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2016/09/28

男歌・女歌

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英語で歌う米英のポピュラー音楽歌手は、女性が歌うか男性が歌うかによって歌詞の中身を書きかえるよね。対象の性別変更だ。一番はっきり分るのが人称代名詞で He を She にしたりその逆をやったりその他いろいろと。これはほぼ例外なく全員やるけれど、僕はあまり好きなやり方じゃないんだなあ。

具体例なんてあげられないほど多いから困ってしまう。瞬時に思い付くものとしてはサザン・ソウル・スタンダードの一つ「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」がある。この曲の初演はご存知の通り女性歌手エタ・ジェイムズなので、「彼」が去ってしまうのを云々と歌っているよね。

彼(he)を奪われるのを目の当りにするくらいならいっそ目が見えなくなればいいという失恋歌。彼女(her)とかあの娘(girl)が彼と喋っているのを見てどうのこうのとね。マット・デニスが書いた「エンジェル・アイズ」にちょっと似た主題だ。ところが僕はこの「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」をスペンサー・ウィギンズの歌で知ったのだ。

スペンサー・ウィギンズはもちろん男性歌手なので、この曲も男の立場に歌詞を書きかえて歌っている。言うまでもなく恋人を奪うあの娘(her)がアイツ(him、that boy など)になっている。男性歌手が歌う「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」なら他にもフェイシズのがあったなあ。

フェイシズのライヴで「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」を歌うのはもちろんロッド・スチュアート。そして彼らは英国のロック・バンドだ。米国の女性歌手ならデヴィナ&ザ・ヴァガボンズのデヴィナ・ソワーズが今年2016年の新作ライヴ・アルバムで歌っていると今年8/25に書いたばかりだ。

こんなのは本当にほんの一例で、同じ歌を歌手の性別によってそれぞれの立場に置換えて歌詞を書きかえて歌うのが米英ではごくごく当り前でほぼ全部そうなのだ。米英だけだなく欧州の大衆音楽では一般的にそうらしいのだが、英語以外の外国語はどうにも自信がないので言わないでおく。

最初に書いたように僕はこのやり方があまり好きじゃない。これは高校〜大学生の頃に洋楽をたくさん聴くようになった頃から感じ続けている違和感なのだ。ちょっとこう、歌手とその人が歌う中身との距離が接近しすぎているんじゃないかと思うんだよね。だから僕にはやや居心地が悪い。

これが日本の大衆歌謡(と言っておく、なぜならばこの問題の場合、歌謡曲だ演歌だと区別するのは意味がないし、そうでなくてもこの二つの区別は不可能な同じモダン・ポップスだ)の世界だとこうはなっていない場合が結構ある。それが「男歌」「女歌」というもので、この世界をご存知の方ならみんな知っている。

男歌とは女性歌手が男の立場に立って男言葉で男の気持を歌うもの。女歌とはその反対に男性歌手が女の立場に立って女言葉で女の気持を歌うもの。具体例を挙げると美空ひばりの1964年の大ヒット曲「柔」(関沢新一&古賀政男)が男歌だ。ご存知柔道をテーマにした歌。
それはそうとあのひばりの「柔」、どこが面白いんだろう?男歌の代表的一例としてあげただけであって、音楽的な魅力はかなり薄いように僕は思うんだなあ。1964年というと東京オリンピックが開催された年で、この大会から柔道が正式競技に採用されたので、それもあって国民的大ヒット曲になった。

僕の考えではあの1964年の「柔」はひばりがダメになった典型例。男歌だからとかではない。ひばりはデビュー当時から女っぽくなくて、ちょっと中性的というか男歌っぽいものが多い(だから女性歌手としての魅力が感じられず好きじゃないという人も多い)。しかしひばりがデビューからしばらくの間持っていた軽快なポップでスウィンギーなフィーリングが「柔」では完全になくなってベッタリと重く、歌い廻しもどうにも聞苦しい。

