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2016/08/18

ブルーズ進行

Blues_01

 

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今はどうだか知らないが昔の大学のジャズ研ではこういうことをやっていた。入部希望の新入り学生が来ると、12小節のいわゆるブルーズのコード進行の楽曲をカセットテープにダビングしてあるのを早送りして、いきなり途中から聴かせ、「今、何小節目なのか?」を当てさせるというテストだ。

 

 

だいたい四小節ほど聴いてそれが分らなかったら失格だから帰りなさいとなる。僕はジャズ研に所属したことはないんだけど、よく遊びに行っていたので目撃したことがある。高校生の時にレッド・ツェッペリンに夢中になって、このバンドにもブルーズが多いのでコード進行は知っていた。

 

 

僕がギターをはじめたのは中学二年の時で、父親にせがんで安いアクースティック・ギター(当時はフォーク・ギターとよく呼ばれていたなあ)を買ってもらったんだけど、まだ音楽に夢中でもなかったのにどうしてギターがほしくなったのかは全く憶えていない。最初は「禁じられた遊び」などを練習していた。

 

 

ギター初心者が「禁じられた遊び」を練習するというのは、僕くらいの世代のかつてのギター・キッズならよ〜くご存知のはず(笑)。大抵のギター初心者用教則本に載っている有名曲だもんね。そしてタブ譜本があったので、それを見ながらレコードを聴いてどこを押えるのか憶えた。

 

 

だからギターをはじめた中学生の頃の僕はブルーズのコード進行のことなど当然全く知らなかった。知ったのは書いたように高校生になってレッド・ツェッペリンを聴くようになって以後だ。レコードを聴き、彼らについて書いてある様々な文章を読むと「ブルース」という言葉が実に頻繁に登場するもんね。

 

 

そんでもってちょっとコピーしたいなと思って楽器屋や本屋でツェッペリン曲集みたいなタブ譜本を買うと、それに彼らのやるブルーズのコード進行が載っている。当然だ。そしてブルーズのコード進行とはどういうものなのかということについて簡単な解説文みたいなものが載っていたように記憶している。

 

 

僕がブルーズのコード進行を意識した最初だ。その数年後にジャズに夢中になると、これまた12小節のブルーズ進行の曲があまりにも多く、というかそればっかりというくらいなもんで、それでこのブルーズ形式というものが、米英のポピュラー音楽ではなんだか必要不可欠のものらしいと分ってきた。

 

 

「ブルーズ」とは12小節とか3コード(だけというのは実は少ない)とかいう「形式」のことではなく「フィーリング」のことなんだと僕は思っているんだけど(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-1ef0.html)、でも楽曲形式としてのブルーズがそれを最もよく表現できるものであるのは間違いない。

 

 

ジャズでもロックでもブルーズ形式の曲が実に多いわけで、ちょっとでも楽器を触ったり歌ったりしたことがあってブルーズのコード進行を知らないという人がいるとは考えられない。そうなのだが、過去に一人だけそういうケースに遭遇したことがある。10年ほど前にネット上でお付合いのあったジャズ・ファン。

 

 

その方(おそらく僕より約10歳年下)は大学生時代に軽音部でドラマーだったということで、その時代のライヴ・セッション模様などを自分で YouTube にアップロードしたりしていた。ある時にマイルス・デイヴィスの『カインド・オヴ・ブルー』にはブルーズが二曲あるよねと僕が言うと、「ソー・ワット」はそうですか?と言われてしまった。

 

 

「ソー・ワット」は確かにフィーリングとしてはブルーズ的だけど、言うまでもなく形式はブルーズ楽曲ではない。いくらアマチュアでしかもドラマーだったとはいえ、演奏経験のある人でブルーズのコード進行を知らないというか聴いて分らないというのに遭遇したのは、唯一この時だけ。

 

 

ジャズやロックで和音や旋律を奏でる楽器奏者なら有り得ない話だが、ドラマーだってプロの演奏を聴くと、ブルーズ形式の楽曲でコードが変る節目とかワン・コーラス終って次のコーラスに入る瞬間などの切れ目切れ目にフィル・イン(いわゆるオカズ)を入れてアクセントを付けていることがよくあるじゃないか。コード進行を意識しながら叩いている。

 

 

僕の文章を普段からお読みの方で12小節ブルーズのコード進行をご存知ない方はいらっしゃらないはずだけど、念のために書いておくと、例えばキーがCだとすれば、

 

 

C7|F7|C7|C7

 

F7|F7|C7|C7

 

G7|F7|C7|G7

 

 

という感じが一般的。もっとプリミティヴなものもあるよね。

 

 

プリミティヴとは例えば上記のようなコード進行の場合、二小節目のF7がC7になって最初の四小節がずっとC7、10小節目のF7がG7、12小節目のG7がC7で、つまり最後の四小節がG7とC7が二小節ずつというもの。ブルーズマンのやるシンプルなブルーズ楽曲だとそういうものもあるよね。

 

 

ブルーズのコード進行とはこういうものなので、だから最初に書いたように知らない曲でも四小節ほど聴いて、今、12小節のなかの何小節目か判別できなかったら、その人はブルーズが分っていない、ってことは要するにジャズもほぼできないという烙印を押されて、ジャズ研への入部は断られてしまうのだ。

 

 

