はビリー・ホリデイ名義の録音セッションではないものが多いから、彼女の歌はどの曲でも全部ワン・コーラスだけ。これは約三分間というSP時代の時間制約があったという理由だけでなく、多くがテディ・ウィルスン名義やベニー・グッドマン名義などの録音セッションだからだ。

 

 

しかも1944年以後のデッカやコモドアやヴァーヴや戦後のコロンビアなどへの録音と違って、戦前のコロンビア系レーベルへのそういう録音セッションはアレンジ料はなしという契約だったので、譜面のない実に簡単な打ち合せだけのヘッド・アレンジによるジャム・セッションみたいな一発勝負ばかり。

 

 

だから楽器奏者達によるエンディングなんか殆どの曲でグチャグチャになってしまっていて、これらコロンビア系レーベルへの録音集を僕同様昔から愛するファンでも、エンディングが成功していると言えるものはほんの数曲だけだという意見になる。でもそれを除けば文句なしだ。

 

 

ビリー・ホリデイの歌もワン・コーラスだけだけどそれで充分なんだよね。ワン・コーラスで充分ヴォーカル技量、声の伸びやかさ、スウィング感が理解できるし楽しめる。楽器奏者のソロなんかワン・コーラスどころか全て四小節とか八小節とかそんなのばっかりだけど、みんなそれで充分言切っているもんね。

 

 

やはりこういう1930年代後半のコロンビア系レーベルへのテディ・ウィルスン名義などの録音セッションは、スウィング期では間違いなく最高の録音集だね。これの多くにビリー・ホリデイが参加して歌っているのはプロデューサー、ジョン・ハモンドの意向だけど見事に大成功だ。

 

 

こういう戦前や戦後のコロンビア(系)録音に比べたら、妙に有名で名盤ガイドなどに常に載っているコモドア録音集なんかどこがいいんだか僕には分らない。ビリー・ホリデイといえばこの一曲みたいに言われる「奇妙な果実」だって人種差別問題の深刻さは伝わってくるけれど、音楽作品としてはどうなんだろうなあ?

2016/06/13

クラプトンはポップでメロウなのが持味かも

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口を開けばエリック・クラプトンの悪口ばかりなもんだから、僕はクラプトンが嫌いなんじゃないかと思われているかもしれないよね。でも好きか嫌いかだけを言うならば今でもかなり好きだ。そりゃ大学生の時にデレク・アンド・ザ・ドミノスを聴いて完全に惚れちゃった人だから、嫌いになんかなれないよ。

 

 

でもこれが音楽的に面白いかどうかとなれば全くの別問題で、クラプトンが良かったのはどう聴いても1970年代いっぱいまで。僕は甘いから1983年の『マニー・アンド・ザ・シガレッツ』までは聴ける。それ以後はほぼ全てダメ。特にクラプトンの本領であるはずのブルーズをやる時はどうにも聴きようがない。

 

 

1990年代以後のクラプトンがやるブルーズは、ギターも手癖のオンパレードになってしまっていて、ハイ一丁上がりみたいな安っぽいプレイだし、ヴォーカルに関してもエモーショナルになろうとするとガナってしまって、あれじゃあアメリカ黒人ブルーズをたくさん聴いているファンにはウケないね。

 

 

だいたいアメリカ黒人歌手達はマディ・ウォーターズを聴けば分るように、そんなに力まず感情も込め過ぎずサラリと歌っていると思うんだよね。僕が大好きだと前から言っている八代亜紀も「歌手は感情を込めない方がいい」と言っている。若い頃の銀座クラブ歌手時代に感情を込めずに歌ってみたらホステス達が泣きだしたんだそうだ。

 

 

さてさて1960年代のヤードバーズ〜ブルーズブレイカーズ〜クリーム以来クラプトンにとってはブルーズこそが最大の自己表現だったはずで、それは70年代に入ってからも変っていないしそれ以後も同じだから、ブルーズ演唱がダメになったクラプトンなんて全く取柄がないだろう?と思うと、実はそうでもないよ。

 

 

ブルーズやブルーズ・ルーツのハードなロック路線のクラプトンをこそ愛している多くのクラプトン・ファンやロック・リスナーのみなさんには絶対に賛同していただけないと思うんだけど、実は彼はメロウでセンチメンタルなバラードの方が似合っているんじゃないかという気が、僕はここ15年ほどしている。

 

 

僕が最初にそれに気が付き始めたのは1991年リリースの二枚組ライヴ・アルバム『24・ナイツ』を聴き返していた時のこと。ご存知の通りこの二枚組は、この当時クラプトンが恒例にしていたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの一連のライヴ・コンサートから抜粋して収録しているもの。

 

 

『24・ナイツ』は四部構成。一枚目前半が四人編成でクリーム時代の曲を、一枚目後半が多くの黒人ブルーズマンを迎えてやるブルーズ・サイド、二枚目前半が当時のレギュラー・バンドを基にした九人編成で当時の新曲を中心に、そして二枚目後半はオーケストラが入って三曲という具合で、かなり多彩。

 

 

1991年のリリース時に聴いた時の『24・ナイツ』は、クリーム時代のいわば懐メロをやった一枚目前半の四曲(「ラニン・オン・フェイス」だけ違う)と、当時の最新バンドでやった二枚目前半の四曲がいいなあと思っていて、残りのブルーズ・サイドとオーケストラ・サイドはどこがいいのか分らなかった。

 

 

一枚目後半四曲のブルーズ・サイドに関しては今でもちっとも良さが分らない。特にブルーズブレイカーズ時代からの定番得意曲「ハヴ・ユー・エヴァー・ラヴド・ア・ウーマン」がひどい。なんだこのこざっぱりした清潔感漂う演唱は?!ブルーズじゃないね、これ。

 

 

 

ブルーズってのはもっと猥雑でスケベでエロくて汚いもんだよ。「ハヴ・ユー・エヴァー・ラヴド・ア・ウーマン」も曲調も歌詞もそういう曲だ。クラプトンだって1970年代いっぱいまではそういう泥臭いプレイだったのに、どうしてこんな清潔感満載な感じになっちゃっているんだろうなあ?

 

 

1990年代以後のクラプトンがやるブルーズはどれもこれもこんなような雰囲気で清潔極まりなく、『24・ナイツ』の次作に当るヒット作『アンプラグド』でたくさんやっている(当然アクースティックな)ブルーズだって、その次のスタジオ作によるブルーズ・アルバム『フロム・ザ・クレイドル』だって同じだ。

 

 

特に『アンプラグド』は大ヒットして、このMTVアンプラグドという企画番組の知名度を一躍上げたものだから、あそこらへんからクラプトンや彼がやるブルーズに入門したファンも多いはず。だからあんなに小綺麗でこざっぱりした清潔な感じでブルーズが継承されるのかと思うと、かなりの危惧を抱く。

 

 

とまあ1990年代以後のクラプトンのブルーズはダメなんであって、ブルーズという音楽はああいうもんだと思われちゃ凄く困るんだけど、メロウでセンティメンタルなバラードはそんなに悪くない。というかむしろかなり良くなっているよね90年代以後。それが『24・ナイツ』のオーケストラ・サイドによく表れている。

 

 

『24・ナイツ』二枚目後半のオーケストラ・サイドは「ベル・ボトム・ブルーズ」「ハード・タイムズ」「エッジ・オヴ・ダークネス」の三曲。「ベル・ボトム・ブルーズ」はご存知デレク・アンド・ザ・ドミノスの、そして「ハード・タイムズ」はレイ・チャールズの、最後の一曲はこれまたクラプトンのオリジナル。

 

 

「エッジ・オヴ・ダークネス」は、1985年の同名サウンドトラック盤のためにクラプトンと、主に映画やドラマの音楽を創っていたオーケストラ編曲家であるマイケル・ケイメンが書いた曲。そのマイケル・ケイメンが『24・ナイツ』オーケストラ・サイドの他の曲でも編曲・指揮をしている。

 

 

『24・ナイツ』でも「エッジ・オヴ・ダークネス」は劇的で壮大なオーケストレイションを伴奏にクラプトンが弾くギターがフィーチャーされるインストルメンタル曲で、まああんまり面白くもないように今でも聞えるんだけど、その前の「ベル・ボトム・ブルーズ」と「ハード・タイムズ」がいいんだよね。

 

 

特にレイ・チャールズ・ナンバーの「ハード・タイムズ」がいい。もちろんリズム&ブルーズ・ナンバーのはずだけど、レイがアトランティックに録音したオリジナルからそんなに真っ黒けでもなく、ポップでメロウな感じのバラードなんだよね。

 

 

 

上で貼ったのをお聴きになれば分る通り、クラプトンはほんの一瞬だけ声を張上げてガナリかける瞬間もありはするものの、オーケストラ伴奏に乗って全体的にはスムースな声でストレートに歌っているし、ギター・ソロはなんでもない普通の感じで聴応えはないけれど、まあでもさほど悪くもないじゃないか。

 

 

ご存知の通りこのレイ・チャールズ・ナンバーをクラプトンは1989年の『ジャーニーマン』で最初に採り上げている。それにはなんとあのハンク・クロウフォードが参加してアルト・サックス・ソロを吹いているんだなあ。ハンク・クロウフォードとはもちろんレイ・チャールズと一緒にやっていた人だ。

 

 

レイ・チャールズ・ヴァージョンの「ハード・タイムズ」でサックス・ソロを吹くのはご存知デイヴィッド・ニューマン。クラプトン・ヴァージョンで吹くハンク・クロウフォードもなかなかいい。そして『ジャーニーマン』にはクロウフォードを最大の影響源とするデイヴィッド・サンボーンも参加している。

 

 

そしてこの『ジャーニーマン』あたりから、クラプトンのヴォーカルには明らかにレイ・チャールズの痕跡が聞取れるようになっていて、それとともに歌うのが上手くなってきている。ギター・プレイに関してはクリシェ(手癖の常套句)が多くなってあんまり面白くないんだけど、ヴォーカルだけは上達しているんだよね。

 

 

でも『ジャーニーマン』を当時聴いていた頃には僕はそれに気が付いてなくて、「ハード・タイムズ」だってまあまあだなと思っていた程度だったのに、『24・ナイツ』収録の同曲オーケストラ・ヴァージョンを15年ほど前に聴き直していて、ハッ!と気が付いて、この人ヴォーカルは良くなってきているなと感じはじめたのだった。

 

 

それに気が付いてこれ以前のクラプトンのアルバムをいろいろと聴直すと、どうやらファンからは散々な評判らしいフィル・コリンズ・プロデュースによる二作、1985年の『ビハインド・ザ・サン』と86年の『オーガスト』のあたりからクラプトンの歌い方が少し変化しはじめているんだよね。この二つは失敗作となっているけどね。

 

 

ヤードバーズでデビューした頃のクラプトンはもちろん専業ギタリスト。歌いはじめたのは1966年ブルーズブレイカーズでやった「ランブリン・オン・マイ・マインド」からだけど、当時のクラプトンは歌の方には全く自信がなく、確かにありゃちょっとなあ。クリームでもほぼ似たようなもんだしねえ。

 

 

熱心なクラプトン・ファンは「いや、クリームの頃から既にクラプトンのヴォーカルはいいんだぞ」と言うんだけど、彼が手本にしたであろうアメリカ黒人ブルーズ〜R&B歌手の旨味を知っていると、やっぱりかなり物足りないよねえ。それが1970年代いっぱいまで続いている。一生懸命歌ってはいるけれど。

 

 

その一生懸命さとエモーションゆえに好感は持てる1970年代末までのクラプトンのヴォーカルが、それだけでなく本当に上手くなりはじめるのが、前述の通りフィル・コリンズと組んだ80年代中期の作品から。そして本格的には90年代に入ったあたりからレイ・チャールズの影響を基に上達している。

 

 

そんなことが『24・ナイツ』ヴァージョンの「ハード・タイムズ」を聴直していた15年ほど前に分って、それでこの二枚組ライヴ・アルバム全体も聴直すと、一番いいのが二枚目前半にある九人編成での「ワンダフル・トゥナイト」なんだよね。ご存知クラプトンの書いたオリジナル曲では最もメロウなバラード。

 

 

『24・ナイツ』ヴァージョンの「ワンダフル・トゥナイト」は九分以上もあって、1977年『スローハンド』収録のオリジナルをドラマティックに拡大したようなアレンジで、特にメイン・パートが終ってからのケイティ・カスーンのスキャットが感動的でいい。

 

 

 

こういうのを聴くにつけ、エリック・クラプトンという音楽家はどうやら彼がこだわり続けているブルーズやそれをベースにしたエッジの効いたロックよりも、メロウでセンティメンタルなバラードの方が曲創りも歌もギターも本領を発揮する人なんじゃないかという、上で書いたような結論に至ってしまうんだなあ。

 

 

振返ってみれば「ワンダフル・トゥナイト」の前から、デレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』にもスウィートなバラードがあるし、『461・オーシャン・ブルヴァード』にも「ギヴ・ミー・ストレングス」や「プリーズ・ウィズ・ミー」や「レット・イット・グロウ」があるもんね。

 

 

レイ・チャールズの影響を消化して上手くなってきている1990年代以後のクラプトンのヴォーカルと、そういうメロウでセンティメンタルなバラードや、そして今日は書く余裕がなくなったけれど、時々歌う(ジャズ歌手がよくやるような)古いポップ・ソングなどこそがクラプトン本来の資質なのかもしれないなあ。

2016/06/12

ミンガス・コンボの謎の響き

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チャールズ・ミンガスのスモール・コンボ録音って、僕が聴いた範囲ではどれも全部響きが豊かというかまるでビッグ・バンドみたいな音がする。モダン・ジャズに限らず全ジャズ界でもこんなのはミンガスのバンドだけだ。デューク・エリントンのコンボ録音もちょっとそんな感じだけど、ミンガスの方により強く感じる。

 

 

ご存知の通りミンガスにはビッグ・バンド作品もある。なかでも以前書いた通り1977年の『クンビア・アンド・ジャズ・フュージョン』が僕は大のお気に入りで、コンボ録音もなにもかも全部含めてのミンガスの最高傑作だと思っているのだが、コンボものでもビッグ・バンド・サウンドみたいに聞えるというのは不思議だよなあ。

 

 

どうしてそんなことになっているのか、僕の耳がオカシイだけなのかちょっと分らないというか謎だなあ。マジックだとしか思えない。例えばミンガス初期の傑作である1956年の『直立猿人』はジャッキー・マクリーンとJ・R・モントローズという2サックス編成なのだが、一曲目からやはり豊かな響きだ。

 

 

 

サックス二人+ピアノ・トリオという普通のモダン・ジャズのコンボ編成なのに、どうしてこんな響きなんだろう?一曲目「直立猿人」は何度か書いたように30年近くも面白さが理解できなかったけど、最近はなかなか凄いと実感できるようになっている。こういうトーン・ポエムみたいなのはあまり好きじゃないが。

 

 

「直立猿人」という曲は普通のいわゆる個人のソロ廻し中心ではない。10分に及ぶ演奏時間の大部分が巧妙に計算され尽したアンサンブルを中心に展開するのもモダン・ジャズではやや珍しい。ミンガスの作品全体を通してもあまりない。

 

 

最初ジャズはホーン・アンサンブルによる音楽として誕生し、誕生当時は個人のソロというものがなかったということは以前も書いた。だからソロがないミンガスの作品というのはいわば一種の先祖帰りだ。ミンガスは熱烈なチャーリー・パーカー信者で、アドリブ・ソロ命のビバップからスタートした人だけど、同時にエリントン的アンサンブルの影響も強く受けている。

 

 

『直立猿人』に続く1957年の『道化師』でもホーンはサックスとトロンボーン(常連のジミー・ネッパー)の二人だけ。それなのに冒頭の「ハイチ人の戦闘の歌」からやはりゴージャスな響き。特に冒頭でトロンボーンが吹くメロディに絡む人間の叫び声みたいなのはサックスだろうけど不思議な音だ。

 

 

 

その後もトロンボーン・ソロの背後でストップ・タイムで入るリフはサックス一人によるもののはずなのに、僕の耳にはなぜだか複数のサックス奏者によって奏でられているように聞えるから、一体全体どうなっているのかサッパリ分らない。おそらくそのサックスのリフはピアノと同時にユニゾンで音を出しているせいなのかなとも思うけれど。

 

 

植草甚一さんはこの「ハイチ人の戦闘の歌」をえらく褒めていて、ジャズ入門者向けの三曲のうちの一つとして大推薦していた。この曲では前年の「直立猿人」とは違って一応個人の普通のソロ廻しで曲が展開するし、特に後半のミンガスのベース・ソロは聴き物だ。ところでこれ、どうして「ハイチ」なんだろう?

