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2016年7月

2016/07/31

モブリーさんゴメンナサイ

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マイルス・デイヴィス・バンド在籍時代があるので、それで何度か言及しているテナー・サックス奏者ハンク・モブリー。個人的にはあまり好きじゃなく評価もできにくいなあと思っている人なんだけど、しかし別に二流とかB級とかいうジャズマンでもない。単に僕の好みじゃないというだけ。

 

 

これは間違いなくマイルス・バンドでのモブリーの前任がソニー・スティットを挟んでジョン・コルトレーンだったのと、後任がジョージ・コールマンを挟んでのウェイン・ショーターだったという、ただこの一点のみが理由だ。だから僕だけではなくマイルス・ファンには人気がないんだよね。

 

 

マイルス・バンドでのサックス奏者関連については以前詳しく書いたので、今日はそれ以外のモブリーの話。彼のリーダー・アルバムはそんなにたくさんは聴いていない。それでもアナログ時代は何枚も持っていて、なかには愛聴盤がいくつかあった。現在CDで買い直しているのは三枚だけだ。

 

 

それが1955年の『ハンク・モブリー・カルテット』、58年の『ペッキン・タイム』、60年の『ソウル・ステイション』の三つ。このうち一番最初の奴はアナログ盤では全く買ったことも聴いたこともなかった。『ハンク・モブリー・カルテット』は10インチLPしか存在しなかったからだ。

 

 

10インチだから六曲しか入ってなくて、当然全部で30分もない。これしかなかったもんだから僕がジャズ・ファンになった1979年には既に入手がかなり困難で、ジャズ喫茶でも全くかからず、しかもCD時代になってもなかなかリイシューされないので、完全に<幻の名盤>扱いされていた。

 

 

そういう『ハンク・モブリー・カルテット』のCDリイシューは21世紀に入ってからのこと。これが買えた時は嬉しかった。モブリー・ファンではない僕ですらそうだったので、日本にもかなり多い彼のファンならそりゃ跳上がるほど嬉しかったはず。今は iTunes Store でも普通に買える。

 

 

それで名前だけ前々から聞いていた1955年の『ハンク・モブリー・カルテット』を何十年目かにして初めて聴いてみた。いざ実際に耳にしてみたら、かなり地味ではある(モブリーはいつもそうだね)ものの内容はいいんだなあ。でもまあそんな名盤扱いするほどのものではないように思う。

 

 

モブリーの事実上の初リーダー・アルバムである『ハンク・モブリー・カルテット』。ワン・ホーン編成であることと、リズム・セクションが結成当時のジャズ・メッセンジャーズ、すなわちホレス・シルヴァー、ダグ・ワトキンス、アート・ブレイキーであるという、この二つが美点だなあ。

 

 

たったの25分しかないっていうのもかえっていいんじゃないかなあ。モブリーのサックスは本当に地味でいつも淡々としていて、多彩で変幻自在の吹奏ぶりを披露する人でもない。だからアルバムがあまり長いと途中で飽きちゃって聴くのをやめたくなっちゃうんだよねえ、僕は。

 

 

同様の理由で38分もない『ソウル・ステイション』もいい。これもワン・ホーン・カルテット編成で、ドラムスがやはりアート・ブレイキー。しかもピアノが僕の大好きなウィントン・ケリーだもんなあ。世間一般の評価ではこのアルバムこそモブリーでは一番いいものということになっているはず。

 

 

モブリーにとっての『ソウル・ステイション』は、同じモダン・ジャズ・テナーではソニー・ロリンズにとっての『サクソフォン・コロッサス』、ジョン・コルトレーンにとっての『ジャイアント・ステップス』みたいな金字塔的なアルバムなんだろうなあ。1960年のウィントン・ケリーも一番いい時期。

 

 

『ソウル・ステイション』のB面二曲目のアルバム・タイトル曲は本当に寛いだブルーズ(形式は12小節3コードでないが)で、ロックで言えばレイド・バックしたというような雰囲気の演奏で、モブリーだけでなく、ブルーズが得意なウィントン・ケリーも実にいい感じのファンキーなソロを弾いている。

 

 

 

個人的に『ソウル・ステイション』で一番好きなのは、その次のアルバム・ラストのスタンダード・バラード「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」だ。これがあるからこそこのアルバムの個人的なポイントが高くなるというくらい大好きな曲なのだ。モブリーはややミドル・テンポにして演奏している。

 

 

 

「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」。ジャズマンが演奏したものではトランペッター、ブッカー・リトルの1961年ベツレヘム盤『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』のヴァージョンが一番好きで、これは大学生の頃からの愛聴盤。いや、愛聴盤ではないな、アルバム中その一曲だけが好きだった。

 

 

『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』ヴァージョンの「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」は、ピアノ・トリオの伴奏をバックにブッカー・リトルだけが淡々と吹くというもので、アルバムに参加しているトロンボーン奏者とテナー・サックス奏者は入らず、ピアノの間奏もないトランペット・フィーチャー・ナンバー。

 

 

 

僕にとってのブッカー・リトルという人は、こういったちょっと湿ってくぐもったようなやや暗い雰囲気の演奏をする時が一番魅力的に聞えるトランペッター。エリック・ドルフィーと組んだ例のファイヴ・スポットでのライヴ・アルバムは火花を散らしてスリリングで凄いなとは思うんだけど、イマイチ好みじゃない。

 

 

個人的はチャーリー・パーカーのヴァーヴでの例のウィズ・ストリングス・アルバムにある「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」も好き。パーカーにしてもクリフォード・ブラウンにしても、ウィズ・ストリングス・アルバムでは複雑なアドリブ・ソロがなく、ひたすら美しく歌い上げるだけというのがいいよね。

 

 

 

複雑・難解でアーティスティックな表現よりも、そうやって美しいメロディーをその美しいままに、あまりフェイクせずただシンプルに演奏する・歌うというのこそが、ポピュラー・ミュージックの真の輝きだろうと最近の僕は思うようになっている。同様の理由でフェイクし過ぎるジャズ歌手の多くも最近はイマイチだ。

 

 

いろんなヴォーカリストも歌っている「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」。僕はあまり持ってないんだけど、ジャズ・スタンダードばかり歌っていたコロンビア時代のアリサ・フランクリンも歌っている。1964年の『アンフォーゲッタブル』というダイナ・ワシントン曲集に入っているので時々聴く。

 

 

そのダイナ・ワシントン自身のヴァージョンももちろん持っていて、僕は例のマーキュリー完全ボックス・シリーズに入っているのを聴いている。それを聴くと、アリサのヴァージョンはトリビュートらしくアレンジがダイナのものによく似ているんだなあ。この曲に関しては歌の力量はダイナの方が上だろう。

 

 

 

ハンク・モブリーから話が逸れる時間が長くなってしまった。彼のリーダー作ではトランペットやその他のホーン奏者が参加しているものはあまり好きではない。なぜかと言うとモブリーはああいう持味の人だから、あまりブリリアントなホーン奏者が加わっていると、ちょっとかすんでしまうように思うんだなあ。

 

 

だから現在CDではもう一枚だけ持っているモブリーのリーダー作『ペッキン・タイム』にはリー・モーガンがいるもんで、しかもこれは1958年の録音と一番モーガンが輝いていた時期だから、やっぱりモブリーみたいな渋みこそが旨味みたいな人はイマイチに聞えちゃう。

 

 

複数のホーン奏者編成でモブリーが演奏しているものでは、彼のリーダ作ではなくホレス・シルヴァーやソニー・クラークやアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズなどでのプレイの方が断然いい。特に前者二人の作品でのモブリーは本当にいいなあ。輝かしいトランペッターに負けていないように聞えるのが不思議だ。

 

 

負けていないように聞えるのは、モブリー個人がというよりもやはりホレス・シルヴァーやソニー・クラークのアレンジのペンの冴えなんだろう。この二人とも渋くて地味で、場合によってはB級のホーン奏者(繰返すがモブリーはそうではない)を上手く使って素晴しく聞えるように際立たせる腕が天下一品のアレンジャーなのだ。

 

 

ホレス・シルヴァーにしろソニー・クラークにしろ僕が一番評価しているのはいちピアニストとしての腕前ではなくて、そういった作編曲能力とかバンド・リーダーとしての才能なのだ。ソニー・クラークのアルバムでモブリーが吹くのは『ダイアル・S・フォー・ソニー』の一枚だけなんだけど、いい演奏だよね。

 

 

ソニー・クラークの『ダイアル・S・フォー・ソニー』はアート・ファーマー、カーティス・フラー、ハンク・モブリーという三管編成による1957年録音。三管という分厚いサウンドで、ファーマーもフラーも上手いホーン奏者なのに、モブリーだっていい演奏に聞える。自身のリーダー作とは大違いだ。

 

 

ホレス・シルヴァーの作品でのモブリーはもっと際だっていい演奏に聞えるので、やっぱりアレンジャーとしての腕前はホレスの方がソニー・クラークよりも上だ。特にいいのが1956年の『6・ピーシズ・オヴ・シルヴァー』。ホレスのアルバム中個人的にはこれこそがベスト・ワン。最高傑作だと考えている。

 

 

『6・ピーシズ・オヴ・シルヴァー』ではモブリーとドナルド・バードとの二管編成をホレスが実に巧妙なアレンジで旨味に仕上げている。二人とも最高にいい演奏に聞えるもんね。特に一番いいのが以前も書いたがB面一曲目の「セニョール・ブルーズ」。ラテン調のブルーズという僕の趣味からしたらこれ以上ない逸品。

 

 

 

「セニョール・ブルーズ」(とその他)を、ホレス・シルヴァーのバンドが1958年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでやったのが2008年にリリースされた(『ライヴ・アット・ニューポート ’58』)。そこではテナーがジュニア・クックだけど、ほぼ同じアレンジなのに大したことないように聞える。

 

 

スタジオとライヴの違いこそあれ、同じホレス・シルヴァーのバンドでほぼ同じアレンジで演奏しているのに、ハンク・モブリーの方が断然いいように聞えるってことは、やっぱりこのテナーマンの腕前は一級品だったってことだね。マイルス関連で散々悪口を書散らしてゴメンナサイ。

2016/07/30

黒くて濃密なアルセニオの世界

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キューバの音楽家アルセニオ・ロドリゲスの録音集では、同国のトゥンバオが2007年にリリースした『エル・アルマ・デ・クーバ』(訳せば『キューバの魂』)というCD六枚組が決定盤だと思うんだけど、いつもいつもそんな大きなものは聴きにくいよねえ。僕もそんな何回もは聴いていない。

 

 

『エル・アルマ・デ・クーバ』をCDで熱心に聴いたのは買った当初に三回ほどで、その後はMacのiTunesに取込んで、六枚全部計七時間超を流し聴きすることばかり。普段CDでいつも聴くのはこれではなく、日本のライスが2002年にリリースした『ソン・モントゥーノの王様』だ。

 

 

アルセニオ・ロドリゲスのライス盤アンソロジー『ソン・モントゥーノの王様』をコンパイルしたのは、やはりこれも田中勝則さんで、海外の主にワールド・ミュージック系の面白い音源をライスやその後ディスコロヒアからどんどんリリースしてくれる田中勝則さんにはお世話になってばかりで、感謝の言葉しかない。

 

 

中村とうようさんが盛んにやっていたこの手の仕事の衣鉢を継いでいるのはやはり田中勝則さんだなあ。音楽批評・ライターさんのなかにはとうようさんの後継的な方が何人かいらっしゃるけれども、日本にあまり紹介されていない音楽をCDにコンパイルしリリースする仕事に関しては、田中勝則さんが一番かも。

 

 

田中勝則さんが編纂してライスやディスコロヒアからリリースしてくれている音楽CDアルバムは面白いものばっかり。僕はリリースされると全部即買いと決めている。どれもこれも本当に楽しくてためになるし、僕みたいな他力本願の甘ったれ素人リスナーは、そういうもので教えていただくことばっかり。

 

 

アルセニオ・ロドリゲスに関しても、ライス盤『ソン・モントゥーノの王様』はトゥンバオ盤六枚組『エル・アルマ・デ・クーバ』の五年も前にリリースされているから、僕はもっぱらこのライス盤でアルセニオを楽しんできたし、それは前述の通りトゥンバオ盤六枚組のリリース後だって同じなんだよね。

 

 

アルセニオの初録音は1940年でキューバのビクトルへのもの。初渡米が47年。ニューヨークで本格的に腰を据えて活動するようになったのが52年で、その後は1970年にカリフォルニアで亡くなるまでアメリカで録音しLPを何枚も残しているし、CDにもなっている。

 

 

渡米後のアルセニオ楽団のサウンドもいいんだけど、やっぱりキューバ時代の録音をたくさん聴きたかったんだなあ。僕の場合本格的にはやはり前述のトゥンバオ盤六枚組でそれをたくさん聴けたわけだけど、同じように録音順に収録されているライス盤の場合、全22曲中18曲目までがキューバのハバナ録音だ。

 

 

なおトゥンバオ盤六枚組では、六枚目の9〜12曲目が1955年ニューヨーク録音である以外は、150曲近い収録曲の全てがハバナ録音。非常に詳しい厚手ブックレットにディスコグラフィーが附属しているので助かる。それとは別個に80ページ近いスペイン語の解説文がある。

 

 

その80ページ近いブックレットには英語による解説文も付いていて、それはスペイン語原文を英訳したものではなくオリジナル解説文で、質量ともにそれより充実しているスペイン語解説文と併せれば、アルセニオ・ロドリゲスの生涯と音楽についてここまで詳しい文章は、僕は見たことがない。

 

 

そんなことはともかくライス盤『ソン・モントゥーノの王様』。書いたように全22曲が録音順に収録されているので、アルセニオ・ミュージックの変遷が非常に分りやすい。一曲目の「ルンバに恋をした」は1940年アルセニオの初録音SPのB面曲。だからトゥンバオ盤ボックスではA面曲に続く二曲目。

 

 

この「ルンバに恋をした」は後年の濃厚なソン・モントゥーノのアルセニオを知っているとやや意外な感じがする。ソンじゃないもんなあ。トゥンバオ盤ディスコグラフィーでは “Afro” というジャンル名が記載されている。直後からボレーロ・ソンとかソン・モントゥーノとかが多くなる。

 

 

しかしこのアフロというのはいわゆるアフロ・キューバンでも黒人音楽でもない。北米合衆国でのミンストレル・ショウみたいに白人が黒人の真似をする音楽芝居で使われるために白人が書いたという、いわばインチキ・アフロなのだ。しかしながらアルセニオの手にかかると黒っぽくなるから不思議だ。

 

 

ライス盤でアルセニオらしいソン・モントゥーノが聴けるのは四曲目の「エル・バーロ・ティエネ・クルヘイ」からだ。これは1943年録音のアルセニオ初のソン・モントゥーノ。ここからがこのCDの聴き所だろう。みなさんご存知の通りそれまでのソンにはギアとモントゥーノという2パートがある。

 

 

いまさらな当り前の知識だけど、この文章を読む方のなかに万が一ご存知ない方がいらっしゃるかもと思い書いておくと、1920年代が全盛期のソン楽曲の2パート。前半部分であるギアは旧宗主国スペインからの影響があるメロディアスな楽曲。後半のモントゥーノはコール・アンド・リスポンスの反復。

 

 

つまりソンの後半コール・アンド・リスポンスの反復であるモントゥーノは、前半のギアがスペイン白人文化的なものなのに対し、言ってみればアフリカ文化的なものでリズム重視。僕みたいな音楽ファンにはヨーロッパ白人的部分とアフリカ黒人的部分が絶妙なバランスで合体融合した1920年代のソンが最高に魅力的なんだ。

 

 

だけれどもそこからヨーロッパ白人的部分を除去して、真っ黒けな音楽にしたアルセニオのソン・モントゥーノは、熱烈な黒人音楽マニア、言ってみれば汗臭い(すなわち言葉本来の意味でファンキーな)音楽をこそ愛するファンにはこれ以上ないキューバ音楽であるはずだ。古いソンの方が好きな僕ももちろん好き。

 

 

そんな真っ黒けでハードでタイトで濃厚なソン・モントゥーノを開発したアルセニオは、同時にボレーロもたくさん録音している。トゥンバオ盤ディスコグラフィーにも「ボレーロ」とジャンル名が記載されているものがかなりある。ライス盤五曲目の「ニッケの花」もそう。甘いラヴ・ソングなんだよね。

 

 

またライス盤10曲目の「孤独」もボレーロだ。正直に告白すると、僕はあまりにハードすぎるように聞えるアルセニオのソン・モントゥーノも大好きではあるものの、こういったスウィートなボレーロの方がもっと好きだったりする。まあ甘ちゃんリスナーだから。そうは言ってアルセニオのボレーロはかなり濃厚な味わいではある。

 

 

そんなアルセニオが書いて演奏したボレーロの最高傑作がライス盤13曲目の「人生は夢のよう」だね。1948年録音。リリ・マルティネスのリリカルなピアノもいいし、リード・ヴォーカルを取る甥レネ・スクールもいい。そしてこの48〜50年頃のハバナ録音がアルセニオの全盛期だろう。

 

 

その時期の録音はライス盤では13〜18曲目。どれもこれも濃厚で真っ黒けで、その音の濃密さは間違いなくキューバ音楽史上ベスト・ワンだなあ。なかでも僕が一番好きなのが15曲目の「俺のために泣かないで」。楽団のリリ・マルティネスが書いた短調のスパニッシュ・スケールを使った哀愁のメロディ。

 

 

ソンからコール&リスポンスの反復部分だけを取りだしてギュッと濃厚に凝縮したみたいなアルセニオの真っ黒けなソン・モントゥーノと、それと同時並行で(SP盤の両面収録のようにして)やっていた甘くてしかし濃密なバラードであるボレーロ。これら二つを合体させたようなグァグァンコーもまたいい。

 

 

こんな音楽家はキューバ国内にいないし、キューバ国外にも殆ど見つからない。僕が連想するのはデューク・エリントン楽団だけだなあ。エリントンの濃密で真っ黒けでエキゾティックなジャングル・サウンドとスウィートでメロウな印象派風バラード。アルセニオの楽団によく似ているじゃないか。

 

 

エリントンがその全盛期1940年前後に真っ黒けなジャングル・サウンドと西洋白人的印象派な作風を見事に合体させて大傑作群を創っていたことと、アルセニオが40年代末〜50年代頭にソン・モントゥーノとボレーロを合体させてグァグァンコーを創っていたことは、僕にはなにか通底するものがあるように思えてならない。

 

 

黒くて濃密なサウンドを聴くとなんでも「エリントンだ!」と言ってしまうのは、熱烈なエリントン・ファンの僕の悪弊ではあるけれど、しかしアルセニオの楽団全盛期の音の濃密さからエリントン楽団の全盛期を連想するのは、決して僕だけじゃないような気がする。

 

 

しかし熱心なエリントン・リスナーは世界中にそして日本にも多いけれども、そういう人でアルセニオ・ロドリゲスを熱心に聴く、ましてやトゥンバオ盤六枚組なんかを買ったりするファンって、どれくらいいるんだろう?少なくともクラシック音楽側からしか聴かないエリントン・ファンには間違いなく無理な話だね。

2016/07/29

フリーダム・ジャズ・ダンス

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ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズを擁した1965〜68年のマイルス・デイヴィスが率いた例のクインテットによるスタジオ録音で一番面白い曲は「フリーダム・ジャズ・ダンス」じゃないかという気がする。66年『マイルス・スマイルズ』収録。

 

 

 

1966年10月24日と25日に録音された『マイルス・スマイルズ』の全六曲。この二日間ではそれら六曲しか録音されておらず(ということになっている)、別テイクもリリースされていない。存在したのかもしれないが、1998年リリースの『ザ・コンプリート・スタジオ・レコーディングズ 1965-1968』にも未収録。

 

 

それら六曲の『マイルス・スマイルズ』収録の完成品を聴くと、全曲ワン・テイクで完成したとも考えにくい出来なので、リハーサル・テイクとか別テイクがあったんじゃないかと推測するんだけど、少なくとも公式でもブートでもそれらはリリースされていない。ってことは破棄されたのかもなあ。

 

 

それはともかく『マイルス・スマイルズ』B面二曲目の「フリーダム・ジャズ・ダンス」。ご存知の通りこれはマイルスのオリジナル・ナンバーでもなければサイドメンの書いた曲でもない。ジャズ・サックス奏者エディ・ハリスのオリジナルで、前年1965年に録音しているかなりファンキーなナンバー。

 

 

 

これは録音の翌年66年にエディ・ハリスのアルバム『ジ・イン・サウンド』のラストに収録されてリリースされた。なんてカッコいいんだ。ドラムスのビリー・ヒギンズの叩出すややラテンな感じのリズムがいいなあ。ヒギンズはこういうの得意だよね。

 

 

しかしこのエディ・ハリスの『ジ・イン・サウンド』が1966年の何月にリリースされたのかが調べても分らないのが残念だ。マイルスがこれを自分のクインテットで録音したのが同年10月だから、それ以前なんだろうとしか推測できない。あるいはまた別の可能性も考えられる。

 

 

というのはエディ・ハリスのオリジナル・ヴァージョンでベースを弾くのもまたロン・カーターなのだ。ってことは万が一マイルスのレコーディング前にエディ・ハリスの『ジ・イン・サウンド』がリリースされていなくても、それに参加したロンがこれは面白い曲だからとマイルスに推薦したということは考えられる。

 

 

そのあたりの真相は僕には分らないんだけど、少なくとも「フリーダム・ジャズ・ダンス」というエディ・ハリスの曲を有名にしたのがマイルスの『マイルス・スマイルズ』ヴァージョンであったことは間違いないみたいだ。これは僕にはやや意外な事実。

 

 

二つとも音源を貼ったので聴き比べていただきたい。僕の耳にはどう聴いてもエディ・ハリスのオリジナル・ヴァージョンの方がファンキーでカッコイイ。だからどうしてこっちが有名にならず、マイルスのカヴァーで有名になったのだろか?おそらくひとえに<マイルス・デイヴィス>の知名度ゆえじゃないかなあ。

 

 

リズムがファンキーなラテン調でホーン二管のテーマ吹奏も各人のソロもカッコいいエディ・ハリスのオリジナルに対し、マイルス・ヴァージョンはやや抽象的だ。リズムの感じはやはりジャズの普通の4ビートではないけれど、それでもエディ・ハリスのみたいなファンキーさやラテンさは薄いもんねえ。

 

 

1965年の『E.S.P.』から68年の『ネフェルティティ』までのマイルス・ミュージックはだいたいどれもこんな感じで、素材が面白くても料理の仕方が西洋クラシック音楽に近いようなもので抽象的。だから今の僕にはあまり面白く聞えない。それでも「フリーダム・ジャズ・ダンス」だけは悪くない。

 

 

『マイルス・スマイルズ』にはもう一つカヴァー曲がある。「フリーダム・ジャズ・ダンス」に続くアルバム・ラストの「ジンジャー・ブレッド・ボーイ」がそれで、ジャズ・サックス奏者ジミー・ヒースの書いた曲。1964年録音・リリースの『オン・ザ・トレイル』収録ナンバーだ。これもいいよ。

 

 

ジミー・ヒースはお馴染みパーシー(ベース)とアルバート(ドラムス)のヒース三兄弟の一人で、ジャズ界でこういう三兄弟揃って活躍したというのは、他にはハンク(ピアノ)、サド(トランペット)、エルヴィン(ドラムス)のジョーンズ三兄弟だけなんじゃないかなあ。

 

 

ジミー・ヒースとマイルスの関係で面白いのは、1971〜75年の電化マイルス時代にレギュラー・メンバーとして大活躍したパーカッション奏者のエムトゥーメ。彼はジミー・ヒースの息子なのだ。エムトゥーメの本名はジェイムズ・フォアマンで、ステージ・ネームが(ジェイムズ・)エムトゥーメ。

 

 

そんなことはともかく『マイルス・スマイルズ』。この後に続く『ソーサラー』『ネフェルティティ』の二枚にあまり魅力を感じない僕にとっては、1966年のこれとその前65年の『E.S.P.』の二枚だけがこの俗に言う黄金のクインテットと呼ばれるマイルス・コンボのスタジオ作では好きなものだ。

 

 

このセカンド・レギュラー・クインテットでの初スタジオ作になった『E.S.P.』はまださほど抽象的な感じには聞えない。アドリブ手法はモーダルではあるものの、聴いた感じはやはりモーダルな手法でやっている1959年の『カインド・オヴ・ブルー』などと殆ど変らないハード・バップだ。

 

 

『E.S.P.』で僕が一番好きなのはアルバム・ラストの「ムード」だ。なぜかと言うとこれは1959年以後91年に死ぬまでマイルスのお得意だったスパニッシュ・スケールを使った曲だからだ。いいよこれは。

 

 

 

しかしどうでもいいがこの YouTube 音源はどうして『カインド・オヴ・ブルー』のジャケットを使っているんだろうなあ?まあいいや。この「ムード」で僕が一番好きなのは三番手で出るハービーのピアノ・ソロ。その中盤ではっきりとスペイン風の旋律を弾く箇所で指を鳴らす音が聞えるね。

 

 

6:22あたりだ。そこまでトニーがブラシ中心でプレイしていて、それに加えスネアのリム・ショットを入れる程度だったのが、ハービーのソロになるとそのリム・ショットが大きめに聞えるようになり、6:22あたりでハービーが鮮明なスペイン風旋律を弾くと同時にかなり大きな音でリム・ショットを入れる。

 

 

それと同時に指を鳴らす音が聞えるんだけど、それは間違いなくマイルスによるものだ。マイルスはスタジオでもライヴでもよく指を鳴らす。それはいつも演奏前にカウントを取るためなんだけど、「ムード」ではそうじゃなく演奏中盤。いい感じのフレーズをハービーが弾くせいなんだろう。ショーターのソロの最後でも誰だか分らない唸り声が聞える。

 

 

マイルスのセカンド・クインテットではスタジオ第一作の『E.S.P.』まではハービーも普通にピアノを弾いている。普通にというのは右手でシングル・トーンを弾き左手でコードを押えるというごくごく普通のモダン・ジャズ・ピアノ・スタイル。ところが次の『マイルス・スマイルズ』からそうではなくなる。

 

 

『マイルス・スマイルズ』の全曲が普通じゃないというわけではない。僕が気付いている範囲ではA面一曲目の「オービッツ」、B面一曲目の「ドロレス」、ラストの「ジンジャー・ブレッド・ボーイ」の三曲ではハービーは一瞬たりとも左手でコードを押えていない。自分のソロでもマイルスやショーターのソロのバックでも全て。

 

 

このおかげなのか関係ないのか、『マイルス・スマイルズ』からマイルスの音楽がかなり違った響きになっている。そして続く『ソーサラー』『ネフェルティティ』の二枚では、アルバムの多くの曲でハービーはもはや右手しか使わないようになり、左手でコードを押えていない時間が長い。どうしてなんだろう?

 

 

無調音楽では全然なくはっきりとトーナリティが感じられる音楽ではあるけれど、『マイルス・スマイルズ』以後『ネフェルティティ』までは調性感のやや薄い抽象的なサウンドに聞える。そしてファンキーさみたいなものがほぼない。次作1968年の『マイルス・イン・ザ・スカイ』はファンキーなジャズ・ロックが中心なのに。

 

 

だから『マイルス・スマイルズ』の「フリーダム・ジャズ・ダンス」みたいな元はファンキーなナンバーですらアブストラクトな感じに仕上っているけれど、それでもエディ・ハリスの書いたオリジナルがファンキー・チューンだから、まだ結構カッコイイ感じに聴けるのだ。これが1968年まで消えちゃうんだなあ。

 

 

そう考えると『マイルス・スマイルズ』にある「フリーダム・ジャズ・ダンス」(と「フットプリンツ」)はある時期以後の僕にとっては1965〜68年のこのマイルス・クインテットがやった曲では最も聴きやすく、いい感じに楽しめる一曲なのだ。そしておそらくこれがこの時期のマイルス・バンドでは唯一まあまあファンキーな曲なのだ。

 

 

それが一時期消えていっちゃったのが残念なんだけど、「フリーダム・ジャズ・ダンス』みたいなジャズ・ロックっぽいファンキー感は伏流水のようにマイルスのなかに流れていて、だからそれが1968年の「スタッフ」(『マイルス・イン・ザ・スカイ』)みたいな路線に繋がったんだろうね。

 

 

その後はマイルス・ミュージックもどんどんとファンキーになっていって、1970年代にファンクそのものみたいな音楽をやるようになった。それを考えると1966年の「フリーダム・ジャズ・ダンス」は予兆だったのかもしれないなあ。よく聴くと『ソーサラー』『ネフェルティティ』にもリズムの面白い曲が少しあるから。

 

 

『ソーサラー』『ネフェルティティ』の二枚で今の僕が唯一面白いと感じるのがリズムで、4ビートじゃない8ビートでラテンなものが数曲あるんだけど、それは別記事にしてそれに焦点を絞って書いてみたい。なお「フリーダム・ジャズ・ダンス」のオリジネイターであるエディ・ハリスも、その後電化ジャズ・ロックをやっているよね。

2016/07/28

生演奏音楽と複製録音音楽

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商業化され普及したのは20世紀初頭のことだけど、録音技術そのものは19世紀末に発明されている。1857年フランスのレオン・スコットがフォノトグラフ (phonautograph) というものを開発したのが人類史上初。しかしこれは実用化できるものではなかったので普及しなかった。

 

 

実質的には1876年にグレアム・ベルによる電話機の発明により録音・再生技術の開発がはじまって、その翌年1977年にトーマス・エジソンがフォノグラフを発明したのが、事実上のレコード第一号と言えるだろう。エジソンは音楽用にではなく、盲人用の補助システムとして開発したのだった。

 

 

だから音楽を録音するレコードは1887年ドイツのエミール・ベルリナーがグラモフォンを発明したのが最初。グラモフォンは水平の円盤形のもので、すなわちその後20世紀に入り普及し現在のLPやCDまで続いている録音媒体と同じようなものだった。これに対抗してエジソンも円筒型の蝋管録音を開発。

 

 

しばらくはベルリナーのグラモフォンとエジソンの蝋管が覇を競っていたらしい。その19世紀末頃から音楽の録音もはじまって、現在でも残っている録音音楽が存在する。水平の円盤形をしたグラモフォンの方が大量複製生産に適していたうえ、円盤形ゆえ両面録音も可能になって、こっちが市場を支配する。

 

 

そのグラモフォンが20世紀の初めあたりからどんどん一般的に普及して(音楽に限らない話だが、今日は音楽用途に限定する)レコードを録音・販売する商売も出現。そうしてレコード産業が本格化したのが僕の認識では1910年代じゃないかなあ。その時期から大量の商業録音が存在するから。

 

 

別に録音技術史・レコード史を云々したいわけではない(が非常に強い興味はある)。問題はレコードの普及以後、音楽の変化するスピードが急速にアップしたということだ。録音開始前の音楽、例えば西洋クラシック音楽や世界各地の民俗音楽などの世界では、音楽の変化の速度はゆっくりとしたものだったはず。

 

 

そりゃそうだろう、音楽を大量に複製することなどできず、生演奏による口伝か楽譜などに記すかしか伝達手段がなかったんだから。ライヴ会場でのPAなんかあるわけないから生音だけで、従って一度に同じ音楽を聴いて共有できる人間の数はかなり限られていた。交通や流通の手段もかなり限定されていた(飛行機はおろか自動車だってまだ存在しない)。

 

 

ということは誰かがどこかで創り出した新しい音楽が多くの人の耳に届くようになるまでに相当な時間がかかっていたはずだ。そして相当な時間がかかって届いたとしても、録音されていないわけだからちょっと真似してみることだって容易ではない。だから新しい音楽が普及・拡散するのにはかなりの時間を要したはずだ。

 

 

そういうわけだから、世界各地の民俗音楽などはいまだにその過去の姿を鮮明に捉えることが難しい場合があるけれど、五線譜システムがあるので姿がかなりな程度まで分る西洋クラシック音楽の世界では、一つの音楽スタイルが出現した後、それが普及し次の新しいものが生まれるまで数十年か、場合によっては百年近い時間がかかっている。

 

 

ところがレコード技術の商業化とジャンルの成立もほぼ同時期なら、その後の歩みも軌を一にしてきたポピュラー・ミュージックの世界では、それ以前の西洋クラシック音楽(や世界各地の民俗音楽も同じだろうと思う)でかかった50年の変化がたったの5年で訪れるというような具合になっているよね。

 

 

これは言うまでもなくレコードやラジオなど録音複製音楽の大量生産・大量消費がもたらした現象に他ならない。自動車の大量生産と大衆への普及は1908年のT・モデル・フォードの発売以後で、これによって大量に生産されたレコードが瞬く間に各地に拡散し、誰でもどこでも簡単に聴けるようになった。

 

 

レコード・ショップが各地に誕生し安価なSP盤が売れて、SP盤を自分で買わなくたってジューク・ボックスがあったりラジオ放送がはじまったりして、同じ録音音楽を一度に大人数のリスナーが耳にすることになり現在に至る。そうすると新しいスタイルの音楽が普及する速度も段違いに速くなったわけだ。

 

 

これはまあ良いのか悪いのかちょっと分りにくいような面もある。いや、悪いってことはないと思いたい。なぜなら僕たち20世紀後半以後に産まれた世代の音楽ファンは、ただ一人の例外もなく全員がレコードやCDや配信など複製音楽大量頒布のお世話になってきているからだ。

 

 

僕らの世代の音楽ファンは産まれた時からレコードやラジオやテレビが当り前に身の回りにあったので、音楽複製大量消費の存在すら疑わないというか、当り前過ぎてそんな概念すら持っていない人が多いんじゃないかなあ。ちらっとでも考えてみたことすらないかもしれない。

 

 

そしてこの複製音楽の大量生産・大量消費によって、ちょっと奇妙な事態も発生するようになった。レコードなど録音複製音楽と生演奏音楽の逆転現象だ。言うまでもなく音楽は生演奏がオリジナル。これは2016年の現在でも全く変っていない。生のライヴ演奏こそが第一義的なもののはず。

 

 

ところがレコードが普及して、それは生演奏によるライヴ音楽に接する機会が容易ではない人達の間にも拡散したので、生演奏よりもむしろレコード音楽の方を第一義的に考えるようになるリスナーが誕生するようになっている。レコードのイメージを壊したくないという理由でライヴに足を運ばない人もいる。

 

 

この「レコードを聴いて自分のなかに作り上げたイメージが壊れてしまうのが嫌だから、生演奏のライヴ・ステージに足を運びたがらないファン」の存在というものは、僕も今までも何度か書いている。実際そういうジャズ・リスナーを現実生活で目の当りにしたことも何度かある。考えてみたら本末転倒だ。

 

 

もっとヘンだと思うのが、以前和田アキ子がテレビ番組で言っていた体験談。彼女の回想によれば、ある時のライヴ・ステージで、実演ならではのサーヴィスと思ってレコードとは違う節回しで歌ってみたら、「レコードと違う!」と文句を付けてきた観客がいたんだそうだ。この話を聞いた時は僕も驚いたけれど。

 

 

こりゃまた頭のオカシイ客もいるんだな、レコードと完全に同じであればレコードを聴けばいいんだから、ライヴではライヴならではの独自表現が聴けた方がいいに決っているじゃないかと、最初にその和田アキ子の話を聞いた時は僕もそう感じたんだよね。和田アキ子もかなり驚いたんだそうだよ。

 

 

長年僕のその印象は変らなかったのだが、どうもこの「レコードと同じ歌が聴きたい」という(最初は頭がオカシイと思った)客の反応、メンタリティは、実は全然おかしなものじゃなくて、至極当り前の日常的なものなのかもしれないなと、最近は僕もそう思うことがある。これこそが複製音楽の産物だからだ。

 

 

つまりある時期以後は、上で書いたように生演奏と録音物との意義が逆転しちゃってるんだなあ。20世紀半ば以後の生演奏に接する機会の乏しい音楽リスナーにとっては、レコードこそが第一義的な至高の存在で、たまに足を運ぶライヴは「レコードの再現」を聴くという場になっているんだなあ。

 

 

生演奏が「レコードの再現」という表現はもちろん狂っている。そもそもレコードは生演奏の再現なんだから。生演奏に接する機会のない人達に容易に音楽を聴いてもらうためのいわば二次的手段としてレコードというメディアが誕生・普及したのであって、それが逆転するなんてことは考えられなかった。

 

 

しかしながらどうやらある時期以後はこれが逆転しちゃっているんだなあ。先に紹介した和田アキ子のライヴで「レコードと違う!」とクレームした客は、あるいは少数派ではなく狂ってもおらず、ある意味一般のリスナーが普段から抱いている感情が端的に噴出したというだけのことなのかもしれない。

 

 

これが「狂っている」と長年感じていた僕は熱心なジャズ・リスナーなわけで、ジャズでは多くの場合一発勝負でその度内容の異なるアドリブ命の音楽なわけだから、同じ曲でもレコードとライヴで全然違うなんてのが当り前。そもそも「同じ曲」という考え方すらちょっとオカシイ世界ですらあるわけだ。

 

 

ジャズの場合、レコード録音でだってテイクが違えば演奏が異なるし(といってもアドリブ・ソロが毎回ガラリと姿を変えるのはチャーリー・パーカーくらいのものだと以前も指摘した)、これがライヴ演奏となると「同じものの再現」を期待する客なんて一人もいやしない。もし同じだったりしたら、即座にニセモノだと言われる。

 

 

しかしこれはジャズだけの特殊現象かもしれないぞ。いやもちろんジャズ音楽家だけでなく、前述の和田アキ子もそうだしその他いろんな音楽の演奏家・歌手がライヴならではの独自表現を試みてはいる。そして多くの客はそれを喜ぶだろう。だけれどもこの優先関係はどうも違ってきているのかもしれない。

 

 

