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2016年10月

2016/10/31

バルカン風インディ・ロック(?)

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ベイルート、といってもレバノンの都市名ではなく音楽家名のことなんだけど、この二つは関係があるらしい。音楽家ベイルートは自らのソロ・プロジェクト(のちにバンド)名をこのレバノンの都市名から取ったんだそうだ。このことを僕が知ったのはわりと最近のことだ。

 

 

ベイルートの中心人物というか、ソロ音楽プロジェクト時代の中の人の本名はザック・コンドン。この名前もジャズ・マンのエディ・コンドンの孫だからという話がまことしやかに囁かれていて、僕はそうに違いない、やっぱり血は争えないよなと思っていたんだけど、どうやらこれはウソ話なんだそうだ。

 

 

主に1920〜40年代に大活躍したジャズ・マン、エディ・コンドンのことは、以前詳しく書いたのでそちらをご覧いただきたい(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-71c4.html)。僕はこの人の大ファンなもんだから、その孫だということならますます嬉しいなあと思っていたんだけどなあ。

 

 

ザック・コンドン自身がデビュー当時に、自分はエディ・コンドンの孫なんだとホラを吹いただけのことらしいんだよね。おそらく悪気なくなんとなく言っちゃっただけなんだろう。この音楽的血脈に言及したホラ話が本人の手を離れて広まってしまったため、のちに自分であれはウソだったんだと謝罪している。

 

 

しかしあれだ、僕は大のエディ・コンドン・ファンで、そんでもってザック・コンドンのプロジェクト、ベイルートもデビュー当時に一作目『グラグ・オーケスター』を買って聴いてファンになったので、ウソだったと分っても、僕はこのホラみたいなものをなんかいいなあと思っている。

 

 

ベイルートのデビュー・アルバム『グラグ・オーケスター』は2006年にリリースされている。それは Ba Da Bing! というレーベルからのもので、だからインディー・ロック的な位置付けなんだろう。僕はあとになって知ったことだけど「ジェク・バックリーの再来」という言葉もあったらしい。

 

 

ジェフ・バックリーに全く思い入れのない(無理して言えばどっちかといえばお父さんのティム・バックリーの方が好き)僕にとっては、この表現(ひょっとしてレーベル側の蒔いた売り文句?)を当時知っていたら、むしろ逆にベイルートの『グラグ・オーケスター』を買うのはためらったかもしれない。

 

 

2006年にベイルートの『グラグ・オーケスター』を買ったのは、当時 mixi で親密にさせていただいていた(一応今でも僕の方は親密であるつもり)女性音楽ファンの方が、これをその年の年間ベストテン新作部門の第一位に選んでいて、その記事トップに載っているジャケット写真が魅力的だったからだ。

 

 

その方の文章には(僕にとっては)幸いなことに「ジェフ・バックリーの再来」みたいな表現はなく、『グラグ・オーケスター』の音楽的中身についてもあまり明言されていなかった。とにかく僕は(今でも)信用している女性音楽ファンなので、その方が一位に選ぶならば、そしてジャケット・デザインの魅力とで買ったのだ。

 

 

脱線になるけれど、アナログ・レコード時代に音楽に夢中になった世代、つまり僕なんかもそうだけど、そんな音楽ファンのなかには、LPではジャケ買いがあったけれどCDではそれはなくなった、CDサイズの小さいジャケットではそんなことはありえないと言う方がたくさんいるよなあ。そんなことはないんだぞ。

 

 

CDジャケットのあのサイズのデザインなんかじゃ12インチLPのあのジャケットの魅力・迫力に遠く及ばないっていうのは事実ではある。僕もそんな世代なわけだからこれは強い実感がある。ミニチュアLP的紙ジャケットを愛好するのも、そんな時代へのノスタルジーに他ならないわけだしね。

 

 

しかしだからといってCDのあのサイズでジャケット・デザインの魅力が感じられない、ジャケ買いがなくなったなんていうのは本音ではないんじゃないかなあ。要はアナログ盤の方が好きだというだけのことじゃないかなあ。CDジャケットは小さいから云々なんて言ったら、絵葉書なんかどうなるのさ?

 

 

とにかくベイルートの2006年デビュー作『グラグ・オーケスター』。届いたCDを聴いてみて、僕はこれは(インディー・)ロックじゃないだろう、ワールド・ミュージックだろうと思ったのだった。なぜかって一曲目「グラグ・オーケスター」でいきなりバルカン風ブラスが鳴るもんね。

 

 

その他『グラグ・オーケスター』は全編にわたってバルカン風というか、そのあたりのロマ(ジプシー・)ミュージック風というか東欧風というか、まあそんな音楽なんだよね。そんでもっていわゆる普通のロックをロックっぽくしている、あるいはアイデンティティであるような8ビートが聴き取れないんだ。

 

 

しかもベイルートの中の人であるザック・コンドンは特にバルカン半島や東欧地域とは深い関わりのない当時20歳のアメリカ人で、『グラグ・オーケスター』の大半も出身地ニュー・メキシコ州のアルバカーキにある自宅のベッドルームで、Mac の Pro Tools を使って独りでコツコツ録音したものらしい。

 

 

だから『グラグ・オーケスター』がどうしてこんな感じの東欧風音楽で、それもなんだかちょっと物寂しいような郷愁を誘うような哀感を伴ったものに仕上っているのか、2016年の今でもはっきりとは分らない。なんでも17歳の時に高校をドロップ・アウトしてバルカン地域を旅行したことはあるんだそうだ。

 

 

だからその旅行の際にバルカン音楽に触れたんだろうなあ。いわゆる通称バルカンブラス(チョチェク)も聴いたんだろう。確かに『グラグ・オーケスター』の殆どの曲で鳴っているブラス・サウンドはバルカン風ではあるけれど、しかしチョチェク的な高速ブラスではなく、もっとこう葬送音楽みたいだ。

 

 

ちょっと横道だけど、チョチェクではタラフ・ドゥ・ハイドゥークスは僕も大ファンなのだ。このルーマニアのロマ・バンドに関しては商業的に流通しているCDは全部持って愛聴している。「商業的に流通している」とわざわざ前置するのは、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスにはそうではないCDも多いんだそうだ。

 

 

タラフ・ドゥ・ハイドゥークスは石田昌隆さんもかなりお好きらしい。そんな石田さんはザック・コンドンことベイルートにも強い興味をお持ちだから、やっぱり共通するなにかがあるってことだよなあ。東欧ロマ音楽風なものを両者に感じ取っているんだろう。この二つを結びつける文章は僕は見ないけれど。

 

 

『グラグ・オーケスター』全編を通しアップ・テンポの曲は全く一つもない。チョチェクみたいに疾走したりするものは全然ないんだなあ。全曲スローからミディアム・テンポ、いやだいたい全部ゆったりとしたリズムで、そのリズムに強靭なビート感はなく、だから音楽的共通要素といってもリズムではない(はず)。

 

 

やっぱりザック・コンドン自身が吹いているトランペットを多重録音したブラス(金管)群の響きがもたらす一種独特のマイナー(短調)感が、なにか聴き手の心のなかに醸し出す佗しいフィーリングとか、そんなものがバルカン半島音楽風に聴こえるってことじゃないかと、僕は勝手にそう推測している。

 

 

『グラグ・オーケスター』ではブラス(といっても全部ザック・コンドン一人が吹くトランペット多重録音だけど)だけでなく、ウクレレの音も大きく目立つ。ちょこっと聴こえるヴァイオリン以外、聴いた感じ使われている弦楽器はウクレレだけのはず、と思ってCD附属の紙を見たらマンドリンも入っているなあ。

 

 

ドラム・セットの音も聴こえるけれど、それは相当にシンプルというかチャチなものに違いない。そんなサウンドに聴こえる。パーカッションやピアノやオルガンやアコーディオンもあるけれど、それらも全てザック・コンドン一人の演奏。もちろんヴォーカルも彼だ。でも僕は声の魅力はあまり強く感じない。

 

 

「ジェフ・バックリーの再来」だとかなんだとか、そんなザック・コンドンの声には僕はさほど惹かれていない。僕にとっての『グラグ・オーケスター』とは、ほぼ全面的にウクレレ+ブラスをメインに組み立てているあのサウンドだ。東欧ロマ音楽風に聴こえるっていうあの響きこそが魅力なんだなあ。

 

 

そんな音楽をやっているのに、このソロ・プロジェクト名がベイルートなのはなんだかちょっと不思議だ。ベイルートというよりベオグラードとかブカレストとか、そんな名前の方が似合っているよなあ。でもベイルートというべき中東音楽風なものが全くないわけではない。一番はっきりしているのは八曲目。

 

 

『グラグ・オーケスター』八曲目の「ブラティスラヴァ」。この曲のリズムとトランペットとオルガン(はシンセサイザーみたいな音だ)が奏でるメロディには、かなり鮮明にアラブ音楽風味を聴き取ることができるはず。その他アルバム中随所にありはする。

 

 

 

エレクトロニクス・ミュージックも『グラグ・オーケスター』には二つあって、七曲目の「シーニック・ワールド」(https://www.youtube.com/watch?v=ae-TB1zMqPA)とラストの「アフター・ザ・カーテン」(https://www.youtube.com/watch?v=7uYbfHOwKds)。前者はデビュー当時のプリンスみたいだなあ。

 

 

最後に、やっぱり『グラグ・オーケスター』はこういう音楽だという典型例を、やはりいくつか貼っておこう。一曲目のアルバム・タイトル曲→ https://www.youtube.com/watch?v=-UJX0QpkhhU  三曲目「ブランデンブルグ」→ https://www.youtube.com/watch?v=6us54HI-7l4

 

 

ちなみに僕が『グラグ・オーケスター』で一番好きなのは四曲目の「ポストカーズ・フロム・イタリー」だ。冒頭で鳴りはじめるウクレレのカッティングが大好き。しばらくするとやはりバルカン風なブラスが入ってくるが、メインはあくまでウクレレなんだよね。

 

 

2016/10/30

ウェス・モンゴメリーと白熱のリズム・セクション

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ジャズ・ギタリストの話をすることが僕は少ない。どうしてかというとそもそも絶対数が少ないからだ。1960年代末〜70年代以後はたくさん出てくるようになったけれども、ああいったジャズ系ということになっているギタリストたちは、ジャズのフィールドから出発したとだけも言えないように思う。

 

 

ああいった1960年代末以後の(ジャズ系ということになっている)ギタリストたちの出発点には間違いなくロック・ギタリストがいたはずだ。少なくとも下敷にはなっているだろう。もっとはっきり言えば60年代後半〜70年のジミ・ヘンドリクスの爆発的活躍がもたらした現象なんじゃないかなあ。

 

 

それにああいったジャズ系ということになっている1960年代以後のギタリストたちの多くがやる音楽は、やはりジャズがロックやファンクなどとクロス・オーヴァーしたようなものだから、そもそも表現したい音楽がジャズ・フィールドだけとも言えないだろう。そんな音楽性の上でジミヘン由来の弾き方をしている。

 

 

普段から僕の文章をお読みの方なら誤解なさらないはずだけど、そうじゃない方のために念のために書添えておくと、僕はそんなジャズ〜ロック〜ファンクな音楽のなかでジミヘン由来みたいな弾き方をするギタリストたちが嫌いじゃないどころか、純ジャズ系よりもはるかに大好きなのだ。

 

 

そんな1960年代末以後のギタリストたちが登場する以前のジャズ界においては、ギターなんてのはごくごくマイナーな楽器であって、前面に出てソロを弾いて目立ちまくるような存在ではない。元々この楽器は1930年代初頭頃にそれまでのバンジョーに取って代るようになったもので、バンジョー同様黙々とリズムを刻むのが仕事。

 

 

もちろんホーン楽器みたいにシングル・トーンでソロを弾くジャズ・ギタリストが皆無だったわけではく、数名いるんだけど(断っておくがチャーリー・クリスチャンが「初」ではない)、やはりそれは例外だなあ。電気増幅せず生のままだと音量も小さい楽器なので、エレキ・ギターが登場する前はバンドに混じると聴こえにくいんだよね。

 

 

そんなわけで、ジャズの世界ではギタリストは日陰の存在である時代が長かった。それで最初に書いたように(ホーン楽器みたいにシングル・トーンでソロを弾く)ジャズ・ギタリストの絶対数がそもそも少ないのだ。今日はそんななかから、モダン・ジャズ時代で僕が最も好きなウェス・モンゴメリーの話をしたい。

 

 

ウェス・モンゴメリー。まるで純ジャズ・ギタリストであるかのような言い方をしたけれど、ウェスも1960年代後半のヴァーヴやA&Mレーベル時代にはクロス・オーヴァー風なアルバムを残している。『カリフォルニア・ドリーミング』(66)や『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』(67)などなど。

 

 

それらはできあがった音楽内容そのものは決して悪くないどころか結構楽しめるものだけど、なにしろ大編成オーケストラを伴奏にポップ・ソングを分りやすく聴かせるようなものだから、ウェスがギターを弾きまくっているわけではない。だからギタリストとしての持味みたいなものはやや分りにくいよなあ。

 

 

ギタリストとしてのウェスの持味を存分に発揮していて、それに集中してたっぷり楽しめるという意味では、やっぱりリヴァーサイド時代だなあ。ウェスのリヴァーサイド盤は10枚以上あるけれど、やはり衆目の一致する通り僕も『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』と『フル・ハウス』が一番好き。

 

 

1960年の『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』と62年の『フル・ハウス』では、前者の方が評価が高く人気もあるようだ。でも僕の意見は逆なんだよね。ライヴ・アルバムである『フル・ハウス』の方が好きだし、音楽的内容も上じゃないかなあ。それでもこの一般的評価は理解できなくもない。

 

 

なぜならば『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』はトミー・フラナガンを中心とするピアノ・トリオだけが伴奏で、だから管楽器奏者で言えばワン・ホーン・カルテットのようなアルバム。ソロも殆どの場合ウェスとフラナガンしか弾いていないので、このギタリストの持味が分りやすいんだよね。

 

 

それに対し1962年録音のライヴ盤『フル・ハウス』はテナー・サックス奏者ジョニー・グリフィンが参加したクインテット編成で、テーマ演奏もギターとサックスとの合奏である場合が多いし、サックス奏者がいる分ウェスがソロを弾く時間がやや短めなのだ。このせいで評価と人気が低いだけじゃないかなあ。

 

 

いやまあ『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』と『フル・ハウス』のどっちが上かなんて言えないのは確かなんだけどね。『フル・ハウス』の方が好きだ、音楽内容もいいぞと感じる僕の気持は、一つにはこれがライヴ盤だということ、もう一つはリズム・セクションの躍動感が抜群だということがある。

 

 

僕が大のライヴ・アルバム好きだということはもう繰返す必要はないはず。やっぱり観客を前にした一回性の生演奏のグルーヴ感は違うんだよなあ。もう一つ、『フル・ハウス』でいいと書いたリズム・セクション、それはこの録音当時のマイルス・デイヴィス・コンボのそれなんだよね。この点は重要だ。

 

 

『フル・ハウス』の録音は1962年6月25日にカリフォルニアのバークリーにあったツボという場所で行われている。この頃にはマイルス・デイヴィス・コンボがライヴ出演のためにサン・フランシスコにやってきていたのだった。それでそのリズム・セクションを借りたのだ。

 

 

その当時のマイルス・コンボのリズム・セクションはウィントン・ケリー+ポール・チェンバース+ジミー・コブ。既に全盛期を過ぎていたと見るべきか、あるいは円熟期にあったと見るべきか、そこは人によって見解は分れるだろう。1962年というと既にジャズは新しい段階に入っていたのは確かだけれど。

 

 

ただウェスの『フル・ハウス」で聴ける彼ら三人のリズム、その活き活きとしたグルーヴィーな躍動感を聴くと、僕の単なる個人的趣味嗜好を差引いても、やはり円熟の極みにあったと誰もが思えるんじゃないかなあ。まあなんというか果物でも人間でもなんでも、腐りかける寸前が一番美味しいみたいな意味ではあるが。

 

 

ちなみにマイルス・コンボで1962年にこの三人のリズム・セクションを使っている録音は、公式はもちろんブートでも一つも存在しない。この三人がマイルス・バンドで演奏した記録の最後のものは1961年5月19日の、ギル・エヴァンス編曲・指揮のオーケストラとやったカーネギー・ライヴだ。

 

 

だが次の新しいリズム・セクション(ハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズ)の初起用が1963年5月14日のスタジオ・セッションで、それ以前にライヴで起用していたというデータもないので、やはり前年62年いっぱいは旧リズム・セクションを使っていたんだろう。

 

 

それで1962年6月25日にバークリーでのウェスのライヴをリヴァーサイドが公式録音しようと考えた際に、近辺に来合せていたマイルス・コンボのリズム・セクションを借りたってことだろうなあ。テナー・サックスのジョニー・グリフィン参加の理由は知らないが、結果的にはいい内容になっている。

 

 

とにかくこの五人編成のバンドによるライヴの白熱具合をちょっと聴いていただきたいので一曲ご紹介したい。 『フル・ハウス』A面ラストのディジー・ガレスピーが書いた12小節ブルーズ「ブルー・ン・ブギ」。アルバム中この一曲が一番興奮する。

 

 

 

テーマ演奏のあとウェスが一番手でソロを弾く。その弾き方、スタイルについてはもう語り尽くされているので僕が言うことはなにもない。むしろその背後でのリズム・セクション三人の動きを聴いてほしい。なんてグルーヴィーなんだ。その後ウィントン・ケリーのピアノ・ソロ。やはりブルーズが上手いよなあ。

 

 

三番手で出るジョニー・グリフィンのテナー・サックス・ソロも熱い。まあこのサックス・ソロが入らず、その分ウェスがもっと長めにソロを弾いていれば、『フル・ハウス』の人気も評価も『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』よりも上になったんじゃないかと僕は確信しているんだよね。

 

 

その証拠に『フル・ハウス』でのウェスを評価する人は、ほぼ全員A面二曲目の「アイヴ・グロウン・アカスタムド・トゥ・ハー・フェイス」をあげるもんね。なぜならばこれにはサックスが入らず、リズム伴奏付でウェス一人が美しく弾くバラードだからだ。

 

 

 

しかしこういった路線であれば、『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』A面三曲目「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームズ」の方がずっといいんじゃないかなあ。あぁ〜、なんて美しいんだ。こんな美しいギター演奏はそうそうないぞ。

 

 

 

『フル・ハウス』にはB面一曲目に「キャリバ」というラテン・ナンバーもあったりして、それも楽しい。ジミー・コブってこんなラテン・ドラミングができた人なんだぁ〜(失礼)。『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター』にもラテンは一曲あるけどね。

 

 

 

なおこの文章を書くにあたりウェスのことをネットで調べていて出てくる文章には、なぜだかウソばっかり書いてある。その最大のものはウェスはチャーリー・クリスチャンが「はじめた」単音弾き奏法を受継いで云々というくだり。例えばウェスの日本語版ウィキペディアにもはっきりとそう書いてある。引用しよう。

 

 

「チャーリー・クリスチャンによって初めてエレキ・ギターでの単音弾きのソロがジャズに持ち込まれたわけだが、ウェスはそのスタイルを大幅に進化・成熟させて、ジャズ・ギターの礎を築き上げた。」

 

 

これ、誰が書いたんだ?真っ赤なウソじゃないか。チャーリー・クリスチャンが初だって?

 

 

こういったチャーリー・クリスチャンがギター単音弾きをはじめ(それをウェスが受継いで発展させ)たのだと書いてある文章は実に多い。しかもネット上だけでなくウェスのアルバムのライナーノーツにも堂々とこう書いてあったりするのがいまだに載っている。こんなの大間違い、ウソっぱちなんだよね。

 

 

チャーリー・クリスチャン登場以前に、1930年代後半にカウント・ベイシー楽団で活躍したエディ・ダーラムを知らんのか?この人はエレキ・ギターで単音ソロを弾きまくるぞ。エレキじゃなくアクースティック・ギターでジャズとブルーズの両方の世界を跨いでいたような人なら、エディ・ダーラムのずっと前からシングル・トーンでソロを弾くギタリストは何人もいるもんなあ。はぁ〜。

 

 

モダン・ジャズばっかり、あるいは古くてもせいぜいビ・バップ黎明期までのものしか聴いていないからこんなことになっちゃうんだ。いつもいつも繰返しているけれども、それ以前の戦前古典ジャズをちゃんと聴いてくれよな。

2016/10/29

リシャール・ボナの新作ではラテンが全面展開!

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いやあ、本当に楽しいなあ。なにがって今年六月にリリースされたリシャール・ボナの新作『ヘリティッジ』がだ。以前一度だけリシャールについて書いた際(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-9df7.html)僕の場合彼の音楽はラテン要素が一番楽しいって書いたけれど、今年の新作はほぼ全面ラテンだもんね。

 

 

ところでそれはそうと、僕がブログを書いている nifty のココログは、サイド・バーに過去記事のリンクがあまりたくさんは出ず、出ないものについて自分のページで自分の書いた過去記事を検索する方法が僕は分らないし、そもそも毎日更新しているもんだから、何月何日になにを書いたのかも憶えられない。

 

 

書いたという事実だけは憶えている記事に辿り着くために、僕は Google でそれらしきキー・ワードを入れて検索して見つけて辿り着いているという次第。なんとかなりませんか?nifty さん。それはともかく今日もその Google 検索で一つはっきりしたことがある。

 

 

それは「リチャード・ボナ」ではなく「リシャール・ボナ」という文字列で検索すると、出てくるページは荻原和也さんのブログと、上でリンクを貼った僕の書いたブログ記事だけだという事実。もう一個しぎょうさんのツイートも出てくるが、本当にその三つだけなんだよね。

 

 

そういうわけなので、検索などして辿り着こうとする方の利便を考えると、リシャールだけでなく「リチャード・ボナ」表記も併記しておい方がいいのかもしれない。荻原さんのブログはリシャール関係だけでなくその他の文章でも、この手の妥協みたいなものが一切なく、清々しい態度で好感が持てる。

 

 

僕はそこまで割切れないし、妥協しないとブログ記事を読んでもらえる自信もないので、リチャード・ボナとも書いておこう。とにかくそんなリシャール・ボナの2016年作『ヘリティッジ』は、僕が書いた上のリンク記事でも書いたし、荻原さんもお書きになっている通り、全面的なラテン・アルバムだ。

 

 

上にリンクを貼った記事内での僕は「全面的にキューバン・ミュージックを展開」と書いた。その後繰返し何度も聴くと、どうもこれはキューバ音楽というようなものとはちょっぴり違うのかもしれないなとも感じはじめているんだけど、リシャールが共演しているマンデカン・クバーノは、まあ一応キューバ音楽家だろう。

 

 

北米はニュー・ヨークを中心に活動するマンデカン・クバーノの「クバーノ」はキューバのっていう意味だし、このユニットのうち、ピアニストのオスマニー・パレデス、ドラムスのルドウィッグ・アフォンソの二人はキューバ出身なんだしね。

 

 

といってもアルバム・ジャケット裏のメンバー記載を見ると、ドラマーのルドウィッグ・アフォンソは参加していないことになっている。ヴォーカル兼マルチ楽器担当のリシャール以外には全部で五人。ピアノ、トランペット、トロンボーン、パーカッション二名となっている。全員マンデカン・クバーノだろうか?

 

 

『ヘリティッジ』を聴くと確かにドラム・セットの音は聴こえないので、ドラマーがいないのは間違いない。伝統的ラテン音楽にドラマーはいないしね。だけど二名のパーカッショニストに加えリシャールもパーカッションをやっているみたいなので、リズムはやはり相当に賑やかで楽しいキューバ〜ラテン風だ。

 

 

キューバ音楽やラテン音楽にアメリカ大衆音楽などで使われるドラム・セットが入るようになったのがいつ頃のことなのか、ちょっとすぐには分らないんだけど、当てずっぽうの勘では1960年代末あたりからじゃないかなあ。キューバにソンゴというのがあるけれど、どうもそのへんからなんじゃないかと思う。

 

 

ソンゴの話とか、それでドラム・セットを用いてのリズム・パターンを確立し、北米合衆国で大流行したサルサにも影響を与えたチャンギートの話とかはよしておこう。リシャール・ボナの新作『ヘリティッジ』から離れてしまうし、その上僕もちゃんと分っていないから、どなたか詳しい方にお任せしたい。

 

 

リシャールの新作『ヘリティッジ』はちょっと聴いてみた外見だけなら、最初の頃に僕がそう思っていたように全面的なキューバン・ミュージックのように確かに聴こえるんだけど、やっぱりそうだとも断言できない部分もある。いや、一応はやっぱりキューバ音楽的なんだろうは思うんだけどね。

 

 

でもサルサともちょっと違うし、キューバのソンの現代化でもないよななあ、リシャールの『ヘリティッジ』は。音の組立てやサウンドの聴感上の第一印象はまさしくキューバン・サルサ以外の何者でもないと僕は思うんだけど、僕も上でリンクを貼った記事で書いたように、リシャールらしい音楽だ。

 

 

「リシャールらしい音楽」とは、キューバ〜サルサ風な音楽をやりながら、もっと広く北米〜中南米〜アフリカ〜ヨーロッパといった、いわば汎大西洋的な幅の広い音楽性を獲得しているように僕にも聴こえるのだ。そんでもってリシャールのヴォーカルは、今までの全てのアルバムで聴けるように優しく柔らかい。

 

 

合体しているマンデカン・クバーノは間違いなくキューバ〜ラテン音楽ユニットのはずなのに、そして彼らが『ヘリティッジ』でも奏でているサウンドはやっぱりそういうものなのに、完成した作品を聴くと書いたようにもっと普遍的な音楽になっているというのが、他ならぬリシャールの器の大きさなのだ。

 

 

『ヘリティッジ』一曲目「アカ・リンガラ・テ」はいつものようにリシャールがやっている一人多重録音ヴォーカル(にしか僕には聴こえないものだが、荻原さんにこれはサンプラーを使ったループによるヴォイス多重表現だと教えていただいた)。それ以外の音は殆ど入らないからいつもの調子。

 

 

そう思って聴いていると、その一曲目はあっと言う間(1分20秒)に終り、次の二曲目からはどこからどう聴いてもラテン音楽だ。その後11曲目「キヴ」までが全部マンデカン・クバーノと合体した全面的ラテン・ミュージックで、その次12曲目のアルバム・ラストがまた一人多重録音でラテンではない。

 

 

ところでそのラスト前の11曲目「キヴ」(Kivu)。これはリシャールの2005年作『ティキ』四曲目と同じタイトル。それを2008年のライヴ・アルバム『ボナ・メイクス・ユー・スウェット』でも再演しているのだが、『ヘリティッジ』の同名曲は果して同じ曲なのだろうか?僕はちょっと自信がないんだなあ。

 

 

というのは『ティキ』や『ボナ・メイクス・ユー・スウェット』の「キヴ」はかなり静謐な感じのバラードで、ピアノ一台だけの伴奏でリシャールが歌うテンポがないようなもの。ラテン要素は僕には聴取れない。ところが『ヘリティッジ』の「キヴ」はミドル・テンポのラテン・ナンバーだからだ。

 

 

『ヘリティッジ』の「キヴ」は打楽器パターンもピアノの弾き方もホーン・アンサンブルもキューバン・スタイルで、それらがまず聴こえて曲の土台を形成したのちに、リシャールのいつものヴォーカルが聴こえてくる。歌いはじめてからの伴奏だってラテン音楽なのだ。果して同じ曲なんだろうか?

 

 

う〜ん、まあ同じ曲ではあるんだろうなあ。というのは『ティキ』や『ボナ・メイクス・ユー・スウェット』の「キヴ」と『ヘリティッジ』の「キヴ」では、リシャールの歌う歌詞とそのメロディが同じだから。と言っても僕は歌詞の意味はサッパリ分らないし、何語だかも分らない。

 

 

だからリシャールの歌う歌詞の音の響きだけを聴いて、あぁ同じだよねと思っているだけ。まあメロディも同じなんだから、おそらく同じ曲ではあるんだろう(が自信は全くない、どなたか助けてください)。同じ曲だとすると、ラテンになっているこの変貌ぶりにはちょっぴり驚く。

 

 

過去の既存曲をラテンにして再演しているのは「キヴ」だけのはずで、あとは全て『ヘリティッジ』用の新曲。一曲目とラストの曲を除き全てラテン楽曲だと書いたけれど、もう一つ八曲目の「ングル・メコン」がやはりリシャール一人の多重録音(だと思う)でラテンではない。しかしこれも一分間もない。

 

 

それら三曲というかトラック以外は、間違いなくマンデカン・クバーノと共演したラテン〜キューバ音楽だ。リシャールにラテンを求めるリスナーがどれくらいいるのか分らないけれど、最初の方でリンクを貼ったブログ記事で僕も書いているように、そもそもキャリアの最初からラテン〜サルサが強い人だからなあ。

 

 

だからそんなラテン音楽指向は、リシャールの音楽においては必要不可欠な抜きがたい重要な要素になっているに違いない。キャリアの最初から現在に至るまでずっと一貫してね。2016年の新作『ヘリティッジ』ではそれを全面的に拡大展開すべく、マンデカン・クバーノを起用したに違いないだろう。

 

 

そんな『ヘリティッジ』は、少なくとも前々から繰返しているようにラテン好き人間である僕には楽しくてたまらない愛聴盤になっている。そして繰返しになるけれど強調しておかないといけないのは、これがラテン音楽という「衣」を借りた紛れもないリシャール・ボナ・ミュージックであるということだ。

 

 

リシャールの音楽におけるラテン〜サルサ要素の一貫した強さだとか、だから2016年の新作『ヘリティッジ』でそれを全面展開したってなんの驚きもない当り前の果実だとか、そしてそんな衣を借りながらもいつもの柔和な表情を崩さないリシャールがまるで微笑みかけているみたいだとか、彼を聴き続けてきているファンなら分るはず。

 

2016/10/28

マイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』に聴ける黒人音楽とカリブ音楽

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20世紀アメリカ大衆音楽における最も偉大で最も影響力のあるパートナーシップとして、デューク・エリントン&ビリー・ストレイホーン、フランク・シナトラ&ネルスン・リドルと並び、マイルス・デイヴィス&ギル・エヴァンスのコンビをあげているアメリカ人がいた。誰だっけなあ?印象に残っている。

 

 

この三組のうち、エリントン&ストレイホーンは、後者が前者の楽団員として常駐し長期にわたりコンビを組んでいたわけだけど、しかしストレイホーンは時々その名前が記されてはいたものの、全くクレジットされていない完全なる影武者的役割を果したものが実はたくさんあるみたいだ。研究も進んでいる。

 

 

シナトラ&ネルスン・リドル・コンビの場合はそんなこともなく、後者が前者のアルバムでオーケストラ・アレンジをしたものは、キャピトル時代の1953年録音『ソングズ・フォー・ヤング・ラヴァーズ』からリプリーズ時代の1966年録音『ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト』まで相当な数があるよね。

 

 

三大パートナーシップの最後、マイルス&ギルの場合は、フル・アルバムに限って言うと数はかなり少ない。コロンビア盤『マイルス・アヘッド』(1957)、『ポーギー・アンド・ベス』(58)、『スケッチズ・オヴ・スペイン』(60)、『アット・カーネギー・ホール』(61)、『クワイエット・ナイツ』(62)の五枚しかない。

 

 

『クワイエット・ナイツ』はマイルスとギル側にリリースする気はなく、コロンビアが勝手に出しただけのものだけど、そんな事情と音楽的中身は全く無関係。実際ファンも多いんだけど、僕はどうもリリース事情とは関係なくあまり面白くないように聴こえてしまう。だからこの際外してしまいたい気分。

 

 

となるとアメリカ大衆音楽三大パートナーシップの一つとまで呼ぶ人もいるマイルス&ギルのコンビ作で良いものはたった四枚だけだ。もちろん曲単位であれば、マイルスの1949/50年『クールの誕生』から84年『デコイ』までギルが関わったものが結構あり、さらに日陰の存在としても貢献している。

 

 

マイルスの作品でギルの名前が全くクレジットされておらず関わったことすら一般には知られていないものは、僕も音を聴いてなんとなくこれはギルの仕事だったんじゃないかと推測するばかりで、確証みたいなものは全くなにもない。このあたりは専門的研究家に今後の解明をお願いしたいところ。

 

 

というわけで僕にとってのマイルス&ギルは『マイルス・アヘッド』『ポーギー・アンド・ベス』『スケッチズ・オヴ・スペイン』の三枚に尽きる。もう一枚1961年のカーネギー・ライヴがあるけれども、あのライヴ盤で内容が良いものは当時のマイルス・レギュラー・コンボでの演奏部分だけだから、これも除外する。

 

 

『マイルス・アヘッド』については今まで二度書いた(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-9f82.html  https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d6d5.html)。どっちにも書いてあるようにこれこそが僕が一番好きなマイルス&ギルのコラボ・アルバムで、マイルスの全アクースティック・ジャズ作品中でも最も好きなものだ。

 

 

『スケッチズ・オヴ・スペイン』については今まで散発的かつ部分的にしか書いていないけれど、それはこのアルバムがあまり面白くないように最近では聴こえるようになっているからだ。いわゆるクラシック・ミーツ・ジャズな金字塔的作品とされていて日本にもファンが多いので、あまり言い過ぎない方がいいんだろうな。

 

 

残る一枚、1958年の『ポーギー・アンド・ベス』。これは昔も今もかなり好き。というか長年『マイルス・アヘッド』がイージー・リスニングにしか聞えていなかった僕にとっては、『ポーギー・アンド・ベス』がマイルス&ギルではナンバー・ワンだった。最大の理由は黒い音楽性が聴き取れるから。

 

 

『ポーギー・アンド・ベス』は元はジョージ・ガーシュウィンの書いたクラシックのオペラ作品なのでブラック・ミュージックではない。しかしご存知の通りアメリカ南部の黒人生活を描いた作品で、ガーシュウィン自身作曲にあたり南部に赴いて黒人音楽を取材して、そのイディオムを学習したらしい。

 

 

『ポーギー・アンド・ベス』は1934年作曲で翌35年初演。ジャズ・イディオムというだけならガーシュウィンはもっと前からそれを取込んだような作品を書いているので、34年なら身につけていただろう。そんなわけで『ポーギー・アンド・ベス』には黒人音楽要素が元からあると言えなくもない。

 

 

ただし僕の場合、あの発声法が全く好きになれないのでクラシックのオペラ作品を聴くのはこれだけという『ポーギー・アンド・ベス』のオペラ・ヴァージョン(が本来の姿だ)に、僕たち熱心なブラック・ミュージック・ファンが聴いて納得できるような黒い音楽性を聴き取るのは、ちょっと難しいように思う。

 

 

だから僕の場合、やっぱりジャズ・ヴァージョンの『ポーギー・アンド・ベス』こそが最高なのだ。といっても史上初のジャズ・ヴァージョンであるルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドによる1957年録音を、なぜだか分らないが僕はいまだに一度も聴いたことがない。

 

 

ジャズ界における『ポーギー・アンド・ベス』人気を決定づけたのは、やはりマイルス&ギルの1958年録音盤じゃないかなあ。ちょうどロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のジャズ界におけるそれが同様であるように。もちろん僕はマイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』をクラシック・ミーツ・ジャズ的には聴いていない。

 

 

書いたようにブラック・ミュージックの要素が濃いアルバムとして聴くわけだ。そんでもって先走ってちょっと触れておくと、マイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』にはカリブ音楽風味もある。アメリカ南部の黒人音楽とカリブ音楽。この二点こそ重要で、しかもこの二つは関係があるもんなあ。

 

 

マイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』にはブラック・ミュージック的と言える曲がたくさんあるけれど、鮮明にそれが出ているのがA面四曲目の「ゴーン、ゴーン、ゴーン」、五曲目の「サマータイム」、B面一曲目の「プレイヤー」、三曲目の「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」の四曲だろう。

 

 

まずA面の「ゴーン、ゴーン、ゴーン」。これの曲調はスローなゴスペル・バラードだ。曲名だけでも推察できると思うけれど、オペラ版では第一幕で、ベスの内縁の夫クラウンに殺されたロビンズの遺体を取囲み、人々がその死を悼むという場面での曲。

 

 

 

だからこの「ゴーン、ゴーン、ゴーン」がまるで哀悼曲のような沈鬱な雰囲気の演奏になっているのは当然。ギルのアレンジしたホーン・アンサンブルに乗ってオープン・ホーンで吹くマイルスのトランペットも追悼の祈りを捧げているかのような雰囲気だよね。ホーン・アンサンブルも黒人教会音楽風なサウンドだ。

 

 

この「ゴーン、ゴーン、ゴーン」のフレーズからヒントを得てギルが書いたオリジナル・ナンバーがその前三曲目の「ゴーン」。しかしテンポが違うだけでフレーズは全く同じだから、オリジナル曲とのクレジットもちょっとどうなんだろうと思う。これはホットなジャズ・ナンバー。

 

 

 

A面では「サマータイム」もブラック・ミュージック的だと思うけれど、これは『ポーギー・アンド・ベス』のなかでは最も有名になった曲で、この曲だけを単独で抜出して本当に大勢のジャズ歌手や演奏家がやっている。それらについてみなさんがたくさん書いているので、今日は省略。

 

 

 

さてマイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』で僕が最も黒いと感じるのがB面一曲目の「プレイヤー」(祈り)。お聴きになれば分るように、これもスローなブラック・ゴスペルにしか聴こえない。少なくとも僕にはね。まず最初テンポ・ルパートで出る。

 

 

 

その 1:42 までのテンポ・ルパート部分は、主役のマイルスとギルのアレンジしたホーン・アンサンブルとのコール・アンド・リスポンス形式だ。リード・ヴォーカルとコーラス隊のチャントとのやり取りみたいなもんで、これはブラック・ゴスペルその他アメリカ黒人音楽、あるいは他国の黒人音楽にも多いもの。

 

 

「プレイヤー」ではそんなアフリカ由来のコール・アンド・リスポンスが 1:42 まで続き、その直後にゆったりとしたテンポになってリズム・セクションの伴奏も出てくる。テンポ・インしたあとでは、ギルの書いたホーン・アンサンブルが徐々に迫力を増していき、それに乗るマイルスも力を入れて吹く。

 

 

後半部から最終盤にかけての盛上がりは圧巻の一言だ。まるで黒人教会において、牧師のリードに乗ってどんどんヒート・アップしていく白熱のゴスペル合唱を聴いているような気分。大学生の頃から現在に至るまでマイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』では「プレイヤー」が一番好きだなあ。

 

 

B面三曲目の「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」もゆったりとしたバラード調ではじまるもので、これもオペラ版第一幕で、夫をなくしたセリーナが悲嘆に暮れるという歌だから、こんな雰囲気になっているわけだ。これも黒人教会風スロー・ゴスペルに聴こえるね。

 

 

 

面白いのはマイルス&ギルのこの「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」におけるリズム・アレンジだ。全体的は悲哀歌らしいスロー・テンポで進むのだが、途中でちょっぴりテンポ・アップして4/4拍子のリズムになる部分がある。そこはちょぴりモダン・ジャズ風だ。しかもその部分はメジャー・キー。

 

 

さてさて今日も長くなってきたので、上でちょっと予告したようにマイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』におけるカリブ風味についてちょっとだけ触れておこう。A面ラストの「オー・ベス、オー・ウェアズ・マイ・ベス」。まずマイルスが吹きはじめる。

 

 

 

その無伴奏で吹くマイルスの直後に出てくるホーン・アンサンブルの響きを聴いてほしい。カリブ音楽風じゃないだろうか。特に金管群、なかでもトランペット・セクションがミュートをつけて吹き入れる短いリフが何度かリピートされるけれど、その部分に僕は鮮明なカリブ音楽の香りを感じるんだよね。

 

 

またB面二曲目の「フィシャーメン、ストロベリー・アンド・デヴィル・クラブ」。オペラ版第三幕から採ったこの三曲メドレーは、このアルバム中最もカリブ要素が濃い。漁師とか悪魔蟹とかいった曲名だけでもそれは想像できるけれど、サウンドが完全な南洋風だもんね。

 

 

 

この「フィシャーメン、ストロベリー・アンド・デヴィル・クラブ」ではギルのアレンジのペンも冴えている。まず無伴奏でフルートが出て、直後にミュート・トランペット、そして本編に入るんだけど、その本編に入った瞬間のホーン・アンサンブルのゆらゆらと漂うような感じは見事としかいいようがない。

 

 

そんなに面白いマイルス&ギルの『ポーギー・アンド・ベス』だけど、残念なことにアンサンブルの乱れが散見される。A面三曲目の「ゴーン」とB面一曲目の「プレイヤー」に特に顕著だ。マイルスとアンサンブルの息が合わず乱れる部分がある。ギルの回想によれば、スタジオで充分な時間が取れなかったためらしい。

 

 

ギル自身は「あれはあと一度か二度リハーサルを繰返せばなくせたものなんだ。今にして思えばコロンビアにもうちょっと時間をくれと言えなかった自分が悔しい」と回想している。一方で主役のマイルスは、(クラシックと違って)ジャズのアンサンブルは完璧でなくてもいいんだぞと言っているよね。

 

2016/10/27

ファット・ポッサムとR・L・バーンサイドのブルーズ

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米ミシシッピ州北部ヒル・カントリーのブルーズ・マン、R・L・バーンサイド( R・L はロバート・リー)。この人の音楽家としてのキャリアは結構長いらしいんだけど(なんたって1926年生まれだから)、一般的に知られるようになったのはやはりファット・ポッサム・レーベルと契約してからだろうなあ。

 

 

R・L・バーンサイドがファット・ポッサムと契約したのは1991年。この会社が発足したのが同91年。ってことはミシシッピ州の田舎町オックスフォードに拠点を置くこのレコード会社はそもそも R・L・バーンサイドを録音したくてはじまったものだったのか?