 

 

ほんのちょっとだけハイチ音楽も聴く僕なのだが、そのかなり少ない経験からするとミンガスの「ハイチ人の戦闘の歌」には音楽的なハイチ要素は見当らない。ミンガスのことだからなにか政治的・社会的・反人種差別的な意味合いを込めたものだったのだろうか?

 

 

1962年になってようやく発売された同じ57年録音の『メキシコの想い出』になるとトランペット+トロンボーン+サックスの三管編成で、二管でもそんな具合のミンガスなんだから三管だともうこれはどう聴いてもビッグ・バンド・サウンドにしか聞えないね。

 

 

油井正一さんは1977年の『クンビア・アンド・ジャズ・フュージョン』が出るまで『メキシコの想い出』をミンガスの最高傑作だと評価していたらしい。まあミンガス自身が同じことを62年のリリース時に言っているからね。LPアルバムではラストだった「フラミンゴ」がこの上なく美しい。

 

 

1960年キャンディッド録音の『チャールズ・ミンガス・プリゼンツ・チャールズ・ミンガス』ではエリック・ドルフィーが最高に素晴しい演奏を聴かせるのだが、これなんかピアニストもおらずトランペット+サックス(あるいはバスクラ)+ベース+ドラムスの四人編成での録音だということが信じがたい。

 

 

特に僕が一番好きなB面一曲目の「ワット・ラヴ」の出だしなんか、二管だけのアンサンブルなのにどうしてこんな豊かで広がりのあるサウンドなんだろう?ちょっとオカシイなあ。<コンボ=ビッグ・バンド>というミンガス・マジックをミンガスの全アルバムで僕が一番感じる瞬間がそこなんだよね。

 

 

 

「ワット・ラヴ」はその後は普通に個人のソロが続く。まずトランペットのテッド・カースン、次いでミンガスのベース、そしてドルフィーによる圧巻のバス・クラリネット・ソロが来る。以前も書いたようにそのドルフィーのバスクラとミンガスのベースによる対話が素晴しい。

 

 

続くB面二曲目の「オール・ザ・シングス・ユー・クッド・ビー・バイ・ナウ・イフ・シグモンド・フルーズ・ワイフ・ワズ・ユア・マザー」だって、冒頭のアンサンブルは二管だけによるものだとは到底聞えないサウンドだ。これらB面二曲があるおかげで、スモール・コンボ編成でのミンガス作品ではこの『プリゼンツ・チャールズ・ミンガス』が僕の一番のお気に入り。

 

 

 

『プリゼンツ・チャールズ・ミンガス』の次にコンボ編成のミンガスで好きなのが1961年アトランティック録音の『オー・ヤー』。これはいかにもアトランティックらしい泥臭くて野太いブルージーな音楽だ。ローランド・カークも入った三管編成だから当然ミンガスらしいゴージャス・サウンド。

 

 

ドルフィーもカークも自身のリーダー・アルバムより(それももちろん最高だけど)、ミンガスのバンドでの録音がもっと好きで出来もいいと思っている僕なんだけど、それはひとえにミンガスのバンドではマジックだとしか思えない摩訶不思議な響きのサックス(やバスクラなど)に聞えるからなのだ。

 

 

そのちょっと前の1959年コロンビア録音の『ミンガス・アー・アム』。一曲目の「ベター・ギット・イット・イン・ユア・ソウル」が、後年ロック・ミュージシャン達によるカヴァーで有名になった「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」より断然好きなアルバムで、五管編成だから文句なしのビッグ・バンド・サウンド。

 

 

 

曲単位ではおそらく「ベター・ギット・イット・イン・ユア・ソウル」が一番好きなミンガス・オリジナル。これを1970年代のミンガス・バンド在籍経験のあるテナー・サックス奏者のジョージ・アダムズが、1991年のマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルで披露したのを僕は生で聴いた。

 

 

その時のジョージ・アダムズ・バンドは、ホーン楽器は他にハンニバル・マーヴィン・ピータースンのトランペットだけで、コード楽器がエレキ・ギター一本、あとはベースとドラムスという編成だった。この時の「ベター・ギット・イット・イン・ユア・ソウル」もミンガス本人はいないのに二管だけでやはり広がりのある響きだった。

 

 

ミンガスの死後でもそうだったということは、ミンガスによるスモール・コンボ録音がまるでビッグ・バンドみたいに響くというのは、ミンガスの存在のあるなしに関係なく、どうやらミンガスのコンポジション、書く譜面そのものに秘密があったのだとしか思えないなあ。

 

 

僕なんかに作曲法の秘密が分るわけがないから、そのあたりがちゃんと分る方に一度ミンガスの譜面をじっくり分析してほしいと思っている。ミンガスの場合はビッグ・バンド作品の方がホーンの響きはタイトに聞えて、コンボ作品の方がボワ〜ッと広がっているという、僕には完全なる謎、マジックだ。

 

 

デューク・エリントンとかセロニアス・モンクとかチャールズ・ミンガスとか、あういう人達のホーン・コンポジション/アレンジメントはどういう仕組になっているんだかサッパリ分らないものばかりだよなあ。謎だらけだからこそ惹かれるし、分らないからこそ一層魅力的に聞えるんだろうけどね。

2016/06/11

1950年代のキューバのラジオから〜昭和エロ歌謡まで

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なんだかよく分らないのだが、自室のCD棚に『ラジオ・キューバ』という二枚のCDがある。ゴールデン・ウィークの時期にちょっとCD棚の整理をしていたら出てきたんだけど、全く聴いたような憶えがない。おそらく買ってから一回も聴いてないんじゃないかなあ。間違いなくジャケ買いだね。上掲のような感じだもん。

 

 

それでようやく初めて聴いてみた『ラジオ・キューバ』のヴォルメン・ウノとドスの二枚。これ、最高じゃないか。どうして今まで聴いていなかったんだ?僕の持っているのは輸入盤。ジャケット裏のクレジットを見ると Universal Music Venezuela のリリースになっている。

 

 

リリース年は二枚とも2000年だ。しかしキューバ音楽のCDを2000年にどうしてヴェネスエーラの会社が出しているんだろう?ラテン・アメリカの音楽マーケットについてはなにも知らない僕なので、どなたかお分りになる方に教えていただきたい。簡単な(なぜか)英語の解説文があるだけ。

 

 

その英文解説を読むと、この『ラジオ・キューバ』二枚に収録されている音源は、どうやらキューバのラジオ・プログレーソというラジオ局が1950年代に放送した音源なんだそうだ。チェ・ゲバラやフィデル・カストロらによるキューバ革命が成功したのが1959年だから、それ以前のものだ。音楽的には爛熟期にあたる。

 

 

もちろん革命前のキューバは名目的には旧宗主国スペインから独立した国であったけれど、実質的にはアメリカの属国のようなもので、政治的・経済的にアメリカの一部で庭みたいなもの。アメリカ人のためのリゾート地として観光産業は賑わっていたので、ホテルやクラブで多くのバンドが観光客向けに演奏していた。

 

 

政治的・経済的にアメリカの属国状態をようやく抜出して真の意味での独立国としてキューバが歩み始めるのは1959年の革命成功後なんだけど、ことキューバのポピュラー・ミュージックの世界に限って言えば、それ以前の時代のものが魅力的だったりするから、なんとも複雑な気分だよなあ。

 

 

1959年革命後のキューバ音楽が再び面白くなるのは、私見では1990年代からじゃないかなあ。かろうじて1960年代はじめまでフィーリンがあったくらいで、そのフィーリンだって1950年代が最盛期だったわけだしなあ。90年代には例の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』があった。

 

 

全世界にキューバ音楽の楽しさを大きく拡散し、世界中でそして日本でもキューバ音楽のファンが増えたのがやはり1997年の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』によってなんだろう。だって普段キューバ音楽とは縁の薄そうな北米合衆国ブルーズ〜ロック・ライターの陶守さんだってよく話をするくらいだもんなあ。

 

 

でもあの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』はもちろん音楽的にも悪くないんだけど(だって全員このプロジェクトなんか関係なく活動していたキューバ人音楽家で、コンパイ・セグンドなんか1907年生まれだもんね)、「これこそがキューバ音楽だ」みたいなことを言う人がいるのには困惑する。

 

 

確かに『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の音楽は悪くはないし、特に同名映画の方は普段あまり観られないキューバ国内の風景や演唱シーンがたくさん観られたので僕も楽しかった。そしてそれと関係あるのかどうか知らないがEGREMの音源がいろいろCDリリースされたりして、1990年代後半は賑わってきたのは確か。

 

 

そしてそういう流れで1990年代以後キューバ音楽が耳目を集めるようになったのは喜ばしいことだと思うけれど、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』とそれに関連する音楽家のCDを聴いて事足れりとするのではちょっと寂しい。キューバ音楽には昔からいいものがたくさんあるんだ。

 

 

そういうわけで書いたように政治・経済事情的には複雑な気分なんだけど、やはりキューバの大衆音楽がチャーミングだったのは1959年の革命前だ。ちょっと前置が長くなったけれど、CD『ラジオ・キューバ』二枚は革命前50年代のラジオ・プログレーソの放送音源だから、こりゃホント魅力的。

 

 

もちろんこんなCD二枚を出せたのも、かの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』以後の盛上がりと、それがきっかけでそれ以前のキューバ音楽にも多くの人の目が向くようになったおかげではあるんだろうけれどね。でも『ブエナ・ビスタ』がきっかけなら『ラジオ・キューバ』みたいなのも聴いてほしい。

 

 

『ラジオ・キューバ』の二枚。一枚目はどっちかというとアップ・ビートなキューバン・リズムが効いたものが多く、マンボみたいなのやチャチャチャみたいなのが多い。それに対し二枚目の方はボレーロ風なものが中心になっているように僕の耳には聞える。そういう主旨で二枚に分けてコンパイルされたのかもしれない。

 

 

『ラジオ・キューバ』一枚目の一曲目「ケ・テ・ペディ」はネロ・ソーサと彼のコンフントによるいかにもキューバ音楽というリズムのボレーロ。これがいきなり魅力的で、買ってからなぜだか長年聴いていなかった僕はもう完全に惚れちゃった。ネロ・ソーサの歌も伴奏のビッグ・バンドもいいね。

 

 

そのネロ・ソーサが在籍していたコンフント・カシーノが二曲目で「アヴェントゥレーラ」。ハバナで活躍した人気バンドだよね。これもいいリズムだ。三曲目の「ノ・テ・インポルテ・サベール」はレネ・トゥーゼの名曲だからご存知の方も多いはず。これはフィーリンだね。つまりモダンなボレーロ。

 

 

そのフィーリン・ナンバー「ノ・テ・インポルテ・サベール」を歌うカルロス・ディアスの伴奏をしているのがエルマノス・カストロの楽団で、解説文に書いてある曲目一覧を見ると『ラジオ・キューバ』二枚の音源でかなり多くの曲の伴奏をしている。ってことはラジオ・プログレーソのハウス・バンドだったのだろうか?

 

 

エルマノス・カストロの楽団、『ラジオ・キューバ』のクレジットでは二種類の記述のされ方をしていて、単にロス・エルマノス・カストロとなっているのと、ラ・オルケスタ・デ・ロス・エルマノス・カストロとなっているのがあるんだけど、音を聴くとどっちも同じカストロの楽団と見て間違いないだろう。

 

 

『ラジオ・キューバ』収録音源のうち、そのカストロの楽団が伴奏しているもので世界でも日本でも一番有名なのは間違いなく二枚目14曲目の「ミ・オンブレ」だ。最初に聴いた時に、あっ、これは知っている曲だぞ、確か誰か北米女性ジャズ歌手が歌っていたぞと思ったんだけど、でも誰の歌うどの曲なのか思い出せなかった。

 

 

本当に旋律だけよく聴き憶えのある「ミ・オンブレ」。もどかしくて仕方がないので、なんの手がかりもないけれど、スペイン語の「ミ・オンブレ」は英語にしたら「マイ・マン」だから、ひょっとしてビリー・ホリデイの得意曲だったあれか?と当りを付けて聴いてみたらビンゴだった。まさに同じ曲だ。

 

 

ビリー・ホリデイの「マイ・マン」は元は「モン・オム」というフランスの曲だけど、有名にしたのは間違いなくビリー・ホリデイ・ヴァージョン。彼女はブランズウィック(コロンビア)時代の1937年、デッカ時代の49年、ヴァーヴ時代の53年とライヴで56/57年と頻繁に録音している。

 

 

『ラジオ・キューバ』に入っているカストロ楽団の伴奏でロシータ・フォルネスが歌う「ミ・オンブレ」が何年の録音か分らない(というかこの二枚の音源は全部録音年や放送年月日が書かれていない)んだけど、間違いなくビリー・ホリデイよりは後だから、やはりそのカヴァーなんだろうね。

 

 

なお、これはカストロ楽団が伴奏をしたもののうちの最有名曲という意味であって、そうでなければ一枚目六曲目の「エル・マニセロ」、すなわち「南京豆売り」が間違いなく世界的に最も有名な曲。1931年にエリントン楽団も録音したり、その他世界中でカヴァーされたキューバ音楽の古典中の古典だもんね。

 

 

『ラジオ・キューバ』の二枚目にはもう一つ日本の歌謡曲ファンには馴染み深い曲があって、12曲目の「コラソン・デ・メロン」。この曲名でお分りの通り森山加代子が「メロンの気持」という直訳題で1960年(昭和35年)に歌ってヒットさせているから、古いものが好きなファンならみんな知っている曲だ。

 

 

「メロンの気持」はゴールデン・ハーフ(憶えていらっしゃるでしょうか?)が1974年にカヴァーしているから、僕の世代だとこっちだ。でも森山加代子ヴァージョンの方が魅力的なんだよね。ゴールデン・ハーフはデビュー・シングルが「黄色いサクランボ」でこれもスリー・キャッツのカヴァー。

 

 

スリー・キャッツだって僕はリアルタイムでは全然知らず(森山加代子も「白い蝶のサンバ」から)、ゴールデン・ハーフの歌う「黄色いサクランボ」を面白いなあと思ってテレビで見聴きしていた世代なんだけど、後になってスリー・キャッツのを聴いたら断然そっちの方がいいもんね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=DRfogTcWCS4
(今確認したらこのYouTube音源は再生できなくなっているし、探しても他に上がっていないのが残念極まりない。最高にスケベなんだけどなあ。)

 

 

どうだろうこのエロ歌謡は?最高じゃないか。なんでもあまりにも色情的だというので発売禁止だったか放送禁止だったかになったとかいう話も伝え聞いている。そりゃこんな雰囲気だもんねえ。しかもこれ、ラテン的というかキューバ歌謡じゃないかなあ。

 

 

昭和エロ歌謡と今日の本題である『ラジオ・キューバ』がどうにかこうにか繋がっただろうか?というよりですね、こういう1960年代の日本の歌謡曲にはラテンやキューバなフィーリングのものがたくさんあって、実際「メロンの気持」みたいに日本語詞を付けてそのままカヴァーしたりしていたわけだよね。

 

 

そしてそういう日本のラテン風歌謡曲のベースになっていたのが、『ラジオ・キューバ』CD二枚などその他で聴ける1950年代のキューバン・ミュージックだったと思うのだ。『ラジオ・キューバ』の二枚目には僕の最愛曲「シボネイ」もあって、50年代とは思えないレトロなチャランガで、これもイイね。