歌謡曲や演歌(も歌謡曲と同じ現代ポップスだが)の世界では特に、実演はレコードの再現を聴きに行く場という考えがあるんじゃないかなあ。かくいう僕だって昨2015年12月に体験したアラトゥルカ・レコーズの面々によるライヴを聴きに行き、その生演奏がCD通りだったのがちょっと嬉しかったのは事実だ。

 

 

古典的表現というものはそういうものかもしれないよ。ここで僕が言う「古典的」というのは「古いもの」という意味ではない。確立されたオーセンティックな表現スタイルという意味だ。音楽の世界だけじゃないんだけど、そういう確固たる音楽表現形式はそう簡単には姿を変えないものなのかもしれない。

 

 

そう考えると、レコードなどの複製物にそういうオーセンティックな音楽表現が記録され、それが大量・迅速に拡散するようになった20世紀以後に産まれて、その恩恵をこうむってきた僕たち(人類史から見たら)新世代の音楽ファンはやはり恵まれてはいるよなあ。

 

 

しかしながらこの生演奏/録音物の地位逆転現象は、どうやら21世紀に入ったあたりからまた本来の姿に戻りつつあるのではないかという気がする。そんななか、生演奏に触れる機会などまずないど田舎に住み、いまだにもっぱら大量複製された録音物に頼りぱなっしの僕なんかは時代遅れになりつつあるのかも。

2016/07/27

ビリー・ジョエルのレゲエやラテン

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ビリー・ジョエルにレゲエ・ナンバーがあるのかと言われそうだけど、あるんだなあ、一曲だけ。1976年の『ターンズタイルズ』A面三曲目の「オール・ユー・ワナ・ドゥー・イズ・ダンス」がそれ。聴いていただければすぐ分っていただけるはずだ。

 

 

 

どうだろう?完全にレゲエじゃないだろうか?エレキ・ギターが刻むリズムがそうだし、その他サウンドがジャマイカ風だよね。しかも間奏部やエンディング部その他各所でスティール・パンにちょっと似た音が聞えるよね。もちろんスティール・パンではなくシンセサイザーだろう。

 

 

またティンバレスみたいな打楽器も入って、そのリズム・パターンはかすかにサルサっぽい雰囲気もあるし、なんじゃこりゃ、面白いじゃないか。正直言って僕はわりと最近までこれに気が付いていなかった。『ターンズタイルズ』では代表曲「ニューヨークの想い」こそが一番好きだったからなあ。

 

 

あとはアルバム一曲目の「セイ・グッバイ・トゥ・ハリウッド」が、ドラムスではじまる例の「ビー・マイ・ベイビー」で聴けるフィル・スペクター・サウンドそのまんまで、これも大好きだった。これら二曲以外はあまり聴き所がないなあと思っていた。

 

 

 

『ターンズタイルズ』は邦題が『ニューヨーク物語』。まだフィル・ラモーンと出会う前の作品で、商業的には成功したとは言い難い。そのプロデューサーと組んで大成功した『ザ・ストレンジャー』以後のビリー・ジョエルは非常によく知られているはずだけど、それ以前のはイマイチな評価だろう。

 

 

だからビリー・ジョエル自身も大成功して後、ブレイク前の優れた楽曲ばかりをライヴ・テイクからチョイスしたアルバム『ソングズ・イン・ジ・アティック』をリリースしている。1980年録音翌81年リリースの初ライヴ・アルバムなのに、収録曲はどれもこれも全部成功前76年までのものばかり。

 

 

だけどそれにも「オール・ユー・ワナ・ドゥー・イズ・ダンス」は収録されていない。こんな面白いカリブ風音楽をビリー・ジョエルがやっていたなんて、ちょっとした驚きだ。これに最近気が付いてビリー・ジョエルのアルバムをリリース順に聴直してみたら、ラテン風なものが結構あるんだなあ。

 

 

はっきりとしたカリブ〜ラテン風楽曲は、やはり『ターンズタイルズ』の「オール・ユー・ワナ・ドゥー・イズ・ダンス」が初。その後1978年の『ニューヨーク52番街』にはB面に「ロザリンダの瞳」がある。これも完全にラテンな雰囲気横溢だなあ。

 

 

 

お聴きになればお分りの通り、リズムやサウンドがカリブ風というかキューバン・スタイルじゃないだろうか?ここでマリンバを叩いているのはジャズ〜フュージョン系のリスナーにはお馴染みマイク・マイニエリだ。またナイロン弦のアクースティック・ギターも聞えるが、それはヒュー・マクラケン。

 

 

「ロザリンダの瞳」の歌詞には「スパニッシュ・パート・オヴ・タウン」とか「クレイジー・ラテン」とか「オー、ハバナ」とか「キューバン・スカイ」とか「セニョリータ」とか「プエルトリカン・バンド」とか、そんなフレーズが散りばめられているのも面白い。そもそもこの歌詞はニューヨークの貧民街スパニッシュ地区のことだ。

 

 

しかしロザリンダってのは誰のことなんだろう?ビリー・ジョエルの母親の名がロザリンドだから、この母親のことなんだろうか?歌詞を聴いてもそんな雰囲気だ。でも母ロザリンドはスペイン系でもヒスパニック(は元来スペイン系の意味だが、アメリカ合衆国では通常中南米系を指す)でもないし、息子ビリーもスパニッシュ地区で生れ育ったわけではない。

 

 

だから母親の名に似た女性名を曲名や歌詞に織込んで歌い、さらにそのなかにラテン風フレーズを散りばめ、そしてリズムやサウンドを完全にカリブ〜ラテン音楽にしたビリー・ジョエルが、どうしてこんな曲を創ったのかは僕には分らない。ただ単に面白い曲だな、ラテンだなと思って聴くだけなんだよなあ。

 

 

また次作1980年の『グラス・ハウジズ』にA面三曲目に「ドント・アスク・ミー・ワイ」という曲がある。はっきりとクラベスの音が聞え、それが明確に3−2クラーベを刻んでいるし、アクースティック・ギターの刻みもクラーベなニュアンスだよね。

 

 

 

間奏のピアノ・ソロがこれまたキューバン・スタイルだけど、これはビリー・ジョエル自身が弾いているはず。こんなピアノ弾くんだなあ。大学生の頃に聴いていたはずなのに、当時は全く気付いていなかった。愛聴盤だったのになあ。大学生の頃と言わずわりと最近まで全く意識すらしていなかったもんね。

 

 

キューバン・ミュージックな3−2クラーベのリズムといえば、次作1982年の『ザ・ナイロン・カーテン』(これはラテン風楽曲は一つもないシリアスな社会派作品)を挟んでの83年『アン・イノセント・マン』にも、B面ラストに「キーピング・ザ・フェイス」がある。これもラテン。

 

 

 

エレキ・ギターのカッティングとドラムスが叩出すリズムが3−2クラーベのパターンだよね。ジャズ系の人が大挙して参加しているホーン・セクションが入れるリフもラテン音楽風。特にスタッカートで吹くあたりがそうだ。

 

 

この「キーピング・ザ・フェイス」の歌詞にも「キューバン」というフレーズが何度も出てくる。ビリー・ジョエルの楽曲ではっきりとしたカリブ〜ラテンと言える楽曲は以上で全部のはずだ。僕は長年そんな音楽性の持主だと気付いていなかったもんだから新鮮で、ちょっと驚いて、そして凄く嬉しい気持なのだ。

 

 

そう思ってデビュー・アルバムまで遡って聴直してみたら、カリブ〜ラテンではないもののアメリカ南部風なサウンドは結構ある。はっきり言うとラグタイムのピアノ・スタイルだ。それはコロンビアとの契約前にインディ・レーベルからリリースされ即廃盤になったデビュー作から既にはっきりと存在する。

 

 

1971年のそのデビュー・アルバム『コールド・スプリング・ハーバー』のA面三曲目「エヴリバディ・ラヴズ・ユー・ナウ」で聴けるピアノがラグタイム風なんだなあ。こういうピアノの弾き方はアメリカ大衆音楽ではごく普通の当り前のものだけどね。

 

 

 

ラグタイムといえば、ロサンジェルス時代の二作目1974年の『ストリートライフ・セレネイド』のA面四曲目にピアノ・インストルメンタルの「ルート・ビア・ラグ」があるよね。最近のライヴでも披露していて、YouTube にも上がっている。これはオリジナル・ヴァージョン。

 

 

 

ピアノ独奏ではなくドラムスとエレベの伴奏付きで、さらにちょっぴりエレキ・ギターやシンセサイザーの音なども聞えるけれど、ピアノのスタイルは完全にラグタイムだ。いまさら指摘するまでもなく19世紀後半〜20世紀初頭のラグタイムは、その後のアメリカ・ピアノ音楽のルーツで基本中の基本だ。

 

 

だから1970年年代のビリー・ジョエルがラグタイム・スタイルのピアノを弾いても、その事実そのものは特筆すべきことではない。しかし例えばコロンビア移籍後第一作73年の『ピアノ・マン』一曲目「トラヴェリン・プレイヤー」はどうだろうか。

 

 

 

これはピアノの弾き方がラグタイム風であるだけでなく、曲全体のバンドのサウンドがアメリカ南部のカントリー・サウンドなんだよね。途中からバンジョーがタカタカ刻んでいるし、その後フィドルだって入る。ドラムスはブラシしか使っていない。ペダル・スティール・ギターは入れにくい曲調だ。

 

 

この手のアメリカ南西部風サウンドは、1976年にニューヨークに戻ってきて翌年にフィル・ラモーンとタッグを組始める前までのビリー・ジョエルの楽曲にはまあまああって、探すと結構見つかる。そしてそれはニューヨーク帰還後は消えてしまう。しかしそれが今度はラテン風に姿を変えたとも言えるのかも。

 

 

アメリカ南部音楽がカリブ〜ラテン音楽と密接な関係があることは言うまでもない。大ブレイク前のビリー・ジョエルにラグタイム〜カントリー風南部サウンドがあって、それがその後「オール・ユー・ワナ・ドゥー・イズ・ダンス」のレゲエをきっかけにラテン風に変化した、というか先祖帰りしたんだなあ。

 

 

こう考えてくると、今まで都会風で洗練されたAOR風ポップ・シンガーのイメージしか僕は持っていなかったビリー・ジョエルに対する見方もちょっと変ってきちゃう。やはりなんだかんだ言ってもアメリカ・ポピュラー・ミュージックの世界の人、やはり南部〜カリブ〜ラテンは抜きがたいってことだなあ。

2016/07/26

黒いザヴィヌルをやる真っ黒けなキャノンボール

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既にみなさんご存知の通りジョー・ザヴィヌルという音楽家に対する僕の評価はかなり高い。中村とうようさんはじめ『ミュージック・マガジン』界隈やその読者層など一部には評判が悪く、特に一時期のウェザー・リポートなんかとうようさんも評価しなかったし、ファンでもボロカスに言う人が結構いた。

 

 

ウェザー・リポート時代についてはそういう声も理解できないでもないというかしょうがないのかなという気もするんだけど、その前のキャノンボール・アダリー・バンド時代のザヴィヌルに関しては、そういう方々はどう聴いているだろうなあ?とうようさんの意見を一度読んでみたかった。

 

 

オーストリアはウィーン生れのザヴィヌルがアメリカに移住したのが1959年。すぐにメイナード・ファーガスンのバンドに参加して、その時期既に後にウェザー・リポートを結成するウェイン・ショーターと出会っている。その後61年までダイナ・ワシントンの伴奏者として録音やツアーに参加。

 

 

ダイナみたいなブルーズ歌手の歌伴キャリアが既にあったということが、この当時からザヴィヌルがどんなピアノを弾いていたのかもうだいたい想像できちゃうんだけど、ダイナのもとを去り1961年にキャノンボール・アダリーのバンドにレギュラー参加したのがザヴィヌルの本格的な出発点だろう。

 

 

1961〜70年というキャノンボール時代のザヴィヌルのピアノやフェンダー・ローズが大好きな僕。そしてボスのキャノンボールとしても自身のバンドの頂点がその頃、特に60年代末頃だったと僕は考えている。この時期ザヴィヌルはバンドで鍵盤楽器を弾くだけでなく作曲面でも大きな貢献をしている。

 

 

いい曲がたくさんあるんだけど、CDアルバム一枚にコンパクトにそれがまとまっている編集盤がある。『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』という2004年リリースのキャピトル盤。これの選曲・編集者が他ならぬザヴィヌル本人なのだ。全九曲計一時間と少しの最高のコンピレイション。

 

 

ザヴィヌルは2009年に亡くなっているので晩年の仕事だなあ。この時期は自身のソロ活動と並行してウェザー・リポート時代の未発表ライヴ音源のリイシューなどもやっていた。しかしキャノンボール時代の自分の作品をCD一枚にコンパイルするという仕事をしていたことは、僕は数年前まで知らなかった。

 

 

『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』全九曲のうち一番録音が古いのは五曲目の「ワン・マンズ・ドリーム」で1961年の『ナンシー・ウィルスン〜キャノンボール・アダリー』から。これはファンキーだけど普通のハード・バップ・ジャズだ。アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに少し似ている。

 

 

「ワン・マンズ・ドリーム」はビートも普通の4/4拍子で楽器も全部アクースティック。キャノンボールのアルト、実弟で生涯のコンビだったナット・アダリーのコルネット、そしてザヴィヌルのピアノとソロが続く。1961年だとキャノンボールもまだこういう普通のハード・バップをやっていた。

 

 

「ワン・マンズ・ドリーム」で聴けるザヴィヌルのピアノ・スタイルはホレス・パーランとかボビー・ティモンズみたいなファンキーな黒人ジャズ・ピアニストによく似ている。渡米後まだ二年しか経っていないのに既にこのフィーリングを出せたということは、元々そういう資質の音楽家なんだろう。

 

 

それに続くのが三曲目の「ミスティファイド(aka エンジェル・フェイス)」で1965年録音の『ドミネイション』から。この作品はキャノンボールのいつものクインテットに加え、オリヴァー・ネルスン編曲・指揮のオーケストラが参加している。そしてこのザヴィヌルの曲はボサ・ノーヴァなのだ。

 

 

 

キャノンボールは1962年に『キャノンボールズ・ボサ・ノーヴァ』というボサ・ノーヴァ曲集を出しているよね。アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトやセルジオ・メンデスなどの曲をやっていて、そのピアノはザヴィヌルではない。

 

 

1962年なら時代の潮流に乗ったってことだろうなあ。そしてレギュラー・ピアニストのザヴィヌルも、おそらくはそういう流れを意識して65年に「ミスティファイド」みたいな曲を書いたんだろう。ザヴィヌルがボサ・ノーヴァに色気を出すというのは珍しい。生涯で他には一つもないんじゃないかなあ。

 

 

しかしキャノンボール時代のザヴィヌルが本当に面白くなるのはそのもうちょっと後のことで、編集盤『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』なら六曲目「ヒポデルフィア」と八曲目「マーシー、マーシー、マーシー」がピックアップされている1966年のライヴ盤『マーシー、マーシー、マーシー』からだね。

 

 

アルバムの正式タイトルは『マーシー、マーシー、マーシー:ライヴ・アット・”ザ・クラブ”』。しかしこれはアルバム収録の六曲全てがライヴ録音ではない。ロサンジェルスのキャピトル・スタジオでの録音も混じっていて、『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』収録の「ヒポデルフィア」も同スタジオ録音。

 

 

「ヒポデルフィア」含め『マーシー、マーシー、マーシー』のほぼ全ての曲でザヴィヌルもまだアクースティック・ピアノを弾くのだが、一曲だけフェンダー・ローズを弾いているのが、キャノンボール時代のザヴィヌル・ナンバーでは最有名曲に違いない「マーシー、マーシー、マーシー」だ。超ファンキー。

 

 

 

どうだろう?こんなにファンキーでアーシーな曲をオーストリアはウィーン生れでクラシック音楽の教育を受けた白人が書いたとは到底思えないね。完全にゴスペル・ナンバーじゃないか。聞えてくるライヴ収録の雰囲気も教会での儀式みたいだしなあ。

 

 

この「マーシー、マーシー、マーシー」を書いて弾いた1966年は、おそらくザヴィヌルがフェンダー・ローズという楽器を弾いた最初だったかもしれない。そして多くのジャズ畑の音楽家がこの楽器の音を耳にした最初だったかも。キャノンボールのかつてのボス、マイルス・デイヴィスもそうだったようだ。

 

 

マイルスはキャノンボールのバンドでザヴィヌルが弾くのを聴いて初めてフェンダー・ローズという楽器を知り、実際の現場で耳にしたいとわざわざメキシコ・シティでのキャノンボール・クインテットのライヴまで足を運んだのだった。ところがその夜は現場の電源トラブルで電気楽器が使えなかったという笑い話。

 

 

それでマイルスは「コンチクショー、オレがこの楽器を聴きたいとわざわざこんな辺鄙な場所にまで来てやったというのに、なんてこった!」と地団駄踏んで悔しがったらしいよ。それくらいこの1966〜67年あたりからマイルス含めジャズメンの多くがフェンダー・ローズという楽器に興味を示すようになった。

 

 

マイルスが自分のバンドでの録音でフェンダー・ローズを使ったのは1968/5/17録音の「スタッフ」(『マイルス・イン・ザ・スカイ』)が初。その時スタジオ入りしたハービー・ハンコックはピアノの横に置いてあるそれを見て、なんだこりゃ?オレはこれを弾くのか?とかなり不思議な気分だったらしい。

 

 

その後マイルスは死ぬまで電気・電子鍵盤楽器を使い続けたので、そのきっかけを作ったのは他ならぬキャノンボール時代のザヴィヌルだったことになるよね。マイルスだけでなく多くのジャズ畑の音楽家が電気鍵盤楽器を使いはじめるのもザヴィヌルがやった1966年以後の話だ。全部ザヴィヌルが犯人なのだ。

 

 

それにしても曲名も曲調もなにもかもゴスペル・ナンバーにしか聞えないザヴィヌルの「マーシー、マーシー、マーシー」がまるでその通りの教会儀式みたいだと書いたけれど、まさしく文字通り教会でライヴ録音されたキャノンボールのアルバムがある。1969年の『カントリー・プリーチャー』がそれだ。

 

 

オペレイション・ブレッドバスケットというものがあって、アメリカの黒人コミュニティの経済状況を向上させる目的で1962年にはじまった組織活動。一種の互助会みたいなもんかなあ。60年代後半におけるこの活動の中心人物がジェシー・ジャクスン。『カントリー・プリーチャー』はそのオペレイション・ブレッドバスケットの教会における集会でのライヴだ。

 

 

そしてアルバム冒頭でジェシー・ジャクスンがスピーチをしていて、しかもアルバム二曲目のタイトル曲「カントリー・プリーチャー」を書きフェンダー・ローズを弾くのもこれまたジョー・ザヴィヌルなのだ。曲名はジェシー・ジャクスンのこと。

 

 

 

これまた真っ黒けなゴスペル・ナンバーだ。欧州白人のジョー・ザヴィヌルが書いて弾いているんだからねえ。しかしキャノンボール・バンド時代では「マーシー、マーシー、マーシー」と並ぶ自身の最高傑作曲を、ザヴィヌルはどうして『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』に入れなかったんだろうなあ。不思議だ。

 

 

『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』で面白いのがラスト10曲目の「ドクター・ホノリズ・コウザ」だ。これは1971年録音のライヴ盤『ザ・ブラック・メサイア』からの曲なので、ザヴィヌルはもうキャノンボールのバンドには在籍していない時期。70年録音のソロ作『ザヴィヌル』収録曲だ。

 

 

その後ウェザー・リポート時代にもライヴで繰返し演奏・録音しているので、このバンドの公式アルバムにも『ライヴ・イン・トーキョー』収録のと『ライヴ&アンリリースト』収録のと二つのヴァージョンがある。そんなザヴィヌル独立後の曲をかつてのボスだったキャノンボールが自分のバンドでやったわけだ。

 

 

これがカッコイイんだ。ザヴィヌルの『ザヴィヌル』収録のやウェザー・リポートの種々のライヴ・ヴァージョンではそれほどでもないのに、ボスだったキャノンボールのライヴ演奏での「ドクター・ホノリズ・コウザ」はこの上ないジャズ・ファンクに仕上っている。エレピを弾くのはジョージ・デューク。

 

 

 

この自分が演奏には参加していない『ザ・ブラック・メサイア』からの自分の曲を『キャノンボール・プレイズ・ザヴィヌル』に入れたコンパイラーであるザヴィヌルの選曲は見事。ジョージ・デュークの真っ黒けなエレピといい、ロイ・マッカーディーのグルーヴィーなドラミングといい、アイアート・モレイラのパーカッションといいタマラン。

 

 

キャノンボールの『ザ・ブラック・メサイア』は本当に面白い二枚組ライヴ・アルバムで、このサックス奏者を普通のジャズマンだとしか思っていないジャズ・リスナーはビックリ仰天し腹を立てそう。チャック・ベリー風ブギウギなギター・リフが出るロックンロールがあったりして、僕には最高なんだよね。

 

 

そんな『ザ・ブラック・メサイア』をやった1971年のキャノンボールと、そのなかで自分の曲を一つ採り上げられているジョー・ザヴィヌルと、そしてその双方に深く関わっていた同時期のマイルス・デイヴィスとハービー・ハンコックとか、そのあたりの話は際限なくなってしまうのでまたの機会に。

2016/07/25

暗くて重い「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」

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『エンコミアム:ア・トリビュート・トゥ・レッド・ツェッペリン』というアルバムがある。タイトル通りレッド・ツェッペリン・トリビュートとしてこのバンドの曲をいろんな人がやっているもので、1995年にリリースされた。熱心なツェッペリン・ファンの僕は出た時にすぐ買った。

 

 

でもこのアルバムでツェッペリン・ナンバー12曲をやっている歌手のうち、1995年当時に僕が知っていた人は殆どいない。「ジャメイカー」をやっているシェリル・クロウ、「サンキュー」をやっているデュラン・デュラン、「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」をやっているトーリ・エイモスだけだったかも。

 

 

他はよく知らない人(聴いた感じではおそらく全員ロック系)だったんだけど、聴いてみたらなかなか面白かったんだよなあ。一曲目がツェッペリン四枚目のアルバムB面の「ミスティ・マウンテン・ホップ」で、やっているのは4・ノン・ブロンズ。知らない名前だったけど、この選曲がいいよね。

 

 

その「ミスティ・マウンテン・ホップ」の冒頭では、ツェッペリンの「ブラック・ドッグ」冒頭のエレキ・ギターがギュルギュル〜と鳴っている音をサンプリングして挿入してあって、直後にツェッペリン・ヴァージョン同様にフェンダー・ローズがリフを演奏しはじめ、エレキ・ギターも入って歌が出る。

 

 

その歌を歌っているのが4・ノン・ブロンズという名前のバンドの誰なのか今でも知らないんだけど、勢いがあって声に張りもあるし、なかなかいいヴォーカリストだなあ。まあ書いたように冒頭で「ブラック・ドッグ」ド頭の音を使っている以外は、ほぼツェッペリン・ヴァージョンそのまんまだけどね。

 

 

二曲目がフーティー&ザ・クロウフィッシュのやる「ヘイ・ヘイ・ワット・キャン・アイ・ドゥー」で、これまた渋い選曲。だってこのツェッペリン・ナンバーは1970年リリースの「移民の歌」シングル盤B面曲で、LPでもCDでもどのアルバムにも入らず、1990年のCD四枚組ボックス・セットで初アルバム収録されたものだからだ。

 

 

ツェッペリンのオリジナル・ヴァージョンの「ヘイ・ヘイ・ワット・キャン・アイ・ドゥ」は、1993年以後現在でも解散後リリースのラスト・アルバム『コーダ』のボーナス・トラックとして収録されている。この曲は意外に人気があるらしく、ブラック・クロウズにジミー・ペイジが客演したライヴ盤にもある。

 

 

話が逸れるけれど、そのブラック・クロウズとジミー・ペイジとの共演ライヴ盤『ライヴ・アット・ザ・グリーク』はかなり好きな二枚組なのだ。1999年録音翌2000年リリースのもので、たくさんツェッペリン・ナンバーもやっているというのが最大の理由で買ったんだけど、楽しいんだよね。

 

 

ブラック・クロウズとジミー・ペイジの『ライヴ・アット・ザ・グリーク』。ツェッペリン・ナンバーじゃないのは全20曲中6曲だけ。だからこれも事実上ツェッペリン・トリビュート・アルバムみたいなものだ。音を聴いただけでは、ジミー・ペイジとオードリー・フリードとの区別は僕には難しい。

 

 

ブラック・クロウズとジミー・ペイジの『ライヴ・アット・ザ・グリーク』。ツェッペリン・ナンバーじゃない六曲もジミー・ロジャーズの「スロッピー・ドランク」(リロイ・カーのものはじめ同名異曲が多い曲)とかエルモア・ジェイムズの「シェイク・ユア・マニー・メイカー」とか。

 

 

またB.B. キングの「ウォウク・アップ・ディス・モーニング」とかヤードバーズの「シェイプ・オヴ・シングズ・トゥ・カム」とか、ウィリー・ディクスンの書いたリトル・ウォルターの「メロウ・ダウン・イージー」とか、フリートウッド・マックの「オー・ウェル」とかだから、全部カヴァー曲なんだなあ。

 

 

なんでもブラック・クロウズとレコード会社との間で当時なにか権利上のトラブルでもあったらしく、それでオリジナル・ナンバーは発売できなくて、それでこういうツェッペリン・ナンバーとブルーズ〜ロックンロール・スタンダードばかりの二枚組ライヴ・アルバムになったらしい。僕なんかにはその方が嬉しい。

 

 

話が逸れちゃったね。レッド・ツェッペリン・トリビュートの『エンコミアム』。三曲目は僕もよく知っていたシェリル・クロウのやる「ジャメイカー」(レゲエ・ナンバーの "D'yer Mak'er" は「デジャ・メイク・ハー」じゃないよ)で、アクースティック・ギターで刻むレゲエ風リズムはおそらくシェリル・クロウ本人なんだろう。エレキ・ギターも多重録音で彼女がかぶせているかも。

 

 

四曲目「ダンシング・デイズ」は『聖なる館』のなかでは「ザ・クランジ」の次に僕が好きな曲で、リズムがいいし、2コーラス目の歌詞なんか最高で笑っちゃうんだよね(あれっ?僕は歌詞内容なんか聴かないって言っているじゃないか?)。それをストーン・テンプル・パイロッツがアクースティック・ヴァージョンでやる。

 

 

リリースされた1995年当時僕が一番よく知っている名前だったデュラン・デュランがやる六曲目の「サンキュー」は、ツェッペリンのオリジナル・ヴァージョン通りにアクースティック・ギターとオルガンを中心にしたアレンジで、ヴォーカルのサイモン・ル・ボンの声がロバート・プラントに似ている。

 

 

オリジナル・ヴァージョンでのギターがボ・ディドリー・ビート(3−2クラーベ)だった九曲目の「カスタード・パイ」。これをやっているのはメタル・バンドのヘルメットで、それにヴォーカルでノイズ・ロック系で有名なデイヴッド・ヨウが参加して歌っている。エレキ・ギターの音は完全なるメタル系。

 

 

僕はヘヴィ・メタルもまあまあ好きで聴くんだけど、もちろんぜ〜んぶレッド・ツェッペリンが道案内をしてくれたおかげだ。ツェッペリン自体はメタル・バンドとは言いにくいだろうけれど、金属的なエレキ・ギターといいヴォーカルの金切り声シャウトといい、先駆け的存在だったのは間違いない。

 

 

ロリンズ・バンドがやる十曲目の「フォー・スティックス」はパンクでノイジーな感じに仕上っていて、ロリンズ・バンドらしいサウンド(と言っても当時はロリンズ・バンドを知らず、このアルバムで知って聴いてみただけ)。ツェッペリンのオリジナルにあったワールド・ミュージック風味はほぼ消えている。

 

 

11曲目「ゴーイング・トゥ・カリフォルニア」は、ツェッペリンのオリジナル・ヴァージョンはアクースティック・ギターを中心とする生の弦楽器の美しい響きが印象的だったのだが、『エンコミアム』でやっているネヴァー・ザ・ブライドはアクースティック・ピアノとストリングスの伴奏で歌っている。

 

 

そしてラスト12曲目「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」。ロバート・プラントとトーリ・エイモスがデュエットで歌うこれこそが『エンコミアム』の目玉だろう。それはプラント本人が参加しているということと、アルバム中一番長い七分以上もあって、しかもその上アレンジがかなり秀逸なのだ。

 

 

「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」。『フィジカル・グラフィティ』でのオリジナル・ヴァージョンはエレキー・ギターとフェンダー・ローズを中心にしたサウンドに乗せてプラントがかなり牧歌的に歌う、のどかでのんびりとリラックスするような雰囲気。中盤やや雰囲気が変るけど。

 

 

 

それが『エンコミアム』では全然違っていて、いきなりファズが効いてメタリックな重たい感じのエレキ・ギターの音が出てきて、それだけでヘヴィーでダークな雰囲気が漂ってくるのだが、続いて出るロバート・プラントがやはりこれまたかなり落込むような感じでつぶやくように歌いはじめ、それにトーリ・エイモスが絡んでいく。

 

 

 

途中からアクースティック・ピアノの音もはっきりと出てくるけれど、メインはあくまでもダークでヘヴィーなエレキ・ギターと、うつむいてつぶやくようなプラントとトーリのヴォーカルだ。このアレンジ、誰が考えたんだろうなあ。これ一曲だけでもなかなか面白いツェッペリン・トリビュート・アルバムだと言える仕上りなんだよね。

2016/07/24

(ジャズだけではない)ベース史上最大の革命児ジミー・ブラントン

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ジャズ・ベース史上、いやジャズに限らずあらゆるポピュラー音楽におけるベースの全歴史のなかで最も革命的な存在は間違いなくジミー・ブラントンだ。1919年生れで1942年にわずか23歳で結核により死んでしまい、実働期間は40/41年のたったの二年間だけ。でもそれで充分分る。

 

 

ジミー・ブラントンのどこがそんなに「全ポピュラー音楽史上最高」と言えるほど凄いのかというと、ブラントンが出現するまでのベースの役割は黙々とリズムを刻むことだけだったのを、ブラントンはそこからベースを解き放ち、まるでホーン楽器のように自由闊達に弾きまくるようにしたという点。

 

 

ジャズの場合はそれまで多くは2ビートか4ビートなので、一小節に二拍か四拍のベースの音を置くようにボンボンと弾くというスタイルしか存在しなかった。2/4拍子か4/4拍子で一小節に二つか四つのベースの音をリズムに合わせてフラットに刻むというもの。ビートを表現するだけの役目。

 

 

僕の聴く限りではこれはほぼ100%例外がない二分音符か四分音符をボンボンと均等に置くといういわゆるウォーキング・ベースってやつ。ドラムスとともにビートをキープし、またベースはコードの根音を示すという役割もあったけれどね。そうじゃないベーシストが1940年以前に存在するのなら是非とも知りたい。

 

 

たまにベースのソロ・パートがあったりする場合もあるけれど、どれもだいたい全部ウォーキング・ベースで黙々と刻むのをそのままフィーチャーしているだけで、ホーン楽器やピアノみたいにメロディを弾いているものなんて僕の知る限りでは一つも存在しない。ベーシストとはそういう存在だった。

 

 

それをジミー・ブラントンは180度ひっくり返してしまった。ブラントンもバンドのアンサンブルのなかの一員として伴奏に徹している時はやはり一小節に四分音符を均等に置くという弾き方だけど、そうじゃないものがかなりある。八分音符や十六分音符も駆使してメロディアスなラインを弾く。

 

 

言葉で説明するだけではなかなか実感していただけないと思うので、一個実例の音源を貼っておこう。ブラントンはその音楽生涯のほぼ全てをデューク・エリントン楽団で過したベーシストなので、優れた録音は全てエリントンやエリントン楽団と一緒に演奏したもの。

 

 

 

この「ジャック・ザ・ベア」はエリントン楽団でボスがブラントンのベースをフィーチャーするようなアレンジを書いた最初の一曲で、1940年3月6日ヴィクター録音。どうだろう?完全にモダンなベースの弾き方じゃないか。曲の最初と最後にブラントンのベースを大きくフィーチャーしているよね。

 

 

これはエリントンがそういう譜面を書いているだけじゃないかと言われるかもしれない。しかしですね、もし仮にエリントンが同じアレンジで1940年以前の自分の楽団で演奏させたとしても、こんな風にベースを弾ける人は全く一人も存在しなかったので、こんなのは実現不可能だったのだ。

 

 

ジミー・ブラントン以前のエリントン楽団のウッド・ベーシストで僕が思い出すのはウェルマン・ブロウド。1920年代後半に同楽団で活躍した人で、やはり書いたように淡々と二分あるいは四分音符を均等に弾くだけの普通のスタイルだけど、彼の弾くウッド・ベースの音はなかなか凄いものがある。

 

 

それを実感したのが1998年にリリースされた『ザ・デューク・エリントン・センティニアル・エディション:ザ・コンプリート・RCA・ヴィクター・レコーディングズ(1927-1973)』というCD24枚組。オリン・キープニューズの監修による文字通りエリントンのRCA系録音完全集ボックス。

 

 

この24枚組の一枚目に収録されているご存知「ブラック・アンド・タン・ファンタシー」(「ファンタジー」ではない)と「クリオール・ラヴ・コール」におけるウェルマン・ブロウドのベースの音が信じられない野太い音でタマゲちゃった。アンプの音量を上げるとボン・ボンと鳴る度に床が振動してお腹に響くような物凄さなのだ。

 

 

それまでこの二曲を昔のLPレコードやCDで聴いていたのと同じ音源のはずなのに、こんな音は聞えていなかった。それをどうリマスタリングしたのか知らないが、全然ベースの音が違うからこりゃいったいどうなってんの?と今でも疑問符しか浮ばない。しかも二曲とも1927年の録音だもんなあ。

 

 

1927年と言えばルイ・アームストロングが自分のコンボでオーケー(コロンビア)に録音していたのと同時期なんだけど、サッチモによる同時期のオーケー録音にはこんな低音は入っていない。28年の録音ですらドラムスのズティ・シングルトンはバスドラの持込み禁止だったんだよ。針が飛ぶという理由で。

 

 

だからサッチモの1920年代オーケー録音ではベースやバスドラの低音は存在しない。それなのに27年のヴィクターへのエリントン楽団の録音でこんなド迫力のベースの低音が聴けるというのが今でも信じられないんだなあ。以前も一度書いたけれど戦前はコロンビアよりヴィクターの方が録音状態がいい。

 

 

まあでも(なぜこうなっているのかはサッパリ分らないような)ド迫力の重量感のあるサウンドではあるものの、1920年代のウェルマン・ブロウドのベース・スタイルはやはり均等なリズム・キープしかしていない。ジミー・ブラントン以前の時代は全員そうだったので彼だけの話じゃない、当り前のことだ。

 

 

例外なく全員そうだったのに、どうしてブラントンがあんな自由闊達にメロディを弾くようなベースのスタイルを編出したのか全然理解できない。同じ楽器では参考になるような先人が一人も存在しないわけだからね。だからこれはトランペットとかサックスとかピアノみたいに弾きたいと思って修練したんだろうなあ。

 

 

ジミー・ブラントンのプロ・キャリアは1937年にジェター・ピラーズのオーケストラに参加してはじまっているが、この楽団の録音は僕は聴いたことがない。ジェター・ピラーズのオーケストラでジミー・ブラントンが弾く録音があるのだろうか?僕は全く一つも知らないが、あるのなら是非聴いてみたい。

 

 

ジェター・ピラーズの楽団で弾いていた時かどうかは分らないが、1939年にたまたま楽旅先でジミー・ブラントンのベース演奏を聴いたエリントン以下同楽団の数名は、その(当時としては)有り得ない革命的なベース・プレイにビックリ仰天し、ボスのエリントンはその場で即座に契約を申し出たという話が残っている。

 

 

それで1939年にブラントンはエリントン楽団に加入し録音がはじまる。初録音は同39年11月2日のCBSラジオ放送ライヴでの四曲。同年に多数のラジオ放送音源があるが僕は持っていない。昔アナログ・レコードでは結構出ていたんだけど、CDになっているのかなあ?だから僕が持っている最も早いものは40年2月のブラズウィック録音四曲。

 

 

「ソリチュード」「ストーミー・ウェザー」「ムード・インディゴ」「ソフィスティケイティッド・レディ」の有名な四曲で、全てお馴染みアイヴィー・アンダースンが歌っている。この四曲でのブラントンは完全に堅実な脇役に徹していて、革命的なあのスタイルはまだ聴けない。でもそれら四曲での楽団の演奏自体は素晴しいものだ。

 

 

ところで1932〜40年のエリントン楽団のブランズウィックなどコロンビア系録音は、何度も書いている通り本家コロンビアがなぜか全集としてCDリイシューしていないのだが、一昨年だったかやはり復刻専門の通販レーベル Mosaic がCD11枚組にしてリリースしてくれた。僕はそれをつい最近買った。

 

 

その『ザ・コンプリート・1932−1940・ブランズウィック、コロンビア・アンド・マスター・レコーディングズ・オヴ・デューク・エリントン・アンド・ヒズ・フェイマス・オーケストラ』。二万円ほどの値段だったと思うけど、CD11枚組でしかも中身が珠玉の名演集なのを考えたら安いもんだ。

 

 

Mosaic はかなり信用できるちゃんとした復刻通販レーベル。でも本当は本家コロンビアにちゃんと全集にする仕事をやってほしかった。いつまで待ってもやる気配がないし、完璧なディスコグラフィーと英文解説付きで Mosaic がやっちゃった以上、もうコロンビアは未来永劫やる気もないんだろう(怒)。

 

 

