マイルスが「フランスで食ってた」という事実はありません
お読みになれば分るように「アメリカで不遇だったマイルス・デイヴィスが、フランスで食ってた」という発言が出てくる。これにはちょっとビックリだ。僕だけでなくマイルス・ファンなら全員エッ?と思うはず。なぜならばこんな事実は存在しないからだ。マイルスがアメリカで不遇だった時期なんて一度もないし、フランスで食っていたと言える時期もない。
蒲田さんのこの記事は、別にマイルスについて云々しているものなんかじゃなく、ドナルド・トランプ次期アメリカ大統領が、『ハミルトン』というミュージカルの主演俳優に対し、そのアピールはハラスメントだと噛みついていることをとりあげて、アメリカ(と日本)の芸能界の前近代性を指摘したものだ。
その際、『ハミルトン』主演俳優のアピールは正当なものだったことと、それを許そうとしないアメリカ(白人)社会のおかしさを、同国の黒人女性歌手アーサ・キットを例にあげて説明している。アーサ・キットは当時のジョンスン大統領夫人に反戦を訴え、その結果以後10年間(1968〜78)アメリカのショウ・ビジネス界から閉め出されたために、そのあいだヨーロッパ(とアジア)で活動して切り抜けた。
そんなアーサ・キットの例を、同じアメリカ黒人音楽家であるマイルスと並べて、「アメリカで不遇だったマイルス・デイヴィスが、フランスで食ってたのと同じ」と蒲田さんは書いている。しかしながらアーサ・キットの方は事実だが、マイルスの方にはこんな事実はない。少なくとも僕は知らない。
マイルスとフランスといえば、誰もがジュリエット・グレコと、そしてルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』を想起するだろう。どちらもマイルス・ファンでない方にも有名なので、ご存知の方が大勢いらっしゃるはず。しかもこの二つは関連があるみたいだ。
マイルスがグレコと知り合ったのは、どうやらマイルス1949年の初渡仏時のことだったらしいが、日本語でも英語でもフランス語でも正確な情報がないので、あくまで推測。だけどおそらく間違いないんろう。グレコについてのウィキペディアには「マイルスがフランスへやってきた1949年には2人は結婚したと言われている」との記述があるが、これはウソだ。
マイルスがグレコと結婚したという事実はない。引用したウィキペディアの記述も「言われている」だとか、あるいはそのあとに「要出典」の文字も見えるので、やはり疑わしいものだと判断されているんだろう。マイルスの結婚歴は三回。1958年のフランシス・テイラー、68年のベティ・メイブリー、81年のシシリー・タイスン。これで全部だ。
正式結婚ではなく、深い関係にあって事実上の婚姻状態だったとか子供をもうけたということなら他にもあるので、ジュリエット・グレコとの関係もそんななかの一つに入れてもいいのかもしれないが、グレコはフランスに住み、マイルスもアメリカにしか住んだことがないので、いくら深い関係といってもなあ。
マイルスは1949年の初渡仏以来頻繁にフランスを訪れているが、そのほとんどはライヴ・コンサートなど一時的な音楽活動のためであり、したがって短期滞在にとどまっている。僕の知る限りではマイルスがフランスといわずアメリカ以外の国・地域に半年以上滞在した事実はない。
そんなフランスを含むマイルスの欧州での音楽活動も、アメリカで不遇だったせいではない。ことジャズ関連のアメリカ黒人音楽家なら、マイルスほど優遇された人物もいないんだ。とにかく売れに売れて、黒人・白人・何人の区別なくアメリカ人ジャズ・マンで最も成功したのがマイルスなんだよね。
イリノイ州アルトン生まれで、イースト・セント・ルイスで育ったマイルスだけど、18歳の時にニュー・ヨークに出てきてからは、死ぬまでニュー・ヨークに住み続けていた。だが1981年の復帰後は、カリフォルニアのマリブともう一ヶ所に別荘を持っていて、時々足を運んでいたんだよね。
アメリカで不遇だった音楽家が、同国内に二ヶ所も別荘を持つことなど不可能だ。蒲田さんもそんな大成功後のことを念頭になんか置いておらず、おっしゃる不遇とは若い時分に活動が滞っていた時代のことなんだろう。僕の知る限り若い時分のマイルスがそうだったのは一回だけ。
それは1950〜54年あたりの話だ。その時期、マイルスはどのレーベルとも契約がなく、したがって全てのレコーディング・セッションは一回・一回の取っ払いみたいなもので、スタジオでレコーディングしてはその場でキャッシュをもらっていたような具合。そしてそもそも録音数自体が少ない。
