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2016/11/06

アメリカ大衆音楽史上最も重要な意味を持つライヴ記録

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第二次世界大戦が終る頃まではアメリカ大衆音楽の王者だったジャズ。この音楽のファンや、ましてや専門的評論家を自称するなら、やっぱりそれが王者だった時代、すなわち黄金時代のものを聴かなくちゃお話にならないんじゃないの?それがどうだろう、古いものなんて・・・、という最近の有様は?

まあいいや。そんなジャズがアメリカ大衆音楽の王者だった時代の最大のスーパースターがベニー・グッドマンに他ならない。BG(と自らを呼びファンもこう呼んだ)という白っちいオジサンがクラリネットを吹いている「軟弱な」音楽なんて、特に熱心な黒人音楽リスナーは鼻で笑っているだろうなあ。

しかしながらジャズのレコードがアメリカ大衆音楽の主流として最もたくさん売れて、ラジオ放送やライヴ・コンサートも大人気だった時代の最大の爆発的スターだったのがベニー・グッドマンだ。シカゴ出身のBGが、まずこの街のウェスト・サイドで活動をはじめたのが1921年のこと。

ベニー・グッドマンが音楽家ユニオンに加盟したのが1923年で(アメリカではユニオンに加盟しないとプロ音楽活動はほぼ不可能)、何年のことか正確なことは今でも不明だがおそらく1920年代末か30年代初頭にニュー・ヨークに出るまでは、シカゴで黒人・白人のジャズ・メンと仕事をしていた。

シカゴ時代のベニー・グッドマンは、シカゴ在住のニュー・オーリンズ系黒人ジャズ・クラリネット奏者、例えばジョニー・ドッズやジミー・ヌーンなどを真似していたようだ。その上で例のシカゴ・ジャズ・シーンの大ボス、エディ・コンドンの庇護下、演奏活動を行っていたらしい。

エディ・コンドンらとやったものは録音も残っていて、僕はコンドン名義のボックス・セットで持っていて愛聴している。もっともそれらの大半はシカゴではなくニュー・ヨーク録音なんだけどね。例えば1930年録音の一曲ではコールマン・ホーキンス、ファッツ・ウォーラーなどと共演していたりする。

いろいろと面白いそれらエディ・コンドンの1920〜40年代録音集については、ベニー・グッドマン参加のものも含め、改めて別の機会に書いてみたい。BGが大成功したのは、みなさんご存知の通りニュー・ヨークで自分の楽団を立ち上げた1932年以後のこと。しかし数年間は人気が出なかった。

ベニー・グッドマン楽団の人気が出たのは、これもみなさんご存知の通りNBCラジオでの毎土曜日の番組『レッツ・ダンス』によってだった。このラジオ番組は1934年放送開始。他の音楽家とともにBG楽団も出演し、特に35年5月25日の放送でブレイクして全米のトップ・スターとなったのだ。

その1935年5月25日放送の『レッツ・ダンス』でベニー・グッドマン楽団が演奏したのが、他ならぬフレッチャー・ヘンダースン楽団のアレンジメント譜面を買取って演奏した曲目(どの曲をやったのか正確なことは調べても分らない)。この譜面買取の仲介をしたのがこれまたご存知ジョン・ハモンドだったのだ。

そんでもって1935年6月発売のレコード「キング・ポーター・ストンプ」(もヘンダースン楽団のアレンジ)が爆発的に売れ、ベニー・グッドマン楽団の地位は不動のものとなり、BGはキング・オヴ・スウィングと呼ばれるようになって、30年代後半のいわゆるスウィング黄金時代が到来する。

あの黄金時代の「スウィング」とは、今のジャズ・ファンの多くは忘れているかもしれないが「ジャズ」という認識ではなかった。ベニー・グッドマンら演奏する本人たちはもちろんそんな風には思っていないのだが、当時の白人聴衆のあいだではそうだった。信じられないよねえ。

厠が便所になり次第にトイレになって、実態は全く同じものだけど呼び名を変えてみただけでなんとなく新鮮で別のものであるかのように思えるっていう、世の中一般によくあるケースだ。21世紀の日本であれば大流行中の Jazz The New Chapter ってやつ。なんだか新しそうに見えるじゃないか。

