ソウル・ミュージックとしての「黒と茶の幻想」〜『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』をオススメする理由
生涯を通じ一貫して高いレヴェルの創造力を維持し続けたデューク・エリントンだから、どこから入門してもいいような気がするけれど、個人的にはやはり1920年代後半〜40年代初頭までの録音に比肩しうるジャズ作品は、エリントン以外はもちろんエリントン本人にとっても存在しないだろうと確信している。
なぜかと言うと戦前録音のエリントンはネグリチュードの塊のような音楽であって、西洋クラシック音楽、特に印象派からの強い影響もありながら、それをアメリカ黒人としての自分のアイデンティティと上手く合体させ、さらにブルーズ形式の楽曲も多く、真っ黒けで濃厚なサウンドを生み出していたからだ。
その典型的表現がジャングル・サウンドで、それは単にワー・ワー・ミュートを付けた金管群のエキゾチックなグロウルだけのことを指すのでなく、ソニー・グリーアのドラミングにはっきり表れているように、まるでとりもちを敷詰めた部屋の中を歩くかのような粘り気の強いグルーヴ感をも含んでのことだ。
しかしながらやはり録音状態が戦前のSP時代はちょっとなあというファンは多いはず。現にそうおっしゃる方々に僕も大勢出会ってきた。だから今日は戦後録音、それもステレオ録音の状態の良い音でエリントン楽団の面白さが分りやすい一枚をオススメしておきたいと思う。まあいっぱいあるんだけどね。
僕が今日オススメするのは『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』。1966年録音で翌67年にリリースされた RCA 盤だ。これを推薦するのは単に録音がいいからだけではない。それだけなら僕は全く音楽的推薦物としては考えない。オススメする理由が他にいくつもあるが、大きく分けて二つ。
一つは選曲の良さだ。『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』のタイトルでご存知ない方もおおよそ想像がつくように、このレコードは戦前からのエリントンの人気のある(ポピュラーな)代表曲ばかりを選んで再演しているもので、だからこれでエリントンのマスターピースがまあまあ聴けてしまうのだ。
もちろんエリントンが1966年までに書いた優れた楽曲は相当に数が多いので、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』収録の全11曲なんて数は氷山の一角に過ぎない。がしかしそれを言いだしたらキリのない音楽家だからね。音楽的に優れていて人気もあるものをかなり絞っている一枚だ。
全11曲のうち実は一つだけ新曲がある。B面一曲目の「ザ・トゥウィッチ」だ。これは録音時の1966年5月に新たに書下ろした作品で、12小節のいわゆるブルーズ形式。しかもビートはシャッフル。この一曲だけを除き『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』は全て過去の有名曲の再演。
『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』をオススメするもう一つの理由。それはそんな全10曲にわたる過去の有名代表作を採り上げて再演しながらも、それは単なる「過去の再現」ではなく、1966年という時代に即した新解釈で演奏されていることだ。この1966年という時代の持つ意味は重要だ。
なぜかと言えば1966年は公民権運動の余韻があった時期。60年代に入ってからはアメリカ社会において黒人たちが人種意識を強く持ち、差別・抑圧からの解放、権利拡大というか平等化を叫びながら運動していた。それは単に黒人に限らず、自由・平等を掲げる白人たちのなかにも共感する人が大勢いて一緒に活動していたよね。ノーベル文学賞受賞が決まったばかりのボブ・ディランもそうだ。
公民権法(Civil Rights Act)が制定されたのが1964年7月2日。これをもって法律的には人種差別が終りを告げたということになっている。もちろんあくまで法の上だけの話であって、アメリカ社会における黒人差別(あるいは21世紀の現在ならムスリム差別も)はそんな簡単には解消するわけもない。
デューク・エリントンは言うまでもなくアメリカ黒人。自身の楽団員も黒人が圧倒的に多かった。しかも彼は戦前から「私の音楽をジャズと呼ばないでほしい、ブラック・ミュージックと呼んでほしい」とたびたび発言するような人だった。その黒人性を前面に打出した音楽要素は、録音物を聴けば瞭然としている。
そもそもエリントン楽団初期における最大の代表曲は1927年4月のブランズウィック録音が初演の「黒と茶の幻想」(Black and Tan Fantasy)だ。この曲名にある「黒」はもちろんアメリカ黒人、「茶」は混血を意味している。そしてそれら虐げられる人種的マイノリティの悲哀を表現した曲だ。
それが証拠に戦前録音での「黒の茶の幻想 」では、いつも常にエンディング部でショパンの「葬送行進曲 ハ短調 作品72」を引用してある。要するにアメリカ社会では黒人や混血はもはや滅び行く運命の人間で、その葬送を見送らんとばかりのアレンジなのだ。1920年代なら当然の解釈だろう。
そんな音楽家だったエリントンが1960年代の上記のような時代の動きに即応しないわけがない。二年前に公民権法も制定された1966年に20年代の過去の楽曲を再演するにあたっても、録音当時のそんな黒人人権意識高揚を反映したような再解釈・リアレンジを施してあるのは言うまでもないことなのだ。
ということは、収録全11曲のうち10曲は1920〜40年代に書いて初演した楽曲であるにもかかわらず、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』は1966年という時代の先端的なサウンドに仕上っているってことなんだなあ。むろん当時勃興していたソウルやファンク・ミュージックなどのような激しい形ではないけれど。