だから個人的にはもういいんだ、Mosaic のがあるから。そのCD11枚組でコロンビア系エリントン楽団の全音源がちゃんとした形で聴ける。しかしながらことジミー・ブラントンに関しては参加しているのがラストの四曲だけで、それも黙々淡々と従来からのベースの役割を担当しているだけだから、彼のベース・スタイルは分らない。

 

 

やはり1940年3月6日にはじまるヴィクター録音だなあ、ブラントンのベースの凄さが分るのは。なんたって40〜42年(42年には既にブラントンはいないが)のヴィクター録音集をリイシューしたCD三枚組のタイトルが『ザ・ブラントン・ウェブスター・バンド』になっているほどだもんね。

 

 

「ウェブスター」とはもちろんテナー・サックス奏者ベン・ウェブスターのこと。それはそうとエリントンはレギュラー・メンバーとしては1939年のベン・ウェブスターまで、自楽団のリード楽器セクションにテナー・サックス奏者を雇わなかった。ゲスト参加で同じ人を35年頃に使ってはいるけれどね。これは謎だ。

 

 

ベン・ウェブスター以後はテナー奏者をどんどん雇うようになり、そのなかにはポール・ゴンザルヴェスみたいに一時代を画したような人もいるだけに、どうして1939年まで常雇いとしてはテナー・サックス奏者を置かなかったのか、僕にとっては今後の研究課題だ。今日の話には関係ないので措いておく。

 

 

CDアルバムのタイトルになるくらい(ウェブスターと)ブラントンは1940年頃のエリントン楽団のトレード・マークだったわけだ。とはいえブラントンの革命的ベースをフィーチャーしていると言える録音はさほど多くはない。前述の「ジャック・ザ・ベア」以外には全部で四曲しかないのだ。

 

 

「ココ」(1940/3録音)「イン・ア・メロウ・トーン」(40/6)「アクロス・ザ・トラック・ブルーズ」「クロエ」(40/10)の四曲。そのうち「アクロス・ザ・トラック・ブルーズ」はブラントン・フィーチャー・ナンバーとも言いにくい。冒頭で細かいフレーズを弾きこなすものの、あまり目立たない。

 

 

他の三曲「ココ」「イン・ア・メロウ・トーン」「クロエ」は、「ジャック・ザ・ベア」同様ブラントンのベース・ソロ部分があって、彼のホーン楽器のようにベースでメロディを弾くスタイルがよく分る。特に一番凄いのが「ココ」だろうなあ。信じられないねこれは。1940年だよ。

 

 

 

お聴きになれば分る通り「ココ」では終盤にバンドの演奏が最高潮に達しエクスタシーを奏でる直前に、ストップ・タイムでバンドの演奏が止った瞬間にブラントンがソロを入れている。これはもちろんエリントンのアレンジなんだけど、ボスにこういうアレンジを書こうっていう気にさせたのがブラントンのブラントンたるゆえんだ。

 

 

「ココ」はブラントンだけがというんじゃなく、エリントン楽団の全キャリアを通じての最高傑作であると同時に、1917年にはじまり2016年の現在に至るまでの全ジャズ録音史上の最高傑作に違いないと僕は信じている。その他「ジャック・ザ・ベア」「コンチェルト・フォー・クーティー」「コットン・テイル」などがね。「ココ」の場合は12小節ブルーズ形式の楽曲であるという意味も重い。

 

 

特に「ココ」ではお聴きになれば分るように、独特の<濁った>音のアンサンブルで、こういうグロウル・サウンド(別名ジャングル・サウンド)こそアメリカのブラック・ミュージックを象徴し体現しているものだと僕は強く信じている。エリントンの創造したこんな独特の濃密な音世界でブラントンが躍動したわけだ。

 

 

それら全て1940年という時代の録音であることを考えると、こんな譜面を書くエリントンも凄いが、弾きこなすブラントンの空前で超絶的なベース・スタイルの神がかり的技巧をどう表現したらいいのか、僕には相応しい言葉が見つからない。まさにブラントンこそがその後のベースの弾き方を決定づけた人物だった。

 

 

なおブラントンはやはり1940年にエリントンとのデュオ演奏でヴィクターに全四曲9テイクを録音している。『ソロズ、デュエッツ&トリオズ』というCDアルバムに収録されているので簡単に聴ける。ブラントンのベースがいかに凄いかという話をする時はたいていみなさんこれを推薦する。これも確かに素晴しい。アルコ(弓)弾きも披露している。

 

 

みなさん絶賛のスコット・ラファーロもジャコ・パストリアスも、あるいはジェイムズ・ジェマースンもチャック・レイニーもキャロル・ケイも、従ってポール・マッカートニーもその他も、全員ジミー・ブラントンがいなかったら存在し得なかったベーシストなのだということをよく考えてほしい。

 

 

なおジャズの場合はジミー・ブラントンがベースの役割を広げ解放してくれたおかげで、その後のモダン・ジャズ・ベーシストは自由になったその一方で、同時にドラムスの役割は逆にやや固定化されちゃったような部分があるかもしれないように思うんだけど、この話はまた別の機会にしよう。

2016/07/23

クラシック・ファンやジャズ・ファンはショーロを聴け

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何度も言うようだけどクラシック・ファンやジャズ・ファンが聴くべきブラジル音楽はショーロに他ならないと確信する僕。でも残念ながらそういう人は少ないみたいだなあ。クラシック・ファンの世界はあまり知らないが、僕のよく知るジャズ・ファンの世界では誰一人ショーロに言及していないはず。

 

 

たいていのジャズ・ファンが聴くブラジル音楽はボサ・ノーヴァか、あるいはその流れを汲むMPB(Música Popular Brasileira)だ。最近ならいわゆるミナス派もジャズ・ファンには大人気で、いろんな音楽ジャーナリズムでも記事が載るもんだからみなさんお聴きのようだねえ、面白くもないミナス音楽を。

 

 

ショーロは「ブラジルのジャズ」とまで呼ばれることがあるくらいだし、しかしショーロの方がジャズより早く成立した歴史の長い音楽なんだから、この表現はどうなのかと思う。それでもジャズもショーロも基本的にはインストルメンタル音楽で即興的な楽器演奏が中心。さらにジャズ風ショーロだってある。

 

 

一部のショーロはジャズと区別が難しいくらいなんだし、そもそもショーロ界最大の巨人であろうピシンギーニャは1920年代にパリに渡ってジャズに触れ衝撃を受けて、ブラジル帰国後はジャズ風なショーロ曲を創っているくらい。そのなかには「ラメント」とか「カリニョーゾ」とか名曲がいくつもある。

 

 

だからジャズ・ファンもそういうのをもっと聴いてほしいと、僕みたいなジャズとショーロ両方の熱心なファンは切望し、だから僕は普段頻繁にジャズについて書くとともに時々ショーロについても書いているという次第。さてショーロの世界ではピシンギーニャとジャコー・ド・バンドリンが二巨頭だと言っていいだろう。

 

 

ピシンギーニャとジャコーでは言うまでもなくピシンギーニャがはるかに先輩。ピシンギーニャはジャコーより長生きした(ピシンギーニャは1973年没、ジャコーは69年没)とはいえ、彼はやはり戦前の人だから録音の大半はSP時代だ。ジャコーは戦後の人で僕の感覚だと現代の音楽家。

 

 

とはいえジャコーだって録音は1949〜69年だから、多くの音楽ファンの方々にとっては「古い人」だということになってしまうかもしれない。21世紀の録音に慣れた耳には古くさく聞えてしまっても仕方がないのかも。これがピシンギーニャとなるとほぼ全てSP時代の戦前録音だもんなあ。

 

 

だからいくらピシンギーニャやジャコーのショーロ古典名曲の数々が素晴しいから聴いてほしいと言っても、なかなかとっつきにくい面もあるんだろう。しかしですね、ここに彼ら二人の名曲を、それぞれ一枚ずつ現代録音で再現したCDアルバムがあって、その二枚がなかなかいいのでオススメする次第。

 

 

ピシンギーニャの方は『センプレ・ピシンギーニャ・100・アノス』、ジャコーの方は『センプレ・ジャコー』。このタイトルでお分りの通りこの二枚は姉妹作品で、元々ブラジルで1988年に石油会社の顧客に配るためだけのレコードとして制作されたもの。それをクァルッピ社がCDリリースした。

 

 

クァルッピはこの手のショーロ・アルバムをたくさんリリースしている、ショーロ・ファンならお馴染みの会社だけど、僕はこれら上記二枚で初めて知ったのだった。しかも僕が持っているのはオルター・ポップからリリースされた日本盤。その邦盤タイトルは『永遠のピシンギーニャ』『永遠のジャコー』。

 

 

『永遠のピシンギーニャ』『永遠のジャコー』二枚のうちでは、後者の日本盤リリースの方が先だったようで、日本語ブックレット末尾の日付が1997年3月になっていて、前者は同年5月だ。しかしブラジルではおそらく同時にリリースされたんじゃないかなあ。録音もほぼ同時期だったに違いない。

 

 

二枚ともプロデュースと演奏の中心はやはりこれまたエンリッキ・カゼス。僕の文章でも何度か名前を挙げている現代ブラジル最高のカヴァキーニョ奏者にして、ショーロの歴史全般に造詣の深いショーロ研究家。『永遠のピシンギーニャ』オープニングの僕の最愛曲「1×0」からエンジン全開で大活躍。

 

 

「1×0」は、以前詳しく書いた通り(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-bca9.html)サッカー・ソングとも言うべきものなんだけど、『永遠のピシンギーニャ』ヴァージョンでは最初はゆったりと出て途中からスピード・アップするのが、ブラジル・サッカーのスタイルそのまんまだ。

 

 

ブラジル代表のサッカーの試合をご覧になると分るはずだし、あるいはブラジル代表だけでなく大抵どこの代表チームもクラブ・チームも、最初まずディフェンダーからの球廻しは探るようにゆっくりとやって中盤のミッドフィルダーにパスを供給。そして前戦でチャンス到来と見るや途端に急速調に変化する。

 

 

これは殆どのサッカーの試合での基本のリズムなので、サッカー・ソングである「1×0」の『永遠のピシンギーニャ』ヴァージョンがそういうテンポ・アレンジで演奏されているのは、僕みたいなファンには分りやすすぎるほど分りやすくサッカーのパス廻しが目に浮ぶような仕上り具合なのだ。

 

 

この「1×0」ではエンリッキのカヴァキーニョだけでなくパウロ・セルジオ・サントスのクラリネットもフィーチャーされていて、さらに打楽器などのリズム伴奏も入って、全員一丸となって変幻自在なブラジル・サッカーの動きを表現している。まああんまりサッカーの話を続けると嫌がられそうだからやめておく。

 

 

二曲目「ラメント」(ラメントス)は、これもクラリネットのパウロ・セルジオ・サントスをフィーチャーし、マルコ・ペレイラのギター伴奏だけでしっとりとしたバラード演奏を聴かせる。バラードなショーロ曲のなかでは僕の最愛曲で、あまりに有名だからパウロはメロディをかなりフェイクしているね。

 

 

三曲目のこれまたピシンギーニャが書いた最高の名曲「カリニョーゾ」はクラシカルな無伴奏ピアノ独奏。弾くのはジョアン・カルロス・アシス・ブラジル。これなんかポピュラー音楽であるショーロとクラシック音楽との境界線を引けないような演奏で、以前も触れた通りこの両者の距離の近さを実感する。

 

 

こういう「カリニョーゾ」の仕上り具合を聴いても、やはりクラシック音楽のファンのみなさんはショーロを聴くべきなんじゃないかと思うのだ。個人的にはこの曲や、あるいは他のピシンギーニャの曲もほぼ全て弦楽器と管楽器で演奏するイメージが強いんだけど、無伴奏ピアノ独奏もなかなかいい。

 

 

これら冒頭の三曲「1×0」「ラメント」「カリニョーゾ」が個人的愛好具合ならこの順番通りなんだけど、コンポジションの優秀度や世間的認知度からしたら、やっぱりこの逆だろうなあ。「カリニョーゾ」こそナンバー・ワンということになるんだろう。個人的趣味をおけば僕もそれに異論はない。

 

 

五曲目の「ローサ」(薔薇)も素晴しいワルツだし、ホント全13曲素晴しい曲ばかりで、個人的にはここに「グローリア」さえ入っていてくれていれば文句なしだった。でも数多いピシンギーニャの名曲のなかからたったの13曲を選ぶわけだから、これは仕方がないんだろう。これで充分。

 

 

今日のこの文章もまた長くなってきて『永遠のジャコー』のことについて詳しく書いている余裕が少なくなってしまった。ジャコー・ド・バンドリンはいわばショーロ中興の祖で、ピシンギーニャら先輩の創り上げた伝統を継承しつつ新しい流れを創ろうとした、ややストイックなショーロ音楽家だった。

 

 

そのストイックな姿勢が今の僕にはほんのちょっぴり息苦しい感じがしないでもないのだが、ジャコーが書いたショーロ名曲の数々を聴いていると、そういうことは全く感じずに楽しめるので、音だけで判断すれば彼もまた芸能者でありエンターテイナーであって、そういうのが大衆音楽の真の姿だと思うよ。

 

 

『永遠のジャコー』の方もやはりエンリッキ・カゼスが中心になって演奏を繰広げる。ちょっと面白いのが二曲目「ギンガ・ド・マネ」。なんとエレベの音から入り、エレキ・ギターの音も聞えるというモダンなアレンジで、モダン・ショーロを目指したジャコーの曲をさらにモダンにしたような感じ。

 

 

「ギンガ・ド・マネ」では途中でサッカーの(おそらくラジオ)中継の様子が挿入されている。この曲もピシンギーニャの「1×0」同様サッカーを題材にした曲だからね。「1×0」だってそうやってサッカー中継の声が挿入されているヴァージョンがあるもんね。ブラジルではそれほどサッカーは根付いている。

 

 

『永遠のジャコー』収録のラスト二曲「ヴィブラソーエス」「リオの夜」は、同じオルター・ポップが日本盤をリリースした『ショーロの夕べ』(ノイチス・カリオカス)からのもの。すなわち1988年リオ市民劇場でのライヴ録音で、演奏の中心は現代ブラジルにおけるバンドリンの名手ジョエル・ナシメント。

 

 

それら1988年のライヴ録音二曲ではやはりラストの「リオの夜」が素晴しい。メンバー全員が一体となって繰広げる演奏のグルーヴ感も最高だし、シキーニョのアコーディオンもいいし、全員が次々と取るソロも見事だし、ジョエル・ナシメントのバンドリン・ソロがなんといっても聴応えのある立派な内容。

 

 

『永遠のピシンギーニャ』『永遠のジャコー』、そしてライヴ盤『ショーロの夕べ』。これら現代録音のショーロ集を聴くと、ピシンギーニャやジャコーの書いたショーロの古典名曲というのはもはや誰がどうやっても聴ける内容になってしまうという、元のコンポジションの素晴しさを実感するね。

 

 

三枚とも今はどうやら廃盤のようだけど、中古ならなんとか入手できるんじゃないかなあ。だいたい誰が演奏しても聴ける仕上り具合になるという、ある意味クラシック音楽の名曲と同じようなものであるショーロの古典曲を現代の瑞々しい新録音で聴けるので、格好のオススメ盤!

 

 

なお、このシリーズではもう一枚『センプレ・ヴァルジール』(『永遠のヴァルジール・アゼヴェード』)も僕は持っていて、これもエンリッキ・カゼスが中心で愛聴している。ピシンギーニャ、ジャコー、ヴァルジールの三人以外のものがあるのだろうか?

2016/07/22

マイルスのリミックス・アルバム三種

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僕の知る限りでは今までに四枚出ているマイルス・デイヴィスの音源を使ったリミックス・アルバム。どれも僕にはイマイチな感じなんだけど、そのうち三枚はリリース当時は結構面白がってよく聴いていた。一番早いのが1998年にリリースされた『パンサラッサ』で、全トラックがビル・ラズウェルによるもの。

 

 

なおこの『パンサラッサ』というタイトルのマイルス・リミックス・アルバムはもう一枚あって、1999年リリースの『パンサラッサ:ザ・リミックシズ』。こちらは全6トラックで、全てやっている人が違う。ビル・ラズウェルのもそれも両方ともソニーから出ているが、どうして同じタイトルなんだろう?

 

 

1998年のビル・ラズウェルの手がけたリミックス・アルバムが出て、ひょっとしてそれを踏まえた上でまた別のDJなどがやったので翌年にほぼ同じタイトルでソニーが出したってことなんだろうか?う〜ん、そのあたりの正確な事情は僕には分らないが、音を聴くとこの二枚はそんなに強い関係もないような気がする。

 

 

1998年リリースのビル・ラズウェルのやった『パンサラッサ』は当時本当によく聴いた。その最大の理由は当時の未発表音源が混じっていたからだった。2トラック目の「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」のこと。「ワット・イフ」以下の二つが初耳のものだったのだ。

 

 

「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」は、最初はタイトル通り1972年の『オン・ザ・コーナー』A面ラストの曲からはじまる。ビル・ラズウェルが確かに音をいじっている。しかし既存の音源を使っているし、さほど大きく印象も違わないので、これは別にどうってことない。

 

 

問題は4:40あたりからの「ワット・イフ」以下だ。いきなり当時は聴いたことのないエレキ・ギターの音が鳴り出して、しかもかなり深めにファズがかかっている。すぐにマイルスの電気トランペットが出てくるが、これも聴いたことがなく、それがファズの効いたギターと絡み合う。しかもカッコイイ。

 

 

 

テナー・サックス・ソロも出てくるが、それはマイルス・ファンクではいつものようにダサい。カッコイイのはギターとマイルスの電気トランペット、そしてその背後で鳴るエレピ等鍵盤楽器とスネアの音。シタールやタブラも聞えるので、録音時期は推測できた。

 

 

その同じグルーヴが11:57まで続き、そこでまたパッと変るのでそこからが「アガルタ・プレリュード・ダブ」ということになるんだろう。そしてそれはタイトル通り1975年大阪でのライヴ盤『アガルタ』で聴き馴染のありすぎるメロディ。しかし『パンサラッサ』収録のはライヴ・テイクではない。

 

 

以前も書いたけれど『アガルタ』一枚目中盤で聴けるあのテーマ・メロディのようなリフは、ライヴ・テイクはブート盤などで聴けるものが他にもあったんだけど、スタジオ録音があるなんてことは、1998年の『パンサラッサ』リリース当時、コロンビアの関係者以外の一般人はほぼ誰も知らなかったはずだ。

 

 

もちろん僕も全く知らなかった、『アガルタ』では「プレリュード」という名前になっている一曲目(というか曲でもない)のテーマ・リフのスタジオ録音は、1998年にビル・ラズウェルがやった『パンサラッサ』で初めて聴いたのだった。マイルスのスタジオ録音は未発表のものが多いとは聞いていたが。

 

 

『パンサラッサ』ではこの2トラック目の「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」以外の三つは全て既発音源のリミックス。だから特にそんな大きな驚きはなかった。多少音をいじってはいるけれど、ビル・ラズウェルもそんな大胆には変えていない。変えようもないだろう。

 

 

発売されているマイルスのアルバムで聴ける既発音源では繋がっていないものを繋げた上で、少し音のバランスを変えた程度のことで、ビル・ラズウェルも大胆にいじっていないのは、既発の完成音源のレベルが高いのでいじりすぎない方がいいだろうと判断したのか、あるいはなにか別の理由があるのか。

 

 

そういうわけで僕がリリース当時の『パンサラッサ』で繰返し聴いたのは2トラック目の「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」だけ。当時新発売の未発表音源だったこのトラックに収録されているマイルスによるオリジナル音源がリリースされたのは2007年のことだった。

 

 

すなわち『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』六枚組。これの一枚目三曲目の「ワン・アンド・ワン(アンエディティッド・マスター)」と、二枚目五曲目・六曲目の「ターナラウンド」「Uーターナラウンド」がそれ。全て1972年の未発表録音で、『オン・ザ・コーナー』になったあたりだ。

 

 

「ワン・アンド・ワン(アンエディティッド・マスター)」→ https://www.youtube.com/watch?v=IngbKMO6niQ  「ターナラウンド」→ https://www.youtube.com/watch?v=1o8QANZdJn0  「Uーターナラウンド」→ https://www.youtube.com/watch?v=tFR9pUQstLU  最後の二つは同じモチーフだ。

 

 

上で貼ったビル・ラズウェルによる「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」と聴き比べていただければよく分っていただけるはず。「ワット・イフ」は「ワン・アンド・ワン(アンエディティッド・マスター)」、「アガルタ・プレリュード・ダブ」は「ターナラウンド」だね。

 

 

ってことは1998年当時ビル・ラズウェルはこうしたマイルス未発表音源のテープ集をコロンビア側から提供されて、おそらくはラズウェル自身も初めて聴いたに違いないそれらからチョイスしてリミックスし、「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」に仕上げたってわけだ。

 

 

これは1998年当時のラズウェルも最初は嬉しくて興奮したと思う。膨大にあると噂されてきたマイルスのスタジオ録音未発表音源をコロンビアから聴かせてもらったわけだから、聴きまくったに違いない。そのなかからラズウェルの判断で一番カッコイイということになった上記二つの未発表音源を採用したんだろう。

 

 

個人的には「アガルタ・プレリュード・ダブ」になった「ターナラウンド」はさほどでもない。なぜかというと1975年の大阪ライヴ『アガルタ』での演奏の方がはるかにカッコイイからだ。存在しないかも?とも言われていたスタジオ・オリジナルが聴けたという点でしか面白がる部分がなかったように思う。

 

 

しかし「ワット・イフ」になった「ワン・アンド・ワン(アンエディティッド・マスター)」は今でもホント最高にカッコイイと思うね。曲名で分るように『オン・ザ・コーナー』B面にある曲なんだけど、全然違うもんね。タイトルが同じだけでひょっとして違うモチーフなんじゃないかと思うくらいだ。

 

 

上で貼った「ワン・アンド・ワン(アンエディティッド・マスター)」冒頭から、印象的なファズの効いたギターを弾いているのはデイヴィッド・クリーマー。1972年当時からリリースされている『オン・ザ・コーナー』でも聴けるギタリストだけど、こんなにもカッコよくは響いてなかったもんね。

 

 

ビル・ラズウェルの『パンサラッサ』は2トラック目の「ブラック・サテン/ワット・イフ/アガルタ・プレリュード・ダブ」以外は書いたように全て既発音源だし、しかも大きくいじってないので、新鮮さみたいなものはない。ただしCD一枚に電化マイルスの代表作が収録されているというメリットはあるのだ。

 

 

1969〜75年というマイルスが一番<狂って>いた時期の公式アルバムは、当時リアルタイムで発売されていたものと死後ボックス・セットでどんどん出た未発表音源集と全てを併せると膨大な量になってしまって、普段から聴きまくっているマイルスきちがい以外には、かなり入って行きにくいかもしれない。

 

 

それがビル・ラズウェルの選曲・編集・リミックスによってコンパクトにCD一枚におさまって、一時間もない程度の収録時間だし、1969〜75年の電化マイルス・ファンク時代を取り敢ずなにか一枚<入門編>として聴いてみたいというような、いわば入口に立って迷っているファンにはオススメのベスト盤とも言える一枚なのだ。

 

 

翌1999年の『パンサラッサ:ザ・リミックシズ』は書いたように一曲ずつリミックスを手がけているDJその他が全部異なっていて、曲毎にかなり様相が変化し、しかもDJ達がかなり音をいじくった結果マイルスのオリジナルとも姿を変えていて、これはこれで当時はなかなか面白く聴いた。

 

 

なかでは3トラック目のDJ クラッシュがリミックスした「ブラック・サテン」が僕には一番面白かった。あるいはマイルスのオリジナルからして既にドラムン・ベース風なところのある「レイティッド X」をドク・スコットがさらにそれを強調したというようなリミックスをしている2トラック目も面白いね。

 

 

そして僕が一番面白いと思うマイルス・リミックス集は2007年にリリースされた『エヴォルーション・オヴ・ザ・グルーヴ』だ。全4トラックでたったの14分程度だけど、これが一番カッコイイ。なんたって2トラック目のアルバム・タイトル曲ではヒップホップ・ミュージシャンのナズがやっている。

 

 

「エヴォルーション・オヴ・ザ・グルーヴ」のマイルスによる原曲はあの「フリーダム・ジャズ・ダンス」。1966年『マイルス・スマイルズ』にあるそれからしてグルーヴィーでカッコいい元はエディ・ハリス・ナンバー。それをナズがリミックスしラップ・ヴォーカルをかぶせ、その他いろいろと音を足して仕上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=nM9lHfegiOQ

 

 

ヒップホップを聴くファンの方々にはナズ(Nas)は説明不要の有名人だけど、従来からのジャズ・ファンにはジャズ・コルネット奏者オル・ダラの息子と言った方が通りがいいかも。僕が知った順番はナズの方が先だったけれど。そして「エヴォルーション・オヴ・ザ・グルーヴ」にはその父オル・ダラも参加して演奏している。

 

 

そういうわけで、マイルス音源のオリジナルの姿を大きく変えない電化マイルス入門的ベスト盤をという方にはビル・ラズウェルのやった1998年『パンサラッサ』を、そしてヒップホップ風な現代マイルスを聴きたいという方には2007年の『エヴォルーション・オヴ・ザ・グルーヴ』をオススメしておきたい。

2016/07/21

ライヴでシャッフルになってない「バードランド」をようやく聴けた

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昨2015年リリースのウェザー・リポートの未発表ライヴ録音集四枚組『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』。こないだようやく買って聴いた。以前から何度か書いているようにこのバンドは、ライヴ録音より完璧に仕上げるスタジオ録音の方が魅力的だと僕は思っているけれど。

 

 

それでも僕が最初に聴いたウェザー・リポートが『8:30』で、これはこのバンド初の公式ライヴ・アルバム(日本でだけ発売の『ライヴ・イン・トーキョー』を除く)。店頭で他のいろんなレコードと見比べると、代表曲らしきいろんな曲がたくさん入っていて、それらが全部いっぺんに聴けるならこれがいいなと思って買っただけ。

 

 

その後『8:30』に先んじるスタジオ作品を買って聴いてみたら、どう聴いてもそれらスタジオ録音の方がいいんだよなあ。「ブラック・マーケット」も「バードランド」も「スカーレット・ウーマン」も「ティーン・タウン」も「ア・リマーク・ユー・メイド」も「バディア」もなにもかも全部そう。

 

 

だから今現在のライヴ盤『8:30』の存在意義とは、ウェザー・リポート・ヴァージョンは初めて世に出た「イン・ア・サイレント・ウェイ」(ザヴィヌル&ショーターのデュオ)と、ジャコのベース・ソロと、ショーターのテナー・サックス・ソロ「サンクス・フォー・ザ・メモリー」と、あとは二枚目B面のスタジオ・サイドはかなりいい。

 

 

二枚目B面のスタジオ・サイドを除くライヴ音源で今の僕が一番好きなのは、ショーターが無伴奏でテナー・サックスを吹く「サンクス・フォー・ザ・メモリー」だなあ。1938年の古いポップ・スタンダードで、僕はこれ以前にフランク・シナトラのリプリーズ盤で知っていた好きな曲。

 

 

それくらいだよなあ『8:30』のライヴ・サイドで今でもマシだと思うのは。2002年にCD二枚組の未発表ライヴ集『ライヴ・アンド・アンリリースト』が出て、こっちはその当時既に殆ど聴かなくなっていた『8:30』よりはだいぶよかったように思う。これは今でも時々聴く。

 

 

そして昨2015年リリースの『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』。タイトルで分る通りこの四枚組は全てジャコ・パストリアス+ピーター・アースキン時代の未発表ライヴ録音集。ジャコのウェザー・リポート在籍は1976〜82年。ピーター・アースキンは1978〜82年だ。

 

 

この時代こそウェザー・リポートが一番良かった時期で、個人的にも一番好きな時期なので、ライヴとはいえたっぷり四枚も聴けるというのは嬉しいんだよね。もっとも僕は『ライヴ・アンド・アンリリースト』で聴いたアルフォンソ・ジョンスン+チェスター・トンプスン時代のライヴもかなりいいと思うけどね。

 

 

というかファンキーなグルーヴ感という意味では、その1975年頃のアルフォンソ・ジョンスン+チェスター・トンプソン時代の方がグルーヴィーでカッコイイんじゃないかなあ。『ライヴ・アンド・アンリリースト』にある「フリージング・ファイア」とか「マン・イン・グリーン・シャート」とかその他数曲。

 

 

だってジャコのベースはスペイシーに飛びまくって、あんまりボトムスをしっかり支えるようなものじゃないからね。ドラミングだってピーター・アースキンよりチェスター・トンプスンの方がヘヴィーでファンキーだし。チェスター・トンプスンはフランク・ザッパのアルバムにも参加しているものがあるよね。

 

 

そんな気がしはじめてはいるものの、僕の青春時代を捧げたのはやっぱりジャコ+アースキン時代のウェザー・リポートに他ならない。でもこの編成のスタジオ作は『8:30』の二枚目B面と、それに続いて出た1980年の『ナイト・パッセージ』、それの次作『ウェザー・リポート 82』しかない。

 

 

それら三つのジャコ+アースキン時代のウェザー・リポートのスタジオ作では、『8:30』の二枚目B面は楽しいけれどまだ模索状態という感じもあって、それが開花するのが『ナイト・パッセージ』でこれは見事な作品だけど、次の『ウェザー・リポート 82』ではザヴィヌルの音楽性がもう煮詰っている。

 

 

それでもスタジオ作では『ナイト・パッセージ』があるからまだいいようなものの、ライヴ作品となると当時リアルタイムで出ていたのは『8:30』だけで、これのライヴサイドは先に書いたように全然ダメなようにしか聞えなくなっているもんなあ。だから昨年リリースの四枚組も半信半疑な気持を抱いていた。

 

 

演奏内容に対する半信半疑な気持と経済的な理由と、その二つでなかなか買えなかった『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』。聴いてみたらなかなかいいじゃんこれ。『8:30』や『ライヴ・アンド・アンリリースト』にあるこの編成での録音よりもいいよ。

 

 

『ライヴ・アンド・アンリリースト』にあるジャコ+アースキン時代の五曲は、全て『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』にも、別年月日・別場所での録音が収録されている。それらを聴き比べたら『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』の方がいい。

 

 

それら五曲の話は後回しにして、まず一枚目がアルバム『8:30』の二枚目B面のスタジオ・サイドの曲四曲全部ではじまるというのがなかなかいい。『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』ヴァージョンでもオープニングの「8:30」冒頭はラジオ番組みたいな作りになっていて大好き。

 

 

「8:30」がライヴでも演奏されていたというのは知らなかった。スタジオ録音ではザヴィヌルのキーボード(ベース音も彼の弾くベース・シンセサイザー)とジャコのドラムスのデュオ演奏だったんだけど、『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』でも全く同じ二人のデュオ。

 

 

ひょっとしてあるいはご存知ない方がいらっしゃるかもしれないので書いておくと、ジャコは最初はドラマー志望で腕もよかったらしい。高校生の頃は学校のクラスメイトと組んだバンドでドラマーだった。ある時アメリカン・フットボールの試合で腕をひどく負傷し、それでドラマーは諦めベースに転向した。

 

 

『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』一枚目ではいきなりその「8:30」ではじまり、切れ目なしに二曲目の「サイトシーイング」に続く。これも『8:30』スタジオ・サイドの曲で、続く「ブラウン・ストリート」「ジ・オーファン」も全部そう。ライヴでやってたんだなあ。

 

 

そしてウェザー・リポートの場合、ライヴでやっていたものはかなりの部分録音している。これは生前のザヴィヌルがかなりのライヴ・ステージをテープに残してあると明言していた。フランク・ザッパその他そういった音楽家は結構いるみたいだ。ザッパの場合は編集してスタジオ作にも混ぜている。

 

 

「ブラウン・ストリート」の場合『8:30』収録のスタジオ・オリジナルは、これまたジャコのドラムスだけど(どうしてだったんだろう?)、『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』ではアースキンが叩いている。聴き比べるとやはり本職のドラマーの演奏の方が魅力的かもしれない。

 

 

「ジ・オーファン」は『8:30』ヴァージョンでは子供のコーラスが入っていたんだけど、『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』収録ヴァージョンでも途中でそんな声というか音が聞える。だけどコーラスが参加している様子もなくクレジットもないので、おそらくザヴィヌルのヴォコーダーかなあ。

 

 

一枚目にある「バディア/ブギ・ウギ・ワルツ」。これは『8:30』のものと同じアレンジのメドレーだけど、昔からこれはどこがいいんだか僕にはサッパリ分らず、今回聴いてもやはり同様なので割愛。一枚目ラストのジャコの無伴奏ソロでは、途中ビートルズの「ブラックバード」のメロディが出てくる。

 

 

ジャコと「ブラックバード」と言えば、ウェザー・リポート脱退後の初ソロ作『ワード・オヴ・マウス』B面でやっているよね。ウェザー・リポート時代のライヴでの無伴奏ベース・ソロ・コーナーでは、ジミ・ヘンドリクスの「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」をちょっと弾くものだってあるしね。

 

 

『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』で個人的に一番興味を惹いたのは、二枚目に入っている「バードランド」だ。以前書いたようにこのバンドがライヴでこの曲をやると、例のブリッジ部分の後がいつでもシャッフルになってしまっていて大変残念。はっきり言って聴けないんだなあ。

 

 

ところが『ザ・レジェンダリー・ライヴ・テープス 1978-1981』の「バードランド」はシャッフルになっていない。『ヘヴィー・ウェザー』収録のオリジナルと同じリズムで、これなら聴ける。一瞬シャッフルになりかける怪しい瞬間がありはするけれどね。そうなりやすい曲なんだね。

 

 

その「バードランド」は1978年東京録音。ってことは『8:30』収録のものより前(そっちは79年)だよなあ。これはかなり意外な事実で、ちょっとビックリ。そしていつもシャッフルになってしまうのはアースキンのせいだろうと思っていたのだが、そうではなくジャコのせいだということも分った。

 

 

今日もやっぱりなんかだんだん長くなってきたなあ。もっともっと書きたいことが山ほどあるこの四枚組ライヴ集。ジャコのファースト・ソロ作収録の「コンティニューム」も二枚目に入っているし、四枚目にもジャコの無伴奏ソロ・コーナーがあり、また四枚目ラストの締め括りは例によって「ディレクションズ」だ。

 

 

それにしてもザヴィヌルは「ディレクションズ」という曲にこだわりがあるんだろうね。ウェザー・リポート結成当時からずっと長くやっている。この四枚組のは1978年大阪でのライヴ録音。ザヴィヌルは2007年に死んでいるので、プロデューサーは息子のトニー・ザヴィヌルとピーター・アースキンとなっている。

2016/07/20

ジェイン・バーキンの歌うアラブ風シャンソンはやっぱりシャンソン

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ちょっと思うところあって久しぶりに引っ張り出して聴直してみたジェイン・バーキンのライヴ・アルバム『アラベスク』。今聴直すとはっきり言ってどうってことないようなものだと思うけれど、2002年にこれがリリースされた時に買って聴いた時はこりゃいいぞ!と思ってよく聴いていた。

 

 

僕はジェイン・バーキンのファンではない。なにをする人なのかよく分っていないというか、まあ女優にして歌手だとかその程度の認識を薄く持っているだけ。だけど『アラベスク』はCDショップ店頭で見たら、そのタイトルとジャケットにあるそのタイトル文字がアラビア文字風なレタリングで魅了されちゃった。

 

 

こういうアルバム・タイトルなんだからなにかアラブ音楽風のものをやっているんだろうと誰でも想像は付く。2002年なら僕は既に北アフリカや西アジアのアラブ圏音楽が大好きになっていたし、ちょっとでもそんな風になっている音楽があれば聴きたかった。ましてや関係なさそうな人がやるならなおさらだ。

 

 

実を言うと『アラベスク』に関してはDVD版の方を先に知り買って観聴きしている。2002年だとMacじゃないDVD再生機器を持っていて、大きめのモニター・ディスプレイでいろいろとよく観ていたのだった。それが良かったように思ったので、CDもあると知ってからそれも買った。

 

 

今はDVD再生可能機器はMacしか持っていないので『アラベスク』もほぼCDの方しか聴かない。しかしDVDの方はCDより曲目が多く、ライヴ・コンサートだからその演唱光景が映っているDVDの方が面白いのは確か。(アラブ・)ヴァイオリンはともかく、リュートとかダルブッカとか楽器の姿と演奏シーンが観られるしね。

 

 

しかもDVDの方にはCDには収録されていない曲で、なんだったか曲名も忘れちゃったけど、男性ヴォーカリストのムメンがグリグリと強いアラブ歌謡のコブシを廻すのが長く収録されている曲があって、それが一番面白いのに、CD版『アラベスク』にはなぜだかそれが入っていないのは残念だ。

 

 

DVDの方を聴直せば分るんだけど、それもちょっと面倒だからこないだはCDの方だけ聴直したというわけ。『アラベスク』のソースになっているのは2002年3月、パリのテアトル・ドゥ・ロデオンでのライヴ・コンサート。こういうタイトルだけどバーキンが歌っているのは全部シャンソンだ。

 

 

バーキン自身の過去のレパートリーなどもあるものの、大半は亡くなったかつてのパートナー、セルジュ・ゲインズブールの曲が中心。セルジュ・ゲインズブールも僕はたいしてファンではなく少ししか聴いていないんだけど、そのセルジュのレパートリーを中心としたシャンソンをアラブ風に仕立て上げている。

 

 

そういうシャンソン楽曲をアラブ音楽風にアレンジしたのは、ライヴでアラブ・ヴァイオリンを弾いているジャメル・ベニエルで、演奏も彼がリーダーシップをとっている。その他はピアノ/シンセサイザーのフレッド・マギ、リュートのアメル・リアヒ・エル・マンスリ、ダルブッカのアジズ・ブラルーグ。

