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2016/11/09

ロバート・ジョンスンはブルーズ史における結節点

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ブルーズ・マン、ロバート・ジョンスンについて僕なんかが書くことはもうないはずだと思っていたのだが、いろんなファンの方々の彼について書いてある文章を読むと、どうもいまだにちょっと誤解されている部分が残っているようだ。残っているというかかなりあるように見える。

 

 

ロバート・ジョンスンに関する誤解は大きく分けて二つ。一つは彼がデルタ・ブルーズ・スタイルを「典型的に代表する」天才ブルーズ・マンだという言説。もう一つはこの人をブルーズ(とロック)の世界における「出発点」であるかのように位置付ける言説。この二つは甚だしい勘違いに他ならない。

 

 

それで僕なんかがいまさらこのブルーズ・マンについて書加えることはないはずだと思っていたのだが、やっぱり少し書いておいた方がいいのかなと考えた次第。いや、もちろん僕みたいな素人じゃなくてブルーズ聴きの専門家ならみんな分っていてお書きなのに、なぜだかいまだにそれが浸透していないように見える。

 

 

特に戦後のシカゴ・ブルーズや、それをお手本にしたいろんなロック・ミュージシャンを中心に聴いている方々の間では、上で書いたような誤解が大きく広まってるみたい。これはまあしょうがないんだよね。戦後の音楽しか聴いてなくて、戦前のブルーズやその周辺の音楽を知らなければ、当然そうなってしまう。

 

 

そんでもってロバート・ジョンスンがこの世で広く知られるようになったのは1961年に最初のLPレコード『キング・オヴ・ザ・デルタ・ブルーズ・シンガーズ』がリリースされてからで、デルタ・ブルーズの王様という意味のタイトルだし、このレコードを聴いていろんなロック音楽家が手本にした。

 

 

エリック・クラプトンもキース・リチャーズもそんな発言をしているよね。しかしこの二人はその一枚のレコードがまず最初のきっかけだったのかどうかは知らないが、ロバート・ジョンスン以外の戦前ブルーズもたくさん聴いているのはみんな分っているはずだ。あぁ、それなのにどうしてなんだ?

 

 

まずロバート・ジョンスンがデルタ・ブルーズ・スタイルの「典型」ではないということ。これは彼の録音全集をじっくり聴いていけば分るはずだ。チャーリー・パットンとかサン・ハウスとかトミー・ジョンスンとかロバート・ペットウェイとか、その他大勢のデルタ・ブルーズ・メンとの大きな違いが。

 

 

ロバート・ジョンスン完全集の一曲目、すなわち処女録音は「カインド・ハーティッド・ウーマン・ブルーズ」。この初録音からして、既に典型的なデルタ・ブルーズのスタイルなんかじゃ全然ない。むしろシティ・ブルーズの影響の方が色濃いものだ。

 

 

 

ロバート・ジョンスン完全集を聴き進んでもデルタ・スタイルはなかなか出てこない。二曲目が「アイ・ビリーヴ・アイル・ダスト・マイ・ブルーム」で、これもギターの低音部でブギ・ウギの典型的なパターンを弾いているじゃないか。この曲は戦後エルモア・ジェイムが例の三連スライドでやって広めたもの。

 

 

 

ブギ・ウギは都会の音楽だぞ。録音上は1928年にはじまり、その後30年代いっぱいアメリカで大流行した、主にピアノでやるブルーズ・ミュージック。ピアノでってことは、生演奏なら田舎町の農園とかの屋外とかでではなく、ある程度人の集る部屋のなかで演奏されていた音楽だということだ。

 

 

ロバート・ジョンスンは初録音が1936年だけど、それ以前にアメリカを旅し、各地でブルーズに限らずいろんな音楽を聴き吸収し、最初はサン・ハウスなどにもバカにされ相手にされなかったというギタリストとしての腕に磨きをかけていったというのは、みなさんご存知のよく知られている事実だ。

 

 

