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2016/09/11

ジャズ界における最も普遍的な音配置法発明者

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かつて油井正一さんは「フレッチャー・ヘンダースン楽団在籍」という肩書は、いわば日本のインテリ社会における「東大卒」と同じような意味を持つ名刺代りだったのだと書いたことがある。つまりそれくらい(戦前の)ジャズ界ではエリートとして待遇される名門オーケストラだったってことだよね。

 

 

モダン・ジャズ界ならば、有能なサイド・メンを続々発見・起用して、彼らが独立後大活躍したアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズとかマイルス・デイヴィスのバンドだとかのようなものだと言えば、モダン・ジャズしか聴かないジャズ・ファンの方々にも納得していただけるだろうか。

 

 

ビ・バップ以後のジャズはコンボ編成でやるのが主流になったため、それ以前のジャズの世界においてビッグ・バンドの持つ意味が今ではやや理解されにくくなっているような気がするのだが、戦前の古典ジャズ界ではビッグ・バンドこそ花形で、楽団在籍経験のないジャズ・メンはまずいないと言っていい。

 

 

つまりビッグ・バンドを聴かないと戦前の古典ジャズはほぼ理解できない。というわけでジャズ界におけるホットなビッグ・バンド第一号と呼んで差支えないフレッチャー・ヘンダースン楽団の話を今日はしたい。ジャズ・ビッグ・バンド第一号ということは最重要存在であるということだ。

 

 

フレッチャー・ヘンダースンが自らの楽団をスタートさせたのは1922年。しかしこれがジャズ界におけるビッグ・バンド史のはじまりとは言えないだろう。もっと前からいろいろとあって、録音が残っているバンドもある。しかしどれを聴いてもジャズ的なフィーリングやスウィング感には乏しい。

 

 

今で言うジャズ的なスウィング感をビッグ・バンドで表現できた最初の存在がフレッチャー・ヘンダースン楽団だということになるので、だからこそ最重要存在なのだが、しかしこの楽団も1922年の結成当初からそうだったわけではないようだ。「ようだ」というのはその最初期録音を僕は聴いていない。

 

 

聴いていないというかフレッチャー・ヘンダースン楽団結成当初の音楽はリイシューされているのか?そもそも録音されているのか?そのあたりのことを実際の音では僕は知らない。種々の文献によれば、結成当初のヘンダースン楽団はボールルームなどで演奏するスウィートなダンス・バンドだったらしい。

 

 

そのあたりが実際の音で聴ければ僕の理解ももうちょっと進むんだけど、とにかく僕が持っているフレッチャー・ヘンダースン楽団の最も早い録音は1923/8/9録音の「ザ・ディクティ・ブルーズ」。これはコロンビアがリイシューしたCD三枚組『ア・スタディ・イン・フラストレイション』の一曲目。

 

 

CD三枚組『ア・スタディ・イン・フラストレイション:ザ・フレッチャー・ヘンダースン・ストーリー』のリリースは箱の裏に1994年と書いてある。附属の厚手ブックレットに完璧なディスコグラフィーと詳しい英文解説があり、しかもその解説文の前にジョン・ハモンドの書いた紹介文が載っている。

 

 

ジョン・ハモンドは全く説明不要のアメリカ大衆音楽史における最大にして最重要プロデューサー。僕も何度も名前を出している。ハモンドは現役当時のフレッチャー・ヘンダースンとその楽団の後見人的な役割も果していたから、アナログ・レコードで同楽団の音源をリイシューした際のプロデューサーもやったということだろう。

 

 

そのハモンドによる紹介文の末尾に「1961」という数字が見えるので、この年に彼がプロデュースしてフレッチャー・ヘンダースン楽団のコロンビア系音源がリイシューされたんだろう。しかもその文章の出だしに「フレッチャー・ヘンダースン楽団の偉大な遺産64曲を出すにあたり」とある。

 

 

64曲というのは現在僕が持っているCD三枚組『ア・スタディ・イン・フラストレイション』の曲数と同じ。ってことは1961年にアナログ盤でリイシューした当時からこれら全て発売されていたんだなあ。アナログ盤でのフレッチャー・ヘンダースン楽団の音源集は僕は一枚物しか持っていなかった。