まあでも JTNC はまだ「ジャズ」という言葉が入っている分、そんなに新鮮でもないっていうか、旧来からのものをかなり引きずっている感じがするけれど、1930年代半ば〜後半のアメリカ白人社会では「ジャズ」とすら言わなかったわけだからさ。ジャズなんていうものはなんだか売春宿で流れるようなあれだろうと。

そんな汚らしいものじゃなく、ただいま大ヒット中のベニー・グッドマン楽団がやっている音楽は「スウィング・ミュージック」っていう、ジャズなんていう売春宿音楽とはなんの関係もない新しい音楽なんだぜ、楽しいんだぜ、カッコイイんだぜっていう、まあそんな認識だったんだよね。

そんな時代には、上で「ライヴ・コンサートも大人気で」と書いたけれど、といってもあの時代は席に座って鑑賞したんじゃなく、ボールルームやダンス・ホールなどで演奏してみんな踊ったのだった。(ジャズではなく)スウィング・ミュージックはダンスの伴奏音楽として演奏されていたのだった。

古今東西の多くの大衆音楽はダンス・ミュージックだという点に僕は本質があると思っていて、だからこれは別に1930年代後半のアメリカにおけるスウィング・ミュージックに限った話ではない。しかしここに一つの「革命」が起きる。ダンス音楽であるはずのスウィングがそうじゃなくなった。

それが1938年1月16日のカーネギー・ホール・コンサート。主役がベニー・グッドマン。ニュー・ヨークのカーネギー・ホールはクラシック音楽の殿堂で、ダンス音楽であるポピュラー・ミュージックの音楽家が出演するなんてことはそれまで全く考えられなかった。すなわち第一回目がBG。

だってカーネギー・ホールでは席に座ってじっとして音楽を「鑑賞」するしかない場所で、だからクラシック音楽の人間しか出演したことがなく、というかそもそもクラシック音楽のコンサートのために造られた場所だからね。許されていなかった大衆音楽の人間が演奏した最初がベニー・グッドマンだったのだ。

つまり1938年時点でのベニー・グッドマンは、その人気でカーネギー・ホール側にも出演を了解させるだけのものがあったってことだなあ。しかしなんでも大学生の頃に読みかじった文章のおぼろげな記憶によれば、舞台裏でこれの実現に動いた人たちがいたんだそうで、交渉には苦労したらしい。当然だ。

そこらへんの裏事情は僕は知らないんだけど、とにかくベニー・グッドマンによる1938年1月16日のカーネギー・ホール・コンサートは実況録音され、その後LPレコードで発売され、現在では1999年リリースの『完全盤』まで存在するので、スウィング黄金時代の姿をしっかりと聴くことができる。

重要なことは当時ベニー・グッドマンが契約していたヴィクターやその後のコロンビアが、当時の録音をCDで完全集としてリリースしているものは、その1938年のカーネギー・ホール・コンサートだけだという事実だ。30年代半ば〜後半にあれだけ売れまくったBG楽団のスタジオ録音レコード音源はベスト盤でしかリリースされていないのだ。

だから最初に僕が書いたアメリカ大衆音楽の王者だった時代のジャズの、その最大のスーパー・スターの音楽がどんなものだったのかを知るのには、1999年リリースのCD二枚組『ベニー・グッドマン・アット・カーネギー・ホール〜1938〜コンプリート』こそが最も好適なものだということになるんだよね。

この1938年ベニー・グッドマンのカーネギー・ホールでの実況録音盤にはかなりの長尺曲もある。一番長いのがジャム・セッションによる「ハニーサックル・ローズ」で16分以上。その次がBG楽団本体の「シング、シング、シング」で約12分。SPの時代にどうやって?と思われるかもしれないよね。

理由は1938年ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートは、そのままダイレクト・カッティングで大型ディスクに録音されたからだ。その大型ディスクというのがどの程度の大きさでどんな形状のものだったのかは僕は知らない。とにかくまだテープ・レコーダーなんかはかなり稀な時代だ。

