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2016/09/05

邯鄲にて

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Basementtapes










ボブ・ディラン・ナンバー「アイ・シャル・ビー・リリースト」のレゲエ・ヴァージョンがある。いや、そんなものは存在しない。少なくとも僕は知らない。現世ではというか現実世界にはね。この曲のレゲエ・ヴァージョンというのは今朝の僕の夢のなかに出てきたものなのだ。僕は見た夢をハッキリと憶えていることが結構ある。すごくリアルな夢だった。

 

 

それでもやはりしばらく経つと忘れそうなので記憶が鮮明なうちにと思って、この文章は今日がお休み(今は八月前半)なのをいいことに、起床直後にトイレにも行かず顔も洗わず歯も磨かず、速攻で Mac に向いキーボードを叩いて書いている。その夢のなかでは、僕はなにか大規模野外ロック・フェスティヴァルみたいなところで演奏していた。

 

 

もし僕が音楽家なら起床直後に向うのは Mac ではなく楽器だよなあ。寝る時もシステム終了しないから速攻で触れる Mac と違い、現在の自室にある二本のギターは押入れの中。今この瞬間にもレゲエ・ヴァージョンの「アイ・シャル・ビー・リリースト」が鮮明に鳴っているんだけど、それが自分の頭のなかでだけなんて、まるでフランク・ザッパの『ジョーのガレージ』最終盤における主人公みたいな気分だよ。

 

 

しかしながら現実生活で僕が経験してその雰囲気を知っている大規模野外音楽コンサートは1991年のマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルだけ。そのかすかな記憶と、テレビや DVD で観る種々のロック系大規模野外コンサートの様子から類推しているだけなんだけどね。

 

 

その野外コンサートでの僕の出番はトリで、しかもアンコールのラスト、つまりその大規模野外ロック・フェスティヴァルの大トリでボブ・ディランの「アイ・シャル・ビー・リリースト」をストラトキャスターを弾きながら、バンドの伴奏付で、派手なロック・ヴァージョンにして歌ったのだった。

 

 

ロック・フェスティヴァルのオーラスでやる「アイ・シャル・ビー・リリースト」なら、誰もがザ・バンドの解散コンサート『ザ・ラスト・ワルツ』におけるそれを思い浮べるだろう。あれもいいよね。いろんな歌手や演奏家が賑やかに参加しているし楽しい。

 

 

僕の夢のなかでの「アイ・シャル・ビー・リリースト」は、基本的にはボブ・ディラン30周年記念コンサートでクリッシー・ハインドがやっているヴァージョンそのまんまをコピーしていた。だって以前も一度書いたように、彼女のあのヴァージョンが僕は大好きなのだ。

 

 

 

お聴きになればお分りの通りのこの雰囲気そのままに、夢のなかでの僕も、クリッシー・ハインドみたいにエレキ・ギター(は僕の場合間違いなくストラトキャスターだった)を弾きながらロックな「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌った。問題は間奏のギター・ソロが終り3コーラス目も歌い終ってからだ。

 

 

そこまではクリッシー・ハインド・ヴァージョンそのままにやっていたのに、間奏のギター・ソロのあと3コーラス目を歌い終ると、僕は瞬時にギターで、あの(ン)ジャ!(ン)ジャ!というレゲエのビートを突然刻みはじめた。自分でも全く想定していなかった即興的思い付き。ほんの一瞬のことだったのだが、バンドが即それに合わせてレゲエをやりはじめる。

 

 

それで僕を含めバンド全体の演奏がレゲエになってしまい、そのレゲエ・ビートに乗ったまま僕は続けて「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌い続ける。と言ってもレゲエに移行してからの歌詞はディランの書いたものではなく、僕がその場で思い付くままアドリブで独自の英語詞を歌っていた。

 

 

コンサートが終って楽屋へ帰ると音楽評論家の高橋健太郎さんが来て(会ったことはないが写真で顔は知っている)「どうしてあそこがレゲエになったんでしょう?」と問うのだが、僕は「自分でもサッパリ分らない、ただ瞬時になぜだかそうなってしまった」と答える。プロ・ギタリストでもある健太郎さんはその場でアクースティック・ギターを弾いてそれを再現しようとするが、僕は加わらない。

 

 

僕の歌った「アイ・シャル・ビー・リリースト」レゲエ部分での即興英語詞は、ディランの書いたオリジナル詞の持つ意味を大幅に拡大解釈したようなもので、現在の状況から「解放されたい」というような強いメッセージだった。日本では安倍自民が勝手気ままにやり、不寛容な国フランスではイスラム教徒の肩身がどんどん狭くなり、同様に不寛容な主張を持つドナルド・トランプがアメリカでは大統領になるかもしれないというような状況からの「解放」。

 

 

そんな強い社会的メッセージ性を帯びた歌詞をレゲエのビートに乗せて歌うもんだから、あたかもまるで、やはり種々のメッセージを投げかけたボブ・マーリーが「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌っているかのようなフィーリングになっていた。ギターを刻み歌いながら僕は自分がボブ・マーリーになったんだと思っていた。