スタジオ録音が少ないばかりでなく、レギュラー・バンドも持っていなかったので、恒常的なライヴ活動も当然不可能だった。あの約四年間のマイルスは食うにも困るような状態だった。がしかしそれは「不遇」ではない。全ていわば自業自得だったのだ。
すなわちヘロイン中毒が最もひどかった時期で、そのせいで音楽活動も私生活もいろんなことが上手く運ばなくなっていた。あの時代のジャズ・メンのヤク中を全て自ら招いたものみたいに言うのは少し違うかもしれないが、「不遇」「冷遇」状態とも違うだろう。
不遇とは、自らの才能と努力で一定の成果を出しているにもかかわらず、世間から評価されず満足のいくような仕事を与えられないので経済的にも恵まれず、活動継続が困難な状態のことだろう。その多くの場合が差別や偏見その他理不尽な理由にもとづいている。
ジャズ・メンでもブルーズ・メンでも、その他全ての音楽・芸能者の場合でも、肌の色が黒いというだけでアメリカ本国ではそんな冷遇状態に置かれる場合がしばしばある。冷遇とまでいかなくても居心地がかなり悪い。それで実際フランスその他欧州各国に活動拠点を移した人物は多い。
ジャズ界のケニー・クラーク(ドラマー)、ブルーズ界のメンフィス・スリム(ピアノ)などは、完全にフランスに永住してしまった。それほどアメリカにおける黒人差別はひどく、アメリカほどではないにしろ人種差別意識はあるフランスその他欧州各国の方がまだマシということらしい。
そんなフランスではあるけれど、しかし例えば1998年のサッカーW杯フランス大会で地元フランス代表が優勝した際、あのチームは「真のフランス代表」とは呼べないなどと発言するフランス白人がいた。アフリカ系やアラブ系の出自を持つ選手も多かったせいだ。
現在スペインのレアル・マドリードで監督をやっているジネジーヌ・ジダンは、あの1998年前後のサッカー・フランス代表チームの心臓的存在で、ジダンなくしてあのW杯優勝はありえなかった。あの時は “Merci Zizou” というのが凱旋門に映し出されたりもした。そんなジダンはマルセイユ生まれで、アルジェリアのベルベル人移民の息子だ。
現在の例をあげるなら、やはりレアル・マドリードでプレイするフランス人サッカー選手カリム・ベンゼマ。サッカーの能力は誰も疑わない優秀な選手なんだけど、この人もアルジェリア系であるせいで代表チームに呼ばれないことがあるんじゃないかと、本人と所属チームのボスである同じアルジェリア系のジダンは明言している。
ベンゼマの場合は、セックス現場を録画したものをネタに同じフランス代表のチーム・メイトを恐喝したと疑われたのが、代表に呼ばれなかったり、フランスの首相までもが「ベンゼマを追放しろ」と公に発言したりする直接の理由だ。逮捕だけされたものの、どこまで真実なんだろうなあ?現在法的には代表に招集可能となっているが、今年夏の EURO(欧州選手権)の時は呼ばれなかった。
また日本人である僕はある時のフランス旅行の際のパリのレストランにおいて、これはアジア人(日本人?)差別だろうとしか思えない処遇を受けたことがある。強い憤慨を覚えたので今でも鮮明に記憶しているが、あとからレストランに入ってきた白人と思しき客はどんどん席に案内されるのに、僕たち日本人夫婦はいつまで経っても放ったらかしだった。
店員にクレームすると、かな〜り渋い顔で仕方なくという仕草で席に案内されたのだが、それは店の奥の暗い片隅のテーブルで、しかもオーダーした料理がこれまたなかなか出てこなかった。ありゃ絶対にアジア人(日本人?)蔑視だったね。
フランスだってそんな具合の国なんであって、僕みたいななんでもない一般人はもちろん、サッカー・フランス代表で大活躍する(した)スター選手に対してすら、アフリカ系、アラブ系がかなり混じっているとの理由で「真の」フランス代表じゃないなどと発言する白人がいるほどだからなあ。
だからアメリカ黒人ジャズ・マンのマイルスが、そんな事実は存在しないのだがもし仮にアメリカ本国で不遇時代があったのだとしても、それだけでフランスに一時的にでも活動拠点を移し、そこで「食って」いこうと考えたかどうか、ちょっと僕には分らないのだが。
まあ同じアメリカ黒人ジャズ・マンの先輩ケニー・クラークその他の例があるので、フランスで食っていきたいという気持を持つことがあった可能性は、マイルスの場合も否定はしない。しかし「事実」が確認できないからなあ。本国ではないある場所で食うとは、一時的にでもその場所に拠点を移すということだろう。マイルスは一度もフランスを拠点にしたことはない。
マイルスもフランスでのライヴ録音盤ならたくさんある。公式盤だと最も早いのがタッド・ダメロンと一緒に渡仏した1949年のパリ・ライヴで、最後になったのが1991年7月のニースでのライヴ収録盤。その間、死後リリースのものも含めれば数多く存在する。