その後ひばりはどんどんとダメになっていって、晩年の「愛燦燦」(1986年小椋佳)とか「川の流れのように」(1989年秋元康&見岳章)なんかもヒットはしたものの、どこがいいんだか僕にはさっぱり分らない駄曲にしか聞えない。振返るとその最初が1964年の「柔」だったように思うんだよね。

ひばりがダメになった云々という話はやめておこう。男歌・女歌の話題だ。女性歌手の歌う男歌の例では、他にもこれまた大ヒットした八代亜紀の「舟歌」(1979年阿久悠&浜圭介)がある。ひばりの「柔」とは違って八代亜紀の「舟歌」は素晴しい曲で彼女の歌い方も見事。僕は大好きな一曲なのだ。

どうでもいい横道にまた逸れると、僕がカラオケに誘われてついていき演歌をとリクエストされると、必ず八代亜紀の「舟歌」を歌っていた。演歌でなければジュリー(沢田研二)のレパートリー、特に「危険なふたり」か「勝手にしやがれ」ばかり歌っていた僕(前者は年上の女性との破綻しそうな恋を歌う内容だから激しく共感できる)だけど、演歌では「舟歌」ばかりだった。

自画自賛になって気が引けるけれど、僕のジュリーはなかなか上手かったのだ。カラオケに同席した友人からはお世辞抜きでそう褒められていた。一応八代亜紀の「舟歌」も同じことを言われてはいた。これは多分高校生の頃にレッド・ツッェペリンのコピー・バンドで歌っていた経験ゆえかもしれない。

レッド・ツェッペリンであればジュリーや八代亜紀よりももっと上手く歌えたはずなんだけど、ロバート・プラントのあの中性的でメタリックな高音シャウトはせいぜい20歳くらいまでしか僕には出せなかったはずだから、カラオケ店が一般に普及した時期にはもう絶対無理だったなあ。

そんな話はどうでもいい。男歌・女歌の話題。八代亜紀の「舟歌」の歌詞は神奈川県民謡「ダンチョネ節」の本歌取りだ。「ダンチョネ節」はもちろん男の気持を男性が歌うもので、阿久悠はここから取って「舟歌」のなかに挿入しているのは聴けば分る。
これをお聴きになれば分るように「ダンチョネ節」は「舟歌」の中間部、「♪歌い出すのさ、舟歌を〜♫」に続くテンポがなくなる部分で使われている。1コーラス目は歌詞付き、2コーラス目は同じメロディでスキャットで歌っている。なおこの YouTube 音源では歌のキーがオリジナル・スタジオ録音ヴァージョンよりも半音だけ低い。

男の気持を男性がという「ダンチョネ節」を挿入した阿久悠は、ひょっとしたらそこから広げて「舟歌」全体の歌詞を思い付いたという可能性があるかもしれない。そもそもの端緒が「ダンチョネ節」だったのかも。それほど効果的に使われているもんね。それ以外の本編部分の歌詞も男言葉による男の気持を歌っている。

逆に女歌、すなわち男性歌手が女の立場に立って女言葉で女の気持を歌っている代表曲は、僕の知っている範囲では森進一の「女のためいき」(1966年吉川静夫&猪俣公章)と宮史郎が歌うぴんからトリオの「女のみち」(1972年宮史郎&並木ひろし)だ。森進一には他にもいっぱいあるみたいだ。

森進一には「女のなんちゃら」という曲名の一連の女歌シリーズがあるらしく、調べてみたら「〜恋」「〜波止場」「〜四季」「〜岬」「〜酒場」「〜ワルツ」など枚挙に暇がない。だから森進一はいわば女歌を本領とする男性歌手であると言えるのかもしれない。全部 YouTube にあるだろう。興味のある方は是非。

しかし森進一以上に僕が女歌というものを強烈に意識したのがぴんからトリオの「女のみち」だった。1972年だから僕が10歳の時で、かなりヒットしてテレビの歌番組でも実に頻繁に流れていたので強く印象に残っている。宮史郎のあの口髭を生やしたオッサン顔で女心を歌うとはねと。
お聴きになれば分る通りこれはもうそのまんまだ。森進一の「女のなんちゃら」シリーズもそばに寄れないほどの完全なる女歌。これはぴんから兄弟と名乗るようになった時代の映像だけど、こんなのがテレビでバンバン流れていたのだった。