 

 

ファット・ポッサムからはジュニア・キンブロウもたくさんCDを出していて、一応キンブロウの方がバーンサイドよりも先輩らしいんだが、まあそのへんについては僕はよく知らない。ジュニア・キンブロウ、R・L・バーンサイド、この二名のブルーズ・メンこそがファット・ポッサムの象徴だと言える。

 

 

ジュニア・キンブロウも R・L・バーンサイドもファット・ポッサムとの契約以前から、地元ミシシッピ北部のヒル・カントリーでは地道に活動してきていたブルーズ・メンだけど、この二人がファット・ポッサムからCDアルバムを初リリースしたのは同じ1992年のこと。どちらも高く評価されたようだ。

 

 

ジュニア・キンブロウのファット・ポッサム一枚目は『オール・ナイト・ロング』。R・L・バーンサイドのそれは『バッド・ラック・シティ』。キンブロウの話はまた別の機会にするとして今日はバーンサイドの話をしたい。しかし『バッド・ラック・シティ』は僕はリアルタイムでは知らないアルバムだ。

 

 

R・L・バーンサイドという人がいるんだということを知ったのは1994年のファット・ポッサム二作目『トゥー・バッド・ジム』でだった。これは当時渋谷警察署の裏にあった黒人音楽専門店サムズで見つけて買ったアルバム。それまで全然知らない人だったのにどうして買ったのかはもう憶えていない。

 

 

『トゥー・バッド・ジム』はジャケ買いするというほど魅力的なジャケット・デザインでもないしなあ。サムズで買ったのは、この店に通うようになったのがちょうどその頃だったというのもある。僕が専任的に仕事をする大学が決まったのが1990年の秋で、翌年春から勤務する。その大学のメイン・キャンパスは渋谷にあった。

 

 

渋谷駅で降りて勤務先まで歩いていくのには、あの大きな歩道橋を渡り渋谷警察署の裏を通り抜けるというのがいつものルートだったので、いつ頃のことか、当時は渋谷警察署裏裏の雑居ビル二階にあったサムズを発見し、大学での勤務を終えた帰り途ばかりでなく、夕方からの講義の前などにも入り浸っていたのだ。

 

 

そんなことで宇田川町へ移転してしまう(現在はもうないようだ)前までは、その黒人音楽専門店サムズで本当にたくさんのCDを買った。この店で黒人ブルーズ、リズム&ブルーズ、ソウル、ファンクなどの音楽家で知らない人を見つけて知り買って聴いて好きになったケースも多い。

 

 

だから R・L・バーンサイドの1994年作『トゥー・バッド・ジム』もそんな具合で、それまで名前も見たことがない人だったけれど、まあなんとなく買ったんだろうなあ。しかし今ではこれこそアルバム単位でのこのブルーズ・マン最高傑作だと僕は思っているのだが、最初の頃はこれにはさほどハマらなかった。

 

 

どうしてかと言うと『トゥー・バッド・ジム』におけるギター(バーンサイドは一部を除ほぼエレキ・ギターを弾く)のサウンドはクリーン・トーンであまり歪んでいないからだ。ブルーズ・ピュアリストのみなさんはその方が好きだろうけれど、僕はブルーズ・ギターでもファズが効いている方が好きなんだよね。

 

 

というわけで R・L・バーンサイドにハマったのは、ファット・ポッサム三作目の『ミスター・ウィザード』によってだった。これは1997年リリースのアルバムで、収録の全九曲ほぼ全てバーンサイドの弾くギターのサウンドが激しく歪んでいる。そんな音で伝承ブルーズなどをやっているんだよね。

 

 

『ミスター・ウィザード』には「ローリン&タンブリン」といったミシシッピ(・デルタ)・ブルーズのスタンダードや、 R・L・バーンサイドの最大かつ直接の影響源であるミシシッピ・フレッド・マクダウェルがやった「ユー・ガッタ・ムーヴ」もある。どっちでもギターには強くファズがかかっている。

 

 

と僕は思って聴いていたのだが、どうもこれは違うようだ。ファズやオーヴァードライヴやディストーションなどエフェクター類を使っているわけでなく、単にギターとアンプのヴォリュームを最大まで上げているせいで、自然にあんな音になっているだけだというのを、生演奏ステージで見て確認した。

 

 

僕が R・L・バーンサイドの生演奏ステージを見たのは1997年のパークタワー・ブルーズ・フェスティヴァルでのこと。しかしエフェクター類を一切使っていない(ように見えた、ステージ上に全く見当たらなかったから)のに、あそこまでエレキ・ギターの音が歪みまくるというのも、やや意外だった。

 

 

元々はクリーン・トーンに近い音で弾いていた R・L・バーンサイドがそんな歪んだギター・サウンドを出すようになったきっかけは、1996年のファット・ポッサム二作目『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』からだったようだ。これはジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンとの全面合体作。

 

 

普通はジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンを知っていて、そのバンドが一緒にやったというので R・L・バーンサイドが知られ人気も上がったに違いない。合体作『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』が売れて、ロック・ギタリストや音楽家や批評家も高く評価したアルバムなんだそうだ。

 

 

『ミスター・ウィザード』より『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』の方が一年早くリリースされているが、僕が買った順番は逆だった。どうしてかって、サムズ店頭で見た時にジャケット裏に知らない名前ばかり書いてあったからだ。それがジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンだった。

 

 

ということを(おそらく世間一般とは反対に)僕は少し後になって知り、ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンというバンドと中心人物のヴォーカリスト兼マルチ楽器奏者のジョン・スペンサーを知って、じゃあというので『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』を買って聴いてみたのだ。

 

 

すると『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』は、これが R・L・バーンサイドのアルバム中最も過激なサウンドで、まあブルーズでもないような音楽で、なんといったらいいのか、やっぱりジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンにバーンサイドが客演しているようなアルバムだなあ。

 

 

ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンもアルバムをたくさん買って聴きはしたものの、ブルーズという名前がバンド名にあって、やっている音楽もブルーズ・オリエンティッドだなとは分るけれど、僕にはイマイチに聴こえていた。今ではほぼ聴かないが、この印象に今でも違いはない。

 

 

でもジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンとの全面合体作『ア・アス・ポケット・オヴ・ウィスキー』で R・L・バーンサイドが人気者になって、自身の単独作も売れるようになったという事実に間違いはない。そんでもってこのアルバム以後バーンサイドのギターの音が歪むようになった。

 

 

その結果が上で書いた1997年作『ミスター・ウィザード』で、僕の場合これで R・L・バーンサイドにハマったんだから、ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョンに感謝しなくちゃいけないんだよね。『ミスター・ウィザード』以後は、テクノ系やヒップホップ系リミックス・アルバムもある。

 

 

テクノやヒップホップが大好きなブルーズ・ファンなら、そんなアルバムも好きだろうなあ。1998年の『カム・オン』とかさ。僕の場合はあのヒップホップ的リミックス・ブルーズみたいな『カム・オン』が R・L・バーンサイドのアルバムを買った最後になった。あまり面白くなかったからだ。

 

 

1998年に買って何度か聴いた時はちっとも面白くないように感じていた1998年の『カム・オン』。気を取り直して今聴いているのだが、これはこれでいいなあ。ミシシッピ州北部ヒル・カントリーのブルーズに元からあるグルグル廻るようなグルーヴ感、あれをヒップホップ的なループ感として拡大したような感じ。

 

 

しかしながらミシシッピ・フレッド・マクダウェルとか R・L・バーンサイドその他ヒル・カントリーのブルーズ・メンは、別にコンピューターなどのデジタル・ツールを使わなくたって、ギター弾き語りだけでそんなループ感覚のグルーヴィーさを表現できるわけだから、僕はその方がはるかに好きなんだよね。

 

 

そういうわけで最初の方で触れたように2016年現在の僕にとっての R・L・バーンサイドとは、1994年のファット・ポッサム二作目『トゥー・バッド・ジム』こそが最高作となっている。このアルバムのプロデューサーはあのロバート・パーマー(歌手の方じゃなくブルーズ研究家の方)なんだよね。

 

 

R・L・バーンサイド1994年の『トゥー・バッド・ジム』を聴くと、バーンサイド一人でのギター弾き語りナンバーは、基本的にはいかにもアメリカ南部ミシシッピのカントリー・ブルーズ・マンらしい雰囲気だけど、同時にデトロイトを本拠にしたジョン・リー・フッカーのスタイルにもかなり似ている。

 

 

R・L・バーンサイドのやるブルーズの多くはコード・チェンジがないワン・コード・ブルーズ。自身のギターのスタイルもしばしばヘヴィーなドローンを鳴らし続け、シンプルなベース・パターンに基づく同一フレーズを延々と反復するようなもの。そして12小節とか8小節とか16小節といったブルーズの定型がない。

 

 

自在に伸び縮みするんだよね。そもそもワン・コーラスという概念が存在しないんだろう。こういうのはカントリー・ブルーズ・メンには多い。またさらに R・L・バーンサイドのロングタイム・パートナーである白人ケニー・ブラウンの弾くスライド・ギターのフレーズはしばしばアトーナルになる。

 

 

すなわち音程がなく無調というか調性感を無視して、リズムとかノリで弾いているようなスタイルだ。ギターもかなり素朴な楽器というか古くからあるものだけど、ケニー・ブラウンのスライド・プレイを聴くと、もっとシンプルでプリミティヴなものを連想するようなサウンドなんだなあ。

 

 

例えばカズーとかおもちゃの笛(正式名称は「ピロピロ笛」とか「巻き笛」というらしい、吹くとシュ〜ッと伸びてまた戻るあれ)とかそんな音だ、ケニー・ブラウンのギター・スライドは。DJ がレコードをスクラッチするサウンドみたいでもある。ギターでどうやってあんな音を出しているのか不思議だったのだが、1997年に生演奏を見て理解できた。

 

 

その1997年新宿のパーク・タワー・ブルーズ・フェスティヴァルに出演した R・L・バーンサイドのバンドに当然同行したケニー・ブラウン(なんたってバーンサイドが「自分の白い息子」と呼ぶくらい)。彼のスライド・バーは、しばしば高音部のフレットの付いていない部分を滑っているんだよね。

 

 

それであのシュ〜ていうかヒュ〜っていうおもちゃの巻き笛みたいなサウンドを出しているんだなあ。誕生期の初期型ブルーズや、その原型だったかもしれないようなものを想像したら、西洋音楽的な半音単位での音程表現や調性感なんてあってないようなもんなんだから、ケニー・ブラウンのあれもルーツ回帰なんだなあ。

 

 

そんなアトーナルなギター・スライドを聴かせるケニー・ブラウン参加曲もいいけれど、R・L・バーンサイドの最高傑作である1994年の『トゥー・バッド・ジム』にある個人的ベスト・トラックは、六曲目の「ピーチズ」だなあ。これはカルヴィン・ジョンスン(だけどクレジットはない)のドラムス伴奏だけでバーンサイドがエレキ・ギターで弾き語るもの。

 

2016/10/26

ゴスペル・カルテットの完成者〜R・H・ハリス

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別に音楽に限ったことじゃないんだけど、特に音楽における四人編成のことをカルテットっていうよね。前々から気になっているのでまず最初にちょっと書いておくが、quartet は英語だとカルテットではなくクォーテットだ。ルイ・アームストロングの得意楽器はコルネットではなくコーネット。

 

 

実際中村とうようさんは「コーネット」表記だけど、これを徹底するとなると、例えばホルンもホーンと書かなくちゃいけなくなって、そうすると大衆音楽における管楽器隊をホーン・セクションと呼んだりするので、ゴチャゴチャになる。こういうケースは他にいくつもあるから収拾がつかなくなるんじゃないかなあ。

 

 

なにごとでも限度というか節度というか適切な加減が大切だ。外国語を日本語でカタカナ表記する際はなるべく原音に近い書き方を、音が分る言葉の場合は心がけるべきだと思い実践してはいるつもりの僕。同じ文字体系の国・地域間では、発音は違っても表記上の問題はいったん考えなくていいから楽かもしれない。

 

 

バッハがバック、モーツァルトがモザート、サルトルがサーターになっても、文字上では同じだから取り敢えずは問題が隠れちゃうんだよね。ところが異なる表記を用いる国などへ持っていくと、発音を汲み取った上でその音から文字化する場合が多いので、突然問題が表面化するわけだ。めんどくさいよなあ。

 

 

もちろん例えばアラブ圏においてアラビア語で発音・表記するのがオリジナルであるような音楽家の場合などは、欧文アルファベット文字圏でも表記が揺れる。エジプト人歌手が Oum Kalthoum、Umm Kulthum、Oum Kalsoum、Oum Kalthum などなど種々の表記になる。

 

 

またレバノン人歌手も Fairuz、Fairouz、Fayrouz などなど。この二名はほんの一例で、アラブ圏だけでなく、欧文アルファベット文字圏でない文字体系の国・地域の音楽家は全てこんな調子。当然日本語の表記も同様に揺れている。僕なんかそもそもどう読むのか分りようがない場合もあるしなあ。

 

 

だからこの種の表記問題は文字表記体系が異なる言語間でのみ表面化する問題。そうであっても自分で確認できる範囲で可能な限り原音に即したカタカナ書きをするようにするのが誠実な態度。そうせず、音が違うのが分っていながら「長年身についた習慣だから」と言っていつまでもデュアン・オールマン表記のままなのは怠慢かつ無責任だ。

 

 

そういう Duane をデュエイン、あるいはドゥエインにせずデュアンのままとか、その他数多い例は、そもそもその対象への音楽愛を疑われても文句は言えないんだよね。そうなのではあるけれど、外国語の音をカタカナで正確に表記するなんてことは不可能事でもあるので、むやみにこだわりすぎるものどうかと思う。

 

 

そういうわけなので上で書いたように、節度、適当なところでやめておくのが肝心だと僕は思うのだ。それに元々音楽用語の殆どは英語起源ではないという事情もある。日本に来たのは英語で一般化する前かもしれない。ピーター・バラカンさんは英語母語話者だから、僕たち日本語母語話者とは立場が違うし、そのバラカンさんにしてからが徹底できていないじゃないか。

 

 

中村とうようさんもスタジオをステューディオとは書かないし、英語のものだってレディをレィディ、メジャーをメィジャーとは書いていない(があの姿勢なら一貫性を欠いたと批判されるかも)。そんなこんなで、今後とも僕はモダン・ジャズ・カルテット、「コンチェルト・フォー・クーティ」(デューク・エリントン楽団)など、矛盾しているオカシイと自分でも思う混交表記を続けることにする。

 

 

さてどうしてこんな前置をしたのかというと、ゴスペル・カルテットの話をするつもりだったからだ。Gospel quartet。これも英語だからというのを徹底すればゴスペル・クォーテットと書かなくちゃいけないが、それではちょっとねと思った次第。カルテットはゴスペルの典型スタイルの一つ。

 

 

ゴスペル・スタイルにおけるカルテットとは、しかしながら四人編成というコーラスの人数を指すのではなく、リード、テナー、バリトン、ベースという四つのパートからなるコーラス・スタイルであるがゆえにその名前がある。だから実際には多くのグループが五人編成だったりする。というか四人編成である場合はほぼないよなあ。

 

 

ゴスペル・カルテットの最盛期は1940〜50年代じゃないかなあ。その時期に実にたくさんの素晴らしい録音があって、CDリイシューされているグループを聴くと今でも強く感動する。その時期のゴスペル・カルテットを代表する存在がソウル・スターラーズだ。サム・クックで一般的には有名だろう。

 

 

確かにサム・クック在籍時代(1950〜57)のソウル・スターラーズのスペシャルティ録音は言葉が全く出ないほど素晴らしく、文句のつけようがない。だがしかし、このゴスペル(界出身)歌手と在籍したゴスペル・カルテットのスタイルを完成させたのは、サムの功績なんかじゃないんだよね。

 

 

というかそもそもサム・クックが1950年にソウル・スターラーズに加入する直前に、既にこのゴスペル・カルテットのスタイルは完成されていて、音楽的キャリアの頂点にあった。サムはそんな既に完成されていたグループに入って、あの独特の声と歌い方で世俗的にも大人気になったというだけの話。

 

 

こう書けば誰の話をしたいのかゴスペル・ファンであればお分りのはず。そう、R・H・ハリスだ。1926年に発足したソウル・スターラーズにハリスが加入したのが何年のことかはいまだに明確になっていない。ハリス自身は31年のことだと言っているけれど、研究家間では35年か36年説が多い。

 

 

とにかく R・H・ハリス加入前のソウル・スターラーズは、いわゆるジュビリー・スタイルの教会コーラス・グループだったらしい。「らしい」というのはそのハリス加入前の録音を僕は聴いたことが全くない。紙やネットで参照できる各種情報でそう読んでいるだけのことだから、実態は確認できていないのだ。

 

 

そもそも R・H・ハリス加入前のソウル・スターラーズは録音されているのだろうか?1936年にかのアラン・ローマックスがアメリカ議会図書館用録音の一環としてこのグループを録音したらしいのだが、それは商用的にはいまだに未発売なんじゃないかなあ。僕が知らないだけなのか?ちょっと聴いてみたい気がする。

 

 

だから僕はソウル・スターラーズを R・H・ハリス時代のとサム・クック時代の録音でしか聴いていない。がしかしそれで充分なんじゃないかという気がしないでもない。それほどこの両者がリード・ヴォーカリストだった時代のこのグループの録音集は絶品だからだ。サム時代のはコンプリート集になっているので楽だ。

 

 

ところが R・H・ハリス時代のソウル・スターラーズ録音は完全集にはなっていないんじゃないかなあ。こりゃイカン。このグループのスタイルを完成させ、後任のサム・クックもハリスこそに憧れ彼をコピーしたばかりじゃなく、そもそもゴスペル・カルテットを現代的に完成させたのはハリスなのに。

 

 

1940年代から50年(に R・H・ハリスは脱退)にかけてのソウル・スターラーズは、他の多くのゴスペル・カルテットに甚大な影響を及ぼして、グループの評価も人気も上がった。その時期の完全録音集があればなあ。その時期、つまり第二次世界大戦後、彼らはスペシャルティ・レーベルと契約していた。

 

 

僕が普段聴いている R・H・ハリス時代のソウル・スターラーズ録音集は、一枚物CDの『ザ・ソウル・スターラーズ・フィーチャリング・R・H・ハリス〜シャイン・オン・ミー』というスペシャルティ盤だ。1991年リリースと書いてある。全26トラック全て1950年録音で、サム・クック加入直前。

 

 

まああれだ、僕もやっぱりサム・クックが在籍して大活躍したゴスペル・カルテットの、その前の時代を聴いてみたいという、おそらくみなさんと同じ理由で手に取った一枚だったのだが、『ザ・ソウル・スターラーズ・フィーチャリング・R・H・ハリス〜シャイン・オン・ミー』を聴いたら、そんな気分は完全に吹き飛んだ。

 

 

だってあまりにも素晴らしいんだよね、R・H・ハリスが、そして彼とリード・ヴォーカルを分け合っているポール・フォスターが。後者は1950年にソウル・スターラーズに加入しているはずなので、加入直後にこのヴォーカルとはビビってしまうほど壮絶なハード・シャウティングだ。好対照な二名だなあ。

 

 

好対照というのは、R・H・ハリスの声は甘くてソフトなヴェルヴェット・ヴォイス。ナット・キング・コールみたいな感じなんだよね。ジャズ・サックス界でいえばレスター・ヤングだ。そしてレスターの名前を出したついでに言うと、レスターのカウント・ベイシー楽団時に彼と好対照だったサックス奏者がいる。

 

 

それがハーシャル・エヴァンス。同じテナー・サックス奏者で同時期に同じ楽団で活躍し、柔らかいレスターが R・H・ハリスなら、ハード・ブロワーのハーシャル・エヴァンスはソウル・スターラーズにおけるポール・フォスターなんだよね。1950年のこのコーラス・グループはこの二人のツイン・リードだ。

 

 

その最高傑作が『ザ・ソウル・スターラーズ・フィーチャリング・R・H・ハリス〜シャイン・オン・ミー』のいきなり一曲目に収録されている「バイ・アンド・バイ」。1950年2月24日録音のこれこそカルテット・スタイルのゴスペル最高傑作曲だと最近の僕は考えるようになっている。

 

 

 

R・H・ハリスの柔らかい声と繊細な歌い方は完全にモダン・スタイルで素晴らしいが、4:13 から「ウェル、ウェル、ウェル、ウェル」と入ってくるポール・フォスターのあの濁ったハードな声には背筋が凍る。この好対照な二名はサム・クックやアーチー・ブラウンリーにも影響を及ぼしているのだ。

 

 

サム・クックが R・H・ハリス・フォロワーだということは誰でも分りやすいだろう。上でハリスをナット・キング・コールになぞらえたけれど、サム・クックはナット・キング・コールみたいになりたかった歌手で、実際彼の名前を出して影響を受けたことをはっきり語っているくらいよく似ている。

 

 

しかしファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピのアーチー・ブラウンリーはハード・シャウターだからポール・フォスター的であるのは分りやすいが、R・H・ハリスからの影響があるのかと言われっちゃいそうだよなあ。でも確実にあると思うよ。ファルセットや声の伸ばし方などがよく似ているもんね。

 

 

例えばこの「フィール・ライク・マイ・タイム・エイント・ロング」。やはり1950年2月24日録音で、R・H・ハリスと当時のソウル・スターラーズの革新性がよく分る一曲だ。このなかでハリスは「フィ〜〜ル」「ロ〜〜ル」と音を伸ばしながら、後乗り的にファルセットで歌う。

 

 

 

そんな部分がアーチー・ブラウンリーにも大きな影響を与えたのは間違いないと僕は思うんだよね。サム・クックやアーチー・ブラウンリーだけでなく、1950年以後のゴスペル歌手が R・H・ハリスをコピーして、またハリスは当時のカルテット・グループのほぼ全てにリード・ヴォーカルとコーラスの押し引きを教え、モダンなゴスペル・カルテットのスタイルを確立した立役者だったのだ。

 

2016/10/25

「処女航海」がファンク・チューン化しているぞ!

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ハービー・ハンコックのオリジナル・アルバムで僕が一番好きなのは『洪水』(Flood)。1975年、日本でのライヴ収録盤だ。好きなだけでなく、個人的には最高傑作に推したいと思っているくらい。それにはいくつか理由があるが、ライヴ盤であるというのもその一つ。僕が単にライヴ・アルバム好きなだけかもしれないが。

 

 

ハービーはレコード・デビューが1962年で、2016年の現在でもバリバリ活躍中というキャリアの長さのわりには自己名義のライヴ・アルバムが少ない音楽家だ。僕が気付いている限りでは七枚しかない。七枚あるなら少なくないじゃないかと言われそうだが、そのうち四枚があの V.S.O.P. だ。

 

 

例の V.S.O.P. と銘打った一連のライヴ・アルバムは、僕にはちっとも良さが分らない。ただしかし一作目である1976年録音翌77年リリースの『V.S.O.P.』(『ニューポートの追想』)だけはかなり良かったけれど(だって電化ファンク路線もあるから)、その後のものは全くダメ。単なる懐古趣味の再会セッション・ライヴにすぎない。

 

 

まあいいや。そんな一作目以外はダメである V.S.O.P. シリーズを除けば、ハービーが最も面白かった1970年代におけるライヴ・アルバムは『洪水』ただ一つだけなんだよね。この当時のファンク・ハービーの生演奏を捉えた唯一のライヴ作品でもある。これは2016年現在でもそうだ。

 

 

あんなにたくさんファンク・アルバムを創っているハービーが、その生演奏を公式ライヴ盤に収録したのが『洪水』だけだというのはかなり意外だ。さらにそんな貴重なライヴ・アルバムであるという単なる記録上の事実だけではなく、『洪水』の内容がこりゃまたすんばらしいのだ。まさしく最高傑作だね。

 

 

そしてもう一つ、『洪水』ではメインストリームのジャズなんだか、そこからちょっと逸れた(ジャズ系)ファンクなんだか判断できないというか、それら両者が合体しているような部分がある。この最後の理由こそが『洪水』をハービーの最高傑作として、ジャズ・ファンにもファンク・ファンにオススメしたいものなのだ。

 

 

それは『洪水』のワン・トラック目を聴いただけで分る。このライヴ盤の一曲目はなんと「処女航海」だ。そう、1965年にブルー・ノートに録音したのが初演であるメインストリームのモダン・ジャズ・マンとしてのハービー最大の代表曲。これは一連の V.S.O.P. ものでもよくやっている。

 

 

しかしそれら一連の V.S.O.P. のライヴ盤に収録されている「処女航海」と『洪水』一曲目の同曲を聴き比べれば、どちらが優れた演奏で、しかも21世紀の現在でも意味を持つものなのかは明確だ。1965年のスタジオ・オリジナル・ヴァージョンはこれ。

 

 

 

1976年の『V.S.O.P.』収録のライヴ・ヴァージョンがこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=52D0Io8ucFM  そして1975年のライヴ『洪水』ヴァージョンがこれだ→ https://www.youtube.com/watch?v=5fqbnBOpUJg 前者二つは普通のハード・バップ・ジャズだよね。

 

 

ところが1975年『洪水』ヴァージョンではハービーのソロ・ピアノ演奏ではじまる。はじまるというか大部分がピアノ独奏だ。僕はまずその美しさだけでも聴惚れてしまう。なんて上手いんだ。こういうピアノが弾けるハービーと比べたら、チック・コリアやキース・ジャレットなんか足元にも寄れないはず。

 

 

とにかく1960年代にデビューしたジャズ・ピアニストのなかではハービーこそがナンバー・ワンで、ただ単に一つスタンダード曲のテーマ・メロディをピアノ独奏でちょろっと弾かせてみただけでも、ソロ・ピアノ演奏が日本でも大人気のキース・ジャレットなんかビビって一音も弾けないだろう。

 

 

上で貼った『洪水』ヴァージョンの「処女航海」におけるピアノ独奏部分をしっかり聴いてほしい。これは単にリリカルに弾いているだけではない。表面上はそんな雰囲気の演奏に聴こえるが、芯の強さというか太さがあって、しかも一音一音の粒立ちが良く、さらに内面的には躍動的でリズミカルだ。

 

 

アクースティック・ピアノ独奏でそんな弾き方ができるジャズ・ピアニストは1970年代にはハービーただ一人。というかその後も現在に至るまで殆ど出現していない。普段から書きまくっているのでくどいようだが、ジャズ界でも戦前の古典ピアニストのなかにはたくさんいたというのが事実。

 

 

ただし『洪水』ヴァージョンの「処女航海」はそれだけでは終らない。6:37 あたりでエレベ(ポール・ジャクスン)とドラムス(マイク・クラーク)とフルート(ベニー・モウピン)が入ってくる。そこからが最大の聴かせどころなのだ。どうだ?ファンクじゃないだろうかこれは?

 

 

エレベとドラムスが出てきてからの「処女航海」は4ビートではなく16ビート、すなわちファンク・ビートになっているよね。くどいようだがこの曲は1965年初演の普通のメインストリーム・ジャズ・ナンバーなのだ。それが16ビートのファンク・チューン化しているなんてものは他にはないはず。

 

 

もうその部分だけでこりゃ凄い、こんなライヴ演奏は聴いたことがないと降参するんだけど、そのファンクなパートの「処女航海」はわずか一分程度で終ってしまい、ベニー・モウピンの吹くフルートの印象と相俟って、爽やかな風がほんの一瞬だけ吹抜けたかのような印象なんだよね。もっと聴きたかったぞ。

 

 

それでもそのもっと聴きたかったという気持は裏切られないのだ。ファンク・チューン化した「処女航海」から切れ目なく続いて二曲目の「アクチュアル・プルーフ」に突入するからだ。この曲は1974年リリースのファンク・アルバム『スラスト』収録がオリジナル。ハービーは電気鍵盤楽器しか弾いていない。

 

 

『スラスト』収録のオリジナル「アクチュアル・プルーフ」でのハービーはアクースティック・ピアノは一切弾いていない。フェンダー・ローズ、クラヴィネット、シンセサイザーだけ。それが上で貼った音源をお聴きになれば分るように、『洪水』ヴァージョンではアクースティック・ピアノしか弾いていないんだよね。

 

 

アクースティック・ピアノに専念するハービーのボトムスをポール・ジャクスンとマイク・クラークのファンク・ビートがしっかりと支え、ハービーの弾き方もアクースティックながら完全なるファンク・マナーでのものだ。その上をベニー・モウピンのフルートが駆け抜けるという展開で、こりゃいいなあ。

 

 

「処女航海」はメインストリーム・ジャズとしてのハービーの代表作。「アクチュアル・プルーフ」はファンク・ハービーとしてのそれ。この二つがメドレー形式で全く切れ目なくスムースに繋がっているなんて、ハービーってなんて面白い音楽家なんだろう。しかもエレベ以外は全部アクースティック楽器だ。

 

 

このハービーがアクースティック・ピアノを弾く「アクチュアル・プルーフ」こそが、アナログ盤では二枚組、CDでは一枚物『洪水』の最大の聴き物、目玉、ハイライトに間違いない。そして『洪水』だけでなく、今まで録音された全てのハービー・ミュージックの最高到達地点であると断言したい約八分間だ。

 

 

電気・電子楽器を毛嫌いするとか生理的に無理だという音楽リスナーは、昔はたくさんいて今でも少しいるようだ。実にもったいないことだとは思うけれど、そんな嗜好の方には是非このハービーの『洪水』最初の二曲を聴いてみてほしい。エレベ以外はアクースティック・サウンドで、しかもファンクだから。

 

 

アクースティック・ピアノでファンクを表現できる人は今ではそこそこそこいるけれど、1975年時点では疑いなくハービーただ一人だった。それに加え一部のシンセサイザー・サウンドは誰が弾いても「時代」を感じてしまう古臭さを出すようになっているのに対し、ピアノのサウンドは古くならないもんなあ。

 

 

したがってある意味、電気・電子楽器を使ったファンク・ミュージックよりも、こんな具合にハービーがやってみせたアクースティック・ピアノでのファンク・ミュージックの方が、2016年に聴くと現代性を感じるもんね。繰返すが21世紀に入って以後はそんな人が他にも出てきているけれどね。

 

 

『洪水』も三曲目以後は普通のエレクトリック・ファンク。冒頭メドレー二曲のアクースティック・ファンクの見事さに僕は聴く度に溜息が出るので、三曲目以後がまるでオマケみたいに聴こえてしまうが、クォリティの高いファンク・ライヴであるのは間違いない。しかも1975年までの代表曲がだいたい入っているのもいい。

 

 

ハービー・ファンク最大のヒット曲「カメレオン」もあるし、それの初演が収録されている1973年の『ヘッドハンターズ』でファンク化して再演した「ウォーターメロン・マン」も、そのファンク・チューン化したままで演奏している。その他「スパンク・ア・リー」「バタフライ」とその他一曲。

 

 

そのその他一曲がラストの「ハング・アップ・ユア・ハング・アップス」で、20分近い長尺ファンク。1975年『マン・チャイルド』収録のがオリジナル。しかしレコーディングは終えていたものの、『マン・チャイルド』は75年8月のリリースだから、同年6月のライヴである『洪水』時点では聴衆には未知の曲だったはず。

 

 

『洪水』の「ハング・アップ・ユア・ハング・アップス」では、『マン・チャイルド』のオリジナル通りエレキ・ギターのファンキーなカッティングが聴こえるが、弾いているのがドゥウェイン・ブラックバード・マックナイト。1978年からは Pファンクで活動したので、ファンク・ファンもみなさんご存知。

 

2016/10/24

天翔けるギター・スライドと都会的洗練〜オールマンズのフィルモア・ライヴ

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「ステイツボロ・ブルーズ」と「ストーミー・マンデイ」がここまで有名になっているのはオールマン・ブラザーズ・バンドのおかげなんじゃないかなあ。もちろん例の1971年3月のフィルモア・イーストで収録のライヴ盤のこと。あれは本当に最高のロック・ライヴ・アルバムだよねえ。僕も大好き。

 

 

もっともそうは言ってもオールマンズのあの「ステイツボロ・ブルーズ」はブラインド・ウィリー・マクテルのオリジナルをそのまま参考にしたのではない。オールマンズが下敷にしたのはタジ・マハールの1968年デビュー・アルバム収録ヴァージョンだ。

 

 

 

オールマンズのフィルモア・ライヴ・ヴァージョンを貼って紹介しておく必要はないはずだけれど、どうです?そっくりでしょ。こっちは音源を貼って紹介しておくべきだと思うブラインド・ウィリー・マクテルの1928年録音のオリジナルはこちら。

 

 

 

こんなのをあんなのにしたわけだから、解釈・展開力が凄いのはオールマンズではなくタジ・マハールの方なんだけど、それでもあのフィルモア・ライヴ・ヴァージョンのあのカッコ良さを聴けば、やっぱりそっちの方がいいなあと思っちゃう。アルバム一曲目の出だしだけでいきなりノックアウトされる。

 

 

ノックアウトされるのはもちろんいきなり弾きはじめるデュエイン・オールマンのスライド・ギター。上で紹介したタジ・マハール・ヴァージョンにおけるスライド・プレイを完全に下敷にしてはいるけれど、デュエインのとは音色が違うし、さらにデュエインのには天翔けるような強力なドライヴ感があるもんね。

 

 

デュエインはあのアルバム一曲目のイントロでいきなりギュイ〜ンと弾きだして、それだけで、たったの一音・二音だけで、全世界のロック・ギター・キッズを完全に虜にしてしまった。その後グレッグのヴォーカルが出るまで弾いて、ヴォーカルに絡み、それが終るとまたしてもスライドでソロを弾く。カッチョエエ〜〜!

 

 

当時のオールマンズのツイン・ギターのもう一人ディッキー・ベッツもソロを弾くんだけど、デュエインの印象が強すぎるもんだから、あまり聴応えがないかのような内容に聴こえちゃうもんね。そういうわけだから、あのデュエインのスライドは真似できないとハナから諦めてやらず、ディッキーのだけコピーしようとしていた僕。

 

 

最初に書いたもう一曲、T・ボーン・ウォーカー・ソングの「ストーミー・マンデイ」はやる人がかなり多く、オールマンズのヴァージョンもこれまた T・ボーンのストレートなカヴァーではない。フィルモア・ライヴ・ヴァージョンの下敷にしたのは、おそらくボビー・ブランドの1961年ヴァージョンだろう。

 

 

もっとも「ストーミー・マンデイ」の方は、オールマン・ブラザーズ・バンド結成のずっと前、デュエインもグレッグもいたオールマン・ジョイズ時代からの得意レパートリーだったらしい。がしかしその時代のこの曲の録音がない(はず)のでどんな感じでやっていたのかは分らない。

 

 

「ストーミー・マンデイ」のあの独特の代理コードの使い方は、いわゆる<ストマン進行>と呼ばれている。それが広まったのが他ならぬオールマンズのフィルモア・ライヴ・ヴァージョンだったかも。こっちはやっぱり音源を貼って紹介しておいた方がいいかもしれない。

 

 

 

12小節ブルーズなんだけど、お聴きになれば分るように七小節目から十小節目にかけてマイナー・コードを使っている。具体的には七小節目から順番に G / Am 〜 Bm / B♭m 〜 Am 〜 E♭ / D になっている。キーはGのブルーズだから、ちょっと変った進行だよねえ。

 

 

こんな代理コードの使い方は「ストーミー・マンデイ」のオリジナルである T・ボーン・ウォーカーの1947年ブラック&ホワイト録音では聴けない。都会的に洗練されたブルーズ・マンでジャズ的な和音の使い方も得意だった T・ボーンなんだけど、こんなコードは使っていないもんなあ。

 

 

またボビー・ブランドの1961年ヴァージョンはT・ボーンのオリジナルにまあまあ忠実なもので、かなり洗練されてはいるものの、オールマンズのみたいな代理コードは使っていない。そのヴァージョンでギターを弾いているウェイン・ベネットのスタイルがデュエインにも大きな影響を与えているとは思うんだけどね。

 

 

ところでそのウェイン・ベネット。以前書いたマット・マーフィーと並び都会的に洗練されたスタイルで弾くブルーズ・ギタリストのなかでは僕の最も好きな一人なんだよね。プロのギタリストでも影響を受けているのはデュエインだけではない。ボビー・ブランドと一緒にやったものなんか最高だよなあ。

 

 

ともかくオールマンズのフィルモア・ライヴでの「ストーミー・マンデイ」。参考にしたに違いないボビー・ブランド・ヴァージョンや T・ボーン・ウォーカーのオリジナル(その他再演)では聴けない代理コードを使っているのは、いったいどうしてななんだろうなあ。

 

 

だいたいオールマン・ブラザーズ・バンドはサザン・ロックの代表格とされるくらいで、どっちかというと泥臭くてダーティーで豪快にグイグイ乗るようなスタイルを中心とした音楽家だと思うし、1971年のフィルモア・ライヴでも多くがそんな曲なのに、あんな都会的洗練を聴けるのがちょっぴり不思議だ。

 

 

都会的洗練といえばオールマンズのあのフィルモア・ライヴにはもう一曲あるよね。ディッキー・ベッツの書いた「エリザベス・リードの追憶 」。僕はあれも大好き。一番好きなのが1970年『アイドルワイルド・サウス』収録オリジナルでは聴けない、冒頭のディッキー・ベッツによるヴァイオリン奏法だ。

 

 

エレキ・ギターでのヴァイオリン奏法はみなさんご存知のはずだけど、一応書いておくと、ピッキングの際にはヴォリュームを絞りアタック音を出さず、直後にスッとヴォリュームを上げることにより、スムースにシュ〜っと音が鳴るように演奏するもの。まるでヴァイオリンを弓で弾くような音なのでこの名称がある。現実に弓で弾くジミー・ペイジのことではない。

 

 

通常この奏法ではギター本体に付いているヴォリューム・ノブを使う。あらかじめノブを廻してヴォリュームを最低にしておいて、ピッキング直後に小指などでノブを廻して音量を上げる。しかしこのやり方の場合、ピッキングする位置とヴォリューム・ノブの位置が近くないとやりにくい。

 

 

フェンダーのストラトキャスターなどでは従ってやりやすいのだが、1971年のフィルモア・ライヴ時でのディッキー・ベッツが使っていたのはギブスンのレス・ポールだとの情報がある。レス・ポール・モデルはヴォリューム・ノブが通常ピッキングする位置からは遠いのだ。じゃああの時のディッキーはどうやっていたんだろう?

 

 

ひょっとしてフィルモアの「エリザベス・リードの追憶」冒頭でのヴァオリン奏法はギター本体のヴォリューム・ノブを使ってではなく、足で踏んで操作するヴォリューム・ペダルかなにかを使ってのものだったんだろうか?僕は全く知らないし調べてもいないのだが、しかしフット・ペダルを使った音でもないような気がするなあ。

 

 

う〜ん、分らない。僕はギター専門家ではないので、レス・ポールでもピッキング直後に本体のヴォリューム・ノブに指を引っ掛けて廻すことが可能なのかもしれない。どなたかギター専門家の方か、あるいは専門家ではなくてもお詳しい方、あるいは事情をご存知の方、教えてください。

 

 

オールマンズのあのフィルモア・ライヴではいかにもあの時代らしく長尺曲も多い。1971年リリースの二枚組アナログ盤では19分の「ユー・ドント・ラヴ・ミー」と23分の「ウィッピング・ポスト」くらいだけど、その後のリイシューCDでは33分以上もある「マウンテン・ジャム」もリリースされた。

 

 

それらライヴでの長尺曲はグレイトフル・デッドに影響されたと思しきものなんだけど、じゃあデッドみたいな1960年代後半のグラス・カルチャー的産物で、マリファナでもやっていないと素面ではかったくるて聴きようがないのかというと、僕にとってはそうでもないんだなあ。デッドはダメな僕なのに。

 

 

33分以上もある「マウンテン・ジャム」だって退屈せずに聴けるってのは僕だけだろうか?「ウィッピング・ポスト」も6/8拍子というリズムが面白くて聴けちゃうし、「ユー・ドント・ラヴ・ミー」だけがあんまり面白くないように思うんだけどね。しかし僕はそれら長尺曲ではギターの二人はあまり聴かない。

 

 

僕が(面白くないように感じる「ユー・ドント・ラヴ・ミー」を除き)「ウィピング・ポスト」と「マウンテン・ジャム」で聴いているのはいつもリズム・セクションだ。特にジェイ・ジョハンスンとブッチ・トラックスのツイン・ドラムス。あの派手な掛合いがいいなあって思うんだよね。

 

 

なかでも「マウンテン・ジャム」後半でドラマー二人だけの演奏になっているパートがあって、僕には面白いんだよね。ちょっとヘンかなあ?普通あんなのは飛ばしちゃうよね。そんなせいか、あるいは長すぎてLP片面に収録できないせいもか、アナログ盤では未収録だった一曲だ。

 

 

その他マディ・ウォーターズのカヴァー(といっても元はスリーピー・ジョン・エスティス)とか、エルモア・ジェイムズのカヴァーとか、サニー・ボーイ・ウィリアムスン二世のカヴァー(も元はエルモア)とか、あるいは2014年にCD六枚組でリリースされたこのフィルモア・ライヴのコンプリート盤だとかの話はまた別の機会にしよう。

 

2016/10/23

コモドアのジャズと悪魔とブルーズのイメージ

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コモドアというジャズ・レーベルがある。主宰者はミルト・ゲイブラー。コモドアという名前は元はレーベル名ではなく、ゲイブラーがニュー・ヨークでやっていたレコード・ショップの名称だ。彼がマンハッタンの42丁目でコモドア・ミュージック・ショップを開店したのが1926年のことだった。

 

 

そのレコード・ショップは主にディキシーランド・ジャズのSPレコードを売っていて、徐々に人気が出てジャズ・ファンやジャズ・ミュージシャンたちの耳目を集めるようになり、ミルト・ゲイブラーは1937年に同じマンハッタンの52丁目に新店舗を構えるようになった。

 

 

マンハッタンの52丁目はみなさんご存知の通りジャズにとってはシンボリックな地区で、だからミルト・ゲイブラーもそこに新店舗を出したのか?それともその1937年にゲイブラーが52丁目に開いた新店舗がいろんな意味で人気店になったがゆえに同地区が象徴的ジャズ・エリアとなったのか?

