マイルスのモノラル盤を聴く
といってもプレスティッジ盤などのことではない。コロンビア盤の話だ。録音順で言うと1961年3月録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』まで、リリース順で言うと64年リリースの『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』(のA面だったマイルス・コンボ分の録音は58年)まで、マイルス・デイヴィスのアルバムはモノラル盤も制作・販売されている。
この世で初めてマイルスのアルバムがステレオ盤でリリースされたのは、1959年8月発売の『カインド・オヴ・ブルー』だったのだが、しかしこの時もまだ同時にモノラル盤も出ている。というよりモノラル盤の方が第一優先だった。理由は一般家庭にステレオ盤レコードを再生する機器がまだ普及していなかったため。
だからモノラル盤をリリースしないと売上げが見込めなかったのだ。これは言うまでもなくマイルスに限らずある時期までの全ての音楽レコードについて事実だった。以前ピーター・バラカンさんが、英国時代に体験していたビートルズのレコードはモノラル盤だったのでステレオ盤は違和感があると、なにかで書いていたよね。
といってもアルバムでいうと『アビイ・ロード』と『レット・イット・ビー』の二枚は当時からステレオ盤しかなかったはずなので、バラカンさんの言うのはそれ以前のビートルズってことなんだろうね。ビートルズの場合、1988年の初 CD 化の際でも最初の四枚のアルバムはモノラルだった。
その後の『ヘルプ!』から『ホワイト・アルバム』までのビートルズ・アルバムのモノラル盤を聴いたのは、僕の場合2009年リリースのモノ・ボックスが初体験だった。するとステレオ盤では分らなかったこともいくつか発見し面白かった。バラカンさんの言うのはこんなことだったのかなぁってね。
僕はもちろんバラカンさんたちの世代ではない。生まれた頃からステレオ盤が標準で、熱心に音楽レコードを買い集めるようになる1979年以前から、どんなドーナツ盤も全てステレオ盤だったも。その後しばらくして、モノラル録音しか存在しないような戦前音楽の世界にどっぷりハマるようになるけれどね。
マイルスについてはコロンビア時代の最初の二枚、1955/56年録音57年リリースの『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』と同57年録音・発売の『マイルス・アヘッド』はモノラル盤レコードしかなかったけれど、その次の58年『マイルストーンズ』以後は最初から全部ステレオ盤しか聴いたことがなかった。僕だけじゃなく、かなり年上で50年代前半までのレコードをリアルタイムで買っていた世代以後はみなさん同じだろう。
調べてみたら、コロンビアの技術でステレオ録音が可能になったのがどうやらこの1958年のことだったらしいのだ。アメリカやアメリカ国外の他のレコード会社を見渡すとこれは早い方だ。会社によっては60年代に入ってもモノラル録音だったところもあるもんね。
といっても実はマイルスの場合、ギル・エヴァンスとのコラボによる1957年録音の『マイルス・アヘッド』で既にステレオ録音がはじまっていた。がしかしこのアルバムのステレオ盤がこの世で初めて発売されたのは1987年の初 CD 化の際で、この時までずっとモノラル状態でしか録音されていないんだろうと思い込んでいた僕はちょっと驚いた。
しかもその『マイルス・アヘッド』CD は、もちろんあの疑似ステレオなんていう人類レコード史上最悪の愚劣行為なんかではなく、さらにステレオ録音初期時代にはしばしばあった、音が左右のチャンネルに完全に分かれてしまい真ん中が存在しないなんていうようなものでもない。
『マイルス・アヘッド』のステレオ盤 CD は主役のトランペットがちゃんとセンターに定位して、その他の楽器もバランス良く左右に配置され奥行きもあるというリアル・ステレオ。これが1957年5月の録音だから、その時期のコロンビアでは既にそれを実現できるような状態でテープに録音されていたってことだなあ。
ってことは上で書いた「コロンビアの技術でステレオ録音が実現したのは1958年」という僕の記述はちょっとオカシイが、まあしかし一般的には当てはまっているだろう。少なくともマイルスのアルバムは『マイルス・アヘッド』の次作、58年2/3月録音の『マイルストーンズ』からは、ある時期以後ステレオ盤に切り替わり、それがスタンダードになった。それしかない。
が最初に書いたようにその頃はまだ一般家庭にステレオ盤を再生できる装置が普及していなかったがゆえに、リアルタイムではモノラル盤でリリースされていたわけで、『マイルストーンズ』もその次の『ジャズ・トラック』もその次の『ポーギー・アンド・ベス』もモノラル盤しか存在しなかったわけだ。
