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2016/08/28

カンザス・シティはブルーズ・タウン

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ジャズに入れるべきかブルーズに入れるべきかよく分らない、区別できないという音楽が戦前のアメリカにはたくさんある。両者が分離していないからだ。これはちょうど1970年代にジャズなのかファンクなのか分らないような音楽がたくさんあるのと似ている。似ているというか本質的には同じような事態だ。

 

 

戦前におけるそんなジャズとブルーズが未分化だった代表例の一つが1920年代のクラシック・ブルーズだけど、1930〜40年代のカンザス・シティ・ジャズもそうだ。ジャズというかブルーズというか、どう言ったらいいのかちょっと分らない。世間一般的にはジャズとして認識されているだろうけれど。

 

 

ミズーリ州カンザス・シティの戦前音楽は「KCジャズ」という愛称もあるくらい昔からジャズ・ファンの間では親しまれてきたもの。しかしカンザスのジャズ・バンド(とされているもの)がやる音楽は実質的にはブルーズとなんら違いがない。そんなジャズ〜ブルーズ・バンドがカンザスにはたくさんある。

 

 

一般的にカンザスのジャズ(ブルーズ)・シーンが賑わっていたのは1939年までとされている。なぜならかのトム・ペンダーガストが脱税で有罪になって刑務所に入ったのがその年だからだ。トム・ペンダーガストはカンザスの大衆音楽シーンに興味のある人間はみんな知っている有名な悪徳政治家。

 

 

ペンダーガストがカンザスで実権を握ったのは1925年らしい。しかし彼の影響力が大きくなるのは1930年代に入ってからか、20年代でも末頃のことじゃないかなあ。当時のアメリカには禁酒法があって(1920〜33)合法的なアルコールの売買が禁止されていたのだが、カンザスでだけはちょっと様子が違った。

 

 

民主党の政治家ペンダーガストが実権を握っていた時期のカンザスでは、違法営業ではあるものの彼の庇護下で禁酒法を有名無実化してナイトクラブなどでおおっぴらに酒が飲めた。これはアメリカにおいて「マシーン」(machine)と呼ばれる利権政治のため。業界から賄賂をもらい利益誘導した。

 

 

音楽にはあまり関係ないかもしれないが、アメリカにおいてマシーンと呼ばれる利益誘導型の集票組織は、当然日本にもある。例えば自由民主党は都市圏周辺地域や農村部で農協や公共事業を通じたマシーンを有することは、「マシーン」という言葉は使われないものの、その事実はよく知られているはずだ。

 

 

マシーンには通常ボスがいて、1925〜39年のカンザスにおけるそれがペンダーガスト。ペンダーガストの名前を知らなくても、第33代大統領ハリー・S・トルーマンはみなさんご存知だろう。ペンダーガストとそのマシーンはトルーマンが政界を駆上がるきっかけとなったのだった。

 

 

そんな政治の話はおくとしても、1925〜39年にペンダーガストがカンザス市制を牛耳っていた時代には腐敗政治がはびこって、そのせいで前述の通り当時の禁酒法をあってなきものとして、ナイトクラブなどで堂々と酒が飲めた。ってことは通常そういう場所で演奏される音楽も賑わっていたというわけだ。

 

 

以前もキューバの大衆音楽が魅力的だったのは1959年に完遂したキューバ革命によって民主化される以前の時代だと書いたけれど、キューバといい、今日の話の本題であるカンザス・シティといいその他の国・地域といい、政治と音楽の関係はなんだかちょっとねじれていて複雑な気分だよなあ。

 

 

そんなことが戦前のカンザスでジャズ(ブルーズ)・バンドが隆盛を極めた最大の理由とされる。実際ナイト・クラブなどでの演奏家の需要が多かったので各地からジャズ・バンドが集って、そうでなくたって大陸横断楽旅の際の経由地だという地理的な理由もあって、いろんなバンドがカンザスで演奏したようだ。

 

 

そんなに賑わっていたカンザスの大衆音楽シーンも、前述の通りペンダーガストが逮捕された1939年までだというのが定説になっている。各種文献にそう書いてあり、僕も大学生の頃からいろいろと読んできた。カンザスの代表的バンド、カウント・ベイシー楽団も37年にニューヨークに進出したしなあ。

 

 

ジャズとブルーズが不可分一体のそんな1930年代末まででカンザス大衆音楽シーンは終焉したということになっている。がしかし実は全然そんなことはない。1940年代に入ってからもカンザスのジャズ〜ブルーズ系の音楽家が実にたくさん録音していて、その音楽的内容も優れているものがいろいろとある。

 

 

ジャズとブルーズの一体化の様子を知るためといい、1939年以後のカンザス大衆音楽シーンの賑やかさを知るためといい、それがよく分るのがCD三枚組コンピレイション『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』。1997年リリースのキャピトル盤。ジョー・サーディエロ(Ciardiello)がイラストを描いた例のシリーズの一つ。

 

 

あのサーディエロがアルバムのジャケットやインナーのイラストを描いたおかけで一貫性のある外観になっているキャピトル盤シリーズは、いったいいくつあるだろう?ジャズ〜ジャンプ〜ブルーズ系コンピが1990年代後半に実にたくさん出ていたなあ。T・ボーン・ウォーカーとかもあったよなあ。

 

 

そんなシリーズの一つ『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』に収録されている全73曲は、当然全てカンザスのジャズ〜ブルーズ音楽家ばかり。録音場所も二つのセッションを除き全てカンザスで行われているし、録音時期もタイトル通り1944〜49年ばかり。これがかなり面白いのだ。

 

 

『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』に一番たくさん収録されているのはジェイ・マクシャンだ。ジェイ・マクシャンについて解説しておく必要はないと思うけれど、ジャズ・ファンはひょっとしてチャーリー・パーカーを輩出した楽団を率いたリーダーでピアニストといった程度の認識なのかなあ?