 

 

そのへんのちゃんとした事情を僕は知らないが、とにかく52丁目のコモドア・ミュージック・ショップの大人気をきっかけに、その店舗をはじめた翌1938年にミルト・ゲイブラーは同名のレコード・レーベルを設立した。当初はメジャー各社で録音された未発売品を出していたらしい。

 

 

つまりコモドアはインディペンデント・レーベル。このレーベルのレコードで一番有名なのは間違いなくビリー・ホリデイのものだよなあ。そもそも彼女は1939年(はコロンビアと契約していた時期)に「奇妙な果実」を録音したものの、それをコロンビアは渋ってなかなかレコードとして出さなかった。

 

 

「奇妙な果実」はそりゃああいった黒人差別を厳しく糾弾するような内容なもんだから、メジャーのコロンビアが1939年にリリースしたがらないのも当然と言えば当然だ。しびれを切らしたビリー・ホリデイは、既に出入りしていたコモドア・ミュージック・ショップのミルト・ゲイブラーに話を持込んだ。

 

 

それでビリー・ホリデイの「奇妙な果実」は既に録音済だったコロンビア音源を流用したのか、それとも新規にレコーディングし直したのかは僕は知らないが、1939年に「ファイン・アンド・メロウ」をB面にしてコモドア・レーベルからリリースされたというわけなんだよね。

 

 

ミルト・ゲイブラーはこのレーベル用の新規録音もどんどんやるようになり、それはその後の日本ではいわゆる中間派という用語で知られているようなスタイルの、ディキシーランドとスウィング・スタイルの折衷的なジャズ録音が中心。このレーベルはその後デッカに吸収される。

 

 

第二次大戦後ミルト・ゲイブラーはデッカで仕事をするようになったせいなんだろう。そして1954年にはコモドア・レーベルは完全に終焉してしまう。結局このコモドア・レーベル最大のヒット曲はやはり1939年リリースのビリー・ホリデイ「奇妙な果実」だったということになる。

 

 

だからコモドア=「奇妙な果実」みたいなイメージが今でもあると思うんだけど、僕にとってのコモドア・レーベルとは上でちょっと書いたようにインストルメンタルな中間派ジャズであり、1938年にレーベルとして開始したという時代を反映しての当時のスウィング・スタイル・ジャズなのだ。

 

 

そのなかで僕が最も好きなものがレスター・ヤング名義でCDリイシューもされているカンザス・シティ・シックスの1938年録音。アナログ・レコードで日本盤も昔からリリースされていたもので大の愛聴盤だった。1938年というとレスターはカウント・ベイシー楽団在籍時代だよね。

 

 

実際そのカンザス・シティ・シックスという名称のコンボは、全員ベイシー楽団のメンバーなのだ。レスター・ヤングの他は、バック・クレイトン(トランペット)、エディ・ダーラム(トロンボーン、ギター)、フレディ・グリーン(ギター)、ウォルター・ペイジ(ベース)、ジョー・ジョーンズ(ドラムス)。

 

 

レスター・ヤングはお馴染みのテナー・サックスだけでなくクラリネットも吹いている。この1938年コモドア・セッションだけではなく、ベイシー楽団でもクラリネットを吹くことがあり、そもそも両方やっていたのをやめてしまった理由は、1939年に愛用のクラリネットを盗まれてしまったからだ。

 

 

上記六人で1938年にコモドアにレコーディングされたのは全五曲で、それぞれ2テイクずつあるので全10トラック。それと似たようなメンツでジョン・ハモンドのプロデュースで同1938年にコロンビアに録音してあった四曲(はコロンビアからリリースすることをハモンドがやめてしまいコモドアに譲渡)を追加。

 

 

さらに1944年にやはりカンザス・シティ・シックスのバンド名で、メンツはレスター・ヤングとジョー・ジョーンズ以外異なっているコンボでコモドアに録音した四曲8トラック。以上全て併せ22トラックが、現在ではレスター・ヤング名義のCD『ザ・”カンザス・シティ”・セッションズ』に収録されている。

 

 

どうしてカンザス・シティに括弧が付いているのかというと、レコーディングは全てニュー・ヨークで行われているからだ。元々の1938年カンザス・シティ・シックスが全員当時のカウント・ベイシー楽団のメンバーで、この楽団がカンザス出身(ニュー・ヨーク進出は1936年)なので、このコンボ名になった。

 

 

その『ザ・”カンザス・シティ”・セッションズ』はコンボ編成なので、カウント・ベイシー楽団では短めの四小節とか八小節程度しか聴けないレスター・ヤングのソロが長めにたっぷり味わえるというのが最大の美点。(アルバムのメインが)1938年というレスター全盛期だから、それもいい。

 

 

レスターのテナー・サックスがどれだけ素晴しいかはもう語り尽くされているように思うので、今日僕が繰返す必要もないはず。注目すべきはこれも前述の通りクラリネットを吹いている曲が複数ある。「カウントレス・ブルーズ」「アイ・ウォント・ア・リトル・ガール」「ペイジン・ザ・デヴィル」がそれ。

 

 

そのうち古典ジャズが好きなリスナーの間で昔から最も評価が高いのがプリティなバラード「アイ・ウォント・ア・リトル・ガール」だね。これも2テイクあって、レスターのクラリネット・ソロに関しては甲乙付けがたいし、他のメンバーもほぼ同内容だ。

 

 

 

しかしながら僕が「アイ・ウォント・ア・リトル・ガール」以上に重視したいのが「ペイジン・ザ・デヴィル」だ。曲名でお分りのようにベースのウォルター・ペイジが書いた曲で、しかもこれは12小節3コードというブルーズ形式の楽曲なんだよね。

 

 

 

曲名に「デヴィル」(悪魔)とあるんだが、それがブルーズ楽曲のタイトルに用いられた早い例じゃないかなあ。僕の知る最も早いものはスキップ・ジェイムズの1931年「デヴィル・ガット・マイ・ウーマン」だけど。ブルーズが悪魔と結び付くイメージは、主にかのロバート・ジョンスンの四辻伝説で広まっているんだろうと思うけれど、「ペイジン・ザ・デヴィル」はその起源の一つかもしれない。

 

 

最重要なはこのブルーズ・ナンバー「ペイジン・ザ・デヴィル」を、翌1939年にカーネギー・ホールでライヴ演奏していて、それも同一メンバー六人のカンザス・シティ・シックスだけど、ギターだけがチャーリー・クリスチャンになっているんだよね。

 

 

 

そしてこの今音源を貼ったこの1939年カーネギー・ライヴは、あのジョン・ハモンドの企画による『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』コンサート・イヴェント(第一回は1938年)の一部なのだ。こう書けばこの「ペイジン・ザ・デヴィル」の意味が多くの方にお分りいただけるはずだ。

 

 

そもそもあの『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』コンサート・イヴェントは、ジョン・ハモンドがレコードを聴いて感銘を受けたブルーズ・マン、ロバート・ジョンスンをカーネギー・ホールに呼んで生演奏させるというのがそもそもの目的だったんだけど、彼は死んでいたので実現しなかったというものだよね。

 

 

それでロバート・ジョンスンを諦め、いろんな黒人音楽家(が中心)を一堂に会し、1938年までのアメリカ大衆音楽史を俯瞰するような内容のライヴ・イヴェントになり、それが実況録音されて今でも聴けるという次第。ロバート・ジョンスン出演が当初の目的だった場で「ペイジン・ザ・デヴィル」をやるなんてね。

 

 

話を戻してレスター・ヤングの『ザ・”カンザス・シティ”・セッションズ』の1938年セッションにはエディ・ダーラムが参加して、トロンボーンよりもギターをたくさん弾いている。それはピック・アップ付の空洞ボディのギターをアンプリファイしたもの。しかもほぼ全てシングル・トーンで流麗なメロディを弾いている。

 

 

以前チャーリー・クリスチャンについて書いた際、この人がエレキ・ギターを用いてシングル・トーン弾きでソロを演奏する最初の人じゃないと書いたけれど、エディ・ダーラムこそがエレキ・ギターでシングル・トーンのソロを弾くジャズ・ギタリストのパイオニアだ。アクースティック・ギターでならもっと前から何人もいる。

 

 

『ザ・”カンザス・シティ”・セッションズ』における1938年録音のエディ・ダーラムのギターを聴けば、翌39年に録音を開始するチャーリー・クリスチャンが先駆者でもなんでもないということが全員分るはず。メロディ・ラインもスムースだし、和音の使い方もかなりモダンに近いようなものなんだよね。

 

 

レスター・ヤングの『ザ・”カンザス・シティ”・セッションズ』は、そんなジャズ界におけるエレキ・ギタリストのパイオニアが聴けたり、全盛期レスター・ヤングのテナー・サックスとクラリネットの両方がたっぷり味わえたり、なかには珍しくフレディ・グリーンがヴォーカルを取っていたり(「ゼム・ゼア・アイズ」)と、本当に楽しいスウィング・セッションなのだ。

2016/10/22

シャンソンはこうやれ〜HK と脱走兵たち

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最近10年ほどの間にリリースされたマグレブ音楽のアルバムでは一番良かったように思う『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』。あれはシャンソン集なんだからマグレブ音楽ではないと言う方もいらしゃるとは思うんだけど、僕にとってはアルジェリア音楽にしか聴こえないよ。全曲シャアビになっているもん。

 

 

『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』。本国フランスでは2013年にリリースされているが、僕がこれをエル・スールのサイトで発見し買ったのは翌2014年の五月頃。HK の名前はサルタンバンクというバンドのリーダーとして知っていたし、それはマグレブ系ミクスチャー・バンドだとも知っていた。

 

 

でもサルタンバンクは僕にとってはイマイチに聴こえていて、マグレブ音楽系のものであればもうちょっとトラディショナルな方向に傾いたものの方が好みなんだなあ。だからこのバンドに関してはさほどファンというわけではなかった。それでも『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』はジャケットがいいよね。

 

 

そのジャケットをエル・スールのサイトで見た時にこれはいい内容なんじゃないかなと直感したのだ。それは間違いなくモンマルトルの丘で、そこでラクダに乗ったイスラム教徒の格好をした人がパリ市内を見下ろしているという。このジャケット・デザインは中身の音楽を的確に表現しているよなあ。

 

 

エル・スールのサイトに掲載されている文章でも『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』がシャンソン曲集であることははっきりと具体的に書いてあった。シャンソンはパリを中心とするフランス歌謡。そんなシャンソンが展開されるパリ市内をラクダに乗ったイスラム教徒が見下ろしているっていうのは面白い。

 

 

すなわち『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』は、シャンソン名曲の数々をアラブ音楽風に料理したアルバムであることをジャケット・デザインで端的に表現しているんだよね。このジャケットを見てエル・スールのサイトに掲載されている文章を読んで、絶対こりゃいいよねと迷わず即買いだった僕。

 

 

1990年代後半からマグレブ音楽ファンである僕だけど、かつて大学生の頃はちょっとシャンソンも好きだった。最大のきっかけはマイルス・デイヴィスがハーマン・ミュートを付けて吹く1958年録音の「枯葉」(キャノンボール・アダリー名義『サムシン・エルス』収録)の素晴しさにノックアウトされちゃったからだ。

 

 

マイルスはその後も1967年までライヴでは継続的に「枯葉」を演奏しているので公式ライヴ録音も複数ある。ちなみに『サムシン・エルス』の名義的リーダーであるキャノンボールも自分のバンドでライヴ演奏していて、1958年ブルー・ノート盤のアレンジは後者の方が再現している。名義上とはいえ一応リーダーだからだ。

 

 

他にも「枯葉」をやっているジャズ・メンはたくさんいてスタンダード化している。そうなったのは『サムシン・エルス』のおかげなのか違うのかは知らない。しかしあのアルバムの「枯葉」はジャズ・ピアニスト、アーマッド・ジャマルがやった1955年録音のエピック盤のアレンジをそのまま真似しているんだけどね。

 

 

とにかくそんなこんなでジャズ・メンがやる「枯葉」が大好きになり、そうするといろんな解説文にこの曲のオリジナルはシャンソンだと書いてあったのだ。それこそが僕がシャンソンに興味を持った最大のきっかけ。聴いてみたかったんだよね、「Les Feuilles mortes」を。

 

 

それでレコード店でシャンソンの棚を漁り「枯葉」が入っているアルバムを見つけては買っていた。いざ聴いてみたらジャズ・メンが採り上げて有名になったのはコーラス部分だけで(そこはコード進行もジャズ・メンが好きそうだ)、シャンソン原曲ではその前に長いヴァースがあるのだということを知った。この話は省略する。

 

 

そんなわけで20代前半頃まではちょっと熱心にシャンソンのレコードを買って聴いていた僕だったけれど、最近は一部の歌手を除き面白くないように感じている。サウンドやリズムを放ったらかしにして歌詞の意味内容「だけ」でなにかを言おうとするような音楽は、個人的にはもう遠慮したい気分なのだ。

 

 

それでもマグレブ音楽のファンな僕だから、アルジェリア系移民の子供(二世だか三世だかは分らない)である HK ことカドゥール・アダディがやっているのであればサウンドやリズムが面白いことになっているだろう、フランスのハラワタのなかから突破るようなものになっているんじゃないかと思ったのだ。

 

 

それで『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』を聴いてみたら果して期待通りの内容だった。採り上げられているシャンソンはほぼ全て有名曲(なんだろう?僕が知っているくらいだから)。なかには相当に知名度のある曲もある。一番有名なのはエディット・ピアフの三曲目「パリの空の下で」だなあ。

 

 

他にもこれまた有名なこれまたピアフの11曲目「パダム・パダム」もあったり、さらに一曲目ジャック・ブレルの「おまえの言いなり」(ヴェズル)とか、ブレルはあと二つ、五曲目と十二曲目にあり、その他七曲目のセルジュ・ゲインズブールとか十曲目のジャン・フェラとかも有名。

 

 

その他四曲目のジョルジュ・ブラッサンスとか十三曲目のクロード・ヌガロなどなど。変り種は八曲目のザッカリー・リチャードだ。この人はフランスの人でもないしシャンソンの音楽家でもなく、アメリカはルイジアナのケイジャン・ミュージック、ザディコのシンガー・ソングライターなんだよね。

 

 

いろいろあるけれど、なかでも HK がおそらく一番力を込めているだろうものが六曲目のボリス・ヴィアン・ナンバー「ル・デゼルトゥール」だろうなあ。このバンド(プロジェクト?)名にしてアルバム・タイトルにまでしているわけだからね。「Le déserteur」とは「脱走兵」という意味。

 

 

他の収録曲も曲名や歌詞内容から HK が伝えたいメッセージみたいなものが読取れるけれど、六曲目のヴィアン・ナンバー「脱走兵」こそ最もそれが如実に表れているものだろう。なぜかってこれは曲名だけでも推察できるように反戦(厭戦)歌だから。つまりプロテスト・ソングなんだよね。ヴィアンが書いたのは1955年頃のことらしい。

 

 

その時のヴィアンは第一次インドシナ戦争(1946~1954)のことを念頭に置いて書いたらしい。このヴィアンの有名曲は日本でジュリー(沢田研二)も日本語詞で歌っている。フランス語元詞に忠実な訳詞なので、ちょっと聴いてみてほしい。

 

 

 

これをやっていた1989年頃のジュリーは随分とヴィアンに入れ込んでいて、演劇的な舞台活動 ACT シリーズでヴィアンだけでなくエディット・ピアフや、あるいはシャンソンでなくても歌詞の意味の深いいろんな欧米の曲を採り上げて歌っていた。この頃のジュリーの話はやめておく。

 

 

ただジュリーがフランス語元詞に忠実な日本語詞で歌う上で音源を貼ったヴィアンの「脱走兵」をお聴きいただければ、どんな意味合いを持った曲なのかはだいたいお分りいただけると思う。ジュリーだけでなく他の日本人歌手も元詞の出だしから採って「拝啓大統領殿」の曲名でよく歌っている厭戦歌。

 

 

ヴィアンはインドシナ戦争を念頭に置いて「脱走兵」を書き歌ったらしいのだが、カヴァーしている HK はおそらくはアルジェリア戦争のことを考えて歌っているんじゃないかなあ。第一次インドシナ戦争が終った1954年には、フランスからの独立を求めてアルジェリア戦争が勃発しているしなあ。

 

 

HK がアルジェリア系だということは書いた。彼はフランス生れでフランスに住んで活動し、しかもフランス内において移民としての立場を鮮明にしながら音楽をやっているわけだから、ヴィアンの「脱走兵」をアルジェリア戦争のことを念頭に置いて採り上げたのは間違いないように思う。

 

 

そんな「脱走兵」をバンド名とアルバム・タイトルにまでしているわけだから、アルバム全体を通して聴いていると六曲目のそれはあまり目立たずサラッと出てくるように思えるけれど、やっぱりこのヴィアン・ナンバーこそがフランスで活動するアルジェリア系音楽家にとってはシンボリックな曲のはず。

 

 

「脱走兵」だけでなくどの収録曲も HK のメッセージみたいなものが曲名や歌詞内容に読取れるけれど、しかしながらもっとはるかに重要なのは、やっぱりそれら全部シャンソンである曲の数々をアルジェリア大衆歌謡の一形式であるシャアビに仕立て上げているというサウンドやリズムだよなあ。

 

 

フランス人がフランス語で歌うシャンソン(やそれを忠実に移して日本語詞で歌う、僕は全く好きではない日本人シャンソン歌手のヴァージョン)しか知らない人が『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』を聴いたら、そのアレンジは驚天動地ものだよなあ。僕は痛快だ。

 

 

またシャンソン原曲を知らない HK ファンやマグレブ音楽ファンも『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』のアレンジの痛快な面白さはやはり理解しにくいんじゃないかなあ。一曲目「おまえの言いなり」のジャック・ブレル・ヴァージョンはこれ。

 

 

 

それを HK はこんな感じにしている。歌そのものはジャック・ブレルのオリジナルに忠実というに近いけれど、冒頭で鳴りはじめる弦楽器はご覧になってお分りの通りバンジョー(はアフリカ由来)だ。その後ダルブッカなど北アフリカ由来のアラブ系の打楽器も鳴っている

 

 

 

アルバム中最も有名なピアフの「パリの空の下で」の彼女自身によるヴァージョンはたくさんあるが、例えばこういうのだ→ https://www.youtube.com/watch?v=kouTi-0csLg   これを HK はこう料理している→ https://www.youtube.com/watch?v=VwHcp9WktoY  どう聴いてもアラブ音楽じゃないか。

 

 

HK の歌い方、フレイジングの節々にも、アルジェリア音楽であるシャアビにしか聞えないコクのあるコブシ廻しが聴ける。バンドの奏でるサウンドやリズム・アレンジも全てそうなっている。しかもそれら全てアクの強い粘り気のあるものというより、軽妙洒脱なものだ。

 

 

シャンソンをアラブ音楽であるシャアビに仕立てているわけで、すなわちピアフも歌った「パリの空の下で歌が流れる」(が出だしの歌詞)なんて歌いながら、その HK の歌うフランスのパリは、その内部から音楽的に破られているんだよね。パリにも多いアルジェリア系住人の手によって。

 

 

シャンソンの名曲を歌詞はそのままフランス語で歌いながら(HK はサルタンバンクでもフランス語で歌う)、サウンドやリズムのアレンジがアルジェリア音楽風になっているわけだから、ヴィアンの「脱走兵」をアルジェリア戦争を念頭に置いて歌うように、このアルバム全体がフランス国内におけるフランス語による抵抗音楽なのだ。

 

 

 

フランス国内にはアルジェリアやその他北アフリカのマグレブ諸国からの移民やその子孫も多い。もちろん旧宗主国だったからだけど、彼らはフランス国内においてはあくまでマイノリティだ。そんな社会的少数派の一人である音楽家 HK が自分たちのアイデンティティを鮮明にして共感を表明しているってわけだね。

 

 

「パリの空の下で」のHK ヴァージョンではシャンソンらしくアコーディオンも聞えるが(他にも入っている曲がある)、一番目立つのは北アフリカアラブ系打楽器、特にダルブッカとベンディールの音だ。叩いているのはラバ・カルファで、このパーカッショニストはスアド・マシ・バンドの人だ。

 

 

スアド・マシはアルジェリア出身でフランスで活動するアラブ音楽のシンガー・ソングライター。『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』にはその他、ドラムスでグナワ・ディフュジオンのアマール・シャウイ、同じくグナワ・ディフュジオンからマンドーラでムハンマド・アブドゥヌール(プチ・モー)など。

 

 

そんな編成のバンドと HK がやる音楽のなかで僕の最大のお気に入りは十曲目のジャン・フェラ・ナンバー「アン・グループ、アン・リーグ、アン・プロセシオン」。スタジオ録音ヴァージョンがネットに上がっておらず、ライヴ・ヴァージョンはいくつかあるけれど、どうしても聴いてほしいと思って自分で上げた。

 

 

 

めちゃめちゃグルーヴィーだよなあ。既にいくつか上がっていたいくつかのライヴ・ヴァージョンでもそのグイグイとしたノリは分るとは思う。オリジナルであるジャン・フェラのヴァージョンはこれ。

 

 

 

やっぱり HK ヴァージョンの方がカッコイイよね。そんなグイグイとドライヴするグルーヴィーなものがもう一つ『HK・プレザント・レ・デゼルトゥール』にある。がしかしそれはどこにもクレジットされていない。クレジットされているラストは15曲目「ラフィッシュ・ルージュ」になる。

 

 

ライヴ収録であるこのルイ・アラゴン・ナンバーは 5:36 で終るのだが、その後二分間以上も無音の空白が続いたあと 7:44 からもう一つ16曲目がはじまるのだ。つまりこの16曲目は隠しトラックなのだ。それがまたすんごいカッコいいグルーヴ感なんだよね。特にバンド合奏によるキメが最高だ。

 

 

どうしてこんなカッコイイ曲を全くどこにもクレジットせず、二分以上も空白を開けた上での隠しトラックにしてあるんだろうなあ。この隠しトラックもフランス語で歌うシャンソン曲のシャアビ・ヴァージョンで、しかも15曲目同様ライヴ収録。北アフリカアラブ系打楽器のサウンドが凄く心地良い。

 

2016/10/21

ライヴでのぶっつけ本番オーディション

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マイルス・デイヴィス・バンドによる1974/3/30、ニュー・ヨークのカーネギー・ホールでのライヴを収録した『ダーク・メイガス』。1970年代マイルス・ファンクのなかでは最も重く最も暗いものなんだけど、あれはどうしてあんな音楽になっているんだろう?昔から不思議なんだなあ。この二枚組だけが異様な感じに響く。

 

 

1973〜75年までのマイルス・バンドは、メンバーの顔ぶれもライヴでの演奏レパートリーもだいたい似たようなもので、『ダーク・メイガス』だって演奏しているのはだいたい全部よく知っているお馴染みの「曲」(とも言いにくいものばかりだが)なのに、あれだけ雰囲気がかなりオカシイ。

 

 

全部よく知っているお馴染みの「曲」と書いたけれども、『ダーク・メイガス』のパッケージ表記は、アナログ・レコードの二枚組では全四面がそれぞれワン・トラックになっていて、そのタイトルも「Moja」「Wili」「Tatu」「Nne」だった。これはどうやら全部スワヒリ語らしい。

 

 

『ダーク・メイガス』現行CDではもうちょっとだけ細かくトラックが切ってあって、それら四つが全部「パート1」と「パート2」になっているので、二枚で計8トラック表示。しかしもちろんこれも元々の「曲」は一切無視されている。1970年代のマイルスの公式ライヴ盤はだいたい全部そうだよなあ。

 

 

唯一の例外が1972年録音、翌73年発売の二枚組『イン・コンサート』で、現行CDでは全曲トラックが切ってあって曲名も記載されている。がしかしこれもアナログ・レコードは計四面が全て 「Miles Davis In Concert」 になっていたのでやはり同じだった。

 

 

現在では紙でもネットでもいろんなデータを参照できるので、音源自体をたくさん聴いている1970年代マイルス・ファンは、この時代の一連のライヴ・アルバムについても、だいたい全部の収録曲の名前を知っている。そんな熱心なファンじゃない方のために『ダーク・メイガス』について念のため書いておく。

 

 

一枚目

 

「Moja (Part 1)」が 「Turnaroudphrase」

 

「Moja (Part 2)」が 「Tune In 5」

 

「Wili (Part 1)」が「Funk」(という名称しかいまだに知られていない)

 

「Wili (Part 2)」が 「For Dave」

 

二枚目

 

「Tatu (Part 1)」が 「Agharta Prelude」

 

「Tatu (Part 2)」が「Calypso Frelimo」

 

「Nne (Part 1) 」が 「Ife」

 

「Nne (Part 2)」が 0:48まで「Ife」、その後は曲名が分らない。

 

 

なお『ダーク・メイガス』もテオ・マセロが編集しているんだけど、それはLP二枚組の片面で一つになるようまとめるためで、片面の間はハサミは入っていない。そして各面終了時にすんなりエンディングみたいに聴こえるよう編集し、次の面になるとまた「新たな曲」がはじまるように聴こえるといった具合になっているんだよね。

 

 

この1974/3/30、ニュー・ヨークのカーネギー・ホールでのライヴは、そんな編集を施す前の元演奏オリジナル・テープがコロンビアの倉庫にいまだにあるはずだよなあ。2016年になってもそれはリリースされていない。おおよその姿は想像が付くような感じだけど、やはり実物を聴きたい。

 

 

『ダーク・メイガス』になった元音源、つまり編集されていないオリジナル・ライヴ・テープで手つかずのままリリースしてくれないかなあ。レガシーさん、お願いしますよ。僕ら熱心なマイルス・ファンは昔からそれを切望していて、1960〜70年代のライヴ音源も多少はオリジナル音源が出てはきているけれどさ。

 

 

重いとか暗いとかいった音楽の質以外で『ダーク・メイガス』が1970年代マイルス・ライヴで他のものと一番大きく違うのは、二名の新人が参加しているところだろう。テナー・サックスのエイゾー・ロウレンス、ギターのドミニク・ゴーモンだ。どうやら彼ら二名にとってはバンド参加のオーディションだったらしい。

 

 

サックスの方は当時のレギュラー・メンバーだったデイヴ・リーブマンがもちろんいるけれど、この1974年3月当時、リーブマンはマイルス・バンド脱退の意思をボスに伝えていたので後任を探していたということだろう。それでマッコイ・タイナー・バンドのエイゾー・ロウレンスをテストしたんだなあ。

 

 

しかしギターのドミニク・ゴーモン(フランス語母語話者の Gaumont の読みはこれでいいのか?)の方はどうしてテストされたのかちょっと分らない。当時のマイルス・バンドにはお馴染みレジー・ルーカスとピート・コージーがいて、どっちかが辞めたいなんてこともまだなかったわけだから。

 

 

いや、ピート・コージーの方は辞めたいというのではないけれども、レギュラー・メンバーなのかどうかやや微妙な立場で、恒常的にマイルス・バンドに帯同していたものの若干特別視されていて、それは彼が1973年のマイルス・バンド参加当時既に充分キャリアのある音楽家だったせいらしい。

 

 

実際1973〜75年のマイルスによるスタジオ録音ではレジー・ルーカスは常に弾いているけれども、ピート・コージーの方は弾いたり弾かなかったり、というかむしろ弾いている録音の方が圧倒的に少ないというのが事実。74年発売の『ゲット・アップ・ウィズ・イット』でも参加はしているが、73年録音の一曲を除きギターではない。

 

 

1973〜75年のマイルス・スタジオ録音でピート・コージーが弾いているものを聴こうと思った場合、それは『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』(がこの三年間のほぼ完全録音集)にしか収録されておらず、それも数はさほど多くない。この時代のライヴには全部参加して弾いているのになあ。

 

 

ってことはピート・コージーは1973〜75年時期のマイルス・バンドでは、ライヴ・ステージのみで弾くメンバーだったというのに近い。どうしてだったんだろうなあ。まあちょっと理由が分らないし、ボスはもちろんコージーも2012年に亡くなっているので、今では真相を究明しにくいだろう。

 

 

ともかくそんなことで自分の後任ということだったのかどうかは分らないが、ピート・コージー本人の推薦でフランス国籍のギタリスト、ドミニク・ゴーモンがオーディションされたってことになっている。エイゾー・ロウレンスもドミニク・ゴーモンも、つまりライヴ本番でのいきなりのオーディションだった。

 

 

スタジオでのリハーサル・セッションなどでならごく当り前の日常的なことだが、ライヴ本番、しかもカーネギー・ホールという大舞台のいきなりぶっつけ本番で、バンド入りのオーディションを受けるエイゾー・ロウレンスとドミニク・ゴーモンの心中や察するにあまりある。とんでもない緊張感だったはずだ。

 

 

それで『ダーク・メイガス』をお聴きになって分るような具合になっていて、すなわちエイゾー・ロウレンスの方はメチャメチャな出来具合で悲惨そのもの。だからこのライヴ・オーディションには合格できずマイルス・バンド参加は叶わなかった。ドミニク・ゴーモンの方は見事パスしたってわけだね。

 

 

それで1974〜75年のマイルスのスタジオ録音や、75年1月までマイルス・バンドに帯同したのでその時期のライヴ・ブートでもドミニク・ゴーモンのギターが聴ける。74年リリースのスタジオ作『ゲット・アップ・ウィズ・イット』にある74年録音の三曲でソロを弾くのはコージーではなく全てゴーモンなのだ。

 

 

それはそうと『ダーク・メイガス』におけるエイゾー・ロウレンスとドミニク・ゴーモンはどこで演奏しているのか?判別できないとおっしゃるファンの方が以前一人いたので、その方のために18年ほどまえに『ダーク・メイガス』何枚目のどこからどこまでが誰だというリストを書いたことがある。

 

 

でも熱心なファンがそうでもしないと判別しにくいってのは事実かもしれないなあ、特にドミニク・ゴーモンの方は。エイゾー・ロウレンスの方は、こりゃもう同時参加のデイヴ・リーブマンとは月とスッポンのあまりに悲惨な吹奏ぶりなので、出てきた瞬間に誰だってエイゾー・ロウレンスだよねと分ってしまう。

 

 

そうであるにもかかわらず『ダーク・メイガス』日本盤CDのライナーノーツをお書きになっている村井康司さんの指摘は間違っている。僕も信用できるライターさんだと思っているからこそ敢てはっきりと書くが、このアルバムの村井さんのライナーには間違いが多い。でもそれは仕方がない面もあるのだ。

 

 

というのはその村井さんのライナーは1997年4月の日付になっているからだ。97年当時ならまだ情報も今みたいに多くなかったし、中山康樹さんの『マイルスを聴け!』だって初版が出てたっけなあ?という時期なので、その頃に書いたにしては大健闘、力の限りを尽した内容なんだよね。

 

 

だから1997年に書いた村井さんを責めたりするのは筋違いではあるんだけど、間違いは間違いとしてやはり書いておくべきだろう。最大の間違いはエイゾー・ロウレンスが『ダーク・メイガス』の全四面で吹いていると書いていることだ。事実を言うとエイゾーは二枚目でしか吹いていない。

 

 

『ダーク・メイガス』CD二枚目のワン・トラック目「Tatu (Part 1)」の 8:18でようやくエイゾー・ロウレンスのソロが出る。それまでのデイヴ・リーブマンとはスタイルが全然違うので瞬時に判別できる(はずなんだがなあ、村井さん?)。あまりにひどいのでどうにも聴きようがないものだ。

 

 

あまりにひどいというのは僕だけでなく、この当日のライヴ・ステージに上がっていたほぼ全員に共通する印象に違いない。それが証拠にあまりのダメダメぶりを聴いたデイヴ・リーブマンが、このまま放っておいたらボスがなにをしだすか分らないぞという危険でも感じたんだろう、速攻で助太刀に出ているもんね。

 

 

それは『ダーク・メイガス』の「Tatu (Part 1)」の 8:18 だ。一回目のエイゾー・ロウレンスのソロが出た数秒後にデイヴ・リーブマンがソプラノ・サックスでそれに絡み、なんとか立直そうと苦心している。しかしその甲斐もなくエイゾーのソロは修正できず、16:13 まで八分間吹いている。

 

 

その約八分間のエイゾー・ロウレンスのテナー・サックス・ソロの背後では、最初リズム・セクションもその場を救おうと懸命に演奏しているのだが、後半は救いようがないと諦めたのかあんまり演奏しておらず音が小さくなってエイゾーの無伴奏サックス・ソロとは言いすぎだが、それに近い雰囲気になっているもんねえ。

 

 

『ダーク・メイガス』におけるエイゾー・ロウレンスのソロらしいソロはその一回と、「Nne (Part 2)」の最初から2:36 まで。その後も 4:23 まで続けて吹いているが、そこはドミニク・ゴーモンのギター・ソロが絡んでいるのでエイゾーだけのソロではない。『ダーク・メイガス』全部を通しエイゾーのソロはこの二回で全部。

 

 

だから同じくバンド入りのオーディションを受けているのだがかなりたくさん弾いているドミニク・ゴーモンと、あまり吹いていないエイゾー・ロウレンスはかなり立場が違うんだよね。ゴーモンの方はギターの音色やフレイジングがピート・コージーに似ているし、オーディションに合格するだけあって内容もいいので判別はやや困難。

 

 

だからドミニク・ゴーモンの方はどこの何分何秒目から弾いていると具体的に書くのは控えたい。一つだけ書いておくと「Tatu (Part 1)」中間部のギター・ソロは、ピート・コージーとドミニク・ゴーモンが何度も交代しながら弾いているように僕には聴こえるんだが、どうだろう?

 

 

え〜っと、もっと違うことを書きたかったんだけど。『ダーク・メイガス』の音楽的内容について書きたいことがいっぱいあるんだけど、長くなってしまったので今日はもういいや。また別の機会にしよう。それにしても1973年にはあんなに爽快で軽やかだったマイルス・ファンク。74年にはどうしてあんな重くて暗いものになったんだろう?その病的な雰囲気は75年の『アガルタ』『パンゲア』にもある。

 

 

(後記)上記のようなツイートをした数日後に村井康司さんから、エイゾー・ロウレンスのソロ部分についてはその通りだと思いますという返信がありました。

2016/10/20

ブルーバード・サウンド〜サニー・ボーイ・ウィリアムスン

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ブルーズ・ハーピストで「サニー・ボーイ・ウィリアムスン」とだけ言えば、通常は二世の方を指すことが多いみたいだ。ということを僕はわりと最近知った。「サニー・ボーイ・ウィリアムソン」とか “Sonny Boy Williamson” でネット検索したら二世の方ばっかり出てくるからだ。

 

 

こりゃある意味当然ではあるよなあ。サニー・ボーイ・ウィリアムスン二世は主に戦後のシカゴを舞台に活躍した人で、チェス・レーベルなどに録音し、一世以上の人気と成功を収め、1960年代の渡英時にはアニマルズやヤードバーズとレコーディングもしたからロック・ファンでも知っているだろう。

 

 

しかしながら僕にとってはこの名前は一世の方のことだ。そう、ブルーズ・ハーピスト界にはサニー・ボーイ・ウィリアムスンが二名いるんだよね。ややこしいというか面倒くさい。どっちも芸名で、一世の方の本名はジョン・リー・カーティス・ウィリアムスン。二世の方はライス(アレックス)・ミラー。

 

 

だから「ウィリアムスン」名に縁があるのは一世の方で、ライス・ミラーは一世の成功にあやかろうと同じ芸名をわざと用いただけなのだ。一世の方は1948年に亡くなっており、二世は直後の51年にトランペット・レーベルに録音を開始する際(活動はもっと前から)、いわば騙そうとしたわけだ。

 

 

「伝説の」サニー・ボーイ・ウィリアムスンは死んでおらず、自分こそがそのブルーズ・ハーピスト兼歌手で、だからレーベルを騙して、そしてこの名前でレコードを出せば聴衆も騙せるだろうという、そして大人気になりお金も儲るだろうという、まあそんな計算でライス・ミラーはわざとやったんだよね。

 

 

もちろんこれはサニー・ボーイ・ウィリアムスン二世ことライス・ミラーの音楽にケチを付けようとして言っているんじゃない。僕もチェス・レーベルに彼が残したブルーズ録音の大ファンで、1990年代後半にブルーズ・ハープを吹いていた頃の僕はこの人のプレイをよくコピーしていたんだよね。

 

 

サニー・ボーイ・ウィリアムスン二世ことライス・ミラーのことについては今日は書かない。今日は彼が名前を拝借したサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世について話をしたい。この人は1937年にブルーバード・レーベルに録音を開始したのがレコーディング・キャリアのはじまりで、その後は大量に録音がある。

 

 

ブルーバード・レーベルとは RCA ヴィクターの子会社で1932年設立。この時期は1929年にはじまった例の大恐慌のせいで音楽業界も大打撃を受けてしまい、お金をかけたレコーディングやリリースが難しくなっていた。それでメジャーの RCA も小規模低コスト部門を設立したんだよね。

 

 

もちろん RCA だけでなく他のメジャー・レーベルも同様だったのだが、そんなわけで RCA が1932年に設立したのがブルーバード。本拠地はシカゴ。主に1930〜40年代にいろんなレコードを録音し、黒人ブルーズだけでなくジャズやビッグ・バンドものなどたくさん録音・リリースした。

 

 

そんななかでも特に1930〜40年代のシカゴを拠点にブルーバード・レーベルで展開された黒人ブルーズは、その後のリズム&ブルーズや初期ロックへ大きな影響を与えた独自のカラーを持っていたので、通称「ブルーバード・サウンド」と呼ばれている。僕はこれがかなり好きなのだ。

 

 

きっかけはやはり例の『RCAブルースの古典』だった。LPでは三枚組、現行CDでは二枚組で、アルバム・タイトル通り RCA系の戦前音源を使っているわけなので、ブルーバード録音がたくさん収録されている。そのなかにサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世が三曲入っている。

 

 

現行CD二枚組の『RCAブルースの古典』二枚目にあるサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世は「グッド・モーニング・スクールガール」「エレヴェイター・ウーマン」「アーリー・イン・ザ・モーニング」。昔の三枚組LPにそれらが全部入っていたかどうかまでは憶えていないが、とにかくそのレコードでこの人を初めて聴いた。

 

 

上で書いた通りサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世のブルーバード録音は100曲ほどもあるんだそうで、どこか復刻専門レーベルが年代順全集にしてリリースしていたような気がするけれど、僕は持っていない。普段僕が聴くのは一枚物CD『ザ・ブルーバード・レコーディングズ 1937-1938』。

 

 

これのリリースが1997年で、この時期に米 RCA がブルーバード音源の戦前黒人ブルーズ、すなわちブルーバード・サウンドをどんどんCDリイシューしてくれていた。といってもコンプリートな形ではなく、どのブルーズ・マンもアンソロジーだったのだが、あれで随分と助かったのは事実だった。

 

 

本当は本家レーベルが完全集にしてちゃんとリイシューしてほしいんだけどね。まあいいや。そんなことで1990年代後半にいわゆるブルーバード・サウンドが本家 RCA からたくさん出ていて、僕もリリースを知ると同時におそらく即全部買っていた。サニー・ボーイ・ウィリアムスン一世もその一人。

 

 

サニー・ボーイ・ウィリアムスン一世の『ザ・ブルーバード・レコーディングズ 1937-1938』は全24曲。一曲目が最大の代表曲「グッド・モーニング・スクール・ガール」で、これまた有名な「シュガー・ママ・ブルーズ」や「アーリー・イン・ザ・モーニング」もあるが、このアルバムは歯がゆい面もある。

 

 

というのは1937〜38年のアンソロジーと銘打っているから仕方がないのだが、「スロッピー・ドランク」や「ストップ・ブレイキング・ダウン」や「フードゥー・フードゥー」や「シェイク・ザ・ブギ」などなど非常に興味深い録音は収録されていないのだ。これらの曲名だけでも面白そうでしょ。

 

 

「スロッピー・ドランク」はリロイ・カーに同名曲があるのでそれで有名だけど、サニー・ボーイ・ウィリアムスン一世が録音したのは同名異曲。この曲名は異曲が多いブルーズなのだ。「ストップ・ブレイキング・ダウン」はあのロバート・ジョンスンの1937年録音のカヴァーだ。

 

 

「フードゥー・フードゥー」は別名「フードゥー・マン・ブルーズ」で、この曲名で戦後のシカゴ・ブルーズが好きな方は全員知ってるぞとなるはず。ジュニア・ウェルズが1965年にデルマーク・レーベルに同じ曲をレコーディングし、それが収録されたアルバム名も『フードゥー・マン・ブルーズ』だ。

 

 

もちろんジュニア・ウェルズのあれはサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世のカヴァーだ。サニー・ボーイの方はこれ→   https://www.youtube.com/watch?v=RSOIqzxdI-U  一方電化バンド・ブルーズ化したジュニア・ウェルズのはこれ→ https://www.youtube.com/watch?v=O5Z1wFqW0A4

 

 

またジュニア・ウェルズのアルバム『フードゥー・マン・ブルーズ』には「アーリー・イン・ザ・モーニング」もあるが、これだってサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世のレパートリーだったのをアダプトしたんだよね。まあこの曲の場合はサニー・ボーイのオリジナルではなく、古くからの伝承物だけどね。

 

 

「アーリー・イン・ザ・モーニング」も戦後に録音しているブルーズ・マンやロッカーがかなりいるので、みなさん誰かのヴァージョンで聴いてご存知のはず。B・B・キングのとかエリック・クラプトンのとか。しかしそこまでスタンダード化させたのはサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世だぞ。

 

 

さてジュニア・ウェルズのことを書いたけれど、この戦後のシカゴのブルーズ・ハーピスト兼ヴォーカリストの最大の影響源がサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世だったのだ。その他戦後シカゴ・ブルーズ界のハーピストでは代表格のリトル・ウォルターも、そしてスヌーキー・プライアーも同様なんだよね。

 

 

