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2016/07/28

生演奏音楽と複製録音音楽

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商業化され普及したのは20世紀初頭のことだけど、録音技術そのものは19世紀末に発明されている。1857年フランスのレオン・スコットがフォノトグラフ (phonautograph) というものを開発したのが人類史上初。しかしこれは実用化できるものではなかったので普及しなかった。

 

 

実質的には1876年にグレアム・ベルによる電話機の発明により録音・再生技術の開発がはじまって、その翌年1977年にトーマス・エジソンがフォノグラフを発明したのが、事実上のレコード第一号と言えるだろう。エジソンは音楽用にではなく、盲人用の補助システムとして開発したのだった。

 

 

だから音楽を録音するレコードは1887年ドイツのエミール・ベルリナーがグラモフォンを発明したのが最初。グラモフォンは水平の円盤形のもので、すなわちその後20世紀に入り普及し現在のLPやCDまで続いている録音媒体と同じようなものだった。これに対抗してエジソンも円筒型の蝋管録音を開発。

 

 

しばらくはベルリナーのグラモフォンとエジソンの蝋管が覇を競っていたらしい。その19世紀末頃から音楽の録音もはじまって、現在でも残っている録音音楽が存在する。水平の円盤形をしたグラモフォンの方が大量複製生産に適していたうえ、円盤形ゆえ両面録音も可能になって、こっちが市場を支配する。

 

 

そのグラモフォンが20世紀の初めあたりからどんどん一般的に普及して(音楽に限らない話だが、今日は音楽用途に限定する)レコードを録音・販売する商売も出現。そうしてレコード産業が本格化したのが僕の認識では1910年代じゃないかなあ。その時期から大量の商業録音が存在するから。

 

 

別に録音技術史・レコード史を云々したいわけではない(が非常に強い興味はある)。問題はレコードの普及以後、音楽の変化するスピードが急速にアップしたということだ。録音開始前の音楽、例えば西洋クラシック音楽や世界各地の民俗音楽などの世界では、音楽の変化の速度はゆっくりとしたものだったはず。

 

 

そりゃそうだろう、音楽を大量に複製することなどできず、生演奏による口伝か楽譜などに記すかしか伝達手段がなかったんだから。ライヴ会場でのPAなんかあるわけないから生音だけで、従って一度に同じ音楽を聴いて共有できる人間の数はかなり限られていた。交通や流通の手段もかなり限定されていた(飛行機はおろか自動車だってまだ存在しない)。

 

 

ということは誰かがどこかで創り出した新しい音楽が多くの人の耳に届くようになるまでに相当な時間がかかっていたはずだ。そして相当な時間がかかって届いたとしても、録音されていないわけだからちょっと真似してみることだって容易ではない。だから新しい音楽が普及・拡散するのにはかなりの時間を要したはずだ。

 

 

そういうわけだから、世界各地の民俗音楽などはいまだにその過去の姿を鮮明に捉えることが難しい場合があるけれど、五線譜システムがあるので姿がかなりな程度まで分る西洋クラシック音楽の世界では、一つの音楽スタイルが出現した後、それが普及し次の新しいものが生まれるまで数十年か、場合によっては百年近い時間がかかっている。

 

 

ところがレコード技術の商業化とジャンルの成立もほぼ同時期なら、その後の歩みも軌を一にしてきたポピュラー・ミュージックの世界では、それ以前の西洋クラシック音楽(や世界各地の民俗音楽も同じだろうと思う)でかかった50年の変化がたったの5年で訪れるというような具合になっているよね。

 

 

これは言うまでもなくレコードやラジオなど録音複製音楽の大量生産・大量消費がもたらした現象に他ならない。自動車の大量生産と大衆への普及は1908年のT・モデル・フォードの発売以後で、これによって大量に生産されたレコードが瞬く間に各地に拡散し、誰でもどこでも簡単に聴けるようになった。

 

 

レコード・ショップが各地に誕生し安価なSP盤が売れて、SP盤を自分で買わなくたってジューク・ボックスがあったりラジオ放送がはじまったりして、同じ録音音楽を一度に大人数のリスナーが耳にすることになり現在に至る。そうすると新しいスタイルの音楽が普及する速度も段違いに速くなったわけだ。

 

 

これはまあ良いのか悪いのかちょっと分りにくいような面もある。いや、悪いってことはないと思いたい。なぜなら僕たち20世紀後半以後に産まれた世代の音楽ファンは、ただ一人の例外もなく全員がレコードやCDや配信など複製音楽大量頒布のお世話になってきているからだ。

 

 

僕らの世代の音楽ファンは産まれた時からレコードやラジオやテレビが当り前に身の回りにあったので、音楽複製大量消費の存在すら疑わないというか、当り前過ぎてそんな概念すら持っていない人が多いんじゃないかなあ。ちらっとでも考えてみたことすらないかもしれない。

 

 

そしてこの複製音楽の大量生産・大量消費によって、ちょっと奇妙な事態も発生するようになった。レコードなど録音複製音楽と生演奏音楽の逆転現象だ。言うまでもなく音楽は生演奏がオリジナル。これは2016年の現在でも全く変っていない。生のライヴ演奏こそが第一義的なもののはず。

 

 