 

 

いや、でもディランの書いた「アイ・シャル・ビー・リリースト」の歌詞がいったいなにを言おうとしているのか、僕は2016年の現在でもいまだにハッキリとは分っていない。昔はなにがなんやらチンプンカンプンだった。そもそもこの曲が初めて世に出たのはザ・バンドのヴァージョンだったよね。

 

 

 

すなわち1968年の『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のアルバム・ラスト。歌うのはリチャード・マニュエルなんだけど、リチャード・マニュエル自身この時はディランの書いた歌詞の意味がよく分らなくて、しかし分らないまま歌ったんだという。こうだからやっぱり歌詞の意味の理解と歌の表現力には強い関係はないよね。

 

 

だってあの『ビッグ・ピンク』ラストの「アイ・シャル・ビー・リリースト」におけるリチャード・マニュエルの歌を聴けば、誰だってただならぬ雰囲気に圧倒されるはずだ。それは歌がそうだということもあるけれど、歌手自身の弾く印象的なピアノ・イントロと、ガース・ハドスンのロウリー・オルガンのせいもある。

 

 

それにしてもあの「アイ・シャル・ビー・リリースト」におけるオルガンの音はなんなのだ?最初に聴いた時はオルガンなんだかなんなんだか、とにかく正体不明のワケの分らない音がフワ〜ッと漂うように鳴っているとしか思えなかった。まるでまとわりつく靄とか霧みたいなサウンドだよなあ。

 

 

それを弾いているのがガース・ハドスンという人で、しかも彼はロウリー・オルガンを使っているんだというのを知ったのは、僕の場合随分と後になってからのこと。オルガンというとジャズ・オルガニストなども使うハモンド B-3の音はよく知っていたけれど、ロウリー・オルガンとは名前すら知らなかった。

 

 

そんでもって「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌うリチャード・マニュエルの声質と歌い方も昔の僕はイマイチ好きではなく、レイ・チャールズの影響があるなとは分るものの、ザ・バンドのヴォーカリスト三人のなかでは最も線が細いように感じてしまっていた。リヴォン・ヘルムやリック・ダンコは前々から大好きだけど。

 

 

今ではリチャード・マニュエルのヴォーカルも好きなんだけど、前述のような印象が長年続いていたもんだから『ビッグ・ピンク』における「アイ・シャル・ビー・リリースト」は、あの靄のようなサウンドの漠然とした印象と、歌詞の難解さと、歌手の声が好みじゃないのとで、僕はどうも避けていたような部分がある。

 

 

『ビッグ・ピンク』でも「ザ・ウェイト」や「ロング・ブラック・ヴェイル」や「火の車」などの方が断然好きで、アルバム冒頭のこれまたディランの書いた「怒りの涙」は、これまたリチャード・マニュエルが歌っているのでこれまたイマイチで、歌詞内容もこれまたよく理解できず、なんじゃこれ?と。

 

 

『ビッグ・ピンク』とザ・バンドの話は今日はあまり深追いしないでおこう。全然違う話になってしまう。今日の話題はリチャード・マニュエルが最初は歌詞の意味がよく分らないまま歌ったという「アイ・シャル・ビー・リリースト」のことだ。「私は解放されるだろう」ってどういうことだろう?

 

 

“released” は「解放」でもいいが「釈放」かもしれない。ってことはこれは(冤罪かなにかで?)投獄されている囚人の歌なのか?なんだかそんな解釈もあるらしい。しかし「アイ・シャル・ビー・リリースト」全体をじっくり聴直してみても、その解釈だってイマイチ僕にはピンと来ない。

 

 

「聴直して」っていうのは、僕は音楽に関しては音を聴かずに歌詞だけ「読む」ということは絶対にしない。文学作品じゃなくて音楽作品なんだから、次々と流れては同時に次々と消えていく時間の流れのなかで、瞬時に歌詞の意味が捉えられなかったら、それは歌詞を理解したことにはならないだろう。

 

 

歌詞が記載されている紙やネット・データなどを見ることもあるけれど、それは全て聴きながらのこと。うんまあそれはみんなそうか。聴かずに歌詞だけ読む人なんていないよね。当り前のことだった。しかし日本語と英語の場合は僕は聴きながら見ることもほぼしない。よほど難解か、あるいはサザンオールスターズの「愛の言霊」みたいに聴いても分らないものだけ。

 

 

「アイ・シャル・ビー・リリースト」を何十年もじっくり聴いているんだけど、やっぱり歌詞全体の意味がクッキリとイメージを結ぶように完璧には理解できていない。ドアーズの歌詞なんかもそうだけど、ディランとの違いは、ドアーズの場合は難解とかではなく、ただ単にピンぼけしているだけ。

 

 

