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2016/12/16

1971年のマイルス・ライヴは『オン・ザ・コーナー』の予兆?

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マイルス・デイヴィス・バンド1971年の公式録音は今でも一つしかない。それが『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』収録のライヴ。以前も書いたが、71年のマイルスにはどうしてだかスタジオ録音が皆無なので、今まで出ている71年もののブートレグも全てライヴだ。

 

 

僕はちょっと好きな1971年のマイルス・バンドのライヴ。しかし長らく公式盤がなく、『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』がリリースされたのは2015年。遅かったよなあ。まあブートでなら音質も内容もいいものが何枚かあったんだけど、ほぼ全て、一曲目冒頭の数秒間(と思われるもの)がなかったり、末尾が演奏終了前に切れていたりして不満だった。

 

 

だから2015年の『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』四枚組のラスト四枚目に1971年バンドのライヴのフル・セットが収録された時は結構嬉しかった。1975年までというタイトルなのに71年ものがラストなのか?と思われるかもしれない。

 

 

そうなんだよね、『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』の収録順はやや不可解だ。1955年のマイルス初のニューポート・ジャズ・フェスティヴァル出演以来、基本的には時代順であるものの、三枚目に1969年、73年、75年バンドのライヴがこの順番で収録されているのだ。

 

 

おそらく一回のライヴ演奏時間の長さゆえにこうなっているんだろうなあ。しかし1975年ものは「エムトゥーメ」(スタジオ版は『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録)たった一曲だけしか入っていないのはどうしてなんだろうなあ。さらにこの四枚組、大半は2015年よりも前に公式やブートで発売済のものだだったので、僕はなかなか買わなかった。

 

 

一番有名なのは一枚目収録の1958年のニューポート・ライヴだろう。これは全曲ではないとはいえ、セロニアス・モンクのものと A面 B 面抱き合わせで60年代からレコードが出ていたし、CD ではフル・セットがマイルスの単独盤としてリイシューされている。

 

 

その他いろいろとあるが、あまり詳しく書いていると今日の本題からどんどん逸れていってしまうので、また別の機会に。『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』四枚目収録の1971年バンドのライヴは、しかしニューポートという土地におけるものではない。

 

 

1971年10月22日、スイスの Dietikon(ディエティコンと読むのかな?)におけるライヴなのだ。じゃあどうしてそれが「ニューポートのライヴ集」を銘打ったボックスに入っているのかというと、このスイス・ライヴは「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ユーロップ」だからだ。

 

 

1954年開始のニューポート・ジャズ・フェスティヴァル自体は有名なので説明は不要だろう。これのオーガナイザーであるジョージ・ウェインは、このブランド名を使って、おそらく1960年代末か70年代初頭にヨーロッパでも公演を行うようになっていたんだよね。

 

 

『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』三枚目収録の1973年ベルリン・ライヴも「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ユーロップ」の名を冠して行われた公演だし、このボックスには未収録だがジョージ・ウェイン司会の声が冒頭にあるから、69年のストックホルム公演もそうなんじゃないかなあ。

 

 

なんちゃらジャズ・フェスティヴァルの例に漏れず、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルもある時期以後はジャズ・メンに限らずいろんな音楽家が出演するようになっている。1969年頃からジェフ・ベック、テン・イヤーズ・アフター、ジェスロ・タル、B・B・キング、 ジェイムズ・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどなど。

 

 

マイルスはいくらファンク系の音楽をやるようになっていたとはいえ、一応はジャズ畑(出身)の音楽家なんだから、ジャズの名があるフェスティヴァルに出演するのは全く当たり前の話だし、そもそも1955年のニューポート公演で一躍注目されて、それまでインディ・レーベルに録音していたマイルスが、一気にメジャーのコロンビアと契約できたというくらい縁のあるフェスティヴァルだしね。

 

 

ともかくそんな事情で1971年10月22日、スイスにおけるマイルス・バンドのライヴ。公式ではこれ一つだけであるとはいえ、それは CD 一枚丸ごと目一杯の79分以上もあるものだから、普通のファンはこれだけで充分だろうと思う。演奏内容はもっといいのがブートであるけれど、それの話をしてもなかなか入手が難しい。