ところがレコードが普及して、それは生演奏によるライヴ音楽に接する機会が容易ではない人達の間にも拡散したので、生演奏よりもむしろレコード音楽の方を第一義的に考えるようになるリスナーが誕生するようになっている。レコードのイメージを壊したくないという理由でライヴに足を運ばない人もいる。

 

 

この「レコードを聴いて自分のなかに作り上げたイメージが壊れてしまうのが嫌だから、生演奏のライヴ・ステージに足を運びたがらないファン」の存在というものは、僕も今までも何度か書いている。実際そういうジャズ・リスナーを現実生活で目の当りにしたことも何度かある。考えてみたら本末転倒だ。

 

 

もっとヘンだと思うのが、以前和田アキ子がテレビ番組で言っていた体験談。彼女の回想によれば、ある時のライヴ・ステージで、実演ならではのサーヴィスと思ってレコードとは違う節回しで歌ってみたら、「レコードと違う!」と文句を付けてきた観客がいたんだそうだ。この話を聞いた時は僕も驚いたけれど。

 

 

こりゃまた頭のオカシイ客もいるんだな、レコードと完全に同じであればレコードを聴けばいいんだから、ライヴではライヴならではの独自表現が聴けた方がいいに決っているじゃないかと、最初にその和田アキ子の話を聞いた時は僕もそう感じたんだよね。和田アキ子もかなり驚いたんだそうだよ。

 

 

長年僕のその印象は変らなかったのだが、どうもこの「レコードと同じ歌が聴きたい」という(最初は頭がオカシイと思った)客の反応、メンタリティは、実は全然おかしなものじゃなくて、至極当り前の日常的なものなのかもしれないなと、最近は僕もそう思うことがある。これこそが複製音楽の産物だからだ。

 

 

つまりある時期以後は、上で書いたように生演奏と録音物との意義が逆転しちゃってるんだなあ。20世紀半ば以後の生演奏に接する機会の乏しい音楽リスナーにとっては、レコードこそが第一義的な至高の存在で、たまに足を運ぶライヴは「レコードの再現」を聴くという場になっているんだなあ。

 

 

生演奏が「レコードの再現」という表現はもちろん狂っている。そもそもレコードは生演奏の再現なんだから。生演奏に接する機会のない人達に容易に音楽を聴いてもらうためのいわば二次的手段としてレコードというメディアが誕生・普及したのであって、それが逆転するなんてことは考えられなかった。

 

 

しかしながらどうやらある時期以後はこれが逆転しちゃっているんだなあ。先に紹介した和田アキ子のライヴで「レコードと違う!」とクレームした客は、あるいは少数派ではなく狂ってもおらず、ある意味一般のリスナーが普段から抱いている感情が端的に噴出したというだけのことなのかもしれない。

 

 

これが「狂っている」と長年感じていた僕は熱心なジャズ・リスナーなわけで、ジャズでは多くの場合一発勝負でその度内容の異なるアドリブ命の音楽なわけだから、同じ曲でもレコードとライヴで全然違うなんてのが当り前。そもそも「同じ曲」という考え方すらちょっとオカシイ世界ですらあるわけだ。

 

 

ジャズの場合、レコード録音でだってテイクが違えば演奏が異なるし(といってもアドリブ・ソロが毎回ガラリと姿を変えるのはチャーリー・パーカーくらいのものだと以前も指摘した)、これがライヴ演奏となると「同じものの再現」を期待する客なんて一人もいやしない。もし同じだったりしたら、即座にニセモノだと言われる。

 

 

しかしこれはジャズだけの特殊現象かもしれないぞ。いやもちろんジャズ音楽家だけでなく、前述の和田アキ子もそうだしその他いろんな音楽の演奏家・歌手がライヴならではの独自表現を試みてはいる。そして多くの客はそれを喜ぶだろう。だけれどもこの優先関係はどうも違ってきているのかもしれない。

 

 

歌謡曲や演歌(も歌謡曲と同じ現代ポップスだが)の世界では特に、実演はレコードの再現を聴きに行く場という考えがあるんじゃないかなあ。かくいう僕だって昨2015年12月に体験したアラトゥルカ・レコーズの面々によるライヴを聴きに行き、その生演奏がCD通りだったのがちょっと嬉しかったのは事実だ。

 

 

古典的表現というものはそういうものかもしれないよ。ここで僕が言う「古典的」というのは「古いもの」という意味ではない。確立されたオーセンティックな表現スタイルという意味だ。音楽の世界だけじゃないんだけど、そういう確固たる音楽表現形式はそう簡単には姿を変えないものなのかもしれない。

 

 

そう考えると、レコードなどの複製物にそういうオーセンティックな音楽表現が記録され、それが大量・迅速に拡散するようになった20世紀以後に産まれて、その恩恵をこうむってきた僕たち(人類史から見たら)新世代の音楽ファンはやはり恵まれてはいるよなあ。

 

 

しかしながらこの生演奏/録音物の地位逆転現象は、どうやら21世紀に入ったあたりからまた本来の姿に戻りつつあるのではないかという気がする。そんななか、生演奏に触れる機会などまずないど田舎に住み、いまだにもっぱら大量複製された録音物に頼りぱなっしの僕なんかは時代遅れになりつつあるのかも。

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