もちろんジャズ研でのそういう「入部試験」に用いられるのはジャズメンの演奏するブルーズだから、コード進行はもうちょっと複雑だ。上記のキーがCの進行だと、シンプルでも例えば九小節目のG7がDmになって、9〜10〜11〜12小節目がDm/G7/C7G7みたいな感じになる。

 

 

C7|F7|C7|C7

 

F7|F7|C7|C7

 

Dm|G7|C7|G7

 

 

 

Dm→G7→C7というお手本みたいなII→V→Iのドミナント進行って奴だ。ジャズではなくブルーズやロックでこの9→10小節目がG7→F7になっていることが多いのは、そっちの方がちょっと例外かもしれない。こんなコード・チェンジは他のあらゆる音楽で少なくとも僕は聴いたことがないんだなあ。ブルーズとロックだけだろうなあ。

 

 

このG7→F7みたいな一度平行移動の進行はクラシック音楽では「御法度」なのだ。禁止されていて使われない。ジャズメンがやるブルーズで、この9→10小節部分で違うコード進行になっているのは、あるいはジャズの場合やはり西洋音楽の和声システムの影響が色濃い音楽だってことなのかもなあ。

 

 

西洋クラシック音楽でこの一度平行移動がどうして禁止されているかというと、響きが非常に不安定で不協和的になってしまうから。ってことは逆に言えばブルーズやロックにおけるこの9→10小節目のコード進行は、不安定さとか不安でブルーな気持を表現するのにもってこいだってことでもあるなあ。

 

 

すなわち「不安」「憂鬱」という “blues” という言葉本来の意味に即したコード進行だということになる。だからこそこの部分に魅力があるのかも。ジャズメンがこの一度平行移動を使わないのは、やはりジャズはブルージーさより、もうちょっと安定して洗練された響きを求める音楽だってことなのかも。

 

 

ジャズ、特にモダン・ジャズの場合はもっといろいろな代理コードを使う。12小節目も一小節内を前半と後半で分割して別々のコードを置いたりするのは、ちょっとレコードを聴いてみればみんな分ることだ。12小節目の最後で一度に持ってこず和音的に解決せずに、なんだか宙ぶらりんのまま次のコーラスに入ったりするよね。

 

 

ブルーズのコード進行はもちろん(基本的な)3コードばかりではない。コードがずっと変らないワン・コード・ブルーズもたくさんある。ひょっとしてブルーズというものが誕生した19世紀後半頃のものは多くがワン・コードだったのかもしれない。その時期の録音はないわけだから確証は持っていないのだが。

 

 

PヴァインがリリースしたCD四枚組アンソロジー『戦前ブルースのすべて 大全』の一枚目最初の七曲くらいが、そういった初期ブルーズというかプリ・ブルーズみたいな録音だ。といってもそれらの録音時期は1920〜30年代だけれども、プリ・ブルーズの形を残しているものの実例ってことなんだろう。

 

 

それら『戦前ブルースのすべて 大全』一枚目最初の七曲を聴くと、しかしワン・コードのものもあるけれど、そうではないものの方が多い。でもまあチューニングのいい加減なギターの、ひょっとしたらコード弾きではなく一本の弦だけビロ〜ンと鳴らしながら、三段落ちみたいな歌詞を歌っていたかのかもなあ。

 

 

三段落ちってのは重要で、その後ブルーズ形式がはっきりと固まってくると、上記のように四小節ひとかたまりになってそれが三段階で動くというものになっていくからだ。「女が逃げた」「女が逃げた」「俺は泣いてるぜ」みたいな感じ(笑)。なんだそれ、アホみたいじゃないかと思うだろうが、その後も根本的には同じようなもんだ。だから歌詞の意味内容なんて・・・。

 

 

しかもプリ・ブルーズや最初の頃のブルーズは、コードが3コードに限らないばかりか12小節でもない。もっと自由なもので、ワン・コーラスとか小節数とかの概念すらもおそらくは存在しない。ただギターを鳴らして、あるいは楽器伴奏なしの歌だけで、融通無碍なものを歌っていたんだろう。

 

 

ブルーズの商業録音がはじまる1920年代以後も、カントリー・ブルーズの世界ではしばしばワン・コーラスの小節数は決っておらず、コード進行もかなりシンプルなものがある。戦後になってもライトニン・ホプキンスなどのやるブルーズを聴くとそれがよく分るよね。ジョン・リー・フッカーもワン・コード・ブギばっかりだ。

 

 

それでもライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカーや、あるいはマディ・ウォーターズのやるワン・コード・ブルーズなどを聴いて、非常に強烈なブルーズ・フィーリングを誰でも感じ取れるわけだから、従ってブルーズとは「12小節3コード」という形式のことではないということになるわけだ。

 

 

複数が集ってバンドでやる時は、あらかじめ形を決めておかないとどうにも合せられないけれども、一人での弾き語りであれば、形なんか自由きままにどうにでもできちゃうもんね。昔も今もシティ・ブルーズは大抵バンドだけど、カントリー・ブルーズの世界では一人でやる場合が多い。

 

 

しかしながら12小節で、しかも上で書いたような3コード(に近い)進行というものに、基本的には形式が定ったからこそ、ブルーズがこれだけ普及し、アメリカ黒人だけでなく人種・国籍問わず世界中の大勢が真似できるようになったというのは事実だろう。それだけ麻薬的中毒性の強い楽曲形式ってことなんだよね。

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