それがどうやら1930年代前半のことらしい。生演奏でもレコードでも様々な音楽に触れていたはずで、だからブギ・ウギ・ピアニストが左手で弾く例のブンチャブンチャという三度と五度を往復するパターンを聴き憶え、それを自分のギターの低音弦に移し替えることを思い付いたんだろう。

 

 

サン・ハウスの名前を出したけれど、このブルーズ・マンの1930年代録音にブギ・ウギのパターンは皆無だ。全く聴けない。しかしことデルタ・ブルーズ・スタイルのギターの弾き方と歌い方ということだけであれば、ロバート・ジョンスンの最大の手本がサン・ハウスだったらしい。音源を聴いてもそれはよく分る。

 

 

サン・ハウスの影響の話はあとでしたい。ロバート・ジョンスン完全集の(別テイクを除く)三曲目が「スウィート・ホーム・シカゴ」。これは彼が録音した曲では最も有名なものに間違いない。後のブルーズ・マンやロッカーがカヴァーしまくってスタンダード化しているからだ。

 

 

 

お聴きになれば分るようにこれもブギ・ウギだ。ロバート・ジョンスンの全録音のなかでブギ・ウギのパターンを弾いているのが最も分りやすい一曲だろう。だからこそバンド形式でやる戦後のブルーズやロックに移し替えるのが容易だったのだ。ほら〜、やっぱり「出発点」じゃないかと思ってはいけない。

 

 

なぜかって「スウィート・ホーム・シカゴ」で典型的に表現されているブギ・ウギのパターンはロバート・ジョンスンの発明なんかじゃない。このことは世界中の全員が知っている事実のはずで、「水は透明だ」なんて当り前のことは誰も指摘しないのと同じじゃないと僕は思うんだけどなあ。

 

 

ああいうブギ・ウギのパターンは、(主に)ピアニストたちが1920年代末から30年代にかけてたくさん録音しレコードになっている。ロバート・ジョンスンもそんなレコードを聴き現場の生演奏などでも実際に耳にしていたことに寸分の疑いもない。だって全く同じだもん。当時のブギ・ウギ・ピアノ録音を聴いてくれ。

 

 

ギター・ブギだってたくさんあるんだよ。ってことはだ、後のバンド形式でやるブルーズやロックが真似たあのパターンを彼らの間に広めたのがロバート・ジョンスンのレコードだったのは間違いないのかもしれないが、そのロバート・ジョンスンにしてからが、先人の弾くものをコピーしていただけだ。

 

 

ロバート・ジョンスン完全集をどんどん聴き進んでも、だいたい全部そんなシティ・ブルーズ・スタイルばっかりで、デルタ・スタイルが出てこない。ようやく初めて出てくるのが(別テイクを除く)13曲目の「ウォーキン・ブルーズ」なんだよね。

 

 

 

これはギターのパターンがサン・ハウスのそれに似ている。特に同じ音程の一音を連続でブ〜ン、ブ〜ンとドローン的に鳴らしている部分はソックリ。だけれどもサン・ハウスのような激しさ、苛烈さ、あるいは言葉が適切かどうか分らないけれど野卑さみたいなものは聴取れない。もっと洗練されたスタイルに聴こえるよね。

 

 

つまりロバート・ジョンスンは1930年頃のサン・ハウス由来のデルタ・ブルーズ・スタイルでやる時ですら、そこにアメリカ放浪で身につけた都会的洗練を持込んで、その両者を合体・融合させていたということになる。これは戦前のミシシッピ・デルタ・ブルーズ・マンとしては新世代だったゆえだ。

 

 

デルタ・ブルーズ新世代と書いたけれど、実際ロバート・ジョンスンは、同じデルタ出身のマディ・ウォーターズよりたった二歳年上なだけという人。戦後シカゴに出て説明不要の大活躍をしたマディと同世代なんだ。早死にせず長く生きていれば、マディ同様の電化バンド・ブルーズをやったのは間違いない。

 

 

そしてマディ以上のものを創り出していたであろうことにも疑いの余地はない。1936/37年録音のロバート・ジョンスンと41/42年録音のマディのデルタ時代録音を聴き比べれば、どう聴いても前者が後者を凌駕している。マディにできたならロバート・ジョンスンはもっとできたはずだろう。