ダイレクト・カッティングされたディスクから二つのコピーが作成され、一つはアメリカ議会図書館に収蔵。もう一つはベニー・グッドマンの手許に届いたんだそうだ。しかしBG本人はそもそもレコーディングされたこと自体当時は知らず、だからその録音ディスクもどこにあるのか知らなかったようだ。

それをベニー・グッドマンの娘の一人が1950年に自宅のクローゼットで発見(と『完全盤』 1トラック目でBG本人が喋っている)。それをもとにコロンビアが同年にLP二枚組でリリースしたのが、1938年のカーネギー・ホール・コンサートが世に出た最初だった。これはもんのすごい貴重な記録なんだよね。

1938年にベニー・グッドマンがまず最初にやってくれたからこそ、その後の黒人・白人・音楽ジャンル問わずいろんな人がカーネギー・ホールでライヴ・コンサートをできるようになったわけだからさ。おそらくジャズ史上、いや、アメリカ大衆音楽史上最も重要な意味を持つライヴ・アルバムだなあ。

1938年ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートは、ある意味非常に危険な「挑戦的」内容でもあった。というのは上で書いたように、この時代このBG楽団の音楽があれだけ売れていたのは、それまでの黒人がやるジャズとはなんの関係もないスウィング・ミュージックだと認識されていたからだ。

それなのに1938年ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートには大勢の黒人「ジャズ」・メンが出演している。当時のカウント・ベイシー楽団とデューク・エリントン楽団からのピック・アップ・メンバーたちだ。彼ら黒人ジャズ・メンにBGが混じってジャム・セッションしたりするのだ。

さらにライヴ・アルバムでは序盤に「ジャズの20年史」というコーナーがあって五曲やっているんだけど、そのなかには黒人ジャズ・メンも参加する曲もあるし、それに「ジャズ」の20年史ってことはスウィングはジャズ由来のもので、新しい音楽なんかじゃないっていう意味になる。

「ジャズの20年史」で演奏されている五曲は、ODJB(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)の「センセイション」、ビックス・バイダーベックの「アイム・カミング・ヴァージニア」、テッド・ルイスの「ウェン・マイ・ベイビー・スマイルズ・アット・ミー」、ルイ・アームストロングの「シャイン」、デューク・エリントンの「ブルー・レヴァリー」。

つまり1938年には(ジャズではない)スウィングの王様としてスーパー・スターだったベニー・グッドマンがその大人気を利用して、まあいわば逆手に取って、世間一般の白人聴衆にジャズとスウィング・ミュージックの「真実」を教えようとしたんだよね。つまり啓蒙だ。

どうしてジャズ史「20年」かというと、ジャズ史上初録音が先に書いたODJBの1917年のレコードで、だからカーネギー・ホールにおける1938年はそこから約20年ということになるからだ。これ、しかし当時の白人聴衆に大人気のスーパー・スターであるベニー・グッドマンには危険な賭けだ。

だって黒人のやるジャズとはなんの関係もない新しい音楽がベニー・グッドマンのやるスウィング・ミュージックで、ジャズなんていうあんな汚らしいお下品なものなんかとは全然かすりもしないものだと認識されていたからこそBGはあれだけ人気が出たのに、それを覆そうとしたわけだからさ。人気を失う可能性があった。

「ジャズの20年史」コーナーではない部分での1938年ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートでの最大の聴きものは、間違いなく上記の16分もあるジャム・セッションの「ハニーサックル・ローズ」だ。リズム・セクションの四人がドラムスのジーン・クルーパ以外全員ベイシー楽団のメンバーだ。

つまりウォルター・ペイジ、フレディ・グリーン(クッキリ聴こえる!)、カウント・ベイシー。それにレスター・ヤング、バック・クレイトン、ジョニー・ホッジズ、ハリー・カーニーが参加していて、当然ベニー・グッドマンも混じり、全員次々とソロを取るという、夢のようなというかヨダレが出るような内容なんだよね。

こういうベニー・グッドマンとジーン・クルーパ以外全員黒人ジャズ・メンによるジャム・セッションとか、あるいは上記「ジャズの20年史」コーナーとか、1938年のカーネギー・ホールにおける白人(が中心だったはず)聴衆はどう聴いていただろうなあ。さてさて、BG楽団本編のライヴ内容について書く余裕がなくなってしまったなあ。

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