 

 

音楽監督的役割であるアラブ・ヴァイオリンのジャメルはアルジェリアの人らしいが、他のミュージシャンのことは全く知らない。ゲスト・ヴォーカリストの男性ムメンについても、聴くといい声だなあと思うものの、どういう歌手なのか全く知らない。全員この『アラベスク』でしか僕は聴いたことがない人達。

 

 

セルジュ・ゲインズブールの原曲をあまりよく知らないので、『アラベスク』でそれがどんな具合に変貌しているのか、ちゃんとしたことは言えないが、なかなか面白く仕上っているんじゃないだろうか。ジャメルの施したアラブ音楽風なアレンジもなかなかいい。

 

 

シャンソンとかは以前も触れたように歌詞の意味内容を知らないとあまり楽しめないような種類の音楽の一つで、というより歌詞でこそモノを言うジャンルだから、大学生の頃はシャンソンのレコードもいろいろと買って楽しんで聴いていた僕も、最近は面白くないように感じはじめていて殆ど聴かない。

 

 

だけど『アラベスク』みたいに大胆にリアレンジされてサウンドやリズムが面白いことになっているなら大歓迎。といってもバーキンの歌い方にアラブ風なところは全くなく、もっぱらジャメルのアレンジでバンドの奏でるサウンドが北アフリカのアラブ音楽風味になっているだけなんだけどね。

 

 

だからHKが『プレザンテ・レ・デゼルトゥール』でシャンソンの名曲の数々を歌ったり、ドルサフ・ハムダーニが『バルバラ・フェイルーズ』でバルバラ・ナンバーを歌ったする時のような面白さは感じない『アラベスク』。ドルサフはチュニジア出身でアラブ歌謡こそが本領の歌手だし、HKだってマグレブ系。

 

 

その点ジェイン・バーキンはイギリス出身にしてフランスで活動する人で、歌手としてもアラブ音楽とはかすりもしない人。だから『アラベスク』を聴いても、彼女がセルジュの歌を歌う様子はごく普通のシャンソンなんだけど、それでもバンドのサウンドがほぼアラブ風だから今でもそこそこ楽しめる。

 

 

『アラベスク』CDのなかで僕が今でも一番いいなと思うのは、やはり男性ゲスト・ヴォーカリストのムメンがアラブ風のコブシをグリグリと廻してバーキンと絡むいくつかの曲。三曲目の「ラムール・ド・モワ」とか七曲目の「ヴァルス・ド・メロディ」。というかCDではこの二曲だけなんだなあ。

 

 

前述のように『アラベスク』DVDの方にはなんだったか一曲ムメンがなかり長く歌い廻すものがある(はず)ので、しかもそれが『アラベスク』全編を通して僕なんかには一番魅力的な出来だと聞えていたから、どうしてそれをCDの方にも収録していないのか、かなり歯がゆい思いなんだなあ。

 

 

まあでもCDでも七曲目の「ヴァルス・ド・メロディ」ではムメンの旨みのあるアラブ風コブシがまあまあ聴けるので、それでかろうじて僕の耳も潤っている。ムメンをもっと長く、あるいは他の曲でも使ってくれていたらもっと良かったのになあ。主役はあくまでバーキンなんだから仕方ないだろう。

 

 

ジャメルのアラブ・ヴァイオリンもかなりいい演奏。アレンジをしてライヴ・ステージでも演奏のリーダーシップをとっているというだけはある弾きっぷりだよなあ。リュートとダルブッカという楽器は、実を言うと僕はこの『アラベスク』DVDで初めて実際の演奏風景を見たのだった。音だけいろんなCDで聴いたり写真で姿は見ていたけれど。

 

 

ダルブッカと書いているけれど、CDでもDVDでもあるいはネット上の情報でも「ペルクシオン」(パーカッション)としか書いていない。でも音を聴いてもダルブッカしか聞えないし、DVDで観てもやはりアジズはダルブッカしか叩いていないので間違いない。大好きな打楽器なんだよね。

 

 

アメルのリュートは部分的にしか聞えない。どの曲でも全面的には弾いていない様子。バンド・メンバーのうち、全ての曲で演奏しているのはアラブ・ヴァイオリンのジャメルとダルブッカのアジズの二人だけ。またフレッドの弾くピアノ/シンセサイザーにはアラブ音楽風なニュアンスはほぼ完全にない。

 

 

ただ、シャンソン楽曲の伴奏であるという点でフランス的なニュアンスを一番感じさせるのが、そのフレッドによる鍵盤楽器演奏だ。そのほぼ完全にシャンソン伴奏的なキーボードが鳴っているなと思いながら聴いていた次の瞬間に、北アフリカの楽器であるダルブッカやアラブ・ヴァイオリンが入るという。

 

 

セルジュ・ゲインズブールの曲自体には特にこれといった強い感慨もなく、それは昔セルジュのレコードを聴いた時と2002年に最初にバーキンの『アラベスク』を聴いた時から全く変っていない。それでも少しジャック・ブレルやクルト・ワイルを思わせる部分もあるのかもしれない。

 

 

僕にとってバーキンの『アラベスク』の魅力がまだ残っているとすれば、それはやっぱりアラブ音楽仕立にアレンジして演奏している部分だろうなあ。似非アラブとまでは言わないまでも、かなり付け焼刃的なものだろうとは思うものの、しかし大胆にチャレンジしたバーキンの着想そのものは高く評価したい。

 

 

アルバムのなかでバーキンが長々と詩の朗読を(フランス語と英語の両方で)やっていたりするのは、やっぱりシャンソンのライヴ・コンサートだなあと思う。シャンソンだとレコードでも歌に混じって詩の朗読があったりするものが結構あって昔は楽しんでいたけど、今はもうそんなもんいら〜ん。

 

 

そういうわけで伴奏はアルバム・タイトル通りアラブ音楽風なものの、やっぱりイギリス出身のフランス歌手が歌うシャンソンはやっぱりシャンソンでしかないよなとしか、今聴直すとそうとしか思えないジェイン・バーキンの『アラベスク』。それでも全然知らない人向けのアラブ風音楽入門としては面白いのかもしれないね。

2016/07/19

レジー・ルーカスとエムトゥーメの課外活動

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マイルス・デイヴィス・ファンからは絶対に褒められることがなく悪口しか言われないカルロス・ガーネットというサックス奏者。しかしなかなか悪くないリーダー作品がある。僕が一番良いと思うのが1974年の『ブラック・ラヴ』だ。これはカルロス・ガーネット初ソロ・アルバムにして最高傑作。

 

 

中米パナマ生れのカルロス・ガーネット。1960年代後半にデビューしたのはアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズでだったらしいが、僕は全く聴いていない。そもそもガーネットが吹くこのバンドのアルバムってあるのか?その他チャールズ・ミンガスのバンドにも在籍したらしい。

 

 

しかしガーネットが名を上げるのはやはりマイルス・デイヴィスのバンドに参加してからだ。ガーネットのマイルス・バンドでの初録音は1972/6/6の四曲。そのなかから編集されて「ワン・アンド・ワン」「ヘレン・バット/Mr. フリーダム X」の2トラックが『オン・ザ・コーナー』に収録。

 

 

『オン・ザ・コーナー』のそれらB面におけるガーネットはテナーとソプラノの両方を吹いていて、はっきり言ってどうってことない聴応えのない吹奏ぶりだよなあ。その後1972年12月までの半年間だけマイルス・バンドに在籍して何曲かスタジオ録音している。

 

 

『オン・ザ・コーナー』B面以外で1970年当時にリアルタイムで発表されていたガーネットが吹くマイルスのスタジオ録音は、74年リリースの『ビッグ・ファン』一枚目B面の「イフェ」、同年リリースの『ゲット・アップ・ウィズ・イット』二枚目B面の「ビリー・プレストン」で全部だ。どれも大したことない。

 

 

この間1972年9月録音の二枚組ライヴ・アルバム『イン・コンサート』もガーネットのマイルス・バンド在籍時だったので当然吹いているけれど、これもちょっとなあ。だいたいこのライヴ・アルバムは73年にこのバンドのスタイルがはっきりするまでの過渡期みたいな作品でイマイチなんだ。

 

 

リアルタイムでのリリースは以上で全部だけど、ガーネットの吹くマイルスのスタジオ録音で未発表だったものがかなりあって(何度も書いているが1970年代マイルスは本当にこれが多い)、2007年リリースの『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』に収録されている。

 

 

あとはライヴ録音がブートで少しあるけれど、未発表スタジオ録音もライヴ・ブートもどれを聴いても、マイルス・バンド1972年6〜12月のガーネットのサックスはどこが面白いのか僕にもよく分らない。だからマイルス・ファンからは散々な評判になってしまって、いまだにそうなんじゃないかなあ。

 

 

というわけで僕も長年ガーネットのリーダー作品を買って聴こうという気になれなかったんだけど、CDリイシューされた1974年の初リーダー作『ブラック・ラヴ』を買って聴いてみたらかなり良いので驚いちゃったんだよね。もっともこれを買った理由はレジー・ルーカスとエムトゥーメが参加しているからだった。

 

 

ギターのレジー・ルーカスとパーカッションのエムトゥーメ。二人とも1972〜75年のマイルス・バンドで大活躍し、その演奏ぶりも最高だから大学生の頃から大ファンなんだよね。そして僕はかなり後になって知ったんだけど、この二人のいわばマイルス・バンド「課外活動」みたいなのがいくつかある。

 

 

レジーもエムトゥーメも1975年9月にマイルスが隠遁状態に入ってバンドが自然消滅して以後は、ブラック・ミュージック・シーンで活躍するようになったよね。それはご存知のみなさんが多いはず。ジャズ・ファンというよりもR&B〜ソウル〜ファンク系の黒人音楽リスナーに聴かれているはずだ。

 

 

一番有名なのは間違いなくエムトゥーメの1983年「ジューシー・フルーツ」だ。同年リリースの同名アルバムからシングル・カットされ、ビルボードのR&Bチャートで八週も一位を独占したメガ・ヒット・ナンバー。バーニー・ウォレルも弾いている。

 

 

 

これは大ヒットした7インチ・シングル・ヴァージョンだけど、同名アルバムのヴァージョンは約六分間。また約五分の12インチ・シングルとか約七分のインストルメンタル・ミックスとかもある。この12インチのが僕は一番いいんじゃないかと思う。

 

 

 

今年2016年6月に亡くなったばかりのPファンクのキーボード奏者バーニー・ウォレルが参加しているほか、女性ヴォーカルはタワサ・エイジー。まあ今聴くといかにも1980年代っぽいブラック・コンテンポラリーで古くさい音だなとは思うものの、多数のヒップホップ・ミュージシャンにサンプリングされている。

 

 

エムトゥーメの「ジューシー・フルーツ」をサンプリングしたなかには、僕でもよく知っているノトーリアス B.I.G やスヌープ・ドッグがいたり、あるいは他にもアリシア・キーズやジェニファー・ロペスなど有名歌手もいる。ノトーリアス B.I.G のなんか曲名がそのまんま「ジューシー」だ。

 

 

一方レジー・ルーカスの方はマドンナの1983年デビュー・アルバムをプロデュースしたのが最も有名だろう。次作の大ヒット・アルバム84年の『ライク・ア・ヴァージン』も途中までレジーが関わっていたらしいのだが、制作途中でマドンナと意見が合わなくなってレジーは降りたんだそうだ。

 

 

またレジーとエムトゥーメは二人でタッグを組んでいくつもアルバムをプロデュースしているよね。一番有名なのはステファニー・ミルズかなあ。彼女のアルバムを1979年から82年にかけて四枚もプロデュースしているし、その他いろんな音楽家のプロデュースをしているなかにゲイリー・バーツがいる。

 

 

ゲイリー・バーツもマイルス・ファンには評判の悪いサックス奏者で(そもそも1970年代のマイルス・バンドでマイルス・ファンに評判のいいサックス奏者はデイヴ・リーブマンだけ)しかし個人的には70年12月ライヴ録音の『ライヴ・イーヴル』での数曲とか悪くないソロもあるとは思う。

 

 

そんなゲイリー・バーツをレジー・ルーカスとエムトゥーメがプロデュースしたのはやはり1980年だからマイルス・バンド以後。そして同じマイルス・バンド1970年代のサックス奏者だったカルロス・ガーネットの『ブラック・ラヴ』はこのコンビのプロデュースではないが、演奏で二人が参加している。

 

 

ガーネットの『ブラック・ラヴ』が1974年作ということは、レジー・ルーカスもエムトゥーメもマイルス・バンドでバリバリ大活躍中の時期。だから<課外活動>と僕は言うんだけど、『ブラック・ラヴ』は直接的にはマイルス関係というより、エムトゥーメ・ウモジャ・アンサンブルからの流れだろうね。

 

 

ウモジャなんじゃ?っていう人がいるかもしれないが、エムトゥーメのマイルス・バンド在籍時の1971年にこのユニット名で『アルケブ・ラン:ザ・ランド・オヴ・ザ・ブラックス』というアルバムを録音し翌72年にリリースしている。レジー・ルーカスはいないが、ガーネットは参加している。

 

 

エムトゥーメ・ウモジャ・アンサンブルにはガーネットだけでなく同じくマイルス・バンドのサックス奏者ゲイリー・バーツもいるし、またドラムスがこれまたマイルス人脈のンドゥング・レオン・チャンクラーとジャバリ・ビリー・ハートの二人。そしてベースがマイルスとほんのちょっぴり関係があるバスター・ウィリアムズだ。

 

 

このなかからウモジャ・アンサンブルのリーダーであるエムトゥーメはもちろん、バスター・ウィリアムズとジャバリ・ビリー・ハートがガーネットの『ブラック・ラヴ』に参加しているもんね。それにギターのレジー・ルーカスを加え、さらにトランペットのチャールズ・サリヴァン、ピアノのアラン・ガンブズなど。

 

 

『ブラック・ラヴ』でさらに特筆すべきはディー・ディー・ブリッジウォーターの参加だろうなあ。アルバム三曲目の「バンクス・オヴ・ナイル」でリード・ヴォーカルを取り、その他三曲でもバックで歌っている。一曲目「ブラック・ラヴ」もディー・ディーの歌がいいとする文章があるけれど、それは違う。

 

 

一曲目「ブラック・ラヴ」での女性リード・ヴォーカルはアヨデール・ジェンキンスだ。しかしこの人は何者なんだろう?全然知らない歌手なんだけど「ブラック・ラヴ」での歌はかなりいいんだなあ。ディー・ディーもバック・ヴォーカルで参加している。

 

 

 

今貼ったのをお聴きになれば分るようにこれはジャズ・ファンクではない。「ジャズ」などという前置の必要ない完全なるファンク・チューンなのだ。ヴォーカルが終ると一応ガーネットのテナー・サックス・ソロがあるので、そこだけがかろうじてちょっぴりジャズ的要素かと感じる程度だよね。

 

 

しかしそのサックス・ソロもその背後でほぼ全面的に女性ヴォーカル・コーラスが入っているもんね。こんなのは1974年当時のジャズ人脈の音楽家が創るファンク・ミュージックには少ない。アルバム二曲目のタイトルが「エボネスク」だから、これはいかにも時代を感じさせる黒人意識高揚みたいなものかなあ。

 

 

「エボネスク」でもガーネットのテナー・サックスと女性ヴォーカル・コーラスが絡み合い、そのバックでファンクなリズムが躍動。三曲目がいよいよディー・ディーのリード・ヴォーカルが全面的にフィーチャーされる「バンクス・オヴ・ザ・ナイル」。

 

 

 

どうだろう?イイネこれ。ガーネットのソプラノ・サックス・ソロを除けばどこにもジャズ的な要素のないソウル〜ファンクな音楽だ。しかもこれ1974年1月録音ということは、ひょっとしてディー・ディー・ブリッジウォーターの最も早い録音なんじゃないだろうか?彼女は当時24歳。

 

 

アルバム・ラスト五曲目の「タウラス・ウーマン」ではレジー・ルーカスが彼らしいカッティング・ギターを弾くのも聴き物。それ以外でも弾いてはいるものの、1974年ならレジーが大活躍していたマイルス・バンドで聴けるようなプレイが目立たないもんね。「タウラス・ウーマン」ではおそらくはレジーが曲創りでも貢献しただろうというカッティングだ。

 

 

アルバム中ベスト・トラックはおそらく四曲目の「マザー・オヴ・ザ・フューチャー」だろう。ヨーデルみたいなヴォーカルはガーネット本人なのか?この曲はノーマン・コナーズがカヴァーしているよね。コナーズは『ブラック・ラヴ』にも参加していて、ジャバリ・ビリー・ハートとのツイン・ドラムス体制になっている。

 

 

ジャバリ・ビリー・ハートのマイルス・バンドでの録音は『オン・ザ・コーナー』くらいしか知られていないけど、1972年録音の未発表曲に「ジャバリ」というそのままのタイトルのものがあるんだなあ。全然大したことない演奏だけど、『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』で聴ける。

 

 

カルロス・ガーネットの『ブラック・ラヴ』は全曲ガーネットの作編曲で、叫ぶというか呻いているようなヴォーカルも含めそのあたりもマイルス・バンドでは全く分らない側面だ。『ブラック・ラヴ』を聴くとかなり面白い音楽家だと分る。マイルス・ファンもちょっと聴いてみてほしい。きっと見直すと思うよ。

2016/07/18

創作楽器が奏でるビートルズ

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熱心なビートルズ・ファンの僕なのに、いやだからこそかえって厳しくなるのか、ビートルズの曲のカヴァー集で本当に成功していると言えるものは少ないような気がするけれど、成功しているもののうち僕が特に気に入っている二つがウアクチのと映画『アイ・アム・サム』のサウンドトラック盤。

 

 

特にウアクチの2012年作『ビートルズ』はいい。僕が聴いたなかでは間違いなく最高のビートルズ・カヴァー・アルバムだ。ウアクチって日本でどれくらい人気があるのか知らないが、1978年結成のブラジルの器楽音楽集団で今までに14枚もアルバムを出している。昨年だったか活動停止しちゃったらしいけど。

 

 

でも僕もえらそうなことは全然言えないんだよね。その2012年作の『ビートルズ』で初めてその存在を知ったグループだから。しかもミナス・ジェライス出身ということで、最近の僕はブラジル音楽で「ミナス」という言葉を見ただけで警戒して近寄らないようにしているもんね。

 

 

でもある方にこれはいいぞとオススメされてウアクチの『ビートルズ』を買って聴いてみたらこれが面白かった。こんなビートルズ・ナンバーは聴いたことがなかったね。書いたようにインストルメンタル音楽集団だから、全くヴォーカルの入らない楽器だけの演奏なんだけど、ジャズメンがやるようなビートルズ・カヴァーとは全く違う。

 

 

ジャズメンがやるビートルズ・カヴァーで僕が初めて聴いたのは、おそらくウェス・モンゴメリーの1967年A&M盤『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』収録のタイトル曲と「エリナ・リグビー」だったと思う。ドン・セベスキー編曲のオーケストラ伴奏でウェスが弾くビートルズも悪くはないんだけれど。

 

 

あのウェスの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』はピアノとベースがマイルス・デイヴィス・バンド時代のハービー・ハンコックとロン・カーターで、ドラムスがグラディ・テイト。このリズム・セクションがなかなかいいし、ハービーとロンも当時のマイルス・バンドでは聴けないファンキーな演奏をしているし。

 

 

それでもビートルズのオリジナル・ナンバーの熱心なファンである僕にはやはりなんかちょっと違うような気がしていたのも事実。ジャズメンやジャズ歌手がやるビートルズ・ナンバーのカヴァーというのも実にたくさん聴いたけれど、ピンと来るものって本当に少ないよなあ。

 

 

同じインストルメンタル演奏でもウアクチのはなにもかもぜ〜んぜん違うんだなあ。2012年のウアクチの『ビートルズ』がもっと前の1970年代とか80年代にもし出てその時に聴いたとしたら、僕は良さが全く分らなかっただろう。どこにも分類しようがないような音楽だし。

 

 

ウアクチは基本的には自分達で作った創作楽器で演奏する集団。CDで音だけ聴いてもどんな楽器で演奏しているのかはちょっと想像しにくいんだけど、なんだか筒かパイプかなんかでできたようなものとか、木琴みたいな音とか、その他種々の打楽器系とか、そんなのが中心になっているみたいな音だ。

 

 

もっとも他のアルバムはともかく『ビートルズ』では創作楽器に混じってエレキ・ギターやエレベやピアノといった一般的な楽器も聞える。二曲目「ゲット・バック」後半で派手にファズの効いたエレキ・ギターが鳴るんだけど、これなんか今聴くと入ってない方がよかったんじゃないかとも思える。

 

 

いろんな曲でフルートみたいな管楽器が主旋律を吹く音が聞えるけれど、これはやはりどうもフルートそのものらしい。三曲目の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」もそう。なんだか分らないがポコポコと鳴っている打楽器系の音に乗せてフルートがこの曲の主旋律を吹くのを聴くと少し不思議な気分だ。

 

 

ポコポコ鳴る打楽器系の音(これはなにかの筒を鳴らしているに違いない)は、ウアクチの『ビートルズ』の中核を成していて、ほぼどの曲もそれがサウンドのベースになっている。これをおとなしいサウンドだと想像したら大間違い。例えば二曲目「ゲット・バック」でもかなり激しいビートを表現している。

 

 

「ゲット・バック」ではそういうポコポコ鳴る打楽器の音が複層的に重なって、強い生命力を感じさせる激しいビートを形成し、それに乗ってフルートや、あるいはやはりなにかの鐘のような音の創作打楽器や、さきほど書いたようにエレキ・ギターなどが次々と現れて演奏するというかなり面白い内容。

 

 

複数の筒というかパイプでできた楽器を手かなにかで叩いてポコポコという音を出す楽器は、名前は知らないがウアクチ結成当時から彼らのサウンドの中心になっているものらしい。『ビートルズ』でもほぼ全ての曲で聞えるし、リズムやサウンド・テクスチャーの中核になっているのが分る。

 

 

創作楽器を中心に演奏するというとイロモノというか変り種、オモシロ楽器演奏家だと見做されそうな気がするけれど、CDでウアクチの音だけ聴くとそんな考えは完全に消し飛んでしまう。とにかく演奏技術がとんでもなくハイ・レベルでバカテクだし、しかもその技術が美しい音楽表現に結びついている。

 

 

ウアクチの『ビートルズ』に収録されているビートルズ・ナンバーはいわゆる中期〜後期のものばかりで、一番古いものでも1966年『リヴォルヴァー』収録の「フォー・ノー・ワン」だ。この曲の冒頭で聞えるエレキ・ギターかあるいはシンセサイザーみたいなギュ〜ンという音はなにで出しているんだろう?

 

 

その「フォー・ノー・ワン」でも、やはりパイプのポコポコ鳴る音がベーシックなサウンドになっている上でフルートが吹くメロディがこの上なく美しく聞える。『リヴォルヴァー』収録のポールの歌うオリジナルも大変美しいメロディだったわけだけど、それがより一層際立っているように思う。

 

 

全部1966年以後のビートルズ・ナンバーばかりなんだけど、それもなかには「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「サムシング」や「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」といった超有名曲もあるものの、それ以外の多くがやや渋めというかビートルズ・ファンじゃないと馴染が薄いような曲ばかりなのもイイ。

 

 

なんなって一曲目が『ホワイト・アルバム』のなかの小品「マザー・ネイチャーズ・サン」で、これは個人的には凄く嬉しかった。あの二枚組収録のポールの曲のなかでは目立たない地味な曲だけど、なんたって個人的には最大のフェイヴァリットだもんね。ウアクチのでは「ジュリア」とか「ディグ・ア・ポニー」とかもいいね。

 

 

有名曲に混じって入っているそういう地味な小品も全て凄くチャーミングに仕上っているし、「マザー・ネイチャーズ・サン」「ジュリア」「フォー・ノー・ワン」「ディグ・ア・ポニー」といったあまり採り上げられないけれどビートルズ・ファンなら愛しているナンバーがこんな風になれば嬉しい。

 

 

こういうのがあるので貼っておこう。アルバムにも入っている「ヒア・カムズ・ザ・サン」→ https://www.youtube.com/watch?v=8mPnIEVis88  最高にチャーミングだよね。またアルバムには入ってないけれど「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」→ https://www.youtube.com/watch?v=Ev_p2IUC2f4

 

 

ビートルズのオリジナルに忠実なアレンジとサウンドではないというか、創作楽器ばかりでやっている器楽アンサンブルだから忠実になりようがないので、メチャメチャ大胆に変貌しているのもいいんじゃないかな。だってオリジナルに忠実ならビートルズ・ヴァージョンを超えようがないんだから。

 

 

こんな具合に変貌しているビートルズ・カヴァー集ってウアクチの他にあるのかなあ。僕が無知なだけで知らないだけなんだろうとは思うんだけど、ウアクチの『ビートルズ』を聴いてその面白さ・楽しさに降参してしまった僕としては、これを超える斬新でユニークなものは見つけにくいように思える。

 

 

最初に書いたように熱心なビートルズ・ファンだからこそなのか、中途半端なカヴァー集はかえって気持悪くなってしまう僕なんだけど、ウアクチの2012年『ビートルズ』はオリジナルの音楽家に対する深いリスペクトの情も感じるし、その上でこんなに大胆にやってくれたら文句なしだ。

 

 

最初に触れた同じく好きな『アイ・アム・サム』のサントラ盤についても書こうと思っていたのに、長くなりすぎてしまうしその余裕がなくなった。アルバム・ラストに入っているニック・ケイヴの歌う「レット・イット・ビー」なんて最高に沁みるんだけど、また別の機会にしておこう。

2016/07/17

ベッドタイム・ミュージック〜ビル・エヴァンス

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アメリカでも日本でもそして世界中で今でも大人気のジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス。今年もエディ・ゴメス+ジャック・ディジョネットでやった例の1968年モントルー・ライヴの頃の同一メンバーによるスタジオ未発表録音集が出る(出た?知らん)とかいうので、かなり話題になっていたよね。

 

 

あるいはかの『ワルツ・フォー・デビイ』のクリスタル・ディスク盤とかいうものも今年出るらしく、それはなんと一枚20万円(!)もするんだそうだ。どれほどの高音質か知らないが、一枚のCDに20万円も払う人間がいるのか?と思っちゃうんだけど、まあ一部にはいるんだろうなあ。

 

 

僕はだいたいジャズでもなんでもブルージーだったりファンキーだったりラテンだったりするものが好きな場合が多い音楽リスナーなので、ビル・エヴァンスなどは昔からイマイチで、今ではマイルス・コンボでの録音を除き全く聴かなくなっている。それでもアナログ盤LPでは結構買って聴いてはいたなあ。

 

 

そんなビル・エヴァンスのアルバムのなかでのかつての最大の愛聴盤は、実はピアノ・トリオものではなく、ギタリスト、ジム・ホールとのデュオ録音盤1962年の『アンダーカレント』だった。これを一番繰返し聴いていた。なぜかと言えば、これは20代はじめの頃の僕のお決りの就寝音楽だったのだ。

 

 

就寝音楽と言っても『アンダーカレント』一曲目「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」だけはややハードでスウィンギーな演奏だから、これを外して残りの五曲だけをカセットテープにダビングしてウォークマンに入れ(当時 iPod ほかデジタル携帯音楽プレイヤーはない)ベッド脇に持込んでいた。

 

 

そんでもってイヤフォンを耳に入れ部屋の電気を消して「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を除く(と約25分)『アンダーカレント』を聴きながら目を閉じるというのが僕の習慣だったのだ。これがほぼ毎晩のことだったので『アンダーカレント』は相当な回数聴いたことになるなあ。

 

 

『アンダーカレント』をご存知の方なら就寝音楽にピッタリだというのは納得していただけるはず。二曲目の「アイ・ヒア・ア・ラプソディ」から(アナログ盤では)ラストの「ダーン・ザット・ドリーム」まで、どれも全てテンポのないようなゆったりしたバラード調で静かな演奏だもんねえ。

 

 

ファンキーにドライヴするような音楽の方が絶対に好みの僕なんだけど、そういう『アンダーカレント』みたいなものだって結構聴くんだなあ。ベッドに入って電気を消して目をつぶり聴いていると、そのまま25分経たないうちに眠りに就いてしまうことが多く、朝までイヤフォンが耳に入ったまま。

 

 

しかしこれは逆を言えば、当時の僕にはそういう聴き方じゃないと『アンダーカレント』は楽しめないアルバムだったと言えなくもない。ピアノとギターのインタープレイの絶妙さ、互いの間の取り方、押し引き駆引き、どこでどの音を置くかなどといった音楽的に細かいことが分るようになったのはもっと後のこと。

 

 

そういう細かいところまで耳が行くようになってからの『アンダーカレント』はまた別の聞え方になってきた。例えばかつての就寝音楽としては外してダビングしていた一曲目の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」。ビル・エヴァンスのピアノでテーマがはじまり、直後にジム・ホールのギターに移行する。

 

 

その最初のピアノによるテーマ演奏の際にジム・ホールが入れるギター・フレーズの音列とタイミングは絶妙すぎる。上手いなんてもんじゃない。ワン・コーラスのテーマ演奏後はそのままギター・ソロになるけれど、その背後で弾くビル・エヴァンスの伴奏ぶりも見事だ。なんて巧妙なインタープレイなんだ。

 

 

 

ジム・ホールのソロが終るとビル・エヴァンスのソロになるが、途中からジム・ホールが弦をミュート気味にしてリズミカルかつスウィンギーにカッティングしはじめる。弦をミュートしているので音程などはほぼ分らず、まるでブラシでスネアを叩いているようなサウンドなんだよね。

 

 

そういうのを同じモダン・ジャズ・ギタリストのタル・ファーロウがよくやっていた。何枚かあるタル+エディ・コスタ(ピアノ)+ヴィニー・バーク(ベース)のトリオ編成でのアルバムで、タル(とだけ書くと最近は若手女性エレベ奏者のことになってしまうが)は自分のソロが終ると同様のことをやる。

 

 

エディ・コスタのピアノ・ソロの背後で、やはりエレキ・ギターの弦をミュートしたままカッティングして弾き、それでまるでブラシによるドラムス伴奏のような音を出していた。1950年代半ば頃の話だ。関係ないだろうが、このタル・ファーロウ・トリオで僕が一番好きなのはエディ・コスタのピアノだった。

 

 

かなりゲージの太い硬い弦を使っているに違いないタル・ファーロウのサウンドやプレイもさることながら、ヴァイブラフォン奏者としても知られるエディ・コスタのピアノが僕はもっと好きで、特に左手で低音部のソロを弾く時が大好き。彼には『ザ・ハウス・オヴ・ブルー・ライツ』という名盤もあるよ。

 

 

タル・ファーロウ・トリオでのエディ・コスタや、自身のリーダー作『ザ・ハウス・オヴ・ブルー・ライツ』などの話はまた別記事で書きたい。話を戻してビル・エヴァンスとジム・ホールの『アンダーカレント』。一曲目の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」以外は書いたように全てゆっくりとして静か。

 

 

昔はそれら五曲全てただ単に穏やかで心が落着くような演奏だと思っていて、だから就寝音楽にしていたわけだし、レーベル(ユナイティッド・アーティスツ)側も「バラード・アルバムを」との企画だったらしい。しかし今になって聴き返してみると、かなり緊張感のあるインタープレイで耳をそばだててしまう。

 

 

だから眠れるどころかハッと目が覚めてしまうのだ。なんというのかなあ、どの曲も全てかなりスローなテンポなんだけど、そのなかでピアノやギターでどの音をどこで出すか、どう配置して並べるかといったことに非常に細やかに気を配っているよね。至極当り前みたいなことを言っているけれども。

 

 

スウィンギーだろうがバラードだろうが、どんな曲をどんな音楽家がやろうとも、音楽家はいついかなる時でも音の非常に小さい細部の隅々にまで心を配っているわけで、今では至極当り前のことだと思うんだけど、昔はただ単にムードを聴いていただけだった。とはいえそういう聴き方がダメだとも思わないけどね。

 

 

特にジャズの場合はなんとなくのムードみたいなもので聴いて「オシャレだ」みたいに思って聴くファンが今でもかなり多いと思うんだけど、それがイカンなんてことは絶対に言えないだろう。ジャズだけでなくあらゆる音楽で、一般の聴衆はごく普通になんとなくいいねと思って聴いているだけのはず。

 

 

音楽を支えているのはたくさん聴いていて楽理なんかにも詳しい専門家や、あるいはマニアックな聴き方をする僕みたいな熱心なファンなどではない。そんなのは例外だ。音楽を支えているのはそんな聴き方じゃなくなんとなくイイネ、カッコイイね、楽しいねと思っているだけの一般のファンだ。

 

 

ジャズのなかでも特にビル・エヴァンスは、これまたなんとなくのオシャレでジャジーなムードを味わうのにはこれ以上ピッタリ来るピアニストもいないだろうという人だもんなあ。だから人気があるんだろうなあ。マニアや専門家がいろいろ言うけれど、そういう部分で人気があるんじゃないはずだ。

 

 

ちょっと話がまたいつものように逸れちゃったので再び話を戻すと、『アンダーカレント』三曲目の「ドリーム・ジプシー」。これも曲名通りドリーミーでムーディーなバラードだけど、この演奏で僕が一番好きなのは、エンディングで三拍子を解きテンポ・ルパートになる部分。

 

 

 

そのエンディング部分30秒ほどでは、ビル・エヴァンスの弾くフレーズに合せジム・ホールがギターの弦を最高音の一弦から最低音の六弦まで順にバラッと鳴らす。それも最初は一弦の方から六弦に向って、次いでその逆、そしてそのまた逆と繰返し、最後は一弦→六弦方向の鳴らしで終る。そこが僕は好きなのだ。

 

 

非常に有名なベースのスコット・ラファーロ+ポール・モーティアン(菊地成孔含め一部の人達は「モーシャン」と書くけど、違うんじゃないかなあ?)と組んだトリオ編成のアルバムは評価も高くて、ビル・エヴァンスのかつてのボス、マイルス・デイヴィスも1960年頃このトリオとの共演を画策していたほど。

 

 

マイルスのその目論見はスコット・ラファーロが1961年に急逝してしまい実現しなかった。しかしそれくらい当時のジャズメンも、そして当時から現在までのファンも評価しているピアノ・トリオなんだけど、僕は正直言ってそんなには聴かない。だいたい彼がいるからこそ評価されているであろうラファーロはそんな大したベーシストなのか?

 

 

かつて中山康樹さんが、ジャコ・パストリアスが出てきた時に、既にミロスラフ・ヴィトウスを聴いていたので驚かなかったと言っていたけれど、そのヴィトウスだってその前にスコット・ラファーロがいたから驚くに値しないし、そのラファーロにしてからがその前にジミー・ブラントンがいるじゃないか。

 

 

1940年頃のデューク・エリントン楽団(やエリントンのピアノとのデュオ録音など)でのジミー・ブラントンこそウッド・ベース界史上最大の革命児で、スコット・ラファーロが「まるでホーン楽器のようにベースを弾く」と言われたその褒め言葉は、ブラントンにこそ向けられるべき言葉だろう。

 

 

エリントンとのデュオ演奏も絶品だけど、僕はそれより1940年のエリントン楽団でのジミー・ブラントンはもっと凄いと思うね。「ジャック・ザ・ベア」「ココ」などオーケストラ・サウンドに混じってあれだけ鮮明な音でメロディアスなラインを弾くブラントンの凄さを的確に表現する言葉が見つからないほどだ。

 

 

もちろんそれら二曲はエリントンのアレンジがそうなっているせいもあるけれど、それだってブラントンのプレイがあまりに革命的で凄すぎるから、エリントンだってそれ用のアレンジを書く気になったというだけの話なのだ。ブラントンの後にはたくさん出てくるようになったけれど、それ以前には一人もいない。

 

 

だからビル・エヴァンスのトリオで弾くスコット・ラファーロや、あるいはポール・モーティアンも含めた三人のインタープレイは僕はそんなに凄いとも思わないんだなあ。このトリオの録音で僕が一番好きなのは1961年『エクスプロレイションズ』B面の「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン?」だ。

 

 

 

お聴きになれば分るようにエヴァンスは最初にテーマを弾かない。いきなりアドリブから入り、ほどけている糸を徐々につむいでいき、最終的に一枚の織物に完成するというような弾き方だ。僕はこれが大のお気に入り。ケレンミが好きってことなのか?