 

 

1971年10月22日のマイルス・バンドとそれ以前のバンドの最大の違いは、パーカッショニストが二名いることだ。マイルスがレギュラー・バンドに初めて雇ったパーカッショニストは、1970年2月のアイアート・モレイラ。スタジオ・セッションではその数ヶ月前から使っているが、恒常的にライヴ活動するバンドに起用したのはその時期。

 

 

その後マイルスは死ぬまでずっとパーカッショニストを使い続け、レギュラー的に雇っていない時期は一度もない、と思われるだろうが、実は一つだけパーカッショニストのいないレギュラー・バンドがある。それは亡くなる年1991年に活動したバンドで、打楽器奏者はドラマーのリッキー・ウェルマン一人だけ。

 

 

1969年以後はあれだけリズム重視だったマイルスなのに、どうして最後のバンドにだけパーカッショニストがいないのか、なにか音楽的方向性の変化なのか、あるいはもっと別の理由なのか、じっくり考えてみないと分らないし、なにしろ1991年バンドの録音はブートでも少ないので、音を聴いて検証することがちょっぴり難しい。

 

 

そんな1991年の生涯ラスト・バンドを除き、常に一人のパーカッショニストは欠かしたことのないマイルスだけど、同時に二名雇っていたというのも例外なんだよね。1971年10〜11月の欧州公演でだけなのだ。二名とはドン・アライアスとエムトゥーメ。これ以前は同年夏前までのアイアート一人。

 

 

ドン・アライアスは1969年8月の『ビッチズ・ブルー』の録音から既にマイルスのセッション参加経験があるのはご存知の通り。基本、パーカッショニストとしてだがドラムスを叩くこともあった。エムトゥーメも1972年以後のマイルス・バンドで大活躍したので説明不要だね。

 

 

このパーカッショニスト二名構想をマイルスはどのあたりから思い付いたんだろう?まずきっかけは1969年以後のレギュラー・ドラマーだったジャック・ディジョネットが1971年の春に退団を申し出たことだ。それで当時のレギュラー・サックス奏者ゲイリー・バーツが、後任ドラマーとしてレオン・ンドゥグ・チャンクラーとエムトゥーメの二名を推薦した。

 

 

ゲイリー・バーツは、チャンクラーかエムトゥーメ(後者がドラムスを叩くのを聴いたことがないのが、まあできるだろう)のどちらか一名をバンドのレギュラー・ドラマーとして、ということだったのかもしれない。だがマイルスは1971年10月以後の欧州公演に向けて、両名とも雇ってしまった。

 

 

それでチャンクラーの方がドラムスを担当、エムトゥーメがパーカッションを、ということだったのかなあ。しかしここまでなら理解はたやすいし、ゲイリー・バーツはじめ当時のサイド・メンの各種発言も残っている。がしかしそれにくわえ、さらにドン・アライアスまで同時にパーカッショニストとして雇ったのは、ホントどうしてだったんだろう?

 

 

前々から繰返し今日も書いたが、1971年のマイルスは全くスタジオ録音をやっていない。次にスタジオ入りするのは1972年3月のセッションだが、しかしそれは「レッド・チャイナ・ブルーズ」(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』)の収録で、コーネル・デュプリーやバーナード・パーディーらセッション・メンを起用したもの。

 

 

だからそのセッションに参加しているレギュラー・メンバーはエムトゥーメだけなのだ。なおこの時初めてアル・フォスターがドラムスで参加してはいる模様。レギュラー・バンド的なもの+α で録音をやったのは1972年6月のセッションで、それは結果的に『オン・ザ・コーナー』になった。

 

 

その『オン・ザ・コーナー』になった二回のセッションが、恒常バンドとしては一年以上ぶりのスタジオ録音なのだ。その内容はみなさんご存知の通りのリズムの洪水と混沌。これを踏まえると、半年ほど前の1971年暮れの欧州公演における上記のようなバンド編成の理由は少し見えてくるはず。

 

 