 

 

歴史における「もしも」の話はしてもしかたがない。ロバート・ジョンスン完全集で13個目の「ウォーキン・ブルーズ」に続くデルタ・スタイルのブルーズは、15曲目の「プリーチン・ブルーズ」と16曲目の「イフ・アイ・ハッド・ポゼッション・オーヴァー・ジャッジメント・デイ」。後者はかなりの迫力がある。

 

 

 

この一曲がデルタ・スタイルでやる時のロバート・ジョンスンでは一番いい。そしてお聴きになれば分るようにこれはミシシッピ・ブルーズ・スタンダード「ローリン・アンド・タンブリン」の焼直しに他ならない。メロディもギターのパターンもそうだし、歌詞にもそのままの言葉が出てくる。

 

 

しかしながらいくら凄みに満ちた迫力満点のデルタ・ブルーズだと言っても、ロバート・ジョンスンの激しさはこの程度なんだよね。先生だったサン・ハウスの代表作「マイ・ブラック・ママ」(1930年)などと比べれば、ギターもヴォーカルも弱いように聴こえるなあ。

 

 

 

特にヴォーカルの迫力が大きく違う。サン・ハウスのゴスペル・ライクなよく響く声とロバート・ジョンスンの、やや女性的なとでもいうようなヴォーカルとは似ても似つかない。そんなロバート・ジョンスンの歌い方の最も顕著な影響源は、僕の聴く範囲では1931年録音のスキップ・ジェイムズだろうと思う。

 

 

スキップ・ジェイムズもデルタ・ブルーズに分類される一人だけど、あの時代には珍しくマイナー・キーのブルーズを歌い、しかもヴォーカルのスタイルが、なんというか調子の高いファルセットで、まるで女性が泣いているかのような歌い方なのだ。

 

 

 

ロバート・ジョンスンの完全集で典型的なデルタ・ブルーズだと呼べるものは、以上「ウォーキン・ブルーズ」「プリーチン・ブルーズ」「イフ・アイ・ハッド・ポゼッション・オーヴァー・ジャッジメント・デイ」の三曲だけなんだよね。マスター・テイク全29個のうちたったの3個に過ぎない。

 

 

29個のうち3個だけというのは、ロバート・ジョンスンはデルタ・ブルーズの体現者だと信じ込んでいる人にとってはかなり意外に思えるかもしれないよね。でも僕にとっては全く意外でも不思議でもない。なぜなら上で書いたように彼はマディ・ウォーターズの同時代人の完全なる新世代ブルーズ・マンだからだ。

 

 

そんなロバート・ジョンスンの録音中僕が昔から一番好きな一曲で、しかもこれこそシティ・ブルーズの最も強い影響下にありデルタ・スタイルはどこにもないという一曲が「ラヴ・イン・ヴェイン・ブルーズ」だ。列車の駅を舞台に失恋を歌った内容で、曲調も旋律も歌詞も大好き。

 

 

 

この「ラヴ・イン・ヴェイン・ブルーズ」は、戦前ブルーズ・シーン最大の大物リロイ・カーの「ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」(「イン・ジ・イヴニング」)の丸写しなのだ。紹介しておこう。1935年録音でギターは相棒スクラッパー・ブラックウェル。

 

 

 

そのまんま焼直しているだけじゃないだろうか。ロバート・ジョンスンはだいたいリロイ・カーの1928年録音「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルーズ」のレコードを聴いてブルーズに目覚め、自らもブルーズをやりたいと思うようになったという人間だったんだよね。最初からそういう人だったんだよ。

 

 

ロバート・ジョンスンはブルーズやポピュラー・ミュージック史における「出発点」ではなく、種々の戦前ブルーズのスタイルが収斂した「終着駅」だ。駅と書いたけれど、このブルーズ・マンはいわばターミナル駅みたいな存在で、飛行機の世界でいうハブ空港。ターミナル駅、ハブ空港だから、ここからいろんな音楽家が旅立つことができた。その意味でこそ偉大だったのだ。

 

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