ようやくステレオ盤が販売されるようになったのが『ポーギー・アンド・ベス』の次の『カインド・オヴ・ブルー』だったのだが、最初に書いたようにやはりモノラル盤優先でリリースされていて、そんな二重状態が1964年5月発売の『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』まで続く。
ステレオ盤オンリーになったのは、したがってその次、1964年5月発売の『クワイエット・ナイツ』から。スモール・コンボものなら、ちょっと時代を遡って63年7月発売の『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』からなんだよね。ちなみにここまでは多くのアルバムが LP と同時にリール・テープでも発売されている。
余談ながら、本当の発音は「リール」である英単語 “real” を僕がそう表記しないのは、リール(reel)・テープのそれと区別したいという一心からなんだよね。とにかく僕はリール・テープで音楽を買ったことはない。学校の図書館にもたくさんあるので聴いたことなら何度もあるが。
かなりまわりくどくなったけれど、コロンビア時代のマイルスの最初の二枚『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』と『マイルス・アヘッド』は、僕の世代でもモノラル盤しかなかった(前者は今でもそうだ)からそれが標準だけど、『マイルストーンズ』〜『マイルス・アンド・モンク・アット・ニューポート』までの七枚のモノラル盤を僕が聴いたのはかなり最近のことなんだよね。
それが『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』という CD 九枚組ボックスで、これはコロンビア/レガシーが2013年にリリースしたもの。これを僕が買ったのは今年2016年のこと。上記七枚に最初の二枚を足して計九枚。それに加えかなり詳しい英文解説とデータが附属している。
『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』は日本盤も出ているようだ。日本語解説文があれば読みやすいけれど、値段が高めなので買わない僕。なお、一枚目である1955/56年録音の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』は現在でもモノラル盤しかないし、そもそもステレオにできる状態の録音テープが存在しないはずなので、このボックスに収録する意味はあまりないと思う。
『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤は、この2013年の CD リイシューに際しオリジナル・テープから新たにモノ・マスターを作成し直したものだと解説文にある。ってことはモノ盤が出ていてその後は完全にステレオ盤が標準になった『マイルストーンズ』以後のものは、モノ・マスターが現存していなかったってことなんだろうなあ。
といっても『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』にも入っている、現在でもモノ盤 CD しか存在しない『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』はデジタルでもモノ・マスターがあるはず。また『マイルス・アヘッド』もCDリイシュー後はステレオ盤が標準になったとはいえ、それまでは何十年間もモノ盤だったし、以前一度指摘したように、CDでも一度だけ(1993年だったかな?)モノのアメリカ盤が出ている。
だからこの二作については新たにモノ・マスターを作成し直したのではなく、それ以前から存在するデジタル・モノ・マスターをそのまま流用した可能性はある。そういう記述は見つけられなかったが、そうじゃないかと推測するし、なにより音を聴いた僕はそう判断している。
『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』九枚組ボックスで、今年になるまでステレオ盤でしか聴いたことのないマイルスのアルバム七枚を初めてモノラルで聴いた僕。そうすると、ビートルズのステレオとモノのような違いは聴き取れないんだけど、でもちょっぴり面白いこともあったりしたのだ。
まずもって1961年3月録音の『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』まではモノラル盤優先で販売されていたという事実そのものを、僕の場合『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』附属ブックレット解説文で読むまで知らなかった。57年の『マイルス・アヘッド』までがモノ盤だったという僕のそれまでの認識が覆ってしまった。
