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2016/09/23

1970年代マイルスの音楽衝動

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何度も言うようだが1970年代のマイルス・デイヴィスによるスタジオ作品に「オリジナル・アルバム」という概念は存在しない。70年代初リリース作品『ビッチズ・ブルー』(70年3月全米発売)が、前年69年8月の例のウッドストック・フェスティヴァルの翌日からの三日間で録音されたのがオリジナル・アルバムの最後。

 

 

オリジナル・アルバムの定義みたいなものはちょっと難しいかもしれないけれど、僕の認識ではこの新作アルバム用にと準備してプロデューサーを決めたり、曲を書いたり他人の曲を選んだり、そしてレコーディングに入り曲を録りだめて、それを「新作用」にと選曲・編集したものだということ。

 

 

「新作用に準備して」という部分が僕にとっては最も重要で、ジャズでもロックでもあるいはワールド・ミュージックでもなんでも、普通は新作アルバムを企画して内容をある程度準備してからレコーディングに入るものじゃないのかなあ、LP時代以後は。少なくとも僕はそういう認識なんだよね。

 

 

「LP時代以後は」というのは、もちろんそれ以前のSPが主流だった時代には録音音楽は一曲単位で、というかSP盤両面の二曲単位で売買されるもので、聴く側ももちろん曲単位で音楽を認識している。レコーディングする音楽家側は、もちろん一回のセッションで二曲しか録音しないなんてことは少ないが。

 

 

だから戦前のSP時代は、一回のレコーディング・セッションで何曲か録音したものからチョイスしてSP盤両面の二曲として発売していたということになる。その時代の音楽家やレコード会社側に「新作SP盤用のレコーディング」という発想があったのかどうか、ちょっと僕には分らないのだが。

 

 

でもおそらくそのような「新作用録音」という発想がやはり商業録音開始当時の1910年代からあったはずだ。そしてそれがLPメディアの出現後は何曲も一枚のアルバムに収録できるようになったので、より一層新作用の企画・準備みたいなものが発展したんじゃないかと思うんだよね。

 

 

言うまでもないことだがLP時代以後もこの限りではない録音やアルバムだって多い。マイルスだって例えば例のプレスティッジの “in’” 四部作は全てオリジナル・アルバム用のレコーディングではない。1956/5/11と同10/26のたった二日間で計26曲を録音したものなんだよね。

 

 

言われ尽されていることだが、当時既に大手コロンビアとの極秘契約を結んでいたマイルスが早く移籍したくて、いまだ専属契約が残っていたプレスティッジへのアルバム録音契約をなるべく早く消化せんとし、それでたった二日間で26曲もレコーディングしちゃった、いわゆるマラソン・セッションだ。

 

 

他の音楽家でも似たような事情のあるアルバムはたくさんある。特に一枚のアルバムをまとまりのある「作品」だと考えるようになる前の時代のジャズ・メンや、あるいはそういう時代になって以後でも、そもそもそんな考え方の薄いソウルやファンクの音楽家などの場合は多いよなあ。

 

 

一枚、あるいは二枚組などのレコーディング・アルバムをまとまりのあるものだと考えるようになったのがいつ頃のことなのかはじっくり時間をかけて考え直してみないとちょっとはっきりしたことは言えない。ロックの世界ではビートルズの1967年『サージェント・ペパーズ』以後それが加速したとされているけれども。

 

 

でもジャズの世界には一種のコンセプト・アルバムみたいなものはもっと前からある。1950年代初頭のLPメディアの出現直後、既にそんな発想をデューク・エリントンが持っていた。マイルスだってコロンビア移籍後の初録音作品である1957年ギル・エヴァンスとのコラボ『マイルス・アヘッド』がそうだよね。

 

 

1957年の『マイルス・アヘッド』は、最初からギルのアレンジでこんな曲をこんな感じでやりたいという事前企画をマイルスが持っていて、コロンビアへの移籍はそもそもそれを実現したいというのもあった。移籍したいがためにインディペンデント・レーベルのプレスティッジにこの大企画をふっかけたのだった。

 

 

弱小インディーのプレスティッジにそんな大編成オーケストラでのレコーディングを行えるような経済力があるはずもなく、マイルスも最初からそれが分っていた上で敢てこの無理難題をふっかけて、自分との契約延長をプレスティッジに諦めさせるように持っていったというわけなんだよね。

 

 

そうやってコロンビア移籍後に実現した1957年『マイルス・アヘッド』は、従ってオリジナル・アルバムを制作するという事前の念入りな準備があって実現したもの。そしてこれ以後のマイルスのコロンビア作品は、最初に書いた69年8月録音の『ビッチズ・ブルー』まで同様の制作手法を採っている。

 

 

ところがその『ビッチズ・ブルー』を1969年8月の三日間で録り終えて以後のマイルスは、新作用のレコーディングという考え方がなくなっていった。これがどうしてだったのか、ちょっとすぐには僕も分らないのだが、とにかく新作発表予定のあるなしに関係なくどんどんスタジオ入りするようになる。

 

 

関係なくというか、『ビッチズ・ブルー』録音終了後はもはやオリジナル・アルバムとしての新作を制作するなんてことはマイルスの頭の片隅にすらなく、気の赴くまま随時スタジオ入りして頻繁にレコーディングを繰返していた。その最初が1969年11月録音の八曲。全て当時はリリースされないまま。