それら戦後のブルーズ・ハーピストのサウンドはアンプリファイされたものだけど、サニー・ボーイ・ウィリアムスンはアクースティックでストレートに吹いているという違いはある。しかし上で貼った「フードゥー・マン・ブルーズ」の二つのヴァージョンを聴いただけでも、スタイルの類似性は分るはずだ。

 

 

1937年に録音を開始したサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世こそがブルーズ・ハーピスト界のパイオニアであり草分的存在で、ブルーズ界でこのテン・ホールズのハーモニカを吹いた最初の存在ではないんだろうが、スタイルを確立し後世に影響を与えた最大の人物だったのは間違いない。

 

 

その後は現在でも、ブルーズ・ミュージックにおいてブルーズ・ハープ(テン・ホールズのハーモニカ)がメイン楽器の一つでよくフィーチャーされているよね。歌わない専業のブルーズ・ハーピストも多い。その最初のきっかけを作ったのがサニー・ボーイ・ウィリアムスン一世に他ならないんだよね。

 

2016/10/19

元祖クイーン・オヴ・ソウルのフェイム録音盤

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「ソウルの女王」(Queen of Soul)という称号はアリーサ・フランクリンのものだと世界中のみんなが思っているだろう。それには僕も全くなんの文句もなく完全同意。1967年にアリーサがコロンビアからアトランティックに移籍し、ジャズ路線ではなくソウルフルな方向になって以後はね。

 

 

アトランティックのジェリー・ウェクスラーが「貴方だけを愛して」(アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・ザ・ウェイ・アイ・ラヴ・ユー)を録音しようとアリーサをマスル・ショールズのフェイム・スタジオへ向わせ、できた同曲がヒットして以後は、このソウルの女王の称号はアリーサのものに間違いない。

 

 

もっとも「貴方だけを愛して」が入った同名のアリーサ初のアトランティック盤の殆どはマスル・ショールズではなくニュー・ヨークで録音されている。ウェクスラーもマスル・ショールズで完成させるつもりだったのだが、フェイムのリック・ホールとアリーサの夫が喧嘩してしまったのだ。

 

 

それでマスル・ショールズでのアルバム制作が頓挫してしまい、アルバム・タイトル曲一つだけが完成した状態で、アリーサはマスル・ショールズを離れニュー・ヨークへ、しかもフェイムのスタジオ・ミュージシャンも引連れて戻り、ニュー・ヨークで録音・完成させたのがアルバム『貴方だけを愛して』だ。

 

 

そしてそのアルバム以後のアトランティック時代にアリーサは完全に「ソウルの女王」になり、この称号に誰一人として疑問を抱くことのできない大活躍をしているのは、ソウル素人の僕なんかよりもみなさんの方がよくご存知のはず。しかしですね、この「ソウルの女王」とは最初アリーサのものじゃなかったんだよね。

 

 

「ソウルの女王」。これは元々チェスのレナード・チェスがエタ・ジェイムズのために考案した呼名。レナード・チェスがプロデュースしたエタの1965年アーゴ盤のタイトルが『Queen of Soul』だったのだ。今では忘れられているかもしれないなあ。あのアーゴ盤がソウル・アルバムと呼べるかどうかは、まあいいじゃないか。

 

 

エタ・ジェイムズはソウル歌手じゃないだろう、ブルーズ歌手、あるいはリズム&ブルーズ歌手だろうとかいろいろと意見があるだろう。僕はソウル歌手として評価してもいいんじゃないか、そう捉えてもかなりいい歌手じゃないかと思うのだ。そう思う典型的一枚が『テル・ママ』という1968年盤だ。

 

 

エタの『テル・ママ』は1967年にこれまたマスル・ショールズのフェイム・スタジオで録音されている。ってことはこっちこそがソウルの女王であるアリーサの『貴方だけを愛して』と録音年もスタジオも同じだ。といってもアリーサの方は前述のような事情で結局ニュー・ヨークになったけれど。

 

 

でもまあアリーサのそれも当初の目論見はマスル・ショールズのフェイム・スタジオでということだったから一応並べてみると、同じ1967年、同じマスル・ショールズのフェイム録音ということなら、僕はどっちかというとエタの『テル・ママ』の方が好みだ。これだから僕はソウル素人だよなあ。

 

 

お前がエタのその『テル・ママ』が好きだっていうのはあれだろう、二曲目にサザン・ソウル・スタンダードの「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」があって、これがお前の大の愛好曲だからじゃないのかと言われそうだけど、ちょっと違うんだよね。僕はあのエタの初演ヴァージョンへの思い入れは薄い。

 

 

何度も繰り返すが僕にとっては「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」は、間違いなくスペンサー・ウィギンズの歌だということになっている。あれも1970年のフェイム録音だなあ。エタの『テル・ママ』が大好きというのはその曲がある、しかもオリジナル・ヴァージョンだという理由からではないんだよね。

 

 

1967年録音68年発売のエタの『テル・ママ』を知ったのはこれまたCDリイシューされてから。僕が今でも持っている最初に買ったものは1987年発売の米MCA盤。これはアナログ盤と同じ全12曲。エタの名前は前々から知ってはいて、特に1964年の『ロックス・ザ・ハウス』は好きだった。

 

 

『ロックス・ザ・ハウス』はライヴ・アルバム。これも良かったし、その他いくつか聴いていたけれど、1987年のリイシューCDで『テル・ママ』を聴いたら、断然エタはこのアルバムの人だというイメージになったんだよね、僕にとっては。でもこれ、熱心な黒人音楽ファンは異論があるらしい。

 

 

『テル・ママ』はエタの本領を発揮したものではないという意見になるんだそうだ。そうなのか…。でも僕がこのアルバムにぞっこんだという事実というか気持は変えられない。『テル・ママ』のどこがそんなに好きかって、それはリズム・セクションだ。1967年当時のフェイムのミュージシャンたち。

 

 

まず一曲目のアルバム・タイトル・ナンバー「テル・ママ」からトップ・ギアで疾走していていいじゃん。いきなり連打のスネアの音が気持良い。その後リズムとホーン・セクションも出てエタが歌いはじめるけれど、Aメロじゃなくてなんだか突然サビからはじまっているような感じだよね。それもいいんじゃないだろうか。

 

 

 

他の曲でもそうだけど、あの「テル・ママ」でもリズム・セクションが本当にいいよなあ。このカッコいいベースは誰なんだ?と思って見てみたらデイヴィッド・フッド。この人や他の人も全員、1987年の米MCA盤附属の紙に書いてあるのでそれで初めて知ったフェイムのミュージシャンたちだった。

 

 

『テル・ママ』には七曲目にオーティス・レディングの「セキュリティ」がある。この曲はいろんなソウル歌手が歌っているよね。『テル・ママ』のエタ・ヴァージョンもいいよ。九曲目は「私の姑」(と訳すとあれだけど「My Mother-In-Law」だから)。姑のせいで私は気分が悪いのよとかいう普遍的内容(笑)。

 

 

 

 

『テル・ママ』にはドン・コヴェイの曲も二つある。三曲目の「ワッチ・ドッグ」と五曲目の「アイム・ゴナ・テイク・ワット・ヒーズ・ガット」。ドン・コヴェイで思い出すのは渋谷陽一。僕が20代前半頃だったかなあ、深夜のFM番組で渋谷陽一は忌野清志郎を呼びいろんなレコードをかけて話をしたことがあった。

 

 

その時ドン・コヴェイの曲が(なんだったかは忘れた)かかったのだが、渋谷陽一は「ドン・コヴェイって知らない名前ですね、誰ですか?」と言い放ってしまったのだ。すかさず清志郎が「ローリング・ストーンズなんかもやってますよ」と助け船を出したのだが、渋谷陽一はそれすらも知らなかったという。

 

 

あれで音楽評論家として物書いたりしてお金もらっているとはなあ、知っているのはレッド・ツェッペリンだけなのか?と呆れちゃったのだが、まあ渋谷陽一の悪口は言いはじめるとキリがないので。それにしてもツェッペリンの日本盤レコードを買うと、ライナーノーツを書いているのがことごとく全部渋谷陽一だったよなあ。

 

 

エタの『テル・ママ』。アナログ盤と僕が1987年に最初に買ったリイシューCDではラストである「ジャスト・ア・リトル・ビット」。これはエレベがもんのすごくカッコイイ。ファンキーきわまりないラインを弾いているなあ。フェンダー・ローズのサウンドもいい。この曲がアルバム中一番リズムがカッコイイかも。

 

 

 

エタの『テル・ママ』は米MCAが2001年に『テル・ママ:ザ・コンプリート・マスル・ショールズ・セッションズ』として大幅に曲目も追加し、音もリマスターしてリイシューしている。僕は迷わず即買い。これは本当に素晴らしい一枚だから、これからお買いになる方には是非これをオススメしたい。

 

 

2001年に『テル・ママ:ザ・コンプリート・マスル・ショールズ・セッションズ』で追加されたのは9曲10トラック。それらも全てアルバム・タイトル通りマスル・ショールズのフェイム・スタジオでの録音で、なかに1967年のではなく翌68年録音のものもあるけれど、サウンドには統一感がある。

 

 

それら追加曲の方も、というか実はそれらの方が面白いという面もある。それら全10トラックのなかでフェイムと黒人音楽ファンに一番有名なのは間違いなく「ドゥー・ライト・ウーマン、ドゥー・ライト・マン」だね。チップス・モーマン&ダン・ペンが書いてアリーサ・フランクリンが歌っているからだ。

 

 

アリーサの歌う「ドゥー・ライト・ウーマン、ドゥー・ライト・マン」は前述のご存知アルバム『貴方だけを愛して』に収録されている有名曲だ。アリーサの録音は1967年の1月。エタのそれは同年11月となっている。アリーサの方はベーシック・トラックだけマスル・ショールズで完成していたという説もある。

 

 

エタの歌う「ドゥー・ライト・ウーマン、ドゥー・ライト・マン」は『テル・ママ:ザ・コンプリート・マスル・ショールズ・セッションズ』に2ヴァージョン収録されていて、どちらも甲乙つけがたいし、アリーサのと比べても劣らない聴き応えのあるヴォーカルなんだよね。マスター・テイクの方はフルートの入る伴奏もいいなあ。

 

 

 

また『テル・ママ:ザ・コンプリート・マスル・ショールズ・セッションズ』にはジャズしか聴かないファンだって知っているはずの曲がある。「ミスティ」だ。そう、エロル・ガーナーで有名なあれ。エタ・ヴァージョンも最初ジャズ・バラード風に出て、途中で指を鳴らす音をきっかけに6/8拍子のソウル調になる。

 

 

 

そしてエタのこの「ミスティ」では、終盤「レイ・チャールズみたいにやるわよ」と言って声を低くして、確かにレイっぽい感じになったかと思うと、リズムの感じもパッと変わって、レイがよくやるあの終盤でスローになるアレンジでやっているという面白さ。いやあ、ホント楽しいアルバムだなあ。

2016/10/18

1920年代のパンク・ロッカー〜ハーフ・パイント・ジャクスン

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音楽はオフザケなんかじゃないんだ、マジメなものだ「アート」なんだという考えのリスナーなら絶対に聴くことはありえない代表格がハーフ・パイント・ジャクスン。ハーフ・パイントはあだ名から来たステージ・ネームで、本名はフランキー・ジャクスンという黒人だ。

 

 

ハーフ・パイントってのは要するにチビってことで、フランキー・ジャクスンの身長は実際156センチほどしかなかったらしい。それでこの芸名になったわけだけど、この人はレコードやラジオなどの音声メディアが誕生する前、少なくとも本格化する前の時代の音楽(を含む)エンターテイメントを象徴する最後の人かもしれない。

 

 

そして、そんな時代の音楽を中心とするエンターテイメントの姿を録音物に残した数少ない人物だったかも。音楽を中心とするというのは、僕らの世代の人間にとっては残された録音物でしかどんな芸風だったかを確認しようがないからそう言うだけで、実態はシンガーともちょっと違うようだ。

 

 

ハーフ・パイント・ジャクソンについての Wikipedia を読むと、1920〜30年代に活動したヴォードヴィル・シンガー、ステージ・デザイナー、コメディアンとまず最初に書いてあるが、記事本編に “female impersonator” という言葉もある。これはどうにも日本語に訳しにくいもの。

 

 

Female impersonator を邦訳しにくいのは、これは今でいうドラァグ・クイーン(drag queen)に近いものからだ。ハーフ・パイントの場合、女装したかどうかは僕は知らないというかそんな写真などを見たことがないけれど(でもまあやっていただろう、録音物で聴く芸風から判断して)、少なくとも女性の声色を使って歌ったというか演じた。

 

 

ハーフ・パイント・ジャクスンにこういう「フィーメイル・インパースネイター」を含む種々の呼び方をしているのは、実はオーストリアの復刻専門レーベル Document がCD三枚でこの人の録音集をリリースしている、そのライナーノーツに書いてあるものだ。書いているのはジム・プロハスカ。Wikipediaもそこから取ったに違いない。

 

 

そのドキュメント・レーベルが出したCD三枚というのがハーフ・パイント・ジャクスンの録音集では最高のもの。これ以上の規模のものは本国アメリカにないばかりか全世界にも一つもない。この人の録音はデッカ傘下時代のヴォキャリオンとブランズウィックと本家デッカにあって、CD三枚で全部のはず。

 

 

本家デッカはどうしてちゃんと全集にしてリリースしないんだ?こういう件に関しては僕がいつもいつも怒っているように、本国のアメリカ人(といってもデッカは元は英国の会社だが)はなにをやっているんだ?自国の音楽遺産なんだからちゃんとやれよ。まあハーフ・パイント・ジャクスンの場合は音楽遺産とだけも言い切れない芸人だけど。

 

 

ハーフ・パイント・ジャクスンの日本での初お目見えは中村とうようさん編纂のLP三枚組『ブラック・ミュージックの歴史』だった。1983年リリースで、よほどの好事家でない限り日本人で普通の音楽ファンがハーフ・パイント・ジャクスンという人がいるんだということ自体を知った最初だったはず。

 

 

僕はごくごく普通のそこらへんに転がっているいち音楽ファンに過ぎないので、当然その1983年の『ブラック・ミュージックの歴史』でハーフ・パイント・ジャクスンという人物を知り初めて録音を聴いた。その後この人の音源集みたいなものはなかなか出ず、CD時代になってようやく前述のオーストリアのドキュメント盤でたくさん聴いた。

 

 

そのドキュメント盤CD三枚で充分なわけだけど、日本ではこれまた中村とうようさんが編纂のMCAジェムズ・シリーズの一つ『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』という単独盤CDがリリースされている。それは1999年のことで、日本盤はいまだにこれ一枚しかない。

 

 

いや、日本だけじゃない。本国アメリカにはハーフ・パイント・ジャクスンの単独盤は全く存在しないはず(なにかのアンソロジーみたいなものには収録されている場合はあるようだ)。ってことは2016年の全世界において、このエンターテイナーのCDはドキュメントのと中村とうようさんのとの二種類しかない。

 

 

この冷遇具合はどうだ?まあでもしょうがないんだよね。最初に書いたようにハーフ・パイント・ジャクスンはおふざけエンターテイメントの極致みたいな人で、総合パフォーマーだから音楽家などとも呼びにくく(あの時代に録画技術があったらなあ)、仮に音楽家としてみたところで「マジメ芸術」のおよそ対極に位置するシンガーだからだ。

 

 

それで今日はちょっとこのハーフ・パイント・ジャクスンのことを書いてみたいのだが、いろんな意味でとうようさん編纂の『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』が最も優れたこの人の単独盤CDなので、ドキュメント・レーベルの三枚ではなく、これに沿って話を進めたい。

 

 

『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』が最も優れているというのは、音源の数自体は当然三枚であるドキュメント盤の方が充実しているわけだけど、前者とうようさん編纂のには実に詳しい解説が載ったブックレットが附属している。このエンターテイナーに関する日本語文章ではこれが最も優れているものだ。

 

 

『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』附属ブックレットでは、とうようさんが一曲ごとの解説だけでなく、その前にかなり詳しくこのエンターテイナーの略歴や芸風の解説を書いている。日本語で読めるハーフ・パイント・ジャクスン関連の文章は、これ以外にあるのかなあ。

 

 

だからもし今日の僕のこの文章を読んでハーフ・パイント・ジャクスンに興味を持つ人が百人に一人でもいらっしゃれば、是非『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』を買っていただきたい。ジャズだとかブルーズだとか、明確な分野が確立する前の黒人芸能の姿がよく分る一枚なのだ。

 

 

さて『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』収録音源は、最も早い録音が1928年で最後の録音が1940年とかなり遅い。遅いというかこの時代のエンターテイナー(音楽家とは言わないでおこう)としてはかなり新しい部類に入る。1910年前後には活躍していた人だから。

 

 

アメリカにおける商業録音はご存知の通り1910年代に入って本格化し、どんどん録音されたくさんレコードが発売されている。LPやCDでリイシューされているものも多い。だからその時期に既に活躍中だったハーフ・パイント・ジャクスンの録音が1928年まで存在しないってのは不思議だ。

 

 

ハーフ・パイント・ジャクスンは1917年頃には全米各地で定期的に歌唱活動、というよりステージ活動を活発化させていて、その頃はベシー・スミスやエセル・ウォーターズといった今でも有名なスーパースター歌手たちとステージを分け合うようになっていたらしい。その時期の録音が残っていればなあ。

 

 

まあないものはしょうがない。とうようさん編纂の『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』の1928〜40年録音を聴くと、この人は1920〜40年代の黒人音楽としてはジャズとしてもブルーズとしても本道から相当に逸れていて、こりゃいったいなんなんだ?というキワモノなんだよなあ。

 

 

戦前のアメリカ音楽のなかには、ジャズでありながら、そのメインストリームから横道に逸れたジャイヴやジャンプがある。しかしあれらはブルーズとして聴くとかなり分りやすいものだから、日本にもファンは多いはず。だがハーフ・パイント・ジャクスンの猥雑さはブルーズでもないようなもので、まあロックとでも呼ぶしかないようなものだ。

 

 

そんな時代にロックなんてあったのか?!などと思われるかもしれないが、いろいろとあるんだよね。ルーツだとか源流みたいなものばかりでなく、音楽的な意味で、つまりビート感やクロマティックなスケールや歌詞内容などなど実際の音の使い方でロックそのものだみたいなものがあるんだよね。

 

 

ハーフ・パイント・ジャクスンがロックだと言った場合、ご存知の方が真っ先に思い浮かべるのは、間違いなく「イッツ・タイト・ライク・ザット」だね。タンパ・レッズ・ホウカム・ジャグ・バンド名義の1928年録音。これはひょっとしたらアメリカ録音史上初のロックンロール録音かもしれないんだぞ。

 

 

 

どうです?このパワー!この「イッツ・タイト・ライク・ザット」はタンパ・レッドとジョージア・トムによるヴォキャリオン録音がオリジナル(1928/10/24)だけど、その一ヶ月後のハーフ・パイント・ジャクスンが歌うこっちの方がはるかに凄いよなあ。

 

 

この「イッツ・タイト・ライク・ザット」におけるハーフ・パイント・ジャクソンのヴォーカルの、そのハチャメチャなパワーの暴発ぶりは、ロックンロールを超えて元祖パンク・ロッカーだと呼びたいくらいのものだ。アメリカの戦前音楽で敢えて探せばジャイヴ・ミュージックに近い。

 

 

サッチモことルイ・アームストロングの1928年録音に「タイト・ライク・ディス」というのがある。28年のサッチモは全録音が昔からアナログ盤で出いたので僕も聴いていた。この曲名も同じことでセックスへの言及。あのなかではドン・レッドマンが女性の声色を使って、男声のサッチモと卑猥なやり取りを繰り広げる。

 

 

というわけだから3コーラスにわたるサッチモのコルネット・ソロが絶品であるにもかかわらず、英語を理解するピュア・ジャズ・リスナーにはあの「タイト・ライク・ディス」はイマイチな評判なんだよね。ドン・レッドマンはこれ以前のフレッチャー・ヘンダースン楽団在籍時代にも女性の声色で卑猥なこと言っている録音が複数ある。

 

 

ドン・レッドマンは、1920年代前半にフレッチャー・ヘンダースン楽団でジャズ史上初のホットにスウィングするアレンジメントを開発した人物だから、ジャズ史における最重要人物の一人だけど、同時にジャズ界では最も知られた「フィーメイル・インパースネイター」でもあるんだよね。

 

 

ちょっと話が逸れた。一般的な知名度はゼロに等しいハーフ・パイント・ジャクスンだけど、それでも間違いなく最も有名なのが、先に音源を貼ったタンパ・レッズ・ホウカム・ジャグ・バンド名義の「イッツ・タイト・ライク・ザット」だ。しかしながらこれは中村とうようさん編纂の単独盤『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』には収録されていない。

 

 

その「イッツ・タイト・ライク・ザット」がどうして『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』に収録されていないのかというと、同じ中村とうようさん編纂のMCAジェムズ・シリーズの一枚『ロックへの道』に収録されているからだ。同じシリーズなので重複を避けるためだ。僕はちょっと残念なんだなあ。

 

 

あのMCAジェムズ・シリーズでは、ハーフ・パイント・ジャクスンだけじゃなく他にもこういうケースが複数ある。僕を含めシリーズ全て出たら即買いだった人間は問題ないけれど、興味のあるものだけ買っていくような人はちょっと注意しないと、最重要録音が漏れている場合があるんだよね。

 

 

さて『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』には猥雑なものが相当たくさんある。猥雑というのはまだ上品な表現であって、ハーフ・パイント・ジャクスンのヴォーカルは要はストレートにセックスを歌っていて、こんなものがよくレコードで発売できたもんだというようなものも多い。

 

 

一番有名な「イッツ・タイト・ライク・ザット」というこの曲名だってセックスに言及している表現だ。読みかじった情報ではハーフ・パイント・ジャクスンの場合、録音はされたがあまりにひどいというので発売されなかったものが実際にまあまああるらしい。CDを聴いたらそれも納得なのだ。

 

 

『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』にある曲名だって、五曲目の「ロック・ミー・ママ」とか九曲目の「ショ・イズ・ホット」とか11曲目の「マイ・ダディ・ロックス・ミー」とか、その他何曲もそのまんまなんてものも多い。11曲目の「マイ・ダディ・ロックス・ミー」なんか女性の声色で歌っているしなあ。

 

 

しかも「マイ・ダディ・ロックス・ミー」では女性の声色で歌うだけでなくよがり声まで入れていて、歌になってもそんな声に近いような歌い方で、そのなかに「ジェリー・ロール」なんていうそのまんまセックスを表現するような言葉も出てくる。あのジャズ初期の巨人ジェリー・ロール・モートンのこの芸名もそこから来ている。

 

 

そんななかでジャズ・ファンにはこれが一番聴きやすいであろうものが15曲目の「ユー・ラスカル・ユー」。この曲名だけで古典ジャズ・ファンなら全員お分かりだろう。そう、ルイ・アームストロングの得意レパートリーの一つだった。「お前が死んでくれて嬉しいよ、このクソ野郎」っていう当て付けソング。

 

 

サッチモは「ユー・ラスカル・ユー」を何度も繰り返し録音しているが、最も早いものは1931年のオーケー録音で、同年にキャブ・キャロウェイ楽団も録音している。『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』収録のは1930年録音だから、彼らジャズ・メンよりちょっとだけ早い。

 

 

また『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』を聴いていると、多くの曲でバンジョーとフィドルが同時に鳴っているが、これは要するにアフリカとヨーロッパの合体なんだよね。アフリカからの奴隷ルーツの黒人音楽要素(バンジョー)と、ヨーロッパ、ことにアイルランド移民ルーツの白人音楽要素(フィドル)の融合。

 

 

19世紀末〜20世紀頭というまだ商業録音がはじまっていない時代のヴォードヴィル・ショウでは、こんな具合にアフリカ由来の黒人音楽とヨーロッパ(アイルランド)由来の白人音楽が、既に渾然一体となって溶けこんでいたんだろうなあって容易に想像がつくものなんだよね。

 

 

『黒人ヴォードヴィルの王者〜ハーフ・パイント・ジャクスン』。ジャズ的視点からは20曲目から22曲目までの三曲が最も面白いというか、普通一般の古典ジャズ・ファンでも好きになりそうなものだ。なぜかというと、バーニー・ビガード、リル・アームストロング、シドニー・カトレット、ウェルマン・ブロウドらが演奏しているからだ。

 

 

この人たち全員担当楽器名を書いておく必要なんかない超有名人だ。それら1939年録音の三曲では演奏も相当にジャジー、というかピュア・ジャズそのものだとも言えるので、普通のジャズ・ファンは好きになるだろうけど、ハーフ・パイント・ジャクスンの録音としてはパンクさも猥雑さも薄いので今日は省略する。

2016/10/17

ロス・ロボスのプログレ(?)・アルバム

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イースト・ロス・アンジェルス出身のチカーノ・ロック・バンド、ロス・ロボス。このバンドの結成は1973年らしいがレコード・デビューは76年。しかししばらくの間一般的な人気はほぼゼロで、彼らが一躍ブレイクしたのはご存知87年の映画『ラ・バンバ』のサウンドトラックをやってからのことだった。これはみんな知っているよね。

 

 

すなわち同じチカーノのロックンロール・スターで、飛行機事故に遭ってわずか17歳で死んでしまったリッチー・ヴァレンスを描いた伝記映画『ラ・バンバ』のことだ。これの音楽をロス・ロボスがやり、「ラ・バンバ」もカヴァーした。「ラ・バンバ」はヴァレンスの代表曲。彼はアメリカ合衆国においてスペイン語で歌うロック・スターのパイオニアだった。

 

 

あの1959年の飛行機事故ではリッチー・ヴァレンスだけでなく、同乗していた同じく人気ロックンローラーのバディ・ホリーも亡くなった。ヴァレンスが1950年代後半にスペイン語で歌ったのが大ヒットしたということは、その頃既にアメリカにおけるスペイン系の地位が向上していたということかなあ。

 

 

そのあたりの社会状況はよく調べてみないとなんとも言えないけれど、ともかくある時期以後のアメリカ合衆国ではスペイン(ヒスパニック)系住人とスペイン語が大幅に浸透・拡大し、以前も一度書いたけれど現在の同国におけるスペイン語は、もはや英語に次ぐ第二の公用語と言って差支えないほど。

 

 

「ある時期以後の」と書いたけれど、アメリカ合衆国の成立ちを考えたらある時期以後ではなく、もともと最初からヒスパニック国家だと言っていいような国なんだから(スペイン統治時代や米墨戦争のことをご存知ない方は是非ネットで調べてほしい、すぐに分ります)、ある時期以後なんてことではないんだろう。

 

 

そんな国なわけなので、政治的・社会的支配層はやはり今でもアングロ・サクソン系白人が中心であるとはいえ(しかしオバーマ大統領はアフリカ系だ)音楽を含めた文化面ではスペイン語やスペイン文化が非常に影響力を持っているのは当然の話だ。リッチー・ヴァレンスはその最初の大スターだった。

 

 

つまりリッチー・ヴァレンスは、同じチカーノのロッカーでスペイン語で(も)歌うロス・ロボスの大先輩にあたる。だから1987年の伝記映画『ラ・バンバ』で起用された時は彼らも内心嬉しかったはずだし、実際あれで代表曲「ラ・バンバ」をカヴァーしたのがロス・ロボスが大ブレイクしたきっかけだったわけだしね。

 

 

ロス・ロボスはデビュー当時からラテン色と同時にブルーズ(・ロック)色もかなり濃いバンド。実質的なメジャー・デビュー・アルバムと言っていい1984年の『ハウ・ウィル・ザ・ウルフ・サーヴァイヴ?』も両者が渾然一体となっている。このアルバムは人気はないかもしれないが、必聴のかなり面白い作品だよ。

 

 

しかし人気が出たのが1987年なわけなので、一般的にはやはり90年代以後のロス・ロボスが非常によく知られているはず。そんな90年代の彼らの最高傑作は、僕の考えでは96年の『コロッサル・ヘッド』だ。専門家や玄人筋からの評価は著しく高い一枚だが、しかし売れなかったらしいよね。

 

 

『コロッサル・ヘッド』みたいな最高に面白い音楽がどうして売れず、それまでロス・ロボスのアルバムをリリースしていたワーナー・レーベルもこれを最後に契約を打切ってしまったのか僕には不可解なのだが、しかし今になって中身を聴き返すと、それも納得できないわけではない。

 

 

どういうことかと言うと、『コロッサル・ヘッド』はいわば実験作みたいなサウンドで、かなり前衛的、という言葉が僕はあまり好きじゃないので先端的とでも言換えようか、従来のラテン+ブルーズ・ロック的な音楽ではないからだ。だからここまでロス・ロボスを応援していたファンも面食らったはず。

 

 

『コロッサル・ヘッド』ではミッチェル・フルームとチャド・ブレイクをプロデューサーに起用しているのも1990年代後半の同時代的先進性のある実験的な音楽になっている一つの要因だ。しかしこのプロデューサーたち、特にミッチェル・フルームがロス・ロボスと組むのはこれが初めてではない。

 

 

1992年の『キコ』。あれのプロデューサーがミッチェル・フルームだ。あのあたりからロス・ロボスのサウンドがちょっと変りはじめている。そしてより本格的には1994年のラテン・プレイボーイズの一作目『ラテン・プレイボーイズ』でミッチェル・フルーム&チャド・ブレイクをコンビで起用。

 

 

ラテン・プレイボーイズは、ロス・ロボスのデイヴィッド・イダルゴとルイ・ペレス二人に、前述二人のプロデューサー・コンビが合体したユニット。元はイダルゴがロス・ロボス用にと宅録で創っていたカセットテープに端を発し、それを聴いたフルームが、これは面白すぎるから別に出すべきと提案したらしい。

 

 

それでルイ・ペレスとチャド・ブレイクを加えラテン・プレイボーイズのプロジェクトが起動して、1994年の『ラテン・プレイボーイズ』というアルバムに結実した。あの作品、松山晋也さんなら絶対に「プログレだ!」と言うね(笑)。僕がカッコイイものをなんでもかんでも「ブルーズだ!」と言ってしまうのと似ているかも。

 

 

その『ラテン・プレイボーイズ』が最も直接的な『コロッサル・ヘッド』の発端と見て間違いないだろう。だって音の質感が非常によく似ている。特にロー・ファイ的なグシャッと潰れたようなサウンドがね。あの時代にはハイテクを使ってわざとロー・ファイ・サウンドにしたようなものがたくさんあったよなあ。

 

 

そもそも『コロッサル・ヘッド』一曲目の「レヴォルーション」。あれの冒頭から鳴っているドラムスのサウンドはなんだありゃ?ヘンな音だよなあ。現場の生のドラムスの音ではなく、スネアもシンバルも音を加工してあってカンカン・バシャバシャといったヘンテコな音で鳴っている。わざとなんだよね。

 

 

 

『コロッサル・ヘッド』全編を通しドラムスの音は全部そうで、かなり妙ちくりんな音で鳴っている。叩いているのはルイ・ペレスだろうけど、これは了解済のポスト・プロダクションだった。一番ヘンなのがドラムスの音だけど、ヴォーカルも一部加工処理してあるし、他の楽器の音もやはりちょっと妙だ。

 

 

ところで『コロッサル・ヘッド』二曲目の「マス・イ・マス」は<ラロ・ゲレーロに捧ぐ>とのクレジットがある。ラロ・ゲレーロは有名なメキシコ系アメリカ人の歌手兼ギタリスト。多くのラテン系アメリカ人音楽家に影響を与え、ロス・ロボスとも1990年代半ばに共演歴があるのはご存知の通り。

 

 

しかし「マス・イ・マス」はラロ・ゲレーロに捧げられたこういうスペイン語の曲名であるにも関わらず、歌詞は英語を中心に歌っているよね。だから “Mas Y Mas” もまるで「マーシー、マーシー」と言っているように僕には聞える。これはちょっと面白い。わざとじゃないかなあ、トリビュート曲だから。

 

 

 

といっても追悼曲ではない。ラロ・ゲレーロが亡くなったのは2005年。だから「マス・イ・マス」は彼へのリスペクトを表現した曲なんだよね。歌詞は英語だが曲調がラテンだしね。デイヴィッド・イダルゴがファズの効いた音でエレキ・ギターのソロを弾いていて、それもなかなかの聴き物だ。

 

 

『コロッサル・ヘッド』で最もはっきりとラテン・ロックだと言えるのは三曲目の「マリセラ」だ。はっきり言うとアルバム中これだけだと言っても過言ではないくらい。この曲はラテン・「ロック」ですらなく、純然たるラテン歌謡だというのに近いフィーリング。アコーディオンもいい感じで鳴っている。なぜか YouTube にないので代わりにこのライヴ・ヴァージョンを。

 

 

 

オリジナル・スタジオ・ヴァージョンのアコーディオンはデイヴッド・イダルゴが弾いているみたいだ。そして『コロッサル・ヘッド』のなかで一曲全部スペイン語で歌っているのはその「マリセラ」だけ。これはロス・ロボスみたいな音楽家にしてはやや珍しいんじゃないかなあ。だいたいのアルバムでスペイン語曲が複数あるもんね。

 

 

スペイン語で歌うラテン歌謡みたいなのが三曲目の「マリセラ」だけという『コロッサル・ヘッド』は、それもあって人気がなく売れなかったのかもしれない。これ以外の多くの曲は、書いたよういろんな楽器の音、なかでも特にドラムスの音がグシャッと潰れたロー・ファイで、曲調もオルタナーティヴ・ロックみたいだ。

 

 

1990年代後半のオルターナティヴ・ロック風サウンドで、しかも曲によってはリズムの感じがヒップホップに近いようなものがあり(五曲目「キャント・ストップ・ザ・レイン」、六曲目「ライフ・イズ・グッド」)、またこれもラテン・プレイボーイズ由来なエキゾチック路線の七曲目「リトル・ジャパン」など。

 

 

こんなのばっかり並んでいるわけだから『コロッサル・ヘッド』を専門家は激賞し、僕を含む一部ファンも熱狂的に支持するものの、それまでロス・ロボスを聴いてきたファンには人気がなく売れなかったというのも、当時は僕もこんな面白いものがどうして?と憤っていたんだけど、今では当然だったようにも思う。

 

 

そんな『コロッサル・ヘッド』だけど、一曲だけある従来からの路線を継承したラテン歌謡「マリセラ」以外にも、トラディショナルなブルーズ・ロック風なものはある。八曲目「マニーズ・ボーンズ」や十曲目「ディス・バーズ・ゴナ・フライ」などがそう。そしてそれが最もはっきりしている曲が一つある。

 

 

アルバム・ラストの「バディ・エブセン・ラヴズ・ディス・ナイト・タイム」だ。これはデイヴィッド・イダルゴがファズを効かせて弾きまくるだけというブルーズ・ロック・ギター・インストルメンタル。これはいいなあ。やっぱり僕はブルーズ好きなんだよなあ。しかしこの曲はたったの三分もない。

 

 

 

かなりカッコいいブルーズ・ギター・ソロなもんだから、三分もない「バディ・エブセン・ラヴズ・ディス・ナイト・タイム」はあっと言う間に終ってしまい、しかもエンディングはちゃんと終らず、なんだか演奏の途中でプツッと切れてしまうような(実際そうしているんじゃないの?)終り方なんだよなあ。

 

 

ブルーズ(やファンク)ってのは起伏の小さいのを延々と続ける<継続性>が気持良いような音楽なのに、「バディ・エブセン・ラヴズ・ディス・ナイト・タイム」はたったの三分未満で、しかも演奏の途中でプツッと中断して終るという、これはなんだかイかないままの変態プレイをされているような気分なんだよなあ。

 

 

しかも「バディ・エブセン・ラヴズ・ディス・ナイト・タイム」におけるデイヴィッド・イダルゴのギターはジミ・ヘンドリクスによく似ている。これは意識しているのが間違いないだろうというようなサウンドと弾き方だ。イイネこれ。しか〜し、この曲でもスネアのサウンドはやはりグシャッと潰れているんだよね。

 

 

そんでもっていつもの僕の路線になっちゃうけれど、そんなわざとドラムスの音を潰してロー・ファイにしたようなもので、僕の知る一番早い例が1982年録音翌83年リリースのマイルス・デイヴィス『スター・ピーピル』B面トップのタイトル曲だ。

 

 

 

この長尺ブルーズ「スター・ピープル」で聴けるアル・フォスターが叩くシンバルもスネアも、まるでドラム缶でも叩いているかのようなグシャっと潰れたようなサウンド加工が施されている。もちろん録音後のテオ・マセロによる作業だ。マイルス本人には大変評判が悪かったのだが、その後の今日書いたようなロス・ロボスみたいなのを考えると、時代を先取りしていたのかもね。

2016/10/16

ソウル・ミュージックとしての「黒と茶の幻想」〜『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』をオススメする理由

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生涯を通じ一貫して高いレヴェルの創造力を維持し続けたデューク・エリントンだから、どこから入門してもいいような気がするけれど、個人的にはやはり1920年代後半〜40年代初頭までの録音に比肩しうるジャズ作品は、エリントン以外はもちろんエリントン本人にとっても存在しないだろうと確信している。

 

 

なぜかと言うと戦前録音のエリントンはネグリチュードの塊のような音楽であって、西洋クラシック音楽、特に印象派からの強い影響もありながら、それをアメリカ黒人としての自分のアイデンティティと上手く合体させ、さらにブルーズ形式の楽曲も多く、真っ黒けで濃厚なサウンドを生み出していたからだ。

 

 

その典型的表現がジャングル・サウンドで、それは単にワー・ワー・ミュートを付けた金管群のエキゾチックなグロウルだけのことを指すのでなく、ソニー・グリーアのドラミングにはっきり表れているように、まるでとりもちを敷詰めた部屋の中を歩くかのような粘り気の強いグルーヴ感をも含んでのことだ。

 

 

しかしながらやはり録音状態が戦前のSP時代はちょっとなあというファンは多いはず。現にそうおっしゃる方々に僕も大勢出会ってきた。だから今日は戦後録音、それもステレオ録音の状態の良い音でエリントン楽団の面白さが分りやすい一枚をオススメしておきたいと思う。まあいっぱいあるんだけどね。

 

 

僕が今日オススメするのは『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』。1966年録音で翌67年にリリースされた RCA 盤だ。これを推薦するのは単に録音がいいからだけではない。それだけなら僕は全く音楽的推薦物としては考えない。オススメする理由が他にいくつもあるが、大きく分けて二つ。

 

 

一つは選曲の良さだ。『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』のタイトルでご存知ない方もおおよそ想像がつくように、このレコードは戦前からのエリントンの人気のある(ポピュラーな)代表曲ばかりを選んで再演しているもので、だからこれでエリントンのマスターピースがまあまあ聴けてしまうのだ。

 

 

もちろんエリントンが1966年までに書いた優れた楽曲は相当に数が多いので、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』収録の全11曲なんて数は氷山の一角に過ぎない。がしかしそれを言いだしたらキリのない音楽家だからね。音楽的に優れていて人気もあるものをかなり絞っている一枚だ。

 

 

全11曲のうち実は一つだけ新曲がある。B面一曲目の「ザ・トゥウィッチ」だ。これは録音時の1966年5月に新たに書下ろした作品で、12小節のいわゆるブルーズ形式。しかもビートはシャッフル。この一曲だけを除き『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』は全て過去の有名曲の再演。

 

 

『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』をオススメするもう一つの理由。それはそんな全10曲にわたる過去の有名代表作を採り上げて再演しながらも、それは単なる「過去の再現」ではなく、1966年という時代に即した新解釈で演奏されていることだ。この1966年という時代の持つ意味は重要だ。

 

 

なぜかと言えば1966年は公民権運動の余韻があった時期。60年代に入ってからはアメリカ社会において黒人たちが人種意識を強く持ち、差別・抑圧からの解放、権利拡大というか平等化を叫びながら運動していた。それは単に黒人に限らず、自由・平等を掲げる白人たちのなかにも共感する人が大勢いて一緒に活動していたよね。ノーベル文学賞受賞が決まったばかりのボブ・ディランもそうだ。

 

 

公民権法(Civil Rights Act)が制定されたのが1964年7月2日。これをもって法律的には人種差別が終りを告げたということになっている。もちろんあくまで法の上だけの話であって、アメリカ社会における黒人差別(あるいは21世紀の現在ならムスリム差別も)はそんな簡単には解消するわけもない。

 

 

デューク・エリントンは言うまでもなくアメリカ黒人。自身の楽団員も黒人が圧倒的に多かった。しかも彼は戦前から「私の音楽をジャズと呼ばないでほしい、ブラック・ミュージックと呼んでほしい」とたびたび発言するような人だった。その黒人性を前面に打出した音楽要素は、録音物を聴けば瞭然としている。

 

 

そもそもエリントン楽団初期における最大の代表曲は1927年4月のブランズウィック録音が初演の「黒と茶の幻想」(Black and Tan Fantasy)だ。この曲名にある「黒」はもちろんアメリカ黒人、「茶」は混血を意味している。そしてそれら虐げられる人種的マイノリティの悲哀を表現した曲だ。

 

 

それが証拠に戦前録音での「黒の茶の幻想 」では、いつも常にエンディング部でショパンの「葬送行進曲 ハ短調 作品72」を引用してある。要するにアメリカ社会では黒人や混血はもはや滅び行く運命の人間で、その葬送を見送らんとばかりのアレンジなのだ。1920年代なら当然の解釈だろう。

 

 

そんな音楽家だったエリントンが1960年代の上記のような時代の動きに即応しないわけがない。二年前に公民権法も制定された1966年に20年代の過去の楽曲を再演するにあたっても、録音当時のそんな黒人人権意識高揚を反映したような再解釈・リアレンジを施してあるのは言うまでもないことなのだ。

 

 

ということは、収録全11曲のうち10曲は1920〜40年代に書いて初演した楽曲であるにもかかわらず、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』は1966年という時代の先端的なサウンドに仕上っているってことなんだなあ。むろん当時勃興していたソウルやファンク・ミュージックなどのような激しい形ではないけれど。