演奏内容そのものは全九枚、たった一曲だけを除き現行CDと一秒たりとも違わない。そのたった一曲が『カインド・オヴ・ブルー』一曲目の「ソー・ワット」だ。これも以前指摘したけれど、ある時期以後のリイシュー CD ではフェイド・アウトして消えるタイミングがほんの少しだけ遅くなり、すなわち曲の収録時間がほんの数秒だけ長い。
それが『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤『カインド・オブ・ブルー』の「ソー・ワット」では、フェイド・アウトして最終的に完全に音が消えるタイミングが、アナログ盤や初期の CD で聴いていたオリジナル通りに戻っている。僕にはこれがまあまあ嬉しかった。
フェイド・アウトがほんの数秒違ったところで大差ないだろうというのが一般のリスナーの意見だろうなあ。それにごく最近『カインド・オヴ・ブルー』 CD を初めて買って聴いているファンは全くそんな事実は知らないはず。だが、僕たち熱心なファンはそうじゃないんだよね。
「ソー・ワット」に限らないが、曲の終盤で徐々に音が小さくなりフェイド・アウトしていくその微細な姿かたちまでもクッキリ鮮明に焼きついているからなあ。だから現行ステレオ盤 CD の『カインド・オヴ・ブルー』は(一曲入っているボーナス・トラックのせいもあるが)ちょっと違和感がある。
それを2013年の『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスに収録する際に、新たにモノラル状態にミキシングし直したんだそうだから、その時にオリジナル・ヴァージョンのフェイド・アウトのタイミングに戻そうと、誰かは知らないが決断したってことだなあ。
また『マイルストーンズ』のモノ盤を何度も聴くと、以前も一度書いたがこのアルバムがどうして僕にとってイマイチなのか、ちょっと分ってきたような気がする。1958年の作品にしてはビ・バップ的だからだ。ステレオ盤ではこれが分りにくいというかほぼ分らない(のは僕だけ?)。
マイルスは本格的にはチャーリー・パーカーのコンボでデビューしたジャズ・マンであるにもかかわらずビ・バップ不適合者だったことは、みなさんよくご存知のはず。それでも「ドナ・リー」みたいにメカニカルに上下する旋律を持つティピカルなビ・バップ曲も書いていたりはするのだが。
だがやはりマイルスは、音楽家としての「姿勢」みたいな部分では終生ビ・バッパー的だったと言えなくもないが、やっている音楽内容を聴けば、落下したら死ぬようなタイト・ロープの上を、それも歩くのではなく疾走しているかのようなスリル満点な一発勝負はほぼやっていない。一部のライヴでそうなっているかのように思えるのは、全部サイド・メンがやっているだけ。
ビ・バップとはそんな生きるか死ぬかみたいなギリギリの世界で、まさしくアドリブ一発勝負が命。そんな世界でフル活動したからこそチャーリー・パーカーは、交通事故でも不治の病でもないのに34歳で死んじゃったんだと僕は思っている。マイルスはそんな人間のバンドでデビューして、それを目の当たりにしていたんだよね。
そもそもの音楽性も最初からわりと静的な部分があるマイルスだけど、それに加えパーカーみたいな人間のそばにいたから、ディジー・ガレスピーもそうだけど、ちょっとこうパーカーを反面教師にしたというか、自分はこうならないでおこうみたいな部分もあったんじゃないかなあ。
それがあったのかどうかマイルスの内心が分るわけもない僕だけど、創る音楽作品がアンチ・ビ・バップ的であることは分りやすい。マイルスは破綻寸前で成立するアドリブのスリルではなく、あらかじめよく練り込まれ構築された均整美、全体的に統一されたグループ表現を心がけている。
僕はマイルスのそんなアレンジド・ミュージックが大好きなんだ。ところが1958年の『マイルストーンズ』のモノ盤でではビ・バップ的苛烈さみたいなものがあるんだよね。こんな意見を言っている人はおそらくいないだろうが、今年になってモノラル盤で何度も聴いて、僕は間違いなくそれを感じ取っている。
『マイルストーンズ』は通常、モーダルな作曲・演奏法をマイルスが初めてやった作品と位置付けれらている。がしかしよく考えてみて。いわゆる普通でいうモーダル・ナンバーはアルバム・タイトル曲たった一つだけで、それ以外は従来のコーダルな曲ばかり。
『マイルストーンズ』にはブルーズが三曲もある。ブルーズもスケールにもとづいて演奏するものだから、言ってみれば一種のモーダル・ミュージックではある。そう考えると広い意味でのモーダル・ナンバーは『マイルストーンズ』に四曲あることにはなるのだが。
しかしそれら三曲のブルーズ・ナンバーで、ボス以下全員のソロにモーダルな雰囲気は薄いんじゃないかなあ。特に『マイルストーンズ』一曲目の「ドクター・ジキル」。このジャッキー・マクリーン・ナンバーを、プレスティッジ時代の1955年初演とはガラリと雰囲気を変えた超急速テンポでやっているのなんか、相当に苛烈だ。