 

 

それはCBSソニーがリイシューした『フレッチャー・ヘンダーソンの肖像(1925-1937)』というやつで、やはり例によっての<肖像>シリーズの一つ。同社のプロデューサー伊藤潔さんが企画したこの<肖像>と銘打ったコロンビア系戦前古典音源のリイシューLPには、大学生の頃本当にお世話になった。

 

 

『(だれそれの)肖像』という一貫したタイトルで出ていたものはほぼ全てジャズ録音。ルイ・アームストロングとかビリー・ホリデイとかミルドレッド・ベイリーとかレスター・ヤングとかいっぱいあったよなあ。そして今ではブルーズに分類されているベシー・スミスも同じシリーズの一枚として出ていたんだよ。

 

 

だからご存命の伊藤潔さんには僕も足を向けて寝られない。しかしLPでは『フレッチャー・ヘンダーソンの肖像(1925-1937)』という一枚物しか聴けなかった僕だけど、本国アメリカではジョン・ハモンドのプロデュースで、CD三枚組リイシュー・ボックスと全く同じ64曲が出ていたというのは羨ましい。

 

 

言うまでもなくそれら64曲は全部コロンビア系録音(傍系のヴォキャリオン原盤なども含む)。しかしフレッチャー・ヘンダースン楽団はブルーバードといったヴィクター系やその他にも録音を残している。といってもそんなに曲数は多くないみたいだ。僕はコロンビア系録音以外の同楽団は全く聴いたことがない。

 

 

興味がないわけじゃないんだけど、『ア・スタディ・イン・フラストレイション』CD三枚組が完璧な内容だから、しかも64曲あるので、もうこれで充分という気分なのだ。全集ではないが、戦前の自社系音源のCDリイシューに極めて冷淡な会社であるコロンビアもやるときはやるじゃないか。

 

 

『ア・スタディ・イン・フラストレイション』は全曲が録音年月日順に並んでいるので、フレッチャー・ヘンダースン楽団の時代を経ての変遷が分りやすい。上で書いた一枚目一曲目の1923年録音「ザ・ディクティ・ブルーズ」では、未熟ではあるものの既にジャズ的でスウィンギーな演奏になっている。

 

 

それもそのはず、「ザ・ディクティ・ブルーズ」は楽団のストック・アレンジメント譜面をドン・レッドマンがアレンジし直したものなのだ。ドン・レッドマンは1923年にフレッチャー・ヘンダースン楽団に加入している。アルト・サックスとクラリネット奏者としてだけど、すぐに作編曲をやるようになる。

 

 

今までも折に触れて書いてきたが、1923年から27年までの間フレッチャー・ヘンダースン楽団でドン・レッドマンが書いたアレンジこそがホットなジャズ・スウィングのはじまり、基本中の基本に他ならず、その後、形は変えても21世紀の現在までその根底は変化していない普遍的なものなのだ。

 

 

それにしてはドン・レッドマンという人物の偉大さ、彼の発明したアレンジメント手法を褒め称える声が今では殆ど聞けないように思う。僕が気付いていないだけなのか?あるいはみんな忘れちゃったのか?これではイカンだろう。誰でも真似しやすい普遍的なアレンジ手法を発明したドン・レッドマンこそ最高の存在なのに。

 

 

ジャズ界最高の作編曲家はデューク・エリントンには違いない。これには僕も異論はないどころかもっともっと声を大にして強調したい気分。だけれどもエリントンのアレンジは楽団メンバーがどんな音色や個性の持主なのかという部分までフルに勘案してのものだったので、全く取替えが利かず応用不可能。

 

 

それが証拠にエリントン楽団の譜面では、他の楽団では通常は楽器名が記されているパート譜に、楽器名ではなくそれを吹く個人名が記載されていた。僕はかつてそれをコピーした写真を見たことがあるが、パート譜の上には「ジョニー・ホッジズ」とか「ハリー・カーニー」などと記されていたからね。

 

 

従ってエリントン・アレンジは他の楽団では全く再現不能な唯一無二のもの。同楽団でしか実現できず、しかもエリントン楽団内においてすら一人の楽団員が辞め別のメンバーに交代すると、エリントンは同じアレンジを使わず書直していたくらいだ。二つとない至高の音楽作品ではあるけれど、ある意味普遍的とも言いにくい。