 

 

そんな時代に即応した新解釈の話は後でするとして、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』一曲目はこの楽団のトレード・マークである「A列車で行こう」。これのピアノ・イントロがなかなか面白い。出だしを三拍子でエリントンが弾き、しばらくして通常の四拍子に移行する。

 

 

その三拍子から四拍子に移行する際の切替えの瞬間のスリルとスウィング感がなかなかいいんだよね。さらにいかにもエリントン的な増和音を使った不協和な響きが面白い。ピアノ・イントロの最後でお馴染みのリックを弾くとオーケストラがテーマを演奏。ここからはみなさんよくご存知の展開になっていく。

 

 

「A列車で行こう」で全面的にフィーチャーされているソロイストはクーティ・ウィリアムズ。彼一人が終始トランペットでオーケストラ・サウンドの合間を縫って吹きまくっているが、その音色もフレイジングも見事だ。いやあ、1966年のクーティーってまだこんなに吹けたんだなあ。失礼しました。

 

 

二曲目「アイ・ガット・イット・バッド」ではいつものようにアルト・サックスのジョニー・ホッジズのショウケース。1940年の初演では女性歌手のアイヴィー・アンダースンが歌っていたけれど、その後のインストルメンタル・ヴァージョンでは常にホッジズの艶っぽいアルトをフィーチャーしている。

 

 

一曲一曲全部書いているととんでもなく長くなってしまうので要所だけを。三曲目「パーディド」は割愛して四曲目の「ムード・インディゴ」。エリントンのピアノ・イントロに続き、これぞエリントン・ハーモニーと言われる三管のアンサンブルになる。録音状態が良いのでそれが非常に分りやすい。

 

 

その三管アンサンブルは、いい加減な僕の耳判断では、おそらくバス・クラリネット(ハリー・カーニー)+アルト・サックス(ラッセル・プロコープ)+ミュート・トロンボーン(ローレンス・ブラウン)の三人によって奏でられている。いや、ホントいい加減な耳だからあまり信用しないでほしい。

 

 

その非常に音量の小さいボワ〜ッとした茫洋としてたゆたうような三管アンサンブル部分こそが、戦前から本当に多くのファンを虜にしてきたエリントン独自のサウンド・カラーだ。それにポール・ゴンザルヴェスのテナーが絡み終ると、エリントンのピアノ・ソロを挟み、オーケストラ全体での合奏になる。

 

 

『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』の最大の聴き物はその次のA面ラスト「黒と茶の幻想」に違いない。この一曲こそが、前述の通り1966年という録音当時の時代の動きを反映した、いわば<黒人賛歌>のような新解釈になっているものだ。だから「幻想」(Fantasy)という言葉の意味が逆転しているんだよね。

 

 

上で書いたように「黒と茶の幻想」という曲は、虐げられ滅び行くアメリカ社会での人種的マイノリティの運命・悲哀を表現した曲だった。1927年の初演以後もあらゆる時代を通じスタジオでもライヴでも再演されてきた代表作だが、常にそういう憂鬱そうなサウンドを中心にしたアレンジでやってきた。

 

 

それが『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』収録ヴァージョンの「黒と茶の幻想」では解釈が全く正反対になっているんだよね。それは冒頭のエリントンのピアノ・イントロで既に分る。非常に激しく力強く鍵盤を叩きつけるように弾いていて耳を奪われる。その後出てくるテーマにも哀感は聴き取れない。

 

 

テーマ吹奏が終ってクーティー・ウィリアムズのトランペット・ソロが出るのだが、そのクーティーの吹き方も1929年にエリントン楽団に加入した当時のようなスタイルではない。かなりの力強さと迫力を持った非常にポジティヴな響きなのだ。次のローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロも同じ。

 

 

ワー・ワー・ミュートを付けたトロンボーンを吹くローレンス・ブラウンのソロの背後では、リズム・セクションが三連のストップ・タイムを使っていて、そのリズム・アレンジはエリントンのピアノをメインにしたリフで演奏されている。ブラウンもそれに乗り力強くソロを吹いている。

 

 

そのブラウンのトロンボーン・ソロの背後でのストップ・タイムで入れるエリントンのピアノにもかなりの凄みがあるよなあ。これはもうどこにも「滅び行く悲哀」なんか感じ取れないものだ。『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』ヴァージョンの「黒と茶の幻想」で最も特筆すべきは、さらにその後だ。

 

 

ラッセル・プロコープのクラリネット・ソロも終った演奏最終盤で、再びクーティー・ウィリアムズがリードするアンサンブルになるのだが、クーティーが一区切り吹く度に、ホーン・アンサンブル、そして同時にドラムスも一緒になって大きな音でバンッ!バンッ!と入れているのだが、その圧巻のド迫力の凄みといったらない。

 

 

見事なクライマックスだ。この1966年ヴァージョンの「黒と茶の幻想」における「幻想」とは滅びゆく悲しい運命ではない。我ら黒人ここにあり!と力強く拳を突上げているようなフィーリングなのだ。こういう新解釈・リアレンジは間違いなく1966年という時代をエリントンが意識したものだ。

 

 

 

つまりこれは、ソウルやファンク・ミュージックほどではないと僕も上で書きはしたけれど、本質的にはそれらと同じような意味を持つ音楽に変貌しているってことなんだなあ。やっぱりデューク・エリントンっていう音楽家を、アメリカ黒人であるというネグリチュードを無視して聴くことなんてできないよね。

 

2016/10/15

今年もレー・クエンに蕩けています

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「今のヴェトナムで叙情歌謡を歌わせたら、レー・クエンほど深い情感を表現できる人はほかにいません。少しハスキーな湿り気と重みのある独特の声質を巧みに活かしながら、情感細やかに歌い込む」というのは三年前の荻原和也さんの言葉。僕の場合三年前にはこの女性歌手はほぼ知らないというのに近かった。

 

 

紙メディア上で荻原さんただお一人なのは言うまでもなく、ネット上でもレー・クエンを話題にして熱心に薦める人は荻原さんと、その他エル・スール周辺の一部だけという状態が2016年の現在でも続いている。それでもそういう方々のネットでの普及啓蒙活動のおかげで、今では僕もすっかりこの女性歌手の大ファン。

 

 

昨年から書くように、僕にとってのレー・クエンは、2014年作『Vùng Tóc Nhớ』こそがまるで天啓のようなというかカミナリにうたれたような衝撃で、こんなにも深い表現力を持つ歌手だったんだとトロトロに溶けて蕩けて惚れ込んでしまった。

 

 

 

それでこの2014年作を昨年の年間ベストテン新作部門第一位に全く躊躇せずに選んだ。実を言うといまだにその2014年作で聴いた彼女の声がもたらすぬくもり、体温がまだ僕の肌に残っているままの状態なんだけど、今年2016年に早くも充実の新作が来るとはなあ。

 

 

レー・クエンの今年2016年の新作『Còn trong kỷ niệm』を日本で僕みたいなファンが買えるようになったのは五月のこと。ヴェトナムでリリースされたのは三月だったらしいので、ヴェトナム音楽CDのディストリビューターが日本に存在しないにしてはかなり早かったよなあ。

 

 

これもエル・スールさんのおかげだ。原田さんと(そして荻原さん)には感謝の言葉しかない。今年5月12日に届いたそのレー・クエンの新作『Còn trong kỷ niệm』を即日聴いて、僕は一度聴いただけでまたもや蕩けてしまった。ここまで快感が強いと、かえって恐ろしくなってしまう。

 

 

それで毎日味わっていたんだけどすぐに夏になってしまい、重くて湿った歌い口の歌手なもんだから真夏に聴くにはやはり敬遠したくなり離れていたところ、本格的に秋になったのでまた再び聴くようになっている。三ヶ月ぶりくらいにまた聴いてみたら、やっぱり素晴しい歌手の傑出した新作だなあ。

 

 

ベタ褒めした2014年作『Vùng Tóc Nhớ』は上記リンク先の記事でも書いてあるようにヴェトナム民俗色みたいなものを(僕は)まず全く感じない普遍的ポップスで、官能作品を書く時のバート・バカラックによく似ていると指摘した。黄金のアメリカン・ポップスが大好きな僕にはピッタリ。

 

 

その後ヴェトナム民俗色も鮮明に出した2015年作『Khúc tình xưa III - Đêm tâm sự』は、そうであることが2014年作『Vùng Tóc Nhớ』のジャケット・デザインと好対照なアルバム・ジャケットを見ただけでも分る内容で、これはこれで好きなんだけどね。

 

 

今年2016年の『Còn trong kỷ niệm』では、2014年作の普遍的なポップス色と2015年作のヴェトナム民俗色が最高にいい感じで溶け合って共存し、それらどっちかだけを打出すようなアルバムではなく、まさしくヴェトナム発でありかつワールド・ワイドな作品に仕上っている。

 

 

2016年作『Còn trong kỷ niệm』のアルバム・ジャケットでは2015年作のような民俗衣裳は着ておらず、2014年作的な雰囲気の官能色だから、中身も似たようなものなんじゃないかと想像し、CDプレイヤーにセットしてかけてみると、確かに一曲目からそんな感じだ。

 

 

僕が身も心も溶けてしまっている2014年作によく似ている一曲目の「Phải chi em biết」。冒頭で鳴り始めるのはチェロの音で、背後で聞えるドラムス・サウンドは打込みっぽい。ピアノも入り、レー・クエンがあのハスキーなアルト・ヴォイスで歌いはじめると、僕はもう完全に骨抜き。

 

 

こんなのがアルバム全体にわたって続くのならこっちが持たないよ、いやこんなに美しく気持良いなら一晩中続けてくれよと、どっちなんだか分らない両面の思いに引裂かれながら聴いていると、三曲目の「Cố quên đến bao giờ」までは同じ普遍的官能恋愛歌(にしか聞えないがヴェトナム語は分らない)だ。

 

 

しかし四曲目「Duyên phận」でヴェトナム民俗色が鮮明に出てくる。使われている楽器もまるで日本の琴の音のような、楽器名が分らないがおそらくヴェトナム民俗楽器であろうそんなサウンドも出てくるし、曲のメロディ土台になっている音階、スケールもローカルなヴェトナム・カラーだ。

 

 

2016年作『Còn trong kỷ niệm』にあるもう一つのローカルなヴェトナム色が出た曲は六曲目の「Đọan tuyệt」。上で書いた(日本の琴のような音を出す)民俗楽器のアルペジオからはじまって、曲のメロディもレー・クエンのヴォーカルの歌い廻しもそれに即したようなものだ。

 

 

何度も書くがレー・クエンでは2015年作よりも2014年作の方がはるかに好みである僕。しかし2014年作で惚れて骨抜きにされ、その後の2015年作を通過した経験からのものなのかどうか、今年2016年の新作『Còn trong kỷ niệm』にあるそれら二曲もいい感じに聞える。

 

 

完全に惚れ込んだあとに2015年作を経過した経験と、やはりこの2016年の新作では普遍的ポップス色との混合・溶け具合が絶妙なせいもあるんだろうね。しかし鮮明なヴェトナム民俗色が出ているのはそれら二曲だけで、あとは2014年作に近いような質感の曲が並んでいる。そして一曲だけタンゴがある。

 

 

2016年作『Còn trong kỷ niệm』にあるタンゴ・ナンバーは五曲目の「Người quên chốn cũ」。これは聴けば誰でも分るタンゴ・リズムで、バンドネオンではないがアコーディオンがそれに近い使われ方で入っている。タンゴはアルゼンチン発祥だけど、ヨーロッパ大陸で大流行したのをはじめ世界中に拡散している。

 

 

アラブ歌謡やトルコ歌謡にもタンゴ(風)作品があるし、日本の演歌や歌謡曲など大衆歌謡にも同じものが結構あるのはご存知の通り。タンゴのルーツはすなわちキューバのハバネーラで、以前も書いたようにビルマ人天才少女歌手メーテッタースウェのアルバムに、ハバネーラ・リズムの「ラ・パローマ」があったりするくらいだ。

 

 

そんなわけだからルーツがハバネーラであるタンゴがヴェトナム歌謡のレー・クエンのアルバムに一曲あってもごくごく自然なことでなんの不思議もない。僕が知らない音楽の方が世界中には圧倒的に多いんだから、世界で大流行したタンゴや、そのルーツたるハバネーラ的「ラ・パローマ」みたいなものがたくさんあるはず。

 

 

2016年作『Còn trong kỷ niệm』のなかで僕が一番溜息が出るのが七曲目の「Con tim anh đã đổi thay」だ。この曲でのレー・クエンの完璧にコントロールされた息づかい、ものすごく微細な隅々にまで行届き完璧にコントロールされた歌い廻しの気遣いを聴くと、やはり当代最高の歌手だと実感する。

 

 

「Con tim anh đã đổi thay」では特に歌い廻しのフレイジングの末尾ごとが全て「ふぁい、ふぉーい」(と聞こる)になっているんだけど、その「ふぁい、ふぉーい」部分の歌い方が絶妙すぎる。出てくるたびに一回ずつ微妙に歌い方を変え、表情を変化させて聴き手を引きずり込む技巧。

 

 

特に「Con tim anh đã đổi thay」最終盤の消え入りそうなラストの「ふぁい、ふぉーい」なんかもうちょっとなんと言ったらいいのか適切な表現が見つからない。その直前で一瞬ポーズを入れ間が空いて、そして「ふぁーい」と歌ったかと思うと、その直後でもほんの一瞬だけ間を置いて「ふぉーい」が入るのだ。

 

 

その最後の「ふぁーい」「ふぉーい」を、レー・クエンのあのハスキー・ヴォイスでまるで消え入りそうなウィスパーのごとく後を引くように、そしてそっと優しく耳に吹きかけられるわけだから、もうたまらんのだよ。2016年に世界中の音楽界を見渡しても、こんな表現ができる歌手は他にいないだろう。

 

2016/10/14

マイルスによる寛ぎのジャズ・タイム

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意外に思われるかどうか分らないけれど、マイルス・デイヴィスが公式録音したライヴ・アルバムでこの世で最も早くリリースされたものは1961年4月21日と22日にサン・フランシスコのジャズ・クラブ、ブラックホークでやったもの。『イン・パースン』のフライデイとサタデイの二枚なのだ。

 

 

フル・タイトルが『イン・パースン、フライデイ・ナイト・アット・ブラックホーク、サン・フランシスコ、vol.1』と『同サタデイ、vol.2』 。そもそも “in person” という表現がライヴ・アルバムであることを示す英語だから、リリース時のアメリカ人にとっても分りやすかったはず。

 

 

これはコロンビア側も間違いなく意識して付けたタイトルだ。マイルスのライヴ・アルバムの史上初リリースだったわけだから、それを明快に示すために「イン・パースン」という表現を入れたに違いない。1961年録音のマイルスのライヴ・アルバムというと、カーネギー・ホールでギル・エヴァンス編曲・指揮のオーケストラとやったのもある。

 

 

そのギルとやったカーネギー・ライヴはブラックホークでのライヴ録音の一ヶ月後だから録音時期は同時期だけど、あれのリリースは翌1962年。録音されていただけであればもっと前からいくつもある。コロンビア公式だけでも49年にタッド・ダメロンとやったパリ・ライヴ、58年にニューポートのとプラザ・ホテルのがある。

 

 

しかしそれらのリリースは1949年のパリ・ライヴが1977年、58年のセロニアス・モンクとA面B面抱合わせてのニューポートのが64年(モンクの方は63年のライヴだ)、同58年のプラザ・ホテルでのも1973年だった。だから全部リアルタイム・リリースではない。

 

 

コロンビアではないが、キャピトルが1948年に例の九重奏団でやったロイヤル・ルーストでのライヴをリリースしているが、あれは公式録音と言えるかどうかもやや微妙だし、初めてリリースされたのも1998年だ。放送音源やそれをエア・チェックしたものなども全て61年にはまだ出ていない。

 

 

そんな具合だったので、マイルスのライヴ録音がどんどん公式リリースされるようになったのは1960年代半ば以後の話。196/4/21~22のブラックホークでのライヴ録音盤二枚が、マイルスの音楽生涯初のライヴ・アルバムだったということになるんだよね。

 

 

これはライヴをしっかりとした音で録音する技術がその頃ようやく整備されてきたというのも大きな理由だったんだろう。マイルス自身の回想によれば、あの1961年のブラックホークでのライヴの時はコロンビアが大がかりなな録音機材をステージ脇に持込んだせいで、気が散ってなかなかやりにくかったらしい。

 

 

本当にそんなやりにくかったのかと疑いたくなるような演奏内容だよね、あのブラックホークのライヴ二枚は。以前も書いたけれど、アクースティック・ジャズをやっていた頃のマイルスによるライヴでは、これが僕は案外好きなのだ。案外好きというよりもひょっとしたら一番好きかもしれないなあ。

 

 

1960年代のマイルスのライヴ盤では60年代中期のハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズの三人がリズム・セクションだったものが本当に激しくて、そうかと思うとバラード表現もいいし、こりゃ凄いバンドだよねとは思うものの、ちょっと緊張感が強すぎる気がするのだ。

 

 

だからあれらは一枚か二枚集中して通して聴くとドッと疲れてしまうんだよね、僕の場合は。だから自分の体調を考慮に入れて聴くべきタイミングを見計らわないといけない。だからそういつもいつもは聴きにくい。それらと比べると1961年ブラックホークでのライヴ盤二枚は聴いていて本当にリラックスできて聴き心地がいい。

 

 

マイルスという音楽家は、間違いなくリラクシングな音楽性の持主ではなく、ピンと張詰めたテンションの強い緊張感のある音楽をやる人。そしてこの1961年のブラックホークでのライヴ盤が出るまではスタジオ・アルバムしかなかったわけだから、一層そのイメージが強く聴衆に刻まれていたはずだ。

 

 

ところがこれがマイルスの真の姿、実物(in person)だというタイトルでリリースされた1961年ブラックホークでのライヴ盤を聴くと雰囲気がかなり違っていて、相当にリラックスできる、なんというかマイルドというか穏健保守派とでもいうか、そんな親しみやすい音楽性なもんだから、当時は意外だったんじゃないかなあ。

 

 

これこそがマイルスの「真の姿」だというアルバム・タイトルは、この世に初めてこの音楽家のライヴ盤をリリースするにあたっての売らんがための宣伝文句であって、その後のマイルスによるライヴ盤にはやはり緊張感に満ちたいつもの姿が記録されているものの方が多いというのが事実。

 

 

1961年ブラックホークのライヴ盤は、だからマイルスの初リリース・ライヴ・アルバムだからではなく、やはりこのバンドがそういう音楽性の持主だったってことに他ならない。その証拠にこれと同一メンバーで録音された唯一のスタジオ録音作品『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』も同様の音楽性だ。

 

 

ところであの1961年の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』は案外人気があるんだよね。当時既にマイルス・バンドを脱退し成熟して大きな存在になっていたジョン・コルトレーンがゲスト参加で吹いている二曲があるからではない。全体的に非常にリラックスできる親しみやすい音楽だからだ。

 

 

あの『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』はアルバム・タイトルで損をしているだけじゃないかなあ。そのまま英語で書いたりそれをカタカナ書きするのではちょっと長めだし、かといって邦訳して『いつか王子様が』では、ジャズ・ファンの八割以上を占めるんじゃないかと思う男性リスナーには気恥ずかしい。

 

 

それにマイルスを好んで聴く人間は、この人にロッキン・チェアでリラックスしながら聴けるような音楽は求めない人の方が多いんじゃないかなあ。でもねえ、いつもいつもそんなのばっかりではしんどいんじゃないだろうか。時には『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』みたいなのもいいじゃないか。

 

 

だから1961年のブラックホークでのライヴ盤二枚も、同一メンバーで音楽性もやはり同じようにさほど緊張感も強くなく、聴いていてリラックスできるものだから、やっぱり案外人気があるんじゃないかと僕は思うんだけど、昔から『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』ほどの話題にはなっていないよなあ。

 

 

その理由を推測するにやっぱりあれだ、この二年後に発足する前述のニュー・クインテットによる一連のライヴ・アルバムが人気がものすごく高くて、まあ演奏内容は確かに凄いし、しかも何枚も続けてシリーズみたいにして出ているから、そのせいで1961年のブラックホークのはかすんで見えちゃうんんじゃないかなあ。

 

 

これはある意味仕方がないんだろう。でもあの1961年の『フライデイ』と『サタデイ』のブラックホーク・ライヴ二枚、これをコロンビアがマイルスの音楽キャリア史上初のライヴ・アルバムとしてリリースしようと判断できただけはあるという優れた演奏内容だから、オススメの二枚なんだよね。

 

 

ところで今日繰返し二枚、二枚と書いているが、この1961年ブラックホーク・ライヴは、2003年にレガシーがCD四枚組ボックスで完全盤としてリリースしている。僕は大学生の頃からこのライヴが大好きで愛聴してきているから、通わず即買いだったけれど、やっぱりそう何度もは聴いていないんだ。

 

 

CD四枚組完全集の1961年ブラックホーク・ライヴ。一度か二度しっかりとCDで聴いたのちは、Mac にインポートして、夜になんとなくジャズ・クラブでのライヴ現場の雰囲気を味わいたいというか、自室を環境的にそんな具合にしたいという時に全セットを流し聴きするだけ。四時間ほどあるしね。

 

 

CDでちゃんと聴きたいという時は、やはりバラ売り二枚の『フライデイ』と『サタデイ』なのだ。僕が現在持っているのは1997年にSMEがリリースしたもの。しかしこれ以前に持っていた米コロンビア盤は、なぜだかアルバムのジャケット・デザインも曲順すらも異なっているというもので不可解だった。

 

 

『フライデイ』の方はやっぱりあの「ウォーキン」ではじまってくれないとね。グルーヴィーでファンキーで、ジャズ・ブルーズとはこうやるもんだというお手本みたいな演奏。マイルス以下全員見事だ。ポール・チェンバースのアルコ弾きだけがちょっとねと思うだけ。

 

 

 

『フライデイ』の方にはアルバム・ラストに「ラヴ、アイヴ・ファウンド・ユー」がある。これはウィントン・ケリーのピアノ独奏。リリカルでいいね。マイルス・バンドのピアニスト前任者であるビル・エヴァンスにも劣らないバラードの弾き方じゃないか。

 

 

 

そもそもウィントン・ケリーは、マイルス・バンドでの先輩である二人、レッド・ガーランドのようにスウィングしブルーズが弾けて、なおかつビル・エヴァンス的なリリカルな弾き方もできるという、その両要素を持っている人材としてマイルスが目を付けて起用されたピアニストだったんだよね。

 

 

1958年の『マイルストーンズ』における「ビリー・ボーイ」みたいに、前々からスタジオ録音アルバムでもたまに自分のトランペットを含め管楽器が一切入らないピアノ・トリオでの演奏を一曲入れたりすることがあったマイルスだから、こういったソロ・ピアノ演奏を一つ入れても不思議じゃない。いい演奏だしね。

 

 

『サタデイ』の一曲目であるセロニアス・モンクの「ウェル、ユー・ニードゥント」を聴くと、1956年プレスティッジ録音(『スティーミン』収録)と全く同じアレンジだ。ピアノ・ソロが終って最終テーマ吹奏になる前にマイルスとハンク・モブリーがユニゾンでリフを合奏している。アレンジあったんだなあ、やっぱり。

 

 

『フライデイ』の最大の聴き物が一曲目の「ウォーキン」なら、『サタデイ』における最大の目玉は三曲目の「ソー・ワット」とラストの「ネオ」。どっちもモーダル・ナンバーだけどハンク・モブリーもウィントン・ケリーもいい演奏だ。特にモブリーがこれほどまでに吹けるサックスだったとは意外だ。失礼しました。

 

 

 

 

だって書いたようにモーダルな演奏法をしなくちゃいけない二曲だからなあ。マイルスはもう1961年ならお手のものだしウィントン・ケリーも弾きこなすだろうけど、モブリーはいつもはコーダルな演奏法による普通のハード・バッパーだからなあ。サックスがモブリーなのもこのライヴ盤がリラックスできる要因の一つでもある。

2016/10/13

ファンクとなって花開いたジミヘンのDNA

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ジミ・ヘンドリクス・トリビュート・アルバムはいくつもある。僕は出ればだいたい全部買ってしまうんだけど、そのなかでこれが一番いいんじゃないかと思うのが2004年の『パワー・オヴ・ソウル:ア・トリビュート・トゥ・ジミ・ヘンドリクス』だ。

 

 

 

これが一番いいという意見のファンは多いみたい。これ以外で一番有名なのは1993年の『ストーン・フリー:ア・トリビュート・トゥ・ジミ・ヘンドリクス』だろうけれど、前にも一度書いたように、これは四曲目でバディ・ガイが「レッド・ハウス」をやっている以外は、全体的に全く面白くなかった。

 

 

しかしこの『ストーン・フリー』と『パワー・オヴ・ソウル』は関係があるようだ。後者のブックレットにある文章を読むと、前者で得られた収入をもとにユナイティッド・ニグロ・カレッジ・ファンドというものが設立され、その基金で学生たちが黒人音楽や文化を学んでいるらしい。

 

 

そしてこの基金で学ぶ学生のサポートを(部分的に)しているのが『パワー・オヴ・ソウル』の参加ミュージシャンたちだということだ。ブックレットの文章によれば、『ストーン・フリー』の売上げ、というか入ってきたカヴァーされているジミヘン・ナンバーのロイヤルティで活動を継続しているとのこと。

 

 

『パワー・オヴ・ソウル』みたいなアルバムを2004年に制作できたのも、『ストーン・フリー』で入っていたロイヤルティのおかげだと書いてあるんだなあ。そんな関係があったなんて、最近ブックレットの文章をちゃんと読むまで知らなかった。まあそれでも『ストーン・フリー』がつまらないのには変りがないけどね。

 

 

1993年の『ストーン・フリー』と2004年の『パワー・オヴ・ソウル』最大の違いは、前者が白人ロック音楽家を中心に起用したロック・アルバムになっているのに対し、後者は黒人ソウル〜ファンク音楽家をメインに据えたブラック・ミュージック・アルバムに仕上っているというところ。これは重要だろう。

 

 

ジミヘンは確かにブラック・ロッカーという趣も強くて、世間一般的にはそんな人として認識されているかもしれない。これだけ人気があるのもロック・マーケットに大きくアピールできているからに違いない。しかしながらジミヘンの音楽をじっくり聴き込むうちに、徐々にそのイメージは変っていくんじゃないかなあ。

 

 

ジミヘン自身の音楽でそれを感じ取るのは、熱心なブラック・ミュージック・ファンじゃないと難しいかもしれないが、1970年のこの天才の死後、彼の蒔いた種子を受継いで花開かせたものがもちろんたくさんあって、その多くがファンク・ミュージックなんだよね。彼の音楽的DNAを引継いだのはやっぱり黒人だよなあ。

 

 

最も顕著なのがファンカデリックやパーラメント・ファンカデリック(Pファンク)の連中で、全体的な音楽性もそうだし、それらで弾くギタリストもエディ・ヘイゼルはじめ全員ジミヘン・スタイルの継承者たちだ。マイルス・デイヴィスがギタリストを重用するようになったのもジミヘンの影響だし。

 

 

マイルス1975年の『アガルタ』『パンゲア』の祖先の一つとしてジミヘンをあげる専門家は多い。特に一作目1967年の『アー・ユー・エクスピアリエンスト?』を『アガルタ』の祖型だと書いている人がいたなあ。誰だっけ?それにマイルスのあの二つで弾くシカゴのピート・コージーはジミヘンと縁深い人物だ。

 

 

また1970年代末にデビューしたプリンスもジミヘンDNAの継承者の一人。ギター・スタイルにそれが鮮明に聴取れるだけでなく、全体的な音楽性がそうだよね。白黒混交でブルーズ〜ロック〜ソウル〜ファンクをゴッタ混ぜにしたようなものをやっていたのは、ジミヘンとスライから引継いだものだ。

 

 

これら Pファンクとプリンスは、アルバム『パワー・オヴ・ソウル』に一曲ずつ参加している。収録順では先に四曲目にプリンスが来る。これがなんと「レッド・ハウス」のストレートなカヴァー。以前プリンスのブルーズ関連について書いたけれど、この一曲のことを完全に忘れていた。

 

 

プリンス名義のアルバムには収録されていないので、探しても出てこなかったんだと言い訳しておく。しかも『パワー・オヴ・ソウル』四曲目のプリンスがやるブルーズは、曲名が「パープル・ハウス」になっているぞ(笑)。もちろん「レッド・ハウス」のもじりであるのは聴けば誰だって分る。

 

 

パープルはプリンスのトレード・カラーだからね。そういえば誰だったかアメリカの有名人がジミヘンの「パープル・ヘイズ」とプリンスの「パープル・レイン」を混同して突っ込まれて笑われていた。その人は単によく知らずに間違えただけだけど、完全に笑い飛ばすこともできないんじゃないのかなあ。

 

 

プリンスの「パープル・レイン」とシグネチャー・カラーになった紫色。これとジミヘンの「パープル・ヘイズ」との関係について語るのは今日はやめておこう。「レッド・ハウス」のカヴァーである『パワー・オヴ・ソウル』収録のプリンス「パープル・ハウス」はこれ。

 

 

 

プリンスが紫色をトレード・マークにしたルーツだったかもしれないジミヘンの「パープル・ヘイズ」も『パワー・オヴ・ソウル』にある。それはなんとあのロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンドによる演奏だ。ペダル・スティール・ギターでジミヘンを表現できるのはこの黒人だけだろうね。

 

 

 

こんなペダル・スティールの弾き方、この人以外では絶対聴けないよなあ。元はセイクリッド・スティールというアメリカ宗教音楽界出身のロバート・ランドルフだけど、世俗音楽転向後は他にもジミヘン・ナンバーをいくつか採り上げているし、そもそもこの人のペダル・スティールのスタイルはジミヘンがルーツだ。

 

 

さて上で名前を出したPファンクが『パワー・オヴ・ソウル』でやっているのは七曲目の「パワー・オヴ・ソウル」。正確にはブーツィー・コリンズ・フィーチャリング・ジョージ・クリントン&ザ・P・ファンク・オールスターズという名前になっているが、実質的には Pファンクそのものに他ならない。

 

 

それにしても「パワー・オヴ・ソウル」とはかなり渋めの選曲だ。なぜならこの曲のジミヘン本人によるヴァージョンは1999年リリースの『ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト』収録のライヴ・ヴァージョンしかないからだ。それは1970年1月1日収録で、しかもファンク・チューンというに近いもの。

 

 

ジミヘンは1970年9月に亡くなる直前はファンクに接近しつつあったんじゃないかと以前書いたけれど、同年一月のライヴ演奏「パワー・オヴ・ソウル」なんかはそれがよく分る一曲なのだ。それを何年録音かは分らないが2004年リリースのトリビュート・アルバムで Pファンクがやっているという面白さ。

 

 

 

この Pファンクがやる「パワー・オヴ・ソウル」は、お聴きになれば分るようにどこからどう切取っても完全なるファンク・チューンだよね。誰でも分る。こういうのこそがジミヘンの音楽的遺伝子の正統な継承物じゃないかと僕なんかは思うわけなんだよね。

 

 

Pファンクがやる「パワー・オヴ・ソウル」は収録されたこのトリビュート・アルバムのタイトルにまでなっているんだから、プロデュースしたジェイニー・ヘンドリクスはじめエクスピアリエンス・ヘンドリクス LLC 側にとっても、やはり代表的で象徴的な一曲だと判断したんじゃないかなあ。

 

 

普通の(ブルーズ・)ロックみたいなものも『パワー・オヴ・ソウル』には収録されている。三曲目のカルロス・サンタナによる「スパニッシュ・キャッスル・マジック」、五曲目のスティングによる「ザ・ウィンド・クライズ・メアリー」、八曲目のエリック・クラプトンによる「バーニング・オヴ・ザ・ミッドナイト・ランプ」。

 

 

そのうちカルロス・サンタナがやる「スパニッシュ・キャッスル・マジック」でドラムスを叩いているのはなんとトニー・ウィリアムズだ。これが迫力満点の完全なるロック・ドラミングで、ジャズ界で活動をはじめたドラマーの演奏には聴こえない。またサンタナとクラプトンはジミヘンの同時代人だよね。

 

 

デビューはジミヘンよりクラプトンの方が早かったけれど、一番よかった時期が1960年代後半〜70年だという点ではこの二人は完全なる同時代の音楽家。ジミヘンとクリーム〜ブラインド・フェイスあたりのクラプトンがやっていた音楽はシンクロするもんなあ。ギター・サウンドの創り方だって同じだ。

 

 

『パワー・オヴ・ソウル』収録のクラプトンによる「バーニング・オヴ・ザ・ミッドナイト・ランプ」は、1993年のジミヘン・トリビュート・アルバム『ストーン・フリー』収録のクラプトンによる「ストーン・フリー」と同じセッションで既に録音されていたものを蔵出ししたものなんだとブックレットに書いてある。

 

 

クラプトンによるジミヘン・ナンバーそれら二曲の演奏内容についてはなにも言わないでおこう。同時代人で同時期に大活躍しただけに、本人がジミヘンに一番思い入れのある一人だろうからね。さてアルバム『パワー・オヴ・ソウル』で一番演奏時間が長いのはラストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンだ。

 

 

アルバム・ラストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンは「リトル・ウィング」と「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」をメドレーで演奏し12分以上あるもの。ヴォーカルは一切入らずレイ・ヴォーンがジミヘンばりに弾きまくるギター・インストルメンタルだ。この人もジミヘンのDNA継承者の一人だね。

 

 

スティーヴィー・レイ・ヴォーンも普段からジミヘン・ナンバーをよく採り上げた。ライヴでの「ヴードゥー・チャイル」は有名で評価も高い。『パワー・オヴ・ソウル』収録の「リトル・ウィング/サード・ストーン・フロム・ザ・サン」は、2004年のこのアルバムで発表されるまで未発表だったライヴ・テイク。

 

 

スティーヴィー・レイ・ヴォーンがライヴで「リトル・ウィング/サード・ストーン・フロム・ザ・サン」をメドレー形式でギター・インストルメンタルで弾いているものでは、1984年収録のものが2000年リリースのCD四枚組ボックス『SRV』にも収録されている。よく似た内容だけど、『パワー・オヴ・ソウル』収録ヴァージョンとは微妙に違っている。

2016/10/12

サイケデリックなブルーズはいかが?

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ブルーズ純粋主義者からは非難囂々らしいマディ・ウォーターズの1968年作『エレクトリック・マッド』。純粋なブルーズってなんだ?とか、なにかと混ざっていない音楽があるのか?とか、僕は言いたいことがいっぱいある。がしかし僕はこのアルバムをアナログ・レコードで聴いたことは一度もない。

 

 

『エレクトリック・マッド』のアナログ・レコードを全く見たことがなかったもんなあ。そもそも日本に入ってきていたのか?そういうわけなのでこのアルバムはCDでリイシューされてからしか聴いたことがない。おそらく多くの日本人マディ・ファンも同じだろう。CDでしか聴いていない人が多いはず。

 

 

現在僕が持っている『エレクトリック・マッド』CDは1996年の米MCA盤。調べてみたらこの96年というのがこのアルバムの初CD化らしい。その頃には外資系の大手輸入盤ショップも東京には何軒もあったので、僕は見つけて即買いだった。でもどんな音楽なのかは事前に知らなかった。

 

 

買って帰って聴いてみたらこれが面白いんだよね。そしてブルーズ・ピュアリストの方々には大変に評判が悪いアルバムだということもその直後に知りそれも納得だった。だってこりゃサイケデリック・ブルーズ(・ロック)みたいな一枚で、ファズを効かせて歪みまくったエレキ・ギターが大活躍しているからだ。

 

 

『エレクトリック・マッド』の録音は1968年の5月とCD附属の紙に書いてある。そしてバック・バンドの面々がこれはCDジャケットや附属の紙のどこにもそうは書かれていないのだが、ロータリー・コネクションなのだ。ロータリー・コネクションなんて今では忘れられているかもなあ。

 

 

ロータリー・コネクションとはチェス・レーベルのマーシャル・チェスの発案で1968年にシカゴで発足したバンド。正確にはチェスではなく傍系のキャデット・レーベルに録音しているが、それらはおそらくもはや誰も相手にしていないかも。現在このバンドが憶えられているならば、ミニー・リパートン関係か、そうじゃなければ二枚のアルバムのおかげ。

 

 

サイケデリック・ソウル(風ロック)とでもいうような音楽性のこのバンドが憶えられているかもしれない二枚というのがマディの『エレクトリック・マッド』とハウリン・ウルフの1969年作『ザ・ハウリン・ウルフ・アルバム』だ。後者の表ジャケットはひどいんだぞ。堂々と「ウルフはこの新作が好きではない」とか書いてあるもんなあ。

 

 

っていうのは『エレクトリック・マッド』も『ザ・ハウリン・ウルフ・アルバム』もボスはどっちも1950年代初頭に人気が出たブルーズ・マンで、南部的なダウン・ホーム感覚のバンド・ブルーズこそが売物なのにもかかわらず、そんなことに一切構わずサイケデリック・ブルーズ路線まっしぐらだからだ。

 

 

それら二枚ともマーシャル・チェスの企画・発案によるもの。1960年代半ばには新世代に押され人気が落ちていたマディとウルフの二名を、当時大流行していたサイケデリック・ロックが大好きな若いリスナー向けにアピールしたい、少しでもアルバムの売上げが伸びるようにしたいと思ってのことだった。

 

 

それでマディとウルフの新作にロータリー・コネクションをバック・バンドとして起用して、大流行中の音楽傾向に合せたような<新しい>ブルーズ・アルバムを創るべくマーシャル・チェスのプロデュースでキャデットに録音されたのが『エレクトリック・マッド』と『ザ・ハウリン・ウルフ・アルバム』。

 

 

『ザ・ハウリン・ウルフ・アルバム』の話は別の機会にするとして、今日は『エレクトリック・マッド』の話。なにも知らないファンがこのアルバム名を見れば電気楽器を使っているという意味なんだろうと思うはず。しかしそれは違う。電気楽器というだけなら、マディはずっと前から使ってるもんね。

 

 

だいたい戦後にシカゴに出てきてからのマディは自分が弾くのもエレキ・ギターだし、サイド・ギタリストにもエレキ・ギターしか弾かせていない。ただし全てエフェクター類などは一切使わずクリーン・トーンでのことだから、このあたりがいわゆるブルーズ・ピュアリストのみなさんが好きな部分だね。

 

 

ともかくそんなわけでアルバム・タイトルにある「エレクトリック」は楽器への言及なわけがないので、1960年代半ば〜後半の文化的な文脈、サイケデリック・カルチャーへの言及なんだろう。この時代にはエレクトリックなんちゃらとかいう名前のバンドやアルバムや曲や歌詞がいろいろとあったじゃないか。

 

 

『エレクトリック・マッド』の収録全八曲は過去のマディの代表作の再演が約半分。「アイ・ジャスト・ワント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」「フーチー・クーチー・マン」「シーズ・オールライト」「マニッシュ・ボーイ」「ザ・セイム・シング」。残り三曲は他の音楽家の曲のカヴァーだ。

 

 

一曲目の「アイ・ジャスト・ワント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」。代表作『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』収録の1954年録音・・・、ということを確認しようと思ってこのアルバム附属のブックレットを開いて自分で笑ってしまった。曲目一覧の部分に一曲ずつ僕が鉛筆でキーを書いているぞ。

 

 

「アイ・ジャスト・ワント・メイク・ラヴ・トゥー・ユー」が D、「フーチー・クーチー・マン」が A とかさ。なんじゃこりゃ。このCDを聴きながら自分でブルーズ・ハープ部分をコピーしようと思って音を拾ってキーを書いておいたんだなあ。1990年代後半に僕はブルーズ・ハープを吹いていたから。

 

 

念のために書いておくが俗称ブルーズ・ハープ、すなわち10穴ハーモニカ(テン・ホールズ)は一個一個キーが決っていて、一個のハーモニカはそれに合せたキーの曲しか吹けない(少なくとも吹きにくい)。だからテン・ホールズを吹くブルーズ・ハーピストは何個もキーの違うものを持っていて、曲により持替える。

 

 

ライヴ・ステージなどでは、ブルーズ・ハーピストはそんな何個ものブルーズ・ハープを収納したベルトみたいなのを腰に巻いて、曲が変りキーが変ると持替えるのだ。僕は1990年代後半によく遊びでブルーズ・セッションを友人とスタジオを借りてやっていて、ヴォーカル&ブルーズ・ハープ担当だったのだ。

 

 

ギターも一応ちょろっと触る僕だけど、この楽器はみんなやっていて全員僕なんかよりはるかに上手いから、ブルーズ・セッションでギターを弾くことはほぼなかった。いやまあやっぱりあれだ、高校生の頃と同じく英語詞を英語に聞える発音で歌えるという、ただその一点のみが理由だったんだよなあ。

 

 

久しぶりに妙なものを見つけてしまい関係ない失笑ものの話をしてしまった。『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』収録の「アイ・ジャスト・ワント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」オリジナルはこれ。 こういうのでマディは人気が出た人。

 

 

 

ところが『エレクトリック・マッド』ヴァージョンはこれ。 なんじゃこりゃ?!って叫びたくなるよね。ブルーズ純粋主義者は怒りの叫び、そして僕は歓喜の叫び声をね。このアルバム収録の過去の代表曲再演はどれもこんな感じに仕上っている。

 

 

 

一番目立つのがかなり深めにファズをかけて弾きまくっているエレキ・ギターの音だけど、それがピート・コージー。そう、1973〜75年のマイルス・デイヴィス・バンドで大活躍したシカゴ出身の太っちょギタリスト。『エレクトリック・マッド』では他にも二名ギタリストがクレジットされている。

 

 

それがフィル・アップチャーチとローランド・フォークナーの二名。前者は僕もよく知っているが、後者の方はあまり知らないのでギター・スタイルがどんなものなのか聴き分ける自信がない。がしかしあの音色とフレイジングなど全てひっくるめたサウンドは間違いなくピート・コージーだろう。