 

 

特にテーマ・メロディを演奏する最終コーラスの一つ前のワン・コーラスが好きでたまらない。そのワン・コーラスはテーマ・メロディに近づいてきているフレイジングで、それを全てブロック・コードで弾くのがイイ。こういうブロック・コードでのビル・エヴァンスのヴォイシングは今でも最高に好きだよ。そこにこそマイルスも惚れたのだ。

2016/07/16

クラーベが聴けるブラジル音楽

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キューバのソンで用いられるのが発祥であるクラーベのリズム・パターンの浸透力は強い。あまりに強すぎていろんな音楽で聴けるから、これはクラーベですねと僕が言っても、「こんなのどこにでもよくあるもんじゃん」と言われたことがある。確かキザイア・ジョーンズの作品での話で、20年ほど前のこと。

 

 

キザイア・ジョーンズとか今でも処分せずにCDを二枚持ってはいるものの、もう全く聴かなくなったので、キザイアのどのアルバムのどの曲でクラーベのパターンが聴けたのか憶えていないし、確認する気もない。だけどホント世界中に3−2、あるいは2−3クラーベは拡散しているわけだ。

 

 

だからスペイン語とポルトガル語の違いがあるとはいえ、同じ中南米ラテン・アメリカ文化圏であるブラジル音楽にこれが聴けても不思議ではないだろう。といってもクラーベが聴けるブラジル音楽を僕は多くは知らないが、そのうちの一つがトッキーニョ1986年日本公演一曲目の「オ・ベム・アマード」。

 

 

トッキーニョは1946年生れの言うまでもなくブラジル人ギタリスト/コンポーザー/歌手。33歳も年上だったヴィニシウス・ジ・モライスとのコラボで多くの曲を創り演唱したことで一般に多くのファンに知られているはず。そのトッキーニョが渡辺貞夫さんの招きで1986年に来日した。

 

 

貞夫さんは昔から(きっかけはおそらく米国バークリー留学時代)ブラジル音楽好きで、自分の作品でもよくブラジル音楽風な曲を創って演奏していたし、一貫してブラジル人音楽家には強い興味を持続けていたので、それで1986年にまだ日本ではさほど知られていなかったトッキーニョを呼んだんだろう。

 

 

その頃貞夫さんは東京は渋谷で、なんという名前だったっけなあキリンなんとかクラブとかなんとか、数日間にわたるライヴ・イヴェントを毎年夏に開催していて、その一連のイヴェントでは貞夫さん自身のバンドの演奏はもちろん、日本国内外のいろんなジャンルのミュージシャンを呼んで出演させていた。

 

 

その確か1980年代半ばだったと記憶している数年間が、今までの貞夫さんの音楽活動がいろんな意味で一番充実していた時期だったような気がする。そして以前書いたようにその頃はまだFM東京の番組『渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ』があったので、そういうライヴ・イヴェントを逐一放送していた。

 

 

僕も当時は既に東京に住んではいたものの、なぜだかその貞夫さん主催のイヴェントそのものには足は運ばず(ホントなぜだったんだろう?)、もっぱらFMラジオで放送されるライヴの模様を聴きエア・チェックしていた。そこからデジタル化して今でも一番愛聴しているのが1986年のトッキーニョ・バンド。

 

 

1986/7/4の渋谷でのトッキーニョのライヴ。カセットテープに録音したのに、なぜか曲目もバンド・メンバーも一切メモしておらず、とはいえラジオから流れるそれを聞いたところで、当時はポルトガル語が全くダメだったので書留めることなどできなかったはずだ。でもそれらが分らないなりに楽しんでいた。

 

 

デジタル化したそのカセット音源を iTunes に取込む際に、なんとか知りたいと思ってネットで調べまくったら、丁寧に『渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ』で放送されたほぼ全ての音源の録音年月日と曲名と演奏家の名前と放送年月日を全て併せて一覧にしてあるサイトが見つかったのだ。助かった。

 

 

よくよく調べ直してみるとそのサイトの記述もいろいろ間違っていたり、なぜだか全く記載されていない音源もあるんだけど、それでもそのサイトがなかったら全くなんの手がかりもなかったはずなので、大いに感謝している。しかしホント曲名とか人名とかは音楽の楽しみにはあまり関係ないってことではあるね。

 

 

ともかくそれで1986/7/4の渋谷でのトッキーニョのライヴの(一曲を除く)曲名やサイドメンの名前も全て判明した。この時のライヴのオープニングが「オ・ベム・アマード」〜「タタミロ」〜「パラ・ヴィヴェール・ウム・グランジ・アモール」〜「タルデ・エム・イタポア」のメドレー。

 

 

僕が自分でYouTubeにアップした音源を貼っておくのでお聴きいただきたい。 前置が長くなっちゃったけれど、一曲目「オ・ベム・アマード」の最初のあたりで、手拍子による3−2クラーベのパターンがはっきり聞えるのがお分りいただけるはず。

 

 

 

最初シンセサイザー・ソロ、それに続いてピアノ(といってもデジタル・ピアノの音だからこれも一種のシンセだ)・ソロになるあたりから手拍子による3−2クラーベが入りはじめ、その後女性二人の歌がはじまっても聞えている。バンド・メンバーの音は全部聞えるので、ヴォーカルの女性二人が叩いているんだろう。

 

 

その手拍子による3−2クラーベはすぐに終ってしまって、メドレー二曲目の「タタミロ」になるんだけど、これが僕がブラジル音楽にクラーベのパターンが入っているのを聴いた最初だったのだ。書いたように同じラテン・アメリカ、不思議でもなんでもないもののはずだけど、僕には新鮮だった。

 

 

しかしながらこのブラジル人音楽家トッキーニョ(自身はこの時まだステージ上に出てきていないんだが)の音楽でキューバ発祥のクラーベが聴けるという話は、もうこれ以上全然発展させようがない。僕にその能力はない。ただなんとなく面白いねと思いながらいつも聴いているというだけのことだ。

 

 

何度も書いているけれど、僕は一種のクラーベきちがいみたいなところがあって、世界中のどんな音楽を聴いても、ほんのかすかにそれっぽいものが聞えてくるだけで、たちどころに「これはクラーベだ!」と快哉を叫んでしまうという質だからなあ。狂っているというかオカシイんだ。それくらいこのリズム・パターンが大好き。

 

 

書いたようにクラーベが聞えるバンドの演奏がはじまってもしばらくは主役のトッキーニョは登場せず、オープニングのメドレー三曲目の「パラ・ヴィヴェール・ウム・グランヂ・アモール」になってようやくナイロン弦ギターの音が聞えはじめ、次いで彼の声も聞えるようになり、直後に四曲目に移行する。

 

 

音源を貼ったけど、どうだろう?この冒頭のメドレー四曲は素晴しい出来なんじゃないだろうか?四曲メドレーだということすら感じさせない極めてスムースな繋がり方で、僕はこれがメドレーだと何年も気付かずに愛聴していたという。演奏終了間際にトッキーニョは「イパネマの娘」のフレーズを一瞬弾いているよね。

 

 

「イパネマの娘」といえば、この時のライヴではアントニオ・カルロス・ジョビンのこの最有名曲をギター・インストルメンタルとして演奏している。それはトッキーニョが「僕の大好きな作曲家アントニオ・カルロス・ジョビン」と曲紹介するのに続いてすぐにはじまる「ヴィヴォ・ソニャンド」(こっちは歌入り)に続いて演奏される。

 

 

この時のライヴでそのジョビンの二曲が何曲目だったのかは分らない。というのはFMラジオで放送された先に音源を貼った冒頭の四曲メドレーは二つ目に流れたもので、一つ目にはこれだけいまだにタイトルが分らないトッキーニョの無伴奏ギター・ソロ演奏が放送されたので、僕の持っている音源でも同じになっている。

 

 

四曲メドレーがオープニングだったというのだって、音を聴いたらどう考えてもこれが最初だったとしか思えないという僕の勘なのであって確たる根拠はない。トッキーニョ自身がなかなか出てこずバンドの演奏とバック・コーラスの女性二人の歌がしばらく続くから、そうに違いないんだろうとは思うんだけど。

 

 

おそらくはそうやって主役がしばらく登場しないもんだから、それでFM東京の番組制作者も放送の際はトッキーニョのギター・ソロ演奏を最初に持ってきたんだろうなあ。だからその無伴奏ギター・ソロが現場で何曲目だったのかも分らない。もう一曲バンドの伴奏付きでのギター・インストルメンタル演奏がある。

 

 

この時放送されたトッキーニョのライヴで一番感動したのが、放送(と手持の音源)では四曲目の「ナ・ボカ・ダ・ノイチ」。なんとも切なく美しすぎる。貞夫さん(は現場で聴いたらしい)によれば、この曲では泣きながら聴く客が何人もいたらしい。

 

 

 

そりゃ僕だって最初にラジオから流れてくるのを聴きながら泣いちゃったもんなあ。この曲は構造もよく創られていて、トッキーニョが歌うのに続き、女性二人のバック・コーラスの歌になり、すぐにそれにトッキーニョの歌が絡み、再びトッキーニョ一人の歌になり、直後にバンドの伴奏が入りはじめる。

 

 

そう思って聴いていると、バックの女性の一人が単独で歌い出し、その後三人のハーモニーになった直後に、女性一人とトッキーニョが別々のメロディを同時に並行して歌う。一聴無関係そうな二つのメロディと歌詞が最後は一つになって溶け合うのだ。融合した瞬間に僕はもう一回泣いちゃったもんね。

 

 

この「ナ・ボカ・ダ・ノイチ」というタイトルになっているものはトッキーニョとヴィニシウスが書いた作品で、「マイズ・ウム・アデウス」の曲名で知られているもの。トッキーニョ自身のヴァージョンじゃないものだってボサ・ノーヴァのアンソロジーみたいなものに収録されているものがある。

 

 

なお音楽とはあまり関係ない話かもしれないが、この時のライヴでは曲紹介などをトッキーニョ自身が全部日本語でやっている。そのうち「コンバンハ ハジメテ ニホンゴヲ ハナシマス」と言った「ハジメテ」の「ハ」が完全に巻舌の R になっていて「ラジメテ」にしか聞えない。「ハジメテ」と言っているというのは文脈で分るだけ。

2016/07/15

マイルスの初期プレスティッジ録音がなかなかイイ

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4ビートのアクースティック・ジャズをやっていた頃のマイルス・デイヴィスでは、コロンビア録音よりもその前のプレスティッジ録音の方が好みである僕。1951〜56年までだ。もちろん一番良いのが56年の例の二回のマラソン・セッションから生まれた “in’”四部作であるのは間違いない。

 

 

あの “in’”四部作は、マイルスがプレスティッジに録り溜めた全26曲からレーベル側が四枚に分けて、しかも1957年のコロンビア移籍後に一年に一枚ずつリリースしたもの。それは大資本のメジャーであるコロンビアの宣伝力によってマイルスの知名度と人気が上がり、プレスティッジのアルバムも売れることを見込んでのこと。

 

 

あの四枚のうち最初に出た『クッキン』は1957年のリリース。その後リリース順に58年の『リラクシン』、59年の『ワーキン』と続き、最後の『スティーミン』をプレスティッジがリリースしたのはなんと61年のこと。つまりコロンビアの『カインド・オヴ・ブルー』までも既に出ていた。

 

 

これがレコード会社の商魂たくましいところなんだけど、当のマイルスがプレスティッジに録音してあったその四枚の音楽内容だって、リアルタイムでリリースされていた1950年代末〜60年代初頭のコロンビア録音の諸作と同時期に出ても、同じように全く違和感なく受入れられていたらししい。

 

 

ってことはあの進行形四部作になった1956年5月と10月の録音におけるマイルス・クインテットの音楽がどれだけ質の高い優れたものであったかという証拠でもある。しかしながら、僕はそれらの前にプレスティッジに録音された50年代前半の録音も結構好きなのだ。

 

 

マイルスのプレスティッジでの初アルバムは、リリース順では1951年の『ザ・ニュー・サウンズ』になるが、これは10インチ盤LPで僕は現物を見たことがない。その次が53年の『ブルー・ピリオド』でこれも10インチ盤。次いで同年にやはり10インチの『ザ・コンポジションズ・オヴ・アル・コーン』。

 

 

その後1954年『マイルス・デイヴィス・カルテット』、同年の三枚『マイルス・デイヴィス・オール・スター・セクステット』『マイルス・デイヴィス・クインテット』『マイルス・デイヴィス・アンド・ソニー・ロリンズ』、55年の『マイルス・デイヴィス・オール・スターズ』vol.1と vol.2 の二枚と、全部10インチ盤。

 

 

ここまで全てリアルタイム・リリースでは10インチ盤LPが続き、お馴染みの12インチ盤LPは1955年の『ザ・ミュージング・オヴ・マイルス』が初。この後は全て12インチLPなので、そのまま日本盤LPが出ていたし、CDでもほぼそのままの形でリイシューされているから僕もよく知っている。

 

 

最初の九枚の10インチ盤LPは僕は現物を見たことがなく、プレスティッジがそれらに収録されていた音源を今で言う 2in1のような形で12インチLPにしてリリースし、その後CDリイシューしているものしか見たり聴いたりしていない。自称マイルス・マニアがそれでいいのか?と言われそうだ。

 

 

その九枚の10インチ盤LP音源は、一曲残らず全て12インチ盤LPに再録されCDにもなっているので、音源そのものは不足なく聴くことができる。そういうプレスティッジの10インチ盤録音をまとめて12インチにしてリリースした最初のものが1956年リリースの『ディグ』だ。

 

 

『ディグ』は1951年10月5日のマイルスのプレスティッジへの二回目の録音が中心。マイルスのプレスティッジ初録音は同51年1月17日の四曲5テイクで、それらは他のものと併せ『マイルス・デイヴィス・アンド・ホーンズ』というプレスティッジの12インチ盤LP三作目に収録されている。

 

 

『マイルス・デイヴィス・アンド・ホーンズ』は僕にとってすらはっきり言ってあまり面白くない内容のアルバム。ジャケット・デザインもなんだかワケが分らない気持悪いものだなあ。実質的には『ディグ』こそがプレスティッジでのマイルスのスタートみたいな感じに見える。

 

 

『ディグ』は昔から評価が高く名盤選なんかにも載っていることがあるのでみなさんよくご存知のはず。僕もマイルスを知った最初の頃に買った。だからこれについては今日はあまり書く気はない。ハード・バップの夜明けとしていろんな人が褒めているから、いまさら僕なんかがなにも言う必要はないはずだ。

 

 

あまり言われないことを一つだけ書いておくと『ディグ』のリイシューCDラストに入っている1951年録音の「マイ・オールド・フレイム」(オリジナル12インチLPには入っていない)。これは間違いなくビリー・ホリデイの1944年コモドア録音盤の同曲からインスパイアされたものだ。

 

 

ちょっと音源を貼っておこう。「マイ・オールド・フレイム」マイルス・ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=FVxRxcV7iyw  ビリー・ホリデイ・ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=jDSUKQZbHEk  1956年以後のマイルスならハーマン・ミュートで吹いたところだろう。

 

 

「奇妙な果実」だけがやたらと名高いビリー・ホリデイの1940年代中期コモドア録音盤では、僕はその代表曲(と世間で言われているもの)よりも、こういう「マイ・オールド・フレイム」や「アイル・ビー・シーイング・ユー」(https://www.youtube.com/watch?v=9l44_n60QQ8)などの方が断然好きだ。

 

 

ビリー・ホリデイの話はおいといて初期プレスティッジ録音のマイルス。1956年10月リリースの『ブルー・ヘイズ』なんか全体的に音楽内容もかなりいいんだ。53年と54年の録音集。個人的にはプレスティッジのマイルスでは55年録音の『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』が最高ではあるけれども。

 

 

何度か書いているように『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』は4ビートでアクスーティック時代のマイルス・コンボ作品では僕が最も愛するアルバム(ビッグ・バンドものも含めればコロンビアの『マイルス・アヘッド』になるが)で、隠れた名盤だと信じている。個人的は隠れてすらいない。

 

 

僕にとってはレッキとした名盤なんだけど、しかしながら誰一人として『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』を推薦していないところを見ると、やはり隠れているんだなあ。僕はジャケットも好き。<うんちマイルス>などと言われ評判の良くないジャケットだけどね。確かに和式トイレでしゃがんでいるような格好だ。

 

 

この隠れ名盤の話は今までに何度か書いているので、今日は『ブルー・ヘイズ』の話。このアルバムなんて隠れているどころか埋れたままで、誰一人意識すらしないし、かなりのマイルス・ファンじゃなかったら存在すら知らないかもしれない。だけど内容はかなりいいぞ。このアルバムにはみなさんお馴染みの三曲が既にある。

 

 

「フォー」「ウェン・ライツ・アー・ロウ」「チューン・アップ」の三曲のことで、全て1956年のファースト・レギュラー・クインテットによるマラソン・セッションで再演している。「フォー」は『ワーキン』、他の二曲は『クッキン』に収録されていて名演として名高いマイルスの得意レパートリー。

 

 

それら三曲のうち「フォー」「チューン・アップ」の二つは、『ブルー・ヘイズ』でも『ワーキン』でも『クッキン』でもマイルスのオリジナル・ナンバーとなっているけれども、実はエディ・クリーンヘッド・ヴィンスンが自分の書いた曲だと主張していて、僕はヴィンスンが正しいんじゃないかと思っている。

 

 

エディ・クリーンヘッド・ヴィンスンはジャズとリズム&ブルーズの中間あたりで活動した人で、アルト・サックス奏者にして歌手。ジャンプ・ミュージックをやっていた例の1940年代クーティ・ウィリアムズ楽団を皮切に、50年代初期には自分のバンドにジョン・コルトレーンを雇ったりもしていた。

 

 

曲を本当に書いたのがマイルスなのかヴィンスンなのか、真相が今では分りにくいんだけど、とにかく『ブルー・ヘイズ』収録の「フォー」「チューン・アップ」、そして「ウェン・ライツ・アー・ロウ」は、数年後同じプレスティッジに再録したヴァージョンには及ばないものの、なかなか悪くない内容なのだ。

 

 

『ブルー・ヘイズ』の「フォー」も「チューン・アップ」も「ウェン・ライツ・アー・ロウ」も全てマイルスのワン・ホーン・カルテット編成だというのもいいんだなあ。「フォー」はピアノがホレス・シルヴァーでドラムスがアート・ブレイキー。他の二曲はジョン・ルイスのピアノにマックス・ローチのドラムス。

 

 

特に「フォー」でのホレスとブレイキーがいい。1954年録音だからジャズ・メッセンジャーズ結成直前で、例のクリフォード・ブラウンを擁するクインテットでバードランドでやったライヴが二枚のアルバムになったのと同じ時期だ。既にブラウニーに追越されちゃっているけれど、マイルスだって悪くない。

 

 

 

「フォー」は『ワーキン』収録ヴァージョンが『セイ・イット・ラウド!:ア・セレブレイション・オヴ・ブラック・ミュージック・イン・アメリカ』というボックス・セットに選ばれて収録されている。トップがスコット・ジョップリンのラグタイム「メイプル・リーフ・ラグ」で、ラストがラッパー、クーリオの曲という黒人音楽礼賛アンソロジー。

 

 

さてもう一枚僕の好きな初期プレスティッジ録音のマイルスが『ザ・ミュージング・オヴ・マイルス』という一枚。前述の通りリアルタイムではマイルス初の12インチLP盤。なんたって一曲目が大好きなマット・デニスの「ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン?」だもんね。いい曲なんだよね。

 

 

マット・デニスなんて硬派なマイルス・ファンやジャズ・ファンはバカにしているような気がするけれど、今で言うシンガーソングライターの走りみたいな人で、たくさんいい曲を創り、それを自分でピアノを弾きながら歌った人。『プレイズ・アンド・シングズ・マット・デニス』というライヴ盤なんか名盤だ。

 

 

そのマット・デニス自作自演ライヴ・アルバムでも「ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン?」が一曲目。「(たとえ世の中にどんなことが起っても)僕と一緒にいてくれるかい?」と」歌う歌詞の、その起ることの例が面白い歌詞内容の曲なんだけど、マイルスのは当然インストルメンタル演奏。

 

 

 

 

 

三曲目の「ア・ギャル・イン・キャリコ」はアーサー・シュウォーツの書いたポップ・ソングで、マイルスはそれをハーマン・ミュートでチャーミングに吹くし、アルバム・ラストのブルーズ曲「グリーン・ヘイズ」は大変にブルージーでいい。ワン・ホーン・カルテット編成で、ピアノとドラムスが既にレッド・ガーランドとフィリー・ジョー・ジョーンズだ。

 

 

「ア・ギャル・イン・キャリコ」https://www.youtube.com/watch?v=UGRQMA7ayfM

 

「グリーン・ヘイズ」https://www.youtube.com/watch?v=_Gt3X51eYMM

 

 

名盤選なんかにもよく載っている『ディグ』と違って、『ブルー・ヘイズ』とか『ザ・ミュージング・オヴ・マイルス』なんかはマイルス・マニアですら誰一人話題にすらしていない。確かに時代を形作ってもいなければ後世に全く影響も与えていないけれど、音楽の楽しみってのはそればっかりじゃないもんね。

 

 

数日前に届いたばかりの新しいマイルス本『MILES:Reimagined 〜 2010年代のマイルス・デイヴィス・ガイド』でも、やはりこのあたりはガン無視だったな。そういう方向性の本じゃないから文句言うのは筋違いなんだけどね。

2016/07/14

マルディ・グラ・インディアンのプリミティヴかつモダンなグルーヴ

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ニューオーリンズにマルディ・グラ・インディアンという人達がいる。インディアンといっても北米大陸先住民ではなくアフリカ系、すなわち黒人だ。どうしてニューオーリンズの黒人達が「インディアン」と名乗るようになったのかは説明が面倒くさいので、調べてみてほしい。

 

 

とにかくフランス植民地時代のフランス系植民者がニューオーリンズに持込んだマルディ・グラ(謝肉祭)の際に、グループ(レベラー)を組んで仮装してカーニヴァルでパレードをす黒人集団がマルディ・グラ・インディアンで、個々の集団をトライブと呼び、現在では50〜60個のトライブが存在するらしい。

 

 

マルディ・グラで彼らが練歩く様子は僕は写真でしか見たことがない。僕のもっぱらの興味は言うまでもなく彼らのやる音楽。最初はニューオーリンズのコンゴ・スクエアで行われていたものを発祥とする打楽器アンサンブルとそれに乗せての歌のコール&リスポンスで、それをやりながらパレードしていたらしい。

 

 

ってことは奴隷として北アメリカ大陸に強制移住させられたアフリカ人たちが、そのアフロ・ルーツを色濃く出した音楽だったってことかなあ?わずかに読みかじる知識では、かつて奴隷解放前もニューオーリンズのコンゴ・スクエアでの毎日曜日にはまあまあ自由な音楽活動が許されていたんだそうだ。

 

 

ただしマルディ・グラ・インディアンの音楽が鮮明に分るようになるのはもちろん録音がはじまってからで、しかもそれはそんなに昔の話ではない。有力トライブの一つ、ワイルド・マグノリアスが1970年に一枚のシングル盤レコード「ハンダ・ワンダ」をリリースしたのが僕の知る最初ということになる。

 

 

マルディ・グラ・インディアンの音楽はもちろんもっとずっと歴史が古い。遅くとも19世紀半ばにはトライブでパレードしていたようだから、当然その頃から音楽を伴っていたはず。だからどうして1970年まで録音がないのかちょっと不思議だ。僕が知らないだけであったりするのだろうか?

 

 

とにかくワイルド・マグノリアスの1970年「ハンダ・ワンダ」が最初のレコードで、このトライブは続いて74年にファースト・アルバム『ザ・ワイルド・マグノリアス』をリリースした。録音は前年73年。これの一曲目が「ハンダ・ワンダ」なんだけど、それは70年のシングル盤と同じ音源なのだろうか?

 

 

その『ザ・ワイルド・マグノリアス』一曲目の「ハンダ・ワンダ」は既に打楽器アンサンブル+チャントのみというプリミティヴなものではない。ドラムセット、エレベ、エレキ・ギター、ピアノ等キーボードなどが賑やかに入る完全なるモダン・ポピュラー・ミュージックだ。同時代のファンクにソックリ。

 

 

 

さらにサックスのソロも出る。リード・ヴォーカルは1964年以来ワイルド・マグノリアスのビッグ・チーフ(酋長)であるセオドア・ボ・ドリスで、「ハンダ・ワンダ」の作曲者もボ・ドリスになっている。1970年代の電化ファンク・サウンドに乗って、リード・ヴォーカルとコーラス隊とのコール&リスポンスが聞える。

 

 

一曲目の「ハンダ・ワンダ」だけでなく『ザ・ワイルド・マグノリアス』収録曲はどれもこれもモダンなファンク・ミュージックなんだよね。なかにはトラディショナルとクレジットされている曲もあって、一番有名なのは六曲目の「セインツ」だろう。こういう曲名になっているけれど「聖者の行進」だ。

 

 

「聖者の行進」の焼直しである「セインツ」では、最初エレベのファンキーなラインが出て、打楽器が入り、他のバンド・メンバーも演奏をはじめグルーヴしはじめると、ボ・ドリスの声で「オ〜、ウェン・ザ・セインツ・ゴー・マーチン・イン」と歌いはじめるのが聞える。その後の歌詞は独自のものだなあ。

 

 

 

しかしこんな「聖者の行進」は僕は聞いたことがない。完全にファンク化されていて、ファンキーなエレベ・ライン、エレキ・ギターのグチョグチョと鳴るカッティング、デジタル・キーボードのサウンドなど、伝統的ゴスペル・スタイルやジャズ歌手のヴァージョンで馴染んでいるとビックリする。

 

 

僕なんか最初に『ザ・ワイルド・マグノリアス』を聴いた時、その六曲目「セインツ」が「聖者の行進」であることにしばらく気付かなかったくらいだ。ただし「セインツ」でも伝統的になる部分があって、曲の終盤に打楽器以外の楽器の音が止み、パーカッション+ヴォーカル・コーラスのみとなる部分がある。

 

 

僕はそのプリミティヴなサウンドになる部分で初めてこれが「聖者の行進」だと気付いたくらいだ。そのまま曲が終るんだけど、そこまでの部分は電気楽器が派手に鳴るファンク・サウンドだからなあ。ファンキーなアレンジはこの曲含めアルバム収録曲全てキーボードのウィリー・ティーが担当している。

 

 

アナログLPではその六曲目の「セインツ」で終りだったらしいが、僕はそれを知らない。CDリイシューで初めて買ったバンドだからだ。そしてリイシューCDには他に五曲追加されていて、そのうち四曲は<トラディショナル>とクレジットされている。有名なニューオーリンズ・スタンダード「アイコ・アイコ」もある。

 

 

リイシューCDで追加された五曲のなかで一番興味深いのは、アルバム全体の九曲目「ゴールデン・クラウン」じゃないかなあ。これも伝承歌とのクレジットだけど、この曲では打楽器以外の楽器は一切入らない。聴いた感じ多分ドラムセットも入っておらず、伝承打楽器アンサンブル+チャントのみという構成。

 

 

 

その伝承打楽器+歌だけで構成されている「ゴールデン・クラウン」も、歌はリードを取るボ・ドリスとコーラス隊とのコール&リスポンス形式。その背後で(おそらくは)アフリカ由来の伝承打楽器が鳴り続けている。最初は打楽器と歌だけだったというコンゴ・スクエアでのマルディ・グラ・インディアンの音楽はこんな感じだったんだろうか?

 

 

初期の彼らの音楽は録音がないんだから実際に聴いて確認することはできないけれど、おそらくはこんな感じだったのかな?と想像を逞しくすることができる九曲目の「ゴールデン・クラウン」。しかしその冒頭はプリミティヴな雰囲気だけど、すぐにアンサンブルになる打楽器のみのリズムは現代的グルーヴにも聞える。

 

 

「ゴールデン・クラウン」のモダンなファンク・グルーヴに近い打楽器のみのアンサンブルを聴いていると、プリミティヴにしてかつモダンであるというアフリカ音楽の洗練を感じるんだなあ。グルーヴ感が現代ファンクのそれに近いってことは、こういうリズムは昔からあったってことなのかなあ?

 

 

「ゴールデン・クラウン」はワイルド・マグノリアスの1988年作『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』でも再演している。これは最初の二枚の後しばらくアルバム・リリースから遠ざかっていた彼らの久々の復帰作で、僕はファースト・アルバムの次に好きなものだ。

 

 

『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』五曲目の「ゴールデン・クラウン」も、ファースト・アルバムのヴァージョンと同様打楽器とチャントのみという構成で同じような音楽なんだけど、リズムがよりシャープでタイトになっていて、こっちの方が一般のファンク・リスナーにはウケるだろう。

 

 

『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』には三曲目に「アイコ・アイコ」のこれまた再演があって、それも打楽器アンサンブルとヴォーカルのコール&リスポンスのみで、しかもグルーヴィーでファンキー。ファースト・アルバム収録ヴァージョンはなぜだか4ビート・アレンジで、エレベがウォーキング・ベースを弾いていた。

 

 

『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』にはプロフェッサー・ロングヘアにちなんだ曲も二つ入っている。六曲目の「ティピティーナ」と九曲目の「ビッグ・チーフ」だ。どっちもリバース・ブラス・バンドが参加している。このブラス・バンドはアルバム中他にも多くの曲に参加していて賑やかでイイ。

 

 

なおファースト・アルバムでも『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』でもエレキ・ギターを弾くのはお馴染みスヌークス・イーグリン。後者でのエレベはあのミーターズのジョージ・ポーター・Jr だ。ファンキーなんだよね。ファースト・アルバムのベース、ジュリアス・ファーマーもかなりカッコイイけれど。

 

 

また『アイム・バック・・・アット・カーニヴァル・タイム!』の次作1996年の『1313 フードゥー・ストリート』には、既にニューオーリンズに移住していたギタリスト山岸潤史が参加してエレキ・ギターだけでなくキーボードも弾いている。キーボードの腕の方はよく分らないが、ギターは超カッコイイよ。

 

 

『1313 フードゥー・ストリート』は二曲目がルイ・ジョーダン・ナンバーの「ラン・ジョー」だ。この曲はニューオーリンズの音楽家がやることがあるよね。ダーティ・ダズン・ブラス・バンドもやっているアルバムがある。ってことはこの「逃げろ、ジョー!」てのは逃亡奴隷のことなんだろうか?

 

 

ニューオーリンズの黒人奴隷逃亡は、その後彼らが「インディアン」と名乗るようになる事情と深く結びついているのだが、それは事がやや入組んでいるのとはっきりしない部分もあるので僕もイマイチ分っておらず、だから最初に書いたように説明がちょっと面倒くさい。みなさんで調べてみてほしい。

2016/07/13

関係ないでしょ

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「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」という古いブルーズ・ソング。僕は大学生の頃にベシー・スミスのヴァージョンで知った曲。それは1923年録音でピアノ伴奏はクラレンス・ウィリアムズ。いやあ、ベシーのこういう歌は何回聴いても本当にいいなあ。

 

 

 

「エイント・ノーバディーズ・ビジネス(・イフ・アイ・ドゥー)」ってのは、要するに「(私がなにをしようと)他人には関係ないでしょ」「そんなの勝手でしょ、だから放っておいてちょうだい」とかその程度の意味で、ベシーの歌う歌詞を聴いてもそんなフレーズが繰返し並んでいる。

 

 

この古いブルーズが僕は本当に大好きで、いくつくらい持っているんだろうと iTunes ライブラリ内を検索してみたら27個出てきた。もっとも “Ain’t” が “T’aint” だったり “Business” が “Bizness” だったり “Biz-Ness” だったりする。

 

 

だからちょっとずつスペリングを変えながら何度か検索を繰返して27個見つかったので、それらを全部一つのプレイリストにして録音順に並びかえてちょっと聴いてみた。僕が持っている一番古い「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」はオリジナル・メンフィス・ファイヴのヴァージョンだ。

 

 

オリジナル・メンフィス・ファイヴのヴァージョンで歌っているのはアナ・メイヤーズで1922年録音。調べてみたらこれがこの曲の史上初録音らしい。完全に1920年代クラシック・ブルーズのスタイルだけど、そんなには黒い感じがしないよね。

 

 

 

アメリカ黒人音楽は時代を遡れば遡るほど黒さとかブルージーさが薄くなっていく。逆に時代が進むほど黒さが濃厚に出てくるというか取戻したというようなことになっていて、これはちょっと面白い事実だ。昔はあまり黒さを露骨に打出すと、多くの白人リスナーに敬遠されたってことかなあ。

 

 

社会的にも黒人がアメリカの一般社会で占める地位が低くて、人種意識を全面的に打出して権利拡大(というか普通化)を叫びながら運動するようになった1960年代以後じゃないかな、音楽的にも真の意味で本当にブラックネスが強く出てくるようになるのは。つまりソウルやファンク・ミュージック以後だ。

 

 

だから20世紀初頭の商業録音開始当時の黒人音楽家たちは、多くの場合は白人であったろうメインの音楽購買層にアピールしないとレコードが売れないもんだから、そのためにやはり音楽的な黒さを薄めていたかもしれない。僕が1920年代のクラシック・ブルーズを聴いてもさほど強くは黒さを感じないのもこのせいだなあ。

 

 

もっともそのちょっと後に録音するようになるアメリカ南部のカントリー・ブルーズは真っ黒けなんだけど、これはおそらく(ジューク・ジョイントなど現場の)聴衆の大半が同じ黒人で、黒人コミュニティ内で育まれてきたものだったからなんだろう。その黒いフィーリングをそのままレコードにしたんだろうね。

 

 

それに対しブルーズ界では最も早く商業録音を開始した1920年代初期のクラシック・ブルーズの歌手たちは全員大都会で活動していて、必ずしも黒人コミュニティ内だけに存在していたような人達ではなかった。カントリー・ブルーズメンと違って全員専業のプロ歌手だったから、食べていかなくちゃいけない。

 

 

そんな話はともかく「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」。僕が持っている最も古いアナ・メイヤーズとオリジナル・メンフィス・ファイヴの初録音に続くものは、1923年2月録音のアルバータ・ハンター・ヴァージョンで、それもオリジナル・メンフィス・ファイヴの伴奏で歌っているんだよね。

 

 

アルバータ・ハンター・ヴァージョンがどう探しても YouTube で見つからないのが残念だけど、これは先に音源を貼ったアナ・メイヤーズ・ヴァージョンにソックリなのだ。前の年に出たそのレコードを聴いていただろうということと、伴奏者が同じだから同じアレンジを持込んだんだろう。

 

 

アルバータ・ハンターの次が最初に音源を貼ったベシー・スミスのバージョン。同じ1923年だけど、ベシーの方は四月録音だから二ヶ月だけ遅い。でもこれは当時の事情からすれば同時期と言っていいんじゃないかな。録音時期が二ヶ月しか違わないんだから、録音時のベシーはアルバータ・ハンターのレコードは聴いていなかったはず。

 

 

最初の二つが管楽器なども入るジャズ・バンドっぽい伴奏なのに対し、ベシーのはピアノ伴奏だけというアレンジ。直後にフレッチャー・ヘンダースンとその楽団がベシーの伴奏を務めるようになるが、ベシーの最初の録音八曲は全てクラレンス・ウィリアムズのピアノ伴奏だけで、彼のいろんな意味での貢献も大きい。

 

 

僕はそのベシーのヴァージョンこそが「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」というブルーズ・ソングを全米で広めたものだろうと長い間思っていた。実際ビリー・ホリデイが(二回も)これを録音したり、またダイナ・ワシントンも歌ったりしたのは、明らかにベシーの影響だ。

 

 

ビリー・ホリデイはなんでも10代の頃にベシーの「ケアレス・ラヴ」が大好きで、これやその他ベシーのレコードをかけながら娼家の雑巾がけをしていたという話が残っているくらいだし(それにしては歌い方はそうでもないけれど)、ダイナ・ワシントンだってベシー曲集を出しているくらいだ。

 

 

しかしこの「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」を最も広く普及させたのはジミー・ウィザースプーンだということだ。かのジャンプ・ブルーズ歌手。それが1949年のことで、ジェイ・マクシャン楽団との共演で歌ったそのレコードがヒットしたらしい。そのヴァージョンは僕は持ってないんだなあ。

 

 

僕が持っているジミ−・ウィザースプーンの「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」は1956年アトランティック録音の『ニュー・オーリンズ・ブルーズ』収録のだけ。それを聴くとこれもやはりジャンプっぽいジャズ・バンドの伴奏で、クラリネットやワーワー・ミュート・トランペットが聞えたりする。

 

 

そしてそれまではだいたい “T’ain’t” だったり、あるいは略さずに “It Ain’t” だったりした曲名が “Ain’t” になったのが、そのジミー・ウィザースプーンの1949年録音のレコードからなんじゃないかなあ。これ以後はだいたい全部そうなっているもんね。

 

 

そのジミー・ウィザースプーンのヴァージョンと、そしておそらくはそれに影響を受けてB.B. キングも歌ったりした(BBはよくジャンプ・ブルーズ系の曲をカヴァーしているよね)ので、それで世間一般に広く「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」という曲が広まったってことなんだろうなあ。

 

 

この曲をライヴで繰返し採り上げて歌っているフレディ・キングも、1974年のライヴではバンドの演奏に乗ってギターを弾きつつ、曲紹介で「ジミー・ウィザースプーンのレコードで聴いた曲なんだよ。B.B. キングもやってるね」と言っている。そしてヴォーカル部分よりギターの長いソロが中心。

 

 

もちろんジャズ歌手もたくさん歌っている「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」で、エラ・フィッツジェラルドとかアビー・リンカーンとかその他いくつもあるけれど、それらはだいたいビリー・ホリデイのヴァージョンに即したような感じになっている。インストルメンタルものも少しあるが全部イマイチだ。

 

 

そんな感じでジャズ系歌手は主にビリー・ホリデイのを、ブルーズ系歌手は主にジミー・ウィザースプーンのヴァージョンのを参考にしながら歌っているような「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」。しかしここにそれら二つの流れを一つの演唱の中に合体させたような人がいる。他ならぬエリック・クラプトンだ。

 

 

悪名高い1993年のブルーズ・アルバム『フロム・ザ・クレイドル』を引っさげてのブルーズ・ライヴ・ツアーで、クラプトンは実に頻繁に「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」をやっている。しかし僕が持っているのはライヴ・ヴァージョンではない。公式ライヴ盤にはなっていないはずだ。

 

 

その1994年のブルーズ・ライヴ・ツアーのためにスタジオでリハールをやっている音源がブートCDになっていて、『ザ・ラスト・リハーサル 94』というもの。僕はなぜかこれを持っている。なにか他のロック音楽家のブートを買いに西新宿の魔境に分け入った際に見つけて買ったんだろう。

 

 

言うまでもなくクラプトンのブルーズ・ライヴ・ツアーのリハーサルそのものは眼中にない。なんとなくブート・ショップの棚を漁っていて、なんと「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」をやっているじゃないか!これは『フロム・ザ・クレイドル』にはないぞ、こりゃいったいどんな感じなんだろう?と興味を持ったんだなあ。

 

 

それは最初ピアノ伴奏だけで歌いはじめるのだが、その際の歌が出る前のピアノ・イントロがベシー・スミス・ヴァージョンのクラレンス・ウィリアムズのフレイジングをソックリそのままコピーしているんだよね。間違いなくクラプトンの指示によるものだ。

 

 

 

しかもそのピアノだけの伴奏(ちょっとだけ小さくスネアのリム・ショットが聞えるが)に乗って歌うクラプトンのヴォーカルもベシーのヴァージョンをよく真似ているもんね。フレイジングも似ているし、特に一区切りごとに「ドゥー、ドゥー」と二回か三回繰返すあたりはベシーの丸コピーじゃないか。

 

 

そのクラプトンの歌の背後でのピアノ伴奏のフレイジングやストップ・タイムを使ったりするのもベシーのヴァージョンそのまんまなんだよね。そして上で貼った音源をお聴きになればお分りの通り、歌い終るとクラプトンはやおらエレキ・ギターでソロを弾きはじめ、その部分ではホーン・セクションの伴奏も入る。

 

 

そしてそのエレキ・ギターのソロはフレディ・キングのヴァージョンによく似ているもんね。ってことは1994年のクラプトンは、この曲を前半はクラシック・ブルーズ風にやり、後半はモダン・ギター・ブルーズでやって、それを言わば繋げて合体させたようなアレンジだってことだなあ。

 

 

こりゃちょっと面白いんじゃないだろうか。クラシック・ブルーズとモダン・ギター・ブルーズの合体融合。1990年代以後のクラプトンがやるブルーズを褒めることの全くない僕だけど、この「エイント・ノーバディーズ・ビジネス」だけは良いと思うなあ。YouTube にたくさん上がっているライヴ本番のはやはりイマイチなんだけどね。

 

 

どうも本番になるとクラプトンもちょっと力んじゃってるんだなあ、ご多分に漏れずこの曲でもいつものように。それでヴォーカルもガナったりしているんだけど、上で貼ったのはリハーサルのヴァージョンだからリラックスしているってことなんだろうね。最近のクラプトンのブルーズにもまあまあ悪くないのがあるじゃないの〜(笑)。

2016/07/12

こんな日本民謡聴いたことない

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坂田明の2001年作『Fisherman's.com』って大傑作なんだけど、そういうことを書いてある文章は今でもかなり少ないというかどう探しても殆ど見つからない。リリース当時も話題にならなかった。しかしこれこそ坂田の最高傑作じゃないの?

