このソロ・ピアノはショーロ?ジャズ?クラシック?
楽器名のピアノ(piano)。ご存知の通りこれはピアノフォルテ(pianoforte)というイタリア語から来ていて、もっと言えばグラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(gravecembalo col piano e forte)というのがこの楽器名の大元の由来。
ピアノとフォルテはもちろん楽譜に書かれる指示用語。ピアノは「弱く小さい音で」、フォルテは「力強く」という演奏を指示するもので、そこから最低音から最高音まで出せ、弱い音も強い音も自在に出せる新型鍵盤楽器をピアノフォルテと呼びはじめ、それが省略されて次第にピアノになったんだろうなあ。
クラシック音楽のレコードやCDだと楽器名のところによくpfって書いてあるよね。あれだ、あの p と f がね。僕は最初の頃、p は分るけれど、f がなんのことだか分っていなかった。それにしてもどうして楽器名はフォルテにならなかったんだ?省かれたフォルテが不憫でならない。
ともかくそんなわけでピアノという呼称にいつ頃定着したのかは調べてみないと分らないが、そういうことになっているこの楽器。クラシック音楽も好きで聴いているものがあるけれど、全く分っていないはずだから(いやまあポピュラー音楽だって怪しいもんだが)それについては僕は書かない。
僕の場合やはりジャズだなあ、ピアノが好きになったのは。花形楽器の一つだもんね。でもモダン・ジャズに多いピアノ・トリオは実は昔からさほど熱心ではなく、もっと多くの楽器、例えば管楽器などが入っているバンド形式のものか、そうでなければソロ・ピアノでやっているものの方が好きだ。
これはピアノ・トリオ編成がすんごく多いモダン・ジャズよりも、もっと前の戦前の古典ジャズの方が好きだという僕の嗜好もあるなあ。そういう世界ではピアニストは一人でやるか、さもなければバンドの一員としてやるかのどっちかだというケースが殆どなのだ。ピアノ・トリオなどまだ存在しないから。
そんでもってビッグ・バンド(こそが戦前古典ジャズでは中心)でやっている時ですら、そのなかのピアノ・ソロ・パートに来ると、なぜだかピアノ以外の楽器演奏がピタリとやんで、ピアノ独奏みたいになっている場合が結構ある。デューク・エリントン楽団の戦前録音などでもそういう場合が多い。
録音技術がまだ未発達だったせいなのはもちろんある。しかし理由はそれだけじゃないだろう。戦前の古典ジャズ・ピアニストの多くはいわばオーケストラ的奏法の持主が多く、アール・ハインズが1920年代前半に確立した右手シングル・トーン弾きが浸透して以後もそんな弾き方が残っていた。
ピアニストはたった一人で交響楽団的な響きの演奏ができちゃうわけで、これはなにも戦前古典ジャズに限った話ではなく、もちろんクラシックだって、あるいはジャズではない他のポピュラー・ミュージックでも同じ。だからあらゆるジャンルでソロ・ピアノのアルバムがかなりあるよね。
しかしながらソロ・ピアノの世界、特にモダン・ジャズのそれには聴けるものが多くない。1970年代以後大流行したジャズのソロ・ピアノ。一番人気があるのがキース・ジャレットだけど、あれはどこがいいんだか大学生の頃からサッパリ分らない僕。楽器を用いたマスターベイションだとしか思えない。
マスターベイションは自室で一人でやってくれたらいいのであって、それをステージ上でやって大勢の観客の前で披露したり、録音してレコードやCDにしたりは僕には理解できない。大学生の頃にそれでもキース・ジャレットを自分で買うこともあって、しかしどう聴いても気持悪くて耐えられないのだ。ジャズ喫茶では我慢していた。
日本にもキース・ジャレットのソロ・ピアノ愛好家は多いので、あんまり言いすぎるとジャレット本人に向けてではなくそういうファンの方々に向けての悪口になりかねないので、このあたりでやめておく。日本人では坂本なんちゃらとかも、僕はYMOでの活動にしか興味がない。ソロ・ピアノなんかねえ。
そういうものに比べたら、新しいものでは(1970年代初頭だから新しいだろう)チック・コリアの『ピアノ・インプロヴィゼイション』二枚はまだマシだったように思う。しかしそれも「新しいものでは」という注釈付きであって、戦前のストライド・ピアノやブギ・ウギ・ピアノなどの魅力には程遠い。
ようやく本題に入るが、そんなソロ・ピアノの世界はブラジルのショーロにもある。ショーロ・ピアノ・アルバムで最近リリースされたものではエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』(訳せば「ピアノ演奏技術」)がかなり良かった。これは2013年のアルバムなんだけど、僕は今年知ったばかり。
エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。なにがいいかってまず第一にリズムの強さだ。これはクラシックや一部のジャズのソロ・ピアノでは聴けないもの。特に左手でしっかりしたビート感を出していて、これは僕が好きで好きでたまらない戦前古典ジャズのソロ・ピアノ・スタイルに通じるものがある。
そんでもってエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』の場合は、北米合衆国のストライド・ピアノやブギ・ウギ・ピアノでも聴きにくい、なんというか一種の打楽器的奏法なのだ。その点ではちょっぴりデューク・エリントンを彷彿とさせるけれど、エリントンとはスタイルが違っていて、叩きつけるような弾き方でもない。
エルクレス・ゴメスの打楽器的ピアノ奏法は、パーカッシヴではあるけれどガンガン叩きつけるようなものではなく、粒立ちの良いタッチで、絶妙な両手のバランスでもってリズミカルに聴かせるというようなもの。ピアノは一台だけでまるでオーケストラ的なサウンドを出せると上でも書いたけれど、まさにそれを上手く実現している。
エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』ではどの曲もまるで交響楽的な響きのニュアンスを持っている。こういうのこそがソロ・ピアノの世界だよなあ。右手シングル・トーンだけで延々とひたすら抒情的にダラダラ弾くみたいな一部ジャズ・ピアニストに、エルクレス・ゴメスの爪の垢を煎じて飲ませたい気分だ。
エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』は全12曲で、そのなかには有名なショーロ・ピアノの先達たちの名前もある。ラダメス・ニャターリ(三曲目)とエルネスト・ナザレー(12曲目)がそれ。この二曲を聴くと、エルクレス・ゴメスがショーロ・ピアノの伝統をしっかりと受継いでいるのもよく分る。
ラダメス・ニャターリもエルネスト・ナザレー(の方が古い)も20世紀前半に活躍したショーロ・ピアニスト/コンポーザーだけど、二人ともクラシック音楽とポピュラー音楽の境界線に立っているような存在。実際、両方の世界で聴けるような作品を多く残しているし、両方の世界を股にかけて活躍した。
以前からショーロについて書く際は必ず繰返しているけれど、ブラジル音楽であるショーロの世界でクラシック音楽/ポピュラー音楽の厳密な区別は不可能。それはほぼあらゆるショーロについて言えることだけど、特にショーロ・ピアノの世界にはこれが当てはまる。エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』もそんな作品なのだ。
しかしこう言ったからといってエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』をポピュラー音楽ファンのみなさんには敬遠してほしくない。なぜなら偉大な先人エルネスト・ナザレーもそうだったように、アフリカ音楽由来の強靱なリズム感覚が息づいているからだ。これはクラシックのソロ・ピアノでは全く聴けない。
クラシック・ピアノだけではなく、大人気のモダン・ジャズのソロ・ピアノでもほぼ聴けないリズム感覚なのだ。エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』を聴いて想起するのは、僕の場合やはり戦前古典ジャズ・ピアニストのソロ演奏だなあ。左手で奏でるビート感などはなかなか似ていると思う。モダン・ジャズ界で敢て探せば、ハービー・ハンコックが一人で弾いている時に少し似ている。
ショーロ・ピアノはしばしばクラシック音楽寄りになっていき、ちょっと甘くなりがちなんだけど、エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』の場合は、流麗な部分とエッジの効いたリズム感が上手く両立していて、クラシックでもジャズでもなく、そしてショーロの世界にも少ないだろうという成功を収めている。
ソロ・ピアノの世界では(僕の場合)稀な大成功例である若手ショーロ・ピアニスト、エルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。アマゾンなどで簡単に買えるので、是非ソロ・ピアノ音楽ファンには聴いていただきたい。そしてもう名前は出したくないがあの人やこの人などのソロ・ピアノの気持悪さも分ってほしい。
なお僕はこのエルクレス・ゴメスの『ピアニズモ』。これまた例によって荻原和也さんのブログで教えていただいた。今日のこの文章の約半分は、その荻原さんのブログ記事のほぼコピー&ペーストみたいなもんだ。荻原さん、ゴメンナサイ。みなさん是非ご一読をお願いします!
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