こんなのをそのままアメリカなどへ持っていったりなんかしたら、間違いなくゲイのレッテルを貼られる。アメリカ大衆音楽では書いたように歌手の性別に合せ歌詞内容の性別も書きかえ、場合によっては曲名の一部すらも変えてしまうわけだから。歌における男女の役割分担が鮮明すぎる世界だからね。

まあ日本でもあの「女のみち」を歌う宮史郎はまるでオカマみたいで気持悪いじゃないかと言われたかもしれないよね。しかしですね、僕に言わせれば歌の中身と歌手の立場がベッタリとくっついている方が気持悪い。距離感が近すぎるだろうと。ある程度いい距離感があった方がマトモじゃないかなあ。

演歌の話ばかりじゃないかと思われるかもしれないが、例えば太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975年松本隆&筒美京平)。僕はこの歌もこの歌手もいまだに大好きなんだけど(当時と今で歌声ばかりか容姿も変っていないという魔女だ)、これは一曲のなかで男言葉と女言葉が交互に切り替る。男歌になったり女歌になったりするわけだ。
もっともこの松本隆の書いた歌詞は、ボブ・ディランの1964年作「ブーツ・オヴ・スパニッシュ・レザー」(『時代は変る』)を下敷にしているはず。しかしこれに深入りすると別の話になって、そんでもってこれまた長ったらしくなってしまうので、機会を改めたい。

しかしあるいはひょっとしてこういう僕の感覚は日本人特有のものなのかもしれない。男が女役もやる歌舞伎とか、女が男役もやる宝塚とかあるもんなあ。そういうものだと子供の頃から日本人は思っているだろう。そして<男歌/女歌>と今日僕がこの文章で繰返してきたこの用語は大衆歌謡のものではなく、実は和歌の世界の言葉なのだ。

七世紀から八世紀にかけて編纂されたというのが定説の日本最古の詩歌集『万葉集』。あれに最もたくさん収録されている歌人である大伴家持は男性だけど、大変なイケメンで女性にモテて、女性との間で交したたくさんの贈答歌がある。しかし家持が詠んだ和歌には男性との贈答歌もいっぱいあるんだよね。

一例ご紹介しよう。大伴家持と同性の友人である大伴池主(おおとものいけぬし)が交わした贈答歌。越前国に赴任した大伴池主は、年上の友人である大伴家持と離ればなれになったことを嘆いて、次のような歌を家持に贈っている。

桜花今そ盛りと人は言へど我れはさぶしも君としあらねば(巻第十八4074)
〜現代語訳:桜の花は今が盛りだと人は言うけれど、私は寂しいのです。貴方と一緒じゃないから

これに対して家持は次のような返歌を返している。

我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね(巻第十八4077)
〜現代語訳:君が前に住んでいた古い屋敷の桜の花は未だ蕾のままだよ、一目見においでよ

知らない人が読んだら男性同性愛の歌にしか見えないだろう。こんな贈答歌がこの歌集にはたくさんあって、日本の最も伝統的な詩歌形式である和歌の世界では最古からこんな具合なので、それらを「女歌」(女性歌人なら「男歌」)と一般に呼習わすようになった。

それらは同性愛の歌ではないんだろう(そういう関係だったという推測も可能だ)。単にその立場になって詠んでいるというだけの、文学の世界におけるいわば<役割>なのだ。そして和歌の世界は音楽と無縁ではない。無縁ではないどころか音楽そのものなのだ。和歌が実際に声に出して詠上げられるのを聴いたことのある方ならよくご存知のはず。

歌謡曲や演歌など現代大衆歌謡がいつ頃成立したのかは、ちゃんと調べてみないといますぐにはちょっと言えないが、この世界で曲を創ったり、なかでも特に歌詞を書いたりする作詞家は、もちろん現存する最古である『万葉集』以来の日本の詩歌の伝統の末端に連なっているのは、いまさら僕が繰返すまでもないことだ。

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