ドアーズの歌詞は全体としては焦点が定らず、それが結果的になにか含蓄のあるものだと聴く側に勘違いさせているだけ。あれは難解だとかではなく、要するに理解不能。書いている本人も分っていないはずだ。ドアーズの魅力はそういう部分じゃない。ディランの書く歌詞はそういったものとは本質的に全く違うものだ。

 

 

「アイ・シャル・ビー・リリースト」が釈放を願う囚人の歌だという解釈は紹介した。これが今では最も一般的なものなのかもしれない。あるいは宗教的な意味での魂の解放のことだという解釈も読むことがある。こっちは曲を聴いたら納得しやすい。だってちょっぴりゴスペル・タッチな曲調を感じるもんね。

 

 

宗教的といえば「アイ・シャル・ビー・リリースト」という曲を創り初演したザ・バンドとの例の地下室セッション。あの1967年の一連のセッションのなかにはカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」がある。2014年リリースの『ベースメント・テープス・コンプリート』二枚目に収録。

 

 

「ピープル・ゲット・レディ」が宗教的な曲だというのは説明不要なはず。そもそもこの曲のオリジネイターであるインプレッションズはゴスペルにドゥー・ワップやリズム・アンド・ブルーズをミックスさせたようなグループだったもんね。作者のカーティス・メイフィールドも宗教的要素の強い音楽家だ。

 

 

そんな「ピープル・ゲット・レディ」を、一見無関係そうなボブ・ディランとザ・バンドがあの地下室セッションで録音していたのを最初に知った(のは2014年の公式リリースよりも前)時は、僕はまあまあ驚いたんだよね。単にスタンダード化している有名曲だからとかの理由だけじゃないよなあ。

 

 

ってことはの地下室セッションで完成し録音もされた「アイ・シャル・ビー・リリースト」だって宗教的な意味合いを持つ曲だという解釈も可能だろう。「いつの日か、いつの日か、私は解き放たれるだろう」というのは、神によって解き放たれる魂と精神的自由を願う内容かもしれないぞ。可能性は大だ。

 

 

可能性が大だっていうのは、実際黒人歌手がゴスペル風な解釈で「アイ・シャル・ビー・リリースト」を歌っているヴァージョンがいくつもある。一番有名なのはニーナ・シモンが歌ったものかなあ。黒人歌手である彼女は一般にはジャズ歌手として認識されているかもしれないけれど、ちょっと違う資質の人じゃないかなあ。

 

 

ニーナ・シモンは一時期宗教的な雰囲気をかなり強く出していて、そんな時期に「アイ・シャル・ビー・リリースト」もゴスペル・ソングとして歌っている。彼女自身がいつものようにピアノを弾きながら、リズム伴奏や女性バック・コーラスも入り、リズムは6/8拍子の典型的なゴスペル・スタイル。

 

 

その他教会の大編成ヴォーカル・コーラス、すなわちゴスペル・クワイアによる「アイ・シャル・ビー・リリースト」だって僕は二種類持っている。そういうのを聴くと、神の恩寵で私の魂が解放されんことを願う、神よ、神よ、いつの日か、いつの日か!と祈るような歌にしか聞えないもんね、もう完全に。

 

 

音楽作品でも映画作品でも文学作品でも解釈は一様ではなく、優れたものであればあるほど一層多義性を帯びてくるわけで、その多義性ゆえに面白いわけだ。音楽だって意味が一つに定らないからこそ、多くの人に歌い演奏され継がれ、聴き継がれる。「アイ・シャル・ビー・リリースト」だってそうだろう。

 

 

だから上で書いたように「アイ・シャル・ビー・リリースト」の後半を社会的メッセージを伝えやすい音楽スタイルであるレゲエにして、その部分を独自の即興的な歌詞にして、他者・異物を許したがらない現在の非常に閉塞的な社会状況から僕は解放されたいんだという歌として歌う僕の夢は、そんなにムチャクチャなものでもないだろう。ある意味現実以上にリアルだ。

 

 

日本でも「アイ・シャル・ビー・リリースト」はいろんな人がそれぞれ独自の日本語詞にして歌っているよね。僕が一番好きなのはRCサクセションのライヴ・ヴァージョン。忌野清志郎は権力の圧政からの解放、音楽表現の自由を訴えるという歌詞にして歌っている。実に清志郎らしい。それもまた一つの有効な解釈だ。

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コメント

現世にもありますよ!
レゲエバージョンのアイシャルビーリリースト。
若い頃レゲエ好きで歌手名は失念してしまいましたが70年代のコーラスグループが歌っていた物をドーナツ盤で持ってました。
確かヘプトーンズだったかなぁ?
この曲を知ったきっかけでした。
かなり甘めの曲調でメロディの美しさにやられました。
私は英語を含めて外国語はさっぱりですがこの曲の歌詞についてはサムクックのアチェンジイズゴナカムに通じる印象を持っていました。

タメさん、まあもちろんあるんでしょう。僕の音楽経験なんて浅くて狭いんだから、あるに違いないだろうなとは思いつつ書きました。

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