 

 

そこいくと1923〜27年のフレッチャー・ヘンダースン楽団でドン・レッドマンが考案したアレンジは、演奏メンツが交代しても全く同じように再現可能な普遍的なものだったのだ。エリントンとどっちが偉大かなんて話をするのには何の意味もないが、その後のジャズ界を支配したのはドン・レッドマン・アレンジだ。

 

 

ドン・レッドマンのアレンジは、ハーモナイズされたアンサンブルを奏でるブラス(金管)・セクションとリード(木管)・セクションのコール・アンド・リスポンスを基本とし、そういう譜面化された部分の合間にトランペットやサックスやクラリネットなどのホットなアドリブ・ソロ・パートを埋込むというもの。

 

 

こう書くと、な〜んだそんなの当り前じゃん、みんなやっているじゃん!と思われるだろう。しかしですね、当り前にみんなやるようになったこれを初めて考案したのが1923/24年頃のドン・レッドマンで、彼が書いてフレッチャー・ヘンダースン楽団が演奏したのが標準化したから当り前になっているように見えるというのが歴史の真実だ。

 

 

最初に発明して書いたのがドン・レッドマンで、それを実行したのがフレッチャー・ヘンダースン楽団だということであって、後に続いたジャズ・ビッグ・バンドはほぼ例外なくこれを踏襲しスタンダード化したアレンジ手法で、あまりにも普及して当り前のものになりすぎて、誰も意識しないってことなんだよね。

 

 

この事実のみをもってしても、1920年代半ば頃のフレッチャー・ヘンダースン楽団の偉大さ、その功績、同楽団でアレンジのペンをふるったドン・レッドマンの重要性をどれだけ強調してもしすぎることはない。あぁそれなのに、この時期のフレッチャー・ヘンダースン楽団におけるドン・レッドマンの話なんて今では誰もしないじゃないか。

 

 

そんなジャズ・バンド史上初のスウィンギーな演奏を実現したフレッチャー・ヘンダースン楽団の最も輝かしい音源の一番早い例は『ア・スタディ・イン・フラストレイション』一枚目九曲目の「シュガーフット・ストンプ」だろう。1925/5/29録音。

 

 

 

これを聴けば誰だって「オッ、このトランペット・ソロは素晴しいじゃないか!いったい誰が吹いているんだ?」となると思うんだけど、それがルイ・アームストロングだ。サッチモは1924年にフレッチャー・ヘンダースン楽団に加入し、翌25年には退団してしまう。その間の録音は全部で44曲だけど、言及しているCD三枚組に収録されているのは九曲だけ。

 

 

これは専門の批評家もみなさん言っていることなんだけど、ただの甘いダンス・バンドにすぎなかったフレッチャー・ヘンダースン楽団を一躍ホットでスウィンギーな躍動的ジャズ・バンドに変貌させたのが、1924年に加入したサッチモだったということになっている。油井正一さんもこのことは強調していた。

 

 

しかしながら僕はこれに言いたいことがある。なぜなら『ア・スタディ・イン・フラストレイション』に収録されているサッチモ加入前の録音、それは二曲しかないのだが、聴くと既にドン・レッドマンのアレンジによるいわゆるスウィング・スタイルが完成しているし、ソロだってコールマン・ホーキンスがホットなものを吹いているんだよね。

 

 

つまり既にサッチモ加入前からドン・レッドマン・アレンジによってフレッチャー・ヘンダースン楽団はほぼ変らない演奏をしているってことだ。確かにサッチモ加入後は彼のコルネット・ソロがあまりにブリリアントで、そのおかげでバンド全体の演奏の躍動感もまるで違って聞えるかのようだけど、バンドの根本は変っていない。みなさんなんだかサッチモが根底から覆したようなことを書いているけれどもさぁ。

 

 

だからこのあたりはジャズ・ビッグ・バンド史の記述をそろそろ書きかえてほしいと僕は思っている。そしてサッチモがフレッチャー・ヘンダースン楽団を変貌させたのが事実であったとしても、またその逆に1925年に独立して自分のバンドを持つようになったサッチモにヘンダースン楽団の影響が強くあるんだなあ。