 

 

そんなのは付随的なことであって、ジェイ・マクシャンは偉大なブルーズマンなのだ。いや、ブルーズマンとだけ言切ってしまうのも問題だ。ブルーズとジャズとR&Bの三つの中間あたりで活動した音楽家で、カンザスで自身のバンドを立ち上げたのが1936年で、2006年に同地で亡くなっている。

 

 

マクシャンの功績をどんどん書いているとキリがないので、今日は『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』に収録されているものだけに限定するけれど、それらは全てビッグ・バンド録音ではなくコンボ編成でのものだ。インストルメンタル演奏もあるけれど、多くがブルーズ歌手をフィーチャーした録音。

 

 

一枚目の16曲目までは全てマクシャン名義(バンド名とパーソネルがちょっとずつ異なっている)での録音で、一曲目の「モーテン・スウィング」は七人編成でのインストルメンタル演奏。もちろんあのカンザス大衆音楽シーンのパイオニア、ベニー・モーテンのオリジナルであるカンザス賛歌みたいな曲。

 

 

「モーテン・スウィング」はモーテン楽団の1932年録音を皮切に、これをやっていないカンザスのバンドはなかったんじゃないかと思うくらいだよね。当然ベイシー楽団も録音。カンザスだけでなくベニー・グッドマン楽団や、(「モーテン・ストンプ」という曲名で)フレッチャー・ヘンダースン楽団もやっている。

 

 

そんなカンザス大衆音楽アンセムみたいな「モーテン・スウィング」をジェイ・マクシャンのセプテットがやった1944年録音をトップに持ってくるという『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』のコンパイラー、ビリー・ヴェラの意図は鮮明だ。つまりカンザスのジャズ〜ブルーズ万歳ってわけなんだよね。

 

 

二曲目と三曲目はその同じマクシャン・セプテットに女性ブルーズ歌手ジュリア・リーが加わってヴォーカルをとっている。このカンザスを舞台に活動した歌手のスタイルは1920年代のクラシック・ブルーズのそれに近いというかほぼ同じ。実際彼女はベシー・スミスの同時代人で活動時期もほぼ一緒。

 

 

ジュリア・リーの1944年録音というのは、だから彼女にしては遅いものだけど、同年に彼女はキャピトルと契約しブルーズ〜R&Bをたくさん歌っている。そんな彼女の持味はマクシャン楽団でのものより、『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』にもたくさん入っている彼女名義のものの方が分りやすい。

 

 

『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』に収録されているジュリア・リーのリーダー名義録音は全七曲。全て彼女自身がピアノも弾きながら歌う五人編成。その七曲のなかで一番有名なのは『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』一枚目18曲目の「マイ・マン・スタンズ・アウト」だね。

 

 

ジュリア・リーが1944〜49年にキャピトルにレコーディングしたもののなかには「スナッチ・アンド・グラブ・イット」とか「キング・サイズ・パパ」とかの大ヒット・ナンバーがあるんだけど、それが『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』に一切収録されていないのは、その必要もないということだろう。

 

 

そのジュリア・リーの全七曲録音でテナー・サックスを吹くのがトミー・ダグラス。この人はまた自分自身名義のバンドで1940年代後半キャピトルにレコーディングしているので、『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』にも10曲収録されている。いわゆるホンカー・スタイルのサックス奏者だ。

 

 

カンザス・シティはまたサックス・タウンでもあったわけだけど、そのなかでも1930年代末からのトミー・ダグラスは最も活躍した一人だった。『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』収録曲ではアルトやテナーやバリトン・サックスほか、クラリネットも吹いていたり、またヴォーカルも取る。

 

 

特にブルーズ寄りのホンカー系サックスに興味のないチャーリー・パーカー・ファンだって、トミー・ダグラスの名前は見たことがあるだろう、なぜならばロス・ラッセルのパーカー伝記本『バードは生きている』のなかにも出てくる人物だからだ。ダグラスは1936年に10代のパーカーを雇っていたんだよね。

 

 

トミー・ダグラスのバンドに若き日のパーカーがいたなんてことはかなり調べないと出てこない事実で、同じカンザスのジェイ・マクシャン楽団でのものがパーカーのデビューのように言われる。確かにパーカーの初録音はマクシャン楽団でのものだけど、その前にパーカーはダグラスにサックスを教わっているのだ。録音はない。

 

 

パーカーはいいとして、『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』で大きくフィーチャーされているもう一人がウォルター・ブラウン。カンザスにおける最も代表的なブルーズ・シンガーで、やはりジェイ・マクシャン楽団での「コンフェッシン・ザ・ブルーズ」などが一番有名だろうなあ。

 

 

ジェイ・マクシャン楽団でのウォルター・ブラウンの後任がジミー・ウィザースプーンで、後者がカンザスに多いいわゆるシャウター・スタイルであるのに対し、前者はもっと繊細な「シンギング」・スタイルとでもいうような歌手だった。『カンザス・シティ・ブルーズ 1944-49』には12曲も入っている。

 

 

ウォルター・ブラウンや(その後任のジミー・ウィザースプーンや)その他大勢のカンザスのミュージシャンを雇っていた大ボス、ジェイ・マクシャンの言葉がこれだ→「チャーリー・パーカーは全然ビバッパーなんかじゃないんだ。単にこの世で最も優れたブルーズ・ミュージシャンだっただけなんだ」。

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