1971年10〜11月欧州公演のマイルス・バンドは、ジャック・ディジョネットからレオン・ンドゥグ・チャンクラーへのドラマーの交代と、パーカッショニストを二名にしたという以外は、メンバーは誰一人代わっていない。サックス(ゲイリー・バーツ)も電気鍵盤楽器(キース・ジャレット)もベース(マイケル・ヘンダースン)も同じだ。

 

 

このドラマーとパーカッショニスト二名以外は完全に同一メンバーで、しかも演奏曲目もほぼ同一という約一年前のライヴ録音、例えば公式盤なら1970年12月のセラー・ドア公演(『ライヴ・イーヴル』でかなり聴ける)と、71年10月スイス公演を聴き比べると、バンド・サウンドの変化、ボスであるマイルスの音楽志向の変化が少し分ってくるんだなあ。

 

 

どちらのライヴでもオープニングはやはり「ディレクションズ」で、その他「ワット・アイ・セイ」「イッツ・アバウト・ザット・タイム」「ファンキー・トンク」など、演奏曲目はほぼ全て同じだが、リズムの感じが少し変わっているんだよね。1971年は相当にヘヴィーなのだ。ヘヴィーすぎると思うほど。

 

 

一部が『ライヴ・イーヴル』になった1970年12月のセラー・ドア・ライヴで充分ヘヴィーじゃないかと一般のジャズ(系)・リスナーのみなさんは思われるだろうが、翌71年10月のスイス・ライヴではもっとグッと重心を落とし、曲の演奏テンポもやや落ちて、重たすぎるかもしれないと思うほどのグルーヴ感だ。

 

 

レオン・ンドゥグ・チャンクラーのドラミングをジャック・ディジョネットと比較すると、やはり物足りない。ドタバタしている感じでまとまりに欠け、バンドをグイグイ引っ張る推進力や躍動感に不足を感じてしまう。ボスも同感だったんだろう。その証拠に翌72年の『オン・ザ・コーナー』になったセッションではディジョネットを呼び戻しているもんね。

 

 

しかしパーカッショニストが二名いることによるリズム・アンサンブルの多彩さは、これ以前には聴けなかったものだ。そしてこの点こそがマイルスが1971年暮れのバンドでこだわった部分なんじゃないかと思うのだ。打楽器セクションの人員と内容を拡充して、リズムの色彩を豊かなものにしたいという部分だ。

 

 

マイルスのライヴ・バンドでパーカッショニストが常時二名在籍したのは、生涯通しこの1971年暮れの欧州公演だけ。しかしスタジオ・セッションでなら1972年にはほぼ常に同じだった。その典型的果実が『オン・ザ・コーナー』なんだよね。だから71年暮れバンドはその予兆だったのかもしれない。

 

 

スタジオ録音だけで辿ると、『オン・ザ・コーナー』になった1972年6月セッションの前がエルメート・パスコアール参加の「リトル・チャーチ」を録音した1970年6月のセッションだから、内容的にどうにも飛躍がありすぎて、『オン・ザ・コーナー』がまるで突然変異のように見えてしまう。

 

 

2003年リリースの『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』に1970年春頃の録音でリズムがかなり躍動的でファンキーなものが収録されてはいるものの、それらは2003年まで完全に未発表のままだったもの。それにいくら躍動的でファンキーといっても、まだまだ軽いし爽快感がある。

 

 

それがスタジオ録音だけだと次にいきなり『オン・ザ・コーナー』が来てしまうもんだから、マイルスのなかにいったいなにがあったんだ?と多くのファンは昔から不思議に思っていたんだよね。でも前年1971年暮れの打楽器奏者計三名参加の欧州公演、公式盤では『アット・ニューポート 1955-1975: ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 4』だけなのだが、そこで既にそんな方向へ向かいつつあったんだよね。

 

 

そう考えると、演奏内容の音楽的レベルでは1970年12月のセラー・ドア・ライヴよりもレベルが低いだろうとしか思えないマイルス・バンドの翌71年10月のスイス公演も、なかなか興味深く聴けるんじゃないかなあ。

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