そんな時代に即応した新解釈の話は後でするとして、『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』一曲目はこの楽団のトレード・マークである「A列車で行こう」。これのピアノ・イントロがなかなか面白い。出だしを三拍子でエリントンが弾き、しばらくして通常の四拍子に移行する。
その三拍子から四拍子に移行する際の切替えの瞬間のスリルとスウィング感がなかなかいいんだよね。さらにいかにもエリントン的な増和音を使った不協和な響きが面白い。ピアノ・イントロの最後でお馴染みのリックを弾くとオーケストラがテーマを演奏。ここからはみなさんよくご存知の展開になっていく。
「A列車で行こう」で全面的にフィーチャーされているソロイストはクーティ・ウィリアムズ。彼一人が終始トランペットでオーケストラ・サウンドの合間を縫って吹きまくっているが、その音色もフレイジングも見事だ。いやあ、1966年のクーティーってまだこんなに吹けたんだなあ。失礼しました。
二曲目「アイ・ガット・イット・バッド」ではいつものようにアルト・サックスのジョニー・ホッジズのショウケース。1940年の初演では女性歌手のアイヴィー・アンダースンが歌っていたけれど、その後のインストルメンタル・ヴァージョンでは常にホッジズの艶っぽいアルトをフィーチャーしている。
一曲一曲全部書いているととんでもなく長くなってしまうので要所だけを。三曲目「パーディド」は割愛して四曲目の「ムード・インディゴ」。エリントンのピアノ・イントロに続き、これぞエリントン・ハーモニーと言われる三管のアンサンブルになる。録音状態が良いのでそれが非常に分りやすい。
その三管アンサンブルは、いい加減な僕の耳判断では、おそらくバス・クラリネット(ハリー・カーニー)+アルト・サックス(ラッセル・プロコープ)+ミュート・トロンボーン(ローレンス・ブラウン)の三人によって奏でられている。いや、ホントいい加減な耳だからあまり信用しないでほしい。
その非常に音量の小さいボワ〜ッとした茫洋としてたゆたうような三管アンサンブル部分こそが、戦前から本当に多くのファンを虜にしてきたエリントン独自のサウンド・カラーだ。それにポール・ゴンザルヴェスのテナーが絡み終ると、エリントンのピアノ・ソロを挟み、オーケストラ全体での合奏になる。
『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』の最大の聴き物はその次のA面ラスト「黒と茶の幻想」に違いない。この一曲こそが、前述の通り1966年という録音当時の時代の動きを反映した、いわば<黒人賛歌>のような新解釈になっているものだ。だから「幻想」(Fantasy)という言葉の意味が逆転しているんだよね。
上で書いたように「黒と茶の幻想」という曲は、虐げられ滅び行くアメリカ社会での人種的マイノリティの運命・悲哀を表現した曲だった。1927年の初演以後もあらゆる時代を通じスタジオでもライヴでも再演されてきた代表作だが、常にそういう憂鬱そうなサウンドを中心にしたアレンジでやってきた。
それが『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』収録ヴァージョンの「黒と茶の幻想」では解釈が全く正反対になっているんだよね。それは冒頭のエリントンのピアノ・イントロで既に分る。非常に激しく力強く鍵盤を叩きつけるように弾いていて耳を奪われる。その後出てくるテーマにも哀感は聴き取れない。
テーマ吹奏が終ってクーティー・ウィリアムズのトランペット・ソロが出るのだが、そのクーティーの吹き方も1929年にエリントン楽団に加入した当時のようなスタイルではない。かなりの力強さと迫力を持った非常にポジティヴな響きなのだ。次のローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロも同じ。
ワー・ワー・ミュートを付けたトロンボーンを吹くローレンス・ブラウンのソロの背後では、リズム・セクションが三連のストップ・タイムを使っていて、そのリズム・アレンジはエリントンのピアノをメインにしたリフで演奏されている。ブラウンもそれに乗り力強くソロを吹いている。
そのブラウンのトロンボーン・ソロの背後でのストップ・タイムで入れるエリントンのピアノにもかなりの凄みがあるよなあ。これはもうどこにも「滅び行く悲哀」なんか感じ取れないものだ。『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』ヴァージョンの「黒と茶の幻想」で最も特筆すべきは、さらにその後だ。
ラッセル・プロコープのクラリネット・ソロも終った演奏最終盤で、再びクーティー・ウィリアムズがリードするアンサンブルになるのだが、クーティーが一区切り吹く度に、ホーン・アンサンブル、そして同時にドラムスも一緒になって大きな音でバンッ!バンッ!と入れているのだが、その圧巻のド迫力の凄みといったらない。
見事なクライマックスだ。この1966年ヴァージョンの「黒と茶の幻想」における「幻想」とは滅びゆく悲しい運命ではない。我ら黒人ここにあり!と力強く拳を突上げているようなフィーリングなのだ。こういう新解釈・リアレンジは間違いなく1966年という時代をエリントンが意識したものだ。
つまりこれは、ソウルやファンク・ミュージックほどではないと僕も上で書きはしたけれど、本質的にはそれらと同じような意味を持つ音楽に変貌しているってことなんだなあ。やっぱりデューク・エリントンっていう音楽家を、アメリカ黒人であるというネグリチュードを無視して聴くことなんてできないよね。
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