聴き直してみると、1955年プレスティッジ録音ヴァージョン(は「ドクター・ジャックル」の曲名)の方がむしろモーダルなフィーリングがあって、1958年『マイルストーンズ』ヴァージョンは完全にビ・バッパーのやるブルーズなんだよなあ。僕はこういうブルージーさが薄いブルーズは好きじゃない場合が多い。
そんなビ・バップ的要素は、長年ステレオ盤(しかなかったから)で聴いていた『マイルストーンズ』では僕は自覚できなかった。あるいは全盛期のリアルタイム録音で聴くビ・バップは全てモノラルばかりなせいなのか、そんなことは無関係に単に僕の耳がヘボなだけか、とにかくモノ盤で聴いて初めて鮮明に自覚できたのだ。
『マイルストーンズ』のアルバム・タイトル曲はややスタティックで、いかにも翌年の『カインド・オヴ・ブルー』を予告するモーダル・ナンバー。ところで今日の話題からは離れるが、マイルス本人はこの曲があまり好きじゃなかったのか、ライヴで演奏するレパートリーにしていなかった。
それをライヴでやるようになったのは、1963年に雇ったトニー・ウィリアムズの進言によってだったんだよね。トニーは「マイルストーンズ」という曲が大のお気に入りだったらしく、やらせてくれとボスに言ったんだそうだ(とのマイルスの発言がある)。
さて、『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』収録のモノ盤で聴いてみないと分らなかった鮮明な違いは以上なんだけど、その他長年聴いていたステレオ盤とモノ盤のかすかな違いは随所にある。2013年の最新技術で作り直した新モノ・マスターをもとにしているにしては、わりと古いというか「かつての」あのサウンドだ。
これはおそらくモノとステレオという録音・ミックス・再生状況がもたらす本質的宿命みたいなもんだろうなあ。音楽の録音・再生はモノこそが「本物」だと主張する音楽家や関係者は、ステレオ技術普及後もたくさんいるじゃないか。僕たち大衆音楽ファンにお馴染なのはフィル・スペクターだ。
クラシック音楽界にも多いようだ。大学生の頃好きで聴いていた J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」(の何番だったかは忘れた)を収録したレコードのライナーノーツにも、当のチェロ奏者のそんな言葉が載っていたようなかすかな記憶あある。誰だっけなあ、パブロ・カザルスだっけなあ?
カザルスだったかどうかもう憶えていないが、チェロ一台の演奏なんだからモノラルで充分という意味ではなく、複数人数であれオーケストラであれなんであれ、音楽というものの「現場」を考えてみろ、モノラルな音状況じゃないか、それをレコードで左右2チャンネルにするっていうのは本質から外れているんだとか、そんな内容だった(ような気がする)。
僕は書いたように幼少時代からレコードといえば全てステレオ盤で育った人間だから、こういうモノこそ本物の音楽録音・再生だというのは、やや違和感があるというか、イマイチ心の底からは納得しにくいんんだけどね。でも最近なんだかちょっとだけ分るような気もする。
フィル・スペクターの例のあのボックス・アルバムのタイトルは『バック・トゥ・モノ』じゃないか。スペクターはステレオ録音技術普及後もモノにこだわった人間。それは彼の創るサウンドを聴けばだいたい全員その理由は実感できるはず。「音の壁」と形容さえるあれはモノじゃないと実現できないからだ。クラシック音楽の人間みたいに現場の忠実な再現を求めてのことではない。スペクターの場合は録音テクニック上の理由だ。
マイルスの初期コロンビア録音九枚のうち、現在単独盤 CD では一作目の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を除き全てステレオ盤しか販売されていない。モノ盤を聴こうと思ったら『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスを買うか、あるいはオリジナル・アナログ・レコードを探すしかない。
それらモノかステレオか、どっちが「優れている」だとか「本質的だ」とかは言えないというか意味がない。ただリアルタイムではモノ盤優先で販売されたので、コロンビア側もおそらくはモノ・ミックス作成の方により力を入れていたのは間違いないんじゃないかという気もする。モノ盤で聴く『カインド・オヴ・ブルー』なんかなかなか新鮮だったよ。
ってなことや、今日書いたようなことや、あるいはモノが好きだとか、モノかステレオかを実際にちょっと聴いてみて判断したいとか、そんなようなことを実感してもらうためにも、コロンビア/レガシーは値段高めの『ジ・オリジナル・モノ・レコーディングズ』ボックスだけじゃなく、一枚一枚単独でもモノ盤をリリースすべきだね。
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