 

 

『エレクトリック・マッド』収録のマディの代表曲再演で僕が一番面白い、楽しいと感じるのが四曲目の「シーズ・オールライト」。1952(か53)年録音のオリジナル→ https://www.youtube.com/watch?v=1PdshyTjujE  これがこうなっている→ https://www.youtube.com/watch?v=pM1RPsuYP_8

 

 

思わず笑っちゃうほど最高にサイケデリックで楽しいね。ブルーズ・ピュアリストの方々が怒り心頭なのも納得だ。この『エレクトリック・マッド』ヴァージョンの「シーズ・オールライト」で僕が一番好きなのは、本編が終ってからの5:15あたりからだ。ベースが突然「マイ・ガール」のリフを弾きはじめる。

 

 

もちろんテンプテイションズのあれだ。これはロータリー・コネクションの中心人物で『エレクトリック・マッド』でオルガンを弾き全曲のアレンジもし、マーシャル・チェスと共同プロデュースもしているチャールズ・ステップニーの指示ではなく、ベースのルイス・サッターフィールドが突発的に弾いたんだろうね。

 

 

すると次の瞬間にピート・コージーがそれに即応して「マイ・ガール」のメロディを弾いている。しかもギンギンにファズの効いた歪みまくった音で。こりゃまるでジミ・ヘンドリクスが弾くテンプテイションズ。楽しいね。いや、僕みたいな趣味嗜好の人間には最高に楽しいけれど、多くのブルーズ・ピュアリストたちは虫酸が走るだろうな。

 

 

『エレクトリック・マッド』にある他人の曲では、三曲目のローリング・ストーンズ・ナンバー「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」が一番面白い。なぜかというと頭から右チャンネルで聞えるギター・リフは「サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ」だからだ。

 

 

 

もちろんクリームのあれ。それは1967年に発売されているから、自らの曲名からバンド名を取り自分のレパートリーもたくさんやってくれているローリング・ストーンズの同じく67年の曲をやりつつ、そこにストーンズには薄いサイケデリック色をクリームから引っ張ってきているんだね。

 

 

マーシャル・チェスはもちろんレコードの売上げを見込んでこんな内容の『エレクトリック・マッド』を制作したのだが、マディの購買層のメインだったであろうブルーズ・リスナーにはあまり売れなかったんじゃないかなあ。しかしそれでも同時代のジミヘンやレッド・ツェッペリンには大きな影響を与えたらしい。

 

 

その他、エレキ・ギターに深めのファズをかけて弾きまくるサイケデリックなブルーズ・ベースのロックやファンクをやる連中には『エレクトリック・マッド』は大歓迎され、またもっとずっと後の時代になると多くのヒップホップ系音楽家がここからたくさんサンプリングしているんだよね。時代を先走りしすぎただけかも。

 

2016/10/11

ニューヨリカン・ジャズ・ダンス

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多くのジャズ・ファンがアルト・サックス奏者ルー・ドナルドスンのオススメ盤を選ぶと、普通はやっぱりハーマン・フォスターがピアノを弾いているアルバムになるだろうなあ。何枚もあるし僕も大好きだ。1958年録音の『ブルーズ・ウォーク』とかいいよなあ。ブルージーでファンキーで。

 

 

同じ1958年録音の『ライト・フット』も好きだ。しかもこの『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚には打楽器担当としてドラマーだけでなくコンガ奏者も参加している。コンガが入ったりしてちょっぴりラテン・テイストがある部分をシリアスなジャズ・ファンがどう聴いているかは知らないが。

 

 

普段から僕の文章を読んで下さっている方々にはもはやなんの説明もいらないけれど、ルー・ドナルドスンで検索して辿り着いて初めてお読みになる方のために書いておくと、僕はジャズでもなんでもシリアス一直線なアーティスティックなもの(を貶したいわけでもない)は今ではあまり好きじゃない。

 

 

ジャズがファンクやラテンなど他ジャンルの音楽とクロス・オーヴァーして、ちょっと猥雑でファンキーなラテン・テイストになったものの方が圧倒的に好みだという人間だ、僕は。ブルーズとはどう考えても1910年代のジャズ商業録音開始初期からクロス・オーヴァーしまくっているから言う必要はないはず。

 

 

いや、ブルーズ関連でもやっぱりいまだに言っとかなくちゃいけないのかもしれない。だって1930〜40年代のジャイヴやジャンプなど、あれらは要するにジャズそのものでしかないわけだけど、かなりブルーズ寄りで、だから相当に下世話で猥雑だから、どうもいまだにジャズ・ファンの多くは聴かないようだ。

 

 

一・二年ほど前だったか Twitter であるジャズ・ファンの方とライオネル・ハンプトンの話になり、しかしその方は1940年代のハンプトンのビッグ・バンドのことを全くご存知なかった。そもそも40年代のハンプトンがどんな音楽をやっていたのかどれほど楽しいか興味がなく、だから聴いてもいない。

 

 

ライオネル・ハンプトンみたいなシリアス・ジャズ方面でも大活躍したジャズ・マンについてすらジャンプ・バンド時代のことはスッポリと抜落ちていて、その存在に気付いてすらいない。ってことは・・・、と思って1940年代のジャンプ系ジャズ・メンの名前を出してみたがやはり一人もご存知なかった。

 

 

これはやっぱりあれだなあ、中村とうようさんのあの一連の啓蒙活動はブルーズ〜R&B〜ロック・リスナーの間にしか行届いていないってことかもなあ、2016年の現在でも。普通のジャズ・ファンは中村とうようという存在自体知らないかもしれない。だからそんなジャズ・ファンはどうやらいまだにジャイヴやジャンプなどのブルーズ系芸能ジャズは聴いていないようだ。

 

 

聴いていないというか、そんなものがあるってこと自体にその存在自体に気付いてすらいないんだろうね。こりゃやっぱりとうようさんのやったような仕事をもう一回誰かがやらなくちゃいけない、それも今度は普通のジャズ・ファン向けにやり直さなくちゃいけないってことじゃないのかなあ。う〜〜ん。

 

 

僕はそんな見識は持ち合せていないので、どなたかお願いします。通常のシリアスなメインストリーム・ジャズと、そこからちょっと脇道に逸れたようなブルーズ寄りの芸能ジャズと、その双方にお詳しい方!ってことはすなわちモダン・ジャズばっかり聴いているような人ではダメだということです。

 

 

今日もまた前置が長くなった。この人もまたブルーズが上手いルー・ドナルドスンのアルバムでハーマン・フォスターがピアノを弾いていて、しかもレイ・バレットがコンガを叩いているもの。本当に楽しくて、特に『ブルーズ・ウォーク』なんかコンガ入りのストレート・ブルーズをやっていたりする。

 

 

『ブルーズ・ウォーク』には二曲目に「ムーヴ」があるよね。デンジル・ベストが書いた有名曲だけど、僕はご多分に漏れずマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』で知ったものだった。でもルーの『ブルーズ・ウォーク』ヴァージョンの方がはるかに愉快でいい。その他いろいろと楽しめるアルバムだよね。

 

 

しか〜しここからがようやく本当に本題なんだけど、僕にとって<ルー・ドナルドスンでこの一枚>と言われた時に迷わず選ぶのが1967年の『アリゲイター・ブーガルー』なんだよね。このチョイスも普段から僕の文章をお読みの方であれば、間違いなくそうなるであろうと想像がついちゃうようなアルバムだ。

 

 

1967年の『アリゲイター・ブーガルー』はルー・ドナルドスン五年ぶりのブルー・ノート復帰作。1963年の『グッド・グラシアス!』を最後に、その後はアーゴやカデットなどに録音していたのはどうしてだったんだろう?そのあたりの事情は僕は全く知らないが、このブルー・ノート復帰作が楽しいことこの上ない。

 

 

『アリゲイター・ブーガルー』をお聴きでない方でも、アルバム・タイトルだけで普通のモダン・ジャズではないんだろうと想像がつくはず。ブーガルーってのはラテン音楽の一種だもんね。しかしこのブーガルー、1960年代だけの一時的な流行で終り、その後は忘れ去られたようなダンス・ミュージック。

 

 

忘れ去られたというか、むしろかなり積極的に忌嫌われるようになっていたかもしれない。特にアメリカ人ラテン音楽家には。例えばリアルタイムで1960年代にブーガルーの流行を体験していたティト・プエンテも、1970年代以後はそんな主旨の発言をしているし、その他いくつか読めるから。

 

 

ニュー・ヨークで活動したプエルト・リコ系アメリカ人であるティト・プエンテの名前を出したけれど、ブーガルーってのは米ニュー・ヨークで流行した中米ラテン音楽で、ニューヨリカン(Nuyorican)・ミュージックなどとも呼ばれる。「ニューヨリカン」とはニュー・ヨーク+プエルト・リカンの合体でできた造語で、まあそんな混交音楽なわけだ。

 

 

しかしながら僕はブーガルーの音源はさほどちゃんと聴いていない。そもそも聴く機会が少ないよなあ。だからニューヨリカンなダンス・ミュージックであるブーガルーがどんなものなのかイマイチちゃんと理解できていない。そういうわけだからルー・ドナルドスンのでぼんやりと想像しているだけだ。

 

 

ルー・ドナルドスンの『アリゲイター・ブーガルー』はアメリカでは録音直後の1967年にレコードがリリースされているが、日本ではなかなか出なかったらしい。これは僕も実感がある。1979年にジャズに夢中になってルー・ドナルドスンも知ったものの、このアルバムのアナログ盤は見なかったもんね。

 

 

僕が現在CDで持っている『アリゲイター・ブーガルー』の裏ジャケットを見るとリリース年が1987年になっている。これは日本盤ではなくアメリカ盤。僕の記憶では日本でルー・ドナルドスンのこのアルバムが買えた最初だったんじゃないかなあ。なんて遅いんだ。その後は再リイシューもされているみたい。

 

 

この1987年のCDリイシューというのが、他ならぬアシッド・ジャズとかレア・グルーヴとかいった一連のムーヴメントによってじゃなかったかなあ。あれで教えてもらった面白い音楽もあるけれど、ことジャズ系の音源に関してはこのムーヴメントにあまりハマっていない僕。でもルーのこういうアルバムをリイシューしてくれたような功績には素直に感謝したい。

 

 

そんな世代論や時代背景はともかく『アリゲイター・ブーガルー』一曲目のアルバム・タイトル曲のファンキーでグルーヴィーなカッコよさといったらないよね。しかもこれ、ルー・ドナルドスンが書いたオリジナルだ。ビ・バップ時代から活動しているチャーリー・パーカー直系のアルト奏者なんだけどね。

 

 

リズムがラテン調であることを除けば、「アリゲイター・ブーガルー」はなんでもない12小節3コードのCキーのブルーズ形式楽曲。だからデビュー当時からブルーズが得意なルー・ドナルドスンにとっては、全然意外なものでも突然変異でもなく、自家薬籠中のものだったのかも。

 

 

 

あるいは上で書いたように1950年代後半にルーが雇っていたコンガ奏者のレイ・バレット。この人はブーガルーもやっているからその縁もあったもかも。「アリゲイター・ブーガルー」では特にドラマー、レオ・モリス(後に改名しイドリス・ムハンマド)の叩くスネアのパターンがカッコイイけれど、これもルーの指示だったんだろうね。

 

 

それに録音時の1967年ならブーガルー流行の真っ只中だから、ビ・バッパーであるルー・ドナルドスンでもたくさん耳にしていたんだろう。そんでもって後にブーガルー録音も残すコンガ奏者も使ったりしていたわけで、ブルーズが中心のメインストリームなジャズをやりながらラテン風味も足していたわけだし。

 

 

そういうことがあるから「アリゲイター・ブーガルー」みたいな曲をルーが書いても不思議ではない。しかもストレートなブルーズ形式の楽曲だしね。僕がこの大の愛聴曲を聴く時はいつもドラマーのハタハタといったスネアの叩き方がいいなあと感じながら聴いている。さらにオルガンのサウンドもファンキーだ。

 

 

オルガンでファンキーなリフを弾いているのがロニー・スミス。この人も大好きなハモンド B-3 奏者だ。それはそうとファンキーな弾き方をするジャズ系オルガニストには「スミス」姓が三人もいるよねえ(笑)。あと二人はジミー・スミスとロニー・リストン・スミス。紛らわしいなあ。

 

 

ジミー・スミスは混同しないけど、ロニー・スミスとロニー・リストン・スミスは混同している人がいるんじゃないかなあ。リストンの方は1973年頃にファンクをやっていたマイルス・デイヴィスのバンド参加経験もあって、スタジオ録音も公式ライヴ録音も残っているので、僕も昔から知っている。

 

 

オルガンにはギターが相性がいい。ってことをボスのルー・ドナルドスンが分っていて起用したのか、それともブルー・ノート側のアイデアだったのかは分らないが、『アリゲイター・ブーガルー』にはギタリストが参加している。それがジョージ・ベンスン。今では大御所だけど1967年だと新進の若手。

 

 

『アリゲイター・ブーガルー』でのジョージ・ベンスンもなかなか聴かせるギタリストぶりで僕は好き。アルバム・タイトル曲でもいいし、それ以外でもブルージーな弾き方だ。トランペットのメルヴィン・ラスティーだけが大したことないかなと思う程度だ。ラスティー以外でこのアルバムに参加しているサイド・メンは全員大成した。

 

 

ところで『アリゲイター・ブーガルー』について、特にヒットした一曲目のアルバム・タイトル曲について、これはブルーズ楽曲なんだからルー・ドナルドスンはふざけているわけじゃないんだ、ラテン調だとかオルガンとかギターとかそんなのは重要じゃなくて、あくまでこれは<ジャズ>だという意見を見る。

 

 

つまり要するに『アリゲイター・ブーガルー』をあくまでシリアス・ジャズの範疇で捉えて理解したいってことだよなあ。これはシリアスなジャズ・アルバムなんだから毛嫌いせず普通のジャズ・ファンのみなさんもどんどん聴いてくださいってわけだ。どんどん聴いてくれはその通りだけどさあ。

 

 

確かに僕も『アリゲイター・ブーガルー』をいろんな人に聴いてほしいと思う。しかし僕はシリアス・ジャズとしてじゃなく楽しい芸能ジャズとして聴いてほしい、ジャズにもそういうものがいっぱいあるんだ、ジャズだってポップ・エンターテイメントに他ならないってことをこそ強調したいんだよね。

 

 

アルバム『アリゲイター・ブーガルー』には一曲だけ従来からの保守的なジャズ・ファンもお馴染みのスタンダード曲がある。ラストの「アイ・ウォント・ア・リトル・ガール」だ。プリティなバラードだよねえ。しかしこの曲は1938年にレスター・ヤングがコモドア・レーベルに録音したので有名になったものなんだよね。

 

 

そのレスターがクラリネットを吹く1938年コモドア録音ヴァージョンで「アイ・ウォント・ア・リトル・ガール」がスタンダード化し、その後ジェイ・マクシャンや T・ボーン・ウォーカーやレイ・チャールズなどもこの曲をやっているって事実を、『アリゲイター・ブーガルー』をシリアス・ジャズにしたいファンはどう考えるんだろうね。

 

2016/10/10

案外長くもないクリームのライヴ

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クリームのオリジナル・アルバムで現在CDで持っているのは『ウィルーズ・オヴ・ファイア』(クリームの素晴らしき世界)だけ。これもアナログ盤を自分で買ったことはなく、ハードなギター・ロック好きの下の弟が買ってきたのを借りて聴いていただけだった。でもいいアルバムだよなあ。

 

 

CDでは1997年リリースの『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』という四枚組ボックスも持っていて、これでクリームの全貌はほぼ分るので、今ではこれでもういいかなと思って、ちょっぴり思い入れのある『ウィールズ・オヴ・ファイア』以外のオリジナル・アルバムはCDでは買い直していない。

 

 

『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』四枚組は一枚目と二枚目がスタジオ録音で、『ウィールズ・オヴ・ファイア』にある「パッシング・ザ・タイム」を除くクリームの全てのスタジオ録音が揃っている。CD二枚で全部というのはちょっと少ないなあと思ったんだけど、まあでもクリームはそんなもんなんだよなあ。

 

 

『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』三枚目と四枚目はライヴ録音で、『ウィールズ・オヴ・ファイア』二枚目、『グッバイ』の一曲目から三曲目、二枚の『ライヴ・クリーム』、これらから三曲を除き全てが収録されている。ってことはこの四枚組CDボックスで、クリームというバンドが残した録音はほぼ揃っちゃうんだなあ。

 

 

クリームは基本的にはブルーズ・ロック・バンドだし、大のブルーズ好きの僕だからやっぱりブルーズをやっているのが好み。スタジオ録音にもライヴ録音にもたくさんあるブルーズ・ナンバーだけど、スタジオ録音で面白いと思うのが『フレッシュ・クリーム』の「ローリン・アンド・タンブリン」だなあ。

 

 

「ローリン・アンド・タンブリン」は作者不明の古い米デルタ・ブルーズ・スタンダードだから、アメリカでも黒人・白人問わずいろんな人がやっているんだけど、クリームはマディ・ウォーターズの名前をクレジットしている。しかしメロディも歌詞もほぼ同じものをロバート・ジョンスンもやっているけどなあ。

 

 

ロバート・ジョンスンはクリームの三人も当然知っている。曲名が「イフ・アイ・ハッド・ポゼッション・オーヴァー・ジャッジメント・デイ」になっているだけで、これは1961年のアナログ盤『キング・オヴ・ザ・デルタ・ブルーズ・シンガーズ』第一集に収録されているから、クリームの三人だって聴いている。

 

 

その他誰がやっているなんて例をあげるのが面倒くさいほど多くの人がやっている「ローリン・アンド・タンブリン」で、曲名がこのままだというものも非常にたくさんあるので、クリームがマディ・ウォーターズ作としたのは、そういう事実を知らなかったのではなく、マディ・ヴァージョンへの敬意だ。

 

 

『フレッシュ・クリーム』にある「ローリン・アンド・タンブリン」を『ライヴ・クリーム』にあるライヴ録音の同曲と聴き比べるとほぼ同じ。スタジオ・ヴァージョンではほぼ全編にわたってジャック・ブルースのハーモニカ・フィーチャーがメインで展開し、ギターのエリック・クラプトンはソロを弾かない。

 

 

そのスタジオ・ヴァージョンの「ローリン・アンド・タンブリン」がかなりサイケデリックな感じに仕上っていて、なかなか面白いのだ。1966年録音だからサイケ全面開花前夜という時期だよなあ。ほぼ同じような時期にアメリカのキャプテン・ビーフハートも同じ曲をほぼ同じように料理している。

 

 

クリームの「ローリン・アンド・タンブリン」は、(事実上マディのリーダー録音だが)リトル・ウォルター名義の1950年パークウェイ録音ヴァージョンに直接インスパイアされたと思しき雰囲気だ。ジャック・ブルースの吹くアンプリファイされたハーモニカもリトル・ウォルターに似ている。

 

 

ジャック・ブルースのヴォーカルは当時のクラプトンよりはいいと思うんだけど、でもちょっと弱いよなあ。クリームというバンドの最大の弱点がそこだったと思うのだ。彼ら三人が繰広げる即興的楽器演奏みたいな部分は面白いけれど、ヴォーカルの二人に聴応えはほぼない。

 

 

これは彼らがお手本にしていたであろうアメリカ黒人ブルーズ・メンをたくさん聴いていると、やっぱりなんとも物足りなく残念に思う部分なのだ。ロバート・ジョンスンだってマディだって誰だってヴォーカルの迫力が大きいもんなあ。ジャック・ブルースもクラプトンも楽器演奏の方が本領の人だから仕方ないんだけど。

 

 

『ライヴ・クリーム』にある1968年、ロス・アンジェルスでのライヴ収録である「ローリン・アンド・タンブリン」も、スタジオ録音ヴァージョンにほぼ忠実にやっている。演奏時間もスタジオ版が約四分、ライヴ版が約六分と似たようなもんだし、これはクリームみたいなバンドにしてはやや意外だよなあ。

 

 

だってハウリン・ウルフの「スプーンフル」なんか『フレッシュ・クリーム』収録のスタジオ・ヴァージョンは約六分だけど、『ウィールズ・オヴ・ファイア』収録の1968年のライヴ・ヴァージョンは17分近くもあるからなあ。とはいえクリームのライヴ録音ではそんなに長い方が実はむしろ少ない。

 

 

高校生の弟が買ってきた『ウィールズ・オヴ・ファイア』二枚目にある「スプーンフル」を大学生当時に聴いていた頃の僕は、クリームというのはこういうバンドなんだろう、ライヴでは延々とインスト・ジャムを繰広げる人達なんだろうという印象が強くあって、ジャズの長い即興演奏が好きな僕は好みだった。

 

 

だから同じアルバムにある同じくライヴ録音の「クロスローズ」は四分程度と(当時の僕の印象としては)かなりコンパクトにまとまっているから、昔はちょっぴり物足りないなあとすら思っていたくらい。あの曲もクラプトンはギター・プレイは最高にカッコイイけれど、ヴォーカルはやっぱりイマイチだ。

 

 

この当時のクラプトンはギターは最高にカッコイイがヴォーカルはダメだというこの印象は2016年に聴直しても全く同じ。しかしそれ以外の部分については、「クロスローズ」より「スプーンフル」の方がいいというかつて僕が抱いていた感想は今では完全に逆転している。「クロスローズ」の方がいいよなあ。

 

 

1960年代のフリー・ジャズでもなんでもそうだけど、延々と長い即興演奏を最後までダレず飽きさせずに聴かせるというのは相当な力量がないと無理なんだよね。ある時期以後のジョン・コルトレーンだって今の僕にはやや退屈で、コルトレーンに限らずかなり大勢のジャズ・メンについて同様に感じるようになっている。

 

 

コルトレーンの場合はマイルス・デイヴィス・バンド時代の末期からライヴでは既にかなり長く、1960年の欧州公演を収録したものを聴いても、ボスのトランペット・ソロが二・三分なのにコルトレーンは延々十分ほども吹いている。マイルスも「どうしてそんなに長く吹くんだ?」と詰問したりしたらしい。

 

 

クリームの場合ライヴ録音で延々と長いのは、昔の印象からすると意外なのだがさほど多くもないのだ。「スプーンフル」の約17分、「スウィート・ワイン」の約15分、「ステッピン・アウト」の約13分、「トード」の約18分、それら四曲しかない。他は全部五分程度、長くても七分までなんだよね。

 

 

1960年代後半やその時期に活動をはじめたロック・バンドの多くがライヴでは長い即興演奏ジャムをやっていたという印象があるよね。いわゆるジャム・バンドの走りみたいなグレイトフル・デッドもそうだった。ただしデッドのあれはレコードやCDの音だけを素面で聴いていたら全く面白くないだろう。

 

 

デッドの場合は1960年代後半のアメリカの若者達がやっていたようにマリファナでも吸っていないと、あの延々と長いジャムは退屈で聴きようがない。マリファナを吸っていれば、なんだかふわ〜っとしたレイジーな気分になって、なにもしたくない、体を動かしたくない感じになって、デッドのあれも心地良い。

 

 

デッドだけじゃなく1960年代後半に活動をはじめたロック・バンドの多くがライヴで延々と即興ジャムを繰広げていたのは、やっぱりそういう当時の文化事情も大きな理由だったはず。そういうカルチャーがなくなって、現在録音物で音だけ聴く分には、面白くもないものの方が多いんじゃないかなあ。むろん例外はある。

 

 

そこいくとクリームはよく考えたらさほどでもなかったんだなあ。少なくとも録音されていて現在聴けるものでは10分越えの演奏は上記四曲しかないし、それらだって書いたような1960年代後半のグラス・カルチャーとは特に関係なく、ただ単に音楽衝動のおもむくままにやっていただけのことだったんだろう。

 

 

『ゾーズ・ワー・ザ・デイズ』四枚組を全部通してじっくり聴き返すと、クリームのサウンドもいかにも1960年代後半当時の時代の音だなあと思うんだけど、スタジオ・テイクでもライヴ・テイクでもそこそこコンパクトにまとまっている曲は今でも結構聴けるよね。んでもってブルーズばっかりでもないんだなあ。

 

 

今の僕にとってクリームの三人のなかで一番面白く聞えるのは、クラプトンでもジャック・ブルースでもなくジンジャー・ベイカーのドラミングなんだけど、彼のリズム追求姿勢と、それでどんなことを探求し成果として残しているかについては、クリームとは直接の関係が薄いしロックとも言えないかもしれないので、その話は今日はやめておこう。

 

2016/10/09

ジャズ発明家(?)ジェリー・ロール・モートン

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「ジャズは私が発明した」というのがジェリー・ロール・モートンの口癖。これはちょっと意味合いが異なるけれど「ヒップホップは私が発明した」というジョー・ザヴィヌルの発言みたいなもんで、真に受ける人なんか誰一人いるわけがない。もちろんザヴィヌルの方も完全なる笑いのネタにしかなっていない。

 

 

ジェリー・ロール・モートンだって生れが1890年だから、「ジャズを発明した」と自称する人間にしては若すぎるのだ。生れを1885年とする記述もあるんだけど、これはモートン自身の発言にしか根拠がなく、それはジャズ発明家としての位置付けを確かなものにすべく、実際より年上に詐称していただけのことだ。

 

 

それに1885年生れとしてみたところで1900年にはまだわずか15歳だ。ジャズの誕生の正確な年なんか分るわけがないというか、どんな音楽ジャンルでもそんな誕生年が正確に判明しているものなんてあるのか?どんな音楽ジャンルでも特定の個人が特定の年に一人で開発したみたいなものはないだろう。

 

 

ジェリー・ロール・モートンがそんな「ジャズ発明者」みたいなホラ話をした最も有名なものは、1938年『ビリーヴ・イット・オア・ナット』というアーサー・リプリー司会のラジオ番組に寄せた手紙だよね。これは非常に有名なものなのでご存知の方がかなり多いはず。僕はまず最初油井正一さんの本で読んだ。

 

 

紹介する必要はないと思うほど有名な話だけど、最近は古いジャズやその時代のジャズ・メンに興味を示すファンが激減中らしいので、やっぱり書いておく。1930年代のそのラジオ番組、タイトルで分る通り世界の珍談奇談を紹介するもので、38年3月26日の回でW・C・ハンディを採り上げたのだった。

 

 

司会のアーサー・リプリーはW・C・ハンディを「ジャズとブルーズとストンプの創始者」だとその番組で紹介したのだった。番組を聴いていたジェリー・ロール・モートンがこれに噛付いた。数日後の新聞に手紙を出して掲載されたのだが、その投書のタイトルが「大ウソツキのW・C・ハンディ」。

 

 

その投書のなかでモートンはアーサー・リプリーに対し「あなたはW・C・ハンディー氏を“ジャズとブルーズとストンプの創始者として”紹介されました。これは私に対する大変な侮辱であるとともに、あなたの番組の聴取者を大きな誤解に導くものと言わざるを得ません」と書きはじめている。

 

 

続いて「ニュー・オーリンズにジャズが生まれたことは疑うことのできない明白な事実であり、1902年、同地でジャズを創造したのは他ならぬこの私なのであります。メンフィスではじめてハンディー氏に会いましたが(以下略)」と書いちゃっているのだ。デューク・エリントンも酷評している。

 

 

ポール・ホワイトマンも「ジャズのなんたるかをなにひとつ知らず、長年“ジャズの王様”などと自称しております。」とボロカスに書いているのだが、まあホワイトマンの「ジャズ」に関しては僕も似たような意見で、おそらくこのモートンの投書が掲載された1938年なら大勢が知っていたことだろうから。

 

 

問題は「1902年、同地でジャズを創造したのは他ならぬこの私なのであります。」だよな。言うまでもなくこんな事実は存在しない。1902年というジャズ誕生年とやらも怪しいが、自分こそがそれを創り出した張本人だというこの主張は、しかしながらこの当時から誰も相手にしなかったようだ。

 

 

油井正一さんはこの逸話を紹介した上で、こんな言い方しかできない人物であったために嫌われ者ではあったんだけど、しかしジェリー・ロール・モートンのバンドが、ジャズ録音史上かなり早い時期にホットにスウィングするスタイルを確立していたことだけは間違いのない功績だと書いていたように思う。

 

 

ジェリー・ロール・モートンはバンドでの録音とソロ・ピアノでの録音の両方がたくさんある。今ではおそらくソロ・ピアノ録音の方が人気があるんだろう。その後のジャズ・メンに限らずいろんな音楽家にカヴァーされるのも殆どの場合ソロ・ピアノ作品で、それをいろんな楽器に置換えてやっているよね。ライ・クーダーもやっている。

 

 

確かにジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ録音は今聴いてもかなり興味深いものが多い。なかでも彼自身が「Spanish tinge」(スペイン風味)と呼んだ左手がハバネーラ風に跳ねるもの。あれは油井さんはもちろん中村とうようさんも重視して、典型的な一曲をCD二枚組アンソロジー『アメリカン・ミュージックの原点』に収録しているもんね。

 

 

その典型的な一曲が「ティア・ファナ」。1924/6/9のジュネット録音。面白いんだよね。他にもこういった感じで左手がキューバのハバネーラ風に跳ねているものがたくさんあって、ジェリー・ロール・モートンがニュー・オーリンズの音楽家なのがはっきりと分るのだ。

 

 

 

ジェリー・ロール・モートンの1923〜26年のジュネット、パラマウント、ヴォキャリオン録音のソロ・ピアノ録音全24曲が今では一枚のCDにまとめられていて簡単に聴ける。するとハバネーラであるスパニッシュ・ティンジ以外にも実にいろんな面白い発見があるのだ。例えば左手はラグタイムなものも多い。

 

 

ジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ録音を聴くと、ジャズ・ピアノがラグタイム・ピアノから派生して誕生したことが誰でも鮮明に分るのだ。さらにもっと面白いだろうと思うのがソロ・ピアノ集CDの二曲目にある「ニュー・オーリンズ・(ブルーズ)ジョイズ」だ。

 

 

 

これは1923年録音。お聴きになればお分りの通り、途中の左手のパターンがその後の同じニュー・オーリーンズのピアニストたち、例えばプロフェッサー・ロングヘアとかドクター・ジョンなどが弾くパターンと全く同じなのだ。もっともこのパターンはもっと早くレイ・チャールズが録音しているよね。

 

 

すなわち「メス・アラウンド」だ。そのレイの「メス・アラウンド」は要するにブギ・ウギ・ピアノなんだから、ブギ・ウギ・ピアノのルーツはジェリー・ロール・モートンの録音でも聴ける、こんな20世紀初期のニューオーリンズ・ジャズ・ピアノ、もっと遡ればラグタイムだってことなのだ。当り前の話。

 

 

ジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノでの最有名曲が「キング・ポーター・ストンプ」であるのは間違いない。モートン自身はこれを最初1923年、そして26年にも録音している。これはソロ・ピアノと言わずモートンの代表曲。なぜならばその後のスウィング系ジャズ・ビッグ・バンドのスタンダードになったからだ。

 

 

 

最もヒットしたのがベニー・グッドマン楽団の1935年録音だ。これはこの楽団が大ブレイクした時期のメガ・ヒット・チューンだったので、それでこの曲はスウィング・ジャズ・ビッグ・バンド・ファンなら全員知っているというわけなのだ。同時期にグレン・ミラー楽団も録音しているよね。

 

 

がしかしちょっと待って。そのメガ・ヒットになったベニー・グッドマン楽団のやる「キング・ポーター・ストンプ」は、実はフレッチャー・ヘンダースン楽団のアレンジメントを買取ってそのまま演奏しているだけなんだよね。ヘンダースン楽団の同曲初録音は1928年3月。それをそのまま使っている。

 

 

しかし1928年にはフレッチャー・ヘンダースン楽団のトレードマーク的存在だったアレンジャー、ドン・レッドマンは既に退団していて、僕の持っている同楽団CD三枚組録音集での同曲は「ヘッド・アレンジメント」と記載されている。本当か、これ?ヘッド・アレンジってのは?ちょっと信じがたい緻密な完成度なんだけどなあ。

 

 

 

どう聴いても譜面があったとしか僕の耳には聞えない演奏だ。だってこのアレンジの権利を買取ってそのまま演奏したベニー・グッドマン楽団の演奏を聴いたら、その高度に洗練された流麗さが白人聴衆にウケたのは間違いないと思うんだけどなあ。

 

 

フレッチャー・ヘンダースン楽団は「キング・ポーター・ストンプ」を1928年の初演以後も32年、33年と三回も録音しているという、まあ代表曲の一つだったのだ。まあヘンダースン楽団とかベニー・グッドマン楽団の話はちょっと横道なのでこのあたりで。ちなみにご存知の通りギル・エヴァンスも、そしてマンハッタン・トランスファーもこの曲を録音している。

 

 

そんなに有名になったスウィング系ジャズ・ビッグ・バンドのスタンダード「キング・ポーター・ストンプ」を書いたジェリー・ロール・モートン自身は、しかしながら実を言うと自分のバンドではこれを一回も録音していないってのが不思議だ。前記の二回のソロ・ピアノ録音以外にもう二回録音しているんだけど。

 

 

そのうち一回はやはりソロ・ピアノ録音で1939年ジェネラル録音。その後LPでもCDでもリイシューされているジェリー・ロール・モートン最晩年(1941年没)の録音集に収録されている。そしてもう一つはソロ・ピアノではなく、モートンのピアノとジョー・キング・オリヴァーのコルネットのデュオによる1924年録音。

 

 

そのキング・オリヴァーとジェリー・ロール・モートンのデュオ演奏1924年の「キング・ポーター・ストンプ」(オートグラフ原盤)を聴くと、オリヴァーはモートンが書いたメロディをそのままストレートに吹いていて、ソロ・ピアノ・ヴァージョンをそのままコルネット奏者を使ってやったというような仕上り具合だ。

 

 

キング・オリヴァーのコルネット演奏も、1924年なら既に弟子のルイ・アームストロングにはるか上を行かれてた時期で、あまり聴応えがないものだ。だからそのデュオ・ヴァージョンは、熱心なモートン・ファンや研究家以外は聴く必要はないように思う。僕も興味本位で持っているだけ。

 

 

だからジェリー・ロール・モートンの書いた最有名曲「キング・ポーター・ストンプ」は、彼自身の演奏ならソロ・ピアノによる録音だけで充分だろう。大ヒットしたベニー・グッドマン楽団ヴァージョンと、その元になったフレッチャー・ヘンダースン楽団の「ヘッド・アレンジメント」とクレジットされているものと、その三つ聴けば充分。

 

 

それらビッグ・バンド・アレンジもジェリー・ロール・モートンのソロ・ピアノ・ヴァージョンをそのままビッグ・バンド・サウンドに転用しているような感じなのだ。しかし、あれれっ・・・、モートンのバンド編成での1920年代後半のブルーバード録音について書いている余裕がもうないぞ。どうしよう?

 

 

え〜っと、じゃあ仕方がないから、ジェリー・ロール・モートンの1920年代ブルーバード録音で一番優れた一曲だと僕が思うものを貼るだけにしておく。1926年録音の「ブラック・ボトム・ストンプ」。これが26年だと思うと、ちょっと信じられないよなあ。

 

 

 

1926年にここまでホットにスウィングしていたジャズ・バンドは、ビッグ・バンドならフレッチャー・ヘンダースン楽団だけ、コンボならルイ・アームストロングのバンドだけで、デューク・エリントン楽団ですらまだそのスタイルを確立していなかった時期なのだ。そういうわけで「私がジャズを発明したのです」などと言ってしまうのには、まあ一理あるようなないような・・・・・・。

 

2016/10/08

ONBが伴奏のライの充実ライヴ盤

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アルバムのジャケット・デザインがあまりにもチャーミングすぎるので、路面店でもネット・ショップでも見た人はそれだけでみんなレジに持っていってしまうであろうシェバ・ジャミラ&リベルテのライヴ盤『アンルジストルモン・プブリク・オウ・フェスティヴァル・レ・ゼスカル・2005』。

 

 

タイトル通り2005年のライヴで、フランスでのリリースは翌2006年。しかし僕がこのライヴ盤に気が付いて買ったのは2007年だったはず。はっきりとは憶えていないんだけど、mixi の日記を遡れば分るはず(でもそれはしない)。僕の場合2007年だと既にネット購入がメインだった。

 

 

当時はまだ東京在住だったので充実した路面店にも行けたはずだけど、21世紀に入って少し経った頃から、CDでも本でもなんでも生鮮食料品以外のほぼ全てをアマゾンなどネット通販で買うようになった僕。どうしてだったんだろうなあ。今は愛媛の、それも県庁所在地ではない田舎町だから、他に方法がない。

 

 

というわけでどなただったかがネット記事にしていたのを読み、というよりその記事のトップに載っているアルバム・ジャケットを見た瞬間に、シェバ・ジャミラ&リベルテの2005年ライヴ盤を買おうと決めちゃったのだ。届いて聴いてみたら、これが本当に素晴しい。端的に言えばライの充実ライヴ盤。

 

 

2007年にはアルジェリア音楽であるライの良作が減ってきているように僕は感じていて、しかし「シェバ」というのが名前に入っているんだから、知らない人だったけれどライ歌手だろうということだけは分っていた。そしてシェバ・ジャミラ&リベルテのこのライヴを聴いた瞬間に、たまらなく嬉しくなった。

 

 

一曲目「ルサム・ワラヌ」がまずはダルブッカを連打する音ではじまる。続いて鍵盤シンセサイザー、そんでもってエレベとドラムスも出て、バック・バンドであるリベルテ(フランス語で「自由」の意)によるインストルメンタル演奏がはじまる。それがなんともコクのある素晴しいものなんだよなあ。

 

 

もうそれを聴いただけで傑作ライヴ盤であることを確信した僕。しかしそれにしても一曲目「ルサム・ワラヌ」のあの演奏は見事だよなあ。相当に熟練したマグレブ音楽バンドであるのは間違いないと思っていたら、このリベルテは実質的になんとあの ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)らしい。

 

 

リベルテ=ONB だということになかなか気付いていなかった僕。だってこれは2005年のライヴだけど、もうこの頃の ONB に興味はなくしていたから、当時のメンバーなども全く知らない。このライヴ・アルバムのデジパックを開くと演奏メンバーと担当楽器が載っているけれど、やっぱりあまり分らない名前だ。

 

 

じゃあどうしてリベルテ=ONB であると想像がついているのかというと、このライヴ盤のラストのこれまたインストルメンタル演奏があって、その曲のタイトルが「バルベス」になっている。一曲ごとに付いている短いフランス語紹介文を読むと「オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベスのアレンジに基づく」となっているんだなあ。

 

 

マグレブ音楽に興味のある方には説明不要だけど「バルベス」(Barbès)というのはパリにあるバルベス地区のことで、北アフリカのアラブ系住人によるマグレブ文化発信のフランスにおける拠点だ。バルベス国立楽団という意味のONB のバンド名もそこから採られているのはよく知られている。

 

 

そんなことや、あるいはこのライヴ盤についての各種ネット記事にこのリベルテは実は ONB に他ならないという意味の文章があって、そういう方々のなかにはこのライヴを収録したフランス南部の港町サン・ナゼールで開かれていた音楽フェスティヴァル、レ・ゼスカルに詳しい方もいらっしゃる様子。

 

 

そんな文章のなかにはレ・ゼスカルにおけるリベルテは屋台骨的バンドで、いろんな歌手の伴奏を延々と長時間務めている影の立役者なのだという意味のことが読めるものがあるので、このライヴ盤ではじめてレ・ゼスカルの名前も知った僕なんかよりもはるかにリベルテのことをよくご存知のはずだから。

 

 

そんな文章のなかにも「リベルテ= ONB」みたいなことが書いてあるんだよね。そんなことと前述のデジパックのパッケージにある説明文で、僕もリベルテが ONB なんだなと思っている。しかしこの ONB は21世紀になって以後にリリースするアルバムはイマイチ面白くないので、ここまで演奏できるとはかなり意外だった。

 

 

そもそも ONB はマグレブ系ミクスチャー音楽バンドで、そのミクスチャー具合が三作目以後一層進んだので、僕はもう少しトラディショナルな方向性の音楽の方が好きだからなあと思っていたわけだった。ところがこのシェバ・ジャミラとやった2005年ライヴでは伝統的ライのスタイルで演奏している。

 

 

う〜んといやまあ伝統的とだけも言えない。アルジェリアはオランで産まれたライの伝統を存分に活かしながら、それを現代的な演奏法で表現していると言うべきか。いやホント素晴しく熟練されたコクのある演奏ぶりで感心する。自分たち ONB の作品でもこんな音楽をやればいいのになあ。

 

 

バック・バンド、リベルテの話が長くなったけれど、主役の女性ライ歌手シェバ・ジャミラは二曲目から登場。歌は全てアラビア語のようだけど、曲間はフランスの街でのライヴだからという理由からかフランス語で喋ってくれているので助かる。といっても音楽を聴く参考になるようなことは言っていないが。

 

 

シェバ・ジャミラ登場のアルバム二曲目「マーナ・リ・ナブギア」はフアリ・ドーファンの曲だとクレジットされているが、この男性ライ歌手も僕は聴いていないので、このシェバ・ジャミラのヴァージョンで初めてその曲を知った。この曲でも他の曲でも、シェバ・ジャミラの歌い方は野趣あふれるものだ。

 

 

野趣あふれるというのは良く言えばということで、裏返して悪く言えば乱暴というかかなりテキトーな歌い方だよなあ、アルバム全編を通して。一言一言噛みしめるように丁寧に歌い込むようなスタイルではない。でもそれが欠点には聞えず迫力満点の魅力に響くので、やはり素晴しいライ歌手だ。

 

 

そんな野趣あふれるというか乱暴に投げつけるように歌い、そして頻繁にヨヨヨョ〜〜という裏返った声でコブシを廻すようなシェバ・ジャミラのヴォーカルの背後をリベルテがしっかりと支えている。やはりこのバンドの演奏じゃないとこんな歌い方のヴォーカルの音楽は崩壊するだろうというような見事な演奏。

 

 

それはそうとまたリベルテの演奏の話に戻るけれど、クレジットでは生身のドラマーが演奏していることになっていて、実際人力のドラムス演奏に間違いないサウンドだけど、ところどころ打込みなのかドラム・マシーンのような音も聞えてくるような気がする。あるいはこれは僕の聴き違いだろうか?