 

 

『Fisherman's.com』は全四曲中三曲が日本民謡(「貝殻節」「音戸の舟唄」「斉太郎節」)で、残り一曲が演歌(「別れの一本杉」)。CDショップ店頭でこれを見た時、坂田がどんな音楽をやっているのかサッパリ想像できなかったなあ。

 

 

ただ参加しているミュージシャンが、ピート・コージー、ビル・ラズウェル、ハミッド・ドレイクの三人で、2001年当時ハミッド・ドレイクは知らないドラマーだったけれど、あとの二人はよく知っている名前だったので、まあ電気・電子楽器を使ってのファンク〜ヒップホップっぽいものかもなとは思ったんだよねえ。

 

 

でもそれら四曲の日本民謡や演歌をピート・コージーやビル・ラズウェルを起用してどう料理しているのかは、当時の僕には全然想像できなかった。でもこれは絶対面白いに違いないと買って帰って聴いてみたら、これがとんでもなく物凄くてぶっ飛んじゃったんだなあ。最高に素晴しかった。

 

 

演歌は昔から好きなものがたくさんある僕だけど、日本民謡に関しては今でもかなり疎い。とはいえ少しだけ聴くようになっているのは完全にこの『Fisherman's.com』のおかげなのだ。一回目に聴いてみて知っていたは三曲目の「斉太郎節」だけだった。

 

 

「斉太郎節」は「まつしまぁ〜の、さ〜よ〜、ずいがんじほ〜ど〜の〜」とはじまるお馴染みの宮城県民謡で、これだけは聴いて、アッ、これは知ってるぞと思ったのだった。他の「貝殻節」「音戸の舟唄」は知らなかったが、その後調べてみたら前者は鳥取県民謡、後者は広島県民謡なんだね。

 

 

ラストの演歌「別れの一本杉」は春日八郎で有名なので、子供の頃からテレビの歌謡番組でよく見聴きしていた。ちあきなおみも歌っていたし。でもまあこういう日本民謡や演歌をアメリカ人ジャズ系ミュージシャンを起用して現代風にやってみるというのは、どういう思いつきだったんだろう?

 

 

仕上ったアルバムを聴くと完全に21世紀の最先端サウンドになっていて、聴いた感じでは知らなかったドラマー、ハミッド・ドレイクが肝なんじゃないかと思える。サウンド創りのリーダーシップを執っていたのはビル・ラズウェルに違いないけれど、ハミッドの叩出すビートがカッコイイ。

 

 

ファンクだろうけれどヒップホップに通じるような感覚もあって、ヒップホップな日本民謡なんて僕はこのアルバム以外では聴いたことがない。三曲ともその後いろんなストレートな民謡ヴァージョンを聴いたんだけど、坂田明の解釈はちょっと考えられない出来上りだ。よくこういうのができたもんだなあ。

 

 

アルバム中一番面白いと僕が思っているのが二曲目の「音戸の舟唄」→ https://www.youtube.com/watch?v=p0qQr4dYqCM トラディショナルな感じだとこんな風→ https://www.youtube.com/watch?v=EP7C1fcPVKY ホント坂田のヴァージョンはとんでもなくぶっ飛んでいるよなあ。リズムの感じがカッコイイじゃん。

 

 

その他三曲。

 

 

 

 

 

今聴くとトラディショナルなヴァージョンも相当面白くて好きなんだけど、坂田のはなんなんだこれ?最初にシンセサイザーの音が聞えるけど、それはビル・ラズウェルが弾いている。坂田が歌い始めるとグイグイと引込まれ、ハミッド・ドレイクが細かいビートを叩出すともう完全に最先端の音だよね。

 

 

ビル・ラズウェルはもちろんベースも弾いているんだけどさほど目立っていない。むしろシンセサイザーでの貢献の方が大きいんじゃないかなあ。ピート・コージーのギターはマイルス・デイヴィスの『アガルタ』『パンゲア』以来大ファンなんだけど、やはりそんなに目立っている感じでもない。

 

 

主役はあくまで坂田の歌とサックス、そしてハミッド・ドレイクのドラムスだ。普通のジャズ系リスナーには坂田のサックスが聴き所なんだろうけど、僕にはヴォーカルの迫力の方が勝ってるんじゃないかと思える。聴いた感じではおそらく歌とサックスはオーヴァー・ダビングしているだろう。

 

 

いろんな民謡歌手によるトラディショナルな「貝殻節」「音戸の舟唄」「斉太郎節」を聴くと、そっちの方が歌自体ははるかに素晴しいと実感するんだけど、坂田の歌だって迫力あって悪くないよね。でもまあ歌のあとにサックスが鳴りはじめると、やはりこちらが本職の人だよなとは思うんだけどね。

 

 

坂田のサックスはもちろん僕も山下洋輔トリオ時代からファンだった。といっても坂田の山下洋輔トリオ時代は1972〜79年なので僕はリアルタイムでは殆ど知らない。後になっていろいろと聴くようになっただけで、しかもこのトリオでは僕は前任者の中村誠一のテナーの方が好きだったりする。

 

 

僕が何度も話に出す松山のジャズ喫茶ケリー。そこのマスターが僕よりちょうど一廻り年上なので山下洋輔トリオをリアルタイムで体験していた。店では戦前ジャズしか絶対にかけなかったので店で聴くことはなかったんだけど、話はよく聴いていたし自宅に遊びに行くと山下洋輔トリオのレコードをかけてくれた。

 

 

それで僕も山下洋輔トリオを聴き、その時代の坂田明のファンになったのだ。あるいは他のジャズ喫茶では彼らのレコードをかけるところもあった。正直に言うと僕が一番気に入っていたのは、山下洋輔でも中村誠一でも坂田明でもなく森山威男のドラムスだった。日本人ドラマーでは一番好きな人。

 

 

坂田もそういう森山威男みたいなドラマーの叩くビートに乗ってサックスを吹いていた人だから、『Fisherman's.com』でのハミッド・ドレイクの叩出す21世紀の最先端のビート/リズムに乗って歌ったりサックスを吹いたりできたんだろうなあ。

 

 

ビル・ラズウェルとピート・コージーはお馴染みの人達だから想定内のプレイなんだけど、初めて聴いたハミッド・ドレイクのドラミングに驚いて調べたり聴いたりしたら、ドン・チェリーとの共演を手始めに、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップなどフリー系の活動が目立つ。

 

 

ハミッド・ドレイクは1955年生まれだから『Fisherman's.com』の時は一番脂が乗っていた時期だよねえ。彼は、あるいは他の二人も、それまで日本民謡を聴いたことがあったのだろうか。坂田はもちろん馴染んでいるものだっただろうけど。

 

 

『Fisherman's.com』はライナーノーツをなかにし礼が書いていて、あまり好きな人じゃないんだけど「アジアとヨーロッパの合体に成功した」とか「日本人のなかで分断されてきた伝統的な民謡や演歌等と現代の西洋音楽を合体」などの言葉がある。

 

 

そうなんだろうけど、やはりちょっとそれもなあ。ちょっと前から流行りらしい<グローカル・ビーツ>という言葉があるけれど、サカキマンゴーさんの『オイ!リンバ』やOKIさんの『UTARHYTHM』同様、日本人によるものでは坂田明の『Fisherman's.com』なんかまさにこの言葉にピッタリ。

 

 

グローカル・ビーツという言葉を使うライターさん達が坂田明の『Fisherman's.com』に言及しているのって、ただの一つも見たことないんだけど、こういうのをちゃんと聴いて評価してほしい。彼らだけでなく当時も今も殆ど褒められないアルバムなんだけど、傑作だよ。

2016/07/11

AORをバカにするな

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用語それ自体は好きではないAOR(アダルト・オリエンティッド・ロック)。しかしこれに分類される音楽はかなり好きな僕ではある。言葉だけがどうして好きではないのかというと、音楽にオトナもコドモもないし、だいたいティーネイジャーにウケるような音楽こそいいものなんじゃないかと思ったりするからだ。

 

 

10代半ば〜20代前半あたりの世代こそ一番音楽的感受性が敏感で、ポップ・エンターテイメントである大衆音楽を最も楽しんでいる人達なんじゃないかと思うんだよね。そしてもっと歳を重ねると余計なことをいろいろ考えはじめたりして、シンプルに音を聴いて体を揺すったりするだけじゃなくなったりする。

 

 

ジャンルを問わず歌手や演奏家だって10代前半でデビューするのは当り前。美空ひばりもエスター・フィリップス(リトル・エスター)も鄧麗君も12〜14歳くらいでレコード・デビューして、そういう<子供>の歌に大人が心を揺さぶられたりしたわけだ。音楽は大人(だけ)のものじゃないってことだよね。

 

 

そういうわけだから、あんまり「大人のロック」だとか、そんなタイトルの音楽雑誌もあったりするらしいのだが、そういうものは個人的にはあまり信用できないなと思っているんだけど、それに分類されて扱われている音楽それ自体には罪はない。大好きなものがたくさんあるのだ。

 

 

だいたい僕は大のフュージョン好きで、1979年に熱心に音楽を聴きはじめた頃はまだまだフュージョンが流行していて、そういう音楽をたくさん聴いてきた人間なんだから、AORが嫌いなんてことは有り得ない。歌が入るか入らないかの違いだけで、ほぼ同じような音楽だろうと思う。

 

 

そしてAOR歌手の代表のように言われているのがお馴染みボズ・スキャッグズ。僕もかなり好き。と言ってもその路線のアルバムは、恥ずかしながら超有名な『シルク・ディグリーズ』一枚しか聴いていないんだけど、いいアルバムだよねえ。しかしこのボズ・スキャッグズは最初はAORの人ではなかったということになっている。

 

 

最初はAORの人じゃなかったという例証として必ず名前が挙るのが1969年のファースト・ソロ・アルバム『ボズ・スキャッグズ』だね。この前に一枚あるので正確にはセカンド・ソロ・アルバムなんだけど、それはスティーヴ・ミラー・バンド前だからなあ。

 

 

それにその1965年の『ボズ』はスウェーデンでレコーディングされ最初は同国でだけリリースされたもので、その後ヨーロッパでは流通したがそれ以外の地域では発売されず、いまだにCDリイシューすらされていない(はず)。だから幻のデビュー・アルバムで、ボズもスティーヴ・ミラー・バンドで名を上げた人だからなあ。

 

 

だから実質的にはメンフィスのマスル・ショールズ・スタジオで1969年にレコーディングされ発売された『ボズ・スキャッグズ』がファースト・ソロだと言ってもいいだろう。しかしこれ、発売当初は売れずすぐに廃盤になってしまったらしい。これが知られるようになったのは70年代半ば以後だ。

 

 

いわゆるAOR路線の1976年『シルク・ディグリーズ』が大ヒットしたのを受けて、77年にアトランティックが『ボズ・スキャッグズ』をリイシューしたのが、おそらくはこのデビュー・ソロ・アルバムが広く知られた最初。でもこの際のリイシューにはちょっと問題もあった。ミックスを変えちゃったのだ。

 

 

1969年オリジナル『ボズ・スキャッグズ』のミックスはスタックスのエンジニア、テリー・マニング。しかし77年アトランティックのリイシューLPは別のミキサーがやり直して、デュエイン・オールマンのギターを前面に出した新ミックスで発売されたのだった。その後はリイシューCDも全部それ。

 

 

だから僕も長年1977年ミックスでしか『ボズ・スキャッグズ』を聴いていなかった。オリジナル・ミックスを初めて聴いたのが今年2016年発売の日本盤リイシューCDでのことで、だからいまごろこの文章を書いているという次第。そのオリジナル・ミックスは2013年に初めてCDになったそうだ。

 

 

というようなことが2016年リイシューの日本盤『ボズ・スキャッグズ』のライナーノーツを書いている五十嵐正さんの文章にある。そういうわけで現在僕の手許には1977年ミックスの旧盤との両方がある。改めて聴き比べてみたが、評判が悪いとされているらしい旧盤との違いは言われるほど大きくもないような。

 

 

だからどっちもでいいような気がしないでもないのだが、どっちでもよくないと思うのはこのデビュー・ソロ・アルバムの日本盤タイトルがいまだに『ボズ・スキャッグス&デュアン・オールマン』になっていることだ。デュアンはデュエインかドゥエインだということではない。どうして共作みたいな感じになっているんだ?

 

 

硬派な黒人音楽〜ロック・リスナーにとってはデュエインのギターこそが聴き物で、1977年ミックスもそれを大きめにするというもので、それこそがこのアルバムのウリとされてきたから、日本盤も昔の初回盤以来現在に至るまで『ボズ・スキャッグス&デュアン・オールマン』表記になっているのは分らないでもない。

 

 

だけどこりゃ今ではちょっとあんまりじゃないだろうか。まるでそうでもしないと売れないとでも言いたげじゃないか。ボズのヴォーカルだってかなりいいぞ。デュエインは1969年当時マスル・ショールズの常駐ミュージシャンだったから参加しただけで、彼をフィーチャーしたわけじゃない。

 

 

アルバム中一番有名な、オリジナルLPではB面二曲目の「ローン・ミー・ア・ダイム」が12分以上もあるもので、確かにこの曲はデュエンのギターが大活躍するもの。ブルーズ〜R&Bっぽいこの曲こそ多くのファンにとっては『ボズ・スキャッグズ』の聴き物で、彼がAORの人じゃないという好例になるんだろう。

 

 

しかも「ローン・ミー・ア・ダイム」は黒人ブルーズマン、フェントン・ロビンスンの1967年「サムバディ・ローン・ミー・ア・ダイム」のカヴァー(だけどクレジットはされなかった)だから、余計に一層ボズ・スキャッグズはブルーズ〜R&B オリエンティッドな音楽家だという例証になっちゃうんだな。

 

 

もっともボズ自身はエルヴィン・ビショップ・ヴァージョンでこの曲を知って採り上げたらしく、しかもエルヴィン自身が誰のオリジナル曲なのか知らなかったんだそうだから、当時のボズがクレジットできなかったのも無理はない。一般にフェントン・ロビンスン・ヴァージョンが有名になるのは1974年の再演以後だろう。

 

 

そして「ローン・ミー・ア・ダイム」という曲を大きく世に普及させたのがやはりデュエインのギターなんだろうから、この曲だけが大きく注目されて、デュエインの名前がまるでアルバムの共作者みたいにクレジットされ、ボズはAOR歌手じゃない、ブルーズ歌手だという主張もでてくることになる。

 

 

しかしアルバム『ボズ・スキャッグズ』全体をよく聴くと必ずしも黒人音楽要素ばかりじゃないんだよね。というかそれはむしろ多くないと言った方が適切なんじゃないかなあ。ブルーズ〜R&B風な曲は「アイム・イージー」「アイル・ビー・ロング・ゴーン」「ルック・ワット・アイ・ガット」くらいだ。

 

 

それらに加え前述の「ローン・ミー・ア・ダイム」とそれら四曲だけが黒人音楽的な曲で、しかもそれらだって「ローン・ミー・ア・ダイム」以外は全部泥臭くもなくソウルフルでもなくブラック・フィーリングも強くなく、かなり洗練された都会風サウンドだよなあ。南部的ではあるけれど、ファンキーさは僕は感じない。

 

 

南部的と言えば『ボズ・スキャッグズ』には二曲のカントリー・ナンバーがある。「ナウ・ユーヴ・ゴーン」と「ウェイティング・フォー・ア・トレイン」の二つ。カントリー・ミュージックそのまんまなペダル・スティール・ギターやフィドルも聞えるし、リズムもサウンドもボズの歌い方もカントリー風なんだよね。

 

 

「ナウ・ユーヴ・ゴーン」はボズのオリジナルだけど、「ウェイティング・フォー・ア・トレイン」はかの有名なカントリー・ミュージシャン、ジミー・ロジャーズのカヴァーで、ボズもジミー・ロジャーズそっくりなヨーデルを聴かせるくらいだ。ボズはオハイオ生れだけど育ちはテキサスの南部人だからなあ。

 

 

そしてデュエインもそれらカントリー・ナンバー二曲ではリゾネイター・ギターをスライドで弾くというような具合。アルバム・ラストの「スウィート・リリース」は今まで書いたようなブルーズ〜R&B〜カントリーなど様々なアメリカ南部音楽をゴッタ混ぜにしたような同時期のザ・バンドに少し似ている。

 

 

そして『ボズ・スキャッグズ』というデビュー・アルバム全体をボズの洗練された都会風な感性が貫いていて、それこそがそういった種々のゴッタ煮要素を一つにまとめあげているものなのだ。そう考えてくるとこの人が1976年に『シルク・ディグリーズ』みたいなアルバムを創った素地は既にあったわけだよ。

 

 

だからボズはブルーズ〜R&B歌手だ、1970年代半ば以後にAORをやり出したのは時代の流行に乗っただけで、いっときの転向だ、まさかの変節だみたいな言い方をするのは実はちょっとオカシイんじゃないかと僕は思っている。でも今だにこの種の言説は日本でも非常に強くはびこっているよねえ。

 

 

そういうことを言う人の心の根底には妙な選民意識というか優越感みたいなものがあるんじゃないだろうか?フュージョンとかAORとかそういうものは商業主義だ、「ニセモノ」の音楽だ、シリアスでハードなジャズ〜ブルーズやR&Bやソウル〜ロック・ミュージックこそ「ホンモノ」だみたいな意識がね。

 

 

そんなメンタリティはクソ食らえだよなあ。こんなことだから1970〜80年代当時もそして現在でもフュージョンなどはちゃんとその音楽性を理解して評価し、それを述べる音楽批評が殆どないんじゃないのかなあ。良いものがいっぱいあるのになあ。AORだって良いものがたくさんあるんだぞ。

 

 

AORの代表作みたいに言われるボズの『シルク・ディグリーズ』のバックを務めたミュージシャンのうち三人がTOTOになったわけだけど、そしてTOTOもAORに分類されるけれども、しかし1981年復帰後のマイルス・デイヴィスがTOTOの『ファーレンハイト』にゲスト参加しているもんね。

 

 

マイルス・デイヴィスなんか硬派でシリアスなジャズ芸術の人間だという認識なんじゃないのか?そのマイルスが「軟派な」AORバンドの1986年作に一曲だけとはいえ参加してトランペットを吹き、しかもその前後からマイケル・ジャクスンの「ヒューマン・ネイチャー」をやるようになっていた。

 

 

「ヒューマン・ネイチャー」はTOTOのスティーヴ・ポーカロが書いた曲だ。まあそれがきっかけでTOTOの『ファーレンハイト』にゲスト参加することになったわけだけどね。マイルスは1950年代から同時代のポップ・ソングをたくさんやっているんだけど、81年復帰後のマイルスは別人だとでも?

 

 

フュージョンやAORを軟派な音楽だとして見下げて評価せず、ちゃんとその音楽性を聴きすらもしない人達は、マイルスのそのあたりもボズ・スキャッグズのことも全部含めて一回ちゃんと考え直してもらいたい。僕の耳には『ボズ・スキャッグズ』も『シルク・ディグリーズ』も大して変らない音楽だ。

2016/07/10

ジャズ界初の白人オリジネイター

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油井正一さんはルイ・アームストロングを最高級に評価する一方で、内心の本音ではビックス・バイダーベックが一番好きだったらしい。といっても油井さん自身がはっきりとそう語ったことはないはず。いろんな文章や状況証拠などからそう推測するだけのこと。でもほぼ間違いないだろう。

 

 

僕が一番はっきりと憶えている油井さんがビックスについて書いている文章は、東京創元社から出版された油井さんの第一著書『ジャズの歴史』のなかでのもの。あの本は完全に古くなっていて復刊される気配すらないんだけど、アルテスパブリッシングから復刊された『ジャズの歴史物語』よりも面白かった。

 

 

東京創元社から出ていた『ジャズの歴史』は初版が古い(確か1958年だったかなあ?)こともあって、新しいジャズについては全く触れられておらず、モダン・ジャズについても少しだけ。八割方が戦前の古典ジャズの話題で、これが生れて初めて読みふけったジャズ書だったから、僕は今みたいになったのかもなあ。

 

 

『ジャズの歴史』ではルイ・アームストロングの1925〜28年という全盛期の録音を時代順に追って、そのスタイルの変遷を詳細に分析したり、またジャズ側のライターがベシー・スミスについて一章を割いてあれだけ詳しく書いてあったりするような文章は、今でもお目にかかったことがない。

 

 

大学生の頃に買ったジャズ書のなかでの最大の愛読書こそ東京創元社から出ていたその『ジャズの歴史』で、評価の高い『ジャズの歴史物語』よりもはるかに好きで繰返し読んでいた。そのなかで一章を割いてビックス・ベイダーベックについて書いてあったのが、僕がこのジャズマンを知った最初だった。

 

 

といっても『ジャズの歴史』でビックスについて割いた一章は、ビックス本人もさることながら、彼のコルネット・スタイルへの唯一の影響源とされるエメット・ハーディの話が中心。どこからどう影響を受けたのか、エメット・ハーディとサッチモの出会いとか、そのへんのことが詳しく書いてあったんだよね。

 

 

しかしエメット・ハーディという人はただの一つも録音のない人物だから、音で具体的にそれらを辿ることは不可能。だから油井さんも様々な文献資料に基づいて推測を交えながらいろんな話を展開するといったような具合だったように記憶している、今でも彼について書いてある文章はかなり少ないよね。

 

 

ネットで検索すると少し見つかる程度で、それらも全てビックスの話に関連してのものだけ。こりゃ当然だよなあ。録音がないんだし、今ではビックスに大きな影響を与えた「伝説上の」ジャズマンだということになっている。なんでも油井さんの文章によれば、エメット・ハーディと共演した際にサッチモは降参したという。

 

 

サッチモが降参といっても、エメット・ハーディのスタイルはサッチモとは全く異なるもので、ノン・ヴィブラートでソフトでストレートな音色だったらしいので、サッチモ・スタイル一色の時代に、自分とは全然違う吹き方をするコルネット奏者が存在し、しかもその演奏内容が素晴しいので感心したという意味なんだろうなあ。

 

 

油井さんの本では、確かコルネットの第二ヴァルヴをあまり使わないスタイルがエメット・ハーディの特徴の一つで、それでビックスも同じようなヴァルヴの使い方になったと書いてあったような記憶がある。しかしトランペットやコルネット含め管楽器奏法のことが分らない僕には今でもチンプンカンプン。

 

 

まあとにかくそんなことで油井さんが熱心に書いていたビックスの録音集を聴いてみたいと思ってレコードを探したら、コロンビア録音集の一枚物が見つかったのだった。それがCBSソニーから出ていた『ビックス・バイダーベック 1927-1929』で、これの選曲・編纂・解説もやはり油井さんだった。

 

 

その『ビックス・バイダーベック 1927-1929』は全16曲で、「シンギン・ザ・ブルーズ」とか「アイム・カミング・ヴァージニア」という畢竟の名演二曲を含むコロンビア系録音の代表作がだいたい収録されていた。ライナーノーツの油井さんによればヴィクター系音源はビッグ・バンド録音が中心だとあった。

 

 

だからヴィクター系音源ではアンサンブルのなかにビックスらしき音を聴くか、あるいはソロがほんの数小節しかないから、彼のスタイルがイマイチ分りにくいんだと油井さんは書いていた。それでもそれも聴きたいと思ってレコードを探したんだけど、大学生の頃の僕は見つけられなかったんだよね。

 

 

だからそのCBSソニー盤ばかり繰返し聴いていた。これは本当に素晴しかった。A面の冒頭一曲目と二曲目がいきなり「シンギン・ザ・ブルーズ」「アイム・カミング・ヴァージニア」と続くから、このレコードを聴いた人はみんなそれだけでいきなりノック・アウトされちゃうんだなあ。さすがは油井さんの編纂。

 

 

ビックスのコロンビア系音源は、今では本家米コロンビアが『ヴォリューム 1:シンギン・ザ・ブルーズ』『ヴォリューム 2:アット・ザ・ジャズ・バンド・ボール』というバラ売り二枚のCDにして、全43曲をまとめて復刻してくれているので大変助かる。見てみたら1990年のリリースになっている。

 

 

それらCD二枚の全43曲でビックス・バイバーベックという音楽家の姿はだいたい分るし、録音データも詳しい英文解説も付いているから、普通はこれで充分。だけどこの二枚で一番早い録音は1927年2月で、しかしビックスはこれ以前にかなり録音があるんだよね。そしてそれらもなかなか魅力的なのだ。

 

 

ビックスのプロ・キャリアは1923年にウォルヴァリンズという七人編成のバンドに参加してはじまっている。このバンド名はジェリー・ロール・モートンの「ウォルヴァリン・ブルーズ」から取っていて、実際ウォルヴァリンズもこの曲をよくやっていたらしいが、ビックス参加の録音は残っていない。

 

 

その代りと言うわけじゃないが、ビックスが参加してのウォルヴァリンズの録音全17曲のなかには、やはりジェリー・ロール・モートンの「ティア・ファナ」が含まれている。ただしそれを聴いてみても、モートンのオリジナルで聴けるようないわゆる “Spanish tinge” は聴かれない。

 

 

モートンの言う “Spanish tinge”(スペイン風味)とは、イベリア半島の本国というのではなくキューバ風のハバネーラ風に左手が跳ねるもので、中村とうようさんもこれは重視していたし、また油井さんがジャズはラテン音楽の一種だという自説を展開する根拠の一つだったりもしたんだろう。

 

 

ウォルヴァリンズ・ヴァージョンの「ティア・ファナ」にそれがないのは残念なんだけど、それを求めるような音楽性のバンドでもない。その代りこのバンドでの録音に既に「ジャズ・ミー・ブルーズ」「リヴァーボート・シャッフル」というビックスの重要レパートリーが存在する。

 

 

「ジャズ・ミー・ブルーズ」も「リヴァーボート・シャッフル」も前述コロンビア系録音集CDに収録されているビックスの代表曲で、後のディキシーランド・スタイルのジャズメンが繰返しカヴァーしている。聴き比べてみると、確かにビックスのソロの時間もコロンビア系録音の方が長いし、音質もいい。

 

 

だけれども演奏全体の出来だとか曲自体の持つ魅力をよりよく表現できているのは、録音時期の早いウォルヴァリンズ・ヴァージョンの方じゃないかと僕の耳には聞えるんだなあ。少なくとも「リヴァーボート・シャッフル」は間違いなくそうだと聞える。

 

 

後世のディキシーランド・ジャズメン、なかでもシカゴ派のエディ・コンドンは「リヴァーボート・シャッフル」を戦前にも戦後にも録音しているんだけど、それらはどう聴いてもコロンビア系録音の方じゃなく、間違いなくウォルヴァリンズ・ヴァージョンの方を下敷にしているような演奏なんだよね。

 

 

ウォルヴァリンズ・ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=pvl9LYNdkpM  コロンビア系録音→ https://www.youtube.com/watch?v=S6DsU4Jptac  エディ・コンドンの戦後録音ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=CFpTayaG-i8 どう聴いても明らかじゃないだろうか。

 

 

ビックスは1924年にウォルヴァリンズを去った後、27年にコロンビア(オーケー)に録音をはじめるまでの間、ジャン・ゴールドケットという人と一緒に活動していた時期がある。すぐに仲違いしてしまうのだが、25年過ぎ頃に一度去ったそのバンド・メンバーからピックアップした数人で録音している。

 

 

全部で24曲残しているのだが、そのうち最も有名なのが1926年録音の「ダヴェンポート・ブルーズ」だ。この曲は後のコロンビア系録音のピアノ独奏「イン・ア・ミスト」と並んで、ロック・ファンでもご存知の方が多いはず。なぜならライ・クーダーが1978年の『ジャズ』でカヴァーしているからだ。

 

 

ビックスのオリジナル1926年「ダヴェンポート・ブルーズ」→ https://www.youtube.com/watch?v=iurxEyqcueg   ライの78年カヴァー・ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=45IgUbJ3524  ライのヴァージョンにはヴァイブラフォンなども入ってなかなか面白いよね。

 

 

ライは同じ『ジャズ』のなかで、ビックスのオリジナルはピアノ独奏だった「イン・ア・ミスト」(なせかそのオリジナル・ヴァージョンは YouTube に上がっていない)をこんな感じにしている→ https://www.youtube.com/watch?v=LHyWkrzlS_M  これにもヴァイブラフォンや管楽器などが入っている。

 

 

こんなのがあるので、ロック・ファン、あるいは少なくともライ・クーダー・ファンにもビックスの名前は知られているんだろう。だからジャズ・ファンはほぼフランキー・トランバウアーとの共演音源にしか言及しないビックスだけど、実はそれらだけでは分らない人でもあるんだなあ。

 

 

そういうわけなので、初録音である1923年のウォルヴァリンズ時代のものにはじまり1930年の自分自身の楽団名義による録音で終るビックスの全録音をどこか完全集にしてリリースしてくれないかな。Masters of Jazz というちょっと怪しい復刻レーベルのものならあるんだけどさぁ。

 

 

最後にどうでもいいことを書いておく。ビックスの多くの録音でもそうなんだけど、古いスタイルのジャズ演奏では、曲の最後でいったん演奏が終った後、まるで残りションベンみたいにちょろっと演奏が入るよね。コーダみたいな奴。言葉で説明しても聴いていない人には分らないと思うんだけど、聴いている人ならあぁ〜あれか!と分るはず。あの残りションベンはなんなんだろう?僕はあれが結構好きなんだけど、モダン・ジャズでは全く聴けない。

2016/07/09

魅惑の音色サイン・ワイン

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2013年に買ったビルマ人歌手ソーサーダトンのCDアルバム『Sae Koe Lone Nae Aung Par Sae』(どう読むんだろう?)。彼女の歌も素晴しくてスッカリ惚れちゃったんだけど、同時に僕は彼女の歌以上に伴奏のサイン・ワインの音色に魅せられてしまったのだった。

 

 

ソーサーダトンの『Sae Koe Lone Nae Aung Par Sae』ではいろんな楽器が伴奏で入っていて、ピアノ、笛の音、金属的な鐘の音、竪琴のような音などいろいろあるんだけど、なかでも一番僕の耳を惹き付けたのがポコポコ、パカパカという音色で鳴っている(当時はなんだか正体不明の)打楽器らしきもの。

 

 

いや、打楽器なんだかなんなんだかサッパリ分らなかったんだけど、とにかくポコポコという独特の音色でせわしなく叩かれている(ように聞える)おそらくはなにかの打楽器。それはチューニングされていて旋律を奏でているように聞えたのだった。それがサイン・ワインというものだとすぐに知る。

 

 

サイン・ワインという名前の環状旋律打楽器だということを知り、その魅惑的な音色の虜になってしまった僕は、いろいろとネットで調べてみてちょっと混乱した。というのはその環状旋律打楽器がサイン・ワインと呼ばれているのに、同時にビルマ音楽のオーケストラの名称もサイン・ワインだったからだ。

 

 

こりゃどうなってんの?と思いさらに調べてみると、どうやらビルマ音楽の合奏団をサイン・ワインと呼ぶものの、その編成の中心になっている環状旋律打楽器をもやはりサイン・ワインと呼ぶので、紛らわしいので後者の方はパッ・ワイン(またはパット・ワイン)と呼ぶこともあるんだそうだ。

 

 

とにかく僕が魅せられてしまったのは、オーケストラ合奏の素晴しさもさることながら、やはり楽器としてのサイン・ワイン(パッ・ワイン)の音色だったんだなあ。ソーサーダトンのCDアルバムを何度も聴くうちに、だんだんと彼女の歌より伴奏楽器のサイン・ワインの音ばかり聴いてしまうようになった。

 

 

それくらい僕にとってサイン・ワイン(パッ・ワイン)の音はまるでチャームの魔法にかけられたみたいに魅力的に響いて惚れてしまった。ソーサーダトンのCDを買ったのはエル・スールだったので(日本でエル・スール以外に買える音楽ショップがあるのか?)、サイン・ワインのCDがないか探してみたのだった。

 

 

それで見つかったのがセイン・ムーターという人のサイン・ワイン独奏アルバム『プレイズ・ミャンマー・クラシカル・ソングズ』という一枚。入っている紙に英語で簡単な彼の略歴が書かれてあるんだけど、それによればセイン・ムーターは1952年生まれで、ピアノやザイロフォンなども学んだらしい。

 

 

その英文解説には “saing waing”(その他各種表記がある)という言葉は使われておらず、もっぱら “Myanmur drums” と書いてあるんだけど、これがサイン・ワイン(パッ・ワイン)のことだというのは間違いないだろう。セイン・ムーターはビルマのサイン・ワイン演奏の第一人者らしい。

 

 

サイン・ワインは環状の木枠の内側に19〜23個の調律されて旋律を奏でる太鼓を置き、奏者はその中央に座って両手の掌でそれらを叩き演奏する。言葉で説明するだけではなかなか分っていただきにくいと思うので、一つ演奏例の動画を貼っておく。

 

 

 

この演奏風景は冒頭少しだけ他の楽器との合奏だけど、すぐにサイン・ワイン(パッ・ワイン)中心になるので、その楽器の姿と実際の演奏方法が分りやすいと思う。音質がイマイチなんだけど、取り敢ずサイン・ワインがどんな見た目と演奏法の楽器で、どんな音色かは少し分っていただけると思う。

 

 

上掲 YouTube 音源はあまりご存知でない方にサイン・ワインのことを手っ取り早く知ってもらいたいと思って貼っただけで、演奏内容自体は別にどうってことはない。僕は名手セイン・ムーターのアルバムで彼のサイン・ワイン独奏の素晴しさを聴いちゃったからなあ。本当に凄いんだぞ。

 

 

いや「凄い」というのはちょっと違うかなあ。確かによく聴くとセイン・ムーターは目まぐるしい高速フレーズを難なく叩きこなす超絶技巧の持主だから「凄い」んだけど、その結果できあがった音楽をボーッと聴いていると、なんだか非常にゆったりとしてリラックスしているように聞えちゃうもんね。

 

 

なんというかあんまり好きな言葉じゃないんだけど、一種のヒーリング・ミュージック、インドネシアのジャワ島のガムラン演奏みたいな癒しの音楽に聞えるよなあ、セイン・ムーターのサイン・ワイン独奏は。部屋の中で聴いていると、そのあまりの心地良さに、技巧の見事さを忘れて眠り込んでしまいそうだ。以前も書いたけれど、聴いて寝るってのは悪いことじゃないんだよね。退屈だから寝るとは限らない。

 

 

ガムランに喩えたけれど、チューニングされて音階を持ち旋律を奏でる打楽器演奏であるという点でも、またそれがミニマルな音の構築法によって成立っているという意味でも、そしてそれが東南アジアの音楽であるという面でも、インドネシアのガムラン演奏とビルマのサイン・ワイン演奏は似ている。

 

 

似ているというかなにか音楽の本質において共通性があるような気がするなあ。インドネシアのガムランは以前菊地雅章の『ススト』関連の記事で書いたように大学生の頃から聴いている僕で、楽器も音楽も、あるいはバリ島のそれに乗せての舞踏も好きなんだけれど、サイン・ワインの方ははつい2013年に知ったばかり。

 

 

セイン・ムーターの『プレイズ・ミャンマー・クラシカル・ソングズ』は厳密にはサイン・ワイン独奏ではない。彼の叩くサイン・ワインの他にちょっとした金属音が聞える。鐘かなにかあるいは小さなシンバル(ヤグウェン?)か分らないけれど、それがほんのかすかに聞えるんだなあ。でも目立たない。

 

 