2016/06/10

「オレンジ・レディ」で探るマイルスとウェザー・リポートの関係

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ウェザー・リポートのデビュー・アルバムに収録されている方が発売はかなり早かったので、そちらで有名になったであろうジョー・ザヴィヌルのオリジナル曲「オレンジ・レディ」。発売は後になったけれど録音はマイルス・デイヴィスの方が先。というかそもそもマイルスのためにザヴィヌルが提供した曲だ。

 

 

マイルスによる「オレンジ・レディ」の録音は1969年11月19日。この日四曲録音しているが、ザヴィヌルが書いた曲であるにも関わらず、「オレンジ・レディ」にだけザヴィヌル自身は演奏に参加していないというのが不思議。ザヴィヌルがマイルスのために書いた曲の録音に演奏で参加していないというのはこれだけ。

 

 

ザヴィヌルがマイルスのために書いた曲を録音順に列挙すると、「アセント」「ディレクションズ」(1968/11)「イン・ア・サイレント・ウェイ」(69/2)「ファラオズ・ダンス」(69/8)「オレンジ・レディ」(69/11)「ダブル・イメージ」(70/1)「リコレクションズ」(70/2)で全部。

 

 

それらは「オレンジ・レディ」を除き全てにザヴィヌル自身がエレピかオルガンで演奏にも参加しているから、どうして「オレンジ・レディ」でだけ弾いていないのか理由がちょっと分らないんだけど、おそらくスタジオ現場にいることはいたんだろうね。

 

 

その「オレンジ・レディ」のマイルスによる録音が初めて世に出たのは1973年4月発売の『ビッグ・ファン』という二枚組LPでだった。しかしこの時は一枚目A面いっぱいを占める「グレイト・エクスペクテイションズ」の後半部分として一繋がりで並んでいて、曲名すら書かれていなかった。

 

 

もちろん録音セッションから一繋がりで演奏されていたわけではなく、「グレイト・エクスペクテイションズ」「オレンジ・レディ」それぞれ別個に録音されていたのを、『ビッグ・ファン』に収録する際に例によってテオ・マセロが編集で繋げただけ。『ザ・コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』にはオリジナル通り別個の曲として収録されている。

 

 

マイルスの1974年『ビッグ・ファン』発売時に曲名も作曲者名も書かれていなかった理由は、間違いなく「オレンジ・レディ」のウェザー・リポートによるヴァージョンの方が三年も前に発売されていたからだ。ウェザー・リポートによる同曲の録音は1971年2月で、収録したデビュー・アルバムが同年五月にリリースされている。録音はマイルスの方が一年以上も早かったのになぜかお蔵入りしていた。

 

 

ザヴィヌルがウェザー・リポートのデビュー・アルバムに「オレンジ・レディ」を含めたのも、マイルス・ヴァージョンがなかなか発売されないからだったに違いない。実際、即座に発売された「イン・ア・サイレント・ウェイ」などはウェザー・リポートではスタジオ録音していない。

 

 

同じようにマイルスと録音したにもかかわらずそれが1981年までリリースされなかった「ディレクションズ」も、やはりウェザー・リポートでスタジオ録音もライヴ録音もしている。「ダブル・イメージ」は短縮編集ヴァージョンがマイルスの『ライヴ・イーヴル』に収録されて1971年に発売されている。

 

 

それら以外の「アセント」「ファラオズ・ダンス」は作曲者のザヴィヌル自身は特に強い関心もなかったのか、自分のソロやウェザー・リポートでは全く録音もライヴ演奏もしていない。また残る一曲「リコレクションズ」は「イン・ア・サイレント・ウェイ」と異名同曲だと以前指摘した。

 

 

 

「オレンジ・レディ」に関してはマイルス・ヴァージョンが『ビッグ・ファン』で発売された際、前述の通り作曲者名はおろか曲名すら書かれておらず、「グレイト・エクスペクテイションズ」の後半部みたいになっていたけれど、これはもう聴いた全員がウェザー・リポートで知っているぞと思ったわけだ。

 

 

マイルス・ヴァージョンの「オレンジ・レディ」を貼っておこう→ https://www.youtube.com/watch?v=YXLteGDyUyw  一方、録音はこれの一年三ヶ月後のウェザー・リポート・ヴァージョンはこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=dTIw8x9G5gQ  クレジットがなくても同じ曲だと全員分るよね。

 

 

フェンダー・ローズとソプラノ・サックスとウッド・ベースのトリオをメインにパーカッションなどが彩りを添えるウェザー・リポート・ヴァージョンはほぼ全編にわたりテンポがかなり緩い。それに対してお聴きになれば分る通りマイルス・ヴァージョンは途中からリズムが活発になるのが特徴。

 

 

そういうのがやはりこの1969〜71年頃のザヴィヌルとマイルスの音楽性の最大の違いだろう。マイルスにとってはなんといってもリズムこそが全てだった。「オレンジ・レディ」でもチック・コリアの弾くリズミカルなフレーズに導かれ、ドラムスのビリー・コブハムとパーカッションのアイアート・モレイラが活躍している。

 

 

アイアート・モレイラはウェザー・リポートの「オレンジ・レディ」を含むデビュー・アルバム全曲にも参加しているから、やはりそのあたりの両者のリズム感覚の違いを肌で感じ取っていたはず。当時ウェザー・リポートからもバンドの正式メンバーにと誘われていたのにマイルス・バンドの方を選んだのは、それも理由の一つだったんだろう。

 

 

「オレンジ・レディ」マイルス・ヴァージョンの方にはシタール、タブラ、タンブーラが入っていて、サウンド・カラーが多彩だよね。この種のインド楽器をマイルスが使ったのはこの1969年11月19日の録音が最初だ。その後72年の『オン・ザ・コーナー』あたりまで使い続け、この時期のマイルス・サウンドの特色の一つになっている。

 

 

はっきり言って僕の耳には「オレンジ・レディ」はどう聴いてもウェザー・リポートのよりマイルス・ヴァージョンの方が魅力的だ。僕がジャズを聴はじめたのが1979年だったので、実はマイルス・ヴァージョンの方を先に聴いていて、その後にウェザー・リポートのを聴いたという。

 

 

だから後から聴いたウェザー・リポートので曲名も初めて知り、これ同じ曲じゃん、しかもこっちはつまらないじゃんとまで思っていたのだった。そのデビュー・アルバム近辺のザヴィヌルの音楽は「イン・ア・サイレント・ウェイ」が典型例だけど、スタティックで牧歌的なユートピア・サウンド指向だった。

 

 

どうでもいいがこの「牧歌的」という言葉、まさにピッタリだとは思うんだけど、ある時期の岩浪洋三があまりに繰返しボッカボッカ言過ぎるので、僕よりも上の世代のジャズ・ファンの多くはこの言葉を嫌って使わなかったんだよね(笑)。

 

 

ザヴィヌルがマイルスに提供した曲のうち録音順では初になる「アセント」(https://www.youtube.com/watch?v=rDLV9A7-ALM)もお聴きになれば分るように完全に静謐な雰囲気でテンポが緩くリズム・セクションがほぼ活躍しない曲なのだ。『ビッチズ・ブルー』収録の「ファラオズ・ダンス」以外は全部そうなんだよね。

 

 

マイルスもこの1968年末〜70年初頭に少しそういう静的な音楽をやっていて、それもあってかザヴィヌルを重用したし、そもそもマイルスは1959年の『カインド・オヴ・ブルー』だってかなり静かでおとなしいし(従ってやはりビル・エヴァンスを使っている)、そういう音楽性も併せ持つ人だ。

 

 

けれどもマイルスの場合同時に1960年代末からはリズム重視の側面もあって、むしろリズムの変革にこそマイルス・ミュージックの力点が置かれていて、一見全面的に静的に思える『イン・ア・サイレント・ウェイ』でだって、B面の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」でトニー・ウィリアムズのドラムスが爆発する瞬間こそがエクスタシーになっているもんね。

 

 

その次作『ビッチズ・ブルー』ではご存知の通りリズム楽器担当者を大幅に拡充しリズムこそが命のような音楽になっているし、その後のマイルス・ミュージックはどんどんファンク化していったのはみんな知っている。一方ザヴィヌルはというと、今振返るとそういうマイルスのリズム重視なファンク路線に感化されたと思えるフシがあるんだなあ。

 

 

1973年録音のウェザー・リポート三作目の『スウィートナイター』には、明らかに前年リリースのマイルス『オン・ザ・コーナー』の影響が伺える。そしてウェザー・リポートもその後どんどんとリズム重視のファンキーで明快な音楽を指向するようになり、それが1975年の『幻想夜話』をきっかけに77年の『ヘヴィー・ウェザー』で開花する。

 

 

そんなわけでウェザー・リポートの音楽がポップでファンキーになって大成功するようになったのがマイルスの一時隠遁中だったというのはなんとも皮肉な話だ。でも当時マイルスがシーンにいなかったからこそザヴィヌルには可能だったのかもと僕には思えるんだよね。

2016/06/09

鬱陶しくも楽しいリゾネイター・ギター弾き

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2013年に残念ながら若くして亡くなってしまったけれど、ボブ・ブロズマンというアメリカ人ギタリストがいる。日本にどれだけ彼のファンがいるのか分らないけれど、僕は大好きなんだよね。今でもはっきり憶えているが僕がこの人を知ったのは1990年代後半にパソコン通信をやっていた頃のこと。

 

 

当時ある方に「JJさん(当時のハンドル・ネームは J.J.Flash だったのでこう呼ばれていた)にソックリなブルーズ・ギタリストがいるよ」と、あるテレビ番組を録画したVHSテープを送ってくれたのだった。当時フジテレビ系深夜でやっていた『アメリカン・ギターズ』という番組から。それがこれだ↓

 

 

 

是非ちょっとご覧いただきたい。僕にソックリと言っても顔立ちやその他容姿のことではない(と言っても僕のブログをお読みになる方で僕の見た目をご存知なのは今のところ一名しかいらっしゃらないはず)。圧倒的な存在感みたいなもののことなんだよね。

 

 

存在感と言うと聞えはいいが、特に弾きながらギターのネックをガッガッとせり出したり、顔や体をクイックイッと動かすあたりの鬱陶しさといったらないよね。いつでもどこでも厚かましく出しゃばって目立ちまくって不快で仕方がないという、VHSテープを送ってくれた友人の言う「JJさんにソックリ」とはそういう意味に他ならないんだよね(苦笑)。

 

 

1990年代後半にパソコン通信をやっていた頃の僕はまさにこういう感じで、音楽に関する話題ならどこへでも出掛けていって誰にでも絡んで一方的に喋りまくり、そりゃもう鬱陶しくて仕方がなかったと思うんだよね。ネット上だけでなく、ネットをはじめるずっと前から僕はそもそもそういう人間だ。

 

 

小学生の頃の僕はどもり(吃音という言葉は知らなかったなあ当時)があまりにもひどくて、「なにを言っているのか分らない」と言われるほで、そのせいで集団登校時でも学校内でもからかわれたりいじめられることが多かったので、学校は仕方なく行くけれど、下校するとずっと家の中にいた。

 

 

放課後は友人とはあまり遊ばず(どもりを笑わないごく少数の親友としか遊ばなかった)、夕方帰宅するともっぱら家の中で本ばかり読んでいた。読みまくって完全に読書大好き人間になり、それが高じた挙句の果てに、読んだ(主に英語の)小説について大勢の前で喋るという仕事に就いてしまったという、なんたる人生の皮肉だ!

 

 

しかしそんなにひどかった僕のどもり症。親が心配して専門医に診せたりもしても一向に治らなかったのが、中学に入ってサッカーをはじめたあたりからなぜだか徐々に軽くなっていって(と言っても今でも少し残っていて電話や教室内でどもることがある)、高校生の頃からはそれまでの反動のように喋りまくる人間になったわけだ。

 

 

そうするとそっちが僕の生来の気質だったんだろう、だれかれ構わずうるさく喋りまくるようになり、だから教室内で大勢の学生を相手に90分間延々と一人で喋るのが快感で仕方なかったのだった。ネット上でも全く同様に饒舌で、初めてのオフ会で渋谷のロック喫茶BYGに行った時も同じだった。

 

 

当時同じネット仲間で Sloppy Drunk さんという方がいて、彼は関西人で非常によく喋る方なのだが、彼がそのオフ会が終って家に帰ってから奧さんに「ワシが世界で一番喋る人間やと思っとったけど、もっとひどいのがおったわ」と僕のことについて、コイツには呆れたという感想を漏したらしい。

 

 

20代末頃からパニック障害という形で軽く発症していた鬱病が一時期ひどく悪化していたことがあって、それで仕事以外では殆ど喋らない時期があった(1999〜2009年頃)。その時期はネット上でも寡黙だったので、この時期に僕を知った方は、その後Twitterをはじめて饒舌になった僕は意外だったようだ。しかしそれが僕本来の姿です。僕は言葉が次から次へと溢れ出て口や指が追いつかないという人間です。「物静か」なんてところのおよそ正反対に位置する人間なんです。

 

 

え〜っと、音楽と関係ない私事が長くなってしまった。言いたいのは、そんな僕の鬱陶しい姿にソックリだと友人が言うボブ・ブロズマンのあまりに厚かましい存在感のことだ。最初に貼った映像をご覧になればお分りの通り、彼が弾くのはナショナル社製リゾネイター・ギター。しかもスライド・バーを使う。

 

 

上で貼ったたった一個の音源だけでもブロズマンのギターの腕前が一級品であることはよく分っていただけるはず。彼はもっぱらリゾネイター・ギター、それもナショナル社製のものばかり弾くというギタリストだ。リゾネイター・ギターも各社あるけれど、ルーツはどこも全部ナショナル社だ。

 

 

ドブロも有名だけど、ドブロ社はナショナル・ストリング・インストルメンツを創設した一人であるジョン・ドビエラが独立して設立したもの(ちなみにアドルフ・リッケンバッカーもナショナル社から独立した一人)。今ではリゾネイター・ギターというとナショナルかドブロかのどっちかだとなるね。

 

 

元々リゾネイター・ギターは、1931年に最初のエレキ・ギターが出現し普及する前のアクースティック・ギターしかない時期に、その音を増幅・拡大してより大きな音を出せるように、ボディにアルミニウム製のコーン(共鳴板)を取付け、弦の振動を大きく響かせるのが目的で造られた。

 

 

戦前の古いギタリストは音楽ジャンルを問わずそういうリゾネイター・ギターを弾く人が結構いるよね。特にブルーズとハワイアンの世界には多い。ハワイアンの世界では普通にギターを抱えて弾くのではなく水平に寝かせて弾くことも多いし、そういう弾き方のスティール・ギターはハワイ発祥なんだよね。

 

 

カントリー界にもリゾネイター・ギター弾きがいるんだそうだ。ハワイアンとかカントリーの世界には僕は無知なのであまり喋らないでおこう。ブルーズ界では例えばサン・ハウスなんかもリゾネイター・ギターを弾くことが多かったなあ。戦後録音アルバムのジャケ写で確かそんなのがあったなあ。なんだっけ?