 

 

間違いなくドラム・マシーン(のような音)が鳴っているように思う瞬間があるんだけどなあ。クレジットはない。だがアルジェリアでどんどん生産される大衆向けライでは打込みなどのコンピューター・サウンドはごくごく当り前のものだから、シェバ・ジャミラのこのフランス・ライヴでそれが聴けても不思議ではない。

 

 

三曲目「シュラブ・セケリニ・ザーフ」はレゲエだ。作詞はブアレム・ミモザとなっているが、作曲はリベルテの名前がクレジットされているから、ひょっとしたらこの2005年のレ・ゼスカル用のオリジナル楽曲なのかもしれない。レゲエ風のライって僕は殆ど知らないが、明るい陽気なフィーリングでいいね。

 

 

五曲目「ビブ・グアリビ」では冒頭から終始カルカベが鳴っているのが大の僕好み。何度も書いているが僕は大のカルカベ好き人間なのだ。ライでカルカベ?と思われるかもしれないが、隣国モロッコ音楽の楽器なんだしね。それに雑多なマグレブ音楽を混ぜて演奏するバンドだと実によくあることだ。

 

 

四曲目「コクテル・メダハット」、六曲目「ナブリ・リア・ワーディ」は、フランス語解説文を読むと<メダハット>というアルジェリア女性の間で結婚式の際などに即興的に歌われる伝統的な音楽をベースにしているそうで、そんなメダハットをライ化して人気を取ったのがシェブ・アブドゥだと書いてある。

 

 

伝統的メダハットのことや、それをポピュラーなライにしたシェブ・アブドゥのことも僕はなにも知らないが、四曲目「コクテル・メダハット」や六曲目「ナブリ・リア・ワーディ」を聴くとかなりモダンだ。トラディショナルな雰囲気は薄い。どっちもリベルテがアレンジしているせいもあるんだろうね。

 

 

それら二曲のメダハット由来らしいライではヴァオリンも大活躍している。ONB にはもちろんヴァイオリン奏者はいないので、この時のライヴでの特別編成なんだろう。しかもクレジットされている名前を見ても誰だか分らないヴァイオリン奏者の演奏は、アルバムのかなりの部分で演奏にいいアクセントを加え良い味になっている。

 

 

それが一番はっきりと分るのがシェバ・ジャミラの歌うラストであるアルバム七曲目の「コクテル・マロカン」。この曲ではヴァイオリンが大活躍して威力を発揮している。それ以外のリベルテの面々もバンド一体となって主役のシェバ・ジャミラを盛立てている熟練の演奏。歌手の歌い方はやはり乱暴だ。

 

 

 

乱暴だというのは上でも書いたけど悪い意味ではない。アラビア語の意味は僕には分らないが、短いフレーズをブツ切りにして一個一個投げてぶつけるような感じの歌い方だよなあ。そんな朗々とコブシを廻すような人でもないんだね、シェバ・ジャミラは。でもそれがヴォーカルに迫力をもたらしている。

 

 

そんなヴァイオリン大活躍の「コクテル・マロカン」がライヴ本編のクライマックスになり、シェバ・ジャミラはバック・バンド、リベルテを称えながら退場する。次ぐアルバム・ラストは書いたように「バルベス」というタイトルのインストルメンタル演奏。この曲もオラン地方の伝承曲なんだとフランス語紹介文にある。

 

 

2016/10/07

ラリー・グレアムなデイヴ・ホランド

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一度か二度書いていると思うけど、ロック・リスナーの方がマイルス・デイヴィスという名前を知り興味を持って「なにか一枚オススメ盤を教えてください」と聞いてきた際には、僕は今まで必ず1971年リリースの『ジャック・ジョンスン』を推薦してきた。そして大抵の場合は成功もしてきている。

 

 

そんな『ジャック・ジョンスン』はだから非常に明快なロック・アルバムという趣なので、従来からのジャズ・ファンには評判が良くない。特にジョン・マクラフリンの弾くロック・ギター(にしか聞えない)がね。慧眼の油井正一さんですらこのアルバムは理解できず「サウンドトラック盤だから例外」と書いた。

 

 

サントラだからというのは事実誤認であるのは今ではみんな知っている。『ジャック・ジョンスン』収録音源の大半が録音された1970年4月頃には、以前も指摘したがマイルスは頻繁にスタジオ入りし、新作のためとかそんな概念すら持たず、自らのなかに湧くイメージをそのままどんどんレコーディングしていた。

 

 

だから『ジャック・ジョンスン』もそんな大量に残されたスタジオ音源集から、サントラ盤をとのオーダーを受けてテオ・マセロがピック・アップして「作品」に仕立て上げたというだけの話で、レコーディング時のマイルスとバンド連中の頭のなかに「これはサントラ用の録音」という意識など全くあるわけがなかった。

 

 

結果できあがった『ジャック・ジョンスン』を聴いて実感するのは大きく分けて二つ。一つは述べたように種々雑多なスタジオ音源集からあれだけの完成品を創り出したテオ・マセロの編集・プロデュース手腕。そしてもう一つはこの時期のマイルス・バンドのサウンドはかなりロック寄りのものだったこと。

 

 

ロック寄りだったこの時期のマイルスの音源集は、今では2003年リリースの『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』CD五枚組ボックス・セットでまとめて聴ける。レガシーがリリースしたこの手の「コンプリート」の名を冠したものは、例によって本当に「全部」ではないのだが。

 

 

「本当に全部」をリリースしようなどと考えだしたりしたら、僕の知っている範囲だけでもムチャクチャな量になってしまい、しかもその多くが演奏していないスタジオでの会話や演奏前の打ち合せ、簡単な音出し、ちょっとやってみてはすぐ止るような試行錯誤、そんなものばっかりではあるんだけどね。

 

 

だからそんなダラダラしたものは専門の研究・批評家かよっぽどのマイルス・マニアでないと一向に必要のないものだろう。従って真の意味ではコンプリート集ではない現行のコンプリート・ボックス・セット・シリーズで充分なはず。僕は「よっぽどのマイルス・マニア」のつもりだけど、普段聴くのはやはりそれで充分だ。

 

 

さて『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』五枚組収録音源は1970/2/17〜同年6/4までのもの。この時期に録音されたマイルス・ミュージックの特徴を一言で表現するならば、「ジョン・マクラフリン・ロック・ギター弾きまくり時代」ということになる。

 

 

ジョン・マクラフリンが参加していないものは、このボックス全42トラックのうちたったの5トラックだけ。しかもその5トラックは、一部が編集されて1971年11月リリースの『ライヴ・イーヴル』に収録された、あのエルメート・パスコアール参加の実に静謐なもので、僕にはちっとも面白くない。

 

 

だからそれらジョン・マクラフリンがギターを弾かずエルメート・パスコアールがヴォーカルその他のクレジットだけどなにをやっているのか分らない5トラックこそが、油井正一さんの言葉を借りれば「例外的作品」だと僕には聞える。ところでエルメートは、当時のマイルス・バンドのレギュラーだったアイアート・モレイラの紹介だったのかなあ。

 

 

ただし僕には退屈に聞えるそんなアンビエント風でスタティックなサウンドを持つ小品群は、1968年末頃からのマイルス・ミュージックにジョー・ザヴィヌルが持込んだ音楽性の継承物だったのかもしれない。既にザヴィヌル本人は1970年2月6日のセッション参加が最後になっているけれども。

 

 

それにマイルスという音楽家は元々キャリアの最初から静的な指向性も強く持っていた人物で、電気楽器と8ビート導入でどんどんファンキーでグルーヴィーになっていくと同時に、ザヴィヌルを起用して静的な作品もたくさん録音するようになった。まるでテンポがないような静まりかえったものをね。

 

 

そのあたりの1968年末頃から数年間のグルーヴ重視型かつスタティック指向みたいな両面の音楽の話は、また稿を改めてじっくり書いてみたい。今日の話は『ジャック・ジョンスン』ボックスにも5トラックだけ残っているそんな静的音楽のことではなく、ファンキーでグルーヴィーでロック寄りのマイルス・ミュージック。

 

 

『ジャック・ジョンスン』ボックスで一番ビックリするのは、19トラック目の「ライト・オフ」より前に収録されているものだ。1970/4/7録音の「ライト・オフ」「イエスターナウ」はエレキ・ベーシスト、マイケル・ヘンダースンとマイルスとの初顔合せで、この若者のオーディションも兼ねていた。

 

 

ということは、それ以前にある全18トラックでのベースは全てデイヴ・ホランドのはず。「はず」と書くのはなぜかというと、それらでは全てエレベが用いられていて、しかもかなりファンキーなのだ。最初に聴いた時、僕はマイケル・ヘンダースンがもっと早く参加していたんだなと思ってしまったほどだ。

 

 

それくらいファンキーでカッコいいエレベ・ラインをデイヴ・ホランド(とちゃんとクレジットがある)が弾いている。完全な未発表曲「ジョニー・ブラットン」の三つのテイクなんかグルーヴィー極まりないエレベで、しかもエレベにファズがかかっていて、こりゃまるで同時期のラリー・グレアムみたいだ。

 

 

 

えっ?なんだって?デイヴ・ホランドがラリー・グレアムだって?あのスライ&ザ・ファミリー・ストーンのあの「サンキュー」で弾いているあのベーシストそっくりだなんてウソだろう?信じられないぞ!と言われるだろうね。しかしこれはレッキとした事実だ。マイルスとスライ双方の熱心なファンである僕はこの意見を自信を持って言う。

 

 

その他10トラック目の「アーチー・ムーア」、18トラック目の「シュガー・レイ」などなど含め全部、全てデイヴ・ホランドはファズをかけたエレベでファンキーかつグルーヴィーなラインを弾いている。普通のジャズ・ウッド・ベーシストという僕もそんな認識だったのだが。

 

 

 

 

しかも前述の通りそれら全てでジョン・マクラフリンが完全なるロック・スタイルのギターを弾いているもんね。ドラマーは曲によってジャック・ディジョネットだったりビリー・コバム(コブハム)だったりレニー・ホワイトだったりするが、彼らも全員リズム&ブルーズ〜ロックな叩き方だ。

 

 

つまりそんなリズム・セクションの一員としてデイヴ・ホランドはエレベにファズをかけて弾き、そしてグルーヴィーでファンキーで全く負けていない。負けていないどころか聴いてみたらそのホランドの弾くエレベがかなり目立っているようなミックスで、それがもんのすごくカッコよく聞えるんだよね。

 

 

こりゃデイヴ・ホランドというベーシストに対する認識を改めなくちゃイカンよなあ。以前も書いたけれど、僕はマイケル・ヘンダースンというベーシストが大好物で、この人こそマイルスが雇った歴代全ベーシストのなかで最高の存在だったと信じていたんだけど、直前のホランドがほぼ変らない演奏をしているじゃないか。

 

 

本来的にはジャズのウッド・ベーシストであるデイヴ・ホランドだけど、こうなっているのは間違いなくボスのマイルスの指示だろう。1960年代後半からのスライのところで弾くラリー・グレアムを聴いて「なんてカッコイイんだ!」と、自分のバンドのベーシストに同じ弾き方を要求したんじゃないかなあ。

 

 

ところで「ジョニー・ブラットン」とか「アーチー・ムーア」とか「シュガー・レイ」とか、他にも(ベースはマイケル・ヘンダースンだけど)「アリ」だとかあって、全部ボクサー名が曲名になっているわけだけど、それらはマイルスやテオ・マセロや当時のコロンビアが付けたものではなく、おそらく2003年にそれら未発表曲を発売する際にレガシーが考えて付けたものなんじゃないかと僕は推測する。

 

 

この1970年春〜初夏の録音群から当時リアルタイムでリリースされていたのは『ジャック・ジョンスン』(と『ライヴ・イーヴル』の一部静謐小品)だけだったので、「ジャック・ジョンスン」の名を冠するボックスに収録するとなった際のレガシーが、同じような黒人ボクサーの名前を持ってきたんじゃないかなあ。

 

 

なお1970年4月7日のレコーディング・セッションでオーディションされ見事なエレベを弾いているマイケル・ヘンダースンは、この日「ライト・オフ」の4テイク、「イエスターナウ」の2テイクで弾いている。それら(とその他の音源)からテオ・マセロが巧妙に編集してアルバム『ジャック・ジョンスン』になった。

 

 

しかしながら不思議なことにマイルスはこのリズム&ブルーズ〜ソウル人脈の当時19歳のベーシストをライヴで使わないのはもちろん、しばらくの間はスタジオ・セッションでもさほど継続的には使っていない。彼が弾いていない曲もかなりあって、デイヴ・ホランドやロン・カーターだったりするんだよなあ。

 

 

これは僕にはかなり意外だ。また『ジャック・ジョンスン』ボックス収録トラックでマイケル・ヘンダースンが弾く一番最後の録音は1970/5/27の「ネム・ウム・タルヴェス」2テイクだ。これはやはりエルメート・パスコアール参加の静まりかえったもので、ちっとも面白くないからあまり聴かない。

 

 

その後マイケル・ヘンダースンは1970年10月頃にデイヴ・ホランドの後を襲ってマイルス・バンドにレギュラー参加し、ライヴ録音は公式でもブートでもたくさんあるものの、スタジオ・セッションでは1972年3月9日録音の「レッド・チャイナ・ブルーズ」まで録音がない。その後は75年のボス一時隠遁まで全部弾いているのはご存知の通り。

 

 

その間1970年夏過ぎ〜72年春まで、マイケル・ヘンダースンが参加していないのではなくマイルス・バンドそのものによるスタジオ録音が全くない。この時期のマイルスはライヴ活動に専念していた。75年の一時隠遁まで70年代に一年以上もスタジオ入りしなかったのはここだけなのだ。これがなぜだったのか僕はちょっと分らない。

 

2016/10/06

「レット・イット・ビー」はゴスペル・ソング

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「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」と並びビートルズ・ナンバーのなかでは最も有名な「レット・イット・ビー」。この三曲はロックやポップスやビートルズに興味がない人、いや、そもそも音楽を聴かない人だって知っているんじゃないかと思うほどだよなあ。三つともポール・マッカートニーの書いた曲だ。

 

 

あ、いや、だからポールの方がジョン・レノンやジョージ・ハリスンよりもソングライターとして優れていると言うつもりはないし思ってもいない。そういえば昔は「君はジョン派?ポール派?」なんていう言われ方があったらしい。その時代のことをリアルタイムではよく知らない僕なんだけどね。

 

 

でも僕がビートルズを聴きはじめた頃にもそんな「ジョン派?ポール派?」みたいな言い方が残っていたし、実は今でも時々見掛ける。それも年配ファンのなかにではなく若いファンの方々のなかにね。ヘンだなあ。でもある意味昔の言い方が手つかずで残っているのは若い人の間でこそなのかもしれない。

 

 

僕より年上の先輩ビートルズ・ファンや、あるいは僕の世代でも、そんなジョンか?ポールか?みたいな言われ方を散々されてきたからもうウンザリしているわけで、そんなもん決められるわけないだろう、アホか、みたいな気分になっているはずだもんなあ。無理矢理言えば僕はジョージ派だ。

 

 

その点そういうことを言われ慣れていない若いビートルズ・リスナーの方々は、ある種のお遊びとしてそんなジョンか?ポールか?みたいな言い方をして楽しんでいるのかもしれない。真剣にではなくあくまでお遊びじゃないかなあ。僕の世代くらいまでだとこの二者対立みたいな言われ方はお遊びには聞えない。

 

 

ともかく特に音楽に興味がない、あるいはむしろ音楽嫌いだという人ですら知っているんじゃないかと思う「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」。以前 Twitter でお付合いのあった方が<ビートルズと言えばこの三曲>となるのはつまらないと言っていたなあ。

 

 

その方は合理的な理由なく(と僕には見えた)韓国人と中国人を口汚く罵って、しかもそれを日常的に頻繁に繰返すので僕の方はすっかり嫌気がさしてしまいお付合いするのはやめてしまった。その方がビートルズの代表曲として「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」があがるのもつまらんと言ったことがある。

 

 

その発言があった頃(三年くらい前か)には僕の方はそういう気分を抜出しつつあって、音楽のポップさとか人気とかを素直に受入れたい気持になりつつあったので、その方のその発言もちょっとどうなんだろうと思ったのだ。でもそう言いたくなる気分はもんのすご〜くよく分るんだよね。僕も完全に同じだったからだ。

 

 

「イエスタデイ」はともかく「ヘイ・ジュード」と「レット・イット・ビー」の二曲は、米英大衆音楽の八割以上を占めるんじゃないかと思うシンプルなラヴ・ソングではない。しかしそのポップで感動的なメロディは一度聴いただけで憶えられるほど分りやすく、しかもリスナーが一緒に歌えるパートもあり、否応なく盛上がる。

 

 

そんなのはいわゆる売れ線狙いだよなと皮肉を言う人も多いと思うんだけど、しかし狙ったからといって誰にでも書けるというもんじゃない。やっぱりポール・マッカートニーって天才ソングライターだよなと実感してしまう。そんなのを二曲も、それもわずか数年の間に立て続けに書いたわけだからさ。

 

 

さて「ヘイ・ジュード」の話は今日はせず「レット・イット・ビー」に限って書きたい。この曲はゴスペル・ソングだよね。これは1970年にリリースされた二種類のビートルズ・ヴァージョンだけ聴いてもみんな分ることだ。二種類とは言うまでもなくシングル・ヴァージョンとアルバム・ヴァージョン。

 

 

僕はどっちかというとジョージの弾くエレキ・ギターが派手目に聞えるアルバム『レット・イット・ビー』ヴァージョンの方が好きだけど、普通はシングル・ヴァージョンの方が人気があるのかもしれない。ビートルズの名前を冠したこの曲の公式ヴァージョンは、その後も二つリリースされている。

 

 

すなわち1996年の『アンソロジー 3』収録ヴァージョンと2003年の『レット・イット・ビー・・・ネイキッド』収録ヴァージョンだ。でもそれらの話は今日はよしておく。特に『ネイキッド』の方は言わないでおこう。問題は「レット・イット・ビー」はゴスペル・ソングだということだ。

 

 

だって曲を聴けば、いきなりポールが「苦しみに面すると聖母マリアが現れて恵みの言葉をくださる」と歌っているじゃないか。もちろんあの “Mother Mary” は聖母マリアではなくポールの母親のことなんだけど、聖母マリアと解釈してもいいんじゃないか、それが可能だろうと僕は思う。

 

 

僕の勝手な憶測では、ポールは実母メアリーを歌いながら同時に聖母マリアも頭にあったはず。イエス・キリストを産んだ(とされている)聖母マリアは英語では Virgin Mary だもんね。だからポールだって “Mother Mary” という言い方をする際に聖母マリアが念頭にないとは考えにくい。

 

 

ポール自身は聖書への言及ではない、自分が14歳の時に癌で亡くなった母メアリーのことだと各種インタヴューで語っている。しかし音楽家というものはしばしば真意を隠すから、本人の発言をそのまま額面通りには受取れないんだよね。それにだいたい “let it be” だって聖書にある言葉だ。

 

 

例の受胎告知のことだ。『新約聖書』の「ルカによる福音書」によれば、天使ガブリエルが降りてきてマリアにイエスを身籠ったこと告げた際、マリアはあるがままに(let it be)受入れますと語ったとされている。それが受胎告知。エピソード自体が有名だし絵画の主題にもよくなっている。

 

 

受胎告知が出てくるのは「ルカによる福音書」だけではない。「マタイによる福音書」にもあるし、そもそもこれは『旧約聖書』の「イザヤ書」の預言に基づいている。”let it be” という記述が出てくるのは「ルカによる福音書」だけだし、言うまでもなく聖書は英語で書かれたものでもない。

 

 

聖書のオリジナル言語(という言い方はオカシイんだが)は、旧約がヘブライ語(一部アラム語)、新約がギリシア語の一種だ。オリジナル云々がオカシイっていうのは、例えば新約に言葉が収録されているイエス・キリストと弟子たちの喋っていた言葉はアラム語だったとかヘブライ語だったとか諸説あるし、その他聖書の成立ちも複雑だから。

 

 

僕はキリスト教の影響が色濃い英語圏文学研究が専門だったので必然的にここまでのことを知っているだけで、キリスト教者でもないし聖書に詳しくもないから、これ以上はよしておく。とにかくポール・マッカートニーは英語版の聖書に親しんでいたはずだから、Let It Be や Mother Mary という表現に聖書的ニュアンスはあるはずだ。

 

 

レット・イット・ビーやマザー・メアリー だけでなく曲「レット・イット・ビー」の歌詞にはビブリカルなニュアンスがかなり強い。「暗闇に立ちすくんでいると彼女が僕の前に現れて」とか「離ればなれになった人々にも再び出会う機会はある」とか「雲に閉ざされた夜に一筋の明りが差込んで」とかさ。

 

 

そんなわけなので「レット・イット・ビー」を書いて歌うポールもそうだと僕は思っているのだが、同じキリスト教圏の英語母語話者のリスナーであれば、あの曲を聴いてそこに聖書的な意味合いを読取るなと言う方がむしろ不可能なんじゃないかなあ。どこからどう聴いても宗教的な曲にしか聞えないじゃないかなあ。

 

 

ここまで全て曲名と歌詞の話だから、言葉の意味内容なんか重視しない、肝心なのは音の並び方、すなわちサウンドやリズムだと普段から繰返している僕らしくないなと思われるかもしれない。でも僕がこういう考えを持つようになったそもそものきっかけは、やはり「レット・イット・ビー」のサウンドだったのだ。

 

 

「レット・イット・ビー」の冒頭から鳴っているポールの弾くピアノはちょっと練習曲みたいで、ピアノ初心者でも簡単に弾けそうな感じに聞えるけれど、あのフィーリングを出すのは難しいはず。しかも終始一貫ブロック・コードを叩いていて、それが黒人が弾くゴスペル・ピアノ・スタイルみたいじゃないか。

 

 

またリズム伴奏が出てくる前のポールの弾き語り部分でコーラスが聞える。何人編成だとかは聴いてもちょっと分らないしデータも見つからないんだけど、リズム・セクションが出る前にもその後にも入るあのウ〜ッていうコーラスが、僕の耳にはゴスペル合唱に聞える。これはポールも狙ったものだろう。

 

 

さらに間奏部のギター・ソロに入る直前にオルガンが入る。それを弾くのはビリー・プレストン。その部分のプレストンの弾くオルガンはどう聴いてもキリスト教会的な弾き方だ。実際プレストンはレコーディングの際、ゴスペル風なニュアンスを出したいんだがとポールに相談したらしいよ。

 

 

脱線になるがビートルズ、ローリング・ストーンズの両者とともに公式共演録音があるグループ外の鍵盤奏者は、ビリー・プレストンの他にはニッキー・ホプキンス一名だけ。プレストンの方はいっときのゲスト参加みたいなもんだけど、ストーンズにおけるニッキーは一時期サブ・レギュラー的だったよね。

 

 

ブロック・コードでしか弾いていないポールのピアノと、ゴスペル合唱に聞えるバック・コーラスと、ゴスペル的フィーリングを出したくて、そして実際教会風に仕上っていると僕は思うビリー・プレストンのオルガンと、あるいはそれら以外の要素も相俟って、「レット・イット・ビー」はサウンドもゴスペル風じゃないか。

 

 

さらにこれは案外ご存知の方が少ないかもしれないので書いておかなくちゃいけないと思うのは、「レット・イット・ビー」という曲、これがこの世に初めて出たのは実はビートルズ・ヴァージョンではない。これは意外に思われるかもしれないよね。一番早い公式リリースはアリーサ・フランクリンによるものだった。

 

 

アリーサの1970年のアトランティック盤『ディス・ガールズ・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』に収録されて発売されたのが「レット・イット・ビー」という曲の初出なのだ。このアルバムのリリースが1970年1月15日。ビートルズの同曲シングル盤リリースが同年三月なんだよね。

 

 

アルバム『レット・イット・ビー』のリリースはさらに遅く1970年5月。ってことはビートルズが公式リリースする前にアリーサ・フランクリンは曲「レット・イット・ビー」を知っていたということになる。おそらくビートルズ側からデモ・テープかなにかをガイドとしてもらっていたんだろう。

 

 

アリーサがもらっていたデモかなにか分らないが「レット・イット・ビー」がどんなものだったのかは分らない。がしかし最も早いビートルズ公式ヴァージョンのリリースは1970年3月だったとはいえ、レコーディングはその一年以上も前に行われている。ご存知『ゲット・バック』セッションの一環だ。

 

 

ってことはアリーサがもらったテープかなにか知らないが、それはあるいはデモみたいな祖型ではなく、ひょっとしたらある程度完成されたヴァージョンだった可能性もあるよね。だいたいアルバム『ゲット・バック』は、リリース順は逆になったけれど、『アビイ・ロード』の前に発売されるはずだったんだし。

 

 

アリーサが『ディス・ガールズ・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』収録の「レット・イット・ビー」をどんな形で聴いていたのかは僕に分らないしさほど重要でもないだろう。重要なのはこの世に初めて出たその「レット・イット・ビー」、それはもう紛う方なきゴスペル・ソングになっているという事実だ。

 

 

 

この YouTube 音源附属の説明文には「ポール・マッカートニーが元々アリーサのために書いた曲」とあるが、本当かなあ?僕はこんな情報は他では全く読んだことがない。アルバム『ディス・ガールズ・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』にも書いてないけどなあ。

 

 

1969年1月周辺の英ロンドンはトゥウィッケナム・スタジオとアップル・スタジオにおける経緯(ジョージがギター・ソロをオーヴァー・ダブしたのはもっと後)を踏まえると、「元々アリーサのためにポールが書いた曲」だというのは俄に信じがたいんだがなあ。う〜ん、どうだろうか?

 

 

とツイートしていたら(僕のブログの文章は全て元は毎晩のツイート)、僕をフォローしてくださっているブラック・ミュージック愛好家 Cowtan さんから『リスペクト』(デイヴィッド・リッツ著、新井 崇嗣訳)というアリーサ・フランクリン本を紹介していただいた。そのなかにこんな記述が出てくるそうだ。

 

 

「レノン=マッカートニーがレット・イット・ビーをアレサに書いてくれた。でもウェクスラーがデモを聞かせると歌詞の宗教観が信仰するバプティストにそぐわないかもと不安になり録音を先延ばし(略)しびれを切らし自分達(ビートルズ)でリリースした。」

 

 

そうだったのかぁ。これが本当ならポールは最初からゴスペル界出身の女性歌手が歌うのを前提にして宗教曲「レット・イット・ビー」を書いたということだなあ。それでその本は現在アマゾンにオーダーして届くのを待っている最中。

 

 

まあいずれにせよ上で音源を貼った1970年のアリーサ・フランクリン・ヴァージョンの「レット・イット・ビー」がゴスペル・ソングになっているというのは誰が聴いたって分ることだろう。冒頭のオルガンは完全なる教会賛美歌風だし、ピアノを弾きながら歌うアリーサも同じだ。

 

 

女性バック・コーラスもゴスペル合唱のスタイルなら、間奏部のキング・カーティスが吹くテナー・サックス・ソロも相当にスピリチュアルだ。このアリーサ・ヴァージョンの「レット・イット・ビー」は全体的に敬虔な宗教曲。そして繰返すがアリーサはゴスペル界出身のソウル歌手で、高名なゴスペル・アルバムもある。

 

 

こんなヴァージョンがこの世に初めて出た「レット・イット・ビー」のヴァージョンだったわけだ。しかし今では完全にポールが歌うビートルズ・ナンバーのイメージしか持たれていないかもしれないけれど、今日書いてきたように最初から聖書的なニュアンスの強い歌詞と曲名と曲調とサウンドだしね。

 

 

僕はアリーサに限らずソウル全般に疎い状態が長年続いていて、だから「レット・イット・ビー」もビートルズ・ヴァージョンしか知らず(まあ今でもおそらく多くのファンはそうだと思うけれど)、オリジナルはこっちの方だというアリーサ・ヴァージョンを聴いたのもかなり遅かった。

 

 

強く意識したのは英 Ace が2011年にリリースしたアンソロジー『カム・トゥゲザー:ブラック・アメリカ・シングズ・レノン&マッカートニー』のラストに、そのアリーサの「レット・イット・ビー」が収録されていたからだ。アルバムを聴いてラストのそれで、僕は不覚にも泣いてしまったのだ。

 

 

それくらいアリーサの「レット・イット・ビー」に激しく感動しちゃったんだなあ。オリジナルであるアルバム『ディス・ガールズ・イン・ラヴ・ウィズ・ユー』はもっと前から持っていて聴いていたはずなのにオカシイなあ。その Ace 盤アンソロジーの編纂が見事だったのだと独りごちておくとしよう。

 

 

Ace 盤アンソロジー『カム・トゥゲザー:ブラック・アメリカ・シングズ・レノン&マッカートニー』はタイトルで分るように、このビートルズの(名義だけの)ソングライター・コンビの曲をアメリカ黒人リズム&ブルーズ〜ソウル歌手が歌ったカヴァーを集めたもの。ビートルズが苦手というブラック・ミュージック・リスナーにはオススメだ。

 

 

なおこの Ace 盤アンソロジーには続編も予定されていて、今年10月17日発売予定の『レット・イット・ビー:ブラック・アメリカ・シングズ・レノン、マッカートニー、ハリスン』がそれ。タイトル通りこっちにはジョージの曲もあるようなので、これも楽しみ。

 

2016/10/05

追憶のハイウェイ 61

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この表題だと間違いなく全員がボブ・ディランのことだろうと思うに違いない。それとかなり関連が深いんだけど、今日は直接的にはディランからちょっと離れて、ミシシッピ州コモのカントリー・ブルーズ・マン、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルのことについての話だ。

 

 

アメリカの黒人ブルーズをたくさん聴いていないロック・リスナーの間でも、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの名前はいまだに憶えられているかも。それはローリング・ストーンズとボニー・レイットのおかげだ。前者はアルバム『スティッキー・フィンガーズ』でマクダウェルを一曲カヴァーしている。

 

 

ストーンズの1971年『スティッキー・フィンガーズ』にあるミシシッピ・フレッド・マクダウェルのレパートリーは「ユー・ガッタ・ムーヴ」。マクダウェルの書いたオリジナル・ナンバーでもなく、アメリカ南部における伝承的ゴスペル・ソングであって、マクダウェルはそれをアダプトしただけ。

 

 

しかしながら『スティッキー・フィンガーズ』収録のストーンズ・ヴァージョン「ユー・ガッタ・ムーヴ」を聴けば、間違いなくミシシッピ・フレッド・マクダウェルの1965年録音ヴァージョンをそのままカヴァーしているのは、両者を聴けば誰でもすぐ分るし、マクダウェルの名前をコンポーザーとしてクレジットしている。

 

 

伝承ゴスペルの「ユー・ガッタ・ムーヴ」については、僕はミシシッピ・フレッド・マクダウェルとストーンズの各種ヴァージョンの他に、このヒル・カントリー・ブルーズ・マンを直接のルーツとする R・L・バーンサイド・ヴァージョンの他、シスター・ロゼッタ・サープ、サム・クックのヴァージョンを持っている。

 

 

このうちシスター・ロゼッタ・サープはご存知ゴスペル・ウーマンなわけだから「ユー・ガッタ・ムーヴ」をやるのに不思議はない。それは彼女の当時のレギュラー・パートナーだったマリー・ナイトとの共演で1950年録音。これが僕の持つ「ユー・ガッタ・ムーヴ」の一番古い録音だ。サム・クックのは63年録音。

 

 

R・L・バーンサイドの「ユー・ガッタ・ムーヴ」(1997年『ミスター・ウィザード』)は書いたようにミシシッピ・フレッド・マクダウェルを最大かつ直接の影響源とする人なわけだから、ギターがエレクトリック・ギターになっているだけで、スタイルは完璧に同じだ。三種類あるストーンズのヴァージョンは説明不要だろう。

 

 

「ユー・ガッタ・ムーヴ」に深入りするのはやめておこう。最初に書いたもう一人、ボニー・レイットは自らのギター・スライド・スタイルへの大きな影響源としてミシシッピ・フレッド・マクダウェルの名前をあげ、実際に交流もあり、マクダウェルへの敬愛を隠さない女性ギタリストだ。

 

 

そんなストーンズとボニー・レイットのおかげで僕もわりと前からミシシッピ・フレッド・マクダウェルを、その名前だけ見ていたのだが、このブルーズ・マンの実際の録音を聴いたのはCD時代になってから。それも1990年代後半のことだったはずだ。ファット・ポッサムのブルーズへの傾倒がきっかけだった。

 

 

ファット・ポッサムという言葉がレコード・レーベルの名称だということが、2016年の今では忘れかけられつつあるような気がしないでもないのだが、詳しく説明するとまた長くなってしまうのでやめておく。1990年代前半にミシシッピの田舎町でスタートし、当時はブルーズばかり録音していた。以前詳しく書いた。

 

 

 

ミシシッピでブルーズというとデルタ・ブルーズを連想する人も多いはずだけど、ファット・ポッサムのブルーズはやや趣が異なっていて、同州北部のヒル・カントリーにおける黒人コミュニティのなかで、当時も昔とあまり姿を変えずに連綿と演唱され続けているブルーズを録音していた。

 

 

ファット・ポッサム・レーベル最大の人気者で代表格が上で名前を出した R・L・バーンサイド。他ではジュニア・キンブロウも同レーベルから何枚もCDを出し人気もそこそこあった。他にもいっぱいいる。そんなファット・ポッサム・ブルーズのルーツとしてミシシッピ・フレッド・マクダウェルを聴いたのだった。

 

 

ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの録音がCDリイシューされたのがやはり1990年代後半で、僕の持っているもののパッケージを見てもその近辺のリリースになっている。これはやっぱりその頃のファット・ポッサム人気にあやかってそのルーツ格を出そうということだったのか、そうでもなかったのかは分らないが。

 

 

ともかくそんなことで1990年代後半にCDリイシューされたミシシッピ・フレッド・マクダウェルのアルバム。僕が持っているのは全て当時は渋谷警察署裏の雑居ビル二階にあった黒人音楽専門店サムズで買った輸入盤だけど、調べてみたらほぼ同時期に日本盤もリリースされたものがあるようだ。

 

 

ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの録音集を聴くと、まさに R・L・バーンサイドなどにそっくりで、こりゃ当り前だ。バーンサイドらはマクダウェルをお手本にしてやったんだからね。一番似ているのがギターの弾き方で、マクダウェルはアクースティック・ギターの場合が多いけれど、同様のループ感覚がある。

 

 

ループ感覚と言ってもお聴きでない方には分らないだろうから、音源を貼っておこう。一番分りやすいと思うのが、この曲はデルタ・ブルーズ・スタンダードの一つだからデルタ・ブルーズ・メンもたくさんやっている「シェイク・エム・オン・ダウン」。

 

 

 

どうだろう?デルタ・ブルーズ・メンのやる「シェイク・エム・オン・ダウン」で馴染んでいると、ギターで奏でるリズムの感じがかなり違うことが誰だって聴取れると思う。参考までにこっちは典型的デルタ・スタイルの一人ロバート・ペットウェイの「シェイク・エム・オン・ダウン」。

 

 

 

全然違うよね。他にも最もよく知られているブッカ・ホワイトのだとかトミー・マクレナンのだとか、デルタ・スタイルのブルーズ・メンがやる「シェイク・エム・オン・ダウン」もほぼ同じ感じ。彼らがギターでザクザク刻む強靱なビート感は、まるでズンズンと前へ向いて進むようなフィーリングだよね。

 

 

それに対しミシシッピ・フレッド・マクダウェルの「シェイク・エム・オン・ダウン」でのギター・ビートはズンズンと前進するようなフィーリングではなく、なんというか一箇所でグルグル回転しているような感じに聞えるんじゃないかなあ。少なくとも僕にとってはそんなダンス感覚のブルーズだ。

 

 

一箇所でグルグル廻る、すなわち上で僕が書いたループ感覚とでも言うようなものがミシシッピ・フレッド・マクダウェルにはあると思うんだよね。そんでもってこの人の録音集を聴くと、ほぼ全ての曲のビート感がそんな具合なのだ。聴き慣れない人には全部が「同じ曲」に聞えるかもしれないようなもんだ。

 

 

いや、聴き慣れている人にとってもミシシッピ・フレッド・マクダウェルの録音集はまるで金太郎飴状態で、どこから切取っても同じ感じに聞えてしまうものなのだ。これは必ずしも弱点だとばかりは言えない。全部同じならば簡単に聴き飽きるんじゃないかというとそんなことはない。継続の快感ってものがある。

 

 

「継続の快感」ってのはブルーズとか、あるいは時代が下ればファンク・ミュージックも同じだと思うんだけど、あまり変化がなく起伏に乏しく、終盤のドラマティックな転調でハッとさせるなんてことがあるわけもなく、ただひたすらにオンリー・ワン・グルーヴを反復し、それを続けるのが気持良いってやつだ。

 

 

ブルーズとかファンクってそういう音楽なんじゃないかなあ。ワン・グルーヴ継続の快感が続いて最終的にそれでイッてしまうっていうようなものだよね。そういえばミシシッピ・フレッド・マクダウェルのやるものの約八割から九割はコード・チェンジが全くないワン・コード・ブルーズなんだよね。

 

 

ワン・コード・ブルーズはご存知の通りいっぱいある。マディ・ウォーターズの「マニッシュ・ボーイ」なんか有名だ。1960年代後半にジェイムズ・ブラウンらがはじめたワン・コード・ファンクの直接のルーツじゃないかなあ。ワン・コード・ブルーズと、あとはマイルス・デイヴィスらが完成させたコード変化の乏しいモーダルなジャズ。この二つじゃないかなあ。

 

 

ファンクのルーツにそれらワン・コード・ブルーズとモーダル・ジャズがあったんじゃないかという話はまた別の機会にじっくり考えて書いてみたい。ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの録音の大半がワン・コード・ブルーズだというのは、ひょっとして初期型ブルーズの姿を残しているということかなあ。

 

 

ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの初録音はアラン・ローマックスに「発見」されての1959年だから、新しい戦後のブルーズ・マンであるかのようなイメージがあるかもしれないけれど、マクダウェルは1904年生れだ。1904年には、戦前にしか録音がないロバート・ジョンスンだってまだ生まれていない(1911年生まれ)んだよね。

 

 

つまりミシシッピ・フレッド・マクダウェルはブルーズ旧世代の人間であって、1904年生まれということは20〜30年代に録音があっても全く不思議じゃない世代だ。事実、ミシシッピ州コモやヒル・カントリー周辺のジューク・ジョイントなどではその頃からずっとブルーズをやっていたらしい。

 

 

真の意味での初期型ブルーズは全く録音がないわけだから姿は想像しかできないけれど、上で音源を貼った「シェイク・エム・オン・ダウン」は商業録音開始前から伝わっている古いパブリック・ドメイン。デルタ・スタイルのロバート・ペットウェイのと、ヒル・カントリー・スタイルのミシシッピ・フレッド・マクダウェルのを比較してほしい。

 

 

比べるとどう聴いてもロバート・ペットウェイのデルタ・スタイルの方が「新しい」スタイルのように思える。少なくとも僕にとってはそうだ。ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの方がプリミティヴじゃないかなあ。これはミシシッピ州ヒル・カントリー地域のブルーズが、黒人コミュニティ内であまり変化せず手つかずで残っていたということだろう。

 

 

しかしながらもっと興味深いのは、そんなより古く、よりプリミティヴなものであるはずのミシシッピ・フレッド・マクダウェル(や R・L・バーンサイドら)ヒル・カントリー・ブルーズには、書いたようなグルグル廻るループ感覚があって、若干ヒップホップ的なフィーリングに聞える部分もあるってことだ。

 

 

1990年代後半にファット・ポッサム・レーベルのブルーズが大ブレイクしたのは、やはりその90年代的同時代性をも兼ね備えていたからに違いないと思うんだよね。単にヒル・カントリーの古いど田舎ブルーズをそのままやっているという部分だけであれば、あの時代にあれだけ流行した理由が説明しにくいだろう。

 

 

そんなファット・ポッサム連中の直接の先輩格ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの残した録音のなかには「ハイウェイ 61」(とか「61 ハイウェイ」とか表記は様々)というものがある。このルート61はミシシッピとメンフィスとニュー・オーリンズを結び北部へ繋げる幹線で、ブルーズにとっては重要なものなのだ。

 

 

それでいろんな南部の、あるいは南部出身のブルーズ・マンがハイウェイ 61を歌い込んでいる。曲名にしたり歌詞の一部に出てきたりなどなど。61号線でなくたって、そもそもハイウェイもブルーズやその他アメリカ黒人音楽で頻出するイメージだよなあ。一番有名なのはジャンルを超えていろんな人が歌った「ルート 66」だろう。

 

2016/10/04

このソロ・ピアノはショーロ?ジャズ?クラシック?