だから『プレイズ・ミャンマー・クラシカル・ソングズ』はあくまでセイン・ムーターのサイン・ワイン独奏を聴くアルバムだ。オーケストラ合奏としてのサイン・ワイン音楽なら他にもいくつかあるみたいだ。セイン・ムーターだって『アカデミー・ゴールデン・サイン』という合奏アルバムを創っている。それも見事。

 

 

セイン・ムーターのアルバムで僕が持っているのはそれら『プレイズ・ミャンマー・クラシカル・ソングズ』と『アカデミー・ゴールデン・サイン』の二枚だけ。でも現在のビルマ音楽シーンでは中心人物の一人らしいから、きっと現地ではもっとたくさんアルバムがあるに違いない。う〜ん、凄く聴きたいぞ。

 

 

厳密な意味での本当にサイン・ワインだけの独奏アルバムも僕は一枚だけ持っていて、それがあの『Beauty of Tradition』の二枚目 「 ミャンマー伝統音楽の旅で見つけたサインワインの独奏」というCDアルバム。これはサイン・ワインだけしか入っておらず、ひたすらポコポコ鳴り続けるだけという。

 

 

そのポコポコ、パカッパカッっていうサイン・ワインだけの独奏を約50分間聴いていると、本当に気持いいんだなあ。珍しい人間かもしれないなあ、こんな趣味は。『Beauty of Tradition』第二集でサイン・ワインを叩くのはパンタヤー・セインフラミャイン。この人も現在の名手らしい。

 

 

『Beauty of Tradition 』第二集は、第一集同様ビルマ音楽に造詣の深い井上さゆりさん(大阪大学大学院准教授)による非常に丁寧な日本語解説が付いていて、サイン・ワイン独奏の一曲毎にどういう曲でサイン・ワインをどう演奏しているか詳しく書かれてあるので非常に助かる。

 

 

楽器としてのサイン・ワインと楽団としてのサイン・ワインについても、日本語ブックレット末尾に見開き2ページにわたって井上さゆりさんが非常に丁寧に解説して下さっていて、日本語で読める文章としては『Beauty of Tradition』附属ライナーノーツが一番良いものに違いない。

 

 

そりゃビルマ語でなら詳しい文章もありはするんだろうけれど、今の僕にはソーサーダトンでもセイン・ムーターでも、CDジャケット記載のビルマ語は暗号にしか見えないもん(涙)。日本語や英語など僕が理解できる言葉で書かれてあるもののなかでは、井上さゆりさんのライナーノーツが最高だ。

 

 

『Beauty of Tradition』シリーズ二枚は言うまでもなく日本人が企画して現地ビルマに赴いて録音したものだから日本盤だ。二枚のうちでは、ヴォーカル曲の方が圧倒的に多い第一集「ミャンマーの伝統音楽、その深淵への旅」の方が好まれるんじゃないかなあ、多くのファンには。

 

 

もちろん僕だってあの第一集も大好きだ。そのなかでは一曲目がサイン・ワイン独奏、二曲目とラスト12曲目がサイン・ワイン楽団のインストルメンタル演奏で、その他パッタラーの独奏も二曲入っているけれど、それ以外は仏教歌謡などヴォーカル・ナンバーだ。その方が普通は聴きやすいだろう。

 

 

僕はといえば、ビルマ音楽初体験が最初に書いた通り2013年に買ったソーサーダトンで、直後に(楽器としての)サイン・ワインの虜になってしまって、すぐにセイン・ムーターの独奏CDを買って愛聴し、そうでなくたってジャズみたいなインストルメンタル音楽のファンだから、やっぱりサイン・ワイン独奏がいいんだなあ。

 

 

そういうわけで『Beauty of Tradition』も、第二集の「ミャンマー伝統音楽の旅で見つけたサインワインの独奏」の方が聴く回数が多い僕。ホントこのポコポコ、パカッパカッっていう音色の環状旋律打楽器、こんな魅惑的な楽器があるなんて、2013年までちっとも知らなかった。

 

 

しかし振返ってみれば、以前このブログで触れた渡辺貞夫さんのバンドの1984年のライヴ音源。「セヴンス・ハイ」後半のラッセル・フェランテのシンセサイザー・ソロが、今聴くとサイン・ワインの音色によく似ている。8:15あたりから。

 

 

 

当時これをFMラジオ放送で聴き、エア・チェックしたカセットテープを愛聴していた頃は、もちろんサイン・ワインなんて言葉すら知るわけもなく、ただなにか旋律を付けた竹かあるいは打楽器かなにかを叩いているような音で魅力的で面白いなと思い、そこだけ巻戻して繰返し愛聴していた。

 

 

でもこれ、今聴き返すとサイン・ワインだなあ。ってことは1980年代半ばから既にこんな音色が好きだったんだなあ。調律されて旋律を奏でる太鼓みたいな打楽器がね。それだからこそ2013年にソーサーダトンを聴いた時も、彼女の歌も好きになったけれど、それ以上に伴奏に耳が惹き付けられたってわけだねえ。

2016/07/08

テーマ・メロディのないマイルス・ミュージック

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みなさんご存知の通り、マイルス・デイヴィスの1969年『イン・ア・サイレント・ウェイ』から85年の『ユア・アンダー・アレスト』くらいまで、彼のやる音楽には明確なテーマらしきメロディがない。68年の電化後も『マイルス・イン・ザ・スカイ』と『キリンジャロの娘』ではそれがはっきりとあった。

 

 

もちろんマイルスはジャズ畑の音楽家だけど、ごくごく初期のニューオーリンズ・ジャズを除けば普通最初にテーマ演奏があって、そのコード進行に基づいて(という場合が多い)アドリブ・ソロが続き、最後にまたテーマ演奏があって終る。ジャズに限らず他の多くの音楽でも主旋律がある。

 

 

「曲」とか "song" といった場合は通常そのテーマのことを指し、その旋律や歌詞には著作権が発生するが、コード進行やアレンジやアドリブ・ソロに著作権はない。それくらいテーマ・メロディは大切なものだ。ジャズの場合は、しかしながら特にビバップ以後はアドリブ・ソロの方が重視されるけどね。

 

 

つまりモダン・ジャズではテーマ・メロディはほぼ完全にコード進行を提示するだけの役目しかなく、旋律の美しさなどは放ったらかし。もっぱらコード進行を利用してアドリブ・ソロを展開するための素材でしかない。個人的にはこれにやや違和感があって、最初モダン・ジャズを中心に聴いていた時期でもそうだった。

 

 

セロニアス・モンクなどは例外的にそんなこともなかったのだが、彼は突出したコンポーザーでもあったから、「曲」の旋律や構造の持つ重要性を師匠のデューク・エリントン同様非常に意識していた。これはモダン・ジャズ界では例外的で、戦前の古典ジャズメンの姿勢に近い。こういう人は少ないんだなあ。

 

 

マイルスもモダン・ジャズメンの例外ではなく、やはりテーマ・メロディはアドリブのための素材として扱ってきたわけだけど、1969年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』以後はそれがなくなってしまう。コード進行のあるテーマ・メロディの代役が、簡単なリフやベース・ラインやスケールなどになった。

 

 

何度も書いているように、1968年頃から深い交際をはじめ後に結婚するベティ・メイブリーが同時代のロックやファンクをたくさん聴いていて、マイルスにもどんどん勧めたため、その頃からマイルスもスライ・ストーンやジェイムズ・ブラウンやジミ・ヘンドリクスなどたくさん聴くようになった。

 

 

かつて米ジャズ雑誌『ダウン・ビート』に、ミュージシャンにブラインドフォールド・テストをするインタヴュー・コーナーがあって(かつて『ミュージック・マガジン』でも松山晋也さんが同じことをやっていた)、1968年頃からのマイルスはジャズメンには殆ど興味を示さず、ファンクやソウルの人ばかり当てていた。

 

 

ブラインドフォールド・テストと言っても今の若い音楽ファンは分らないかもしれないから一応説明しておくと、ミュージシャン名やアルバム名や曲名などの情報を伏せたまま音だけを聴かせ、それらを当てさせたり、その音楽についての感想を言わせたりするもので、ジャズ喫茶でも昔はやっていた。

 

 

先に書いたように『ミュージック・マガジン』誌上で松山晋也さんがやっていたので(「目かくしプレイ」だっけな)、バック・ナンバーをご一読いただければおおよその様子が分ると思う。事前情報を与えない分率直な意見が聞ける。そして『ダウン・ビート』誌のブラインドフォールド・テストで、1968年頃からのマイルスがファンクに強い興味を持っていたことが分るのだ。

 

 

そういう経験が自身の作品に初めて具体的な形で活かされたのが1969年2月録音の『イン・ア・サイレント・ウェイ』だ。片面一曲ずつ(B面は正確には二曲が繋がっている)の両面とも、テーマ・メロディがなく、メンバーのアドリブ・ソロは、あらかじめ用意されていたベース・ライン上で展開する。

 

 

もっともB面の冒頭部と最終部になっているジョー・ザヴィヌル作曲の「イン・ア・サイレント・ウェイ」は明確なメロディがあるけれど、この曲では逆にアドリブ・ソロがなく、ジョン・マクラフリン〜ウェイン・ショーター〜マイルスの順にテーマを繰返すだけ。「ネフェルティティ」の手法だよね。

 

 

A面の「シー/ピースフル」はともかくB面の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」は一応作曲者のクレジットがマイルスになってはいるものの、いわゆる曲らしきものは存在しないし、重要な役割を果しているベースとエレピが奏でるリフ・パターンは間違いなくザヴィヌルの書いたものだろう。

 

 

1968年末頃から70年2月頃までのマイルスのスタジオ・セッションにおけるザヴィヌルの役割は、どうもイマイチ評価されていないような気がする。熱心なマイルス・ファンやブラック・ミュージック・リスナーにザヴィヌルは評判の悪い人らしいから仕方がないのかもしれないが、もったいないね。

 

 

その1968年〜70年というのはマイルスの音楽が生涯で一番大きく変化した時期で、この頃のスタジオ録音諸作の多くにザヴィヌルが参加してエレピやオルガンを弾くばかりでなく、重要な曲をいくつも書いて提供した。以前詳しく書いたように1969〜71年の全てのライヴで必ず一曲目の「ディレクションズ」みたいな最重要曲もある。

 

 

 

 

 

「ディレクションズ」の1969〜71年のライヴにおける変化については以前詳しく書いたので繰返さない。元々テーマ・メロディのある曲だけど、70年半ばあたりから、徐々にそのテーマが出てくるのが遅くなり、マイルスのソロ中盤でようやく出てくるものの、これといった重要な役割は果さなくなっていく。

 

 

「ディレクションズ」でもテーマの代りにデイヴ・ホランドやその後のマイケル・ヘンダースンが弾くベース・ラインが重要な役割を持つようになり、演奏冒頭からジャック・ディジョネットのドラムスとともにベースが一定のオスティナートを弾いて、その上でマイルスその他がアドリブ・ソロを演奏するような形になっている。

 

 

ライヴでの「ディレクションズ」ばかりでなく「イッツ・アバウト・ザット・タイム」以後のスタジオ録音におけるどの曲でも、復帰後の1985年頃まではテーマ・メロディの重要性が低いどこか、そもそもテーマが存在しない。『ビッチズ・ブルー』でもそれらしきものが聴けるのはアルバム・ラストの「サンクチュアリ」だけ。

 

 

しかしその「サンクチュアリ」というショーターの曲は元は1968年5月に録音されて未発表になっていたもの(79年の『サークル・イン・ザ・ラウンド』に収録・発売)でやや古めの素材だから、テーマらしきものが聴けるだけなのだ。『ビッチズ・ブルー』でもこの曲以外は全部の曲にテーマなどない。

 

 

 

その後はスタジオでもライヴでもどれを聴いても、あらかじめ決っていたであろうものはコードかスケールかそれに基づくベース・ラインやリフだけで、だから僕みたいな素人には、当時のマイルスやサイドメンがどうやって音楽を創り出していたのか分りにくいのだ。そしてこれは完全にファンクの手法。

 

 

唯一1970年4月録音の「ライト・オフ」中盤でジョン・マクラフリンが繰返し弾くリフ・パターンに、「ジャック・ジョンスンのテーマ」という名前が与えられている。しかしこれもこの名前が使われるようになったのが75年の『アガルタ』から。しかもこれは70年4月の録音セッション中にマクラフリンが突発的に弾いたもの。

 

 

要するにあらかじめ用意されたテーマというものは全く存在しないのだ。一定のリフやベース・パターン反復の上に成立つファンクの手法導入と、テーマのコード進行に基づくアドリブ・ソロという従来のジャズ的手法からの脱却を図ったということなんだろう。だから僕は1969年以後のマイルスはジャズとは呼びにくい。

 

 

そういうマイルスの音楽にいわゆるテーマ・メロディが復活するのは1985年の『ユア・アンダー・アレスト』からだ。このアルバムでは「タイム・アフター・タイム」「ヒューマン・ネイチャー」などのポップ・ソングのメロディを吹くばかりでなく、一曲目がそういう曲名にはなっていないが「ジャック・ジョンスンのテーマ」に他ならない。

 

 

ただ、1981年のカム・バック・バンドのライヴでガーシュウィンの「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」をやっていて、それはテーマ・メロディを吹いている。『ウィ・ウォント・マイルス』その他で聴けるよね。当時は例外中の例外だと思っていたけれど、その後を考えたらあれは一種の予兆みたいなものだったのかもしれないなあ。元々リリカルで美しいメロディを吹くのが好きな人だったわけだしね。

2016/07/07

ジャンプするシスターはラップの元祖

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聖なる宗教音楽であるアメリカ黒人ゴスペルのなかには、世俗音楽のブルーズとどこが違うのか全く分らないようなものがいろいろとある。そのなかで最も分りやすいのがギター・エヴァンジェリストと呼ばれる人達だろう。最も有名なのはおそらくブラインド・ウィリー・ジョンスンだね。

 

 

ギター・エヴァンジェリストという種類の人達をひょっとしてご存知ない方がいらっしゃるかもしれないので簡単に説明しておくと、文字通りギターを弾きながら聖書の教えや様々な宗教的メッセージなどを歌に乗せて説いて廻る伝道師(エヴァンジェリスト)のことで、昔からたくさんいる。

 

 

そんなギター・エヴァンジェリストのなかで1920年代にしか録音が残っていないブラインド・ウィリー・ジョンスンが最有名人だというのは、ひょっとしてライ・クーダーのおかげなんだろうか?1984年のヴィム・ヴェンダース監督の映画『パリ、テキサス』のサウンドトラック盤でカヴァーしたので。

 

 

1984年というとブラインド・ウィリー・ジョンスンのCD二枚組完全集はまだリリースされていなかったんじゃないかなあ。現物のクレジットを確かめてみないと正確なことは分らないが、僕の場合は『パリ、テキサス』のサントラ盤のことは知らず、しかも84年だとまだライをちゃんと聴きはじめていない。

 

 

あっ、確かめてみたらブラインド・ウィリー・ジョンスンのCD二枚組完全集がレガシー(コロンビア)からリリースされたのも1984年になっているなあ。う〜ん全然憶えていないのだが、しかし僕がこれを買ったのはそのもっと後、おそらく90年代前半のことで、しかもライ・クーダーを本格的に聴きはじめる前のことだ。

 

 

だから僕の場合はライのカヴァーとは関係なく古いアメリカ黒人音楽のCDリイシューがどんどんはじまった1990年代前半にブラインド・ウィリー・ジョンスンを知ったのだが、多くのロック・リスナーにとってはやはり『パリ、テキサス』サントラ盤収録のライのカヴァーで有名になった人なんだろうね。

 

 

しかし今日僕はブラインド・ウィリー・ジョンスンの話をしようと思っているわけではない。聖なるゴスペルと俗なるブルーズとの境界線なんか存在しないんだということを言いたいのであって、そのためにそれが最も分りやすい好人物であろうギター伝道師シスター・ロゼッタ・サープの話をしたいんだよね。

 

 

シスター・ロゼッタ・サープはもちろん女性で1921年アーカンソー生れのギター・エヴァンジェリスト。小さい頃から母親に連れられてホーリネス教会の集会などで既にギターを弾きながらゴスペルを歌っていたらしく、1930年代に入る頃には旅回りの伝道師集団に加わっていたという。

 

 

だからシスター・ロゼッタ・サープは最初からゴスペルを歌うギター・エヴァンジェリストとして出発したわけだ。初録音は1938年にデッカ・レーベルに四曲。全部彼女一人でのギター弾き語りで宗教的歌詞だから、普通のゴスペル・ソングだね。しかしその後すぐにジャズ・ビッグ・バンドとの共演がはじまる。

 

 

録音が残っているそのジャズ・バック・バンドというのが他ならぬラッキー・ミリンダー楽団。ラッキー・ミリンダーの名前には敬虔なゴスペル・ファンは顔をしかめるかもしれない。主に1940年代に大活躍したジャンプ系のジャズ・バンドだよね。世俗も世俗、卑俗芸能の極地に位置するようなビッグ・バンドだからだ。

 

 

シスター・ロゼッタ・サープとラッキー・ミリンダー楽団との初共演は、僕が持っている録音完全集(CD二枚組が七つ)では第一集の一枚目15曲目の「トラブル・イン・マイ・マインド」が初。それを含め1941年に立て続けに八曲録音していて、しかもそれらのレコードはかなりヒットしたようだ。

 

 

だからシスター・ロゼッタ・サープはゴスペル界の人間にして世俗的に売れて有名人になったアメリカ音楽史上初の人物だということなる。サム・クックの大人気よりも数十年早いのだ。しかしだね、ラッキー・ミリンダー楽団との共演録音を聴くと、これ、どこが「聖なる」音楽なのか?とかなり疑問に思うよ。

 

 

歌詞内容がほんのかすかに宗教的かもなとは思うものの、それも彼女一人のギター弾き語りよりは相当薄くなっていて、だいたい曲名だって「ロック・ミー」とか「フォー・オア・ファイヴ・タイムズ」とか「シャウト・シスター・シャウト」とか世俗的なものだ。”Rock Me” なんてスケベな表現なんだしね。

 

 

それらのうち「シャウト・シスター・シャウト」はシスター・ロゼッタ・サープやゴスペル音楽にさほど強い興味のない日本人ブラック・ミュージック・ファンでも知っているだろう。なぜかというと中村とうようさん編纂の『ブラック・ビートの火薬庫〜レット・イット・ロール』に収録されているからだ。

 

 

シスター・ロゼッタ・サープの録音完全集では、1941年にラッキー・ミリンダー楽団との共演で「シャウト・シスター・シャウト」を二回録音している。とうようさん編纂の『ブラック・ビートの火薬庫』収録のは二回目の録音の方で、完全集では “Part 2" と曲名の後に記載されている。

 

 

その「シャウト・シスター・シャウト」(パート2)の方をちょっとご紹介しておこう→ https://www.youtube.com/watch?v=LKKnGg2WCeM  いいねこれ。最高に楽しくジャンプしているじゃないか。ついでに一回目の録音の方もご紹介しておく→ https://www.youtube.com/watch?v=1GcPlCeH2PU

 

 

どうだろう?こりゃまるでジャンピング・シスターだよね。歌詞内容だってどこも宗教的ではなく、完全に世俗的なもの。サウンドは言うまでもなく1940年代ジャンプ系ジャズ・ビッグ・バンドのそれだから芸能色の強い猥雑なもので、だからこりゃ宗教界からは怒られそうだよね。

 

 

実際1940年代にラッキー・ミリンダー楽団と共演したりしていた頃のシスター・ロゼッタ・サープは、教会からは白眼視されていたそうだ。そういう事実があったりするので、熱心な世俗的黒人音楽ファンが教会や教会音楽を必要以上にむやみに敵視したりする原因になったりするわけだよねえ。

 

 

肝心のシスター・ロゼッタ・サープはそんなことには全然お構いなく聖と俗の境界線を楽々と越えて、両方の世界で活動・録音を続けている。ラッキー・ミリンダー楽団とは1940年代初頭一緒に活動し、録音も前述のもの以外にもたくさん残っていて、完全集には15曲収録されている。どれも全部楽しいよ。

 

 

中村とうようさんは前述の『ブラック・ビートの火薬庫』と同じMCAジェムズ・シリーズの一つ『ロックへの道』のなかにも、シスター・ロゼッタ・サープとラッキー・ミリンダー楽団の共演録音一つ収録している。1941年録音の「ロック・ダニエル」。

 

 

 

この「ロック・ダニエル」もシスター・ロゼッタ・サープ(と母親との)自作曲。このなかで彼女自身が弾くギター・ソロはややロニー・ジョンスンっぽいよね。というか彼女のギター単音弾きソロはだいたいいつもロニー・ジョンスンに似ている。ロニー・ジョンスンは1920年代から活躍するブルーズ・ギタリストだ。

 

 

また上で音源を貼った「シャウト・シスター・シャウト」でもよく分るし、あるいは他の多くの曲でもそうなんだけど、シスター・ロゼッタ・サープの歌い方はメリスマの利いた朗々たるコブシ廻しではなく、あまりメロディアスではない喋っているようなものだ。これはかなり面白い事実じゃないだろうか。

 

 

というのはヒップホップの流行以後一般的になったラップ(それ自体はヒップホップ文化とは言えないだろう)。そのラップ・ヴォーカルの祖先は昔のキリスト教会での牧師のスピーチにあると考えて間違いないと僕は思っていて、教会での説教なども楽器伴奏が付いたりしてリズミカルに韻を踏んだりする。ラップ第一号はボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルーズ」なんかじゃない。もっと古いんだ。

 

 

これまた中村とうようさん編纂のMCAジェムズ・シリーズの一つ『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』の最初の方にそんなリズミカルで音楽的な牧師の説教が二曲ほど収録されているので、是非ちょっと聴いてみていただきたい。僕の言う牧師の説教=ラップの元祖説を実際の音で納得できるはずだ。

 

 

ってことは1940年代にジャンプ系ジャズ・ビッグ・バンドと共演して、メロディの抑揚が小さくまるで喋っているみたいな歌い方をしているシスター・ロゼッタ・サープは、そんな教会牧師の説教と、その後のラップ・ヴォーカルの橋渡し的な役割を果した人物だったという見方だってできるもんね。

 

 

とうようさん編纂の『ゴスペル・トレイン・イズ・カミング』にもシスター・ロゼッタ・サープは一曲収録されている。1947年録音で、当時活動をともにしていたマリー(Marie)・ナイトとの共演「アップ・アバヴ・マイ・ヘッド(アイ・ヒア・ミュージック・イン・ジ・エア)」。これは普通の宗教曲だ。完全録音集だと第二集の二枚目に入っているヒット曲。

 

 

シスター・ロゼッタ・サープの録音完全集には数えるのなんてやりたくないほど多くのマリー・ナイトとの共演音源が収録されていて、1940年代後半から50年代にかけてずっと一緒に活動していた。1940年代にジャンプ系ジャズ・ビッグ・バンドとたくさん共演したのが例外だったのかもしれない。

 

 

しかしながら録音完全集でシスター・ロゼッタ・サープの残した足跡を辿ると、この人はゴスペル/ブルーズ、聖/俗、教会世界/世俗世界といった境界線なんか意に介さず、そんな狭い枠を軽々と飛越えて活動した第一人者だったのが非常に良く分る。やっぱりそんな区別にこだわりすぎず両方聴いた方が楽しいよね。

2016/07/06

ブルージーなハイ・ソウルの女性歌手

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いろいろなソウルのなかでもメンフィスのハイ・サウンドが一番好きなんじゃないかとすら思う僕なのに、アン・ピーブルズを知ったのはティナ・ターナーが『プライヴェイト・ダンサー』で「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をやっていたから。それまでアン・ピーブルズの名前すら知らなかった。

 

 

ティナ・ターナーの1984年の復帰作『プライヴェイト・ダンサー』だって僕にとっては初ティナ・ターナーで、どうして<復帰作>と言われているのかすら分っていなかったというような具合。しばらく経ってアイク&ティナ・ターナーで活躍した人だということをようやく知ったのだった。

 

 

あのティナ・ターナーの『プライヴェイト・ダンサー』からは何曲かシングル・カットされ、プロモーション・ヴィデオもMTVで盛んに流れていて、特に「愛の魔力」(ワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥー・ウィズ・イット)が良かった。評価も高くてグラミーかなにかの賞をもらったはず。

 

 

『プライヴェイト・ダンサー』がかなりの話題になってヒットしたので、当時のFMラジオなどがよくティナの特集番組を流していて、それでアイク&ティナ・ターナー時代の曲もたくさん流れて、(当時の)夫と組んでやっていたその時代のこともだんだんと分ってきたのだった。

 

 

ティナの『プライヴェイト・ダンサー』にはアン・ピーブルズの「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」だけでなく、アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」もあって、これもそのティナのヴァージョンで初めて知った曲。それもハイだけど、このレーベルのことだって当時は無知。

 

 

だからあのティナの復帰作は僕にとってのソウル入門、ハイ・サウンド入門みたいなものだったのだ。今聴くとそのハイ・ナンバー二曲より、やっぱり「愛の魔力」の方がはるかに出来もいいしティナの歌もバックのサウンドもチャーミングだとは思う。

 

 

 

とにかくそんな具合でティナのヴァージョンで「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」と、これを書いて歌ったアン・ピーブルズのことを初めて知って、ちょっとずつ追掛けるようになったのかと言うとそうでもなく、CDリイシューがはじまってようやくアルバムを一つ買ってみただけだという体たらく。

 

 

それが1972年の『ストレイト・フロム・ザ・ハート』と74年の『アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン』の2in1CD。持っているそれを見てみたら1992年のリリースになっている。ソウルに関しては僕はまあこんなもんなんだよね。アン・ピーブルズはいまだにこれしか聴いていないのだ。

 

 

でもこの 2in1 がなかなか良くて、買って以来現在に至るまでの愛聴盤。本格的にハイ・サウンドを聴くようになったのは、僕の場合以前も書いたO.V. ライトの『ライヴ・イン・トーキョー』のリイシューCDからで、同じ頃にアル・グリーンも聴いてみたら素晴しかった。

 

 

O.V. ライトはハイの人というよりゴールドワックスやバックビートのイメージなんだろうけれど、アル・グリーンとかアン・ピーブルズは完全にハイの申し子みたいな歌手だよなあ。アン・ピーブルズの場合はそもそも21歳の時にハイのウィリー・ミッチェルに見出されてデビューした人なわけだし。

 

 

デビュー前のアン・ピーブルズはやはりこれまたゴスペルを歌っていたらしい。父親の率いるその名もピーブルズ・クワイアという聖歌隊。黒人ソウル歌手って第一号のサム・クックがそうであるように、その後もなんだか全員ゴスペル出身なような気がするなあ。両方を行き来している人もたくさんいるしね。

 

 

アン・ピーブルズだって『ストレイト・フロム・ザ・ハート』『アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン』を聴いたらゴスペル風歌唱法であることは明々白々だろう。強い声の張り方といいメリスマの廻し方といいリズムへのノリ方といい完全にゴスペル・スタイルだ。

 

 

とはいうもののアン・ピーブルズ最大のヒット曲にして代表曲の「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」だけはあんまりゴスペルが強くもないように聞える。もっとこうあっさりとしたサラッとした歌い方だよなあ。そういう創りの曲だし。

 

 

 

バックのサウンドだってアン・ピーブルズの他の曲で聴けるような典型的ハイ・サウンドとはちょっと違っている。といってもリズム・セクションの演奏やウィリー・ミッチェル・アレンジのホーン・セクションの入り方なんかはやはりハイっぽいけれど、全体的にそれをあまり感じさせない仕上り具合だ。

 

 

だいたい「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」冒頭から鳴りはじめるキュッキュッというかコンコンというかあのヘンな音はなんなんだ?おそらくエレキ・ギターで、弦をミュートして弾いて出している音なんじゃないかと推測するんだけど、こういう音って僕は他にはたった一つしか知らないもんね。

 

 

それはエルヴィス・プレスリーのサン時代1956年録音の「ブルー・ムーン」。チャカポコという音が聞えるんだけど、これが弦をミュートしたエレキ・ギターで出している音なのだ。元々これはロジャース&ハート・コンビが1934年に書いたスタンダード・ナンバー。

 

 

 

ロック界ではこのエルヴィス・ヴァージョンが初のカヴァーで、これで一般的に広く知られるようになって以後はいろんなロック歌手やその他の歌手が歌うようになった。でもエルヴィスのサン録音ヴァージョンのチャカポコというあの音をどうやって出しているんだか、僕は長年分っていなかったんだよなあ。

 

 

エレキ・ギターの弦をミュートして弾くというのはいろんな人が結構やっていると思うんだけど、エルヴィスの「ブルー・ムーン」やアン・ピーブルズの「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」みたいな印象的な使われ方をしているものは、僕は他には思い浮べられない。でもきっと他にもあるんだろうね。

 

 

「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」のあのキュッキュッという印象的なサウンドは、最初に書いたティナ・ターナー・ヴァージョンでも再現されている。しかしこっちは多分シンセサイザーで出しているんだろうなあ。

 

 

 

「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」は失ってしまった愛を想いだして悶々とするという内容の歌だから、窓に打ちつける雨の音がどうたらこうたらと歌っているその雨の音を表現しようとして、あのチャカポコというかキュッキュッというかコンコンという音を入れたんだろう。印象派みたいなもんだ。

 

 

「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」以外のアン・ピーブルズの代表曲というと、「アイム・ゴナ・ティア・ユア・プレイハウス・ダウン」になるんだそうだ。でもこっちは僕はさほど強い魅力は感じないんだなあ。どっちもアルバム『アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン』に収録されている。

 

 

個人的にはアルバム単位なら『アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン』よりも、それと 2in1 で収録されているその前の『ストレイト・フロム・ザ・ハート』の方が好きだし出来もいいんじゃないかなあ。「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」みたいな印象的な曲はないけれど、全体的にはこっちの方がいいような気がする。

 

 

その 2in1 しか聴いていないんだから、えらそうなことは全然言えないんだけれど、アン・ピーブルズってソウル歌手なのに12小節3コードのブルーズ形式の曲がかなりあるよね。ちょっと珍しいんじゃないだろうか?完全なブルーズ形式でなくても似たようなコード進行の曲が多いしなあ。

 

 

そのあたりはやはりブルーズ・ファンである僕がかなり気に入っている部分なのだ。ブルーズ形式で一度(例えばC)から四度(例えばF)になる五小節目とか、いったん一度に戻って今度は五度(例えばG)になる九小節目とか、あそこらあたりのコードが変る瞬間にゾクゾクしちゃう体質なんだよね、僕は。

 

 

そういうコード・チェンジがあのハイ・リズムの演奏で行われるもんだからタマランのだよなあ僕は。ブルーズ形式のソウル・ナンバーを、ソウル界では僕の最も好きなメンフィスのハイ・サウンドに乗せてブルージーかつソウルフルに歌うなんてのはこれ以上言うことない旨味を感じちゃうなあ。

 

 

それはそうと『ストレイト・フロム・ザ・ハート』『アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン』の 2n1 を聴いていると、いろんな曲で<ウィンドウ・ペイン>だとか<キャント・スタンド・ザ・レイン>だとかいう言葉が出てくるんだけど、これはアン・ピーブルズのトレード・マークみたいなもんだったのだろうか?

 

 

そのあたりは一つ 2in1を聴いているだけの僕には分らないんだけど、まあいずれにしてもこの文章を書くために聴直したらアン・ピーブルズはやっぱりブルーズが多いソウル歌手で最高だよなあ。やっぱり他のアルバムも買おうっと。なんだか買いたいものがたまりにたまって、こりゃお財布が持たないよ。

2016/07/05

戦前黒人スウィングはファンクのおじいちゃん

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オール・アメリカン・リズム・セクションと称えられたあの三人を擁する1930年代のカウント・ベイシー楽団のスウィング。あれはいわばその後60年代後半からのファンク・ミュージックの祖先に他ならないわけだけど、ファンクの熱心なファンがその頃のベイシーを熱心に聴くという話もその逆も見たことがない。

 

 

1930年代のベイシー楽団の熱心なリスナーやそれを含む戦前黒人ジャズ・ファンも、あるいはジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどその他60年代後半からのファンク・ミュージックのファンも、誰一人としてそういうことは言っていないよなあ。

 

 

ってことは例によっていつもの僕だけの妄想なのか?そうじゃないという実感が僕にはあるんだけど、今日のこの文章でそれを説得力あるように書けるかどうかは全く自信がない。がしかしなんとかやってみよう。ベイシー楽団の1930年代デッカ録音集はCD三枚組の完全集としてリリースされている。

 

 

カウント・ベイシー楽団のその『ジ・オリジナル・アメリカン・デッカ・レコーディングズ』は、例の小出斉さんの『ブルースCDガイド・ブック』にだって掲載されている。その紹介文で小出さんはこの頃のベイシー楽団はいわば<準ジャンプ>的な位置付けの存在だと書いているが、これは僕もほぼ同感。

 

 

小出さんは準ジャンプと言うんだけど、でも僕にとっては同じカンザス・シティのバンドであるジェイ・マクシャン楽団その他となんら違いのない完全なジャンプ・バンドだろうとしか聞えないんだよね。ジェイ・マクシャン楽団ももちろん小出さんの前述ガイド・ブックに掲載されている。

 

 

あるいはもっとはっきりジャンプ・バンドだとされているアースキン・ホーキンス楽団や1940年代のライオネル・ハンプトン楽団やラッキー・ミリンダー楽団などなどビッグ・バンドによるジャンプ・ミュージックと、カウント・ベイシー楽団との本質的な違いは僕には聞取れない。若干ビート感を強くした程度のことじゃないかなあ。

 

 

実際アナログ・レコードではそういった1940年代のジャンプ・バンドだってレコード・ショップでは普通にジャズの棚に並んでいたもんなあ。といっても90年代以後のようにたくさんCDリイシューされてはいなかったけれど、そこそこあったんだよね。僕は普通のスウィング・ジャズだと思って聴いていた。

 

 

正直に言うと、今までも何度か繰返しているように1930年代後半からの黒人スウィングとジャンプとの根本的な区別は僕にはできない。そんな区別はおそらく誰にとっても不可能だろう。同種の音楽だし、そもそもライオネル・ハンプトンみたいに普通のジャズマンだったのがジャンプ・バンドを率いたりしているしね。

 

 

「黒人スウィング=ジャンプ」であるというのが僕の持論。だからある時期に中村とうようさんがこの二つを截然と区別して、ジャンプこそアメリカ黒人音楽芸能史において重要なもので、その後のリズム&ブルーズを産み、結果的にロックの誕生にも繋がったことを強調したのは、僕にはやや合点がいかない面がないでもない。

 

 

とうようさんも黒人スウィングとジャンプは特に違わないというのが本音だったんだろうと僕は確信している。敢てこの二つを分けて、その一方であるジャンプを強調してその意義を繰返し述べたのは故意の戦略だっただろうと思うのだ。ジャズ・ファンが軽視・敵視し続けてきた黒人音楽芸能史に目を向けるためのね。

 

 

というのは例えば粟村政昭さんなど多くの<ジャズ=音楽芸術>論のピュアな信奉者の批評家の方々は、例えばジャンプ・ミュージックをやっていた1940年代後半のクーティ・ウィリアムズ楽団を「黒人音楽の悪しき伝統」などと罵って、そして多くの日本のジャズ・ファンもそれに追随していたからだ。

 

 

その1940年代後半のクーティ・ウィリアムズ楽団ではテナー・サックス奏者のエディ・ロックジョウ・デイヴィスが活躍し豪快なテナー・ブロウを聴かせてくれていた。多くのジャズ・ファンはああいうのこそ「悪しき伝統」だと思うんだろうけど、彼はその後カウント・ベイシー楽団に加入している。

 

 

以前も述べた通り(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/rb-6086.html)カウント・ベイシー楽団1958年の『アトミック・ベイシー』は、戦後ベイシーが最もリズム&ブルーズに接近している真っ黒けなアルバムなんだけど、この作品ではエディ・ロックジョウ・デイヴィスが大活躍している。

 

 

ベイシーはもちろん1940年代後半のクーティ・ウィリアムズ楽団でのエディ・ロックジョウ・デイヴィスを聴いていたに違いない。その豪快なテナー・ブロウ(ルーツはジャンプの聖典であるライオネル・ハンプトン楽団1942年の「フライング・ホーム」におけるイリノイ・ジャケー)ゆえに彼を雇ったに違いないんだよね。

 

 

そのジャンプの聖典とされる「フライング・ホーム」をやったライオネル・ハンプトン楽団のボスはジャズマンだし、他ならぬとうようさんが『大衆音楽の真実』のなかで、同じくジャンプ・クラシックであるアースキン・ホーキンス楽団の「アフター・アワーズ」と並べて、どっちも立派なジャズ作品であると述べているじゃないか。

 

 

ってことはとうようさんだって本音の部分では黒人スウィング・ジャズとジャンプ(「フライング・ホーム」も「アフター・アワーズ」も後者の先駆的古典とされている)とを区別なんかしていなかったってことだよなあ。以前一度だけ触れたんだけど、とうようさんの功罪みたいなものをちょっぴり感じちゃうんだなあ。

 

 

とうようさんのあの『ブラック・ミュージックの伝統』LPセット上下巻以後、黒人ジャンプ(やジャイヴ)を聴くファンが飛躍的に増えたわけだけど、それは主にブルーズ〜R&B〜ロック・ファンの間でのことで、それがジャズ・ファンと分離してしまい、現在までそれが続いているんだよね。

 

 

多くのジャズ・ファンはジャズ(に他ならないと僕は思っているよ)のなかでも特に猥雑で下世話で芸能色の強いブルーズ寄りのジャンプやジャイヴを毛嫌いして白眼視して無視し続け、一方とうようさんの手引でそれらの楽しさを知り聴くようになったファンは、そうではないシリアスな古典ジャズは聴かないという具合だもん。

 

 

どっちも同じようなジャズ音楽として区別せずに聴いてきた僕にとっては、こうした分断状態が歯がゆくてたまらないんだ。ひょっとしたらとうようさんの招いた事態だったんじゃないかと思ってしまうんだなあ。もちろんとうようさんがそれをやらなかったら、ジャンプやジャイヴを聴く人なんて全くいなくなってしまっていたんだろうけれどさ。

 

 

これは別にとうようさんの悪口を言っているんじゃないつもり。とうようさんがああいう仕事をやらなかったら、日本で芸能色の強いブルーズ寄りの下世話なジャズを聴くファンは、僕みたいにとうようさんの手引とは無関係にジャズならなんでも聴くファンなど極々一部の好事家だけのものになっていたかもしれない。

 

 

だからとうようさんの功績は本当に大きくて、僕も最大限に敬意を払っているつもりなんだけど、一度どこかで「黒人スウィングとジャンプはなにも違いません、同じものです、だからどっちも区別せずに聴きましょう」と書いておいてくれたらもっと良かったんじゃないかと思っちゃうんだなあ。

 

 

とうようさんのことはこれくらいにしておいて、前述のテナー・ブロワー、エディ・ロックジョウ・デイヴィスが在籍した1940年代後半のクーティ・ウィリアムズ楽団。もちろんジャンプ〜R&Bバンドだったけれど、クーティだってご存知の通りそれ以前はデューク・エリントン楽団で活躍した。

 

 

エリントン楽団なんて言わば「芸術ジャズ」の最高峰みたいな存在であって、芸能色の強いジャンプなんかとかすりもしないように思っているファンが多いはず。ところがそんなことは全然ないんだなあ。クーティ・ウィリアムズのような存在を輩出したのみならず、エリントン・スウィングの本質はファンクなんだよね。

 

 

それを強烈に実感したのが以前から何度か書いているドクター・ジョンの1999年作『デューク・エレガント』。エリントン曲集にして、それが全部ファンク・チューンに変貌しているというもので、このアルバムの音楽は誰が聴いたってファンクだと思うものだけど、実はエリントンの原曲に最初からそのフィーリングがあるもんね。

 

 

このことは以前ドクター・ジョンの『デューク・エレガント』について詳述した際に強調した(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-4585.html)ので繰返さない。このアルバムに多い戦前のエリントン楽曲がファンクなら、同時期1930年代のカウント・ベイシー楽団の楽曲にファンク・フィーリングを感じたってちっともオカシくなんかないじゃないか。

 

 

ご存知の通り戦前のベイシー楽団はブルーズ・ナンバーばっかりの、いわばブルーズ・バンドであって、しかもそのリズムは強く跳ねて(ジャンプして)いて、さらにベイシーの弾くピアノ・イントロや間奏などでは明確にブギウギのパターンが聴けるものが多い。要はジャンプだ。

 

 

ブギウギのリズム・パターンはそのままロック・ビートの土台にもなっているんだけど、こういったブルーズ・ベースの跳ねるビートこそが1960年代末からのファンク・ミュージックのルーツに間違いない。やや遠いかもしれないが直系の祖先だ。ブルーズとファンクは祖父と孫みたいなものなんだよね。

 

 

現にファンクをやるブルーズマンはジェイムズ・コットンやロウエル・フルスンの例を出さなくても多いし、逆にファンカーがブルーズ・ナンバーを歌うことだって多い。ファンクの権化みたいなジェイムズ・ブラウンに3コードのブルーズ曲は多いとは言えないが、それでもまあまああるし、R&Bナンバーならキャリアの最初からたくさんあるよね。

 

 

R&Bとブルーズなんてなにも違わないもんね。こんなの別に僕が強調しなくたってみんな分っていることで、ブルーズ〜R&B〜ソウル〜ファンクは全てあまり違わない音楽だ。するとだよ、この手の音楽性を明確に音で示した最初は誰か?と探すと1930年代のカウント・ベイシー楽団になっちゃうんだなあ。

 

 

それにいろんなアレンジャーを使って複雑なアレンジもこなした戦後ベイシーと違って、1930年代の同楽団は以前強調したように(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-19e8.html)アンサンブル部分はシンプルなリフの反復ばっかりで、同一パターン反復というファンクの手法に酷似しているんだよね。

 

 

う〜ん、やっぱりあんまり説得力のある文章にはなってないなあ。しょうがない、僕の筆力なんてこんなものでしかない。とにかく戦前ベイシー楽団のファンはファンクを、ファンクのファンは戦前ベイシー楽団を聴いてほしい。どっちかだけというんじゃなく両方聴いた方がきっともっと面白い!