 

 

上でサッチモが見事なコルネット・ソロを吹く「シュガーフット・ストンプ」の音源を貼ったけれども、この曲やその他サッチモ在籍時に彼がフレッチャー・ヘンダースン楽団で演奏したドン・レッドマン・アレンジは、そっくりそのまま1925〜28年のサッチモによるオーケー録音に移し替えられているんだよね。

 

 

例えばサッチモがソロを吹くフレッチャー・ヘンダースン楽団1924年録音の「エヴリバディ・ラヴズ・マイ・ベイビー」→ https://www.youtube.com/watch?v=BqRERsE_1gs  これをサッチモの27年録音「ポテト・ヘッド・ブルーズ」と聴き比べてほしい→ https://www.youtube.com/watch?v=udWB3OKV9_k

 

 

アンサンブル部分とアドリブ・ソロ部分との構成や配置、全体のなかでソロをどう際立たせるかなどの工夫、ソロの背後でストップ・タイムを使ってアクセントをつけたりなど、とてもよく似ているじゃないか。これはほんの一例をあげただけで、サッチモの1920年代後半の録音はだいたい全てこうなっている。

 

 

ってことは一般に定説になっているサッチモの加入がフレッチャー・ヘンダースン楽団を一変させたのだから、ある意味サッチモはスウィンギーなジャズ・ビッグ・バンドを生んだとも言えるという言説は正しいのかもしれないが、同時にまたその逆にサッチモも同楽団から多くを吸収しているのも事実なんだよね。

 

 

言い方を換えれば1925〜28年のサッチモ・コンボによる珠玉のオーケー録音を下支えしたのは、その直前まで在籍していたフレッチャー・ヘンダースン楽団での経験だったってことだよなあ。もっとはっきりさせるなら同楽団でアレンジを書いたドン・レッドマンの音配置法にサッチモは強く影響されたってことなんだ。

 

 

これは上でも書いたようにメンバーの取替えが利かず同一メンバーでないと実現不能というエリントン・アレンジとは違って、ドン・レッドマンが完成させたアレンジ手法は、たとえスモール・コンボ編成だろうとメンバーが全然違っていようと応用可能で融通の利く普遍的なものだったってことの一つの証左に他ならない。

 

 

ジャズ・バンドにおけるそんなにも強力で普遍的なアレンジ手法を開発したドン・レッドマンと、彼を雇い存分にアレンジのペンをふるわせたフレッチャー・ヘンダースンと彼の楽団の意義は途轍もなく大きい。なにしろ約10年後に同楽団のアレンジ譜面を買取ってそのまま演奏したベニー・グッドマン楽団が大成功し一世を風靡してスウィング黄金時代を築いたほどだ。

 

 

しかしそんなスウィング黄金期を尻目に、その実質的立役者だった肝心のフレッチャー・ヘンダースン自身は元々音楽家志望ではなくバンド経営能力もなく、いろんな意味で失敗続きの人生で、それで彼のそんな没落人生を現実に目の当りにしてきたジョン・ハモンドが付けたリイシュー・アルバムのタイトルが『挫折の研究』になっているというわけなんだよね。

 

 

さてフレッチャー・ヘンダースン楽団では、他のバンドが弦ベースを使うようになってそれが一般化して以後も管ベース、すなわちチューバを使い続け、それがなんと1931年まで続き、弦ベースに置き換わるのは同年のジョン・カービーだったりする。同楽団でのカービーもそれまではチューバを吹いている。

 

 

これもなかなか興味深いよねえ。ニュー・オーリンズで誕生した初期ジャズは元々町を練歩きながら演奏するブラス・バンドだったわけだから、低音担当も当然管楽器だった。フレッチャー・ヘンダースン楽団はその姿を1930年代まで残していたんだねえ。

 

 

ずっとずっと後になってやはり低音担当にストリング・ベースではなくチューバやスーザフォンを使うアレンジやバンド編成が復活して再び注目され、しかもそれらの殆どはいわゆるジャズではない。それらとの関係については今日は書く余裕がない。

 

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