 

 

その後電気でアンプリファイするエレキ・ギターが本格的に普及したため、リゾネイター・ギターは大きな音を出すという目的だけで使う人はほぼいなくなり、大きな音云々ではなく独特の音色、そのアルミ製のボディや共鳴板に反響して出るあの音色の面白さに惹かれて弾くというギタリストが多くなっているはずだ。

 

 

僕もリゾネイター・ギターの音色が大好き。殆ど古いブルーズ・ギタリストか、ボブ・ブロズマンみたいに古いギター・ミュージックの研究・実践家みたいな人の演奏でしか聴いていないけれど、ロック・ギタリストも弾くことがあって、エリック・クラプトンもなにか弾いているものがあったよね。

 

 

ボブ・ブロズマンは1954年生まれの新しい世代なのに、なんたってワシントン大学の卒業論文のテーマが「チャーリー・パットンとトミー・ジョンスンの相互影響について」というものだったというくらい若い頃から古いブルーズやギター・ミュージックが好きで研究しているという人だ。

 

 

ブロズマンの場合はブルーズだけではく、アメリカ本土(メインランド)へのギターのそもそもの影響源だったハワイアン・ギター・ミュージックや、その他関連する古いアメリカン・ギター・ミュージックの世界一般に造詣が深い人で、30枚ほどの自分のアルバムでもその研究成果を存分に発揮している。

 

 

と言っても僕はブロズマンのアルバムはその三分の一くらいしか聴いていない。そのなかで個人的に一番の愛聴盤が1992年の『ア・トラックロード・オヴ・ブルーズ』。ブルーズを中心にやっているもので、トラックの荷台にリゾネイター・ギターをたくさん並べて積んであるジャケット写真も好きだ。

 

 

ブルーズ中心と言っても様々なギター・ミュージックのミクスチャーが持味の人だから、やはりいろんなのが入っていて面白い。八曲目は「スタック・オ・リー・アローハ」というタイトル通り、リゾネイター・ギターをスライドで弾くインストメンタル・ハワイアンだ。そういうのもなかなか楽しい。

 

 

「スタック・オ・リー・ハワイアン」という曲名にある「スタック・オ・リー」とは、ビリー・ライオンズを殺害した例のスタッグ・リー・シェルトンのことに間違いない。この事件は最も有名なアメリカン・フォーク・ソングの一つにもなって、『ガンボ』でのドクター・ジョン含めいろんな人が歌っているよね。

 

 

アメリカ音楽におけるスタック・オ・リー伝説に関してはグリール・マーカスが『ミステリー・トレイン』のなかでなんだか詳しく書いているんだけど、あの部分は何度読んでも僕には難解で、著者がなにを言いたいのかよく分んないんだなあ。翻訳で読むせいかと思って原書で読み直してみたけれど同じだった。

 

 

ともかくボブ・ブロズマンの「スタック・オ・リー・ハワイアン」は歌なしのインストルメンタルなので、その有名な伝説やそれにまつわるフォーク・ソングとの関連はよく分らない。普通の楽しいハワイアン・スティール・ギター・ミュージックだ。またリゾネイター・ギターを弾くジャンゴ・ラインハルトみたいな曲もある。

 

 

『ア・トラックロード・オヴ・ブルーズ』では三曲ほどリゾネイター・ギターではなくエレキ・ギターを弾いている。三曲ともスライド・プレイで3コードのブルーズ・ナンバー。ちょぴり初期のジョニー・ウィンターを思わせる部分もある。ブロズマンはエレキ・ギターはあまり弾かないんだけどね。

 

 

それら以外は全てやはりアクースティックなリゾネイター・ギターを弾き、歌ものありインストルメンタルあり、一人での弾き語りありバンド編成でのセッションありと、多彩な内容で飽きさせない。アルバム・ラストが最初に音源を貼ったロバート・ジョンスンの「カム・オン・マイ・キッチン」の弾き語り。

 

 

やっぱりこういった戦前のカントリー・ブルーズをやる時のブロズマンが僕は一番好きなんだなあ。いざ演奏風景を見ると、最初に映像を貼った通りむさ苦しく鬱陶しくて直視しにくい人だけど、CDで音だけ聴いていると迫力があって楽しくて、しかもギターの腕前は目も眩む超絶技巧で文句なしの人なんだなあ。

2016/06/08

読譜能力

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譜面の読み書きがよく分らない僕だけど、音楽家じゃないので特に困らない。プロの音楽家だって楽譜の読み書きができない人はいる。もちろん視覚障害者でない限りクラシック音楽の世界には一人もいないだろう。あの世界は読譜能力がなかったらどうにもならないはずだ。

 

 

作曲家ならもちろん楽譜が書けないクラシック界の人間なんてちょっと想像できない。耳が聞えなくたって壮大で立派な作品を書いた作曲家だっているくらいだ。しかしこれがポピュラー・ミュージックの世界となると、楽譜が読めない・書けないミュージシャンってのが結構いるんだなあ。

 

 

僕がいますぐパッと思い浮べるのはエロール・ガーナー、ウェス・モンゴメリー、ジェフ・ベックの三人だ。ジミ・ヘンドリクスもそうだっけなあ。ピアニストのエロール・ガーナーについては評価が分れるところだろうけれど(僕は大好き)、ギタリストのその三名については歴史に名を残す偉大な音楽家だという評価が定着している。

 

 

ところで僕が楽譜楽譜と言っているのは西洋音楽で使われはじめたいわゆる五線譜のことなんだけど、しかし世界中には実にいろんな記譜システムがあって、日本にだって三味線や大正琴の楽譜などは独自の伝統的なものがある。僕は大学生の頃に、大正琴を習っていた近所のおばさんに見せてもらったことがある。

 

 

五線譜以外で僕が実際に見たことのある楽譜はその大正琴の譜面と、あとはギター用のタブ譜だけ。タブ譜の話はあとでしたい。それはそうと大正琴はウェザー・リポート時代のジョー・ザヴィヌルが気に入って使ってある曲が少しあるね。即座にパッと思い出すのは「ポート・オヴ・エントリー」(『ナイト・パッセージ』)と「ウェン・イット・ワズ・ナウ」(『ウェザー・リポート 82』)の二曲だ。

 

 

その他世界中に様々な独自の記譜システムがあるはずだけど、西洋音楽の影響力拡散とともに五線譜が広く普及したので、それが従来の伝統的記譜法を駆逐してしまい、今はどんな国でも五線譜を使うことが多いんだそうだ。あるいは伝統的独自記譜法と五線譜とを併用したり使い分けたりしているのかなあ。

 

 

この前アラブ・ヴァイオリニストの及川景子さんと話をしていて、「五線譜を使っているんですよ」と言われた時はちょっぴり意外な感じがしたのだった。きっかけは及川さんが「新幹線のなかで楽譜を書くと酔うんだ」とツイートされていたこと。それでお尋ねしてみたら五線譜なんだとお答が返ってきた。

 

 

五線譜は「基本的には」半音までしか存在しない西洋クラシック音楽のために開発された記譜法なので、言うまでもなく半音以下の音は書きにくい。ところがアラブ音楽はもちろん世界中のいろんな音楽は半音より細かい音をよく使うもんね。そんなのどこの国のどの音楽がそうだなんて例を挙げるのがバカらしいほどだ。

 

 

だからアラブ・ヴァイオリニストの及川さんが五線譜をお使いになるというのがちょっぴり意外だったんだけど、でも御本人いわく五線譜が一番手っ取り早いんだそうだ。そしてアラブ圏よりも例えばトルコ古典歌謡などの方が五線譜導入は早かったはずだとのこと。そうだったのかあ。

 

 

その際及川さんが強調されていたのは、当然ながら五線譜に記すことができず漏れ出る部分がある、というかアラブ音楽では漏れ出る部分の方がはるかに大きいので、未知の曲を未知の音楽家と共演する際には便宜的に五線譜を使うんだけれど、楽譜外の音を読取る力のない人との共演は困難だそうだ。

 

 

しかしそれは西洋クラシック音楽ですら同じだろうなあ。録音技術発明前に成立し開花した音楽なので、生演奏で実際の音を聴く以外に音のイメージを伝え共有するには楽譜しかなかったわけだけど、そんな西洋音楽ですら記譜できないニュアンスはかなりある。特に歌の場合はそうだなあ。

 

 

だから西洋音楽のシステムで成立っていないアラブ音楽その他世界中の民俗音楽やポピュラーなワールド・ミュージックの世界では、五線譜なんかでは全然表現できない部分の方がはるかに大きいはずなのに、それでも未知の曲を未知の音楽家と共演する際にそれを使うというのは、それ以外にやり方がないんだね。

 

 

及川さんのお話はアラブ音楽の音楽家同士での共演についてだったんだけど、これが他ジャンルの音楽家との<他流試合>となると、おそらく最初はやはり五線譜に頼る以外に方法がないだろう。最近では録音して相手にあらかじめ渡しておくという方法もありはするけれど、五線譜の方が容易で効率的で共有しやすい。

 

 

西洋音楽の五線譜システムがいつ頃成立したのかは調べないと分らないけれど、それ以前から、聞いた話では古代ギリシアの時代から音楽を書き記す方法は存在したらしい。しかしそれは世界的に見たら一部だろう。世界中の伝承民俗音楽では記譜法なんて存在しなかった国・時代の方が多く長いはず。

 

 

だからそういう場合には音を伝えるのは全て生演奏の口承だ。安価で簡易なテープ・レコーダーが普及して録音することが誰でも容易になるまでは、世界中で口承以外の音伝達方法はなかったはず。そもそも文字(記号)すらない地域だってたくさんあったので、様々な物語を憶え口伝する人達だって存在した。

 

 

そういう人達を西アフリカではグリオと呼ぶ。セネガル人で世界的に有名な歌手ユッスー・ンドゥールもグリオの出自だし、20世紀以後のアフロ・ポップ歌手のなかには他にも結構いるよね。録音も文字記号もない時代に、歴史上の英雄譚や部族の系譜などを楽器を弾きながらメロディにして歌い伝達した。

 

 

音楽ってのは要するに「音」でしかないわけで、ってことはつまり空気の振動なんであって、エリック・ドルフィーの有名な台詞によらなくたって、音楽は生れ出たと同時に次々と空間に消えていってしまう時間的存在物。だからこれを本当に正確に把握し他人に伝えるには、21世紀の現在でも口承が最適の方法に違いない。

 

 

口承というとアレだけど、レコードが商品化され大量生産・大量消費されるようになった20世紀以後は、レコードなどの録音物やラジオ放送などを聴いて耳でコピーするということが可能になった。ようやく話を戻せるけれど、エロール・ガーナーもウェス・モンゴメリーもジェフ・ベックもジミ・ヘンドリクスもそうしたはず。

 

 

ピアノの世界のことはサッパリ分らない僕なのでギターの話に限定すると、その世界には前述の通りタブ譜というものがある。普通の五線譜が五本なのに対し、ギター用のタブ譜はギターの六本の弦に合わせ楽譜の線が六本で、いわば通常のギターのフレット上の様子をそのまま転写したようなもの。

 

 

タブ譜の六本の線の上に数字が書いてあって、それは何フレット目を押えるかということを表している。つまりタブ譜を見れば何弦の何フレット目の音かが分るので、そのまま弾けるという代物。ギターをはじめたばかりの初心者はみんな使うんだよね。

 

 

楽器店や一般の書店でロックやジャズなどの有名曲のタブ譜本が普通に売ってあって、僕らもそれを買ってレコードを聴きながら、ああこの部分はここを押えるのかと理解しながらコピーした。僕がはじめた頃は通常の五線譜とタブ譜が上下に併記されているというギター譜。

 

 

さてウェス・モンゴメリーやジェフ・ベックなどはいわゆる五線譜の読譜能力はないらしんだけど、タブ譜は使っているだろうか?そもそもギター用のタブ譜っていつ頃から存在するんだろう?ウェスは1940年代後半、ジェフ・ベックは60年代初頭にプロ活動をはじめている。どうだったんだろうなあ?

 

 

ただ五線譜が読めずタブ譜も存在しなかったのだとしても、コード譜というものが昔からあることは知られている。一般の素人ギタリスト用にも販売されている五線譜やタブ譜の上にも通常はコード・ネームが記されている。素人だってそれを見てコード進行を憶える。

 

 

ブルーズやジャズやロックその他ポピュラー音楽の世界ではコード進行を把握することが非常に重要なので、ウェスもジェフ・ベックもコード譜が読めないなんてことはありえない。そもそもコード表記はAからGまでの(Mとかmajorとかdimとかsusなどはあるが)アルファベットと、7とか9とかの数字と、若干の記号だけのものだし、このコード・ネームならどこをどう押えればいいかはみんな分る。

 

 

またウェス・モンゴメリーもジェフ・ベックもあのレベルになると恐ろしく耳がいい。耳がいいというのはもちろん医学的聴力のことではなく、音を聴いた際の直感的な洞察力を含む音楽的反射能力の高さのこと。一流音楽家はみんな同様にそんな具合に耳がいいわけだけど、ウェスやジェフ・ベックならなおさらだ。

 

 

もちろんウェスもジェフ・ベックも全て耳で聴いてコピーしていたとは僕にはちょっと思えない部分がある。録音作品のなかにはかなり入組んだアレンジが施されているものだってあるからなあ。ウェスもジェフ・ベックもオーケストラ伴奏で複雑なアレンジ下での演奏を難なくこなしている(としか僕には聞えない)もんなあ。

 

 

ウェスなんか一連のA&Mレーベル作品など到底直感的に演奏したとは思えないもんね。おそらく耳慣れないものだったであろうロック系のポップ・ソングに大がかりなオーケストラ・アレンジが施されていて、その合間を縫って縦横に弾いているのだが、これを完成したアレンジを誰かが演奏して聴かせて憶えさせたとは思えない。

 

 

ジェフ・ベックだってジェフ・ベック・グループを解散した後の『ブロウ・バイ・ブロウ』以後のソロ・アルバムでは結構複雑なアレンジ、なかにはオーケストラ伴奏入で入組んだ演奏をしているものがあるからなあ。あの『ブロウ・バイ・ブロウ』がそうじゃないか。あのアルバムでのアレンジャーはジョージ・マーティン。

 

 

ジョージ・マーティンがこんな感じだぞと言葉で伝達した部分があるんだろうけど、ジェフ・ベック自身の「僕が楽譜が読めないのがコンプレックスなんだ」という言葉をそのまま額面通りには受取りにくいよなあ。少なくとも僕にはそんな額面通りは受取れない演奏に聞える。ある程度は読譜できのかもしれないよ。

 

 

そういえば思い出した。そのジョージ・マーティンがプロデュースしたビートルズ。ポールはこんな感じのアレンジがほしいと具体的に弾いたり楽譜にして示してくれるのでやりやすかったけれど、ジョンは抽象的な言葉でイメージを伝えるだけなので、それを音でどう具体化するのか難しかったんだそうだ。

2016/06/07

カーティス・メイフィールドはリズムがいい

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カーティス・メイフィールドのインプレッションズ後のソロ・アルバムで僕が大好きなのは、深刻そうな曲名や歌詞の内容ではなくリズムだ。特にコンガの使い方がいいよね。1970年のファースト・ソロ・アルバム『カーティス』からしてコンガ全開だもんねえ。気持いいったらない。

 

 

1970年の『カーティス』一曲目は「地獄というものがあるのなら、僕たちはみんなそこに行く」という曲名なんだけど、そういう意味深な曲名や歌詞内容とかは僕にははっきり言ってどうでもいいんだよね。何度も言ったように、僕は音楽の歌詞の意味だけとかではあまり判断しない人間なのだ。

 

 

しかしこれはカーティスみたいな音楽家本人の意向には完全に背くような聴き方に違いない。カーティスはインプレッションズ時代から歌詞の意味内容で実にたくさんのことを語っている。インプレッションズ時代と言わずカーティスの全キャリア最大の代表曲「ピープル・ゲット・レディ」もそうだよねえ。

 

 

僕が「ピープル・ゲット・レディ」という曲を初めて聴いたのは、インプレッションズ・ヴァージョンでもソロ時代のカーティス自身による再演でもなく、1985年にロッド・スチュアートがジェフ・ベックとやったヴァージョンだ。

 

 

 

確かこのオフィシャル・プロモーション・ヴィデオをMTVかなにかで見聴きして、なんていい曲なんだと感心しちゃったんだなあ。その頃これがカーティス・メイフィールドという音楽家が1965年にインプレッションズというグループ用にと書いたものだなんてことは知りもしない。

 

 

ロッドはこの「ピープル・ゲット・レディ」がお気に入りらしく何度もライヴで再演していて、こういうジェフ・ベックとの再共演もある。これ何年頃のライヴなんだろうなあ。見れば分るようにジェフ・ベックは指弾きだから最近のステージだよなあ。

 

 

 

またロッドは1993年の例のアクースティック・ライヴ・アルバム『アンプラグド』でも再演している。ご覧になれば分るように、この時はジェフ・ベックではなくやはり過去の盟友ロニー・ウッドがゲスト参加でギターを弾く。ストリングスも入っていい感じ。

 

 

 

こういうロッドの一連のカヴァーでロックしか聴かないファンにもスッカリお馴染みで、僕だってそれで知ったカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」や、あるいはその他のインプレッションズ・ナンバーもソロ時代の曲も、歌詞のメッセージ性が強い。

 

 

だから僕みたいに歌詞の意味をほぼ無視してサウンドやリズムばっかり聴くようなリスナーは、カーティスの音楽について語る資格はないのかもしれないね。しかしですね、文学作品でも音楽作品でも「作者の意図」というものが果して存在するのだろうかという疑問を僕は大学生の頃から持っているんだよね。

 

 

作者の意図とかいうものはおそらく作品内には存在しないんだろうと、主に文学研究の場面で考えるようになり、しかし文学でも音楽でも創り手が存在する以上、そこになんらかの創作意図はあるんだろうけど、作品が世に出た瞬間にそれは消えて無くなるんだろう。

 

 

消えて無くならなくても、文学作品や音楽作品を享受する側には作者の意図というものはほぼ伝わらない。伝えたいと思って創り手は世に出すんだろうけれど、受け手が理解できるのは「作者の」意図ではなく「作品の」意図だ。そして作品の意図を創り出すのは作者ではなく読者・聴き手なんだよね。誤解しちゃイカン、僕ら凡人に天才の意図なんか分るわけがない。

 

 

話を戻して1970年の『カーティス』一曲目の「地獄があるのなら、僕らはみんなそこへ行く」。人声のやり取りからはじまるけれど、すぐにコンガが入り派手に鳴り始める。それに乗ってカーティスがなにやら叫んでいるがその言葉の内容とかはどうでもいい。肝心なのは賑やかなコンガのリズムだ。

 

 

 

インプレッションズ時代からリズムの面白い曲は結構あるけれど、こんなに派手にパーカッションは使っていない。それなのに独立後第一作のいきなり一曲目からどうしてこんなにコンガを派手に鳴らしているんだろう?なにかカーティスのなかで音楽的変化があったのか、あるいは元々やりたかったのか?