 

 

コロンビア側もリリースしにくいんだよね。だって新作用にという考えではレコーディングしておらず、ただ自分のなかにある音楽衝動みたいなものに駆られて大量に録音するようになっていたから、1970年代マイルスにとってのレコーディングとは要するに日常生活の一部みたいなものだったのだ。

 

 

だからそれら膨大な録音群を前にして、プロデューサーのテオ・マセロはじめコロンビア側はちょっと頭を悩ませたに違いない。それらのレコーディングに、一枚かあるいは二枚のレコードにまとめられるようなコンセプトみたいなものもないし、曲ごとに録音メンバーもなにもかも全部違っているからね。

 

 

それでもなんとか1970年代当時に『ジャック・ジョンスン』(71年2月発売)、『オン・ザ・コーナー』(72年10月発売)、『ビッグ・ファン』(74年4月発売)、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(74年11月発売)という四つのスタジオ作品がリリースできたのは、ひとえにテオの手腕だ。

 

 

それら四つが1975年のマイルス一時隠遁前にリアルタイムでリリースされていたスタジオ・アルバムの全部。しかも四つとも、当時はそんなことはファンも思わなかったと思うし僕も昔は思っていなかったのだが、今ではトータリティみたいなものがなく、一種の寄せ集め曲集に聞えるんだなあ。

 

 

こりゃ当然なんだ。だって書いているように「新作用に」と準備してレコーディングされたものなんて、それら四つのアルバムにただの一曲もないんだから。全てが言ってみれば未発表作品集みたいなもんで、特に『ビッグ・ファン』と『ゲット・アップ・ウィズ・イット』は散漫な印象がある。

 

 

『ビッグ・ファン』と『ゲット・アップ・ウィズ・イット』。どっちも二枚組だけど、どっちも収録曲の録音年月とパーソネルが一曲ごとに全部異なっている。だから聞えてくる音の印象もかなり違うし、こんなのを後生大事にアルバム・コンセプトみたいなものを考えて正対して聴かなくちゃなんてのは本当はオカシイ。

 

 

『ジャック・ジョンスン』『オン・ザ・コーナー』のどっちも一枚物のアルバムは、まだまとまりみたいなものが聴けると思う。それはこの二つはそれぞれ収録曲の録音時期とパーソネルが近いのと、テオがかなり巧妙に編集しまくっているせいであって、アルバム用に準備してレコーディングされたものなんかじゃない。

 

 

1969〜75年のマイルスは(58〜60年頃と並び)創造意欲が最高潮に達していた時期で、頭の中に表現したい音楽がどんどん湧出て止らず、それを一刻も早くバンド・メンバーとともに実際の音にして演奏・録音したいという気持に満ちあふれていて、それで頻繁にスタジオ入りして録音していたんだよね。

 

 

コロンビア側もある時期以後のマイルスとある時期以後のボブ・ディランに関しては特別扱いしていて、マイルスの場合はニュー・ヨークのコロンビア・スタジオをいつでも使えるように開けていたような具合だった。マイルスがその気になりさえすればいつなんどきでも録音セッションを実施できた。

 

 

それで膨大な録音群が残されたわけで、前述の『ジャック・ジョンスン』『オン・ザ・コーナー』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』はその氷山の一角に過ぎないんだってことは、僕がマイルスを聴はじめた1979年には既にファンの間では常識だった。だからコロンビアはどうするんだろうなあと思っていた。

 

 

1991年のマイルス死後、レガシーがそれら膨大な70年代の音源を数個の「コンプリート」と称するボックスにまとめてリリースしているのはみなさんご存知の通り。70年代のものは『ビッチズ・ブルー』ボックス、『ジャック・ジョンスン』ボックス、『オン・ザ・コーナー』ボックスの三つで全部だ。

 

 

なかなか分らなかったいろんなことがそれらのボックス・セットで理解できるようになった。特に1972〜75年の録音集である『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』なんかは僕にとっては面白くてたまらないボックス・セットなんだなあ。元々全てがオリジナル・アルバム用録音じゃないんだから、肩肘張らずに一曲単位で抜出して聴けばいい。

 

 

1970年代マイルス・ファンクの最高傑作だと中山康樹さんや僕が思っている73年のシングル盤両面の二曲「ビッグ・ファン」「ホーリー・ウード」は、公式盤CDではこの『オン・ザ・コーナー』ボックスにしか収録されていないんだもんね。この二曲をCDで聴くためだけにでも、僕はこの六枚組を買ってほしいとさえ思う。その二曲も元はシングル用にと録音されたものではない(ということはこのボックスがないと分らない)。

 

 

マイルスのそんな録音手法・形態は1970年代だけのことで、1981年復帰後は、多くの場合やはり新作用に企画・準備してそのための曲を録音するという、世間一般と同じやり方に戻っている。「多くの場合」というのはそうじゃない録音もあるからで、いまだに未発表のままなものがあるんだなあ。

 

 

1970年代マイルスについては真の意味で「全部」ではないが、それでもコンプリートと称するボックス・シリーズでかなりリリースされたけれど、1981〜85年のコロンビア時代末期の未発表曲群については、いまだにレガシーはリリースする気配がない。なかにはティナ・ターナーがオリジナルの「愛の魔力」など面白いものがあるようだけど、早く出してくれないかなあ。

 

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