公式盤だけでなくブートレグまで数えれば、マイルスのフランスでのライヴは本当に多い(といっても、本国アメリカでやったライヴ盤は比較にならないほどもっとずっと多い)。しかしそれらは全ていっときのライヴ・コンサートであって、その場一回限りのもの。場合によっては二日間・三日間連続出演するケースもあったけれど、一週間以上滞在したことは一度しかない。
その一度が1955年結成のファースト・クインテットを57年にいったん解散したその年には、フランスに少し長めに滞在した時だ。そこでジュリエット・グレコとも再会し、またルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックも現地で録音している(その際のドラマーが前述のケニー・クラーク)。
その1957年の、何ヶ月間だったのかはやはり今でも不明だが、フランス滞在がマイルスの全生涯で最長の在仏経験なんだよね。半年もいなかったはずだし、現地のフランス人ジャズ・メンを起用してライヴを行うこともあったけれど、それは確認されている限り57年の11月と12月だけだから、食べていたとはちょっと言いにくいんじゃないかなあ。
とにかくマイルスは本国アメリカでこそ最もたくさんレコードやCDを売り、ライヴ活動も盛んに行って、巨万の富を得た人物。アメリカの黒人(いや、白人も含めても)ジャズ・マンのなかで史上最大の金持ちになったのがマイルスで、その金の源泉はほぼ全てアメリカ人の、それも白人の財布だ。
なお、ジャズに限らずアメリカ文化全般そうだけど、ジャズの場合も最も早く「文化」、あるいは「アート」として正当な評価を下してきたのはヨーロッパ人、特にフランス人であるというのは間違いない。なんたって世界初のジャズ批評書はフランス人が書いた。
それが1934年出版のユーグ・パナシエの『オット・ジャズ』(Hot Jazz)。さらに現在でいうディスコグラフィーという用語もフランス人の開発。それが1936年出版のシャルル・ドゥロネの『オット・ディスコグラフィ』(Hot Discographie)。
シャルル・ドゥロネの方は、1956年リリースのMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)のアルバム『ジャンゴ』のなかにある「ドゥロネズ・ディレンマ」というジョン・ルイスの書いたオリジナル曲のタイトルにまでなっている。
また現在でもフランス国内に Classics という復刻専門レーベルがあって、ここは戦前の古いアメリカン・ジャズばかり、ジャズ・メンごとにクロノロジカルに集大成してどんどんリリースしている。僕もそれで随分と助かっているのは事実だから、今でもアメリカのジャズを正当に評価してくれているのはフランス人だと言える。
今日のこの記事、蒲田さんのそのブログ・エントリーにコメントするだけでもよかったんだけど、なにしろ蒲田さんのブログには随分前に二回コメントしているものの、いまだに全く表示すらされていない。今日のこれももしそうなったら、ご本人以外誰も読めないことになるので、自分のブログ記事にしたという次第。
蒲田さんのブログにある「コメントは実名で願います」も本当はオカシイと思うけれどね。だって筆名や芸名で公に活動している作家や音楽家や芸能人の、その活動名のままでの発言は、全て受け入れられないものなのか?っていうことになってしまうからね。なかにはそんな活動名で立派な発言をしている方々も多いじゃないか。
場合によっては本人ですら「実名」が分らない場合もあるからなあ。例えば日本のテレビで活躍するサヘル・ローズ。この女性はイラン出身なんだけど、例のイラン・イラク戦争の際のイラク軍の空爆で13人の大家族全員が亡くなってしまい、生き残ったのは彼女だけ。
その時まだかなり幼かったために自分の名前も生年も憶えておらず、四歳(となっているが)で孤児院に入り、その際に付けられた「便宜上の本名」がサヘル・ローズなんだよね。その後来日(時には八歳だったとなっているが、生年が不明だから)し、日本の養母に育てられ日本の学校に通って、現在日本で大活躍中だってわけ。
そんなサヘル・ローズに、コメントは「実名で」願いますなんて言葉を向けることができるのだろうか?サヘルは日本語読解能力になんの問題もない人物だから、蒲田さんのブログを見る可能性は充分にある。
がまあしかし蒲田さんのご要望があることだから、今日のこの記事にだけ末尾に僕の実名で署名を入れておく。
戸嶋 久
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