 

 

1970年の『カーティス』では一曲目の「地獄に落ちる」だけではなくそれ以外の曲でもだいたい全部コンガが入っていて、それも控目な隠し味とかではなく派手に活躍しているよねえ。このアルバムでのもう一つの代表曲「ウィー・ピープル・フー・アー・ダーカー・ザン・ブルー」でもそうだ。

 

 

 

この「ダーカー・ザン・ブルー」では出だしはゆったりとしたテンポで静かな雰囲気なんだけど、二分ほどすると突然パッと曲調が変化しリズムが賑やかになってコンガが大活躍しはじめる。僕なんかにはその部分があるからこそこの曲は面白い。それが終るとまた静かになってハープが入ったりするけれども。

 

 

「ダーカー・ザン・ブルー」は、カーティス復帰作にしてラスト・アルバムの1997年『ニュー・ワールド・オーダー』でも再演している。そこでもやはり静かにはじまったかと思うとやはり中盤リズムが変って賑やかになるもんね。さらにこの曲ではザップのロジャー・トラウトマンが参加している。

 

 

 

ザップのロジャーが例によってトーク・ボックスを使って面白い音を出しているよね。カーティス・メイフィールドの復帰作における過去の最大の代表曲の一つの再演で、ロジャーのトーク・ボックスが聴けるなんて思ってもみなかったもんなあ。あれこそがあのラスト・アルバムの白眉。

 

 

それにしてもその1997年の『ニュー・ワールド・オーダー』。カーティスは確か90年だったかの事故で首から下が不随になってしまい引退状態に追込まれていて、このアルバム制作時も首から下は麻痺したままだったはずなのにどうやって声を出していたんだろう?聴き馴染んだ声だけどね。

 

 

そんなことをファンはみんな知っているから、まさか新作アルバムが聴けるなんて思いもしていなかったし、聴いたらもうそれだけで胸が一杯になって涙なしでは聴けなかった『ニュー・ワールド・オーダー』。今、冷静な気持で聴き返すと、やはり1970年代のような輝きは望むべくもない。

 

 

1970年代ソロ時代のカーティスは一作目『カーティス』がそうだと書いているように、これに続く他のアルバムもだいたいどれもリズム隊にコンガを使っていてそれが大活躍。60年代末頃からのアメリカ・ポピュラー音楽はだいたいどれもほぼ例外なくコンガなどのパーカッションを使っている。

 

 

だからこのこと自体は別に物珍しくもないし、カーティスだけのことではなく彼の独創でもなんでもない。一連のニュー・ソウルに分類される連中だって1970年代のマーヴィン・ゲイもスティーヴィー・ワンダーもみんな例外なくコンガなどラテン〜アフリカンなパーカッションを多用しているもんね。

 

 

ソウル〜ファンク系だけでなくジャズからのファンクっぽいアプローチをする音楽家だって、あるいは白人ロック・ミュージシャンだって、みんな1970年代はコンガなどのパーカッション奏者を重用していた。だからこれは時代の流れというか、みんなが共振していたようなものだったんだろう。

 

 

それにしてもカーティス、特にソロ一作目1970年の『カーティス』ではコンガの音があまりに目立つというかそういうアレンジ・録音・ミキシングだよねえ。だからこれはなにかあるんだろうなあ。B面一曲目の「ムーヴ・オン・アップ」なんかラテン・インストルメンタルというのがピッタリ来るくらいだもんね。

 

 

「ムーヴ・オン・アップ」では一応カーティスのヴォーカル部分があるんだけど、それが終って長いバンドのインストルメンタル演奏部分があるんだよね。ヴォーカル部分でもインスト部分でもコンガが大活躍しているなんてもんじゃないくらい目立っている。ホーン・アンサンブルもラテン調だしねえ。

 

 

 

なんだかカーティスの音楽についてコンガの話ばっかりになっちゃったけれど、ポピュラー音楽ではリズムこそ命で最も重要なものだと思うんだよね。あそこまでコンガが目立っているのは一作目の『カーティス』が一番だけど、それ以後のソロ・アルバムでも全部パーカッション奏者が参加していて、だいたい似たような感じだ。

 

 

だから一般にカーティスの代表作であり名盤とされている『スーパーフライ』や『ゼアズ・ノー・プレイス・ライク・アメリカ・トゥデイ』とかも、深刻そうなアルバム名、曲名、歌詞内容ではなく、サウンドやリズムの面白さを僕はいつも聴いているんだよね。

 

 

コンガが派手に鳴り響くものの話ばかりしたけれど、リズムが命というのは別に激しかったり賑やかだったりじゃないとイケないという「表面的な」ダイナミズムを言っているわけでもないので、念のためそれだけは書添えておく。

2016/06/06

小泉今日子の歌うジョージ・ハリスン

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大変ミスリーディングな記事タイトルでゴメンナサイ。

 

 

何度も書いて申し訳ないけれど大の愛聴盤である井上陽水奥田民生の『ショッピング』。どれもこれも古い米英ロック〜ポップへのオマージュで成立っている作品だけど、参照した元の曲が一番はっきりとモロに出ているのが九曲目の「月ひとしずく」だ。これはどうにも分りやす過ぎると思うほど。

 

 

『ショッピング』収録曲は全く一つもYouTubeに上がっておらず、実は僕が三曲ほど上げたのも速攻で日本を含む全世界で再生不可になってしまった。だからちょっと試聴していただくということができないのが残念なんだけど、ファンが自分でカヴァーしたのが結構上がっている。

 

 

そのなかで『ショッピング』ヴァージョンの「月ひとしずく」に一番近いと思うのがこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=7TDGaQkDHtU  あるいは歌は全くダメでスライド・ギターもないけれど、冒頭のアクースティック・ギターの刻みだけならこれが一番近い→ https://www.youtube.com/watch?v=Cw6SH-gbbSc

 

 

「月ひとしずく」のオリジナル・ヴァージョンは小泉今日子によるもの。例えばこういうの→ https://www.youtube.com/watch?v=yJMHSDSZ-xU  この曲ももちろん井上陽水と奥田民生の合作だけど、歌詞だけ小泉今日子が書足して完成させており、作詞者のところには彼女の名前もクレジットされている。

 

 

そういう一連の小泉今日子ヴァージョンではあまり分らないんだけど、さきほど二つYouTube音源を貼った『ショッピング』ヴァージョンのカヴァー。それら素人ファンさん達がカヴァーしたもので充分お分りの通り、これはジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」なんだよね。

 

 

もちろん『ショッピング』収録ヴァージョンの「月ひとしずく」とは月とスッポンなんだけど、上げさせてくれないんだからしょうがないじゃないの。それさえ聴ければどれだけジョージの「マイ・スウィート・ロード」ソックリか手に取るように分るんだけど、はぁ〜まあ仕方がないんだろうなあ(嘆息)。

 

 

ジョージの「マイ・スウィート・ロード」はこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=0kNGnIKUdMI  冒頭のアクースティック・ギターのカッティングといい、そこへ入る前奏や間奏のスライド・ギターのサウンドといい、その後に出るリズム・セクションの演奏といい、『ショッピング』ヴァージョンの「月ひとしずく」はそのまんまなんだ。

 

 

あるいは大勢のミュージシャン、特にアクースティック・ギターの音を多重録音して分厚くした、いわゆるウォール・オヴ・サウンド風な創りもソックリなんだよね(なんとかYouTubeに上げさせてくれないか?関係者のみなさん、そうした方がCD売れますよ)。ここまでソックリだというのは『ショッピング』のなかでも際立っている。

 

 

でもここまでは前置で、本題はそのジョージの「マイ・スウィート・ロード」が入った彼のオリジナル・アルバム『オール・シングズ・マスト・パス』の話。これは1970年録音・リリースのビートルズ解散後のジョージ初のアルバムにして、彼のソロ三作目。70年ってことはバンド解散と同じ年だよね。

 

 

ってことは『オール・シングズ・マスト・パス』の収録曲はビートルズ時代から書き溜めていたものに違いない。録音が1970年の5〜10月。ポール・マッカートニーがビートルズ脱退を表明したのが同年4月で、解散のための訴訟を起したのが12月30日。そこがバンド正式解散の日付になるんだろう。

 

 

ジョージの『オール・シングズ・マスト・パス』はまさにそういったビートルズ解散騒動の真っ只中で製作されたということになるなあ。音だけ聴くと、リリース順ではバンドのラスト作『レット・イット・ビー』とは違ってそんな雰囲気は感じられないので、とっくに心は離れていたってことだ。

 

 

それはジョージだけではなく四人全員そうだった。既に1968年あたりから彼らはバラバラで、特にジョンなんかビートルとしてはやる気はもう全くなかった。それにしては『ホワイト・アルバム』でも『アビー・ロード』でもいい曲を書いて歌い演奏しているんだけど、天才とはそういうもんだろう。

 

 

そんなわけでビートルズ解散騒動の真っ只中で製作されたジョージの『オール・シングズ・マスト・パス』は、現在の僕にとって四人の元ビートルのソロ・アルバムではおそらく最も愛するもの。個人的嗜好もあるし音楽的評価としても僕の中ではこれがナンバー・ワンなのだ。ジョージ・ファンだしね。

 

 

LPレコードでは三枚組だった『オール・シングズ・マスト・パス』。正直に告白すると僕はアナログ盤では買っていない。聴いていなかったという意味ではない。絶賛するクラスメイトが何人かいたので、レコードを借りて聴いてはいたんだけど、そういう高校生の頃は良さが分らなかったんだなあ。

 

 

だって僕はUKロックではレッド・ツェッペリンのファンだったんだから、そういうギンギンの派手でハードなロックが好きで、ジョージの『オール・シングズ・マスト・パス』を聴いても、なんだかこりゃ地味でちっとも面白くないなあとしか思えなかったんだよね。だから自分ではレコードを買わなかった。

 

 

その時代の地味な印象が残っていたもんだから、CDリイシューされるようになってもなかなか買わず、自分でお金を出して『オール・シングズ・マスト・パス』を買ったのは、なんと2001年のニュー・センチュリー・エディションが初だったという。あまりにも遅すぎた。聴いてみたら虜になったよ。

 

 

2001年だといろんな音楽を聴くようになっていて、なかには渋めのスワンプ・ロックなども大好きになっていたし、以前触れたように(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-4cbf.html)ある時期以後はLAスワンプ勢を起用したUKロックこそ最高と考えるようになっているからねえ。

 

 

『オール・シングズ・マスト・パス』、確かにLAスワンプ勢が参加していて、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンという直後にデレク・アンド・ザ・ドミノスになるリズム・セクションだし、ボビー・キーズ&ジム・プライスのホーン陣や、あるいはエリック・クラプトンもデイヴ・メイスンもいる。

 

 

その1970年頃のクラプトンもデイヴ・メイスンもスワンプ・ロックな音楽をやっているし、彼らも含め全員要するにディレイニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズのUKツアーからそのまんま移行してきているわけだ。あれには(長年実際の音は聴けなかったが)ジョージだって参加していたわけだし。

 

 

しかしながらそういうメンツをそのまま起用しているにしては、ジョージの『オール・シングズ・マスト・パス』にスワンプ臭みたいなものは僕はちょっとしか感じない。これは不思議だ。じゃあ僕はこのアルバムのなにがそんな元ビートルが創ったナンバー・ワン・アルバムというほど気に入っているんだろう?

 

 

一つにはアルバム二曲目でシングル・カットもされ大ヒットしたらしい(「らしい」というのはリアルタイムでの実感がゼロだから)「マイ・スウィート・ロード」のキャッチーで明快なメロディが大好きということはあるなあ。この後トレード・マークみたいになったジョージの弾くスライド・ギターもいいよね。

 

 

「マイ・スウィート・ロード」ではアクースティック・ギターがサウンドの骨格になっているというのも近年の僕の音楽趣味にピッタリ合致する。ツェッペリンみたいにファズの効いたギンギンのエレキ・ギターが鳴り響くものこそ最高だと思っていた高校生の頃の僕に良さが分らなかったもの当然。

 

 

曲名の「我が愛しい神よ」とか、歌詞のなかに出てきてリフみたいにしてリピートされる「ハレルヤ」や「ハレ・クリシュナ」とかの宗教的メッセージみたいなものはどうでもいいというか、キリスト教者でもなければインド宗教にもさほど強い興味もない僕には全くピンと来ないものだ。

 

 

そんな曲名とか歌詞内容とか多くの日本人音楽ファンは重視していないだろう。一部にはそんな宗教と愛のメッセージみたいなものを真剣に書いている日本語の文章もあって、それはそれで別に文句はないんだけど。でもねえ、ハレルヤはともかくハレ・クリシュナとかはこの時代までジョージが罹っていた流感みたいなもんじゃないか。

 

 

そんなものよりやっぱり重層的に重なるアクースティック・ギターの分厚いサウンドや、スライド・ギターが入るあたりの素晴しさとか、リズム・セクションの演奏が入ってくる瞬間のスリルとか、ジョージが歌いバック・コーラスがリフレインを繰返すメロディの美しさとか、そういうのが魅力だよなあ。

 

 

あれぇ〜、なんか「マイ・スウィート・ロード」の話しかしていないのにもうこんなに長くなっちゃったぞ。元がLPレコード三枚組だった作品だから本当にいい曲がいっぱいあって、それらを話しはじめるとどんどん長くなってキリがないんだよね。CDでは二枚組だからアルバムの構成はイマイチ分りにくい。

 

 

だからサンタナのライヴ盤『ロータス』みたいに最初二枚組CDで出ても、再びCDでも三枚組でオリジナルLP通りのフォーマットで『オール・シングズ・マスト・パス』も出し直してくれると嬉しいんだけどなあ。LPレコードでは三枚目だった<アップル・ジャム>だけは僕は今でもあまり好きじゃないけれど。

 

 

また『オール・シングズ・マスト・パス』はフィル・スペクターのプロデュースで、確かに三曲目の「ワウ・ワウ」なんかはスペクターのウォール・オヴ・サウンドの真骨頂を発揮した一曲。それ以外もアルバム収録曲がなんだかモゴモゴとくぐもったような音だから、やはり彼のプロデュースだけはある。

 

 