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楽器名のピアノ(piano)。ご存知の通りこれはピアノフォルテ(pianoforte)というイタリア語から来ていて、もっと言えばグラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(gravecembalo col piano e forte)というのがこの楽器名の大元の由来。

 

 

ピアノとフォルテはもちろん楽譜に書かれる指示用語。ピアノは「弱く小さい音で」、フォルテは「力強く」という演奏を指示するもので、そこから最低音から最高音まで出せ、弱い音も強い音も自在に出せる新型鍵盤楽器をピアノフォルテと呼びはじめ、それが省略されて次第にピアノになったんだろうなあ。

 

 

クラシック音楽のレコードやCDだと楽器名のところによくpfって書いてあるよね。あれだ、あの p と f がね。僕は最初の頃、p は分るけれど、f がなんのことだか分っていなかった。それにしてもどうして楽器名はフォルテにならなかったんだ?省かれたフォルテが不憫でならない。

 

 

ともかくそんなわけでピアノという呼称にいつ頃定着したのかは調べてみないと分らないが、そういうことになっているこの楽器。クラシック音楽も好きで聴いているものがあるけれど、全く分っていないはずだから(いやまあポピュラー音楽だって怪しいもんだが)それについては僕は書かない。

 

 

僕の場合やはりジャズだなあ、ピアノが好きになったのは。花形楽器の一つだもんね。でもモダン・ジャズに多いピアノ・トリオは実は昔からさほど熱心ではなく、もっと多くの楽器、例えば管楽器などが入っているバンド形式のものか、そうでなければソロ・ピアノでやっているものの方が好きだ。

 

 

これはピアノ・トリオ編成がすんごく多いモダン・ジャズよりも、もっと前の戦前の古典ジャズの方が好きだという僕の嗜好もあるなあ。そういう世界ではピアニストは一人でやるか、さもなければバンドの一員としてやるかのどっちかだというケースが殆どなのだ。ピアノ・トリオなどまだ存在しないから。

 

 

そんでもってビッグ・バンド(こそが戦前古典ジャズでは中心)でやっている時ですら、そのなかのピアノ・ソロ・パートに来ると、なぜだかピアノ以外の楽器演奏がピタリとやんで、ピアノ独奏みたいになっている場合が結構ある。デューク・エリントン楽団の戦前録音などでもそういう場合が多い。

 

 

録音技術がまだ未発達だったせいなのはもちろんある。しかし理由はそれだけじゃないだろう。戦前の古典ジャズ・ピアニストの多くはいわばオーケストラ的奏法の持主が多く、アール・ハインズが1920年代前半に確立した右手シングル・トーン弾きが浸透して以後もそんな弾き方が残っていた。

 

 

ピアニストはたった一人で交響楽団的な響きの演奏ができちゃうわけで、これはなにも戦前古典ジャズに限った話ではなく、もちろんクラシックだって、あるいはジャズではない他のポピュラー・ミュージックでも同じ。だからあらゆるジャンルでソロ・ピアノのアルバムがかなりあるよね。

 

 

しかしながらソロ・ピアノの世界、特にモダン・ジャズのそれには聴けるものが多くない。1970年代以後大流行したジャズのソロ・ピアノ。一番人気があるのがキース・ジャレットだけど、あれはどこがいいんだか大学生の頃からサッパリ分らない僕。楽器を用いたマスターベイションだとしか思えない。

 

 

マスターベイションは自室で一人でやってくれたらいいのであって、それをステージ上でやって大勢の観客の前で披露したり、録音してレコードやCDにしたりは僕には理解できない。大学生の頃にそれでもキース・ジャレットを自分で買うこともあって、しかしどう聴いても気持悪くて耐えられないのだ。ジャズ喫茶では我慢していた。

 

 

日本にもキース・ジャレットのソロ・ピアノ愛好家は多いので、あんまり言いすぎるとジャレット本人に向けてではなくそういうファンの方々に向けての悪口になりかねないので、このあたりでやめておく。日本人では坂本なんちゃらとかも、僕はYMOでの活動にしか興味がない。ソロ・ピアノなんかねえ。

 

 

そういうものに比べたら、新しいものでは(1970年代初頭だから新しいだろう)チック・コリアの『ピアノ・インプロヴィゼイション』二枚はまだマシだったように思う。しかしそれも「新しいものでは」という注釈付きであって、戦前のストライド・ピアノやブギ・ウギ・ピアノなどの魅力には程遠い。

 

 

ようやく本題に入るが、そんなソロ・ピアノの世界はブラジルのショーロにもある。ショーロ・ピアノ・アルバムで最近リリースされたものではエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』(訳せば「ピアノ演奏技術」)がかなり良かった。これは2013年のアルバムなんだけど、僕は今年知ったばかり。

 

 

エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。なにがいいかってまず第一にリズムの強さだ。これはクラシックや一部のジャズのソロ・ピアノでは聴けないもの。特に左手でしっかりしたビート感を出していて、これは僕が好きで好きでたまらない戦前古典ジャズのソロ・ピアノ・スタイルに通じるものがある。

 

 

そんでもってエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』の場合は、北米合衆国のストライド・ピアノやブギ・ウギ・ピアノでも聴きにくい、なんというか一種の打楽器的奏法なのだ。その点ではちょっぴりデューク・エリントンを彷彿とさせるけれど、エリントンとはスタイルが違っていて、叩きつけるような弾き方でもない。

 

 

エルクレス・ゴメスの打楽器的ピアノ奏法は、パーカッシヴではあるけれどガンガン叩きつけるようなものではなく、粒立ちの良いタッチで、絶妙な両手のバランスでもってリズミカルに聴かせるというようなもの。ピアノは一台だけでまるでオーケストラ的なサウンドを出せると上でも書いたけれど、まさにそれを上手く実現している。

 

 

エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』ではどの曲もまるで交響楽的な響きのニュアンスを持っている。こういうのこそがソロ・ピアノの世界だよなあ。右手シングル・トーンだけで延々とひたすら抒情的にダラダラ弾くみたいな一部ジャズ・ピアニストに、エルクレス・ゴメスの爪の垢を煎じて飲ませたい気分だ。

 

 

エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』は全12曲で、そのなかには有名なショーロ・ピアノの先達たちの名前もある。ラダメス・ニャターリ(三曲目)とエルネスト・ナザレー(12曲目)がそれ。この二曲を聴くと、エルクレス・ゴメスがショーロ・ピアノの伝統をしっかりと受継いでいるのもよく分る。

 

 

ラダメス・ニャターリもエルネスト・ナザレー(の方が古い)も20世紀前半に活躍したショーロ・ピアニスト/コンポーザーだけど、二人ともクラシック音楽とポピュラー音楽の境界線に立っているような存在。実際、両方の世界で聴けるような作品を多く残しているし、両方の世界を股にかけて活躍した。

 

 

以前からショーロについて書く際は必ず繰返しているけれど、ブラジル音楽であるショーロの世界でクラシック音楽/ポピュラー音楽の厳密な区別は不可能。それはほぼあらゆるショーロについて言えることだけど、特にショーロ・ピアノの世界にはこれが当てはまる。エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』もそんな作品なのだ。

 

 

しかしこう言ったからといってエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』をポピュラー音楽ファンのみなさんには敬遠してほしくない。なぜなら偉大な先人エルネスト・ナザレーもそうだったように、アフリカ音楽由来の強靱なリズム感覚が息づいているからだ。これはクラシックのソロ・ピアノでは全く聴けない。

 

 

クラシック・ピアノだけではなく、大人気のモダン・ジャズのソロ・ピアノでもほぼ聴けないリズム感覚なのだ。エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』を聴いて想起するのは、僕の場合やはり戦前古典ジャズ・ピアニストのソロ演奏だなあ。左手で奏でるビート感などはなかなか似ていると思う。モダン・ジャズ界で敢て探せば、ハービー・ハンコックが一人で弾いている時に少し似ている。

 

 

ショーロ・ピアノはしばしばクラシック音楽寄りになっていき、ちょっと甘くなりがちなんだけど、エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』の場合は、流麗な部分とエッジの効いたリズム感が上手く両立していて、クラシックでもジャズでもなく、そしてショーロの世界にも少ないだろうという成功を収めている。

 

 

ソロ・ピアノの世界では(僕の場合)稀な大成功例である若手ショーロ・ピアニスト、エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。アマゾンなどで簡単に買えるので、是非ソロ・ピアノ音楽ファンには聴いていただきたい。そしてもう名前は出したくないがあの人やこの人などのソロ・ピアノの気持悪さも分ってほしい。

 

 

なお僕はこのエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。これまた例によって荻原和也さんのブログで教えていただいた。今日のこの文章の約半分は、その荻原さんのブログ記事のほぼコピー&ペーストみたいなもんだ。荻原さん、ゴメンナサイ。みなさん是非ご一読をお願いします!

 

 

2016/10/03

ストーンズのカントリー・ナンバー

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以前ローリング・ストーンズの録音史上初のカントリー・ナンバーは1969年の『レット・イット・ブリード』の「カントリー・ホンク」かもしれないと書いた(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-bf40.html)が、これは間違いだ。前作68年の『ベガーズ・バンケット』に少しある。

 

 

1968年の『ベガーズ・バンケット』は、言ってみればブルーズ賛美とでもいうような内容のアルバムで、一曲目「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル」(邦題はダメ)は、悪魔の音楽と呼ばれるアメリカ黒人ブルーズへの共感(シンパシー)を表現したようなもの。他の収録曲もそれに沿った内容だ。

 

 

実際アメリカの古いカントリー・ブルーズのカヴァーやそれ風なオリジナル・ブルーズが中心な『ベガーズ・バンケット』ではあるんだけど、既にしっかり白人音楽であるカントリー・ミュージック要素があるんだなあ。はっきりしているのは「ディア・ドクター」と「ファクトリー・ガール」の二つ。

 

 

A面二曲目の「ディア・ドクター」は三拍子で完全にアクースティック・サウンド。というか『ベガーズ・バンケット』はほぼ全編生楽器中心だよね」。ミックがハーモニカを吹く。これはややカントリー風ではあるけれど、カントリー・ソングとは言いにくい。

 

 

 

B面四曲目の「ファクトリー・ガール」の方は完全にカントリー・ソングだと言ってもいいはず。アクースティック・ギター中心だけど、フィドルが大きくフィーチャーされていて、どこから聴いてもカントリーだ。しかもタブラが入っているじゃないのさ。

 

 

 

タブラは米カントリー・ミュージックでは通常使われない打楽器。それを叩くのはチャーリー・ワッツ。コンガも入っているし、それらをこんなカントリー・ソングのなかで使い、しかもマンドリンの音も聞えるしなあ。しかしこれはマンドリンそのものではなくメロトロンらしい(ご存知の通り鍵盤を押すと音を録音してあるテープを再生する仕組の楽器)。

 

 

「ファクトリー・ガール」はカントリー・ソングでありかつ、米アパラチアのフォーク・ソングみたいな雰囲気のマウンテン・ミュージックでもある。1968年春頃に録音したこれこそがストーンズの録音史上初のカントリー・ソングに間違いない。しかしタブラとコンガのせいで、まるで無国籍音楽みたいだ。

 

 

だから単純にアパラチア・マウンテン・ミュージック風フォーク・カントリーとだけも言いにくい不思議なサウンドだよなあ。この1960年代末〜70年代初頭のロック・アルバムには、特にインド風な曲でなくたってタブラやシタールが入っていたりして、ちょっとエキゾチックなものがたくさんあった。

 

 

次作『レット・イット・ブリード』には最初に書いた通り「カントリー・ホンク」があるけれど、これ以外にも僕の認識ではカントリー・ソングが三曲もある。「ラヴ・イン・ヴェイン」「レット・イット・ブリード」「ユー・ガット・ザ・シルヴァー」だ。最初のはブルーズだから違うだろうと言われそうだが。

 

 

確かに「ラヴ・イン・ヴェイン」はアメリカ黒人ブルーズ・マンであるロバート・ジョンスンのカヴァー。だから黒い音楽なんじゃないかと言われそうなんだけど、その先入見を捨てて虚心坦懐にサウンドを聴いてほしい。どこが黒いんだ?真っ白けだよ。

 

 

 

単に曲形式が12小節3コードのブルーズ楽曲だというだけで、しかもそれがアメリカ黒人ブルーズ・マンの曲だというだけで、ストーンズの連中のやったこのカヴァー・ヴァージョンは、むしろ白人カントリー・ミュージック風のサウンドじゃないか。マンドリンの音もオブリガートとソロとではっきりと聞えるしなあ。

 

 

ロバート・ジョンスンの原曲「ラヴ・イン・ヴェイン・ブルーズ」はデルタ・カントリー・ブルーズ風ではなく、かなり都会風のサウンドで、リロイ・カーに影響を受けたに間違いないシティ・ブルーズ風だ。ブギ・ウギのパターンを弾いているしなあ。

 

 

 

ロバート・ジョンスンはミシシッピ・デルタの人間にして、実はカントリー・ブルーズと同じくらいシティ・ブルーズの影響下にあることは僕も何度か指摘している。そんな都会派ブルーズである「ラヴ・イン・ヴェイン・ブルーズ」をストーンズの連中は、逆にアメリカ南部の田舎風サウンドに「戻し」ちゃったわけだ。

 

 

効果的に入っている、キースなのかミック・テイラーなのか分らないスライド・ギターだって、これはブルーズで実に頻繁に聴ける普通のスライド・プレイじゃなくて、むしろカントリー・ミュージックで使われるペダル・スティール・ギターのサウンドみたいに聞えちゃうもんね。少なくとも僕にはね。

 

 

つまりアメリカ黒人ブルーズ・マンがやったシティ・ブルーズを、UKロッカーがカントリー化したってことだ。音源を貼ったストーンズ・ヴァージョンの「ラヴ・イン・ヴェイン」に黒さとかブルージーさみたいなものは少なくとも僕は全く感じない。これは彼らが白人だからではないよ。真っ黒けなサウンドが本領のバンドなんだから。

 

 

しかもストーンズ・ヴァージョンの「ラヴ・イン・ヴェイン」はバラードだよね。恋人が駅から列車に乗って去って行ってしまうのを追掛けるが間に合わず寂しく見送るという失恋を歌った内容(米ブルーズには列車が頻出する)だから、トーチ・ソングと言うべきか。

 

 

もちろん上で音源を貼ったようにロバート・ジョンスンの原曲はブギ・ウギであってバラード調でない。それをバラード風にアダプトして仕立て上げたストーンズの解釈は見事だ。それで振返ってよく聴直すと、ロバート・ジョンスンのオリジナル・ヴァージョンに既にバラード風なフィーリングがあるもんね。

 

 

ストーンズの連中はロバート・ジョンスンのを聴いて、これはバラード的だという本質を見抜いて、グッと拡大してあんな感じにしたんだなあ。名前は敢て出さないがブルーズが得意とされている某UKロッカーのロバート・ジョンスン曲集にある「ラヴ・イン・ヴェイン」なんか表面上のカタチを真似ているだけだ。

 

 

そんなわけで僕にとってはストーンズ・ヴァージョンの「ラヴ・イン・ヴェイン」は真っ白けなサウンドの印象と相俟って、ブルーズではなくカントリー・バラード・ナンバーに聞えるんだよね。しかしあんまり言うと、ストーンズを黒人音楽バンドとして聴いてきている多くのファンには怒られそうだなあ。

 

 

アルバム『レット・イット・ブリード』の「カントリー・ホンク」の話は以前詳述したので上掲リンク先の記事をご参照いただきたい。このアルバムのもう二曲のカントリー・ナンバーは、A面ラストの「レット・イット・ブリード」とB面二曲目の「ユー・ガット・ザ・シルヴァー」。どちらも同意していただけるはず。

 

 

「レット・イット・ブリード」では入っているスライド・ギター(キース?ミック・テイラー?)がやはりカントリー風ペダル・スティールみたいだし、曲調もアメリカ南部の鄙びたヒルビリー・テイストだ。後半部の盛上げ方は素晴しい。そこはやはりロックだ。

 

 

 

「ユー・ガット・ザ・シルヴァー」や、1971年の『スティッキー・フィンガーズ』の「ワイルド・ホーシズ」と「デッド・フラワーズ」の話はおいておかないとあまりにも長くなってしまうので、僕がもっと好きなストーンズのカントリー・ソング二つの話をしよう。一つは72年『メイン・ストリートのならず者』にある「スウィート・ヴァージニア」。

 

 

「スウィート・ヴァージニア」はキースの弾くアクースティック・ギターに乗ってミックがハーモニカを吹きはじめたと思うと、すぐに誰が弾いているのか分らないマンドリンが入ってくる。少し聴いているとLAスワンプ風女性ヴォーカル・コーラスが入る。

 

 

 

なんだかこれもかなり鄙びたアメリカ南部の田舎町のフィーリングだよねえ。しかもボビー・キーズがお得意のホンキー・トンクなテナー・サックスを吹いている。正直言ってアルバム『メイン・ストリートのならず者』のなかでは「ダイスをころがせ」の次にこの曲が好きなのだ。この二曲、CDだと連続して再生される。

 

 

もう一つの僕の最愛ストーンズ・カントリー・ソングは1978年『女たち』B面一曲目の「ファー・アウェイ・アイズ」。これはベイカーズフィールド・スタイルのカントリー・ソングなのだ。いい感じのペダル・スティールはロニー・ウッドが弾いている。

 

 

 

ベイカーズフィールド・サウンドとは、1950年代後半に米カリフォルニアの町ベイカーズフィールド周辺で展開されたカントリー・ミュージックのスタイルの一つ。米カントリー・ミュージックの最大のメッカであるテネシー州ナッシュヴィルのいわゆるナッシュヴィル・サウンドへの対抗だった。

 

 

ストーンズの「ファー・アウェイ・アイズ」では、ミックがはっきりと「日曜日の朝早くベイカーズフィールドを通り故郷の町へとクルマを運転しながら」なんて歌っているよね。歌詞にベイカーズフィールドが出てくるだけでなく、サウンドもベイカーズフィールド・スタイル。バラード調のものをやる時のバック・オーウェンズに似ている。例えばこんなの。

 

 

 

ベイカーズフィールド・サウンドの代表格バック・オーウェンズといえば、ビートルズも『ヘルプ!』のなかで「アクト・ナチュラリー」をやっているよね。これはバック・オーウェンズのオリジナル・ナンバーだ。ビートルズもストーンズもみんなブルーズ系ばっかりじゃなくて、カントリーも結構やっている。

 

 

ビートルズだって他にもたくさんカントリー風ナンバーがあるし、今日の本題であるストーンズもここまで書いてきたのはほんの一部であって、他にもいい感じのカントリー・ソングがいっぱいあるんだよ。そして本場であるアメリカでは黒人音楽と白人音楽はかなり距離が近いもんなんだ。やっぱり両方聴かなくちゃね。

 

2016/10/02

「アイ・リメンバー・クリフォード」のアレンジャーは誰だ?

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ジャズ・トランペッター、リー・モーガンの残した録音で今の僕が一番グッと来るのは、1970年のライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』だ。現行CDはバラ売り三枚で計三時間以上。これが最高なんだなあ。どうして最高かと言うと、70年録音らしいファンキーさが爆発しているから。

 

 

特に1970年発売当時のアナログ・レコードには収録されず、1996年リリースのCD三枚の三枚目ラストに入っている「ザ・サイドワインダー」が文句なしのソウル・ジャズ。ご存知の通り63年録音がオリジナルなんだけど、70年録音のライトハウスでのライヴ・ヴァージョンでは、そのファンキーさを拡張している。

 

 

 

ファンキーなドラムスはミッキー・ロウカー。テナー・サックスもファンキーだけど、数年後からハービー・ハンコックの電化ファンク路線で大活躍することになるベニー・モウピン。ピアノのハロルド・メイバーンは自分のソロで、お聴きになればお分りの通りウィルスン・ピケットの「ダンス天国」を引用しているよね。なんてカッコイイんだ。

 

 

もちろん例の「ら〜、らららら〜」っていう例のリフレイン部分だ。日本のグループ・サウンズ、ザ・スパイダースもこの曲をカヴァーしているが、そのヴァージョンではそのリフレインをいきなり冒頭に持ってきているよね。当然だろう。すんごいキャッチーだもんね。だから僕みたいにソウル・ミュージックに縁遠い日本人でもだいたいみんなその部分は知っている。

 

 

「ダンス天国」(Land of A Thousand Dances)というくらいで、ウィルスン・ピケットの歌う歌詞のなかには各種ダンスの名称が出てくる。しかし名前だけでは日本人にはどうもピンと来ないもんねえ。僕がそれを分るようになったのは映画『ブルース・ブラザース』を観て以後のこと。

 

 

そういえばその『ブルース・ブラザース』にも出演していたジェイムズ・ブラウンの歌う曲のなかにもダンス名が出てくるものがあるなあ。「ゼア・ワズ・ア・タイム」とかさ。これはウィルスン・ピケットやジェイムズ・ブラウンやその他だけでなく、黒人音楽とダンスは全く切離せないものなんだから極めて自然なことで、みんな歌ったり曲名にしたりする。

 

 

ともかくそんな「ダンス天国」のリフレインを、1970年の「ザ・サイドワイダー」でハロルド・メイバーンがピアノ・ソロのなかに織込んでいるってのが、こりゃもう70年代のジャズ系ファンクとかソウル・ジャズとかああいったもの全部がいったいどういう音楽なのかを如実に示しているわけだよね。

 

 

そんな意義深く、いや、そんなことを考えなくたって超ファンキーでカッコイイ1970年の「ザ・サイドワインダー」があったり、その他いろいろと面白いリー・モーガンの『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』三枚の話は言いたいことがいっぱいあるので、別の機会に改めてじっくり書いてみたい。まあしかしこの人が非業の死を遂げずにあと三年でも生きていたらどうなってたかなあ。

 

 

今日はストレート・アヘッドなメインストリーム・ジャズをやっているリー・モーガンの話をしたい。このトランペッターが名を上げたのは、やはり1958年にアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに加入したことからなんだろう。

 

 

なかでもこの曲こそがこのバンドの最有名曲にして代表作であるボビー・ティモンズの書いた「モーニン」。聞いた話では、当時、日本の蕎麦屋の出前の兄ちゃんまでもが配達の自転車に乗りながらこれを口ずさんでいたという逸話があるくらいで、ウソくさいとは思うけれど、大ヒットしたのは確か。

 

 

そんな、ジャズに興味のない日本人ですら知っていたというくらいの、言ってみればモダン・ジャズ名曲の代名詞とも言うべき「モーニン」のトランペットが誰あろうリー・モーガンだもんね。スタジオ録音のオリジナルがもちろんモーガンだし、その後のライヴでも繰返し吹いていて名演もある。

 

 

その当時のジャズ・メッセンジャーズのテナー・サックス奏者がベニー・ゴルスン(なんと2016年でもいまだ現役続行中!)。「モーニン」のスタジオ・オリジナルが収録されているアルバムは俗に『モーニン』というタイトルになっているが、本当はバンド名しかジャケットに書かれていないもの。

 

 

だから僕はそのアルバムを『モーニン』とは呼ばないのだが、しかしそう呼ばないとどうにもアイデンティファイできにくいのも確かではある。このアルバムのホーン二管がリー・モーガンとベニー・ゴルスンで、ゴルスンはアレンジ譜面を書くのも得意だったので、音楽監督的役割もやっていた。

 

 

それで通称<ゴルスン・ハーモニー>とファンの間で呼ばれる、あの複数のホーン奏者による独特の和音の響きが人気だったわけなんだけど、そんなゴルスン・ハーモニーがジャズ・メッセンジャーズ以上にはっきりとそしてたっぷりと味わえるのが『リー・モーガン・ヴォリューム・3』だ。

 

 

もちろんリー・モーガンのリーダー作である『リー・モーガン・ヴォリューム・3』は1957/3/24録音のブルー・ノート盤。ってことはアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズ加入直前だ。これにベニー・ゴルスンが参加して、かの名曲「アイ・リメンバー・クリフォード」を提供している。

 

 

ジャズ・ファンのほぼ全員が、間違いなく「アイ・リメンバー・クリフォード」があるからこそアルバム『リー・モーガン・ヴォリューム・3』を聴いているんだろうというくらいの代表曲だよなあ。約七分間、短いピアノ・ソロを挟むだけで、あとはひたすらリー・モーガンが朗々と吹く追悼バラード。

 

 

 

追悼って誰を?なんて説明はもちろん不要。録音の前年に事故死してしまった偉大すぎる先輩トランペッター哀悼曲だからこそ、同楽器の後輩であるリー・モーガンをほぼ全面的にフィーチャーしているわけだ。そして曲を書いたゴルスンは、言うまでもなく当然アレンジもやっているんんだろう?

 

 

どうして疑問符を付けるのかというと、『リー・モーガン・ヴォリューム・3』にはアルト・サックスとフルートでジジ・グライスも参加しているからだ。グライスのアレンジの腕前もゴルスンに負けず劣らず一級品。というか僕の見立ではグライスのペンの方が上じゃないかと思う。

 

 

ジジ・グライスは追悼されているトランペッターとも深い関わりがあった。1950年代初期のあのライオネル・ハンプトンのビッグ・バンドにジジ・グライスも在籍していた。具体的には1953年の同楽団ヨーロッパ公演に帯同しアルト・サックスを吹きアレンジもやっている。

 

 

クリフォード・ブラウン名義の例の1953年パリ・セッション三枚。個人的好みだけならこれの(大変に評価の高いカルテット編成でやった三枚目ではなく)一枚目のビッグ・バンド録音こそがブラウニーの全録音のなかで最も好きである僕。特に冒頭にある「ブラウン・スキンズ」2テイクが最高なのだ。

 

 

自分の名前にひっかけた曲名である「ブラウン・スキンズ」では、二つのテイクのいずれでもブラウニーのよく歌うトランペットが筆舌に尽しがたい素晴しさ。そしてこの曲を書きビッグ・バンド・アレンジもしているのがジジ・グライスに他ならない。サックスだけでなく一流アレンジャーだったとよく分る。

 

 

アルト・サックスを吹く時のジジ・グライスはチャーリー・パーカー直系スタイルで、それも決して二流の腕前とかではないけれど、ハッキリ言ってもっといいサックス奏者がたくさんいるので、僕はそんなに高くは評価できない。僕にとってのグライスはやっぱりペンの冴えるアレンジャーなのだ。

 

 

そんなアレンジの素晴しく上手いジジ・グライスが『リー・モーガン・ヴォリューム・3』には参加していて、同じようにアレンジの上手いベニー・ゴルスンもいるもんだから、この二名のうちどっちがアレンジしているのか、僕みたいなヘボ耳の持主にはハッキリしない場合があるんだなあ。

 

 

もちろん「アイ・リメンバー・クリフォード」の場合はベニー・ゴルスンの書いたオリジナルなんだから、『リー・モーガン・ヴォリューム・3』収録ヴァージョンのアレンジもゴルスンに間違いないんだろう。実際リー・モーガンの吹くバックで鳴る二管ハーモニーもいかにもゴルスン的なものだしなあ。

 

 

しかしながらこの「アイ・リメンバー・クリフォード」という曲、そのリー・モーガン・ヴァージョンばかりがあまりにも有名になったせいでかすんでしまい忘去られているんじゃないかと思うんだが、初演はリー・モーガンではなく、実はドナルド・バードの1957年盤『ジャズ・ラブ』収録ヴァージョンだ。35:37から。

 

 

 

そしてですね、そのドナルド・バードが「アイ・リメンバー・クリフォード」を吹く1957年1月録音のコロンビア盤『ジャズ・ラブ』にはジジ・グライスが参加しているのだ。そんでもってそのドナルド・バードの吹くこの曲の初演ヴァージョンのアレンジが、リー・モーガン・ヴァージョンにそっくりなのだ。

 

 

ドナルド・バードの「アイ・リメンバー・クリフォード」初演ヴァージョンには、ドナルド・バードとジジ・グライスのほか、ジミー・クリーブランドのトロンボーン、ジュリアス・ワトキンスのフレンチ・ホルン、サヒブ・シハブのバリトン・サックス、ドン・バターフィールドのチューバも参加している。

 

 

それらコンボ編成のモダン・ジャズにしてはかなり数の多いホーン群のアレンジは言うまでもなくジジ・グライスだ。そのグライス・アレンジが、『リー・モーガン・ヴォリューム・3』にある「アイ・リメンバー・クリフォード」におけるアレンジとよく似ている、似すぎているように聞えるんだよね。これは一体どういうことになるんだろう?

 

 

曲のメロディを書いたのがベニー・ゴルスンであるのは疑えない。ゴルスンも1950年代のライオネル・ハンプトン楽団在籍経験がある(クリフォード・ブラウンと同時在籍だったかどうかはどうもハッキリしないというか、おそらく同時ではない)ので、一層ブラウニーへの思い入れがあったんだろう。

 

 

しかしドナルド・バードの『ジャズ・ラブ』ヴァージョンの「アイ・リメンバー・クリフォード」初演と、『リー・モーガン・ヴォリューム・3』ヴァージョンでの同曲と、その両方のトランペッターの背後で入るホーン群の響きの類似性を聴くと、果してアレンジャーは誰だったのか僕には分らない。

 

 

一般には『リー・モーガン・ヴォリューム・3』での「アイ・リメンバー・クリフォード」でのアレンジはベニー・ゴルスンとされているはずだ。けれどもアルバム・パッケージのどこにもアレンジャー名が明記されておらず、ネットで調べても記載がない。今日書いてきたようなことを踏まえると、こりゃひょっとしてジジ・グライスのアレンジだったかも?

 

2016/10/01

仄かに揺れる蝋燭の炎〜『メイダン』歌手名一覧

Unknown










オスマン古典歌謡集『メイダン』。涼しくなってきたので再び聴くようになっている(レー・クエンの2016年新作も同様)。だってお聴きの方ならご存知の通りの雰囲気の音楽なもんだから、真夏の炎天下ではちょっと聴く気にならないもんねえ。だからアラトゥルカ・レコーズの面々によるこういう音楽が大好きな僕もしばらく敬遠していた。

 

 

『メイダン』(Meydan - Taş Plakların Kaldığı Yerden)は、トルコ本国では昨2015年11月にリリースされている。カラン配給でアラトゥルカ・レコーズの面々によるオスマン古典歌謡集第二弾。第一弾が2013年の『ギリズガ』(Girizgâh)。

 

 

あの『ギリズガ』の時は日本でもちょっぴり話題になって文章を書く人も若干名いらっしゃったんだけど、日本では今年になって買えるようになった第二弾『メイダン』について書いている人は、ネットでどう検索しても(紙メディアにあるわけないので)僕以外には一人もいないんだなあ。

 

 

 

書いてあるように、フィジカルをエル・スールさんに依頼中の今年はじめに iTunes Store で発見してしまい、現物が届いていない状態のまま我慢できないので思わずダウンロード購入してしまった僕。

 

 

エル・スールさんから『メイダン』が入荷したとのメールが届いたのが4/20。ちょっと事情があって他のものとまとめて一緒に発送してもらったのが5/10。二日で自宅に届き、CDで再び何度も聴いた。CD現物が手許に届き、ダウンロード音源だけでは分らないこともいろいろと分るようになった。

 

 

それで今日この文章を書いているという次第。これをブログにアップするのは秋になるだろうけれど、書いている現在は五月なのだ。ネット・ダウンロード音源だけでははっきりしなかったことがフィジカルで分った最大のものが、やはり一曲ごとの歌手名だ。これこそ待望んでいたもの。

 

 

しかしながら『メイダン』一曲ごとの歌手名はCD附属のブックレットに書かれてはあるものの、曲目と併記する形での一覧にはなっておらず、曲ごとに他の情報とあわせてあまり目立たない文字で記載されているだけなので、ちょっと分りにくいんだなあ。『ギリズガ』の時も同様だったけれど、ある理由があって凄く助かったのだった。

 

 

それはエル・スールさんのサイトに『ギリズガ』一曲ごとの歌手名が記載されてあったのだ。あのCDの時も iTunes にインポートすると「Artist」欄が全部 “Alaturka Records” になってしまい困っていたのだった。

 

 

 

『ギリズガ』附属のブックレットを見ながら一曲づつ手入力するしかないなと思ったんだけど、エル・スールさんが一覧にしてくださっていたので、それをコピー&ペーストするだけでよかったという、なんとも楽ちんなことだった。ところが今年春入荷の『メイダン』については書いてくださっていないんだよね。

 

 

推測するに『ギリズガ』の時はアラトゥルカ・レコーズというレーベルも録音した歌手や演奏家たちも日本では初紹介だったので書いてくださったんだろうけれど、『メイダン』は二作目なので、もう既にファンの間ではそこそこ馴染があるはずだから書く必要もないだろうということなんだろうね。

 

 

ネットで他に記載してあるページがないか探してみたけれど自力では全く発見できないので、『メイダン』についてはやはりブックレット記載の、前述の通りやや分りにくい書き方をしてある一曲ごとの歌手名を見ながら、一つ一つ手入力した僕。しかしトルコ語の文字はちょっと入力しにくい部分がある。

 

 

ケマル・アタチュルクによる1928年の文字表記改革で、トルコ語はそれまでのアラビア文字ではなくアルファベット文字で表記するようになった(けれどもアラトゥルカ・レコーズの面々がやっている音楽はそれ以前のものばかり)んだけど、文字の上や下に記号その他が付くものがかなりあるよね。

 

 

それらの記号のなかには人気のある欧州言語では使われないものがある。しかも例えば “i” の上の点がなく “ı” と表記する場合が多かったりもする。それら全部ひっくるめると、入力ソースの言語設定をトルコ語に切替えない限りは(その切替えは Mac ではあっけないほど簡単だが、トルコ語キーボードではないのでやはり難しい)入力がちょっと面倒くさい。

 

 

僕が常用している言語入力ソースは日本語と英語だけ。US 環境にしただけでフランス語その他記号付欧文文字の入力も全く問題ない。しかしトルコ語はそれでは出ない記号があるので、文字記号一覧表から一個一個拾っていって、それで『メイダン』全曲の歌手名全員をなんとか入力することができた。

 

 

これはトルコ語に馴染の薄い人間にはやや煩雑なので、これが(『ギリズガ』の時のエル・スールさんみたいに)一覧になっているサイトなどでもあれば助かる人が多いと判断し、本日ここにそれを記したものを公開することにした。確認はしたが、あるいは誤表記や漏れがあるかもしれない。

 

 

というわけで以下、『メイダン』二枚組の一曲ごとに、それを歌っている歌手名一覧。数字に続けて曲名、”-“ のあとに歌手名。トルコ語入力が面倒だという方はどうぞご自由にコピー&ペーストしてくださって構わない。ただし繰返すが100%間違いがないという自信はないので、そのおつもりでどうぞ。

 

 

ディスク1

 

1) Aman cânâ beni şâd et - Asuman Aslim, Esma Bașbuğ, Gül Yazici, Tuğçe Pala, Yaprak Sayar

 

2) Vücûd iklîminin sultânı sensin - Atakan Akdaș

 

3) Yine  neş'e-i muhabbet dil ü cânim ettii şeydâ - Yaprak Sayar

 

4) Ey il Nde bitmez bu ah ü vâhin - Bekİr Büyükbaș

 

5) Güzel kuşum söyle neden kederlisin - Esma Bașbuğ

 

6) Kâhtane'ye gelin yalınız - Mustafa Doğan Dİkmen

 

7) Olsa kiraz ile üzüm (Açgözlü Hülyası) - Gül Yazici

 

8) Lâl olursun söylesem bir fıkra - Hamİde Uysal

 

9) Mey-i lâ'linle dil mestâne olsun - Atakan Akdaș

 

10) İçim yanıyor kalbim kanıyor (Zehrâ) - Asuman Aslim

 

11) Benim yârim şıktır şık - Esma Bașbuğ

 

12) Bir pür cefâ hoş dilberdir - Hüseyİn Tuncel, Yaprak Sayar

 

13) Bakmıyor çeşm-i siyâh feryâde - Yaprak Sayar

 

14) Gözüm Hasretle Giryândır - Nazan Sibaci

 

15) Pencereden kuş uçtu (Ben bir garip kuş idim) - Hamİde Uysal

 

16) Geçti âlâm-ı firâkın cânıma - Mustafa Doğan Dİkmen, Gül Yazicii, Tuğçe Palma, Yaprak Sayar

 

17) Çok yaşa sen ayşe - Tuğçe Palma

 

 

ディスク2

 

1) Mâh yüzüne âşikanım - Yaprak Sayar, Atakan Akdaș

 

2) Gelse o şûh meclîse nâz ü tegafül eylese - Hamİde Uysal

 

3) Gül gonca-i ümmîdi gibi gel - Atakan Akdaș

 

4) Bir penbe incisin sen - Yaprak Sayar

 

5) Tirek bostan - Esma Bașbuğ

 

6) Etti o güzel ahde vefâ müjdeler olsun - Mustafa Doğan Dİkmen

 

7) Bir çiçeğim adım lâle - Gül Yazici

 

8) Aşk âteşine yanma gönül nâfile - Ufuk Caba

 

9) Bahar faslı - Esma Bașbuğ, Nazan Silvaci, Mustafa Doğan Dİkmen, Gül Yazici, Yaprak Sayar, Atakan Akdaş

 

  a. Revâdır bu dil-i zârın figanı

 

  b. Ey menhlika ey gül beden

 

  c. Baǧlar bahçeler güller

 

  d. Açtı güller andelîb eyler fegan

 

  e. Gel gìdelim senin íle

 

  f. Bahâr olsa çemenzâr olsa

 

  g. Bahâr íle nesâtımız

 

10) Ey ser ne aceb derde düşüp -  Bekİr Büyükbaș

 

 

さて『メイダン』の肝心の中身の音楽については、上でリンクを貼った今年1/8付のブログ記事に付け加えることは殆どない。歌手名もだいたい全部当っていた。やはり「音」だけあればだいたいのことは分ってしまうよね。ジャケット含めパッケージ商品としての楽しさを除けば、それがないと分らない歌手名やその他各種情報は付随的なものでしかないと改めて実感した。

 

 

アラトゥルカ・レコーズに録音する歌手のなかでの僕の最愛であるヤプラック・サヤール(様と本当は書きたい)は、『メイダン』での単独歌唱は全部で三曲。それらと一作目『ギリズガ』でのものやその他入手可能なCDに含まれているものから、僕はヤプラックの歌うものだけ抜出して一つのプレイリストにまとめてある。

 

 

ヤプラック・サヤールのプレイリストは全部で10曲もないし、たったの30分程度なんだけど、もうそればっかりリピートして聴いている僕なのだ。ヤプラックはレコオヤジさんや僕をはじめ、エル・スール界隈の一部オジサンたちのなかでは熱狂的に支持されているという人気歌手(でもないのか?)。

 

 

だってヤプラックの声は本当に美しいもんなあ。その上彼女は大変な美人だ。歌手の容貌なんかどうでもよろしいというのは僕も完全に同意で、容貌が良くて喉がダメなのであれば、容貌がどうでも喉が素晴しい歌手の方を僕も一億倍は支持する。がしかしヤプラックは両方優れているんだから文句なしだろう。

 

 

ヤプラック・サヤールの声は、他の歌手と一緒に合唱している時ですら、聴いていてアッ彼女だ!とクッキリ分ってしまほど鮮明だ。それくらい愛しているから分るというのが最大の原因に間違いないけれど、そうでなくても目立つ独特の美しさを持った声なんじゃないかなあ。さらに突き刺すような鋭さも兼ね備えている。

 

 

ところでもう一つ『メイダン』フィジカルが届いてみて初めて判明した謎が、二枚目九曲目の「バハール・ファスリ」。今年一月に書いた上記リンク記事では、全てSPサイズの約三分ばかりのあの時期のオスマン古典歌謡集のなかに、なぜ一曲だけ17分もあるものが混じっているのか不思議だと書いたんだけど、これは七曲メドレー形式だったのだ。

 

 

『メイダン』CDのジャケット裏やブックレットにはっきりそのメドレー七曲の曲名が記載されてあるのでようやくどうしてあんなに長いのか理由が分ったという次第。とはいってもその二枚目九曲目の「バハール・ファスリ」を聴いたところで、僕にはどこが曲の変り目なのかほぼ分らない。

 

 

曲のキーが変ったり歌が終って楽器演奏になってしばらくして別の曲に聞えるものがはじまったりするので、まあそこが曲の継目なんだろうなと判断はするものの、そもそも「バハール・ファスリ」でメドレーになっている元の七曲が完全なる初耳なわけだから、いまだに全くなんの確信も得られていない。

 

 

それはそうと『メイダン』ジャケットを見ると “Turkish Airlines” の文字が同社のロゴと並び記載されている。これは一作目『ギリズガ』にはなかった。昨2015年12月に大阪と東京で行われたアラトゥルカ・レコーズの面々によるコンサートもトルコ航空主催の無料招待だったよね。

 

 

『メイダン』はレコーディングも各種制作も発売もその昨2015年12月の来日公演よりも前に終っている。ってことは想像するに、この二作目アルバムからトルコ航空がアラトゥルカ・レコーズのスポンサーに付いたということなんじゃないかなあ。そりゃあんな地味極まりない音楽が売れるわけないんだから、スポンサーがいないとね。

 

 

一作目『ギリズガ』も二作目『メイダン』も、取上げられている作曲家(ブックレット末尾に全員顔と生没年と説明文がある)も演奏や歌唱のメンツも、そしてできあがった音楽の感触もほぼ全く同じような金太郎飴状態なんだけど、なんというかまるで蝋燭の炎がかすかに揺れるかのような雰囲気で、秋から初冬にかけてはいいよなあ。

 

 

真夜中に電気照明ではなくたった一本の蝋燭を点けて、そのかすかに揺れるか揺れないかというような仄明かりを見つめているかのような気分になるアラトゥルカ・レコーズの『ギリズガ』と『メイダン』。初耳だった一作目では、初耳ゆえにある種の<衝撃>めいたものすら感じた僕だけど、二作目では当然それはもうない。

 

 

がしかし音楽の熟成度とか歌手の歌い廻しのこなれ具合などは、二作目『メイダン』がやや上を行っているように思う。これは当然だ。100年以上前の音楽を、おそらくその姿形も全く変えず忠実に飽きもせず21世紀に再現している作業ななんだから、年月が経てば経つほど完成度が上がっていくだろう。

 

 

アラトゥルカ・レコーズの面々のやる100年以上前のオスマン古典歌謡って、まあホントこれ以上に地味な音楽もないというくらいだから、さほど大勢のファンが付くわけもなく、今のところ二つあるCDだってあんまり売れていないだろうけれど、できれば彼らが今後も活動を継続していけますように。そしてCDが出れば今後も日本で買えますように。僕は現地トルコへ行くべく画策中。イスタンブルは猫の楽園状態らしいしね。

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