2016/07/04

ビートルズを歌う最近のポールと英国式ユーモア

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ビートルズ解散後のポール・マッカートニーのソロ・アルバムで一番好きなのは1991年の『アンプラグド(公式海賊盤)』なのだ。こういうポール・ファンは少ないかもしれない。普通はもっと前、1970年代のソロ『ラム』とかウィングズの『バンド・オン・ザ・ラン』とかだよなあ。僕も好きだけどね。

 

 

その頃1970〜80年代はかつてのビートルズ・ナンバーをあまりやらなかったポール。やはり<ポスト・ビートルズ>ということを強く意識していたんだろうなあ。それはそれで音楽家としての立派な矜持だったと思うのだが、僕などはソロ・ナンバーもいいけどビートルズ・ナンバーの方がもっといいんだなあ。

 

 

それがポールもいつ頃からか、スタジオ・アルバムではやはり新曲をやるものの、ライヴではそれらに混じってたくさんのビートルズ時代の曲をやるようになって、僕が聴いた最初は1989/90年のライヴ・ツアーからの録音を二枚組CDに収録した『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』だった。

 

 

あの二枚組ライヴ・アルバムも大好きなんだよね。なんたってビートルズ・コーナーがあるくらいだ。「さあ、ここで神秘的だった時代に戻るよ、あのシックスティーズという時代に」と喋りながらピアノを弾き、そしてそのまま「ザ・ロング・アンド・ザ・ワインディング・ロード」がはじまる。それに続いて四曲のビートルズ・ナンバー。

 

 

ビートルズ・コーナーでなくても『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』には「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」「バースデイ」「シングズ・ウィ・セッド・トゥデイ」「エリナ・リグビー」「バック・イン・ジ・USSR」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」なども収録されている。

 

 

さらに「イエスタデイ」「ゲット・バック」、そして「ゴールデン・スランバー」〜「キャリー・ザット・ウェイト」〜「ジ・エンド」のあのメドレーもあって、『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』では実に多くのビートルズ時代のポールの自作曲が随所にちりばめられていて本当に楽しい。僕はリアルタイムではポールのソロ活動の方に思い入れがある世代なのになあ。

 

 

それらビートルズ・ナンバーはアレンジもほぼそのままで、例えば『レット・イット・ビー』でフィル・スペクターが付加したあの華美なオーケストラ伴奏を批判して、1970年代はシンプルなアレンジでやっていた「ザ・ロング・アンド・ザ・ワインディング・ロード」だって豪華な伴奏入りだ。

 

 

その豪華なオーケストラ伴奏は、『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』ではポール・ウィキンスがシンセサイザーで出している。ポールとロビー・マッキントッシュのギター・バトルが聴ける「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でもやはりシンセサイザーでオーケストラ伴奏やSEを再現。

 

 

そんな具合である時期以後はこんなにビートルズ・ナンバーをやってもいいのかと心配するくらいやるようになっているポール・マッカートニー。ライヴ盤での『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』の次作が翌1991年の『アンプラグド』で、ここでもビートルズ・ナンバーが多い。

 

 

タイトル通り例のMTVの企画によるアクースティック・ライヴだから全部生楽器。ヘイミッシュ・スチュアートが弾くベースも(アップライト・ベースではなく)ギター型のアクースティック四弦ベース。鍵盤担当のポール・ウィキンスはアクースティック・ピアノかオルガンかアコーディオンだ。ポールは主にギターを担当。

 

 

『アンプラグド』が大好きな理由のもう一つとして古いリズム&ブルーズ〜ロックンロール・ナンバーのカヴァーが多いというのもある。なんたって一曲目(現場では違ったらしいが)がジーン・ヴィンセントの「ビ・バップ・ア・ルーラ」だ。ジョン・レノンの『ロックンロール』でも一曲目だったので意識したのかもね。

 

 

その他エルヴィスがやったビル・モンローの「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」、エリック・クラプトンも『アンプラグド』でやることになるジェシー・フラーの「サン・フランシスコ・ベイ・ブルーズ」、トミー・タッカーの「ハイ・ヒール・スニッカーズ」、ロイ・ブラウンの「グッド・ロッキン・トゥナイト」など。

 

 

メルヴィン・エンズリーの「シンギング・ザ・ブルーズ」や、古くはないがビル・ウィザーズの「エイント・ノー・サンシャイン」もやっている。それら有名スタンダードやビートルズ・ナンバーやソロ時代の曲は、一番新しいものでも1970年の『マッカートニー』からのもので、それを全部アクースティック楽器だけでやっているからねえ。

 

 

四曲目の「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」なんか、最初ビル・モンローのオリジナル・ブルーグラス・ヴァージョンそっくりにはじまってワン・コーラスやると、突然ポールがギターをアップ・ビートで刻みだして、エルヴィス・ヴァージョンに移行するという面白さ。

 

 

「サン・フランシスコ・ベイ・ブルーズ」は、書いたように二年後に同じ『アンプラグド』企画でエリック・クラプトンもやるんだけど、クラプトンのあのアルバムでは「アルバータ」と並んで唯一今でも聴けると思うものだなあ。クラプトンのヴァージョンでは全員がカズーを吹いていてそれも面白い。

 

 

ポールの「サン・フランシスコ・ベイ・ブルーズ」の方が二年早い録音なんだけど、アレンジはクラプトンのもだいたい同じ。歌詞が少し違うけれど、古いブルーズ(やフォーク・ソング)などではよくあることだ。ポール・ヴァージョンではロビー・マッキントッシュがドブロでスライドを聴かせてくれるのもイイ。

 

 

ロビー・マッキントッシュはこのアルバムの多くでドブロ(リゾネイター・ギターの一種というか正式にはブランド名)を弾きしかもスライドを多く使っているから僕好みなんだよね。またポール・ウィキンスのピアノがプロフェッサー・ロングヘア風なニューオーリンズ・スタイルでコロコロ跳ねているのもイイ。

 

 

またビートルズ時代から聴けるポールの英国風ユーモア・センスが散りばめられているのも楽しい。二曲目の14歳の時に書いたと紹介する「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」が終ると、「そして長い長い時を経てこの曲を書きました」と物語風の紹介で「ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア」がはじまる。

 

 

「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」をはじめる前の曲紹介では、「ビル・モンローの曲です、(マリリン・)モンローの死についての曲」などと言うし、「サン・フランシスコ・ベイ・ブルーズ」の曲紹介では「ランブリン・ジャック・エリオットのレコードで知ったんだよ、T・S の息子」などと言う。

 

 

誰でも知っているマリリン・モンローと違って、T・S・エリオットなんて英文学に縁の薄いロック・リスナーの方はご存知ないかもしれないけれど、米国生れで英国で活躍した20世紀前半の大詩人。イギリス人ならみんな知っている有名人だ。

 

 

「ウィ・キャン・ワーク・イット・アウト」では出だしの歌詞を間違えてしまい演奏を止めて、「僕、今、歌詞を間違えたよね」と照れた後再開しようとすると、誰の声なのか「ちょっと待って、歌詞はどこ?」と言われ、「え〜と、え〜と・・・」などとわざと戸惑ってみせるのも笑わせる。

 

 

以前も一度触れたけれど、『アンプラグド』でやっている「アンド・アイ・ラヴ・ハー」は、ビートルズでのオリジナルよりグッとテンポを落して官能性の強い仕上りになっていて、どう聴いても僕の耳にはこっちがビートルズ・ヴァージョンを超えているように思える。

 

 

 

そんな具合でとても楽しいポール・マッカートニーの『アンプラグド』。古参ロック・ミュージシャンによる『アンプラグド』アルバムでは一番出来がいいように思うし、個人的には今でも一番よく聴くものだ。ポールはこの後現在までに四つのライヴ・アルバムを出していて、どれもやはりビートルズ・ナンバーが多いんだよね。

 

 

一昨年だったか武道館でもやったらしい来日公演でもやはりビートルズ・ナンバーを多くやったようだし、1970〜80年代と違って90年代以後のポールは、良い意味で過去へのこだわりみたいなものがなくなって、ジョンもジョージも亡き今、自分が遺産を伝えていかなくちゃという気持になっているのかもしれないね。

2016/07/03

アラン・トゥーサンのニューオーリンズ・ジャズ

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こないだリリースされたばかりの遺作『アメリカン・チューンズ』があまり面白くなかったアラン・トゥーサン。それでもラテン調の「ワルツ・フォー・デビイ」(!)などそれなりに聴き所はあるアルバムだったので、気が付いたところをまたなにか書こうと思う。ところで彼のアルバムで僕が一番好きなのは2008年録音の『ザ・ブライト・ミシシッピ』なのだ。

 

 

2009年リリースの『ザ・ブライト・ミシシッピ』が一番好きだなんていうアラン・トゥーサン・リスナーはほぼいないだろうなあ。僕もこれがアランのベストだなどとは思わない。普通は1970年代のリプリーズ録音、『ライフ、ラヴ・アンド・フェイス』とか『サザン・ナイツ』とかだよなあ。

 

 

『ザ・ブライト・ミシシッピ』が一番の個人的フェイヴァリットである理由ははっきりしていて、これはアランのアルバムのなかでは一番ストレートなジャズ・アルバムだからだ。もちろんアランは初期からジャズの影響がはっきり聞取れるけれど、アルバム丸ごとこれだけジャズそのものというのはそれまでなかったはず。

 

 

アルバム・タイトルがアルバム中でもやっているセロニアス・モンクの曲の名前だし、それ以外も有名なジャズ・ナンバーばかり。一曲だけスピリチュアルズ・ナンバーの「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」が入っているけれど、これだってジャズメンがよく採り上げるもんね。

 

 

参加メンバーもほぼ全員ジャズメンばかり。最近のジャズに興味のある方が一番注目しそうなのはおそらくピアニストのブラッド・メルドーだろう。しかしアランもピアニストだ。メルドーが(アランとのデュオで)弾いているのは五曲目のジェリー・ロール・モートン・ナンバー「ウィニン・ボーイ・ブルーズ」だけで、他は全部アラン一人。

 

 

一番目立つのがトランペットのニコラス・ペイトンで、アランはどうもこのニコラスにルイ・アームストロングみたいな役割を期待して使っているんだろう。アルバムの音を聴くとそんな雰囲気のニューオーリンズ・ジャズばっかりだし、サッチモがやった曲も複数あるし、トランペットの音がよく似ているし。

 

 

ホント古い曲ばっかりなのだ。シドニー・ベシェの「エジプシャン・ファンタジー」、ビックス・バイダーベックで有名なオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「シンギン・ザ・ブルーズ」、二曲のエリントン・ナンバー「デイ・ドリーム」「ソリチュード」、スタンダードの「ディア・オールド・サウスランド」「セント・ジェームズ病院」など。

 

 

ブラッド・メルドーがアランとデュオで弾くジェリー・ロール・モートンの「ウィニン・ボーイ・ブルーズ」もいつものメルドーっぽくないニューオーリンズ・スタイルな弾き方で、アランのピアノと似ているので、ぼんやり聴いているとどっちがどっちか分らないんじゃないかと思うほどだ。

 

 

サッチモで有名な「ディア・オールド・サウスランド」「ウエスト・エンド・ブルーズ」では、サッチモ・スタイルで吹くニコラス・ペイトンが大活躍。以前書いた通り(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-946f.html)「ディア・オールド・サウスランド」こそサッチモ生涯のベストと信じる僕には嬉しい選曲。

 

 

アランの「ディア・オールド・サウスランド」もサッチモの1930年オーケー録音と同様にピアノとトランペットのデュオ演奏だから、アランは間違いなくサッチモを意識しているね。これは本当にイイ。アランのピアノはサッチモ・ヴァージョンのバック・ワシントンよりいいけれど、ニコラス・ペイトンは到底サッチモには及ぶわけもない。

 

 

ちょっとそのアランとニコラス・ペイトンのデュオ・ヴァージョンを貼っておこう→ https://www.youtube.com/watch?v=ud-_o8l4zHc  一方強く意識したに違いない1930年サッチモ・ヴァージョンはこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=MPjQJ9lgG98  よく似ているじゃないか。

 

 

もう一曲僕にはサッチモ・ヴァージョンが馴染み深い「セント・ジェームズ病院」ではトランペットは入らず、アランのピアノとマーク・リボーのリゾネイター・ギターのデュオ。マーク・リボーはこのアルバム唯一の生粋のジャズ人脈とは言えないギタリストだけど、なかなかりいい「セント・ジェームズ病院」だ。

 

 

ビックス・バイダーベック・ヴァージョンがおそらくは一番有名であろう「シンギン・ザ・ブルーズ」で吹くニコラス・ペイトンは、ビックス・スタイルではなくサッチモ的にヴィブラートの効いたサウンドで吹いていて、ビックス・ヴァージョンやそれを模したボビー・ハケットなど白人ジャズ・トランペッターで馴染んでいる僕には新鮮な響き。

 

 

サッチモの1928年録音が至高のものである「ウェスト・エンド・ブルーズ」(これはサッチモのオリジナルではなく、師匠のキング・オリヴァーの曲)だとニコラス・ペイトンも健闘してはいて、ウィントン・マルサリスのなんかよりはいいだろうと思うけど、まあしかしサッチモのが凄すぎるからなあ。

 

 

その「ウェスト・エンド・ブルーズ」では後半マーク・リボーのリゾネイター・ギターも入るという面白さ。リゾネイター・ギターって米ルーツ音楽で使われることが多いけれど、それをニューオーリンズ・スタイルのジャズ演奏で使うというアイデアには感心しちゃうなあ。

 

 

マーク・リボーは六曲目のジャンゴ・ラインハルト・ナンバー「ブルー・ドラッグ」でももちろん弾いていて、ここでは普通のアクースティック・ギターの音がする。ジャンゴ・ヴァージョンはステファン・グラッペリなども入るフランス・ホット・クラブ五重奏団の演奏だけど、ここではピアノとのデュオ中心。

 

 

スピリチュアルズ・ナンバー「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」ではドン・バイロンのクラリネットがフィーチャーされている。好きなリード奏者なんだよね。そして僕にはそれが1940年代のニューオーリンズ・リヴァイヴァル以後たくさん録音したクラリネット奏者ジョージ・ルイスみたいに聞えるんだよね。

 

 

もちろんジョージ・ルイスも「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」を何度も取上げて録音もしているから、現在CDで聴けるものだけでも三種類ある。初期ニューオーリンズ・ジャズのレパートリーには宗教曲がかなり多いことは以前も書いた。

 

 

 

ジョージ・ルイスという古老クラリネット奏者を憶えている人がどれだけいるのだろう?僕はかなりのファンで大学生の時にたくさんレコードを聴いていて、今でもCDを数枚持っているんだけどね。まあしかし古いニューオーリンズ・スタイルの人だからなあ。やはりアランは意識しているよなあ、ニューオーリンズ・ジャズを。

 

 

セロニアス・モンクの「ブライト・ミシシッピ」だって集団合奏中心の誕生期ニューオーリンズ・ジャズ・スタイルでやっているもんなあ。モンクのは例えばこんな感じ→ https://www.youtube.com/watch?v=4M-qyDt6Ocs  一方アランのヴァージョンはこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=VY_e6Sdh6Mc

 

 

エリントンとストレイホーンの合作(という登録だからおそらくストレイホーンが書いたんだろう)「デイ・ドリーム」。この曲だけテナー・サックスのジョシュア・レッドマンがフィーチャーされている。普段あまりいいと思わないテナー奏者だけど、ここではまるでベン・ウェブスターみたいだ。

 

 

ジョシュア・レッドマンをベン・ウェブスターみたいとは褒めすぎなんだけど、それくらいヴィブラートの効いたセクシーなテナー・サウンドだしなあ。エリントン楽団では1941年ヴィクターへの初演をはじめとして、いつもジョニー・ホッジズのエロいアルトをフィーチャーしていた。

 

 

ラストのこれは正真正銘エリントンの書いた曲「ソリチュード」はアランのピアノとマーク・リボーのアクースティック・ギターとのデュオ演奏で、これがもうこの上なく美しい。元から美しい曲だけど、これはもう涙が出そうになるほどだ。

 

 

 

アランの『ザ・ブライト・ミシシッピ』というアルバムは、こんな具合で古いジャズ・ナンバーを中心に、しかも初期ニューオーリンズ・スタイルでやっていて、きっかけになったのは2005年のハリケーン・カトリーナだろう(ドクター・ジョンもそんなアルバムを創った)けど、まるで僕個人のために創ってくれたのかと思うほど好きなんだよね。

 

 

 

(後記)この記事をアップロード後確認してみたら、アランの『ザ・ブライト・ミシシッピ』収録曲の YouTube 音源は全て削除されている。残念だが仕方がない。みなさんCDを買って聴いてみてほしい。

2016/07/02

バイオーンを歌う東京娘

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バイオーンというブラジル音楽があって、間違いなくルイス・ゴンザーガが最も有名な音楽家。歌手でアコーディオン奏者の彼が、元々ブラジル北東部バイーア地方発祥らしいこの種の音楽を新しいダンス・ミュージックとして創り上げたのが第二次大戦終了直後あたりのこと。

 

 

1950年代に入るとバイオーンは世界的に流行するようになって、かのパーシー・フェイス楽団ですら「デリカード」というバイオーン・リズムの曲(ヴァルジール・アゼヴェードの書いた曲だけど)を録音したのがヒットしたり映画音楽に使われたりして有名になった。

 

 

そのバイオーンをいち早く採り入れてバイオーン歌謡みたいなものを歌った日本人歌手がいる。熱心なファンもいらっしゃるはずの生田恵子こそがその人だ。生田恵子、しかし一般的には今ではいったいどれくらいの方が憶えているのだろうか?昭和20年代後半あたりの歌謡曲に興味のあるファンだけかもしれないなあ。

 

 

もちろん僕だって偉そうなことは全然言えない。日本ビクターエンターテイメントが1999年にリイシューしたCD『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』が出るまで名前を聞いたことすら全くなかったんだから。当然生田恵子の歌を全く一つも知らなかった。僕の生まれる前に活動した歌手だしね。

 

 

名前すら全く知らなかった歌手の『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』をどうして買ったのかというと、『ミュージック・マガジン』で中村とうようさんがディスク・レヴューを書いていて、そのなかで生田恵子をかなり褒めてあったからだ。しかしこの事実を僕は完全に忘れてしまっていた。

 

 

思いだしたのはなぜかというと、『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』CDを久しぶりに引っ張り出してきて、聴きながらブックレットを読もうと思って出してめくってみたら、そのなかに前述のとうようさんのディスク・レヴューの切抜きが挟んであったからだった。僕は時々これをやるんだよね。

 

 

洋楽ものでも日本盤だとライナーノーツが付いてくることもあるけれど、ライスとかディスコロヒアみたいなそれでしか買えないリイシューものを除けば、僕は多くの場合輸入盤(大抵は本国盤)を買うので、その場合全く解説文がない場合もあるから、日本語か英語の紹介記事やレヴューがあれば切抜いてパッケージに挟むことがある。

 

 

しかし『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』の場合は田中勝則さんが書いたかなり詳しい、というかおそらく生田恵子についてこれだけ詳しくまとまった文章は他に一個もないはずというブックレットが附属しているのに、どうしてとうようさんの記事を切抜いたんだろう?

 

 

そのあたりはもう全然憶えていないんだけど、とにかくその『ミュージック・マガジン』でのとうようさんのディスク・レヴュー切抜きが挟んであるのが出てきたので、それで間違いなくそれを読んで興味を持って『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』を買ったんだねと思い出したという次第。

 

 

アルバム・タイトルで分る通り1951〜56年の生田恵子の、どれもこれもリズムが活発な、なんというかリズム歌謡(のなかに生田恵子が入っているのは見たことないが)みたいなものばかり全24曲並んでいる。そしてその冒頭の1951年録音の三曲はなんとブラジル現地録音なんだよね。日本人がブラジルに渡り現地の音楽家と共演録音した初だ。

 

 

そもそもバイオーンと言わずなにと言わずブラジル音楽が日本で本格的に愛好されるようになったのは1970年代に入ってからのことで、ましてや日本人歌手がブラジルで録音するなんてのは80年代末頃からの話だ。生田恵子のブラジル録音は1951年だからねえ。そもそも渡航自体苦労があったはずだ。

 

 

しかもバイオーンは1940年代後半に成立した音楽なんだから、それを外国人歌手が1951年に歌うなんてのは間違いなく世界初の例だろう。さらに『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』冒頭三曲ブラジル録音のうち二曲は、ルイス・ゴンザーガの書いたオリジナル曲なんだよね。

 

 

さらにブックレット解説文の田中勝則さんによれば、生田恵子のそれら三曲のブラジル録音の際、ルイス・ゴンザーガその人がスタジオを訪れて歌唱指導し、録音後に生田恵子に「なかなか良かったよ」と言ったんだそうだ。これ、1951年の話だからね。しかし彼女はどうしてバイオーンを歌ったんだろうなあ。

 

 

生田恵子のブラジル録音三曲は「バイヨン踊り」「復讐」「パライーバ」。最初の "Baião de dois" と最後の" Paraíba" がルイス・ゴンザーガの曲。「復讐」(Vingança)はルピシニオ・ロドリゲス作曲のサンバ・カンソーンだ。これら三曲はアルバムのなかでも異常に素晴しい。

 

 

とにかくその一曲目の「バイヨン踊り」を聴いていただこう。伴奏も本当に素晴しいんだど、それはレジオナール・ド・カニョート。当時ブラジルでも最高のショーロ・バンドの一つだったもんね。アコーディオンがゴンザーガだったら最高だったんだけど。

 

 

 

「復讐」は YouTube に上がっていないんだけど、「パライーバ」はあるからそれも貼っておこう。「バイヨン踊り」とこの「パライーバ」、バンドの演奏の素晴しさは言うまでもないけれど、生田恵子のヴォーカルだって負けていない一級品だよね。

 

 

 

さすがルイス・ゴンザーガが直接指導したというだけある素晴しい歌のノリだ。1951年時点でブラジル音楽をこれだけリズム感よく歌えた日本人歌手は間違いなく生田恵子ただ一人。いや世界中探したって51年ならブラジル国外には一人も存在しなかったんじゃないかなあ。

 

 

生田恵子のブラジル録音はそれら三曲だけで、それが『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』のトップに並んでいる。四曲目からは日本帰国後の1952年の東京録音になる。そのトップ四曲目が「バイヨン踊り」の再演。伴奏は当然日本人演奏家で、ビクターの専属オーケストラだ。なかなか悪くない。

 

 

悪くないどころか1952年時点で、ルイス・ゴンザーガが書いたブラジル音楽のノリを日本人がよくここまで表現できたもんだと感心できる演奏ぶりだ(YouTubeには上がっていない)。前年51年のブラジル録音ヴァージョンとは歌詞が全面的に書換えられている。それを歌う生田恵子の歌もいい。

 

 

しかしながら1951年ブラジル録音の「バイヨン踊り」が現地の最高のショーロ・バンドを起用してルイス・ゴンザーガ指導のもとで録音されたものだから、上で貼ったのをお聴きになればお分りの通り、バイオーンの猛烈なグルーヴを表現していて、だからそれと比較することはできないよなあ。

 

 

生田恵子は1952年から様々なブラジル〜ラテン音楽をベースにしたような歌謡曲を歌っていて、それが『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』に収録されている。「東京バイヨン」「リオから来た女」「恋の花咲くサンパウロ」「陽気なバイヨン娘」「キャリオカ娘」なんていう曲名ばかり。

 

 

あるいは「銀座マンボ」「ちゃっきりマンボ」「マンボ香港」みたいな曲名とか、「東京ボレロ」だとか「セビリア港」だとか、そんないろんなラテン音楽風な曲名ばっかりだし、聴いてみてもやはりそんなブラジル〜ラテンなリズムと曲調なんだよね。それらを生田恵子の超一品のリズム感で聴かせてくれる。

 

 

18曲目の「セビリア娘」では、セビリア(セビージャ)というだけあってナイロン弦(あるいは当時ならガットか?)のスパニッシュ・ギターをかき鳴らす音に乗せて歌う、伴奏がギターだけという一曲。また19曲目の「東京ボレロ」はリズム・パターンがモーリス・ラヴェルの「ボレロ」そのまんまだ。

 

 

29曲目の「会津磐梯サンバ」は服部良一の作曲で1954年録音。日本民謡「会津磐梯山」をモチーフに、それを洋楽風(この場合サンバ)に仕立て上げるという服部良一お得意の書法。歌詞のなかで後半「小原庄助さん、なんでサンバ踊った?」なんていうのが出てきて面白くて笑っちゃう。

 

 

曲名も曲調も歌詞内容も全部ブラジル〜ラテンなリズム歌謡ばかりの『東京バイヨン娘〜生田恵子 1951〜1956』。まどろっこしいところのないキッパリ、サッパリして軽快な歌い口、当時の日本人歌手ではこれ以上の人は美空ひばりだけだっただろうというような抜群のリズム感。素晴しい歌手だ。

 

 

生田恵子なんて日本の歌謡曲ファンや研究家の間でも殆ど話題に上がらず注目もされず、今では忘れられているんじゃないかと思うけど、再発見してCDリイシューにまで漕ぎ着けたのは田中勝則さんほか洋楽関係者の尽力だったんだよね。1951〜56年の録音集だから生田恵子が歌ったのは戦後復興期だ。

 

 

そんな時期にこれだけ明るくてリズムのノリの見事に素晴しい女性歌手がいたってことに、もうちょっと注目してもいいんじゃないかなあ。具体的な名前は出さないが戦前から活躍する人でリズム感が悪くて気持悪い大御所的歌手(男女とも)ばかりが今でも評価されて、生田恵子みたいな歌手がサッパリ注目されないのはどうしてなんだ?

2016/07/01

マイルスを編集するテオの腕は確かだった

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だいぶ前の話だが、1970/6/19のマイルス・デイヴィスのフィルモア金曜日、真の完全版をYouTubeにアップした。本演奏前のバンド・ウォーミング・アップが入っていないものしかなかったので。本演奏前なんかと言うなかれ。編集後の「フライデイ・マイルス」(『マイルス・アット・フィルモア』)の出だし数秒間はそのウォーミング・アップから採用されている。だからこれがないとダメ。

 

 

ついでに水曜日・木曜日・土曜日の完全ヴァージョンもアップしておいた。僕が探した範囲では、四日ともバンド・ウォーミング・アップから全部入っている「真の意味での」完全版は上がってなかった。この真の意味での完全版ブートレグが出たのは、ほんの数年前のこと。

 

 

その後2014年にレガシーから「完全版」と銘打ってその1970年6月のフィルモア四日間のフル・ヴァージョンが発売されたけど、これは冒頭のウォーミング・アップが入っていない不完全版だったので、一度聴いてそれを確かめた後は二度と聴いていない。以前も書いたけどチック・コリアとキース・ジャレットの左右チャンネル配置も逆になっているし、公式盤はダメだ。

 

 

というわけで本当の意味での完全版であるブート音源しか聴かないフィルモア完全盤なんだけど、1970年当時、ここからテオ・マセロが編集してリリースした二枚組LP『マイルス・アット・フィルモア』だけを聴いていてはなかなか分りにくかったことが、その完全盤四枚ではいろいろとよく分るのだ。

 

 

まず一番違うのがスティーヴ・グロスマンのサックス。編集後の二枚組『マイルス・アット・フィルモア』ではソプラノしか吹いていないようになっているけど、完全盤を聴くと実はテナーを吹いている時間の方が長い。これは最初に聴いた時かなり意外だった。おかげで完全盤の方はややジャジーだ。

 

 

1970年の数ヶ月しかマイルス・バンドに在籍せず、プレイが聴けるアルバムもあまりないグロスマンだけど、当時の公式盤では全部ソプラノ・サックスしか吹いていなかった。というか編集された結果そういうことになっていた。フィルモアだけでなく『ジャック・ジョンスン』でもソプラノしか聞えないし。

 

 

フィルモア金曜日の完全音源を聴いても、一曲目の「ディレクションズ」でもテナー、二曲目のチック・コリア・ナンバー「ザ・マスク」でもテナー。しかしこの二曲は『マイルス・アット・フィルモア』では全面的にカットされているので分らない。

 

 

ラストの「ビッチズ・ブルー」でもテナーを吹いているんだが、これもグロスマンのソロ部分に関してのみなぜか全面的にカット。ソプラノを吹いているのは「イッツ・アバウト・ザット・タイム」だけで、『マイルス・アット・フィルモア』金曜日にはそれしか入っていないので、ソプラノの印象になってしまう。

 

 

他の三日間も同様で、本番ではテナーを吹いている時間の方が圧倒的に長いグロスマンだけど、それは二枚組『マイルス・アット・フィルモア』には一切収録されておらず、グロスマンはソプラノ吹奏のイメージしかなかった。こうなるとテオ・マセロによるなんらかの編集意図を感じざるを得ないね。

 

 

またキース・ジャレットについても、四日間とも一曲目の「ディレクションズ」と二曲目の「ザ・マスク」の間に、オルガンによる三分ほどの即興演奏があるのだが(これをどう扱うか僕は困って、結局YouTubeでの記述では「ディレクションズ」の末尾とした)、これもばっさりカットされている。

 

 

1969年のロスト・クインテットの頃はあれだけ過激で尖ったフェンダー・ローズを弾いていたチック・コリアだけど、70年6月のフィルモアの頃になるとそれがやや影を潜めてしまい、新加入のキース・ジャレットがどっちかというと主導権を握るようになっているのが、完全盤を聴くとよく分る。

 

 

しかしそのキースのリーダーシップが分るのは、従来盤『マイルス・アット・フィルモア』金曜日では「イッツ・アバウト・ザット・タイム」終盤のプレイくらいで、それ以外はチックの方がよく弾いているように聞えてしまう。従来盤では土曜日に少しチックとキースの即興インタープレイが入っている程度。

 

 

その「サタデイ・マイルス」でのチックとキースのインタープレイだって、他の曜日の二人の絡みだって、完全盤を聴くと当日はもっと過激で凄かったのだが、従来盤二枚組ではほぼカットされているんだなあ。同年12月収録の『ライヴ・イーヴル』だってキースの弾くソロ・エレピはばっさりカットだ。

 

 

その他様々なことが完全盤を聴かないと分らないフィルモア音源だけど、じゃあ完全盤が出たから従来盤二枚組はもう聴かないかというと、実はそんなこともないのだ。これは同様の事情がある『ライヴ・イーヴル』もそうで、『セラー・ドア・セッションズ 1970』が出た後もやっぱり聴くんだよね。

 

 

テオ・マセロによる編集意図(とマイルス本人の意図もあったと思う、編集作業には大抵立会っていたようだから)がどういうものだったかは、本人が死んでいるから音で判断するしかないんだけど、聴いた限りではフィルモアもセラー・ドアも編集前の元演奏はややジャジー。編集後はそれがぼぼ消えてシャープになっている。

 

 

そういういわばジャジーな要素を代表しているのがグロスマンのテナーとキース・ジャレットの即興演奏で、それらを含めカットして編集した後の「作品」は、1970年当時の時代の先鋭的なサウンドに変化している。スピーディーでカッコイイ。テオの編集は大成功だったわけで、だからこそ当時から評価された。

 

 

1970年8月の英国ワイト島でのライヴ音源「コール・イット・エニイシング」だって、オリジナル演奏は約50分くらいなんだけど、当時発売されたのはそこからテオが12分程度に編集したもの。完全盤も今では公式にリリースされていて誰でも簡単に聴けるけど、これだって編集後の短いものの方がカッコいいんだよね。

 

 

テオはマイルス1983年の『スター・ピープル』での、特にB面一曲目のアルバム・タイトル曲での編集と音加工が、この時は立会っていなかったマイルス本人に評判が悪くて(特にドラムスの音がひどいと嘆いていた)、それでマイルスとの関係が難しくなってしまい、その結果次作の『デコイ』からテオはマイルスのプロデューサーでなくなった。

 

 

そして『デコイ』の次の1985年作『ユア・アンダー・アレスト』がマイルスのコロンビア最終作になって、その後はワーナーに移籍したわけだから、移籍の遠因を作ったのはテオだったのかもしれない。その後も過去のマイルス音源のCDリイシューの際のリマスター作成等には関わったテオだけど、直接の関係はなくなった。

 

 

テオがマイルスのアルバム制作に携り始めるのは1958年録音の『ポーギー&ベス』の途中から。テオ単独でのプロデュースになるのは61年録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』から。その後はさっき書いたように83年の『スター・ピープル』までマイルスの全作品制作に深く関係した。

 

 

そして『アガルタ』『パンゲア』以外のほぼ全てのマイルスのライヴ・アルバムでテオによる編集のハサミが入っていて、今ではそれらの多くの作品で編集前のオリジナル演奏も公式リリースされているけど、僕が聴いた実感では元演奏そのままより、当時発表された編集後の「作品」の方がカッコよく聞える。

 

 

生前のテオは、編集したのは常にコピーしたテープで、オリジナル・テープは手つかずで残してあるから、自分の編集が気に入らなければいつでもやり直すことができるんだと語っていた。実際その通りオリジナル・テープから編集前の演奏が発売されているわけだけど、僕はテオの編集が好きなんだよね。

 

 

おそらく誰が再編集してもテオ・マセロが作ったヴァージョン以上にカッコイイものは作れないはずだ。まあそういうテオの編集手腕の確かさも、編集前の元演奏が発売されるようになってから初めて本当に理解できるようになったんだけどね。それ以前は編集前のオリジナルを聴かせろと散々言われていたよなあ。

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