いやもう本当にジョージの『オール・シングズ・マスト・パス』を僕がどれだけ好きかということをアルバム全体にわたって詳細に書いたらとんでもなく長くなってしまうので、今日はこのあたりまでにしておく。それにこのアルバムを自分のお金では2001年に初めて買ったような僕なんかより、みなさんの方がしっかりお分りのはずだからね。

2016/06/05

前衛テナーマンのスタンダード・バラード集

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アーチー・シェップというジャズ・テナー・サックス奏者。彼は1960年代半ばにジョン・コルトレーンに見出されてコルトレーンの1965年録音『アセンション』その他に参加したことで有名になった人のはず。実際シェップはコルトレーンこそが憧れで、コルトレーンのように吹きたいと思った人だ。

 

 

しかしシェップがコルトレーンのアルバムに参加して吹いている二つ『アセンション』『ニュー・シング・アット・ニューポート』は作品全体としては面白いものの、シェップのプレイに関してはどうってことないんじゃないかなあ。同じく参加しているテナーマンならファラオ・サンダースの方がいいような気がする。

 

 

シェップが音楽家としての本領を発揮しはじめるのはもっと後、コルトレーンが亡くなって以後の1960年代末あたりからだよねえ。特に69年のアルジェリアはアルジェでのライヴ録音盤『ライヴ・アット・ザ・パン・アフリカン・フェスティヴァル』などのアフリカ指向な作品が面白い。

 

 

そのあたりのいわばアフロ・セントリックなシェップの作品が一般の多くのジャズ・ファンにどう聴かれているのか僕にはちょっと分らない。彼は一応フリー・ジャズの人ということになっていて、そういう作品ばかりだし、アフリカ指向なアルバムでだって彼の吹くテナーはフリーなスタイルだしね。

 

 

そんなアーチー・シェップが、敬愛して止まない先輩であり師匠でもあったジョン・コルトレーンゆかりの(主にスタンダードな)バラード曲ばかりを、しかもフリー・スタイルではなくストレート・アヘッドなスタイルでやったアルバムが一枚あって、個人的にはそれがシェップでは最大の愛聴盤なんだよね。

 

 

それが1977年の『バラード・フォー・トレーン』。これは日本のDENON、すなわち日本コロムビアが録音しリリースしたアルバムなんだよね。70年中頃〜80年代頭あたりまでかなあ、イースト・ウィンドとかDENONとかトリオとか日本の会社がいいジャズ・アルバムを出していたなあ。

 

 

シェップのDENON盤『バラード・フォー・トレーン』のプロデューサーは小沢善雄氏。小沢氏はシェップがマサチューセッツ州立大学で教鞭を執っていた時代の同僚で知己だった。そして『バラード・フォー・トレーン』は小沢氏やDENON関係者が持ちかけた企画ではなく、シェップ自らの発案だったらしい。

 

 

1977年というコルトレーン死後ちょうど10年が経過した時点で、コルトレーンゆかりのバラード・ナンバーばかりをそれもスタンダードなメインストリーム・スタイルで吹くというアイデアを、どういうわけでシェップが思い付いたのかは分らない。シェップには64年に『フォー・フォー・トレーン』というアルバムもある。

 

 

『フォー・フォー・トレーン』もコルトレーン曲集だったけど、当時はコルトレーンが大活躍中で、このシェップのアルバムも当時インパルスに在籍していたコルトレーンが会社側に推薦して実現したものだった。またもう一つ67年の『ワン・フォー・ザ・トレーン』はなぜかCDは廃盤のまま。

 

 

『ワン・フォー・ザ・トレーン』は1967年のコルトレーンの死のわずか三ヶ月後のライヴ録音で、一度CD化されたもののすぐに廃盤になって一向にリイシューされないので、僕は買い逃している。どんな音楽だったのか忘れてしまった。まあ時代の産物というかそりゃコルトレーンの死の直後だしなんとなく分るような。

 

 

というわけでシェップが「トレーン」の名をはっきりと打出したのは以上三作品。そのなかで1977年の『バラード・フォー・トレーン』は彼にしては異色なというか普通のハード・バップ作品だ。しかもこれがかなりいいんだなあ。知ったきっかけは松山のジャズ喫茶ジャズ・メッセンジャーズでよくかかっていたから。

 

 

僕はそのジャズ・メッセンジャーズで『バラード・フォー・トレーン』を聴いたのがシェップ初体験だった。というかこのジャズ喫茶のママの愛好盤だったのか繰返し頻繁にかかっていたので、それで聴き憶えたテナーマンだったから、こういうスタイルの人なのかと思い込んでいた。

 

 

こういう人なのかとは要するにスタンダードなバラードをストレート・アヘッドなスタイルで吹くような普通のハード・バップなテナーマンなのかと。『バラード・フォー・トレーン』でも時々フリーキーな音やちょっと突拍子もないフレイジングをすることはあるけれど、それは本質は守旧派であるドルフィーだって同じことだ。

 

 

そのつもりでこれ以前のシェップの作品やコルトレーンのアルバムに参加しているのを聴いたら、こりゃもう全然違うフリーでアヴァンギャルドな人だから面食らって、そしてそっちの方がシェップ本来のスタイルだと分るようになった。それでも僕は『バラード・フォー・トレーン』が一番好きなんだなあ。

 

 

『バラード・フォー・トレーン』には六曲収録されている。一曲目の「ソウル・アイズ」はマル・ウォルドロンの書いた曲で、マルの作品にコルトレーンが参加したものもあるけれど、それよりも1962年のコルトレーン・カルテットによるインパルス盤『カルテット』のヴァージョンの方が有名なはず。

 

 

シェップも間違いなく『カルテット』収録ヴァージョンからインスパイアされたような演奏だ。コルトレーンの『カルテット』は翌年の『バラード』にもちょっと雰囲気が似たようなストレートなジャズ・アルバムで、二枚とも僕は大好き。『バラード』が好きとかいうと硬派なコルトレーン・ファンには睨まれそうだ。デューク・エリントンとの共演盤だって好きだよ、僕は。

 

 

『バラード』からもシェップは一曲選んでいて、それが二曲目のスタンダード「ユー・ドント・ノウ・ワット・ラヴ・イズ」。まあしかし一曲目の「ソウル・アイズ」といい「ユー・ドント・ノウ・ワット・ラヴ・イズ」といい、シェップのテナー吹奏ぶりはお手本のコルトレーン・ヴァージョンそっくりだ。

 

 

たまにフリーキーになったりスケール・アウトすることがある程度のことで、ほぼコルトレーンそのまんまなんだよね。それは他の曲もだいたい全部そう。コルトレーンに似ていないというかお手本がないものもあって、それはB面一曲目の「ウェア・アー・ユー?」と二曲目の「ダーン・ザット・ドリーム」。

 

 

この二曲はコルトレーンは一度もやっていないはず。ライヴなどで吹くことがあったかもしれないが録音は残っていないので、この二曲をシェップが採り上げた動機は僕にはちょっと分らない。けれども吹奏スタイルはスタンダードをやる時の1965年までのコルトレーンによく似ているもんね。

 

 

「ダーン・ザット・ドリーム」ではシェップはアルバム中これでだけテナーではなくソプラノ・サックスを吹いている。僕の耳にはコルトレーンがソプラノを吹く時の演奏よりもこのシェップのソプラノの方がいいんじゃないかと聞えるんだなあ。リリカルで美しい。まあそういう曲なんだけどね。

 

 

「ダーン・ザット・ドリーム」のアドリブ・ソロの冒頭でシェップは「飾りの付いた四輪馬車」(Surrey With The Fringe On Top)のメロディを引用している。言うまでもなくあのスタンダード・バラード。このあたりなんかフリーでアヴァンギャルドなイメージからは程遠いよね。

 

 

個人的に『バラード・フォー・トレーン』のなかで一番気に入っているのはA面ラストの「ワイズ・ワン」。コルトレーン・ヴァージョンは1964年の『クレセント』収録の曲だ。『トランジション』と並んで大好きなアルバムなんだよね。インパルス時代ではあのあたりが僕は一番好きだなあ。

 

 

しかし『クレセント』収録のコルトレーン・ヴァージョンの「ワイズ・ワン」は、最初シェップがそのまま踏襲しているようにテンポ・ルパートで出てコルトレーンもそのまま吹くものの、中盤の三分過ぎあたりからリズムが活発になって、エルヴィン・ジョーンズがシンバルとスネアでややラテン風なリズムを叩出しているんだよね。

 

 

1960年代のコルトレーンにはそういうリズムがラテンだったりアフリカンだったりするものがあって、僕なんかはそこらへんが一番面白いんじゃないかと思うわけだけど、ファンも専門家もみなさんエルヴィンのポリリズムどうたらは言うものの、ラテンだのアフリカンだのとは言わないよなあ。

 

 

僕なんかにはあの『至上の愛』はラテン/アフロ・ポップ・アルバムのようにすら聞えるんだけどねえ。世界中の誰一人としてそんなことは言ってないなあ。僕の耳と頭がオカシイのか、それともみなさんが精神性だの思想性だのを云々するばかりで音をちゃんとお聴きでないのか、どっちなんだろう?『史上の愛』についてはそういう文章を既に書上げているのでまた後日。

 

 

シェップの「ワイズ・ワン」にはそういうリズムの面白さは全然ない。1960年代から活動するコルトレーン・フォロワーはコルトレーンのそういう側面・面白さはあまり継承していないよねえ。はっきりしてくるのは70年代に入ってラテンやアフリカンなジャズ・ファンクが出るようになってからだ。

 

 

ってことはだよ、コルトレーンが1960年代にやっていた音楽のリズムの面白さを一番よく理解して継承し自分の音楽でそれを表現したのは、誰あろうかつてのボス、マイルス・デイヴィスだったってことだよねえ。1969年の『ビッチズ・ブルー』以後のマイルスには間違いなくそういう面があったよな。コルトレーン本人だってあと五年も生きていれば・・・。

 

 

この手の話については本が一冊書けるくらい言いたいことがあるので控えておく。シェップの『バラード・フォー・トレーン』ではアルバム・ラストの「シーム(テーマ)・フォー・アーニー」も大好き。コルトレーン1958年のプレスティッジ盤『ソウルトレイン』収録のがオリジナル。

 

 

コルトレーンの『ソウルトレイン』は、個人的愛好具合だけならばこれこそナンバー・ワン・コルトレーンで、アルバム全体にわたってリラックスしているし、アップ・テンポのハードな曲でもミドル・テンポのグルーヴィーな曲でもスローなバラードでも本当にいい感じ。シェップのヴァージョンもそれをよく表現しているんだよね。

2016/06/04

クラブ風北米先住民音楽

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ザ・バンド以後のロビー・ロバートスンのソロ・アルバムでは、間違いなく1994年の『ミュージック・フォー・ザ・ネイティヴ・アメリカンズ』と次作98年の『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』が面白い。しかしこれは多くのロック・ファンには賛同してもらえないだろう。

 

 

ザ・バンドでロビーのファンになった多くのロック・リスナーは、ロビーのソロ・アルバム、といっても今までのところ五枚しかないんだけど、そのなかでは普通は一作目や二作目、あるいはエリック・クラプトンとの合作とも言うべき2011年の今のところの最新作がいいという意見だろうなあ。

 

 

それらのうち1987年の一作目と91年の二作目はともかくとして、エリック・クラプトン全面参加の最新作は、まあそのなんというか、90年代以後のクラプトンは自分のアルバムがダメなだけなら文句は言わないが、他人のアルバムにゲスト参加してもそれをことごとく台無しにしてしまうという素晴しい能力の持主だからなあ。

 

 

でも人気はあるんだろうね、その2011年の『ハウ・トゥ・ビカム・クレアヴォヤント』。僕は最近のクラプトンはちょっともうねえ・・・。あんなのより絶対に『ミュージック・フォー・ザ・ネイティヴ・アメリカンズ』と『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』がイイよ。

 

 

どうしてこの二作は多くのロック・ファンにはウケないだろうと思うのかというと、これらは普通のロック・アルバムじゃなくて、母親がモホーク族であるというカナダ先住民(ファースト・ネイションズ)の血を引くロビー・ロバートスンが、その出自を音楽的に全面展開したクラブ・ミュージックだからだ。

 

 

『ミュージック・フォー・ザ・ネイティヴ・アメリカンズ』と『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』。僕の耳には後者の方が楽しくて面白いように聞える。これは間違いなく現代エレクトロニカ系クラブ・ミュージックなんだよね。それがカナダ先住民音楽と合体している。

 

 

『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』ではハウィー・B やマリウス・デ・ヴライスといったクラブ・ミュージック系のプロデューサーを起用している。ハウィー・B は僕はソウル II ソウルで知った人。ソウル II ソウルは大ファンなので別記事で書きたいと思っている。

 

 

マリウス・デ・ヴライスもハウィー・B 同様主に英国を中心にいろんな音楽家(なかにはデイヴィッド・ボウイも)を手がけている、やはりエレクトロニカ〜トリップ・ホップ系のプロデューサー。なお僕は一部を除きそういうクラブ系ダンス・ミュージックのことについては疎くて大して聴いていない。

 

 

僕はジャズ・ファンだからアシッド・ジャズとかレア・グルーヴなど主に1980年代後半以後に一時期流行した一連のそういうものが好きなんじゃないかと思われるかもしれないが、そういうムーヴメントで発掘・再発見された1960〜70年代のダンサブルなジャズのレコードから元々ファンだからさ。

 

 

だからそもそも<再発見>なんかしてくれなくたって、最初からそういうダンサブルなジャズ〜ソウル・ジャズ〜ジャズ・ファンクのレコードをたくさん買って聴いていた僕や同世代かそれ以上の世代のジャズ・ファンは、そんなアシッド・ジャズとかレア・グルーヴとかにはシラケていたはず。僕もその種のムーヴメントには殆どハマっていない。

 

 

だからそういうこともあってかクラブ系音楽には今まで(前述のドハマりしたソウル II ソウルなど一部例外を除き)あまり縁がなかったような僕でも、やはりロビー・ロバートスンの『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』には凄く感心しちゃったんだよね。

 

 

『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』にはいわゆるアクースティックな生楽器は全くと言っていいほど使われていない。一部でほんのちょっぴりストリングスやフルートやピアノが入る程度。普通の電気楽器だってロビーの弾くギターとベース(後者はやはりほんの一部)だけ。

 

 

それ以外は全て電子楽器なんだよね。キーボード・シンセサイザーとその他コンピューターを使った打込み。ドラムスの音は多くの曲で聞えるけれど全部打込みだ。やはり僕はコンピューター・サウンドよりは人力演奏の方が好きだという人間で、普段はそんなのばかり聴いているけれど。

 

 

だって人力演奏にはどんなにタイム感が正確無比な(例えばマシーンみたいなジャズ・ドラマー、マックス・ローチみたいな)音楽家の演奏だって、やはりそこには一種の<揺らぎ>があって、その揺らぎが聴き手に心地良さをもたらしているんじゃないかと思うから、それがない打込みはちょっとなあ。

 

 

それでも打込みで創ったサウンドでもかなり好きなものだっていろいろあるから、一部に存在するそんなガチガチの人力演奏信奉者でそういうものしか聴けないぞと思っているようなリスナーでもないんだよね、僕は。それに打込み系音楽の多くは魅力的なヴォーカルを使っている。

 

 

ベーシック・トラックをほぼ全て打込みで創ったロビーの『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』でもやはり実に多くの人声がフィーチャーされていて、それこそがこのアルバムの最大の聴き所にして、ロビー・ロバートスンのカナダ先住民としての出自を音楽的に反映させた部分だ。

 

 

『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』では殆どの曲がロビー・ロバートスン(とその他プロデューサー達と)の自作だけど、なかには<トラディショナル>とクレジットされている曲もある。カナダ先住民伝承音楽なんだろう。例えば一曲目の「ザ・サウンド・イズ・フェイディング」。かなり面白い。

 

 

 

お聴きになれば分るように、なにか伝承打楽器のような音(のおそらくサンプリング)と人声とアクースティック・ピアノの音に導かれ女性歌手が歌いはじめる。途中でロビーのエレキ・ギターが聞えるけれど、やはり中心は何語か分らない女性ヴォーカルだ。

 

 

この何語か分らない女性ヴォーカルはリー・ヒックス・マニングのもので、アメリカ議会図書館に残されている1942年の録音をサンプリングしたもの。そういったトラディショナルなカナダ先住民の歌や声やサウンドを主にサンプリングなどして使っているものがこのアルバムには他にもある。

 

 

何語か分らないと書いた。『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』の収録曲全てヴォーカル曲だけど、どれもこれも全部僕には何語か分らないんだよね。カナダ先住民の言葉なんだろうか?一部でロビー自身があまり上手くない歌を聴かせるものがあってそれは英語だけど。

 

 

アルバム中一番感心して最初に聴いた時から一番好きで今でも最大の愛聴曲なのが九曲目の「ストンプ・ダンス(ユニティ)」。バックのサウンドはやはり打込みだけど、ヴォーカル・コーラスが非常に大きくフィーチャーされているのが大の僕好み。

 

 

 

「ストンプ・ダンス(ユニティ)」ではお聴きの通りロビーも歌っているけれど、あくまでメインはWALELAの三人の女性歌手、リタ・クーリッジ、プリシラ・クーリッジ、ローラ・サッターフィールドだ。貼った上掲の音源を聴いていただけたと思うけど、実に素晴しいじゃないか。

 

 

これら三人の女性歌手のうち、リタ・クーリッジは有名ロック歌手だ。いわゆるLAスワンプ系人脈の一人で、リオン・ラッセルやディレイニー&ボニーとも一緒に活動していたし、その後1971年にソロ・デビューして大活躍。彼女もまたチェロキー族の血を引く北米先住民の出身なのだ。

 

 

この「ストンプ・ダンス(ユニティ)」こそが『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』のハイライト、白眉の一曲だと僕は思う。打込みで創った現代的クラブ・サウンドなのに、なんだかかなりプリミティヴな強い大地の生命力みたいな要素も感じるもんなあ。

 

 

そういうロビーの音楽的指向は『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』の前作1994年の『ミュージック・フォー・ザ・ネイティヴ・アメリカンズ』から既にはっきりと出ている。そっちの方がよりトラディショナルで、今聴き返してみたらこっちの方が面白いかもしれない。

 

 

ロビーのこういった音楽指向を時代を遡って辿るとザ・バンド時代の1971年作『カフーツ』に行着くように思うんだよね。と言ってもアルバムの一部だし、しかも別に北米先住民的な側面ではないけれどね。僕なんかあれと二枚組ライヴ盤『ロック・オヴ・エイジズ』がザ・バンドでは一番好きだけどね。

 

 

主に21世紀に入ってから世界各地で現地の民族的音楽伝統と普遍的音楽言語になりつつあるヒップホップ系クラブ・ミュージックを融合させたような音楽がいくつも出てきている。日本ならサカキマンゴーさんやOKIさんや、直接そういう楽器は使わないけれどマレウレウなどがその代表格。でもロビーのこのアルバムは1998年だもんなあ。

 

 

そういうローカルな民族音楽伝統をグローバルな共通言語で表現したものを流行っているらしい言葉で言えば<グローカル・ビーツ>ということになるんだろう。あまり好きではない言葉だけど、大石始や吉本秀純さんなどがロビーの『コンタクト・フロム・ザ・アンダーワールド・オヴ・レッドボーイ』に触れているのは見たことがない。

 

 

なお、ヨーロッパから白人が来る以前から住んでいた北米大陸の先住民の現在での呼称は、カナダではファースト・ネイションズに定着しつつあるみたいだけど、アメリカ合衆国では連邦政府がネイティヴ・アメリカンと呼ぶものの先住民側はこれを認めず、しかし彼らが主張するアメリカン・インディアンではインド系アメリカ人と混乱しそうだし、ちょっと難しいなあ。

2016/06/03

マイルス・バンドのサックス奏者はイモだらけ

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マイルス・デイヴィスがレギュラー・バンドに雇ったサックス奏者って、よく考えてみると結局ジョン・コルトレーンとウェイン・ショーターしか聴ける人がいないような気がする。短期間キャノンボール・アダリーがいたのと、かろうじてデイヴ・リーブマンがマシかと思う程度で、あとは全部ダメだ。

 

 

本格的にはチャーリー・パーカーのような史上空前の超天才サックス奏者のコンボでデビューしたマイルス(録音はないがビリー・エクスタイン楽団でプロ・キャリアをスタートさせている)だから、これは意外だよなあ。これは僕の耳がオカシイというか厳しすぎるだけなのか。

 

 

例えば最初のレギュラー・サックス奏者ジョン・コルトレーンが辞めたあとのハンク・モブリー(その間ちょっとだけソニー・スティットを使っていて録音もあるけれど、例外として除外していいだろう)。彼は二流とかB級の人ではないけれど、やっぱり聴き劣りしちゃうんだよなあ。

 

 

ハンク・モブリーのアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ時代の録音やホレス・シルヴァーの作品に参加したものなどには僕も好きなものがいくつかあって、モブリーは曲創りでも才能を発揮しているように思うんだけど、1961年のマイルス・バンド時代はコルトレーンの後任だったせいもあってイモに聞える。

 

 

モブリーのマイルス・バンドでの初録音は1961/3/7の「ドラッド・ドッグ」と「ノー・ブルーズ」の二曲。前者は『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』に収録されて即座にリリースされ、後者も同アルバムに「プフランシング」というタイトルで収録されている。もちろん当時の妻フランシスにちなんだ曲名。

 

 

マイルスの当時の妻フランシスといえば、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』のジャケ写が彼女だよね。その他1965年の『E.S.P.』のジャケットにも映っているし、他にも何枚かある。結構な美人だよなあ。マイルスは最初58年に「フラン・ダンス」という曲を創り録音している。

 

 

1958/5/26録音では「フラン・ダンス」とともに「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」「ステラ・バイ・スターライト」「ラヴ・フォー・セール」が録音されていて、当時は「ラヴ・フォー・セール」を除き同年リリースの『ジャズ・トラック』というアルバムのB面に収録されて発売された。

 

 

『ジャズ・トラック』はA面が例の『死刑台のエレベーター』サウンドトラックで、上記B面三曲と全く無関係な内容だから、ちょっと違和感があるアルバムなんだよなあ。ところで『ジャズ・トラック』というレコードは、僕がマイルスを知った頃には既に入手困難でその後もなかなかCD化されなかった。

 

 

だから僕がそれら1958年録音のビル・エヴァンスのマイルス・バンド・レギュラー在籍時代唯一のスタジオ録音を聴けたのは、1974年に日本のCBSソニーがリリースした『1958 マイルス』でのこと。これには「ラヴ・フォー・セール」も収録されている。一曲だけ当時出なかった理由ははっきりしている。

 

 

というのは同じ1958年にキャノンボール・アダリー名義でブルーノートにも「ラヴ・フォー・セール」を録音していて、それはご存知『サムシン・エルス』に収録されて即発売されたからだ。だからコロンビア側は同曲の同年同社録音はリアルタイムではリリースしなかったに違いない。あくまで僕の推測だけどね。

 

 

もう一つ、マイルスがやる時の「ラヴ・フォー・セール」はハードにスウィングしたいような曲調だから、ビル・エヴァンスじゃ物足りないんだよね→ https://www.youtube.com/watch?v=-i6wNgg5kq4『サムシン・エルス』ヴァージョン(ピアノはハンク・ジョーンズ)との違いは明白→ https://www.youtube.com/watch?v=4tSYXpq2kW0

 

 

それはそうと『1958 マイルス』はラストに「リトル・メロネー」があるけれど、これだけ1955年録音なんだよね。サックスは同じコルトレーンだけど、どうしてこれ一曲だけ55年のを入れちゃったんだろうなあ?当時はみんな混乱していて、ライナーノーツの油井さんもひょっとしてこれは55年じゃないだろうか?と書いていた。

 

 

今はコロンビアが1955年録音だとはっきりデータを出しているけれど、当時はそれがなかったからなあ。でも耳のいい油井さんでなくても、当時の僕のヘボ耳にもあの「リトル・メロネー」は録音状態もコルトレーンのスタイルの完成度からも1958年の音には聞えなかった。ピアノがレッド・ガーランドなんだけど、彼は58年まで在籍したから紛らわしい。

 

 

ちなみに『ジャズ・トラック』は現在でも単独の一枚物としてはCDリリースされていない。唯一2013年リリースの九枚組ボックス『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』のなかに中身もジャケットもオリジナルのまま入っている。CDではこれしかないから、単独でほしいマニアはみんなアナログを探す。

 

 

マイルス・バンドのサックス奏者にイモが多いというのから話が逸れているようかのようだけど、そうではない。『1958 マイルス』収録の1958/5/26録音のそれら四曲は、コルトレーンとキャノンボールが同時在籍していた時期の録音で、マイルスの音楽生涯で最もサックスが充実していたんだよね。

 

 

コルトレーン+キャノンボールのツイン・サックス体制が聴けるスタジオ・アルバムは『マイルストーンズ』『1958 マイルス』『カインド・オヴ・ブルー』の三つ。さらに公式盤なら『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』と『ジャズ・アット・ザ・プラザ』の二つのライヴ・アルバムがある。充分じゃないだろうか。

 

 

ファースト・クインテットのテナー・サックス奏者だったコルトレーンを再起用するとほぼ同時にどうしてマイルスがアルトのキャノンボールを雇おうと思ったのか分らないんだけど、マイルス自身の回想ではこの時期サックスを二人にしてサウンドを分厚くしたいという着想があったらしい。

 

 

サウンドを分厚くといってもハーモニーの垂直構造をという意味ではない。ツイン・サックスにした1958年頃からのマイルスは垂直的和音はどんどんシンプリファイしていき、逆に水平的なスケール(モード)に基づいてアドリブを展開するという方向性だった。三管によるテーマ演奏は重厚だけれども。

 

 

コルトレーンはご存知の通り1957年のセロニアス・モンク・バンドでの修行を経て素晴しいテナー・サックス奏者になっていて、それに比べたら58年加入当時のキャノンボールはちょっぴり聴き劣りする。実際58年録音のバラード・ナンバーではキャノンボールは吹かせてもらえておらずコルトレーンのみだ。

 

 

1958年録音の「フラン・ダンス」でだって「ステラ・バイ・スターライト」でだってサックス・ソロはコルトレーンのみ。59年録音でだって『カインド・オヴ・ブルー』のA面ラスト「ブルー・イン・グリーン」ではやはりコルトレーンだけで、キャノンボールは外されている。

 

 

これは1956年のプレスティッジへの一連のいわゆるマラソン・セッションで吹込んだ数々のバラードでは、やはり当時まだ未熟だったコルトレーンは外されているのを思い出す。『ワーキン』の「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」も『クッキン』の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」もそう。

 

 

マイルスはリリカルなバラードについては相当にこだわりの強いジャズマンだったし、特にそういうのをハーマン・ミュートを付けて吹く1950年代はそうだから、そういう曲で未熟な演奏者が入るのを嫌ったんだろう。しかしブルーズ・ナンバーやその他快活な曲ではキャノンボールもかなりいい演奏だ。

 

 

リリカルなバラードでだって『カインド・オヴ・ブルー』ラストの「フラメンコ・スケッチズ」でのキャノンボールのソロはかなりいい。正直言ってこの曲(とA面のファンキー・ブルーズ「フレディ・フリーローダー」)ではコルトレーンのソロより僕は好きなくらい。特に前者のスパニッシュ・スケールの部分が好き。自分でも意外なんだけど。

 

 

音楽家としてのキャノンボールという人は、その後1960年代のスーパー・ファンキー時代の録音の方が僕は好きで、特にウィーン生れでクラシック音楽の教育を受けた白人が弾いているとは到底思えないジョー・ザヴィヌルの真っ黒けなエレピが聴ける曲群なんか最高だよね。でも多くのジャズ・ファンには評判が悪い。『ミュージック・マガジン』界隈のザヴィヌル嫌いの方々は、あのあたりの彼をどう聴いているんだろう?

 

 

それはともかく1958/59年のツイン・サックス時代はボスのマイルスも最高だったと思っているらしく、81年復帰後は隠遁前には考えられないくらい昔の思い出話をインタヴューなどでもよくするようになっていて、そのなかであのツイン・サックス時代のサウンドがいかに素晴しかったか頻繁に語っている。

 

 

そういう時代があったからこそ、その後のハンク・モブリー時代の物足りなさといったら半端じゃないんだよね(ようやく話を戻せた)。一番露骨に分るのが『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』一曲目のタイトル・ナンバー。飛入りゲスト参加のコルトレーンも吹くから、あまりの違いに愕然としてしまう。

 

 

 

どうだろう?このコルトレーンとモブリーの違いは?同じテナー・サックスだからひょっとしてご存知ない方のために書いておくと、最初のソロがモブリー、次がコルトレーン。モブリーも自分の後でのコルトレーンのソロを聴き、自信を喪失したらしい。

 

 

また同アルバムB面のスパニッシュ・ナンバー「テオ」ではモブリーは全く吹かせてもらえず、サックス・ソロはコルトレーンのみ。実力差を考えたら当然だけど、しかしレギュラー・メンバーに対する扱いだもんなあこれが。同アルバムの現行CDには「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」の別テイクがあってそれのサックス・ソロはモブリーのみ。

 

 

その「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」の別テイクでテナー・ソロがモブリーのみの演奏を聴くと、確かにこりゃダメ演奏だ。だからモブリーの後任としてのジョージ・コールマンの次にウェイン・ショーターが来た時にはマイルスは本当に嬉しかったと思うんだよね。以前書いた通りその数年前から着目していたサックス奏者だったから。

 

 

ショーターのマイルス・バンドでの初録音は1964/9/25録音の『マイルス・イン・ベルリン』。既に際立ちはじめているけれど、スタジオ録音作の65年『E.S.P.』〜68年『ネフェルティティ』あたりまでのショーターの演奏と作曲両方面での大活躍はいまさら僕が繰返すまでもないことだ。

 

 

個人的な好みだけなら、1965〜67年のこの俗に言う黄金のクインテットではライヴ録音の方がはるかに好きで、以前から繰返している通り65年シカゴのプラグド・ニッケルでのライヴ録音とか、2011年にようやく公式化した67年のヨーロッパでのライヴ録音四枚組ボックスとかホント最高。

 

 

その後電気楽器を使ってジャズよりロックやファンクに近い音楽になって以後のマイルス・バンドにロクなサックス奏者はいない。デイヴ・リーブマンがまあマシかと思う程度で、残りは全部イモだ。熱心なファンク愛好家の友人も「マイルス・ファンクにサックスは全く不要だ」と言っていた。僕も同感なんだよね。ただジャジーな香りがするのがサックス・ソロ部分だけだから、ジャズ・ファンはそこを聴くんだそうだ。

2016/06/02

トレイ・アナスタシオのトロピカル・ジャズ・ロック

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ジャム・バンドの代表格の一つフィッシュのCDもたくさん買ったけれど、それらよりも好きなのがリーダー、トレイ・アナスタシオのソロ・アルバム。といっても大して聴いてなくて、初めて買ったのが2002年の『トレイ・アナスタシオ』。これ以前に何枚かあるけれど聴いていない。

 

 

2002年の『トレイ・アナスタシオ』がなかなか素晴しかったから、その後のアルバムはだいたい買うようになった。『トレイ・アナスタシオ』は自分の名前だけを冠しただけあって、彼自身も自信を持ってリリースしたものなんじゃないかなあ。アルバム・ジャケットもいいよね。

 

 

トレイはもちろんギタリスト兼ヴォーカリストで、『トレイ・アナスタシオ』でもそれをフィーチャーしているけれど、僕が一番気に入ったのはたくさん聞えるパーカッションの音とホーンの使い方。パーカッションではシロ・バプティスタが参加していてかなり派手に打楽器全開のサウンドだ。

 

 

『トレイ・アナスタシオ』以前のソロ・アルバムを聴いていないので、トレイが元々そういう音楽性の持主なのかどうかは分らない。でも彼が率いるフィッシュだとそんなにパーカッシヴではないよね。だから2002年に最初に『トレイ・アナスタシオ』を聴いた時にちょっと驚いて、そして嬉しかったのだ。

 

 

一曲目の「アライヴ・アゲイン」からいきなりかなり派手なラテン・パーカッション全開だし、といってもこれほどはっきりパーカッションが派手なはその一曲目と十一曲目の「ラスト・チューブ」だけなんだけど、それ以外の曲でだって効果的に使われていて、いい感じのスパイスになっている。

 

 

 

その11曲目の11分以上ある「ラスト・チューブ」が『トレイ・アナスタシオ』のハイライトだろう。トレイのヴォーカルも入るものの大部分がインストルメンタルなジャムで、こういうのはグレイトフル・デッド以来のジャム・バンドの得意とするものだよね。トレイもギターを弾きまくっている。

 

 

 

「ラスト・チューブ」ではホーン群も派手に入っていて、ドラムス+パーカッション+トレイのギター+クラヴィネットとともにこの曲を彩っているよね。リズムの感じもファンキーでというよりもこれはまあまあファンクな曲だ。『トレイ・アナスタシオ』でこういうファンク・ナンバーは他にはない。

 

 

書いたように一曲目の「アライヴ・アゲイン」がラテンな感じだし、二曲目の「ケイマン・レヴュー」もスティーヴィー・ワンダーみたいなクラヴィネットがファンキーだし、三曲目の「プッシュ・オン・ティル・ザ・デイ」だってリズムが派手だし、六曲目の「マニー、ラヴ&チェンジ」だってそう。

 

 

九曲目の「ミスター・コンプリートリー」もドラムスが暴れるアップ・テンポのハード・ロックで、ファズの効いたトレイのギターが活躍し、本当に『トレイ・アナスタシオ』というアルバムの肝はリズムにあると言いたくなるくらいだ。でもこのアルバムはそんなのばっかりでもないんだなあ。

 

 

 

五曲目の「フロック・オヴ・ワーズ」はアクースティック・ピアノの静謐な調べが中心で、それに乗せてトレイが歌いヴォーカル・コーラスが入るスタティックなナンバー。エレキ・ギターも聞えるけれどアクースティック・ギターが中心。また八曲目の「アット・ザ・ガゼボ」はクラシカルな管弦楽なんだよね。

 

 

 

 

クラシカルな管弦楽といえばトレイ・アナスタシオは『セイズ・デ・マヨ』というクラシック作品を2004年にリリースし、その当時は種々のライヴ・フェスティヴァルでもオーケストラを使ってそれをそのまま再現していたくらいだった。『セイズ・デ・マヨ』では最大で66人編成の管弦楽団が演奏している。

 

 

『セイズ・デ・マヨ』は30分もない短いもので、音楽としてもどうってことないロマン派作品だと思うけれど、それまでのフィッシュとソロ活動からは想像できなかったからビックリしたんだよね。そうして聴直してみると、これ以前のソロ・アルバムでもホーンやストリングスを見事に活用している。

 

 

『トレイ・アナスタシオ』の「アット・ザ・ガゼボ」がそうだと書いたけれど、10曲目の「レイ・ダウン・バルーン」だってクラシカルなストリングスに乗ってトレイの弾くアクースティック・ギターだけがフィーチャーされるインストルメンタル・ナンバーだ。だからこういう音楽性も持っている人なんだよね。

 

 

 

『トレイ・アナスタシオ』の中ではそれら二曲だけなんだけど、『セイズ・デ・マヨ』はそれを拡大した全面的なクラシック作品。しかし書いたようにただのロマン派な作風だから、同じくロック・ミュージシャンにしてクラシックのオーケストラ作品を書く時のフランク・ザッパみたいな面白さはないね。

 

 

そしてそういうクラシカルな曲やアルバムはそれら以外にはほぼないようだから、トレイ・アナスタシオはフランク・ザッパなどとはやはり全然違う。でも普通にギターを弾いて歌うだけのロック・ミュージシャン(の方が好きだけどね僕は)というのでもないのは確かで、多彩な音楽性を持つ人なんだろう。

 

 

トレイ・アナスタシオのソロ・アルバムでは2002年の『トレイ・アナスタシオ』より、それに続いて2003年にリリースされた二枚組ライヴ・アルバム『プラズマ』の方がはるかに好きで、ここではクラシカルな作風は全くなく、全面的に(ジャズ・)ロック、そしてかなりワールド・ミュージック的な面がある。

 

 

ライヴ・アルバム好きな僕の性分もあるんだろうけど、それを差引いても『プラズマ』は素晴しい。こんな楽しいワールド・ミュージック風なロック・アルバムはなかなかないね。一枚目一曲目の「カールーズ・コール」でのリズムの賑やかさといったらホント最高。

 

 

 

今貼った音源を聴いていただければこの音楽の楽しさはお分りいただけるはず。ティンバレスだって鳴るし、それ以外にたくさんのラテン・パーカッションが聞えて、ピアノやオルガンの弾き方だってホーン・アンサンブルの使い方だってラテン的で楽しいし、そもそもの曲調がラテン風だし、いいねこれ。

 

 

一枚目五曲目の「モザンビーク」も曲名通りワールド・ミュージックなんじゃないかなあ。ホーン奏者がアンサンブルだけでなく次々にソロを取り、パーカッションとトレイのギターも活躍するインストルメンタル。『プラズマ』では僕が一番好きな曲。

 

 

 

一枚目四曲目の「ウェン」なんかでもサックスがちょっぴり中近東風の旋律を吹くし、ホーン・アンサンブルだってややコミカルなところがあって面白い。ほんのちょっぴりデューク・エリントンのジャングル・サウンドを思わせる部分がないわけではないし、女性ヴォーカルとデュオで歌うトレイの歌には笑っちゃう。

 

 

一枚目六曲目の「エヴリ・ストーリー・エンズ・イン・ストーン」だってなんだろうねこれは。リズムは静かめだけどコミカルな曲調で、ポンポンと気持良く鳴るコンガの音が一番目立つ。フルートも聞え、トレイのギターと歌が面白い。

 

 

 

また一枚目七曲目の「スモール・アックス」はボブ・マーリー・ナンバーで、インストルメンタル・レゲエ。三分程度と短いんだけど、殆ど自分の書いた曲ばかりやるトレイ・アナスタシオにしてはちょっと珍しいカヴァーだ。まあしかしこれはどうってことないというか大したことはない一曲ではある。

 

 

一枚目のクライマックスはやはりラストの「ファースト・チューブ」だ。硬いチューニングにしたスネアのカンカンという音もいい感じに聞えるインストルメンタル・ジャムで、11分以上ある。YouTubeで探すといろんなライヴ・ヴァージョンが上がっているけど、『プラズマ』のはないみたい。

 

 

また『プラズマ』で異色なのは一枚目三曲目の「マギーラ」。4ビートのジャズ・ナンバーなんだよね。ホーン奏者がたくさん(といっても五人だけど)いることもあって、ジャズのビッグ・バンドに聞える。ピアノ・ソロも一瞬だけデューク・エリントンっぽいし。

 

 

 

そんな具合にいろいろと面白いサウンドで、いわば「トロピカル(・ジャズ)・ロック作品」だとも言いたくなるような一枚目に比べたら、『プラズマ』二枚目は普通のジャム・バンドっぽいロックばかりだから、今聴き返すと魅力が薄いような気がする。やっぱりワールド・ミュージック的な一枚目がいい。

 

 

『プラズマ』以後のトレイ・アナスタシオのソロ・アルバムにこんな面白いものはなくて、現在はまたフィッシュを再結成して活動しているみたいだけど、今のフィッシュには僕は興味はない。だから僕が面白いと思うトレイはやっぱり2002年の『トレイ・アナスタシオ』と2004年の『プラズマ』だけなんだよね。

2016/06/01

ハービー・ファンクでダンス!

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ハービー・ハンコックに『ダンシン・グルーヴズ』というCDアルバムがある。オリジナル・アルバムではない。1999年にSMEから日本でだけリリースされたコンピレイション盤だ。SMEからということはつまりコロンビア時代の、しかもタイトル通りダンサブルなファンク・チューンばかりだ。

 

 

全14曲入っている『ダンシン・グルーヴズ』。目玉は間違いなくラストの「カメレオン」12インチ・シングル・ヴァージョンということになるだろう。1973年の『ヘッド・ハンターズ』収録のハービー・ファンクの代表曲だけど、『ダンシン・グルーヴズ』収録のはその10年後83年にハービーとデイヴィッド・ルービンソンがリミックスしたヴァージョン。下に貼るのは『ダンシン・グルーヴズ』のではない。それはYouTubeになかった。

 

 

 

元々『ヘッド・ハンターズ』に収録されているオリジナルの「カメレオン」は15分以上ある。それを7インチのシングル盤用に3分程度に編集・短縮したものが当時発売されていた。『ダンシン・グルーヴズ』というコンピレイションは全てそういうシングル・ヴァージョンを集めたもので、当然全部約三分。

 

 

ラストに長めの12インチ・シングル・ヴァージョンがある「カメレオン」だって、三分程度の7インチ・シングル・ヴァージョンが一曲目に収録されているし、その他全て1970年代のハービー・ファンクを三分程度の7インチ・シングル盤用に短縮したものが13曲入っているんだよね。これが楽しい。

 

 

以前も書いたように、ジャズでもなんでもポピュラー・ミュージックというものは約三分のダンス・ミュージックだというのがその本質なんじゃないかと最近の僕は考えるようになっているけれど、1970年代のハービー・ファンクもオリジナル・ヴァージョンはどれもこれも全部10分以上あるものばかり。

 

 

ハービーも元々はジャズ畑の音楽家だし、1970年代のファンク転向後も現在に至るまでストレート・アヘッドなジャズも結構やっている。だけど僕はファンク・ミュージックをやる時のハービーの方がはるかに面白いような気がしていて、少なくとも個人的な好みでは断然ファンク・ハービーの方が好きなのだ。

 

 

そういうハービー・ファンクも当時LPレコードで発売されていたオリジナル・ヴァージョンは書いたようにどれも長くて10分くらいあって、アルバムの収録曲は全部で四曲とか多くても七曲程度とかだった。ジャズな耳にはハービーやベニー・モウピンなどのソロがたっぷり長く聴けるそっちの方がいいんだろう。

 

 

僕も最近まで全く同じ耳だった。10分とか17分とかあったりするハービー・ファンクの各人のソロ廻しを楽しんでいたのだった。それは今でも聴くと楽しくて、それらが7インチ・シングル盤用に短縮されたものばかり集めた『ダンシン・グルーヴズ』も、買った当初は大して聴いていなかった。

 

 

ハービー・ファンクのCDアルバムだから一応買って持っておくかという程度の気持と、あとはやはり最初に書いたようにラストに収録されている12インチ・シングル・ヴァージョンの「カメレオン」がレアで未CD化だったので、それを聴きたいというのが最大の購入動機だった。

 

 

ところがこの『ダンシン・グルーヴズ』を最近聴直してみたら、なんだかこっちの方がオリジナル・アルバムより楽しいんじゃないかと思えてきたのだった。約三分程度に短縮されていることでかえってハービー・ファンクの本質が剥き出しになっているように思うんだよね。

 

 

それはつまりアルバム・タイトル通り「踊れる」ってことなんだよね。今聴くとオリジナル・アルバムだって踊れるんだけど、僕は(あるいは他のジャズ中心のリスナーも)踊るというよりジッと座って耳を傾けていたのだった。だいたい昔のジャズ喫茶では指でリズムでも取ろうもんなら、ただそれだけのことでギロリと睨まれた。

 

 

むろんそういうジャズ喫茶ばかりではなく、なかにはダンサブルなものがかかると膝を揺すったりする客が多い店もあって、僕もどっちかというとそういう人間で、僕の話によく出てくる戦前ジャズしかかけなかったケリーというジャズ喫茶でも、マスター自らがカウンター内で身体でリズムを取っていた。

 

 

しかしそういう店・客は1970年代末〜80年代ですらまだまだ例外的で、多くのジャズ喫茶ではみんなジッとおとなしく座って動かずに聴いていたのだった。今考えたらジャズだってダンス・ミュージック(といってもフリー・ジャズだけは踊りにくい)なんだからちょっとおかしなことだ。

 

 

何度も書いているんだけど1970年代のハービー・ハンコックだけでなくその頃の多くのジャズ畑出身の音楽家がファンクに接近・合体して創り出していたような音楽は、鑑賞芸術音楽になってしまうビバップ以前の戦前ジャズが持っていたブラック・ミュージック的でダンサブルなグルーヴ感を再び取戻すようになっていただけだと思うんだよね。

 

 

ハービー・ファンクもまたその一つで例外ではないんだから、ディスコやクラブで踊りやすい三分程度の7インチ・シングル盤用に編集・短縮したものの方がむしろチャーミングなんじゃないかと思えてきちゃった。だから1999年リリースの『ダンシン・グルーヴズ』みたいなコンピレイション盤は大歓迎されるべきだろう。

 

 

『ダンシン・グルーヴズ』に収録されているシングル曲は、1973年の「カメレオン」(オリジナルは『ヘッド・ハンターズ』)から78年の「ユー・ベット・ユア・ラヴ」(オリジナルは『フィーツ』)まで。続けて聴くと同じダンサブルなハービー・ファンクでも少しずつ趣が変化していくのが分る。

 

 

六曲目の「アクチュアル・プルーフ」(オリジナルは1974年『スラスト』)まではエレキ・ギターの音は控目にしか聞えない。これはもちろんオリジナル・セッションがそうなっているからで、主にハービーのエレピやシンセサイザーとベニー・モウピンのサックスやフルートで構成されているから当然。

 

 

 

それが七曲目の「ドゥーイン・イット」(オリジナルは1976年『シークレッツ』)からは、冒頭からいきなりファンキーなギター・カッティングが出てきて、しかもそれが二本絡み、さらにスパイス的にグルーヴィーなヴォーカル・コーラスまで重なっている。この時期から音の傾向が変ったよね。

 

 

 

続く八曲目「ハング・アップ・ユア・ハング・アップス」(オリジナルは1975年『マン・チャイルド』)でもワー・ワー・ワトスンの絶妙なギター・カッティングを中心に曲が組立てられていて、その上にハービーの鍵盤やホーン楽器が乗る。その構造が7インチのシングル・ヴァージョンでよりクッキリ分る。

 

 

 

続く曲は全部そうで、ファンキーなギター・カッティングをメインに音を組立てていて、「アクチュアル・プルーフ」まではエレベ+ドラムスの上にハービーの鍵盤という土台だったのが完全に変貌している。かつてのボス、マイルス・デイヴィスは1973年頃からギター中心だったけど。

 

 

ファンク・ミュージックはギターが聞える方が僕は好きなんだよね。そりゃもう大学生の時にジェイムズ・ブラウンの1967年アポロ・ライヴで刻むジミー・ノーランに惚れて以来の大好物で、ああいったギター・カッティングさえ聞えればそれだけでご飯を何杯でも食べられる体質なんだな。

 

 

ただしマイルス・ファンクはヘヴィーでとっつきにくくダンサブルなフィーリングが薄いのに対し、1975年からのハービー・ファンクは明快にダンサブルでノリやすく分りやすい。あまりに気持いいから人によっては軽薄だと聞えたりしたはずだ。だからマイルス・ファンクよりはるかに評価が低い。

 

 

だけれども1994年に例のUS3がハービーのかつての代表的ジャズ・ナンバー「カンタループ・アイランド」をサンプリングして使ったのが大ヒットして以後は、こういうポップなハービー・ファンクが理解され支持されるようになって、『ダンシン・グルーヴズ』が99年にリリースされたのもその流れだったんだろう。

 

 

ラストの14分にわたる「カメレオン」の12インチ・シングル・ヴァージョン以外は、どれもこれもハービー・ファンクが三分程度に短くまとめられている『ダンシン・グルーヴズ』。こういうのこそ(ファンク化してはいるものの)ジャズ系音楽だって三分間のポップなダンス・ミュージックであるという本質をよく表現しているんだよね。

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